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邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

424 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:06:30.89 .net
チェリーピッキングだよな
畿内説に有利な魏志倭人伝の記述は採用し
畿内説に不利な魏志倭人伝の記述は信憑性が低いと排除する

邪馬台国は畿内にあった

という結論に合わせてチェリーピッキングする
それが畿内説

425 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:09:51.95 .net
>>424
そうだという証拠なし
九州説は常に証拠なし

426 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:10:58.40 .net
>>425

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

427 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:11:26.94 .net
>>425

> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ

428 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:12:10.20 .net
>>423
邪馬台国が書かれてるのは魏志倭人伝だけじゃないし
なにより重要なのは遺跡の発見
これらに依って検証はできる
例えば邪馬壹と邪馬臺はどちらが正しいか?
邪馬壹と書いてるのは魏志だけだし隋書で
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也だから
この時代の魏志には邪馬臺と書いてあって後に誤写があったと想像できる

429 ::2024/05/12(日) 23:16:40.02 .net
>>428
卑弥呼と同時代の遺跡が幾つもあるなら遺跡以外の出土品が邪馬台国比定の鍵だろう

430 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:24:57.87 .net
>>420
その通り。無意味だ。
>>378後段参照。

431 ::2024/05/12(日) 23:33:15.33 .net
>>430
お前なんでこのスレにいるんだよw

432 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:33:26.56 .net
>>419
北枕なる文化を有する権力体が、
或いは有さない権力体が、
「邪馬台国である」ことの証明は如何なる方法を以てするのか。

仮に「親魏倭王」印が出土した所でいくらか蓋然性を増すに過ぎない。
「漢委奴国王」印を巡る議論くらいご存知だろう。
証明と云う行為を舐めてはいけない。
それは「反証可能性をゼロならしむること」だ。
古代史学に許された方法でそれが可能かな?
 

433 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:34:06.88 .net
>>431
>>384後段参照。

434 ::2024/05/12(日) 23:39:05.25 .net
>>433
なんだ空気読めないクズかw
現実に漢の時代や魏の時代や西晋の時代の鏡や
中国産の朱や鉄器等が多数出土してるんだから
中国との交易があったのはファクト
中国側の歴史書の記述を裏付ける漢委奴国王印も見付かってる
頭良い振りした馬鹿だよ君は

435 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:43:13.95 .net
>>434
>>378参照。

436 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:44:14.91 .net
まあ俺も日本がいつ始まったかが重要で卑弥呼は居ないなら居ないで別に良いんだけどさ
ただ居ない事を証明するのは難しいし居た前提で話をしてる

437 ::2024/05/12(日) 23:45:26.66 .net
>>435
答えになってない

438 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 23:45:33.80 .net
>>432.探求を拒否する者には必要のない話だろ
ひとつは卑弥呼は鬼道。中華の理解するであろう鬼道の痕跡の或地であろうが。
吾輩は八世紀以降を否定しないがそれ以前は探求を拒否する者等と考えを異にする者だと言うことだね。
藤原のファミリーストーリーとも考えてはいないが現在の上の者等の告知とも云える天皇制からも無駄だよと答えているつもりだ。
現在の理念はこの卑弥呼の時代はまだ半島だな。

439 ::2024/05/12(日) 23:49:24.53 .net
弥生時代に大陸と交易があったのはファクト
漢委奴国王印を贈ったという大陸の記録と
実際に見付かった漢委奴国王印
真贋論争のあった漢委奴国王印だが俺が見た最新の記事では本物らしいという結論だった
文献と、文献を裏付ける記述が揃っているのだから
中国側の資料の信憑性がある程度は担保されてる

440 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 23:51:50.70 .net
>>439
真贋もそうだしあの場所も怪しいわな
何もない所から金印一個だけ何故出るのか?

441 ::2024/05/12(日) 23:58:35.58 .net
>>440
「漢委奴国王」金印は、天明4年(1784)に志賀島(現在、福岡市東区)の叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見された。

2人持ほどの石の下
2人掛かりで持ち上げなければならない石の下なら隠されたんだろうな
石が目印

442 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:00:22.16 .net
>>426
>なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

賞味期限切れのオワコン情報使っても無駄
研究が進んだら意見変えてるから

443 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:02:40.46 .net
妄想畿内説、妄想阿波説、どちらも一重瞼の朝鮮系関西人が
考えそうな事

444 ::2024/05/13(月) 00:06:02.67 .net
>>442
畿内説はその資料は古いからというけど
絶対に最新の資料出さないよねwww

445 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:08:37.50 .net
>>437
論理に詰まった者の常套句だな。

446 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:10:46.05 .net
>>445
紀元前から日本と大陸に交易があったのは認めるよな

447 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:15:25.67 .net
>>445
魏志倭人伝に書かれた道里は現実の日本の場所に比定出来る場所がある
対馬や壱岐島末盧国伊都国奴国までは
畿内説の学者も比定してる
不弥国辺りから議論が起きるが。
つまり魏志倭人伝に書かれてることが1から10まで全部作り話というのは
この時点で否定されてる

448 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:22:50.90 .net
>>439
文系脳にありがちな詭弁。
或る文献に記事A、B、C、D、E、…が記載される時、
Aが真であることはB以下の信憑性を全く担保しない。
それらは個別に検証されなければならない。
特に「中国の史書に記された倭に関する伝聞記事」などは書誌的な信憑性を完全に欠く以上、
なおのこと個別実証が不可欠となる。

449 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:24:36.00 .net
>>447
>>448参照。

450 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:25:20.95 .net
>>448
文献とそれを裏付ける証拠(出土品等)があれば
それは高確率で真実だろう

451 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:27:09.87 .net
文献単品の信憑性を確認する方法が
文献の記述を証明する出土品や遺跡の存在

452 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:29:47.05 .net
>>446
「交易または交流」と読み替えるならば、それには物証がある。
即ち文献に拠らず即物的に実証される。
小生がそれを否定したことは一度も無いが?

453 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:31:33.66 .net
sでにこれまでも何千何万回言われているが畿内からは鉄製品は
殆ど出土していない倭人伝に記載している事とかけ離れすぎ
卑弥呼が暮らしていた楼観城柵がある建築物の出土も無い
纏向は1万%邪馬台国では無いと断言できる

454 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:32:04.82 .net
>>444
出てますが?
卑弥呼の時代に九州から絹、どれほど出てる?

455 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:34:50.40 .net
>>450
「真実」と云う言葉が軽過ぎる。
確率は確率に過ぎない。
「真実である」とは「それ以外の想定に物理的可能性が皆無であること」を意味する。
ましてや古代史の如く記述と出土品が一対一で対応することの証明さえ成し得ない場合に安直に使うべき言葉ではない。

456 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:38:49.90 .net
>>452
なら大陸側にその記録が文書で残っていてもおかしくないよな

457 :琪瑛教大祭酒:2024/05/13(月) 00:39:17.39 .net
卑弥呼30国から出てくれば問題無しの物ばかりだな。
肝心要は卑弥呼は鬼道。
大谷は野球。世界で野球の盛んな所を探すのが当然。
九州には朴信仰が中心
居るわきゃあない。

458 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:40:09.47 .net
>>454
>>426に書いてありますよ
『弥生時代の絹』に関しては九州からしか出土してません

459 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:42:37.44 .net
>>456
何某かの文書・記述が存在したとして、
それと物件(出土品等)が確かに対応していることを如何にして証明するのかが問われる。

460 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:44:10.75 .net
>>455
数学じゃないからな
歴史は新証拠一発で定説がひっくり返ることもあるから
真実である『確率が高い』という言い方が最も適当
分からないことは分からないと保留するのは大事だが
邪馬台国なんて無かった、魏志倭人伝は嘘っぱちと決めつけるのは
ベクトルが正反対なだけで科学的態度ではない

461 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:45:17.23 .net
>>458
>『弥生時代の絹』に関しては九州からしか出土してません

その証拠は?

462 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:46:26.70 .net
>>459
鏡の編年は中国の考古学者の研究がある
日本で見付かった鏡を調べればいつの時代の鏡か確認できる
そういう研究の成果だよ

463 ::2024/05/13(月) 00:49:11.74 .net
>>461
他からも見付かってるなら君がソース付きでそれを示すんだよ
九州の絹は
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf

が証拠

464 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:51:48.40 .net
>>460
小生の言説を歪曲するのは止めて頂こうか。
「無かった」だの「嘘っぱち」だのと云った覚えは無い。
信憑性が確立されない限りは評価を保留し続けなければならない、
ましてそれを無批判に論拠にするなどは科学的思考ではない、と云っている。
そして「信憑性の確立」とは上述の定規の比喩の如く
「既に別途事実であると確定したモノ/コト」を標準に据えて成されなければならない。

465 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:56:20.11 .net
>>462
混同してはいけない。
それは「その鏡が特定年代に製造された」ことの検証であって、
「その鏡が或る文献に記載された当該物件である」ことの証明にはならない。
鏡にPNやSNが刻んであって文書にも記録されていたりすれば蓋然性は高まるだろうが。

466 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:57:21.64 .net
>>464
評価を保留するなら黙ってROMってるべきだな
みんな
『邪馬台国が実在するなら』という仮定の元で議論してるんだから
評価保留するべきとか的外れ過ぎてちゃんちゃらおかしい

467 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:58:41.59 .net
>>465
国産ではなく中国産なのは明らかなんだから
大陸と交易があったことを証明するのはそれで
充分

468 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:59:21.07 .net
>>466
>>384後段参照。
失礼ながら貴信にも嗤いを禁じ得ない。

469 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:59:48.00 .net
>>468
荒らしだよな
死ね

470 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:01:08.80 .net
畿内説が否定されるくらいなら
邪馬台国自体無かったことにしたい

471 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:02:38.85 .net
>>467
粗雑だな。
それで充分とするのが文系脳か。

更に云う。
交易と安直に云うが、「易」の字義を理解しているのだろうか?
それを証明することは更に困難を極めるということを認識されたい。

472 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:57:06.18 .net
>>463
>他からも見付かってるなら

そういうレベルの話じゃないんだよ
1989年の論文で「弥生絹ガー」とか言っても通用しないのが理解できないのか?

それは悲しい事だよ
あなたにとって

473 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:01:18.53 .net
大陸と交易が無かったら銅鐸どうやって作るんだ?
銅は国産か?

474 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:05:40.77 .net
>>473
小生は>>452に於いてわざわざ「交易または交流」と留保を付けた。
「易」の字義と併せてその意味をよくよく吟味されたい。

475 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:15:23.63 .net
邪馬台国は九州以外てこと?

476 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:17:08.42 .net
是啊

477 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:35:02.38 .net
畿内が倭国なら一大率が畿内に無いのは変でしょ

478 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:41:05.90 .net


479 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:43:31.16 .net
難波の鴻臚館は裴世清が来たことを知って慌てて建てているから畿内が中国の使者を向かい入れたのは初めてだったと伺い知れる

480 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:44:31.82 .net
>>477
無いかわからんだろ
一大率が何なのかが謎ではあるけど
四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之
ならたくさん居るよ

481 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:02.06 .net
>>480
時代が違う

482 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:09.20 .net
中国は邪馬臺が王宮のある場所だと勘違いしてるしずっと同じ場所にあるんだよ

483 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:50:02.08 .net
>>481
役割は同じでしょ
中国の刺史のようなものでも地方検察官だし

484 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:51:27.12 .net
特級呪物

485 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:55:29.59 .net
>>483
倭人伝に書かれた時代の事を言っているのだが

486 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:56:19.44 .net
一大率とは書いてるけど諸国の王の事だと思うけどな
隋書の一大率は違うかも知れんけど

487 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:57:25.54 .net
>>485
だから役割は同じだろうが
刺史のようなものと書いてるんだから

488 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:00:40.38 .net
倭人伝では伊都国だけに一大率は置かれている、その南に女王国がある。畿内は倭国では無いので一大率を置く必要は無い。

489 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:04:17.39 .net
>>488
伊都国について書いてるんであって一大率が一人しか居ないなんて書いてないから
それどころか刺史のようなものと書いてる
政治体制には関心があるはず

490 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:12:34.83 .net
軍隊を率いてるんだし諸国の王以外あり得んと思うけどな
それなら容易に想像できる

491 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:15:09.38 .net
一大率の前身を帥升とする説もある

492 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:17:31.91 .net
>>491
帥升は倭国王と書いてんじゃん
なんで根拠もなく歪曲した考え方するかね?

493 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:28:58.86 .net
港に着いた使者を女王の下に送り届けるまで護衛する
当然賜り物の運搬もする
これで女王国以北を検察するの辻褄が合う

494 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:56:22.07 .net
帥升

一大率

大宰帥

495 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:58:04.17 .net
一大率って謎の役職だよな
中国語であれば刺史のようなものなんて書く必要あるのか?
日本語なら「イダル」?
なんと読むかわからんが唐代にもあった役職のはずだが聞いた事がない

496 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 04:09:59.57 .net
一大率はイタル、つまり目的地だと思う

497 ::2024/05/13(月) 05:11:12.06 .net
一大国が一支(壱岐)国なので一大率は一支(壱岐)率の可能性もあるな
役職名が「一大率」なのか一人の「大率」なのか「一支率」なのかはっきりしない

498 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:21:30.86 .net
一大率 → イチダーシャイ → イトダサイ → 伊都太宰

499 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:43:52.03 .net
>>475
そう

500 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:47:33.15 .net
>>471
じゃた公益無かったというのが君の結論かw
池沼

501 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:06:38.32 .net
魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
https://n-story.jp/site/wp-content/themes/n-story2023/assets/images/old/topic/03/img/zu_joumon.gif
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20200404/20200404162242.png
九州は翡翠も水銀も端っこの方からチョロっとしか出ない

502 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:07:14.93 .net
>>497
唐書も一大率だから間違いではない

503 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:35:26.64 .net
平原は甕棺を捨てて割竹形木棺となっている
墓も非常に小さい
鏡の多量副葬は九州ではこれが最後であり、畿内邪馬台国の影響下に入ったと見る
鏡が比較的容易に手に入った北部九州では、墓を大きく作るよりも鏡を副葬する方が簡単だったろう
しかし、これは漢鏡5期までだ
7期からは畿内にコントロールされていたと見られ、変な鏡はちらほら出てくるが画文帯神獣鏡は斜縁神獣鏡は極めて少なく、三角縁神獣鏡は畿内から配布されただけだ

そうすると、平原の鏡は畿内の傘下に入ってしまった北部九州のオウ、最後の畿内に対する抵抗と見ることができるだろう

504 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:42:45.74 .net
>>503
発掘品は出雲や畿内の銅鐸文化を鏡文化が駆逐、制圧したことを示しています

505 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:28.47 .net
これだけだと権力層が上京して
地元に出涸らしだけ残った感じにも取れる
やっぱ畿内甕が出る直前の各地方の国力が知りたい

506 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:46.37 .net
>>504
相互に影響し合っただろう
楯築を見ると本州には鏡の副葬文化はなかった
鉄剣などは副葬していたが
鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう

507 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:49:33.87 .net
つまり九州説はウソ

508 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:53:36.87 .net
>>453
纒向が「女王之所都」である
1万%などと言うほどあなたに知識はないでしょう
考古学者のほとんど全ては纒向が卑弥呼のいた場所だと考えている

509 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:54:27.96 .net
>>506
>鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう

そもそも、北部九州には楯築のような墳丘墓が無い。  北部九州は論外。   @阿波

510 ::2024/05/13(月) 06:55:08.05 .net
弥生時代の畿内の銅鐸、方形周溝墓の文化が駆逐されて北部九州のような銅鏡、墳丘墓(→古墳)、豪華な副葬品の文化(+特殊器台や桃核など吉備の文化)に置き換わっているのだから、畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう

8世紀の皇室が先祖は九州から吉備を経由して奈良を征服したと書いていることと一致する

511 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:39.78 .net
九州の玄界灘から二ヵ月進んだ所に卑弥呼は居るのだ
それが九州だと思うやつは頭おかしい

512 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:47.79 .net
>>510
>畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう

アホか! 倭人(阿波勢力)が出張っただけのこと。   @阿波

513 ::2024/05/13(月) 06:58:59.62 .net
以下、久住猛雄のXより

「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」

「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」

「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」

「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」

「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」

「考古学を学ぶ気がない方に「近隣窮乏化」と言われてもなあ。記紀だけこねくり回している方がそれです。
「西日本共立説」で括ってもいいですが、「自生説」の考古学的根拠が崩れていることぐらいお調べくださいね。たぶん調べないだろうけど。」

514 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:01:44.91 .net
自生なら銅鐸捨てんわな

515 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:03:55.41 .net
>>511
日にちが正確だと思うやつは頭がおかしい

516 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:04:44.87 .net
>>510
だが、同時に北部九州の雄博多は筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が成立し、在地系甕が駆逐されている
甕棺も駆逐され、纒向石塚型前方後円墳、定型化前方後円墳も受け入れている

画文帯神獣鏡も出ないことから、北部九州が畿内を一方的に征服したとは思われない

517 ::2024/05/13(月) 07:06:56.37 .net
松木武彦は「古墳とはなにか」で以下のように書く
30年前に主流だった古い畿内自生説のようなヤマト王権による一元的な地方支配など全く想定していない

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

518 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:08:17.88 .net
畿内説の陸行は1日5キロだしな、
水行1日5キロで30日だと150キロ
九州内で収まる

519 ::2024/05/13(月) 07:11:18.20 .net
>>516
纒向が河内の庄内甕を文化として受け入れたのと同じように、筑前は仲の良い播磨経由で庄内甕を文化として受け入れた

纒向が河内の政治的支配を受けたのではないのと同じように、筑前が播磨や河内の支配を受けたのではない(ましてや同じように庄内甕を受け入れた立場の大和の支配を受けたはずがない)

520 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:12:27.49 .net
その親藩が新羅人の五十迹手(の祖先)なんだから
親玉のシルエットも分かるというものだな
五十にはイとかイカのバリエーションがある

イニエ、イタケル、イサチ、イスズヒメ
イカヒメ、イカガノシコオ、イニシキ
イカタラシ、イオキ、イサキ、ヒコイカツ
(カモノワケ)イカヅチ

521 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:13:29.41 .net
>>513
久住が言ってるのは単に言葉の解釈
松木も出雲のシンポジウムでは「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」と言いながら、吉備のシンポジウムではそのようなことは一切言わなかった
寺澤も初期には「吉備が畿内を征服」と言いながら、後に言い方を変えた(多分関西人に反発されてから)

「日本みんなで仲良くしましょう」というイデオロギーが見え見えである
寺澤も堂々と吉備が畿内を征服したと言えば良い

522 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:14:51.37 .net
>>519
在地甕が駆逐されたから、畿内に征服されたと考える

523 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:15:22.29 .net
甕文化圏のひとまだ頑張ってるのかw

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