2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

76 ::2024/05/11(土) 23:51:36.45 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

77 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 01:42:41.88 .net
天皇制と言う言葉を使う1は国賊

78 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 04:06:05.89 .net
テンプレ読みました。
畿内に国があったと言うことしかわかりませんでした。
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう。

79 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 05:21:53.80 .net
つまり九州説はウソ

80 ::2024/05/12(日) 06:05:44.04 .net
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sorafull/20200404/20200404162242.png
丹生地名が多い所が邪馬台国

81 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 06:50:30.00 .net
天皇と岸信介は敗戦後すみやかに国民が処刑しておくべきだった

82 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 07:23:13.39 .net
>>81
これが畿内説か

83 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 07:27:06.93 .net
>>81
名無しでトナカイが書いたっぽいな

84 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 07:28:02.06 .net
>>80
>丹生地名が多い所が邪馬台国

丹生地名が多い所は、「阿波」の辰砂採掘技術者が出張った所。   @阿波

85 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 07:45:40.87 .net
>>80
伊都国王の末裔が和歌山の丹生神社の神主だった、朱を求めて和歌山に辿り着いたのだろう

86 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:00:21.34 .net
朱を求めて和歌山に辿り着いたのは、、「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂採掘技術者。   @阿波

87 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:05:26.03 .net
丹=赤土

88 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:10:06.37 .net
『丹生神社と丹生氏の研究』(一九七七年)という本です。古代において朱の探査、採掘にかかわった人たちは丹生氏を称し、全国各地にその子孫がいて、現代日本にもこの名字はのこっていますが、この本の著者である丹生廣良氏は、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)の宮司をなさっていた方です。朱の女神、丹生津姫を祀る各地の丹生神社の総本宮ともいえる神社ですが、丹生廣良氏は驚くべきことを書いています。    伊都国王の後(引用者注:子孫のこと)は白柳秀湖氏も指摘せられたごとく、主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、その一部隊はそのまま九州に留まり、(中略)更には彼の大分県の「丹生郷」の地に進出して、九州における丹生氏族の第二の根拠地をなしたことであったろう。  丹生一族のルーツは伊都国の王族であり、邪馬台国が消滅したあと、各地の朱産地に進出したというのです。」

—『邪馬台国は「朱の王国」だった (文春新書)』蒲池 明弘著

89 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:12:27.82 .net
丹生はニキとも読みますが、伊都国の官はニキでしたね。伊都国王がニキだったのかも知れませんね

90 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/12(日) 08:21:13.90 .net
崇神は行燈山の被葬者だから卑弥呼よりも60年後の人物
一昔前まで佐紀盾列の宝来山が垂仁陵はおかしいと言われていたが、近年の研究では行燈山→宝来山→渋谷向山で正しいとされているから、記紀の伝承を元に治定された現状の行燈山を崇神陵とするのが良いだろう
つまり古事記が伝えるように崇神崩年を316年頃とするのが適切である

なぜか崇神を卑弥呼の男弟にしたがる輩が散見されるが、卑弥呼は欠史八代の時代の人物に比定されるべきである

91 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:27:41.95 .net
>>87
>丹=赤土

九州説はウソ

92 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:30:45.60 .net
朱の産地は九州が圧倒的に多い
https://i.imgur.com/BeuB3id.jpeg

93 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:43:01.72 .net
https://i.imgur.com/BEcZOUq.jpeg
邪馬臺国と狗奴国は朱の採取利権で争っていたのかもしらんね

94 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/12(日) 08:49:11.04 .net
ネトウヨは知らないかもしれなが、和歌山に高野山という古刹がある
ここは仏教寺院として有名なのだが、その昔は神の山だったのだという
高野山の大門は昔は鳥居の形だったのだという

高野山の開基である空海という人物は丹に縁が深かった
今でも高野山には丹生明神という神が祀られている

この空海は弘法大師という名でも知られており、中国からインド発祥の密教を日本に持ち帰った人物であるが、オレは空海はインド的というよりも非常に日本的な人に思えるのである
弘法大師空海の母は玉依御前と伝えられている。玉依というのは記紀の伝承に出てくる玉依姫など、仏教伝来以前の日本的な古風な名前である
また密教の教主を大日如来というのだが、どうもここに古来の日本文化古層の太陽信仰が重なっているのではないかと感じられる
同じ密教でも最澄の比叡山では大日如来はさほど聞かず、鎮護国家の熾盛光などが重視される。これは北極星信仰が重なっている
オレはここに太陽信仰と北極星信仰という二つの軸が隠れているように見えるのである

総じて奈良仏教は仏教以前の古い信仰が見え隠れする
長谷寺の観音は天照であるというし、奈良仏教から神仏習合が始まっていくのも納得である

長くなったからここで止める
丹は古い太陽信仰に縁のあるものであり、ヤマト王権はこれを押さえていたのだろう
卑弥呼もまたヤマトの文化の人物であったに相違なく、邪馬台国=ヤマト王権とかんがえられるのである

95 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:53:44.32 .net
赤土などは魏への貢ぎ物にはならない

96 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:53:49.63 .net
高野山は伊都郡にある

97 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:56:05.02 .net
たとえば
倭国大乱以前から何十年もの間、朱の採取で競合していた狗奴国と邪馬臺国
ずっと仲が悪かったところに倭国大乱が起こり、よりにもよって邪馬臺国から
卑弥呼を共立して大倭王に戴くという話が持ち上がったとしたら
そりゃずーっと仲の悪かった卑弥弓呼からすれば承諾できないかもね

そして卑弥呼が死んで親戚の台与が邪馬臺国以外、例えば伊都国あたりから
共立されたなら、卑弥弓呼としても長年の卑弥呼とのいがみ合いに
終止符をうつのもやぶさかではなかったかもしれん

98 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:57:48.04 .net
>>93
投馬国は筑紫平野か宮崎かどっちかにしろよ
どっちも破綻してるけど

99 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 08:59:45.36 .net
>>92
>朱の産地は九州が圧倒的に多い

そういう妄想どっから出るの?

100 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:06:23.55 .net
豊後国風土記の海部郡丹生郷条に。
「昔時の人、此の山の沙を取りて朱沙に該てき」

続日本紀 文武二年に。
「……伊勢国は朱沙……豊後国は真朱を献ず……」

九州南部・西部は水銀朱の産地である。

101 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:20:06.63 .net
それは後世の技術

102 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:24:29.82 .net
糸島高校に展示されている水銀朱https://i.imgur.com/MsWWWlp.jpeg

103 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:42:59.09 .net
九州が輸入品の水銀朱に依存していた事実は
その山に丹がなかった証拠

104 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:43:11.28 .net
>>98
畿内説よりは筋がいい

105 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:51:32.26 .net
九州に中国産の朱もあると言う事は邪馬台国の可能性が高いと言う事だな

106 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:54:54.03 .net
中国との公益が盛んだった証拠だしな

107 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 09:59:07.73 .net
卑弥呼は魏から鉛丹を貰っているが

畿内からは中国製の丹は出ていない

つまり畿内は邪馬台国では無い

108 ::2024/05/12(日) 10:13:26.28 .net
テスト

109 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:14:18.30 .net
>>107
鉛丹は水銀朱じゃないよ

110 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:18:55.24 .net
卑弥呼が貰ったのは真珠鉛丹だな

111 ::2024/05/12(日) 10:21:53.83 .net
レベルが低すぎる九州説

112 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:23:44.10 .net
九州説さん
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう



w

113 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:44:37.99 .net
鉛丹
主成分は四三酸化鉛で、通常 「丹(たん)」とよばれる。鉛を焼いて作る。

114 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 10:48:50.10 .net
>>104
お前は宇美から水行一月・陸行一月で山鹿に行くんだな
そんで「山鹿より南にあって、遠くて詳細が分からない傍国21ヵ国」は何処だよ

115 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:01:00.15 .net
南?

116 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:02:13.82 .net
魏志倭人伝に書かれた国の希望はどう見ても市町村レベル
県レベルどころか地方レベルで巨大な国を想定する畿内説はNG

117 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:11:38.54 .net
>>102
九州は赤土を拝め!   @阿波

118 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:14:25.26 .net
>>116
同じ国だから国家も集落も判別できなかったんでしょう

119 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:17:06.08 .net
その山に丹あり 魏志
その山に丹土あり 後漢書

シナ側も混乱しとるようだけど、丹は水銀朱のことだと断定する根拠は何?

120 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:18:45.58 .net
丹生都比売神社の神官家は神功皇后紀にも
出てくる天野祝だな。大枠では紀氏と同族で
天道根命の裔に位置付けられる
注目すべきは子孫に伊蘇氏があり
wikiの編者はこれに(伊蘇志)と添えている
もちろんこれは仲哀帝が五十迹手に与えた称号にあたる
上に紹介されている本を読んだ者なのかもしれないな

紀氏の同族であるため当地の国懸神・日前神を
奉ずる関連が論じられる一方
ここに奉られた鏡が岩戸神話ではプロトタイプ
であることと、天神本紀における異伝との整合をはかり
日前神に先立つ降臨すなわち、日前神に
社地を譲り現社地に遷ったという伊太祁曽神
(五十猛)が本来の紀氏の祭神であろうとする説もある
五十猛は高天原から持ち込んだ種を倭国に撒き
木々の緑豊かな国土をなした功績から勲しの神と称えられる

121 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:18:50.63 .net
>>114
お前報告書で
途中までキロメートルで報告して
途中から所要時間で報告するような杜撰な報告書書くか?
書くにしても両方併記するだろ
水行陸行の部分明らかにおかしいぞ
多分写本で書き換えられてる

122 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:20:47.54 .net
魏志倭人伝をそのまま読めば女王が居る集落が邪馬臺國で女王に属する連合体が女王国
でも女王国なんて国名は無いし

123 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:22:09.34 .net
五十猛の子孫は宇佐神宮の禰宜をやっていて道鏡の神託にも関わっている

124 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:23:39.55 .net
>>123
それがどうしたんだよ?
なにが宇佐神宮だよ?

125 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:28:28.98 .net
>>124
宇佐神宮しか無いからww   @阿波

126 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:35:22.25 .net
天野祝とムホムホなことになり天変地異(日食か)を
招いた小竹祝は同じ和歌山は御坊の神官であったようだが
その論社は今は八幡神社となっている
八幡神社は正直どこにでもあるからこの点は
なんともし難いが、氏族の関係でいえば
天野祝と小竹祝は同族であったとはみなして良さそうだ

宇佐神宮のメインの神官は五十猛裔の辛島氏だが
八幡神が神跡を垂れたのはもう一つの系の
大神氏の神官だった。大物主も大歳神の子としては
韓神と呼ばれることもあるので
この点もまた整合してくる

127 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:37:54.92 .net
>>85
朱を求めて和歌山に辿り着いたのは、、「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂採掘技術者。   @阿波

128 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:40:15.87 .net
大神氏は宗像氏と同族であり宇佐神宮が宗像三女神を祀っているのは必然と言っても良いだろう

129 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:43:45.38 .net
イトテ(五十迹手)はアメノヒボコの子孫
これに先立つ「魏志にある伊都国」がおそらく滅亡した後に伊都国を支配下に入れた一族だろうと思われる

では滅亡する前の「魏志にある伊都国」はどうなったのか?
そのヒントはアメノヒボコなどの半島系渡来人が日本にやってくる崇神垂仁の時代にある

崇神の時代、ツヌガアラシトが「日本に偉大な王がいる」という噂を聞きつけて様子を見にやってきた
その際に穴門で自称倭王の伊都々比古と出会う

伊都国の王族であっただろう伊都々比古が何故か穴門なんぞにいる時点で古き都の伊都国が滅亡していることが伺える
そして倭王を自称しているというところから、九州にあった大倭王台与の統べる倭国連合が崩壊していることも同様に伺える

そのタイミングはおそらく265年の魏の滅亡の頃だろう

130 ::2024/05/12(日) 11:47:02.17 .net
拠点的母集落を解体し、広域の連合を作り始める本州と違い、北部九州では未だ不弥国1000戸、末盧国4000戸などの弥生集落が存続し、
伊都国と奴国の統合もできてない

こうした弥生集落が九州で存続しつ続けた理由は不明であるが、早くも畿内第V様式圏を完成させ、庄内併行期には東海、北陸、関東、四国、吉備、出雲などの人々を集めた纒向邪馬台国政権は、
墓を次第に巨大化させ始め、前方後円墳の共有、銅鏡の配布共有をも開始し、後のヤマト王権へと繋がっていくのである。

131 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:49:31.59 .net
>>130
>東海、北陸、関東、四国、吉備、出雲などの人々を集めた纒向邪馬台国政権は、
墓を次第に巨大化させ始め、前方後円墳の共有、銅鏡の配布共有をも開始し、後のヤマト王権へと繋がっていくのである。


碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内に、どうして王権が立つというんだ?   @阿波

132 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:52:30.99 .net
弥生時代は遺跡の多さからも筑紫時代といっても良い

133 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 11:58:10.66 .net
天日矛は新羅王子だが日本名であり
都怒我阿羅斯等(蘇那曷叱智)とは違って
倭人かもしれない。
五十迹手は穴門で仲哀と出会っているので
穴門の豪族に見えるが、怡土県主だともはっきり言われている
年譜上卑弥呼と崇神は100年も変わらないはずで
実際伊都国は王位が安堵されていたのだから
両者は矛盾してはいる

怡土とヤマトの出会いは仲哀期が初という趣旨
それゆえか記紀は編纂当初からかは不明だが
神功皇后と卑弥呼について傍注でコメントを入れる

134 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:04:16.24 .net
>>133
倭国連合が崩壊した後、伊都々比古が穴門で立ち上げた臨時政府がその後の九州倭国連合(崩壊済み)の仮首都だったのだろうか

伊都国を支配下に入れたヒボコ末裔が穴門までも支配下にいれてるなら
穴門臨時政府も抑えられてしまったのかもしれない

135 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:09:36.02 .net
筑後は日本の国作りを妨害した親玉が住む土地だからな
広域の国々が連合すると仕事が遣り難かったのだろう

136 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:17:56.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

137 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:18:52.22 .net
>>125
国宝かつ皇室の宗廟な、

阿波には決して無い物。

138 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:29:24.35 .net
宇佐神宮は律令制=中央集権国家体制になってからの創建

139 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:33:47.60 .net
>>137
>阿波には決して無い物。

「阿波」から勧請されたものなど、いらん。   @阿波

140 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:36:59.29 .net
宇佐神宮の元宮は薦神社の三角池

https://youtu.be/UtXpw-cpTRI?si=XwfZqtAdhPugTHJ7

141 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:37:34.51 .net
>>138
>宇佐神宮は律令制=中央集権国家体制になってからの創建

だから、
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

142 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:46:58.32 .net
中津や宇佐には倭人伝時代に大型の古墳は築かれない

143 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:48:02.90 .net
魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている
邪馬台国が奈良にあったとしたら大阪まで船で行き近畿の国々を
訪問しながら奈良に行くはず、それをしなかった理由は邪馬台国が
末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

144 ::2024/05/12(日) 12:50:40.39 .net
>>142
50年後だな

145 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:36.39 .net
>>143
>邪馬台国が末魯国から徒歩で行ける極めて近い所にあったから

違う!
末魯国から徒歩で行けるのは、「不弥国」まで。   @阿波

146 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:56:46.18 .net
九州北部の国々を通り過ぎた後、二月行ったところが女王の都

147 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:57:52.68 .net
南に行こう

148 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:58:29.60 .net
>>141
歴史泥棒の阿波が今日も行く

149 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 12:59:49.48 .net
「奈良時代に阿波から勧請されたのが宇佐神宮の元社と言われる福岡県築上町「矢幡八幡宮(現金富神社)」
769年 称徳天皇の御宇に和気清麻呂が神教を授かるために参拝し、
神告を受けた「宇狭の宮」とは、阿波国神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡神社」のこと。   @阿波

150 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:01:32.77 .net
>>149
歴史捏造の阿波よ恥を知れ

151 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:02:08.15 .net
宇佐の3世紀末の赤塚古墳は57.5mだから大型ではない

152 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:05:16.19 .net
薦神社の近くには松尾神社と言う径百歩の古墳があるが調査発掘はされていない

153 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:06:36.73 .net
>>150
閑古鳥スレへ帰れ!   @阿波

154 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:35.09 .net
>>143
>魏使は末魯国で上陸してから九州北部の国々を歩き回っている

倭人伝にそんなこと書いてない
倭人伝記述との整合性を言及すべきでしょう

155 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:07:47.19 .net
阿波説と言う死体。

156 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:09:20.61 .net
調査発掘がされていないのに
古墳(墓)だと言い張ると森先生がやらかしてしまったようになってしまう

157 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:10:44.99 .net
伊都国の出入国管理局に立ち寄って宴会開いたあとそのまま出雲なりどこぞへ水行していくならともかく、九州の国々を巡り歩いてしまう魏使さんたち、どうして……

158 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:14:36.94 .net
>>156
古墳だろこれhttps://i.imgur.com/Wjh5qkx.jpeg

159 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:19:14.05 .net
九州の国々といっても2万戸の奴国と小っちゃな不弥国しか通り過ぎていない
北九州市あたりは女王国連合じゃないから
安全のために水行を避けたのだろう

160 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:22:26.74 .net
日向ー宇佐ー北九州は神武の東征ルート、魏使が辿っても不思議では無い

161 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:23:38.51 .net
危険地帯なら陸行を避けて早々に船で安全な国まで航行しそうなもんだが

162 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:24:11.35 .net
>>158

赤村にも450mの巨大な前方後円墳があると言い張っている地元民がいるが
自治体の文化財担当者は否定している

163 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:25:36.51 .net
>>162
松尾神社の宮司が古墳だと証言しているよ

164 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:26:37.83 .net
>>161

北九州市ってわかる?

165 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:01.93 .net
>>163

式外社だろ

166 :琪瑛教大祭酒:2024/05/12(日) 13:29:36.11 .net
また、ドングリだな
まだ解説が甘いな
記紀や風土記は文字を教わった後の物で一体誰に何処の言葉で何語を教わったのか?から解説して貰わないとな、同化政策すら可能性はある。
何れにしろ、箸墓が卑弥呼の墓であり纏向が女王の都とする処で隋書邪馬台者地勢東高西下に変わりはない
宇佐は隋書の時代は秦王国
倭に属すると成っている
服属する王が居たのであろう。吾輩は神武の存在を否定しない高麗伝にあるように秦王国国王神武とあるから秦王国時代に神武は居たのであろう。

167 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:29:43.86 .net
松尾といえば大山咋だけどとりたてて何か匂わすような
祭神ではないな。瀬戸内を東行し淀川を遡りながら
摂津の三島や鴨川に痕跡を残したというくらい
あえて何か言うなら八咫烏でありそれは熊野大神の
神使であるということ

168 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:31:48.28 .net
>>164
なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

169 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:34:55.64 .net
>>168

そもそも、末盧から糸島伊都国に陸行というのがおかしい

170 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:37:33.58 .net
わざわざ危険地帯のすぐそばの弱小国まで陸行してしまう魏使さんたち、どうして……

171 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:39:13.07 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

誰が陸行なんかしたのか全く不明のままだ

172 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:40:45.14 .net
律令時代でも大宰府から田河道を通り豊前国府に繋がる古代官道がある

173 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:43:47.81 .net
記紀で神代の出来事とされていることも
遅くて6世紀くらいまで下るものもありそうで
記紀を通しての古代史の再現はほぼ不可能かと

例として大山祇は素戔嗚や邇邇芸に嫁を出し
凡そ外来神に対する真実の国津神であろうが
これは天照大神の兄であるという伝承とともに
仁徳期の渡来が記録されてもいる
明らかに鏡祭祀系である物部にあって
東国では銅鐸民としてのアイデンティティを保持する
行動を一面では説明してくれるが
詳細な経緯の解明は困難を極める

香春神のように神代に唐国へ渡り
崇神期になって戻って来たという逸話も
大山祇の伝承の混乱と何か通じるものはあるかもしれない

秦王国といえばその移民の建てた鹿児島神宮これ正八幡宮だが
朝廷はこのへんを少なくとも神武の
男系祖先に位置付けているのだろうな

174 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:44:03.69 .net
>>172
宇佐神宮に繋がる勅使街道だね

175 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:55:55.39 .net
九州を陸行するということはやはり瀬戸内海ルートで難波までいったのか

176 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 13:56:37.15 .net
>>168
>なんで陸行なんかしたのか全く不明のままだな

簡単な話だ。
出入国管理局の伊都国(直方)へ立ち寄らなければいけないからさ。   @阿波

総レス数 1001
393 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200