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邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

140 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:36:59.29 .net
宇佐神宮の元宮は薦神社の三角池

https://youtu.be/UtXpw-cpTRI?si=XwfZqtAdhPugTHJ7

141 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:37:34.51 .net
>>138
>宇佐神宮は律令制=中央集権国家体制になってからの創建

だから、
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

142 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:46:58.32 .net
中津や宇佐には倭人伝時代に大型の古墳は築かれない

143 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:48:02.90 .net
魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている
邪馬台国が奈良にあったとしたら大阪まで船で行き近畿の国々を
訪問しながら奈良に行くはず、それをしなかった理由は邪馬台国が
末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

144 ::2024/05/12(日) 12:50:40.39 .net
>>142
50年後だな

145 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:36.39 .net
>>143
>邪馬台国が末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

違う!
末魯国から徒歩で行けるのは、「不弥国」まで。   @阿波

146 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:46.18 .net
九州北部の国々を通り過ぎた後、二月行ったところが女王の都

147 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:57:52.68 .net
南に行こう

148 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:58:29.60 .net
>>141
歴史泥棒の阿波が今日も行く

149 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:59:49.48 .net
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

150 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:01:32.77 .net
>>149
歴史捏造の阿波よ恥を知れ

151 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:02:08.15 .net
宇佐の3世紀末の赤塚古墳は57.5mだから大型ではない

152 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:05:16.19 .net
薦神社の近くには松尾神社と言う径百歩の古墳があるが調査発掘はされていない

153 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:06:36.73 .net
>>150
閑古鳥スレへ帰れ!   @阿波

154 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:35.09 .net
>>143
>魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている

倭人伝にそんなこと書いてない
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう

155 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:47.19 .net
阿波説と言う死体。

156 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:09:20.61 .net
調査発掘がされていないのに
古墳(墓)だと言い張ると森先生がやらかしてしまったようになってしまう

157 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:10:44.99 .net
伊都国の出入国管理局に立ち寄って宴会開いたあとそのまま出雲なりどこぞへ水行していくならともかく、九州の国々を巡り歩いてしまう魏使さんたち、どうして……

158 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:14:36.94 .net
>>156
古墳だろこれhttps://i.imgur.com/Wjh5qkx.jpeg

159 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:19:14.05 .net
九州の国々といっても2万戸の奴国と小っちゃな不弥国しか通り過ぎていない
北九州市あたりは女王国連合じゃないから
安全のために水行を避けたのだろう

160 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:22:26.74 .net
日向ー宇佐ー北九州は神武の東征ルート、魏使が辿っても不思議では無い

161 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:23:38.51 .net
危険地帯なら陸行を避けて早々に船で安全な国まで航行しそうなもんだが

162 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:24:11.35 .net
>>158

赤村にも450mの巨大な前方後円墳があると言い張っている地元民がいるが
自治体の文化財担当者は否定している

163 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:25:36.51 .net
>>162
松尾神社の宮司が古墳だと証言しているよ

164 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:26:37.83 .net
>>161

北九州市ってわかる?

165 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:01.93 .net
>>163

式外社だろ

166 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 13:29:36.11 .net
また、ドングリだな
まだ解説が甘いな
記紀や風土記は文字を教わった後の物で一体誰に何処の言葉で何語を教わったのか?から解説して貰わないとな、同化政策すら可能性はある。
何れにしろ、箸墓が卑弥呼の墓であり纏向が女王の都とする処で隋書邪馬台者地勢東高西下に変わりはない
宇佐は隋書の時代は秦王国
倭に属すると成っている
服属する王が居たのであろう。吾輩は神武の存在を否定しない高麗伝にあるように秦王国国王神武とあるから秦王国時代に神武は居たのであろう。

167 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:43.86 .net
松尾といえば大山咋だけどとりたてて何か匂わすような
祭神ではないな。瀬戸内を東行し淀川を遡りながら
摂津の三島や鴨川に痕跡を残したというくらい
あえて何か言うなら八咫烏でありそれは熊野大神の
神使であるということ

168 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:31:48.28 .net
>>164
なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

169 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:34:55.64 .net
>>168

そもそも、末盧から糸島伊都国に陸行というのがおかしい

170 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:37:33.58 .net
わざわざ危険地帯のすぐそばの弱小国まで陸行してしまう魏使さんたち、どうして……

171 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:39:13.07 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

誰が陸行なんかしたのか全く不明のままだ

172 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:40:45.14 .net
律令時代でも大宰府から田河道を通り豊前国府に繋がる古代官道がある

173 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:43:47.81 .net
記紀で神代の出来事とされていることも
遅くて6世紀くらいまで下るものもありそうで
記紀を通しての古代史の再現はほぼ不可能かと

例として大山祇は素戔嗚や邇邇芸に嫁を出し
凡そ外来神に対する真実の国津神であろうが
これは天照大神の兄であるという伝承とともに
仁徳期の渡来が記録されてもいる
明らかに鏡祭祀系である物部にあって
東国では銅鐸民としてのアイデンティティを保持する
行動を一面では説明してくれるが
詳細な経緯の解明は困難を極める

香春神のように神代に唐国へ渡り
崇神期になって戻って来たという逸話も
大山祇の伝承の混乱と何か通じるものはあるかもしれない

秦王国といえばその移民の建てた鹿児島神宮これ正八幡宮だが
朝廷はこのへんを少なくとも神武の
男系祖先に位置付けているのだろうな

174 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:44:03.69 .net
>>172
宇佐神宮に繋がる勅使街道だね

175 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:55:55.39 .net
九州を陸行するということはやはり瀬戸内海ルートで難波までいったのか

176 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:56:37.15 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

簡単な話だ。
出入国管理局の伊都国(直方)へ立ち寄らなければいけないからさ。   @阿波

177 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:58:21.18 .net
誰であれ伊都国で査証を受けるのが必須だったと
考えるしかないね

178 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:00:13.10 .net
五世紀末ごろに渡来した京都盆地の秦氏が
ヤマト王権の政策で豊前に掌管者として進出したのは六世紀前半なので
倭人伝の時代の宇佐あたりは考えなくてよい

https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht030700

179 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:01:59.85 .net
>>177
>誰であれ伊都国で査証を受けるのが必須だったと

しかし、伊都国が海辺なら陸行などしないからな。

伊都国は内陸の直方辺り。   @阿波

180 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:05:38.35 .net
>>178
3世紀の赤塚古墳は何だい?

181 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:07:22.06 .net
>>180

3世紀末で57.5m

182 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:08:10.81 .net
裴世清を迎賓した秦王国は、東四国のさぬき市難波郷津田。   @阿波

183 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:08:11.87 .net
宇佐には神武が都を作ろうとしたと言う伝説の米神山がある

184 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:11:55.52 .net
>>181
秦氏とは関係のない宇佐氏の古墳だよ、宇佐氏は藤原氏の祖

185 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:13:01.45 .net
>>167
大阪湾の最奥は琵琶湖

186 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:21.66 .net
神武天皇は筑紫城から大和に都を移し天皇と呼ぶようになった
天皇と呼び始めたのは7世紀頃
まあ筑紫城なんて無いし神武も居ないんだけど
開皇二十年(AC600年)俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕
AC600年の號は阿輩雞彌=大王
つまり神武東征はこれ以降のはなし
伊勢神宮の創建年とも合致して辻褄が合う 

187 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:23.86 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

簡単な話だ。
内陸の伊都国(直方)へ立ち寄らなければいけないからさ。   @阿波

188 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:15:44.37 .net
倭国大乱後の倭国の強い中華志向
(NHK、ないしNHKにそれを言わせた橿考研か歴博か)と
秦王国出身と異伝に言わせる神武の出自は
結びつけても良さそうだな。
あくまで古代にもそう思う者がいたということだが

>>185
小比叡のことを失念しておりました
補足感謝

189 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:19:36.47 .net
伊都国に立ち寄らなきゃいけないってのはその通りだろうが問題は伊都国の場所だな

190 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:25:25.38 .net
>>187
多少無理のある解釈だな
皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
これおそらく船上で受け渡しをしている

191 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:27:28.10 .net
>>186

AC600年って、交流電源のことか?

192 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:29:39.99 .net
>>189
だから、伊都国が海沿いにあれば、陸行なんてしない。   @阿波

193 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:30:03.71 .net
魏の皇帝からの賜物をなくしたなんてあり得ない
責任者は切腹ものだ

194 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:30:18.87 .net
唐津といわれて、菜畑遺跡の残る場所だから
末盧が外洋船の第一選択なのは確か
那津がまるで役に立ってないのは気になるが
郡使は伊都国から不弥国を眺めたに過ぎず
そこから瀬戸内海に出るのにかなりの陸行を要する
ことに気づいていないように見える

195 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:31:36.54 .net
直方までは余裕で船で行ける

196 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:32:51.96 .net
>>190
皆臨津(津へ臨む)

「末盧国」=福津市(万津浦)辺りへ出向いて検閲した。   @阿波

197 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:34:44.97 .net
>>195
行けるのは、アホのお前だけ。   @阿波

198 ::2024/05/12(日) 14:37:24.99 .net
>>138
元から神社があった場所だよ

二の御殿(比売大神)は731年の神託を受け733年に遷宮により造営されている(『八幡宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』)。
二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。
また『弥勒寺建立縁起』(844年作)も、比売大神は応神天皇より以前から亀山に鎮座していたと記録する(太田静六「宇佐宮本殿形式の成立問題―八幡造の祖形と源流」。
九州歴史資料館編『大宰府古文化論叢』下巻、吉川弘文館1988年に掲載)。

199 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:37:25.96 .net
>>194
>郡使は伊都国から不弥国を眺めたに過ぎず

「奴国」は眺めないのか?   @阿波

200 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:43:22.49 .net
>>199
伊都から近い順に奴国そして不弥国と書いてある
奴国は二万戸という極めて大きな国とした上で
百里しか離れていない不弥国は別にしてある

201 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:56:40.91 .net
>>200
>百里しか離れていない不弥国

伊都国がら「不弥国」は二百里だが?   @阿波

202 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:59:41.01 .net
>>198

「二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、
伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。」

という箇所は鷲崎の主張だろ

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kodaisinoumi1.html

203 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 14:59:52.62 .net
>>200
>百里しか離れていない不弥国は別にしてある

別にしていない。
順番に「奴国」の次として書いているだけ。   @阿波

204 ::2024/05/12(日) 14:59:59.44 .net
1里80メートルなら16キロ

205 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:00:59.70 .net
>>201
その通りだが、奴国二万戸という大きさに
同化することなく不弥国がその東側に位置する
伊都国からの位置関係からして、
伊都国奴国不弥国の三国は隣り合いながら繋がっていて
なおかつ区別されている

206 ::2024/05/12(日) 15:01:30.43 .net
纒向は突如できたというのは理解に苦しむ
寺澤や久住は、「伊都国王家」という一言で纒向の地に九州人や吉備人が建設を許されたかのように言っているが、そんなわけはなかろう
だいたい、九州系土器は久住がかけらを1個見つけただけだろう

207 ::2024/05/12(日) 15:03:18.99 .net
>>202
ソースがある
『八幡宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』
『弥勒寺建立縁起』(844年作)
から勝手に主張してる訳じゃないだろ

208 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:04:48.04 .net
>>205
>伊都国奴国不弥国の三国は隣り合いながら繋がっていて
なおかつ区別されている

「魏志倭人伝」通りだが、何が言いたい?   @阿波

209 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:05:48.47 .net
纏向と九州は人的交流がほぼ無いのに文化だけ影響してるんだよな
九州の一部勢力だけが纏向政権に参加して九州主要勢力はほぼ無関係だったのかもしれん

210 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:06:03.59 .net
>>208
いや何も言うことはない
私の言葉不足を突っ込まれたので
それを補足しただけだな

211 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:07:16.64 .net
>>209
>纏向と九州は人的交流がほぼ無いのに文化だけ影響してるんだよな

そりゃ、当り前。 倭人(阿波勢力)の影響なんだから。   @阿波

212 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:14:40.23 .net
>>207

二の御殿(比売大神)は731年の神託を受け733年に遷宮により造営されている(『八幡宇佐宮御託宣集』、『八幡宇佐宮縁起』)。

【この733年の遷宮をもって二の御殿は一の御殿(725年建立。応神天皇)より成立が遅いと理解する向きも多いが、】

「それは誤り。遷都と遷宮は意味が異なる。遷都は都の地理的移動を示す。
しかし、遷宮は同じ場所での建て替えである(伊勢神宮の遷宮と同じ)。
従って、二の御殿の社殿は725年以前から存在し一の御殿より成立は早く、
伝承通り比売大神は太古より宇佐亀山に鎮座されていた。」

【】の部分はお前がまずいと思って>>198で削除した部分で
「」の部分は鷲崎の主張だろ

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kodaisinoumi1.html

213 ::2024/05/12(日) 15:15:24.94 .net
久住に、「北部九州の方が畿内より上であったというのはおかしいのでは?それなら画文帯神獣鏡が九州で出るべきでは?」という質問を投げかけたが、肩透かしされ
「九州の豪族は畿内にほとんど画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡を取られ悔しくなかったんでしようか?」という質問には、
「方格T字鏡とか方格規矩鏡とか位至三公鏡とかが出るから寂しくない」と
それ、魏晋の皇帝が下賜した銅鏡じゃなくて、その辺の市中にあった銅鏡でしょうと反論したが、はぐらかされて終わったな

214 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:16:35.58 .net
弥生時代に神社など存在しない

215 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:16:41.92 .net
魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
https://n-story.jp/site/wp-content/themes/n-story2023/assets/images/old/topic/03/img/zu_joumon.gif
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20200404/20200404162242.png
水銀と翡翠の産出地に近い所が邪馬台国

216 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:19:45.39 .net
筑前に庄内式が広がるのは卑弥呼共立の結果であって 時系列上そこまで畿内の進出がありながらそこから
九州勢の東征からの大乱→共立はまず考えにくい
筑前で出る庄内式の一番古いものがいつごろなのか
それがAD180年頃に近いのかどうか

九州説からすれば近畿の土器は支配の証ではないが
九州勢が近畿を制したからこそ
交易の回路が開いたとも言える
九州が欲したのは近畿の蓄える食糧だったはずだし
それが東征の動機なのだから
モノが近畿の甕に入ってもたらされたのはむしろ当然

にも関わらず纏向の交流は奈良盆地の傾向からみたら
唐子・鍵の時代から大きく変わっていない
どのようにして銅鐸を破棄したのかに尽きる

217 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:25:08.83 .net
>>215
翡翠は、蛇紋岩の鉱脈にある。

かつて、川田川の河原でも翡翠があったようだ。
四国山地は「緑色片岩」や「紅簾片岩」「蛇紋岩」の産出地。 当然、翡翠も採れたことだろう。   @阿波

218 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:33:24.34 .net
ついでに、「高越銅山」も四国山地。   @阿波

219 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:34:12.10 .net
九州勢ではなくて、
3世紀前半に畿内と密接な関係なのは博多を中心とした福岡平野だけ
他は関係ない

220 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:40:54.78 .net
>>219
>3世紀前半に畿内と密接な関係なのは博多を中心とした福岡平野だけ

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い福岡平野がか?  @阿波

221 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:44:18.91 .net
>>215
滋賀だな

222 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:45:46.17 .net
福岡にその台詞はさすがに天に唾だわ
太宰府と春日市に前ニ世紀から前一世紀の
鍛治鉄遺構があるのをお忘れなく

それと肩を並べたのは唯一丹後のみ

223 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:46:19.53 .net
博多なんて倭国最大の交易都市なんだから列島中から交易希望の倭種が集まってきてただろう

224 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:48:26.40 .net
>>222
>太宰府と春日市に前ニ世紀から前一世紀

なんという遺跡?   @阿波

225 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:49:42.42 .net
>>222
>太宰府と春日市に前ニ世紀から前一世紀

なんという廃絶遺跡?   @阿波

226 ::2024/05/12(日) 15:50:04.26 .net
>>212
伊勢神宮は全く同じ場所に建て替えるんじゃないよ
2ヵ所を行ったり来たりしてるから移動してる
それに亀山は宇佐神宮の裏山だから遷宮斗言っても建て替えに近い

227 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:50:14.68 .net
>>224
赤井手遺跡(春日市)と吉ヶ浦遺跡(太宰府市)

228 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:52:53.56 .net
>>223

中継交易都市博多は九州から買うものがない

229 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:55:28.87 .net
物が集まってたのは壱岐だろう

230 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:56:46.03 .net
>>227
吉ヶ浦遺跡(太宰府市)の「鍛冶炉遺構」ソースは?   @阿波

231 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:57:23.43 .net
離島は貧しい

232 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:02:04.09 .net
>>230
前に図面を貼ったことはあるがその出典はここ
個人のサイトなので無断で貼るのは憚られるが
矢野遺跡にも言及があるよ

ttps://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2022-04-04

233 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:06:12.88 .net
>>232
それに吉ヶ浦遺跡(太宰府市)の「鍛冶炉遺構」について書いているか?   @阿波

234 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:07:56.48 .net
>>233
遺跡の詳細については無いよ
吉ヶ浦遺跡の調査報告書はあるようだが
それはおれもまだ読んでない
まあ吉ヶ浦前ニ世紀が嘘というわけもあるまい

235 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:09:16.08 .net
だから福岡平野は、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無いと言われてしまう。   @阿波

236 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:16:44.48 .net
鉄器も青銅器もこれと同じくらいに来てるんよ
吉武高木遺跡はそのころの列島初の王墓※で
中にある青銅器は内地製ではない
九州は地の利からか青銅器ほか鉄器もさかんに生産し
九州を除く西日本では青銅器のみが生産の中心になる

銅鐸は特に東シナ海の越国のものが元になると言われる
原料は大陸のものだから近畿が
大陸と没交渉なことは決してない
ただ鉄器が出ないだけ

237 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:19:29.88 .net
>>234

弥生時代中期末以来、須玖岡本周辺で、
レベルの高い鉄器生産が行われた可能性があり(鉄戈や剣類の製作など)、
それに関連する工房遺跡があるが(赤井手、仁王手、須玖唐梨)、
大規模で集約的な生産ではなかった。
しかし、UA期に始まる博多遺跡群での鍛冶は生産規模(工房範囲)が大きく(久住 2007、比佐陽一郎 2010、次山淳 2015)、
さらには断面蒲鉾形羽口を用いて原料鉄の精錬鍛冶も行ない、
その推定生産量から古墳前期の各地鍛冶遺跡は
「博多遺跡群経由の鉄素材への依存度も高かった」と評価される(村上恭通 2000)。

238 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:25:11.68 .net
>>237
本職あり

239 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:28:21.99 .net
>>237
やはり始めはなんでも手探りで
古墳期より前の鍛治鉄は下手したら
九州以外のほうが上手だったのかな
この感じだと五斗長垣内のほうが大きそうな

240 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:42:39.98 .net
五斗長垣内遺跡なんかも九州と交易してただろうな

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