2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国畿内説 Part1022

1 ::2024/05/11(土) 22:29:05.11 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715184472/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

874 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:48:41.93 .net
>>872
その解釈は可能
まあどう考えるかだな

875 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:50:50.72 .net
>>873
貴国の国名は?
(九州弁で)やまいタイ

876 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:52:51.89 .net
隋の時代に邪靡堆という都があって魏志の邪馬臺だろうって事
ただし後の時代のヤマトとは別物

877 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 13:59:07.81 .net
ヤマトが漢化しても過去の人物で卑弥呼だけは皇族に比定してるのは王権の核だから。比定してるのが天照の再興だからヤバい。

878 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:03:56.11 .net
「臺」は上古音で「ダ」、中古音で「ダイ」

隋代の頃からこれがなまって「堆(タイ)」と呼ばれた

これが倭に逆輸入されたが、記紀万葉時代には二重母音はなかったので「ヤマト」と発音されるようになった

879 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:05:48.55 .net
>>871
>それあなたの感想ですよね

感想じゃなくて定説

880 ::2024/05/14(火) 14:05:56.60 .net
>>871

中央研究院も惟を堆に校正している
656年の隋書が「邪靡堆」、後漢書の李賢の注が676年
「案今名邪摩惟音之訛也」

881 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:06:27.15 .net
卑弥呼に子孫は居ないから少なくとも今上陛下の直系の先祖ではない

882 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:08:57.41 .net
>>878
その解釈は無理がある
ヤマトはなくても邪靡堆という都は存在してたわけでなぜその都の名前に倭という文字をあてる?

883 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:10:13.56 .net
>>867
トナカイ20前半、俺30後半でもこのスレでは若い方らしいからな
歳食ったらもう九州説から離れるのは無理だろうな

884 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:15:15.23 .net
>>874
俺はヤマトというのは後世がようやく漢字を読めるようになった頃、魏志倭人伝の邪馬壹の「壹」をトと誤読したんだと思ってる

885 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:16:22.22 .net
>>881
親魏倭王の金印も伝わってないしな
仮に血を引いていたとしても分家だろう

886 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:18:37.86 .net
トナカイは共産主義という宗教の信者

887 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:18:38.01 .net
>>884
記紀編纂時に既にヤマトという名称はは有るから

888 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:19:28.17 .net
邪馬壹は12世紀の版本

889 ::2024/05/14(火) 14:22:29.16 .net
>>882
>なぜその都の名前に倭という文字をあてる

「倭」は国名でしょ

890 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:09.68 .net
旧唐書で日本の使者が倭国との関係について明確に答えることが出来ず、あれこれ適当な作り話を並べてる箇所がある
そして中国に信用出来んと疑われてる

魏志倭人伝の倭人の場合は誠実で嘘を言わないと書いてあったよな
その頃の倭人とは人種が違うとも感じる

つまり畿内はかつての東の倭種の国でした
というオチ

891 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:23.90 .net
>>884
後世になるまで漢字読めなかったのなら三国志の時代の倭人はどうやって中国と交流してたんだよ……

892 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:20.19 .net
>>887
それ相当後の時代だろ馬鹿

893 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:39.47 .net
邪馬臺は記紀編纂のずっと以前から都としてあるんだよ
じゃあ何故邪馬臺が消えてヤマトという名前が残ったのか?

894 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:28:02.87 .net
>>893
山門だろうな

895 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:29:48.44 .net
>>894
ヤマトじゃないんでしょ?
別物だと言っておきながらなぜそうなるの?

896 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:30:48.92 .net
俺は「ヤマト」の馴れ初めについて真剣に調査研究した学者が居ない事を懸念してる
日本の歴史が空想だと言われる所以だ
まともな学者なら日本の歴史なぞ鵜呑みにはしないからな

897 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:31:38.72 .net
>>896
ヤマトとミナトでしょう

898 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:33:21.18 .net
令和書籍の教科書では古墳時代はやまと時代と記されているらしい

899 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:34:09.09 .net
>>895
ヤマトがあったとしたら山門
ナガトは長門
大倭はダーワだ

魏志倭人伝に「大倭」は女王国の市の監視役として使われていたと書いてある
役職なのかそういう集団が居たのか、はたまたかつての大倭王が卑弥呼の下に支えていたのかは分からないが

900 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:01.80 .net
記紀編纂者「卑弥呼って誰やねん?一番近いのは……うーん神功天皇!」

モモソですらなかったかー

901 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:21.57 .net
>>898
古墳の始まりが畿内では無いと認めたからな

902 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:54.97 .net
山の入り口がヤマト、海の入り口がミナト

903 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:38:25.47 .net
そりゃまあ記紀編纂した人は自分でモモソを創作したわけだし、作り話の原作者は創作キャラが実際には存在しないことなんてわかってるわな

904 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:46:55.37 .net
ヤマトは中国側の勘違い
日本人はヤマトの王が卑弥呼だと言ったのであって卑弥呼が居る場所がヤマトだと言ったのではない
倭王とはヤマト王なんだよ
だからヤマトと言う言葉に倭の文字をあてた
隋の時代までずっと中国はその勘違いをしてて唐の時代にやっと消えた

905 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:48:44.20 .net
後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから
倭国大乱よりもずっと前から大倭王の都だったのかもね

906 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:53:55.41 .net
神功皇后は魏志倭人伝を踏まえて創作された存在

907 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:56:35.07 .net
>>906
卑弥呼に子供はいないので変でしょ

908 ::2024/05/14(火) 14:56:45.35 .net
記紀は古代の紀年を繰り上げているから、繰り上げられた神功皇后がたまたま魏志倭人伝の卑弥呼あたりになったので年代的な辻褄合わせに魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきてのだろう

またもう一つ
私は神功皇后は、纒向崇神朝を滅ぼして畿内に応神朝を建てた北部九州の海人族の長(応神天皇の父親)を、天武天皇ら後世の皇室が万世一系シナリオに当て嵌めるために皇后像に改変したキャラだと考えている
魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきたのは、このことを偽装する目的もあるのではないかと睨んでいる

909 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:09.09 .net
>>905
>後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから

それは范曄が陳寿の本パクって無理やり倭国伝に改変したとき出来た歪みだと思うが

910 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:57.77 .net
>>905
だとしたら畿内は全くの見当違い

911 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:08:45.28 .net
>>907
天皇は男系だから本来卑弥呼に該当する人物はいない
いないから皇后で摂政してましたという設定を創りあげた

912 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:10:33.75 .net
>>909
そうとも言い切れない
漢時有朝見者今使譯所通三十國
この記述に後漢書との矛盾はないし陳寿は何らかの後漢時代の資料を見ている
詳しく書いてないのは魏代だから当たり前

913 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:17:48.98 .net
>>901
古墳時代の始まりはヤマトから
小学校の教科書を見てると250年の所に斜め線があり、箸墓を古墳時代の始まりと見なしていると思われる

が、橿考研の元副長(現学芸員アドバイザー)岡林氏などは、3世紀前半のホケノ山の時点ですでに古墳時代に入っていると述べている

914 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:21:56.55 .net
魏志倭人伝よりは時代が新しいってだけで古い時代の書物に変わりはないし
その時代陳寿が引用したであろう資料が残ってた可能性がある
魏略はまさにそうでそれ自体はなくても魏略曰くで残ってる

915 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:04.37 .net
>>913
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。   @阿波

916 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:37.17 .net
>>913
東日本の前方後方墳の方が100年早く始まっており箸墓古墳より高尾山古墳の方が古い
古墳文化に関して畿内は後発だ
歴史捏造するな

917 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:53.14 .net
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%88%9D%E3%81%AE-%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9E%98%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%80-%E6%A9%BF%E8%80%83%E7%A0%94%E3%81%A7%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%B4%B9%E4%BB%8B/ar-BB1mhbth?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=a6bdfca98ea84c139a2af979a365166b&ei=15

918 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:36:55.82 .net
>>917
「金銀装捩環頭大刀の鞘には、何枚もの布が巻かれた上に水銀朱が塗られていたことが分かった。」

「阿波」の水銀朱。 よって、「金銀装捩環頭大刀」も島根県出雲市の上塩冶築山古墳も、倭人(阿波勢力)のもの。   @阿波

919 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:58:17.20 .net
王墓を中心に甕棺墓群←これを殉葬百余人と表現したんだろうよ

以下、佐賀県柚比本村遺跡墳丘墓の紹介より抜粋

弥生時代中期を中心とした集落・墳墓群が確認できた。
 中期初頭の墳墓群は、大型の墓壙をもつ木棺墓を中心に、甕棺8基で構成される。中心の木棺墓には、石製把頭飾を伴う細形銅剣が副葬されていた。この銅剣はほぼ完形で鋳上がりもいい。現存長30.1cm。
 中期前半期の甕棺墓は10基で構成され、内5基に銅剣が副葬されていた。特にそのうちの1基の銅剣は玉飾りの付いた赤漆塗りの鞘を伴う優れたものである。その他青銅製把頭飾も出土した。
 中期後半の墓地には3基の甕棺と1基の石蓋土壙墓が営まれる。このうち1基の甕棺から鉄剣とガラス製勾玉が出土した。

920 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:59:41.26 .net
>>917
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。   @阿波

921 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:04:36.22 .net
本日は晴天なり

922 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:08:58.74 .net
https://www.zero-position.com/entry/2019/12/03/210000

923 ::2024/05/14(火) 16:11:52.18 .net
JMネットワーク

924 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:15:44.63 .net
https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/28haka-y.html
こんなもんが殉葬と言えるのか?
ただの墓域だろ?

925 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:18:58.24 .net
>>924
朝貢に来た倭人からその説明を受けた中国人が「径百余歩、殉葬百余人」と想像してもおかしくは無い

926 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:32:37.39 .net
だれだっけ?殉葬じゃなくて墓域のことだって言ってた研究者

927 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:35:25.07 .net
>>926
寺澤だろ

928 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:36:34.25 .net
寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

929 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:42:51.51 .net
さす寺沢

930 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:44:08.63 .net
考古学者だから文献は専門外

931 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:45:19.96 .net
径に広さの意味もあるんだっけな

932 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:52:29.59 .net
つまり吉野ヶ里の墓域みないな感じだな

933 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:06:58.36 .net
>>932
纏向も吉野ケ里も、墓域じゃなくて集落域だったら良かったのにな。  お墓だけじゃあなぁww   @阿波 

934 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:09:37.10 .net
>>933
何か嫉妬してるのかな?

935 ::2024/05/14(火) 17:10:30.09 .net
 「径」が周辺部の大きさを指している例

隋書/志 凡三十卷/卷六 志第一 禮儀一/南北郊
「方丘在國陰六里之郊。丘一成,八方,下崇一丈,方六丈八尺,上崇五尺,方四丈。方一階,尺一級。其壝八面,徑百二十步,內壝半之。」
→方丘の下部は約20m、上部約12m、壝(だん:祭壇の周囲の土塀)は、径120歩=約212m

936 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:10:50.56 .net
北部九州の遺跡って殆どこんな感じで墓ばかりなんだよね
まともなのが吉野ヶ里と原の辻くらい

937 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:20:16.93 .net
>>934
お墓しかないので、憐れんでいるのさ。   @阿波

938 ::2024/05/14(火) 17:33:16.88 .net
>>916
と言ってる学者が存在しない

939 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:43:28.01 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.

940 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:46:17.99 .net
>>935
>「径」が周辺部の大きさを指している例

間違い
それ、周辺部じゃないから
八角形の壝(だん:祭壇の周囲の土塀)の直径だから

941 ::2024/05/14(火) 17:48:12.99 .net
>>938
ぐぐってみた
神門古墳群
千葉県市原市にある古墳群

養老川下流域北岸の市原台地西縁部に所在し、前方後円墳3基、方墳3基、円墳1基が調査されている。
以上の3古墳は出現期段階のいわゆる纒向型前方後円墳として捉えられ、
周溝形態の発達過程などから、5号墳が最も古く、4号墳、3号墳の順序で比較的短期間に造営されたものと考えられている。
その造営年代は3世紀中葉から後葉とする説が有力であるが、
3世紀前半まで遡ると見る見解もあり邪馬台国の時代の古墳と目されている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%96%80%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

942 ::2024/05/14(火) 17:49:06.72 .net
纒向石塚は副葬部が見つかっていないが、鏡の副葬はないでしょう
すると、纒向石塚は年輪年代法の通り177年
200年頃纒向で卑弥呼共立
ホケノ山もボトムは14Cで225年頃と出てる
画文帯神獣鏡と内行花文鏡の破片
それに70以上の鉄器
またベニバナの花粉から、畿内が大陸と独自に関係を持ち、ちゃくちゃくと力をつけていく過程を垣間見ることができる
そして、魏への遣使239年には銅鏡100枚、親魏倭王金印などを得て、箸墓古墳の建設でさらに独走体制へと入る
張政の派遣で狗奴国とも和解し、桜井茶臼山(他の追随を許さない圧倒的な王、橿考研岡林)、西殿塚を同時代に建設

岸本直文の年代観を支持する

943 ::2024/05/14(火) 17:50:37.45 .net
>>941
前方後方墳が100年古いと言ってたスーパー素人残念

944 ::2024/05/14(火) 17:52:42.27 .net
も一つ
>>938
高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳である。
形状は前方後方墳[1]、史跡指定はされていない。
沼津市教育委員会は古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造、
被葬者の埋葬は250年頃と推定しており、古墳出現期の東日本では最古級かつ最大級の古墳とされている[2]。
日本考古学協会は、日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると評価している[3]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

945 ::2024/05/14(火) 17:54:18.16 .net
>>944
前方後方墳が100年古いとかほざいてたスーパー素人残念だったな
実際には、纒向古墳群が最初の前方後円墳だ

946 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:56:26.33 .net
>>944
調査に関わった全ての学者が3世紀前半と言ってるのに寺澤だけが3世紀後半だと言い張ってだんだよな

947 ::2024/05/14(火) 17:57:44.80 .net
>>946
寺澤は編年に頼りすぎている

948 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:58:28.80 .net
ちなみに京都向日市の前方後円墳は箸墓古墳と瓜二つの構造で3世紀末と編年されている

949 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:59:28.49 .net
>>947
年代が合えば卑弥呼の墓だという発想がど素人丸出しだよな

950 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:00:30.90 .net
つまり纒向発祥と言えるものは何一つ発見されていない

951 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:01:13.45 .net
畿内の古墳からは新しい時代のオーパーツが出るんだからもっと柔軟に対応しないとな

952 ::2024/05/14(火) 18:01:42.85 .net
鏡の副葬とデカい墓を作るのはどう考えてもデカい墓を作る方がはるかに難しいのであって、数十年、のべ数100万人の労働力を要する
この点から、楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説は一定の支持を得られるだろう
鏡が出てこなかったことは、「吉備には鏡を副葬する文化がなかった」と、その通りであろう

953 ::2024/05/14(火) 18:02:53.64 .net
>>949
素人さん、寺澤が何言ってるか知ってるんすか?

954 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:40.92 .net
>>953
お腹が空いた
だろ

955 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:49.54 .net
>>948
定型化後の前方後円墳は全て箸墓に似てるだろ

956 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:06:31.17 .net
>>952
>楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説

つまり、「阿波」の水銀朱にまみれた楯築の被葬者「倭国王帥升」は、倭人(阿波勢力)の一人ってこと。   @阿波

957 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:07:09.93 .net
卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる(相攻撃状)最中に古墳作ってたとか東の倭種は平和だなあ

958 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:11:46.34 .net
>>957
>卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる

心肺ご無用。 卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる時はまだ、「前方後円墳」は造られていないから。  せいぜい、墳丘墓だから。   @阿波

959 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:13:37.48 .net
箸墓のあのデカさ、桜井茶臼山のあのデカさ、西殿塚のあのデカさ
あれは畿内人だけでは作れない
墓作る人々も米を食うのであって、墓作りに全フリすることは不可能だ
吉備、出雲、東海、北陸、関東まで多くの外来者が来たことが分かっている

畿内の人口は膨大に膨れ上がっていたはずだろう(邪馬台国7万戸)

960 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:14:27.69 .net
>>958
纒向型前方後円墳ができている

961 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:16:18.02 .net
>>959
人が臨時で集まって古墳建造する場
つまり纒向は古墳造営キャンプ場という事だ
だから住居跡(生活痕)が無いんだよ

962 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:20:22.52 .net
>>959
逆に考えるんだ

墓作りに全フリしたからこそ、
米も食わず家も作らず、蛙を食って星空の下で眠っていたんだ、と。

963 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:21:29.12 .net
>>960
「阿波」の墳丘墓のあとでな。   @阿波

964 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:22:52.38 .net
>>961
飯は食うしその痕跡も無いとなるとな

965 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:27:17.45 .net
>>964
飯を食った痕跡が、大量の「東阿波型土器」の出土だ。   @阿波

966 ::2024/05/14(火) 18:28:17.96 .net
Takeo Kusumi@T_Kusumi057

要するにそうなると、布留0式古相上限は、250年前後、遡ってせいぜい240年代、一方箸墓は周辺(墳裾から周溝)調査から布留0式古相の幅内で築造開始され、0式新相初頭か0式古相終わり頃に築造終了=埋葬時期という調査分析結果(寺沢薫『箸墓古墳周辺の調査』奈良県文化財調査報告書89)と非合致なので箸墓は卑弥呼(247年頃没)の墓の可能性はかなり低いです。(久住2017とそのシンポジウム記録の添付写真文献の久住講演記録参照)

967 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:30:17.26 .net
米がなくても桃とカエルとゴキがあるから

968 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:39:27.84 .net
九州は自慢の鉄鏃で猪狩ってた

969 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:43:27.87 .net
弥生時代後期、畿内の見る銅鐸は突線鈕5式が成立し、東は尾張、遠江まで広がっている
西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域から纒向の建設に来たのは、この銅鐸の広がりによるものだろう

他に、これほど広範な地域から人が集まってくる理由は考えられない

970 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:48:26.44 .net
>>966
日本考古学協会で、東田大塚に頼っていた布留1のボトムが追加史料によって270年まで遡ったことは大きいだろう
したがって、布留0も動くと考えるべきである

971 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:50:05.20 .net
>>966
つまり考古学者が専門外な文献解釈と合わないから「卑弥呼の墓ではない」と言ってるわけ
つまり信憑性は低い

972 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:52:14.88 .net
中塚氏の酸素同位体比年輪年代法からも箸墓は250年前後という結果が得られている
理化学的年代測定法より編年の方が優れていると考えるのはおごりにすぎない

973 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:53:44.16 .net
>>972
だからそれは土器の年代だろって

974 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:54:35.62 .net
>>969
>東は尾張、遠江まで、西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域

そんな広範囲から人が集まる訳がない。

新しい知見を示す。

纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 

総レス数 1001
393 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200