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邪馬台国畿内説 Part1022
- 1 :1 :2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
- 469 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 00:59:48.00 .net
- >>468
荒らしだよな
死ね
- 470 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:01:08.80 .net
- 畿内説が否定されるくらいなら
邪馬台国自体無かったことにしたい
- 471 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:02:38.85 .net
- >>467
粗雑だな。
それで充分とするのが文系脳か。
更に云う。
交易と安直に云うが、「易」の字義を理解しているのだろうか?
それを証明することは更に困難を極めるということを認識されたい。
- 472 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 01:57:06.18 .net
- >>463
>他からも見付かってるなら
そういうレベルの話じゃないんだよ
1989年の論文で「弥生絹ガー」とか言っても通用しないのが理解できないのか?
それは悲しい事だよ
あなたにとって
- 473 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:01:18.53 .net
- 大陸と交易が無かったら銅鐸どうやって作るんだ?
銅は国産か?
- 474 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:05:40.77 .net
- >>473
小生は>>452に於いてわざわざ「交易または交流」と留保を付けた。
「易」の字義と併せてその意味をよくよく吟味されたい。
- 475 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:15:23.63 .net
- 邪馬台国は九州以外てこと?
- 476 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:17:08.42 .net
- 是啊
- 477 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:35:02.38 .net
- 畿内が倭国なら一大率が畿内に無いのは変でしょ
- 478 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:41:05.90 .net
- ゑ
- 479 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:43:31.16 .net
- 難波の鴻臚館は裴世清が来たことを知って慌てて建てているから畿内が中国の使者を向かい入れたのは初めてだったと伺い知れる
- 480 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:44:31.82 .net
- >>477
無いかわからんだろ
一大率が何なのかが謎ではあるけど
四面小島五十餘国皆附属為其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之
ならたくさん居るよ
- 481 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:02.06 .net
- >>480
時代が違う
- 482 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:48:09.20 .net
- 中国は邪馬臺が王宮のある場所だと勘違いしてるしずっと同じ場所にあるんだよ
- 483 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:50:02.08 .net
- >>481
役割は同じでしょ
中国の刺史のようなものでも地方検察官だし
- 484 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:51:27.12 .net
- 特級呪物
- 485 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:55:29.59 .net
- >>483
倭人伝に書かれた時代の事を言っているのだが
- 486 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:56:19.44 .net
- 一大率とは書いてるけど諸国の王の事だと思うけどな
隋書の一大率は違うかも知れんけど
- 487 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 02:57:25.54 .net
- >>485
だから役割は同じだろうが
刺史のようなものと書いてるんだから
- 488 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:00:40.38 .net
- 倭人伝では伊都国だけに一大率は置かれている、その南に女王国がある。畿内は倭国では無いので一大率を置く必要は無い。
- 489 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:04:17.39 .net
- >>488
伊都国について書いてるんであって一大率が一人しか居ないなんて書いてないから
それどころか刺史のようなものと書いてる
政治体制には関心があるはず
- 490 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:12:34.83 .net
- 軍隊を率いてるんだし諸国の王以外あり得んと思うけどな
それなら容易に想像できる
- 491 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:15:09.38 .net
- 一大率の前身を帥升とする説もある
- 492 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:17:31.91 .net
- >>491
帥升は倭国王と書いてんじゃん
なんで根拠もなく歪曲した考え方するかね?
- 493 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:28:58.86 .net
- 港に着いた使者を女王の下に送り届けるまで護衛する
当然賜り物の運搬もする
これで女王国以北を検察するの辻褄が合う
- 494 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:56:22.07 .net
- 帥升
一大率
大宰帥
- 495 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 03:58:04.17 .net
- 一大率って謎の役職だよな
中国語であれば刺史のようなものなんて書く必要あるのか?
日本語なら「イダル」?
なんと読むかわからんが唐代にもあった役職のはずだが聞いた事がない
- 496 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 04:09:59.57 .net
- 一大率はイタル、つまり目的地だと思う
- 497 ::2024/05/13(月) 05:11:12.06 .net
- 一大国が一支(壱岐)国なので一大率は一支(壱岐)率の可能性もあるな
役職名が「一大率」なのか一人の「大率」なのか「一支率」なのかはっきりしない
- 498 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:21:30.86 .net
- 一大率 → イチダーシャイ → イトダサイ → 伊都太宰
- 499 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:43:52.03 .net
- >>475
そう
- 500 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 05:47:33.15 .net
- >>471
じゃた公益無かったというのが君の結論かw
池沼
- 501 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:06:38.32 .net
- 魏志倭人伝「出真珠青玉 其山有丹」
https://n-story.jp/site/wp-content/themes/n-story2023/assets/images/old/topic/03/img/zu_joumon.gif
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20200404/20200404162242.png
九州は翡翠も水銀も端っこの方からチョロっとしか出ない
- 502 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:07:14.93 .net
- >>497
唐書も一大率だから間違いではない
- 503 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:35:26.64 .net
- 平原は甕棺を捨てて割竹形木棺となっている
墓も非常に小さい
鏡の多量副葬は九州ではこれが最後であり、畿内邪馬台国の影響下に入ったと見る
鏡が比較的容易に手に入った北部九州では、墓を大きく作るよりも鏡を副葬する方が簡単だったろう
しかし、これは漢鏡5期までだ
7期からは畿内にコントロールされていたと見られ、変な鏡はちらほら出てくるが画文帯神獣鏡は斜縁神獣鏡は極めて少なく、三角縁神獣鏡は畿内から配布されただけだ
そうすると、平原の鏡は畿内の傘下に入ってしまった北部九州のオウ、最後の畿内に対する抵抗と見ることができるだろう
- 504 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:42:45.74 .net
- >>503
発掘品は出雲や畿内の銅鐸文化を鏡文化が駆逐、制圧したことを示しています
- 505 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:28.47 .net
- これだけだと権力層が上京して
地元に出涸らしだけ残った感じにも取れる
やっぱ畿内甕が出る直前の各地方の国力が知りたい
- 506 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:45:46.37 .net
- >>504
相互に影響し合っただろう
楯築を見ると本州には鏡の副葬文化はなかった
鉄剣などは副葬していたが
鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう
- 507 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:49:33.87 .net
- つまり九州説はウソ
- 508 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:53:36.87 .net
- >>453
纒向が「女王之所都」である
1万%などと言うほどあなたに知識はないでしょう
考古学者のほとんど全ては纒向が卑弥呼のいた場所だと考えている
- 509 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:54:27.96 .net
- >>506
>鏡を副葬する文化は北部九州の影響でしょう
そもそも、北部九州には楯築のような墳丘墓が無い。 北部九州は論外。 @阿波
- 510 ::2024/05/13(月) 06:55:08.05 .net
- 弥生時代の畿内の銅鐸、方形周溝墓の文化が駆逐されて北部九州のような銅鏡、墳丘墓(→古墳)、豪華な副葬品の文化(+特殊器台や桃核など吉備の文化)に置き換わっているのだから、畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう
8世紀の皇室が先祖は九州から吉備を経由して奈良を征服したと書いていることと一致する
- 511 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:39.78 .net
- 九州の玄界灘から二ヵ月進んだ所に卑弥呼は居るのだ
それが九州だと思うやつは頭おかしい
- 512 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 06:58:47.79 .net
- >>510
>畿内弥生勢力と不連続的で突発的な纒向は北部九州・吉備連合による征服勢力が作った遺跡だろう
アホか! 倭人(阿波勢力)が出張っただけのこと。 @阿波
- 513 ::2024/05/13(月) 06:58:59.62 .net
- 以下、久住猛雄のXより
「なんか面倒くさいの来た。
古いヤマト王権自生説北部九州制圧説の典型論。」
「未だに、邪馬台国時代の北部九州を「成り下がった」とする人まだまだいるんだ?とため息」
「ここでいうロジスティクスは、奈良盆地軍が弥生終末に北部九州を制圧云々という言説への批判。わかってないですね。ていうか奈良盆地軍が北部九州制圧とかまだ妄想してるのですか?考古学的証拠出してください。→」
「武力制圧の根拠にはなってませんけど?
十分だと思うなら思っていてください。
しかし不思議なことに北部九州って、この時代王族将軍の「平定」対象になってない。なぜか?
ヤマト王権成立そのものに深く関与した親藩譜代の地域だからですよ。」
「倭国王配下の国々は倭国王が「統治」しているらしい。
古代史を勉強してください。」
「考古学を学ぶ気がない方に「近隣窮乏化」と言われてもなあ。記紀だけこねくり回している方がそれです。
「西日本共立説」で括ってもいいですが、「自生説」の考古学的根拠が崩れていることぐらいお調べくださいね。たぶん調べないだろうけど。」
- 514 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:01:44.91 .net
- 自生なら銅鐸捨てんわな
- 515 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:03:55.41 .net
- >>511
日にちが正確だと思うやつは頭がおかしい
- 516 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:04:44.87 .net
- >>510
だが、同時に北部九州の雄博多は筑前型庄内甕、北部九州型布留甕が成立し、在地系甕が駆逐されている
甕棺も駆逐され、纒向石塚型前方後円墳、定型化前方後円墳も受け入れている
画文帯神獣鏡も出ないことから、北部九州が畿内を一方的に征服したとは思われない
- 517 ::2024/05/13(月) 07:06:56.37 .net
- 松木武彦は「古墳とはなにか」で以下のように書く
30年前に主流だった古い畿内自生説のようなヤマト王権による一元的な地方支配など全く想定していない
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
- 518 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:08:17.88 .net
- 畿内説の陸行は1日5キロだしな、
水行1日5キロで30日だと150キロ
九州内で収まる
- 519 ::2024/05/13(月) 07:11:18.20 .net
- >>516
纒向が河内の庄内甕を文化として受け入れたのと同じように、筑前は仲の良い播磨経由で庄内甕を文化として受け入れた
纒向が河内の政治的支配を受けたのではないのと同じように、筑前が播磨や河内の支配を受けたのではない(ましてや同じように庄内甕を受け入れた立場の大和の支配を受けたはずがない)
- 520 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:12:27.49 .net
- その親藩が新羅人の五十迹手(の祖先)なんだから
親玉のシルエットも分かるというものだな
五十にはイとかイカのバリエーションがある
イニエ、イタケル、イサチ、イスズヒメ
イカヒメ、イカガノシコオ、イニシキ
イカタラシ、イオキ、イサキ、ヒコイカツ
(カモノワケ)イカヅチ
- 521 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:13:29.41 .net
- >>513
久住が言ってるのは単に言葉の解釈
松木も出雲のシンポジウムでは「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」と言いながら、吉備のシンポジウムではそのようなことは一切言わなかった
寺澤も初期には「吉備が畿内を征服」と言いながら、後に言い方を変えた(多分関西人に反発されてから)
「日本みんなで仲良くしましょう」というイデオロギーが見え見えである
寺澤も堂々と吉備が畿内を征服したと言えば良い
- 522 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:14:51.37 .net
- >>519
在地甕が駆逐されたから、畿内に征服されたと考える
- 523 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:15:22.29 .net
- 甕文化圏のひとまだ頑張ってるのかw
- 524 ::2024/05/13(月) 07:15:22.51 .net
- 米田俊幸や佐々木憲一は土器の伝播は文化交流であって政治的意味はあまりないとする
以下、佐々木憲一「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」より
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』
- 525 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:15:44.52 .net
- 土器は畿内で徴発した奴隷が持ち込んだものだな
- 526 ::2024/05/13(月) 07:16:50.37 .net
- >>522
その理屈ならば奈良盆地は河内の豪族に征服されたことになる
- 527 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:17:56.28 .net
- 銅鐸を捨てて鏡を受け入れた時点で九州から東遷があったのは確実
↑
甕文化圏よりは説得力があるな!
- 528 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:19:28.59 .net
- 九州は墓の高塚化を強要されている
- 529 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:20:55.71 .net
- 畿内は三種の神器を強要されてしまった
- 530 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:21:20.38 .net
- 吉備も銅鐸民なので被征服
安芸の多紀理宮で7年、吉備高島宮で3年ないし8年
吉備で東征終わっても良かったみたいだけど
椎根津彦が現れて気が変わったようだ
- 531 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:31:36.60 .net
- >>506
銅鐸文化な残らず、日本書紀や古事記からも抹消されてる
出雲地方ではまとめて埋めれていたのが発掘されてるから
徐々に廃れたというよりは改宗させられた疑いが濃厚
- 532 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:32:39.09 .net
- 桜井茶臼山の大王を橿考研は「他の追随を許さない圧倒的な王」とか、「邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権」などと表現している
上下関係は存在しない、日本は何でも平等という方がおかしい
仁徳天皇陵を見ても日本全国平等と思うなら、そもそもその人とは価値観が違う
- 533 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:34:43.39 .net
- >>517
一方で、松木は出雲のシンポジウムでは「出雲は前方後円墳を受け入れてなくて独自性を保っている」とか、「吉備はヤマト王権に追随して情け無い」などと言っている
- 534 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:35:59.85 .net
- まあ蔡英文がどうたらというのはあたおかだけどな
それに新羅人というより秦漢人なのだろう
だから秦王国
- 535 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:37:02.97 .net
- ×秦漢 ⚪︎秦韓
- 536 ::2024/05/13(月) 07:38:01.61 .net
- >>533
吉備はヤマト王権に追随して情けない、ということは他の地域はあまりヤマト王権に追随していないということだ
古い畿内自生説が言うように魏志倭人伝の時代にヤマト王権が西日本を統一していたのなら、ことさら吉備だけをあげつらうことはなかろう
- 537 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:41:09.08 .net
- >>532
3世紀末まで待たなければいけないのだな
- 538 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:43:29.64 .net
- >>537
初期ヤマト王権は弱体と見られていたが、見直しを迫られるとしている
- 539 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:44:14.63 .net
- >>522
畿内にそんな勢力は無い! @阿波
- 540 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:49:30.45 .net
- >>538
3世紀末が初期なんだな
- 541 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:51:48.23 .net
- >>540
ヤマト王権の初期
橿考研は邪馬台国は卑弥呼、それ以降をヤマト王権と見なしている
- 542 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 07:59:59.85 .net
- つまり畿内説は存在理由がありませんと
- 543 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:01:58.83 .net
- 出涸らし九州説とは違って
畿内説の成り立ちを語ってるんだよな笑
- 544 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:06:32.77 .net
- 考古学者の言葉をいくらコピペしても死んだ九州説は復活しないよ
だってその考古学者たちは畿内説なんだから
- 545 ::2024/05/13(月) 08:11:02.50 .net
- 私の「伊都国東遷説」&「北部九州倭国・畿内ヤマト王権並立説」は寺澤・北條・松木・久住らの主張とは理論的に頗る相性が良い
- 546 ::2024/05/13(月) 08:18:03.18 .net
- 私の伊都国東遷&北部九州倭国・畿内ヤマト王権並立説は以下の通り
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制・横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する勢力)
(続く)
- 547 ::2024/05/13(月) 08:19:01.39 .net
- (続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
- 548 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:19:46.14 .net
- 何かと思ったらヘゲモニーニキか
- 549 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:21:07.97 .net
- あのねえ
伊都国は平原1号のあと、2号→3、4号と続いてるんだよ
東遷してないよ
- 550 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:25:00.65 .net
- >>541
卑弥呼の邪馬臺国から100年後なんだよなあ……
- 551 ::2024/05/13(月) 08:26:47.54 .net
- 伊都国の王族が九州から全ていなくなった訳ではなく残留組もいるだろう
イワレビコも妻子を九州に残して東征した(そして大和で新たな妻子を得た)
- 552 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:28:23.33 .net
- 266年を最後に消息不明になった卑弥呼台与の邪馬臺国
3世紀末には強大な勢力を誇った畿内ヤマト
中国の史書にも記紀にも、元小国だった畿内ヤマトが西征したエピソードが語られている
ここまでわかっててまだ気がつかないふりするのなんなんだろうな
- 553 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:28:27.61 .net
- 平原はお友達で東征本体は豊前や日向(霧島)なんじゃね
九州は王墓と言ってもどんぐりころころ甕棺墓で
インパクト無いのは確かなんだけどね
自生するなら銅鐸は捨てない。これ一択ですわ
- 554 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:29:10.98 .net
- 銅製品の始まりは吉野ヶ里なのか?
古い鋳型があったと最近話題になっていた
出雲で銅製品を大量に集めていた荒神谷遺跡は紀元前後に営みを終える
畿内で銅鐸や銅製品を作っていたのは東奈良遺跡や唐古・鍵遺跡だな
唐古・鍵遺跡のある田原本の伝承
赤い花を咲かす木が生えていたが、地面から黒い蛇が現れて木に絡みついたという
唐古・鍵遺跡にくっつくように清水風遺跡が作られる
- 555 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:38:18.51 .net
- 黒い龍神はトミの一族の伝承と共に今に残っている
トミの一族は体が大きく建築や道具作りに長け農耕を行なっていたが、稲作や金属加工の技術は持っていなかったという
卑弥呼の時代以降銅鐸は消え、銅製品はもっぱら鏡になり、鉄器が主になっていく
畿内で銅鐸など銅製品を作っていた人々は何処に行ったのか?
- 556 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:53:38.83 .net
- 邪馬台国は行程・戸数・地名ぐらいしか情報が無いのに、全部それらを勝手に変更するのが九州説
- 557 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 08:54:17.85 .net
- 銅製品の製造拠点、唐古・鍵遺跡の地には赤い花を咲かす木が生えていた
赤い花と銅製品の製造は関係あるんじゃないか?
石見神楽の五神などによるとかしこねがそれぞれの支配域の采配をしたという
東は青、北は黒、西は白、南は赤、真ん中が埴安大王
赤の人々は古墳時代初頭、惜しまれつつも南すなわち九州に戻るよう采配されたんじゃなかろうか?
- 558 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:01:10.45 .net
- >>556
行程をめちゃくちゃにしたのは畿内説
戸数は奈良に当てはまらない
地名はヤマダという発音なのにヤマトと言い張る親父ギャグレベル
畿内説デタラメじゃないか
- 559 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:06:27.45 .net
- 卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png
【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。
- 560 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:07:33.22 .net
- 卑弥呼より前は畿内では様々な集団が共存していた
銅製品を作る人々、勾玉を作る人々、鉄器を作る人々、稲作民、治水など土木作業に従事する人々、狩猟民、蛸壺などを使う漁師、製塩業
しかし倭国大乱を経て文身の風習のある海人が自分たちだけの国を作る為に卑弥呼を担ぎだした結果、元々共存して暮らしていた様々な集団はばらばらになったんじゃないか
- 561 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:28:47.38 .net
- >>551
>伊都国の王族が九州から全ていなくなった訳ではなく残留組もいるだろう
纒向建設開始は平原1号より前だけど、東遷説の時系列観念ってどうなってるの?
ただのデタラメ?
- 562 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:31:04.68 .net
- >>558
>行程をめちゃくちゃにしたのは畿内説
>戸数は奈良に当てはまらない
>地名はヤマダという発音なのにヤマトと言い張る親父ギャグレベル
ひとつも根拠書いてないけど
ただのデタラメ?
- 563 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:31:09.52 .net
- >>558
九州の何処を水行・陸行一月するの?
九州にはヤマダ国があるの?
水害低湿地の筑紫平野は奈良より人口少ないだろ
- 564 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:51:17.12 .net
- >>563
里数戸数が大きく盛ってあるのに日数は正しいとするのはなぜ?
ヤマダ国の名前から場所を比定する親父ギャグまたやるの?
奈良の人口は何人だったの?
- 565 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:57:01.94 .net
- >>564
>里数戸数が大きく盛ってあるのに日数は正しいとするのはなぜ?
大きく盛ってあると分かってるものは正しいとしないのが当然だろう
疑う理由のないものは疑わない
人として当然だろう
>ヤマダ国の名前から場所を比定する親父ギャグまたやるの?
ただ罵っても反論にならない
>奈良の人口は何人だったの?
関係ない質問は慎め
第三者から、ばかと断定されるぞ
- 566 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 09:59:46.94 .net
- >>565
レスバしたいだけのゴミだったか……
- 567 : 警備員[Lv.8][苗]:2024/05/13(月) 10:04:55.69 .net
- >>561
それぞれ西暦何年なの?(多少の幅はOK)
それだけ偉そうな言い方をするなら仮説ではなく客観的・実証的に確定した情報で頼む
- 568 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:12:43.35 .net
- 筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
- 569 :日本@名無史さん:2024/05/13(月) 10:14:25.78 .net
- 纏向建設は倭国大乱よりも前なんだろう?
卑弥呼共立とは関係のない都市だよな
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