2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1013

1 ::2024/04/15(月) 15:12:30.26 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712914992/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

198 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:37:29.52 .net
神功が掘削開通させるまで、関門海峡は通れなかった

199 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:45:41.49 .net
邪馬台国ってしょぼかったんだな
最近は纏向の強大さよりしょぼさを邪馬台国に結びつける言説も散見するが、しょぼい遺跡なんぞいくらでもあるのだから纏向説は根拠を失いそうだけどね

200 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:48:51.43 .net
橿原の瀬田遺跡は纏向より古いから、初代政権が橿原なのも嘘ではないな

201 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:51:01.91 .net
重要なのは倭国の範囲でしょう

九州島が倭国の一部であったのは確実、
そして倭国が九州島までだったのか、九州から畿内まで統一されていたのか、が問題なところ

202 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:53:09.69 .net
あいかわらず九州説の人は、いっさい理由を言わずに我流の結論を断定してるな

203 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:56:29.10 .net
>>191
>ああ、自分では何も説明できないんだね

説明したけど?
「古墳時代が始まっちゃってるので九州説ムリ」

反論ができないなら、引っ込んでれば?

204 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:58:28.41 .net
所詮島国日本列島は
本当は本州島だが本州と省略してるだけだが
で隔絶された本州島は様々な気候、風土、、気質、食生活に分かれているだけだし

205 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:59:07.53 .net
伊都国から日本海ルートで丹後あたりまで行ったと仮定して
何故に九州を陸行してしまうのか
https://i.imgur.com/pP7T0uO.jpg

206 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:01:32.97 .net
>>202
何の、どんな理由が知りたいのですか?

207 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:09:19.94 .net
邪馬台国も投馬国も日本にはねえよ

208 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:11:43.64 .net
>>205
魏略では対馬、壱岐、松浦、伊都、奴、不彌、狗奴国まで行っている

魏志では伊都に直接行っている(それ以外は行っていない)

209 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:15:15.66 .net
>>201
倭人在帶方東南大海之中

210 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:16:08.43 .net
聖徳太子は豊聡耳
甲斐の足が白い黒馬に乗り富士山から河内の磯長に降臨した
甲斐の地は高句麗の人々が沢山住んでいた地である
伊豆辺りは聖徳太子の領地で山神を祀り古い狩猟の祭祀が残っていたと伊豆国風土記逸文にある

伊予国風土記逸文には聖徳太子と高麗の僧、葛城の臣が道後温泉を訪れたとある
596年の出来事で、この年は孝徳天皇が生まれた年でもある

211 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:19:26.46 .net
>>203
それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ
自分の言葉で中身を一言も説明できる
いくら何でもレベルが低過ぎる

212 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:10.37 .net
>>211
自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ

213 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:11.47 .net
>>209
それは、倭国+倭種の範囲

214 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:27:40.90 .net
>>210
7世紀ころ下層の高句麗難民たちが
大和政権の温情で静岡山梨辺りに移住させられてるな
で恩知らずなことばかりしでかす下層渡来人に怒りまくってるw

215 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:29:03.50 .net
上層ってどんなやつら?

216 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:18.68 .net
『正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物』
魏使の梯儁ら一行は、倭王卑弥呼に面会している。親魏倭王の金印などを下賜している。女王之所都(狭義の女王国=邪馬台国)に自ら赴いている。

217 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:33.41 .net
>>215
内乱で母国が滅ぼさられた極少数の百済の王子などで
大部分の渡来人と呼ばれるのは下層な渡来人難民

218 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:31.99 .net
>>217
下層民は、船がないので日本列島に渡ってこれない

219 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:35.91 .net
>>206
>何の、どんな理由が知りたいのですか?

あなたが理由を書かずに書いた結論の、その理由

220 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:43.75 .net
>>211
>それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ

誰の意見かなんて関係ある?
事実かどうかが重要でしょ?

221 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:50.56 .net
>>218
来てるよ人数まで記録されてる
詳しく忘れたけど計1万人ぐらい
やっぱり管理名簿みたいなものが
7世紀頃には出来上がってたみたい

222 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:41.67 .net
>>219
よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき

223 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:49.74 .net
>>212
>自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ

誰の言葉かなんて関係ないでしょ?
事実かどうか以外に何か意味でもあるの?

224 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:42:21.52 .net
安本美典との対談の中での石野博信の発言
「纏向を130回ぐらい発掘したが、鉄のかけらもない。石器もない。これだけから考えると、纏向に住んでいた人々が、石も鉄も使ってないということなのか。そうではない思う。なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない。」

纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ

実際、纏向は農具(少ない)も土木具(古墳を作っていたので多い)も木製だ
北部九州では当たり前に鉄製農具で農業を行なっていた時代に、だ

この文化の差は大きい

225 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:43:11.91 .net
>>222
>よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき

分からないのは異常に頭が悪いからかな?
「理由が書いてないから」理由を言えよってレスには理由が書いてあるでしょ

226 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:46:03.05 .net
>>224
>纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ

石野に「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って教えてもらったのに
絶対考えたくないと
そう言うことですか?

227 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:48:54.12 .net
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
女王国の東端は最大限東に想定しても伊豆半島迄なのがわかる

228 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:50:07.62 .net
>>226
畿内説が考えないといけないんだよ
何か特別な理由を合理的に説明出来ない限り、3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する

229 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:01:10.60 .net
北部九州は倭国で確定しているが

畿内が倭国だったかどうかは未確定。

230 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:21.69 .net
>>228
>3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する

どうして?
理由は?

231 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:24.73 .net
>>224
> この文化の差は大きい

3世紀の九州倭国(魏志)
食飲用籩豆 手食
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる

7世紀の東の倭種(隋書)
俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之
その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる

232 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:08:09.13 .net
>>230
鉄の普及の雲泥の差

233 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:10:18.95 .net
箸墓伝説がでっち上げのデマだったとはな……

234 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:12:00.47 .net
モモソもまるごと創作なんじゃね

235 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:14:48.59 .net
文化程度が東や北方に行くほど確実に低かった古代日本列島で

邪馬台国発祥の九州倭人たちが大和周辺に初めは移住し

九州より広い平野を利用して生活文化を進化させてあげていったんだろうマジ

中国と海外交流させ自らの力で出来なかったであろう大和盆地の土着民じゃ文化を精錬できない

236 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:40:32.48 .net
>>213
魏略は倭在

237 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:14.12 .net
>>224
鉄も石も無いと建物建てられない

238 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:31.54 .net
>>234
モモソヒメは崇神が見た夢の話

239 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:45:38.71 .net
>>228
>>237

240 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:46:10.51 .net
箸墓=卑弥呼の墓は、福永伸哉の妄想

241 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:47:53.58 .net
>>235
銅鐸作ってるから

242 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:01.12 .net
まあいいや

243 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:24.73 .net
>>236
「倭国」じゃない

244 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:50:19.32 .net
>>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに
絶対考えないままだから
九州説は畿内説に歯が立たないままなんだよ永遠に

245 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:53:11.35 .net
畿内説はじゃこの拠り所だもん
お話にならない

246 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:57:36.98 .net
>>243
宋書   倭国在高驪東南大海中
隋書   俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
旧唐書  倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中

247 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:28.40 .net
倭王讃の祖父が東西121国を平らげた後ではな

248 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:31.20 .net
>>246
宋書以降は時代が違う(畿内が首都)

>>236
ちなみに、魏略の該当部分は残っていない
それは翰苑所引の後漢書の部分でしょう

249 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:05:35.28 .net
>>248
なんにしても間違いなく東南にあるんだよ
これはずっとぶれない

250 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:09:42.00 .net
畿内説の弱点は、日本書紀に卑弥呼にあたる人物や事績が記載されてないことだなぁ。
中国に冊封されていた事実を隠したいから、あえて載せなかったという人もいるけど、神功皇后に卑弥呼を当ててるから、こうとも言えないだろう。
やはり卑弥呼はヤマト王権とは系統が違う勢力の長だったと思うよ。
福岡の一部と佐賀の一部をまとめたオンナ酋長の物語なのだなぁ。

251 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:17.79 .net
>>250
どっちなんだよ?

252 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:50.06 .net
漢書 分かれて100余国
後漢書 100余国
魏志 ふるくは100余国
隋書 クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようだ

※国造は140人ほど

253 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:19:33.97 .net
>>250
なんで、そんなもんが弱点?

254 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:21:26.20 .net
漢書 樂浪海中有倭人
後漢書 倭在韓東南大海中
魏志 倭人在帶方東南大海之中

倭王讃の祖父が東に55国、西に66国平定する前は
「倭国」じゃなくて「倭人」とか「倭」なんだな

255 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:29:00.80 .net
>>254
一応、倭國王帥升というのもいるけどなぁ。だだ、倭面土國王師升の間違いだろうとする学者も多いがね。
いずれにしても、倭王と倭国王ではゼンゼン意味が違うらしいなぁ。

256 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.32 .net
>>254
>王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
>正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
書き込みをする前に原文を検索してみよう

257 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.37 .net
東に55の集落、西に66の集落か?

258 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:31:41.97 .net
>>254
倭人伝に倭国の記載あり

259 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:18.47 .net
秦氏の名は西暦600年ころには現れるがそのあとはまったか名を聞かなくなったぞ

没落したんやろ

260 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:50.26 .net
卑弥呼の女王国は30国

261 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:33:59.27 .net
卑弥呼が畿内にいたとしたら、日本書紀にいろいろ載ってるはずと考えてもおかしくないだろう。
冊封されたことはかけなくても、共立されたことや、狗奴国との対立、もとより和せずとする卑彌弓呼についてや、難升米や都市ゴリにあたる人物、そういったエピソードが記紀に全くないのは、不思議だとは思わんかね?

262 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:34:03.41 .net
つまり東南大海の中にあるのは倭とか倭人だったんだな

263 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:36:33.13 .net
>>261
(冊封されたのは)神功天皇かなあ?って書かれてるから隠したかった説はどうだろうか

264 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:40:34.00 .net
記紀は藤原氏のファミリーストーリー
藤原不比等の孫やひ孫が天皇に即位した時と重なる。さて藤原氏と卑弥呼の関係とは?

265 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:44:39.22 .net
>>261
倭の五王も記紀には書いてない

266 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:51:38.70 .net
認識の違いがあるのね
俺は属国の歴史なんかそら書けないだろうと思うけどな

267 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:57:49.06 .net
国体護持・・・言葉通りでこれが無いと国の体を成さない

268 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:03:29.18 .net
https://www.lettuceclub.net/news/article/1138366/i11779611/

269 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:18:01.44 .net
https://www.lettuceclub.net/news/article/1138356/p2/
これだな

270 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:22:23.22 .net
>>261
第一回遣隋使も日本書紀に記録されてないけど

271 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:35:24.57 .net
>>270
書けないような屈辱的な事があったんだろうな
それで2回目が「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」だもんな

272 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 05:52:26.70 .net
>>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに絶対考えないままだから
畿内説は九州説に歯が立たないままなんだよ永遠にw

273 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:32:59.16 .net
庄内併合期ではまだ九州に劣後すると言う学者はいても、布留ゼロ以降に九州に劣後するという学者はいない
黒塚、桜井茶臼山、椿井大塚山、ホケノ山からも明らか

274 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:43:05.69 .net
>>264
藤原氏の系譜を辿ると先祖の天種子命が枚岡神社に祀った中に比売神があるが、これが卑弥呼かもしれない。

275 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:48:34.61 .net
>>140
倭国は倭人の国くらいの意味だから
邪馬台国の南の狗奴国も東の海を渡った先の倭人の国も倭国だろう

276 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:49:56.89 .net
>>166
全然根拠になってない

277 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:55:00.81 .net
>>270
つまり第一回遣唐使は日本書紀古事記を編纂した天皇家ではなく
大化の改新で滅ぼされた蘇我氏が中心となって行われたんだと思うわ
蘇我入鹿はチョー悪人なんで一族郎党滅ぼしたわ
というストーリーに
偉大なる第一回遣唐使は蘇我入鹿によって行われました
という前振り入れられないからなw

278 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:56:31.16 .net
庄内併合期、北部九州では銅鏡の多量副葬はなくなるが(平原王墓を最後に)、いまだ漢鏡6期までの銅鏡を北部九州は多量に出土するとアンチ畿内自生説の学者は言う
アンチ畿内自生説の学者は、卑弥呼の遣使以降は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に一気に変わり、かつ畿内が圧倒し始めると述べる

ここの理解が難しい
桜井茶臼山、黒塚、椿井大塚山の多量の銅鏡が、魏帝と交流を持ち始めた程度でそんなにアホみたいに銅鏡がもらえたり、あるいは日本で作られるようになるのかと

卑弥呼の遣使前に、すでに畿内はある程度多量の銅鏡を保有していたと見るのが自然なように思われる

279 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:01:08.66 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

280 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:03:31.92 .net
畿内説の鏡の編年はデタラメだから信用できない
炭素年代測定もアレだけどなw
土器の内側と外側で50年ズレてるのに何故かピンポイントで卑弥呼の時代の土器だと比定したりするし

281 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:03:59.76 .net
有棺無槨は一般人の墓
魏志倭人伝の記述からも分かる

282 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:04:59.75 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのだろう。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流し、672年の壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

283 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:05:36.20 .net
>>282
全部妄想だね

284 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:07:01.45 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

285 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:09:28.69 .net
公孫氏が滅ぼされたタイミングで大勢の楽浪帯方難民が渡来して畿内に逃れたのかもしれん

286 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:13:31.12 .net
>>280
他にどうしろと?

287 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:13:53.29 .net
>>284
投馬国が邪馬台国どころか狗奴国より南になってるやん

288 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:14:01.50 .net
アンチ畿内自生説では、卑弥呼が魏に遣使をはじめてから、銅鏡もいきなり画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に変わり、
かつ、畿内がいきなり銅鏡の枚数でも北部九州を上回るようになり、墓もいきなり馬鹿デカくなるという

そんなことがあり得るのかと思うが、「魏と交流を持ったから」というだけの理由で説明がついてるようだ

卑弥呼共立前、あるいはその直後から畿内はちゃくちゃくと力を蓄えていたと見る方が自然なように思われるのだが

289 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:14:19.12 .net
>>188
漢化は中国王朝の中央集権が完成なんだな。
日本が律令国家へ進化する歴史は3世紀から始まっていたのだよ。

290 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:15:16.15 .net
>>78
>>79
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

291 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:18:02.94 .net
   ↑
九州説の印象操作


 

292 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:18:30.64 .net
>>288
纏向は倭国大乱前にできたそうだから
卑弥呼とは無縁の集落だったのだろう

293 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:20:28.82 .net
>>287
筑紫邪馬台国と日向投馬国で肥後狗奴国を挟み討とうとしたため、「窮鼠猫を噛む」で卑弥弓呼は乾坤一擲、卑弥呼に襲い掛かったわけ

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
...................↖投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

294 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:20:52.73 .net
>>292
何故?

295 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:23:09.19 .net
>>286
分からないことは分からないと言うのが誠実な学者の態度だろう

296 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:24:13.93 .net
>>294
大乱を裏付ける出土品が畿内には無いからではないか?

297 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:24:57.80 .net
247年に卑弥呼と戦争中の東海狗奴国が、箸墓の築造を手伝ってる畿内説の不思議w

総レス数 1001
381 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200