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邪馬台国畿内説 Part1014

1 ::2024/04/17(水) 20:57:01.47 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713161550/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

509 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:23:56.75 .net
>>505
>寺澤は伊都国中心の倭国すなわち「イト倭国」が大和に遷都したと見る

遷都とは違うな
「イト倭国」は解体して「新生倭国」が出来たんだから
別の国だ

510 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:25:34.49 .net
久住猛雄も伊都国がヤマト王権の成立に伊都国が関与していたと見る

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」

「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」

「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」

511 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:26:35.31 .net
>>503
俺は伊勢遺跡説であって九州説じゃないから
投馬国五万戸は大国で邑じゃ無いから

512 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:26:53.99 .net
>>508
これは論理として欠陥があるね
暦なんて文化は新興国が学んで当然だから

513 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:29:15.76 .net
>>510
学者が全員消えた九州説が
畿内説の学者に寄生する構図

514 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:43:55.25 .net
>>513
私の北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説は最近主流になった畿内自生説批判派の考古学者(寺澤・北條・松木・久住など)と理論的にはすこぶる相性がいい

彼らの見解を讀めば詠むほど私の説(伊都国→東征してヤマト王権に発展、筑後邪馬台国→北部九州に残って田油津媛の代で滅亡、ただし北部九州倭国としての完全な滅亡は磐井の乱)をサポートしてくれてるんじゃないかと思うほどだ

ただ残念なのは、旧山門郡地域は田畑が広がるため殆ど考古資料の発掘がなされておらず考古学的根拠に乏しいことだ
このため筑後山門説は考古学者の支持が得られにくい

しかし、証拠がないことはなかったことの証拠ではない
Absence of evidence is not evidence of absence.

515 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:45:04.02 .net
しかしなんのために九州北部から辺境の纏向に東遷したのだらうか?
江南に移った晋のように異民族の圧迫だらうか? 
九州北部を繁栄させたのは楽浪郡、諸韓国との交通の利得によるものだらうが、その地政学的な優位性を全て捨て去ってまで内陸奥深くまで遷ったのはどういう理由があってか?

516 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:45:36.77 .net
>>514
読めば読むほど、が変な変換をしていた

517 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:54:24.25 .net
伊都国は2世紀に原の辻三雲貿易を仕切り、日本列島への鉄輸入を押さえていた
こうした伊都国の強権に対する周辺諸国の反発が倭国乱に繋がり、伊都国ではない国(筑後邪馬台国)の巫女女王の共立に繋がって、伊都国の王族は東征したのだと考える

こうした経緯で、代々王がいたはずの伊都国に魏志倭人伝記述時点では王がいない(残ったメンバーで卑弥呼共立を容認)という状況になったのだろう

またこうした流れを受け、日本列島と大陸との貿易も、原の辻󠄀三雲貿易から博多湾貿易に移行する

518 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:58:26.64 .net
倭国大乱になった経緯が大倭王の不在だからそのタイミングで統治者一族の移動があっても不思議はないだろうな
しかしそうすると大乱→新大倭王の共立があったのは大倭王が不在になった旧地域ということになるが

519 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:00:07.40 .net
まあ邪馬台国九州説が死んでることには変わりない

520 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:02:52.15 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

521 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:04:00.17 .net
>>1さんのテンプレをまず読んでスレに参加すべきだな
おおよその難癖はテンプレでクリアされている
九州説信者の参加も拒否しないが最低の礼儀は守るべきだ

522 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:05:44.04 .net
テンプレは読んだがちっとも賛成できない
畿内自生説批判派考古学者の意見の方が圧倒的にしっくりくる

523 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:06:07.73 .net
>>521
>九州説信者の参加も拒否しないが

九州説となら、トンデモ同士互角に戦えるからな。   @阿波

524 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:07:18.77 .net
日本人の祖先、3系統か 理研、ゲノム解析で新説
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO80092980X10C24A4CT0000/

な、どんどん古墳時代のカオスが明らかにされつつある
4世紀の大和王権の脆弱性はもはや否定できなくなっている

525 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:09:15.32 .net
中国の正史 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』によると

女王邪馬台国の以北には、一大率を置き北方諸国を検察し
小国が群がるの北方の人々は邪馬台国から派遣された駐留軍を怖れ憚る。
常に伊都国で植民地にする北方諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
卑弥呼女王が中国皇帝に使を遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国を巡って
中国の統治機関あったの韓国半島の群から倭国に物資を送る時、港で物資を検閲する
また倭の国々を統治する邪馬台国の女王卑弥呼に、多くの倭の国々は
邪馬台国を宗主と仰ぐ文書、賜遺の物を献上するが数が多すぎて手違いが起こりやすい。

と中国側の正史魏志倭人伝に記録されてあるけど
どう考えても南九州に倭国の最高峰邪馬台国が君臨してたとしか考えられない

526 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:12:13.50 .net
>>524
九州説はいつも学者の言ってることの正反対

527 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:12:28.97 .net
キタは当時の言葉で西のこと
畿内の邪馬台国が西の九州に地方官を置いていたという話

528 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:15:21.27 .net
>>524
縄文系、弥生系、古墳系ではなく
沖縄縄文系、関西黄河流域系、東北由来不明系なのか

529 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:15:39.40 .net
遷都かどうか分からんよ
ただの拠点かもしれんし
そういうところが各地にあったのかもしれんし
南の邪馬台国もそのようなものだったかもしれんし

530 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:17:16.09 .net
大和って伊都国から伝送して返信するのに時間かかりすぎない?

531 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:19:36.09 .net
纏向は計画巨大都市だからな
内乱を経て女王を共立した「倭国」とはまったくの別物だから

532 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:26:32.22 .net
別物って理由ないよな

533 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:27:13.13 .net
全ての謎は不弥国にある。
旅程記事の中に記されているのだから、単に国名を紹介したのではなく、女王国に至る途上の国として魏使が実際に訪れている集落である。
比定地としては、宇美町とされることが多く、そこから水行20日で投馬国だが、河川の移動は『泝』という文字を使うのが一般である。となると不弥国を宇美町とすることは苦しくなる。では『水行』を海上移動とすると、不弥国は海に面した国であり、その港から海上を移動したことになる。北九州市あたりと考えれば『南』に水行することも可能だろう。100里で奴国、100里で不弥国とする記述からは、伊都国から離れすぎてる気もするが国の境から国の境の間を100里として、奴国を広大な領域の国とすればなんとか行けるのか。
しかし、不弥国を九州北岸の国とした場合、なぜ魏使は伊都国から不弥国まで陸行したのかが分からなくなる。
それとも末盧国や伊都国の場所を通説と変えていくという手もある。末盧国を宗像あたりにしたり、伊都国を吉野ヶ里あたりにすれば、不弥国の比定地もまた変わってくる。不弥国を周防灘に面した国と考える人もいるかも知れない。しかし末盧国を名護屋か唐津、伊都国を糸島郡深江、奴国を那珂郡博多とする通説に反するのは難しい。
いずれにしろ、不弥国の位置が皆目分からないのである。わかってる人は天才であろう。

534 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:28:23.16 .net
>>530
>大和って伊都国から伝送して返信するのに時間かかりすぎない?

それは律令時代の奈良の都も変わりない

535 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:30:43.95 .net
邪馬台国の女王・卑弥呼と常に仲が悪かった狗奴国の王である卑弥弓呼の子が

九州から逃げるように天皇家の祖としてまだ閉ざされた地の畿内に進出した訳よ

536 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:42:15.56 .net
邪馬台国は、うてな遺跡です。

537 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:46:02.69 .net
>>535
凄い着眼点だね
謎だったパズルのピースがどんどんハマっていく!

538 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:53:21.21 .net
おーい山田君!ノーベル賞1枚!

539 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:07:12.57 .net
>>534
ずっと後の時代と同じだから問題ないというもよくわからん
船の歴史は知らんからなんとも言えんが、多少大きくなり途中の停泊回数も少なくなるだろうし、陸上なら馬の導入、道中の国々の安全度だとかは違うだろうに

540 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:09:29.81 .net
3世紀の航海は地上の山や海岸線などから目を離さずの海岸水行だった。
だから韓国は東に行ったり南に行ったりして忙しい。
それを考えれば九州北部を散策してのち、山陰や畿内に行ったとしても別に不自然ではない。
船を係留して上陸したというのも普通にあっただろう。

541 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:14:01.64 .net
>>539
>ずっと後の時代と同じだから問題ないというもよくわからん

干満を使う内航はいつの時代も船速が同じ
つまり所要日数も同じ

542 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:15:40.57 .net
帯方郡から伊都国に先進国の船がやってくるようになったのは何時からだろう?

543 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:16:07.38 .net
旧唐書   四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之

544 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:21:38.43 .net
>>540
九州で成立した邪馬台国以前の1世紀前から韓国及び朝鮮は
倭人達に格下扱いされ幾度も九州の倭人達から攻められている
韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

545 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:24:06.14 .net
>>544
半島に居た倭人じゃないの?

546 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:26:16.26 .net
>>545
それより何百年前の話

547 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:27:05.93 .net
>>546
鉄鉱石掘ってた倭人

548 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:29:16.96 .net
>>544
さすが倭人達は周王朝の子孫を名乗るだけはあるわ

549 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:45:52.68 .net
>>544
九州説は妄想が好き

550 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:55:12.65 .net
>>549
本当にあったお話
物事の真理が見つける簡単だ
何故なら道端の小石のようにありふれて存在してるから
ただ難しいのは腰の屈め片が大変難しく
光を放つ小石を掴むことが出来ないんだよ

551 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 00:02:59.98 .net
その後、4世紀の終わりに高句麗に叩きのめされ
馬を船で大量輸入するヤマト王権

552 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>544
お前マジで頭悪いな
奈勿尼師今以前の三国史記の紀年信じるって、応神以前の日本書紀の紀年信じるのと同じくらいやべえぞ

553 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
三国史記に1世紀の出来事だと書いてあるから1世紀って、神武天皇即位をガチで紀元前7世紀だと思ってるやつと同レベルくらいの馬鹿だぞ
明治時代には明らかにされてることくらい知っておけよ

554 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 02:10:44.17 .net
それができれば九州説やってない

555 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 03:08:07.92 .net
荒らしバカウヨがバカスレ建てまくってるな

556 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:06:01.86 .net
>>514
筑後どころか、九州に邪馬台国はない
寺澤、久住ともに九州説を完全に否定している

全く何も出土しない筑後とかいう場所に邪馬台国を設定することは不可能

557 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:11:09.21 .net
全く何も出土しないという不自然な状況が生まれたのは
東遷があったからなのかそれとも略奪でも起こったのか

558 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:24:11.32 .net
筑後から何も出てこないのは単に伊都国、奴国より格下だから

559 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:24:57.32 .net
>>514
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i3b5e71975bf08591/version/1632178351/image.jpg
ほぼ海だった山門に大国があった訳ないだろ

560 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:08:29.30 .net
>>172
畿内説が「何もない」「海の底だった」とする筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう不思議w

561 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:15:32.12 .net
吉野ヶ里遺跡…魏志倭人伝に完全に符合する4点セット(宮室・楼観・厳設城柵・邸閣)がすべて揃った日本で唯一の遺跡
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

562 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:25:42.46 .net
>>561
吉野ケ里遺跡の4点セット(宮室・楼観・厳設城柵・邸閣)は2世紀には途絶えているのでは?

563 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:27:28.47 .net
>>560
畿内説は根本的に(南→東)間違えてるんじゃないの?w

⇩魏志倭人伝・行程の正解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

564 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:28:57.26 .net
>>560
>畿内説が「何もない」「海の底だった」とする筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう不思議w

そりゃ「筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう」とかいう荒唐無稽な空想は不思議だ

565 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:29:54.27 .net
>>562
またまた畿内説の(筑後毀損)印象操作、乙!w

3世紀に下ることが明らかになってる
http://www.qsr.mlit.go.jp/yosino/p2_jigyougaiyou/p2-1_gaiyou.html

566 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:30:47.14 .net
>>561
吉野ケ里の人口1200人
ほぼ全員が侍女だったのか

567 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:32:11.27 .net
>>566
5500人だから奴婢1000人にピッタリだろ

568 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:33:45.43 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

569 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:35:43.34 .net
>>567
7万戸あったんじゃないの?

570 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:09.62 .net
>>565
3世紀頃ってなによ?
箸墓も3世紀頃だろ?

571 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:13.97 .net
>>569
邪馬台国(筑紫平野)全体でね

572 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:51.83 .net
>>570
>>568

573 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:37:13.35 .net
吉野ケ里遺跡は遺跡周辺ふくめて5500人くらいの試算だから、
1100戸

574 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:37:32.10 .net
>>571
吉野ケ里一帯のクニの人口5400人ですけど

575 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:38:33.18 .net
>>571
吉野ケ里遺跡で1100戸だと、
大部分が海だった筑後平野全体でも7万戸は無理。

576 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:39:08.06 .net
>>574
だから筑紫平野の他の国々に共立されたんだよ

577 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:39:23.17 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

578 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:40:18.93 .net
>>576
吉野ケ里遺跡で1100戸だと、
大部分が海だった筑後平野全体でも7万戸は無理。

579 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:41:06.50 .net
>>576
人口の基となる集落遺跡が碌にないんだから、お話にならん。   @阿波

580 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:41:07.71 .net
>>577
考古学的に日向投馬国などというものは存在しえない

581 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:42.83 .net
日向投馬国もありえんな

関門海峡は元々陸続きであった

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

582 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:45.66 .net
>>173
>>175
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(海の底)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

583 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:49.77 .net
吉野ケ里遺跡からは銅鏡など威信材がわずかしか出土しない。

584 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:45:15.79 .net
>>568
魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗は菊池彦では無い

585 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:46:41.41 .net
吉野ヶ里から卑弥呼が魏帝から貰った「五尺刀」が出土
https://www.youtube.com/watch?v=O99uzTMAi2I

586 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:47:26.21 .net
つまり畿内説は全て作り話をもとにした作文であり史書の邪馬台国とは無関係でしたと

587 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:47:45.79 .net
>>582
>魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や小細工は一切必要ないからねw

お前のそういう印象操作や小細工は目にあまる

588 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:48:20.71 .net
>>583
その威信材というのも何の根拠も無い作り話だから

589 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:48:43.48 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

590 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:49:13.13 .net
>>587
畿内説という作り話の塊からすりゃ九州説は妥当な説だ

591 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:49:48.78 .net
「帯方郡から12000里(900?)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850?)。

残り700里(50?)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50?でピッタリです!

592 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:50:08.95 .net
>>584
南ではないから東にしたんだと思ってる
だから毛人

593 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:50:53.65 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

594 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:51:21.66 .net
>>590
ましだってか?
それやめて

595 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:53:58.35 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

596 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:55:58.22 .net
>>559
その地図で海とされる場所から縄文遺跡も弥生遺跡もバンバン出ているから間違い乃至時代が違うことが確定済

前にも論破された地図を何度も出すのは馬鹿のやること

597 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:58:37.28 .net
>>577
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

598 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:06:36.73 .net
祇園山古墳…卑弥呼の墓(葺石は後世の追加。布留1式、須恵器、三角縁神獣鏡は後世の御霊追葬儀礼に伴うもの)
那珂八幡古墳…1号主体(男弟)2号主体(台与)の墓

599 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/19(金) 08:18:05.73 .net
俺が推測する日向を投馬国にしたい人の感覚

?ヤマト王権と邪馬台国を別物にしたい
?ヤマト王権の本貫地を宮崎にしたい

この二つから日向投馬国という発想が出てくるのだろう

まず?は論外だな。ジャップが中華の臣下になった歴史は否定できない。
そして?だが、オレはヒムカが宮崎県である可能性もゼロとは思っていない。

もし宮崎をヤマト王権の本貫地にしたいのなら、弥生末期の宮崎人が増えすぎた人口を減らすため部族の一部を民族移動させて屈強な隼人兵を使って畿内を制覇して分国を建てたというストーリーを構築しなければならないが、考古学的証拠からこれはちょっと無理がありすぎる

似たような例として古代にスカンジナビアから対岸のヴィスワ川流域に移住したゴート族がウクライナで王国を作った話があるから可能性ゼロではなかろうが、その証拠がないからな

600 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:20:27.09 .net
>>598
247年より少し後の布留1式や三角縁神獣鏡から須恵器まで幅広い期間、その御霊が追葬され続けていた王となると、よっぽど人々の記憶に残る偉大な王だったのだろう。
一体誰なんだろう?w誰かしら?www

601 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:21:51.48 .net
>>599
秀吉や日帝時代のことは謝るから(本当にすまん!)。頼むから国に帰っておとなしくしててくれ!w

602 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:25:25.25 .net
「環濠集落」はwikipediaにも項目が設けられている弥生時代を通じて九州から関東地方にわたって築かれた濠で周りを囲んだ集落のこと
稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ普及したと考えられている
しかしこの環濠集落は
>2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。この時期に、西日本から東海、関東にかけて政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている。(wikipedia)
ちょうど卑弥呼の治世にこういう現象が起きた
これが倭国大乱を経て卑弥呼を共立した倭国の政策として行われた 強い政治的なリーダーシップが無ければ発生しない現象
倭国乱後最重要課題は戦乱で傷んだ農業生産基盤の確保 軍事的な目的で閉鎖的な濠をめぐらした集落よりも、開放的な農業生産基盤が選ばれた

603 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:26:35.39 .net
>>599
関東大震災のことも謝る(本当にすまん!)
頼むからお国に帰っておとなしくしててくれw

604 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:27:02.60 .net
>>600
異常な気候変動の時期を雑穀栽培を普及させて生きながらえさせた「卑弥呼」=「大宜都比売命」=「天照大御神」   @阿波

605 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:28:49.65 .net
>>602
環濠を造るのをやめろとは言ってない
やっぱり必要が無くなったからでしょう

606 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:29:32.28 .net
>>602
サンクス!
つまり、3世紀中(247年〜266年)頃に何か大きな政治的な地殻変動が起きたとしか考えられん。

607 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:35:06.54 .net
環濠集落が無くなってきたのは遅くとも2世紀でしょう
唐子鍵とか一部に例外があるってだけで

608 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:38:03.90 .net
>>606
つまり筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権複立男王と並受中国爵命した266年になると全国統一されて、もはや戦争に備えた環濠の必要がなくなり、埋め立てられていったと考えられる

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