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邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

103 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:42:59.09 .net
九州が輸入品の水銀朱に依存していた事実は
その山に丹がなかった証拠

104 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:43:11.28 .net
>>98
畿内説よりは筋がいい

105 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:51:32.26 .net
九州に中国産の朱もあると言う事は邪馬台国の可能性が高いと言う事だな

106 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:54:54.03 .net
中国との公益が盛んだった証拠だしな

107 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:59:07.73 .net
卑弥呼は魏から鉛丹を貰っているが

畿内からは中国製の丹は出ていない

つまり畿内は邪馬台国では無い

108 ::2024/05/12(日) 10:13:26.28 .net
テスト

109 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:14:18.30 .net
>>107
鉛丹は水銀朱じゃないよ

110 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:18:55.24 .net
卑弥呼が貰ったのは真珠鉛丹だな

111 ::2024/05/12(日) 10:21:53.83 .net
レベルが低すぎる九州説

112 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:23:44.10 .net
九州説さん
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう



w

113 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:44:37.99 .net
鉛丹
主成分は四三酸化鉛で、通常 「丹(たん)」とよばれる。鉛を焼いて作る。

114 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:48:50.10 .net
>>104
お前は宇美から水行一月・陸行一月で山鹿に行くんだな
そんで「山鹿より南にあって、遠くて詳細が分からない傍国21ヵ国」は何処だよ

115 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:01:00.15 .net
南?

116 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:02:13.82 .net
魏志倭人伝に書かれた国の希望はどう見ても市町村レベル
県レベルどころか地方レベルで巨大な国を想定する畿内説はNG

117 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:11:38.54 .net
>>102
九州は赤土を拝め!   @阿波

118 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:14:25.26 .net
>>116
同じ国だから国家も集落も判別できなかったんでしょう

119 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:17:06.08 .net
その山に丹あり 魏志
その山に丹土あり 後漢書

シナ側も混乱しとるようだけど、丹は水銀朱のことだと断定する根拠は何?

120 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:18:45.58 .net
丹生都比売神社の神官家は神功皇后紀にも
出てくる天野祝だな。大枠では紀氏と同族で
天道根命の裔に位置付けられる
注目すべきは子孫に伊蘇氏があり
wikiの編者はこれに(伊蘇志)と添えている
もちろんこれは仲哀帝が五十迹手に与えた称号にあたる
上に紹介されている本を読んだ者なのかもしれないな

紀氏の同族であるため当地の国懸神・日前神を
奉ずる関連が論じられる一方
ここに奉られた鏡が岩戸神話ではプロトタイプ
であることと、天神本紀における異伝との整合をはかり
日前神に先立つ降臨すなわち、日前神に
社地を譲り現社地に遷ったという伊太祁曽神
(五十猛)が本来の紀氏の祭神であろうとする説もある
五十猛は高天原から持ち込んだ種を倭国に撒き
木々の緑豊かな国土をなした功績から勲しの神と称えられる

121 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:18:50.63 .net
>>114
お前報告書で
途中までキロメートルで報告して
途中から所要時間で報告するような杜撰な報告書書くか?
書くにしても両方併記するだろ
水行陸行の部分明らかにおかしいぞ
多分写本で書き換えられてる

122 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:20:47.54 .net
魏志倭人伝をそのまま読めば女王が居る集落が邪馬臺國で女王に属する連合体が女王国
でも女王国なんて国名は無いし

123 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:22:09.34 .net
五十猛の子孫は宇佐神宮の禰宜をやっていて道鏡の神託にも関わっている

124 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:23:39.55 .net
>>123
それがどうしたんだよ?
なにが宇佐神宮だよ?

125 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:28:28.98 .net
>>124
宇佐神宮しか無いからww   @阿波

126 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:35:22.25 .net
天野祝とムホムホなことになり天変地異(日食か)を
招いた小竹祝は同じ和歌山は御坊の神官であったようだが
その論社は今は八幡神社となっている
八幡神社は正直どこにでもあるからこの点は
なんともし難いが、氏族の関係でいえば
天野祝と小竹祝は同族であったとはみなして良さそうだ

宇佐神宮のメインの神官は五十猛裔の辛島氏だが
八幡神が神跡を垂れたのはもう一つの系の
大神氏の神官だった。大物主も大歳神の子としては
韓神と呼ばれることもあるので
この点もまた整合してくる

127 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:37:54.92 .net
>>85
朱を求めて和歌山に辿り着いたのは、、「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂採掘技術者。   @阿波

128 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:40:15.87 .net
大神氏は宗像氏と同族であり宇佐神宮が宗像三女神を祀っているのは必然と言っても良いだろう

129 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:43:45.38 .net
イトテ(五十迹手)はアメノヒボコの子孫
これに先立つ「魏志にある伊都国」がおそらく滅亡した後に伊都国を支配下に入れた一族だろうと思われる

では滅亡する前の「魏志にある伊都国」はどうなったのか?
そのヒントはアメノヒボコなどの半島系渡来人が日本にやってくる崇神垂仁の時代にある

崇神の時代、ツヌガアラシトが「日本に偉大な王がいる」という噂を聞きつけて様子を見にやってきた
その際に穴門で自称倭王の伊都々比古と出会う

伊都国の王族であっただろう伊都々比古が何故か穴門なんぞにいる時点で古き都の伊都国が滅亡していることが伺える
そして倭王を自称しているというところから、九州にあった大倭王台与の統べる倭国連合が崩壊していることも同様に伺える

そのタイミングはおそらく265年の魏の滅亡の頃だろう

130 ::2024/05/12(日) 11:47:02.17 .net
拠点的母集落を解体し、広域の連合を作り始める本州と違い、北部九州では未だ不弥国1000戸、末盧国4000戸などの弥生集落が存続し、
伊都国と奴国の統合もできてない

こうした弥生集落が九州で存続しつ続けた理由は不明であるが、早くも畿内第V様式圏を完成させ、庄内併行期には東海、北陸、関東、四国、吉備、出雲などの人々を集めた纒向邪馬台国政権は、
墓を次第に巨大化させ始め、前方後円墳の共有、銅鏡の配布共有をも開始し、後のヤマト王権へと繋がっていくのである。

131 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:49:31.59 .net
>>130
>東海、北陸、関東、四国、吉備、出雲などの人々を集めた纒向邪馬台国政権は、
墓を次第に巨大化させ始め、前方後円墳の共有、銅鏡の配布共有をも開始し、後のヤマト王権へと繋がっていくのである。


碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内に、どうして王権が立つというんだ?   @阿波

132 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:52:30.99 .net
弥生時代は遺跡の多さからも筑紫時代といっても良い

133 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:58:10.66 .net
天日矛は新羅王子だが日本名であり
都怒我阿羅斯等(蘇那曷叱智)とは違って
倭人かもしれない。
五十迹手は穴門で仲哀と出会っているので
穴門の豪族に見えるが、怡土県主だともはっきり言われている
年譜上卑弥呼と崇神は100年も変わらないはずで
実際伊都国は王位が安堵されていたのだから
両者は矛盾してはいる

怡土とヤマトの出会いは仲哀期が初という趣旨
それゆえか記紀は編纂当初からかは不明だが
神功皇后と卑弥呼について傍注でコメントを入れる

134 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:04:16.24 .net
>>133
倭国連合が崩壊した後、伊都々比古が穴門で立ち上げた臨時政府がその後の九州倭国連合(崩壊済み)の仮首都だったのだろうか

伊都国を支配下に入れたヒボコ末裔が穴門までも支配下にいれてるなら
穴門臨時政府も抑えられてしまったのかもしれない

135 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:09:36.02 .net
筑後は日本の国作りを妨害した親玉が住む土地だからな
広域の国々が連合すると仕事が遣り難かったのだろう

136 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:17:56.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

137 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:18:52.22 .net
>>125
国宝かつ皇室の宗廟な、

阿波には決して無い物。

138 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:29:24.35 .net
宇佐神宮は律令制=中央集権国家体制になってからの創建

139 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:33:47.60 .net
>>137
>阿波には決して無い物。

「阿波」から勧請されたものなど、いらん。   @阿波

140 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:36:59.29 .net
宇佐神宮の元宮は薦神社の三角池

https://youtu.be/UtXpw-cpTRI?si=XwfZqtAdhPugTHJ7

141 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:37:34.51 .net
>>138
>宇佐神宮は律令制=中央集権国家体制になってからの創建

だから、
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

142 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:46:58.32 .net
中津や宇佐には倭人伝時代に大型の古墳は築かれない

143 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:48:02.90 .net
魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている
邪馬台国が奈良にあったとしたら大阪まで船で行き近畿の国々を
訪問しながら奈良に行くはず、それをしなかった理由は邪馬台国が
末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

144 ::2024/05/12(日) 12:50:40.39 .net
>>142
50年後だな

145 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:36.39 .net
>>143
>邪馬台国が末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

違う!
末魯国から徒歩で行けるのは、「不弥国」まで。   @阿波

146 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:46.18 .net
九州北部の国々を通り過ぎた後、二月行ったところが女王の都

147 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:57:52.68 .net
南に行こう

148 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:58:29.60 .net
>>141
歴史泥棒の阿波が今日も行く

149 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:59:49.48 .net
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

150 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:01:32.77 .net
>>149
歴史捏造の阿波よ恥を知れ

151 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:02:08.15 .net
宇佐の3世紀末の赤塚古墳は57.5mだから大型ではない

152 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:05:16.19 .net
薦神社の近くには松尾神社と言う径百歩の古墳があるが調査発掘はされていない

153 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:06:36.73 .net
>>150
閑古鳥スレへ帰れ!   @阿波

154 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:35.09 .net
>>143
>魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている

倭人伝にそんなこと書いてない
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう

155 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:47.19 .net
阿波説と言う死体。

156 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:09:20.61 .net
調査発掘がされていないのに
古墳(墓)だと言い張ると森先生がやらかしてしまったようになってしまう

157 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:10:44.99 .net
伊都国の出入国管理局に立ち寄って宴会開いたあとそのまま出雲なりどこぞへ水行していくならともかく、九州の国々を巡り歩いてしまう魏使さんたち、どうして……

158 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:14:36.94 .net
>>156
古墳だろこれhttps://i.imgur.com/Wjh5qkx.jpeg

159 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:19:14.05 .net
九州の国々といっても2万戸の奴国と小っちゃな不弥国しか通り過ぎていない
北九州市あたりは女王国連合じゃないから
安全のために水行を避けたのだろう

160 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:22:26.74 .net
日向ー宇佐ー北九州は神武の東征ルート、魏使が辿っても不思議では無い

161 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:23:38.51 .net
危険地帯なら陸行を避けて早々に船で安全な国まで航行しそうなもんだが

162 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:24:11.35 .net
>>158

赤村にも450mの巨大な前方後円墳があると言い張っている地元民がいるが
自治体の文化財担当者は否定している

163 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:25:36.51 .net
>>162
松尾神社の宮司が古墳だと証言しているよ

164 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:26:37.83 .net
>>161

北九州市ってわかる?

165 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:01.93 .net
>>163

式外社だろ

166 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 13:29:36.11 .net
また、ドングリだな
まだ解説が甘いな
記紀や風土記は文字を教わった後の物で一体誰に何処の言葉で何語を教わったのか?から解説して貰わないとな、同化政策すら可能性はある。
何れにしろ、箸墓が卑弥呼の墓であり纏向が女王の都とする処で隋書邪馬台者地勢東高西下に変わりはない
宇佐は隋書の時代は秦王国
倭に属すると成っている
服属する王が居たのであろう。吾輩は神武の存在を否定しない高麗伝にあるように秦王国国王神武とあるから秦王国時代に神武は居たのであろう。

167 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:43.86 .net
松尾といえば大山咋だけどとりたてて何か匂わすような
祭神ではないな。瀬戸内を東行し淀川を遡りながら
摂津の三島や鴨川に痕跡を残したというくらい
あえて何か言うなら八咫烏でありそれは熊野大神の
神使であるということ

168 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:31:48.28 .net
>>164
なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

169 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:34:55.64 .net
>>168

そもそも、末盧から糸島伊都国に陸行というのがおかしい

170 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:37:33.58 .net
わざわざ危険地帯のすぐそばの弱小国まで陸行してしまう魏使さんたち、どうして……

171 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:39:13.07 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

誰が陸行なんかしたのか全く不明のままだ

172 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:40:45.14 .net
律令時代でも大宰府から田河道を通り豊前国府に繋がる古代官道がある

173 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:43:47.81 .net
記紀で神代の出来事とされていることも
遅くて6世紀くらいまで下るものもありそうで
記紀を通しての古代史の再現はほぼ不可能かと

例として大山祇は素戔嗚や邇邇芸に嫁を出し
凡そ外来神に対する真実の国津神であろうが
これは天照大神の兄であるという伝承とともに
仁徳期の渡来が記録されてもいる
明らかに鏡祭祀系である物部にあって
東国では銅鐸民としてのアイデンティティを保持する
行動を一面では説明してくれるが
詳細な経緯の解明は困難を極める

香春神のように神代に唐国へ渡り
崇神期になって戻って来たという逸話も
大山祇の伝承の混乱と何か通じるものはあるかもしれない

秦王国といえばその移民の建てた鹿児島神宮これ正八幡宮だが
朝廷はこのへんを少なくとも神武の
男系祖先に位置付けているのだろうな

174 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:44:03.69 .net
>>172
宇佐神宮に繋がる勅使街道だね

175 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:55:55.39 .net
九州を陸行するということはやはり瀬戸内海ルートで難波までいったのか

176 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:56:37.15 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

簡単な話だ。
出入国管理局の伊都国(直方)へ立ち寄らなければいけないからさ。   @阿波

177 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:58:21.18 .net
誰であれ伊都国で査証を受けるのが必須だったと
考えるしかないね

178 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:00:13.10 .net
五世紀末ごろに渡来した京都盆地の秦氏が
ヤマト王権の政策で豊前に掌管者として進出したのは六世紀前半なので
倭人伝の時代の宇佐あたりは考えなくてよい

https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht030700

179 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:01:59.85 .net
>>177
>誰であれ伊都国で査証を受けるのが必須だったと

しかし、伊都国が海辺なら陸行などしないからな。

伊都国は内陸の直方辺り。   @阿波

180 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:05:38.35 .net
>>178
3世紀の赤塚古墳は何だい?

181 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:07:22.06 .net
>>180

3世紀末で57.5m

182 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:08:10.81 .net
裴世清を迎賓した秦王国は、東四国のさぬき市難波郷津田。   @阿波

183 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:08:11.87 .net
宇佐には神武が都を作ろうとしたと言う伝説の米神山がある

184 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:11:55.52 .net
>>181
秦氏とは関係のない宇佐氏の古墳だよ、宇佐氏は藤原氏の祖

185 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:13:01.45 .net
>>167
大阪湾の最奥は琵琶湖

186 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:21.66 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 

187 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:23.86 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

簡単な話だ。
内陸の伊都国(直方)へ立ち寄らなければいけないからさ。   @阿波

188 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:44.37 .net
倭国大乱後の倭国の強い中華志向
(NHK、ないしNHKにそれを言わせた橿考研か歴博か)と
秦王国出身と異伝に言わせる神武の出自は
結びつけても良さそうだな。
あくまで古代にもそう思う者がいたということだが

>>185
小比叡のことを失念しておりました
補足感謝

189 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:19:36.47 .net
伊都国に立ち寄らなきゃいけないってのはその通りだろうが問題は伊都国の場所だな

190 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:25:25.38 .net
>>187
多少無理のある解釈だな
皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
これおそらく船上で受け渡しをしている

191 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:27:28.10 .net
>>186

AC600年って、交流電源のことか?

192 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:29:39.99 .net
>>189
だから、伊都国が海沿いにあれば、陸行なんてしない。   @阿波

193 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:30:03.71 .net
魏の皇帝からの賜物をなくしたなんてあり得ない
責任者は切腹ものだ

194 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:30:18.87 .net
唐津といわれて、菜畑遺跡の残る場所だから
末盧が外洋船の第一選択なのは確か
那津がまるで役に立ってないのは気になるが
郡使は伊都国から不弥国を眺めたに過ぎず
そこから瀬戸内海に出るのにかなりの陸行を要する
ことに気づいていないように見える

195 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:31:36.54 .net
直方までは余裕で船で行ける

196 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:32:51.96 .net
>>190
皆臨津(津へ臨む)

「末盧国」=福津市(万津浦)辺りへ出向いて検閲した。   @阿波

197 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:34:44.97 .net
>>195
行けるのは、アホのお前だけ。   @阿波

198 ::2024/05/12(日) 14:37:24.99 .net
>>138
元から神社があった場所だよ

二の御殿(比売大神)は731年の神託を受け733年に遷宮により造営されている(『八幡宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』)。
二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。
また『弥勒寺建立縁起』(844年作)も、比売大神は応神天皇より以前から亀山に鎮座していたと記録する(太田静六「宇佐宮本殿形式の成立問題―八幡造の祖形と源流」。
九州歴史資料館編『大宰府古文化論叢』下巻、吉川弘文館1988年に掲載)。

199 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:37:25.96 .net
>>194
>郡使は伊都国から不弥国を眺めたに過ぎず

「奴国」は眺めないのか?   @阿波

200 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:43:22.49 .net
>>199
伊都から近い順に奴国そして不弥国と書いてある
奴国は二万戸という極めて大きな国とした上で
百里しか離れていない不弥国は別にしてある

201 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:56:40.91 .net
>>200
>百里しか離れていない不弥国

伊都国がら「不弥国」は二百里だが?   @阿波

202 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:59:41.01 .net
>>198

「二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、
伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。」

という箇所は鷲崎の主張だろ

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kodaisinoumi1.html

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