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邪馬台国畿内説 Part1022

887 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:18:38.01 .net
>>884
記紀編纂時に既にヤマトという名称はは有るから

888 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:19:28.17 .net
邪馬壹は12世紀の版本

889 ::2024/05/14(火) 14:22:29.16 .net
>>882
>なぜその都の名前に倭という文字をあてる

「倭」は国名でしょ

890 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:09.68 .net
旧唐書で日本の使者が倭国との関係について明確に答えることが出来ず、あれこれ適当な作り話を並べてる箇所がある
そして中国に信用出来んと疑われてる

魏志倭人伝の倭人の場合は誠実で嘘を言わないと書いてあったよな
その頃の倭人とは人種が違うとも感じる

つまり畿内はかつての東の倭種の国でした
というオチ

891 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:23:23.90 .net
>>884
後世になるまで漢字読めなかったのなら三国志の時代の倭人はどうやって中国と交流してたんだよ……

892 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:20.19 .net
>>887
それ相当後の時代だろ馬鹿

893 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:24:39.47 .net
邪馬臺は記紀編纂のずっと以前から都としてあるんだよ
じゃあ何故邪馬臺が消えてヤマトという名前が残ったのか?

894 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:28:02.87 .net
>>893
山門だろうな

895 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:29:48.44 .net
>>894
ヤマトじゃないんでしょ?
別物だと言っておきながらなぜそうなるの?

896 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:30:48.92 .net
俺は「ヤマト」の馴れ初めについて真剣に調査研究した学者が居ない事を懸念してる
日本の歴史が空想だと言われる所以だ
まともな学者なら日本の歴史なぞ鵜呑みにはしないからな

897 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:31:38.72 .net
>>896
ヤマトとミナトでしょう

898 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:33:21.18 .net
令和書籍の教科書では古墳時代はやまと時代と記されているらしい

899 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:34:09.09 .net
>>895
ヤマトがあったとしたら山門
ナガトは長門
大倭はダーワだ

魏志倭人伝に「大倭」は女王国の市の監視役として使われていたと書いてある
役職なのかそういう集団が居たのか、はたまたかつての大倭王が卑弥呼の下に支えていたのかは分からないが

900 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:01.80 .net
記紀編纂者「卑弥呼って誰やねん?一番近いのは……うーん神功天皇!」

モモソですらなかったかー

901 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:21.57 .net
>>898
古墳の始まりが畿内では無いと認めたからな

902 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:35:54.97 .net
山の入り口がヤマト、海の入り口がミナト

903 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:38:25.47 .net
そりゃまあ記紀編纂した人は自分でモモソを創作したわけだし、作り話の原作者は創作キャラが実際には存在しないことなんてわかってるわな

904 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:46:55.37 .net
ヤマトは中国側の勘違い
日本人はヤマトの王が卑弥呼だと言ったのであって卑弥呼が居る場所がヤマトだと言ったのではない
倭王とはヤマト王なんだよ
だからヤマトと言う言葉に倭の文字をあてた
隋の時代までずっと中国はその勘違いをしてて唐の時代にやっと消えた

905 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:48:44.20 .net
後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから
倭国大乱よりもずっと前から大倭王の都だったのかもね

906 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:53:55.41 .net
神功皇后は魏志倭人伝を踏まえて創作された存在

907 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 14:56:35.07 .net
>>906
卑弥呼に子供はいないので変でしょ

908 ::2024/05/14(火) 14:56:45.35 .net
記紀は古代の紀年を繰り上げているから、繰り上げられた神功皇后がたまたま魏志倭人伝の卑弥呼あたりになったので年代的な辻褄合わせに魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきてのだろう

またもう一つ
私は神功皇后は、纒向崇神朝を滅ぼして畿内に応神朝を建てた北部九州の海人族の長(応神天皇の父親)を、天武天皇ら後世の皇室が万世一系シナリオに当て嵌めるために皇后像に改変したキャラだと考えている
魏志倭人伝の卑弥呼の文章を持ってきたのは、このことを偽装する目的もあるのではないかと睨んでいる

909 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:09.09 .net
>>905
>後漢書にも大倭王は邪馬臺国にいると書かれてるから

それは范曄が陳寿の本パクって無理やり倭国伝に改変したとき出来た歪みだと思うが

910 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:05:57.77 .net
>>905
だとしたら畿内は全くの見当違い

911 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:08:45.28 .net
>>907
天皇は男系だから本来卑弥呼に該当する人物はいない
いないから皇后で摂政してましたという設定を創りあげた

912 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:10:33.75 .net
>>909
そうとも言い切れない
漢時有朝見者今使譯所通三十國
この記述に後漢書との矛盾はないし陳寿は何らかの後漢時代の資料を見ている
詳しく書いてないのは魏代だから当たり前

913 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:17:48.98 .net
>>901
古墳時代の始まりはヤマトから
小学校の教科書を見てると250年の所に斜め線があり、箸墓を古墳時代の始まりと見なしていると思われる

が、橿考研の元副長(現学芸員アドバイザー)岡林氏などは、3世紀前半のホケノ山の時点ですでに古墳時代に入っていると述べている

914 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:21:56.55 .net
魏志倭人伝よりは時代が新しいってだけで古い時代の書物に変わりはないし
その時代陳寿が引用したであろう資料が残ってた可能性がある
魏略はまさにそうでそれ自体はなくても魏略曰くで残ってる

915 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:04.37 .net
>>913
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。   @阿波

916 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:37.17 .net
>>913
東日本の前方後方墳の方が100年早く始まっており箸墓古墳より高尾山古墳の方が古い
古墳文化に関して畿内は後発だ
歴史捏造するな

917 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:26:53.14 .net
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%88%9D%E3%81%AE-%E8%B5%A4%E3%81%84%E9%9E%98%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%88%80-%E6%A9%BF%E8%80%83%E7%A0%94%E3%81%A7%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%B4%B9%E4%BB%8B/ar-BB1mhbth?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=a6bdfca98ea84c139a2af979a365166b&ei=15

918 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:36:55.82 .net
>>917
「金銀装捩環頭大刀の鞘には、何枚もの布が巻かれた上に水銀朱が塗られていたことが分かった。」

「阿波」の水銀朱。 よって、「金銀装捩環頭大刀」も島根県出雲市の上塩冶築山古墳も、倭人(阿波勢力)のもの。   @阿波

919 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:58:17.20 .net
王墓を中心に甕棺墓群←これを殉葬百余人と表現したんだろうよ

以下、佐賀県柚比本村遺跡墳丘墓の紹介より抜粋

弥生時代中期を中心とした集落・墳墓群が確認できた。
 中期初頭の墳墓群は、大型の墓壙をもつ木棺墓を中心に、甕棺8基で構成される。中心の木棺墓には、石製把頭飾を伴う細形銅剣が副葬されていた。この銅剣はほぼ完形で鋳上がりもいい。現存長30.1cm。
 中期前半期の甕棺墓は10基で構成され、内5基に銅剣が副葬されていた。特にそのうちの1基の銅剣は玉飾りの付いた赤漆塗りの鞘を伴う優れたものである。その他青銅製把頭飾も出土した。
 中期後半の墓地には3基の甕棺と1基の石蓋土壙墓が営まれる。このうち1基の甕棺から鉄剣とガラス製勾玉が出土した。

920 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 15:59:41.26 .net
>>917
ひげの奥山誠義。
◎研究テーマ:主な研究は、出土文化財の保存とそのために必要となる材料・材質に関する基礎的研究。
特に出土有機質遺物(木製品や繊維製品)の保存や科学的手法による材質調査等の研究に関心を持ち取り組んでいる。
顔料染色技術の検討や顔料鉱物の調査・研究 も行っている。   @阿波

921 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:04:36.22 .net
本日は晴天なり

922 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:08:58.74 .net
https://www.zero-position.com/entry/2019/12/03/210000

923 ::2024/05/14(火) 16:11:52.18 .net
JMネットワーク

924 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:15:44.63 .net
https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/28haka-y.html
こんなもんが殉葬と言えるのか?
ただの墓域だろ?

925 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:18:58.24 .net
>>924
朝貢に来た倭人からその説明を受けた中国人が「径百余歩、殉葬百余人」と想像してもおかしくは無い

926 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:32:37.39 .net
だれだっけ?殉葬じゃなくて墓域のことだって言ってた研究者

927 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:35:25.07 .net
>>926
寺澤だろ

928 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:36:34.25 .net
寺澤薫「「径は百余歩」が実数だとして、後円部の直径ではなく、墓域(兆域)の広さを指していると考えたらどうであろうか。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

929 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:42:51.51 .net
さす寺沢

930 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:44:08.63 .net
考古学者だから文献は専門外

931 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:45:19.96 .net
径に広さの意味もあるんだっけな

932 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 16:52:29.59 .net
つまり吉野ヶ里の墓域みないな感じだな

933 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:06:58.36 .net
>>932
纏向も吉野ケ里も、墓域じゃなくて集落域だったら良かったのにな。  お墓だけじゃあなぁww   @阿波 

934 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:09:37.10 .net
>>933
何か嫉妬してるのかな?

935 ::2024/05/14(火) 17:10:30.09 .net
 「径」が周辺部の大きさを指している例

隋書/志 凡三十卷/卷六 志第一 禮儀一/南北郊
「方丘在國陰六里之郊。丘一成,八方,下崇一丈,方六丈八尺,上崇五尺,方四丈。方一階,尺一級。其壝八面,徑百二十步,內壝半之。」
→方丘の下部は約20m、上部約12m、壝(だん:祭壇の周囲の土塀)は、径120歩=約212m

936 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:10:50.56 .net
北部九州の遺跡って殆どこんな感じで墓ばかりなんだよね
まともなのが吉野ヶ里と原の辻くらい

937 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:20:16.93 .net
>>934
お墓しかないので、憐れんでいるのさ。   @阿波

938 ::2024/05/14(火) 17:33:16.88 .net
>>916
と言ってる学者が存在しない

939 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:43:28.01 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.

940 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:46:17.99 .net
>>935
>「径」が周辺部の大きさを指している例

間違い
それ、周辺部じゃないから
八角形の壝(だん:祭壇の周囲の土塀)の直径だから

941 ::2024/05/14(火) 17:48:12.99 .net
>>938
ぐぐってみた
神門古墳群
千葉県市原市にある古墳群

養老川下流域北岸の市原台地西縁部に所在し、前方後円墳3基、方墳3基、円墳1基が調査されている。
以上の3古墳は出現期段階のいわゆる纒向型前方後円墳として捉えられ、
周溝形態の発達過程などから、5号墳が最も古く、4号墳、3号墳の順序で比較的短期間に造営されたものと考えられている。
その造営年代は3世紀中葉から後葉とする説が有力であるが、
3世紀前半まで遡ると見る見解もあり邪馬台国の時代の古墳と目されている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%96%80%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

942 ::2024/05/14(火) 17:49:06.72 .net
纒向石塚は副葬部が見つかっていないが、鏡の副葬はないでしょう
すると、纒向石塚は年輪年代法の通り177年
200年頃纒向で卑弥呼共立
ホケノ山もボトムは14Cで225年頃と出てる
画文帯神獣鏡と内行花文鏡の破片
それに70以上の鉄器
またベニバナの花粉から、畿内が大陸と独自に関係を持ち、ちゃくちゃくと力をつけていく過程を垣間見ることができる
そして、魏への遣使239年には銅鏡100枚、親魏倭王金印などを得て、箸墓古墳の建設でさらに独走体制へと入る
張政の派遣で狗奴国とも和解し、桜井茶臼山(他の追随を許さない圧倒的な王、橿考研岡林)、西殿塚を同時代に建設

岸本直文の年代観を支持する

943 ::2024/05/14(火) 17:50:37.45 .net
>>941
前方後方墳が100年古いと言ってたスーパー素人残念

944 ::2024/05/14(火) 17:52:42.27 .net
も一つ
>>938
高尾山古墳(たかおさんこふん)は、静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳である。
形状は前方後方墳[1]、史跡指定はされていない。
沼津市教育委員会は古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造、
被葬者の埋葬は250年頃と推定しており、古墳出現期の東日本では最古級かつ最大級の古墳とされている[2]。
日本考古学協会は、日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると評価している[3]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

945 ::2024/05/14(火) 17:54:18.16 .net
>>944
前方後方墳が100年古いとかほざいてたスーパー素人残念だったな
実際には、纒向古墳群が最初の前方後円墳だ

946 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:56:26.33 .net
>>944
調査に関わった全ての学者が3世紀前半と言ってるのに寺澤だけが3世紀後半だと言い張ってだんだよな

947 ::2024/05/14(火) 17:57:44.80 .net
>>946
寺澤は編年に頼りすぎている

948 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:58:28.80 .net
ちなみに京都向日市の前方後円墳は箸墓古墳と瓜二つの構造で3世紀末と編年されている

949 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 17:59:28.49 .net
>>947
年代が合えば卑弥呼の墓だという発想がど素人丸出しだよな

950 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:00:30.90 .net
つまり纒向発祥と言えるものは何一つ発見されていない

951 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:01:13.45 .net
畿内の古墳からは新しい時代のオーパーツが出るんだからもっと柔軟に対応しないとな

952 ::2024/05/14(火) 18:01:42.85 .net
鏡の副葬とデカい墓を作るのはどう考えてもデカい墓を作る方がはるかに難しいのであって、数十年、のべ数100万人の労働力を要する
この点から、楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説は一定の支持を得られるだろう
鏡が出てこなかったことは、「吉備には鏡を副葬する文化がなかった」と、その通りであろう

953 ::2024/05/14(火) 18:02:53.64 .net
>>949
素人さん、寺澤が何言ってるか知ってるんすか?

954 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:40.92 .net
>>953
お腹が空いた
だろ

955 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:04:49.54 .net
>>948
定型化後の前方後円墳は全て箸墓に似てるだろ

956 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:06:31.17 .net
>>952
>楯築の被葬者を倭国王帥升と見る松木武彦の説

つまり、「阿波」の水銀朱にまみれた楯築の被葬者「倭国王帥升」は、倭人(阿波勢力)の一人ってこと。   @阿波

957 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:07:09.93 .net
卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる(相攻撃状)最中に古墳作ってたとか東の倭種は平和だなあ

958 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:11:46.34 .net
>>957
>卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる

心肺ご無用。 卑弥呼が狗奴国とバチバチにやり合ってる時はまだ、「前方後円墳」は造られていないから。  せいぜい、墳丘墓だから。   @阿波

959 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:13:37.48 .net
箸墓のあのデカさ、桜井茶臼山のあのデカさ、西殿塚のあのデカさ
あれは畿内人だけでは作れない
墓作る人々も米を食うのであって、墓作りに全フリすることは不可能だ
吉備、出雲、東海、北陸、関東まで多くの外来者が来たことが分かっている

畿内の人口は膨大に膨れ上がっていたはずだろう(邪馬台国7万戸)

960 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:14:27.69 .net
>>958
纒向型前方後円墳ができている

961 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:16:18.02 .net
>>959
人が臨時で集まって古墳建造する場
つまり纒向は古墳造営キャンプ場という事だ
だから住居跡(生活痕)が無いんだよ

962 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:20:22.52 .net
>>959
逆に考えるんだ

墓作りに全フリしたからこそ、
米も食わず家も作らず、蛙を食って星空の下で眠っていたんだ、と。

963 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:21:29.12 .net
>>960
「阿波」の墳丘墓のあとでな。   @阿波

964 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:22:52.38 .net
>>961
飯は食うしその痕跡も無いとなるとな

965 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:27:17.45 .net
>>964
飯を食った痕跡が、大量の「東阿波型土器」の出土だ。   @阿波

966 ::2024/05/14(火) 18:28:17.96 .net
Takeo Kusumi@T_Kusumi057

要するにそうなると、布留0式古相上限は、250年前後、遡ってせいぜい240年代、一方箸墓は周辺(墳裾から周溝)調査から布留0式古相の幅内で築造開始され、0式新相初頭か0式古相終わり頃に築造終了=埋葬時期という調査分析結果(寺沢薫『箸墓古墳周辺の調査』奈良県文化財調査報告書89)と非合致なので箸墓は卑弥呼(247年頃没)の墓の可能性はかなり低いです。(久住2017とそのシンポジウム記録の添付写真文献の久住講演記録参照)

967 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:30:17.26 .net
米がなくても桃とカエルとゴキがあるから

968 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:39:27.84 .net
九州は自慢の鉄鏃で猪狩ってた

969 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:43:27.87 .net
弥生時代後期、畿内の見る銅鐸は突線鈕5式が成立し、東は尾張、遠江まで広がっている
西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域から纒向の建設に来たのは、この銅鐸の広がりによるものだろう

他に、これほど広範な地域から人が集まってくる理由は考えられない

970 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:48:26.44 .net
>>966
日本考古学協会で、東田大塚に頼っていた布留1のボトムが追加史料によって270年まで遡ったことは大きいだろう
したがって、布留0も動くと考えるべきである

971 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:50:05.20 .net
>>966
つまり考古学者が専門外な文献解釈と合わないから「卑弥呼の墓ではない」と言ってるわけ
つまり信憑性は低い

972 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:52:14.88 .net
中塚氏の酸素同位体比年輪年代法からも箸墓は250年前後という結果が得られている
理化学的年代測定法より編年の方が優れていると考えるのはおごりにすぎない

973 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:53:44.16 .net
>>972
だからそれは土器の年代だろって

974 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:54:35.62 .net
>>969
>東は尾張、遠江まで、西は吉備、出雲、東は東海、関東までと広域の地域

そんな広範囲から人が集まる訳がない。

新しい知見を示す。

纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 

975 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:54:51.73 .net
箸墓古墳本体は全くの未調査だ
希望的観測だけで勝手な編年するな

976 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:56:22.66 .net
>>975
視察しましたよ

977 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 18:58:58.67 .net
>>974
これは、神代文字がそれぞれ異なるのと同じ理由。   @阿波

978 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:08:15.99 .net
中塚氏の酸素同位体比年輪年代法では、ある抗材は230年を示したと
ありとあらゆる理化学的年代測定法において、年代が遡っている
やはり纒向石塚177年は正しいと見るべきで、卑弥呼共立前から畿内の勢力は外来者と共に纒向を完成させていたと見るべき
庄内0を200年〜とする従来の説を遡上させて、1世紀前半〜半ばと見るべきだろう

そうでなければ、鉄器に乏しいことや、纒向石塚から鏡が出てこなかったこととの整合性が取れない
225年のホケノ山の極めて素晴らしい画文帯神獣鏡は舶載鏡であり、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口も舶載でしょう。

こちらの年代観の方がしっくりくる

979 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 19:16:31.85 .net
また、どんぐりかしつこいのう。

980 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:17:39.53 .net
>極めて素晴らしい

詐欺師の匂い

981 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:18:44.68 .net
墓を開けたわけでも無いのに希望的観測で勝手な作り話を展開してるのが畿内説だという事だ

982 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:26:05.62 .net
セミプロハルキー氏が自分でやったIntCal20でも纒向の桃核12個全てで3世紀の可能性が高く、また4世紀よりは2世紀の可能性の方が高かった。
彼は九州説でありながら正直物で、桃核の2つ3つでは4世紀の可能性が1%もないデータも示し、
「これは見なかったことにして下さい」と言い、相方に「できるかよ」というツッコミを入れさせる漫才をしている。

2世紀前半〜半ばにはすでに完成していた纒向で、桃が祭祀に使われたのは卑弥呼時代の3世紀でしょう。
男王はおそらく桃を使ってない。

纒向2世紀前半完成説=庄内ゼロ2世紀前半説を採る岸本直文を支持する

983 ::2024/05/14(火) 19:30:57.99 .net
>>978
材木は実際より古い年代が出る
100年育ってから切られた木材の年輪の内側は
木が若かった時の炭素年代で出るから
大型の建築物だと太い材木が使われるからよりそれが顕著になる
実際法隆寺に使われてる木材は
火事で焼けて670年に再建したのに500年代の結果が出る

984 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:31:37.00 .net
>>983
それは酸素同位体比年輪年代法ではない

985 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:34:48.84 .net
>>978
>素環頭大刀1口、鉄製刀剣類 10口も舶載でしょう。

鉄器王国「阿波」の鉄剣に決まっている。   @阿波

986 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:38:03.99 .net
新しい知見を示す。

纏向土器の形態が異なるのは、倭人(阿波勢力)の派閥ごとに、「東阿波型土器」の形態が異なるため。 

各派閥が出張った地域の「東阿波型土器」形態が〇〇型と言われている。   @阿波 

987 ::2024/05/14(火) 19:38:05.59 .net
これが畿内説のゴッドハンド

じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、
箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、
歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい
[これについては、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)、58ページ以下などにくわしい]。
さすがに、『毎日新聞』はこの疑問点について、2009年6月8日付夕刊で、
歴博の研究グループの小林謙一氏に問いただしている。
ところがこの質問に対する小林氏の回答は、記事では、次のように一言で記されている。

「理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、『考古学的にありえない』として退けられた」

小林氏のいうように「考古学的にありえない」は正しいのであろうか。正しくない。
すでに紹介したように、東大の考古学者、斉藤忠教授は、
箸墓古墳の築造年代は四世紀の中ごろまたはそれをやや下降する時期に築造された崇神天皇陵古墳よりも、
さらにおくれて築造されたものとしておられるのである。

また、奈良県立橿原考古学研究所の考古学者で、纏向遺跡を発掘された関川尚功氏は、
ホケノ山古墳や箸墓古墳は、いずれも、ほぼ同時期の布留1式期のもので、四世紀の中ごろのものであることを、ここ四十年近くにわたり、相当な根拠をあげて主張しておられる。
[関川氏の古い論文には、「近畿・庄内式土器の動向」
(『三世紀の九州と近畿』河出書房新社、1986年刊所収)があり、比較的最近の著書に『考古学から見た邪馬台国大和説-畿内ではありえない邪馬台国』(梓書院2020年刊)がある。]

988 ::2024/05/14(火) 19:45:12.57 .net
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715680313/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

989 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:46:12.08 .net
>>987
理化学的年代測定法を完全に無視し始めた関川先生
残念です

990 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:47:52.89 .net
>>989
気にするな。 どっちに転んでも、倭人(阿波勢力)の墓なんだから。   @阿波

991 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:50:29.28 .net
>>987
>じつは、歴博グループが示している炭素14年代測定法のデータを用いても、
>箸墓古墳の年代は、卑弥呼の没年よりも100年ほどあとの、西暦350年前後にもっていったほうが、
>歴愽グループの説いているところよりも、全体的には、はるかに収まりがよい

そんな事実ないけど

>すでに紹介したように、東大の考古学者、斉藤忠教授は、

死んでます

>また、奈良県立橿原考古学研究所の考古学者で、纏向遺跡を発掘された関川尚功氏は、

布留0式を識別できないので全部布留1に入れてます
間違いです

992 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:52:55.97 .net
>>987
>四世紀の中ごろのものであることを、ここ四十年近くにわたり、相当な根拠をあげて主張しておられる。

あげてないな

993 ::2024/05/14(火) 19:54:08.43 .net
これが畿内説のゴッドハンド

あらためて“箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない”を読んでみよう

歴博研究グループののべていることは、炭素14年代測定法による測定データが示している客観的事実そのものにもとづくものではない。
みずからがあらかじめもつ考えに、つごうの悪いデータは、無造作かつ乱暴にはずし、
つごうのよいデータだけをとって、特定のマスコミにリークするという典型的なチェリーピッキングの方法によっている。
そして、それがあたかも、炭素14年代測定法によってえられた客観的事実であるかのように、マスコミに流している。
これは、科学的な不正行為のうちの、「矛盾するデータの隠蔽(いんぺい)」にあたるものである。

https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku400.htm

994 ::2024/05/14(火) 19:55:28.87 .net
>>992
論文のタイトルあるからご自身で確認したら?

995 :日本@名無史さん:2024/05/14(火) 19:56:13.12 .net
畿内は自律的に邪馬台国を形成したであろうことが、突線鈕5式を、弥生時代後期に広げていることからも明らかである
無論、吉備でも突線鈕4式までは出るので、畿内邪馬台国が自生的に成立したとする岸本直文を支持せざるを得ない

996 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:23:29.54 .net
消化してやろ

997 : 警備員[Lv.2(前10)][新苗警]:2024/05/14(火) 20:24:48.37 .net
伊邪國は伊予(四国)

>次伊邪國安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革為衣蓋伊耶國也

伊邪國 伊予
↓ 西南海行一日
伊邪分國 通称「(蓋)伊耶國」

↓行程が一致
https://i.imgur.com/k8Nq5e9.jpeg

・字義考察
蓋 = ふた、フキアエズの神話

耶 = 耳、ミミ、国東半島が耳のカタチ

がい〖蓋〗 ガイ・ふた おおう
1.かぶせる。おおう。ふたをする。
2.おおうもの。かさ。ふた

会意形声。艸と、盍(カフ)→(カイ)(ふたをする)とから成る。草のふた、ひいて「おおう」意を表す。「盍」の後にできた字。借りて、助字に用いる。

↓ウガヤフキアエズ
『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあえず)」と名付けたという。

蓋は漢文で「けだし」

蓋伊耶 = カイイヤ = カヤ

伊邪の分家がウガヤフキアエズ朝
伊邪とは、だーれだ?w

998 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:25:58.46 .net
北枕に中華度量衡は中華の影響以外にないだろ
無駄だよ

999 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/05/14(火) 20:30:50.29 .net
>>986
東阿波型土器の定義をど素人のおまはんが勝手に変えるなよw

1000 :琪瑛教大祭酒:2024/05/14(火) 20:31:27.46 .net
国東が耳のかたち
すごいわ
0歳児に投票権に心動かされるでしょ?

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
2ch.netからのレス数が1000に到達しました。

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