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邪馬台国畿内説 Part1022
- 418 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:45:16.98 .net
- >>417
それ全部含めて比較するんだよ
不完全でもやらないよりましだよ
- 419 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 22:48:41.80 .net
- >>417.畿内に突如北枕が現れたのは間違い無いことなんですよ。これはそれまでの半島、列島に無い物なんだな。
邪馬台国を空想としても
無駄な議論です。
八世紀八角墳墓政権とは別物です。
- 420 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:56:16.47 .net
- >>320
それはおかしい
魏志倭人伝の信憑性を否定するなら邪馬台国論争自体が無意味だろw
- 421 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 22:57:10.68 .net
- 魏志倭人伝の信憑性を否定するなら邪馬台国論争に参加する資格無いよ
- 422 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:00:16.78 .net
- >>420
疑いはするよ
だから検証するんだし
ただ卑弥呼は居ないとか邪馬台国はなかったとか根底の話しじゃないけど
- 423 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:04:35.68 .net
- >>422
『魏志倭人伝に書かれた邪馬台国』の場所を比定するのに魏志倭人伝から離れた願望をねじ込むのは
学問ではない
- 424 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:06:30.89 .net
- チェリーピッキングだよな
畿内説に有利な魏志倭人伝の記述は採用し
畿内説に不利な魏志倭人伝の記述は信憑性が低いと排除する
邪馬台国は畿内にあった
という結論に合わせてチェリーピッキングする
それが畿内説
- 425 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:09:51.95 .net
- >>424
そうだという証拠なし
九州説は常に証拠なし
- 426 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:10:58.40 .net
- >>425
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
- 427 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:11:26.94 .net
- >>425
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ
- 428 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:12:10.20 .net
- >>423
邪馬台国が書かれてるのは魏志倭人伝だけじゃないし
なにより重要なのは遺跡の発見
これらに依って検証はできる
例えば邪馬壹と邪馬臺はどちらが正しいか?
邪馬壹と書いてるのは魏志だけだし隋書で
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也だから
この時代の魏志には邪馬臺と書いてあって後に誤写があったと想像できる
- 429 ::2024/05/12(日) 23:16:40.02 .net
- >>428
卑弥呼と同時代の遺跡が幾つもあるなら遺跡以外の出土品が邪馬台国比定の鍵だろう
- 430 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:24:57.87 .net
- >>420
その通り。無意味だ。
>>378後段参照。
- 431 ::2024/05/12(日) 23:33:15.33 .net
- >>430
お前なんでこのスレにいるんだよw
- 432 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:33:26.56 .net
- >>419
北枕なる文化を有する権力体が、
或いは有さない権力体が、
「邪馬台国である」ことの証明は如何なる方法を以てするのか。
仮に「親魏倭王」印が出土した所でいくらか蓋然性を増すに過ぎない。
「漢委奴国王」印を巡る議論くらいご存知だろう。
証明と云う行為を舐めてはいけない。
それは「反証可能性をゼロならしむること」だ。
古代史学に許された方法でそれが可能かな?
- 433 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:34:06.88 .net
- >>431
>>384後段参照。
- 434 ::2024/05/12(日) 23:39:05.25 .net
- >>433
なんだ空気読めないクズかw
現実に漢の時代や魏の時代や西晋の時代の鏡や
中国産の朱や鉄器等が多数出土してるんだから
中国との交易があったのはファクト
中国側の歴史書の記述を裏付ける漢委奴国王印も見付かってる
頭良い振りした馬鹿だよ君は
- 435 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:43:13.95 .net
- >>434
>>378参照。
- 436 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:44:14.91 .net
- まあ俺も日本がいつ始まったかが重要で卑弥呼は居ないなら居ないで別に良いんだけどさ
ただ居ない事を証明するのは難しいし居た前提で話をしてる
- 437 ::2024/05/12(日) 23:45:26.66 .net
- >>435
答えになってない
- 438 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 23:45:33.80 .net
- >>432.探求を拒否する者には必要のない話だろ
ひとつは卑弥呼は鬼道。中華の理解するであろう鬼道の痕跡の或地であろうが。
吾輩は八世紀以降を否定しないがそれ以前は探求を拒否する者等と考えを異にする者だと言うことだね。
藤原のファミリーストーリーとも考えてはいないが現在の上の者等の告知とも云える天皇制からも無駄だよと答えているつもりだ。
現在の理念はこの卑弥呼の時代はまだ半島だな。
- 439 ::2024/05/12(日) 23:49:24.53 .net
- 弥生時代に大陸と交易があったのはファクト
漢委奴国王印を贈ったという大陸の記録と
実際に見付かった漢委奴国王印
真贋論争のあった漢委奴国王印だが俺が見た最新の記事では本物らしいという結論だった
文献と、文献を裏付ける記述が揃っているのだから
中国側の資料の信憑性がある程度は担保されてる
- 440 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:51:50.70 .net
- >>439
真贋もそうだしあの場所も怪しいわな
何もない所から金印一個だけ何故出るのか?
- 441 ::2024/05/12(日) 23:58:35.58 .net
- >>440
「漢委奴国王」金印は、天明4年(1784)に志賀島(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見された。
2人持ほどの石の下
2人掛かりで持ち上げなければならない石の下なら隠されたんだろうな
石が目印
- 442 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:00:22.16 .net
- >>426
>なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
賞味期限切れのオワコン情報使っても無駄
研究が進んだら意見変えてるから
- 443 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:02:40.46 .net
- 妄想畿内説、妄想阿波説、どちらも一重瞼の朝鮮系関西人が
考えそうな事
- 444 ::2024/05/13(月) 00:06:02.67 .net
- >>442
畿内説はその資料は古いからというけど
絶対に最新の資料出さないよねwww
- 445 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:08:37.50 .net
- >>437
論理に詰まった者の常套句だな。
- 446 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:10:46.05 .net
- >>445
紀元前から日本と大陸に交易があったのは認めるよな
- 447 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:15:25.67 .net
- >>445
魏志倭人伝に書かれた道里は現実の日本の場所に比定出来る場所がある
対馬や壱岐島末盧国伊都国奴国までは
畿内説の学者も比定してる
不弥国辺りから議論が起きるが。
つまり魏志倭人伝に書かれてることが1から10まで全部作り話というのは
この時点で否定されてる
- 448 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:22:50.90 .net
- >>439
文系脳にありがちな詭弁。
或る文献に記事A、B、C、D、E、…が記載される時、
Aが真であることはB以下の信憑性を全く担保しない。
それらは個別に検証されなければならない。
特に「中国の史書に記された倭に関する伝聞記事」などは書誌的な信憑性を完全に欠く以上、
なおのこと個別実証が不可欠となる。
- 449 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:24:36.00 .net
- >>447
>>448参照。
- 450 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:25:20.95 .net
- >>448
文献とそれを裏付ける証拠(出土品等)があれば
それは高確率で真実だろう
- 451 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:27:09.87 .net
- 文献単品の信憑性を確認する方法が
文献の記述を証明する出土品や遺跡の存在
- 452 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:29:47.05 .net
- >>446
「交易または交流」と読み替えるならば、それには物証がある。
即ち文献に拠らず即物的に実証される。
小生がそれを否定したことは一度も無いが?
- 453 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:31:33.66 .net
- sでにこれまでも何千何万回言われているが畿内からは鉄製品は
殆ど出土していない倭人伝に記載している事とかけ離れすぎ
卑弥呼が暮らしていた楼観城柵がある建築物の出土も無い
纏向は1万%邪馬台国では無いと断言できる
- 454 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:32:04.82 .net
- >>444
出てますが?
卑弥呼の時代に九州から絹、どれほど出てる?
- 455 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:34:50.40 .net
- >>450
「真実」と云う言葉が軽過ぎる。
確率は確率に過ぎない。
「真実である」とは「それ以外の想定に物理的可能性が皆無であること」を意味する。
ましてや古代史の如く記述と出土品が一対一で対応することの証明さえ成し得ない場合に安直に使うべき言葉ではない。
- 456 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:38:49.90 .net
- >>452
なら大陸側にその記録が文書で残っていてもおかしくないよな
- 457 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 00:39:17.39 .net
- 卑弥呼30国から出てくれば問題無しの物ばかりだな。
肝心要は卑弥呼は鬼道。
大谷は野球。世界で野球の盛んな所を探すのが当然。
九州には朴信仰が中心
居るわきゃあない。
- 458 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:40:09.47 .net
- >>454
>>426に書いてありますよ
『弥生時代の絹』に関しては九州からしか出土してません
- 459 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:42:37.44 .net
- >>456
何某かの文書・記述が存在したとして、
それと物件(出土品等)が確かに対応していることを如何にして証明するのかが問われる。
- 460 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:44:10.75 .net
- >>455
数学じゃないからな
歴史は新証拠一発で定説がひっくり返ることもあるから
真実である『確率が高い』という言い方が最も適当
分からないことは分からないと保留するのは大事だが
邪馬台国なんて無かった、魏志倭人伝は嘘っぱちと決めつけるのは
ベクトルが正反対なだけで科学的態度ではない
- 461 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:45:17.23 .net
- >>458
>『弥生時代の絹』に関しては九州からしか出土してません
その証拠は?
- 462 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:46:26.70 .net
- >>459
鏡の編年は中国の考古学者の研究がある
日本で見付かった鏡を調べればいつの時代の鏡か確認できる
そういう研究の成果だよ
- 463 ::2024/05/13(月) 00:49:11.74 .net
- >>461
他からも見付かってるなら君がソース付きでそれを示すんだよ
九州の絹は
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
が証拠
- 464 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:51:48.40 .net
- >>460
小生の言説を歪曲するのは止めて頂こうか。
「無かった」だの「嘘っぱち」だのと云った覚えは無い。
信憑性が確立されない限りは評価を保留し続けなければならない、
ましてそれを無批判に論拠にするなどは科学的思考ではない、と云っている。
そして「信憑性の確立」とは上述の定規の比喩の如く
「既に別途事実であると確定したモノ/コト」を標準に据えて成されなければならない。
- 465 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:56:20.11 .net
- >>462
混同してはいけない。
それは「その鏡が特定年代に製造された」ことの検証であって、
「その鏡が或る文献に記載された当該物件である」ことの証明にはならない。
鏡にPNやSNが刻んであって文書にも記録されていたりすれば蓋然性は高まるだろうが。
- 466 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:57:21.64 .net
- >>464
評価を保留するなら黙ってROMってるべきだな
みんな
『邪馬台国が実在するなら』という仮定の元で議論してるんだから
評価保留するべきとか的外れ過ぎてちゃんちゃらおかしい
- 467 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:58:41.59 .net
- >>465
国産ではなく中国産なのは明らかなんだから
大陸と交易があったことを証明するのはそれで
充分
- 468 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:59:21.07 .net
- >>466
>>384後段参照。
失礼ながら貴信にも嗤いを禁じ得ない。
- 469 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:59:48.00 .net
- >>468
荒らしだよな
死ね
- 470 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:01:08.80 .net
- 畿内説が否定されるくらいなら
邪馬台国自体無かったことにしたい
- 471 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:02:38.85 .net
- >>467
粗雑だな。
それで充分とするのが文系脳か。
更に云う。
交易と安直に云うが、「易」の字義を理解しているのだろうか?
それを証明することは更に困難を極めるということを認識されたい。
- 472 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:57:06.18 .net
- >>463
>他からも見付かってるなら
そういうレベルの話じゃないんだよ
1989年の論文で「弥生絹ガー」とか言っても通用しないのが理解できないのか?
それは悲しい事だよ
あなたにとって
- 473 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:01:18.53 .net
- 大陸と交易が無かったら銅鐸どうやって作るんだ?
銅は国産か?
- 474 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:05:40.77 .net
- >>473
小生は>>452に於いてわざわざ「交易または交流」と留保を付けた。
「易」の字義と併せてその意味をよくよく吟味されたい。
- 475 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:15:23.63 .net
- 邪馬台国は九州以外てこと?
- 476 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:17:08.42 .net
- 是啊
- 477 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:35:02.38 .net
- 畿内が倭国なら一大率が畿内に無いのは変でしょ
- 478 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:41:05.90 .net
- ゑ
- 479 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:43:31.16 .net
- 難波の鴻臚館は裴世清が来たことを知って慌てて建てているから畿内が中国の使者を向かい入れたのは初めてだったと伺い知れる
- 480 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:44:31.82 .net
- >>477
無いかわからんだろ
一大率が何なのかが謎ではあるけど
四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之
ならたくさん居るよ
- 481 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:02.06 .net
- >>480
時代が違う
- 482 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:09.20 .net
- 中国は邪馬臺が王宮のある場所だと勘違いしてるしずっと同じ場所にあるんだよ
- 483 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:50:02.08 .net
- >>481
役割は同じでしょ
中国の刺史のようなものでも地方検察官だし
- 484 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:51:27.12 .net
- 特級呪物
- 485 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:55:29.59 .net
- >>483
倭人伝に書かれた時代の事を言っているのだが
- 486 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:56:19.44 .net
- 一大率とは書いてるけど諸国の王の事だと思うけどな
隋書の一大率は違うかも知れんけど
- 487 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:57:25.54 .net
- >>485
だから役割は同じだろうが
刺史のようなものと書いてるんだから
- 488 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:00:40.38 .net
- 倭人伝では伊都国だけに一大率は置かれている、その南に女王国がある。畿内は倭国では無いので一大率を置く必要は無い。
- 489 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:04:17.39 .net
- >>488
伊都国について書いてるんであって一大率が一人しか居ないなんて書いてないから
それどころか刺史のようなものと書いてる
政治体制には関心があるはず
- 490 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:12:34.83 .net
- 軍隊を率いてるんだし諸国の王以外あり得んと思うけどな
それなら容易に想像できる
- 491 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:15:09.38 .net
- 一大率の前身を帥升とする説もある
- 492 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:17:31.91 .net
- >>491
帥升は倭国王と書いてんじゃん
なんで根拠もなく歪曲した考え方するかね?
- 493 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:28:58.86 .net
- 港に着いた使者を女王の下に送り届けるまで護衛する
当然賜り物の運搬もする
これで女王国以北を検察するの辻褄が合う
- 494 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:56:22.07 .net
- 帥升
一大率
大宰帥
- 495 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:58:04.17 .net
- 一大率って謎の役職だよな
中国語であれば刺史のようなものなんて書く必要あるのか?
日本語なら「イダル」?
なんと読むかわからんが唐代にもあった役職のはずだが聞いた事がない
- 496 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 04:09:59.57 .net
- 一大率はイタル、つまり目的地だと思う
- 497 ::2024/05/13(月) 05:11:12.06 .net
- 一大国が一支(壱岐)国なので一大率は一支(壱岐)率の可能性もあるな
役職名が「一大率」なのか一人の「大率」なのか「一支率」なのかはっきりしない
- 498 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:21:30.86 .net
- 一大率 → イチダーシャイ → イトダサイ → 伊都太宰
- 499 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:43:52.03 .net
- >>475
そう
- 500 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:47:33.15 .net
- >>471
じゃた公益無かったというのが君の結論かw
池沼
- 501 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:06:38.32 .net
- 魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
https://n-story.jp/site/wp-content/themes/n-story2023/assets/images/old/topic/03/img/zu_joumon.gif
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20200404/20200404162242.png
九州は翡翠も水銀も端っこの方からチョロっとしか出ない
- 502 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:07:14.93 .net
- >>497
唐書も一大率だから間違いではない
- 503 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:35:26.64 .net
- 平原は甕棺を捨てて割竹形木棺となっている
墓も非常に小さい
鏡の多量副葬は九州ではこれが最後であり、畿内邪馬台国の影響下に入ったと見る
鏡が比較的容易に手に入った北部九州では、墓を大きく作るよりも鏡を副葬する方が簡単だったろう
しかし、これは漢鏡5期までだ
7期からは畿内にコントロールされていたと見られ、変な鏡はちらほら出てくるが画文帯神獣鏡は斜縁神獣鏡は極めて少なく、三角縁神獣鏡は畿内から配布されただけだ
そうすると、平原の鏡は畿内の傘下に入ってしまった北部九州のオウ、最後の畿内に対する抵抗と見ることができるだろう
- 504 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:42:45.74 .net
- >>503
発掘品は出雲や畿内の銅鐸文化を鏡文化が駆逐、制圧したことを示しています
- 505 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:28.47 .net
- これだけだと権力層が上京して
地元に出涸らしだけ残った感じにも取れる
やっぱ畿内甕が出る直前の各地方の国力が知りたい
- 506 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:46.37 .net
- >>504
相互に影響し合っただろう
楯築を見ると本州には鏡の副葬文化はなかった
鉄剣などは副葬していたが
鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう
- 507 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:49:33.87 .net
- つまり九州説はウソ
- 508 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:53:36.87 .net
- >>453
纒向が「女王之所都」である
1万%などと言うほどあなたに知識はないでしょう
考古学者のほとんど全ては纒向が卑弥呼のいた場所だと考えている
- 509 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:54:27.96 .net
- >>506
>鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう
そもそも、北部九州には楯築のような墳丘墓が無い。 北部九州は論外。 @阿波
- 510 ::2024/05/13(月) 06:55:08.05 .net
- 弥生時代の畿内の銅鐸、方形周溝墓の文化が駆逐されて北部九州のような銅鏡、墳丘墓(→古墳)、豪華な副葬品の文化(+特殊器台や桃核など吉備の文化)に置き換わっているのだから、畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう
8世紀の皇室が先祖は九州から吉備を経由して奈良を征服したと書いていることと一致する
- 511 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:39.78 .net
- 九州の玄界灘から二ヵ月進んだ所に卑弥呼は居るのだ
それが九州だと思うやつは頭おかしい
- 512 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:47.79 .net
- >>510
>畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう
アホか! 倭人(阿波勢力)が出張っただけのこと。 @阿波
- 513 ::2024/05/13(月) 06:58:59.62 .net
- 以下、久住猛雄のXより
「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」
「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」
「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」
「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」
「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」
「考古学を学ぶ気がない方に「近隣窮乏化」と言われてもなあ。記紀だけこねくり回している方がそれです。
「西日本共立説」で括ってもいいですが、「自生説」の考古学的根拠が崩れていることぐらいお調べくださいね。たぶん調べないだろうけど。」
- 514 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:01:44.91 .net
- 自生なら銅鐸捨てんわな
- 515 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:03:55.41 .net
- >>511
日にちが正確だと思うやつは頭がおかしい
- 516 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:04:44.87 .net
- >>510
だが、同時に北部九州の雄博多は筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が成立し、在地系甕が駆逐されている
甕棺も駆逐され、纒向石塚型前方後円墳、定型化前方後円墳も受け入れている
画文帯神獣鏡も出ないことから、北部九州が畿内を一方的に征服したとは思われない
- 517 ::2024/05/13(月) 07:06:56.37 .net
- 松木武彦は「古墳とはなにか」で以下のように書く
30年前に主流だった古い畿内自生説のようなヤマト王権による一元的な地方支配など全く想定していない
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
- 518 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:08:17.88 .net
- 畿内説の陸行は1日5キロだしな、
水行1日5キロで30日だと150キロ
九州内で収まる
- 519 ::2024/05/13(月) 07:11:18.20 .net
- >>516
纒向が河内の庄内甕を文化として受け入れたのと同じように、筑前は仲の良い播磨経由で庄内甕を文化として受け入れた
纒向が河内の政治的支配を受けたのではないのと同じように、筑前が播磨や河内の支配を受けたのではない(ましてや同じように庄内甕を受け入れた立場の大和の支配を受けたはずがない)
- 520 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:12:27.49 .net
- その親藩が新羅人の五十迹手(の祖先)なんだから
親玉のシルエットも分かるというものだな
五十にはイとかイカのバリエーションがある
イニエ、イタケル、イサチ、イスズヒメ
イカヒメ、イカガノシコオ、イニシキ
イカタラシ、イオキ、イサキ、ヒコイカツ
(カモノワケ)イカヅチ
- 521 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:13:29.41 .net
- >>513
久住が言ってるのは単に言葉の解釈
松木も出雲のシンポジウムでは「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」と言いながら、吉備のシンポジウムではそのようなことは一切言わなかった
寺澤も初期には「吉備が畿内を征服」と言いながら、後に言い方を変えた(多分関西人に反発されてから)
「日本みんなで仲良くしましょう」というイデオロギーが見え見えである
寺澤も堂々と吉備が畿内を征服したと言えば良い
- 522 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:14:51.37 .net
- >>519
在地甕が駆逐されたから、畿内に征服されたと考える
- 523 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:15:22.29 .net
- 甕文化圏のひとまだ頑張ってるのかw
- 524 ::2024/05/13(月) 07:15:22.51 .net
- 米田俊幸や佐々木憲一は土器の伝播は文化交流であって政治的意味はあまりないとする
以下、佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」より
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』
- 525 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:15:44.52 .net
- 土器は畿内で徴発した奴隷が持ち込んだものだな
- 526 ::2024/05/13(月) 07:16:50.37 .net
- >>522
その理屈ならば奈良盆地は河内の豪族に征服されたことになる
- 527 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:17:56.28 .net
- 銅鐸を捨てて鏡を受け入れた時点で九州から東遷があったのは確実
↑
甕文化圏よりは説得力があるな!
- 528 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:19:28.59 .net
- 九州は墓の高塚化を強要されている
- 529 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:20:55.71 .net
- 畿内は三種の神器を強要されてしまった
- 530 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:21:20.38 .net
- 吉備も銅鐸民なので被征服
安芸の多紀理宮で7年、吉備高島宮で3年ないし8年
吉備で東征終わっても良かったみたいだけど
椎根津彦が現れて気が変わったようだ
- 531 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:31:36.60 .net
- >>506
銅鐸文化な残らず、日本書紀や古事記からも抹消されてる
出雲地方ではまとめて埋めれていたのが発掘されてるから
徐々に廃れたというよりは改宗させられた疑いが濃厚
- 532 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:32:39.09 .net
- 桜井茶臼山の大王を橿考研は「他の追随を許さない圧倒的な王」とか、「邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権」などと表現している
上下関係は存在しない、日本は何でも平等という方がおかしい
仁徳天皇陵を見ても日本全国平等と思うなら、そもそもその人とは価値観が違う
- 533 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:34:43.39 .net
- >>517
一方で、松木は出雲のシンポジウムでは「出雲は前方後円墳を受け入れてなくて独自性を保っている」とか、「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」などと言っている
- 534 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:35:59.85 .net
- まあ蔡英文がどうたらというのはあたおかだけどな
それに新羅人というより秦漢人なのだろう
だから秦王国
- 535 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:37:02.97 .net
- ×秦漢 ⚪︎秦韓
- 536 ::2024/05/13(月) 07:38:01.61 .net
- >>533
吉備はヤマト王権に追随して情けない、ということは他の地域はあまりヤマト王権に追随していないということだ
古い畿内自生説が言うように魏志倭人伝の時代にヤマト王権が西日本を統一していたのなら、ことさら吉備だけをあげつらうことはなかろう
- 537 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:41:09.08 .net
- >>532
3世紀末まで待たなければいけないのだな
- 538 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:43:29.64 .net
- >>537
初期ヤマト王権は弱体と見られていたが、見直しを迫られるとしている
- 539 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:44:14.63 .net
- >>522
畿内にそんな勢力は無い! @阿波
- 540 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:49:30.45 .net
- >>538
3世紀末が初期なんだな
- 541 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:51:48.23 .net
- >>540
ヤマト王権の初期
橿考研は邪馬台国は卑弥呼、それ以降をヤマト王権と見なしている
- 542 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:59:59.85 .net
- つまり畿内説は存在理由がありませんと
- 543 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:01:58.83 .net
- 出涸らし九州説とは違って
畿内説の成り立ちを語ってるんだよな笑
- 544 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:06:32.77 .net
- 考古学者の言葉をいくらコピペしても死んだ九州説は復活しないよ
だってその考古学者たちは畿内説なんだから
- 545 ::2024/05/13(月) 08:11:02.50 .net
- 私の「伊都国東遷説」&「北部九州倭国・畿内ヤマト王権並立説」は寺澤・北條・松木・久住らの主張とは理論的に頗る相性が良い
- 546 ::2024/05/13(月) 08:18:03.18 .net
- 私の伊都国東遷&北部九州倭国・畿内ヤマト王権並立説は以下の通り
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制・横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する勢力)
(続く)
- 547 ::2024/05/13(月) 08:19:01.39 .net
- (続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
- 548 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:19:46.14 .net
- 何かと思ったらヘゲモニーニキか
- 549 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:21:07.97 .net
- あのねえ
伊都国は平原1号のあと、2号→3、4号と続いてるんだよ
東遷してないよ
- 550 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:25:00.65 .net
- >>541
卑弥呼の邪馬臺国から100年後なんだよなあ……
- 551 ::2024/05/13(月) 08:26:47.54 .net
- 伊都国の王族が九州から全ていなくなった訳ではなく残留組もいるだろう
イワレビコも妻子を九州に残して東征した(そして大和で新たな妻子を得た)
- 552 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:28:23.33 .net
- 266年を最後に消息不明になった卑弥呼台与の邪馬臺国
3世紀末には強大な勢力を誇った畿内ヤマト
中国の史書にも記紀にも、元小国だった畿内ヤマトが西征したエピソードが語られている
ここまでわかっててまだ気がつかないふりするのなんなんだろうな
- 553 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:28:27.61 .net
- 平原はお友達で東征本体は豊前や日向(霧島)なんじゃね
九州は王墓と言ってもどんぐりころころ甕棺墓で
インパクト無いのは確かなんだけどね
自生するなら銅鐸は捨てない。これ一択ですわ
- 554 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:29:10.98 .net
- 銅製品の始まりは吉野ヶ里なのか?
古い鋳型があったと最近話題になっていた
出雲で銅製品を大量に集めていた荒神谷遺跡は紀元前後に営みを終える
畿内で銅鐸や銅製品を作っていたのは東奈良遺跡や唐古・鍵遺跡だな
唐古・鍵遺跡のある田原本の伝承
赤い花を咲かす木が生えていたが、地面から黒い蛇が現れて木に絡みついたという
唐古・鍵遺跡にくっつくように清水風遺跡が作られる
- 555 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:38:18.51 .net
- 黒い龍神はトミの一族の伝承と共に今に残っている
トミの一族は体が大きく建築や道具作りに長け農耕を行なっていたが、稲作や金属加工の技術は持っていなかったという
卑弥呼の時代以降銅鐸は消え、銅製品はもっぱら鏡になり、鉄器が主になっていく
畿内で銅鐸など銅製品を作っていた人々は何処に行ったのか?
- 556 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:53:38.83 .net
- 邪馬台国は行程・戸数・地名ぐらいしか情報が無いのに、全部それらを勝手に変更するのが九州説
- 557 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:54:17.85 .net
- 銅製品の製造拠点、唐古・鍵遺跡の地には赤い花を咲かす木が生えていた
赤い花と銅製品の製造は関係あるんじゃないか?
石見神楽の五神などによるとかしこねがそれぞれの支配域の采配をしたという
東は青、北は黒、西は白、南は赤、真ん中が埴安大王
赤の人々は古墳時代初頭、惜しまれつつも南すなわち九州に戻るよう采配されたんじゃなかろうか?
- 558 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:01:10.45 .net
- >>556
行程をめちゃくちゃにしたのは畿内説
戸数は奈良に当てはまらない
地名はヤマダという発音なのにヤマトと言い張る親父ギャグレベル
畿内説デタラメじゃないか
- 559 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:06:27.45 .net
- 卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。
- 560 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:07:33.22 .net
- 卑弥呼より前は畿内では様々な集団が共存していた
銅製品を作る人々、勾玉を作る人々、鉄器を作る人々、稲作民、治水など土木作業に従事する人々、狩猟民、蛸壺などを使う漁師、製塩業
しかし倭国大乱を経て文身の風習のある海人が自分たちだけの国を作る為に卑弥呼を担ぎだした結果、元々共存して暮らしていた様々な集団はばらばらになったんじゃないか
- 561 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:28:47.38 .net
- >>551
>伊都国の王族が九州から全ていなくなった訳ではなく残留組もいるだろう
纒向建設開始は平原1号より前だけど、東遷説の時系列観念ってどうなってるの?
ただのデタラメ?
- 562 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:31:04.68 .net
- >>558
>行程をめちゃくちゃにしたのは畿内説
>戸数は奈良に当てはまらない
>地名はヤマダという発音なのにヤマトと言い張る親父ギャグレベル
ひとつも根拠書いてないけど
ただのデタラメ?
- 563 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:31:09.52 .net
- >>558
九州の何処を水行・陸行一月するの?
九州にはヤマダ国があるの?
水害低湿地の筑紫平野は奈良より人口少ないだろ
- 564 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:51:17.12 .net
- >>563
里数戸数が大きく盛ってあるのに日数は正しいとするのはなぜ?
ヤマダ国の名前から場所を比定する親父ギャグまたやるの?
奈良の人口は何人だったの?
- 565 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:57:01.94 .net
- >>564
>里数戸数が大きく盛ってあるのに日数は正しいとするのはなぜ?
大きく盛ってあると分かってるものは正しいとしないのが当然だろう
疑う理由のないものは疑わない
人として当然だろう
>ヤマダ国の名前から場所を比定する親父ギャグまたやるの?
ただ罵っても反論にならない
>奈良の人口は何人だったの?
関係ない質問は慎め
第三者から、ばかと断定されるぞ
- 566 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:59:46.94 .net
- >>565
レスバしたいだけのゴミだったか……
- 567 : 警備員[Lv.8][苗]:2024/05/13(月) 10:04:55.69 .net
- >>561
それぞれ西暦何年なの?(多少の幅はOK)
それだけ偉そうな言い方をするなら仮説ではなく客観的・実証的に確定した情報で頼む
- 568 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:12:43.35 .net
- 筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
- 569 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:14:25.78 .net
- 纏向建設は倭国大乱よりも前なんだろう?
卑弥呼共立とは関係のない都市だよな
- 570 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:14:30.04 .net
- >>563
纒向に人が定住していた形跡が無い
その南の明日香には朝鮮式建物が多数発見されているが
- 571 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:23:50.77 .net
- >>570
あんたの空想は意味がない
- 572 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:26:49.13 .net
- >>569
>纏向建設は倭国大乱よりも前なんだろう?
このように
いつも理由がないのが九州説
だから亡んだ
- 573 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:28:07.17 .net
- >>568
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
ありません
- 574 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:31:51.43 .net
- >>566
>レスバしたいだけのゴミだったか……
このように
罵るだけになるのは
九州説がまた
最も簡単に論破されちゃった証拠
みじめだな
- 575 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:33:12.60 .net
- >>568
伊都国の南にあると書かれてるのは邪馬嘉国だから捏造やめような
- 576 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:44:32.37 .net
- >>564
都合が良いからです。
- 577 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:06:58.40 .net
- >>564
理由が言えない九州説
だから亡んだ
w
- 578 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:12:20.59 .net
- こうしてみると畿内説は学問未満なのがよくわかるな
呪文のように同じことをぶつぶつ唱えて洗脳が進むカルトの信仰のようなものか
- 579 :ネトウヨ撲滅隊:2024/05/13(月) 11:17:33.98 .net
- ネトウヨって日本保守党とか信奉してそうだよな
そして新型コロナは存在しないと思ってそう
ワクチンは毒とか地球は丸くないとか明治天皇は替え玉とか東日本大震災は人工地震とか、そしてその延長で邪馬台国はヤマイ国とかヤマイチ国とか九州にあるとか言ってそう
- 580 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:18:18.58 .net
- >>578
このように
理由が言えない九州説
反論できない九州説
悪口いうだけの九州説
だから亡んだ
- 581 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:24:40.91 .net
- >>564
何で里数戸数が大きく盛ってあると決めつけるの?
ヤマダ国とか言い出したのはお前だろ
何で邪馬台国は奈良だけだと決めつけるの?
筑紫平野は人口どんだけ?
それに何処を水行・陸行一月すんの?
- 582 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:26:03.24 .net
- >>580
ならば、
理由のある、称賛する反論をどうぞ
- 583 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:28:31.48 .net
- >>581
里数は正しいと思ってるの?
邪馬臺国の後漢時代の発音はヤマダだね
奈良の人口が何人だったのかはっきりさせてよ
それでなぜ日数が正確だと判明したの?その根拠は?
- 584 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:40:45.82 .net
- >>582
>里数は正しいと思ってるの?
どこの誰が?
>邪馬臺国の後漢時代の発音はヤマダだね
理由は?
>奈良の人口が何人だったのかはっきりさせてよ
させる理由は?
>それでなぜ日数が正確だと判明したの?その根拠は?
明確に否定する根拠がなければ暫定的に正しいと見做すのが普通のヒューマンビヘイビア
水行日数は現実と合うので否定する理由がない
陸行日数は史料事実誤認の可能性があるので無碍に否定しない
- 585 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:42:50.09 .net
- >>582
>ならば、
>理由のある、称賛する反論をどうぞ
既にそういう反論をされて九州説は滅びました
- 586 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:47:59.86 .net
- >>575
魏志倭人伝は邪馬壹国だが?
- 587 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:48:16.93 .net
- アタオカカルトの信者さん発狂してるじゃん
- 588 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 11:55:06.83 .net
- 発狂スレだからしょうがない
- 589 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:03:46.41 .net
- 隋時代は邪靡堆、魏志のいうところの邪馬臺
- 590 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:06:57.39 .net
- 邪靡堆とは都である
- 591 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:11:20.86 .net
- 臺とか堆とか嘉とか中国人には聞き取り難いんだろう
- 592 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:12:14.32 .net
- .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
.
- 593 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:14:38.73 .net
- 倭面土もそうかも
- 594 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:16:08.65 .net
- 無惨に負ける九州説
- 595 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:17:32.64 .net
- まあ「面土」は身体中に白粉のごとく赤土塗りたくる倭人の習性を表現した文字だとは思うが
- 596 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:18:45.49 .net
- ヤマトなら邪馬都と書くよな普通
- 597 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:19:50.15 .net
- >>589
それ筆者の想像だから
- 598 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:20:23.81 .net
- >>595
そうかもな
倭面土=倭奴かな?
- 599 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:27:20.15 .net
- >>596
>ヤマトなら邪馬都と書くよな普通
なんで九州説ってまったく理由のない珍説を言い張るの?
だから亡んだ
w
- 600 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:28:01.92 .net
- 邪馬臺と臺与
奴国と倭奴国と匈奴
- 601 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:31:00.64 .net
- つまり畿内説は後世の半島系によるオレオレ詐欺でしたと
- 602 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 12:32:43.56 .net
- >>597
>それ筆者の想像だから
じゃなくて唐代の常識でしょ
- 603 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:05:25.79 .net
- あらゆる発言に理由がない
それが九州説
- 604 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:10:11.06 .net
- これがまさに畿内説の自己紹介w
>603:日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:05:25.79
>あらゆる発言に理由がない
>それが九州説
- 605 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:10:37.89 .net
- 邪馬台国は九州以外てこと?
- 606 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:18:59.15 .net
- 理由なんかいらんよ
ヤマトを邪馬都と書かなかったこととか普通の感性があれば誰だって疑問に思うわな
そんなことの理由とか特に要らんから自由に書いたらいいよ
- 607 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:20:33.81 .net
- 畿内をヤマトと表現した例はあるかな?
- 608 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:28:07.11 .net
- >>606
>理由なんかいらんよ
理由がなければ、それはたわごと
>ヤマトを邪馬都と書かなかったこととか普通の感性があれば誰だって疑問に思うわな
普通の知性があれば誰だって疑問には思わない
当然書かないと皆が知っている
>そんなことの理由とか特に要らんから自由に書いたらいいよ
確実に皆から馬鹿と思われるよ
- 609 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:28:55.82 .net
- >>510
近畿の方形周溝墓は周溝で囲った低墳丘墓
地表よりも上に埋葬施設がある
九州は主に墳丘が明確でない方形区画墓
地表よりも下に埋葬施設がある
- 610 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:35:35.41 .net
- つまり九州説はウソ
- 611 :「!donguri」:2024/05/13(月) 13:41:29.64 .net
- てすと
- 612 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:42:54.37 .net
- 確か万葉集のヤマトではカモメが飛んでたよな
- 613 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:54:29.49 .net
- >>608
ご自由にとしかw
- 614 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 13:54:30.07 .net
- また、ドングリにやられたわ。
日本史ではないが
危険だわ
だが九州にはもう1パーセントの望みすらないよ。
1.は崩れないし、現在この国をコントロールしている者等の認識も決定されているよ。
- 615 ::2024/05/13(月) 13:54:41.27 .net
- >>609
それは寺澤の論文とは全然違うな
寺澤は畿内の弥生墓制には前方後円墳につながる要素が殆どないとする
引用文は別途投稿する
- 616 ::2024/05/13(月) 13:55:11.33 .net
- 寺澤薫は纒向遺跡の突然の出現とともに、それまでの拠点的母集落(いわばムラ)が悉く衰退し、そして新たな拠点的母集落が続々と現れるなど地域における不連続的な変化を詳細に説明した上で、突発的に出現する前方後円墳についてもそれまでの在地弥生文化との不連続性を以下のように説明する
なお、文中で「第一の道論」と書いているのは、いわゆる「畿内自生説」のことだ
(纏向学研究第4号の寺沢薫「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」より)
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、イヅモなどの日本海沿岸勢力の前段階の王墓の祭祀的(本質的)、階級構造的、形態・技術的諸要素を基軸として、列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって、それがわずか30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された。
にもかかわらず、奈良盆地はおろか畿内において前段階(第Ⅵ–2以前)に前方後円墳築造に直接繋がる要素はほとんどない。このことはヤマト王権の権力母体が大和(とりわけ「ヤマト国」)ないしは畿内から直接引き継がれたとする第一の道論にとっては決定的な弱点となる。
つまり、畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。首長層の権力の動向が如実に墓制に反映される社会であるからこそ、大和弥生社会と纒向遺跡の前方後円墳の出現にみる権力者(集団)の断絶と異質性は重要な意味を持つのである。」
- 617 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 13:56:56.90 .net
- 三角縁神獣鏡を4世紀以降としても畿内説しか成り立ち得ないというのはどういうことだろう?
この説だと、卑弥呼がもらった銅鏡100枚は、内行花文鏡や方格規矩鏡や画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡を想定するのだろう。
しかし、後にヤマト王権が三角縁神獣鏡を国中を綏撫する為に配布したことも明らかである。
すると、三角縁神獣鏡は臺与以降にもらったことになるのだろうが、副葬4世紀は遅すぎる。
コピーをたくさん作ってるんだから、もっと早く副葬するべきだろう。
椿井大塚山、桜井茶臼山、メスリ山なども4世紀半ばとなり、仁徳天皇陵までほぼワープしているように見える。
この年代観はおかしいだろう。
したがって、やはり三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡100枚か否かに関わらず、3世紀半ばとするべきであろう。
- 618 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:04:10.57 .net
- >>616
>30年ほどの間に纒向遺跡のなかで、纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された。
つまり自生説
- 619 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:09:22.50 .net
- >>613
>ご自由にとしかw
あなたがデタラメを撒き散らすのは自由じゃないよ
他人に対する害毒だから
- 620 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:10:55.80 .net
- >>619
理由がなきゃ誰も信じないんだろ?
安心しなさい
- 621 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:16:23.37 .net
- >>616
前方後円墳は畿内独自のアイディアではないだろう
それは認めざるを得ない
が、前方後円墳という墓の形を持って、畿内自生説は不成立とするのは行き過ぎである
では、庄内式土器を受け入れた吉備は一体どういう位置付けになるのか?
また、むしろ、庄内2、3で吉備が手を引いたように見られる纒向の建設は、東海・北陸・紀伊・関東が新たに加わるようになる。
この事実をもってしても畿内自生説を不成立とするのは、単なる解釈の違いでしかないように思えない
- 622 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 14:18:00.24 .net
- >>616.まったくそういうことですよ。
で、あるから卑弥呼に中華服を着せてみました展は正しいおこないなんですな。
この時代卑弥呼に成れる人物は1人しかおらんのですね。と吾輩は確信しているが覆えす話は九州では1パーセントもありません
- 623 ::2024/05/13(月) 14:23:08.67 .net
- >>618
その部分だけ抜き出せばね
結局第一の道=畿内自生説を寺澤は明確に否定
- 624 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:33:39.66 .net
- 畿内自生説は、古代から畿内に住んでた人たちが創った。説ですか?
- 625 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:36:33.83 .net
- >623
でも寺澤は畿内自生説だよね
纒向遺跡のなかで、
纒向型→定形化→定形型という変遷と巨大化が達成され、
王権と他共同体(部族的国家)の政治的、祭祀的関係の表徴として発信・配布された
のだから
- 626 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 14:39:26.18 .net
- もっと肩の力を抜いて話せよ
どうせ決着のつかない堂々巡り
俺たちが死ぬまでにはっきりとした証拠が出るかどうか
出ない可能性の方がはるかに高い
- 627 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 14:46:25.71 .net
- 北枕は九州の東征では生まれない。畿内の西の方から来たとしているだけだな。
色々事情があるのであろう。
邪馬台の女王は異人だよ。
- 628 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:10:28.57 .net
- >>616
拠点的母集落の解体はテンプレが正しいだろう
吉備、北部九州勢が本州の拠点的母集落を解体していくような痕跡はない
- 629 ::2024/05/13(月) 15:27:22.13 .net
- https://pbs.twimg.com/media/EKne9-GUUAAw0rB.png
馬韓全体で10万戸、辰韓・弁韓あわせて4〜5万戸
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸もそれに見合った面積を当てはめろよ
- 630 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:32:17.00 .net
- 馬韓50国だから女王国30国なら北部九州一帯で合ってるな
- 631 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:36:41.67 .net
- >>606
邪馬臺と臺与
奴国と狗奴国と倭奴国と匈奴
疑問に思うならこっちだろ?
- 632 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:37:28.67 .net
- >>630
北部九州に馬韓の1.5倍の15万戸居るんだろ
- 633 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:39:43.72 .net
- 畿内第V様式圏で1世紀には北部九州に先んじて、すでに広域の連合を形成が完成していた畿内邪馬台国が、
未だ弥生の集落の姿を残す北部九州、不弥国(1000戸)、末盧国(4000戸)、伊都国(1000戸)、奴国2万戸を征服することは不可能であったろう
奴国との統合もままならなかった伊都国は、ついに畿内邪馬台国に一大率を置かれる
- 634 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:42:05.54 .net
- 訂正
北部九州が、畿内邪馬台国を征服することは不可能だった
- 635 ::2024/05/13(月) 15:46:34.97 .net
- >>625
その部分はね
畿内の弥生勢力が連続的にヤマト王権に成長したという畿内自生説のコアの部分は否定する
- 636 ::2024/05/13(月) 15:49:49.06 .net
- >>628
オオヤマト地域の拠点母集落解体・再編は伊都国など北部九州、吉備、出雲などからの外来勢力によるとするのが寺澤説
- 637 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 15:53:14.99 .net
- >>636
寺澤説を支持できない
- 638 ::2024/05/13(月) 15:58:28.99 .net
- >>637
ちゃんと論文を読んだ方がいい
事実を細かく調べてきちんと積み上げてあるので、在地弥生勢力と纒向勢力に連続性がないことはもはや否定のしようがない
寺澤、北條、松木、久住など現在の第一線の考古学者の多くが古い畿内自生説に否定的なのは当然だ
- 639 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:00:06.76 .net
- >>638
考古学者なんか相手にするなよ
- 640 ::2024/05/13(月) 16:02:37.50 .net
- >>639
考古学者は自分の代わりに手間暇かけていろんなことを調べてくれていると思った方が良い
そんな論文がネットに転がってるんだから読まない手はない
- 641 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:04:30.94 .net
- >>640
勿論利用はしてるよ
でもそいつの自説なんかどうでもいい
- 642 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:06:08.10 .net
- 正直挙がってる名前全然知らねえわ
トナカイどれ?
- 643 ::2024/05/13(月) 16:06:12.52 .net
- >>641
どうでも良くない
古くて間違った畿内自生説を盲信する人間への反論として使える
- 644 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:08:05.23 .net
- 河内湖周辺は弥生時代前期から多様で、池上曽根遺跡もその流れを汲む
しかし基底には長らく石棒祭祀を続けてきた在地の人々もいる
この融合だな
亀井遺跡は石棒祭祀の集落だが、2セットの分銅や強力な弓など新しい文化を受け入れている
更に弥生時代中期末には加茂岩倉遺跡の銅鐸を見るに、島根からの大移動もあったんだろうな
河内には出雲からやってきた人々がヤマタノオロチを退治してくれた伝承もある
龍の絵画土器のオリジナルは柏原の船橋遺跡か池上曽根遺跡鳥考えられるが、元は龍神も奈良から柏原に降りてきたという伝承もある
そういう流れの中で、伊勢遺跡を使用するヤマト政権が始まったんじゃないか?
- 645 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:08:25.68 .net
- >>643
伊勢遺跡だ
- 646 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:22:49.20 .net
- >>638
外地の勢力が25%おり、国際都市の様相を呈しているのは確かだ
が、庄内0では吉備が主導した纒向の建設が庄内2、3では東海、北陸、紀伊、関東に移っている
この時点で吉備は脱落したと見られる
九州は存在すらない
この時期に纒向型前方後円墳の築造が始まる
吉備の楯築の要素はなくなり、東海は前方後方墳を採用した
畿内ではまた漢鏡3期鏡はほぼゼロに近く
4期もほんのちょっと
5期は少しだけ出てる
ここで畿内は画文帯神獣鏡と斜縁二神二獣鏡と三角縁神獣鏡をもって、自立したのだ
- 647 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:23:24.99 .net
- 大阪は5世紀まで河内湖だったから大集落があった可能性は無いな
- 648 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:24:20.58 .net
- 後漢書 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
魏志 邪馬壹
梁書 祁馬臺
隋書 邪靡堆則ち魏志の邪馬臺
ずーっと倭王は邪馬臺に居る
紀元前から遣唐使の時代まで邪馬臺に居る
- 649 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:29:59.39 .net
- そうなのよ
纏向に九州の気配はない
九州から王族が纏向政権に参加してると仮定しても相当限られた勢力だっただろうな
九州に残された本家の方はなんの変わりもなく通常運行し続けるくらいには
- 650 ::2024/05/13(月) 16:37:16.01 .net
- 纒向石塚は177年と出てるなら、その辺だろう
ちょっと古くですぎたので200年頃にしますというのはルール違反
すなわち、これは卑弥呼の墓じゃない
- 651 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:43:16.66 .net
- >>650
年代なんかそんなキッチリ考えなくても
- 652 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:48:24.13 .net
- テスト
- 653 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:49:26.26 .net
- 博多辺りと河内湖周辺は弥生時代前期から関係が深い
弥生時代前期に誕生した雁屋遺跡は誕生当時から板付式土器が見つかっている
弥生時代中期で営みを終える板付遺跡の人々は何処に行ったのか?
出雲か畿内か、出雲も経由して畿内か
板付遺跡が営みを終えた理由は何か?
河内湖周辺は狩場であり水が豊富で葦が茂り稲作にも向いた地でもある
河内湖周辺には弥生時代前期から多数の集落が作られている
九州も畿内も昔から人々の交流があるんだよな
- 654 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:49:51.51 .net
- ほで、自生説が九州抜きに銅鐸を捨てる理屈は?
吉備は身内だよ
- 655 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:50:20.06 .net
- それぞれ、都合の良いとこは事実で、都合の悪いところは間違い。
- 656 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 16:59:32.61 .net
- >>654
>ほで、自生説が九州抜きに銅鐸を捨てる理屈は?
共同体祭祀から首長祭祀への移行
- 657 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:02:23.36 .net
- >>656
ああ、イッチーがそんなこと書いてる気がするな…
- 658 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:02:48.66 .net
- >>616
纏向学研究第4号は、平成28年(2016年)3月
藤原京の下から瀬田遺跡の円形周溝墓(2世紀中ごろ〜後半)が
見つかったのが2016年(平成28年)5月
- 659 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:02:48.95 .net
- >>648
邪靡堆は何処にあるんですか?
- 660 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:02:54.99 .net
- つまり畿内は女王共立に参加しなかった東の倭種の国でしたと
- 661 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:11:06.73 .net
- >>653
>板付遺跡が営みを終えた理由は何か?
異常な気候変動による、廃絶。 @阿波
- 662 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:11:15.91 .net
- つまりどんぐりころころ九州は出涸らしですらなかったと…
- 663 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:12:33.38 .net
- 市が栄えた、市が割れたそういう話でしょ
市が割れた時代
昔まっこう猿まっこうの時代でもある
まっこうはお香
卑弥弓呼が、猿まっこうだろう
観松彦香殖稲天皇のモデル
酒の匂いが香
酒が、卑弥弓呼が纏向遺跡をこじ開ける楔を打ったんじゃないのか?
此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)
- 664 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:14:55.13 .net
- 伊勢には猿田彦がその上に立ったというタニグクという興玉神石がある
蛙石が猿田彦を立てたということだろうな
- 665 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:28:14.13 .net
- 西日本の弥生集落は、大概が異常気象によって廃絶する。
里の集落を廃絶して、山中での縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。 @阿波
- 666 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:31:52.07 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 667 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:32:34.07 .net
- 吉備では大分土器が出ているから、土器は吉備で入れ替わって纏向に入ったのかも知れない
- 668 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:34:57.26 .net
- つまり畿内説は外野
- 669 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:42:56.53 .net
- >>668
レフトですか
- 670 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:46:27.89 .net
- ひげの奥山。 @阿波
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%88%9D%E3%81%AE-%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9E%98%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%80-%E6%A9%BF%E8%80%83%E7%A0%94%E3%81%A7%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%B4%B9%E4%BB%8B/ar-BB1mhbth?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=a6bdfca98ea84c139a2af979a365166b&ei=15
- 671 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:54:54.01 .net
- 後漢書ってコンタミなんかな
魏志見たやろあれ。プレ・男王邪馬台政権、別にあっても不具合はないけど
- 672 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:56:30.58 .net
- 中国は歴代どうも時系列無視して記紀見たり
自分のとこの見たりして特級呪物クリエイトしがち
- 673 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 17:57:17.14 .net
- 喜ぶの九州説だけ
- 674 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:10:50.83 .net
- >>672
まさか中国の史書が古事記や日本書紀参考に書いてると言いたいのか?
- 675 ::2024/05/13(月) 18:11:42.29 .net
- 吉備、北部九州人が畿内に入ったら拠点的母集落が解体されたというのが謎
なぜ、本拠地の北部九州では弥生集落は維持されているのに、本州に入ったとたんに弥生集落を解体するのか?
岸本直文が言うように、弥生集落の解体は畿内第V様式圏と結びつける方が納得できる
- 676 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:14:20.48 .net
- >>671
魏志はもちろん見てるだろうが、後漢書が採用する時代の範囲と、魏志が採用する時代の範囲は基本的には違うので
陳寿が魏志をまとめる時に参照した元史料と同様の後漢時代の史料を参照してると思う
なので倭国大乱に関する記述もそれぞれ別々の情報が盛り込まれてる
- 677 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:17:33.74 .net
- >>675
>本拠地の北部九州では弥生集落は維持されているのに
維持されていない。 廃絶している。 @阿波
- 678 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:17:59.00 .net
- >>675
白人がアメリカ大陸に入ったらインディアンの拠点的母集落は?
本拠地のヨーロッパでは国家は維持されているのに、
- 679 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:23:31.68 .net
- >>676
普通はそう考えるよな
ただ滅朝鮮漢者三十国のやつは半島の倭人の朝貢かも知れない
歳時を以てとかそんなしょっちゅう行けないだろうし
- 680 ::2024/05/13(月) 18:25:44.41 .net
- てst
- 681 ::2024/05/13(月) 18:29:43.34 .net
- >>651
畿内自生説が成立するか否かは年代論にかかっている
- 682 ::2024/05/13(月) 18:31:29.97 .net
- >>677
不弥国(1000戸)、末盧国(4000戸)、吉野ヶ里などの存在から、弥生集落は北部九州ではいまだ存続していたと見るべきである
- 683 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:33:19.54 .net
- >>681
畿内自生説が成立するか否かは、鉄器を作れる文化があったかどうかにかかっている。 @阿波
- 684 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:33:57.19 .net
- >>683
お。たまにいいこと言うじゃん
- 685 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:34:46.17 .net
- >>682
>弥生集落は北部九州ではいまだ存続していたと見るべきである
その吉野ケ里遺跡も、廃絶遺跡ww @阿波
- 686 ::2024/05/13(月) 18:36:48.18 .net
- >>685
吉野ヶ里が廃絶したのは古墳時代に入ってから
- 687 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:37:18.53 .net
- >>681
おまえが勝手に言ってるだけじゃん
てか他の遺跡でも年代が重要だけど正確にわかるわけねえじゃん
- 688 ::2024/05/13(月) 18:41:52.49 .net
- >>687
ではない
岸本直文は14Cの結果から庄内期が2世紀に遡るとして、纒向の建設を卑弥呼共立時とする説に反対している
であるならば、ヤマト国の自律的な本拠形成と見なしうるとしている
- 689 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:43:20.79 .net
- 吉野ヶ里って卑弥呼の時代既に衰退してたんじゃないの?
唐子鍵遺跡も存続はしてるけど最盛期はもっと以前
- 690 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:43:29.13 .net
- やはり纏向は卑弥呼共立とは無関係だったんだな
東の倭種か
- 691 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:44:37.40 .net
- >>681
>畿内自生説が成立するか否かは年代論にかかっている
そして畿内自生説だけが成立した
- 692 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:45:40.50 .net
- >>688
纏向関係ねえじゃん
- 693 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:45:43.89 .net
- つまり畿内説の編年は常に100年ズレ
・4世紀の古墳から5世紀の剣が出たニダ → 古墳が5世紀って事だろアホ
・3世紀の古墳から4世紀の三角縁が出たニダ → 古墳が4世紀って事だろ馬鹿
・3世紀の箸墓古墳周辺で5世紀の木製輪鐙が4世紀の層から発見されたニダ → 古墳が4世紀って事だろサル
- 694 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:47:16.89 .net
- >>693
それで伊勢遺跡は何年よ?
- 695 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:47:36.58 .net
- >>691
碌に鉄器さえも作れない寒村畿内に自生説など成立しない! @阿波
- 696 ::2024/05/13(月) 18:50:48.04 .net
- >>690
岸本直文によると、纒向は2世紀前半〜半ば頃に建設
卑弥呼の共立は纒向の200年ごろ
年輪年代法では纒向石塚は177年と出た
すなわち、卑弥呼に先行する王が纒向石塚であり、その後、纒向矢塚、纒向勝山などと続き箸墓が卑弥呼の墓である
- 697 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:52:40.93 .net
- >>696
碌に鉄器さえも作れない寒村畿内に自生説など成立しない! @阿波
- 698 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:56:13.31 .net
- 水行10日を分析すると
帯方郡〜狗邪韓国・・七千余里
狗邪韓国〜對馬国・・千余里
對馬国〜一大国・・千余里
一大国〜末廬国・・千余里
帯方郡〜末廬国・・1万余里
1日に千余里(約50km)進む事が出来るので
帯方郡から末廬国までは1万余里/千余里
=10日間で行ける事になり、
水行10日は帯方郡〜末廬国までの
渡海に要した日数と言う事だ。
- 699 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:56:36.09 .net
- 倭国大乱より前は70-80年ほど男王の時代が続いたのだった
- 700 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 18:59:24.04 .net
- 陸行1月とは末廬国〜伊都国〜奴国〜不弥国〜投馬国〜邪馬台国までの
日数、例えば伊都国に1週間滞在してもその日数は1月に加わるので
単純に国から国までの歩いた日数だけでは無い、陸行1月とは滞在日数も
含めた数字であり、途中で雨が降れば道がぬかるみ地面が乾くまで
滞在日数が数日間伸びるので陸行1月は遠いように思えるが実際は
吉野ケ里までの所要日数と言う事だ
- 701 ::2024/05/13(月) 18:59:46.13 .net
- >>689
衰退してるよ
そもそも吉野ヶ里のような環濠をめぐらしている弥生集落が卑弥呼時代にいまだ残っていることや、不弥国(1000戸)などのムラレベルの国が北部九州に残っていることと比較し、
畿内では1世紀にはすでに弥生集落を解体し、畿内第V様式圏の邪馬台国(7万戸)という広域の連合を築いていることを指摘している
このことから、北部九州と吉備が纒向を作ったんだーということを否定している
- 702 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:01:02.88 .net
- >>681
>畿内自生説が成立するか否かは年代論にかかっている
そして畿内自生説だけが成立した
- 703 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:02:22.97 .net
- >>701
。このことから、北部九州と吉備が纒向を作ったんだーということを否定している
だから、纏向の「古墳造営前線基地」を建築したのは倭人(阿波勢力) だと、何度言えばww @阿波
- 704 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:02:28.12 .net
- >>693
中塚氏の酸素同位体比年輪年代法から箸墓古墳は250年前後という結果が出ている
おそらく、これら理化学的年代測定法の結果におそれを抱いているのが寺澤、久住であろう
- 705 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:02:54.77 .net
- >>701
>このことから、北部九州と吉備が纒向を作ったんだーということを否定している
だから、纏向の「古墳造営前線基地」を建築したのは倭人(阿波勢力) だと、何度言えばww @阿波
- 706 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:03:33.95 .net
- 北部九州や吉備の人間は木器では働かない
- 707 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:04:19.61 .net
- すごろくで勝手に振り出しに戻すのが九州説
- 708 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:13:34.51 .net
- 俺が尊敬して止まない東亜古代史研究所の塚田敬章さんも倭の奴国と解釈している
倭奴国と書いてあるのに何故なんだ?
それと匈奴はみんななんて読む?
- 709 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:18:56.38 .net
- >>579
お前ほど惨めな人生送ってる奴は居ないだろうな
嫌いな日本とネトウヨに縋る哀れな人生
- 710 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:20:31.92 .net
- 倭人伝には卑弥呼の住んでいた宮殿は楼観城柵で守られ兵士が日夜
監視をしているとの記載があるが、纏向からは城柵跡も楼観跡も
環濠すら無かったことが分かっているので纏向は邪馬台国では無い
と総ての研究者が考えている
- 711 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:24:08.61 .net
- >>708
倭の奴国の王はないでしょう
倭王に金印を与えるべきで、「倭の中の、奴の国の一番偉い奴」に王号を与えるのは不自然極まりない
金印の通り「委奴」の一番偉い奴を王と認め、金印を与えたでしょう
魏志倭人伝にも「漢委奴国王」の話は出てこない
すなわち、陳寿は「漢委奴国王」を日本の話と見なしていなかった
倭人は自ら「倭から来ました!」と言っていた可能性は低く、「イト国から来ました!」と言っていた可能性が高い
- 712 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:25:03.63 .net
- >>710
郡使が行った時はそうだったって事じゃないの?
- 713 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:26:34.98 .net
- >>710
高島忠平と関川を除く全ての考古学者は纒向が女王之所都と考えている
- 714 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:27:10.10 .net
- >>711
倭国者古倭奴国也
倭国も倭奴国もどっちも中国語
- 715 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:31:33.31 .net
- 漢委奴国王が委奴国(イト国)の王と認めたことはすでに述べた
すなわち、最初に倭王と認められたのは帥升である
- 716 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:33:40.36 .net
- >>715
倭王に金印を与えるべきで、「倭の中の、奴の国の一番偉い奴」に王号を与えるのは不自然極まりない
金印の通り「委奴」の一番偉い奴を王と認め、金印を与えたでしょう
自分でこれ書いててそれ言うか?
- 717 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:38:04.40 .net
- >>716
光武帝「あんたどこから来たの?」
イト国の使者「イト国です」
↓
「漢委奴国王金印」
- 718 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:38:44.96 .net
- 倭国はいにしえの委奴国なり
- 719 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:41:35.47 .net
- 倭人「日本は元小国、倭の地を併せたり」
倭王武「先祖が西に66国平定した」
倭王讃「祖父が西に66国平定した」
- 720 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:44:15.01 .net
- 魏志倭人伝→漢委奴国王金印スルー
後漢書范嘩→「あれ、この委奴国って倭人のことじゃね?人偏をつけるべきでしょ」
↓
倭奴国
- 721 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:45:15.95 .net
- 熊本演歌四天王
水前寺清子
八代亜紀
石川さゆり
島津亜矢
- 722 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:48:57.39 .net
- >>713
卑弥呼が共立された年の纏向ってどんな場所?
- 723 ::2024/05/13(月) 19:51:28.98 .net
- 後漢書光武帝紀では
「二年春正月、東夷<倭奴國王>遣使奉獻。
- 724 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:54:18.62 .net
- 理化学的年代測定法に頼りすぎるべきじゃないことは理解できる
しかし、理化学的年代測定法より、「編年」の方を信用しすぎる方がむしろおかしい
布留1が発明されたら、布留0はもう使いませんと自信を持って言えるのでしょうか?
- 725 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:54:41.63 .net
- >>721
森高千里 『酔わせてよ今夜だけ』 も演歌だぞ
- 726 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:55:53.13 .net
- >>722
どんな場所ってどういう意味?
- 727 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:57:29.40 .net
- >>726
原野だったんじゃないの?
- 728 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 19:59:38.08 .net
- >>727
寺澤とか久住の説だとそれに近い
岸本直文説だと、卑弥呼が共立される200年ごろにはすでに王都纒向がある
纒向石塚という卑弥呼に先行する男王の墓もすでに作られている
- 729 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:01:54.58 .net
- 卑弥呼共立は遅くても189年
- 730 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:05:11.00 .net
- 寺澤、久住のように、184年ごろに原野だった纒向に突如として卑弥呼が共立されるという方がおかしく感じられる
- 731 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:06:15.90 .net
- つまり畿内説全てが破綻している
- 732 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:14:08.87 .net
- 王都纒向から4世紀半ばには、佐紀に王都が移動する
これをある意味で突如と表現すればできるのかもしれないが、寺澤、久住のように、
「北部九州と吉備が纒向に突如として現れた」というのは納得ができないので、誰か納得させて下さいプロの方
- 733 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:27:11.12 .net
- >>732
>王都纒向から4世紀半ばには、佐紀に王都が移動する
王都などある訳はないし、墓域が纏向から佐紀に移動しただけのこと。 @阿波
- 734 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 20:34:28.03 .net
- まぁ石塚を掘ればハッキリ年代が出るから、2世紀だあ3世紀だあの話ははっきりするでしょう。
吾輩は2世紀なんて有り得ないと思っている。
北枕はそんな時代に無いね
- 735 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:36:12.86 .net
- >>734
個人的な感想ですか?
できれば根拠を聞きたい
- 736 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:38:48.40 .net
- >>704
それは古墳周辺で発見した土器の年代だろ
箸墓古墳の年代とする根拠無し
- 737 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 20:46:07.67 .net
- >>735.石塚では始祖にならんからだよ。
大王の伝承もない石塚なんだから掘らせて貰えばいい
鏡が出てくるだろう魏鏡、神獣鏡が出てくればその話は終わる。卑弥呼がもたらした世界であると考えている以上、卑弥呼の生存、共立以前に存在するとは不可思議だからだよ。三韓の書の伝承にも整合しない。
- 738 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:46:14.23 .net
- >>736
あるんだが
- 739 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:47:01.36 .net
- >>736
箸墓古墳が卑弥呼の墓に限りなく近づいたな
- 740 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 20:52:06.66 .net
- >>737
掘ったが、魏鏡は出てこなかった
- 741 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 20:58:53.40 .net
- 墓室かね?
鏡は出てきたのかね?
鏡が出てこない始祖は無いだろ。卑弥呼の協力者の死は否定しない。卑弥呼共立遥か以前墓は考えにくい。が本当にそうであるとすれば吾輩は降参であるがまぁ心配していない。確かな成果を求めるよ。
- 742 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 21:25:29.99 .net
- 箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
未だ結果報告せず
畿内説にとってまずい事実が判明したからなw
- 743 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 21:31:28.13 .net
- >>742.畿内説にとって不味い結果とはどういう結果かね?
石室の空間に甕棺の形が浮かび上がったのかね?
吾輩は真実への探求であって何ら決定的結論を否定しない。
- 744 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 21:39:19.46 .net
- >>721
熊本には歌のうまい人が多いのでしょうか
- 745 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 22:02:54.62 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 746 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 22:19:52.14 .net
- https://ja.everybodywiki.com/TOYO#X%EF%BC%88twitter%EF%BC%89
- 747 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/13(月) 22:32:00.40 .net
- YouTubeのネトウヨ動画を見てまた笑ってしまったわ
幼稚なアイヌ民族否定論で、そいつの過去動画を見たら案の定邪馬台国九州説だったわ
ホントにネトウヨはヤマト王権=邪馬台国を認めたがらないよな
- 748 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/13(月) 22:48:10.83 .net
- 東北蝦夷には前期倭寇と後期倭寇のように、時代によって二つに分ける必要があろう
平安中期に京都の朝廷は財政破綻して地方の統治機構はボロボロになる
税金は跳ね上がり悪質な受領が良民に凄まじい搾取をするようになった
全国各地で荘園開発が盛んになり土地所有者は不入権の獲得に躍起になった
東北地方では蝦夷の地に逃亡して、そこで農業をすれば税金はタダである故に、逃亡農民は蝦夷の土地で農業をしたであろう
奈良時代の東北地方はアイヌ民族の占有地域であったが平安中期になると税金逃れの無国籍和人が大量に流れ込んで凄まじい勢いで蝦夷は和人呑まれて消滅する
前期の蝦夷はアイヌだったろうが、後期の蝦夷は律令国家の統治を嫌った和人が中心であったに相違ない
十世紀の青森の蝦夷の人骨は火に焼かれていた
つまり仏教の火葬が行われていたのだ
平安中期の東北蝦夷は律令国家に税金を払いたくない境界民の集団だったろう
ネトウヨは馬鹿だから学問無視してイデオロギーで曲学阿世するからな
日本保守党や自民党安倍派を信じている連中の知能はこのレベルだ
笑えるよな
- 749 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 22:54:43.34 .net
- アベガーは朝鮮極左。
- 750 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 22:58:36.23 .net
- 本日、朝鮮極左にガサ入れが入りました
- 751 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:03:31.48 .net
- これが朝鮮極左
https://i.imgur.com/STT9UZ9.jpeg
https://i.imgur.com/y4WjEwI.jpeg
- 752 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:24:55.19 .net
- https://pbs.twimg.com/media/DBt3ZEQVwAAjjxE?format=jpg&name=4096x4096
- 753 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:30:01.88 .net
- https://pbs.twimg.com/media/FYWZvL2aMAA3FLo?format=jpg&name=large
- 754 :日本@名無史さん ころころ:2024/05/13(月) 23:30:06.61 .net
- 東北の伝承ではなく北に追いやられたのは龍の黒神
追いやったのは鹿使いの赤神
竹内宿禰の盟友、日向牛諸井の配下に鹿皮の服を着た人々を従えていて、姫は赤い娘だったとある
石見神楽などの五神にもよると赤は南の地に住むよう配置されたはずだが
因幡国ふどきいつぶんによれば竹内宿禰は東国を平定したあと因幡の地で消息を絶ったとある
坂上田村麻呂に平定された蝦夷は赤頭、四郎将軍
蝦夷は元々は九州にいた渡来人じゃないか
蝦夷平定は東北から日本海側の縄文人である龍の黒神の主権回復という面もあったんじゃないかと睨んでいる
国立遺伝学研究所の母系遺伝子の研究では東北富山石川和歌山は同じグループ
京都大阪は、奈良滋賀グループ、東海グループ、東北グループの混血だが1番近いのは東北グループだった
青森は男系ではNやC1a1が多いが、C1a1は青森に次いで多いのが大阪で、Nは青森に次ぐのは北陸や大阪になる
- 755 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:32:20.65 .net
- チョンコは害悪でしかない
- 756 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:34:11.51 .net
- アイヌ=毛人・蝦夷=狗奴国人=縄文人
神武天皇を一時撃退したナガスネヒコも狗奴国人であるアイヌ
アイヌは手足が長い
- 757 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:52:01.92 .net
- 鯷は大鯰のこと
漢書に、會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云とある
阿蘇の大鯰や肥前の海の鯷の話が現在に伝わっている
鹿島や香取の要石が押さえ込んでいるのは大鯰
一世風靡した、春秋時代の呉辺りからの渡来人で朱を好み文身の風習があった海人だろう
筑後川には中国大陸から何万もの河童がやってきた伝承がある
東北まで侵略し龍の黒神を北に追いやった赤い河童が蝦夷のルーツじゃないか
卑弥呼を担いだ集団かもね
蝦夷の頭、タモ公
大分辺りの国と思われる不弥国に女王国が置いた官はタモ
弥生時代末期、大分と吉備は関係がある
吉備は纏向遺跡とも関係が深い
不弥国の官タモと後の蝦夷の頭タモ公が関係するのか興味深い
- 758 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 23:55:15.42 .net
- 朝鮮壺に国を売る自称愛国者(笑)
露助に熨斗を付けて領土を捧げる自称保守派(笑)
- 759 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 00:10:27.13 .net
- 統一協会のやり方はボランティアとして各選挙事務所に潜り込ませるやり口
- 760 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 00:21:31.13 .net
- 潜り込ませるのを主導したトリモロス(笑)
- 761 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 00:24:03.16 .net
- >>760
小泉政権以前から潜り込ませているぞ、それも諸派レベルの政治団体にも
- 762 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 00:28:28.76 .net
- >>761
そりゃそうだろ壺は岸から始まってんだから
爺父子三代世襲の愛壺者
さすがは国も仲間も機密も組織もGHQに売って自分だけ助かった売国奴の一家
- 763 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 00:34:40.17 .net
- 新コロ禍絶賛大爆発の時期に春節ウェルカム(笑)
ついでに梅毒も大量輸入で少子化推進!
- 764 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 04:41:12.30 .net
- 日本の宗教はほぼほぼ政治に関わっているだろ、立正佼成会が応援しているのは白眞勲とかだしね
- 765 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 06:32:46.96 .net
- 纒向石塚からは鏡が出てない
したがって、これを卑弥呼の墓に比定することはできず、かつ3世紀と見ることは難しいのであって、庄内0を2世紀前半〜半ばと見る岸本直文を支持する
- 766 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 06:39:36.39 .net
- >>765
>纒向石塚からは鏡が出てない
しかし、朱塗の鶏形木製品が出ている。 倭人(阿波勢力)のお墓だと分かる。 @阿波
- 767 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 06:40:47.97 .net
- 10800人の生口を船行一年かけて献上しても鏡一枚貰えなかったのか・・・
- 768 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 07:11:06.65 .net
- つまり畿内説はひたすら印象操作を繰り返してきた歴史捏造詐欺師
- 769 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 07:12:20.22 .net
- 石塚は埋葬部を掘ってないだろ?
掘ればハッキリすんでしょう。
周壕や一部盛土に混じっていたという話しだろう、古代は自然災害等形が変わりやすいであろうし研究者も大変だろ
埋葬部から鏡が出ないならこりゃ不思議だよ。周りをほじくって結論は出ないよ
- 770 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 07:21:17.67 .net
- 纒向建物の遺構と桃の種のあった土坑は別の遺構
なのにまるで纒向建物と桃の種が密接に関係あるかのように印象操作してる畿内説は犯罪者だよな
- 771 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 07:24:03.45 .net
- >>769
埋葬部が見つからなかった
- 772 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 07:39:03.08 .net
- 山奥に桃の種だけ大量にあるだけで十分価値があるのだよ。九州に柱と井戸とタマゴと柱にぶら下げる大きな鏡があるような物とも考えられるからな。
- 773 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 07:44:28.17 .net
- 吾輩は専門家ではないからなぁ
埋葬部が無い?とされれば社会通念から
探せ!だね
- 774 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 07:55:58.32 .net
- >>773
「前方後円墳」を築造できるのは倭人(阿波勢力)以外にいないのが現実。 古墳の構造や副葬品を見れば一目瞭然。 @阿波
- 775 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 08:01:17.01 .net
- >>770
九州説さん
朝からニセ情報毎日おつかれさん
- 776 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 08:03:28.24 .net
- >>775
九州説が朝からニセ情報を流しても、
「前方後円墳」を築造できるのは倭人(阿波勢力)以外にいないのが現実。 古墳の構造や副葬品を見れば一目瞭然。 @阿波
- 777 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 08:24:30.40 .net
- 纏向の建物と土坑の桃の種は関係無かったの?
- 778 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 08:47:23.87 .net
- >>777
無いよ
建物を取り壊した後土坑を掘って埋めた
などと根拠の無い言い訳をしてた
- 779 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 08:57:43.10 .net
- 伊賀に石の砦を作っていたのは伊勢の地名の由来にも伊勢津彦
嵐を呼ぶスサノオや五色の玉を持つ石神と同じ性質を持つ
父の伊和大神は尾張まで国作りをした大国主てある
伊賀の名張からは弥生時代後期の砦での集落跡が見つかっている
伊勢津彦がどの範囲を治めていたか東海から奈良迄の可能性もある
伊勢津彦は風を起こし東国に去ったという
物部の文書によると伊勢津彦は武蔵国造の祖になったらしい
- 780 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/14(火) 09:03:27.88 .net
- 佐紀に突如王都が移ったというが、そのような事はないだろう
崇神陵の行燈山は纏向だが、垂仁陵の宝来山は佐紀にある
そして景行の渋谷向山でまた纏向に戻る
垂仁の時には既に佐紀が副都のような形になっていたのだろう
景行も晩年は纏向を捨てて滋賀高穴穂宮にいたという
崇神朝は邪馬台国時代からの首都で守旧派の多かった纏向が嫌だったのかもしれないな
- 781 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 09:04:02.47 .net
- 奈良には元々石亀が住んでいて、龍と鯰が争い、そのとばっちりで石亀は亡くなったらしい
- 782 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 09:32:57.17 .net
- >>778
>無いよ
>建物を取り壊した後土坑を掘って埋めた
>などと根拠の無い言い訳をしてた
こうやって公式の調査発表を理由もなく否定する九州説信者は
ほんとに基礎学力が低いと思う
彼らは理由を考えないで口数で世間のひとを印象操作しようと考えるから
- 783 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 09:37:07.79 .net
- 纒向遺跡の桃の種の土坑は建物の遺構より下の層から発見された
なのに建物を取り壊した後に掘ったってw
つまり考古学は畿内説ありきの作り話しか出来ないペテン師
まさに天動説時代における天文学と一緒だ
- 784 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 09:39:35.16 .net
- そもそも魏志倭人伝には桃なんぞ出てこない
- 785 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:03:30.63 .net
- >>784
だから何?
- 786 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:06:22.93 .net
- >>783
つまりあなたは知識ゼロで考古学の悪口を言っているのですね
- 787 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:18:04.48 .net
- >>786
事実歪曲のための方程式を知識だと思ってる>>1乙w
- 788 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:23:15.91 .net
- >>787
このような
根拠のない悪口しか言えないのが九州説
だから亡んだ
- 789 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:28:35.89 .net
- 社会の底辺の妄言を根拠とした畿内説という宗教スレはココですか?
- 790 ::2024/05/14(火) 10:28:41.75 .net
- 前方後円墳
三角縁神獣鏡
庄内式土器
桃の種
ベニバナ
畿内説が邪馬台国の考古学的根拠とするものは魏志倭人伝に一言も書いてないものばかり
結局のところ邪馬台国畿内説に客観的な根拠は何一つない
- 791 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:31:38.58 .net
- >>785
邪馬台国とは無関係だね
- 792 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:32:56.71 .net
- >>790
それな
畿内説信じてる人は何故かそのことが理解出来てない
- 793 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:43:50.69 .net
- >>783
ニセの情報を連呼すると九州説がどんどんミジメになるよ
w
- 794 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:47:03.87 .net
- >>790
>畿内説が邪馬台国の考古学的根拠とするものは魏志倭人伝に一言も書いてないものばかり
それが何か問題でも?
- 795 ::2024/05/14(火) 10:52:44.80 .net
- >>794
うん、畿内説には客観的合理的根拠が何もないということだからね
邪馬台国畿内説は、関西考古学者の集団妄想以外の何物でもない
- 796 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:54:41.04 .net
- >>792
>畿内説信じてる人は何故かそのことが理解出来てない
普通の人間は、理由のない主張を理解できない
- 797 ::2024/05/14(火) 10:54:43.97 .net
- 考古学者の書いた書籍や論文をどれだけ読んでも、畿内説が正しいという結論はちっとも導けない
むしろ、邪馬台国含む北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立していたとしか私には思えない
- 798 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:56:08.58 .net
- つまり畿内説の偏差値は40未満
- 799 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 10:57:58.12 .net
- >>794
邪馬台国の存在が確認されたのは魏志倭人伝からなんだよ
弥生時代に日本には邪馬台国という国があったらしい
というのは魏志倭人伝の記述で初めて分かった
だから邪馬台国はどこにあったかを探すなら魏志倭人伝の記述と矛盾しない場所になる。
普通の人は教わらなくても分かるんだけど
君は俺に教わらないと理解できなかった
つまり君は普通の人以下の理解力しかないということになる。
あんまりここに書込みしない方が良いんじゃない?
- 800 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:02:51.39 .net
- >>799
そんな事はない
卑弥呼や邪馬台国の存在が事実であるならば他の資料でも検証は出来る
- 801 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:04:22.35 .net
- つまり畿内説のIQは70未満(自覚不可能)
- 802 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:05:55.07 .net
- >>801
何故他じゃ検証できないと思うんだ?
おかしいだろ?
- 803 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:12:36.49 .net
- 卑弥呼や邪馬台国は魏志倭人伝の中だけに存在するのか?
- 804 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:15:36.29 .net
- 邪馬台国は無いよ
- 805 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:15:55.09 .net
- >>802
バタフライ理論って知ってるか?
「1匹の蝶の羽ばたきが世界のどこかの竜巻の原因かもしれない」
畿内説はその意味を曲解釈して「目の前の蝶の羽ばたきがあの竜巻の原因だ」と言ってるようなもんなんだよ
- 806 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:18:43.99 .net
- 「安房は古の阿波である」という記述をみつけ
阿波国は房総半島にあったと言い張るのが畿内説
阿波国は四国にあったというのが九州説
- 807 ::2024/05/14(火) 11:18:52.48 .net
- 卑弥呼時代は魏略が正解
- 808 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:19:37.65 .net
- >>800
卑弥呼や邪馬台国と記述されてる資料は他にないない
あるならそれを示して
- 809 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:21:27.06 .net
- 基本的に邪馬台国卑弥呼に関して最も信頼できる資料は魏志倭人伝
何故なら書かれた時代が邪馬台国卑弥呼時代に最も近いから
- 810 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:21:32.27 .net
- >>805
目の前であろうが世界であろうが蝶の羽ばたきで竜巻が起きる訳がない
- 811 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:21:48.42 .net
- 九州説とは
行程は(九州説に合わないので)盛ってる!
戸数は(九州説に合わないので)盛ってる!
地名比定は(九州説に合わないので)親父ダジャレ!
- 812 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:26:02.14 .net
- >>811
畿内説でどう合ってるのか説明してみて
- 813 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:27:16.03 .net
- 後漢書に倭王が居る邪馬臺と書いてある
注釈にこの名は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだと書かれたものもある
倭国30国は代々王を継いできた国とも書かれている
この倭王の後継として共立されたのが卑弥呼女王だ
つまり邪馬台国=女王国の話は、1世紀頃から3世紀まで延々と継続してきた30国の話だ
- 814 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:29:20.48 .net
- もし世界のどこかで蝶の羽ばたきで竜巻が起きたのであれば
その話は出鱈目だと判断する
- 815 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:31:34.69 .net
- >>813
注釈には「案じるに」とわざわざ検討したことが正直に記されている
その時代(唐代)「同じものである」という確証が無かったので、わざわざ「発音が似てるから訛ったのだろうか」と検討しなければならなかったことが、その記述によって判明した
- 816 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:33:01.89 .net
- >>815
でもでもその話には根拠があるんだよな
- 817 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:35:29.13 .net
- どんな根拠?
- 818 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:35:36.42 .net
- 後漢書李賢注と隋書は近い時代に書かれているが
文字のない蛮族の何百年も昔のはなしなど確認しようがないので
「発音が似てるから同じものだろうか……」という安易な発想だったことが赤裸々に記録されてしまった
- 819 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:36:06.21 .net
- 訛りだとしたら
八女だろうな
八女たい
八女のすぐ西にはあの朝倉がある
地名が奈良にコピーされて宇佐神宮も伊勢にコピーされてる
- 820 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:37:08.65 .net
- 東だった
- 821 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:37:32.48 .net
- 纒向を根拠とする畿内説はそれ以前に代々継がれてきた王の痕跡はどこか説明しろよ
- 822 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:39:16.73 .net
- >>817
なにも案じてないのか?
- 823 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:41:49.36 .net
- そもそも邪馬臺と邪摩惟や邪靡堆がどう違うかわかんないんだけど
- 824 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:44:54.17 .net
- 邪馬臺も邪摩惟も邪靡堆も全て口語3文字なんだよね
日本語だとヤマタイになったりするんだけど
- 825 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:51:24.20 .net
- 魏略には対馬国となってて日本語のツシマと同じじゃんと思うけど
中国語だと口語2文字なんだよね
- 826 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 11:53:49.13 .net
- グーグル辞書によると
邪馬臺 Xié mǎ tái
邪摩惟 xié mó wéi
邪靡堆 xié mí duī
邪靡堆が異なる
- 827 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:00:30.40 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 828 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:04:43.09 .net
- ツイ・マ → ツシ・マ
- 829 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:07:11.77 .net
- >>821
>纒向を根拠とする畿内説はそれ以前に代々継がれてきた王の痕跡はどこか説明しろよ
そんな記述は倭人伝にない
- 830 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:10:34.18 .net
- >>813
>注釈にこの名は邪摩惟(ヤマイ)が訛ったものだと書かれたものもある
ないよ
- 831 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:11:18.33 .net
- >>828
日本語だとチマに近い発音なのかね?
- 832 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:11:48.96 .net
- >>829
あるよ
漢委奴国王印貰った奴国
倭国大乱に参加した国々の記述がある
- 833 ::2024/05/14(火) 12:16:13.38 .net
- >>830
あるよ
879 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで 2023/06/11(日) 11:28:02.54 ID:T3Cj65u/0
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」です
後漢書の邪馬臺(ヤマタイ)は「邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書いてあります
https://i.imgur.com/Y4EHDju.png
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう
314 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで 2023/06/11(日) 08:38:56.91 ID:RUZBJXhh0
>>302
隋書では、邪靡堆と漢字を2文字変えている
邪馬臺でヤマトと読むならわざわざ漢字を2文字も変える必要はなかった。
したがって、邪馬臺は「ヤマト」とは読めなかった
- 834 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:16:59.93 .net
- 邪馬臺はヤマタイではなく3文字だと考えなきゃいけない
- 835 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:21:48.16 .net
- つまり畿内説は想像以上に頭が悪い
- 836 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:23:53.99 .net
- >>833
よく持ってたな
俺がよく貼ってたネタw
- 837 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:25:22.95 .net
- ヤマトなのかヤマイなのかヤマカなのかわからない
でもヤマタイではない
ヤマタイこそ最もかけ離れたもの
なぜなら音が一つ増えてるから
- 838 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:25:49.02 .net
- ヤマタイだろうが八世紀のヤマトは邪馬臺から来ている。
邪馬臺は倭の統一者
- 839 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:27:04.73 .net
- 誰ですかウソを書いてるのは
對馬国じゃないですよ
對海国(ツイカイコク)ですよ
對海国です
- 840 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:27:42.15 .net
- 後漢時代の発音はこう
対 馬
tuəs ma
- 841 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:27:42.80 .net
- >>838
それあなたの感想ですよね
- 842 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:28:37.11 .net
- >>839
魏略には対馬国となってて
- 843 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:30:12.06 .net
- 古代に強大な王国があったなら、王国名が国名レベルで残ってそうだけど九州には無い
- 844 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:32:08.26 .net
- ちなみに魏志倭人伝には倭人が承諾を意味する返事として「噯(アイ)」と言っていたと書いてある
現代の「ハイ」だな
発音は昔からそう大きく変わっていないという事だ
- 845 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:32:49.06 .net
- >>843
山門=ヤマトがあるな
- 846 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:34:46.22 .net
- 魏志は誤字が多く、どっちかというと魏略逸文の方が正しい
投馬国も狗古智卑狗も転写誤字
- 847 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:35:23.23 .net
- 山戸が宇佐にあった
- 848 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:36:18.94 .net
- >>843
魏志倭人伝に出てくる30国の名前が全部現代の地名に当てはまるという考察もあるよ
不弥国は1000戸(盛って1000だから実際にはもっと少なそう)で国扱いだし
町や村レベルの地名も多いが
- 849 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:38:31.92 .net
- >>843
九州の地名ってたとえば伊都国とか奴国とか不弥国あたりは後世には筑紫国になってるからな
なぜ伊都国や奴国が消滅して筑紫国に大合併されてるのかは推して知るべし
- 850 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:39:48.99 .net
- >>848
アホらしいと思わんか?
遊んでるんじゃないんだから
- 851 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:41:01.55 .net
- 畿内説の阿鼻叫喚の叫びが心地良いな
- 852 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:41:33.64 .net
- ここでもう一度
奴国と匈奴
なぜ?
- 853 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:44:00.00 .net
- >>845
国名レベルじゃない
甲類乙類無視
山門郡は古代はほぼ海
- 854 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:44:38.18 .net
- 日本記の丸写しである新唐書に代々王は筑紫城に住んでいたと書いてあるのによ
そして大和州に移り天皇と名乗るようになったと
最初に天皇と名乗ったのは天武だよな
そういう事だ
- 855 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:46:36.41 .net
- >>833
そのひと気が狂ってないか?
- 856 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:47:50.33 .net
- >>850
いや全然
ようつべのリンク貼れないからアレだけとちゃんと筋が通ってる
- 857 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:48:16.40 .net
- >>853
海抜を下げた地図を鵜呑みにしてるのか?
さすが底辺畿内説w
陸地も沈下や隆起を繰り返してるんだぞ?
有明海沿岸部の海底から縄文時代の貝塚などが発見されてるだろ
- 858 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:51:01.11 .net
- 世界共通の認識を基準としろ
https://youtu.be/JIvnxETPjyk
動画の中で海外での日本の歴史についての認識が語られている
- 859 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:51:02.95 .net
- 邪馬台国とヤマトが関係あるなら
記紀に卑弥呼などが実名ででると思うが、、、
- 860 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:51:32.03 .net
- だからヤマトとミナトだと言ってるだろ
- 861 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 12:54:30.81 .net
- 中国にお前ら何者だと詰められて慌てて作った史書が記紀だよ
全国の伝承の寄せ集めとも言われている
邪馬台国の歴史はヤマトには継がれてないので記載されていない
しかし磐井はその邪馬台国の伝承を知っていたのかもしれない
- 862 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:07:52.38 .net
- >>859
実名で出てるからヒミコって名称じゃないんだろ
- 863 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:11:37.38 .net
- (ヤ)が山門の弥生遺跡https://i.imgur.com/AGfbnWM.jpeg
- 864 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:13:50.26 .net
- >>783
建物より前の時代に様々な遺物を投棄した大型土坑あったなら
庄内式期前半の纏向遺跡の建物群以前に大規模な祭祀が行われていたことになる
- 865 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:16:25.28 .net
- 纏向の桃は地鎮祭をやったんだよ
- 866 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:20:11.47 .net
- 地鎮祭は建物を建てる時期と同じ
- 867 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:30:04.56 .net
- 九州説信者の頭の悪さが
九州説老人の禿頭よりも光る
- 868 ::2024/05/14(火) 13:33:34.77 .net
- >>833
それは悪意のある造作
正しくはこれ
本文は「臺」なので「惟」は明らかに誤字
https://i.imgur.com/4vwrvOE.jpeg
- 869 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:34:12.69 .net
- 日本書紀古事記は魏志倭人伝の数百年後に書かれたものだから
邪馬台国の真相を得るための資料としては使えない
- 870 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:39:05.79 .net
- 記紀の編者も倭人伝で初めて知った邪馬台国と卑弥呼
- 871 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:43:03.73 .net
- >>868
>本文は「臺」なので「惟」は明らかに誤字
それあなたの感想ですよね
- 872 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:45:12.89 .net
- ちなみに臺、堆、ともに「ト」とは読まない
つまり隋の時点でまだヤマトというものは存在していない
- 873 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:48:12.16 .net
- >>871
「臺」がなまって「惟」になるとでもw
- 874 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:48:41.93 .net
- >>872
その解釈は可能
まあどう考えるかだな
- 875 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:50:50.72 .net
- >>873
貴国の国名は?
(九州弁で)やまいタイ
- 876 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:52:51.89 .net
- 隋の時代に邪靡堆という都があって魏志の邪馬臺だろうって事
ただし後の時代のヤマトとは別物
- 877 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:59:07.81 .net
- ヤマトが漢化しても過去の人物で卑弥呼だけは皇族に比定してるのは王権の核だから。比定してるのが天照の再興だからヤバい。
- 878 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:03:56.11 .net
- 「臺」は上古音で「ダ」、中古音で「ダイ」
↓
隋代の頃からこれがなまって「堆(タイ)」と呼ばれた
↓
これが倭に逆輸入されたが、記紀万葉時代には二重母音はなかったので「ヤマト」と発音されるようになった
- 879 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:05:48.55 .net
- >>871
>それあなたの感想ですよね
感想じゃなくて定説
- 880 ::2024/05/14(火) 14:05:56.60 .net
- >>871
中央研究院も惟を堆に校正している
656年の隋書が「邪靡堆」、後漢書の李賢の注が676年
「案今名邪摩惟音之訛也」
- 881 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:06:27.15 .net
- 卑弥呼に子孫は居ないから少なくとも今上陛下の直系の先祖ではない
- 882 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:08:57.41 .net
- >>878
その解釈は無理がある
ヤマトはなくても邪靡堆という都は存在してたわけでなぜその都の名前に倭という文字をあてる?
- 883 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:10:13.56 .net
- >>867
トナカイ20前半、俺30後半でもこのスレでは若い方らしいからな
歳食ったらもう九州説から離れるのは無理だろうな
- 884 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:15:15.23 .net
- >>874
俺はヤマトというのは後世がようやく漢字を読めるようになった頃、魏志倭人伝の邪馬壹の「壹」をトと誤読したんだと思ってる
- 885 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:16:22.22 .net
- >>881
親魏倭王の金印も伝わってないしな
仮に血を引いていたとしても分家だろう
- 886 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:18:37.86 .net
- トナカイは共産主義という宗教の信者
- 887 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:18:38.01 .net
- >>884
記紀編纂時に既にヤマトという名称はは有るから
- 888 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:19:28.17 .net
- 邪馬壹は12世紀の版本
- 889 ::2024/05/14(火) 14:22:29.16 .net
- >>882
>なぜその都の名前に倭という文字をあてる
「倭」は国名でしょ
- 890 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:09.68 .net
- 旧唐書で日本の使者が倭国との関係について明確に答えることが出来ず、あれこれ適当な作り話を並べてる箇所がある
そして中国に信用出来んと疑われてる
魏志倭人伝の倭人の場合は誠実で嘘を言わないと書いてあったよな
その頃の倭人とは人種が違うとも感じる
つまり畿内はかつての東の倭種の国でした
というオチ
- 891 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:23.90 .net
- >>884
後世になるまで漢字読めなかったのなら三国志の時代の倭人はどうやって中国と交流してたんだよ……
- 892 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:20.19 .net
- >>887
それ相当後の時代だろ馬鹿
- 893 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:39.47 .net
- 邪馬臺は記紀編纂のずっと以前から都としてあるんだよ
じゃあ何故邪馬臺が消えてヤマトという名前が残ったのか?
- 894 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:28:02.87 .net
- >>893
山門だろうな
- 895 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:29:48.44 .net
- >>894
ヤマトじゃないんでしょ?
別物だと言っておきながらなぜそうなるの?
- 896 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:30:48.92 .net
- 俺は「ヤマト」の馴れ初めについて真剣に調査研究した学者が居ない事を懸念してる
日本の歴史が空想だと言われる所以だ
まともな学者なら日本の歴史なぞ鵜呑みにはしないからな
- 897 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:31:38.72 .net
- >>896
ヤマトとミナトでしょう
- 898 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:33:21.18 .net
- 令和書籍の教科書では古墳時代はやまと時代と記されているらしい
- 899 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:34:09.09 .net
- >>895
ヤマトがあったとしたら山門
ナガトは長門
大倭はダーワだ
魏志倭人伝に「大倭」は女王国の市の監視役として使われていたと書いてある
役職なのかそういう集団が居たのか、はたまたかつての大倭王が卑弥呼の下に支えていたのかは分からないが
- 900 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:01.80 .net
- 記紀編纂者「卑弥呼って誰やねん?一番近いのは……うーん神功天皇!」
モモソですらなかったかー
- 901 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:21.57 .net
- >>898
古墳の始まりが畿内では無いと認めたからな
- 902 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:54.97 .net
- 山の入り口がヤマト、海の入り口がミナト
- 903 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:38:25.47 .net
- そりゃまあ記紀編纂した人は自分でモモソを創作したわけだし、作り話の原作者は創作キャラが実際には存在しないことなんてわかってるわな
- 904 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:46:55.37 .net
- ヤマトは中国側の勘違い
日本人はヤマトの王が卑弥呼だと言ったのであって卑弥呼が居る場所がヤマトだと言ったのではない
倭王とはヤマト王なんだよ
だからヤマトと言う言葉に倭の文字をあてた
隋の時代までずっと中国はその勘違いをしてて唐の時代にやっと消えた
- 905 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:48:44.20 .net
- 後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから
倭国大乱よりもずっと前から大倭王の都だったのかもね
- 906 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:53:55.41 .net
- 神功皇后は魏志倭人伝を踏まえて創作された存在
- 907 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:56:35.07 .net
- >>906
卑弥呼に子供はいないので変でしょ
- 908 ::2024/05/14(火) 14:56:45.35 .net
- 記紀は古代の紀年を繰り上げているから、繰り上げられた神功皇后がたまたま魏志倭人伝の卑弥呼あたりになったので年代的な辻褄合わせに魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきてのだろう
またもう一つ
私は神功皇后は、纒向崇神朝を滅ぼして畿内に応神朝を建てた北部九州の海人族の長(応神天皇の父親)を、天武天皇ら後世の皇室が万世一系シナリオに当て嵌めるために皇后像に改変したキャラだと考えている
魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきたのは、このことを偽装する目的もあるのではないかと睨んでいる
- 909 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:09.09 .net
- >>905
>後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから
それは范曄が陳寿の本パクって無理やり倭国伝に改変したとき出来た歪みだと思うが
- 910 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:57.77 .net
- >>905
だとしたら畿内は全くの見当違い
- 911 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:08:45.28 .net
- >>907
天皇は男系だから本来卑弥呼に該当する人物はいない
いないから皇后で摂政してましたという設定を創りあげた
- 912 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:10:33.75 .net
- >>909
そうとも言い切れない
漢時有朝見者今使譯所通三十國
この記述に後漢書との矛盾はないし陳寿は何らかの後漢時代の資料を見ている
詳しく書いてないのは魏代だから当たり前
- 913 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:17:48.98 .net
- >>901
古墳時代の始まりはヤマトから
小学校の教科書を見てると250年の所に斜め線があり、箸墓を古墳時代の始まりと見なしていると思われる
が、橿考研の元副長(現学芸員アドバイザー)岡林氏などは、3世紀前半のホケノ山の時点ですでに古墳時代に入っていると述べている
- 914 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:21:56.55 .net
- 魏志倭人伝よりは時代が新しいってだけで古い時代の書物に変わりはないし
その時代陳寿が引用したであろう資料が残ってた可能性がある
魏略はまさにそうでそれ自体はなくても魏略曰くで残ってる
- 915 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:04.37 .net
- >>913
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。 @阿波
- 916 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:37.17 .net
- >>913
東日本の前方後方墳の方が100年早く始まっており箸墓古墳より高尾山古墳の方が古い
古墳文化に関して畿内は後発だ
歴史捏造するな
- 917 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:53.14 .net
- https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%88%9D%E3%81%AE-%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9E%98%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%80-%E6%A9%BF%E8%80%83%E7%A0%94%E3%81%A7%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%B4%B9%E4%BB%8B/ar-BB1mhbth?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=a6bdfca98ea84c139a2af979a365166b&ei=15
- 918 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:36:55.82 .net
- >>917
「金銀装捩環頭大刀の鞘には、何枚もの布が巻かれた上に水銀朱が塗られていたことが分かった。」
「阿波」の水銀朱。 よって、「金銀装捩環頭大刀」も島根県出雲市の上塩冶築山古墳も、倭人(阿波勢力)のもの。 @阿波
- 919 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:58:17.20 .net
- 王墓を中心に甕棺墓群←これを殉葬百余人と表現したんだろうよ
以下、佐賀県柚比本村遺跡墳丘墓の紹介より抜粋
弥生時代中期を中心とした集落・墳墓群が確認できた。
中期初頭の墳墓群は、大型の墓壙をもつ木棺墓を中心に、甕棺8基で構成される。中心の木棺墓には、石製把頭飾を伴う細形銅剣が副葬されていた。この銅剣はほぼ完形で鋳上がりもいい。現存長30.1cm。
中期前半期の甕棺墓は10基で構成され、内5基に銅剣が副葬されていた。特にそのうちの1基の銅剣は玉飾りの付いた赤漆塗りの鞘を伴う優れたものである。その他青銅製把頭飾も出土した。
中期後半の墓地には3基の甕棺と1基の石蓋土壙墓が営まれる。このうち1基の甕棺から鉄剣とガラス製勾玉が出土した。
- 920 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:59:41.26 .net
- >>917
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。 @阿波
- 921 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:04:36.22 .net
- 本日は晴天なり
- 922 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:08:58.74 .net
- https://www.zero-position.com/entry/2019/12/03/210000
- 923 ::2024/05/14(火) 16:11:52.18 .net
- JMネットワーク
- 924 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:15:44.63 .net
- https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/28haka-y.html
こんなもんが殉葬と言えるのか?
ただの墓域だろ?
- 925 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:18:58.24 .net
- >>924
朝貢に来た倭人からその説明を受けた中国人が「径百余歩、殉葬百余人」と想像してもおかしくは無い
- 926 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:32:37.39 .net
- だれだっけ?殉葬じゃなくて墓域のことだって言ってた研究者
- 927 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:35:25.07 .net
- >>926
寺澤だろ
- 928 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:36:34.25 .net
- 寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
- 929 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:42:51.51 .net
- さす寺沢
- 930 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:44:08.63 .net
- 考古学者だから文献は専門外
- 931 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:45:19.96 .net
- 径に広さの意味もあるんだっけな
- 932 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:52:29.59 .net
- つまり吉野ヶ里の墓域みないな感じだな
- 933 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:06:58.36 .net
- >>932
纏向も吉野ケ里も、墓域じゃなくて集落域だったら良かったのにな。 お墓だけじゃあなぁww @阿波
- 934 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:09:37.10 .net
- >>933
何か嫉妬してるのかな?
- 935 ::2024/05/14(火) 17:10:30.09 .net
- 「径」が周辺部の大きさを指している例
隋書/志 凡三十卷/卷六 志第一 禮儀一/南北郊
「方丘在國陰六里之郊。丘一成,八方,下崇一丈,方六丈八尺,上崇五尺,方四丈。方一階,尺一級。其壝八面,徑百二十步,內壝半之。」
→方丘の下部は約20m、上部約12m、壝(だん:祭壇の周囲の土塀)は、径120歩=約212m
- 936 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:10:50.56 .net
- 北部九州の遺跡って殆どこんな感じで墓ばかりなんだよね
まともなのが吉野ヶ里と原の辻くらい
- 937 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:20:16.93 .net
- >>934
お墓しかないので、憐れんでいるのさ。 @阿波
- 938 ::2024/05/14(火) 17:33:16.88 .net
- >>916
と言ってる学者が存在しない
- 939 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:43:28.01 .net
- .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
.
- 940 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:46:17.99 .net
- >>935
>「径」が周辺部の大きさを指している例
間違い
それ、周辺部じゃないから
八角形の壝(だん:祭壇の周囲の土塀)の直径だから
- 941 ::2024/05/14(火) 17:48:12.99 .net
- >>938
ぐぐってみた
神門古墳群
千葉県市原市にある古墳群
養老川下流域北岸の市原台地西縁部に所在し、前方後円墳3基、方墳3基、円墳1基が調査されている。
以上の3古墳は出現期段階のいわゆる纒向型前方後円墳として捉えられ、
周溝形態の発達過程などから、5号墳が最も古く、4号墳、3号墳の順序で比較的短期間に造営されたものと考えられている。
その造営年代は3世紀中葉から後葉とする説が有力であるが、
3世紀前半まで遡ると見る見解もあり邪馬台国の時代の古墳と目されている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%96%80%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4
- 942 ::2024/05/14(火) 17:49:06.72 .net
- 纒向石塚は副葬部が見つかっていないが、鏡の副葬はないでしょう
すると、纒向石塚は年輪年代法の通り177年
200年頃纒向で卑弥呼共立
ホケノ山もボトムは14Cで225年頃と出てる
画文帯神獣鏡と内行花文鏡の破片
それに70以上の鉄器
またベニバナの花粉から、畿内が大陸と独自に関係を持ち、ちゃくちゃくと力をつけていく過程を垣間見ることができる
そして、魏への遣使239年には銅鏡100枚、親魏倭王金印などを得て、箸墓古墳の建設でさらに独走体制へと入る
張政の派遣で狗奴国とも和解し、桜井茶臼山(他の追随を許さない圧倒的な王、橿考研岡林)、西殿塚を同時代に建設
岸本直文の年代観を支持する
- 943 ::2024/05/14(火) 17:50:37.45 .net
- >>941
前方後方墳が100年古いと言ってたスーパー素人残念
- 944 ::2024/05/14(火) 17:52:42.27 .net
- も一つ
>>938
高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳である。
形状は前方後方墳[1]、史跡指定はされていない。
沼津市教育委員会は古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造、
被葬者の埋葬は250年頃と推定しており、古墳出現期の東日本では最古級かつ最大級の古墳とされている[2]。
日本考古学協会は、日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると評価している[3]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
- 945 ::2024/05/14(火) 17:54:18.16 .net
- >>944
前方後方墳が100年古いとかほざいてたスーパー素人残念だったな
実際には、纒向古墳群が最初の前方後円墳だ
- 946 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:56:26.33 .net
- >>944
調査に関わった全ての学者が3世紀前半と言ってるのに寺澤だけが3世紀後半だと言い張ってだんだよな
- 947 ::2024/05/14(火) 17:57:44.80 .net
- >>946
寺澤は編年に頼りすぎている
- 948 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:58:28.80 .net
- ちなみに京都向日市の前方後円墳は箸墓古墳と瓜二つの構造で3世紀末と編年されている
- 949 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:59:28.49 .net
- >>947
年代が合えば卑弥呼の墓だという発想がど素人丸出しだよな
- 950 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:00:30.90 .net
- つまり纒向発祥と言えるものは何一つ発見されていない
- 951 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:01:13.45 .net
- 畿内の古墳からは新しい時代のオーパーツが出るんだからもっと柔軟に対応しないとな
- 952 ::2024/05/14(火) 18:01:42.85 .net
- 鏡の副葬とデカい墓を作るのはどう考えてもデカい墓を作る方がはるかに難しいのであって、数十年、のべ数100万人の労働力を要する
この点から、楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説は一定の支持を得られるだろう
鏡が出てこなかったことは、「吉備には鏡を副葬する文化がなかった」と、その通りであろう
- 953 ::2024/05/14(火) 18:02:53.64 .net
- >>949
素人さん、寺澤が何言ってるか知ってるんすか?
- 954 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:40.92 .net
- >>953
お腹が空いた
だろ
- 955 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:49.54 .net
- >>948
定型化後の前方後円墳は全て箸墓に似てるだろ
- 956 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:06:31.17 .net
- >>952
>楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説
つまり、「阿波」の水銀朱にまみれた楯築の被葬者「倭国王帥升」は、倭人(阿波勢力)の一人ってこと。 @阿波
- 957 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:07:09.93 .net
- 卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる(相攻撃状)最中に古墳作ってたとか東の倭種は平和だなあ
- 958 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:11:46.34 .net
- >>957
>卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる
心肺ご無用。 卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる時はまだ、「前方後円墳」は造られていないから。 せいぜい、墳丘墓だから。 @阿波
- 959 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:13:37.48 .net
- 箸墓のあのデカさ、桜井茶臼山のあのデカさ、西殿塚のあのデカさ
あれは畿内人だけでは作れない
墓作る人々も米を食うのであって、墓作りに全フリすることは不可能だ
吉備、出雲、東海、北陸、関東まで多くの外来者が来たことが分かっている
畿内の人口は膨大に膨れ上がっていたはずだろう(邪馬台国7万戸)
- 960 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:14:27.69 .net
- >>958
纒向型前方後円墳ができている
- 961 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:16:18.02 .net
- >>959
人が臨時で集まって古墳建造する場
つまり纒向は古墳造営キャンプ場という事だ
だから住居跡(生活痕)が無いんだよ
- 962 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:20:22.52 .net
- >>959
逆に考えるんだ
墓作りに全フリしたからこそ、
米も食わず家も作らず、蛙を食って星空の下で眠っていたんだ、と。
- 963 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:21:29.12 .net
- >>960
「阿波」の墳丘墓のあとでな。 @阿波
- 964 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:22:52.38 .net
- >>961
飯は食うしその痕跡も無いとなるとな
- 965 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:27:17.45 .net
- >>964
飯を食った痕跡が、大量の「東阿波型土器」の出土だ。 @阿波
- 966 ::2024/05/14(火) 18:28:17.96 .net
- Takeo Kusumi@T_Kusumi057
要するにそうなると、布留0式古相上限は、250年前後、遡ってせいぜい240年代、一方箸墓は周辺(墳裾から周溝)調査から布留0式古相の幅内で築造開始され、0式新相初頭か0式古相終わり頃に築造終了=埋葬時期という調査分析結果(寺沢薫『箸墓古墳周辺の調査』奈良県文化財調査報告書89)と非合致なので箸墓は卑弥呼(247年頃没)の墓の可能性はかなり低いです。(久住2017とそのシンポジウム記録の添付写真文献の久住講演記録参照)
- 967 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:30:17.26 .net
- 米がなくても桃とカエルとゴキがあるから
- 968 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:39:27.84 .net
- 九州は自慢の鉄鏃で猪狩ってた
- 969 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:43:27.87 .net
- 弥生時代後期、畿内の見る銅鐸は突線鈕5式が成立し、東は尾張、遠江まで広がっている
西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域から纒向の建設に来たのは、この銅鐸の広がりによるものだろう
他に、これほど広範な地域から人が集まってくる理由は考えられない
- 970 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:48:26.44 .net
- >>966
日本考古学協会で、東田大塚に頼っていた布留1のボトムが追加史料によって270年まで遡ったことは大きいだろう
したがって、布留0も動くと考えるべきである
- 971 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:50:05.20 .net
- >>966
つまり考古学者が専門外な文献解釈と合わないから「卑弥呼の墓ではない」と言ってるわけ
つまり信憑性は低い
- 972 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:52:14.88 .net
- 中塚氏の酸素同位体比年輪年代法からも箸墓は250年前後という結果が得られている
理化学的年代測定法より編年の方が優れていると考えるのはおごりにすぎない
- 973 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:53:44.16 .net
- >>972
だからそれは土器の年代だろって
- 974 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:54:35.62 .net
- >>969
>東は尾張、遠江まで、西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域
そんな広範囲から人が集まる訳がない。
新しい知見を示す。
纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。
各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。 @阿波
- 975 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:54:51.73 .net
- 箸墓古墳本体は全くの未調査だ
希望的観測だけで勝手な編年するな
- 976 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:56:22.66 .net
- >>975
視察しましたよ
- 977 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:58:58.67 .net
- >>974
これは、神代文字がそれぞれ異なるのと同じ理由。 @阿波
- 978 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:08:15.99 .net
- 中塚氏の酸素同位体比年輪年代法では、ある抗材は230年を示したと
ありとあらゆる理化学的年代測定法において、年代が遡っている
やはり纒向石塚177年は正しいと見るべきで、卑弥呼共立前から畿内の勢力は外来者と共に纒向を完成させていたと見るべき
庄内0を200年〜とする従来の説を遡上させて、1世紀前半〜半ばと見るべきだろう
そうでなければ、鉄器に乏しいことや、纒向石塚から鏡が出てこなかったこととの整合性が取れない
225年のホケノ山の極めて素晴らしい画文帯神獣鏡は舶載鏡であり、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口も舶載でしょう。
こちらの年代観の方がしっくりくる
- 979 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 19:16:31.85 .net
- また、どんぐりかしつこいのう。
- 980 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:17:39.53 .net
- >極めて素晴らしい
詐欺師の匂い
- 981 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:18:44.68 .net
- 墓を開けたわけでも無いのに希望的観測で勝手な作り話を展開してるのが畿内説だという事だ
- 982 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:26:05.62 .net
- セミプロハルキー氏が自分でやったIntCal20でも纒向の桃核12個全てで3世紀の可能性が高く、また4世紀よりは2世紀の可能性の方が高かった。
彼は九州説でありながら正直物で、桃核の2つ3つでは4世紀の可能性が1%もないデータも示し、
「これは見なかったことにして下さい」と言い、相方に「できるかよ」というツッコミを入れさせる漫才をしている。
2世紀前半〜半ばにはすでに完成していた纒向で、桃が祭祀に使われたのは卑弥呼時代の3世紀でしょう。
男王はおそらく桃を使ってない。
纒向2世紀前半完成説=庄内ゼロ2世紀前半説を採る岸本直文を支持する
- 983 ::2024/05/14(火) 19:30:57.99 .net
- >>978
材木は実際より古い年代が出る
100年育ってから切られた木材の年輪の内側は
木が若かった時の炭素年代で出るから
大型の建築物だと太い材木が使われるからよりそれが顕著になる
実際法隆寺に使われてる木材は
火事で焼けて670年に再建したのに500年代の結果が出る
- 984 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:31:37.00 .net
- >>983
それは酸素同位体比年輪年代法ではない
- 985 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:34:48.84 .net
- >>978
>素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口も舶載でしょう。
鉄器王国「阿波」の鉄剣に決まっている。 @阿波
- 986 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:38:03.99 .net
- 新しい知見を示す。
纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。
各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。 @阿波
- 987 ::2024/05/14(火) 19:38:05.59 .net
- これが畿内説のゴッドハンド
じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、
箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、
歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい
[これについては、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)、58ページ以下などにくわしい]。
さすがに、『毎日新聞』はこの疑問点について、2009年6月8日付夕刊で、
歴博の研究グループの小林謙一氏に問いただしている。
ところがこの質問に対する小林氏の回答は、記事では、次のように一言で記されている。
「理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、『考古学的にありえない』として退けられた」
小林氏のいうように「考古学的にありえない」は正しいのであろうか。正しくない。
すでに紹介したように、東大の考古学者、斉藤忠教授は、
箸墓古墳の築造年代は四世紀の中ごろまたはそれをやや下降する時期に築造された崇神天皇陵古墳よりも、
さらにおくれて築造されたものとしておられるのである。
また、奈良県立橿原考古学研究所の考古学者で、纏向遺跡を発掘された関川尚功氏は、
ホケノ山古墳や箸墓古墳は、いずれも、ほぼ同時期の布留1式期のもので、四世紀の中ごろのものであることを、ここ四十年近くにわたり、相当な根拠をあげて主張しておられる。
[関川氏の古い論文には、「近畿・庄内式土器の動向」
(『三世紀の九州と近畿』河出書房新社、1986年刊所収)があり、比較的最近の著書に『考古学から見た邪馬台国大和説-畿内ではありえない邪馬台国』(梓書院2020年刊)がある。]
- 988 :1 :2024/05/14(火) 19:45:12.57 .net
- 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715680313/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
- 989 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:46:12.08 .net
- >>987
理化学的年代測定法を完全に無視し始めた関川先生
残念です
- 990 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:47:52.89 .net
- >>989
気にするな。 どっちに転んでも、倭人(阿波勢力)の墓なんだから。 @阿波
- 991 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:50:29.28 .net
- >>987
>じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、
>箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、
>歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい
そんな事実ないけど
>すでに紹介したように、東大の考古学者、斉藤忠教授は、
死んでます
>また、奈良県立橿原考古学研究所の考古学者で、纏向遺跡を発掘された関川尚功氏は、
布留0式を識別できないので全部布留1に入れてます
間違いです
- 992 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:52:55.97 .net
- >>987
>四世紀の中ごろのものであることを、ここ四十年近くにわたり、相当な根拠をあげて主張しておられる。
あげてないな
- 993 ::2024/05/14(火) 19:54:08.43 .net
- これが畿内説のゴッドハンド
あらためて“箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない”を読んでみよう
歴博研究グループののべていることは、炭素14年代測定法による測定データが示している客観的事実そのものにもとづくものではない。
みずからがあらかじめもつ考えに、つごうの悪いデータは、無造作かつ乱暴にはずし、
つごうのよいデータだけをとって、特定のマスコミにリークするという典型的なチェリーピッキングの方法によっている。
そして、それがあたかも、炭素14年代測定法によってえられた客観的事実であるかのように、マスコミに流している。
これは、科学的な不正行為のうちの、「矛盾するデータの隠蔽(いんぺい)」にあたるものである。
https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku400.htm
- 994 ::2024/05/14(火) 19:55:28.87 .net
- >>992
論文のタイトルあるからご自身で確認したら?
- 995 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:56:13.12 .net
- 畿内は自律的に邪馬台国を形成したであろうことが、突線鈕5式を、弥生時代後期に広げていることからも明らかである
無論、吉備でも突線鈕4式までは出るので、畿内邪馬台国が自生的に成立したとする岸本直文を支持せざるを得ない
- 996 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:23:29.54 .net
- 消化してやろ
- 997 : 警備員[Lv.2(前10)][新苗警]:2024/05/14(火) 20:24:48.37 .net
- 伊邪國は伊予(四国)
>次伊邪國安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革為衣蓋伊耶國也
伊邪國 伊予
↓ 西南海行一日
伊邪分國 通称「(蓋)伊耶國」
↓行程が一致
https://i.imgur.com/k8Nq5e9.jpeg
・字義考察
蓋 = ふた、フキアエズの神話
伊
耶 = 耳、ミミ、国東半島が耳のカタチ
がい〖蓋〗 ガイ・ふた おおう
1.かぶせる。おおう。ふたをする。
2.おおうもの。かさ。ふた
会意形声。艸と、盍(カフ)→(カイ)(ふたをする)とから成る。草のふた、ひいて「おおう」意を表す。「盍」の後にできた字。借りて、助字に用いる。
↓
↓ウガヤフキアエズ
『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあえず)」と名付けたという。
蓋は漢文で「けだし」
蓋伊耶 = カイイヤ = カヤ
伊邪の分家がウガヤフキアエズ朝
伊邪とは、だーれだ?w
- 998 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:25:58.46 .net
- 北枕に中華度量衡は中華の影響以外にないだろ
無駄だよ
- 999 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/14(火) 20:30:50.29 .net
- >>986
東阿波型土器の定義をど素人のおまはんが勝手に変えるなよw
- 1000 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:31:27.46 .net
- 国東が耳のかたち
すごいわ
0歳児に投票権に心動かされるでしょ?
- 1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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