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邪馬台国畿内説 Part1017
- 1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/26(金) 22:37:31.57 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1713864841/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
- 760 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:43:41.57 .net
- >>757
方位通りに進むと女王国は海の中、その東の倭種も海の中、侏儒国も裸国黒歯国も狗奴国も海の中
- 761 : :2024/04/29(月) 18:46:52.36 .net
- 俺の永平寺アーカイブスより
426 日本@名無史さん 2021/01/17(日) 18:20:08.36
やまと = 山跡
万葉集で「やまと」と言えば
大和ではなく倭、山跡だ
↓参考 当時の日本人はこう発音してます
882 ニューノーマルの名無しさん 2020/11/29(日) 13:32:13.81 ID:mAkgo2qF0
古代日本人、当時的には
倭 = 山跡 = 山は邪麻、跡は止 と発音する
>日本國、自大唐東去万餘里、日出東方、昇於扶桑。故云日本。古者謂之倭國。伹倭意未詳。或曰、取稱我之音、漢人所名之字也。通云【山跡】。山謂之邪麻。跡謂之止、音登戸反、下同。夫天地剖判、泥湿未乾、是以栖山徃來固自多蹤跡。故曰邪麻止。又古語謂居住為止言。住於山也。音同上。武玄之曰、東海女國也。
- 762 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:50:55.16 .net
- 魏志倭人伝を正確に読み解くと、邪馬台国ジャワ島説か邪馬台国パプアニューギニア説の二択になる。
- 763 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/29(月) 18:52:52.56 .net
- ネトウヨのアイヌ非先住民説を見てわかるように、彼らは組織的にネット上で大量のコピペ貼ってをしてネット世論を作ろうとしている
邪馬台国九州説もまた然りだ
モ◯◯◯ー研究所などのように保守党の裏にいる日本会議の構成員がやっていると見る
- 764 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 18:58:00.24 .net
- なせ学者は三角縁神獣鏡なのか?
ここを突破しないと九州説は不成立
- 765 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:08:24.73 .net
- >>759
>畿内説は最初から成立しないんだよ
まったく理由の言えない喘ぎ声を出すだけの
九州説は死亡済み
- 766 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:08:49.71 .net
- >>764
あまえ、昭和から頭が抜けてなーな
三角縁神獣鏡は畿内説の根拠にならないことはもうオーソライズされてる。
勉強しろよ。
メッ!
- 767 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:09:13.01 .net
- 九州説をとるとヤマト王権は分家筋になるだろうし、記紀がデタラメなインチキ書物になるのだから、むしろネトウヨにとって都合が悪い。
- 768 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:37:26.06 .net
- >>766
昭和時代に機能停止になってるのが九州脳だから
もう国産説が消滅したことすら知らない
オワコン九州説カワイソス
- 769 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:41:53.19 .net
- ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑
長江下流域で出土した土器(南京博物館)
http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip
.
- 770 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:43:11.31 .net
- 記紀に余計な下心が無いのならそれで良し
皇室は真実九州から来たのであって
邪馬台自生の王権が九州との縁を脚色する
ためでは無かったということだ
- 771 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:54:13.80 .net
- その通りだ。
下心あるのは畿内説のほうだろ、、、
- 772 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:56:28.98 .net
- それで改めて考えても記紀の時代考証が
かなり真に迫っていることは変わりない
(現実の神功皇后の時代は120年遅いと現代の学者は考えるが)
卑弥呼の記述がないのを不審に思った後代の人間が
割注を入れたにしても、記紀の記述は
卑弥呼を知らない前提で、もしくは全く無視して書かれている
- 773 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 19:57:56.69 .net
- >>768
三角縁神獣鏡は国産でしょ?
国産でないってソースは?
- 774 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:02:09.38 .net
- 例えば奈良の遺物に邪馬台国って書いてあったとしても
その遺物が九州から持ち込まれた可能性もある訳だから何の証拠にもならない
もちろん遺跡の柱か何かに書かれてたとしても、ただの落書きかもしれない
つまり遺跡や遺物に、歴史を決める力は一切ないのである
- 775 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:05:18.09 .net
- >>774
>つまり遺跡や遺物に、歴史を決める力は一切ないのである
「卑弥呼」の時代に「丹」を採っていたのは「若杉山辰砂採掘遺跡」は動かない。 @阿波
- 776 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:20:22.50 .net
- >>774
九州説はここまで堕ちました
- 777 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:27:03.74 .net
- >>773
>三角縁神獣鏡は国産でしょ?
誰の説?
どんな理由で?
- 778 :琪瑛教大祭酒:2024/04/29(月) 20:31:46.11 .net
- 無駄だな。九州には韓の痕跡しか無い。
- 779 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:35:29.25 .net
- >>709
神功皇后紀三年の記事に磐余に都を造った、とあり、その割注に「是謂若櫻宮」とある
一方、神功皇后紀六十九年には稚櫻宮で崩御とあり、また履中紀元年には磐余稚櫻宮とある
書紀では、「若」は「もし」のために使われているので、固有名詞の中にある「若」は一般に「稚」に書き換えられている
したがって、この三年の割注はその経緯を理解していない者による後世の手によるものであることが明らか
つまり、書紀の割注は後世の追記であることが分かる
- 780 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:36:56.71 .net
- >>770
下心なんてまるでないけどあんな出鱈目なもんを根拠にされると話が進まないのよ
神社なんてその時代に無いでしょと言っても聞かないし
- 781 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:39:06.58 .net
- >>774
時代が合致すれば重要な根拠になる
地層とかも調べてるから
- 782 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:40:48.98 .net
- 時代さえ一致すれば邪馬台国でok
- 783 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:41:44.50 .net
- その時代は邪馬台国や狗奴国だけではなく、東に海を挟んで倭種の国々があったはずだけどな
- 784 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:44:09.48 .net
- 記紀なんてみんな出鱈目だと思ってるから時代も物凄くいい加減
それでも根拠になると思ってるんだよね
- 785 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:44:52.19 .net
- >>783
魏志が引用したのは魏略の
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種でしょう
- 786 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:49:04.37 .net
- >>779
すばら
- 787 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 20:55:27.52 .net
- >>786
スカパラダイスオーケストラ
- 788 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:01:50.30 .net
- >>779
古事記の履中天皇は伊波礼若櫻宮→書紀では磐余稚櫻宮か
ふむ
- 789 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:15:50.96 .net
- 履中天皇、磐坂市辺押羽皇子・天万国万押磐尊、顕宗天皇仁賢天皇オケ、
石を以って升を作りオケとした
5世紀の奈良大阪は前方後円墳と数多の方墳の時代
5世紀前半、橿原に日本最大の方墳の桝山古墳が作られる
- 790 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:23:50.44 .net
- 時代とか落書き以下やんw
- 791 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:25:49.27 .net
- 応神天皇は神功皇后と住吉の神さまの子
堅い絆の相生の松は、播磨の高砂の松と住吉の松のこと
- 792 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:30:08.48 .net
- 高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり
播磨風土記の速鳥伝説とそっくり
駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。
「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」
ハヤ速。
- 793 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:39:57.74 .net
- >>774
そもそも文献作者が当該文献作成時に虚偽を記載するのはそれ以上に容易なことなんだが?
ましてやこの時代の倭國史については信憑性のある一次史料など一つも存在しないのに何を言っているのか。
文系脳の救い難い愚かさの極限を>>774に見た。
- 794 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 21:54:13.46 .net
- 文系脳じゃなくて九州無脳な
- 795 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:03:20.25 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 796 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:07:27.59 .net
- 通説の仏教伝来は538年ぐらいだが、「阿波」への仏教伝来は、526年より遡る可能性。 @阿波
上板町の大山寺には、国指定の重要文化財である経筒があり、この経筒には次の文句が刻まれている。
大治元年才次丙午十月十二日甲辰日閻浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供養畢願頌
僧西範為結縁法界六道三有受苦者也
以上の文面からすると、ただ供養を行ったとのみで、何の事でもないのであるが
山頂部にある奥院・黒岩権現参道入口に在った石碑に刻まれていた文を併せると、
明確にその年代が解かれるのである。
西範僧都六百年忌追福也
大治元年才次丙午十月十二日
大山寺には大治元年(1126)と彫銘された経筒が保管されている。
大治元年は1126年。
そのとき西範僧都六百年忌が行なわれていたということで、西範僧都が亡くなられたのが526年
仏教伝来はそれ以前って事になりますよね。
http://goutara.blogspot.com/search?q=%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E3%80%80%E7%B5%8C%E7%AD%92
- 797 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:37:16.14 .net
- >>774
そうかも、
歴史は考古学者がつくる。
衝撃の事実
- 798 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:38:55.14 .net
- 学者たちは
倭人から直接聞いたこととして書いている新唐書の方が正確と考えている
つまり倭が日本を併合した
古代には勝った側が負けた側の名前を取る統治術が世界にある
被害者が加害者を責め立てるときに自分たちの名前を責めることになる
- 799 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 22:55:36.21 .net
- 三角縁神獣鏡って中国で見つかったの?
- 800 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:00:19.62 .net
- コピー銅鏡のオリジナルを特定してから考えりゃいいのに
- 801 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:11:50.10 .net
- ともかく、魏志倭人伝は九州について書かれてる。
- 802 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/29(月) 23:21:50.16 .net
- 何故かジャップの好きなXを見てみると九州説を主張してる連中のスピリチュアル系のカルト率の高さが気になるな
奴らはやはり日本会議系の明治の新宗教である自称古神道(古代からの文献ねーだろ。江戸時代に作られたもんだと分からんのか)の連中か統一教会系のネトウヨの馬鹿どもに違いない
Xの九州説論者は例外なく反アイヌ思想で秦氏がユダヤ人がどーとか言っている
- 803 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:39:07.78 .net
- レッテル貼るの大好きだね
原発やコロナワクチンのときと同じパターン
- 804 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:42:17.09 .net
- 忖度なく倭人条を読むと見えてくるよ。
ズバリ、邪馬壹國は南太平洋のトンガです。
- 805 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:44:00.78 .net
- >>798
あー
ヤマトタケルがそうだね
殺しといて名前まで奪うという
- 806 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:44:10.96 .net
- いやいや
沖縄だろう
- 807 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:52:17.52 .net
- 邪馬台国が九州だったら絶対阿蘇山のこと書いてそう
- 808 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:56:10.69 .net
- >>801
>ともかく、魏志倭人伝は九州について書かれてる。
ほら。九州説は宗教
それも相当クソなやつ
- 809 :日本@名無史さん:2024/04/29(月) 23:57:18.93 .net
- 伊都国、奴国は九州じゃないのさ
- 810 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:06:50.30 .net
- >>794
九州でも関西でも構わないんだが、要するに歴史を検証するについての信憑性/信頼性は;
1. 現物(発掘出土物等)
2. 自然科学手法(数値解析、材料分析等)
・
・
・
・
・
・
・
X. 文献
という順位になる。
文系脳はこれが理解できない。
- 811 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:09:04.23 .net
- だから中国で出土しない三角縁神獣鏡を中国産などと血迷ったことを言い始める
- 812 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:19:13.50 .net
- 自然科学手法を使うと「邪馬台国」という文字が浮かび上がるらしいw
- 813 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:21:01.31 .net
- 文献があって初めて歴史が語れる
遺物はその補強材料にすぎない
これが分からないから考古学は学問じゃないいと言われる
- 814 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:21:01.47 .net
- 撲滅タイは完全に病気だろw
- 815 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:26:11.06 .net
- 魏志倭人伝を合理的に解釈することと、その解釈で得た内容が事実であるか否かは、別次元の問題ではないかな?
魏志倭人伝が三世紀の倭人の世界を正確に記録している保証なんてないでしょ。
- 816 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:32:14.03 .net
- じつは卑弥呼がもらった鏡を配ったなんて話は文献上にも存在しないという……
- 817 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:32:22.85 .net
- モチロンソウヨ
- 818 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:45:05.20 .net
- >>813
↑こういうグロテスクな倒錯こそ文系脳思考の典型。
- 819 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:57:41.93 .net
- 考古学な史料のみで、例えば鎌倉時代なんかどの程度わかるのかな?
東国に武家政権が出現したことくらいはわかるのかな?
- 820 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:09:28.02 .net
- >>774
もしも奈良の遺物に邪馬台(臺)国って書いてあったり、
遺跡の柱か何かに書かれてたとしたら
「邪馬臺」の字を当てたのは3世紀の漢人だから
漢人が奈良に来ていた可能性は考えられるかもしれないが
唐突に九州から持ち込まれた可能性が考えられることはない
- 821 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:14:52.59 .net
- 即位5年、筑紫に課税しようとしたことで
神の祟りを受けて皇后黒媛を失う。
なんだこれ
- 822 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:15:40.44 .net
- 同年2月、讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される。
前年の筑紫の件も含め、天皇の西方への支配が
行き届いていない面が見られる
- 823 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:24:45.45 .net
- >>819
鎌倉時代のように文献でかなり明らかになっていてもまだ不明確なことが
考古資料によって確かめられるたり、あらたな見解が生まれたりする
邪馬台国論争のように文献が倭人伝しかなくて
不明確なことは多い時代は、
考古資料が何もないところに比定される根拠がない
- 824 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 02:47:46.97 .net
- https://blog-imgs-128.fc2.com/h/y/e/hyenanopapa/blog_import_5d41643af0702.jpeg
於投馬 ia du mæ イアドゥマ
- 825 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 03:15:23.62 .net
- 於投馬 qaː du mæ カドマ
- 826 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 03:19:49.02 .net
- 母離供智 mo ri gou chi モリグチ
- 827 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 04:06:12.91 .net
- つまり九州説はウソ
- 828 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 04:28:44.43 .net
- 畿内説は物証が?????
- 829 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:10:03.57 .net
- 畿内が倭国だった証拠無し
- 830 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:32:03.56 .net
- 倭国王の都が有ったんだから、それが倭国だった証拠だが
- 831 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:50:22.09 .net
- >>830
倭国王の都だったと言う証拠は?
- 832 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:51:40.49 .net
- 魏の使者が来た頃はもう古墳時代が始まってたんだから
奈良が都だよ
- 833 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 05:59:31.69 .net
- みんな、もう魏志倭人伝は怖くない!⇩つまり、こういうことだったのです!!
>>469
事実(帯方郡から12000里=筑紫平野・吉野ヶ里遺跡)と
>>464
魏の誤認(会稽東冶の東=沖縄那覇あたり)を両方同時に書いた「虚実混交」文だったのです!! (இoஇ; )ウルウル
└→これに基づく投馬国からの「南水行十日陸行一月」という蛇足を現実の地理と誤解し、ムリヤリ当て嵌めて(南⤴東)と90度読み替えてしまったのが畿内説(魏の誤認+現代日本人の誤解=W錯誤)だったのです!
⇩魏志倭人伝の世界観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png
⇩魏志倭人伝の正解
https://pbs.twimg.com/media/GMTLWv_bEAAXS_g?format=jpg
⇩239年明帝勅(魏)使と247年張政が見た「女王之所都」
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg
- 834 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:04:12.83 .net
- 数字マジックが通用する時代じゃ無いんだけどね
- 835 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:09:28.45 .net
- つまり畿内説はジグソーパズルの合わないピースを無理やり填め込んで「完成したぞ!」と喧伝して回る愚か者
- 836 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:15:14.97 .net
- つまり九州説はウソ
- 837 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:15:17.06 .net
- >>834
>数字マジックが通用する時代じゃ無いんだけどね
つまり、「阿波」の時代の始まり。 @阿波
- 838 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:29:31.30 .net
- 阿波説は日本の歴史を破壊するテロリストであり朝敵国賊です
- 839 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:32:41.75 .net
- つまり畿内説も邪馬台国なりすまし歴史テロリスト
- 840 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:33:22.58 .net
- 瀬戸内の 泡沫と消ゆ 阿波の夢
- 841 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:35:15.08 .net
- 大和路の ホケ(湯気)野に消ゆる 纏向の夢
- 842 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:35:19.59 .net
- >>838
>阿波説は日本の歴史を破壊するテロリストであり朝敵国賊です
まぁ、旧説信者にとってはそう映るんだろう。 @阿波
- 843 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:37:54.75 .net
- 三角縁神獣鏡を調べてみると邪馬台国論争はもっと面白くなる。
中国でも、早期三角縁神獣鏡、三角縁龍虎仏像鏡、三角縁笠松神獣鏡、当境界枠付三角縁神獣鏡など十数面の「三角縁」銅鏡が発見されている。
斜縁(ななめぶち)あるいは、半三角縁の神獣鏡はもはや三角縁神獣鏡の領域に入っている。
- 844 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:46:52.32 .net
- まさに方形周溝墓+銅鐸祭祀だった畿内に、後漢鏡5〜7期、紀年鏡、鉄剣(三種の神器)の副葬は、北部九州勢力の東遷の証だね
- 845 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:50:26.22 .net
- 三種の神器(平原女王)…伊都国由来だよ!
- 846 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:52:08.40 .net
- >>844
>紀年鏡、鉄剣(三種の神器)の副葬は、北部九州勢力の東遷の証だね
碌に鉄器さえも作れない北部九州では無理。 @阿波
- 847 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:54:33.50 .net
- 嘘と捏造だらけの阿波説
- 848 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:56:51.35 .net
- 北部九州が東遷した跡がない
むしろ、畿内人が北部九州に西遷している
- 849 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:57:26.97 .net
- >>114
前方後円墳は、吉備楯築→ホケノ山ばかり注目されるが、実は祇園山(上方下円墳)をバラして前後に並べたものと言える。
つまり、被葬者は副葬品から北部九州(後漢鏡5期〜7期、鉄剣など三種の神器)、築造主は吉備(特殊器台)王(別人)と見られることが、前方後円墳誕生の謎を解くカギであろう!
- 850 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 06:58:45.00 .net
- >>844
九州に7期ないよ
- 851 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:00:58.01 .net
- >>848
ね
祇園山すら畿内系
- 852 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:01:22.50 .net
- >>849
卑弥呼が「親魏倭王」として「銅鏡百枚」を貰ったのが239年で、27年後の266年に東遷もしくは禅譲だとすれば北部九州から大和への後漢鏡5〜7期の大移動も説明が付くな
最近、富雄丸山古墳(4世紀後半)の造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土し、50回忌前後での制作・追葬と見られることから、
>>114
祇園山(3世紀中頃「有棺無槨」)でも、箸墓(布留0式)より新しい布留1式土器、後のヤマト王権からの寄贈と見られる三角縁神獣鏡、須恵器が出ており、5世紀以降も追葬(供物献上)儀式が行われていたことが判る。
よほど人々の記憶に残る重要人物だったことが窺えるw
- 853 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:01:34.34 .net
- 纒向石塚が最初の前方後円墳である
- 854 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:06:08.00 .net
- >>852
筑紫説ですか?
三角縁神獣鏡が出てこないのでアウトです
九州には、投馬国も邪馬台国もない
- 855 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:06:14.90 .net
- >>848
>むしろ、畿内人が北部九州に西遷している
碌に鉄器さえも作れない畿内人では無理! @阿波
- 856 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:07:22.00 .net
- 後に続く大王墓の系譜から、ヤマト王権の初代大王陵と考えられる箸墓の被葬者を推理してみますた!
まず、(殉葬の代用品=円筒埴輪の超大型豪華版・直弧紋入り)吉備特殊器台で飾り立てられていたことから、「径百歩(○円墳✕前方後円墳)」「殉葬奴婢百人」の卑弥呼ではない(すべてが互いに矛盾し、魏志倭人伝と合致しない)。
次に、神武、もしくは皇族(祖先・天照大神や欠史八代〜崇神の誰か)なら、記紀がそう書くはずだから消える。
ただし、記紀による比定、すなわち巫女であったとされる百々襲媛には、卑弥呼のように曹魏に朝貢したり、国を治めるのを助けた男弟(摂政)はおらず、外交的・政治的な実績は全くなく、実在であったとしても表立った存在感のない皇女で、すでに第7代大王の皇女である以上共立ではなく世襲であり、そもそも大王【倭王】に即位していないのであるから、完全に否定される。
すると、247年に亡き筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の跡を継ぎ、卑弥呼が生前帯方郡の太守・王頎(おうき)に要請していた張政ら魏の軍事顧問の来倭支援により、熊本狗奴国男王卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を倒したお祝いに皇帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を貰い、266年(曹魏→重臣の司馬晋への禅譲に倣い)ヤマト王権に倭王位を自発的に禅譲した筑紫邪馬台国女王台与か、
もしくは筑紫邪馬台国女王・台与から禅譲を受け、西晋武帝に冊封されたヤマト王権初代大王「複立男王(並受中国爵命)」その人、ということになる。
また、この「複立男王(並受中国爵命)」が上述のように(記紀が堂々と書くはずの)神武〜崇神の誰かでないとすると、神武東征以前に大和を支配していたニギハヤヒ(倭大物主=出雲大国主の子。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)以外には考えられない。
以上、箸墓(280m)【西殿塚(230m)】の被葬者予想をまとめると、このようになる。
本命…筑紫邪馬台国女王台与【西殿塚=複立男王(ニギハヤヒ)陵】
対抗…複立男王(ニギハヤヒ)【西殿塚=真の神武陵】
穴場…神武陵
大穴…崇神陵
- 857 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:07:34.97 .net
- >>853
>纒向石塚が最初の前方後円墳である
倭人(阿波勢力)の作品だがな。 @阿波
- 858 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:11:40.09 .net
- このスレの畿内説を盲信する素人は考古学と文献を比較して文献を軽んじるようなことを平気で言うが、その考え方は誤りだ
考古学と文献は比較するものではなく相互に補完するものだ
考古学だけでも文献だけでも歴史の真実はわからない
松木武彦「古墳とはなにか」の以下の文章を読めば、考古学と文献を照らし合わせて判断することの重要性がわかる
「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」
「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」
- 859 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:14:10.60 .net
- >>114
>>136
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
?265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
?(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)英雄曹操の薄葬令に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
?おそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ!いや長里だ!、南だ!いや東だ!と、果てしない水掛け論が継続中w
◆もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 『長』二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
◆もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、英雄曹操の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)
- 860 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 07:14:25.18 .net
- >>857
阿波にはどんな国宝がありますの?
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