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邪馬台国畿内説 Part1015

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/20(土) 11:41:28.40 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713355021/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

712 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:00.92 .net
>>709

その箇所には原田大六、大和岩雄、北條芳隆の説は書いているが
久住が伊都国が東遷したと考えるとは書いてない

713 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:37.31 .net
>>697
弥生時代の話をしてるんだよ

714 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:07:54.95 .net
畿内説の馬鹿が意図的に編年ミスりすぎて辻褄が合わなくなってきたなw

715 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:41.20 .net
>>710
それより技術が足りなかったんだと思うけどな
鉄を手に入れて苦労して作っても鏃くらいじゃな

716 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:47.46 .net
>>713
弥生時代に鉄を保有してないと、古墳時代に副葬できない

717 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:08:52.34 .net
>>697
3世紀半ばでは遅すぎる
邪馬台国が東遷した
というなら話は別だが

718 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:11.74 .net
全てを100年前倒しするしか無いわけだw


■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

719 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:16.55 .net
畿内が鉄器で圧倒できるようになるのは3世紀も半ばを過ぎてからなんやね
それまで何してはったんやろね纏向はぁんは

720 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:10:46.72 .net
>>716
漢委奴国王印は西暦57年の出来事
奴国に関しては紀元前から大陸との交易をしていた
畿内は大陸文化の流入が遅すぎる

721 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:11:15.87 .net
>>717
ホケノ山の王は古く見積もれば2世紀に存在したと思われる
死んでから副葬するのだから問題がない

722 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:11:43.22 .net
>>697
>>548

723 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:13:00.42 .net
>>712

じゃあその後を続けると、

「・・・実は前方後円墳の祭祀属性(寺沢薫 1984、図 31) は、「平原+楯築」の諸要素で八割方完成する。伊都国の王族(旧倭国王家系)と楯築の吉備王族は、大和の纒向に東日本まで見据えた諸国の統合と物資流通(「大市」)のために諸国に推戴され、「遷都」 したのではないだろうか。・・・」

724 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:19.09 .net
鍛鉄で刀を作れる技術があれば作る価値もあるだろうが

725 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:40.71 .net
>>719
3世紀半ばの古墳から出土するのであって、2世紀には手にしていたと見るべき

726 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:14:56.80 .net
>>720
銅鐸作ってるから

727 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:15:55.87 .net
製鉄ができたのは6世紀以降
九州説は鉄について勘違いしている

728 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:16:21.61 .net
3世紀過ぎでも畿内は木製土木具で古墳を作っている
畿内の鉄器は古墳に副葬されているだけで、畿内で鉄器が普及するのは後世だ

翻って北部九州はとっくに鉄製農具で農業を行っている
3世紀を通して鉄器は北部九州が圧倒的だ

729 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:16:54.31 .net
>>725
そのような見方をするのは難しい

730 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:17:31.31 .net
>>711
ググッてみたが玉造り拠点の一つやな
何でもかんでも邪馬台国に結びつけるのやめて欲しい
純粋に弥生時代~古墳時代初期に各地方でどんな事があったのか知りたい

731 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:17:54.73 .net
>>728
北部九州の完全鉄器化はもっと後である

732 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:18:51.39 .net
>>728
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/iffb4769c22bc10da/version/1535966336/%E9%89%84%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg
山陰・北陸が圧倒的だ

733 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:19:20.99 .net
>>728
たんに需要だと思うけどな
鉄製農具は輸入品で自前で作る程の技術が無かったんでしょう

734 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:21:30.31 .net
372点の鉄器を副葬したメスリ山古墳でも、銅鏃が200点ほど出ている
すなわち、鉄器化が進んだ後も銅が鉄を補強したのであって、北部九州から鉄がたくさん出るから、北部九州では木製農具は使われなくなったというのは荒唐無稽である

735 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:21:38.31 .net
https://i.imgur.com/59vGbyR.png
弥生後期に比べて古墳時代初めはむしろ減ってないか?

736 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:22:07.53 .net
>>732
眉唾物をまた引っ張ってきたな!寒村越前詐欺師は

737 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:22:32.37 .net
鏃を作るくらいしか用途の無い鉄は需要が無かったんだと思うけどな

738 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:25:40.74 .net
銅鐸を壊して鏃を作ってるんだよね

739 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:33:09.35 .net
伊都国の製鉄王であった阿毎氏(神武)と出雲族令嬢(卑弥呼)の政略結婚

箸墓古墳、瀬戸内海ネット・ワーク、奈良盆地の東端だから「端墓」説
纏向は出雲族の瀬戸内海(九州からの交易航路)統治
その政治を天孫族(伊都国王)に譲ったのが、出雲の国譲り神話
瀬戸内海広域圏に共立された最初の王が卑弥呼である

ここに大久米命、天皇の命をもちて、その伊須氣余理比賣にのれるの時に、
その大久米命のさけるとめを見て、あやしとおもひて歌曰く、
「あめつつ ちどりましとと などさけるとめ」と歌ひければ、大久米命、答え歌ひてぞ、
「をとめに ただにあわむと わかさけるとめ」

「貴方は何故、千鳥、鵐(しとど)の様な目をしてらっしゃるの?」
「お嬢様に直接お会いして、勅命を持ってきた身分の私めが好かれる事の無き様、
目元に鋭い入れ墨をしてきたのですよ」

伊須氣余理比賣(卑弥呼)の歌より、卑弥呼は九州に行った事が無い事が判明する
魏志「男子は身分に限らず皆、顔や体に入墨をする」より、これは九州の海人の風習である
魏の入国時、畿内までは来なかった

ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)
・頭と尾に「ヒメ」が2回使われているのは、後世に付けられた尊称である
・7世紀の出雲族の象徴である踏鞴(タタラ)を足している

卑弥呼は、政治王・彦火火出見命(神武)の后である
・火見后 → pi? mi? wo → 卑弥呼
・火見王后 → pi? mi? kiung wo → 卑弥弓呼

魏略の狗奴国は「女男子為王」となっていた(女王と、その子の男王)
時が経ち、魏志ではその男子(君)と后が王となっている
男女ペアで王となる文化は、神武が九州から畿内に持ち込んだものであろうか

740 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:33:40.14 .net
古事記では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火照命(ホデリ=海幸彦)
・第二子 火須勢理命(ホスセリ)
・第三子 火遠理命(ホオリ=山幸彦)である

日本書紀では、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、
・第一子 火酢芹命、火闌降命(ホスセリ、ホスソリ=海幸彦)
・第二子 彦火火出見尊、火折尊(ヒコホホデミ、ホオリ=山幸彦)
・第三子 火明命(ホアカリ)である

記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶の建国神話、檀君朝鮮の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、
天から王が降臨する神話があり、日本神話も同様である
伽耶は製鉄遺跡の多い地である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武の名も製鉄業とされる彦火火出見命であるが、これは後世に付けた名前であるのなら、祖父と別の名前にするはずである
漁猟だけの時代ではなくなり、稲作や鉄工といった資本関係が生まれて貧富の差が出来、
そして長い年月を経て豪族と庶民の区別が出来た
九州では製鉄王が王様となっていたのである

神武天皇のお名前
・狭野尊(サヌミコト)
・豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
・若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
・始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)
・神日本磐余彦火火出見尊(カンヤマトイワレビコホホデミノミコト)

畿内で行われた倭の覇権争い(いわゆる倭国大乱)を終結させたのは神武の婿入りである
倭の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、畿内への交易路を確保していたので安定した

741 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:34:55.35 .net
>>721
ホケノ山古墳の炭素年代測定は誤り

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.html

742 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:35:40.95 .net
>>726
魏志倭人伝に邪馬台国が銅鐸を使っていたなんて記述はない

743 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:37:10.25 .net
>>739
>>740
そんなん要らんねん、あほらしい

744 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:37:45.84 .net
安本美典やたまにここに貼られる「鉄の分布」なる表では確かに北部九州が圧倒している
しかし、その表をたどると2000年に発表されたものであることが分かる
例えば、五斗長垣内遺跡(100点以上)、舟木遺跡(2016年の調査で170点の鉄器が発見されたのであるから、兵庫県92点に少なくとも270点を足して、362点とすべきである。

362点ならば福岡県の398点とほぼ同じ。
しかも、この弥生後期の舟木遺跡というのは吉野ヶ里と同じ40haであるから、鉄器製産拠点としては極めて巨大であり、まだまだ鉄器が出てきても不思議ではない

745 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:38:26.68 .net
>>742
作ってないのか?
原料の銅はどうするんだ?

746 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:41:56.31 .net
>>744
淡路島は北部九州倭国側の最前線

747 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:44:54.48 .net
>>744
卑弥呼の時代には鉄器生産が終わってたそうな

748 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:46:57.13 .net
>>746
奴国と淡路島と畿内の関係性を良く示していると言える
舟木遺跡からは北部九州のヤリガンナも出土している
他方、北部九州の盟主奴国は、畿内の伝統的第Xや筑前型庄内甕、北部九州型布留甕の成立からも分かるように、極めて親密である

したがって、2万戸の奴国を上回る投馬国と邪馬台国を九州内に想定することは不可能である

749 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:48:26.56 .net
銅鐸は吉野ヶ里からも出ている
今日、小学6年生の教科書にも載っているのを確認した
銅鐸は邪馬台国論争にほとんど役に立たない

750 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:55:39.31 .net
>>749
中国と関係が無かったら原料の銅が手に入らないから

751 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 19:59:48.49 .net
https://www.tokyo-np.co.jp/article/137344

752 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:02:44.18 .net
>>750
北部九州を経由すれば手に入るので意味ない
畿内が直接中華帝国から鏡を仕入れたのは、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡の時代からと見る
それ以前はおそらくほとんど北部九州経由

753 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:03:43.23 .net
>>752
なんで出雲や近畿で大量に出て九州で乏しいんだよ?

754 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:04:52.53 .net
>>753
邪馬台国は纒向だから

755 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:05:50.34 .net
>>728
>3世紀を通して鉄器は北部九州が圧倒的だ

しかし、鉄器を作る能力はほとんど無いに等しいがな。   @阿波

756 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:07:05.32 .net
銅鏡から銅鐸は作れないから
銅鐸は割れない

757 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:07:57.93 .net
>>711
>恵解山古墳(鉄器700点以上)

これ、「阿波」の古墳だから。 鉄の甲冑も出ているよ。   @阿波

758 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:09:55.39 .net
>>755
そこまでは言わんが完成品を輸入してたのも一緒くたにしてるな
当時の技術はまだまだだった

759 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:11:13.51 .net
>>746
>淡路島は北部九州倭国側の最前線

おっと。 淡路島は「阿波」の島だから、悪しからず。   @阿波

760 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:13:02.98 .net
>>757
京都府長岡京市である
嘘はいけない

761 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:14:47.25 .net
無駄だ
男子1人、1000人の奴婢(女達)が居るような処に鉄器で溢れている訳があるまい、仙人の地だぞ。世俗から離れた場所だわ
市等は弟が管理している
彦巫女の始まりであり卑弥呼は老子道徳経の指導者
平原の巫女は太陽信仰、正確には朴の光信仰であり卑弥呼は太陽信仰ではない。
北辰箸墓が卑弥呼の墓。しかしながら弟の墓が無い
真東にあるホケノが第一候補、故にホケノというのであろう。宗女岱與が西殿塚西王母、岱與は霊山の第一座の名。
覆らない

762 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:15:25.53 .net
恵解山古墳群   @阿波
https://kotobank.jp/word/%E6%81%B5%E8%A7%A3%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4-1149229

763 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 20:16:56.19 .net
>>761
またおまえかよ?
おまえはひろゆきの掲示板に一人で書いてろよ

764 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:19:27.64 .net
覆せる説明もできないくせにほざくな

765 :琪瑛教大祭酒:2024/04/22(月) 20:56:23.61 .net
740.記紀は大体そんなものであろう
ただ神武はおそらく卑弥呼の後。
卑弥呼以前に筑紫も吉備も無いしタタラ姫、多々羅ヶ原多羅国もまだ無い
313年以降の話と言えよう
23代の筑紫の城すら北九州には無い
在るとされるのは六部から始まる月支城。ここに23代が居たわけだ。八角墓、藤原一族は間違いなく慶州羅井が聖地。
ではいつ頃から列島に入り込んだのか、今はそこの話
九州邪馬台なぞ嘘話

766 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:26:10.51 .net
神代文字(忌部文字)も、「阿波」が起こり。   @阿波

767 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:34:58.82 .net
>>762
消滅遺跡群

768 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:48:37.33 .net
つまり畿内説には存在理由が無いねと

769 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 21:51:22.01 .net
>>767
宅地造成で潰されたらしい。   @阿波

770 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:13:57.35 .net
>>741
>ホケノ山古墳の炭素年代測定は誤り

という誤り
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
>そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
>しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

771 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:14:54.95 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

772 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:25:11.38 .net
>>769
残念だけど消滅遺跡

773 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:36:31.04 .net
別に邪馬台国に鉄が多いとかの記述はないよね
鉄鏃、骨鏃を使うしかないないんじゃないないの?

774 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:38:25.97 .net
私は箸墓築造はAD300年頃と見ているが、一旦それを引っ込めて仮に畿内説でも一番早い250年頃の築造(すなわち卑弥呼の墓)ということにしよう

その場合、古墳時代のスタートは250年頃ということになるので、卑弥呼の時代である180年代乃至190年代~240年代はその前の弥生時代ということになる

畿内説が箸墓から古墳時代になるとしながらその前の卑弥呼時代も古墳時代とするのは理屈が合わないのではないか、と私は前々から疑問に思っている

古墳時代の始まりは箸墓がトリガーではなかったのかね?
畿内説の諸君にこのあたりの説明を求めたい

775 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:52:40.24 .net
>>774
>畿内説が箸墓から古墳時代になるとしながらその前の卑弥呼時代も古墳時代とするのは理屈が合わないのではないか、と私は前々から疑問に思っている

そんなこと無いね
弥生時代は弥生土器が指標
古墳時代は古墳が指標
つまり木を竹で継いでいる
だから古墳の定式化じゃなくて土師器の登場を指標にすべきだという論争がずっと有った
今の潮流は定式化の前に早期古墳を設定して土師器の登場と合わせる動きになって来ている
学問は常に改善していくものだ

776 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:54:31.20 .net
>>773
韓伝に倭人が鉄をとりにくるという記述がある
國出鐵 韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭

777 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 22:57:08.61 .net
>>775
ということは、箸墓が定型化された初めての前方後円墳であり、前方後円墳から古墳時代が始まる=箸墓から古墳時代が始まる、という定義を考古学界は捨てたのかね?

そうなると、そもそも「古墳」時代という名称と矛盾しないかね?

私は古墳時代は前方後円墳すなわち箸墓がスタートであり(だからこそ「古墳」時代)、その前の卑弥呼は弥生時代とするのが論理的にスッキリすると考えるが

778 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:00:53.45 .net
そもそもWikipediaの古墳時代の説明では私の書いた定義に沿っているようだ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3

キナイコシの解釈が間違っているか、あるいは少数説ではないかね?

779 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:11:59.03 .net
>>777
>ということは、箸墓が定型化された初めての前方後円墳であり、前方後円墳から古墳時代が始まる=箸墓から古墳時代が始まる、という定義を考古学界は捨てたのかね?

捨てつつある
石野の纒向編年は纒向1式まで弥生、2式から古墳という考え方だ
だから年表などでも200年と250年の間を斜め線で区切っているものが多数派なはずだ

780 ::2024/04/22(月) 23:15:28.86 .net
定義に意味なんてない

781 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:21:13.15 .net
>>779
しかしまあ箸墓=卑弥呼の墓という解釈をした場合でも、卑弥呼の時代を弥生時代と捉えることが「間違い」とは断定できない訳だ
せいぜい言えるのは、「間違い」という見解もある、までだな

そもそも私は箸墓=卑弥呼の墓説ではないので、卑弥呼は弥生時代としか考えない訳だが

782 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:32:28.75 .net
古墳前期の前に古墳早期を置く考え方が、これからは主流になっていくだろう

783 :日本@名無史さん:2024/04/22(月) 23:56:24.78 .net
卑弥呼は遠い昔のファンタジーの登場人物的のように思いがちだが、崇神天皇よりも遥かに実在性が評価でき
日本の神話が生まれる以前に、170年ごろから248年ごろの間にリアルに生きていた存在

そう言い切れるのは中国の史書に事績が記されているから
倭国大乱を収拾するために倭国29か国から共立された
今日私たちが卑弥呼の解釈について混乱しているとしたら、それは私たちの責任で卑弥呼には何の責任もない

784 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:03:41.33 .net
江戸時代生まれの九州説は脱落

785 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:28:45.68 .net
箸墓の前にも前方後円墳はあるからなあ
倭国大乱の終結をもって弥生時代の終わりですよ

786 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 00:29:54.16 .net
実際に纏向や博多では高塚の古墳が造られているので
古墳時代が始まっているのだが
3世紀前半からを日本の時代区分の古墳時代にすると
古墳がないのに古墳時代になってしまうところは
どうしてもやけのやんぱちになってしまう

787 :琪瑛教大祭酒:2024/04/23(火) 00:34:43.37 .net
吾輩は専門家ではないから定義付けは専門家同士で話しあって決めてくれ
今日前に書いた墳墓はマイルストーンであると甕棺~前方後円墳そして舒明辺りからの八角墳墓が次のマイルストーンであろうと
邪馬台の卑弥呼は確実に存在した紀は父の墓とも違う大王でもない姫の墓を神が創ったとまで記す
卑弥呼が存在していなければ男王の墓にしていたよ
無駄だな。

788 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:35:22.11 .net
>>770
歴博研究グループののべていることは、炭素14年代測定法による測定データが示している客観的事実そのものにもとづくものではない。
みずからがあらかじめもつ考えに、つごうの悪いデータは、無造作かつ乱暴にはずし、
つごうのよいデータだけをとって、特定のマスコミにリークするという典型的なチェリーピッキングの方法によっている。
そして、それがあたかも、炭素14年代測定法によってえられた客観的事実であるかのように、
マスコミに流している。これは、科学的な不正行為のうちの、
「矛盾するデータの隠蔽(いんぺい)」にあたるものである。

https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku400.htm

畿内説はチェリーピッキングでゴッドハンドする

789 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:42:06.03 .net
>>788
という証拠は?


また、なんの証拠も無いんでしょ

790 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:53:10.32 .net
>>782
>古墳前期の前に古墳早期を置く考え方が、これからは主流になっていくだろう

つまり、「阿波」起源。   @阿波

791 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 05:56:31.36 .net
つまり九州説はウソ

792 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:01:47.51 .net
>>786
それは、墳墓の発祥地「阿波」じゃないから。   @阿波   

793 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:23:21.10 .net
多種の神代文字があるのは、倭人(阿波勢力)各派ごとに文字が異なっていたんだろう。   @阿波

794 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:34:28.90 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(石槨+木槨の二重槨を作ってからその中に木棺を安置)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺をそのまま土に埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は葬送(祭祀)形式の違う別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け「複立男王 並受中国爵命」と記録され、外交上の混乱を避けるため対外的な国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門▲⛩▲二上山)も継承したのです。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

795 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:38:24.54 .net
>>778
どういう定義?

796 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:39:55.56 .net
>>794
残念だが、ホケノ山古墳には「槨」は無いよ

797 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:41:31.92 .net
>>795
格の有無ではなく、棺の材質と埋葬方法(土に直接か間接か)

798 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:42:39.04 .net
つまり九州説はウソ

799 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:43:22.68 .net
>>794
>3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

碌に鉄器さえも作れない所に筑紫邪馬台国や本州ヤマト王権など興る訳がない。   @阿波

800 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:44:05.38 .net
3世紀初頭の倭国における半島からの鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートで古代史を整理してみた。

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏・帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨+阿蘇)との最終戦争(日向投馬国と同盟し挟み撃ち)へ

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳(中学1年生)の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。

266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

ホケノ山=倭大物主(出雲大国主)の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=磐余彦(神武)の墓

で良いだろう。

801 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:48:24.76 .net
>>800
碌に鉄器さえも作れない<北部九州>や<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>に鉄(古今東西、王権の拠り所)の入手ルートなどある訳がない。   @阿波

802 ::2024/04/23(火) 06:56:26.83 .net
邪馬台国と同時期の古墳というのは
必要条件ではあるが十分条件ではない

803 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 06:59:52.90 .net
箸墓がニギハヤヒの墓なら、皇室としては絶対隠蔽事案(永久非公開)だなw

804 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:02:42.90 .net
奴国を上回る投馬国と邪馬台国が九州内に設定できないという事実が、九州説にとっての致命的欠陥

805 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:06:47.61 .net
587年に守屋が滅ぼされるまで前方後円墳築造を司っていたのは物部氏で、その先祖がニギハヤヒ(大国主・スサノオ)だからな
箸墓はニギハヤヒ(天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)の墓で間違いないだろう。
そして日向→筑紫→安芸→吉備を経て大和に東征してきた磐余彦(神武)に国譲りして、子のウマシマジは外戚(大連)として皇后を輩出しつつ、古墳時代の300年間、前方後円墳による葬送儀礼を主導していったのだろう。

806 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:07:43.17 .net
棺有りて槨なし
「人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。

これは王の墓について述べたものとは思われない。普通の一般人、役人、良くて村の長ぐらいの記述のように思われる。

807 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:11:34.84 .net
>>771
https://img01.dosugoi.net/usr/toyogawa/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B.jpg
古代の濃尾平野はまさに海でした。
長島も津島も琵琶島も一宮も島でした。
小牧や熱田はかろうじて陸続きです。

808 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:11:52.10 .net
>>529
狗奴国がどこにも比定できず、東海に比定すると247年時点で帯方郡が張政が派遣するほどの死闘を演じながら纏向外来土器最多となり、空中分解してしまうのが畿内説の致命的欠陥

809 ::2024/04/23(火) 07:12:44.22 .net
>>804
奴国が福岡市なら投馬国は筑紫平野で邪馬台国は熊本平野

810 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:13:07.86 .net
>>805
下手な空想はいいから。   @阿波

811 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:15:11.73 .net
>>808
「狗奴国」を比定できるのは「阿波」だけ。   @阿波

812 :日本@名無史さん:2024/04/23(火) 07:15:26.56 .net
>>806
前方後円墳の石槨に関しては、魏側の表現の問題もあるけど、実際に
棺の材質(木か甕・石か)と棺の埋葬方法(土に直接か間接か)が大人と子供ほど違うでしょ?ってこと

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