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邪馬台国畿内説 Part1015

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:41:28.40 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713355021/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

47 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:06:00.22 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:06:30.98 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:00.36 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:30.35 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:07:59.87 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:08:30.28 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:08:59.88 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:09:29.99 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:10:00.92 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:10:30.84 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:11:00.90 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:11:29.96 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:12:31.72 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:13:00.77 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:15:01.44 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:15:30.33 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:16:00.64 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:16:30.69 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:17:01.08 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:17:30.40 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:18:00.84 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:18:30.90 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:19:00.66 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:19:30.69 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:20:00.67 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:20:30.89 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:21:00.53 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:21:30.83 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 12:22:01.77 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:53:28.84 .net
@まず(魏使が直接足を運んで見た場所を意味する)里数表記の「女王国(九州)東渡海千里(75q)複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里(300q)」から九州が確定。

A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使(239年)や張政ら魏の軍人(247年)が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

77 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:54:43.07 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)

残り700里(50q)ですが、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国(宗像もしくは直方)なので、南(筑紫平野方面)に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里が50qでピッタリです!

78 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 12:57:34.18 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

⇩「南水行十日陸行一月」の図解
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

魏晋(洛陽)から見た倭国(九州)島は、呉(建業)の背後(会稽東冶の東=沖縄)に浮かんでいて、宿敵である孫権を牽制してくれる頼もしい存在という認識であったため、卑弥呼を「親魏倭王」として特別に厚遇したのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

79 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/20(土) 13:11:13.62 .net
邪馬台国=ヤマト王権
日本は建国の時に中華の臣民になった

80 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:13:56.85 .net
邪馬台国は畿内にあったんだ
阿波にあったんだ
という結論に合わせて遺跡や出土品を解釈してるから
畿内説や阿波説が本当であるかのように思えてしまう

81 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:17:25.66 .net
>>80
それはスーパーど素人の考え

82 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:20:09.17 .net
不弥国(奴国から百里なら宗像、もしくは直方平野の遠賀川流域)から南水行二十日で投馬国に至るルートは3つしかない

@日本海ルート(出雲投馬国)
A瀬戸内海ルート(吉備投馬国)
B豊後水道ルート(日向投馬国)

ここでヒントになるのが「女王国東渡海千里、複有国皆倭種」が本州とすると、それに続く「又有侏儒国在其南 去女王四千里」は四国と考えられ、里数表記であることから魏使は直接見たわけで、四国を見るルートはABで、@日本海ルート(出雲投馬国)は消える。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4dfza4AA_XSu?format=jpg&name=medium

次にA瀬戸内海ルート(吉備投馬国)だが、山陽道は陸続きで道も直線的で平坦なため水行する必要はなく、さらに水行十日を大阪へ向かうとすると、同様に道が良く陸続きで水行する必要がない上、大阪に上陸してから纏向まで陸行なら確実に里数表記に戻るはずで、239年の明帝勅使も247年の張政も纏向まで行っていないことが判り、仮に大阪から陸行一月(20q×30日=600q)すると、女王之所都は横浜(385q)東京(498q)大宮(520q)から水戸(620q)となり、其南有狗奴国は東北地方蝦夷になってしまう。

残るB豊後水道ルート(日向投馬国)だが、山が海岸線に迫り道が狭く紆余曲折でアップダウンも激しい九州東岸においては水行の必然性があり、都萬(投馬)、耳川(官曰彌彌、副曰彌彌那利)など狗古智卑狗(肥後鞠智城)同様、地名も合致している。

83 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:23:19.18 .net
九州は西岸(有明海)と東岸(周防灘・豊後水道)で地形が全く違う

開けた平野(オランダ)と険しい山地(スイスアルプス)でまるで別の国のようだ

84 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:25:13.71 .net
>>82
さらにB豊後水道ルート(日向投馬国5万戸)なら筑紫(邪馬台国7万戸)女王卑弥呼は、合計12万戸で肥後狗奴国(8〜9万戸か)を挟撃しようとしたため、卑弥弓呼と狗古智卑狗は「窮鼠猫を噛む」決死の覚悟で乾坤一擲、卑弥呼の女王之所都(吉野ヶ里)に襲い掛かった政治的軍事状況が判り、魏志倭人伝・正始8(247)年の記述とも整合する。

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

85 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:32:02.15 .net
>>83

ということは、九州の西岸(有明海)を水行十日陸行一月で
まだ熊本にも着かないということはない

86 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:36:18.98 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形態の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

87 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:39:16.60 .net
里数や戸数が大幅に盛ってあるのに
日数だけは正確というのは非合理的

88 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:40:27.74 .net
>>87
どうして?

89 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:42:05.87 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

90 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:43:01.70 .net
>>87

里数、戸数、日数が間違いなら
行程で比定はできない

91 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:45:06.69 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣(元将軍)の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び近江大津宮へ東遷し、大和飛鳥にいた分家(留守番家老)の天武と合流し、672年壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

92 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:52:51.69 .net
ハイハイ倭種倭種

93 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:54:07.75 .net
>>90
間違いがあるから場所がわからない

94 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 13:58:52.49 .net
>>86
ホケノ山に槨は無いよ

95 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:01:12.20 .net
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、(蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様)呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説の狗奴国を検討すると、以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)、複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本もしくは薩摩
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
消去法により、九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。

96 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:01:18.66 .net
我々定説畿内説も、九州説に答えてみようと思う

九州説の皆さん、質問ありますか?

97 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:03:08.45 .net
>>86
また(甚だ都合が悪い)畿内説のキチガイが噛み付いてくるだろうけど、「槨」の定義じゃないんだよね。

土に甕棺や石棺を直接埋葬してる九州と、一旦石槨(石室)を作ってから木棺を安置してる大和では明らかに墓制が違うでしょ?ってことw

98 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:03:28.85 .net
>>96
必要条件と十分条件

2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから

例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない

どう思います?

99 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:05:46.71 .net
>>76
>>77
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作や余計な小細工は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと(白を黒とする)印象操作が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

100 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:06:26.29 .net
>>82
基本、官職名と地名は関係無いと思うよ 
人名に付いてるなら分かるけど
その上、狗古智卑狗は拘右智卑狗の誤写なので菊池のコジツケも無効

  狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

101 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:06:44.41 .net
住居跡の少ない大集落てなんか哲学的だよな

102 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:07:05.84 .net
地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

103 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:09:18.22 .net
>>95
菊池平野はド田舎で、古代に熊本平野と八代平野はほぼ沈没してたよ

104 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:09:27.43 .net
>>101
楼観なし厳設城柵なしの大型建物は、セレモニーホールを思わせるね

105 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:13:35.61 .net
>>103
出た!w
分が悪くなると、邪馬台国の時代だけ北部九州を海に沈めてしまう御都合主義畿内説の素人洗脳工作w

106 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:18:43.47 .net
>>98

漢代に漢委奴国王印を貰った奴国が
女王卑弥呼が共立された倭国の一番南の国

107 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:19:52.94 .net
ヤマトの人たちはヤマト王権誕生の地を大市にしたんだね

108 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:29:03.12 .net
>>104
セレモニーホールには楼観も厳設城柵も、吉野ヶ里の主祭殿3階のような祈祷所も、必要ないからねw
ただ神社の板柵みたいな結界があればよいw

109 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:42:41.63 .net
セレモニーホールを中心にした(葺石を運ぶ)大溝付き巨大古墳造営キャンプを王都と勘違いした畿内説

110 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:42:46.85 .net
日本の中の古代韓国吉野ヶ里アトラクションの復元重層建物は
唐古・鍵の絵画土器や家屋文鏡や中国の画像摶に描かれた市楼を参考にしたもので
日本の中の古代韓国吉野ヶ里ではその根拠は見つかっていない

111 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:46:20.81 .net
狗奴国は北海道で良いじゃん

112 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:46:29.90 .net
楼観なし厳設城柵なし…桃の種、鍬の再利用の木製仮面、カエルの骨…やっぱり王都じゃないな

113 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:48:52.76 .net
>>107
多分市やってたと思うよ
伊勢遺跡も周囲を囲む建物は倉庫だと思うんだけどね

114 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:50:15.61 .net
大市って、かなり後の話がごっちゃになってるんじゃないの?

115 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:51:54.45 .net
「宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛」は、
王となりてより以来、見る者少い女王卑弥呼が居るところで
集落全体ではない
日本の中の古代韓国吉野ヶ里アトラクションの復元重層建物では
2階に吉野ヶ里の親玉たちがいることになっている

116 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:53:45.32 .net
>>114
各地から持ち寄ったものを腐らせるだけってのも変だし

117 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:55:21.74 .net
つまり畿内説はウリナラ(私たちの国=奈良)韓国起源

118 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:57:39.89 .net
関西の半日有害九州説は、
奈良時代をウリナラ(私たちの国=奈良)時代だと主張している

119 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 14:58:40.02 .net
関西の半日有害九州説 → 関西の反日有害九州説

120 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:00:01.50 .net
つまり畿内説は日本人に成りすました某隣国人による、邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

121 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:01:40.07 .net
>>95
祇園山古墳には棺は無いよ
「有棺無槨」に非該当

122 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:09:28.61 .net
石棺が露出しちゃってるから槨はないよw

123 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:13:43.57 .net
つまり畿内説はウソつき

124 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:26:19.87 .net
4世紀初の祇園山古墳集団墓地は、
弥生時代後期の山陰・北陸両地方や瀬戸内地方に多い
地山から方形台状に削り出した方形台状墓に属する
近畿地方で弥生前期からつくられる方形周溝墓は
周囲に溝をめぐらし,地表面に盛土をする
3世紀前半の西日本では、
高く盛土をした塚を周溝で囲んだ壺形の纏向石塚古墳、那珂八幡古墳が造られる

125 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:28:44.46 .net
>>84
247年時点で東海狗奴国と死闘を繰り広げてるようじゃ、箸墓みたいな超巨大古墳は無理だね…orz

126 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:33:39.08 .net
女王国と狗奴国が死闘を繰り広げてるなんて魏書のどこにも書かれてないが

127 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:34:08.82 .net
>>105
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=734x10000:format=jpg/path/s7f2776e0cffb107c/image/i7c8b819d3f31124d/version/1632177706/image.jpg
参考図 

128 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:34:17.16 .net
>>125
古今東西、殺るか殺られるかの死闘を演じた場合、世代交代しない限り、仲直りはあり得んよ
まして自分の親を殺そうとしいてた旧敵の墓造りを手伝うなどもっての他だろうw
247年に大和邪馬台国と東海狗奴国が帯方郡に報告が行くほどの死闘を演じてた場合、箸墓の築造は早くても一世代30年として280年以降と見るのが妥当

129 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:38:01.19 .net
薩長同盟

130 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:38:55.28 .net
>>84
張政が来ちゃってるから里数表記じゃないとおかしいねw

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

131 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:40:36.76 .net
巨大古墳は、軍事的に朝鮮半島に進出した倭の五王時代に
さらに巨大な前方後円墳が造られている

132 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:40:39.68 .net
つまり畿内説はウソ

133 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:41:22.45 .net
内戦と侵略戦争は違うだろw

134 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:43:26.81 .net
狗奴国は女王国の外

135 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:46:05.16 .net
>>128
墓造りを手伝ったって誰の説?

その説を証明しないと
畿内説への反論には
ならないね

136 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:47:52.24 .net
>>122
>石棺が露出しちゃってるから槨はないよw

あれが石棺だって証拠は?

137 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:50:27.18 .net
岡上よりトナカイの方が知識量は圧倒的に多い

138 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:55:35.19 .net
>>130
別におかしくはないが
来る度に測量やってられるか?

139 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:57:42.03 .net
>>134
でも卑弥呼と卑弥弓呼はすげえ仲が悪い

140 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 15:59:47.21 .net
>>137
いや、岡上は知識がない

141 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:03:14.87 .net
>>139

不屬女王だから内戦ではない

142 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:05:27.81 .net
海抜変化
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geoA-tikeinohenka.html
https://i.imgur.com/12GcTAK.jpeg

143 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:05:55.92 .net
>>141
卑弥弓呼と狗奴国は別だと考えれば良いのよ
不属の国の王と個人的に仲が悪くなるわけねえじゃん

144 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:08:51.12 .net
卑弥弓呼は王位継承権がある卑弥呼政権内の人間
狗奴国は北海道辺りの毛人じゃないか?

145 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:09:26.71 .net
>>143

「狗奴國男王卑彌弓呼」と書いてある

146 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:10:29.05 .net
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状

147 :日本@名無史さん:2024/04/20(土) 16:12:27.08 .net
隋書や紀年銘鏡で日本の都大和国は元邪馬台国。祭祀王卑弥呼の鏡は軍事王の天皇の権威だったともう決まってるからな。

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