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邪馬台国畿内説 Part1017

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

165 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:17:19.35 .net
日本書紀・・・古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる[3]。日本に伝存する最古の正史で[4]、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる[5]。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。
AC600年が阿毎多利思北孤(アマテラス)だしそんなもんでしょう

166 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:23:58.10 .net
魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
後漢書倭伝「出白珠青玉 其山有丹土」
九州における有力な邪馬台国比定地である博多湾岸・周辺山地(古田武彦氏ら)、朝倉市甘木一帯(安本美典氏ら)、熊本平野(伊藤雅文氏ら)は水銀鉱床の空白地帯であり(下図)、これらの説は成立しない
https://photoservice-imagecluster.img.mixi.jp/v/cecc8b4b8edc8ae21bcfd9e5cff6f819b1082b200b/662b9880/photo/picture/18931674_2253082379_108large.jpg

167 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:28:27.64 .net
https://stat.ameba.jp/user_images/20150302/06/blob-shima-jiiya/ab/c4/p/o0595044013232832334.png
古代九州ハザードマップ 
筑紫平野も山鹿も菊池も熊本市も不動産的にはオススメ出来ない

168 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:29:47.93 .net
>>159
陰口という言葉の意味も知らない九州説信者
ほんとに日本人?

169 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:37:12.19 .net
>>166
それ倭地のことたぞ?

170 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:41:37.32 .net
>>169
「卑彌呼」・「壹與」時代の倭地は、せいぜい「邪馬臺国(粟国)」+「狗奴国(長国)」+東部讃岐+南部淡路島 程度。   @阿波

171 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:43:16.64 .net
>>166
むしろへえ九州にも結構あるじゃんとなるな

172 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:44:15.06 .net
>>167
縄文海進レベルでなにを語っている

173 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:47:41.49 .net
>>169
>それ倭地のことたぞ?

倭の産物や風俗を紹介しといて、それが全然ない一部地域しか支配してない人を倭国王に叙任したって言い張るのが九州説ですか

174 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:48:06.48 .net
>>172
筑後川水系の浸水想定区域
https://www.nhk.or.jp/fukuoka/lreport/article/001/08/img/6fa7cf25-10c5-47a5-a142-0f6d9f5b973c.jpg
今もあんまり変わってないよ 吉野ケ里でギリ安全

175 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 12:49:36.32 .net
>>173
邪馬台国王じゃなく倭王だぞ?

176 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:11:33.64 .net
>>167
不弥国から南に水行は間違いじゃなかったんだな

177 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:14:37.33 .net
奴国無くて草

178 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:16:34.33 .net
クズタケも家族を人質に取られた途端、畿内説へ転向w

179 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:19:58.07 .net
>>175
倭王は中国語

180 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:22:20.69 .net
こんな地図もある
https://i.imgur.com/20D7pye.jpeg

181 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:23:06.57 .net
>>174
でもその危険な川のおかげで農業が盛んなんだよな
たまに起こる氾濫はさぞかし安全を祈る祈祷者の権威を高めただろうな

182 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:40:13.17 .net
>>94
>>114
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」に並ぶ、呉の牽制として東の「親魏倭王」として、帯方郡が管理していた「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権(郡宛て鉄の発注書用の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説それぞれの狗奴国を検討すると以下のようになる。

「女王国東渡海千里(A)複有国皆倭種(B)」
〇九州説…関門海峡(A)本州(B)
✕畿内説…鈴鹿山脈(A)北海道(B)

「其南有狗奴国 不属女王 官 狗古智卑狗」
〇九州説…熊本(熊襲)鞠智彦、もしくは薩摩(隼人)
✕畿内説…仲良し東海+河内(大阪)彦←支離滅裂

畿内説はいずれも当てはまらない上、「女王国東渡海複有国皆倭種(→東)」と「其南有狗奴国 不属女王(南↓)」が共に「→東」で重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字も駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能(倭地に牛馬なし)。
よって九州説が正しい。

では、狗奴国が熊本(熊襲)か鹿児島(隼人)かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等もしくはそれ以上の人口(八〜九万戸)を想定。
面積から、川内(せんだい)平野でゎ「面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智卑狗本拠)+熊本平野+八代平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は吉野ヶ里「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」を、
卑弥呼の冢「大作冢径百歩=短里で25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、かつ同時期(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(葺石&三角縁神獣鏡・布留1式土器・須恵器は後世の追加&追葬祭礼)を比定。

183 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:42:32.17 .net
>>180

大阪湾の干満差は1.5〜1.8m
博多湾の干満差は2.2m
有明海の干満差は6m
筑後川は日本三大暴れ川

184 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:50:08.42 .net
>>182
祇園山古墳は「有棺無槨」じゃないよ

棺は無い

 

185 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:51:07.34 .net
>>181

祈祷では災害は防げないから
国がお金を出している

186 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:55:29.32 .net
>>184
>>114
【石棺はあるが槨はなく】

187 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 13:59:40.87 .net
https://i.imgur.com/La0WswP.jpeg

天に開口する祇園山古墳(4世紀)
主体部

188 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:05:21.54 .net
>>112
箸墓じゃないねw

189 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:10:51.89 .net
祇園山古墳
https://ameblo.jp/takuma-burogu2/entry-12708532061.html
箱式石棺
http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/2-4kourasan.files/p181-1.jpg

190 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:29:45.18 .net
https://i.imgur.com/aWIpING.jpeg
九州北部の海面上昇MAPと鉄鏃出土図と水銀鉱床図を重ねてみた
おまけで国名もいれといたぞ

191 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:32:34.10 .net
>>187
明らかに石棺の痕跡w

192 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:34:49.79 .net
水没していた太宰府の地峡を南下水行するなら
奴国を起点に水行すればいいんだよな
不弥国に言及したのは対岸にあったからとして
そこを出発地にする必要はない

193 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:37:33.11 .net
筑後南部は菊池側の一部と考えてよい

194 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:41:26.16 .net
なんでこんなに中央構造線に沿ってるの
分布があまりに機械的すぎてほんとに加工された
弥生時代の鉄(鏃)なんやろか

195 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:42:07.22 .net
朱を取り合って攻伐しまくってたのかもな

196 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:49:00.53 .net
海抜37.76mの太宰府が水没していたら
九州に平野はなかろう

197 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:50:34.35 .net
海面上昇で不弥国から南に水行できるようになってしまうとは盲点だったは

198 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:54:26.63 .net
太宰府はギリ台地にあって
その西側が水没地峡のように見えるね
>>167

199 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:55:19.49 .net
ただこれ紀元3世紀の地図として妥当なのかどうか

200 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 14:58:24.15 .net
>>190
九州説て投馬国も邪馬台国も狗奴国も意見バラバラだな

201 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:00:44.63 .net
>>200
このスレ見てると畿内説も結構バラバラ

202 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:02:02.97 .net
畿内説の馬鹿は倭人伝も理解できない

其山有丹

もろくに理解できない

其=倭地

倭人伝は邪馬台国伝ではないのはわかるよね

203 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:04:25.78 .net
畿内には川上丹生都比売がいますので
丹に事欠くことはなかったはずです

204 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:04:55.47 .net
太宰府の地は御笠郡だった
天孫降臨の笠沙とは太宰府付近の水辺のことかなと思った
その辺りまで水が来ていたころの記憶が残っていたか
調べたら古田も笠沙を御笠郡と言っていたようだね

205 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:05:42.78 .net
>>202
九州説「畿内は絹も鉄も出ない!」

206 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:07:56.28 .net
畿内の鉄が九州を逆転するのはようやく3世紀後葉に入ってから

207 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:13:21.57 .net
川上丹生都比売神は伊都郡にあるけど
まあ偶然

208 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:21:53.17 .net
紀伊国伊都郡は、日本書紀は「伊刀郡」、平城宮出土木簡は「伊東郡」
「伊都」の字は天平二年(七三〇)の紀伊国大税帳(正倉院文書)が初見

209 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:34:20.68 .net
>>208
すばら

210 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:37:42.02 .net
平原1号墓て方形周溝墓なんね
別に変ではないけど意外な感じ
東の倭種の墓てかw

211 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:43:21.65 .net
>>208
つまり、8世紀奈良遷都の後に付けられた地名。   @阿波

212 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:46:37.14 .net
畿内説はしばしば九州説は邪馬台国の比定地がバラバラだと批判する

畿内説は元々「邪馬台国=大和朝廷(ヤマト王権)」が出発点なので、纒向=初期ヤマト王権の遺跡が確実になったことで、必然的に邪馬台国比定地は纒向遺跡で纏まる

一方、九州説は魏志倭人伝に書かれた倭国/邪馬台国の行程や風物などから倭国/邪馬台国は北部九州だと判断するが、約二千文字の極めて簡潔な魏志倭人伝の文章では具体的な場所まで絞り込みにくいため、山門説、宇佐説、朝倉説など邪馬台国比定地は分かれる

しかし畿内説も上記のような経緯から邪馬台国比定地はすんなり纏まるが、投馬国は出雲、備前(玉)、備後(鞆)など、狗奴国は肥後、河内、東海など九州説以上にバラバラだ

あまり九州説を批判できる立場ではなかろう

213 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:49:59.34 .net
学問の通説畿内説は、邪馬台国の領域が畿内第?様式圏(後の五畿)
九州文学小説に始まる一人一説雑多九州小説は、
九州の各々自分が住んでいる土地に小さな邪馬台国があるという小説

214 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 15:54:35.43 .net
「邪馬台国の領域は畿内第Ⅴ様式圏」などという魏志倭人伝のどこにも書かれていない関西考古学者の客観的根拠なき思い込み

以下の佐々木憲一明大教授の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」の見解が妥当だろう

『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』

215 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:03:58.52 .net
けど斉一性にこそ弥生社会とそれ以降の
古墳時代との差異があるわけよね

216 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:05:01.84 .net
規範意識というかね
その根拠がより強力になった王権にあるみたいな

217 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:05:03.21 .net
布留0式期ではなくて畿内第?様式圏(後の五畿)
佐々木は畿内説

218 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:13:46.87 .net
>>212
投馬国が備前だと言ってるのはコピペカス、狗奴国が熊本だの河内だの言ってるのはごく少数のアホだけだな

219 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:20:15.17 .net
土器や前方後円墳など文化や宗教の伝播に過度に政治的意味合いを持たせる古い畿内自生説的見解には、考古学界でも近年急速に見直しが入っている

松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説をやんわりと批判する(白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」

220 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:24:04.60 .net
>おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、
畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、
関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう

そうよ。何一つ矛盾してないよ

221 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:25:09.30 .net
円墳大王に滅ぼされた前方後円墳大王

222 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:37:59.98 .net
てす

223 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:38:23.25 .net
最後の巨大前方後円墳が6世紀後半の見瀬丸山古墳(318m)
横穴式石室が中央から20mほどずれている
6世紀末から7世紀初から仏教寺院建設が始まる

224 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:43:38.81 .net
完全に九州説をやめました

225 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:46:19.13 .net
>>205
出ないの意味が違うくない?

226 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:49:37.14 .net
奈良時代の終わりから信頼を確認するように華麗にバトンを受け渡していく
最後は誰なのか‥

227 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:49:54.40 .net
墓や様式による目に見える紐帯は
法整備や行政機関の設置というソフト面の
統治機構に取って代わられたんだろうね

>>223
でっかwと思ったけど
百舌鳥古市古墳群がさらに異次元なだけだった

大きさでいえば岡山の造山古墳が印象的
陪塚の古墳から九州の石が出てて
直弧文を刻むのもいかにも九州的
年代は新しいけど

228 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 16:59:55.05 .net
今日九州説、投馬国シリーズをやりませんか?    
絶対王者畿内説では、吉備、出雲ですが、九州説での投馬国はとこにしますか?

229 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:00:02.75 .net
つまり畿内説は存在理由すらありませんでしたと

230 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:02:21.18 .net
トルハルバン筑後人
頼みの平原も東の倭種の墓ですよ
困りました

231 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:02:22.15 .net
>>228
関東説の投馬國は多摩です。

232 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:04:01.65 .net
>>228
4世紀以降の古墳しか出てこない宮崎
邪馬台国は海の中

233 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:05:39.63 .net
考古宿命のライバルも岡山と出雲(多分)で割れてるなう

234 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:07:15.11 .net
>>233
合わせて投馬で良い思う

235 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:07:29.58 .net
>>234
ほう

236 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:08:00.54 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

237 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:10:17.39 .net
>>212
分かる分かる
私が九州説をやめた理由がそれ

どう考えても投馬国を九州説内に、おけない

238 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:12:17.05 .net
えーーー吉備が投馬国???
東じゃん

239 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:14:20.75 .net
吉備も出雲文化圏

240 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:16:53.55 .net
確かに出雲で素戔嗚が八岐を倒した十握剣が
岡山の石上布都魂神社(備前国赤坂郡)に祭られて
後から山辺の石上神宮へ遷されてる

うん投馬国は一つの文化圏だ

241 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:18:10.61 .net
傍国がどんどん消滅していく畿内説

242 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:22:58.37 .net
ついでに言うとお墓の感じは讃岐まで伸びてる
四国の東側は銅鐸文化圏ですから

243 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:25:26.57 .net
私数年前にこのように書き込んだことがある
「どの本を読んだら畿内説になれるんだ?」

そして、九州説を捨てました

244 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:26:44.13 .net
九州説は一回はかかっちゃうかもw

245 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:33:02.22 .net
>>243
で、どの本や論文を読んだら畿内説になれるの?

246 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:34:37.32 .net
>>245
寺澤

247 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:35:44.96 .net
>>219
>土器や前方後円墳など文化や宗教の伝播に過度に政治的意味合いを持たせる古い畿内自生説的見解には、考古学界でも近年急速に見直しが入っている

単に、先進文化を持つ倭人(阿波勢力)が各地へ進出していっただけのこと。   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:40:20.29 .net
>>246
寺澤は本も纒向学研究など掲載の論文も読んだが私は畿内説にはならなかったな
ただ、畿内自生説が成り立たない確信は持った

249 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:52:53.41 .net
>>248
>ただ、畿内自生説が成り立たない確信は持った

そりゃ、鉄器も作れない寒村湿地だからな。   @阿波

250 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 17:55:43.27 .net
せっかく九州の元脚本家が九州文学九州小説という新たなビジネスを切り開いたので
初心に立ち返って、といっても今は小説は売れないので、
3兆円市場といわれるアニメで九州説を作れば
世界中で見られるし曲も売れるし外国人観光客も増えると思う

251 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:04:55.16 .net
寺澤は東遷を濁してるんだっけ?

252 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:06:57.16 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

253 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:08:08.40 .net
九州説はコピペ荒らしするような奴しか居ない

254 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:11:36.72 .net
自生説が成り立たないなら、畿内の人たちは外部勢力により侵略され土地と労働力を奪われ巨大古墳を作らされた事を、自治体までが率先して必死に主張しているの?
それとも内容はともかくひとまず畿内説というものを宣伝しといてこっそり自生説的に粉飾していくの?

255 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:12:49.62 .net
寺澤は、
「西日本の部族的国家のどれか一つでもない、
全く新しい融合的統一体である 「倭国」 として
その権力中枢が 「ヤマト」 に樹立されたのだと考えるべきなのである。」
という説

256 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:16:06.05 .net
文身の風習のある海人の国が融合的とか笑うわ

257 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:19:06.58 .net
池上曽根遺跡や亀井遺跡は融合的と言えるが

258 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:24:39.32 .net
>>255
寺澤って、詐欺師みたいだな。   @阿波

259 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:44:31.51 .net
後漢書に書かれた大倭王が統べる伝統的な倭国(大乱前)を完全スルーか

260 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:51:16.26 .net
>>259
後漢書には大乱前に大倭王が統べる倭国のことなんて書いてないよ

261 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 18:53:51.31 .net
邪馬台国の初出は3世紀。
大和王が住む都邪馬台国は5世紀以降の認識。

262 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:00:07.06 .net
とうとう畿内説に倭國王帥升の存在すらなかったことにされてしまったな

263 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:12:28.08 .net
>>261
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

264 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:20:06.15 .net
30国が連合して卑弥呼を立てたのが倭人伝の記述なのに
漢代から30国は皆王を称して(世世伝統)その大倭王は
邪馬台国に居ると後漢書にはあると
つまり大戦前後で倭国の体制が何か変わったわけでは無い
それは九州説畿内説どちらにも有利不利は無いんじゃないの

265 :日本@名無史さん:2024/04/27(土) 19:21:33.34 .net
魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、





《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》




《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》





桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。

桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年

倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる

最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる

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