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邪馬台国畿内説 Part1014

837 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 22:33:57.39 .net
晋書 第九十七巻に拠る『 倭人伝 』 房玄齢撰

倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

倭国における重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

倭人国家のいにしえの王家は男王を君主として擁立していたが
漢代末に倭国同士の内乱が起こり、倭人は共に女王を擁立し倭国連合の女王とす。
其の女王の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
卑弥呼は役人を遣し帯方に至り宣帝に朝見した。その後も朝貢が続き遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏国の皇帝になると、また倭人を幾度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国の首都へ朝貢に遣って来た。

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