2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

354 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:31:26.67 .net
>>351
阿波の役人ではないだろうけど、そのようなことと思う

355 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:31:55.00 .net
>>350
宋書で倭王武の先祖が東西に121国平定したのち
隋書では畿内ヤマトが強大になってるな

そして旧唐書では倭人いわく日本は元小国倭の地を併せたりという

356 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:32:37.88 .net
>>353
>寒村「畿内」は大袈裟すぎですよ。

他になんと言えばいいんだ?  巨大墓地ならいいのか?  わははははは   @阿波

357 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:32:38.62 .net
>>351
そうですよね、よってヤマトという地名がどこにも残ってない阿波は自動的に除外です。

358 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:34:08.77 .net
>>354
>阿波の役人ではないだろうけど

「阿波」しかない。

7世紀中頃に習字をしていたのは、「阿波」だけだから。   @阿波

359 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:34:32.57 .net
>>352
繰り返す。
その「基本」が基本たり得ることの検証は済んでいるのか、と。

360 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:36:12.35 .net
>>359
だから検証するんだよ

361 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:36:14.46 .net
>>357
ヤマトという地名が残っているのは、8世紀以降の後付け地名だな。   @阿波

362 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:37:26.90 .net
>>360
何を以て?
>>347を再読されたい。
 

363 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:37:43.53 .net
>>358
7世紀に漢字の読みを理解していた阿波人が阿波の地名をヤマトと呼んでない。
つまり阿波はヤマトではないということです。

364 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:38:44.48 .net
>>362
比較じゃない検証とはどういう方法があるの?

365 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:39:58.69 .net
後漢書 使訳を通じるのは30余国
魏志  使訳を通じるのは30国

宋書 倭王武の先祖が東西に121国平定した

隋書 クニは120人いる。中国で言う牧宰(国司)のようなものだ

旧唐書 日本は元小国、倭の地を併せたり

366 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:40:07.02 .net
>>363
>7世紀に漢字の読みを理解していた阿波人が阿波の地名をヤマトと呼んでない。

全国にヤマトと呼ぶ地名が散見されるが、それはなんでだ?   @阿波

367 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:43:18.42 .net
>>366
個別に事情があるんでしょ、調べてみれば。

368 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 21:43:57.47 .net
中華史は各々批判されとる
陳寿は卑弥呼の時代に近く出身地も鬼道とは近い
嘘つきなら嘘つきと非難され改修をし直すものも居るだろ
日本の良くないところは我が国の史料を誤魔化しながら他を批判する
まず自らの国史に厳しい目を向けることだよ。
神武より前筑紫城23代。
神武詔勅「兼六合以開都…」何処だね?

369 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:45:09.42 .net
阿波説は特殊な人達

370 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:45:23.08 .net
>>367
>調べてみれば。

お前に聞いているんだよ。 「つまり阿波はヤマトではないということです」と言い切ったんだろうがよ。

全国にヤマトと呼ぶ地名が散見されるが、それはなんでだ?   @阿波

371 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:46:43.88 .net
参考までに、神奈川県の大和市は以下のような理由です。

「大和」の名前は、明治時代に4つの村が合併してできた「鶴見村」で分村危機が起きた際、当時の県知事が「大きく和する」の意味を込め、新しい村名を「大和」村に改称したことが由来とされている。

372 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:48:05.32 .net
>>371
だから、ヤマトという地名が残っているのは、8世紀以降の後付け地名 だと、何度言えばww   @阿波

373 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:48:43.60 .net
ヤマトなんてのは山の入り口でミナトと同じで何処にでもあったんだよ

374 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:50:17.50 .net
>>371
ちなみに、奈良は大和であって、倭ではない。 倭の付く物証があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

375 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:50:58.51 .net
>>374
>>350

376 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:51:58.46 .net
>>373
どこにでもある訳ではないでしょ、
現実に徳島県には徳島市大和町以外「ヤマト」は残ってないと思われます。

377 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:52:06.83 .net
>>368
記紀は藤原氏のファミリーストーリーだよ、聖武天皇の母親も皇后も藤原不比等の子供だよ。藤原氏の祖は宇佐津媛。

378 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:52:45.98 .net
>>364
発想が逆なのだよ。
考古学の物理的成果を以て「正」即ち較正器とする。
後世編纂/多重伝聞/外国語の産物でしかない『魏志~』の記述のうち上記の較正器に有意の近似を示す記事のみを「真」としてそれ以外を「偽」とする。
その結果不明なことはあくまでも不明として安易な憶測を語らない。
それが実事求是の科学的思考と云うものだ。
 
「邪馬台国の所在」?
そもそも邪馬台国なるものが実在したか否かの物理的証明などされていないし、また今後にわたって証明しようもなかろう。
ましてやその所在など語るも愚かしい。
である以上、それは不明とし続けるのが正しい学問的態度だ。
 

379 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:53:07.77 .net
>>376
太古の昔山の入り口なんか何処にでもあったでしょ

380 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:55:28.89 .net
>>378
何言ってるかわかんねえわ
おまえはじゃあなんでこのスレに居るんだ?

381 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:56:33.97 .net
>>376
お前、
>>357 「よってヤマトという地名がどこにも残ってない阿波は自動的に除外です。」

は、どう始末つけるつもりだ?   @阿波

382 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 21:59:45.03 .net
奈良は大和であって、倭ではない。 倭の付く物証があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

383 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/12(日) 21:59:51.65 .net
>>379
何処にでもある山の入り口がヤマトと呼ばれたのであれば、
阿波にヤマトの地名が一つぐらい残っていても良さそうなものですが、
現実にはそうでは無く、阿波にヤマトという地名は残っていません。

明らかに後付けの徳島市大和町があるぐらいなんです。

384 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:00:45.88 .net
>>380
> 何言ってるかわかんねえわ
 
結局は論理的思考に堪えない文系脳の限界か…。
 
> おまえはじゃあなんでこのスレに居るんだ?
 
茶番の愚かしさを憫笑する為だ。
 

385 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:01:03.88 .net
>>346
>日本書紀の「倭」は漢字が入ってから使われてる。

だから、7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。   @阿波

386 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:03:37.77 .net
>>383
>阿波にヤマトという地名は残っていません。

これは地名じゃないのか?  「徳島市大和町」   @阿波

387 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:03:45.26 .net
>>384
そうかね?
比較をするってのは少しはましだと思うがな

388 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:05:57.94 .net
ヤマトが大和だから違うってのは言い切れない
元々ヤマトと呼んでたところにどの文字をあてるかだから

389 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:08:11.54 .net
>>388
倭の付く物証があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

390 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:10:06.47 .net
>>389
倭(ワ)は中国語だから

391 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:10:41.49 .net
>>388
>元々ヤマトと呼んでたところにどの文字をあてるかだから

「倭」は「魏志倭人伝」から有る。 奈良が倭なら、大和ではなく「倭」とつけるはず。

倭の付く物証があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

392 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:10:48.59 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである






.

393 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:11:24.69 .net
>>391
中国人の書物でしょ

394 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:11:51.21 .net
>>390
>倭(ワ)は中国語だから

だから、7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。   @阿波

395 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:12:51.00 .net
>>393
>中国人の書物でしょ

だから、7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう。   @阿波

396 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:14:34.92 .net
>>394
違うね
元々日本語はヤマトだ
それに中国語でヤマトを意味する言葉倭(ワ)をあてた

397 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:17:19.93 .net
やまとは原住民の言葉だろうな

398 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:18:33.16 .net
>>396
>元々日本語はヤマトだ

違うね。
朝鮮半島からの脱出避難文化人が来るまで、日本人には倭国とか日本国とかの国号という概念がなかった。  
日本国名や国号の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭国(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになって、国号の必要性に迫られたんだろう。   @阿波

399 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:19:58.92 .net
>>398
「邪馬臺」や「邪馬堆」は日本語だぞ

400 :琪瑛教大祭酒 ころころ:2024/05/12(日) 22:20:44.61 .net
>>378.探求を拒否する者の正しい態度であるな。
ここでは必要のない考え
信仰が厚い方か悪い人。

401 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:21:11.04 .net
>>399
中国の文献にあるんじゃないのか?   @阿波

402 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:23:50.96 .net
>>398.先生、倭王武の上奏があるから7世紀以降はないんでないの。と板野さんに言って欲しい

403 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:23:57.50 .net
卑弥呼はヤマトの王でそう言ってるんだよ
女王国なんて国名は無いし倭国は中国語だし

404 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:24:02.16 .net
>>398.先生、倭王武の上奏があるから7世紀以降はないんでないの。と板野さんに言って欲しい。

405 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:25:59.56 .net
>>401
なんでよ?
倭王の王宮のある場所が邪馬臺なんだろうが

406 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:28:52.98 .net
>>404
倭王武の上奏文に、日本の国号が出てくるか?   @阿波

407 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:29:51.91 .net
でも自己紹介位するでしょ

408 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:30:57.14 .net
>>405
なんでそれが日本語と関係するんだ? アホか! 意味分からん。   @阿波

409 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:31:57.56 .net
>>408
どう考えても日本の地名でしょ

410 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:32:15.26 .net
>>407
ワイの国とでも言ったんじゃないのか?  わははははは   @阿波

411 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:33:06.34 .net
>>409
だから、7世紀になって漢字を読み書き出来るようになった倭国(阿波)の役人が、
中国の文献にある「邪馬臺」「邪馬堆」をヤマトと読み、
同じく「倭」もヤマトと呼び習わしたのだろう と、何度言えばww   @阿波

412 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/05/12(日) 22:33:44.58 .net
纏向は突然できたで正しい
この都は征服王権による新首都であって九州からやってきた王族に吉備出自の家臣たちがくっついて支配階級を構成していた
磯城の唐子鍵の民は元は銅鐸文化人であったが征服者に迎合して銅鐸破壊の仕事をしていた

記紀の伝説では磯城の族長の弟師木は神武の東征軍に降伏して彼らの下僕になっている
ネトウヨが妄想するような紀元前660年に日本建国があったのは馬鹿げ話である
ヤマト王権の成立は西暦180年頃であり、卑弥呼の即位と同時期であり纏向遺跡の構築が始まった時なのである

413 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:35:15.31 .net
>>410..「それでは倭王武とは残さない」と板野さんに言われますよ

414 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:36:23.17 .net
>>411
おまえの考えてる事がわからない
邪馬臺は確かに中国人の書物に出て来るんだけど日本人がヤマトの王だと言ったから
邪馬臺になったんでしょ?
つまり邪馬臺は日本語だよ

415 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:36:37.11 .net
阿波はこうでなくてはなw

416 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:37:38.79 .net
>>413
>.「それでは倭王武とは残さない」

中国人が勝手にそう記録しただけのこと。 日本人の知ったことじゃない。   @阿波

417 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:42:31.24 .net
>>387
何の為に比較をするのかと云う目的設定も比較の結論をどう着地させるのかと云うアウトプット設定も曖昧なままただ比較した所で、
「似てますね」「違ってますね」と云う小学生未満の評価しかできない。
真偽の評価を行う為には比較対象の何れを「正」とするのか、
それが「正」であるとの検証は成されているのか、が問われる。
 

418 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:45:16.98 .net
>>417
それ全部含めて比較するんだよ
不完全でもやらないよりましだよ

419 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:48:41.80 .net
>>417.畿内に突如北枕が現れたのは間違い無いことなんですよ。これはそれまでの半島、列島に無い物なんだな。
邪馬台国を空想としても
無駄な議論です。
八世紀八角墳墓政権とは別物です。

420 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:56:16.47 .net
>>320
それはおかしい
魏志倭人伝の信憑性を否定するなら邪馬台国論争自体が無意味だろw

421 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:57:10.68 .net
魏志倭人伝の信憑性を否定するなら邪馬台国論争に参加する資格無いよ

422 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:00:16.78 .net
>>420
疑いはするよ
だから検証するんだし
ただ卑弥呼は居ないとか邪馬台国はなかったとか根底の話しじゃないけど

423 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:04:35.68 .net
>>422
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』の場所を比定するのに魏志倭人伝から離れた願望をねじ込むのは
学問ではない

424 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:06:30.89 .net
チェリーピッキングだよな
畿内説に有利な魏志倭人伝の記述は採用し
畿内説に不利な魏志倭人伝の記述は信憑性が低いと排除する

邪馬台国は畿内にあった

という結論に合わせてチェリーピッキングする
それが畿内説

425 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:09:51.95 .net
>>424
そうだという証拠なし
九州説は常に証拠なし

426 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:10:58.40 .net
>>425

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

427 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:11:26.94 .net
>>425

> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ

428 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:12:10.20 .net
>>423
邪馬台国が書かれてるのは魏志倭人伝だけじゃないし
なにより重要なのは遺跡の発見
これらに依って検証はできる
例えば邪馬壹と邪馬臺はどちらが正しいか?
邪馬壹と書いてるのは魏志だけだし隋書で
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也だから
この時代の魏志には邪馬臺と書いてあって後に誤写があったと想像できる

429 ::2024/05/12(日) 23:16:40.02 .net
>>428
卑弥呼と同時代の遺跡が幾つもあるなら遺跡以外の出土品が邪馬台国比定の鍵だろう

430 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:24:57.87 .net
>>420
その通り。無意味だ。
>>378後段参照。

431 ::2024/05/12(日) 23:33:15.33 .net
>>430
お前なんでこのスレにいるんだよw

432 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:33:26.56 .net
>>419
北枕なる文化を有する権力体が、
或いは有さない権力体が、
「邪馬台国である」ことの証明は如何なる方法を以てするのか。

仮に「親魏倭王」印が出土した所でいくらか蓋然性を増すに過ぎない。
「漢委奴国王」印を巡る議論くらいご存知だろう。
証明と云う行為を舐めてはいけない。
それは「反証可能性をゼロならしむること」だ。
古代史学に許された方法でそれが可能かな?
 

433 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:34:06.88 .net
>>431
>>384後段参照。

434 ::2024/05/12(日) 23:39:05.25 .net
>>433
なんだ空気読めないクズかw
現実に漢の時代や魏の時代や西晋の時代の鏡や
中国産の朱や鉄器等が多数出土してるんだから
中国との交易があったのはファクト
中国側の歴史書の記述を裏付ける漢委奴国王印も見付かってる
頭良い振りした馬鹿だよ君は

435 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:43:13.95 .net
>>434
>>378参照。

436 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:44:14.91 .net
まあ俺も日本がいつ始まったかが重要で卑弥呼は居ないなら居ないで別に良いんだけどさ
ただ居ない事を証明するのは難しいし居た前提で話をしてる

437 ::2024/05/12(日) 23:45:26.66 .net
>>435
答えになってない

438 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 23:45:33.80 .net
>>432.探求を拒否する者には必要のない話だろ
ひとつは卑弥呼は鬼道。中華の理解するであろう鬼道の痕跡の或地であろうが。
吾輩は八世紀以降を否定しないがそれ以前は探求を拒否する者等と考えを異にする者だと言うことだね。
藤原のファミリーストーリーとも考えてはいないが現在の上の者等の告知とも云える天皇制からも無駄だよと答えているつもりだ。
現在の理念はこの卑弥呼の時代はまだ半島だな。

439 ::2024/05/12(日) 23:49:24.53 .net
弥生時代に大陸と交易があったのはファクト
漢委奴国王印を贈ったという大陸の記録と
実際に見付かった漢委奴国王印
真贋論争のあった漢委奴国王印だが俺が見た最新の記事では本物らしいという結論だった
文献と、文献を裏付ける記述が揃っているのだから
中国側の資料の信憑性がある程度は担保されてる

440 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:51:50.70 .net
>>439
真贋もそうだしあの場所も怪しいわな
何もない所から金印一個だけ何故出るのか?

441 ::2024/05/12(日) 23:58:35.58 .net
>>440
「漢委奴国王」金印は、天明4年(1784)に志賀島(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見された。

2人持ほどの石の下
2人掛かりで持ち上げなければならない石の下なら隠されたんだろうな
石が目印

442 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:00:22.16 .net
>>426
>なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

賞味期限切れのオワコン情報使っても無駄
研究が進んだら意見変えてるから

443 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:02:40.46 .net
妄想畿内説、妄想阿波説、どちらも一重瞼の朝鮮系関西人が
考えそうな事

444 ::2024/05/13(月) 00:06:02.67 .net
>>442
畿内説はその資料は古いからというけど
絶対に最新の資料出さないよねwww

445 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:08:37.50 .net
>>437
論理に詰まった者の常套句だな。

446 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:10:46.05 .net
>>445
紀元前から日本と大陸に交易があったのは認めるよな

447 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:15:25.67 .net
>>445
魏志倭人伝に書かれた道里は現実の日本の場所に比定出来る場所がある
対馬や壱岐島末盧国伊都国奴国までは
畿内説の学者も比定してる
不弥国辺りから議論が起きるが。
つまり魏志倭人伝に書かれてることが1から10まで全部作り話というのは
この時点で否定されてる

448 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:22:50.90 .net
>>439
文系脳にありがちな詭弁。
或る文献に記事A、B、C、D、E、…が記載される時、
Aが真であることはB以下の信憑性を全く担保しない。
それらは個別に検証されなければならない。
特に「中国の史書に記された倭に関する伝聞記事」などは書誌的な信憑性を完全に欠く以上、
なおのこと個別実証が不可欠となる。

449 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:24:36.00 .net
>>447
>>448参照。

450 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:25:20.95 .net
>>448
文献とそれを裏付ける証拠(出土品等)があれば
それは高確率で真実だろう

451 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:27:09.87 .net
文献単品の信憑性を確認する方法が
文献の記述を証明する出土品や遺跡の存在

452 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:29:47.05 .net
>>446
「交易または交流」と読み替えるならば、それには物証がある。
即ち文献に拠らず即物的に実証される。
小生がそれを否定したことは一度も無いが?

453 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:31:33.66 .net
sでにこれまでも何千何万回言われているが畿内からは鉄製品は
殆ど出土していない倭人伝に記載している事とかけ離れすぎ
卑弥呼が暮らしていた楼観城柵がある建築物の出土も無い
纏向は1万%邪馬台国では無いと断言できる

454 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:32:04.82 .net
>>444
出てますが?
卑弥呼の時代に九州から絹、どれほど出てる?

総レス数 1001
393 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200