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邪馬台国畿内説 Part1015

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:41:28.40 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713355021/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:42:16.90 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:42:47.84 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:43:19.40 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:43:51.31 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:44:22.80 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:44:54.10 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:45:24.83 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:45:56.20 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:46:26.63 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:46:58.61 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:47:30.08 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:47:59.85 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:48:29.39 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:48:59.77 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:49:29.95 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:50:00.80 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:50:29.88 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:50:59.71 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:51:29.67 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:51:59.78 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:52:29.90 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:52:59.78 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:53:30.11 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:53:59.43 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:54:29.87 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:55:29.58 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:55:59.86 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:56:29.99 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:57:00.45 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:57:30.30 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:57:59.53 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:58:29.75 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:59:00.76 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:59:30.64 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:00:00.17 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:00:29.60 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:00:59.76 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:01:30.18 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:01:59.79 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:02:30.46 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:03:00.53 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:04:00.00 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:04:30.64 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:05:01.25 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:05:29.93 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:06:00.22 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:06:30.98 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:00.36 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:30.35 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:59.87 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:08:30.28 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:08:59.88 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:09:29.99 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:10:00.92 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:10:30.84 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:11:00.90 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:11:29.96 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:12:31.72 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:13:00.77 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:15:01.44 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:15:30.33 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:16:00.64 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:16:30.69 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:17:01.08 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:17:30.40 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:18:00.84 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:18:30.90 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:19:00.66 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:19:30.69 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:20:00.67 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:20:30.89 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:21:00.53 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:21:30.83 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:22:01.77 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:53:28.84 .net
@まず(魏使が直接足を運んで見た場所を意味する)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

77 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:54:43.07 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)ですが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

78 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:57:34.18 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

79 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/20(土) 13:11:13.62 .net
邪馬台国=ヤマト王権
日本は建国の時に中華の臣民になった

80 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:13:56.85 .net
邪馬台国は畿内にあったんだ
阿波にあったんだ
という結論に合わせて遺跡や出土品を解釈してるから
畿内説や阿波説が本当であるかのように思えてしまう

81 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:17:25.66 .net
>>80
それはスーパーど素人の考え

82 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:20:09.17 .net
不弥国(奴国から百里なら宗像、もしくは直方平野の遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない

@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在其南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使は直接見たわけで、四国を見るルートはABで、@日本海ルート(出雲投馬国)は消える。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium

次にA瀬戸内海ルート(吉備投馬国)だが、山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要はなく、さらに水行十日を大阪へ向かうとすると、同様に道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判り、仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、女王之所都は横浜(385q)東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は東北地方蝦夷になってしまう。

残るB豊後水道ルート(日向投馬国)だが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折でアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

83 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:23:19.18 .net
九州は西岸(有明海)と東岸(周防灘・豊後水道)で地形が全く違う

開けた平野(オランダ)と険しい山地(スイスアルプス)でまるで別の国のようだ

84 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:25:13.71 .net
>>82
さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫(邪馬台国7万戸)女王卑弥呼は、合計12万戸で肥後狗奴国(8〜9万戸か)を挟撃しようとしたため、卑弥弓呼と狗古智卑狗は「窮鼠猫を噛む」決死の覚悟で乾坤一擲、卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かった政治的軍事状況が判り、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

85 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:32:02.15 .net
>>83

ということは、九州の西岸(有明海)を水行十日陸行一月で
まだ熊本にも着かないということはない

86 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:36:18.98 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形態の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

87 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:39:16.60 .net
里数や戸数が大幅に盛ってあるのに
日数だけは正確というのは非合理的

88 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:40:27.74 .net
>>87
どうして?

89 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:42:05.87 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

90 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:43:01.70 .net
>>87

里数、戸数、日数が間違いなら
行程で比定はできない

91 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:45:06.69 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

92 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:52:51.69 .net
ハイハイ倭種倭種

93 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:54:07.75 .net
>>90
間違いがあるから場所がわからない

94 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:58:52.49 .net
>>86
ホケノ山に槨は無いよ

95 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:01:12.20 .net
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)、複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。

96 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:01:18.66 .net
我々定説畿内説も、九州説に答えてみようと思う

九州説の皆さん、質問ありますか?

97 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:03:08.45 .net
>>86
また(甚だ都合が悪い)畿内説のキチガイが噛み付いてくるだろうけど、「槨」の定義じゃないんだよね。

土に甕棺や石棺を直接埋葬してる九州と、一旦石槨(石室)を作ってから木棺を安置してる大和では明らかに墓制が違うでしょ?ってことw

98 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:03:28.85 .net
>>96
必要条件と十分条件

2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから

例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない

どう思います?

99 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:05:46.71 .net
>>76
>>77
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

100 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:06:26.29 .net
>>82
基本、官職名と地名は関係無いと思うよ 
人名に付いてるなら分かるけど
その上、狗古智卑狗は拘右智卑狗の誤写なので菊池のコジツケも無効

  狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

101 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:06:44.41 .net
住居跡の少ない大集落てなんか哲学的だよな

102 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:07:05.84 .net
地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

103 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:09:18.22 .net
>>95
菊池平野はド田舎で、古代に熊本平野と八代平野はほぼ沈没してたよ

104 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:09:27.43 .net
>>101
楼観なし厳設城柵なしの大型建物は、セレモニーホールを思わせるね

105 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:13:35.61 .net
>>103
出た!w
分が悪くなると、邪馬台国の時代だけ北部九州を海に沈めてしまう御都合主義畿内説の素人洗脳工作w

106 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:18:43.47 .net
>>98

漢代に漢委奴国王印を貰った奴国が
女王卑弥呼が共立された倭国の一番南の国

107 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:19:52.94 .net
ヤマトの人たちはヤマト王権誕生の地を大市にしたんだね

108 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:29:03.12 .net
>>104
セレモニーホールには楼観も厳設城柵も、吉野ヶ里の主祭殿3階のような祈祷所も、必要ないからねw
ただ神社の板柵みたいな結界があればよいw

109 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:42:41.63 .net
セレモニーホールを中心にした(葺石を運ぶ)大溝付き巨大古墳造営キャンプを王都と勘違いした畿内説

110 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:42:46.85 .net
日本の中の古代韓国吉野ヶ里アトラクションの復元重層建物は
唐古・鍵の絵画土器や家屋文鏡や中国の画像摶に描かれた市楼を参考にしたもので
日本の中の古代韓国吉野ヶ里ではその根拠は見つかっていない

111 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:46:20.81 .net
狗奴国は北海道で良いじゃん

112 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:46:29.90 .net
楼観なし厳設城柵なし…桃の種、鍬の再利用の木製仮面、カエルの骨…やっぱり王都じゃないな

113 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:48:52.76 .net
>>107
多分市やってたと思うよ
伊勢遺跡も周囲を囲む建物は倉庫だと思うんだけどね

114 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:50:15.61 .net
大市って、かなり後の話がごっちゃになってるんじゃないの?

115 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:51:54.45 .net
「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」は、
王となりてより以来、見る者少い女王卑弥呼が居るところで
集落全体ではない
日本の中の古代韓国吉野ヶ里アトラクションの復元重層建物では
2階に吉野ヶ里の親玉たちがいることになっている

116 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:53:45.32 .net
>>114
各地から持ち寄ったものを腐らせるだけってのも変だし

117 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:55:21.74 .net
つまり畿内説はウリナラ(私たちの国=奈良)韓国起源

118 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:57:39.89 .net
関西の半日有害九州説は、
奈良時代をウリナラ(私たちの国=奈良)時代だと主張している

119 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:58:40.02 .net
関西の半日有害九州説 → 関西の反日有害九州説

120 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:00:01.50 .net
つまり畿内説は日本人に成りすました某隣国人による、邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

121 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:01:40.07 .net
>>95
祇園山古墳には棺は無いよ
「有棺無槨」に非該当

122 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:09:28.61 .net
石棺が露出しちゃってるから槨はないよw

123 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:13:43.57 .net
つまり畿内説はウソつき

124 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:26:19.87 .net
4世紀初の祇園山古墳集団墓地は、
弥生時代後期の山陰・北陸両地方や瀬戸内地方に多い
地山から方形台状に削り出した方形台状墓に属する
近畿地方で弥生前期からつくられる方形周溝墓は
周囲に溝をめぐらし,地表面に盛土をする
3世紀前半の西日本では、
高く盛土をした塚を周溝で囲んだ壺形の纏向石塚古墳、那珂八幡古墳が造られる

125 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:28:44.46 .net
>>84
247年時点で東海狗奴国と死闘を繰り広げてるようじゃ、箸墓みたいな超巨大古墳は無理だね…orz

126 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:33:39.08 .net
女王国と狗奴国が死闘を繰り広げてるなんて魏書のどこにも書かれてないが

127 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:34:08.82 .net
>>105
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i7c8b819d3f31124d/version/1632177706/image.jpg
参考図 

128 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:34:17.16 .net
>>125
古今東西、殺るか殺られるかの死闘を演じた場合、世代交代しない限り、仲直りはあり得んよ
まして自分の親を殺そうとしいてた旧敵の墓造りを手伝うなどもっての他だろうw
247年に大和邪馬台国と東海狗奴国が帯方郡に報告が行くほどの死闘を演じてた場合、箸墓の築造は早くても一世代30年として280年以降と見るのが妥当

129 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:38:01.19 .net
薩長同盟

130 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:38:55.28 .net
>>84
張政が来ちゃってるから里数表記じゃないとおかしいねw

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

131 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:40:36.76 .net
巨大古墳は、軍事的に朝鮮半島に進出した倭の五王時代に
さらに巨大な前方後円墳が造られている

132 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:40:39.68 .net
つまり畿内説はウソ

133 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:41:22.45 .net
内戦と侵略戦争は違うだろw

134 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:43:26.81 .net
狗奴国は女王国の外

135 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:46:05.16 .net
>>128
墓造りを手伝ったって誰の説?

その説を証明しないと
畿内説への反論には
ならないね

136 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:47:52.24 .net
>>122
>石棺が露出しちゃってるから槨はないよw

あれが石棺だって証拠は?

137 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:50:27.18 .net
岡上よりトナカイの方が知識量は圧倒的に多い

138 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:55:35.19 .net
>>130
別におかしくはないが
来る度に測量やってられるか?

139 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:57:42.03 .net
>>134
でも卑弥呼と卑弥弓呼はすげえ仲が悪い

140 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:59:47.21 .net
>>137
いや、岡上は知識がない

141 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:03:14.87 .net
>>139

不屬女王だから内戦ではない

142 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:05:27.81 .net
海抜変化
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geoA-tikeinohenka.html
https://i.imgur.com/12GcTAK.jpeg

143 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:05:55.92 .net
>>141
卑弥弓呼と狗奴国は別だと考えれば良いのよ
不属の国の王と個人的に仲が悪くなるわけねえじゃん

144 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:08:51.12 .net
卑弥弓呼は王位継承権がある卑弥呼政権内の人間
狗奴国は北海道辺りの毛人じゃないか?

145 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:09:26.71 .net
>>143

「狗奴國男王卑彌弓呼」と書いてある

146 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:10:29.05 .net
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

147 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:12:27.08 .net
隋書や紀年銘鏡で日本の都大和国は元邪馬台国。祭祀王卑弥呼の鏡は軍事王の天皇の権威だったともう決まってるからな。

148 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:13:12.22 .net
>>145
書いてあっても後漢書と方向が違うよね?
どう考えても南に不属の国はないから訂正したんでしょう

149 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:13:15.85 .net
>>147
蛮族の文字のない時代の話をどうやって確認したの

150 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:14:31.23 .net
>>146
後継者争いの工作をしてたんでしょう

151 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:14:47.23 .net
後漢書の拘奴国はもろに魏志から切り貼りされてるから
訂正されたのかそれとも適当に要約したのかわかんね

152 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:16:19.61 .net
>>148

だから男王卑彌弓呼の狗奴國は東の海を渡った皆倭種(倭人と同じ種族)の国

153 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:16:27.62 .net
>>151
南と東で方向が違うでしょ?

154 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:17:49.34 .net
>>152
取り敢えず南ではないって事でしょ?
えみしを指してると思うがなあ

155 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:19:30.52 .net
はっきりした理由もなく自分の想像を言い張っても意味はない

156 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:19:47.93 .net
不属の国と言えばえみしでしょう

157 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:20:37.09 .net
>>153
魏志
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

後漢書
自女王國東度海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王

158 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:20:55.69 .net
>>155
卑弥弓呼と卑弥呼は近いよ
敵国ではない

159 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:21:18.87 .net
>>157
>>158

160 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:23:30.57 .net
邪馬臺国と狗奴国は相攻撃状だったようだからお隣同士かもね
王の名前もそっくりだし

161 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:24:37.95 .net
「この紋所(黄幢)が目に入らぬか?」
「ははあ~」

162 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:25:54.44 .net
倭人には効果無かったろう

163 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:26:04.77 .net
卑弥呼もとより和せずなので倭国大乱で卑弥呼共立に反対したんだろうね
で、結局倭国大乱経て共立されたのが卑弥呼で
それに反抗し続けたのが卑弥弓呼と呼ばれた

164 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:29:11.33 .net
>>147
隋書は日本側に聞いた話を記録しただけだから
日本側が箔付けの為に嘘を教えたと思うわ

165 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:36:26.67 .net
>>163
おまえじゃダメだと言われて卑弥呼になったらそら恨むよ

166 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:45:17.24 .net
>>164
>日本側が箔付けの為に嘘を教えたと思うわ

思う理由は?

167 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:45:21.05 .net
>>162
効果があるから黄幢持って行かせたんだろう

168 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:46:56.57 .net
倭王は中国の役職だぞ

169 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:47:41.59 .net
先に鳴いたのは鶏だけどな
卑弥弓呼の墓ではないと思うが庭鳥古墳という前方後方墳が河内にある
焦った文身の風習がある海人の倭人が卑弥呼を担ぎ出したんだろう
で膠着状態が数十年
纏向遺跡という後処理に困るものだけ残して卑弥呼は亡くなる
そもそも海に住む人らが内陸の奈良にいること自体おかしな話だ
そこで狩猟採集生活をしていた先住民の許可を得たのかという話になる

170 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:48:31.11 .net
>>166
だって隋が日本側の言い分の裏付けを独自に調査するメリット無いから
日本側にしてみれば
ウチは三国志の時代から続く由緒ある国ですよアピールは箔付けとして申し分無い
それの真偽なんか隋にはどうでも良いだろう

171 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:51:28.70 .net
ちなみに唐の時は突っ込まれまくったみたいだ

<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png

◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
 
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
 
 そして古代倭国との関係について
 日本国使者があれこれ言い訳をする。

「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
 ↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。

「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉」
(其の入朝者、多くは自ら尊大、真実をもって答えず。故に中国、これを疑う。)

172 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:51:51.77 .net
>>170
おそらく神武天皇だと思うわ
属国なんて認めない

173 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:57:54.61 .net
遣唐使「そうじゃないんだって、わかんねえ人だなこの人も」

174 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:18:18.77 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

175 : 警備員[Lv.23(前25)][苗]:2024/04/20(土) 17:28:13.23 .net
卑弥弓呼は「弓」に関係する人物

さらに卑弥呼の名を割いてるので
十中八九、卑弥呼は弓でやられたと考察できる

同族で死因は弓、だいぶ絞られるね

176 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:31:49.61 .net
狗奴クヌ 国
卑弥ピーミー 弓クン 呼ホ

おそらく弓は狗奴のこと クヌ=クン

177 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:37:18.58 .net
>>175
幼い頃から頭が悪いと言われ続けませんでした?

178 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:38:36.61 .net
・於投馬国(『太平御覧』に引用された『魏志』倭人伝の国名)

於 上古音qa    中古音iɔ˧
投 上古音doː   中古音dəu˧
馬 上古音mraːʔ  中古音mɯa˧˥

中古音だと、「イデウムワ」国になり、「出雲」に発音が近い。
※「於」の音は「烏五」で、子音cが付く

179 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:38:48.02 .net
卑弥呼はヒメミコ
卑弥弓呼はヒコミコ

日本人が偉い人の名前を呼ばない風習は卑弥呼の時代からあったのだろう

昭和カルチャーの組織は今でも上司の名前を呼ばず社長、部長、課長などと地位・肩書で呼ぶ

180 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:40:07.07 .net
>>171
>ちなみに唐の時は突っ込まれまくったみたいだ
<旧唐書より>
>倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。

まさか、それが唐代の文献だと思ってたりして
まさかそこまで馬鹿無学じゃないか九州説
さすがにね


w

181 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:43:24.15 .net
 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。

 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。

  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 

  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →

  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 

 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。

 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。その『梁書』にも「於投馬国」は見られません。これはなぜでしょう。

 実は、魏晋南北朝の文章として「至於A」は不自然だったのです。「於」があると「……に至るまで」という強調的・抽象的意味としてとられるのです。この場合は、投馬国だけ取り上げて「ここまで至る」と強調するのは、今まで客観的に道程を記述してきた文章からみると、唐突です。『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。『梁書』も同じです。

 ところが「投馬国」となると、語頭に濁音のこない日本古代語には存在しない発音になるのです。それが認識されていなかったのは、中国唐代700年以降の発音である漢音で読んだからです。これだと「トウマ」になり、問題ありません。しかし、魏晋代の発音は、呉音に近く「ズマ」と読むのです。「トウマ」と読んで気づかなかったのは、余りにも迂闊だったと思います。

182 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:44:16.60 .net
>>180
書かれたのが後晋の10世紀でも
日本側に文字記録の無かった弥生時代、卑弥呼時代とは違うから
デタラメとは言えないだろう

183 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:47:23.47 .net
放射読みは間違い
投馬国も間違いで、正しくは於投馬(イヅモ)国

184 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:49:06.13 .net
>>171

建武中元二年(57)の倭奴国は、
卑弥呼が共立された倭国の一番南の国(後漢書)
「日本国者,倭国之別種也。」 は、
中国が疑っている内容

185 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:52:38.16 .net
>>182
言えたらどうする?

186 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 17:56:45.00 .net
>>167
そうですかね?
相手に"なんだそれ"と言われないですか

187 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:03:20.72 .net
投馬国は原文では於投馬国だったのを、アホの陳寿が於を前置詞と勘違いして省略してしまったのだった
投馬国が宮崎の妻だの、たまのくにだのは100%デタラメ

188 ::2024/04/20(土) 18:09:37.21 .net
ここか 投馬国は出雲だよ

189 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:11:48.61 .net
>>188
その心は?   @阿波

190 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:12:07.89 .net
理由を言わないと九州説並みに落ちるぞ

191 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:12:52.75 .net
それだとオヅマ国だし、出雲経由だと若狭湾あたりで方向転換する話が
出てくるはずだろ

192 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:17:02.74 .net
>>191
■於投馬国(『太平御覧』が引用する『魏志』倭人伝) 
上古音 於qa   
中古音 於iɔ˧
上古音 投doː
中古音 投dəu˧
上古音 投mraːʔ
中古音 投mɯa˧˥
当時の中国語に近い発音:イォデゥムワ

193 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/20(土) 18:19:47.48 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

194 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/20(土) 18:36:42.37 .net
ネトウヨは日本保守党や参政党といった団体を支持しているからな
邪馬台国の会の裏にいる連中も日本会議系の集団ではないかと睨んでいる
反アイヌ運動や反クルド運動や反在日運動や反リベラル運動の黒幕が日本会議や壺だった
邪馬台国九州説のネトウヨも恐らく同じ系統で新しい教科書を作る会の極右と繋がっている

195 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 18:44:06.91 .net
なるほど畿内説やべーな!

196 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 19:28:38.30 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

197 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 20:03:50.17 .net
岡上よりみりも知識がまるトナカイ

198 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 20:35:59.74 .net
対馬國と投馬國
まるっきり一致

199 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 20:51:29.96 .net
よく理解できないのですが、ざっくり言って
九州説は皇国史観を譲れない立場で、畿内説はイデオロギーに縛られない理性重視、ということでいいのですか?
邪馬台国が魏に朝貢していたことを認めることができるか、そうでないかという違い

200 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 20:54:36.53 .net
え?逆じゃない?

201 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 20:59:12.22 .net
だって、邪馬台国(あるいは卑弥呼がいた都)=ヤマト王権とした場合、天皇の祖先が中国に朝貢してたということでしょう?
それが許しがたくて、江戸時代に国学者たちが九州説を唱え始めた
という自分の解釈は間違っているんですかね?

202 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:06:50.34 .net
畿内説が皇国史観やろ
何でもかんでもヤマト王権の功績、卑弥呼が初代天皇やで

203 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:08:02.71 .net
ヤマト王権以外の権力の存在を想像も容認も出来ないのが畿内説(とりわけ畿内自生説)

204 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:10:19.51 .net
皇国史観を始めたのは大和政権だ
卑弥呼や倭の五王を記紀に記さなかったのは朝貢を隠蔽したかった
中国史書を焚書するわけにもいかんから神功皇后を九州で活躍させて女王のように仄めかした
いわば大和政権も九州説だったわけだ
確かに九州説はイデオロギーから始まった
そのイデオロギーができる前は普通に真実だった

205 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:16:30.68 .net
>>203
それはどうだろう?
高天原から神武がやってきたと思ってる畿内説も結構居るんじゃないか?
俺はそんなの認めないが

206 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:21:37.56 .net
神社もないし神話もないし朝貢はやってた
俺は畿内説てか伊勢遺跡説

207 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:44:43.68 .net
万世一系なのが畿内説で
多元王朝なのが九州説

208 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 21:49:20.71 .net
狗奴国がヤマト政権の本流と思うけどね
狗奴国卑弥弓呼は大物主が招いた酒
固く閉じられた朝=アチメの門をこじ開けた
三輪の朝の門は纏向遺跡のことでしょ

此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)

酒は香、孝昭天皇の名だな
香りがよい木、香木が埋まっている伝承が堺の浅香にある
因みに正倉院には全浅香というとんでもない宝物がある
アサカの神は名がころころ変わるサルタヒコ

209 :201:2024/04/20(土) 22:02:41.57 .net
ことがそう単純でないということが理解できました
ありがとうございました
どうもお邪魔しました

210 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:03:15.34 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

211 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:13:00.72 .net
九州はただの倭人部族、豪族の集まりで王朝化する前に停滞した地域。
中央集権化して東の朝廷を中国に名乗るのは漢化した邪馬台国だけ。

212 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:17:07.16 .net
日本は漢化した倭国

213 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:25:23.90 .net
畿内説の旧主流派・畿内自生説が唱える3世紀北部九州停滞・没落説は、畿内説の現主流派・アンチ畿内自生説から強く否定されている

以下、久住猛雄のXより

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」

「福岡田舎って?少なくとも古墳前期までは全国一の「都会」、その後も「交易都市」が時代ごとに勃興してますが?地理と経済専門だって?何を言ってるんだ?」

次いで、以下は松木武彦「古墳とはなにか」より

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

214 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:26:10.30 .net
弥生時代後期一斉に龍の絵画土器が九州一円鹿児島、五島列島、壱岐から東は富山、神奈川東京まで広がるんだよな
大きな国の枠組みが出来始めたのは間違いない
女王国より遥かに広大な国
初期のヤマト政権であり幻の出雲王国だろう
阿蘇の神は健磐龍命は磐と龍の神の配下の武人みたいな名だ

龍の絵画土器が集中している地域は壱岐、五島列島、博多、広島岡山香川愛媛兵庫大阪の沿岸部、東京湾沿岸部だ
武蔵国の神さまも龍かもな

龍の絵画土器と鳥形は分布は重なるが龍の絵画土器の方が遥かに広大な分布だ
この枠組みが倭国大乱で崩れたんだろうな
岐阜しかり各地で龍や蛇が退治される伝承が残っている
東北の伝承の龍の黒神だろうね

215 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 22:38:16.39 .net
1Cの弥生後期の龍絵土器は楽浪郡と交流が始まった証左

216 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 23:08:45.79 .net
日本は3世紀の邪馬台国(のちの大和)をきっかけに漢化しだすw4世紀以降に本格的な漢字伝来。

217 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 23:14:52.57 .net
漢化と言っても中国大陸から直接入ったものではなく楽浪郡から間接的に
入ったものだけどな

218 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 23:35:39.97 .net
茅の輪を潜れば皆日本人だが
大半の渡来人は部民とされ平民より身分が低かったのも事実

219 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 00:04:22.04 .net
テスト

220 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 00:05:21.15 .net
皆様方、良い夢を… (-.-)Zzz・・・・

221 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 00:16:32.22 .net
龍の絵画土器など西日本各地から出ているから邪馬台国畿内説の証拠にはならない

222 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 00:39:15.97 .net
九州説って万世一系信仰してるでしょ
天皇一代何年だから何代遡ると西暦何年でーなんて言って
卑弥呼=アマテラスなんて言ってるじゃね?

223 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 04:48:04.98 .net
以降は、放射読みは原文無視・投馬国は於投馬国の転写誤字・狗古智卑狗の古は右の転写誤字という事を、ちゃんと頭に入れてから議論してください

224 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 05:04:28.95 .net
>>181
>『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。

固有名詞の当て字って他の人間が読んだ時に前置詞と誤解するような字をわざわざ使うものなのか?

225 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 05:41:35.21 .net
>>199
全くの間違い
イデオロギーを捨てて考えても、裁判官は畿内説に勝訴しなければならない

226 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 05:45:03.28 .net
>>183
放射読みは間違いというようり、採集目的地が不弥国の時点終わってる

227 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 06:32:18.63 .net
>>222
畿内説は卑弥呼の時代には既に大和王権が奈良にあった、邪馬台国は大和のことだ
と言ってるぞ?
万世一系はどっちだ?
後平均在位期間を持ち出すのは日本書紀に書いてある古代天皇の没年例が明らかに捏造だから
本当はいつぐらいから大和王権が始まっているのかを
願望抜きに推測する為であって万世一系かどうかとは全く別問題やそ?

228 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 06:38:58.13 .net
>>222
大和王権の成立をゴッドハンド的に古く設定したい人は畿内説に固執する
何故なら神武天皇が王朝立てたのは奈良だから。
そんか願望の無い人で
邪馬台国はどこにあったのか知りたい人は
絹や鉄の矢じりや鏡の出土状況や
魏志倭人伝の記述や九州の弥生時代の遺跡から
邪馬台国は九州にあったんじゃないかと考える

229 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 06:51:32.54 .net
>>213
久住が九州説の馬鹿と戦ってるな

230 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 06:54:16.39 .net
九州説はなぜ死んだのか?
掘っても何も出てこないからでしょう

231 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 06:59:19.65 .net
>>230
纏向なんてたった200回の発掘調査で、桃の種とかいろいろ出てきたのにね

232 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 07:06:31.64 .net
>>228
そんなもんより集落遺跡が重要だろ?
人が住んでた痕跡が無いのに比定出来ない

233 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 07:18:39.42 .net
>>224
不弥国を不・弥国と読むぐらいの凡ミス

234 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:16:34.69 .net
絵画土器の龍は、銅鏡の龍をコピーしようとしたんじゃないかな?
だから、生活道具(土鍋や壺)というより、儀式(葬式)に使う威信財と見ていいのかもしれんw

235 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:21:05.53 .net
本場中国でゎ龍は雷雲の中に棲み、雨を降らせると信じられていたことから、農業を司る神でもある皇帝のシンボルとされているから、
弥生倭国でゎ、干ばつ時の雨乞い儀式に使っていたんジャマイカ?

236 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:31:26.07 .net
で、どうなの?
本場中国で1枚しか出てない三角縁神獣鏡は、卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」なの?w
オリジナル百枚とコピー五百枚が混在してるの?www

237 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:34:35.72 .net
九州から関東までまたがる幻の出雲王国を壊したのは文身をした海人である渡来人の倭人の国女王国
大体の形が見えてきたな

238 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:35:03.07 .net
>>229
畿内自生説の馬鹿とも戦ってる

239 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:38:52.36 .net
>>76
たしかに筑紫平野からは魏志倭人伝に一致する遺構が何一つとして検出されていないね…あれ?w

240 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:46:45.72 .net
吉野ケ里から百人殉葬された巨大円墳と、倭王の金印が発見されただろ

241 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:47:35.68 .net
>>76
うゎ、すげー!

242 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:50:45.63 .net
ヒント:
遺跡=不動産
威信財=動産

243 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:53:30.73 .net
ヤマト政権の始まりは島根から畿内に権威が移動した東遷
その前に九州から尾張迄好き勝手していたヤマタノオロチ退治
渡来人100%の人骨が見つかり遠賀川式土器の分布の東端朝日遺跡は紀元前後で日本海側と共通の墓制に変わり弥生時代後期には松江の西川津遺跡と同じ形の鳥形が出土
大阪にも出雲から来た人がヤマタノオロチを退治した伝承
遠賀川にもヤマタノオロチが退治され遠賀川が赤く染まった伝承
弥生時代後期福岡平野に方形周溝墓
遠賀川や佐賀で、瀬戸内海沿岸部の墓制である石棺や近畿辺りで流行っていた木棺が使われるようになる

244 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:56:04.76 .net
>>243
>ヤマト政権の始まりは島根から畿内に権威が移動した東遷

東遷したのに、碌に鉄器さえも作れない奈良盆地だけどな。   @阿波

245 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:57:21.01 .net
>>242
鏡はいくらでも運べるが、倭人伝にピッタリの某遺跡は持ち運びできないからねw

246 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:58:49.86 .net
>>236
その説が高い

247 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:59:11.27 .net
卑弥呼の巨大円墳も持ち去られた

248 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 08:59:48.93 .net
旧石器時代からいた狩猟採集民、ヒスイを使う三内丸山遺跡と同根の縄文時代の農耕民、伊予から広がった稲作民が遠賀川式土器の勢力退治で手を組んだのかもな
ヤマト政権の始まりであり幻の出雲王国
その中枢は首長、全国の神々が集まり祭祀を行なっていた伊勢遺跡

249 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:00:12.52 .net
>>245
現に「銅鏡百枚」は洛陽の官営工房から持ち運ばれて来たわけだからねw
後漢鏡7期は略奪してこれても、吉野ヶ里だけは纏向に持ってこれなかった畿内説の悲劇だよw

250 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:01:27.74 .net
>>249九州説の頭の悪さ

251 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:02:08.17 .net
卑弥呼や文身の海人はわかりやすく言うと反出雲の勢力であるというのが明らかになってきたな

252 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:02:08.51 .net
卑弥呼の巨大円墳は持ち去られて箸墓になった

253 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:03:13.89 .net
>>249
大和は九州にいた倭王の奥津城「王家の谷」だったんジャマイカ?

254 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:05:57.15 .net
邪馬台国卑弥呼をヤマト政権の始祖としたNHKは出雲の歴史や本当のヤマト政権の歴史をなきものにしたいという意図があったのかもな

255 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:08:13.42 .net
だいたい初代天皇神武陵(方墳w)を捏造するような国に住んでるんだぞ、漏れたちはw
今年は皇紀2684年w(BC660年の奈良盆地は縄文末期w) すべてを疑ってかからないとw

256 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:08:58.55 .net
>>254
寺澤が勝手に言ってるだけなんだが?

257 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/21(日) 09:12:23.31 .net
九州説の言い出しっぺが江戸時代の国学者だった時点で、これが皇国史観による歴史修正主義の賜物であると理解できよう

畿内説の骨格は「邪馬臺國=ヤマト王権」そして「天皇は中華皇帝に臣従した」の二点である

ネトウヨは臣従を認めたくないために九州説という虚構とデマを至るところで書き散らかしているというわけだ

258 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:15:12.23 .net
>>253
慧眼だ
たしかに大和盆地を九州にいた「王家の谷」と考えると、威信財の副葬品(後漢鏡7期や鉄器)は九州から倭王の遺体と共に瀬戸内海を舟で運んで来たと思われ、古墳造営キャンプ纏向遺跡に九州の土器などが出ないのも本州(女王国東渡海千里 複有国皆倭種)の奴隷を使ったから、布留式土器は本州から九州に連れて来た奴隷が持って来たと説明できる

259 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:20:15.45 .net
狗奴国卑弥弓呼が香の孝昭天皇のモデルだよ
卑弥呼とちゃうから

260 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:20:26.72 .net
>>258
天才ハッケソ!
卑弥呼・台与の「女王之所都」は吉野ヶ里、卑弥呼の冢は箸墓、台与の墓は西殿塚で問題なくなる

本日、九州説と大和説はついに整合し、邪馬台国論争に終止符が打たれたのである!

261 :ネトウヨボクメ ツタイ!:2024/04/21(日) 09:27:24.46 .net
畝傍山の麓にある所謂「神武天皇陵」は恐らく飛鳥時代の何処かで祭祀用に作られた参り墓と考えられる

古事記で有名な太安万侶も本物の墓が見つかっており、今に伝えられてきた太安万侶墓は祭祀用の参り墓だったというのが判明している

このように参り墓と埋め墓は混同されて後世に伝わったいくものなのである

オレは現在の「神武天皇陵」とは本物のヤマト王権初代王の墓地の伝承が失われたあとに祭祀用に作られたモニュメントではないかと推測している

畝傍山は倭京や藤原京の宮廷から簡単に歩いていける場所だから橿原宮伝承に基づいてあの場所が定められたと考えられる

本物のヤマト王権初代王の墓は纏向石塚古墳ではなかろうかと思う

そして欠史八代の墓や明らかに治定のおかしい古墳も参り墓と考えれば説明がつくのである

262 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:32:29.17 .net
>>260
日本地図を見ると、日本列島は、九州(嬰児)西日本(右足)四国(左足)瀬戸内海(股)河内平野(膣)大和盆地(子宮)東日本(上半身)北海道(頭)、つまり赤ちゃん(九州)を産み落とした直後の女性の形をしている。
倭王卑弥呼は胎内回帰願望から、遺言により九州(嬰児)から大和盆地(子宮)に戻ることを決め、各地の墓制のハイライトを統合(イイトコドリ)した箸墓を築かせたのだろう。

263 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 09:41:30.27 .net
お前、器デカいなw

264 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:31:17.63 .net
邪馬台国が九州でも、200年以降で
日本海ルート諸国から越、尾張、東海
瀬戸内海諸国が畿内で中央政権を
建てたことは変わらない。

ただし、九州勢力の参加は246年
一大率の設置以降である。

倭製鏡に文字書けるのに
なんで記念してないんだ?

265 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:32:50.38 .net
>>232
>>98

266 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:34:05.88 .net
>>236
確実な出土ではない

267 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:36:36.62 .net
>>265
お前チエ遅れの岡上?

268 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:36:43.73 .net
>>236
足りないから作ったならおかしくはないのよ

269 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:48:47.61 .net
九州説にまともな人間がいなくなって久しい
今は極度に知能の低い人しか

270 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:50:07.38 .net
つまり畿内説は居直りオレオレ詐欺しか居ませんよと

271 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:50:58.06 .net
>>265
弥生時代なんて大雑把な言い方じゃなくどの遺跡がどの時期かおまえが答えろ
箸墓や纏向は公式発表も信じないくせに

272 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 10:55:32.44 .net
>>258
平原応募の状況から考えられない

273 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:02:26.06 .net
>>260
ついに九州説と畿内説が整合してしまったな

274 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:04:25.17 .net
古墳の傍に墓守のような小規模な集落があるだけ
そんなところに王が居るわけねえじゃん

275 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:04:58.18 .net
卑弥呼・台与の王宮=吉野ヶ里
箸墓=卑弥呼の墓
西殿塚=台与の墓

で良いだろう。つまり金印「親魏倭王」は西殿塚に眠っている。

276 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:19:32.92 .net
必要条件と十分条件の概念が理解できないのか

277 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:21:54.93 .net
>>275
みんな、心やすらかに眠れそうだなw

278 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:22:55.93 .net
九州北岸は全て原の辻遺跡の勢力圏じゃないのかなあ?

279 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:27:14.94 .net
邪馬台国と大和王権が同じものかどうかは証明されてない
単なる仮説の一つ
んで『魏志倭人伝に記載された邪馬台国の場所』というのは
邪馬台国と大和王権が同じかどうかとは完全に無関係に比定できる
魏志倭人伝の記述にある必要条件の数々を最も多く満たす場所が邪馬台国の場所だろう

邪馬台国が大和王権と同一かどうかと邪馬台国の場所の比定は別の問題として議論するのが
学問的な態度

280 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:27:25.75 .net
原の辻遺跡で市をやってた
ここは大陸の品物が手に入るから

281 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:29:31.84 .net
>>279
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也だと言ってるし

282 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:30:57.72 .net
>>76
卑弥呼の「家」が吉野ヶ里で、「ゝ」が屋根から落ちた「冢」が箸墓だったんだよ!

283 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:31:49.86 .net
里数と戸数が大きく盛ってあるのは確定
とすると高い確率で日数も盛ってある

ここまではいいとして
方角は捻じ曲げるだけの何か理由はあるだろうか?
「日の出の方角が東」くらいしか思いつかない

284 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:33:34.52 .net
箸墓というのは、(i) ←女性の墓ということを意味しているのではないかな?

285 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:43:05.83 .net
>>283
呉を威嚇

286 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:44:13.80 .net
>>279
纒向石塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲ツ山→上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵古墳

邪馬台国とヤマト王権は同じ蓋然性が高いと言わざるを得ない

287 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:44:43.16 .net
そもそも俺は邪馬臺とはヤマトで日本であって
王都の場所を指してるのは中国の勘違いだと言っている

288 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:47:41.16 .net
>>283
盛ってると俺は思ってない
日本の戸数が7万戸で水行ひと月陸行ひと月で倭王の居るところに来ることができる

289 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:49:36.72 .net
ヤマトは奈良県ではない
日本なんだって

290 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:57:46.55 .net
邪馬台=脊振【山】南麓の舌状【台】地(吉野ヶ里)
大和=山門(▲二上山▲)

291 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 11:59:33.83 .net
このスレで大和が奈良県だと思ってる奴がたくさん居る事に驚いたわ
俺は奈良県民に一度もなった事はないが大和民族であり日本人だ

292 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:03:05.97 .net
倭を大和というのは、
日本を東京というようなもの

293 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:05:08.96 .net
>>292
倭は中国語
ヤマトは日本語

294 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:06:11.18 .net
古代の大和盆地からは、二上山がWTCのツインタワーのように見えただろうな

295 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:09:40.62 .net
中国にとって日本とは倭(ワ)なんだよ
なんでこれが理解出来ないのかね?

296 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:13:54.17 .net
邪馬台国が人によって違うから喧嘩にしかならない

297 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:17:58.02 .net
邪馬台国は大きく分けると2つになると思う。
1 九州にあり卑弥呼がいた国
2 畿内にあったよその国
話はまとまらんよ

298 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:20:42.74 .net
漢化前の夷狄ヤマトが邪馬台、邪靡堆
漢化で卑字を避けたヤマトが耶麻等、夜摩苔
ヤマトの中華化が大和、大日本

299 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:26:18.16 .net
魏志   倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國
旧唐書では在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月四面小島五十餘国皆附属為
隋書   其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也
これらは全て中国語の倭(ワ)を指してるんだよ

300 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:33:06.48 .net
>>296
>>292みたいな初歩的な勘違いをどう思うよ? 

301 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:34:02.22 .net
>>86
九州説…前方後円墳体制≠邪馬台国(精密な文献解読と考古解釈)
畿内説…前方後円墳体制=邪馬台国(〇〇味噌→大雑把などんぶり勘定)

302 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:36:39.72 .net
>>297
九州に邪馬台国はないので意味なし

303 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:37:57.16 .net
>>299
隋書は都がヤマトとは言ってるが全体がヤマトとは言ってなさそう

304 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:38:04.47 .net
畿内説は邪靡堆を探せば良いのではないかと。
隋書に
上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
俀王遣小徳阿輩臺 従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都

305 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:38:29.67 .net
ここの一人一説雑多九州小説は
九州でも前方後円墳が造られるのが遅れたところだからな

306 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:39:50.34 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ詐欺

307 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:42:36.15 .net
>>303
中国の史書はずっと邪馬臺は倭王の居る場所だと言っている
俺はこれが中国の勘違いだと考える
中国にとって日本とは倭(ワ)だから
じゃあ日本語では何に相当するのか?

308 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:42:59.66 .net
>>78
筑紫邪馬台国vs肥後狗奴国の戦いは、魏vs呉の代理戦争だったんジャマイカ?

狗奴国の卑弥弓呼と狗古智卑狗(菊池彦)が孫呉と通じたため、卑弥呼と男弟は魏帝曹叡に「卑弥弓呼が勝てば倭国は孫権の領土になって、倭人傭兵があなたの軍に襲い掛かりますぞ!」と半ば脅して朝貢したため、曹叡は驚いて「親魏倭王」として特別待遇した上、「銅鏡百枚」を下賜したのではないだろうか?
実際に230年、孫権は亶州(台湾)や夷洲(沖縄)を探索し、攻め取ろうとして失敗している。
その時、呉の将軍は夷洲(沖縄)の長老から、自分たちは徐福(始皇帝の方士)の子孫だと聞かされたそうだ。

309 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:45:27.25 .net
>>291
関西人の捏造癖に触れたら、ヤマトという言葉の響きを嫌悪するようになったわw

310 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:46:25.84 .net
>>76
>>77
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

311 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:47:35.66 .net
>>309
そんな事どうでもいいから

312 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:53:06.21 .net
中国の史書は倭国(日本国)の邪馬臺(県)に倭王は居ると言っている
でもこれ中国語と日本語が混ざってる

313 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:53:54.92 .net
>>307

日本を表す言葉は律令制までなかろうね

314 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:57:10.23 .net
>>313
何処の国の王なのか言えないのか?
どれだけ統治してるのか?

315 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 12:57:34.67 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

316 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:00:03.43 .net
日本って沖縄、北海道はちょっと置いとくとして、
本州の北から九州の南までだろ?

317 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:00:35.57 .net
中国が倭国とか女王国とか言ってる日本語に相当する言葉だよ

318 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:02:42.48 .net
連合(女王共立)だからないだろ

319 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:05:23.38 .net
>>318
連合国家の名前だよ
帥升は何処の国の王なのか?

320 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:08:14.08 .net
>>319
2世紀の後漢鏡(国内最大の大型内向花紋鏡=前漢鏡の倣製鏡)の出土状況から見て倭面土国は伊都国。
ワミャンド(大和)国じゃねぇよ!w

321 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:11:01.58 .net
>>319

まだ国家じゃないからな

322 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:13:08.49 .net
畿内説の中には吉備楯築弥生墳丘墓(2世紀後半)を帥升の墓に「比定」する向きがあるようだが、後漢鏡の副葬がないことによって完全に「否定」されるw

323 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:14:37.16 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元将軍の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

324 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:14:40.97 .net
>>320
そんな話してないから
倭に相当する言葉はなんなのか?

325 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:19:21.39 .net
>>323
筑紫に邪馬台国の痕跡などない

326 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:22:41.91 .net
中国の倭の範囲と一致するとは俺だって思ってない
ただ倭王に相当するのは日本語で何処の国の王なのか?

327 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:23:52.52 .net
⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

328 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:23:55.64 .net
>>319
伊都国

329 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:25:53.27 .net
>>328
伊都国って糸島じゃないのか?
せまっ

330 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:27:25.63 .net
>>327
うゎ、すげー!

331 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:35:28.69 .net
妻木晩田遺跡の4分の1の吉野ヶ里

332 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:42:05.49 .net
陳寿が女王国と書いたのもその国を指す名前がわからないからだろ?
男王なら女王国じゃ無いんだからあの呼び名は変なのよ

333 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:47:04.46 .net
>>217
帯方郡だ。邪馬台国から大和朝廷への漢化は坂上氏のような渡来人が影響を与えた。

334 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:57:55.20 .net
こんなかんじか

倭人のいる島々 → 100余国=東南大海中に分かれてある国々
倭国 → 使訳を通じた30余国=大倭王が統べた国々
女王国 → 大乱後に卑弥呼が統べた国々(狗奴国は不和)
狗奴国 → 不属女王

※委奴国や倭面土国は30余国のうちの大倭王のいた国か

335 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 13:59:14.60 .net
「帯方郡から12000里(900?)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850?)

残り700里(50?)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50?でピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

336 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:03:56.69 .net
>>334
委奴国=倭奴国
古の倭奴国

337 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:07:32.31 .net
⇩これでお解りいただけるだろうか?⇩

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖虚構

338 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:28:58.45 .net
放射読みは原文無視
投馬国は於投馬国の転写誤字
狗古智卑狗の古は右の転写誤字

この事実をちゃんと頭に入れてから議論してください

339 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:33:07.01 .net
>>337
会稽郡の北端(東治)から南端(東冶)までの580q(19q×30日)に相当する邪馬台国島(種子島・屋久島〜奄美大島〜沖縄本島を繋いだ南北に細長い三日月型の島)を創り、日向投馬(都萬)から「南水行十日陸行一月」って書いたわけ。

340 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:35:11.23 .net
⇩南水行十日陸行一月の真相
https://www.daion.ac.jp/campus/opera/facility/

341 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:36:02.87 .net
⇩「南水行十日陸行一月」の真実
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

342 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:40:52.37 .net
>>338
無視でも良いじゃん、間違えてるんだから

343 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:42:54.19 .net
でたらめばかりになったね

344 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:46:34.72 .net
次スレかな?https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708938860/

345 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 14:55:56.20 .net
日本国内に水行ひと月陸行ひと月かけて行く場所はない
何かが間違ってるんだよ

346 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:03:48.68 .net
日数は、島の大きさを把握してるだろう倭人が言った事だからね

347 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:06:08.64 .net
>>346
何故?日数の方が目安になるだろ?

348 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:06:59.27 .net
>>345
あるやん
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/2048m/img_a005bdf54c16db56155cc36328cc54d6196233.jpg
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/2048m/img_986f9decec5a13cd247122dc0003f50e227179.jpg
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/b/c/2048m/img_bc7afa6d9b0dd9775b692139abc709d0252298.jpg

349 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:09:00.01 .net
>>348
それ水行ひと月かかると思うか?

350 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:19:22.25 .net
>>347
島の南まで、船なら何日、陸を歩けば何日かかるか把握してただろうと

351 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:23:21.49 .net
>>349
普通にかかるな

352 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:27:06.07 .net
>>341
これが正解!

353 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:27:54.88 .net
>>350
水行ひと月で陸行でもひと月って事か?

354 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:29:40.65 .net
海南島と風俗が同じって言ってるんだから、
>>341が正解だよ

355 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:30:59.62 .net
隋書「東西五月行南北三月行」

356 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:32:26.92 .net
里数記事12000里を時間に換算したのが日数記事60日だよ。

357 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:33:53.63 .net
>>354
場所も定かじゃない古い資料だと思うけどな

358 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:34:00.21 .net
毎日同じことだけを垂れ流す面白味もない九州説

359 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:35:57.48 .net
まるで畿内説が新しいことを言ってるみたいじゃん
単なる事大主義者なのに

360 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:36:23.35 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

361 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:37:33.82 .net
>>286
それは『魏志倭人伝に記述されてる邪馬台国』の話とは無関係
日本側の歴史にこじつけて寄せようとするのは君の願望がそうさせてる

362 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:38:59.96 .net
三角縁神獣鏡を論破しないと通説畿内説はびくともしない

363 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:40:44.79 .net
>>359
橿考研の所長が「3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」という主張から、初期ヤマト王権の見直しが迫られている

364 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:40:55.36 .net
於投馬 → 上古音qa doː mraːʔ → カドマ

カドマ国を探そうぜ

365 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:40:57.66 .net
魏志倭人伝は倭国に関するあらゆる資料をかき集めてつなぎ合わせたもの
時代なんてバラバラだ

366 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:45:34.08 .net
当初、「共立」でしか誕生し得なかった邪馬台国は、卑弥呼の時代を経て、布留ゼロ以降は独走体制に入った

367 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:46:03.67 .net
本場中国で1枚しか出土してない三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡?
100枚はオリジナルで、500枚はコピー?

368 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:50:12.95 .net
>>367
100枚はオリジナルで、500枚はコピー?
これは足りないから作ったって事でおかしいと思わないのよ

369 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:51:22.04 .net
>>349
古代の航海は運任せで、無茶苦茶人死んでた
卑弥呼みたいなのが卜骨祈祷して、航海日を決めてた
https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1233485/13bokkotu.pdf

370 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:51:38.89 .net
古墳の9割が盗掘されてるというのだから600枚も発見される三角縁は大量に流通していた国産品確定だろ

371 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:52:11.33 .net
150年前は、斜縁神獣鏡も三角縁神獣鏡と区別されていなかったらしい
それほど非常によく似ているということだ

372 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:53:54.63 .net
>>369
中国人がそんなあほな事するかよ?

373 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 15:58:07.19 .net
神獣鏡の柄見ても違いがよくわからんもんな
三角縁とか知るかよ?

374 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:14:13.85 .net
三角縁神獣鏡の文様は100種類くらいあるようだから
日本で作ってたら、それはそれですごい

375 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:15:16.66 .net
>>353
現在だと海上だが、言ったときも同じく海上だっただろう。

376 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:18:58.34 .net
>>374
そんな種類があるのに中国で出土しないとか完全に国産だよね
考古学的にこれを中国製の鏡と言い張るのは無理がある

377 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:23:14.42 .net
国産であるかに関わらず、この三角縁神獣鏡こそが通説畿内説の証拠
ここを破綻させることができないと畿内説はびくともしない

378 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:23:24.42 .net
>>364
カドムラじゃん

379 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:24:11.43 .net
小ちゃい仿製鏡作ってた日本で
いきなり三角縁の文様100種類作るのは無理だと思うがな

380 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:27:01.43 .net
>>376
>考古学的にこれを中国製の鏡と言い張るのは無理がある

考古学者が中国製の鏡と言ってるんだけど

381 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:27:20.27 .net
作ったのは渡来人

382 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:27:33.75 .net
だから黒塚古墳の中央に置いてあった画文帯神獣鏡が中国から貰ったやつで
周囲に置いてあった三角縁神獣鏡が国産かもしれんだろ

383 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:28:53.21 .net
原料は全て輸入ものってのがミソか

384 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:29:49.57 .net
>>378
それで行くなら邪馬臺はヤムラダになるな

385 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:30:17.04 .net
>>377
西晋鏡より後の形式なんだから4世紀の鏡

386 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:33:07.84 .net
画文帯神獣鏡を参考に三角縁神獣鏡を作ってもおかしくない
柄なんか似たようなもんだから

387 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:35:43.01 .net
3世紀末の桜井茶臼山古墳から三角縁神獣鏡は26面出ている

388 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:38:28.64 .net
一つの墓から大量に出る三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡の訳ないだろw

389 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:40:40.56 .net
景初4年鏡は、三角じゃなくて、斜縁だからな
それに平縁の紀年銘鏡も出てるから畿内説はびくともしない

390 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:41:24.40 .net
台与の代に追加注文したんじゃないか

391 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:44:09.10 .net
洛陽から来た鏡は国内をいくらでも動くが、「宮室楼観城柵厳設」遺跡はビクとも動かんよw

392 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:46:22.33 .net
班布二匹二丈で銅鏡百枚だから
真珠五千孔も贈ってるんだから千枚くらいくれるだろ

393 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:46:49.67 .net
>>391
卑弥呼の墓は何処だよ

394 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:50:51.93 .net
>>393
そのうち脊振山から見つかるさ
無理に決めつけてもいかんよw

395 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:51:11.90 .net
卑弥呼の事績とは無関係の年号が出てくる紀年銘鏡w

396 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:53:14.86 .net
>>394
http://www.xufu-saga.com/jomon-yayoi-map.htm
範囲狭いんだからすぐ見つかるはずだろ

397 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:56:36.66 .net
>>380
中国を代表する考古学者、王仲殊(中国社会科学院の考古研究所の所長であった)

「もはやいわずもがなであるが、広峯十五号墳で出土し、あと一つ辰馬考古資料館の所蔵になる
景初四年銘の三角縁盤龍鏡もまた、陳是(陳氏)が日本で作ったものなのである。
まさに陳是本人は海東の『絶域』にあったので、魏が既に『正始』の年号に改めたことを製作の時点では知らなかった。
そこで先に三角縁神獣鏡を作った際に銘文の中で使った『景初三年』という紀年の後を受けて
三角縁盤龍鏡では『景初四年』の紀年を記してしまった。」

「二十世紀の80年代以降になると、中国本土及び朝鮮半島の地域内に
三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しない事が確認されたのち、
魏鏡説は成立が難しくなりました。
特に1986年10月に二面の景初四年銘の三角縁盤龍鏡が発見され
いわゆる特鋳説もまた立説の余地が無くなりました。
これは鉄のように固い事実です」

398 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:57:54.94 .net
>>380
おまけ

邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。

結論
三角縁神獣鏡は四世紀の鏡
三角縁神獣鏡が
出土した古墳は全て四世紀以降に作られた古墳である

399 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:58:58.65 .net
>>365
>魏志倭人伝は倭国に関するあらゆる資料をかき集めてつなぎ合わせたもの
>時代なんてバラバラだ

理由のない決めつけは
時間の無駄

400 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 16:59:55.23 .net
広峰15号景初4年鏡は、三角縁ではなく斜縁盤龍鏡

401 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:00:25.38 .net
魏の青龍、景初、正始と呉の赤烏は卑弥呼の時代とビンゴじゃん。公孫氏と高句麗が魏にフルボッコされた時代。中国に恐怖した東アジアw

402 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:02:20.77 .net
国産だとしても畿内説がびくともしないのは、三角縁神獣鏡が大きな要因

403 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:05:51.98 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

404 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:11:30.50 .net
大王の系譜

纒向石塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲ツ山→上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵古墳

405 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:14:54.84 .net
この脳死コピペするやつって昔から居るの?

406 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:16:53.80 .net
王仲殊は、三角縁と斜縁の区別さえできなかったということ
すなわち、斜縁鏡が三角縁神獣鏡のルーツ

407 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:20:57.51 .net
>>397
景初や正始の年記鏡は
300年以降に作らないよ?
それに神獣より花紋とか
志位三公鏡だろ?

難升米が連れてきて九州で作った。
デザインが呉は意外だが
九州には鏡作りの技術が有る。
240年だと畿内にはまだ早い。

408 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:24:31.07 .net
画文帯以降は畿内が圧倒していて、九州三角縁神獣鏡説は無理ゲー

409 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:29:11.71 .net
東の倭種が九州に対抗して作ってばら撒いた鏡だろ

410 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:31:10.26 .net
出張鏡職人が古墳作ってるところに行って注文受けて鏡作ってた

411 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:35:00.18 .net
九州説は妄想の自説を披露するのではなく、三角縁神獣鏡を崩さないとプロはびくともしないということを理解すべき

412 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:40:43.57 .net
まずは中国で三角縁神獣鏡を発掘してこないとお話にならんよ

413 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:43:09.79 .net
>>401
呉の年号とか東鯷人かな?

414 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 17:59:18.66 .net
神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文
「景初3年、陳是が鏡を作る。故郷は、京師の杜(長安の郊外)である。」

415 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 18:04:06.71 .net
出張鏡職人が長安から流れて来てたんやな
帯方郡あたりから逃げてきたクチか?

416 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 18:25:22.67 .net
和泉黄金塚古墳出土の景初3年鏡は、画文帯神獣鏡なので畿内説はびくともしない

417 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 18:46:23.68 .net
>>407
銅鐸作ってるから

418 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 18:47:24.70 .net
>>416
誤字があって怪しそうな鏡か
紀年銘鏡の銘文全部並べて誤字ってるやつバツつけたらいくつ残るのやら

419 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 18:53:34.44 .net
>>411
簡単ことじゃん
知能が明らかに劣る畿内説人じゃ見えてこない
卑弥呼亡きあと邪馬台国の女王になった宗女の台与も亡くなり
邪馬台国が滅亡した後、邪馬台国の宝物庫に保管されていた
三角縁神獣鏡などが何者かに略奪され、大和朝廷が日本各地に神社を創建。
で日本各地に神社に大朝廷が権威を高めるために
中国皇帝由来の三角縁神獣鏡を朝廷に従わせるために有力神社に与えた訳

420 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 19:05:22.17 .net
>>419
>大和朝廷が日本各地に神社を創建。
これだけ正しい
鏡なんか墓から盗んできたんだろう

421 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 19:12:01.32 .net
>>419
三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった鏡であることを認めてしまった九州節

422 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 19:16:58.43 .net
>>385
>西晋鏡より後の形式なんだから4世紀の鏡

あらゆる学者の意見を否定して妄想する九州説

423 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 19:19:59.65 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

424 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 19:50:00.08 .net


425 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 20:30:17.18 .net
結局、九州説は三世紀中頃にもう古墳時代が始まっているという一点で死亡済み

426 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 20:30:55.79 .net
つまり畿内説は自爆霊みたいなもんよ

427 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 20:33:04.53 .net
ロジック崩壊してる九州説

428 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 20:39:23.42 .net
https://www.youtube.com/watch?v=BecQ9l5LFZQ

429 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 21:02:25.94 .net
九州最古の三角縁神獣鏡は那珂八幡古墳の第2主体と認識しているが、第1主体では内行花文鏡とかは出てないんですかね?
誰かプロレベルで答えられる人はいませんか?

430 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 21:08:50.69 .net
失礼
第1主体は未調査でした
調査して欲しいですね
画文帯神獣鏡が出るか内行花文鏡が出るかで色々と分かることがあると思うんですがね

431 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 21:40:50.48 .net
倭人伝の文言に「倭人は鉄のヤジリを使う」とある
よって鉄鏃の出土が顕著な地域が「倭国」なのだろう
その領域内での争いが「倭国乱」

逆に言えば鉄鏃の出土が少ない地域は倭人伝とは関係のない国々となるだろう

432 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 21:44:27.43 .net
>>431
年代は?
なんでそこいい加減にするの?

433 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:05:38.97 .net
つまり畿内説は妄想馬鹿による架空の世界の作文でしたと

434 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:08:28.52 .net
痕跡が無いんだから倭国大乱は無いって事でいいじゃん

435 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:10:25.32 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

436 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:22:23.74 .net
中国の証言があるんだから、あったのは確実だろ

437 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:28:51.16 .net
何で日本の考古学ってあんなにレベルが低いんやろなマジ

近視眼的小児病者みたいなヤツしか集まらんのかな?

438 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:29:57.71 .net
>>401
景初三年の銘入りの鏡は4世紀や5世紀にも作れるよ

439 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:31:47.28 .net
>>437
結論に合わせて発掘したり分析したり解釈して
望んだ結論を否定する証拠は無視するから

440 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:33:19.65 .net
>>436
なんでだよ?おかしいだろおまえ

441 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 22:42:08.32 .net
>>440
おかしいのは、おまえだろw

442 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:00:43.87 .net
>>438
>景初三年の銘入りの鏡は4世紀や5世紀にも作れるよ

景初四年の銘入りの鏡はリアルタイムにしか作れない

443 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:10:26.65 .net
>>439
>結論に合わせて発掘したり分析したり解釈して
>望んだ結論を否定する証拠は無視するから

そんなことしたって証拠は?

444 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:25:34.65 .net
>>442
根拠なし

445 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:30:41.72 .net
現代でも作れるからな

446 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:45:08.64 .net
明治46年銘や大正16年銘のものはリアルタイムにしか作れないかと言えば全くそんなことはないからな
後世の間違いの可能性は大いにある

447 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:45:56.94 .net
>>444
王仲殊のこの説明一発で九州説が敗北した過去を知らないの?

448 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:49:16.80 .net
三角縁神獣鏡って、暗い部屋に漏れ入ってくる光にかざすと刻まれた模様が壁に浮かび上がって、それで「銅鐸よりこっちが神様宿ってる!」
それで鏡の時代になったと聞きました
こんな仕掛けの鏡が国産だったということにゾクゾクします
邪馬台国的には畿内説にはやや有利という感じでしょうか

449 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:51:25.71 .net
>>431
奈良県の、鉄鏃の出土数はどれくらいなのですか?

450 :日本@名無史さん:2024/04/21(日) 23:57:26.41 .net
>>442
>景初四年の銘入りの鏡はリアルタイムにしか作れない

リアルタイムにしか作れないという証拠は?

451 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 00:20:21.96 .net
>>450
>リアルタイムにしか作れないという証拠は?

続けて正始元年鏡を作っているということは、改元を知らずに四年鏡を作って、すぐ気づいて元年鏡を作ったという事だから
リアルタイム制作
(王仲殊の国産説、他の学者の楽浪鏡説など)
これでメモリアルイヤー説が壊滅

実際に景初四年が有ったことは当時の人しか知らないのでリアルタイム制作
(魏鏡説)

452 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 00:41:09.36 .net
>>451
>続けて正始元年鏡を作っているということは

続けて正始元年鏡を作ったという証拠は?

453 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 01:04:54.11 .net
編年

454 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 01:38:07.24 .net
あらららら
もうだめポ

455 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 03:30:29.42 .net
>>452

奧山よーー
あきらめな
お前の頭じゃ無理だよ
ワハハ

456 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 05:42:32.94 .net
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/i53295ef58cafce15/version/1634521247/image.jpg
紀年銘鏡こそが魏からの下賜品

457 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 05:52:29.64 .net
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/2048m/img_a005bdf54c16db56155cc36328cc54d6196233.jpg
魏志倭人伝のルートとほぼ一致してるな

458 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 05:56:04.21 .net
とりあえず於投馬(×投馬)国は出雲に決定

地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

459 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 06:07:17.56 .net
投馬国は九州南部だな
南に行くんだから

460 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 06:13:00.85 .net
>>459
関門海峡で一旦船を持ち上げて運ぶ必要があるな

関門海峡は元々陸続きであった(参考)

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

461 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 06:15:26.70 .net
方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

462 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 06:39:25.29 .net
相変わらず九州説は非科学的だな

463 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 06:58:02.00 .net
つまり九州説はウソ

464 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:04:23.27 .net
>>442
え?ちょっと君頭悪すぎない?

465 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:05:52.17 .net
>>451
景初三年の鏡も景初四年の鏡も四世紀どころか21世紀でも作れますよ

466 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 07:20:52.89 .net
ムダだぞ、頭の悪さだけが強調されてることに気付け
九州は説でなく供述にすぎない
甕棺瓢文明の地域

467 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:23:01.14 .net
畿内説の人は必要条件と十分条件の概念が理解できない

畿内説の人は日本の歴史と中国側の魏志倭人伝の記述の分析を分けて考えることができない

468 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:33:12.44 .net
九州説の某重鎮によると、100年後のヤマト王権が邪馬台国を僭称する為に作ったのが紀年銘鏡らしい
そうすると、340年頃に三角縁、並びに紀年銘鏡を作り始めたことになる。
すると、311年には西晋は長安、洛陽を前趙→後趙→前秦→さらに続く、ずっと取られていたのであるから、
三角縁神獣鏡に「長安の郊外の出身だ」と記す陳是は、前趙か後趙か前秦の生まれだと言うことになる

前趙から陳是君を引っ張ってきて、卑弥呼時代の紀年銘鏡を作らせたのか?
考えられない

469 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:33:48.31 .net
>>465
何の為に作るのだ?
邪馬台国を僭称する為か?

470 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:35:57.08 .net
>>469
かもね
或いは単なる付加価値
卑弥呼が貰った鏡のレプリカとして人気があっただけかもしれないし

471 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 07:36:33.53 .net
両方ともないのが九州だよ
古辰国の影響が強い地域が九州であることに動かしようがない

472 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 07:53:15.69 .net
碌に鉄器さえも作れない所に王権が立つと思うか?  世界にそんな陳腐な王朝があるか?   

トンデモどもの気が知れんww    @阿波

473 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 08:13:36.09 .net
長安の近くで鏡工人の家に生まれた陳是は、公孫氏に招かれて朝鮮半島で鏡(斜縁神獣鏡等)を作っていたが、公孫氏滅亡の時に日本列島に逃げて来たのだろう

当時、北部九州倭国は魏の冊封下にあったため、大陸と交流のない安全な畿内まで逃げ、ヤマト王権の発注で斜縁神獣鏡の技術をベースにした三角縁神獣鏡を作ったのだろう

474 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 08:35:54.58 .net
鯰の関東への東征はあったんじゃないかな
古墳時代初頭〜前期
九州と関東は鯰で繋がる
国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究では、東北富山石川和歌山が同じグループで京都大阪もこのグループに近い
関東は地理的に近い東北とはかけ離れていて、九州グループとも同じではないが他の本州四国に比べて九州の母系に引っ張られた位置であった
阿蘇の健磐龍彦の開拓を邪魔したのも鯰だったかな

475 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 08:38:12.35 .net
鯰を追えばある程度の歴史の枠組みが見えてきそうだ
生駒にも鯰石と舟石があったな
邪馬台国の官伊支馬は鯰と関係するんじゃないか

476 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:04:37.75 .net
という事は畿内説はガセという事ですね
わかります

477 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:10:47.67 .net
>>473
慧眼!漏れ流に書き直させてもらいたい

長安近郊で鏡工人の家に生まれた陳是は、公孫氏に招かれ楽浪・帯方郡で鏡(斜縁神獣鏡等)を作っていたが、238年に公孫氏が滅亡すると北部九州倭国に逃げて来たのだろう

当時、北部九州倭国は魏の冊封下にあったため、大陸と交流のない安全な畿内まで逃げ、ヤマト王権の発注で斜縁神獣鏡をベースにした三角縁神獣鏡を作ったのだろう

478 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:15:52.39 .net
つまり三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から貰った鏡ではない

479 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:18:03.69 .net
つまり鏡の年号は卑弥呼とは無関係で
陳是が帯方郡や倭国に流れていった頃の年号ということか

480 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/22(月) 09:18:29.29 .net
九州説論者にはアイヌ非先住民説を主張してる輩が多い
つまり日本会議系のネトウヨだらけだ

481 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:19:21.90 .net
卑弥呼の事績とは無関係な年号が出てくる理由が判明したな

482 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:22:16.66 .net
紀年鏡は後世が卑弥呼伝説を知って真似て作った架空の鏡という事よ

483 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:23:50.03 .net
長安近郊で鏡工人の家に生まれた陳是は公孫氏に招かれ、その領地、楽浪・帯方郡で鏡(斜縁神獣鏡等)を作っていたが、238年魏の司馬仲達によって公孫氏が滅ぼされると、北部九州倭国に逃げて来たのだろう

当時、北部九州倭国は魏の冊封下にあったため、大陸と交易のない安全な本州(女王国東渡海千里 複有国皆倭種)大和盆地まで逃げ、ヤマト王権の発注で斜縁神獣鏡をベースに(銅鐸紐外縁の鋸歯紋を取り入れ)三角縁神獣鏡を作り上げたのだろう

484 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:24:28.79 .net
大河吉野川流域や鮎喰川流域には、稀有な集落遺跡群がひしめき合って存在するが、

お前の推す畿内にはそのような集落遺跡群がある情報は聞かない。 そのような畿内にヤマト王権?が興る理由とは?   @阿波

485 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:30:08.13 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、筑紫女王卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

486 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:46:48.64 .net
つまり畿内説は頭の悪い学者モドキが書いた妄想作文でしたと

487 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:49:38.82 .net
>>483
>ヤマト王権の発注で斜縁神獣鏡をベースに(銅鐸紐外縁の鋸歯紋を取り入れ)三角縁神獣鏡を作り上げた

たしかに斜縁に鋸歯紋を入れれば三角縁のできあがりw

488 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 09:57:02.43 .net
あるいは、斜縁/が卑弥呼が貰った「銅鏡百枚」で、三角縁△がヤマト王権が陳是に作らせたコピーなのかもな

489 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:06:12.53 .net
>>467
日本の歴史とは遺跡
中国の史書に記述があろうが遺跡が無いものは無いんだよ
それと魏志倭人伝に限定する必要はない
あくまで記述だから

490 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:09:00.33 .net
>>487
>>488
新幹線で喩えると、中身(神獣鏡)は同じだが、前期型(斜縁)N700と後期型(三角縁)N700Aみたいなもんかな

491 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:11:58.75 .net
>>490
黒塚古墳の画文帯神獣鏡じゃないの?

492 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:14:38.60 .net
畿内説も曹操鉄鏡が出るまでは鼻息が荒かったんだが...

 “華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。

曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」 中国の研究者発表

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。

国華によると、直径21・3センチ、厚み2・5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。

古美術商から購入し、表面を覆う錆を削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。

日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。

梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。
「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。

493 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:15:15.88 .net
黒塚古墳からは黄幢じゃないかと言われてるものも出てるし

494 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:18:24.70 .net
>>491
南北朝時代に下っちゃうよ
和泉黄金塚の画紋帯神獣鏡には「建武五年」(339)の銘文が…orz

495 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:21:12.78 .net
>>494
なんでその時期に手に入るんだ?

496 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:22:08.53 .net
紀年鏡は中国の骨董屋から買って来たんだろう

497 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:27:32.50 .net
>>494
和泉黄金塚古墳のwikiみたら景初三年と書いてあるが?

498 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:28:45.44 .net
今でも自民党議員視察団がヨーロッパで買ったお土産を帰国してから支援者に配って回るでしょ?
それと全く同じで、紀年鏡は当時の倭人官僚(大夫)の中国みやげ。

499 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:32:11.73 .net
景初三年も建武五年も大正ロマンや昭和レトロと同じで、骨董品に見せかけるために、鏡工房が(小遣い稼ぎに)古い年号を探して入れ込んだのだろう

500 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:33:55.46 .net
黒塚古墳から出土したU字型鉄パイプはU字型の飾りがある布製冠帽の形を保持する芯だった

元々合理的根拠のなかった妄想同然の「魏からもらった黄幢説」吹っ飛ぶ

https://www.asahi.com/articles/ASS3775HFS2GPOMB00Q.html

501 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:35:26.96 .net
畿内説は中国の記録文献と全く無関係な出土品しかありません

【お知らせ】発掘調査結果報告(2024年4月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら

502 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:36:05.09 .net
>>499
景初四年銘はそうしてできたわけか!
あるいは50年くらい昔の年号を入れてくれ!と五月蠅い倭人をからかってやろうと、本場中国の鏡工人がいたずらで入れて作った可能性が高いな

503 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:37:39.29 .net
九州説は魏志倭人伝の行程と全然一致してない

504 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:37:43.78 .net
>>500

何の根拠もなく「魏からもらった黄幢」だとか希望的観測しか頭に浮かばない畿内説なんて学問でも何でも無いボケ老人のサークルだよな

505 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:40:19.18 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(虚構)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖虚構

506 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:40:24.13 .net
肝心の卑弥呼の円墳らしきものも見つからない九州説

507 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:41:09.31 .net
吉野ケ里一帯のクニの人口5400人(笑)

508 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:41:39.39 .net
>>489
おまえ頭悪いなw

509 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:43:04.36 .net
>>500
黒塚古墳のU字型鉄パイプは国産品か

510 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:43:09.01 .net
丹が出ない九州

511 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:43:45.92 .net
@まず(魏使が直接足を運んで見た場所を意味する)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

512 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:44:40.93 .net
×狗古智卑狗
〇狗右智卑狗

513 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:46:14.07 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

514 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:46:28.63 .net
>>504
あくまで可能性だから新しい発見があれば訂正すれば良いんだよ

515 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:47:58.75 .net
つまり畿内説は小卒レベルの邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

516 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:49:17.95 .net
>>508
なぜ?

517 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:50:54.03 .net
狗右智卑狗≠熊本県菊池市

518 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:51:02.84 .net
>>511
うわ、すげー!

519 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:52:03.84 .net
>>506
箸墓は100%違うなw

520 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:55:30.20 .net
>>512
その違いがどう影響するのか。
山田太郎でも良いでは?
と思う

521 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:56:41.30 .net
>>520
アホ九州説は菊池にコジツケてるからな

522 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 10:57:02.85 .net
>>511
卑弥呼は日見子か…
銅鏡で絹布に太陽を反射させて八咫烏(黒点)の数で吉凶を占っていたのだろう

523 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:03:53.95 .net
>>522
占いは骨焼いてたんでしょう

524 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:07:26.70 .net
>>483
三角縁神獣鏡、偽証説を否定した九州説は敗北しました

525 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:11:20.33 .net
景初四年鏡の存在から、紀年鏡は当時の使節団の中国みやげが確定w
銅鏡や鉄剣は倭国内をいくらでも動かせるが、「宮室楼観城柵厳設」遺跡は動かせなかったということw

526 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:12:43.21 .net
九州説を成立させる唯一の方法は、畿内ヤマト王権は4世紀以降にできたもので北部九州と同時代には存在しないということが絶対条件である
絶滅危惧種の九州説の全ては、「編年が100年くらい間違っている」という主張で、纒向も4世紀の遺跡であると主張しなければ、九州説は成立の余地がないことを十分に理解している

527 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:15:37.32 .net
>>511
>>505
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

528 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:16:10.85 .net
>>525
そんな難しい設定要らないから
中國土産と言うなら紀年が無くても買えるわけで
普通に考えれば国産でしょう

529 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:19:22.07 .net
吉備特殊器台は殉葬の代用品(埴輪)の先祖

卑弥呼の墓(殉葬がある)とする時点で論理的思考力ゼロ(バカ)を自白したようなものだw

530 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:21:42.27 .net
つまり畿内説はバカ

531 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:22:06.87 .net
>>526
全くそんなことはない
同時代に別の国、別の政権として並立していたという論も文献的・考古学的に十分成り立つ

纒向からは北部九州や大陸の土器などは殆ど出土せず、記紀でも四道将軍派遣範囲に九州は含まれない
魏志倭人伝にも倭国の東に海を渡ると倭種の国々があると書く

むしろ北部九州を畿内が征服したとする考古学的根拠はなく(久住はないと言い切る)、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立していた蓋然性は高い

532 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:24:13.00 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形態の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」、混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

533 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:25:16.65 .net
>>531
倭王だからね、俺は違うと思うけどね

534 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:25:58.67 .net
寺澤や北條や久住は伊都国勢力によるヤマト王権樹立や奈良盆地への遷都を想定する
松木は宗教的・政治的中心を奈良盆地、経済的中心を北部九州とし、その緩やかな連合を想定する

最近主流のアンチ畿内自生説の畿内説は、畿内勢力による北部九州征服・制圧を想定しない(考古学的に想定出来ないから)

535 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:26:08.96 .net
>>533
ワーオ!w

536 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:27:30.28 .net
>>535
倭王は中国が日本に与える称号だから

537 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:28:29.81 .net
>>525
>中国みやげが確定
逆だろw

538 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:28:40.68 .net
>>531
石槨の有無で棺の材質が違ってくる(木⇔甕や石)からな
やはり筑紫邪馬台国≠ヤマト王権前期古墳で良いだろう

539 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:30:06.80 .net
>>526
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
なんだから東の倭種でしたで終わる話

ちなみに266年の最後の朝貢以後に九州倭国は崩壊して
3世紀後葉には畿内が半島に進出するようになる

540 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:30:22.03 .net
>>536
ワーオ!w

541 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:32:29.57 .net
>>539
その人はそう書いてたってだけでしょ
交易があるし本州の事を知らない訳無いし

542 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:33:25.31 .net
>>538
つまり3世紀初頭に甕棺墓もしくは石棺墓だった地域が邪馬台国ということだね!

543 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:35:08.90 .net
>>541
そう
大昔から交易してたし存在ももちろん知ってた
だから台与の後ろ盾だった魏が滅亡して九州倭国連合の枠組みが崩壊したとき
海岸沿いにあった国々は交易で馴染みのあった畿内東倭種連合にさっくり鞍替えした

544 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:35:35.63 .net
>>542
北部九州だ!

545 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:37:12.04 .net
台与の後ろ盾だった魏が滅亡して九州倭国連合の枠組みが崩壊

台与の後ろ盾だった魏が滅亡して台与が失脚し九州倭国連合の枠組みが崩壊

546 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:37:23.09 .net
>>543
それ全て倭だから

547 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:39:48.12 .net
>>532
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利一族で高家筆頭・吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に分家=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗(水軍全滅)で近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和分家(留守番)の歴史として描いたのが記紀なのだ。

548 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:40:18.07 .net
後漢書にある通り邪馬臺国は3世紀以前から続く30国の連合国
戦乱に明け暮れ衰退したが国の再建の望みを卑弥呼に託したんだよ
あたかも3世紀に突然出来た国であるかのように印象操作している畿内説は歴史捏造テロである

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

549 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:41:57.67 .net
台与が失脚したら何が起こるか?
そうです後継者争いの内輪揉めです

台与の後釜として自称倭王を名乗ったのが伊都々比古という人物です
ところが九州北部の国々は旧来の倭国連合という枠組みを捨てて
畿内東倭種連合に鞍替えしてしまいました
もう伊都々比古が寄って立つ倭国連合など存在しなくなったのです

そこで仕方なく伊都々比古は穴門に自称臨時政権を立ち上げて
自称倭王を名乗りましたとさ

550 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:42:26.26 .net
東南大海の中にある倭国の王の称号を与えるんだよ

551 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:44:22.20 .net
>>550
ワーォ!w

552 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 11:57:13.82 .net
畿内東倭種の大酋長にミマキイリヒコという人物がおりました
常々、西の倭国が目の上のたんこぶで鉄が思い通りに手に入らないことを苦々しく思っておりました

ある時突然に、西の倭国で権勢をふるっていた女王が失脚します
ミマキイリヒコはこれはまたとない機会だと考えました
かつてから交易で馴染みのあった海岸沿いの国々に打診すると
そちらの連合に寝返ってもいいという色良い返事

こうして海峡の制海権と鉄利権を手に入れたミマキイリヒコの東倭種連合は
半島に鉄をとりに行くようになります

するとその半島の加羅諸国で東倭種の大酋長のことが噂になり始めました
やがてその噂は加羅の王子の耳にも入ります

「よっしゃひとつおいらがその酋長の様子でもみてくんべ」

穴門で自称倭王の伊都々比古を発見

553 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:08:52.43 .net
古墳時代になっても畿内勢力が直接朝鮮半島に進出した痕跡は殆どない
庄内甕は半島からも出土するようになるが畿内型ではなく筑前型だし、任那四県地域の前方後円墳も北部九州型の特徴を持つ

畿内は基本的には博多湾貿易への参加を通じて(すなわち日本列島内の流通ネットワークを通して)大陸からの物を入手していたと考えられる

554 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:09:07.97 .net
>>513
台与は13歳(中1)で倭女王となったんだねw

555 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:09:48.62 .net
>>552
それ中国関係ないから

556 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:11:32.39 .net
青銅器は手に入って鉄器は手に入らない理由は無い

557 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:11:52.51 .net
>>553
海を渡るのはあくまでも海峡を勢力圏にしてる海人族で
鉄利権が畿内の手に渡ったので
九州をハブとして鉄が畿内に流れ込むようになったんやね

558 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:13:28.43 .net
そもそも鏃くらい青銅器で作れるし実際作ってたし

559 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:18:57.04 .net
13歳(中学1年生)JC台与のイメージ
https://jc-contest.jp/
年已長大(還暦後)78歳卑弥呼のイメージ
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20230830-OYTNT50198/

560 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:19:23.71 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

561 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:23:40.68 .net
つまり1〜2世紀に繁栄した形跡の無い畿内は邪馬台国とは全く無関係ですよと

562 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:25:52.73 .net
13歳台与(中学1年生)のイメージ
https://sleepyluna.exblog.jp/8840285/

563 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:33:48.61 .net
女王や女王国は中国が書いてる名称
で、倭人がそれを理解していなかっただろう。

其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國…次有奴國此女王境界所盡

中国の言う女王国を倭人が理解していなかったから、倭人の説明でこうなった。と思うが
女王国は倭人には未知の世界。

564 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:35:12.16 .net
体制が違う

565 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:37:55.31 .net
卑弥呼を王に立てたから女王国
それだけの話

566 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:38:36.94 .net
倭人の国だから倭国
女王が治める国だから女王国

567 ::2024/04/22(月) 12:41:54.77 .net
>>513
魏志倭人伝における情報は
50年以上の開きがある

卑弥呼と、明らかに追記された
日程で書かれた邪馬台国を同列で語るのは間違ってるよねw


881 警備員[Lv.21(前25)][苗] sage 2024/04/20(土) 07:38:56.87
卑弥呼時代は半島南部から九州限定
イヨトヨ時代で半島南部から西日本一帯

>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
卑弥呼時代に九州から見た本州四国のこと

744 ウィズコロナの名無しさん 2023/07/14(金) 17:00:22.16 ID:i7D+QrZN0
卑弥呼 = 日女の子(児)

つまり、アマテラスの子 = イチキシマヒメ

>男弟佐治國
弟は年下の意味(兄弟関係なく)

伊都国の官トップ爾支はニニギ
イチキシマヒメ(年上)は天孫降臨時のニニギ(年下)の養育係

トヨはトヨタマヒメ
トヨタマヒメは山幸彦の奥さん
トヨタマヒメとイチキシマヒメは海つながりで
その関連性も一致

568 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:42:06.18 .net
権力主義?

569 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:45:21.22 .net
>>567
証拠無し
単なる妄想

570 ::2024/04/22(月) 12:45:49.49 .net
邪馬台国の官を見ても
半島南部から畿内まで広域連合だったと読み取れる

◆邪馬台国の官
・伊支馬 イキマ 垂仁天皇

・彌馬升 ミマショウ(御間(崇神)の叔) ヒコイマス

・彌馬獲支 ミマカンキ(御間(崇神)の名を獲た干岐) ツヌガアラシト(うしきありしちかんき)

・奴佳鞮 ヌカテイ 垂仁朝の中臣連祖(クニナズノオオカシマ等)

571 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:47:54.77 .net
>>567
トヨタマークX!

572 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:50:13.24 .net
>>570
何の根拠も無い妄想しか語れないのか?

573 ::2024/04/22(月) 12:50:40.02 .net
>>569
キクチヒコも妄想

俺は字義から人物を特定・比定


979 警備員[Lv.22(前25)][苗] sage 2024/04/20(土) 12:36:39.87
狗奴国は、どことかない
天津に相対する国津のクニ全般を指す

>素不和 ←だから、素より不和

狗古智(拘右智)卑狗は、国津の珍彦ウズウヅ)ヒコ

のちの倭国造の祖、まさに神武天皇の知恵袋
「右はたすける」「智は賢い」、字義考察でも当てはまる

574 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:50:57.26 .net
>>562
清原果耶じゃないのか

575 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:52:18.39 .net
https://i.imgur.com/C6OaQ0Y.png
このあと3世紀後葉以降になると突然、九州と畿内の鉄器出土量が逆転する
3世紀中頃と後葉の境目の時代で、九州と畿内にいったい何が起こったのか……

576 ::2024/04/22(月) 12:54:55.20 .net
音じゃ絶対に辿り着けない

字義考察こそ、真実に辿り着く

599 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/13(水) 19:50:59.90 ID:Bp5fYcGz0
だから、音(発音)は副次的で
字義で考察しようね、が俺のやり方

中華ほど字に意味を持たせてる国もない
蛮族には、ムシやケモノヘンの字をあててヒト扱いしてない

「倭」はニンベンが付くのでヒト扱いしてる
(委奴のときは、その逆とわかる。それだけ無礼な朝貢だったのだろう)

こんな風に、字義で考察すれば新解釈で見えてくる

577 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:56:46.69 .net
>>573
その通り
邪馬台国論争を混乱させるのは
日本書紀によると
とか
古事記にはー
等の日本側の資料を持ち出して整合性を付けようとするから
純粋に遺跡や出土物と魏志倭人伝との整合性のみを検証するべき

578 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:58:33.90 .net
>>575
その逆転したデータを見せて
まさか古墳副葬量じゃないだろうね?

579 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 12:58:52.02 .net
>>577
ところが発見された遺跡の中で一番大きいから邪馬臺国などという
なんの根拠もない思い込みが幅を利かせてしまう

580 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:05:50.58 .net
>>579
俺は根拠になると思うけどな
巨大古墳群は倭王が居た証明

581 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:10:18.14 .net
糸島の何処に王が居たんだよ?
相応しい遺跡は必要だよ

582 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:13:05.98 .net
>>577
モモソは卑弥呼だから箸墓は卑弥呼の墓!とかいうのがまさにそれ

583 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:15:32.99 .net
>>582
俺はあまり関心は無いけど全く可能性を排除しようとは思わない

584 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:17:48.09 .net
漢委奴国は漢の奴隷って意味
支那人が笑ってるぞw

585 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:20:25.46 .net
箸墓がどんな人物の墓かと言われると倭王の可能性を排除できない
卑弥呼かどうかまではわからないだけで

586 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:24:28.39 .net
箸墓古墳はおそらく畿内説にとって都合の悪い構造と思われる
4年以上も結果報告もせずダンマリ↓

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

587 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:27:05.49 .net
>>584
それ古の倭奴国だと思うけどな

588 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:27:41.02 .net
つまり畿内説は2020年で破綻済み

589 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:34:34.44 .net
  食飲用籩豆 手食
「食、飲には籩豆を用ひ、手で食らふ。」

「食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。」

邪馬台国に箸は無かった
繰り返す
邪馬台国に箸は無かった

590 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:37:15.41 .net
>>589
わかっとるわ
だから神話や伝承なんてその程度で全く信用してない
徐福伝説と同レベル

591 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:39:21.05 .net
この期に及んでまだ畿内説を主張してる奴は確信犯の詐欺だよ

592 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:41:23.73 .net
大いに冢を作った。全長ではなく短い方の辺がなんと百歩だ!

593 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 13:51:07.80 .net
>>505
筑紫邪馬台国vs肥後狗奴国の戦いは、魏vs呉の代理戦争だったんジャマイカ?

狗奴国の卑弥弓呼と狗古智卑狗(菊池彦)が孫呉と通じたため、卑弥呼と男弟は魏帝曹叡に「卑弥弓呼が勝てば倭国は孫権の領土になって、倭人傭兵があなたの軍に襲い掛かりますぞ!」と半ば脅して朝貢したため、曹叡は驚いて「親魏倭王」として特別待遇した上、「銅鏡百枚」を下賜したのではないだろうか?
実際に230年、孫権は亶州(台湾)や夷洲(沖縄)を探索し、攻め取ろうとして失敗している。
その時、呉の将軍は夷洲(沖縄)の長老から、自分たちは徐福(始皇帝の方士)の子孫だと聞かされたそうだ。

594 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:03:13.23 .net
平原(倭)に渡って王となり帰らなかった徐福は琉球王になったのか!
たしかに琉球王宮・首里城は中国っぽいしな

595 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:16:01.33 .net
>>580
でっかい倭種の国の王がいたことが分かるだけだな

596 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:27:59.38 .net
>>593
247年に帯方郡にまで報告が行った筑紫邪馬台国と肥後狗奴国の南北戦争が鍵だな
日向投馬(都萬)国と挟み撃ちにしようとしたため、卑弥弓呼は乾坤一擲の大勝負に出たのだろう(倭王卑弥呼と戦って負ければ確実に処刑)。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

597 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 14:31:58.77 .net
箸が無いとは箸墓の箸の話をしているつもりかね
お箸で陰部を刺したんか?
祭祀に使う箸だわ

598 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:32:31.25 .net
古墳が多い地域に王が住んでいたと思うのは頭の異常な畿内説と韓国人だけ
普通墓が多い地域は墓域といって今で言う霊園みたいなもんだ

599 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:34:48.44 .net
>>596
筑紫邪馬台国7万戸と日向投馬(都萬)国5万戸で挟み討ちされたら絶体絶命の肥後狗奴国(8万〜9万戸くらいか?)卑弥弓呼

600 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 14:34:55.83 .net
頭の弱いのが九州
もう無駄だよ。

601 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:37:55.85 .net
>>529
>>530
なるほど

602 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 14:57:33.44 .net
日本は北魏
神元皇帝の魏朝貢=神功皇后の魏朝貢は国威を示す重要な歴史

603 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 15:00:10.31 .net
>>599
×7万戸→〇5400人
×投馬国→〇於投馬国

604 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 15:02:48.02 .net
無駄だよ
墳墓はマイルストーン
甕棺、八角アサガオは完全なる辰国の墓
不比等藤原の墓は南山、慶州羅井を忍ぶ墓
卑弥呼道教の神器は剣と鏡と玉璽
八角は剣と鏡と勾玉?と百済大刀契。

605 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 15:11:19.81 .net
>>602
神功皇后は仮に実在していたとしても4瑞「紀後半の人物
証拠は日本書紀
神功皇后の事績に七枝刀を貰ったことと三韓征伐があるが
どちらも大陸側の記録では4世紀後半

606 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 15:52:54.02 .net
>>598
だから糸島は違うでしょ

607 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 15:58:18.36 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

608 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:04:11.12 .net
>>601
畿内説は要らない、ってことだね

609 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:12:39.59 .net
>>605
日本書紀には魏志があり、神功が四世紀とは書かれてないが?

610 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:14:40.03 .net
>>547
史実である九州(王朝)説を抹殺するためだけに存在する畿内説なんか(公金チューチュー考古学者以外)誰も必要としていないw

611 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:19:08.13 .net
>>609
日本書紀の古い記録は嘘だらけ

神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳

考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供

612 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:23:46.92 .net
九州島は初めは筑紫、鎮西、九国なんで。天下を表す九州は日本列島が最初。

613 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:38:22.82 .net
>>609
記紀は倭人伝を読んでから作った。
そして神功皇后をねつ造した。

事実が残っていたならば
絶対に、そうはならない。

313年応神前?からは
半島進出を始めるが
高句麗防衛であって、征伐ではない。
神話ではない話になるのはここから。
卑弥呼は無関係。

370年には仁徳が百済建国七支刀。
倭の五王~広開土王碑
~継体の人物画像鏡。

663年白村江
半島忖度で、学者には
歴史の話は出来ないんだろ?

614 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:40:06.93 .net
投馬国(正しくは於投馬国)
九州説では、北部九州から魏志倭人伝に書いてある通り「南」に進みます。本居宣長らは日向国都萬(つま)神社付近(日向国児湯郡、現宮崎県西都市)としましたが、都萬神社付近の西都原古墳群や児屋根塚古墳は、古くてもせいぜい4世紀初頭のもので、3世紀のものはありません。安彦良和氏は西都原を日向邪馬台国として描きましたが、考古学的には不可能です。

615 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:51:17.68 .net
記紀と中国史書のすり合わせをしても意味無いって
中国史書を読んで記紀を書いてるんだから

616 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 16:54:56.75 .net
>>614
247年に帯方郡に報告して張政たちが来たほどの死闘を演じていた狗奴国はどこなんだ?
畿内説は印象操作ばかりしていないで、自分の頭のハエを追えw

617 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:00:47.94 .net
邪馬台国は北魏が国史の獄で消し去った過去と同じ。魏晋の朝貢だけは権威だったので残した。

618 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:01:24.10 .net
>>603
×投馬国→〇於投馬国→上古音qa doː mraːʔ → カドマ国

619 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:06:47.31 .net
>>618
247年に帯方郡に報告したら張政たちが派遣されて来たほどの死闘を演じていた狗奴国はどこなんだ?
畿内説は印象操作ばかりしていないで、自分のハゲ頭のハエを追えw

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

620 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:17:20.97 .net
>>616
そんなものは無い

621 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:17:57.92 .net
>>617
そういう話を邪馬台国比定の問題に持ち込むからグダグダになるんだよ
邪馬台国の場所の比定に日本書紀は不要

622 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:24:37.57 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

623 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:26:10.17 .net
247年時点で張政が帯方郡から派遣されて来るほどの内戦状態じゃ、とてもじゃないがその親書に平伏している卑弥呼が魏帝陵より巨大な箸墓なんて作れないだろw
そもそも魏帝より大きな墓なんか作ってたら、そんな金があるならとっとと卑弥弓呼をやっつけてからにしろ!って張政に怒られるだろw

624 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:34:50.98 .net
だろ?だから箸墓は(魏が晋に禅譲した)266年以降の築造だよ

625 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:38:10.69 .net
>>623
そこまで確りした主従関係じゃないだろ
魏に朝貢なんて邪馬台国の支配者に対する箔付けでしかない
日本の総理大臣がアメリカ訪問して大歓迎されました
日本の総理大臣がアメリカに来てアメリカに忠誠誓ってるよ
ぐらいのセレモニーでしかない
どちらも自国民向けの
ウチの国(政府)凄いだろアピールの為の茶番

626 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:39:50.70 .net
卑彌弓呼と卑彌呼が権力争いやってただけで戦争など無いと言ってるだろ

627 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:44:27.74 .net
>>531

久住は、奴国と初期ヤマト政権の政治関係性が
博多湾貿易を成立させ、西日本各地は対外交易が可能になったと言っている
なので並立ではない

628 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:48:12.23 .net
>>534

久住は、
奴国と初期ヤマト政権の政治関係性が
伊都国圏に楔を打ち込みその交易ルートを統制し始めたと言っているので
伊都国勢力によるヤマト王権樹立や奈良盆地への遷都を想定していない

629 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:52:41.51 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形態の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

630 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:53:08.85 .net
>>626
小競り合いはあったはず。   @阿波

631 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:54:26.43 .net
>>628
たんに需要の問題
近畿や山陰で青銅器の需要があった
それだけ

632 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:56:23.54 .net
>>630
ない
そもそも戦う軍隊を率いていない

633 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:57:59.41 .net
>>628
久住論文に、伊都国の東遷ってあるけど

634 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:58:56.19 .net
說相攻擊狀
互いに攻撃し合っていたのだろうな

635 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:59:23.95 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争に備える(日向投馬国との同盟締結で挟み撃ち)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

636 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:59:24.46 .net
>>631

畿内と九州最大の都市博多は葬制を共有する政治連合

637 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 17:59:44.81 .net
寺沢さんの説も伊都国の東遷だっけ?

638 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:00:14.65 .net
>>633

どの論文?

639 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:01:17.53 .net
>>636
関係ないって
墓の形状も需要の問題

640 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:02:33.35 .net
>>635
卑弥呼の墓を見つけてから妄想を繰り広げろよ

641 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:03:23.15 .net
畿内説は妄想を根拠に卑弥呼の墓を決めつけました

642 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:03:49.50 .net
>>635
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利一族で高家筆頭・吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に分家=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗(水軍全滅)で近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和分家(留守番)の歴史として描いたのが記紀なのだ。

643 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:05:16.25 .net
>>639

博多の首長と九州の首長は何も共有していない

644 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:06:38.71 .net
いろんな墓の形状が共存してるんだから強制されたもんじゃ無い
それが集約されて前方後円墳になっただけ

645 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:07:57.76 .net
>>643
博多の首長が俺もあの墓が良いと言っただけでしょ

646 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:11:23.97 .net
>>645

だから、九州最大の外港都市博多が
北部九州だけ政治連合の一部だということを示すものは何もない

647 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:12:56.97 .net
>>644

強制されたと言っていない

648 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:13:38.69 .net
>>646
そんなん思ってない
近畿に入る輸入品は出雲経由だろうし

649 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:13:50.55 .net
>>642
魏から晋に王朝が変わることなど、既定路線。また、晋の実質的な始祖である司馬懿が公孫氏の燕を滅ぼしたことで倭国が魏に通じてきたとされているのだから、曹から司馬に易わったところで、倭国にとってダメージはない。

650 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:14:48.97 .net
>>621
畿内の大和国が大倭邪馬台国だろ?九州は大倭じゃねーぞw
邪馬台国の表記を抑え消したのは漢文が使えるようになって漢化したからだろw

651 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:15:19.22 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

652 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:19:47.14 .net
>>531
久住は、「奴国を上回る国が九州内に想定できない」として九州説を完全否定している

653 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:21:16.73 .net
>>638
「3世紀のチクシと三韓と倭国」
5.「倭国」の再成立と「卑弥呼」〜新「東遷」説〜

伊都国では?A期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか?これには根拠がある。平原王墓に認められる「太陽信仰」「天体観測」「山立てによる農事暦」(原田大六 1966、図 28)は、大和の初期王墓(纒向石塚、 箸墓ほか)にも継承されているのである(大和岩雄 1990、北條芳隆 2009・2016)。北部九州か ら大和には「土器」がもたらされず、そのため「東遷」は否定されることが多い(西谷正 2010 など)。 しかし、副葬品組成やその埋葬儀礼のハビトゥス(慣習的規範)と実践、さらにここで指摘した 太陽信仰と山立てによる農事暦という、より高度なソフトウェア(知識と実践)がもたらされている。

654 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:21:38.48 .net
旧唐書では邪馬臺國と書いてない
さすがにこの頃には王都ではないと気付いたんだろう

655 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:22:32.66 .net
>>623
247年時点で互いに殺し合っていた邪馬台国と狗奴国が、同じ年に自分たちを殺そうとしていた敵の墓の築造を手伝うなどあり得んよw
やはり、魏帝陵よりはるかに巨大な箸墓は266年以降、もしくは魏に冊封されていた筑紫邪馬台国ではない本州王権の墓だ

656 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:22:42.39 .net
内部論理はボロボロの畿内説
外面だけ必死のパッチで取り繕うのが畿内説

上質な中身が豊富で余裕がある九州説

657 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:24:16.47 .net
>>636
>畿内と九州最大の都市博多は葬制を共有する政治連合

畿内と九州へ倭人(阿波勢力)が進出しただけのこと。   @阿波

658 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:24:59.96 .net
>>649
西晋から叙爵されていないことで察することができてしまう

倭国は魏朝の最後、司馬昭が魏の相国になると何度も朝貢を繰り返したが
西晋になって初代皇帝2年目の朝貢を最後に消息が途絶えた

659 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:25:23.97 .net
>>639
>墓の形状も需要の問題

違う!  畿内と九州へ倭人(阿波勢力)が進出しただけのこと。   @阿波

660 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:25:37.69 .net
>>650
そういう推理は必要ない
魏志倭人伝に書かれている場所のヒントは魏志倭人伝の中にある
魏志倭人伝に書かれている必要条件を最も多く満たしてる場所が邪馬台国

661 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:26:02.99 .net
>>655
卑彌呼と卑彌弓呼が同じ纏向政権の人間であればあり得る

662 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:27:04.89 .net
>>539
投馬国、邪馬台国を九州内のどこかに想定することは不可能である
しかも、奴国は伝統的第?の受容から、筑前型庄内甕の成立、纒向型前方後円墳の築造、北部九州型布留甕と九州最古の三角縁神獣鏡の受容をしたのであって、
単に「東の倭種」と「倭人」という関係を超えたものというべきことが明らかである

663 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:27:24.02 .net
>>652
戸数は大幅に盛られていると思われるので
必ずしも奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬臺国7万戸が正しいとも言えず
またその比も参考になりうるかどうかもわからない

664 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:27:32.25 .net
>>661
帯方郡が張政ら軍人を派遣してるからそれはないw

665 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:28:32.63 .net
>>662
くだらん印象操作をしてないで、狗奴国の位置比定問題をなんとかしろ!w

666 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:28:57.78 .net
絶滅危惧種九州説の生き残りの全てが、纒向4世紀論を言っているのであって、北部九州の邪馬台国と纒向の並立を想定していない
あらゆる点で、それは成立の余地がないからである

667 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:30:05.21 .net
漢化前倭と漢化後日本の区別が付かなかった旧唐書が欠陥だから新唐書で倭と日本が同一に改正されたんだよ。

668 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:30:31.73 .net
>>663
大幅に盛られていると想定した場合でも、投馬国と邪馬台国は奴国を上回る国であり、九州内に奴国を上回る国を想定することは不可能である

669 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:31:01.37 .net
>>665
無理無理! 「狗奴国」を比定できるのは、「阿波」だけ。   @阿波

670 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:31:35.87 .net
つまり狗奴国がどこにも比定できない畿内説はウソ

671 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:32:52.26 .net
>>664
旗持ってきただけだろ
「控えおろう、恐れ多くも親魏倭王卑弥呼様にあらせられるぞ」

672 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:32:55.57 .net
>>655
筑紫からは何も出土しない
九州で言えば、卑弥呼時代やその直後には、石塚山古墳やら赤塚古墳のある北部九州東岸に権力が移ったというべきである

673 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:33:30.20 .net
>>670
狗奴国は東海でも、熊本でも成立可能である

674 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:34:16.28 .net
狗奴国を(纏向外来土器最多の)東海に比定すると論理矛盾に陥る畿内説はアウト

675 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:34:48.29 .net
>>672
>筑紫からは何も出土しない

筑紫からも、畿内からも何も出土しない。   @阿波

676 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:35:23.25 .net
>>633
久住先生に伊都国東遷説をとっているか確認したが否定した

677 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:35:30.99 .net
>>673
熊本だと卑弥呼圧勝で張政要らないからアウト

678 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:35:33.54 .net
>>673
裏付ける遺跡は無いけどな。   @阿波

679 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:36:27.55 .net
魏志倭人伝によると大倭は市の監視役をしていたらしい

680 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:36:28.28 .net
>>674
矛盾しない

681 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:37:20.02 .net
>>680
理由は?

682 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:37:26.63 .net
>>677
というべきでない
南九州がヤマト王権に降ったのは4世紀以降である

683 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:38:07.86 .net
>>681
土器が出てきたら敵対国であるという想定がない

684 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:39:06.78 .net
つまり畿内説は年代詐称詐欺でしたと

4世紀の古墳から5世紀の剣が出たニダ → 古墳が5世紀って事だろアホ

3世紀の古墳から4世紀の三角縁が出たニダ → 古墳が4世紀って事だろ馬鹿

3世紀の箸墓古墳周辺で5世紀の木製輪鐙が4世紀の層から発見されたニダ → 古墳が4世紀って事だろサル

685 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:39:16.89 .net
>>683
ちょっと何言ってるか解らないw

686 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:39:25.90 .net
狗古智卑狗は拘右智卑狗で菊池とは関係無いしな

687 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:39:42.82 .net
>>660
それは畿内である

688 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:40:45.34 .net
>>685
敵対していた東海狗奴国と邪馬台国は、張政の派遣により和解したと見るべきである

689 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:41:31.27 .net
だから隋書や後漢書にも書いてあるだろ?邪馬台国は大和って。元々行程がおかしい魏志倭人伝を更に歪曲して九州にする方が邪道ですね。

690 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:41:51.51 .net
>>668
奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬臺国7万戸が信用できないとしつつ
それを根拠にして論を展開するのは難しい

691 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:41:53.30 .net
>>684
(於)投馬国は宮崎ニダ→西都原古墳は四世紀だろアホ

692 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:42:53.62 .net
>>684
それまで5世紀の特徴を備えた物が出ただけであって、最古の蛇行剣と見られる富雄丸山古墳から出てきた物が4世紀なら、その初めを4世紀後半と見るべき

693 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:42:59.47 .net
狗奴国はえみしでしょう
卑彌弓呼とは関係ない

694 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:44:02.02 .net
>>690
戸数は信用できないとしても、投馬国と邪馬台国が奴国を上回ることは確実である
それは末盧国が奴国以下であることと同義である

695 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:44:25.61 .net
>>687

鉄の矢じり
鉄器
大陸との交易を示す出土品
帯方郡からの道里の記述との整合性
全てが畿内では有り得ないと示している

696 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:45:37.35 .net
北部九州邪馬台国と纒向同時存在論は成立の余地がない
なぜなら、北部九州を無視して、畿内が大陸や半島から画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡を仕入れるというのは全く不自然極まりないからだ

697 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:46:52.76 .net
>>695
絹も鉄鏃も畿内から出ているので問題ない
>>20の通り、3世紀半ばからは畿内が鉄器でも圧倒する状況を考えれば自然である

698 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:49:57.70 .net
福岡、熊本からは丹が出ない

699 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:50:23.30 .net
>>692
いやいやそれやり出したら収拾がつかなくなるだろ
畿内説は古墳の編年のやり方がアタオカなんだよ
必ず古く見積もる悪癖がある

700 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:52:59.59 .net
>>696
出雲から入ってくるだろうが

701 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:53:12.91 .net
>>699
畿内の古墳のほとんどは未調査である
例えば、纒向石塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲ツ山→上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵古墳
のように大王墓は続いていくが、調査できたのはホケノ山と桜井茶臼山とメスリ山ぐらいである

702 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:54:34.93 .net
>>696
帯方郡から流れてきた鏡職人がいたらどうとでもなりそう

703 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:54:37.22 .net
>>676

>Takeo Kusumi
>@T_Kusumi057
>また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。む>しろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、>新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません
>午前10:37 · 2024年1月28日

すぐには拾えないんだけど、伊都国単独の東遷は否定していて、周辺諸国と一緒に東遷したとか言ってたような気がする

704 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:55:13.83 .net
688
裏付ける遺跡はさっぱりだけどな。   @阿波

705 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:55:21.98 .net
>>699
収拾がつかないのはおまえだよ
他の遺跡もちゃんと訂正して年代に拘れよ

706 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:56:37.20 .net
>>697
鉄器を作る能力は無いけどな。   @阿波

707 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:56:40.65 .net
>>653

他の学者の仮説の紹介ね

708 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 18:57:27.64 .net
>>700
半島→北部九州→出雲→畿内と経由するならば、当然にして九州から画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が畿内よりかなりの面数を出すべきである
ところが、那珂八幡古墳の三角縁神獣鏡1面は最古級だから置いておくとしても、次の九州の三角縁神獣鏡の出土は、福岡県苅田町石塚山古墳7面、大分県宇佐市赤塚古墳5面が最多で、畿内に及ばない

また、これらと同時代と見られる吉備車塚古墳は三角縁神獣鏡が11面出土しているので、この時代の北部九州の首長の格付けは、吉備以下だったと見られる

709 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:01:58.75 .net
>>707
自分の論文の紹介でしょ

710 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:05:20.46 .net
製鉄は森林伐採して環境破壊するからな
だから朝鮮や阿蘇の山奥でやらせてた

711 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:06:47.29 .net
ヤマタノオロチという人がYouTubeで林・藤島遺跡から鉄鏃が2000点出てきたので、福井県こそが邪馬台国であるとしている
しかし、林・藤島遺跡の鉄鏃を2000点と福井県すら発表しておらず、考古学者からは無視されている

砂粒のような物も「鉄1点」とカウントするのは全くもっておかしい

ホケノ山、椿井大塚山、メスリ山(鉄器372点)、恵解山古墳(鉄器700点以上)のようなしっかりとした鉄器を1点とカウントすべきである

712 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:00.92 .net
>>709

その箇所には原田大六、大和岩雄、北條芳隆の説は書いているが
久住が伊都国が東遷したと考えるとは書いてない

713 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:37.31 .net
>>697
弥生時代の話をしてるんだよ

714 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:54.95 .net
畿内説の馬鹿が意図的に編年ミスりすぎて辻褄が合わなくなってきたなw

715 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:41.20 .net
>>710
それより技術が足りなかったんだと思うけどな
鉄を手に入れて苦労して作っても鏃くらいじゃな

716 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:47.46 .net
>>713
弥生時代に鉄を保有してないと、古墳時代に副葬できない

717 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:52.34 .net
>>697
3世紀半ばでは遅すぎる
邪馬台国が東遷した
というなら話は別だが

718 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:11.74 .net
全てを100年前倒しするしか無いわけだw


■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

719 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:16.55 .net
畿内が鉄器で圧倒できるようになるのは3世紀も半ばを過ぎてからなんやね
それまで何してはったんやろね纏向はぁんは

720 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:46.72 .net
>>716
漢委奴国王印は西暦57年の出来事
奴国に関しては紀元前から大陸との交易をしていた
畿内は大陸文化の流入が遅すぎる

721 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:11:15.87 .net
>>717
ホケノ山の王は古く見積もれば2世紀に存在したと思われる
死んでから副葬するのだから問題がない

722 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:11:43.22 .net
>>697
>>548

723 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:13:00.42 .net
>>712

じゃあその後を続けると、

「・・・実は前方後円墳の祭祀属性(寺沢薫 1984、図 31) は、「平原+楯築」の諸要素で八割方完成する。伊都国の王族(旧倭国王家系)と楯築の吉備王族は、大和の纒向に東日本まで見据えた諸国の統合と物資流通(「大市」)のために諸国に推戴され、「遷都」 したのではないだろうか。・・・」

724 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:19.09 .net
鍛鉄で刀を作れる技術があれば作る価値もあるだろうが

725 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:40.71 .net
>>719
3世紀半ばの古墳から出土するのであって、2世紀には手にしていたと見るべき

726 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:56.80 .net
>>720
銅鐸作ってるから

727 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:15:55.87 .net
製鉄ができたのは6世紀以降
九州説は鉄について勘違いしている

728 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:16:21.61 .net
3世紀過ぎでも畿内は木製土木具で古墳を作っている
畿内の鉄器は古墳に副葬されているだけで、畿内で鉄器が普及するのは後世だ

翻って北部九州はとっくに鉄製農具で農業を行っている
3世紀を通して鉄器は北部九州が圧倒的だ

729 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:16:54.31 .net
>>725
そのような見方をするのは難しい

730 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:17:31.31 .net
>>711
ググッてみたが玉造り拠点の一つやな
何でもかんでも邪馬台国に結びつけるのやめて欲しい
純粋に弥生時代~古墳時代初期に各地方でどんな事があったのか知りたい

731 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:17:54.73 .net
>>728
北部九州の完全鉄器化はもっと後である

732 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:18:51.39 .net
>>728
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/iffb4769c22bc10da/version/1535966336/%E9%89%84%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg
山陰・北陸が圧倒的だ

733 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:19:20.99 .net
>>728
たんに需要だと思うけどな
鉄製農具は輸入品で自前で作る程の技術が無かったんでしょう

734 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:21:30.31 .net
372点の鉄器を副葬したメスリ山古墳でも、銅鏃が200点ほど出ている
すなわち、鉄器化が進んだ後も銅が鉄を補強したのであって、北部九州から鉄がたくさん出るから、北部九州では木製農具は使われなくなったというのは荒唐無稽である

735 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:21:38.31 .net
https://i.imgur.com/59vGbyR.png
弥生後期に比べて古墳時代初めはむしろ減ってないか?

736 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:22:07.53 .net
>>732
眉唾物をまた引っ張ってきたな!寒村越前詐欺師は

737 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:22:32.37 .net
鏃を作るくらいしか用途の無い鉄は需要が無かったんだと思うけどな

738 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:25:40.74 .net
銅鐸を壊して鏃を作ってるんだよね

739 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:33:09.35 .net
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚

箸墓古墳、瀬戸内海ネット・ワーク、奈良盆地の東端だから「端墓」説
纏向は出雲族の瀬戸内海(九州からの交易航路)統治
その政治を天孫族(伊都国王)に譲ったのが、出雲の国譲り神話
瀬戸内海広域圏に共立された最初の王が卑弥呼である

ここに大久米命、天皇の命をもちて、その伊須氣余理比賣にのれるの時に、
その大久米命のさけるとめを見て、あやしとおもひて歌曰く、
「あめつつ ちどりましとと などさけるとめ」と歌ひければ、大久米命、答え歌ひてぞ、
「をとめに ただにあわむと わかさけるとめ」

「貴方は何故、千鳥、鵐(しとど)の様な目をしてらっしゃるの?」
「お嬢様に直接お会いして、勅命を持ってきた身分の私めが好かれる事の無き様、
目元に鋭い入れ墨をしてきたのですよ」

伊須氣余理比賣(卑弥呼)の歌より、卑弥呼は九州に行った事が無い事が判明する
魏志「男子は身分に限らず皆、顔や体に入墨をする」より、これは九州の海人の風習である
魏の入国時、畿内までは来なかった

ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)
・頭と尾に「ヒメ」が2回使われているのは、後世に付けられた尊称である
・7世紀の出雲族の象徴である踏鞴(タタラ)を足している

卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼
・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか

740 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:33:40.14 .net
古事記では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火照命(ホデリ=海幸彦)
・第二子 火須勢理命(ホスセリ)
・第三子 火遠理命(ホオリ=山幸彦)である

日本書紀では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火酢芹命、火闌降命(ホスセリ、ホスソリ=海幸彦)
・第二子 彦火火出見尊、火折尊(ヒコホホデミ、ホオリ=山幸彦)
・第三子 火明命(ホアカリ)である

記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶の建国神話、檀君朝鮮の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、
天から王が降臨する神話があり、日本神話も同様である
伽耶は製鉄遺跡の多い地である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武の名も製鉄業とされる彦火火出見命であるが、これは後世に付けた名前であるのなら、祖父と別の名前にするはずである
漁猟だけの時代ではなくなり、稲作や鉄工といった資本関係が生まれて貧富の差が出来、
そして長い年月を経て豪族と庶民の区別が出来た
九州では製鉄王が王様となっていたのである

神武天皇のお名前
・狭野尊(サヌミコト)
・豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
・若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)
・神日本磐余彦火火出見尊(カンヤマトイワレビコホホデミノミコト)

畿内で行われた倭の覇権争い(いわゆる倭国大乱)を終結させたのは神武の婿入りである
倭の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、畿内への交易路を確保していたので安定した

741 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:34:55.35 .net
>>721
ホケノ山古墳の炭素年代測定は誤り

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.html

742 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:35:40.95 .net
>>726
魏志倭人伝に邪馬台国が銅鐸を使っていたなんて記述はない

743 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:37:10.25 .net
>>739
>>740
そんなん要らんねん、あほらしい

744 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:37:45.84 .net
安本美典やたまにここに貼られる「鉄の分布」なる表では確かに北部九州が圧倒している
しかし、その表をたどると2000年に発表されたものであることが分かる
例えば、五斗長垣内遺跡(100点以上)、舟木遺跡(2016年の調査で170点の鉄器が発見されたのであるから、兵庫県92点に少なくとも270点を足して、362点とすべきである。

362点ならば福岡県の398点とほぼ同じ。
しかも、この弥生後期の舟木遺跡というのは吉野ヶ里と同じ40haであるから、鉄器製産拠点としては極めて巨大であり、まだまだ鉄器が出てきても不思議ではない

745 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:38:26.68 .net
>>742
作ってないのか?
原料の銅はどうするんだ?

746 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:41:56.31 .net
>>744
淡路島は北部九州倭国側の最前線

747 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:44:54.48 .net
>>744
卑弥呼の時代には鉄器生産が終わってたそうな

748 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:46:57.13 .net
>>746
奴国と淡路島と畿内の関係性を良く示していると言える
舟木遺跡からは北部九州のヤリガンナも出土している
他方、北部九州の盟主奴国は、畿内の伝統的第Xや筑前型庄内甕、北部九州型布留甕の成立からも分かるように、極めて親密である

したがって、2万戸の奴国を上回る投馬国と邪馬台国を九州内に想定することは不可能である

749 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:48:26.56 .net
銅鐸は吉野ヶ里からも出ている
今日、小学6年生の教科書にも載っているのを確認した
銅鐸は邪馬台国論争にほとんど役に立たない

750 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:55:39.31 .net
>>749
中国と関係が無かったら原料の銅が手に入らないから

751 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:59:48.49 .net
https://www.tokyo-np.co.jp/article/137344

752 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:02:44.18 .net
>>750
北部九州を経由すれば手に入るので意味ない
畿内が直接中華帝国から鏡を仕入れたのは、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡の時代からと見る
それ以前はおそらくほとんど北部九州経由

753 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:03:43.23 .net
>>752
なんで出雲や近畿で大量に出て九州で乏しいんだよ?

754 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:04:52.53 .net
>>753
邪馬台国は纒向だから

755 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:05:50.34 .net
>>728
>3世紀を通して鉄器は北部九州が圧倒的だ

しかし、鉄器を作る能力はほとんど無いに等しいがな。   @阿波

756 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:07:05.32 .net
銅鏡から銅鐸は作れないから
銅鐸は割れない

757 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:07:57.93 .net
>>711
>恵解山古墳(鉄器700点以上)

これ、「阿波」の古墳だから。 鉄の甲冑も出ているよ。   @阿波

758 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:09:55.39 .net
>>755
そこまでは言わんが完成品を輸入してたのも一緒くたにしてるな
当時の技術はまだまだだった

759 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:11:13.51 .net
>>746
>淡路島は北部九州倭国側の最前線

おっと。 淡路島は「阿波」の島だから、悪しからず。   @阿波

760 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:13:02.98 .net
>>757
京都府長岡京市である
嘘はいけない

761 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:14:47.25 .net
無駄だ
男子1人、1000人の奴婢(女達)が居るような処に鉄器で溢れている訳があるまい、仙人の地だぞ。世俗から離れた場所だわ
市等は弟が管理している
彦巫女の始まりであり卑弥呼は老子道徳経の指導者
平原の巫女は太陽信仰、正確には朴の光信仰であり卑弥呼は太陽信仰ではない。
北辰箸墓が卑弥呼の墓。しかしながら弟の墓が無い
真東にあるホケノが第一候補、故にホケノというのであろう。宗女岱與が西殿塚西王母、岱與は霊山の第一座の名。
覆らない

762 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:15:25.53 .net
恵解山古墳群   @阿波
https://kotobank.jp/word/%E6%81%B5%E8%A7%A3%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4-1149229

763 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:16:56.19 .net
>>761
またおまえかよ?
おまえはひろゆきの掲示板に一人で書いてろよ

764 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:19:27.64 .net
覆せる説明もできないくせにほざくな

765 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:56:23.61 .net
740.記紀は大体そんなものであろう
ただ神武はおそらく卑弥呼の後。
卑弥呼以前に筑紫も吉備も無いしタタラ姫、多々羅ヶ原多羅国もまだ無い
313年以降の話と言えよう
23代の筑紫の城すら北九州には無い
在るとされるのは六部から始まる月支城。ここに23代が居たわけだ。八角墓、藤原一族は間違いなく慶州羅井が聖地。
ではいつ頃から列島に入り込んだのか、今はそこの話
九州邪馬台なぞ嘘話

766 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:26:10.51 .net
神代文字(忌部文字)も、「阿波」が起こり。   @阿波

767 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:34:58.82 .net
>>762
消滅遺跡群

768 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:48:37.33 .net
つまり畿内説には存在理由が無いねと

769 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:51:22.01 .net
>>767
宅地造成で潰されたらしい。   @阿波

770 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:13:57.35 .net
>>741
>ホケノ山古墳の炭素年代測定は誤り

という誤り
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
>そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
>しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

771 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:14:54.95 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

772 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:25:11.38 .net
>>769
残念だけど消滅遺跡

773 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:36:31.04 .net
別に邪馬台国に鉄が多いとかの記述はないよね
鉄鏃、骨鏃を使うしかないないんじゃないないの?

774 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:38:25.97 .net
私は箸墓築造はAD300年頃と見ているが、一旦それを引っ込めて仮に畿内説でも一番早い250年頃の築造(すなわち卑弥呼の墓)ということにしよう

その場合、古墳時代のスタートは250年頃ということになるので、卑弥呼の時代である180年代乃至190年代~240年代はその前の弥生時代ということになる

畿内説が箸墓から古墳時代になるとしながらその前の卑弥呼時代も古墳時代とするのは理屈が合わないのではないか、と私は前々から疑問に思っている

古墳時代の始まりは箸墓がトリガーではなかったのかね?
畿内説の諸君にこのあたりの説明を求めたい

775 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:52:40.24 .net
>>774
>畿内説が箸墓から古墳時代になるとしながらその前の卑弥呼時代も古墳時代とするのは理屈が合わないのではないか、と私は前々から疑問に思っている

そんなこと無いね
弥生時代は弥生土器が指標
古墳時代は古墳が指標
つまり木を竹で継いでいる
だから古墳の定式化じゃなくて土師器の登場を指標にすべきだという論争がずっと有った
今の潮流は定式化の前に早期古墳を設定して土師器の登場と合わせる動きになって来ている
学問は常に改善していくものだ

776 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:54:31.20 .net
>>773
韓伝に倭人が鉄をとりにくるという記述がある
國出鐵 韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭

777 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:57:08.61 .net
>>775
ということは、箸墓が定型化された初めての前方後円墳であり、前方後円墳から古墳時代が始まる=箸墓から古墳時代が始まる、という定義を考古学界は捨てたのかね?

そうなると、そもそも「古墳」時代という名称と矛盾しないかね?

私は古墳時代は前方後円墳すなわち箸墓がスタートであり(だからこそ「古墳」時代)、その前の卑弥呼は弥生時代とするのが論理的にスッキリすると考えるが

778 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:00:53.45 .net
そもそもWikipediaの古墳時代の説明では私の書いた定義に沿っているようだ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3

キナイコシの解釈が間違っているか、あるいは少数説ではないかね?

779 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:11:59.03 .net
>>777
>ということは、箸墓が定型化された初めての前方後円墳であり、前方後円墳から古墳時代が始まる=箸墓から古墳時代が始まる、という定義を考古学界は捨てたのかね?

捨てつつある
石野の纒向編年は纒向1式まで弥生、2式から古墳という考え方だ
だから年表などでも200年と250年の間を斜め線で区切っているものが多数派なはずだ

780 ::2024/04/22(月) 23:15:28.86 .net
定義に意味なんてない

781 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:21:13.15 .net
>>779
しかしまあ箸墓=卑弥呼の墓という解釈をした場合でも、卑弥呼の時代を弥生時代と捉えることが「間違い」とは断定できない訳だ
せいぜい言えるのは、「間違い」という見解もある、までだな

そもそも私は箸墓=卑弥呼の墓説ではないので、卑弥呼は弥生時代としか考えない訳だが

782 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:32:28.75 .net
古墳前期の前に古墳早期を置く考え方が、これからは主流になっていくだろう

783 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:56:24.78 .net
卑弥呼は遠い昔のファンタジーの登場人物的のように思いがちだが、崇神天皇よりも遥かに実在性が評価でき
日本の神話が生まれる以前に、170年ごろから248年ごろの間にリアルに生きていた存在

そう言い切れるのは中国の史書に事績が記されているから
倭国大乱を収拾するために倭国29か国から共立された
今日私たちが卑弥呼の解釈について混乱しているとしたら、それは私たちの責任で卑弥呼には何の責任もない

784 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:03:41.33 .net
江戸時代生まれの九州説は脱落

785 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:28:45.68 .net
箸墓の前にも前方後円墳はあるからなあ
倭国大乱の終結をもって弥生時代の終わりですよ

786 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:29:54.16 .net
実際に纏向や博多では高塚の古墳が造られているので
古墳時代が始まっているのだが
3世紀前半からを日本の時代区分の古墳時代にすると
古墳がないのに古墳時代になってしまうところは
どうしてもやけのやんぱちになってしまう

787 :琪瑛教大祭酒:2024/04/23(火) 00:34:43.37 .net
吾輩は専門家ではないから定義付けは専門家同士で話しあって決めてくれ
今日前に書いた墳墓はマイルストーンであると甕棺~前方後円墳そして舒明辺りからの八角墳墓が次のマイルストーンであろうと
邪馬台の卑弥呼は確実に存在した紀は父の墓とも違う大王でもない姫の墓を神が創ったとまで記す
卑弥呼が存在していなければ男王の墓にしていたよ
無駄だな。

788 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:35:22.11 .net
>>770
歴博研究グループののべていることは、炭素14年代測定法による測定データが示している客観的事実そのものにもとづくものではない。
みずからがあらかじめもつ考えに、つごうの悪いデータは、無造作かつ乱暴にはずし、
つごうのよいデータだけをとって、特定のマスコミにリークするという典型的なチェリーピッキングの方法によっている。
そして、それがあたかも、炭素14年代測定法によってえられた客観的事実であるかのように、
マスコミに流している。これは、科学的な不正行為のうちの、
「矛盾するデータの隠蔽(いんぺい)」にあたるものである。

https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku400.htm

畿内説はチェリーピッキングでゴッドハンドする

789 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:42:06.03 .net
>>788
という証拠は?


また、なんの証拠も無いんでしょ

790 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:53:10.32 .net
>>782
>古墳前期の前に古墳早期を置く考え方が、これからは主流になっていくだろう

つまり、「阿波」起源。   @阿波

791 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:56:31.36 .net
つまり九州説はウソ

792 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:01:47.51 .net
>>786
それは、墳墓の発祥地「阿波」じゃないから。   @阿波   

793 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:23:21.10 .net
多種の神代文字があるのは、倭人(阿波勢力)各派ごとに文字が異なっていたんだろう。   @阿波

794 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:34:28.90 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

795 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:38:24.54 .net
>>778
どういう定義?

796 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:39:55.56 .net
>>794
残念だが、ホケノ山古墳には「槨」は無いよ

797 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:41:31.92 .net
>>795
格の有無ではなく、棺の材質と埋葬方法(土に直接か間接か)

798 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:42:39.04 .net
つまり九州説はウソ

799 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:43:22.68 .net
>>794
>3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

碌に鉄器さえも作れない所に筑紫邪馬台国や本州ヤマト王権など興る訳がない。   @阿波

800 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:44:05.38 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏・帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争(日向投馬国と同盟し挟み撃ち)へ

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

801 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:48:24.76 .net
>>800
碌に鉄器さえも作れない<北部九州>や<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>に鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートなどある訳がない。   @阿波

802 ::2024/04/23(火) 06:56:26.83 .net
邪馬台国と同時期の古墳というのは
必要条件ではあるが十分条件ではない

803 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:59:52.90 .net
箸墓がニギハヤヒの墓なら、皇室としては絶対隠蔽事案(永久非公開)だなw

804 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:02:42.90 .net
奴国を上回る投馬国と邪馬台国が九州内に設定できないという事実が、九州説にとっての致命的欠陥

805 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:06:47.61 .net
587年に守屋が滅ぼされるまで前方後円墳築造を司っていたのは物部氏で、その先祖がニギハヤヒ(大国主・スサノオ)だからな
箸墓はニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)の墓で間違いないだろう。
そして日向→筑紫→安芸→吉備を経て大和に東征してきた磐余彦(神武)に国譲りして、子のウマシマジは外戚(大連)として皇后を輩出しつつ、古墳時代の300年間、前方後円墳による葬送儀礼を主導していったのだろう。

806 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:07:43.17 .net
棺有りて槨なし
「人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。

これは王の墓について述べたものとは思われない。普通の一般人、役人、良くて村の長ぐらいの記述のように思われる。

807 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:11:34.84 .net
>>771
https://img01.dosugoi.net/usr/toyogawa/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B.jpg
古代の濃尾平野はまさに海でした。
長島も津島も琵琶島も一宮も島でした。
小牧や熱田はかろうじて陸続きです。

808 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:11:52.10 .net
>>529
狗奴国がどこにも比定できず、東海に比定すると247年時点で帯方郡が張政が派遣するほどの死闘を演じながら纏向外来土器最多となり、空中分解してしまうのが畿内説の致命的欠陥

809 ::2024/04/23(火) 07:12:44.22 .net
>>804
奴国が福岡市なら投馬国は筑紫平野で邪馬台国は熊本平野

810 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:13:07.86 .net
>>805
下手な空想はいいから。   @阿波

811 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:15:11.73 .net
>>808
「狗奴国」を比定できるのは「阿波」だけ。   @阿波

812 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:15:26.56 .net
>>806
前方後円墳の石槨に関しては、魏側の表現の問題もあるけど、実際に
棺の材質(木か甕・石か)と棺の埋葬方法(土に直接か間接か)が大人と子供ほど違うでしょ?ってこと

813 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:16:05.92 .net
>>802
必要条件を満たせないのが九州説

814 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:16:15.34 .net
>>808
狗奴系地名
久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
久野城 - 茨城県牛久市久野町にあった城。
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。
久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。

九州にはクマしか無いっす

815 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:17:38.27 .net
>812
言ってる意味よくわからない

816 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:20:23.74 .net
>>809
何も出てこない場所に投馬国や邪馬台国を比定することはできない

817 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:22:08.57 .net
>>808
狗奴国は南九州でも可能
東海でも可能

818 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:22:58.33 .net
>>815
棺の材質が(腐敗しない)甕棺や石棺だと土に直接埋めても問題ないが、木棺だと(ホケノ山のように石槨を作っておかないと)遺体から出る有機物により腐朽菌が大繁殖し腐って埋葬主体部が自然崩落してしまう(だから石槨が必要)ってこと。

819 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:24:28.17 .net
>>816
吉野ヶ里出土前の筑紫も同じw
>>817
熊本なら西日本を押さえてる卑弥呼圧勝で帯方郡が張政を派遣するまでもなしw

820 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:26:16.80 .net
>>812
「卑弥呼」の墓は、阿波の青石製の石棺に直接土盛りした径35m程度の円墳だよ。   @阿波

821 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:28:02.89 .net
>>817
北海道でもアメリカでも可能だ。 それに見合う遺跡があるかどうかだ。   @阿波

822 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:31:29.60 .net
>>809
https://www.google.com/search?q=%E5%8F%A4%E4%BB%A3+%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B9%B3%E9%87%8E+%E6%B5%B7&sca_esv=6988a5fbe2eecb05&udm=2&biw=1064&bih=937&ei=y-ImZrLvKPnl1e8P7OemuAk&ved=0ahUKEwjygIHR7daFAxX5cvUHHeyzCZcQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E5%8F%A4%E4%BB%A3+%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B9%B3%E9%87%8E+%E6%B5%B7&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiF-WPpOS7oyDnhormnKzlubPph44g5rW3SMIhUJIXWOMccAF4AJABAJgBcqAB-ASqAQMyLjS4AQPIAQD4AQGYAgCgAgCYAwCIBgGSBwCgB7IC&sclient=gws-wiz-serp#imgrc=__Hfk_Uh5q8y7M&imgdii=rFpX1z889xIyoM
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRj_yDPLR9CIW5zPmaeDrxVfDjN2fCC8FG0cDujb3DQaDf10_puwF_oMhzA4zZ5y4f6xHQ&usqp=CAU
熊本平野は縄文時代海だったんで、大雨降ったらまあまあ沈没するよ

823 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:34:33.21 .net
@まず(魏使が直接足を運んで見た場所と考えられる)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

824 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:34:33.28 .net
ニギハヤヒの墓はここ

https://nara-jisya.info/2021/10/31/%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD%E5%A2%B3%E5%A2%93/

825 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:35:02.53 .net
>>824
偽墓は創れるw

826 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:37:12.28 .net
>>824
ヒント:神武天皇陵(✖前方後円墳〇方墳)w

827 :琪瑛教大祭酒:2024/04/23(火) 07:38:48.39 .net
無駄だな
必要条件で一番重要なのは中華が卑弥呼は鬼道者と認定していることだよ
この痕跡を探すこと
畿内説はこれをも確認している
列島では生まれない
その上北辰北枕が始まる
甕棺が東遷したとか、出雲から降りて来たとか崇神とかでは説明出来ないことなのだよ
中華で誰々がお勉強してきましたまで説明して貰わないとね

828 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:39:41.69 .net
邇邇芸命の墓はここ

「剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡」
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
片や、大河吉野川をはさんで対面する
邇邇芸命の后「木花咲耶姫」を祀る、右が阿波町側の「明多意神社」、左が脇町側の「妙体神社」    @阿波  
https://sueyasumas.exblog.jp/9380898/

829 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:41:27.35 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

830 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:42:40.95 .net
製鉄の王と后

火見王后

ピミキミウォ

卑弥弓呼

831 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:43:50.89 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)の海に浮かび、宿敵・孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

※魏志倭人伝の蛇足(虚構)
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(背後から呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島「陸行一月」)✖虚構

832 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:48:13.83 .net
或いは、

製鉄の王と后

火見君后

ピミクンウォ

卑弥弓呼

833 : 警備員[Lv.3][新][苗][芽]:2024/04/23(火) 07:48:28.27 .net
>>813

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

834 : 警備員[Lv.3][新][苗]:2024/04/23(火) 07:49:06.68 .net
>>813

> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ

835 : 警備員[Lv.3][新][苗]:2024/04/23(火) 07:49:35.51 .net
>>813
中国鏡の専門家によれば卑弥呼の時代の鏡は北部九州が出土の中心です

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」

中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif

836 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:50:49.98 .net
神武天皇の墓はここ

神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)   @阿波
https://ameblo.jp/l3mddmto/entry-12679475943.html

837 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:51:59.02 .net
九州説は時代遅れだな

838 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:53:11.27 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

839 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:53:57.67 .net
>>804
そこら辺が考古学の限界だよな
文字情報がなければ江戸時代、江戸を首都と断じるだろう

840 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:54:48.90 .net
>>835
>至位三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして

これなんか今日は完全に否定されてる旧式説だし

841 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:59:10.59 .net
「木を見て森を見ず」畿内説!

842 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:06:02.45 .net
「九州を見て他は見ず」九州説!

843 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:07:53.86 .net
分が悪くなると(邪馬台国時代だけ)筑紫平野を海に沈める畿内説!www

844 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:13:59.74 .net
>>843
https://img01.dosugoi.net/usr/toyogawa/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B.jpg
古代の濃尾平野はまさに海でした。
長島も津島も琵琶島も一宮も島でした。
小牧や熱田はかろうじて陸続きです。

845 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:17:30.54 .net
狗奴国も沈めてしまった畿内説www

846 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:19:34.52 .net
>>845
伊勢湾だった濃尾平野を渡って狗奴国だな

847 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:22:36.95 .net
河内和泉が狗奴国でよかろう
邪馬台国卑弥呼は奪う者の始祖だろうな

848 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:23:22.04 .net
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/f/fuhgetsu/20200826/20200826153350.jpg

849 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:23:53.91 .net
敵味方問わずすべての平野を海の底に沈め、一人寂しい畿内説www

850 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:30:26.39 .net
>>849
そら邪馬台国は当時の地形で議論しないと意味無いだろ
大雨降ったら沈没するような所に女王は住めない

851 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:31:10.49 .net
縄文海進を根拠にするのか

852 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:36:24.82 .net
昔の人の方位感覚も考慮に入れろよ

方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

853 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:36:52.82 .net
やはり纏向は狗奴国の集落だったようだな

854 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:54:04.48 .net
いつも理由がないのが九州説

855 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 08:56:37.04 .net
>>840
いやいや、これが中国では通説
これを否定しているのは日本の畿内説学者のみ

856 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:11:05.95 .net
>>852
弥生時代にそんな地図書けないから

857 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:13:59.81 .net
もともと存在理由がないのは畿内説

858 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:42:50.03 .net
もう畿内説は要らない!

859 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:48:33.53 .net
>>855
証拠は?
九州説は常に証拠がない

つまり永遠の月刊ムー

860 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:51:32.78 .net
>>859
証拠も何も勉強すればわかる話

861 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 09:59:54.80 .net
>>860
ほら、証拠が出せない
だから九州説は滅亡した

862 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 10:09:04.34 .net
>>823
>>829
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」。この千を超える洗脳スレも当然だw

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

863 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 10:14:56.76 .net
>>862
また九州説が無意味な印象操作と余計な小細工に励んでいるな

864 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 10:20:09.33 .net
>>862が松傾だよね

865 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 10:24:22.90 .net
>>862
畿内説の印象操作ってまるでコンビニだなw

866 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 10:37:22.06 .net
つまり畿内説は説を展開する資格すら無いのですよと

867 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:01:47.56 .net
畿内説が気になってしょうがなくて、わざわざ畿内説を荒らしに来てるはどこの誰なんでしょうね?

868 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:02:46.39 .net
そうやって嘘ばかりついていたから九州説は終わった

869 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:18:56.85 .net
畿内説に証拠無し

870 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:31:23.47 .net
畿内説は、吉備特殊器台=埴輪(殉葬の代用品)の先祖 ということをすっかり忘れてしまっているのではないかな。。。

871 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:31:29.72 .net
卑弥呼が生きてる内に自分の陵を造ったとw

872 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:36:16.29 .net
>>871
だったら平原王墓でもいいな

873 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:36:59.62 .net
>>869

という証拠は?

「九州説に証拠無し」を証明してしまう九州説の悲惨

874 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:54:27.11 .net
>>872
>だったら平原王墓でもいいな

埋葬されてるからダメ

875 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 11:59:38.15 .net
>>873

という証拠は?

「畿内説に証拠無し」を証明してしまう畿内説の悲惨

876 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 12:09:12.16 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

877 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 12:21:18.99 .net
>>876
https://pbs.twimg.com/media/B4IxMzOCUAAHrzb.jpg
濃尾平野は海だったからな

878 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 12:38:10.15 .net
日本の古代史や邪馬台国に興味を持ったり調べたりしている人は、世間一般人よりも教養や知性があると思っているので、
何度も同じレスやコピペを見るとがっかりする
>>1をまずちゃんと読んで、それに対して異議があれば反論する
それが最低の礼儀だと思うのだが

879 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 12:48:18.89 .net
ネットは何処でも荒らしバカウヨが沸く

880 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 12:52:46.23 .net
つまり九州説はウソ

881 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:14:37.25 .net
【歴史】仁徳天皇陵にイスラエルの失われた十支族「ガド族」の証拠があった?! [樽悶★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1713828308/

882 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:14:49.13 .net
>>814
魏略で伊都国の南が狗奴国となってるから熊本
畿内の邪馬台国は魏志で伝聞として出てくる

883 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:30:12.77 .net
>>882
>>831
魏志倭人伝の邪馬台国は伝聞じゃなくて魏の希望的観測

884 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:32:06.40 .net
実在しなかった架空の国、邪馬台国は何処に?

885 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:37:18.90 .net
>>884
>>831
魏志倭人伝は、本当の位置(筑紫平野)と希望的観測(沖縄那覇)と両方を書いたから、畿内説なんて鬼っ子が生まれちゃったわけよ
初めて読んだとき、あれ?邪馬台国が投馬国の南北に2つあるぞ!って思わなかった?

886 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:47:34.20 .net
>>878
>>1のテンプレはすべて個人的想像作文だから
日本語文章の読解力無いのか?

887 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 13:52:21.87 .net
みんな、初めて魏志倭人伝を読んだとき、あれ?邪馬台国が投馬国の南北に2つに細胞分裂しちゃった(オカシイ)ぞ!って思わなかった?
魏志倭人伝は邪馬台国(女王国)の本当の位置(筑紫平野・吉野ヶ里)と魏晋の希望的観測(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり=呉の背後で宿敵孫権を牽制してくれる頼もしい東夷)を両方書いたもんだから、後世の、特に日本人読者は混乱して箸墓のある大和だろ(南→東)なんて強引に捻じ曲げちゃって、(何の中身もない)思わぬ論争が始まってしまったってわけ
>>823
>>829

888 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:00:49.92 .net
思わない

889 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:08:06.49 .net
女王国は中国人付けた名称だから、女王国の場所は中国人が正しい。

890 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:09:06.49 .net
>>888
>>831
初めて魏志倭人伝を読んだ時、末盧伊都と来て、邪馬台国が奴国(博多)周辺だと思ってたら、東百里の不弥国は良いとして、突然南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る。なんて、突然頭を掴まれてとんでもなくグィ―ーンと南に放り投げられて唖然としなかった?w
魏晋では倭国を会稽郡の南端・東冶県の東の海上(夷州=沖縄あたり)にあって、背後から呉の孫権を牽制してくれようと朝貢してきた甲斐甲斐しい可愛い東夷だと思ってたってわけ
それを後世の日本人は本当の現実の地理だと思っちゃって(当然と言えば当然だけどw)発音から大和だろ、南→東だろ、モモソ♀の箸墓が卑弥呼♀の冢だろ、って大雑把に混同して、史上最悪の無意味な論争がはじまっちゃったってわけよ

891 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:12:21.38 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

892 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:22:56.26 .net
>>890
>不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る。

たしかに、陳寿に頭の中から脳みそ掴み出されて、グィーーンと南に放り投げられた気がしたwww

893 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:31:38.03 .net
>>882
>魏略で伊都国の南が狗奴国となってるから

なってませんが

894 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:35:00.74 .net
>>887
魏は滅んでるのに何の為に?

895 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:39:34.93 .net
>>894
歴史書=「魏志」倭人伝だから、陳寿の西晋代じゃなくて魏代のことを書かないとダメでそ?w

896 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:39:52.10 .net
里数行程と日数行程のつなぎ合わせは陳寿の間違いだとまだ認められないのね?

897 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:41:14.41 .net
>>895
魏代でも出鱈目で陳寿はそれを分かってるんでしょ?
だったら書くわけねえじゃん

898 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:41:40.50 .net
>>896
>>831

899 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:42:43.54 .net
>>896
お前、もしかして侏儒国=種子島のバカ?

900 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:43:34.11 .net
>>898
そんなこそんな行程書くわけねえじゃん
陳寿「もうわかんないんだも~ん」

901 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:44:02.30 .net
>>899
小人なんて居ねえ

902 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:45:13.94 .net
あのな、もうちょっと常識で考えろよ

903 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:46:51.23 .net
>>831
投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」を東に90度曲げてできたのが畿内説というウソw

904 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:47:28.02 .net
つまり畿内は東の倭種の国でしたと

【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg

905 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:52:10.55 .net
舟行一年とか書いてる時点で出鱈目だってわかるだろうがよ

906 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:53:10.43 .net
不弥国まではちゃんと書いてるだろうがw

907 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:54:15.64 .net
>>906
出鱈目じゃなくいい加減さだな

908 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:57:03.37 .net
対馬国一大国末盧国とそれ以外じゃ記述内容が違うんだしつなぎあわせてるよ

909 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 14:59:47.96 .net
松浦から糸島は方角もおかしいし歩くのもおかしい
有明海方向、吉野ヶ里に向かったんなら整合性が取れるのに

910 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:14:59.59 .net
怡土郡の範囲だけを伊都国と考えるからおかしくなる
当時の伊都国は松浦の南部〜奴国の西部にかけて広大な国だったと考えればいいんじゃね

911 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:22:09.37 .net
>>910
千戸なのに?

912 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:23:53.29 .net
>>904
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

あるって証拠なし

913 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:29:57.40 .net
魏略では一万戸

914 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:30:44.23 .net
>>909
方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

915 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:33:45.43 .net
魏志倭人伝には、別に呉の背後を突く位置とか政治的意図無いから

916 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:38:13.72 .net
俺は里数行程は適当につなぎ合わせてるだけだし行先は不弥国だし関係ないと思うけど
対馬国一大国末盧国だけは正しいと思ってて末盧国から東南五百里だと
吉野ヶ里遺跡じゃないかと思えて興味深い

917 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:44:08.60 .net
>>915
>魏志倭人伝には、別に呉の背後を突く位置とか政治的意図無いから

魏志倭人伝に無くたって、当時の曹爽政府にあれば倭人伝に反映してくる可能性大

918 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:45:57.45 .net
>>913
>魏略では一万戸

魏略にそうあったという根拠は?

919 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:48:19.51 .net
畿内説には証拠が無い

920 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:48:53.64 .net
原田大六が生きてる時に吉野ヶ里遺跡が発見されてれば
ここが伊都国だと言ってたんじゃないか?

921 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 15:59:06.13 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳です。

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)となりますが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

922 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:00:25.06 .net
九州の考古学者が「奴国を超える国が九州にはない」と言ってる時点で九州説不成立

923 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:01:51.46 .net
>>823
うゎ、すげー!

924 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:05:43.97 .net
>>922
何一つ根拠がなくて草

925 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:10:57.16 .net
九州説は金印でも出さない限り、まともには相手にされない
卑弥呼の墓があるなら、とっくに発掘されてるだろうから

926 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:18:14.87 .net
金印でも出ない限り畿内説も同じこと
掘らない考古学頑張って!

927 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:18:16.36 .net
>>924
あるんだけど

928 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:23:45.18 .net
邪馬台国の南に、斯馬国だの己百支国だの遠くて戸数が分からない国が多数あって、その南に狗奴国があると書いてあるんだが、アホ九州説は筑後平野と菊池市の間にそれを全部比定できるんか?
そもそも邪馬台国の遠くじゃなくて、すぐ近くだけど

929 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:28:44.27 .net
>>927
なぜ不成立になるのかその理由を説明してくれ

930 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:37:20.98 .net
>>925
纏向なんてまだ200回しか発掘調査してないんだし、これから金印とか証拠になるものが出てくるはずだよね

931 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:40:33.04 .net
邪馬台国が西晋に遣使したなら
親魏倭王印は返してるんじゃね

932 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:42:55.69 .net
>>931
返す国は滅びちゃった

933 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:44:01.32 .net
西晋に返すだろ

934 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:45:54.48 .net
>>933
何故?

935 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:47:13.72 .net
王朝が替わってるから

936 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:48:42.86 .net
だから返す必要ないんだろw

937 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:50:59.71 .net
印綬は返すもんだろ

938 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:51:25.67 .net
>>929
>なぜ不成立になるのかその理由を説明してくれ

九州の首長は皆どんぐりの背比べ
隔絶した大きい勢力が無かったことが判明してしまい
九州単独の国家形成は誰も信じなくなった

939 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:52:36.20 .net
返されずに墓から発掘されてる金印あるな

940 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:53:23.92 .net
>>938
隔絶した大きい勢力だという根拠はなに?

941 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:54:18.84 .net
卑弥呼は隔絶した大きな勢力だったから倭国統一を果たしたなんて話聞いたことないな

942 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:54:37.78 .net
>>939
それは埋葬用のレプリカ
国王も官職なので任免権が皇帝にあり、私物化はできない

943 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:55:11.27 .net
>>939

もらった国のほうが滅んだ場合だろ

944 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:56:24.05 .net
レプリカとか言い出したぞ

945 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:56:38.17 .net
>>940
>隔絶した大きい勢力だという根拠はなに?

女王国の戸数が隔絶している
女王の置いた地方長官が畏憚されている

946 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:57:30.23 .net
>>945
戸数が信用できるという根拠は何?

947 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:57:39.93 .net
>>940

邪馬台国は2万戸の奴国の3.5倍

948 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:57:47.96 .net
>>944
中国史の常識
官印を埋めちゃったら後任を任命できないでしょ

949 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:58:01.50 .net
>>947
その証拠は?

950 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:58:15.06 .net
国王は官職じゃなくて称号でしょ

951 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:59:11.76 .net
>>946
>戸数が信用できるという根拠は何?

倭人伝を信用しないなら九州説即死

952 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 16:59:38.36 .net
>>949

可七万餘戸だから

953 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:01:50.97 .net
投馬国と邪馬台国で2万戸の奴国の6倍だな

954 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:02:20.04 .net
>>950
>国王は官職じゃなくて称号でしょ

国王は官職
職官志に記載される

955 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:07:29.14 .net
投馬国は広いんだろうな

956 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:11:23.22 .net
>>948
臨時の役職だから後任はおらんぞ
後任決めたければまた新たに任命する必要がある

957 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:12:01.36 .net
>>951
つまり証拠なし根拠なしで言い張ってるだけか

958 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:15:10.20 .net
>>955
>投馬国は広いんだろうな

広い。 土佐の温暖黒潮太平洋沿岸一帯だ。   @阿波

959 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:19:07.24 .net
>>955

不弥国から水行二十日かかるくらいだからな

960 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:19:33.35 .net
>>958
太平洋一帯ならかなりの広さだ

961 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:22:21.91 .net
>>957
>つまり証拠なし根拠なしで言い張ってるだけか

あるけど?

962 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:22:28.40 .net
>>959
更に投馬国から出るのに水行10日
かなりの広さだ

963 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:22:47.38 .net
>>961
あるある詐欺

964 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:24:18.85 .net
>>956
国王は常設の官職だけど?

965 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:25:41.75 .net
>>964
親魏倭王は常設じゃない

966 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:25:42.66 .net
>>963
倭人伝を否定すると九州説は即死

967 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:26:11.42 .net
>>966
はいあるある詐欺でした

968 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:27:50.60 .net
>>965
国王は常設

969 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:29:16.57 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

970 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:31:04.38 .net
寺澤も久住も「九州には奴国を超える国がない」と言ってる

971 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:34:06.10 .net
假授とか拜假とかは非公式とか臨時とか一時的に授けられるもの(役職)

972 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:34:32.16 .net
>>970
そこは別に争うような箇所ではない

973 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:40:51.12 .net
クズ先生が何言おうと関係ないからw

974 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:41:43.44 .net
>>972
久住はTwitterで3日前ぐらいにもムキになって九州説と争ってる
「奴国を超える国が九州にはない」と

975 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:42:55.60 .net
>>974
もう一度書くけどそこの部分はとくに争うような箇所ではないよ

976 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:43:03.93 .net
久住さんて単なる地方公務員でしょ
なんで先生とか呼ぶの?
論文書いてるから?

977 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:45:28.08 .net
>>975
大事な争点で、寺澤も久住も指摘している

978 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:46:07.66 .net
>>977
何度も言うけどその箇所は全く争点ではない

979 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:48:45.88 .net
>>978
魏志倭人伝を全く無視するという態度を取れば、確かに争点ではなくなる

980 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:49:24.89 .net
>>979
五万戸、七万戸は信用できる数字ですか?

981 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:50:39.31 .net
そもそも畿内説を思いつく理由は存在しませんよと
何を積み上げようと宙に浮いた九龍(空論)城でしかない

982 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:50:51.19 .net
>>980
ある程度信用できると見るべき
少なくとも、奴国の2.5倍、3.5倍という比率は維持すべき

983 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:51:22.82 .net
>>982
信用できるとする根拠は?

984 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 17:55:33.42 .net
>>983
当時の日本の人口と、魏志韓伝、大月氏の戸数、そして隋書では10万戸となっていること

985 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:00:58.79 .net
>>984
理屈がまったく述べられてないので意味不明

986 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:02:34.83 .net
>>985
理屈は述べた
ボールは素人九州説側にある
奴国を上回る投馬国と邪馬台国を九州内に想定することは可能か?
不可能である

987 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:03:53.63 .net
筑紫平野の人口も奴国2万戸に入ってそう

988 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:06:08.19 .net
>>976
プロの考古学者

989 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:06:21.27 .net
>>986
述べた述べた詐欺

990 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:07:10.70 .net
魏志倭人伝を無視していると主張する九州説が、魏志倭人伝を無視するという荒技

991 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:07:45.91 .net
>>989
魏志倭人伝を無視するということでよろしいですね?

992 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:08:29.38 .net
隋書では後宮に女が6〜700人もいるんだぜすごいだろー

993 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:09:08.36 .net
>>991
五万戸、七万戸が信用できるとする根拠が無いままですね

994 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:10:37.43 .net
戸数が信用できるというやつは里数が信用できるというやつと同じ迷路にはまり込んでるなw

995 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:10:47.05 .net
>>993
一定程度信用できると見ているが、7万戸もあったとは思わない
ただし、奴国の3.5倍は当然に維持すべきであり、奴国を上回る国であることは確実

996 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:11:10.95 .net
>>995
根拠は?

997 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:11:42.56 .net
>>994
投馬国と邪馬台国は当然にして奴国より戸数が多い超大国と見るべきである

998 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:11:59.96 .net
>>996
魏志倭人伝

999 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:12:43.16 .net
こうして根拠もないままにただ言い張り続けるのであった……

1000 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 18:12:59.93 .net
>>988
プロの考古学者がどうして「先生」なの?

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

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