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邪馬台国畿内説 Part1014

1 ::2024/04/17(水) 20:57:01.47 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713161550/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 ::2024/04/17(水) 20:57:59.78 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 ::2024/04/17(水) 20:58:29.91 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 ::2024/04/17(水) 20:59:00.01 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 ::2024/04/17(水) 20:59:30.70 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 ::2024/04/17(水) 21:00:30.64 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 ::2024/04/17(水) 21:00:59.71 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 ::2024/04/17(水) 21:01:30.84 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 ::2024/04/17(水) 21:02:00.43 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 ::2024/04/17(水) 21:02:30.25 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 ::2024/04/17(水) 21:03:00.67 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 ::2024/04/17(水) 21:03:30.69 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 ::2024/04/17(水) 21:04:00.29 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 ::2024/04/17(水) 21:04:59.91 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 ::2024/04/17(水) 21:05:30.30 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 ::2024/04/17(水) 21:06:00.94 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 ::2024/04/17(水) 21:06:30.47 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 ::2024/04/17(水) 21:07:00.55 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 ::2024/04/17(水) 21:08:00.91 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 ::2024/04/17(水) 21:08:31.10 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 ::2024/04/17(水) 21:09:00.36 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 ::2024/04/17(水) 21:09:30.76 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 ::2024/04/17(水) 21:10:00.78 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 ::2024/04/17(水) 21:10:30.73 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 ::2024/04/17(水) 21:11:00.81 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 ::2024/04/17(水) 21:11:30.14 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 ::2024/04/17(水) 21:12:00.32 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 ::2024/04/17(水) 21:12:30.31 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 ::2024/04/17(水) 21:13:00.69 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 ::2024/04/17(水) 21:13:30.31 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 ::2024/04/17(水) 21:14:00.69 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 ::2024/04/17(水) 21:14:30.46 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 ::2024/04/17(水) 21:14:59.67 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 ::2024/04/17(水) 21:15:29.76 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 ::2024/04/17(水) 21:15:59.86 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 ::2024/04/17(水) 21:16:30.74 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 ::2024/04/17(水) 21:17:00.76 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 ::2024/04/17(水) 21:17:31.10 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 ::2024/04/17(水) 21:18:00.74 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 ::2024/04/17(水) 21:18:31.64 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 ::2024/04/17(水) 21:19:01.03 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 ::2024/04/17(水) 21:19:30.96 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 ::2024/04/17(水) 21:20:00.95 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 ::2024/04/17(水) 21:20:30.38 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 ::2024/04/17(水) 21:21:00.71 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 ::2024/04/17(水) 21:21:30.48 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 ::2024/04/17(水) 21:22:00.54 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 ::2024/04/17(水) 21:22:30.33 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 ::2024/04/17(水) 21:23:01.01 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 ::2024/04/17(水) 21:23:31.07 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 ::2024/04/17(水) 21:24:00.87 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 ::2024/04/17(水) 21:24:32.54 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 ::2024/04/17(水) 21:25:01.48 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 ::2024/04/17(水) 21:25:31.68 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 ::2024/04/17(水) 21:26:01.35 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 ::2024/04/17(水) 21:26:31.38 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57 ::2024/04/17(水) 21:27:31.26 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 ::2024/04/17(水) 21:28:00.76 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 ::2024/04/17(水) 21:28:31.11 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 ::2024/04/17(水) 21:29:01.37 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 ::2024/04/17(水) 21:29:30.65 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 ::2024/04/17(水) 21:30:00.66 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/04/17(水) 21:30:31.89 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/04/17(水) 21:31:00.94 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/04/17(水) 21:31:30.91 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 ::2024/04/17(水) 21:32:31.34 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/04/17(水) 21:33:00.77 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/04/17(水) 21:33:31.46 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/04/17(水) 21:34:00.61 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/04/17(水) 21:34:31.38 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/04/17(水) 21:35:01.17 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/04/17(水) 21:35:31.32 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/04/17(水) 21:36:01.59 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/04/17(水) 21:36:32.02 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 ::2024/04/17(水) 21:37:02.35 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:37:20.86 .net
~さらば九州説~

九州の山から水銀朱産出せず

77 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:39:30.51 .net
九州説テンプレ
投馬国は朝鮮半島南岸
伊都国に監禁されたため、筑紫平野の邪馬台国まで陸行一月かかった

78 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
前スレの続きだが、古墳はその社会と被葬者を象徴する共同体のモニュメントなんだよ。だから大規模墳丘墓の出現と同時に過去の共同体モニュメント(銅鐸・青銅製武器)は役割を失って全国で破棄埋納されていくの。

一方で勾玉は王個人の威信財、全然役割が違うだろ。数秒考えりゃわかる

79 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:43:10.47 .net
やはり前方後円墳大王が円墳大王に滅ぼされたんだな

80 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:43:50.65 .net
邪馬台国が畿内か九州かはさておき
>>1〜は病的すぎる

もっとおおらかに邪馬台国について語り合いたい

81 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:45:05.76 .net
悪口しか言えない人は心の病気

82 : 警備員[Lv.12(前25)][苗]:2024/04/17(水) 21:50:00.04 .net
ここまで比定済み

◆投馬国の官
・彌彌   ヤイミミ 八井耳
・彌彌那利 ヌナカワミミ 綏靖天皇

◆邪馬台国の官
・伊支馬 イキマ 垂仁天皇

・彌馬升 ミマショウ(御間(崇神)の叔) ヒコイマス

・彌馬獲支 ミマカンキ(御間(崇神)の名を獲た干岐) ツヌガアラシト(うしきありしちかんき)

・奴佳鞮 ヌカテイ 垂仁朝の中臣連祖(クニナズノオオカシマ等)

83 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:53:13.26 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
まあ九州説は論外だとして、問題は狗奴国だ。「魏晋からの支援」を象徴する曹操高陵からも出土する小札革綴冑は近畿で集中出土しているのよ。
仮に狗奴国が熊本だったとしたら北部九州にもうちょっと「魏晋からの支援」を象徴する小札革綴冑が出ててもいい気がするんだけどね

84 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:55:04.69 .net
異常な長さのテンプレに意義を呈しただけなのだが

85 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:55:45.31 .net
前方後円墳は見るものを威圧し当地の領有を宣言するためのもの
畿内は外部勢力により自分たちを威圧するためのモニュメントを自分たちの手で作らされたわけだ
剰え古墳築造のための労働力は全国にバラ撒かれ、その痕跡が「畿内系土器」として前方後円墳の分布に沿うように残された

86 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:58:58.67 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
小札革綴冑は朝鮮半島南部から殆ど出土しないから、魏晋と倭の直接朝貢交易で齎された蓋然性は極めて高いわけだろ。
ただ九州からは豊前石塚山くらいしか出ない。那珂八幡あたり掘れば出てくるのかな

87 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:01:59.20 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>84
いや俺から見たらありがたいわ
バカは活字苦手だから邪魔にしか思えないんだろうけど

88 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:02:24.80 .net
>>78
銅鏡は?w
ほんと都合の良いところだけ取り上げて無理やりストーリー作るよなあ

89 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:02:39.10 .net
崇神天皇の代に疫病が大流行し、国民の半分ほどが死亡
幕末にもあったが外国人が来るとそうなる
帯方郡からの亡命者?
神武東征?

90 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:03:55.27 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>88
銅鏡も個人の威信財だぞ

91 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:05:44.95 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
えっもしかして「銅鐸祭祀から銅鏡祭祀へ」みたいな半世紀前に流行った説を未だに信じてるんですか?
個人墓に副葬され続けてきた中国鏡と、土中埋納されてた後期の武器型青銅器・銅鐸とじゃ社会的機能がまるで違うじゃん

92 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:05:46.83 .net
邪馬台国は奈良、狗奴国は河内湖と大和川の南の河内和泉でいいんだよ
弥生時代末期河内和泉には船橋遺跡や池上曽根遺跡で龍の絵画土器が見つかっている
弥生時代後期から一世風靡した龍の拠点だな
河内と播磨の土器が大量に見つかっている博多湾岸も龍の絵画土器の地
壱岐も同じ
古墳時代、九州北部で急増するのは河内の土器だ
狗奴国の河内和泉が古墳時代に続くヤマト政権の母体だな
卑弥弓呼は香の孝昭天皇のモデルだね

93 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:06:23.31 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
銅鐸と武器型青銅器と銅鏡の区別もつかないやつが邪馬台国論争に参加してるってマジ?

94 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:08:43.81 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ガチもんのバカのために教えてやるんだが、銅鐸が個人墓に副葬された例は皆無なのよ。銅矛も中広形段階はともかく広形からは個人墓に埋葬されず土中埋納されるようになる。つまり銅鐸や銅矛は個人の所有物じゃなくて共同体のマツリの道具なの

銅鏡や勾玉とは全然機能が違うの。

95 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:09:27.45 .net
今のところ『隋書』と『旧唐書』を覆す証拠はない
『隋書』には魏の時代の倭国は30国とある。30なら九州のこと。九州の外には畿内までに70国ある
その70国は魏に朝貢せず『魏志』には「別の倭種」と記載されている
『旧唐書』ではその70国を日本と呼び、倭国とは別と述べている。では倭国とは何かというと古の奴国とある。
そもそも卑弥呼は朝貢した30国の中にある。畿内までのその他70ではない。
魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので九州北部の範囲を出ないと分かる
今のところこれらの記述を覆す証拠はない。これらの記述を無視することで畿内説は存在している
(続く)

96 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:11:03.59 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
旧唐書ってそもそも別種説と同種説の両論併記だから。旧唐書原文読んでないバカが騒いでるだけじゃん

97 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:11:04.37 .net
(続き)
倭が古の奴国というのは『旧唐書』『新唐書』の両方に書かれている。しかし
『旧唐書』には小国だった日本が倭を併合したとある。日本=小国
『新唐書』では倭が小国の日本を併合したとある。日本=小国
この二つは矛盾しない
例えば西郷隆盛は東征して明治政府を作ったが明治政府に西征されて自害している
『新唐書』は物部氏の東征を意味する。神話上はニギハヤヒ東征。小国だった日本は物部氏が乗り込んできた瞬間から大発展していく。例えば茶臼山古墳
『旧唐書』の方は物部氏が大国に作り変えた後の畿内が九州を併合したことを言っている
畿内説は「大久保利通も明治天皇も東京に住んでいたんだから薩摩は都内にあった」と言うようなもの

98 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:13:33.15 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
なにがニギハヤヒだかw

99 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:14:10.67 .net
そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし

100 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:15:29.76 .net
>>95
>魏志のあとの『広志』にも邪馬台国は伊都国のすぐ南とあるので

ないよ

101 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:15:35.32 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
中河内と中勢が纒向建設に関与してたからじゃね?奈良盆地東南部は比較的生産力が高くてポテンシャルあったというのもあるだろう。

102 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:19:07.38 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
大王だけ見れば北へ北へ開拓していったようにも見えるんだけど、纒向王権初期の段階で先遣隊(椿井大塚山:彦坐王)が山城に行ってるんすよね。
おそらく彼等の根拠地は奈良盆地北部で、後に倭王が東南部から北部に移動すると合流することになり佐紀王権が誕生する。

103 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:19:34.50 .net
空船の逸話の成り立ちは
今の交野市あたりは当時は海沿いで
そこに船でニギハヤヒが来たんだろ

それで「船で王様がきた」というエピソードだけが交野市に残って
後世の人が「こんな内陸部に?船で?」って困ったあげく
「船で空を飛んでやったきたに違いない!」ってなったわけだ

神話の成り立ちを「合理的に」想像すると面白いよ

104 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:20:02.45 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ちなみに椿井大塚山古墳にも中国製の小札革綴冑がある。魏から貰ったやつ

105 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:22:20.36 .net
>>87
まったく、その言い方が下品だとは思わないのか?
こんなに長々とテンプレを連ねるのはやめた方がいいと言っただけだ

106 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:23:27.44 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
視野狭すぎ。
たまたまニギハヤヒの話が記紀に採用されたから有名なだけであって、本来はいくらでもニギハヤヒに類する祖神はいただろうよ。
古事記の元ネタになった旧辞の文書化時期が継体から欽明で、ちょうど物部氏の全盛期だったから物語になってるって考えつけよアホ

107 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:23:53.72 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

108 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:24:00.32 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>105
じゃあ別のスレ立てれば?(笑)

109 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:26:06.99 .net
>>106
つまり群雄割拠だったってことだろ

物部氏の神社に「倭王旨」の鉄剣が収められてるし

物部氏が倭王だった時代があるということじゃん

110 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:28:16.99 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>109
物部の「部」がどういう意味か理解してたら物部倭王説なんてあり得ないことわかると思うんだけどな

111 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:31:11.61 .net
奈良盆地の南大和に大和の起源があるのも興味深い
神武天皇が未開な部族を制圧した東方征伐のすえ
南奈良盆地の橿原市で神武天皇が日本国を興したのも象徴している
そして南大和から文化程度が劣る遅れた北へ北へと北の平地を
開拓していった日本の歴史も面白い

112 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:34:05.32 .net
>>110
もとから物部と名乗ってたわけじゃないだろ
王位争いに負けて仕方なく物部を名乗りだしたと考えたほうが自然

113 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:47:34.64 .net
魏略で北九州の南に狗奴国があると書いてあったから熊本だろう

魏志で初めて九州以外の国名が出て来る

114 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:53:34.89 .net
>>113
えーーー魏略で北九州という文字が出てくるなんて初耳だわ!

魏略のどの辺に北九州なんて文字が出てくるの!

教えて教えて調べてみるから!!

115 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:55:49.50 .net
畿内説は大嘘つきが多そう「

116 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 22:59:46.51 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
畿内説はもう確定だから、その後の王権の歩みについて迫りたいな。そもそもここは畿内説スレであって九州論者が来るのはルール違反だし
そう思わんか?

117 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:01:48.34 .net
このスレ回してるの九州説の人たちやん

118 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:02:51.16 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
日本史板にもどんぐりシステム導入してもらうように運営に頼んでみるか
俺UPLIFT入ってるから荒らしBAN出来るわけだし

119 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:03:01.62 .net
>>116
苦しいんなら現実を直視してラクになりな

120 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:04:42.15 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
それか、出来れば次スレはどんぐりレベル制限して立ててほしい
コマンド使えば出来るっしょ?

121 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:07:55.30 .net
>>120
トナカイよ、お前のXのアカウントを教えてくれないか?

122 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:08:39.58 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>107
いやぁ黒塚の被葬者は男だな
「大海」という地名が近辺にあるから尾張系という指摘があったりw

123 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:15:19.78 .net
弥生時代後期、遠賀川、博多湾、壱岐、五島列島、九州全県、松江、広島香川岡山兵庫大阪奈良三重愛知静岡京都滋賀石川富山、神奈川東京に一斉に龍の絵画土器が誕生する
東京湾岸、三重奈良大阪、岡山広島香川、九州北部壱岐では特に流行っていた
九州から関東まで影響を及ぼす勢力がいたということだ
黒い龍神、トミの勢力だろう
遠賀川には南方刀美があちこちで祀られている
柏原の弥生時代後期の遺跡である船橋遺跡からも龍の絵画土器が見つかっている
柏原は奈良から降りてきた龍神が留まり大和川の治水を行った伝承が残る
安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
各地の首長たちが集まり夜に水の祭祀を行っていた伊勢遺跡の特徴や大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻の記述とも矛盾しない諡号だね
安寧天皇は龍やトミと関係があるかもしれない

124 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:19:40.66 .net
>>114
末路~不彌までが北九州

125 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:20:17.55 .net
龍の絵画土器の密集地、壱岐には竜宮への信仰が篤い夫婦が暮らしていて、龍の女神から禿童、萩原のことか?を授かり繁栄したという伝承が残っている

遠賀川の香月に生まれた小僧の鎮西上人は立派に育ち飯塚の伝承となった
鎮西上人伝説は南方刀美の伝説じゃなかろうか?

126 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:25:40.90 .net
倭国大乱前の倭国の版図は南は九州全域から北は東京湾迄広がっていたんじゃないか?
倭国王帥升の時代だな

127 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:37:46.60 .net
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

128 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:39:07.41 .net
NHKはヤマト政権の始祖は邪馬台国の卑弥呼であると放送したがそれは誤りでは無かろうか?
卑弥呼より100年以上前から九州全域、吉備、近畿、東海、東京に及ぼす龍をシンボルとする枠組みがあった
倭国王帥升の記録も中国に残っている
龍神伝承の地柏原は安寧天皇の宮の位置とも重なる
既にヤマト政権は卑弥呼より前から始まっていたと考えるのが妥当だろう

129 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:43:55.06 .net
>>126
↑何だか倭人伝の筆者みたいな独自の方位感覚の持ち主がここにいるようだ。

130 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:45:46.28 .net
>>128
面土国は飽くまで倭王ではないだろう

131 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:12.74 .net
>>130
帥升は倭王だと書いてある

132 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:27.01 .net
長らく朝廷があった京都
朝廷の直轄地畿内の内3つを占める大阪

国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究によれば、東北富山石川和歌山は同じグループで、京都大阪が一番近かったのもこのグループだった
東北は黒い龍神伝承の地だな

三内丸山遺跡からは大量のヒスイが見つかっているが楔状耳飾りも見つかっている
三内丸山遺跡は遼河文明そのものの遺跡で、遼河文明は龍をトーテムとし楔状耳飾りも使われていた
日本でも縄文時代日本海側を中心に各地で楔状耳飾りが見つかっている
旧石器時代からのサヌカイトの採集地である二上山
その麓の藤井寺の国府遺跡は旧石器時代からの人々の営みが残る遺跡で、縄文時代前期の早い時期に5体の楔状耳飾りをした人骨が見つかっている
旧石器時代からサヌカイトの石器を使っていた集団と楔状耳飾りの集団は縄文時代の早い時期に既に出会い共に暮らし始めていたということだな

133 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:49:56.20 .net
>>130
倭国王だったかな?

134 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:50:34.20 .net
>>113
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。
よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り

135 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:55:58.93 .net
魏志の南は間違いだけど、魏略の南は正解です。

136 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 23:57:48.44 .net
狗奴≠クマ
拘右智≠キクチ

137 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:01:22.02 .net
>>135
方位はこの地図が正しい↓

方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

138 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:03:59.36 .net
>>137
弥生時代にこれだけの地図を想像するのは絶対無理

139 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:15:02.75 .net
新嘗祭や大嘗祭の翌日に行う豊明の節会に使う三角柏
葛城の磐の姫の時代は熊野に生えていて取りに行く話がある
朝廷の儀式に不可欠なものが当時は熊野にあり、葛城の磐の姫はその所在を知る人物だったということだな
因みに奈良時代に書かれた志摩国風土記逸文に、当時は堺に三角柏が生えていて行基が志摩国にも三角柏を植えた話が残っている

弥生時代末期熊野の阿須賀神社の境内とその周辺に突然集落が誕生する。古墳時代前期迄営みがあったようだ
その集落跡からは大阪湾岸と同じ形の製塩土器が見つかっている
倭国大乱以降の国内の騒動から逃れる為、ヤマト政権の核となるものは一時熊野に逃れていたんじゃないか?
そして古墳時代中期には再び畿内の中枢に戻ってきたと考えられる
三角柏は別名隠れ蓑の葉や大谷渡りとも言う
熊野の神は初めゴトビキ岩に降臨しその後熊野川の対岸の阿須賀神社の地に移ったという

140 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:17:40.74 .net
>>139
弥生時代末期熊野の阿須賀神社
この一文で脱力するわ
ねえわそんなもん

141 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:19:44.71 .net
>>140
読解力ないね

142 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:21:30.16 .net
>>141
とりあえず弥生時代の狛犬の一つでも掘り出してきて

143 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:30:30.04 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
龍の絵画土器は実際興味深い。人口増大と鉄器生産普及と交易活動の活発化が起きていた弥生時代後期に、中国から北部九州へ齎された情報が断片的ながらも東進していった事を語ってくれてるんだろう。
新羅本紀に、旱魃の時に龍を描いて降雨を祈願したという記事がある。おそらく弥生人が龍の絵画土器を描いたのも似たような理由だと考える。

144 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:35:58.28 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
圧倒的な抗い難い超自然の力を実感していた弥生人にとって、自然に干渉出来る(降雨を操作できる)生物の登場が齎したインパクトが絶大であった事は想像に難くないのだな

145 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:41:09.74 .net
>>138
弥生時代に現在の地図を作るのも不可能

146 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:48:02.04 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
ちなみに龍の絵画を西日本連合政権の誕生の根拠と見るのは明らかに飛躍な

147 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:53:34.35 .net
>>137
なるほど
山鹿郡=邪馬台国とその東南にある菊池郡=狗奴国の関係もその45度回転でキレイに南北に補正されるな

148 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 00:59:11.64 .net
龍の絵画土器は楽浪郡との交流が始まった事を意味している

149 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 03:39:42.67 .net
>>147
倭国の東は山口県を突き抜けて日本海になるけどな

150 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 05:40:36.71 .net
https://i.imgur.com/UUcsnVT.jpeg
方角のズレは日の出(アガリ)を東にすれば良い

151 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:00:05.63 .net
https://yamataikokunokai.com/tousennsetu/image/ryuukoku.jpg
https://smtgvs.weathernews.jp/s/topics/img/201901/201901160215_box_img1_A.jpg?1547541956
古代日本列島は何か時空が歪んでたとしても、プレート構造的におかしくはない

152 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:22:58.64 .net
列島ぐるぐる

153 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:27:16.94 .net
>>128
NHKではない
寺澤がそのように発言した
寺澤はアンチ畿内自生説なので、ヤマト王権の初代の王を卑弥呼とする

他方、畿内自生説を採る岸本直文などは、帥升も畿内とは断定しないまでも、畿内ではないか?というスタンスなので、畿内自生説なら帥升を初代の王と見ることもできる

154 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:32:57.89 .net
倭面土は「ヤマト」の発音に極めて近いので、ヤマトと同義だろう
ただ、時代がかなり後の史書の引用なので、何とも言えない

155 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:42:19.83 .net
>>79
前スレでも書いた
上石津ミサンザイ古墳、津堂城山古墳、仲ツ山古墳、五社神古墳、築山古墳、摩湯山古墳と富雄丸山古墳はほぼ同時年にあり、これらの古墳は富雄丸山よりもはるかに大きい

そして、上記古墳の後に誉田御廟山古墳→大仙陵古墳となる

富雄丸山の被葬者はヤマト王権内の王ではないが位の高い人物

156 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:43:34.43 .net
同じ議論を繰り返す馬鹿のふりし続けないといけない病気か何かか?w

こりゃAIに置き換わっていくはずだわw

157 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:46:31.58 .net
大仙陵古墳は仁徳天皇陵だよ
仁徳天皇の没後に作られたとされてるのは
仁徳天皇より後の天皇の没年が長く盛られてるから結果的に
仁徳天皇陵作られた時より前に死んだように思われてるだけ
日本書紀の天皇没年捏造問題を何とかしないと日本の古代史は滅茶苦茶なまま

158 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:46:54.21 .net
>>116
語り合おう
それと畿内自生説も

159 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:49:54.34 .net
>>131
倭面土国 主帥だから、倭王ではない

160 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:52:04.85 .net
生口となった哀しい歴史
ドナドナドナドーナー

161 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:52:34.15 .net
日本書紀の天皇没年は捏造じゃなくて、本当の年代が分からなかっただけ
卑弥呼と台与の在位期間だけは中国の記録で分かった(201~269年 神功皇后)

162 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:53:56.12 .net
自ら出陣した神功皇后は卑弥呼ではありえない。
偽装するにしても違いすぎ。
あるとしたら台与かな。

163 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 06:59:40.13 .net
>>161
分からなかったから捏造したんだろ
そもそも2~9代の天皇には国を統治したことを示す事績がない
実在したかどうか疑わしい

164 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:01:35.28 .net
記紀編纂当時でも、3〜4世紀は、
不確定な伝承ぐらいで後は創作と思うけどね。

165 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:01:45.60 .net
幕府があったから直接統治はしてなかったのだろう。

166 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:18:12.24 .net
>>159
倭國王帥升と書いてある
倭面土国は日本語に文字をあてたんでしょう

167 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:20:49.75 .net
>>161
隋書の阿毎多利思北孤と記紀の推古天皇
記紀が正しいと思う奴は話しにならん

168 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:31:10.93 .net
>>165
一大率でしょう
各地の豪族がその役割を担ってた

169 ::2024/04/18(木) 07:33:10.29 .net
キクチヒコ? コウチヒコ? 誰ですか、それ?

珍彦こと、槁根津日子 ← コウコンツヒコとも読めるねw

人物比定も明確にまるっと考察済み!

>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ(卑弥呼と思いを兼ねる魏の皇帝)
・黄幢   ヨロズハタヒメ(万のハタに匹敵!)
載斯烏越  サイシウ・エツ→祭主サイシュ・フツ(ヌシ)

VS

>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智(拘右智)卑狗 ウヅヒコ(珍彦。槁根津日子。東征中の神武に従属)

170 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:40:09.41 .net
基地外の脳内世界をわかりやすく体現

171 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:50:12.89 .net
スカイネットのAIがこのスレ見たら、このバカども滅ぼさなきゃって結論に至るのかな?w

172 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:54:07.00 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

173 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 07:56:05.25 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

174 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:02:50.20 .net
つまり記録文献のどっこにも畿内説を思わせる記述はありませんと

175 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:03:16.83 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

176 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:03:24.48 .net
>>173
そんな姑息なことをしているから、だからいつまでたっても、トンどものまま。   @阿波   

177 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:05:28.68 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

178 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:12:57.82 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺(見た目は老人、頭脳は小学生)

179 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:14:29.67 .net
>>177
旧唐書  四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之

180 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:15:52.16 .net
九州説がなぜ滅亡したかよくわかる

181 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:16:04.15 .net
⇩不弥国から「南水行十日陸行一月」の真相
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

182 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:21:37.15 .net
狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗=菊地彦の解釈は誤り
よって狗奴国=熊本も誤り

183 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:24:34.14 .net
帯方郡、百済との繋がりで畿内の勝ちだ!

184 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:26:46.13 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

185 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:35:35.36 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

186 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:53:02.16 .net
>>182
>よって狗奴国=熊本も誤り

当り前。 そんな熊本に超大国「狗奴国」など興る訳がない。   @阿波

187 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:53:26.50 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

188 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:54:58.33 .net
>>185
姑息に、「阿波」を飛ばしている。   @阿波

189 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:55:21.58 .net
ざっくりとスレ読んでみたけど
虚構で積み上げた畿内説はトドメを刺されたかも

190 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:56:34.62 .net
>>187
いつまで妄想を楽しむつもりだ?   @阿波

191 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 08:59:24.62 .net
>>175
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)、複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡は後世の追加&追葬)を比定。

192 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:02:15.75 .net
なにが神社だ?あほらしい

193 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:02:47.07 .net
九州説の主張て、東の海を渡ると倭種がいる(実際は東は太平洋で倭種はいない)と、
狗奴国の狗古智卑狗は菊池彦(実際は拘右智卑狗で関係無い)ぐらいしか無いよね

194 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:05:56.76 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

195 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:08:43.99 .net
>>173
>>175
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

196 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:13:17.96 .net
デスラー総統とか言ってると歳がばれるぞ

197 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:14:41.03 .net
YAMATOが最近、西Pの息子にリバイバルされただろ、大学生かもしれんぞ

198 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:42:41.18 .net
久住猛雄は狗奴国=肥後、狗古智卑狗=ククチ彦説
これが最も自然で妥当な解釈だろう

狗奴国=東海説だの狗古智卑狗=カワチ彦説だのは畿内説の結論ありきのこじつけで論外

以下、久住のXより

「久努国造って遠江西部のはずなのに、遠江東部沼津の高尾山古墳を狗奴国王墓とか、無茶苦茶過ぎます。
土器様相の急な相違や大型銅鐸の分布有無とか、天竜川の東西で全然違う考古学的文化なのに、それを一緒くたにするような「狗奴国」論は考古学的に成立しかねる、と指摘させていただきます。」

「そんでもって謎の「王」号所持。どこかで魏か公孫氏か後漢後半に少なくとも楽浪、帯方郡と直接接触したはずと考えますが(仁藤敦史「卑弥呼と邪馬台国」)、正直言って3世紀中頃までの遠江地域の首長にそれを期待するのはかなり困難。」

「女王と「素より和せず」、さらに脅かすほどの戦争仕掛ける勢力が、遠江西部にいたのか?
考古学的に証明していただきたく存じます。」

「近代史学の邪馬台国畿内大和説の祖は東洋史の碩学内藤湖南だが、内藤は「狗奴国」を「肥後国菊池郡城野(キノ)郷」にその本拠を比定する。
「クマ」でなく「キノ」が一つの根拠というのに気づいた(「狗古智卑狗」は「ククチ彦」)。」

「内藤湖南の狗奴国=肥後国説、
他の肥後国説が「クマ←→クナ」説だが、「キノ←→クノ」説だったっぽい。明治大正時代に、中国の音韻変化について知ってた?しかし東洋史学の泰斗、何か知ってたかも?清代とかに、清の皇帝が編纂した大辞典に中国語(漢字)の歴史的音韻変化の研究があったとか?」

「ここキノ郷は、後に鞠智城ができるが、方保田東原に並ぶ弥生終末の肥後の二大集落の一つうてな遺跡もある。偶然か?」

「肥後に初期古墳はないが、大型方形周溝墓は古墳初頭に出てきます。しかしながらここで重要なのは、むしろ典型的「古墳」を受容していないことこそが、「女王に属さず」を徹底しているとも言えることです。
一方で集落は大規模、舶載遺物も多く、鉄器生産(「製鉄」としてる方は誤り)盛んです」

199 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 09:47:04.06 .net
>>198
当てはめようとするのが間違ってる
阿毎多利思北孤は誰なんだよ?

200 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:13:38.70 .net
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數

こんなに詳しく書いてくれてるのに誰だかわからん
阿毎多利思北孤天皇は確実に居ただろ?

201 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:22:28.96 .net
記紀の目的は、隋の天子煬帝に無礼を働いた倭王阿毎多利思比孤(冠位十二階)を、厩戸王子との合成人格「聖徳太子(憲法十七条)」で消すことだよ

202 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:29:07.68 .net
>>198
そもそも狗古智卑狗は転写誤字

狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗」ですが、魏志では「狗古智卑狗」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

203 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:33:20.89 .net
隋書俀国伝で、日出処の天子「天垂彦(阿毎多利思比孤)」は、倭国統治を兄弟に喩えているが、兄王朝が九州本家(倭国)、弟王朝が大和分家(日本国=推古朝)だったわけだ
https://pbs.twimg.com/media/GLVkHasbYAAIZNA?format=png&name=900x900

それが旧唐書になると、日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑ったという記述に繋がるわけだ。

204 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:34:08.17 .net
>>198
それに東海・関東には毛野国やら鬼怒川やら、クノ系の地名は山ほどあるからね

久野村(カテゴリ:同名の地名)
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久野城 - 茨城県牛久市久野町にあった城。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。

205 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:34:54.12 .net
狗古智卑狗が河内(大阪)彦でないことはたしかw

206 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:38:49.13 .net
>>204
邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺(畿内説)の小細工、乙!w

207 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:41:17.73 .net
>>184
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ

魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

208 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:42:02.70 .net
>>207
バカはお前だったようだw

209 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>88
というか教えてあげたんだから礼くらい言えや

210 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:58:09.42 .net
>>200
後宮に6、700人も女を集められる大王がはたして居ただろうか
東の倭種特有の「尊大で誠実に答えない」かもしれんな

211 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 10:59:23.19 .net
>>181
日本海ルート(出雲投馬国)はありえんな

212 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:03:07.13 .net
>>208
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ

魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

213 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:03:54.69 .net
>>211
>日本海ルート(出雲投馬国)はありえんな

いや、」日本海ルートはあったが、「魏志倭人伝」とは無関係なだけのこと。   @阿波

214 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:06:57.86 .net
>>212
一つ覚えのバカはお前だったようだw

215 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:07:50.42 .net
>>203
使者A〜Cが別々のことを言ったということではなくて、そういういろいろなうわさがあった、ということでは

216 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:10:33.72 .net
>>211
瀬戸内海ルート(吉備投馬国)もないよ

陸続きの大阪まで水行十日する必要がないし、纏向まで陸行一月wなら確実に里数表記に変わるはずw
20q×30日=600qとすると、大阪から東京(498q)大宮(520q)水戸(620q)あたりで、其南有狗奴国 官狗古智卑狗は北になってしまうwww

217 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:18:22.68 .net
>>200
息を吐くように嘘を付け足すなよ汚内説よ
隋書倭国伝の原文には阿毎多利思北孤の文言の後に
天皇なんて称号は付いてないわ

中国側で隋書倭国伝が記録された年代は
西暦600年頃で日本は額田部皇女(のちの諡号で推古天皇)の時代
正確には苗字は阿毎(あま)、名は多利思北孤(たりしほこ)

天豊財重日足(のちの諡号で斉明天皇)が西暦661年に
繋がりのある九州筑紫に大和から皇宮を遷し朝鮮制圧に乗り出したが
天豊財重日足が亡くなり、一時的に日本は混乱し称制で統治したが
大海人皇子が西暦673年に即位し日本で初めて天皇の称号を使い始めたの起源だよ

218 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:21:14.17 .net
>>216
つまり不弥国「南水行十日」投馬(都萬)国(耳川)は、豊後水道ルートが正解ということだね

>>181

219 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:23:49.37 .net
狗右智卑狗 Google翻訳では 正しい知的劣等コンプレックスを持つ犬
だそうな

220 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:24:38.23 .net
>>218
しかし、大国「投馬國」を宮崎になどと蔑ろにしてはいけない。   @阿波

221 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:24:41.49 .net
>>215
何故そんな妙な解釈になるの?
わけわかんねえ

222 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:25:42.16 .net
>>217
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」
姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌(おおきみ=大王)
ちなみに「天皇=大王+百」w

一白
大王

「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」
妻は雞彌といい、後宮に600〜700人の女性がおり、太子の名は利歌彌多弗利である

223 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:34:46.57 .net
>>217
號の阿輩雞彌ってなによ?
てかこんな事もわからんのだから当てはめようとするなと言ってるんであって河内彦でも同じだ

224 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:37:50.80 .net
>>222
>号は阿輩雞彌(おおきみ=大王)

阿波爺が阿波君とか言い出しそうだなw

225 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:38:12.76 .net
>>221
藤堂明保訳の倭国伝ではそう読める
そもそも一緒に行った使者がばらばらの事を言うわけがない

226 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:38:20.92 .net
>>223
>號の阿輩?彌ってなによ?

つまり、トンデモの話はそんなものってこと。 それぐらいしか、話せるものがないってこと。   @阿波

227 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:42:55.14 .net
>>225
問い詰められてるんだぞ

228 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:43:24.63 .net
>>214
バーカ
魏使は王族の墓制を記したとは書いてないわ

魏使が見た範囲での墓と王族の墓制が違ってもなんも矛盾しない

229 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:44:02.75 .net
>>228
バカの一つ覚えはお前だったようだw

230 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:45:20.37 .net
倭人伝では単に「倭人の習俗」として墓制の紹介が出てくるだけ

卑弥呼の墓についての記述とは別の項目に書かれてる

倭人の習俗としての墓制と
卑弥呼の墓の墓制を結びつけるのは完全に間違い

231 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:51:45.27 .net
>>230
いずれにせよ、「卑弥呼」の墓は、「前方後円墳」ではないから。   @阿波

232 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:51:56.84 .net
倭人A「わてらは元は小国やけど倭国を併せたったんですわ」
倭人B「なんばいよっとかわいら倭国が日本を併せたったい!」

233 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 11:53:31.75 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

234 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:00:47.21 .net
邪馬台国の漢化の代償が夷狄時代の過去を隠蔽工作www

235 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:01:36.21 .net
>>222
当時の日本は島国の大王レベル
だから西安まで中国の煬皇帝に謁見する為に
大和から中国西安に使者を送ってるほど
大王レベルの日本と天皇称号を用い始めた日本と
社会文化水準の差がありすぎるよ

で日本の歴史書には登場しない
毎字多利思北孤は後の天皇諡号では誰に当たるのよ?(笑)

大海人皇子が日本における初の正式天皇になった天武天皇は
古来からの日本の正式な歴史を残すため
我が国初の正式国史書となる日本書紀の執筆開始
家系による氏族系譜上の確立
令制制度による日本初の中央集権体制を確立など
古い大和の文化レベルでは出来なかった新日本の船出を実現してるほど

236 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:02:18.88 .net
槨について必死に議論してるやつって、時間の無駄だということを認めたくなくてさらに必死になるんだろうな

無駄なもんな無駄だぞ

王族の墓制と倭人の習俗としての墓制が違っててもなんも矛盾しないんだから

倭人の習俗としての墓制を根拠に大王墓クラスの古墳がどうとか語るのはまったく無意味で無駄

237 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:03:46.03 .net
>>230
卑弥呼の墓は「径百余歩、殉葬百余人」とハッキリ書いてある
そして100%合致する墓は発見されていない
それが現実

238 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:05:50.23 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

239 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:06:28.31 .net
つまり倭人は庶民と統治者で民族が違ったんやな

240 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:12:57.53 .net
>>237
バカの一つ覚え乙!w

241 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:15:02.73 .net
>>237
祇園山古墳が一番近いだろう

基本的に倭人伝の距離やサイズの記述は「キリのいい数字で多めに書く」という方針で貫かれてる

工程の里数も◯百里と、ほぼすべての箇所で有効数字一桁で書かれてる

径百余歩というのも同じように、有効数字一桁で書いてる

「有効数字一桁、切り上げ」のルールを適用すると実際の数値が50歩~100歩なら「径百歩」と書くことになる

祇園山古墳は直径30mほどで、径百余歩に当てはまる

242 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:15:15.36 .net
>>236
バカの独り言、乙!w

243 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:17:46.13 .net
有効数字一桁、切り上げ、百以上のみの数字で記載する

というルールがあるでしょ
行程の記述でも「150里進む」とか言わないでしょ

数字はざっくり書いてるのよ

だから直径30mでも径百余歩と書く

244 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:17:58.10 .net
>>242
お前がバカ

245 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:19:20.69 .net
>>236
みんな注目!
哀れになってくるバカの独り言だw

246 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:20:19.84 .net
祇園山古墳は60体以上の棺が出土してる

いくつかは後世に埋められたものだが、いくつかは主体部の埋葬者と同時期に埋められたものと推定されてる

それは殉葬だろう

国内の古墳の中で明確に複数の殉葬の痕跡があるのは祇園山だけ

247 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:20:23.24 .net
とりあえず箸墓古墳は3世紀の構造では無い事が判明したもよう
だから畿内説は結果発表せずダンマリなわけよ

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

248 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:20:38.40 .net
>>245
お前泣いてるやん

249 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:22:35.13 .net
祇園山古墳から出土したとされる三角縁が高良大社に伝わってる

3世紀中期古墳からの三角縁の出土は畿内では例がない(黒塚は3世紀末)

まさに、卑弥呼の死んだ時代に、三角縁が埋められてる唯一の古墳が祇園山古墳

250 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:27:13.64 .net
>>248
泣かしてすまんw

251 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:32:41.33 .net
>>200
タラシヒコとは帯日子

古事記にも登場する

252 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:33:27.51 .net
天皇家を含む邪馬台王族が漢化しただけだぞ。他の保守的な倭人より先行して世界の文化を受け入れて始めた。

253 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:44:18.70 .net
>>233
畿内のヤマト王権が邪馬台国になりすましていたという説(畿内なりすまし説)か。

それならそう書けよ。
「畿内説はオレオレ詐欺」ってずっと意味がわからなかった。

254 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:48:08.13 .net
>>211
日向投馬国もありえんな

関門海峡は元々陸続きであった(参考)

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

255 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:48:30.32 .net
>>253
正解!

256 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:52:45.53 .net
阿毎アメ 多利思タリシ 北孤ホコ って
北じゃなくて比の誤字だと言われてるけど北で発音がペクなんだな
アメタリシホコじゃなくてアメタリシペコだな

当時の発音がアメタリシピコだったとしたらペコで良いのかもしらん

257 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:53:37.63 .net
>>254
慧眼!
⇩九州の東岸って西岸と違って、山が海岸線に迫っていて道がカーブしてたり上下したりしていたので、舟で行った方が速かったんだろう
https://i.imgur.com/boCZvL8.png

258 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:57:23.35 .net
>>241
祇園山は箸墓より新しいからキツイな

259 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:58:26.63 .net
>>258
祇園山に槨なしw
葺石は後世の追加だからねw

260 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:59:29.84 .net
安本も祇園山は卑弥呼の墓じゃないと言ってた
バカしか支持しない祇園山説

261 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 12:59:51.78 .net
投馬(於投馬・当時の中国語に近い発音:イォデゥムワ)国は出雲&山陰で決定!

地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

262 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:01:21.17 .net
つまり畿内説は中国の記録文献とも日本の記紀とも全く整合しない妄想作文でしたと

263 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:01:44.03 .net
祇園山って箸墓どころか西殿塚や桜井茶臼山より新しいからな
4世紀じゃね

264 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:04:50.68 .net
石棺が露出してる(有棺無槨)祇園山が、ホケノ山(二重の木槨+石槨)より新しいわけないじゃんw
葺石や三角縁神獣鏡はヤマト王権に入ってからの追加だよw

265 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:07:06.26 .net
狗右智卑狗・於投馬国と、太平御覧のおかげで邪馬台国の真実が分かったな

266 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:07:28.36 .net
Takeo Kusumi
@T_Kusumi057
たびたびあるので、久留米市祇園山古墳について。あと周辺埋葬を「殉葬百人」とされたりしますが、実は全てが同時期ではなく、新しいのはTK208須恵器まである長期間の周辺埋葬です。いずれにしろ「卑弥呼墓」説の成立余地無しです。
https://x.com/T_Kusumi057/status/1776995774347530497

267 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:08:02.17 .net
つまり九州説はウソ

268 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:08:09.99 .net
Takeo Kusumi
@T_Kusumi057
周囲埋葬同時期でなく古墳中期まで。
古い甕棺も布留1式併行期
古墳供献土器の古い型式群も布留1式併行、北部九州で段築と葺石完備は布留0式新相併行から。祇園山は段築比率からと箱式石棺型式と三角縁三神三獣鏡が出土した可能性高く布留1式期。卑弥呼墓説成立余地無し。https://x.com/T_Kusumi057/status/1776994579918819496

269 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:10:38.63 .net
誰も信用しないクズ先生の登場だw

270 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:11:56.42 .net
九州説って須恵器の時代まで卑弥呼の時代に含めてるのか
なんでもありだなw

271 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:12:59.21 .net
須恵器は後世の追葬儀式だろう

272 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:16:07.68 .net
富雄丸山古墳(4世紀後半)では、造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土した。
おそらく墳丘築造後の50回忌で製作・追葬されたと見られることから、
祇園山の葺石や三角縁神獣鏡・須恵器も、後世の追加・追葬儀式に伴うものとすれば、卑弥呼の冢で問題ない

273 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:17:50.63 .net
蛇行剣の初現は島の山だから4世紀だろ
九州説って本当に馬鹿なんだなぁ

274 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:21:14.15 .net
畿内説の年代観を否定しながら祇園山卑弥呼墓説を主張するのは本当に馬鹿なんだと思う
一貫してるやつなら祇園山は4世紀説だしな。例えば安本美典

275 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:22:53.27 .net
九州説はみんな馬鹿

276 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:22:56.94 .net
>>258
箸墓の年代は幅があるだろ
最大遡って3世紀中盤というだけ
畿内説キチガイはなぜか最大遡った数値を規制事実かのようにいう

277 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:24:05.83 .net
祇園山に関してはいくらでも解釈可能だが、確実に言えるのは、吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし、ってことだなw

278 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:24:07.86 .net
>>276
箸墓の年代に幅があるんじゃなくて、箸墓築造時期の土器(布留0古)の年代に諸説あるんだぞ
祇園山は布留1併行だから箸墓よりは遥かに新しいことは確定。お前バカすぎるな

279 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:24:53.71 .net
日本書紀によると垂仁天皇の時代に殉死を禁止したようだから、箸墓の時代は殉葬があったで確定だな

280 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:25:46.64 .net
布留1並行にしても後世の追加はあり得るだろう

281 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:26:39.87 .net
箸墓周濠から出土した土器群が布留0古

後続するのが布留0新(西殿塚・桜井茶臼山)

更に後が布留1(祇園山)


箸墓が4世紀前半なら祇園山は4世紀中盤になる

282 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:28:32.19 .net
>>281
つまり箸墓は卑弥呼の墓じゃないってことだねw

283 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:35:45.95 .net
>>281
語るに落ちた畿内説www

284 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:37:38.90 .net
箸墓ってまだよくわかんないんでしょ

何を先走って卑弥呼の墓と言ってるのかな

公金チュチュウの畿内説らしいけどネ

285 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:48:22.98 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

286 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 13:55:39.34 .net
>>281
主体部埋葬者と同時期に埋められてたわけではないだろ

箸墓は鐙が出土してるから4世紀中盤以降になるぞいいのか?

287 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:06:26.91 .net
>>286
鐙は布留1土器と共伴してるんだぞ
祇園山はまさに箸墓の周濠が機能停止して土が溜まって鐙が投棄された時代と同じ時期に築造されたことになる

288 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:07:16.56 .net
なるほど
祇園山=鐙だなw

289 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:10:07.88 .net
祇園山=箸墓周濠鐙投棄年代と同時期に築造w

290 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:11:25.34 .net
箸墓周濠築造が布留0古

後続するのが布留0新(西殿塚・桜井茶臼山)

更に後が布留1(箸墓周濠木製輪鐙・祇園山)

291 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:11:42.74 .net
箸墓築造が布留0古

後続するのが布留0新(西殿塚・桜井茶臼山)

更に後が布留1(箸墓周濠木製輪鐙・祇園山)

292 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:25:14.90 .net
>>287
祇園山からフルイチが出てる!ってお前がいうから
じゃあ箸墓からは鐙が出てるから4世紀中盤以降だなwと笑ってるんだよ

お前自分が言い負かされたことにも気づかないほど頭悪いたいぷ?

293 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:27:42.16 .net
周濠が埋まる土は何処からの土ですか?
墳丘からですかね?

294 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:29:10.75 .net
鐙が出たのは周濠!主体部じゃないから関係ない!っていうなら
祇園山のフルイチも同じ理由で関係ないことになるだろ

やっぱ頭悪い?基本的な論理学から勉強したら?

295 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:31:47.23 .net
祇園山は60以上の棺が出てて、後世に追葬されたものが多いわけだ
フルイチが出る!って言われてもそりゃそうだろ後世に追葬されてるんだからとしか

バカすぎる

296 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:32:57.59 .net
箸墓の布留も周濠で発見されたもの
古墳との関連性は不明
その土器で箸墓古墳の年代を編年してる時点で畿内説はど素人

297 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:37:02.40 .net
>>296
そういうニセ情報流す時点で
九州説はど素人丸出し

298 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:41:00.14 .net
周濠から出土は大まかな目安程度かもしれんね

299 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:44:33.96 .net
>>276
>箸墓の年代は幅があるだろ

A.D.240〜260
それが何?

300 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:44:37.65 .net
箸墓が円墳なら3世紀中頃より古い。
これは無いですか?

301 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:49:36.37 .net
>>300
別にそういうことはない
円墳かどうかで時代が決まるわけじゃないから

302 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:49:55.06 .net
>>299
畿内説キチガイで笑う

303 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:51:07.13 .net
馬鹿考古学が4世紀と編年した富雄丸山古墳で5世紀の剣が発見されたが、この剣を4世紀のものだと言い張っている
箸墓古墳も墓の外で拾った関連性不明な土器で3世紀と編年し、墓の中から発見された物の年代も強引に3世紀の物だと言い張るんだろうな
実際、同じ周濠で布留1と5世紀に見られる木製輪鐙が同じ層で発見されているがその木製輪鐙を4世紀初頭の物だと言い張っている

つまり畿内説は畿内説ありきの考古学者による歴史ねつ造事件なんだよ

304 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:51:37.72 .net
量は知らないが、"周濠の底から布留0式土器が多量に出土した。"とあるけど、墓を造ったあと周濠を土器捨て場に使っていたんですね。
庶民にはどうでもいい墓だったかも。

305 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:52:33.81 .net
>>300
箸墓円墳説はとうの昔に一体型だと確認され、否定された説

306 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 14:55:15.24 .net
>>304
当時の人が周濠を作っていた時に出土したものかもしれない
4世紀に周濠を掘ってたら3世紀の土器が出てきてそのまま捨てられた可能性だってあるんだから

307 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:00:06.66 .net
オレオレ詐欺流畿内説の精神安定呪文

(現実の光が差す)九州倭人邪馬台国説はど素人(笑)

308 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:00:22.10 .net
>>306
周濠は2重になっていた。とも書かれてるから、そうかもしれないですね。

309 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:03:19.73 .net
畿内説をゴリ押ししてるのは中国による工作活動の一つかもしれない
西日本一帯はもともと中国の属国だったというのを口実に西日本を併合するつもりかもよ?

中共から漏洩した未来の日本地図
https://i.imgur.com/DV27mpy.png

310 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:07:46.37 .net
纒向の大型建物の柱穴も3世紀の柱穴だとは証明されていない
3世紀の桃の種が発見された遺構と建物の柱穴の位置関係は全く関連性が見られない
4世紀の建物の柱穴が3世紀の層に到達していた可能性の方が遥かに高い

311 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:09:08.72 .net
>>309
東海省より倭国が良いかと、

312 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:16:17.43 .net
>>310
そういうニセ情報流す時点で
九州説は詐欺師丸出し

313 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:31:18.95 .net
>>312
桃の種の遺構と建物の遺構は別物



畿内説による情報操作の事例

『出土品の一つ、祭祀(さいし)用と考えられるモモの種の年代が、卑弥呼の時代と重なるとした論文は、
邪馬台国畿内説を補強するとして新聞各紙を飾った。』

しかし桃の種の発見場所は柵列の下に位置する建物とは別の遺構だった
https://i.imgur.com/AKoIOjv.png

314 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:37:05.13 .net
崇神天皇の写真みたいだ
国立国会図書館所蔵
https://i.imgur.com/ERX7k7o.jpeg

315 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:42:47.05 .net
>>313
>『出土品の一つ、祭祀(さいし)用と考えられるモモの種の年代が、卑弥呼の時代と重なるとした論文は、
>邪馬台国畿内説を補強するとして新聞各紙を飾った。』

事実通りの報道

>しかし桃の種の発見場所は柵列の下に位置する建物とは別の遺構だった

九州説による情報操作の事例
だが、操作できなかった

316 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:46:10.63 .net
なるほど、
邪馬台国、投馬国は九州、半島以外ですね

317 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:47:29.40 .net
九州西都原古墳群遺跡〜BC200年代半ばから造成され
邪馬台国卑弥呼時代の日本列島最大規模を誇る九州古墳遺跡

古代中国の正史書・魏志倭人伝に描かれる倭人国家群の様子が
九州の吉野ケ里遺跡に張り巡らされた驚きの建物跡の数々・・
九州倭国連合国家群の宗主国・邪馬台国の存在がますます注目集める!

318 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:48:30.40 .net
調べられるとすぐバレる嘘をつく→瞬間的に破滅
という九州説破綻パターン

319 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:50:00.95 .net
>九州西都原古墳群遺跡〜BC200年代半ばから造成され


九州説また発狂

320 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:50:27.36 .net
>>318
はいはいオレオレ詐欺

321 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:57:35.42 .net
そして・・漢の影響を受けた九州文化は日本文化の起源になった

322 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 15:58:39.46 .net
な、畿内説ってまさにオカルト宗教だろ?w

323 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:00:01.96 .net
>>295
後世に追葬されたものが多いわけだ

後世のしか出てないぞ

324 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:00:17.25 .net
>>315
桃の種と建物の関係については何の検証もされておらず、畿内説の学者も有耶無耶なコメントしか残していない

論文出してみろよ

325 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:01:10.09 .net
祇園山は3世紀末~4世紀の遺物しか出てない。3世紀半ばに遡る証拠が欠片も存在しない。
一歩箸墓は布留0(3世紀半ば)の遺物が多く出てる

326 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:01:44.20 .net
つまり畿内説は五毛

327 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:03:16.72 .net
>>294
なにいってんだこいつ
祇園山からは3世紀半ばに遡る根拠が一切出てないんだぞ
布留0古段階の土器が大量出土してる箸墓と全然違うだろ

328 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:03:32.97 .net
~さらば九州説~

九州の山から水銀朱産出せず

329 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:04:12.23 .net
>>324
>桃の種と建物の関係については何の検証もされておらず、畿内説の学者も有耶無耶なコメントしか残していない

九州説またニセ情報
w

>論文出してみろよ

公式発表見てないの?
無学無知とウソ連発

それが九州説

330 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:04:49.59 .net
>>327
倭人(阿波勢力)のお墓を、いつまでうだうだ言うつもりなんだ?   @阿波

331 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:05:10.16 .net
祇園山説を成立させるためには箸墓3世紀前半説を論証せねばならんな

332 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:05:53.23 .net
>>331
倭人(阿波勢力)のお墓を、いつまでうだうだ言うつもりなんだ?   @阿波

333 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:07:35.90 .net
>>329
お前がここで発表してみろよw

建物と桃の種がなぜ関連性を持つのか論理的根拠を述べよ

334 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:08:31.40 .net
まあ考古学なんてのは学問のがの字も知らない低能の寄せ集めだからなw

335 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:26:43.43 .net
阿波説は誇大妄想教

336 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:29:18.25 .net
卑弥呼より少し時代が下る祇園山古墳は台与か八女津媛の墓か

337 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:30:00.97 .net
>>335
なんせ、超先進文化を謳歌しているからな。   @阿波

338 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:47:27.45 .net
>>333
>お前がここで発表してみろよw
>建物と桃の種がなぜ関連性を持つのか論理的根拠を述べよ

公的機関からちゃんと発表されてる事、なんでまた発表する必要があるの?
知らない九州説、嘘つく九州説の方が赤恥なだけじゃね?

339 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:51:18.28 .net
>>338
というより、新聞報道をなんの理由もなく全否定する気が済むって、気が狂ってないか?

340 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:52:19.20 .net
というより、新聞報道をなんの理由もなく全否定すると気が済む九州説って、気が狂ってないか?

341 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:53:05.69 .net
>>337
先進阿波の国宝って何?

342 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 16:57:28.69 .net
>>341
卑弥呼の時代の国宝って何?   @阿波

343 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:01:32.15 .net
平原王墓の副葬品は全て国宝だけど

344 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:02:31.99 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

345 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:04:51.74 .net
>>343
御用学者のお陰だな。   @阿波

346 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:09:13.16 .net
国宝が一つも無い無い阿波はただのど田舎

347 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:12:36.73 .net
>>346
御用学者がいないからな。   @阿波

348 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:20:14.12 .net
可哀想な阿波w

349 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:21:45.64 .net
祇園山が3世紀半ばでも構わんよ
畿内説が確定するだけだから

350 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:23:38.01 .net
>>348
御用学者がいないばっかりにな。   @阿波

351 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:25:41.08 .net
阿波はトンデモだから学者もいじらない

352 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:27:20.83 .net
>>351
へたに「阿波」をいじったら大変のことになるからな。   @阿波

353 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:29:37.31 .net
>>352
こういうアホが阿波説信者

354 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:33:41.64 .net
阿波説も九州説も大して差はない

355 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:35:14.73 .net
中国正史の魏志倭人伝の記録や

九州の巨大な吉野ケ里遺跡や九州の巨大な西都原古墳群遺跡

九州倭人連合国家群に知的能力による点と線が見事に結びつき

客観的整合性が適合すると思う

356 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:36:10.13 .net
>>353
まぁ、「卑弥呼」の時代に超先進文化を謳歌していた「阿波」をはずすわけにはいくまい。   @阿波

357 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:36:14.28 .net
畿内説のパクリが阿波説

358 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:36:57.22 .net
阿波説はいつもギャグw

359 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:37:59.64 .net
>>357
碌に鉄器さえも作れない畿内説をパクリ?   @阿波

360 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:44:59.44 .net
お笑い阿波説。トンデモが売りです

361 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 17:49:55.01 .net
>>357
碌に鉄器さえも作れない畿内は、お笑い珍説じゃないのか?   @阿波

362 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:00:05.77 .net
つまり畿内説は印象操作報道を繰り返し妄想を信じ込ませる霊感商法詐欺の一種ですよと

363 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:01:02.00 .net
>>317
>九州西都原古墳群遺跡〜BC200年代半ばから造成され

なにこれ
九州説?

364 :畿内説は馬鹿:2024/04/18(木) 18:01:51.09 .net
いまだに
「其山有丹」を理解できない畿内説

0328日本@名無史さん垢版
2024/04/18(木) 16:03:32.97
〜さらば九州説〜
九州の山から水銀朱産出せず

365 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:04:42.96 .net
印象操作報道ってw

吉野ヶ里の石棺が卑弥呼の時代って大騒ぎした報道、なんか根拠があったのか?
調査する前だったよな

366 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:08:29.82 .net
>>365
確かに吉野ヶ里と富雄丸山古墳の騒ぎ方はえらい違いだったな

367 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:08:56.95 .net
>>344
門脇禎二
「ここで念のため、狗奴国を東海地方とみる説にふれておきたい。(中略)学問的手続きをあまりにも欠いている。邪馬台国=大和(近畿)説を前提にしてのみ着想できる典型的な亜流学説」
「狗奴国=東海説の主張者は全然ふれないが、「狗古智」の地名だけではなく、「狗古智卑狗(ヒコ)」という官名にも注意して欲しい。つまり、対馬国、壱岐国、狗奴国の大官の称にはヒコが付いている。ヒコという官名は、中国では『国の良臣』(『魏志』)、つまり立派な官をいう」
「しかも、「周旋五千余里ばかり」の中に、女王国と対立した狗奴国も入っている。これら東夷の諸国の範囲にかかわる「東夷伝」の記事を、大和(近畿)説はまったく無視する」
「狗奴国を東海地域に宛てる説は(中略)東海地域が「温暖」なことや、呉と交通した可能性はもとより、女王国と「素より不和」であったことなど問題にもされない。東海説は、邪馬台国=大和(近畿)説が正しいことを前提としてのみ成り立つ所論にすぎない」
「文献的には、静岡県の西の方で「久努国造(くぬのくにみやつこ)」というのが出てくることなどで、ここが狗奴国だろうとおっしゃるんです。しかし、国名を地名で語呂合わせしていくのは明治以降の論争でも、もう相当行き詰っている」

森浩一
「『後漢書』の成立は新しいとはいえ、古い資料が使われている場合もある。だが、今引いた狗奴国の箇所は(中略)の箇所を合成し、さらに狗奴国の名を拘奴国に変造したものである。おそらくこれは五世紀ごろの日本列島の政治体制の影響を受けて、つまりヤマト中心の地理観に影響されての資料操作の結果であり、原典として用いることのできない史料である」
「文献にある史料はすべてがそのまま使えるわけではない。もっと丁寧にいえば「倭人伝」の該当箇所も『魏略』を参考にしたものである。『魏略』には「海を度る千里、また国あり、皆倭種」とあって先ほどの「女王国の東に海を千里渡る」のなかの「東」は陳寿の追加個所である」
「以上の説明にも聞く耳のない狗奴国東海説を信奉する者は、せめて『後漢書』から忠実に引用して狗奴国東海説をいえばまだしもの救いがある。(中略)専門の書物に接することの少ない一般人には、新聞やテレビがたれ流す軽薄な情報がいつしかそれなりの知識のように頭にインプットされてしまう」

368 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:11:20.42 .net
オール死者


九州説

369 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:16:30.45 .net
つまり畿内説は東の倭種の国による邪馬台国オレオレ詐欺でしたと

370 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:17:54.05 .net
>>367
俺も狗奴国が東海地域とか何が根拠なのかわからん
敵と言えば毛人(えみし)だろ?

371 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:18:21.09 .net
なぜ東の「倭種」と呼ばれたのか?

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている
畿内は半島系なので倭種と呼ばれていました

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

372 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:20:44.40 .net
>>367
そいつも間違ってるな
女王国と「素より不和」じゃない
卑弥呼と卑弥弓呼が「素より不和」

373 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:23:49.42 .net
>>364
大和水銀鉱山

374 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:25:14.69 .net
ピーミーホとピーミーコーホがもとより不和とか
大倭王の位でも争ったのかねえ

375 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:25:45.23 .net
>>371
>半島系固有DNAの分布

それ、現代でしょ?
今の東京も外国系多いかもね

376 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:27:14.68 .net
>>367
考古学にひとことも触れない考古学者って(藁

377 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:28:45.13 .net
後漢書と魏志のほとんどをデマとするのに邪馬台国と卑弥呼の名前だけは奈良と言い張る考古学w

378 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:29:42.90 .net
考古学的に金印か卑弥呼の文字でも出てきたのならまだしも
何か纏向で出ましたかね?

379 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:34:06.55 .net
>>377
考古学者はそのようなことを言わない
魏志倭人伝だけでは邪馬台国の場所を比定することが不可能なので、物的証拠も合わせて考えるべきであると言っている

380 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:36:37.50 .net
>>374
そらそうだろ
本来男王のはずが卑弥呼に取られたら仲も悪くなる

381 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:36:49.66 .net
卑弥呼と卑弥弓呼
対になる同格の称号
→同じ言語圏文化圏
素より和せず
→個人間にエピソードある、関係が近い、居所も近い、血統が近い

卑弥呼を纏向にした場合、卑彌弓呼の狗奴国を東海には設定できない。
畿内の人間が遠く離れた東海の首長を卑彌弓呼などと呼ぶはずはない。

382 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:38:12.29 .net
>>379
物的証拠ってなに?   @阿波

383 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:39:36.82 .net
>>382
伊勢遺跡だよ

384 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:40:25.25 .net
>>382
鏡やら古墳やら

385 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:42:33.15 .net
>卑弥呼を纏向にした場合、卑彌弓呼の狗奴国を東海には設定できない。
>畿内の人間が遠く離れた東海の首長を卑彌弓呼などと呼ぶはずはない。

どうして?
天武の勢力基盤はどこ

386 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:42:34.65 .net
>>381
そうだね
卑弥呼を九州の人としたら卑弥弓呼も九州の人。
卑弥呼を畿内の人としたら卑弥弓呼も畿内の人。

387 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:44:05.92 .net
>>384
600枚以上出る鏡w
全長ではなく短い辺の長さを記録された古墳w

388 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:44:34.11 .net
>>383
それがどうした?   @阿波

389 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:46:08.42 .net
>>384
>鏡やら古墳やら

そんなものなら、「阿波」で確定するぞ。   @阿波

390 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:46:08.39 .net
>>387
600面も出た結果、畿内説が確定した

391 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:46:16.70 .net
https://i.imgur.com/1Dpk5Ae.jpeg
火見王ピミホ
火見狗王ピミコホ
もとは同族で大倭王の位を争ったかもしれない二人

392 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:47:20.61 .net
>>390
考ww古ww学www

393 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:48:40.18 .net
>>386
九州と比較すると東海なんて近いよ
そんなんじゃなくてもっともっと近しい関係

394 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:49:31.56 .net
通説畿内説はほとんど三角縁神獣鏡で構成されていると言っても過言ではない
九州説の皆さん、この鉄壁の三角縁神獣鏡を破綻させてみて下さい

395 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:50:12.62 .net
>>393
>そんなんじゃなくてもっともっと近しい関係

だから、阿北と阿南 だと、何度言えばww   @阿波

396 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:50:22.28 .net
>>378

【お知らせ】発掘調査結果報告(2024年4月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のものと主張)
・ゴキブリの羽のかけら

397 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:52:23.36 .net
>>394
>通説畿内説はほとんど三角縁神獣鏡で構成されていると言っても過言ではない

なんで全国から出る「三角縁神獣鏡」が畿内となるんだ?   @阿波

398 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:52:42.83 .net
>>396
・吉野ヶ里に邪馬台国の遺物は存在しない
・布留1祇園山古墳を認めるなら畿内説で確定である

399 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:53:16.07 .net
>>397
畿内から配布されたことが明白だから

400 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:54:14.82 .net
>>398
>吉野ヶ里に邪馬台国の遺物は存在しない

しかし、「阿波」の遺物が存在する。   @阿波

401 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 18:54:58.88 .net
>>399
それなら「阿波」だ。   @阿波   

402 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:02:21.73 .net
>>396
明らかに同じ勢力圏じゃない九州の各地からかき集めないと邪馬台国と結びつく遺物がろくにないので九州説は支持者を失なった

403 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:08:28.79 .net
巨大前方後円墳も三角縁神獣鏡も魏志倭人伝に一言も書いていないので、邪馬台国の物的証拠には理論的になり得ない

その後の歴史と重ね合わせれば初期ヤマト王権の状況証拠にはなり得る

404 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:10:37.23 .net
>>403
>その後の歴史と重ね合わせれば初期ヤマト王権の状況証拠にはなり得る

なら、「阿波」だな。   @阿波

405 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:13:25.36 .net
紀年銘鏡が出てるから九州説は終わってる

406 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:15:14.09 .net
畿内説は「邪馬台国=ヤマト王権」の結論が出発点で文献解釈も考古学の解釈もその結論ありきの逆算である(例えば魏志倭人伝の地図は90°傾いている、などの類)から、纒向がヤマト王権発祥を示す遺跡であれば彼らの脳内では自動的に纒向=邪馬台国ということになる

一方、九州説は魏志倭人伝の方角(邪馬台国は伊都国・不弥国の南など)、距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里など)、文化(鉄鏃・絹・有棺無槨など)などから邪馬台国は北部九州と推測するが、たった二千文字で甚だ簡潔な文章のため特定の場所・遺跡にまでは絞り込めず候補が複数になる 

畿内説論者が九州説の候補地が多いことをしばしば批判するが、それは上記のように畿内説と九州説のそもそもの成り立ちの違いに起因する

逆に九州説から見れば、畿内説がその根拠と主張するものは、どれもどれもヤマト王権の根拠であって邪馬台国の根拠では全くない
畿内説が出発点とするヤマト王権=邪馬台国それ自体が証明すべき仮説でしかない

407 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:15:54.59 .net
編年を100年ずらさないと成立しない九州説は終わりました

408 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:17:37.33 .net
>>406
纏向に都合が悪い魏志や後漢書の記述は全てデマにされるからな

409 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:19:09.99 .net
魏志と後漢書から、邪馬台国は畿内であることが確定

410 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:19:21.25 .net
>>408
だって箸墓が卑弥呼じゃないと困るんだもん

411 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:21:18.25 .net
>>408
彼らは未証明の仮説を結論と決めつけて全てそこからの逆算で考えるからね
魏志倭人伝や記紀に畿内説に都合の悪いことばかり記述されているので、彼らは魏志倭人伝や記紀は信用出来ないとして考古資料の勝手解釈によって文献とは異なる歴史を半ば捏造する

412 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:21:56.20 .net
畿内自生説とアンチ畿内自生説の戦いこそが邪馬台国論争の最大の見せ場

413 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:23:15.25 .net
>>406
短里なんて編み出しといてよう言うわ

414 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:25:34.79 .net
>>413
短里は魏志韓伝と倭人伝の一里を地図と照らし合わせて計算すれば誰でも(余程知能が低い人は別)確認できる客観的事実

415 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:27:16.70 .net
>>414
逆算するんだから合うに決まってるんだけどさ

416 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:28:07.98 .net
寺澤は帥升は九州奴国の王であるとする一方、岸本は帥升も畿内の王である可能性を排除してない
現時点では、寺澤に1票であるが、岸本の主張も聞いてみなければならない

417 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:31:18.63 .net
かつては九州説と言われた東京大学も三角縁神獣鏡の論文を2022年に出している
もちろん、九州説とかいうのは排除された論文です

418 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:32:30.19 .net
奴国2万戸なんて集落じゃない
伊都国の20倍もあるし広大な領土
こういった矛盾にも目瞑ってるよね

419 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:33:32.97 .net
>>415
はあ?
魏志韓伝には概ね300km四方の三韓地域を方四千里と記載しています
この時、一里は何mでしょう?
ここには恣意も逆算も入る余地はない
(強いて挙げれば、300km四方を例えば280km四方と考えることで少し誤差が出るくらいだ)

420 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:34:12.07 .net
>>417
東大がそんなに偉いのかね?
だったら君は私にはひれ伏さないとダメダね

421 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:34:58.25 .net
卑弥呼が魏から大量のオタカラを貰ってくる

魏帝の指示通りに「見せびらかして」魏の後ろ盾が厚いことを諸国に自慢する

そんな噂を聞いた東倭種の酋長が「わても負けてへんで」と独自の鏡を作ってばら撒き戦術にでる

600枚以上出土

422 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:35:25.10 .net
九州説の皆さんが大好きな寺澤先生や久住先生も、「奴国を上回る勢力を九州内に求めることは不可能」としている
久住は2日前ぐらいにもそれをツイートしている

423 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:36:27.26 .net
>>419
何がおかしいのかわからんが水行7千里ならそんなもんでしょ

424 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:37:37.28 .net
>>422
大きな国が邪馬台国というのは戸数からくる錯覚にすぎんよ
そしてそんな戸数の国は日本列島のどこを探しても存在しない

425 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:38:51.61 .net
>>421
同笵鏡の存在から九州説不成立

426 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:40:25.57 .net
>>381
>卑弥呼と卑弥弓呼
>対になる同格の称号
>→同じ言語圏文化圏

妄想が酷すぎる
卑弥呼と卑弥弓呼が日本語でどういう意味なのか説明できないくせになんで対になる同格の称号と言えるんだよ

427 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:41:43.50 .net
私は九州説で筑後山門説だが、人口や経済力や軍事力で山門が伊都国・奴国を上回っていたとは全く思わない
むしろ卑弥呼個人に宗教的カリスマ性はありつつも世俗的権力があまりないからこそ協調的な地域秩序のために各国の合意の下で共立されたと考えている

428 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:41:56.30 .net
>>426
邪馬台国の火見王ピミホ
狗奴国の火見狗王ピミコホ

429 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:42:05.15 .net
>>424
九州最強の奴国が、伝統的第X→筑前型庄内甕の成立→北部九州型布留甕の成立で在地系や楽浪土器を駆逐という状況も合わせると、
少なくとも、投馬国や邪馬台国を九州だけに設定することは限りなく不可能

430 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:42:45.04 .net
>>424
だったら奴国なんて無いんだよ

431 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:43:27.92 .net
>>427
つまり、魏志倭人伝の無視
あれだけ「畿内説は魏志倭人伝を無視している」と言っていた九州説様の魏志倭人伝無視

432 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:44:01.48 .net
>>430
意味不明

433 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:46:24.69 .net
>>432
千、二万、千なんて並びがおかしいでしょ?
そんな国存在しないんだよ

434 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:46:24.91 .net
九州は女王国の伝統を引きずり、女王邪馬台国から男王大和国に変わった景行天皇〜神功皇后に成敗されたわけ。真の卑弥呼の後継者は宇佐神宮の神功皇后。

435 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:46:28.77 .net
大陸との外交や鉄の輸入を取り仕切る伊都国ヘゲモニーに反発した北部九州各国が、2世紀後半に軍事力や外交力があまり強くない邪馬台国の卑弥呼を共立したのが魏志倭人伝に記述されたことの実態であろう
私はこれを機に伊都国の王族の一部が東に向かったのが神武東征と考える

436 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:46:45.19 .net
>>433
根拠なし

437 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:47:02.16 .net
>>426
>妄想が酷すぎる
>卑弥呼と卑弥弓呼が日本語でどういう意味なのか説明できないくせになんで対になる同格の称号と言えるんだよ

違う言語圏の対立する国で
どうしてトップの個人名が一文字違いなの?

思考力がにぶいのでは?

438 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:48:40.25 .net
>>435
九州人が纒向に移動した痕跡が見られない

439 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:48:48.01 .net
>>436
千の国が二万と戦えるわけねえじゃん
独立を維持するのは不可能

440 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:49:11.39 .net
>>438
三種の神器を畿内に持ち込んだかもしれん

441 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:49:35.39 .net
>>424
>大きな国が邪馬台国というのは戸数からくる錯覚にすぎんよ

戸数の記載、多いけど?
倭人伝がウソ書いてるという説?

九州説って倭人伝無視?

442 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:49:37.15 .net
>>439
妄想

443 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:50:10.06 .net
ニニギノミコトが「韓国に向いた良い土地」である筑紫の日向の(伊都の)クシフル岳に天下ったのは、皇室の祖が伊都国から来た史実を反映していると考える

444 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:50:18.11 .net
>>441
じゃあ七万戸の邪馬台国はどこですか?

445 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:50:45.02 .net
>>440
>三種の神器を畿内に持ち込んだかもしれん

つまり「九州人が纒向に移動した痕跡」と言えない

446 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:50:48.61 .net
>>444
日本だよ

447 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:51:28.52 .net
>>440
三種の神器などという統計学的に成立し得ないもので、九州人が纒向に入ったと見るべきではない

448 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:51:37.97 .net
>>444
>じゃあ七万戸の邪馬台国はどこですか?

畿内

449 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:52:39.62 .net
銅鏡などの豪華な副葬、三種の神器などヤマト王権には伊都国からの影響が見られる
さらに寺澤薫は纒向の部族制国家の仕組み、北條芳隆は纒向の農事暦がそれぞれ北部九州から来たと考える

450 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:53:28.39 .net
ヤマタイコク=ヤマトオオコク

単純にこれだよな

451 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:53:32.63 .net
>>437
>違う言語圏の対立する国で
>どうしてトップの個人名が一文字違いなの?

文字は中国が勝手に付けたただの当て字だろ……

452 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:53:53.91 .net
>>448
ちがうな
日本、古の倭奴国だ

453 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:54:38.33 .net
久住猛雄も纒向の埋葬儀礼は伊都国の影響が強く伊都国がヤマト王権樹立に関与していると言っている

454 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:54:58.69 .net
>>449
伊都国の影響が見られるのは確かだが、九州人は纒向に来てない
伊都国の影響を受けた吉備の人が纒向に入った可能性なら、寺澤の言う通り排除できないであろう

455 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:56:36.49 .net
>>453
そんなこと言えないでしょ
政治性を伴わない文化的影響かもしれない

456 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:58:31.90 .net
>>454
だから伊都国の王族が吉備を経由してその勢力の協力を得て奈良盆地東南部を征服したのが神武東征伝承の実態だろう

457 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 19:59:15.12 .net
>>448
主語デカすぎてお話にならん

458 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:01:45.07 .net
>>449
寺澤薫は九州色が薄いから九州からじゃないと明言してるけど?

459 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:02:10.82 .net
>>455
土器が政治的支配下の証拠だと執拗に主張する人はいるね

460 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:02:27.73 .net
邪馬台国が畿内であることは疑いようがない
「主語がでかい」などというAbema用語では否定できない

461 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:02:42.15 .net
>>457
>主語デカすぎてお話にならん

あなたの日本語、日本人にわからない

462 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:03:34.18 .net
頂上決戦、畿内自生説vsアンチ畿内自生説

463 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:03:40.13 .net
>>460
結論が先に固定されてそこに至るまでの全てを都合よく取捨選択する典型的な畿内説的思考

464 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:03:57.76 .net
卑弥呼の時代もしかするとそれ以前かも知れんが朝鮮半島は倭人居住地だった
中国は半島と列島を合わせて倭と呼んでいた
極南海の列島を特に倭奴国と呼んでいた
その後朝鮮三国が独立して日本が領土を失って日本列島だけを指して倭と呼ぶようになった

465 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:04:42.24 .net
>>459
>土器が政治的支配下の証拠だと執拗に主張する人はいるね

それは当然圧倒的多数派の考え方
首長の葬送祭祀が畿内式になるということは、そういうこと

466 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:05:01.87 .net
>>463
元は九州説なので、それは間違い
俺もトナカイも元は九州説

467 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:06:20.52 .net
>>464
>中国は半島と列島を合わせて倭と呼んでいた

島国と明記してますが

468 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:10:12.73 .net
>>451
>文字は中国が勝手に付けたただの当て字だろ……

1音節1文字で聞き取っている

469 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:10:21.06 .net
>>458
それは私が読んだものと違うね

470 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:10:43.72 .net
寺澤は吉備東遷説だろ

471 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:11:37.91 .net
九州説には
 1根拠のない思い込み
 2ただのウソ
以外に分類できる主張がない模様

472 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:13:00.65 .net
>>467
おそらく卑弥呼の時代よりもっと以前
だって倭の北岸とか倭と接するとかどう考えても半島を倭と言ってるでしょ?

473 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:13:14.65 .net
このスレッドにいるスーパー素人の九州説の皆さんが、やっと定説畿内説の領域に来れたように感じる
後は、九州人がどれだけヤマト王権に影響力を持ったかの争いになると、畿内説スレッドとしては良いのではないでしょうか?

474 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:13:43.93 .net
>>469
>それは私が読んだものと違うね

あなたの読んだものの書名と当該文章を書いてね

475 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:14:10.17 .net
>>473
それただの寺沢

476 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:14:59.65 .net
今の所、伊都国東遷説はノンプロの岡上だけ

477 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:16:53.44 .net
>>472
>だって倭の北岸とか倭と接するとかどう考えても半島を倭と言ってるでしょ?

北岸とは対岸のこと
釜山と対馬は接している

478 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:17:17.00 .net
九州の都が伊都国

同じ九州に都が2つあるという事は無い

479 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:19:40.61 .net
久住は、伊都国には王がいる説を採用しているな
そのように最近ツイートしてる
誰か、久住のアカウントに「親魏倭王卑弥呼」もいて、伊都国にも王がいるのはおかしいと思いませんか?と聞いてくれ

480 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:21:18.92 .net
>>477
海で隔ててるだろうがよ
しかも東西は海で南は倭と接すると書いてるんだから

481 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:21:54.24 .net
>>479
通説を「おかしい」なんて誰がいうの?

482 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:23:13.93 .net
>>481
半島には王がいないのに、なぜ倭国には王が2人もいるの?

483 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:23:27.43 .net
>>480
>海で隔ててるだろうがよ

隔ててたらなに?
接してるでしょ

484 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:24:18.11 .net
伊都国の王は名前がない
本当にいたのか?

485 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:25:10.61 .net
>>483
>北岸とは対岸のこと
これがそもそもおかしいだろうがよ
おまえは北岸=対岸なのか?

486 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:27:53.53 .net
>>485
>おまえは北岸=対岸なのか?

中国では一般的にそう

487 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:29:23.43 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

488 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:29:25.43 .net
>>486
聞いた事ないわ
対馬の北岸が朝鮮半島なのか?

489 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:30:17.47 .net
>>482
>半島には王がいないのに、なぜ倭国には王が2人もいるの?

倭国には王はひとりしかいない
伊都国は別の国
だって女王国に含まれないでしょ

490 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:30:53.20 .net
九州説の皆さんもこのスレッドでは、ひとまず畿内説になって話をしてみてくれませんか?
九州説の皆さんは、畿内自生説を倒す役回りをすると。
これをすることでもちろん九州説の皆さんは畿内説になってしまうんですけど、真実に辿り着けますよ

491 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:31:07.38 .net
>>488
>聞いた事ないわ

無知だから

492 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:32:00.89 .net
>>491
朝鮮半島は対馬の北岸て事なんだよな?

493 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:33:27.43 .net
>>484
>伊都国の王は名前がない

ないんじゃなくて書いてないんでしょ
倭国じゃなくて付庸国だから

494 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:34:13.44 .net
>>489
伊都国は明確に倭国である
漢委奴国王(漢から委奴国王に下賜された)金印である

495 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:40:47.72 .net
卑弥弖呼でヒミテコだろ

496 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:47:06.13 .net
奈良盆地の南大和に大和の起源があるのも興味深い
神武天皇が未開な部族を制圧した東方征伐のすえ
南奈良盆地の橿原市で神武天皇が日本国を興したのも象徴している
そして南大和から文化程度が劣る遅れた北へ北へと北の平地を
開拓していった日本の歴史も興味深い地下水脈だ

497 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:49:22.23 .net
>>494
>伊都国は明確に倭国である
>漢委奴国王(漢から委奴国王に下賜された)金印である

つまり倭国王じゃない

残念でした

498 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:50:09.03 .net
>>496
マジですか?

499 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:51:24.02 .net
>>497
>>464

500 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:54:01.16 .net
>>498
本当だ
南部奈良盆地の橿原市の歴史をググッてみればわかる
事実の事象だ

501 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 20:59:35.53 .net
>>499
空想聞かされてもねー

502 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:07:59.66 .net
>>501
完璧な論理構成だろ

503 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:13:41.83 .net
九州説に論理はない
欲望があるだけ

504 :琪瑛教大祭酒:2024/04/18(木) 21:15:54.92 .net
王が二人居ようが三人居ようがおかしくない
隋書、宇佐に秦王国があるんだよ、倭に属し当然王国であるからには王が居たんだろ。
吾輩は神武が居たと思うぞ

505 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:16:52.31 .net
寺澤は伊都国中心の倭国すなわち「イト倭国」が大和に遷都したと見る
岡上は寺澤の受け売り

506 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:17:29.35 .net
>>505
以下の記事参照
https://www.sankei.com/article/20220203-WO5PBIS6HZMNVJFJEMX6V4C45Y/

507 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:19:51.94 .net
自称王なんか何人いてもいいだろ

508 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:21:51.43 .net
北條芳隆も初期ヤマト王権が北部九州から奈良盆地東南部に本拠地を移し、これが神武東征伝承に繋がったと見る

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02

「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」

509 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:23:56.75 .net
>>505
>寺澤は伊都国中心の倭国すなわち「イト倭国」が大和に遷都したと見る

遷都とは違うな
「イト倭国」は解体して「新生倭国」が出来たんだから
別の国だ

510 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:25:34.49 .net
久住猛雄も伊都国がヤマト王権の成立に伊都国が関与していたと見る

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」

「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」

「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」

511 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:26:35.31 .net
>>503
俺は伊勢遺跡説であって九州説じゃないから
投馬国五万戸は大国で邑じゃ無いから

512 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:26:53.99 .net
>>508
これは論理として欠陥があるね
暦なんて文化は新興国が学んで当然だから

513 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:29:15.76 .net
>>510
学者が全員消えた九州説が
畿内説の学者に寄生する構図

514 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:43:55.25 .net
>>513
私の北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説は最近主流になった畿内自生説批判派の考古学者(寺澤・北條・松木・久住など)と理論的にはすこぶる相性がいい

彼らの見解を讀めば詠むほど私の説(伊都国→東征してヤマト王権に発展、筑後邪馬台国→北部九州に残って田油津媛の代で滅亡、ただし北部九州倭国としての完全な滅亡は磐井の乱)をサポートしてくれてるんじゃないかと思うほどだ

ただ残念なのは、旧山門郡地域は田畑が広がるため殆ど考古資料の発掘がなされておらず考古学的根拠に乏しいことだ
このため筑後山門説は考古学者の支持が得られにくい

しかし、証拠がないことはなかったことの証拠ではない
Absence of evidence is not evidence of absence.

515 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:45:04.02 .net
しかしなんのために九州北部から辺境の纏向に東遷したのだらうか?
江南に移った晋のように異民族の圧迫だらうか? 
九州北部を繁栄させたのは楽浪郡、諸韓国との交通の利得によるものだらうが、その地政学的な優位性を全て捨て去ってまで内陸奥深くまで遷ったのはどういう理由があってか?

516 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:45:36.77 .net
>>514
読めば読むほど、が変な変換をしていた

517 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:54:24.25 .net
伊都国は2世紀に原の辻三雲貿易を仕切り、日本列島への鉄輸入を押さえていた
こうした伊都国の強権に対する周辺諸国の反発が倭国乱に繋がり、伊都国ではない国(筑後邪馬台国)の巫女女王の共立に繋がって、伊都国の王族は東征したのだと考える

こうした経緯で、代々王がいたはずの伊都国に魏志倭人伝記述時点では王がいない(残ったメンバーで卑弥呼共立を容認)という状況になったのだろう

またこうした流れを受け、日本列島と大陸との貿易も、原の辻󠄀三雲貿易から博多湾貿易に移行する

518 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 21:58:26.64 .net
倭国大乱になった経緯が大倭王の不在だからそのタイミングで統治者一族の移動があっても不思議はないだろうな
しかしそうすると大乱→新大倭王の共立があったのは大倭王が不在になった旧地域ということになるが

519 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:00:07.40 .net
まあ邪馬台国九州説が死んでることには変わりない

520 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:02:52.15 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

521 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:04:00.17 .net
>>1さんのテンプレをまず読んでスレに参加すべきだな
おおよその難癖はテンプレでクリアされている
九州説信者の参加も拒否しないが最低の礼儀は守るべきだ

522 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:05:44.04 .net
テンプレは読んだがちっとも賛成できない
畿内自生説批判派考古学者の意見の方が圧倒的にしっくりくる

523 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:06:07.73 .net
>>521
>九州説信者の参加も拒否しないが

九州説となら、トンデモ同士互角に戦えるからな。   @阿波

524 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:07:18.77 .net
日本人の祖先、3系統か 理研、ゲノム解析で新説
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO80092980X10C24A4CT0000/

な、どんどん古墳時代のカオスが明らかにされつつある
4世紀の大和王権の脆弱性はもはや否定できなくなっている

525 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:09:15.32 .net
中国の正史 魏書 第三十巻収蔵『 魏志倭人伝 』によると

女王邪馬台国の以北には、一大率を置き北方諸国を検察し
小国が群がるの北方の人々は邪馬台国から派遣された駐留軍を怖れ憚る。
常に伊都国で植民地にする北方諸国を治める。北方に於ける視察官の如く有り。
卑弥呼女王が中国皇帝に使を遣わし、(中国の)京都、帯方郡、諸韓国を巡って
中国の統治機関あったの韓国半島の群から倭国に物資を送る時、港で物資を検閲する
また倭の国々を統治する邪馬台国の女王卑弥呼に、多くの倭の国々は
邪馬台国を宗主と仰ぐ文書、賜遺の物を献上するが数が多すぎて手違いが起こりやすい。

と中国側の正史魏志倭人伝に記録されてあるけど
どう考えても南九州に倭国の最高峰邪馬台国が君臨してたとしか考えられない

526 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:12:13.50 .net
>>524
九州説はいつも学者の言ってることの正反対

527 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:12:28.97 .net
キタは当時の言葉で西のこと
畿内の邪馬台国が西の九州に地方官を置いていたという話

528 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:15:21.27 .net
>>524
縄文系、弥生系、古墳系ではなく
沖縄縄文系、関西黄河流域系、東北由来不明系なのか

529 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:15:39.40 .net
遷都かどうか分からんよ
ただの拠点かもしれんし
そういうところが各地にあったのかもしれんし
南の邪馬台国もそのようなものだったかもしれんし

530 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:17:16.09 .net
大和って伊都国から伝送して返信するのに時間かかりすぎない?

531 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:19:36.09 .net
纏向は計画巨大都市だからな
内乱を経て女王を共立した「倭国」とはまったくの別物だから

532 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:26:32.22 .net
別物って理由ないよな

533 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:27:13.13 .net
全ての謎は不弥国にある。
旅程記事の中に記されているのだから、単に国名を紹介したのではなく、女王国に至る途上の国として魏使が実際に訪れている集落である。
比定地としては、宇美町とされることが多く、そこから水行20日で投馬国だが、河川の移動は『泝』という文字を使うのが一般である。となると不弥国を宇美町とすることは苦しくなる。では『水行』を海上移動とすると、不弥国は海に面した国であり、その港から海上を移動したことになる。北九州市あたりと考えれば『南』に水行することも可能だろう。100里で奴国、100里で不弥国とする記述からは、伊都国から離れすぎてる気もするが国の境から国の境の間を100里として、奴国を広大な領域の国とすればなんとか行けるのか。
しかし、不弥国を九州北岸の国とした場合、なぜ魏使は伊都国から不弥国まで陸行したのかが分からなくなる。
それとも末盧国や伊都国の場所を通説と変えていくという手もある。末盧国を宗像あたりにしたり、伊都国を吉野ヶ里あたりにすれば、不弥国の比定地もまた変わってくる。不弥国を周防灘に面した国と考える人もいるかも知れない。しかし末盧国を名護屋か唐津、伊都国を糸島郡深江、奴国を那珂郡博多とする通説に反するのは難しい。
いずれにしろ、不弥国の位置が皆目分からないのである。わかってる人は天才であろう。

534 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:28:23.16 .net
>>530
>大和って伊都国から伝送して返信するのに時間かかりすぎない?

それは律令時代の奈良の都も変わりない

535 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:30:43.95 .net
邪馬台国の女王・卑弥呼と常に仲が悪かった狗奴国の王である卑弥弓呼の子が

九州から逃げるように天皇家の祖としてまだ閉ざされた地の畿内に進出した訳よ

536 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:42:15.56 .net
邪馬台国は、うてな遺跡です。

537 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:46:02.69 .net
>>535
凄い着眼点だね
謎だったパズルのピースがどんどんハマっていく!

538 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 22:53:21.21 .net
おーい山田君!ノーベル賞1枚!

539 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:07:12.57 .net
>>534
ずっと後の時代と同じだから問題ないというもよくわからん
船の歴史は知らんからなんとも言えんが、多少大きくなり途中の停泊回数も少なくなるだろうし、陸上なら馬の導入、道中の国々の安全度だとかは違うだろうに

540 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:09:29.81 .net
3世紀の航海は地上の山や海岸線などから目を離さずの海岸水行だった。
だから韓国は東に行ったり南に行ったりして忙しい。
それを考えれば九州北部を散策してのち、山陰や畿内に行ったとしても別に不自然ではない。
船を係留して上陸したというのも普通にあっただろう。

541 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:14:01.64 .net
>>539
>ずっと後の時代と同じだから問題ないというもよくわからん

干満を使う内航はいつの時代も船速が同じ
つまり所要日数も同じ

542 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:15:40.57 .net
帯方郡から伊都国に先進国の船がやってくるようになったのは何時からだろう?

543 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:16:07.38 .net
旧唐書   四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之

544 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:21:38.43 .net
>>540
九州で成立した邪馬台国以前の1世紀前から韓国及び朝鮮は
倭人達に格下扱いされ幾度も九州の倭人達から攻められている
韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

545 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:24:06.14 .net
>>544
半島に居た倭人じゃないの?

546 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:26:16.26 .net
>>545
それより何百年前の話

547 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:27:05.93 .net
>>546
鉄鉱石掘ってた倭人

548 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:29:16.96 .net
>>544
さすが倭人達は周王朝の子孫を名乗るだけはあるわ

549 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:45:52.68 .net
>>544
九州説は妄想が好き

550 :日本@名無史さん:2024/04/18(木) 23:55:12.65 .net
>>549
本当にあったお話
物事の真理が見つける簡単だ
何故なら道端の小石のようにありふれて存在してるから
ただ難しいのは腰の屈め片が大変難しく
光を放つ小石を掴むことが出来ないんだよ

551 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 00:02:59.98 .net
その後、4世紀の終わりに高句麗に叩きのめされ
馬を船で大量輸入するヤマト王権

552 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>544
お前マジで頭悪いな
奈勿尼師今以前の三国史記の紀年信じるって、応神以前の日本書紀の紀年信じるのと同じくらいやべえぞ

553 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
三国史記に1世紀の出来事だと書いてあるから1世紀って、神武天皇即位をガチで紀元前7世紀だと思ってるやつと同レベルくらいの馬鹿だぞ
明治時代には明らかにされてることくらい知っておけよ

554 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 02:10:44.17 .net
それができれば九州説やってない

555 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 03:08:07.92 .net
荒らしバカウヨがバカスレ建てまくってるな

556 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:06:01.86 .net
>>514
筑後どころか、九州に邪馬台国はない
寺澤、久住ともに九州説を完全に否定している

全く何も出土しない筑後とかいう場所に邪馬台国を設定することは不可能

557 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:11:09.21 .net
全く何も出土しないという不自然な状況が生まれたのは
東遷があったからなのかそれとも略奪でも起こったのか

558 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:24:11.32 .net
筑後から何も出てこないのは単に伊都国、奴国より格下だから

559 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 06:24:57.32 .net
>>514
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i3b5e71975bf08591/version/1632178351/image.jpg
ほぼ海だった山門に大国があった訳ないだろ

560 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:08:29.30 .net
>>172
畿内説が「何もない」「海の底だった」とする筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう不思議w

561 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:15:32.12 .net
吉野ヶ里遺跡…魏志倭人伝に完全に符合する4点セット(宮室・楼観・厳設城柵・邸閣)がすべて揃った日本で唯一の遺跡
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

562 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:25:42.46 .net
>>561
吉野ケ里遺跡の4点セット(宮室・楼観・厳設城柵・邸閣)は2世紀には途絶えているのでは?

563 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:27:28.47 .net
>>560
畿内説は根本的に(南→東)間違えてるんじゃないの?w

⇩魏志倭人伝・行程の正解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

564 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:28:57.26 .net
>>560
>畿内説が「何もない」「海の底だった」とする筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう不思議w

そりゃ「筑後に、卑弥呼の王宮が出てしまう」とかいう荒唐無稽な空想は不思議だ

565 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:29:54.27 .net
>>562
またまた畿内説の(筑後毀損)印象操作、乙!w

3世紀に下ることが明らかになってる
http://www.qsr.mlit.go.jp/yosino/p2_jigyougaiyou/p2-1_gaiyou.html

566 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:30:47.14 .net
>>561
吉野ケ里の人口1200人
ほぼ全員が侍女だったのか

567 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:32:11.27 .net
>>566
5500人だから奴婢1000人にピッタリだろ

568 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:33:45.43 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

569 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:35:43.34 .net
>>567
7万戸あったんじゃないの?

570 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:09.62 .net
>>565
3世紀頃ってなによ?
箸墓も3世紀頃だろ?

571 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:13.97 .net
>>569
邪馬台国(筑紫平野)全体でね

572 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:36:51.83 .net
>>570
>>568

573 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:37:13.35 .net
吉野ケ里遺跡は遺跡周辺ふくめて5500人くらいの試算だから、
1100戸

574 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:37:32.10 .net
>>571
吉野ケ里一帯のクニの人口5400人ですけど

575 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:38:33.18 .net
>>571
吉野ケ里遺跡で1100戸だと、
大部分が海だった筑後平野全体でも7万戸は無理。

576 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:39:08.06 .net
>>574
だから筑紫平野の他の国々に共立されたんだよ

577 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:39:23.17 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

578 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:40:18.93 .net
>>576
吉野ケ里遺跡で1100戸だと、
大部分が海だった筑後平野全体でも7万戸は無理。

579 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:41:06.50 .net
>>576
人口の基となる集落遺跡が碌にないんだから、お話にならん。   @阿波

580 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:41:07.71 .net
>>577
考古学的に日向投馬国などというものは存在しえない

581 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:42.83 .net
日向投馬国もありえんな

関門海峡は元々陸続きであった

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

582 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:45.66 .net
>>173
>>175
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(海の底)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

583 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:42:49.77 .net
吉野ケ里遺跡からは銅鏡など威信材がわずかしか出土しない。

584 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:45:15.79 .net
>>568
魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗は菊池彦では無い

585 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:46:41.41 .net
吉野ヶ里から卑弥呼が魏帝から貰った「五尺刀」が出土
https://www.youtube.com/watch?v=O99uzTMAi2I

586 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:47:26.21 .net
つまり畿内説は全て作り話をもとにした作文であり史書の邪馬台国とは無関係でしたと

587 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:47:45.79 .net
>>582
>魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や小細工は一切必要ないからねw

お前のそういう印象操作や小細工は目にあまる

588 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:48:20.71 .net
>>583
その威信材というのも何の根拠も無い作り話だから

589 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:48:43.48 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

590 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:49:13.13 .net
>>587
畿内説という作り話の塊からすりゃ九州説は妥当な説だ

591 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:49:48.78 .net
「帯方郡から12000里(900?)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850?)。

残り700里(50?)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50?でピッタリです!

592 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:50:08.95 .net
>>584
南ではないから東にしたんだと思ってる
だから毛人

593 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:50:53.65 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

594 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:51:21.66 .net
>>590
ましだってか?
それやめて

595 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:53:58.35 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

596 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:55:58.22 .net
>>559
その地図で海とされる場所から縄文遺跡も弥生遺跡もバンバン出ているから間違い乃至時代が違うことが確定済

前にも論破された地図を何度も出すのは馬鹿のやること

597 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 07:58:37.28 .net
>>577
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

598 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:06:36.73 .net
祇園山古墳…卑弥呼の墓(葺石は後世の追加。布留1式、須恵器、三角縁神獣鏡は後世の御霊追葬儀礼に伴うもの)
那珂八幡古墳…1号主体(男弟)2号主体(台与)の墓

599 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/19(金) 08:18:05.73 .net
俺が推測する日向を投馬国にしたい人の感覚

?ヤマト王権と邪馬台国を別物にしたい
?ヤマト王権の本貫地を宮崎にしたい

この二つから日向投馬国という発想が出てくるのだろう

まず?は論外だな。ジャップが中華の臣下になった歴史は否定できない。
そして?だが、オレはヒムカが宮崎県である可能性もゼロとは思っていない。

もし宮崎をヤマト王権の本貫地にしたいのなら、弥生末期の宮崎人が増えすぎた人口を減らすため部族の一部を民族移動させて屈強な隼人兵を使って畿内を制覇して分国を建てたというストーリーを構築しなければならないが、考古学的証拠からこれはちょっと無理がありすぎる

似たような例として古代にスカンジナビアから対岸のヴィスワ川流域に移住したゴート族がウクライナで王国を作った話があるから可能性ゼロではなかろうが、その証拠がないからな

600 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:20:27.09 .net
>>598
247年より少し後の布留1式や三角縁神獣鏡から須恵器まで幅広い期間、その御霊が追葬され続けていた王となると、よっぽど人々の記憶に残る偉大な王だったのだろう。
一体誰なんだろう?w誰かしら?www

601 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:21:51.48 .net
>>599
秀吉や日帝時代のことは謝るから(本当にすまん!)。頼むから国に帰っておとなしくしててくれ!w

602 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:25:25.25 .net
「環濠集落」はwikipediaにも項目が設けられている弥生時代を通じて九州から関東地方にわたって築かれた濠で周りを囲んだ集落のこと
稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ普及したと考えられている
しかしこの環濠集落は
>2世紀後半から3世紀初頭には、弥生時代の集落を特徴付ける環濠が各地で消滅していく。この時期に、西日本から東海、関東にかけて政治的状況が大きく変わったことを示すものとして考えられている。(wikipedia)
ちょうど卑弥呼の治世にこういう現象が起きた
これが倭国大乱を経て卑弥呼を共立した倭国の政策として行われた 強い政治的なリーダーシップが無ければ発生しない現象
倭国乱後最重要課題は戦乱で傷んだ農業生産基盤の確保 軍事的な目的で閉鎖的な濠をめぐらした集落よりも、開放的な農業生産基盤が選ばれた

603 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:26:35.39 .net
>>599
関東大震災のことも謝る(本当にすまん!)
頼むからお国に帰っておとなしくしててくれw

604 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:27:02.60 .net
>>600
異常な気候変動の時期を雑穀栽培を普及させて生きながらえさせた「卑弥呼」=「大宜都比売命」=「天照大御神」   @阿波

605 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:28:49.65 .net
>>602
環濠を造るのをやめろとは言ってない
やっぱり必要が無くなったからでしょう

606 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:29:32.28 .net
>>602
サンクス!
つまり、3世紀中(247年〜266年)頃に何か大きな政治的な地殻変動が起きたとしか考えられん。

607 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:35:06.54 .net
環濠集落が無くなってきたのは遅くとも2世紀でしょう
唐子鍵とか一部に例外があるってだけで

608 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:38:03.90 .net
>>606
つまり筑紫邪馬台国女王台与がヤマト王権複立男王と並受中国爵命した266年になると全国統一されて、もはや戦争に備えた環濠の必要がなくなり、埋め立てられていったと考えられる

609 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:39:55.12 .net
卑弥呼の次の男王はなにわに降臨したアヂスキタカヒコネじゃないかな
鶴橋の近くに小橋や味原の地名が残る
沖津鳥の兵たちが駐屯した押し照るなにわの地
あちこちに出てくるアが何を意味するかわかればいいんだが

舟で国中を回るとはどういうことなのか
各地を転戦していたのか

610 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:40:27.81 .net
つまり畿内説は単なる妄想作文でしたと

611 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:40:48.68 .net
>>608
伊勢遺跡も纏向遺跡も環濠はない

612 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:46:55.65 .net
十拳剣、布都御魂との関係も気になる

613 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:48:44.53 .net
>>596
バンバン出てねーだろ馬鹿

614 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:49:46.27 .net
>>600
鬼道を能くして人々を惑わせていたお婆ちゃんでゎないかなw

615 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 08:53:01.94 .net
>>614
箸墓より下る布留1式、三角縁神獣鏡、須恵器のお供えで、今現在も人々を惑わせ続けているな

616 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:07:26.27 .net
>>602
卑弥呼とは別に強力な政権が誕生して環濠の意味がなくなったんじゃね?
狗奴国と対立していた地域は武装解除できねーだろ

617 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:15:02.48 .net
>>616
九州説の脳内って年代がぐちゃぐちゃだな
歴史に向いてないよ

618 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:17:45.15 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

619 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:22:01.95 .net
投馬国で詰んでる九州説

620 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:22:31.30 .net
纏向遺跡と同時期とされる2世紀後半からの彦根稲部遺跡にも環濠はない

621 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:24:25.21 .net
狗奴国で詰んでる畿内説

622 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:29:34.73 .net
>>607
確かに本州の環濠は2世紀でほぼなくなるねw

623 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:36:19.71 .net
そして吉野ヶ里遺跡では3世紀中(西暦266年)頃に環濠が埋め立てられるw

624 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:39:55.28 .net
鉄器時代を迎え栄えていた邪馬台国連合30国は戦乱に明け暮れ衰退期を迎えていたが、卑弥呼を女王として共立し再建を試みた
しかし異常気象による災害や飢饉に見舞われ、さらには狗奴国に戦争を仕掛けられ最終的に消滅したものと考える

【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

625 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:41:04.74 .net
>>621
狗古智卑狗は拘右智卑狗(魏略)の誤字で、菊池とは無関係
太平御覧では拘石智卑狗

626 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:42:35.64 .net
卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/iffb4769c22bc10da/version/1535966336/%E9%89%84%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg

627 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:42:58.59 .net
>>622
吉野ヶ里も3世紀には衰退してたんじゃないか?

628 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:44:46.13 .net
>>623
>>624
真実を出すなw
毎日必死で白を黒と言い張ってる畿内説が泣いちゃうだろw

629 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:45:41.72 .net
自演してて悲しくならないの

630 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:55:56.68 .net
>>627
吉野ヶ里だけで5500人もの集落を維持するのに、筑紫平野が海の底じゃ無理があることに気がづいた畿内説が必至ですw
>>559

631 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 09:59:46.96 .net
卑弥呼の時代だけ筑紫平野を海の底に沈める畿内説w

632 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:02:46.75 .net
よくさあ、単純に海面を上げ下げして古代の地形だとか言ってる奴いるけど、陸地で起きる侵食や隆起や沈降がそれ以上に変動が大きい事を知らない典型的文系だよな

633 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:11:46.72 .net
博多湾の志賀島に連なる岬にある弥生集落は北側が大きく侵食されて集落の断面が露出している
今は細い岬になってるが、弥生時代にはそれなりに広大な陸地だったわけよ

634 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:12:37.61 .net
>>561
魏志倭人伝に書かれていた「收租賦、有邸閣(租税米蔵)」があるってことは?w

635 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:16:31.15 .net
>>634
税は所定の倉庫に納めていたと書いてある
それに値する倉庫は吉野ヶ里で発見されている
対して纒向遺跡の想像図に描かれている倉庫は一般家庭の物置ほどの大きさしかない
まさか誇大妄想図だよアレは

636 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:22:57.49 .net
>>635
卑弥呼の都に邸閣が有るなんて倭人伝に書いてないけどね
そもそも纒向は農業村落じゃないから

637 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:24:09.66 .net
纏向遺跡で宮殿跡を発見!


良心的歴史学者「お、記紀に書かれる崇神天皇の纏向宮の実在が確認されたってことか、時代も3~4世紀でちょうど合致してるな」

邪馬台国キチガイ「(崇神天皇は完全に無視して)卑弥呼の宮殿!邪馬台国!畿内説バンザイ!!」

638 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:25:01.89 .net
狗奴国で詰んでる上に、楼観も厳設城郭もないから、白と黒と言いくるめるのに必死な畿内説w

639 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:26:09.11 .net
>>637
崇神天皇がそんな碌に鉄器さえも作れない奈良盆地に居るわけがない。   @阿波

640 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:39:26.98 .net
>>637
まともな学者は記紀アテハメごっことか普通しないけどね

641 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:39:41.21 .net
つまり畿内説は纒向しか掘ってないくせに纒向しか無いと断言してる井の中の蛙

642 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:45:05.91 .net
>>623
3世紀中(「倭女王」台与?が西晋に朝貢した266年)頃に何かあったんじゃないかな?
>>568

643 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:46:12.90 .net
>>613
小規模なものはバンバン出ている

644 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:49:32.26 .net
弥生遺跡も縄文遺跡も広範囲に出ている山門が卑弥呼の時代に海だったとか、畿内説はなぜ何度も何度も同じ噓をつき続けるのかね?

文献と著しく合致しない畿内説が考古資料を見誤ったら学説としての合理性が完全にゼロになるじゃないか

645 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:51:04.62 .net
畿内説にも九州説にも言えるが、頭の悪い奴がおかしなことを言えば味方が迷惑するんだよね
馬鹿は黙っていた方が良い

646 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 10:54:17.60 .net
>>175
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)、複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が少なくとも66体以上(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。

647 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:02:45.46 .net
畿内説にも九州説にも阿波説その他泡沫説にも言えるが、頭の悪い奴がおかしなことを言えば味方が迷惑するんだよね
馬鹿は黙っていた方が良い 。

648 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:13:26.14 .net
>>647
鏡を見よw

649 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:17:52.17 .net
>>646
魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗は誤字で菊池彦では無い

650 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:18:18.85 .net
つまり日本の考古学は古いものを好むマニアによる好古学というサークルであり極めて知見の狭い者達の寄せ集めですよと

651 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:21:03.18 .net
>>643
東海・関東には毛野・鬼怒川その他、狗奴系の地名は山ほどあるが、九州説は城野ぐらいしかコジツケできない

久野村(カテゴリ:同名の地名)
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久野城 - 茨城県牛久市久野町にあった城。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。

652 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:21:08.94 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

653 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:24:20.16 .net
>>651
コジツケご苦労だが、菊池彦は後の鞠智城だよw

654 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:24:48.65 .net
>>652
魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗は誤字で菊池彦では無い

655 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:25:50.69 .net
>>654
河内彦にしようと連投ご苦労だが、菊池彦は後の鞠智(城)だよw

656 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:26:23.93 .net
>>654
くだらん!   @阿波

657 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:26:59.38 .net
>>655
ちゃんと反論しようね

658 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:29:30.09 .net
右を石や古に誤写することはあっても、古を右や石に誤写することは無い

659 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:30:50.43 .net
>>640
魏志倭人伝あてはめごっこしてるやつがなんかいってる

660 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:31:42.22 .net
>>657
漢字の国の人が、古→右(石)とか、もう論外w

南→東って勝手に読み替えちゃう人ならやりかねないけどねw

661 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:35:45.99 .net
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉の口八丁に騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡千枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(4世紀の崇神纏向王宮)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ないし、魏使や張政が陸行一月したら里数表記になるし、纏向は本州出雲吉備連合「複立男王 並受中国爵命」の都てあれほど言ったのに...orz」

662 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:49:06.54 .net
つまり九州説はウソ

663 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:56:23.12 .net
つまり畿内説は左90℃曲がってしまった性行不能チンポ

664 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 11:59:11.83 .net
畿内はいつから倭国になったの?

665 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:01:16.50 .net
そういうバカなこと言ってると、どんどん九州説がミジメになるよ

666 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:06:48.94 .net
帯方郡(付け根)からではなく倭国に着いた途端(途中で)左90℃曲がるわけなので、
┓鉤型のチンポとなるわけで、挿入できても前後運動は不可能だw

667 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:11:48.11 .net
つまり邪馬台国時代の畿内は倭国に含まず、女王国こ東の倭種の国でしたと

668 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:12:25.41 .net
出し入れしてるうちに、半分から先がシャウエッセンよろしく、突然ポキッ!と折れて取れてしまう畿内説w

669 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:22:05.36 .net
つまり倭国であった事を証明出来ない畿内説はスタートすらしていないオワコンですよと

670 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:22:13.18 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

671 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:28:34.92 .net
倭国オレオレ詐欺の畿内説

672 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:28:55.37 .net
>>565

どこの人かな
吉野ヶ里は筑後じゃないよ

673 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 12:42:38.75 .net
>>668
畿内説の左直角曲がり┓鉤チンポは、夢中で腰を振ってたら、途中で折れてトナカイになってしまった…orz

674 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:02:00.46 .net
>>660
右を古に誤写してるんだよバーカ

675 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:03:15.93 .net
吉野ケ里を筑後とか、熊襲を球磨阿蘇とか言ってる馬鹿は一度死んだ方がいい

676 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:10:13.67 .net
曽於も左曲がり┓鉤チンポで、先がパキッ!と折れてトナカイになってしまったようだw

677 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:13:16.59 .net
「画期的新説」邪馬台はヤマトである
https://98k.dreamlog.jp/archives/52046904.html

古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者(桃崎 有一郎)が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります


文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました

678 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:14:22.29 .net
河内に敵がいたら日本海ルートしかないよな
魏使も伊都国からの伝送も

679 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:16:22.19 .net
とにかく吉野ヶ里は3世紀ってそれ大雑把すぎだろ?
箸墓は3世紀のいつなのかって拘ってるのに

680 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:17:06.26 .net
邪馬台国とヤマトのによるだろ。
定義をはっきりしてから書かないと人によってはでたらめになる可能性はある。

681 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:18:51.22 .net
>>680
677 へのレス
1行目は、邪馬台国とヤマトの定義による。

682 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:19:06.36 .net
権力に尻尾を振った御用学者(宦官)も、左90度曲がりの┓鉤チンポが半分折れてトナカイになってしまったようだw

683 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:22:26.28 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

684 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:26:09.14 .net
邪馬台国の場所を特定できたんだけど、自説として発表する方法を教えてください。

685 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:28:44.67 .net
>>684
ここで出しちゃてもいいよwどうぞ!

686 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:31:30.90 .net
遣隋使の時代でも倭は新羅の東南にあって倭王は邪馬臺に居るんだよ

687 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:31:58.81 .net
これが中国人のいう槨(椁)

https://bkimg.cdn.bcebos.com/pic/a2cc7cd98d1001e939013a1fff5b6cec54e736d139dc

これが室

https://bkimg.cdn.bcebos.com/pic/4ec2d5628535e5dde711b8cf3193b0efce1b9d16c4dc

なので日本の考古学用語の槨は中国の室

688 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:33:25.52 .net
解読方法が簡単過ぎるので、誰かに取られたりするのがイヤなんだけど、、、
場所は、奴国。
解き方は、魏志倭人伝上の記載のある3つの条件が揃った所。

689 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:34:17.74 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすまし

690 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:35:40.71 .net
>>688
ど素人は出ていけ!

691 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:36:49.42 .net
>>689
なりすましている主語は誰だよ。

692 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:38:18.45 .net
>>690
ごめんなさい。

693 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:38:31.38 .net
中国は邪馬臺が倭王の居る場所だとずっと勘違いしてるんだよ
中国語の倭に相当する日本語は邪馬臺でヤマトだよ

694 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:39:27.23 .net
>>691
畿内説は って書いてあるだろw

695 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:39:47.44 .net
>>694
畿内説が何になりすましてるの?

696 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:41:54.73 .net
>>677
卑弥呼の時代と記紀万葉の時代とぐちゃぐちゃ、読む価値なし

697 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:43:58.67 .net
>>695
邪馬台国に(なりすまし) って書いてあるだろw

698 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:45:13.17 .net
>>697
畿内説がどうやって邪馬台国になりすますの?

699 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:47:12.51 .net
>>677
それ感想文です

700 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:47:30.16 .net
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし
纏向の大型建物に楼観なし厳設城柵なし

701 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:50:04.81 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

702 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:55:30.01 .net
・魏志倭人伝
邪馬壹(ヤマイ)
・後漢書
邪摩臺→案ずるに邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものである

以降、末尾の文字を改め邪摩堆(ヤマタイ)で統一されている

つまり単に中国がヤマイ=ヤマタイと勝手解釈してるだけ

なのに日本人はヤマトとか言い出すからややこしい
3者全て別物とも考えられる

703 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:57:20.63 .net
>>702
ものすごい誤訳

704 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:01:07.67 .net
>>702
だったら倭王が居る邪摩臺とはなんなんだ?
日本語だぞ

705 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:10:40.54 .net
畿内の大和王権がもともとあった倭になりすましたのって何世紀ぐらいのころの話になるんだろうかね。
すくなくとも6世紀末にはなりすまし完了していたわけだけど。

706 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:13:30.23 .net
>>705
8世紀   @阿波

707 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:14:41.54 .net
魏志倭人伝にヤマトが記載されているとも考えられる
女王国の国々には市が有り(女王国が一つの国ではなく連合国である事がわかる)

物資の有無を交易している

それを「大倭」を使って監視している

708 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:19:48.74 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

709 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:26:28.22 .net
邪馬台国の場所は、都の邪靡堆があった所だろ。
Wikipediaには
『倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中。』
『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』
『度百濟、行至竹島、南望耽羅國。』
『經都斯麻國、迥在大海中。又 東至一支國。』
『又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲。』
『又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。』
『後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都。』
とあるので、たどればよかと

710 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:29:51.08 .net
東海で縄文人を奴隷にしていた痕跡が発見された
纒向で古墳を建造する際に作業員を連れてきたのが東海勢力と思われる
実際纒向で発見された土器では東海産が最多である
東海勢力がヤマトじゃないのか?
のちに東日本を意味する日本などという国名を名乗るあたり東日本勢力の影響だろう
記紀の中で日を背にして戦って上手くいったという節があるだろ?
それは東日本の力を借りたという意味じゃないのか?

711 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:35:15.73 .net
>>705
倭はずっと東南にあるんだぞ

712 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:35:34.66 .net
>>710
日を背にして…
東から西に向かったと言ってる人もいる。

713 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:39:14.82 .net
>>707
大倭が中国人にヤマトと読めると思ってるの?

714 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:48:06.71 .net
>>713
ヤマトと読んだのは随分と後世のヤマト民だろ馬鹿
つまりヤマト民は女王国時代の市の監視役の末裔だと認識してたわけよ
ちなみに纒向あたりはむかし大市とよばれ市で賑わった土地だ

715 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:50:17.03 .net
>>714
魏志倭人伝に大倭と書いてあるんだが

716 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:56:58.12 .net
ダーワじゃ無いの

717 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 14:57:57.49 .net
>>677
論文めっけ

https://repository.musashi.ac.jp/dspace/bitstream/11149/2568/1/jinbun55_01_037_076_momosaki.pdf

718 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:00:58.82 .net
>>716
つまりダーワと言う役職があってその音を聞いて中国人が大倭という文字をあてた
更に日本に文字が入った時ダーワではなくヤマトと言う言葉をあてた
何の脈絡もないし全く意味不明

719 :伊太乃に居たの :2024/04/19(金) 15:08:43.17 .net
邪馬台はヤマトて゛ある って画期的新説なの?阿波では昔からそういう説を提唱してる人がいますけど。

720 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:11:59.67 .net
ヤマトという言葉自体が相当後世で作られたという事だ

721 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:13:30.68 .net
つまり邪馬台国とヤマトは全く無関係でしたと

722 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:14:46.71 .net
>>720
でも倭王はずっと邪馬臺に居るよ
邪馬臺は日本語なんだがなんだ?

723 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:15:07.92 .net
中国のどの記録文献においても「ヤマト」と読めそうな文字は記載されていない

724 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:15:42.92 .net
>>722
ヤマタイ王はヤマト王とは無関係という事だ

725 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:17:12.64 .net
>>720
隋代でもまだ倭王は邪馬臺に居るんだけど

726 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:19:43.62 .net
新唐書における倭国伝は日本の史書のコピペだか、
「倭王は尊と称し23代まで筑紫城に居していた。その後大和州に移り天皇と称した」とある

最初に天皇と名乗ったの天武天皇だよな?

727 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:20:29.74 .net
>>725
ヤマタイ国とは無縁の王だからどうでもいいんだが?
何が言いたいの?

728 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:21:26.90 .net
つまり畿内説は骨の髄までオレオレ詐欺でしたと

729 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:22:07.14 .net
倭の都は三国志〜隋書まで邪馬台、邪靡堆、邪馬壹なんだから。狗奴国はとっくに退場してる。

730 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:22:26.21 .net
つまり畿内説は韓国式ウリナラ起源説という事よ

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

731 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:24:38.71 .net
>>727
えっ、なに言ってんの?
邪馬臺国と無縁てどういう事よ?

732 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:30:41.70 .net
畿内は渡来人多いから漢化が進んだんだよ。帯方郡の百済や遼東の高句麗は邪馬台国時代からの付き合いでしょ。
邪馬台(卑字)から大和(好字)は当然の進化。

733 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:33:06.79 .net
>>732
それ、あなたの想像ですから

734 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:33:46.24 .net
昔の閉ざされた畿内に夢見るな

現実は物寂しい土地だった

735 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:35:43.78 .net
つくづく九州説は宗教だと思う

736 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:36:04.61 .net
>>734
7世紀末まで、ほぼ古墳しか無かった寒村だ。   @阿波

737 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:38:05.40 .net
実際に纒向に行ってそこに立ってみろ
まず大都市や日本の中心となりそうな要素は一つも感じられない僻地だから

738 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:38:52.74 .net
>>735
おまいうw

739 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:40:32.25 .net
>>737
翻っって、鮎喰川下流地域に行って立ってみろ。 まさにここが古代倭の王都だと実感できるから。   @阿波

740 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:42:35.92 .net
岩津の堤防に行って立ってみろ。 ここが「邪馬臺国」が興った所かと感動するから。   @阿波

741 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:44:26.77 .net
「大河四国三郎吉野川」中流の岩津に行って立ってみろ。 ここが「邪馬臺国」が興った所かと感動するから。   @阿波

742 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:49:43.93 .net
>>739
実感しなかったよ

743 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 15:59:40.11 .net
大和言葉による国名はやまとのくに
にほん、にっぽんは外国語(中国語)での国名
英語のJapanも中国語の音(じつ+ぽん)から

744 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:02:17.59 .net
>>743
それが何世紀の話だよって
後世の歴史から古代を拡大解釈するのは反日半島系の悪しき文化だろ

745 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:02:31.67 .net
イルポンからではないのか

746 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:05:35.48 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

747 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:25:03.98 .net
https://youtu.be/zXmoFtzpnh0?si=Wc5gxtQLi6EdHO8i
倭人伝原文の日本語訳

748 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:35:57.62 .net
分かりやすいからだろうが、
言い方を変えたり追加することで誤解が生まれるんだね

749 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:42:16.13 .net
>>744
卑弥呼の時代はやまとのくにと読んでいたと思う
その記録が中国人が音を聞いて漢字に置き換えた邪馬台国に残っている

翰苑の倭面上國王帥升や北宋版『通典北宋版『通典』などの倭面土國王は唐の時代に書かれたもので帥升自身が国名を何と呼称したのかは定かでない

750 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:48:22.84 .net
の はどこにいったんだろう?

751 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:48:47.80 .net
邪馬台は時代の訛りで変化していったんだろ。台だけ中国の漢字がバラバラで日本ではト読みしろって普通におかしいだろw

752 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 16:57:17.87 .net
邪馬台国卑弥呼は実は四面楚歌だったんじゃないか
博多彦根鳥取播磨大阪和歌山辺りは皆狗奴国や親狗奴国だった可能性すらある

753 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:04:22.11 .net
>>751
>日本ではト読みしろって普通におかしいだろw

言ってませんが?
乙類トが「タイ」に近い発音だったと言っている
乙類トに上代の日本人自身が「台」や「苔」の字を使っているのだからね

754 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:13:09.11 .net
邪馬台国周辺の国で「ヒコ」を官名につけてるのは
対馬、壱岐、狗奴国の三国

この三国が「ヤマト王権」の源流だろう

対馬、壱岐という朝鮮半島に近い場所の国が海洋交易をリードし、
そこから狗奴国が独立

「ヒコ=太陽神の子供」を自称し覇権を狙ったと

755 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:13:27.31 .net
>>737

3世紀九州最大の都市は博多
実際に行ってそこに立ってみると
新幹線もあるし都市高速もあるし空港も近い
九州説は博多一択になるな

756 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:13:50.23 .net
>>749

>卑弥呼の時代はやまとのくにと読んでいたと思う

だから何の裏付けもない想像だろ?ってさ

757 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:13:52.85 .net
おかしいのは常に九州説信者の頭

758 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:15:39.88 .net
おかしいのは常に>>1=キナイコシ

>757:日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:13:52.85
>おかしいのは常に九州説信者の頭

759 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:17:13.43 .net
>>755
>3世紀九州最大の都市は博多
・・・
>新幹線もあるし都市高速もあるし空港も近い

それ3世紀にないから

760 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:18:46.82 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

761 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:24:17.86 .net
>>759

>>737は、実際に行ってそこに立ってみて感じたことを言っている
博多比恵那珂には何も復元されていないので
新幹線、都市高速、空港とビル群しかないから

762 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:24:37.52 .net
>>755
これといった遺跡は無いけどな。   @阿波

763 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:52:05.96 .net
>>754
ヒコは尊称だから要らない
阿毎多利思=アマテラス

764 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:52:34.43 .net
>>756
裏付けは魏志倭人伝に邪馬台国と記されている点
やまとの音を拾い漢字で模写したもの

さらに後にヤマト王権は大和と呼ばれる地にあったことでそう呼ばれることになった

765 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 17:59:13.10 .net
>>743
「日本国」とGoogle翻訳にかけると、「ジーベングゥオ」と聴こえる
これをマルコポーロはジパングとし、英語ではgの発音が消えてジャパン

766 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:01:53.64 .net
>>702
まだその議論をしているのか
呆れる
紹興本が「邪馬壹」としただけ

767 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:03:17.89 .net
ヤマト政権は、初代から二代目は奈良、三代から八代目迄は大阪じゃないかと思うんだよな
卑弥呼の時代は河内の狗奴国の卑弥弓呼が孝昭天皇に当たるんじゃないかと考えている
伊瀬遺跡は三代目から使い始めたんじゃないかなと
色々詰めていかないといけないが

卑弥呼はイレギュラーな存在で奪う者たちに担がれただけかと

768 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:04:20.30 .net
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

769 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:09:41.63 .net
何代目とか要らないから
もし伊勢遺跡が邪馬臺の王都であるならそこには帥升が居た  

770 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:13:23.20 .net
神武天皇が居なかっただけで紀元前660年にはヤマトという国があったかもしれん
そんなもん憶えてるわけ無いけどさ

771 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:19:27.72 .net
>>764
上古音で「邪馬台」は「ヤマダ」なので、倭語もそれに近い発音だったはず

772 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:20:57.17 .net
>>766
ヤマトと読む可能性があるのはその「邪馬壹」だけだ
まだ漢字に不慣れだった倭人が壹の豆を見てトと読んだ可能性がある

773 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:24:14.32 .net
つまりヤマトはヤマイを誤読して邪馬壹国に成りすましていたオレオレ詐欺

774 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:26:33.46 .net
>>770
ヤマト=ヘブライ語で神の民だから、あったんだろう

775 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:27:22.35 .net
神武天皇の時代は紀元前後と思うけどね
神武天皇の名、若御毛沼命、豊御毛沼命、狭野サヌ
兄の名、三毛入野命、御毛沼命
スサノオの名、伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
神武天皇の東征は、本当は出雲発ヤマタノオロチ退治だったんじゃないか?
九州から畿内への流れはないが加茂岩倉遺跡の銅鐸や西川津遺跡の鳥形のように出雲→畿内は考古学的に確認できる

神武天皇はスサノオとほぼ同じ存在なんじゃないかなと

776 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:28:22.47 .net
邪馬台国周辺の国で「ヒコ」を官名につけてるのは
対馬、壱岐、狗奴国の三国

この三国が「ヤマト王権」の源流だろう

対馬、壱岐という朝鮮半島に近い場所の国が海洋交易をリードし、
そこから狗奴国が独立

「ヒコ=太陽神の子供」を自称し覇権を狙ったと

777 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:28:33.04 .net
>>772
倭人なんか関係ねえわ
隋書   都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

778 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:30:44.71 .net
>>763
尊称はヒコ、タマ、ミミなど複数あったが残ったのはヒコだけ

ヒコ系の王族が覇権を握ったということ

彼らの故地は対馬壱岐で、狗奴国として本州で自立

その後ヤマト王権となる

779 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:31:28.45 .net
>>768
もう答えでてるじゃん。

780 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:35:29.39 .net
実際に筑紫平野に行ってみろよ 
はなわの歌通りに、今も弥生時代で何も無いぞ

781 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:40:45.63 .net
浮島、ナントカ島、水沼、牟田(草の生えた沼)みたいな地名だらけ

782 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:43:55.73 .net
後の史書が正しいと言うなら卑弥呼も邪馬台国も出てこない唐書を根拠にしたらどうだ

783 : ころころ:2024/04/19(金) 18:45:11.02 .net
>>779
邪馬臺者 = 倭人

答え出ましたねw

784 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:46:17.14 .net
>>767
箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山
ここまでは奈良

大阪は以下から↓
津堂城山→仲ツ山→上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵古墳

785 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:46:51.20 .net
柔な中途半端な頭脳で構成されている畿内説信仰者じゃ

神DNAを持つ九州には到底辿り着けない

786 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:49:18.27 .net
倭国有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 
有如意寶珠其色??大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 
新羅百濟皆以 俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來

787 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:52:12.55 .net
>>775
伊都国王からの卑弥呼に婿入りだから200年以降だろう

788 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:53:21.82 .net
邪馬台国が九州なら、魏志倭人伝は阿蘇山にも言及してそうだが

789 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:53:34.86 .net
>>772
後漢書の李賢の注「邪摩惟」や隋書の「邪靡堆」がヤマトであることは明白であって、紹興本を待つまでもない

790 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:55:02.28 .net
倭国には阿蘇山がある。その石は理由もなく火が起こり天に届く。
人々は不思議なことだとして、祈って祭りをおこなう。
如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさは鶏の卵。
夜になると光り、魚の眼球だと言っている。
朝鮮半島の新羅と百済の人達は
倭は大国で貴重な品が多く、また倭人達をに敬い仰いで、
大国倭国に常に新羅や百済は役人を通わせ往来している。

791 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:55:59.29 .net
>>785
歴史を消された九州はウリと瓜二つニダ

792 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 18:58:13.73 .net
>>788
通説畿内説では、阿蘇山に触れるか否かは極めて些細な問題であり、畿内説に何らの影響も与えない

793 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:00:59.76 .net
>>782
隋書では都は邪靡堆で魏志の言うところの邪馬臺だと言ってるんだけど
つまり邪馬壹ってのは写し間違い

794 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:03:46.29 .net
九州で成立した邪馬台国以前の1世紀前から韓国及び朝鮮は
倭人達に格下扱いされ幾度も九州の倭人達から攻められている
韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

795 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:05:57.91 .net
>>793
トナカイと同じ立場を採る
版本(紹興本)を作った人の意図的改変と見るべき

796 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:08:41.24 .net
臺は後漢書の表記を踏襲しただけ

797 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:19:12.27 .net
久住は、魏志では邪馬臺であったことが確実だとTwitterで九州説に反論し、「オッカムの剃刀」という言葉を使って、邪馬壹(ヤマイ)説に反論している

798 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:26:18.81 .net
トナカイと畿内自生説vsアンチ畿内自生説の頂上決戦を行いたい

799 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:30:05.58 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
俺がいつ意図的改変だっつったよ
俺の発言を意図的にかいへんすんのやめろカス

800 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:30:53.88 .net
>>799
紹興本意図的改変論はやめたの?

801 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:33:48.15 .net
通説畿内説でも、とんでもない珍説を唱える者がいる
例えばトナカイの、「北はニシだったんだー」とする説は到底受け入れられない

802 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:36:41.19 .net
トナカイは布留ゼロ以降に急に畿内邪馬台国が、北部九州を上回ったとする
魏と交流を持たなくても、鏡を中国や半島からゲットできたのならば、北部九州から画文帯神獣鏡が出るべきである

803 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:36:57.75 .net
正しくは邪馬臺国でいいんだけど発音はヤマダなんだよなあ
なんでこれを何百年も時代の違う外国語で発音しようとするのか全く理解に苦しむ

804 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:42:22.20 .net
>>803
どのように発音したのか不明であったと見るべきである
例えば、中国人は「おきなわ」或いは「ウチナー」に色々な漢字を当てている。
また、我々は英語の水を「ウォーター」と書くが、「ワーラー」の方がいいという意見が大多数を占める中で、
アメリカ人TikTokerはカタカナで表記するなら、「ワダ」の方が近いと言っている。

すなわち、邪馬臺をどのように発音したのかを論ずるのは全く意味のないことなのである

805 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:42:22.81 .net
>>802
沖縄方言ではそうだよ 
沖縄人は倭人の末裔

806 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:43:06.00 .net
>>802じゃなくて>>>801

807 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 19:49:30.85 .net
我々日本人は「t」は清音であるべきという先入観を持っているが、あるアメリカ人TikTokerは「t」をあえて日本語表記するなら「ダ」という濁音の方が近いとしているのである。
すなわち、清音と濁音の線引きは、日本人にとっては明確であったとしても、中国人が清音と濁音に明確な線引きをしているのかは分からないのである

808 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:03:06.85 .net
沖縄の方角は、東(あがり)西(いり)と言います。

809 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:03:48.73 .net
沖縄の方言では東西南北のことを、それぞれ「アガリ(東)」「イリ(西)」「フェー(南)」「ニシ(北)」 といいます。

810 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:08:21.86 .net
仮に、北をニシと発音していたからとかいう珍説がまかり通るならば、ヤマトは「ヤマトゥー」である
すなわち、畿内邪馬台国の人々は自分たちのことを「ヤマト」ではなく、「ヤマトゥー」と呼んでいたことになり、
何が何でも日本語五十音に合わせようとする試みは、全て徒労になると言えよう

沖縄人でも東北人でも50音のどれかでは表記不可能な発音が存在するからであり、かつ古代中国人の発音も全く不明だからである

811 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:10:59.10 .net
北がニシの時代
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

812 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:14:45.67 .net
南から昇ったお日様がニシへ沈む それでいいのだ

813 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:17:10.00 .net
>>811
こちらの方が「北をニシと発音した」なる珍説よりもかなりの説得力を持つと言えよう

814 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:18:42.64 .net
>>811
北が北西の地図じゃん
何で「西」ってことにしたいの?

815 ::2024/04/19(金) 20:21:47.72 .net
ニシ! キタかと カモメに問えば
ワタしゃ立つ鳥 ナミに聞け チョイw

816 ::2024/04/19(金) 20:26:32.72 .net
まあ戦国時代のころでも
青森あたりでさえ東と思われていたしw

↓北ではなく東だった蝦夷

434 日本@名無史さん 2021/01/17(日) 21:05:45.07
畿内(本州)は本来、秋津島 = 阿岐豆

元々、日本(ヒノモト)は毛人がいる蝦夷のこと
太陽がのぼる東方向

戦国時代の武将、檜山安東氏が日之本将軍と名乗ったり
秀吉もまた手紙で奥州を「日本(ヒノモト)」と表現してる
https://i.imgur.com/rwD0eb4.jpg

817 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:39:05.67 .net
>>816
東北が「東」なら「北」は北西だね
ニシではないな

818 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:39:18.46 .net
九州説死んだな

819 ::2024/04/19(金) 20:42:57.39 .net
>>817
言い得て妙w

820 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:49:33.83 .net
>>816
>元々、日本(ヒノモト)は毛人がいる蝦夷のこと

百済人が東方の人という意味で倭人に対する敬称として使い始めたという説もある

821 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:49:47.78 .net
畿内さん方角の90度回転は無理だって
せいぜい45度

822 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 20:52:53.64 .net
相変わらず、低レベルの話じゃのうww   @阿波

823 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 21:00:04.92 .net
北をニシと発音しようが文字で北と書いてあれば北なんだが

824 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 21:04:48.59 .net
無理矢理こじつけなくても陳寿が間違ってるで良いんだよ

825 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>802
画文帯神獣鏡は畿内共立王権が好んでた鏡だからってだけだろ
上とか下とか1bit思考しかできてない時点で話にならないけど

826 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 21:24:46.42 .net
>>825
全く馬鹿げている

827 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 21:31:38.90 .net
レベルが低すぎて、敷居が高い。   @阿波

828 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
まあ真面目に答えるなら、単に発見されてないだけ。那珂八幡古墳掘ったら画文帯神獣鏡出るよ

829 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:05:13.34 .net
倭国には阿蘇山がある。その石は理由もなく火が起こり天に届く。
人々は不思議なことだとして、祈って祭りをおこなう。
如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさは鶏の卵。
夜になると光り、魚の眼球だと言っている。
朝鮮半島の新羅と百済の人達は
倭は大国で貴重な品が多く、また倭人達をに敬い仰いで、
大国倭国に常に新羅や百済は役人を通わせ往来している。

830 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:05:18.05 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

831 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:05:50.61 .net
九州で成立した邪馬台国以前の1世紀前から韓国及び朝鮮は
倭人達に格下扱いされ幾度も九州の倭人達から攻められている
韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

832 : 警備員[Lv.20(前25)][苗]:2024/04/19(金) 22:10:18.70 .net
>>820
半島あるあるだなw

833 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:12:21.46 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
てすと

834 : 警備員[Lv.20(前25)][苗]:2024/04/19(金) 22:20:04.64 .net
邪届伊都 傍連斯馬 天照女王
△    □    ○

244 日本@名無史さん 2023/12/22(金) 23:02:36.08
邪届伊都 傍連斯馬

牙のようにギザギザで届く(至る)伊都
傍らでギザギザに連なる島々

835 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:27:01.84 .net
イザナミは上津国から下津国に行ったと延喜式の鎮火祭にある
日本海から瀬戸内海ではないだろうか?
2つの海という見方をしていた可能性はある
日本海側は壱岐、怡土、出雲などイの音が多い印象だ
瀬戸内海は安芸、穴の海、明石、英賀などアの音が多い印象
まだまだ検討が必要だが
弥生時代後期の龍の絵画土器も大阪兵庫岡山広島香川愛媛の沿岸部に集中している
明治天皇の歌にも海に住む龍も時には雲を起こすのだという歌がある

836 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:28:31.15 .net
晋書 第九十七巻に拠る『 倭人伝 』 房玄齢撰

倭人達は帯方(古代中国王朝の朝鮮中西部にあった朝鮮半島統治拠点)
東南にあたる大海にあり、山島に住み国を成している。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。倭人は主に海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接し、魏の時に至って三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万有り、男子は大人、子供は皆、顔と体に刺青を施している。

そして倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人達は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国史上初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達も沈没して魚類を取るのを好み、同様に刺青を施し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国・浙江省”)の東に当たる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせて?ぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れ、皆おかっぱ頭で裸足である。

837 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:33:57.39 .net
晋書 第九十七巻に拠る『 倭人伝 』 房玄齢撰

倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

倭国における重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

倭人国家のいにしえの王家は男王を君主として擁立していたが
漢代末に倭国同士の内乱が起こり、倭人は共に女王を擁立し倭国連合の女王とす。
其の女王の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
卑弥呼は役人を遣し帯方に至り宣帝に朝見した。その後も朝貢が続き遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏国の皇帝になると、また倭人を幾度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国の首都へ朝貢に遣って来た。

838 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:40:56.84 .net
日本海側の海神である龍が瀬戸内海に

入れ替わるように瀬戸内海の海人は日本海側に紀元前後に連れていかれたか移動したのではないか?
弥生時代中期末に始まる妻木晩田遺跡は伯耆国会見郡にある
スクナヒコナが粟を撒く
アマーリーベの里、粟嶋

伯耆国風土記逸文
伯耆国風土記には このようにある。

相見郡(あふみのこほり)。

群家の西北には餘戸里(あまりべのさと)と粟嶋(あはしま)がある。

少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで(スクナヒコは)粟に乗ると弾かれて常世国(とこよのくに)に渡った。故に粟島という。

839 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:47:06.10 .net
https://i.imgur.com/OE75yZd.jpeg

オレオレ詐欺北ァアアアアア

840 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:47:22.95 .net
>>837
>泰始元年

「泰始初」・・・泰始元年は数日しかなかった

晋書武帝紀にある
(泰始二年)十一月己卯,倭人來獻方物。

のことを指していると思われる

841 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:53:44.17 .net
馬も無く製鉄も出来ず、文身鯨面・裸足でウホウホ魚獲ってた倭人は三韓に格下扱いされ、辰王こと沸流(比流・布留)に乗っ取られる
韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

842 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:59:58.16 .net
アチメはアチ女、阿津女かもな
韓国語でアチメは朝や朝日の意味らしい
朝顔が何ちゃらばかり言っている人がいたな

843 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:06:33.03 .net
>>841
>韓国側の歴史書で証明済の歴史事象

自他が認める猿真似3流朝鮮民族の歴史書www

世界が認め一目置く中華民族の大国中国正史書
晋書 第九十七巻に拠る『 倭人伝 』 房玄齢撰

朝鮮半島の文化程度の低い新羅と百済の人達は
倭は大国で貴重な品が多く、また倭人達を敬い仰ぎ見て
大国倭国に常に新羅や百済は朝鮮半島から
倭人大国に役人を通わせ媚びを売り取り入ろうとしている。

844 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:13:02.23 .net
>>843
お前は五毛か

845 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:13:36.48 .net
弥生時代中期末に加茂岩倉遺跡は営みを終え、弥生時代後期に近畿各地から加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかるようになる
出雲の人々は弥生時代後期近畿に移住したということだな
出雲の人々が日本海側から瀬戸内海側に移住したのは考古学的にも矛盾しないな

846 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:16:52.31 .net
はいはい考古学考古学www

847 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:19:41.68 .net
国立遺伝学研究所から発表された母系遺伝子の研究で新潟福井香川が同じグループだった
日本海側にいた北陸の人々が香川辺りに移住したのだろうか?
はたまた逆か?
この辺も興味深い謎だ

848 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:23:24.12 .net
古代は関門海峡は陸続きで瀬戸内海は難航路だったから、その辺は後進地
日向が投馬国とか論外

849 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:23:35.44 .net
日本史で重要な歴史及び役割が日本海の北陸にあったっけ?

850 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:26:16.70 .net
当時の米の品種は瀬戸内海の緯度でよく育つ特徴があったのかもな
北緯34〜35度
もしそうなら稲作の故地も分かりそうだ

851 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:30:37.44 .net
日本海側人が優秀なら日本海側人だけで独立国作って
日本海側の首都を作って栄えさせればいいじゃん
人類学的に見てみたいわリアルに

852 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:31:10.09 .net
いま、松本清張の邪馬台国論を読んでる途中なんだけど、彼は九州説だったんだね
「吉野ケ里ではない北九州のどこか」というのが生前の最終見解
帝銀事件も下山事件の謎解きが見事すぎた清張だけに、彼の意見は重い
また、それとは別に彼の唱える仮説はいずれも斬新で面白い

853 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:36:54.22 .net
出雲の国、肥の川上なる鳥上の處に降臨したスサノオは、クシナダヒメ櫛稲田姫という稲の字の名の姫を手に入れる 
次に目指すは稲作に適した地だろう
スサノオがクシナダヒメの為に新たに建てた宮は何処だったのか?
弥生時代中期末の大建造物と言えば、池上曽根遺跡の大神殿がある
井戸と大神殿の配置の特徴は、伊勢遺跡にも繋がる

854 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:37:35.31 .net
0099日本@名無史さん垢版
2024/04/17(水) 22:14:10.67
そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし

855 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:38:43.05 .net
>>852
北九州育ちだからね

856 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:43:35.37 .net
>松本清張説
「漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王」は
委奴=いと  と読むべき

一大卒も一支卒の間違いである

857 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:52:41.20 .net
北緯34〜35度って中国大陸なら何処なんだうな?
河南省、豫州、洛陽の辺りか
豫州とかオオヤマツミがいた伊予っぽい地名だ

858 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 23:54:34.16 .net
中原ど真ん中が日本の米の故地か?

859 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 00:06:09.23 .net
日本基礎列島(北海道は入植地)で
神武天皇が日本の都(中心地)に定めた大和(奈良県)は
日本基礎列島の西側に文化中心地が寄ってるんだよね
普通に見て平野もデカい尾張辺りに日本の最初の首都を
築いてよかろうなものなのに謎だわ

860 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 00:11:02.35 .net
当時岐阜辺り迄海で、尾張の真ん中には中島だったか忘れたがでかい島があった

861 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 00:20:05.49 .net
島は基本的に慢性的に水不足で稲作に向かない
東海から東北の太平洋側は周期的に大津波に襲われる
弥生時代後期はミニ氷河期で日本海側の寒さは厳しい
温暖な縄文時代と違い住みやすい場所は限られる
西側というよりより南に人が集まる傾向があったのかもな

862 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 02:50:27.35 .net
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medical_J/laboratory/basic-med/social-science/legal-med/


https://i.imgur.com/88G3NEX.png
ゲノムワイドなSTRマーカーからみた東アジアのヒト集団の遺伝的関係(「ソウルの韓国人」は「中国人」もしくは「中国系」と分類された円の中にいます。)(名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科公開データより)

863 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 03:01:30.78 .net
>>852
いまさらかよ

864 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 03:02:47.12 .net
>>825
トナカイ意味不明

865 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 04:46:44.84 .net
>>852
松本清張先生の邪馬台国論を語って見てください、ボコボコに論破してみせますから

866 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 05:07:19.12 .net
ここに出没してる九州説の人の特徴は、決して理屈の説明をしないことだよ
有名人の名前とかひとの肩書きとかを言うだけ
言ってるのが偉い人だから結論を無条件に受け入れろよって押し付けるパターンが多いの
つまり論理ゼロの権威主義者ばっかり

867 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 05:44:44.75 .net
つまり九州説はウソ

868 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 05:49:42.29 .net
つまり九州説はウソ

869 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:15:35.97 .net
松本清張で権威主義?w

870 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:22:14.58 .net
権威のない中国の学者の名前を使うのも権威主義者だよな

871 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:36:31.68 .net
九州説を支持してる学者はいない!と畿内説から散々聞かされたあとで九州説は権威主義だ!とかなんの冗談だよ

872 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:50:32.27 .net
>>871
虚名を使ってるって事でしょ

873 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:51:02.15 .net
今さら松本清張を語られてもな
かく言う私も中学生の時に松本清張の清張通史邪馬台国を読んだのが邪馬台国論争に嵌まるきっかけではあったが、その後の考古学的発見が多すぎてさすがに清張を語る気はない

私は畿内説最後の砦・纒向遺跡の調査が進展し北部九州や大陸との直前交流がないことがはっきりしたことで、畿内説の可能性は理論的にはほぼないと考えている
邪馬台国=纒向の先入観だけで卑弥呼が初代天皇だの狗奴国東海説だの考古学的根拠のまるでない妄想を蒔き散らす日本の考古学者のレベルの低さを

874 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 06:53:00.81 .net
>>873
途中で送信になったが言いたいことは全部書いたからいいわ

875 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:04:49.22 .net
>>873
狗奴国熊本説の考古学的根拠はあるの?

876 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:09:42.46 .net
>>874
>途中で送信になったが言いたいことは全部書いたからいいわ

根拠のまるでない妄想を蒔き散らす九州説信者のレベルの低さを

877 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:13:22.61 .net
畿内説論者は出発点が邪馬台国=大和朝廷(ヤマト王権)だからヤマト王権発祥の地がほぼ纒向に定まったことで邪馬台国=纒向で結論は殆ど纏まり、邪馬台国比定地がバラバラの九州説を批判する

しかし畿内説も邪馬台国=纒向の結論がほぼ一致しているだけで、狗奴国は熊本だ河内だ東海だ、投馬国は出雲だ吉備だ日向だ、大和までの行程は瀬戸内海ルートだ日本海ルートだとバラバラだ

ヤマト王権の形成プロセスやヤマト王権と地方勢力との関係や地方の自律性についても、畿内自生説(旧・主流派)とアンチ畿内自生説(新・主流派)では言ってることが水と油のようにまるで違う

意見が多様なことは良いことだと私は思うが、多様性を否定しまるで全体主義のようなことを言い出す畿内説(ほぼ畿内自生説信者限定)は実に滑稽で愚かだと感じる

878 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:34:22.45 .net
狗奴国が東海のわけがない
魏志で不彌国の南に狗奴国があると書いてるんだから
邪馬台国が初めて出て来るのは魏志で、付け足し程度に書かれた遠方の国

879 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:35:03.05 .net
訂正

魏略で不彌国の南に狗奴国があると書いてる

880 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:38:52.21 .net
>>876
畿内説だったら狗奴国は東海一択だろ
投馬国は山陰か吉備だが、吉備を主張してるのは瀬戸内海の航海事情を知らない馬鹿

881 ::2024/04/20(土) 07:38:56.87 .net
卑弥呼時代は半島南部から九州限定
イヨトヨ時代で半島南部から西日本一帯

>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
卑弥呼時代に九州から見た本州四国のこと

744 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 17:00:22.16 ID:i7D+QrZN0
卑弥呼 = 日女の子(児)

つまり、アマテラスの子 = イチキシマヒメ

>男弟佐治國
弟は年下の意味(兄弟関係なく)

伊都国の官トップ爾支はニニギ
イチキシマヒメ(年上)は天孫降臨時のニニギ(年下)の養育係

トヨはトヨタマヒメ
トヨタマヒメは山幸彦の奥さん
トヨタマヒメとイチキシマヒメは海つながりで
その関連性も一致

882 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:41:37.38 .net
魏略で伊都国の南が狗奴国と書いている
魏略には邪馬台国(九州以外の話)は出て来ない

883 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:58:03.95 .net
後漢書では狗奴国(拘奴国)は女王国の東

884 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 07:59:42.53 .net
つまり九州説はウソ

885 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:02:32.41 .net
「帯/足:たらし」は、阿波弁でいうところの「ふんどし」の古語であり、海に入るときに長いふんどしを垂らして潜ると鮫から身を守るといわれており、
潜水をする海人族のの古くからの風習です。(鮫は自分より大きくて長いものは襲わない)
これを天孫降臨説話に因み、天から降る、天から垂れて来たということから、「天からふんどし降って来た。
長い長いふんどしが降って来た。」の阿波の民話が今も伝わっています。
古事記序文には、「於名帶字謂多羅斯」「帯を”たらし”と読む」と書かれてあるように、
ふんどしの阿波弁であったからわざわざ注釈したと考えられます。   @阿波
https://ameblo.jp/marine816/entry-12817875947.html

886 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:03:38.65 .net
不弥国(奴国から百里なら宗像、もしくは直方平野の遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない

@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在其南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使は直接見たわけで、四国を見るルートはABで、@日本海ルートは消えることだ。

次にA瀬戸内海ルートだが、山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要はなく、さらに水行十日を大阪へ向かうとすると、同様に道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判り、仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、女王之所都は東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は北になってしまう。

残るB豊後水道ルートだが、山が海岸線に迫り道が紆余曲折し狭くアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium

さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫邪馬台国7万戸女王卑弥呼は、12万戸で狗奴国(8〜9万戸か)を挟撃しようとしたため、卑弥弓呼と狗古智卑狗は「窮鼠猫を噛む」決死の覚悟で卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かったものと判り、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

887 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:12:10.12 .net
俺は狗奴国は毛人だろうなあと思ってるだけで特に関心もないし場所もどうでもいい
重要なのは卑弥呼と卑弥弓呼は個人的に仲が悪いって事

888 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:14:07.40 .net
247年時点で東海狗奴国と死闘を繰り広げてるようじゃ、箸墓みたいな超巨大古墳は無理だね…orz

889 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:14:19.65 .net
>>886
>③豊後水道ルート(日向投馬国)

日向に大国「投馬國」は、無理筋。   @阿波

890 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:16:34.73 .net
>>886
豊後水道ルートと瀬戸内海ルートは、関門海峡で一旦船を持ち上げて手で運ぶ必要があるな

関門海峡は元々陸続きであった(参考)

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

891 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:16:58.36 .net
九州って西岸と東岸でまったく地形が違うからな

892 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:17:12.54 .net
狗奴国の奴らは言う事聞かないって事で東北でも北海道でもいい

893 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:17:52.27 .net
>>890
江戸時代の学者しか引用できない迷信

894 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:22:28.83 .net
纏向まで行っていないのに、
「名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者」「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」「殉葬百人」とはこれいかに?

895 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:24:11.92 .net
>>890
関門海峡の南北で別々に舟を用意してあったんだろうw

896 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:33:22.22 .net
>>888
古今東西、殺るか殺られるかの死闘を演じた場合、世代交代しない限り、仲直りはあり得んよ
まして自分の親を殺そうとしてた旧敵の墓造りを手伝うなどもっての他だろうw
247年に大和邪馬台国と東海狗奴国が帯方郡に報告が行くほどの死闘を演じてた場合、箸墓の築造は早くても一世代30年として280年以降と見るのが妥当

897 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:37:32.92 .net
>>895
基本的には、そういう使い方だろうが、「魏志倭人伝」では関門海峡は通っていない。   @阿波

898 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:40:15.20 .net
有り得ないお笑い珍説は、碌に鉄器さえも作れない寒村奈良盆地を「邪馬臺国」などという畿内説だ。   @阿波

899 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:42:16.27 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形態の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

900 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:43:36.21 .net
筑紫邪馬台国なんてものが有った痕跡が皆無なところがミソ

901 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:44:58.83 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

902 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:47:14.42 .net
>>901
うゎ、すげー!

903 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:47:35.07 .net
私は倭国は北部九州から東北南部までの範囲に存在したと考えるものだが、狗奴国については熊本周辺にあったと考える
狗奴国について記述してある部分に男子は成人も子供も顔や体に入れ墨があることを記し、合わせて会稽の東に位置することを示している
これは緯度的には種子島のあたりで、熊本から南西諸島までを狗奴国としていた当時の中国人にとって矛盾がない
この狗奴国から中国大陸に直接何度も渡海していたことも記されている
これらのことから狗奴国は東シナ海に面していなければならないことになる
畿内説の一部の人が狗奴国の位置を間違えて主張していることは残念なことだと思う

904 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:48:20.78 .net
>>890
それが真実なら、邪馬台国論争はほぼ終了するではないか!
凄い意見を朝から見たなw

905 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:50:51.76 .net
>>895
それで魏使は「南水行二十日」としたわけか!

凄い意見を朝から見たわw

906 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:55:34.11 .net
>>886
>A瀬戸内海ルートだが、山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要はなく、さらに水行十日を大阪へ向かうとすると、同様に道が良く陸続きで水行する必要がない

魏の役人が邪馬台国に行ったとするなら、荷は相当の量だったと予想できる。
風呂敷ひとつで倭の都へ派遣されるはずがない。
陸より川、川より海を選ぶのはごくごく当然だと思う。

907 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 08:55:46.23 .net
>>903
>私は倭国は北部九州から東北南部までの範囲に存在したと考えるものだが

古代に大きな夢を見すぎ!   @阿波

908 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:01:27.64 .net
>>901
楼観なし厳設城柵なしのどこかの平和都市の王宮とゎかなり様子が違うようだな

909 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:04:08.81 .net
纏向に九州痕跡がないんだから、3世紀ヤマトが九州を勢力下に置いていたというのはありえない。
普通の常識があれば、伊都国は本州に持ってこざるを得ない。

910 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:12:59.94 .net
>>899
九州説…前方後円墳体制≠邪馬台国(精密な文献解読と考古解釈)
畿内説…前方後円墳体制=邪馬台国(〇〇味噌→大雑把などんぶり勘定)

911 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:21:02.66 .net
>>910
また畿内説のキチガイが噛み付いてくるだろうけど、「槨」の定義じゃないんだよね。

土に甕棺や石棺を直接埋葬してる九州と、一旦石槨(石室)を作ってから木棺を安置してる大和では明らかに墓制が違うでしょ?ってことw

912 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:29:38.52 .net
熊本から上海は881km、熊本から東京は887kmでほぼ同じ距離
卑弥呼の時代に至るまで、狗奴国の人々はこの距離を何度も航海していた

913 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:32:22.41 .net
鰻重で言うと、
蒸さずに鰻を焼いてからご飯の中に埋めて蒸らす関西風と、鰻を柔らかく蒸してから炙ってご飯の上に載せる関東風は、同じ日本でも明らかに違うもんな

914 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:36:53.69 .net
狗奴国とシナの通交ってなんの史書?

915 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/20(土) 09:42:38.63 .net
ジャップの起源は遼河流域にいた偏堡文化人
これは山東半島から北上して遼河文明に参画したY遺伝子O1b2系の人達で、彼らが遼河文明が崩壊した時に韓半島に民族移動して無文土器文化人となり、更に海を渡って日本列島に到達したのが弥生人だった
ネトウヨのカルト的歴史観は既に崩壊したのだよ

916 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:46:00.82 .net
筑紫邪馬台国vs肥後狗奴国の戦いは、誤解を恐れずに言えば、曹魏vs孫呉の代理戦争だったんじゃないかな?

狗奴国の卑弥弓呼と狗古智卑狗(菊池彦)が孫呉と通じたため、卑弥呼と男弟は魏帝曹叡に「卑弥弓呼が勝てば倭国は孫権の領土になって、倭人傭兵があなたの軍に襲い掛かりますぞ!」と半ば脅して朝貢したため、曹叡は驚いて「親魏倭王」として特別待遇した上、「銅鏡百枚」を下賜したのではないだろうか?
実際に孫権は亶州(台湾)や夷洲(沖縄)を攻め取ろうとして失敗している。
その時、呉の将軍は夷洲(沖縄)の長老から、自分たちは徐福(始皇帝の方士)の子孫だと名乗ったそうだ。

917 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:47:54.57 .net
>>915
秀吉、関東大震災、日帝時代のことは謝るから(本当にすまん!)
たのむから、おとなしく御国に帰ってくれm(_ _)m

918 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 09:52:17.55 .net
>>914
魏志倭人伝
>其行来渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人
  如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
  謂其持衰不勤
持衰は航海が成功すれば褒美を、失敗すれば罰を受けた
つまり成功したケースと失敗したケースが少なくとも一度ずつはあった
一度ずつでは、そのこと自体が特記されると思うので、何度もあったということなのだろう

919 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:28:55.22 .net
狗奴国は河内だよ
前方後方墳が作られて卑弥呼の時代はまだ龍の絵画土器、ヒスイの勾玉、銅鐸、鳥形の地
近くの仲間は播磨や鳥取、和歌山、琵琶湖北部
遠くは博多島根西部、関東は狗奴国の仲間だろう

920 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:33:58.73 .net
畿内説は方角が無茶苦茶

921 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:34:16.92 .net
>>919
弥生時代の鉄の矢じりの分布

https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg

922 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:35:03.26 .net
河内と大和に戦争の痕跡なし

923 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:41:47.52 .net
>>921
その絵になんの意味が?

924 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:46:49.08 .net
久住のXは考古学的知見は当然のことながら凄く参考になるが、文献解釈になると途端に怪しいな
やはり文献解釈で畿内説を導き出すのは甚だ苦しい

925 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 10:59:10.75 .net
>>924
苦しくないよ
人には専門と専門外があるだけ

926 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:01:16.70 .net
>>925
畿内説の文献解釈の専門家はだれ?

927 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:01:33.64 .net
>>925
苦しくないなら自然かつ合理的な文献解釈畿内説を披露してもらっていいかな

生まれてこの方一度も見たことがないので期待してる

928 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:07:33.29 .net
@まず(魏使が直接足を運んで見た場所を意味する)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

929 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:08:00.47 .net
>927
苦しいところ、ある?

930 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:12:45.14 .net
狗奴国と東の倭種をキチンと説明できないから失格

931 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:15:20.10 .net
>>923
弥生時代の鉄の矢じりの出土状況だよ
九州北部の矢じりの出土は倭国大乱の痕跡だろう
熊本平野から東西に伸びる矢じり出土のラインは邪馬台国と狗奴国との国境だったのではないかと考えれば辻褄が合う

932 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:16:18.27 .net
>>912
>卑弥呼の時代に至るまで、狗奴国の人々はこの距離を何度も航海していた

だから「狗奴国」は、「海人族」の長国 だと、何度言えばww   @阿波

933 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:18:21.23 .net
>>921
>>931
なんか背筋がゾッとしてきた

934 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:19:39.42 .net
>>921
国東半島から同心円状に矢じり(戦地跡)が広がってるな

中心地がどこかがわかる

935 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:21:49.24 .net
>>929
どの文章のことを言っているか不明
具体的に書いて欲しい

936 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:22:38.00 .net
>>921
矢じり分布を「戦地の跡」と解釈すると

むしろこの国東半島を中心とした勢力(そしてこの勢力がたぶん瀬戸内海航路も抑えている)
こそが狗奴国だったんじゃないか?

狗奴国は小国ながら瀬戸内海航路をおさえ、存在感を発揮していた

その国東半島から同心円状に戦地が広がってるのは
邪馬台国連合30カ国が狗奴国を取り囲む形で形成されており、各方面から侵攻を仕掛けていたということ

937 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:23:27.94 .net
>>934
獲物がいっぱいいて、狩猟が盛んだったようだな。   @阿波

938 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:24:42.65 .net
>>931
そして、国東半島側が狗奴国で
南九州側は邪馬台国連合の飛び地(遠絶にして不可得詳の国)なんだろう

939 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:24:53.91 .net
>>936
>矢じり分布を「戦地の跡」と解釈すると

脳内先走りすぎ!   @阿波

940 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:26:20.63 .net
>>939
矢じりは武器だろう
武器が打ち捨てられてるなら、それは戦争で使われたのがそのまま放置されたと考え得るだろう

941 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:26:44.71 .net
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡や菊池市のうてな遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる

942 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:28:25.23 .net
国東半島から瀬戸内海航路をおさえたのが狗奴国


九州のそれ以外の地域=博多湾、有明海、南九州をおさえたのが邪馬台国

こういう領地の分布じゃないか?

「もとより和せず」の意味がわかるだろ

943 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:29:12.43 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

944 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:29:58.11 .net
そして狗奴国の中心は海人族で、対馬壱岐から来たんだろう

だから狗奴国の官は「ヒコ」を名乗る

その狗奴国が大阪湾に到着しヤマト王権を開く

945 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:32:09.59 .net
>>921
この九州を南北に分断するような鉄族の分布を菊池川沿いという人がいるけど正確にはより南の白川沿いだからな

946 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:32:39.18 .net
>>940
>矢じりは武器だろう

戦争より、狩猟だ。 腹が減っては戦は出来ん。   @阿波

947 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:33:59.02 .net
>>942
>国東半島から瀬戸内海航路をおさえたのが狗奴国

と、言われてもチンプンカンプン。   @阿波

948 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:34:41.23 .net
>>946
狩猟ならどの地域からも満遍なく見付からないとおかしい

949 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:34:48.17 .net
>>945
だろ?
白川をラインとして、その北側が狗奴国、南側が邪馬台国だわな明らかに

邪馬台国は南から北へ攻めた
それを菊池川エリアをおさめるヒコが迎撃した形

950 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:34:58.37 .net
>>944
>その狗奴国が大阪湾に到着しヤマト王権を開く

と、言われてもチンプンカンプン。   @阿波

951 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:35:17.55 .net
北、南、東への進出侵攻は恒常的に行われた
それとは別に卑弥弓呼と不仲が報告されたということ

952 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:36:50.84 .net
魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

よって狗古智卑狗は菊池彦では無い

953 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:39:16.86 .net
で、狗奴国が宮崎も支配してたらら投馬国は何処になるの?

954 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:39:21.49 .net
>>950
王族の尊称は「ヒコ」「タマ」「ミミ」「ニキ」などがあったが
ヒコ系の文化圏の勢力がその後の覇権を握ってるだろ

そして倭人伝で「ヒコ」を名乗ってるのは対馬、壱岐、狗奴国の官だけだろ

つまり対馬壱岐の海人が狗奴国を建国して自立し、海洋技術によって大阪湾まで進出してヤマト王権となった

こう考えるのが明らかに合理的

955 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:39:30.92 .net
>>948
倭人(阿波勢力)がその地域で活発に狩猟したってことだ。   @阿波

956 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:40:56.58 .net
>>952
河内彦ならなおさら瀬戸内海航路を狗奴国がおさえてたことになる

957 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:41:38.14 .net
>>952
河内彦ならなおさら大阪湾は狗奴国の領地ということになる
ストーリーラインの根本は変わらない

958 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:42:30.56 .net
>>956
菊池彦でも河内彦でも無いだろ

959 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:43:02.20 .net
>>950
お前が阿波に固執して盲目になってるだけ
よく考えればわかる

960 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:46:47.62 .net
河内と大和の間に戦乱の痕跡なし

961 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:48:39.66 .net
>>959
>よく考えればわかる

碌に鉄器さえも作れないヤマト王権などは、とても考えられんけどな。   @阿波

962 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:52:45.37 .net
対馬国から壱岐国の行程記事

又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
「又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」


「名は瀚海と曰ふ」

対馬と壱岐の間の海域だけ特別に名前がついていて、魏の使者がわざわざそれを記している

この瀚海こそが高天原だろう

963 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:59:45.87 .net
>>955
それじゃ説明付かないよ
何故なら当時の鉄は貴重な資源でもあり
回収して鋳溶してまた鉄の矢じりにしたり別の鉄器に使うから
使い捨てにしないのが普通
それでも残るのは使った人間が死んで回収しきれないとか
回収しきれないほどの沢山の鉄の矢じりが飛び交った等の事情があったからと考えられる
それが起きるとしたら倭国大乱や狗奴国との継続的な戦争だろう

そもそも行方不明になった鉄の矢じりが全て1800年後まで残る例は稀だろう
ほとんどは錆びて朽ち果てて消え去ると思われる
現代の発掘で見付かるのは失われた矢じりの中のごく一部
仮に100個の矢じりの内一つが現代まで残るなら当時に使われた矢じりは見付かった矢じりの100倍ということになる
そういう効果を考えた場合、見付かった矢じりが狩猟に使われたものという想定は通らないと俺は思う

964 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 11:59:48.19 .net
つまり海と無縁な畿内説は低能の妄想作文でかないですよと

965 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:02:37.73 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

966 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:05:00.84 .net
>>965
女王国伊勢説なん?

967 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:05:10.11 .net
畿内だと溶けて跡形もなくなっちまうから

968 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:05:40.13 .net
早速低能馬鹿が現われたなw

969 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:07:30.35 .net
トドメを刺されたね元々は入植地だった畿内説は

970 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:18:24.50 .net
>>941

倭人伝では遠絶な旁国の南に有るのが狗奴国
倭の五王時代の後漢書では
拘奴国は女王国の東の海を渡った倭種に修正されている

倭人の風習卜骨や黥面土器の分布では
後漢書の地理観が正しい

971 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:24:00.83 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713580888/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

972 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:27:41.65 .net
>>963
>それが起きるとしたら倭国大乱や狗奴国との継続的な戦争だろう

残っている鉄鏃が戦場にあったやつだという空想に根拠がない

973 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:30:37.21 .net
鉄鏃が見つかっているのは住居跡や副葬品

974 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:31:18.96 .net
>>946
殺傷人骨は中九州で殆ど出土してないからな

975 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:31:58.69 .net
>>963
ところで、その鉄鏃はどこで作られたと思っているんだ?   @阿波

976 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:33:56.23 .net
>>970
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

「その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。
その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。」

其八年太守王頎到官
  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
  遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

「正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。」

狗奴国は邪馬台国の南
どちらかが一方的に攻撃して反撃されてないのなら離れた国から遠征軍が来たと分かるが
互いに攻撃し合っているのだから国境を接しているか、接していなくても攻撃可能な近い距離にあったのだろう

977 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:34:54.82 .net
>>975
弥生時代の鉄鍛冶の移籍は九州にもあるよ

978 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:36:07.38 .net
>>972
戦場でなければ大量に残るわけないだろう
軍の駐屯地なら管理かれてるから再資源化される

979 ::2024/04/20(土) 12:36:39.87 .net
狗奴国は、どことかない
天津に相対する国津のクニ全般を指す

>素不和 ←だから、素より不和

狗古智(拘右智)卑狗は、国津の珍彦ウズウヅ)ヒコ

のちの倭国造の祖、まさに神武天皇の知恵袋
「右はたすける」「智は賢い」、字義考察でも当てはまる

そういえば、アメノウズメも「ウズ」が付くねw
サルタヒコも、出会う流れや「国津」と語っていたし、なにやら話が一致
ウズヒコと関係あったりしてw

本当に日本神話って似たり寄ったりな話が多いよね

980 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:38:41.13 .net
>>976

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
〜次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國」

狗奴国は遠絶な旁国の南

981 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:42:45.17 .net
>>980
それ、邪馬台国の道中の説明だよ
末盧国奴国不弥国投馬国邪馬台国は実際に訪れたけど
それ以外の女王国は「遠絶 不可得詳」として一気に説明する前振り

982 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:43:32.66 .net
>>977
なんという鍛冶工房なんだ?   @阿波

983 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:43:38.04 .net
>>978
>戦場でなければ大量に残るわけないだろう

なんで?
理由は?
思い込みじゃないの?

984 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:44:06.58 .net
物理と精神の2つが織りなす相対性観念

光の姿を顕す二重スリット実験が示す通リ

波と粒子が織りなす2重性の不可思議なこの現実世界

理解には時空を超え俗世を脱ぎ捨てた最強の知恵が必要だ

985 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:45:05.41 .net
>>981
その通り。   @阿波

986 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:47:20.40 .net
記紀に記録されない墳墓のどれかが卑弥呼
黒塚古墳ならその候補になるな

987 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:47:43.36 .net
>>983
戦争以外に同時に大量に鉄の矢じり使う状況無いだろ
同時に、というのは鉄は貴重だから一つ二つ使うくらいなら確実に回収されるから
同時に大量に使うから回収しきれなくなったり
数が足らないとかが判別できなくなる

988 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:51:58.42 .net
>>981

その訪れていない女王の境界所盡の南にあるのが狗奴国

989 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:53:33.32 .net
>>987
>戦争以外に同時に大量に鉄の矢じり使う状況無いだろ

その矢じり、どういう場所で出土したんだ? 本当に山中のなのか?   @阿波

990 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:53:34.97 .net
>>987

鉄は貴重だから戦争には使わないだろう

991 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:54:15.33 .net
>>988
その通り。   @阿波

992 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:55:53.81 .net
>>987
やっぱり思い込みのゴリ押しか
あなた>>973さんの言ってることとか無視?
だから九州説はダメなんだよね

993 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:03:04.50 .net
>>990
魏志倭人伝に鉄の矢じりを使うと書かれてるよ

994 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:04:50.29 .net
>>992
住居後にすら鉄の矢じりが残されてるというのは
それだけ戦が身近だった証拠だよ
墓で見付かったのは体内に残された矢じりかもねw

995 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:05:32.40 .net
>>993

魏使は戦場には行っていないだろう

996 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:06:12.64 .net
>>995
邪馬台国、又は倭国の軍備の話やぞ?

997 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:07:39.43 .net
>>994
お前、妄想癖か?   @阿波

998 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:08:56.61 .net
>>994
お前、妄想癖か?  山中じゃないのかよww なにが戦闘だ! あほらしい。   @阿波

999 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:09:09.11 .net
レベルの低いスレがやっとぉ終わる

1000 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:11:17.49 .net
>>996

後ろのほうの安全なところにいる指揮官は鉄剣や鉄鏃を備えてるだろうが
前線で戦ってる兵は礫とかだろうな
鉄がもったいないから
後漢書では鉄鏃の記載はない

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