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邪馬台国畿内説 Part1025

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:46:32.32 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1715868297/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:47:33.60 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:48:03.87 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:48:41.82 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:49:11.71 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:49:41.99 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:50:12.44 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:50:44.08 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:51:30.78 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:52:03.33 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:52:33.21 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:53:07.22 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:53:41.03 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:54:30.50 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:55:02.54 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:55:37.64 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:56:11.20 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:56:42.76 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:57:17.66 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:58:25.33 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
  大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:59:14.69 .net
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 

22 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 17:59:52.26 .net
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。

23 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:00:47.12 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

24 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:01:17.49 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない

25 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:02:03.21 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

26 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:02:31.66 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

27 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:03:02.92 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

28 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:03:31.46 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

29 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:04:09.74 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

30 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:04:31.80 .net
 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

31 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:05:02.82 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

32 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:05:32.61 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

33 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/05/19(日) 18:06:02.49 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

34 ::2024/05/19(日) 18:06:31.44 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

35 ::2024/05/19(日) 18:07:02.74 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

36 ::2024/05/19(日) 18:07:32.29 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

37 ::2024/05/19(日) 18:08:02.86 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

38 ::2024/05/19(日) 18:08:32.40 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

39 ::2024/05/19(日) 18:09:01.53 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

40 ::2024/05/19(日) 18:09:32.62 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

41 ::2024/05/19(日) 18:11:03.49 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

42 ::2024/05/19(日) 18:11:32.07 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

43 ::2024/05/19(日) 18:12:01.73 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

44 ::2024/05/19(日) 18:12:32.26 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

45 ::2024/05/19(日) 18:13:02.36 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

46 ::2024/05/19(日) 18:13:32.47 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

47 ::2024/05/19(日) 18:14:02.00 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

48 ::2024/05/19(日) 18:14:32.11 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

49 ::2024/05/19(日) 18:15:01.95 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

50 ::2024/05/19(日) 18:15:31.73 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

51 ::2024/05/19(日) 18:17:01.71 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

52 ::2024/05/19(日) 18:17:31.87 .net
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)

53 ::2024/05/19(日) 18:18:01.62 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

54 ::2024/05/19(日) 18:18:32.21 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

55 ::2024/05/19(日) 18:19:02.65 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

56 ::2024/05/19(日) 18:19:31.67 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

57 ::2024/05/19(日) 18:20:01.65 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

58 ::2024/05/19(日) 18:20:32.11 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

59 ::2024/05/19(日) 18:21:30.74 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。


 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

60 ::2024/05/19(日) 18:21:58.15 .net
松浦潟
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

61 ::2024/05/19(日) 18:22:31.98 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

62 ::2024/05/19(日) 18:23:03.56 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

63 ::2024/05/19(日) 18:23:31.66 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

64 ::2024/05/19(日) 18:24:01.84 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

65 ::2024/05/19(日) 18:25:11.38 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

66 ::2024/05/19(日) 18:25:58.02 .net
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

67 ::2024/05/19(日) 18:27:03.05 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

68 ::2024/05/19(日) 18:27:31.97 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

69 ::2024/05/19(日) 18:28:02.20 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

70 ::2024/05/19(日) 18:28:32.46 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

71 ::2024/05/19(日) 18:29:02.60 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

72 ::2024/05/19(日) 18:29:32.12 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

73 ::2024/05/19(日) 18:30:02.16 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

74 ::2024/05/19(日) 18:30:32.20 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

75 ::2024/05/19(日) 18:31:02.33 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

76 ::2024/05/19(日) 18:31:31.99 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

77 ::2024/05/19(日) 18:32:02.01 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

78 ::2024/05/19(日) 18:32:32.27 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

79 ::2024/05/19(日) 18:33:03.76 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

80 ::2024/05/19(日) 18:33:32.05 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

81 ::2024/05/19(日) 18:34:08.94 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

82 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 19:42:50.51 .net
於投馬の「於」が省略された理由
 国語の文法体系のうち動詞の使い方は変わっていきます。日本語の古文法と現代文法には違いが見られます。魏志倭人伝でよく使われている「至」の文字にも変遷が見られます。
 もともと「至」は自動詞です。「……に至る」ということで「至於A」のように使います。必ず前置詞「於」を必要としたのです。しかし、前漢から後漢にかけて変化が見られます。司馬遷の『史記』を見ると、古い時代には「至於A」ですが、新しい時代の文章では「於」が消えていきます。「至A」というように他動詞化します。ただし、「……に至るまで」というような強調とか抽象的意味では「至於A」が残るのです。次のようになります。
  ? 至A  Aは人や場所(客観的・具体的)
  ? 至於A Aにいたるまで(強調的・抽象的)
 つまり、直接、場所や人に至るときは?を使います。「Aまで、Aになるまで」というようにAに対して限界がある時は?を使います。

83 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 19:43:45.28 .net
 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。
 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。
  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 

 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。
 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。その『梁書』にも「於投馬国」は見られません。これはなぜでしょう。

84 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 19:44:10.34 .net
実は、魏晋南北朝の文章として「至於A」は不自然だったのです。「於」があると「……に至るまで」という強調的・抽象的意味としてとられるのです。この場合は、投馬国だけ取り上げて「ここまで至る」と強調するのは、今まで客観的に道程を記述してきた文章からみると、唐突です。『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。『梁書』も同じです。

 ところが「投馬国」となると、語頭に濁音のこない日本古代語には存在しない発音になるのです。それが認識されていなかったのは、中国唐代700年以降の発音である漢音で読んだからです。これだと「トウマ」になり、問題ありません。しかし、魏晋代の発音は、呉音に近く「ズマ」と読むのです。「トウマ」と読んで気づかなかったのは、余りにも迂闊だったと思います。

 元に戻りますと、「於」が脱落するのにはそれなりの理由があったのです。魏晋代すでに、「至」の用法が変わっていたからです。

85 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:09:37.53 .net
つまり畿内説は詐欺の温床でしたと

86 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:14:07.24 .net
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。

そもそも畿内は別勢力で畿内にじゃ行ってないから登場しないだけです。
東に倭人が住んでいて倭人の国があることは知ってはいますが詳しくは知らないのです。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。

水行を河川と判断してうまく整合するので問題なし。

◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。

畿内説の粉飾のほうが規模が大きいということになってしまうね。ますます畿内はありえない。

87 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:15:27.63 .net
寺澤が言うように、吉備と北部九州が突如として纒向に王都を作ったというのは根拠が薄い
何らかの理由で纒向が選ばれたはずで、このテンプレの方が踏み込んでおり合理的である


>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。

>◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

88 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:22:51.93 .net
吉備は日向(宮崎)とも交流が深い
そして確かに播磨は親北部九州で祇園信仰や
白国神社系も点在し、西に対する玄関口だった
讃岐産の石材を使って北部九州式の横穴式石室を
作るというようなことをやっている

89 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:23:53.63 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

なぜ纏向を王都と言い切れるのかまったく根拠がない。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。

12回のうち12回間違ったのならわかるが、そうではないのでそこまで誤認しやすいものではない。
夏至などでも日の出は真東より30度北寄りで、日の入りは真西より30度北寄り。
45度を誤認することはあっても東西南北自体を間違うことはない。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

記紀を無視してる時点で論外ですね。都合の悪いことは見ないということなので。これは畿内説の悪い癖で常に批判の的になるところです。

90 ::2024/05/19(日) 20:27:51.56 .net
伊聲耆
 ↑この字、投馬国っぽいよねw

「聲」セイ、ショウ。意味は声、響き、音色

ちなみに

伊聲耆 = いせぎ = 五十鈴 = 禊ぎ

と、すでに紐解き済みです!

>「五十鈴」とは?
天之宇受売命が舞を舞った際、手に持っていた矛に取り付けられていたものと伝えられています。 正三角形につながる3つの鈴は「いくむすび」「たるむすび」「たまめむすび」という魂の進化にとって重要な魂の状態を表しており、この鈴の音を聞くと、心身は深く清められるといわれています。

神代鈴!

伊勢に流れる川も五十鈴川

イザナギが禊ぎしたのは阿波岐原

ヒメタタラの子も「耳」が名前に付くね
繋がるねーw

完璧です!

91 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:27:59.82 .net
テンプレでは、北部九州に高塚化が起こらなかったことを「先進性ゆえに中間層が抵抗した」というように書いてある

楯築のような巨大な墳墓が先進地域である北部九州より先に出来たことはそれを指し示しているのだろう
松木武彦が倭国乱帥升の墓と推定する楯築より後に出来た平原王は、以前から保有していた銅鏡を多量に副葬することしかできなかった

伊都国王はついに倭国の覇権を取れぬまま、没落してしまったのであろう

92 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:30:01.85 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。

あまり出土しないのは纏向遺跡と九州の遺跡の交流がなかったからです。つまり全く異なる国だったのです。


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。

読み替えたり読み替えなかったり畿内説はあいかわらず定まらない。
いずれにしても九州の東に倭国がありみな倭種と言っているので畿内もそのうちの一つ。

◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。

女王国の南にあるのであり、菊池彦で熊本付近ということはすでに解決済み。

93 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/19(日) 20:32:35.05 .net
纏向の卑弥呼は女王というより法王のような存在だったのだろうな
倭の諸国にそれぞれ王がいてその頂点に鬼道のカリスマ教皇として卑弥呼がいた

当時の三輪山は伊勢神宮と出雲大社を合わせたような倭国の宗教的中枢で、ここに卑弥呼というカリスマがいた
そしてヤマト王であった天皇家が卑弥呼の実家で、卑弥呼や台与の亡き後に天皇家が天孫を名乗ってその権威性を継承し、現人神としての大王・天皇が生まれていったと推測する

94 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:36:40.21 .net
>>93
岸本直文の指摘する通り
倭国には、神聖王と執政王がいた
桜井茶臼山と西殿塚という巨大古墳が同時期に出来ている

95 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:39:55.07 .net
>>94
そんな歴史はどの史書にも記録されとらんぞ

96 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:43:51.38 .net
九州と畿内は全く関わりがなかったというのは無理筋
突線鈕5式のような巨大な銅鐸を作っており、畿内が九州を通過せずに中国に銅を取りに行った可能性は全くなく、畿内は北部九州から銅を仕入れていた
そして、北部九州は半島から銅や鉄を仕入れていた

97 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:45:10.28 .net
>>93
法王のような存在なのに、なんで法王の死後に法王がつかずに、その間に男王がたったりしてるんだよw
畿内説の論法でいくと大和王権は内紛だらけってことになるぞ。

98 :琪瑛教大祭酒:2024/05/19(日) 20:45:25.89 .net
やまとととびももそひめ=
卑弥呼であるから桜井茶臼山も卑弥呼の臣下。

99 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:45:39.68 .net
>>92
>あまり出土しないのは纏向遺跡と九州の遺跡の交流がなかったからです。つまり全く異なる国だったのです。

東遷説死亡

100 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:46:05.38 .net
北部九州は日本列島の玄関口で交易やりたい倭種は列島中から集まってくる
そんなものは縄文時代からずっと続いてるごく普通の話だ

101 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:48:56.98 .net
>>99

もともと大和王権の邪馬台国が九州も支配していて魏の使者を迎え入れるなんてこともありえない。
九州の卑弥呼の勢力が東遷して大和王権になったこともありえない。

つまり九州の邪馬台国と、邪馬台国はまったくの別の国。
同じ倭人ではあれど、文化も微妙に違う。

102 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:49:46.06 .net
>>99

もともと大和王権の邪馬台国が九州も支配していて魏の使者を迎え入れるなんてこともありえない。
九州の卑弥呼の勢力が東遷して大和王権になったこともありえない。

つまり九州の邪馬台国と、大和王権はまったくの別の国。
同じ倭人ではあれど、文化も微妙に違う。

103 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:54:22.06 .net
>>95
隋書からも分かる
俀王姓阿毎字多利思北孤=あめたらしひこ
すなわち、聖徳太子が倭王ということになっているが、推古天皇という教皇の記述はない

104 :琪瑛教大祭酒:2024/05/19(日) 20:54:33.52 .net
後の八角とは関係はないが
卑弥呼死後次の法王は宗女消えた霊山岱與に成っとる、倭人伝唯一名だよ。
間男は後任争いの弟か弟の息子らしきこくちひこ。

105 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 20:57:04.64 .net
>>99
日向の地から神武東征はあったよね。
奈良にいい土地があるという噂を聞きつけ、ナガスネヒコから国を略奪。
そこで勢力を大きくし、のちに九州北部の邪馬台国の勢力も併呑。
旧唐書・新唐書にあるとおり、邪馬台国の外交関係を継承するためになりすます。

106 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:00:49.55 .net
>>105
邪馬台国は九州にない

107 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:01:17.98 .net
若御毛沼の命だとか豊御毛沼の命だとか、どう見ても狗奴国の王族です

108 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:02:20.93 .net
>>106
邪馬台国は九州以外にありえない

109 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:03:32.99 .net
>>108
理由は?

110 :琪瑛教大祭酒:2024/05/19(日) 21:05:59.68 .net
倭人は文字を知らず百済から教わる。
何語で倭人に何語を教えたのだ?
記紀は何語かね?

111 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:30:22.36 .net
>>102
一大率に支配されてるやん
そもそも九州に女王が居たら一大率なんか要らない

112 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 21:42:59.55 .net
>>107
狗奴國はグンマー! 邪馬台国は安房!!

113 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:00:39.07 .net
>>111
そもそも畿内に行くなら九州を陸行なんかしないぞ
わざわざ九州でお宝降ろして数をかぞえてまた船に積んで畿内に行くとか
無い無いw

114 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:09:46.48 .net
>>113
畿内に行く人が九州を陸行したとか
倭人伝に書いてないけどな

115 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:10:52.32 .net
>>114
ほうじゃあ不弥国放射説か

116 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:22:11.42 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

117 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:40:57.75 .net
邪馬台国時代より千年後にも中国人は博多に寄港して本国に帰るというパターンが多かったようだ
だから日本=九州という感覚が強く明の永楽帝は阿蘇山に中華風の名前を送って足利義満に石碑を送ったりしている
ネトウヨがYハプロを口にしているからオレもやってみたが父系は日本人成分では無かった
予想はしていたがやはり倭人系と大陸系は違う
九州は大陸系が強くオレはその地の人たちと関係が深いらしい

ヤマト王権の祖先はヒムカたる糸島であり、これが邪馬台国になっていったのだろう

118 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 22:50:18.90 .net
1. 公孫氏に於ける女王国の呼称、短里を使用

卑弥呼の即位と遼東公孫氏の成立の時期は190年頃で殆ど同時期であり、魏志倭人伝における「女王国」の呼称は、公孫氏時代における倭国の状況を記したものであると考えられます。
従って女王国の説明に用いられる、1里約80mの短里も公孫氏が使用していたものと考えられます。

2.魏使の投馬国・邪馬壱国の呼称使用

魏代の倭王は卑弥呼、男王、壱与である為、魏使が倭国を女王国と呼ぶとは考えられず、邪馬壱国の名称を用いてものと考えられます。
魏志倭人伝に於いて投馬国・邪馬壱国に関する記述には日数が用いられており、これは魏使の報告書からの引用で、帯方郡からの日数を記述したものと考えられます。

3. 投馬国・邪馬壱国の広域国家としての可能性

投馬国・邪馬壱国は、広域的な政治連合を形成していた可能性が高いと考えられます。

投馬国は朝鮮半島南部、邪馬壱国は北部九州地域全域を支配していたと考えられます。

4. 九州説の妥当性

上記の点を踏まえ、魏志倭人伝の内容を矛盾なく説明するには、九州説が最も有力な説となります。

邪馬台国は、北部九州地域に位置していたと考えられます。

119 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:20:50.39 .net


120 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:21:56.59 .net
朝鮮投馬国とか何処のバカが信じるんだよ

121 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:29:55.22 .net
朝鮮投馬国からミミとミミナリという日本人丸出しの名前の役人が出てくるというw

122 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:42:18.26 .net
>>121
寄港地は対馬だから
日本に行くのになんでプサンに行かなきゃならんのよ?

123 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:42:37.18 .net
郡からずっと南に行ったら九州に着かんよ

124 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:53:54.64 .net
隋書 經都斯麻國逈在大海中
大海の中に見えてる対馬を避けてプサンに行くわけねえじゃん

125 :日本@名無史さん:2024/05/19(日) 23:54:29.28 .net
>>117
いや大陸系でも色々だから
楽浪漢人や秦氏なら(O2aだと思うけど)
関西にも比較的多い漢族系とともに核ゲノムでは
日本人を圧倒しているよ
渡来系でその成分は8割に達するけど内訳は
東漢氏と秦氏系で6割、漢族系が2割行くかいかないか
そんな感じで
そういった渡来系はまず奈良や河内へ向かったんだけどね

126 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:00:53.55 .net
倭人伝には魏使は末盧国で下船して伊都国などの北部九州にあった
国々を訪問しながら邪馬台国にいっている。なぜ大阪まで船で行かずに
北部九州の国々を訪問したのか?畿内説派はこの疑問に理解が出来る
答えが無い

127 ::2024/05/20(月) 00:05:38.50 .net
>>126
「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰ひ、副は泄謨觚、柄渠觚と曰ふ。千余戸有り。世、王有りて、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」

128 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:05:57.08 .net
>>126
伊都国、奴国、不弥国を九州だと思ってないから
対馬国、一支国、末盧国とは記述内容が違うから別の資料をくっつけてる

129 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:08:48.45 .net
『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。
 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。
  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 
 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。
 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。

130 :琪瑛教大祭酒:2024/05/20(月) 00:09:56.29 .net
もう確定しているから
最近はニュー速でもあまりハッキリと知られたくないから取り上げてやらないだろ。
やたらドングリが飛んで来るしな。
313年以降からは謎だからね
入り彦が二人続くわね
男系じゃあないから

131 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:09:58.55 .net
そもそも放射読みも投馬国も間違いだから

132 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:13:06.30 .net
>>131
放射じゃなく里数行程は関係ないのよ
行き先が不弥国だし

133 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:21:57.47 .net
そもそも瀬戸内海航路とか古代の航海をナメすぎ
魏の大使とかの国賓を迎えるなら一番安全なルートを使う

134 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:34:41.05 .net
その行来・渡海、中国に詣(参)るには、恆(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ。シラミ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人のごとくせしむ。これを名づけて持衰(じさい)となす。もし行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便(すなわ)ちこれを殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり。

要するに航海安全の願をかけた精進潔斎といったところで、上手く行けば褒美を与え、失敗すれば(神様への生贄or八つ当たりに)殺すという神頼みだったようです。

135 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:37:31.98 .net
>>133
でしょ
遣隋使は瀬戸内海航路を使ったのかどうか?
都斯麻國から東と書いてるし

136 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:40:36.79 .net
>>134
中国の遣いの船が沈んだら持衰の命じゃ足りねえだろ?

137 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 00:58:44.53 .net
>>126

お前の家には無いだろうが
ある程度の家にもマンションにも玄関ドアの前にまず
門やオートロックのエントランスがある
国も同じだ

138 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:07:17.23 .net
魏志倭人伝の不可得詳の国の一番目、斯馬國は都斯麻國だと思うがなあ

139 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:11:22.54 .net
>106
理由は?

140 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:13:05.00 .net
>>113
畿内説なのだとしたら魏の使者も直接敦賀あたりに上陸してから行くよね
だからどう考えても畿内説は無理筋

141 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:15:17.98 .net
>>140
そうだろうか?
さすがに大阪湾からは船を使えるでしょう

142 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:24:33.23 .net
>>140

敦賀あたりに上陸したところで迎えるということは
どこの国かわからん船が勝手に西日本の各地に上陸するということになる
そうなると各地でトラブルが起きる
大切な外交使節はまず外港窓口で迎えて
王都までお連れする
各地に勝手に上陸した船は各国で処分しても問題は起きない

143 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:26:00.95 .net
>>142
それが敦賀にあってもおかしくはないんだけど俺は山陰だと考える

144 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:26:01.41 .net
>>142
それが敦賀にあってもおかしくはないんだけど俺は山陰だと考える

145 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:28:24.68 .net
>>141
大阪湾からだとすると陸行一月をどう説明するかだな。
それまでの方位は無視として。

146 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:30:46.54 .net
>>145
船でそのまま淀川を登って伊勢遺跡か大和川から纏向遺跡

147 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:32:22.90 .net
大阪湾からの陸行一月は、1日とかの間違いとか言い出したら九州説の奴らと同じだし。
テンプレみたいに裴世清の水行(大和川遡上)や宿泊込みなら馬鹿にされるだけだし。。。

148 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:33:15.21 .net
川を水行とは言わないでしょう

149 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:34:58.08 .net
>>147

一人一説雑多九州小説は行程で比定しているが
学問の通説畿内説は行程には誤情報が含まれているので使わない

150 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:37:23.33 .net
>>147
大阪湾からではないよ
山陰から陸行ひと月で大阪湾から川を上る

151 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:41:56.48 .net
もしかすると荷物だけ船に載せて人は歩いたかも知れんけど
川を上るんだし

152 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:52:37.42 .net
勿論船は日本の準構造船https://www.oceandictionary.jp/scapes1/scape_by_randam/randam20/select2002.html

153 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:52:59.91 .net
畿内説は馬鹿のフリをする戦法です

154 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 01:55:50.43 .net
>>153
理に適ってるだろ?

155 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:02:31.98 .net
>>154
何年も算数が出来ないフリは頂けない

156 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:04:25.64 .net
>>155
算数が出来ないとはどういう事だ?

157 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:04:32.45 .net
馬鹿のフリをしていたら本物の馬鹿になってしまった畿内説

158 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:05:17.19 .net
>>156
ほら、もう馬鹿のフリをしている

159 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:06:31.35 .net
>>158
ホントにわからない
何が聞きたい?

160 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:10:37.85 .net
>>146
それ水行だから×

161 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:11:55.00 .net
>>159
畿内説の短里などないという主張がおかしいと言っている。
憲法9条があるから自衛隊などあるはずが無いという主張と似ている。

162 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:12:44.50 .net
>>160
川は水行じゃないでしょ?
てか中国の船を降りた時点であとは陸行としてるんじゃないか?

163 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:12:46.74 .net
そのりくつはおかしい

164 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:14:04.49 .net
>>150
テンプレだと日本海航路は衰退してたらしいよWw

165 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:16:05.46 .net
>>161
そんなもんで書いても記録にもならない
魏の公式の距離があるのに役人が使わないってあり得んだろ?

166 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:17:08.84 .net
>>164
奴の事など知らん
テンプレ読んだこと無い

167 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:19:48.43 .net
>>165
短里が無かったと言う証拠が無い

168 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:20:23.11 .net
>>163
そうかね?
海を渡る中国船と準構造船ではイカダに乗ってる感覚じゃないか?

169 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:22:04.25 .net
>>167
そんなもん出せるか!
日本人が勝手に考え出して辻褄合わせしただけでしょ?

170 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:29:05.36 .net
>>168
自衛隊やら9条やら言ってるのがいたからね

瀬戸内海を航行するために船を乗り換えるのはまったく正しい
そのために九州内を陸行しているんだよ
郡使の多くは伊都国で用事は終わりだけどね

171 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:30:44.74 .net
陳寿が1万2千里を真に受けてその距離に合わせようとしたのは否定してないのよ
最後の最後で嫌になったのかいい加減になってるけど

172 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:33:40.21 .net
>>170
俺は上陸地点は山陰だと考える
瀬戸内海を全て船は難しい
まあ難所は陸上を船を引っ張って歩けば良いんだけどさ

173 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:42:39.50 .net
中国の使者は結構大所帯でしょう

174 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:48:49.95 .net
中国の外洋船は100人位乗れるとなんかで読んだけど

175 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 02:59:10.52 .net
>>169
432メートルは計算が合わないだろ

176 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 04:44:40.89 .net
合ってるぞ
だから倭が会稽東冶の東なんだ

177 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 04:54:36.44 .net
>>139
テンプレ
そのごく一部だけをコピペする

>この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

178 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 04:56:55.95 .net
162
おまえは中国の移動方法を知らないのか?

向こうは大河が張り巡っていて内陸側だろうが船で行くんだが知らないのかよ

長安まで船でも行けるんだぜ

179 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 04:58:28.87 .net
僧で陸路で旅して日本まで戻るのに何十年もかかったなんて話もあるしな

適当にでっち上げるなよな

180 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 05:27:12.21 .net
>>167
短里が無かったと言う証拠を突きつけられても理解できないのは九州説信者の頭が悪いからだろ

181 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 05:29:28.07 .net
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182 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:00:21.42 .net
>>165
>魏の公式の距離があるのに役人が使わないってあり得んだろ?

陳寿が書いた「魏志倭人伝」は、西晋の距離。   @阿波

183 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:03:16.08 .net
俺畿内説だけど
>>1 テンプレ私見が入りすぎだし支離滅裂
畿内説の最低限だけ記述すれば良い
迷惑だ

184 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:05:12.51 .net
歴博論文の東潮先生(徳島大教授)の新視点が興味深い。
倭国の最高軍事指揮官である難升米に黄幢が「仮に授けられて」倭国に持っていけなかったのは、魏の半島戦略の為であるという。
魏は、244、245年と二度も毌丘倹を高句麗遠征に行かせ、高句麗を遠方に追いやることに成功。
さらに、246年には帯方太守・弓遵が諸韓国の反乱に当たり死亡するも、辰王の殺害を達成。

247年についに黄幢が倭国に運ばれたのはこの半島情勢がひと段落ついたことに起因すると言い、元々黄幢は狗奴国対策の為ではなかったとする。

倭国が親魏倭王など破格の待遇を受けたのは半島対策の為であることは確実であるように思われる。
蜀漢、呉という強大な敵と戦いながら、さらに東でも高句麗や韓国の反乱(実際に太守が殺害されている)に苦しんだ為に、倭国を重視したのだ。

185 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:09:46.09 .net
弥生時代中期後半(前漢)には、鉄器を作っていた鉄器王国「阿波」。
その前漢武帝(紀元前108年)時代に朝貢していた国とは、
鉄器王国「阿波」内で、鉄器を自前で自由に製作していた国々ってこと。
その朝貢は、鍛冶素材を手に入れるための外交手段。   @阿波  

186 :琪瑛教大祭酒:2024/05/20(月) 07:11:07.33 .net
北九州~任那。
2000里韓尺550×2000崇神
北九州~狗邪韓国。
魏尺3000×400
大体合ってる。
魏尺と晋尺は税改正でもあれば変化しているかもしれないが大きな差はないだろ?

187 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:17:21.01 .net
東潮先生の主張

・12000里は九服之制による実際の距離ではない
・狗邪韓国までの7000里は六服7000里という机上の数字。周旋5000里を足せば女王之所都
・邪馬台国=ヤマト王権

188 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:19:34.11 .net
里数が足りんね

189 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:31:14.45 .net
>>183
よく出来たテンプレだよ
全てに同意はできないが

190 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:31:36.36 .net
>>183
反論できないのは九州説の証拠

191 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/05/20(月) 07:35:04.26 .net
そもそも10日とか1月などというキリのよい数字が連続して出てくる報告書を見て素直に信じてしまうのがネトウヨクオリティー

九州説主張者は詐欺師に鴨られるタイプだから気をつけねばならない

ここは武士の情けで日本会議の構成員が政治的理由で主張しているから馬鹿ではないと信じたい

北とか南とかもキリが良すぎて、東南とか西南とか出てこない時点で怪しいレポートだな

192 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:38:03.16 .net
>>189
>よく出来たテンプレだよ

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内に、ヤマト王権など興る訳がない!   @阿波

193 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:38:45.71 .net
俺がまだ九州説だった時に、「魏晋南北朝史学会副会長の陳長崎先生が、これはこの時代の史料じゃない」と言ったことを書いて、すぐテンプレで反論している
※テンプレの最後
すぐ反論できる一文を引っ張ってきている
相当物知りだよ、スレ主は

194 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:40:28.75 .net
>>191
>そもそも10日とか1月などというキリのよい数字が

だったら、萬二千里ではなく、キリのよい萬里のはず。   @阿波

195 ::2024/05/20(月) 07:45:47.72 .net
1万2000里は
中華思想で言う天子の徳がギリギリ届く観念的数字

それ以上はケガイノチw

196 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 07:46:26.94 .net
>>195
だったら、萬二千里ではなく、キリのよい萬里のはず。   @阿波

197 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/05/20(月) 07:52:42.08 .net
中国語の正史レベルの漢文となると美文でなければならないのだ
十日、百日、一月など、韻を踏んでいてリズムもよろしい

科挙の試験を見ればわかるのだが、文章の作成技術には韻律も採点項目に含まれる
ちなみに文中の主張に筆者の独自解釈なく過去の権威ある論文(疏)に沿っているかどうかなど査読も厳しい
採点する側も相当な学者でなくてはいけないという大変な試験であった

倭人伝の文書は正確性よりも文書の格調を重んじているように思われる
例えば南南西に一万九千二百十六里で日程は九日半であるとか書いたら美しくないだろう

漢文の世界というのは是の如しなのである

198 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:17:21.99 .net
つまり畿内説は馬鹿の作文

199 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:20:55.23 .net
>>148
>川を水行とは言わないでしょう

テンプレ読みなさい 水行 
だからテンプレの裴世清の例は論外 

200 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:24:29.00 .net
>>189
>よく出来たテンプレだよ

あきらめな奥山 自作自演しかできなくなったなワハハ

201 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:27:12.13 .net
>>193

馬鹿に言わせると奥山も賢いみたいだなww

202 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:30:11.40 .net
なんか人ごとくせえんだよなおまえら

ほんとに日本人なんか?おまえらがな😳

話にならねえほどレベル低いわけ?

203 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:34:01.13 .net
九州説も投馬国は朝鮮半島とかテンプレ決めろよ

204 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:42:12.18 .net
邪馬台国も筑紫平野だ山門だ山鹿だとコロコロ変わる

205 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 08:42:25.62 .net
>>199
>だからテンプレの裴世清の例は論外

反論もできずに罵る九州さん滑稽

206 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 09:10:12.88 .net
前スレでケヌの音の話があったが
志貴皇子の有名な万葉集の歌にもその音が登場する

神名火乃 磐瀬之社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時来将鳴

カンナビ、イワセは金剛山の麓の河内長野に並んで地名が残っている
金剛山へ続く深い森があったところだ

毛無の岡の候補地はどこか?
堺を代表する弥生遺跡の一つ四ツ池遺跡は石津川にあり、そのすぐ東側は段丘である泉北丘陵で四ツ池遺跡に連なる複数の弥生時代時代古墳時代の集落があった
毛穴ケナという地名が残っている

この歌からはまた、この歌を読んだ志貴皇子は霍公鳥ではないというのが分かる

207 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 10:25:00.55 .net
釜山〜比田勝(対馬)、厳原(対馬)〜勝本(壱岐)が50km前後で
倭人伝には1千余里と記載しているから1千里とは朝から夕方まで船を
こぎ続けてたどり着いた距離だから邪馬台連合国の東の海の1千里
向こうに倭種の国があるとの記載は豊後水道の事を指している

208 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 10:28:52.52 .net
要するに畿内説は紀元前660年から続く天皇家ニダー!としたいがための作り話

209 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 10:33:19.65 .net
>>185
半島で勝手に掘ってるし日本人はそれが鉄になって売り買いしてる物を買うしかないんだが

210 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 10:40:31.03 .net
>>207
豊後水道を渡る前の、女王国が無いという、お粗末でした。   @阿波

211 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 10:51:11.99 .net
弥生時代の鉄器文化圏=邪馬台国連合
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

212 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/20(月) 10:53:56.18 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

213 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:02:44.97 .net
短里は近いうちにこんな事言ってたら恥ずかしいって感じの世論になると思うわ

214 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:45:42.53 .net
畿内説や九州説は、近いうちにこんな事言ってたら恥ずかしいって感じの世論になると思うわ   @阿波

215 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:48:34.45 .net
短里は現代人が作った理屈で、史書に無いから、当時の人に聞いても知らんだろ。
知らないなら使わない。

216 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:49:18.34 .net
>>120
信じないのは半島人ですね
古代朝鮮半島南部に倭人の影響はないニダ!

>>133
瀬戸内海航路を整備したのは平安末期の平清盛で
それ以前は中国船は主に博多止まりか日本海を通って敦賀、越前等に着くルート
瀬戸内海航路は小舟しか通れなかったので中国船が瀬戸内海航路を使って関西に来た事はない

>>138
斯馬國は糸島市の志摩だよ、不弥国(早良区北部等)の次なんだ

217 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:54:46.98 .net
公孫氏の使用した短里(1里約80m)は魏や晋では知られていなかった
陳寿が短里で書かれた資料を見ても何か変だなとは思ったろう
そこで新たに派遣された魏使の報告書による日数も併記したんだ
7000里に水行20日掛かりますよと。

218 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 11:59:03.44 .net
短里は単なる古代の里に過ぎん
周里とでも言い換えれば良い

219 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:02:51.08 .net
短里は現代人があると思い込んでるだけだろう。
短里に思える。だけ

220 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:05:27.88 .net
併記などしてない、別のものだろ

221 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:15:57.79 .net
>>217
>公孫氏の使用した短里(1里約80m)は魏や晋では知られていなかった

九州説という空想を
また空想で説明しようとしても
月刊ムーの世界に突進してるだけだ

222 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:24:25.74 .net
丗有王 皆統屬女王國
世、王有り、皆は女王国に統属す。

伊都国の王が卑弥呼であった事を前提として意訳すると(公孫氏の資料からの引用)
世(公孫氏時代には)伊都国に女王卑弥呼の王がいた、倭の国々はみな女王国に統属していた。


自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国より以北、特に一大率を置き、諸國を検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。

これも伊都国の王が卑弥呼であった事を前提として意訳すると(公孫氏の資料からの引用)
女王卑弥呼は女王国より以北には、特に一大率を置き、女王国より以北の諸国を検察させていた。諸国はこれを畏憚していた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い治めていた。この様子は国中における刺史のようであった。


この場合女王国とは伊都国、奴国、不弥国等倭の中心国のことだと考えられる。
公孫氏の時代、倭は未だ邪馬壱国とは呼ばれていなかったのだろう。

223 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:24:53.76 .net
>>141
今の時代ならそうね。
しかし、九州の邪馬台国があった時代なら、
邪馬台国と無関係な大和王権の存在する畿内に行くには日本海側からアプローチしたほうが手っ取り早い。
瀬戸内海は小舟で魏の使者の一行が行くには潮流があまりに激しい。
明石海峡、鳴門海峡は橋を架けるのにも苦労したほどに潮流が激しいところなのは今も昔もまったくかわらない。

>>142
勝手に??w
何を血迷ったこと言ってんだかw
朝貢したから返礼しに来るだけの話だろうにw
勝手になんか来んよw

>>143
敦賀としたのは、垂仁天皇の時代に都怒我阿羅斯等があったからなんだけど、
確かに穴門、出雲経由なので山陰で来ることは大いにありえますね。

224 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:25:32.01 .net
>>1
おーーい
バカ奥山さーーーん
纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物まだ列記できないの??
少なすぎなの・????

225 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:26:41.72 .net
>>221
もともと月刊ムーは畿内説を揶揄して使ったんだが、畿内説の馬鹿自身がそのフレーズを気に入っちゃたんだねw

226 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:27:31.16 .net
一里の歩数が定まっていない時代の
王朝の外域の図面があったはず。

周以前なら有り得るわけだけど
何故その図を魏使と陳寿が採用したか
だろ?
陳寿の韓方可四千里を 
説明無く修正しないで版本になるのも
おかしな話、なのでもある。

短里という規格ではなく
漢書西域伝にも
200歩一里が使われた事はある。
修正されないのは何故か?

つまり、陳寿が採用した
50歩一里だと九州説が成立するから
デタラメだ、と言うのが機内説で
現代日本には、中国文献とは無関係な
邪馬台国が出来ている。

言い張ってみて、よかったね。

227 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:28:51.71 .net
>>224
畿内説にとっては耳がいたいクリティカルな反論やねw
畿内説の馬鹿は都合の悪い反論についてはテンプレにも載せないからさw

228 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:31:20.47 .net
そういや月刊ムーの編集長が畿内説だとか言ってたな

229 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:40:10.60 .net
>>223
だから山陰から大阪湾まで歩き川を上る
明石海峡は船では通らない

230 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:41:35.68 .net
1里がどのくらいの長さかっていうのは事実として混在してた。
70m〜95mで計算すると奴国までぴったりあう。ここまで一致するのは天文学的確率。
したがって奴国から半径7km〜10kmのところに不弥国があったでしょう。
そこから投馬国、邪馬台国に行くわけなので、
記述的に畿内みたいな遠いところにいきなりワープする記述になるわけがない。

231 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:45:07.76 .net
>>230
>で計算すると奴国までぴったりあう。

計算すること自体が間違い。  古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波

232 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:49:30.47 .net
畿内説の馬鹿は「短里なんてない!」って必死になってるでしょ?
実際に短里が使われていたことの天文学的確率での一致は、
畿内説が必死になって否定しなければならないぐらいクリティカルで都合の悪い事実だからなんだよねw
短里を肯定すると邪馬台国が九州の中にあったことになってしまうわけだからねw

だから畿内説としては魏志倭人伝の記述をそのまま読むと沖縄本島付近の南海上にあったことになるから、
どんなことをしても粉飾になるから短里なんかないっていいわけをこいて必死に否定するw
そのくせ自説に誘導するためなら方位すら粉飾捏造をするのが畿内説w

233 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:50:32.75 .net
舞鶴や敦賀に上陸してもそこから纏向まで歩くんでしょ?
そうであれば山陰から神戸辺りまで歩くのとどれ程違いがあるのか?

234 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:52:52.07 .net
>>232
日数行程があるから九州も合わないでしょ?
てか短里なんて疑問に思わんか?
だから近いうちに世論は変わると言っている

235 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:55:59.27 .net
>>234
だから、畿内説や九州説は、近いうちにこんな事言ってたら恥ずかしいって感じの世論になると思うわ   @阿波

236 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:58:09.28 .net
>>230
末盧国から不弥国までは700里(56km)
呼子付近から早良区北部までの距離
博多湾の不弥国から東へ千里(80km)で倭種の山口県
投馬国へは帯方郡から水行20日ですよ。

古代の旅は船旅が基本
船を使えば多くの荷物を運ぶことが出来る
宿場町も無い時代、道中の食料も持ち運ぶ必要があったが
船ならば大量の食料を持っていけるので困らない
陸路だと山賊に合う可能性が高い
しかも歩く必要もなく船頭以外は寝てていい。
陸行1月は古代の旅としてはあり得ない話。

237 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 12:59:48.48 .net
船を乗り換えるのでなければ九州内を陸行する意味なし
日本海を使うなら那津から乗り換えれば良い
シンプルな真理

238 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:01:11.51 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

239 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:02:10.12 .net
>>234
九州説で日数行程で合わないのは陸行1月だけ
それ以外は短里(1里約80m)での距離、方角、日数行程全て合ってる
陸行1月は陸行1日の誤記で末盧国(上陸地点は呼子付近)から宿泊地の伊都国までに掛かる時間と考える。

240 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:04:44.69 .net
>>239
水行ひと月で何処まで行くんだよ?

241 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:08:48.45 .net
>>239
>九州説で日数行程で合わないのは陸行1月だけ

短里を捏造しないと、なにひとつ合わないだろ

242 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:11:17.77 .net
>>239
誤記を前提にしたなら
行程で邪馬台国を決める資格は喪失してるよ

243 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:15:16.75 .net
魏晋南北朝の魏志、後漢書、隋書の邪馬臺に合致するのは畿内。九州説は後世の民族感情が生んだ曲解、歪曲だよ。

244 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:15:52.27 .net
>>242
誤記なら誤記で良いんだよ
あり得んような理由をこじつけるから誰も理解出来ない
誤記はあり得るから

245 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:16:15.23 .net
>>240
水行30日で帯方郡の南端の海岸から末盧国の北端の呼子付近に着く

>>241
短里は魏書東夷伝全体で使用されているから否定するのは無理だよ

>>242
1月が1日の誤記は東大の白鳥庫吉先生も言われていた。

246 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:18:19.77 .net
>>245
投馬国と末盧国の行程が逆になってるけどそこの説明してないじゃん

247 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:20:04.56 .net
>>236
日本海ルート諸国から畿内は
琵琶湖交通が無いと無理だと思う。

毎日海見てられる
九州海人が関門海峡を使えない
という可能性も無いと思うが?

むしろ、瀬戸内海諸国利用での
大阪湾~九州開通が
250年以降なのでは?

248 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:21:41.40 .net
>>247
だから淀川から琵琶湖に上る

249 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:21:45.19 .net
>>241
畿内説と違って論理的に説明されてるから捏造ではない。
短里で完全に整合することをつきとめ、ではなぜその短里が用いられたのか、そのあたりも調べ上げていて、
実際にその短里が使われていたことも見つけているから動かしようがない。
畿内説で飯を食ってる連中とか畿内説にこだわる馬鹿にとっては、
あまりにも致命的で耳が痛い話だから、見なかったこと、聞かなかったことにしたい気持ちはわかる。

250 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:26:19.98 .net
あり得んような理由には短里も含まれる

251 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:30:20.14 .net
>>242
そこ以外は天文学的確率でぴったり合うんだよ。だから偶然ではありえない。
では、陸行一月ってなんだ?って話になるわけだが、
船旅が主体なので、当時陸の旅を一か月することは考えにくく、一日の間違いだろうねってなる。
もしくは起点そのものが違うのではないかとなる。

252 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:31:37.75 .net
>>245
東大の先生が言ってたからルールとして適用みたいな考えなんとかならんか?

253 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:44:19.53 .net
つまり九州説はウソ

254 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:56:35.68 .net
要するに邪馬台国は九州以外だ

255 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:58:34.47 .net
纏向型前方後円墳、箸墓前と思えばいい
コレが東北から南九州まで出ます
もう倭国は福岡県北部という小宇宙に収まりきらないのです

256 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 13:59:38.22 .net
魏志倭人伝を曲解してないで、魏晋に関する漢文が入った出土品を証拠にだせばいい話。

257 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 14:26:49.81 .net
ビッグバンは韓国起源(畿内説)

258 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 14:28:56.49 .net
邪馬台国は九州以外に考えにくい
それをわかってて公金チューチューしてる畿内説考古学者

259 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 14:32:04.41 .net
阿波説は、畿内説が避けきれない厳しい反論を九州説論者からうけるとそれを茶化すためにあらわれる自作自演とみると実に分かりやすい。

260 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 14:39:50.74 .net
>>244
一大国も一支国の誤記だろうし、真珠チ丹各五十斤も真朱チ丹各五十斤の誤記のようだね
チョットした誤記はあるね、特に日と月の誤記の例は隋書にもあるね
「其南海行三月 有𨈭牟羅國」これ誤記で実際には「其南海行三日 有𨈭牟羅國」だよな
朝鮮半島南部から𨈭牟羅國(済州島)までは80kmくらいだから丁度3日くらい
「其國境東西五月行 南北三月行 各至於海」これも「其國境東西五日行 南北三日行 各至於海」の誤記で北部九州地域の事を指してるな。

261 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:05:30.73 .net
>>260
九州でも三日や五日で横断出来る訳ない

262 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:09:44.95 .net
>>239
女王国の北以外にあって遠すぎて戸数と道里がわからない旁国が女王国の北にあったりすぐ近くにある九州説が何を言ってるんだか

263 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:17:21.60 .net
隋書だと都斯麻國から東に行って一支國だな
たんなる方角の間違いなのか?

264 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:25:04.22 .net
>>232
>実際に短里が使われていたことの天文学的確率での一致は、

誰も算出してない確率を振りかざす九州説は
間違いなく詐欺だな

265 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:27:11.39 .net
>>263
𨈭羅國(済州島)から直接一支國へ向かう(東方向)途中で都斯麻國を遠望してるだけだぞ

266 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:28:10.10 .net
>>260
>「其國境東西五月行 南北三月行 各至於海」これも「其國境東西五日行 南北三日行 各至於海」の誤記で北部九州地域の事を指してるな。

史料を誤記とした行程論は根拠に使えません

267 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:33:08.60 .net
>>262
どんな九州説をイメージしてるのw
女王国とは伊都国、奴国、不弥国
旁国は不弥国から斯馬国(糸島市の志摩)へ繋がり北部九州地域を一周して奴国へ戻るんだよ
不弥国までしか郡使が行ったことがないなから細かい事は分からないんだ。

268 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:33:38.91 .net
>>259
>阿波説は、畿内説が避けきれない厳しい反論を九州説論者からうけるとそれを茶化すためにあらわれる自作自演とみると実に分かりやすい。

畿内説が避けきれない厳しい反論を
九州説論者がしたことは無い

269 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:36:19.75 .net
ここまで>>211の事実に対する畿内説の弁明無し

270 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 15:57:37.03 .net
>>249
>畿内説と違って論理的に説明されてるから捏造ではない。

という捏造
なぜなら「論理的に説明」しないから

>短里で完全に整合することをつきとめ、ではなぜその短里が用いられたのか、そのあたりも調べ上げていて、

という捏造
なぜなら、そんなことした証拠がしないから

>実際にその短里が使われていたことも見つけているから

という捏造
なぜなら、見つけたという証拠がないから


>動かしようがない。

笑うしかない

271 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:02:52.48 .net
>>269
>ここまで>>211の事実に対する畿内説の弁明無し

だって弁明が不要だもの

「よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます」
が論理的飛躍だっていう指摘に応えられてないでしょ
つまり論破済みなので弁明不要

272 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:06:19.92 .net
つまり畿内説は個人的感想を反論と呼んでる池沼でしたと

273 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:17:55.96 .net
>>270
短里の使用を認めない畿内説の人は知能指数が低すぎて地図が読めないんですねw

274 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:20:58.01 .net
>>271
鉄器は出土しないから
出来上がった鉄器を買ってるだけだから

275 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:23:34.95 .net
半島で鉄鉱石を掘ってるのは半島在住の倭人だよ
日本人は鉄を作れないから

276 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:25:37.97 .net
そうだね。北部九州の鉄は完成品の購入が多そうだ
質が良くなくても自分らで鍛造していたのは淡路以東や
日本海側

277 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:34:11.04 .net
>>276
入手出来る鉄の量が少ないから
小さく作り直して使用していたようだね
出土する物が小物ばかり

278 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:41:47.01 .net
 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。
 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。
  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 
 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。

279 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:46:49.03 .net
アホ九州説どもは朝鮮投馬国とかたわけた事言ってないで、於投馬国は出雲だって素直に認めろよ
九州に於投馬国に合う地名なんか無いだろ 

280 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:47:47.79 .net
それに邪馬台国時代の鉄が一番多く出土するのは山陰・北陸だ

281 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:51:53.20 .net
『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。
 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。
  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 

282 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:52:53.48 .net
 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。
 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。

283 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:53:48.51 .net
放射読みはシンプルに間違い

284 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:53:51.98 .net
>>273
>短里の使用を認めない畿内説の人は知能指数が低すぎて地図が読めないんですねw

反論できない完敗状態だからって罵るだけなのは、ミジメじゃないのかい?

285 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 16:56:14.02 .net
>>279
神武と繋がりのある宇佐に「都麻」の文字がある

286 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:06:57.51 .net
>>276
>そうだね。北部九州の鉄は完成品の購入が多そうだ

違う。
鉄器王国「阿波」から筑紫忌部への下賜品だ。   @阿波

287 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:10:16.11 .net
>>282
現在確認出来る魏略逸文には投馬国や邪馬台国は出て来ない
投馬国や邪馬台国が書かれてる梁書や太平御覧は魏略ではなく魏志倭人伝の内容の要約ではないかな。

288 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:14:26.48 .net
里数行程は全部間違いだと言ってるだろ
行き先が不弥国なんだから
しかも短里など存在しない
そうなると日数行程しか残ってない

289 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:15:03.19 .net
箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

都合の悪い調査結果は隠蔽する事で有名な畿内説さん
この調査結果の報告はまだですか?

290 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:17:26.76 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.

291 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:21:30.36 .net
>>223

>【どこの国かわからん船】が勝手に西日本の各地に上陸するということになる

と言っている
朝貢した魏ではない【どこの国かわからん船】ということ
つまり、入国管理を半島にもっとも近いところでやれば
それ以外のところに上陸した船は国交がない国の船ということになる
敦賀あたりで入国管理すると、
倭国は九州などの対外交易を統制できない

292 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:24:51.41 .net
>>267
>どんな九州説をイメージしてるのw
>女王国とは伊都国、奴国、不弥国

それは最低におばかな九州説
女王国まで12000里で伊都国は通過済み

293 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:29:15.73 .net
>>287
>現在確認出来る魏略逸文には投馬国や邪馬台国は出て来ない

断片だけの逸文なので出てこないのが当然
出てきたらおかしい

294 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:29:50.50 .net
>>288
>里数行程は全部間違い

なんで?
里数行程は公孫氏時代の記録からの引用で短里(1里約80m)を使用している
行き先が不弥国なんだから女王国に不弥国は含まれる(女王国=伊都国、奴国、不弥国)
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里で計算も合ってる

駄々を捏ねるのはもう止めようねw

295 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:32:02.74 .net
>>294
里数を足したり引いたりするのはもう止めようねw   @阿波

296 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:33:23.99 .net
>>295
郡から7000里の場所を答えろ

297 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:33:51.44 .net
島の周囲400里をしれっと行程に含む算数オタク

298 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:35:52.80 .net
>>296
狗邪韓国(巨済島)

299 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:36:38.17 .net
つまり畿内説は短里だろうが長里だろうが届かないのでただのオレオレ詐欺ですよと

300 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:37:19.95 .net
>>294

11900里で女王国に至ってしまってるから間違い

301 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:38:27.14 .net
>>298
@阿波に聞いてます

302 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:40:10.24 .net
>>301
狗邪韓国(巨済島) だと、何度言えばww   @阿波

303 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:41:31.11 .net
>>302
そこから阿波が5000里でいいのか?

304 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/05/20(月) 17:42:12.43 .net
ネトウヨが狗邪韓国を倭人の国といっているが、それなら狗邪「韓国」とは書かない
確かに韓半島に半島日琉語話者がいたのは事実だが、伽耶の地には倭系の出土物が少なく非韓人系の住民は少なかったと考えられる

305 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:42:37.92 .net
>>303
だから、里数を足したり引いたりするのはもう止めようねw と、何度言えばww   @阿波

306 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:43:27.23 .net
>>303
萬二千余里は、行程とは別項目だから無関係。
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波

307 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:45:40.73 .net
>>305
お前の主張などクソ以外の何者でも無いのだよ

308 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:47:10.17 .net
>>306
末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

309 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:47:16.57 .net
倭に接する、なんて海を挟んでと解して充分なんだよな

310 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:47:43.15 .net
>>307
クソでいいけど、里数を足したり引いたりするのはもう止めようねw

古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波

311 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:49:05.80 .net
短里とかいうのはそもそも存在しないが、九州説が致命的なのは何にも出土しないこと
さらには、奴国という九州の雄をさらに上回る投馬国5万戸、邪馬台国7万戸を九州内のどこにも見出せないことだ

312 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:51:11.64 .net
>>308
>末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

それは足したければ足せばよい。 その700里は、萬二千余里とは別項目だから無関係。 萬二千余里から足したり引いたりするな!   @阿波

313 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:55:01.48 .net
>>293
「東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也」

魏略は文末「也」で切れてるので、伊都国が目的地なのは明らか

314 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 17:56:20.31 .net
一人一説雑多九州小説は
奴国を九州最大の都市博多を中心とした福岡平野にするから
投馬国、邪馬台国が無理になってくる
奴国をどこか2戸の国にすれば
あと5戸と7戸でよくなる

315 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:00:08.15 .net
平原女王墓で決着はついている。

里程と日程は同一行程を別々に説明しているだけで、
北部九州全域が邪馬台国七万戸で、
朝鮮半島南部が投馬国五万戸。

これで完璧。

有力な対案なし。

316 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:01:16.41 .net
>>312
クソは便所に落とせ

317 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:02:00.72 .net
間違えた阿波のクソは食い物だった

318 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:02:04.05 .net
>>308
>末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

それは足したければ足せばよい。 その700里は、萬二千余里とは別項目だから無関係。 萬二千余里から足したり引いたりするな!   @阿波

319 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:03:26.76 .net
https://blog.ss-blog.jp/_images/blog/_fb9/e-tsurezure/E4BBBBE982A3-994bf.jpg
狗邪韓國=任那

320 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:03:41.03 .net
朝鮮投馬国糸島説からすると、
日本人はとても同じ民族とは思えない
韓国人のほうが真のお母さまに見えるということだろう

321 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:05:08.04 .net
>>320
韓国人っていたのか?

燕人や秦人の子孫あるいは
縄文人の子孫ならいたかもしれんが

322 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:05:53.15 .net
朝鮮投馬国の5万戸は倭人なのか?

323 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:06:06.65 .net
>>313
>伊都国が目的地なのは明らか

それが魏略じゃなくて原文ぐちゃぐちゃに書き換えるんで悪名高き翰苑な
伊都国についての注のなので伊都国のところまでしか抜書きしてない

324 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:07:02.94 .net
>>322
勿論
中国は倭人居住地を倭と呼んでいる

325 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:07:32.71 .net
>>323
悪名高きってお前にとってだけだろw

悪名高き後漢書
悪名高き三国志

記紀は無視ですかいw

326 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:08:09.25 .net
平原女王墓で決着はついている。

里程と日程は同一行程を別々に説明しているだけで、
北部九州全域が邪馬台国七万戸で、
朝鮮半島南部が投馬国五万戸。

これで完璧。

畿内説からの有力な対案なし。

327 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:08:35.13 .net
>>324
あんたが朝鮮投馬国を主張するトンデモさんなのか?

328 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:09:35.03 .net
縄 文 人 の 半 島 進 出 痕 な ど あ り ま せ ん

329 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:10:00.00 .net
>>308
>末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

それは足したければ足せばよい。 その700里は、萬二千余里とは別項目だから無関係。 萬二千余里から足したり引いたりするな!   @阿波

330 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:10:23.39 .net
>>323
伊都国の注なんてものはない

以下の本文の説明文です
「分職命官、統女王而列部」

331 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:13:10.95 .net
阿波はウンコが売り物

332 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:13:23.03 .net
https://ameblo.jp/teras0118/image-11997324243-13234143990.html
こんな感じだな

333 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:13:38.71 .net
邪馬台国を広域と理解するのは朝鮮妻説と同じなんだな
投馬国もある程度は広域だろう
広島東部から加古川以西がその範囲だな

334 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:14:31.56 .net
半島で縄文式土器出てるらしいな
もちろん半島では縄文式とは発表しないけど

335 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:15:35.93 .net
半島には縄文人しか居なかった時代がある

336 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:16:15.34 .net
>>327
いかにも

337 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:16:30.99 .net
邪馬台国連合の痕跡
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg


邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

338 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:23:01.54 .net
古いほど半島の倭人居住地はデカい
だんだん狭くなって最後は追い出される

339 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:23:54.52 .net
たぶん奴国以外の戸数足しても2万戸にもならない

340 ::2024/05/20(月) 18:27:24.91 .net
奴国の兕馬觚

「兕」と「博多湾や福岡平野の地形」と一致
https://i.imgur.com/0IcyXXK.jpeg

「兕」(呉音: じ、漢音: し、拼音: sì)は、古代中国の文献に出てくる動物の一種。 牛に似た一本角の獣。

「一本角」

兕 - ウィクショナリー日本語版
意義 · 水牛に似ている一角獣。角を杯に用いる。 · メスの犀。

「一角獣」

↓まさに、これw

341 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:28:34.99 .net
分厚く重く熱の通りにくい土器使ってる蛮族が
薄くて軽く熱がよく通る土器の作り方知ったら
そりゃ蛮族といえども後者の土器作るよ

342 ::2024/05/20(月) 18:40:32.10 .net
「一本角」「一角獣」

↓まさに、これw
「博多湾にある志賀島と海の中道(打昇の浜)」の画像

奴国が、福岡なのは、ほぼ確定ですねw


武田鉄矢 今朝の三枚おろし
今週はサルタヒコ

画像が貼れんw

343 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:41:31.45 .net
>>337
>伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです

ないよ

344 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:42:23.79 .net
モンゴルに襲われる前の博多は8千人ぐらいしか居ない
久留米は江戸時代で8千人

345 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:45:04.97 .net
なら博多と久留米と吉野ヶ里と直方一帯で6万戸だ
やったな投馬国よりは大きいよ

346 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:45:21.02 .net
>>330
>伊都国の注なんてものはない
>以下の本文の説明文です

それ、統属女王国のとこだよ

347 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:47:44.14 .net
違うな。江戸は増えてるからやっぱ奴国で2万、
奴国以外で2万、計4万だ。投馬国より小さい

348 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 18:54:35.17 .net
「伊都国、そして奴国、そして不弥国、そして投馬国、そして女王国」って書いてあるのに、途中で勝手に振り出しに戻るのが九州説

349 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:00:52.71 .net
>>308
>末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

それは足したければ足せばよい。 その700里は、萬二千余里とは別項目だから無関係。 萬二千余里から足したり引いたりするな!   @阿波

350 ::2024/05/20(月) 19:01:44.37 .net
>>346
もちろん、そうです

351 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:05:36.90 .net
>>337
遺跡があるのに海だったと言い張る畿内説の嘘八百

352 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:10:16.22 .net
>>351
ほぼ山沿いの高地にしか無い

353 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:17:34.48 .net
ᴛɪᴋᴛᴏᴋをインストールしてぺいぺい5000円もらえる方法書いてます!

https://x.com/kxvawlwoh/status/1791799408369254799?s=46

354 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:20:44.14 .net
>>352
どこが高地?

355 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:21:21.53 .net
治水された昭和でもこの有様
https://www.qsr.mlit.go.jp/chikugo/site_files/image/siryo/07-history/kouzui/images/ph2.jpg

356 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:23:51.41 .net
>>352

高三潴遺跡は標高5メートルの場所。
つまり標高5メートルは海では無かったと言う事

357 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:30:31.25 .net
>>356
誰もそこまで海だったとは言っていない
けど豪雨で沈没する地域だな

358 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:38:32.44 .net
>>311
朝鮮半島南部が投馬国で北部九州地域全域が邪馬壱国なんだよ
邪馬壱国「可七万戸」は、対馬国(千戸)+一大国(三千家)+末盧国(四千戸)+伊都国(千戸)+奴国(二万戸)+不弥国(千家)+傍国20か国分(二千戸×20)=七万戸
傍国(二千戸×20)は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、不弥国の5か国平均2000戸に傍国20か国分を掛けたもの

359 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:41:50.76 .net
全く証拠の無い朝鮮投馬国

360 ::2024/05/20(月) 19:42:03.12 .net
九州説はウォーズマン理論

361 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:42:09.21 .net
>>348
投馬国からは行程距離じゃなくて行程に掛かる時間に変わってるからな
そのまま続けて読む方が非常識だよ
わざわざ、分かり易いように距離と時間で説明してるのに馬鹿だから続けて読んでるw

362 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:42:46.59 .net
朝鮮投馬国

穴野をしる子くらいの笑撃wwwwwwww

363 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:44:21.57 .net
>>361 『太平御覧』引用の倭人伝を見てみましょう。
  至対馬国 → 又南渡一海……至一大国 → 又渡海……至末盧国 → 
  東南陸行五百里到伊都国 → 又東南至奴国百里 → 又東行百里至不彌国 →
  又南水行二十日至於投馬国 → 又南水行十日至耶馬臺国 
 ここで伊都国以降に魏志で省略されている「又」がついています。「又」は「加えて、更に」という意味ですから、直行式です。放射式ではありません。しかし、簡素を重んじる陳寿は「又」を省略しました。陳寿にとって直行式は自明のことであります。かえって「又」は陳寿には冗漫に思えたのです。

364 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:47:01.23 .net
陳寿が自明のこと、としたことが自明じゃなかったバカ九州説

365 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 19:50:01.97 .net
こんな馬鹿の天才は想定してない

366 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:13:56.19 .net
『太平御覧』なんて宋代に書かれたもの
途中で誰が又を入れたかわからん
根拠にはならんなw

367 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:14:36.63 .net
>>361
行き先が違うんだから二通りの説明ではない

368 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:21:49.90 .net
>>367
目的地は同じなんだが時代の違う資料を使用したから表現が違うんだ
女王国は公孫氏時代の呼称で邪馬壱国は魏使が使用した呼び名。

369 ::2024/05/20(月) 20:29:46.86 .net
>>326
だから、テンプレ読めよ
平原の銅鏡のしょぼさが書いてあるだろ

370 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:35:52.57 .net
平原の内行花文鏡のレプリカは奈良の鏡作り神社で飾れているhttps://i.imgur.com/Qewfw8p.jpeg

371 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:42:47.46 .net
平原の銅鏡が没落した伊都国最後の抵抗などと私は数日前に書いたが(松木武彦が楯築を倭国乱帥升と見ているのを根拠として構築した私自身が導き出した理論)、
テンプレにもほぼ全く同じことが書かれてあってビックリした。

このテンプレは有能だ

372 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:45:46.07 .net
平原の内行花文鏡は八咫の鏡

373 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:46:30.46 .net
>>366
 『太平御覧』の倭人伝は「魏志曰く……」で始まりますが、文章は魏志ではありません。魏志より冗漫と言ってよいでしょう。中国人も魏志と誤るほどですが、魏志ではありません。『魏略』です。つまり、魚拳の文章です。一般に冗漫な文章が簡潔な文章より先です。『三国志』の陳寿の文章は簡潔すぎて意味がとれないほどです。そこで、斐松之が注釈を付け、その注釈付き『三国志』が私たちの読んでいる『三国志』です。陳寿の文章は魚拳の文章を簡素化したものです。

374 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:47:08.82 .net
>『広志』(編纂:晋の郭義恭)

郭義恭は晋じゃなくて東晋の次の南朝の宋代の人で『広志』も魏志倭人伝よりも200年くらい後に書かれたもの。

375 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:48:16.49 .net
>>373
魏略逸文に又は入ってないんだがw

376 ::2024/05/20(月) 20:52:31.57 .net
テンプレは今は否定されている30年前の畿内説(畿内自生説)であって今のスタンダードな畿内説とは全く別物

畿内自生説の数少ない生き残りの岸本直文の論文などは編年もめちゃくちゃで現在の考古学界では呆れられている状況

久住猛雄のXより
「私を尊敬してますというのは真っ赤なウソで、私の論文全く読んでないですね。ちなみに近畿の弥生時代集落研究者は、岸本氏の事実と異なる弥生後期の奈良盆地アゲアゲにドン引きしてますので」

「ついでに岸本氏は『纒向学の最前線』掲載論文で、2世紀後半に下げたんだけど?大丈夫?」

なお、上記で久住にコテンパンにやられているのはこのスレの古臭いテンプレに洗脳された無知など素人のアカウント

377 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:53:52.17 .net
>>375
西暦600年頃の梁書にも入ってるな
從帶方至倭 循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里 始度一海 海闊千餘里名瀚海至一支國 又度一海千餘里名未盧國 又東南陸行五百里至伊都國 又東南行百里至奴國 又東行百里至不彌國 又南水行二十日至投馬國 又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國 即倭王所居 其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮

378 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 20:59:05.29 .net
 もう一つ、『太平御覧』には、「於投馬国」が見られます。『魏志』や『梁書』には見られません。『梁書』は『魏略』にかなり近く、「又」を残しています。その『梁書』にも「於投馬国」は見られません。これはなぜでしょう。
実は、魏晋南北朝の文章として「至於A」は不自然だったのです。「於」があると「……に至るまで」という強調的・抽象的意味としてとられるのです。この場合は、投馬国だけ取り上げて「ここまで至る」と強調するのは、今まで客観的に道程を記述してきた文章からみると、唐突です。『魏略』の著者魚拳は国名のつもりだったのですが、陳寿はこれを前置詞「於」と解釈したのです。『梁書』も同じです。

 ところが「投馬国」となると、語頭に濁音のこない日本古代語には存在しない発音になるのです。それが認識されていなかったのは、中国唐代700年以降の発音である漢音で読んだからです。これだと「トウマ」になり、問題ありません。しかし、魏晋代の発音は、呉音に近く「ズマ」と読むのです。「トウマ」と読んで気づかなかったのは、余りにも迂闊だったと思います。

 元に戻りますと、「於」が脱落するのにはそれなりの理由があったのです。魏晋代すでに、「至」の用法が変わっていたからです。

379 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:01:05.06 .net
自生説というのは定義の問題
寺澤、久住は、吉備人と北部九州人が邪馬台国の主体としているだけで、かつそのようなことを言っているのは寺澤と久住だけである

380 ::2024/05/20(月) 21:01:44.74 .net
北部九州が没落したなどというのは30年前の古い畿内説(畿内自生説)

現在のスタンダードな畿内説は以下のように見る

松木武彦「古墳とはなにか」より

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

久住猛雄のXより

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」

「福岡田舎って?少なくとも古墳前期までは全国一の「都会」、その後も「交易都市」が時代ごとに勃興してますが?地理と経済専門だって?何を言ってるんだ?」

381 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:02:53.79 .net
九州で大倭王が不在になり暦年大いに乱れていた頃
畿内では吉備と九州の上級民が纏向を作ってた

ということは……

382 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:03:53.15 .net
テンプレは自生説か?
全て読めば分かるが、自生説をとってない

383 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:04:35.57 .net
 魏志、魏略逸文とも狗奴国は女王国の南と書いています。後漢書では女王国の東ですから、後漢書が間違ったか、修正したかということになります。
 狗奴国の官は魏略では「拘右智卑狗(コーウチヒコ−)」ですが、魏志では「狗古智卑狗(コ−コチヒコー)」です。右と古は似ており、太平御覧では「狗石智卑狗」ですから、ここは魏略が正しく、魏志、太平御覧とも文字のかすれなどで、「右」の払いの部分の下や上がわずかに欠け、「古」「石」へ転写間違いが起こったのだと思われます。

384 ::2024/05/20(月) 21:06:44.52 .net
>>382
テンプレは30年前の古い畿内自生説そのもの
今の著名な考古学者でこんな主張をしているのは皆から呆れられている岸本直文くらいだ

385 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:07:06.98 .net
寺澤は「畿内優越史観」と関西の学者を批判する
久住は邪馬台国の支配者は北部九州人であるとする
久住は「北部九州優越史観」と言えよう

386 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:07:41.27 .net
>>370
鏡作り神社じゃなく、「鏡作坐天照御魂神社」な。

「阿波」から鏡作にいらっしゃった天照御魂。   @阿波

387 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:08:22.86 .net
>>378
魏略逸文に「又」が無いのに『梁書』は『魏略』にかなり近いとか
根拠のない妄想にしか思えんなw
そもそも魏略を陳寿が見たかなんて分からない
個別に書かれた可能性の方が高いと思う
魏略は公孫氏の資料を主に参考にしてるから投馬国や邪馬台国が出て来ないんだ
魏志倭人伝は更に魏使の報告書も参考にしてる
魏略の方が魏志倭人伝より少し先に作られてるから魏使の報告書は見てないんだと思う。

388 ::2024/05/20(月) 21:09:34.64 .net
米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう

そもそも古い畿内説論者(主に畿内自生説論者)が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり、図らずも彼らが唱える纒向畿内説自体が理論的に破綻する

以下、佐々木憲一明大教授の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」より引用

『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』

389 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:09:37.52 .net
>>308
>末盧国から不弥国は700里だろ、これは足し算だ。

それは足したければ足せばよい。 その700里は、萬二千余里とは別項目だから無関係。 萬二千余里から足したり引いたりするな!   @阿波

390 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:10:04.81 .net
>>384
テンプレは寺澤と久住を非常に多く採用しているが、寺澤や久住のような主張はしていない
また岸本直文を一切引用してない

391 ::2024/05/20(月) 21:11:34.52 .net
松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた古い畿内説(ほぼ畿内自生説と被る)をやんわりと批判する(都出比呂志や白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
関東の例も含め、古い畿内説の論理的弱点を的確に突いており、極めて妥当な考え方だ

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」

392 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:11:53.63 .net
>>387
根拠のない妄想は朝鮮投馬国だろ

393 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:12:59.63 .net
>>388
>「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」

土器そのものの移動は無い。 「東阿波型土器」の工法が拡散しただけ。   @阿波

394 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:14:42.87 .net
>>391
なにも難しいことはない。 単に倭人(阿波勢力)が全国に古墳を広めただけのこと。   @阿波

395 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:14:57.42 .net
>>391
松木武彦の倭国王帥升は楯築の王という考えを採用する
また、それに伴う平原銅鏡のしょぼさを言うテンプレに同調せざるを得ない

396 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:17:35.99 .net
>>395
>松木武彦の倭国王帥升は楯築の王という考えを採用する 楯築の王という考えを採用する

つまり倭国王帥升は、大量の水銀朱により、倭人(阿波勢力)の一人だとなる。   @阿波

397 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:23:24.50 .net
「対等な交易関係」で在地甕は消滅せんだろ
寝言は寝てから言え

398 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:23:30.62 .net
伊都国を衰退していないというのは無理がある
邪馬台国が伊都国にとって変わったのだから、それは衰退ではないというのは、「今も奈良が首都である」と強弁するのと同義である

399 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:26:37.99 .net
>>398
寝言は寝てから言え   @阿波

400 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:28:38.62 .net
纏向権力者「今日から甕はコレを使え!」

まじかー

401 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:29:46.57 .net
分厚くて重くて、中々湯の湧かない甕と
薄くて軽くて、素早く湯が湧かせる甕と

後者の作り方を覚えたら、そりゃみんなそっち作るよ

402 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:32:42.92 .net
前方後円墳体制もそうだけど纏向中央政府が
「お前んとこの墓は円墳な」「そっちのお前んとこは方墳で」
とか指示してたとでも言うのだろうか

403 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:36:38.72 .net
>>402
だから、墳形も土器も神代文字(阿波文字)も、倭人(阿波勢力)の派閥(少数民族)によって異なっていたのさ。   @阿波

404 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:46:21.18 .net
テンプレは極めて有能
纒向を「始めは調停の庭」と称し、日本海航路が衰退し、そこに日本海航路に取って代わった瀬戸内の首長たちが貿易の安定と、倭国人同士で争わない為、
かつ東海にも支配力を及ぼす纒向に卑弥呼を共立したという。
東海では、突線鈕5式が畿内から広がっており、納得ができる。
単に、テキトーに纒向を選んだかのように言う寺澤よりも合理的であるように思える。

(スレ主さんの認識と違っていたら、スレ主さんごめんなさい)

405 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:48:38.51 .net
>>402
ではない
出雲や伊都国では100年近く前方後円墳を作らなかった

406 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 21:56:46.76 .net
>>404
>東海では、突線鈕5式が畿内から広がっており

銅鐸王国」「阿波」からだよ。   @阿波

407 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:10:06.01 .net
>>397
それなんだよな
対等な関係と言うのはあり得ない
橿考研が言うように「他の追随を許さない圧倒的な王(橿考研・岡林孝作)」というように、
世界の皆は全て平等なる理想論なイデオロギーを抜きにして考えると、
どう考えても畿内邪馬台国が北部九州を圧倒していることは明確である。

408 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:12:38.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

409 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:23:46.11 .net
>>392
投馬国が朝鮮半島南部だと何か不都合があるの?

>>398
伊都国が邪馬壱国の王都なんだから衰退なんてしてないな。

410 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:25:34.83 .net
https://yamataikokunokai.com/katudou/image2/347-02L.gif

411 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:26:45.51 .net
>>409
伊都国は1000戸
邪馬台国は7万戸
朝鮮投馬国は終わりました

412 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/05/20(月) 22:28:26.58 .net
今や邪馬台国九州説はネトウヨのおもちゃと化した
日ユ同祖論やアイヌシベリア渡来説や縄文文明論や日本語タミル語説や神代文字実在論と同レベルの迷信に成り果てたのである

自民党支持はネトウヨ統一教会や日本会議に配慮して正しい倭人の民族発祥史を教えていない

やはり政権交代は必須だ
日本共産党や立憲民主党や社民党やれいわ新撰組のような市民の人権を護るリベラルが政権を担当せねばなるまい

ネトウヨの好きな日本保守党は論外。国民民主や維新は自民党補完勢力
正しい投票先は日本共産党や立憲民主党やれいわ新撰組や社民党であると自覚してもらいたい

413 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:34:24.36 .net
>>411
七万戸の邪馬壱国の王都が千戸の伊都国なんですw
伊都国の隣に二万戸の奴国があり、奴国が邪馬壱国の経済の中心
邪馬壱国をアメリカとするとワシントンが伊都国、ニューヨークが奴国って感じ

414 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:38:40.88 .net
死ねよ馬鹿

415 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:39:38.30 .net
>>413
邪馬壹とかいう絶対にあり得ない国名が王都で、かつ7万戸
もはや馬鹿ですね

416 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:43:08.58 .net
バカ九州説の日向投馬国は止めたの?

417 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:44:44.70 .net
つまり畿内説は想像を絶するバカでしたと

418 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:47:07.44 .net
>>415
お前は相当知能低いなw

419 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:48:52.00 .net
ボビンによると三国時代、高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅を設立するまで朝鮮半島南部では日琉語族話者が存在していたとする。
つまり、濊や韓は日琉語話者ということ。狗邪韓国に韓という字がついているからといって現在の韓国や朝鮮と繋がりがあるわけではないのである。

420 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 22:48:53.88 .net
邪馬台国と投馬国の位置を都合よくコロコロ変える九州説

421 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 23:12:53.15 .net
畿内説は纏向の前は唐古・鍵を卑弥呼の都に比定してただろ

422 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 23:19:11.52 .net
>>421
誰の説?

423 :日本@名無史さん:2024/05/20(月) 23:26:49.43 .net
>>421
伊勢遺跡だ

424 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/20(月) 23:56:38.47 .net
纏向王権を建てたのは明らかに九州人だ
また吉備も政権に参画している
神武天皇伝説のモデルになった人物がいて、彼がヤマト王権の初代王だったはずだ
日本の建国はネトウヨが妄想するような紀元前ではなく紀元後の西暦180年頃である

九州から吉備を経由して畿内にやってきた何者かが原住民の銅鐸文化人を征服したのだ
これが中国の史書の伝える邪馬台国の建国に相違ない

425 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:16:20.02 .net
>>412
つばさの党はどっちなんだ?

426 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:42:15.78 .net
>>425
猿にエサを与えてはいけません そのコテはNG推奨

427 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:47:50.94 .net
考古学を下げるわけではないが考古学は基本的に「街頭の下で鍵を探す」学問
土器や古墳は重要だから研究されているのではなく、後世に残りやすく研究しやすいから研究されている
人間のさがとして自分が研究したことが重要だと思いたい気持ちはわかるが歴史を語るようなことは禁欲的であるべき
土器の型式や古墳の形状で年代や支配従属関係を語るのは慎重であるべき

428 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:51:16.77 .net
>>427
↑拗らせた文系脳

429 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:51:53.17 .net
そんな九州説の得にしかならないこと真面目な顔で言われても

430 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 00:53:00.71 .net
また、ドングリ砲だ
翼の党は反米反共を謳う新右翼らしい。
もしそうであれば
めんどくさい連中ではあるが日本の理念としては間違ってはいないと思うけどね、しかしながら聖地が慶州羅井とは思っていないだろうね

勘違い新右翼、周りがどう受け取るか

この文でまたドングリ浴びるな。

431 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:58:21.91 .net
>>430
つばさの党は朝鮮極左だよ、無知だな

432 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 00:58:45.98 .net
“朴天秀氏はこうした相関関係から、栄山江流域の前方後円墳の被葬者の出身地を割り出し た。それは次の五か所――豊前北部(番塚古墳) ・肥前の佐賀平野(関行丸古墳) ・筑後の遠 賀川流域(桂川〈寿命〉王塚古墳) ・筑前の早良平野(梅林古墳)・肥後の菊池川流域(江田 船山古墳) -ーである”

旧邪馬台国(肥、筑紫、豊)と狗奴国(熊本)が仲良く半島南部にいる

433 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 01:09:52.52 .net
そんなのが日本に入り込んで政治活動だのやってても鬱陶しいだけでな

434 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 01:32:07.90 .net
突然消えた日向投馬国

435 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 03:11:08.21 .net
>>272
正解

436 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 03:26:12.14 .net
>>434
投馬国は日向から豊前エリア、神武の九州での東征圏

437 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 04:33:00.04 .net
つまり九州説はウソ

438 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 04:35:44.15 .net
畿内説は公金詐欺

439 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:15:19.49 .net
>>420
俺個人は30年ほど前から投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壱国は北部九州地域全域で固定してる
コロコロ変わるんじゃなくて九州説でも雑多な事を言う人がいたんだ

投馬国は日向から豊前エリア
この説は九州説よりも内容的には畿内説に近いな
阿波説と同類
畿内説みたいに里程と日程を繋げて読むと日本国中どこにでも邪馬台国を持っていける

440 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:16:34.35 .net
>>433
宗主国のお許しが出た数年前までは自ら謝罪と反省を繰り返さないといけなかったのだよ

441 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:29:02.68 .net
>>439
目的地が不弥国の放射読みはあり得ない

442 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:35:10.68 .net
>>441
放射読みはあり得ないし、萬二千余里からの引き算も有り得ない。   @阿波

443 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:36:02.52 .net
>>>439
>30年ほど前から投馬国は朝鮮半島南部地域、

そんなに長くも酷い恥をかき続けてるのか
ずいぶん馬鹿にされ続けたんだな
考古学的にあり得ないのに

444 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:37:28.27 .net
>>441
放射読みはあり得ないし、萬二千余里からの引き算も有り得ないし、対馬海流に流されて呼子・唐津も有り得ない。   @阿波

445 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:42:20.02 .net
>>427
文献という伝聞証拠だけでは邪馬台国論争は決着がつかなかった
伝聞は、知覚→記憶→叙述という過程を経るので誤りが介在しやすい
ましてや、陳寿の魏志倭人伝は伝聞の伝聞の伝聞の伝聞というレベルだろう
「Aが言ったとBが言っていた。BはCから聞き、CはDから聞いたと言っていた」というものを記したの魏志倭人伝である
最初に倭国を見てきたAに対して、陳寿は尋問をしていないことは確実であろう

であるから、考古学という物的証拠(間接証拠)も組み合わせて考えなければならないのである

殺人事件の被疑者、被告人を伝聞証拠だけで有罪と決めつけたらとんでもないことになる

446 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/21(火) 06:55:23.92 .net
謝罪はしないとダメであろう
日本がやってきたことは時と共に許されるレベルを超えている

447 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 06:56:01.60 .net
>>424
銅鐸が消えたのは事実だが、北部九州からは甕棺が消えた
また、博多の首長層は畿内土器を副葬している

448 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 07:09:40.46 .net
だから日本の理念とは神武詔勅であると言っとるであろう。
謝罪が必要であるのか?は知らんがな。
古辰国を謳うのが日本。
新羅も百済も日本も全部ひとつと考えているのであろう。
箸墓卑弥呼とは理念が違う
まったく関係は無い

449 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:13:29.29 .net
つまり九州説はウソ

450 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:13:49.71 .net
>>447
畿内土器は、「東阿波型土器」   @阿波

451 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:15:43.90 .net
つまり纏向は狗奴国甕の征服下だったわけだな

452 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/05/21(火) 07:15:56.55 .net
倭国大乱までは政治的にも経済的にも北九州が畿内を上回っていた
畿内で纏向遺跡の構築が進む頃になると政治的には北九州は畿内の下部に組み込まれていたと考えられる
ただ経済的反映度や治金や文字使用など俗にいう文明度の高さでは依然として北九州が畿内を圧倒していた

いずれネトウヨは「邪馬台(ヤマト)の建国は中国の歴史書にも記された事実だった」と手のひら返しして周囲を唖然とさせるのだろう
それは正直不愉快だが天皇の卑弥呼が中国の皇帝に臣下の礼を取ったという事実が確定するのであれば受け入れよう

ネトウヨは九州説など捨てて、次のステージであるヒムカは何処か?やニギハヤヒは何者か?や日琉語の起源は韓半島などに進んだ方が良い

453 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:16:30.25 .net
陳寿が「又」と於投馬国(出雲)の於を省略しなかったら
放射読みも投馬国コロコロも無かったのに

454 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:25:24.59 .net
>>441
放射状読みではない
同一行程を里数行程と日数行程、距離と時間で二重に説明してるだけなんだ
あえていうなら二重読みだな
永年考え問題点を改善したんで文献学的には反論の余地く完璧だと思ってる
日本の考古学のいい加減さが明らかになったな

455 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 07:30:38.98 .net
古辰国らしきものが紀元前に存在していたが
六部六村が対立でもして三韓に分かれていたときに
卑弥呼が列島に現れ鬼道により列島を纏めたと言っとるだけだよ。卑弥呼以前に八角の元となるようなものはまだ畿内には存在していない。
神武の筑紫も吉備もまだ無いしタタラ(多羅国)もまだ無い。
前方後円墳政権も吸収したことにしたのが神武詔勅だよ。
であるから朝貢も認めないし道教も認めないし
敗戦も認めないらしいと言うことだね。
天武は祭祀で自らが万物として祀る。
天武が全てそうしたんだろ

456 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:32:12.48 .net
>>454
>永年考え問題点を改善したんで

「魏志倭人伝」に改善など、要らんお世話だ。  陳寿はそんなこと、想定していない。   @阿波

457 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:32:37.08 .net
かの古田武彦氏でさえ、「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収162頁)で、『太平御覧所引魏志』にみえる「又」の連鎖する文章について、以下のように述べている。
この点(補注5)もいま詳しく立ち入る必要はありませんけれども、いまの問題は、この『太平御覧』の文章ではもう何の見まちがうこともない文章に書き改められていることです。つまり「又、南水行十日陸行一月、至耶馬臺国戸七万」このあとに「女王之所都」ときまして、これならもうまちがいなしに“投馬國と耶馬臺国との間"が「水行十日・陸行一月」である。しかも投馬国は女王国の北、つまり投馬國の南に耶馬臺国が当たっている。これはもう疑いようがないわけです。こういう疑いようのない文章に書き直してあるわけです

458 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:34:26.00 .net
>>441
>文献学的には反論の余地く完璧だと思ってる

他の人は誰も思わないから
だって理由ないだろ文献学的に

459 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:36:52.94 .net
『太平御覧』所引魏志
又南水行二十日至於投馬國戸五萬置官曰彌彌副曰彌彌那利
又南水行十日陸行一月至耶馬臺国戸七萬女王之所都其置官曰伊支馬次曰彌馬叔次曰彌馬獲支次曰奴佳[革是]
『梁書』
又南水行二十日至投馬國
又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國即倭王所居其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往[革是]

則ち、投馬国への行程においても、邪馬台国への行程においても、それらの文面では「又」によって連接しているのである。仮に陳壽原本がこのようなものであったとするならば、例の行程記事はすべて順次式に理解すべきであって、「水行十日陸行一月」を郡から邪馬台国までの所要日数などという解釈の立ち入る隙など皆無である。

460 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 07:39:16.07 .net
八角の聖地は慶州羅井。これは100%に近い。
これを根底に記紀を参考に話をしない限りは妄想だよ

461 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:39:51.33 .net
>>454
放射読みはあり得ないし、萬二千余里からの引き算も有り得ないし、対馬海流に流されて呼子・唐津も有り得ない。   @阿波

462 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:40:09.64 .net
>>442
このように阿波説はスーパートンデモ

463 ::2024/05/21(火) 07:42:33.22 .net
>又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
>又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

「又」参考w

464 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:49:50.67 .net
>>459
岡上さんの受け売り?
残念ながら魏略に又や投馬国、邪馬台国が出て来ないんだから妄想でしかない

465 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 07:56:04.15 .net
>>464
いや、ただの通説だろ

466 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:12:16.62 .net
つまり畿内説は半島系なので漢字が苦手

467 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:22:53.75 .net
馬端臨『文献通考』四裔考・倭条末尾の「按語」
【按倭人自後漢始通中國,史稱従帯方至倭国,循海水行,歴朝鮮国乍南乍東,渡三海,歴七国,凡一万二千里,然後至其国都】
さて、按語中の「歴七国」とは何か?言うまでもなく、『魏志』「倭人伝」に記される行程文中の諸国のことであり、それらは対海国、一大国、末盧国、尹(伊の誤)都国、奴国、不弥国、投馬国である。これらを「歴」というのであるから、これらの7国は行程中にある国々と理解されていたことを示している。
つまり、いわゆる榎説等の放射読みとか古田氏の傍線行程とかいう認識を否定していることになる。

468 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:24:27.46 .net
『梁書』や『太平御覧』所引『魏志』などのように、「又」で接続されていれば、古田氏も認めているように直列式≠ノ読むべきであることは誰しも異論はなかろう。現行の刊本『魏志』の表記には、その「又」がないのであるから、様々な憶測読みが派生する。

しかし、この馬端臨の按語を見れば、現行刊本の如き表記であっても、直列式に理解されていることは明白と言えるであろう。

台湾の謝銘仁氏の『邪馬台国 中国人はこう読む』97ページでも、
「中国文としてふつうに読めば、伊都国以後の行程も順次式(迂回もありえる)をとったことに疑いの余地はなく、文脈的に不自然な感じがしないのである。九州説にとっては、行程が長すぎるから放射式という妙案で、行程を縮めようとするのは面白いが、自然な読み方ではない。」
と述べている。

469 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:32:12.45 .net
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
  又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

これらも連続読みすべきだろうね
方角も変えるべきかね?

470 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:33:31.15 .net
朝鮮投馬国は一撃で死にました

471 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 08:37:45.84 .net
>>469
放射読みはあり得ないし、萬二千余里からの引き算も有り得ないし、対馬海流に流されて呼子・唐津も有り得ない。   @阿波

472 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:04:48.88 .net
九州南部から紀伊半島でいいんじゃないの
黒潮は1日に150km流されるから、10日で紀伊半島に上陸できるでしょ

473 ::2024/05/21(火) 09:10:30.45 .net
渡海ではなく水行

474 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:20:16.03 .net
水行は渡海の間違いで…
じゃないの?

475 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:31:46.26 .net
同じ行程を里数と日数で2度説明してるって事でしょ?
これは無いな
陳寿が意図してそれをやったとするならあんな書き方にならない

476 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:37:12.90 .net
奴国が博多周辺までは異論がない(少ない)として
その隣の不弥国まで陸行してそこから水行するルートを探せばいいじゃん

これを否定するならどんなルートでも好きに想定できてしまうよ

477 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:45:02.12 .net
>>468
『梁書』や『太平御覧』には又が使われているが肝心の魏略や魏志倭人伝では使われていないからなw
特に魏略には投馬国も邪馬台国も出て来ない
無いものを直列式≠ノ読むべきとか放射状読みとかナンセンスだな。

>>470
伊都国説にはかすり傷一つついてないなw

478 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:46:47.69 .net
曰 いわく
曰,云,说 「言う」の意味のようです。

JAPAN
いわく 言う

479 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:48:17.65 .net
昔の本は喋らない

480 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 09:55:18.71 .net
>>475
魏略の場合は伊都国(女王国)までで説明が終わっている
陳寿が魏志倭人伝を書く際に新しい情報として魏使の報告書を基に帯方郡から投馬国、邪馬壱国までの日数を書き加えたんだ
狗邪韓国が投馬国に対応し、伊都国(女王国)が邪馬壱国に対応している
追加で書いたので文の途中に唐突に書かれてるんだ

>>476
不弥国の次に来るのは斯馬国で
投馬国は帯方郡から水行20日
不弥国は末盧国(呼子付近に上陸)から700里(59km)だから室見川河口付近の博多湾沿岸
そこから東へ1000里(80km)で倭種(山口県)

481 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 10:02:55.50 .net
邪馬台国は北部九州にあったから末盧国で下船して北部九州の国を
歩き回っている、邪馬台国が奈良にあるなら大阪まで船に乗って行く

482 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 10:05:04.28 .net
>>480
結局同じ行程を2回説明してるって事でしょ?
それは無い

483 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 10:05:38.75 .net
魏略曰く、女王の南、又狗奴国がある

狗奴国は女王国の南で決着がついてしまったな

484 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 10:06:08.42 .net
>>481
瀬戸内海を通れるかどうかだから

485 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 10:18:37.64 .net
>>477
>伊都国説にはかすり傷一つついてないなw

もともと成り立ってないでしょ
通過済みが確定してるんだから

486 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:04:36.41 .net
みんなが関心を持ってくればおかしさに気付くんじゃないかと思う事に
一つは短里なんだけどもう一つは倭奴国
これを倭の奴国と読むのが俺にはどうにも理解出来ない
倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也
「倭の奴国王の遣いが朝貢に来た。倭国の極南海にある」
まあおかしくはないんだが

487 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:09:31.98 .net
>>486
弁辰狗耶国は弁辰の狗耶国だろ?

488 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:14:31.88 .net
水行10日陸行1月を挿入するのは末尾にしなければいけなかったが
整理した者は倭国に来た事が無い者だから地理に疎いから誤って
突然中ごろに挿入してしまったと考えるのが正しいから、邪馬台国
北部九州説が正解

489 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:20:36.28 .net
以下根拠のない与太話

委奴国は狗奴国のことだよ
すると倭面土国が邪馬臺国かもな

倭国の南の国境の果て(極南界)にあるのが委奴国
女王国の南にあるのが狗奴国

・57年 倭国30余国連合の南の国境の果てにある委奴国
・238年 倭国30国連合の女王国のさらに南にある狗奴国

57年には倭国30余国連合の覇権を握っていた委奴国だが
107年には倭面土国王師升に覇権を奪われている
70-80年ほど男王の時代が続き
桓帝(146-167)霊帝(168-189)の間には大倭王が不在になって
倭国30余国連合は政情不安に陥り大いに乱れた

やがて女王が共立されて30余国連合は再びまとまりつつあったが
狗奴国は卑弥呼と、もとより和せず
台与が魏の後ろ盾を得て共立され、遂に国中が定まった
これでようやく倭国30余国連合の南の国境の果てにあった狗奴国も
倭国連合に返り咲いたわけだ

そんなところにも邪馬臺国と狗奴国の対立の芽があったのかもしらんね

490 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:25:11.72 .net
>>480 
>魏略の場合は伊都国(女王国)までで説明が終わっている

逸文ってものが全体の一部だって基礎知識がわかってないと
こういう致命的な勘違いをする

491 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:35:43.61 .net
人が居た地域の文化浸透状況を見れば一目瞭然

弥生時代の鉄器文化圏=邪馬台国経済共同体
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

492 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:40:37.72 .net
>>491
ません

493 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:42:16.92 .net
>>491
倭人(阿波勢力)が進出した地域の文化浸透状況を見れば一目瞭然

弥生時代の被鉄器供給文化圏=倭人(阿波勢力)進出圏   @阿波
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png(恣意的バイアス表)

494 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:45:25.36 .net
>>491
それ日本人じゃないって
鉄鉱石を掘って鉄にしてそれを市で売り買いしてたんでしょ?

495 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:45:26.18 .net
>>491
それ日本人じゃないって
鉄鉱石を掘って鉄にしてそれを市で売り買いしてたんでしょ?

496 ::2024/05/21(火) 11:56:51.46 .net
つまり九州説はウソ

497 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:58:29.57 .net
九州説は根本的な勘違いが多い

498 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 11:58:29.79 .net
倭人伝の日数記事は、里数記事を日数に換算した後世の加筆注釈が本文に紛れ込んだもの。作成時期も作成者も異なる。里数記事と日数記事を連続して読んではいけない。
郡から狗邪韓国(投馬国)までの水行7000里は20日に換算。1日350里の計算。
狗邪韓国(投馬国)から伊都国までの水行3500里は上記の半分なので10日に換算。
伊都国から女王国(邪馬台国)までの陸行1500里は1日50里(約20キロ)進むので30日に換算。
注意点は、以下の3点。
①里数記事は総距離を12000里と引き伸ばしたため、いわゆる短里(一里=80m)ほどで書かれているが、日数記事作成者は事情を知らず魏の標準里(一里=434m)で計算している。
②末盧から伊都は本来は東南水行500里。壱岐から末盧を目指し南下し南東に向きを変えて伊都の港に入る。末盧には寄らないので官の記録ない。方向も南東。行くに前の人が見えずと言うのもアクシデントで上陸したことを示している。
③投馬国と邪馬台国は日数記事作成時の情報が反映されたものである。投馬国は洛東江流域の半島日琉語話者の勢力、邪馬台国は北部九州の領域ということになるだろう。

499 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:01:06.50 .net
阿波の悲しき自己催眠

500 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:01:24.95 .net
>>498
>倭人伝の日数記事は、里数記事を日数に換算した後世の加筆注釈が本文に紛れ込んだもの。

理由もなく、そんなこと勝手に決めつけても
なんの根拠にもならないって
気が付かないのかな

501 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:01:31.00 .net
畿内説は公金詐欺

502 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:02:03.78 .net
>>491
3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く産出され、周辺地域へも流通していたことが記されています。しかし、弥生人が自ら朝鮮半島南部へ鉄を求めて活発に出かけたという記述は見られません。弥生時代の鉄器は、主に朝鮮半島からの交易を通じて入手されていたと考えられています。

503 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:02:45.87 .net
>>499
自己催眠でも、「鍛冶炉遺構」は眠らない。   @阿波

504 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:04:38.27 .net
つまり畿内説は見苦しい言い訳しかしない

505 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:05:13.46 .net
倭国30国連合の構成

【北】
半島(狗邪韓国)

渡海(対馬、一支)

九州北部(末盧、伊都、奴、不弥)

女王国(邪馬臺国)、その他旁国21国はルート外のため詳細不明

狗奴国(委奴国)、倭国の南の国境の果て
【南】

506 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:06:21.24 .net
>>502
>弥生時代の鉄器は、主に朝鮮半島からの交易を通じて入手されていたと考えられています。

その考えは、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い畿内や九州の考え。   @阿波

507 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:16:26.14 .net
投馬国が抜けてたな

魏志に書かれた倭国30国連合の構成
【北】から、狗邪韓国、対馬、一支、末盧、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬臺国
+
その他旁国21国

後漢書に書かれた倭国30【余】国連合の構成
上記30国+狗奴国、→【南】倭国の極南界

508 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:16:29.43 .net
阿波は痴呆症なので何度教えても覚えられない阿保です

509 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:20:11.83 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

510 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/21(火) 12:24:35.97 .net
ネトウヨは韓半島に倭人の国があったとか馬鹿にも程があるからな
確かに半島日琉語話者はいたが、それはほぼ濊人だろうからな
本土倭人と相互理解可能性のある倭語の使い手がいたなら、それは全羅道にいたと思われる
伽耶地区の狗邪韓国が倭人の国とはネトウヨの認知の狂いのヤバさがうかがわれる

511 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:26:05.45 .net
范嘩は倭国の極南界に狗奴国があることに気がつき

魏志にあった
「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」と
「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」を意図的に混ぜて

後漢書「自女王國東度海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」という風に
金印を貰った委奴国(狗奴国)と邪馬臺国の両国が対立していたことをぼやかしたのかもな

512 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:34:07.69 .net
>>508
忘れた。 痴呆症なので何度も教えてくれ。   @阿波

513 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:39:18.27 .net
邪馬台国は何処?(2015年末)
説の分布
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

総合結果
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

514 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:43:54.00 .net
阿波は日本人からは遠い人種だね

515 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 12:53:50.58 .net
平原の祭祀は半島鬼神
中華が鬼道とは記さない
有り得ないデマ。

最高指導者の墓は箸墓。

もう行き場もなく詰んでいる話。

516 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:54:44.80 .net
>>513
九州説の惨敗ですね

517 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 12:56:54.91 .net
つまり畿内説は現実逃避先

518 ::2024/05/21(火) 12:58:06.68 .net
四国から畿内にかけて渡来系のDNAが物凄く多い
邪馬台国四国説では天皇の起源が四国にあり、そして意図的にそれが隠されている節がある
この二つの事実から推理するに
土着の日本人の邪馬台国の系譜を四国を本拠地にしていた渡来系の天皇家が乗っ取ったのではないか?
邪馬台国畿内説というのは天皇家による邪馬台国乗っ取りなんか無かった
邪馬台国は初めから畿内にあったんだというプロパガンダなんだろう

519 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:06:20.97 .net
>>518
>四国から畿内にかけて渡来系のDNAが物凄く多い

飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。   @阿波
半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png

520 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/05/21(火) 13:12:03.26 .net
阿波は粟で食べ物の名前から出た国名であろう
ちなみに吉備は黍が原義だと思われる
ヤマト王権初期の支配国はなぜか食物の名前が多い
卑弥呼の趣味で命名されたのかもしれない

四国の善通寺の古墳群が香川県のような瀬戸内沿岸を支配した豪族の墓だろう
ネトウヨはバカだから知らないかもしれないが、奈良時代末期に空海という有名な僧侶がいた。この豪族とは彼の実家だと思われる
上古の豪族は祭祀責任者でもあったため、ヤマト王権の祭祀文化に縁の深い一族ではなかったかと推測できる
阿波もこの一族の支配下だったことがあるかもしれない

記紀は仏教以前の祭祀について多くを語らない
この空海という人物が開いた高野山という寺院には水銀朱のまつわる丹生明神という神が祀られている
また大日如来という仏を本尊としている
インドで生まれた密教だが、ヤマトの古層にある信仰を感じるのは気のせいだろうか

オレはヤマト王権の文化は太陽信仰や水銀朱などと強い繋がりがあり、それは中世初期まで色濃く残っていたのではと思うのである

ネトウヨは日本凄い俺凄いというがヤマト古層の文化への理解もなく、九州説という歴史への冒涜を平気で行っているのである

521 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:12:13.20 .net
>>518
倭人は呉越の出との事
つまり邪馬台国時代の倭人は半島系(ツングース系)ではない

522 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:16:49.97 .net
九州は縄文系+中国系→邪馬台国=女王国
近畿は半島系→女王国の東の倭種の国
東北は縄文系→毛人の国

簡単な話よ

523 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:21:24.02 .net
後漢書によれば邪馬台国は卑弥呼以前から存在しており後漢時代には代々王を継ぐ30国で形成されていた
内乱や飢饉により衰退しつつあった邪馬台国は女王卑弥呼に再建の望みを託した
狗奴国との戦争に発展し、また内乱も勃発し、最終的に滅びた可能性もある

つまりヤマトとは何ら関係のない国の話だ

524 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:29:38.95 .net
>>523
後漢書にそんなこと書いてないけどな

525 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/21(火) 13:30:54.97 .net
ネトウヨは愚かだから縄文文化は弥生中期には既に当時の倭人には記憶の片隅にすら無かったという事を知らないのである
そもそも縄文文化とは上古のアイヌ文化であり、倭人にとっては異民族の奇妙な習慣に過ぎないかったのである

そもそも日琉系の人たちのゲノムの9割は西遼河成分であり、ジャップにとって縄文人はほぼ他人に過ぎない
日本会議や壺の連中は、日本人は日本列島で誕生したという宗教的価値観を捨てられないため、縄文文明という御伽噺を生み出したのである

縄文人は卑弥呼の時代には完全に消えていて、当時の人には記憶すら無かったのである

526 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:32:04.22 .net
つまり畿内説は理系は0点かつ史書すら読み解けない文系未満の寄せ集めでしたと

527 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:37:29.47 .net
>>526
悪口しか言えない脳が0点

528 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:44:10.32 .net
>>523
確かに、後漢書によれば、邪馬台国は卑弥呼以前から存在し、30余りの国々が王を継いでいた様子が記されています。その後、内乱や飢饉によって衰退し、卑弥呼が女王に即位したとされています。

しかし、邪馬台国と後のヤマト政権との関係は、単純な断定は難しい状況です。

確かに、邪馬台国が滅亡したという説も存在しますが、その後も女王卑弥呼の後継者たちが統治を続け、ヤマト政権へと発展した可能性も否定できません。考古学的な調査からも、邪馬台国とヤマト政権の間には、文化的な連続性が見られるという指摘があります。

現時点では、史料や考古学的な証拠から、邪馬台国とヤマト政権の関係を明確に断定することは困難です。今後、更なる研究によって、両者の関係性についてより詳細な理解が得られることを期待しましょう。

529 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:45:49.96 .net
>>526
畿内説を「理系0点」「史書すら読み解けない文系未満」と断定するのは、あまりにも短絡的かつ偏見に満ちた表現と言わざるを得ません。確かに、畿内説には様々な論点が存在し、全てを鵜呑みにするのは適切ではありません。しかし、畿内説を唱える研究者の中には、文献史学や考古学など、史料に基づいた緻密な研究を行う優秀な学者も少なくありません。

530 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:47:49.62 .net
理系ならわかるバタフライ理論
「1匹の蝶の羽ばたきが世界のどこかで竜巻」というカオス系理論

その意味を理解できない畿内説は「あの竜巻の原因はこの蝶の羽ばたきニダー」と豪語してるようなもの

つまり畿内説は池沼ですよと

531 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 13:50:09.48 .net
箸墓は年代が合うので卑弥呼の墓ニダー!とか典型的池沼

532 ::2024/05/21(火) 14:04:01.07 .net
現代で比較してはいかんよ

カイケイトウチの東にあるのは阿波だけ
みたいな考察w

今と違って地軸がずれてるから必ずしも、そうならんよ

当時は、北極星から
おおぐま座寄り付近が真北でーーーす

533 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 14:13:54.55 .net
>>528
>確かに、後漢書によれば、邪馬台国は卑弥呼以前から存在し、30余りの国々が王を継いでいた様子が記されています。

根拠ないんだよね

534 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/21(火) 14:17:26.96 .net
北海道の擦文文化は中世アイヌ文化だが、これはなかなか興味深い存在である
石狩平野の続縄文文化は七世紀になると急激に和人文化が流れ込むようになる

北海道の竪穴式住居とは本州文化の移入によってもたらされたものであり、続縄文時代には存在していなかったのであ
擦文人とその後身であるアイヌの人たちには面白い習慣があって、死者が出ると穢れの概念で、その家を放棄してしまうのである
この穢れの思想も七世紀に本州からもたらされたものと考えられる

恐らく阿部比羅夫の遠征なるものでヤマトの物質文化と精神文化が急速に北海道に流れ込んだ
ただ七世紀の本州では仏教は上流階級のものであったため、仏教ではなく上古のヤマトの信仰や文化が入っていった
故にアイヌ文化には古いヤマトの宗教観が残っているのである

例えばモモソヒメが陰部を損傷して薨じたとかワカヒルメが陰部を怪我して亡くなったとか継体天皇陵の巫女の埴輪に女陰が描かれていたりとか、上古の倭人は何故か女陰に奇怪な思い入れがあったようである
これもアイヌ文化を見れば、どのような価値観だったか推測がつく
アイヌ人たちは性器に魔術的な力があると考えていて、桜の木の一種の煮汁で女陰を洗っ、その後の水を撒いたりして疫病除けをしたのだという
また猛獣や悪霊を寄せ付けるないたために性器を出すと呪術もあったようである

上古和人の宗教観も同じようなものだったのだろう
アイヌの人たちが明治時代に自分たちの先祖の文化を書き残して伝えてくれたおかげで、和人文化の研究の解明になっているのである

記紀が仏教以前の信仰について多くを語らないのは、儒教や仏教を受け入れた知識人達が野蛮と思う記述を避けたからだろう
ネトウヨが想像する古神道なるものは、江戸時代の創作であり、本当のヤマトの上古の祭祀思想はアイヌの祭祀に残っているようなこれなのである

535 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 14:32:51.45 .net
>>528
>現時点では、史料や考古学的な証拠から、邪馬台国とヤマト政権の関係を明確に断定することは困難です。

そもそも、ヤマト政権などと言うものは存在しない。 「邪馬臺国」を含む倭国(阿波)が奈良に遷都して大和朝廷を興しただけのこと。   @阿波

536 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 14:44:42.28 .net
>>530
>>531
実在する畿内説に反論できない負け犬さんの
カカシ論法が哀れですねえ

537 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 14:45:15.61 .net
つまり九州説はウソ

538 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:00:21.58 .net
つまり畿内説は現実逃避してたら迷子になった認知症爺さんですよと

539 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:02:56.48 .net
ちなみに>>536の言う実在する畿内説とは>>1の脳内にしか居ない架空の畿内説学者の事です

540 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:03:58.37 .net
>>528
脈絡ない妄想で一日じゅう悪口ブツブツ呟いてる九州じいさんキモいぜ

541 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:07:54.38 .net
>>518

東京大学の渡部裕介特任助教と大橋順教授が解析したのは、

「現代日本人のゲノム中から【縄文人由来変異】を検出するための
統計指標Ancestry marker index(AMI)を世界で初めて開発しました。」

この結果は、「縄文時代晩期から弥生時代にかけての人口増加率が高かった地域の集団ほど、
現代において縄文人度合いが低い」ことを表しています。

ttps://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8252/

542 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:21:59.85 .net
>>541
つまり移民が大挙して押し寄せたのが四国と畿内

543 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:26:46.96 .net
>>542
>四国から畿内にかけて渡来系のDNAが物凄く多い

飛鳥時代、倭国(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭国(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。   @阿波
半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png

544 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:28:13.13 .net
なんだ、また今年も畿内説が敗けたのか

545 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:33:58.53 .net
>>542

稲作農耕社会の形成が早かった畿内は人口増加率が高かった
=日本でもっとも大きな集団になった

546 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:38:04.52 .net
つまり邪馬台国時代=鉄器時代の頃の畿内は史書の通り「女王国の東の倭種の国」でしたと

547 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:42:08.41 .net
鉄器の出土数が多く、最新の鍛冶技術を持ち、
九州最大の都市博多は畿内と葬制を共有する政治連合

548 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:42:53.85 .net
つまり魏志倭人伝を読んだ半島人が対馬海峡を渡り幻の邪馬台国を目指したが、航海技術がお粗末だったがために若狭湾に漂着してしまい、その南を邪馬台国だと勘違いしたまま現在に至るということですね

549 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:44:31.43 .net
>>547
>葬制を共有する

全く証拠の無い作り話=デマ
をSNSなどに書くと犯罪ですよ

550 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:47:06.02 .net
>>549

これは朝鮮投馬国平原説

551 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:53:19.65 .net
朝鮮投馬国って保毛尾田保毛男くらいの腹筋の破壊力があるなwwwwwwww

552 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 15:59:34.91 .net
>>545
邪馬台国は日本で一番大きい集落だなんて魏志倭人伝には書かれていないから
無関係なデータ

553 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:15:45.27 .net
>>552
一番大きい国として魏志倭人伝に書かれてるけどな

554 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:16:29.90 .net
>>482
陳寿は一つの出来事を何回も違った表現で繰り返し説明している
たとえば
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
帯方郡から倭までの7000里に付いて
@海岸に循ひて水行す。
A韓国を歴る。
B乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る。
@とAは同じ事を2回書いて説明している
Bも同じ事とも考えられる

>>490
投馬国も邪馬台国も実際に魏略逸文に無いのだから元々無かった可能性の方が高いよ
確認されないものをあったと主張するのは無理がありますよ
魏略の書かれた当時は邪馬台国未だ知られていなかったんですよ

555 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:17:21.73 .net
>>547
>最新の鍛冶技術を持ち

どこ?   @阿波

556 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:18:18.48 .net
>>542
多くの移民が押し寄せて来たと云う事は四国や関西は当時は人口が希薄な地域だったんだ

557 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:23:46.69 .net
>>553
日本全体で一番大きいとは書いてないよ
女王国連合の中では一番戸数が多いが

558 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:26:23.72 .net
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

実際に畿内の人口が増えたのは4世紀以降と思われる

559 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:36:57.00 .net
>>557

九州最大の都市博多と畿内が同じ政治連合

560 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:39:55.79 .net
>>559
何の証拠もない妄想しか発言できないのか?

561 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:40:00.95 .net
>>558

大壁建物は普及しないので人口とは関係ない

562 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:42:48.45 .net
>>560

3世紀前半の纏向石塚古墳の後に
博多に那珂八幡古墳が造られる
博多の首長と九州では共有するものは何もない

563 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:44:20.08 .net
>>561

2015年7月30日
https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20150730/270112
奈良に国内最大級の大壁建物跡 オンドル付きの集会所? 

奈良のあちこちで発見されてるし、なかなかの普及率じゃないか

564 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:47:31.86 .net
>>563

あちこちじゃなくて高取町=東漢氏の本拠地

565 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:47:53.94 .net
>>558
>実際に畿内の人口が増えたのは4世紀以降と思われる

またも九州説にソース無し
阿多岡の妄想

566 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:54:53.62 .net
>>562
石塚の後に那珂八幡が造られたという証拠は何もない

墓の形状を根拠とするなら同時期に造られた前方後方墳の焼ノ峠古墳、石塚より古い静岡の高尾山古墳(前方後方墳)、纏向メクリ1号墳(前方後方墳)も考慮するべきだろ
畿内説の理屈だと先に静岡が博多まで統治してたのだ!と言われてもおかしくないわけで

567 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:56:05.89 .net
>>565
纒向に3世紀の集落跡無し

568 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 16:57:37.45 .net
>>566

焼ノ峠古墳は3世紀後半
前方後方墳38.8mで九州最大

569 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:00:43.72 .net
つまり3世紀の纏向は後発の古墳「前方後円墳」を建造する際のキャンプ場でしたと

570 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:04:54.16 .net
【考古学的見解】

これまで那珂八幡古墳は「纒向型」とみられていた。今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75mとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45mより狭く、纒向型と異なっている。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄は「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。

571 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:06:33.96 .net
江戸時代の修陵の時、丸山、神武田、塚山の3つの候補があったそう。
元禄の修陵で塚山、文久の修陵で神武田が修陵された。
候補が3つあり、それぞれ記紀の記述に合うそうだ。神武は数人いたのかもしれない。

572 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:07:09.62 .net
そもそも墓制を統一していたという記録は中国にも日本にも存在しない

つまり石塚を根拠とする畿内説はアタオカの妄想ですよと

573 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:07:54.13 .net
前方後円墳体制とは
地方の豪族が死ぬたびに纏向中央政府が「お前んとこの墓は円墳な」「そっちのお前んとこの墓は方墳だ」と墓の形状を指示していたという謎の学説である

574 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:09:13.05 .net
>>570はニセ情報


【考古学的見解】ってw

九州説ここまでやるの?

575 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:09:42.95 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

576 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:14:59.33 .net
>>574が畿内説の断末魔の叫びw

577 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:15:15.63 .net
>>566
>墓の形状を根拠とするなら同時期に造られた前方後方墳の焼ノ峠古墳、石塚より古い静岡の高尾山古墳(前方後方墳)、

焼ノ峠古墳は3世紀後半
高尾山古墳は布留0並行で決着

578 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:16:18.12 .net
>>576
ニセ情報が九州説の断末魔でしょ

579 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:16:59.48 .net
>>570

2:1と5:3は見ただけじゃわからない
纏向石塚古墳や那珂八幡古墳は不整形の段階なので
神仙思想の(自然な)海上の壺形の三神山
3世紀中ごろの箸墓古墳が最初の定型化された巨大前方後円墳

580 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:21:35.14 .net
>>577
つまり古墳の起源は畿内では無い
前方後方墳は東日本で2世紀頃から造られ続けており3世紀には纏向メクリ、西山古墳など奈良盆地にも造られる

581 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:23:28.93 .net
つまり「前方後円墳体制」というのは池沼御用達のエセパワーワード

582 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:24:00.85 .net
>>552
邪馬台国は少なくとも、奴国より大きく、かつその奴国を上回る投馬国よりも大きい
九州に奴国を上回る国は存在しないのであるから、邪馬台国は九州以外ということになる

では、本州で邪馬台国と考えられる場所をどこか考えると、それは畿内以外にはなく、したがって、邪馬台国は日本で最も大きな国であることが自明である

583 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:24:21.08 .net
>>580
だから、墳形も土器型も神代文字(阿波文字)も、倭人(阿波勢力)の派閥(少数民族)によって異なっていたのさ。   @阿波

584 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:28:38.41 .net
>>570
前方後円墳をコピーしていることは明らかである

585 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:29:39.22 .net
帯方郡

投馬国

邪馬台国

対馬海峡南北の両岸、対馬、壱岐、末盧国など含めて投馬国約5万戸
そして伊都国〜奴国までで約2万戸

これら7万戸が女王国=邪馬台国
とも取れるな
まあ陳寿がそう解釈した可能性はある

586 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:29:43.93 .net
>>580
前方後方墳が2世紀に作られたという新説は存在しない

587 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:30:45.95 .net
>>586
そう言い張ってるのは寺澤だけ
考古学の常識

588 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:31:22.74 .net
畿内説はまず寺澤をクビにするべきだなw

589 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:34:24.34 .net
>>587
前方後方墳を2世紀などと言い張る学者はどこにもいない

590 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:43:51.03 .net
>>589
大勢が笑ってるよw

591 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:44:11.72 .net
>>582
魏志倭人伝には邪馬台国が本州含めて最大だなんて書いてないよ

592 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:46:05.93 .net
>>566
那珂八幡を最も古くしている久住ですら、久住編年TB期新相であり、どう頑張っても纒向石塚より古くならない

593 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:46:56.56 .net
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
これおそらく漢の時代の資料を書き写してる
そうじゃなきゃ漢時有朝見者を書く必要がない

594 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:47:05.83 .net
そもそも論なんだが
邪馬台国の東には海があり
海を渡ったらまた倭人の国がある
と魏志倭人伝に書いてあって
その上で不弥国投馬国邪馬台国で渡海していない以上
邪馬台国は九州から外には出ていないことが分かる

595 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:47:20.93 .net
>>590
あなたが笑われてます

596 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:49:29.02 .net
>>591
魏志倭人伝には、奴国よりさらに大きい投馬国と邪馬台国が書かれている
この時期の日本に畿内纒向より大きな勢力は存在しない

597 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:50:44.12 .net
つまり畿内説は邪馬台国論争に参加する資格すらありませんよと

598 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:51:04.01 .net
>>594
魏略 倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
魏志 女王国東渡海千余里復有国皆倭種
これ内容が全く違うけど同じ資料だと思う

599 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:51:38.04 .net
>>596
たった4戸で?

600 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:52:29.62 .net
>>596
倭国100国、魏が通ずると言ってるのは女王国30国

>>491で正解だな

601 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:53:07.74 .net
>>599
いや4棟セットだから一戸だよ

602 ::2024/05/21(火) 17:53:52.02 .net
>>597
通説畿内説のスレッドです

603 ::2024/05/21(火) 17:53:55.44 .net
>>597
通説畿内説のスレッドです

604 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:57:38.65 .net
>>600
>>491は2000年の資料であり、後に発見された五斗長垣内や舟木遺跡の鉄270点以上が全く反映されてない

605 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 17:57:55.19 .net
九州があって本州があって四国があるなんて当時の中国は知らなかったと思う

606 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:00:11.61 .net
>>594
それは、久住と魏晋南北朝史学会副会長の説を採用し、前時代の史料と見る

607 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:00:45.57 .net
鉄は点数より重量で判断すべき
塊で輸入してるだろうし

608 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:06:49.67 .net
魏略にも太平御覧にも、狗奴国は女王国の南と書かれている
東とした後漢書の記述が間違っていることは明白

609 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:08:46.78 .net
>>594
邪馬台国の東には海の記述はないが
女王国東渡海千餘里はある。

610 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:09:24.50 .net
>>596
邪馬台国とは無関係な大勢力かもよ

必要条件と十分条件

2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから

例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない

それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか?

611 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:10:08.38 .net
>>608
だから、後漢書のは東の「拘奴国」

四隅突出型墳丘墓の勢力だよ

九州説でFA

612 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:11:01.49 .net
>>607
邪馬台国に鉄が豊富の記述もない。

613 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:11:46.58 .net
>>598
内容が違うなんてことはない
ほぼ同じ

魏略
倭在帯方東南大海中 依山島為国
度海千里 復有国 皆倭種

魏志
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

614 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:13:04.46 .net
>>610
全ての条件を畿内が揃えている

615 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:14:41.29 .net
馬端臨『文献通考』四裔考・倭条末尾の「按語」
【按倭人自後漢始通中國,史稱従帯方至倭国,循海水行,歴朝鮮国乍南乍東,渡三海,歴七国,凡一万二千里,然後至其国都】

さて、按語中の「歴七国」とは何か?言うまでもなく、『魏志』「倭人伝」に記される行程文中の諸国のことであり、それらは対海国、一大国、末盧国、尹(伊の誤)都国、奴国、不弥国、投馬国である。これらを「歴」というのであるから、これらの7国は行程中にある国々と理解されていたことを示している。

つまり、いわゆる榎説等の放射読みとか古田氏の傍線行程とかいう認識を否定していることになる。

616 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:15:24.45 .net
『梁書』や『太平御覧』所引『魏志』などのように、「又」で接続されていれば、古田氏も認めているように直列式≠ノ読むべきであることは誰しも異論はなかろう。現行の刊本『魏志』の表記には、その「又」がないのであるから、様々な憶測読みが派生する。

しかし、この馬端臨の按語を見れば、現行刊本の如き表記であっても、直列式に理解されていることは明白と言えるであろう。

台湾の謝銘仁氏の『邪馬台国 中国人はこう読む』97ページでも、
「中国文としてふつうに読めば、伊都国以後の行程も順次式(迂回もありえる)をとったことに疑いの余地はなく、文脈的に不自然な感じがしないのである。九州説にとっては、行程が長すぎるから放射式という妙案で、行程を縮めようとするのは面白いが、自然な読み方ではない。」と述べている。

617 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:15:29.97 .net
>>594
水行一月陸行一月でまだ九州から出てないは草
九州説の九州ってどんだけ広大な面積の大陸なんだよ

618 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:15:42.55 .net
【最新情報】発掘調査結果報告(2024年4月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら

619 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:17:01.93 .net
>>617
隋書には東西五月行、南北三月行とある
水行一月陸行一月で九州内でも何の不思議もない

620 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:17:15.66 .net
邪馬台国に絹があるもない。
倭地にあればいいのである。

621 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:17:42.38 .net
つまり畿内説は年代詐称とオレオレ詐欺を繰り返してきた学問テロでしたと

622 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:17:57.74 .net
>>585
女王国は公孫氏時代の呼び名で倭の中心伊都国、奴国、不弥国付近のことで
魏使が北部九州地域全体を邪馬壱国と呼んでるんだ
七万戸は対馬国(1000戸)、一大国(3000家)、末盧国(4000戸)、伊都国(1000戸)、奴国(20000)、不弥国(1000家)+傍国(20×2000戸)=70000戸

623 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:18:14.51 .net
>>617
三韓のサイズが方四千里なんだから九州がどんだけ広大な面積の大陸なのかわかるだろ

624 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:18:25.73 .net
>>613
それで何が言いたい?
魏略は東の倭種じゃないわな

625 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:18:42.85 .net
>>608
魏略・魏志の時代の倭では西をキタと言っていた影響で中国人の方角の認識が90度ずれていたので東を南と書いてしまった
後漢書の時代には間違いに気付いていたので正しい方角を書いた

626 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:19:49.59 .net
>>625
北がニシじゃなくて、西がキタなのかよ

627 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:20:08.23 .net
>>618
なるほど、邪馬台国は九州以外だな。

628 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:20:55.34 .net
>>609
頭大丈夫?

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。」

629 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:21:19.47 .net
>>605
>九州があって本州があって四国があるなんて当時の中国は知らなかったと思う

前漢時代から、倭人(阿波勢力)が大陸へ行っているので、知れ渡っているよ。   @阿波

630 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:21:57.32 .net
>>614
弥生絹は九州からしか出てないよ

631 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:22:10.64 .net
畿内に行くのなら、伊都国から船で九州北岸を移動して、山陰北岸を経て、但馬あたり?で、船を降りて陸行するだろう。
しかし、倭人伝を読むと、伊都国から奴国、不弥国と陸行している。女王国までの経路を記しているところなので、奴国不弥国をただ紹介したのではなく、奴国不弥国は、女王国までの経由地と解するほかはない。畿内説はこの点をどうやって説明するのだろう?
仮に不弥国を周防灘沿岸の国として、瀬戸内海ルートをとったのだ、とすればこの点はクリアできるが、大阪湾から陸行一月という新たな問題が出てしまう。一月歩けば関東まで行ってしまうのだ。

632 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:23:11.80 .net
>>628
頭大丈夫、文字読める?

633 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:23:35.35 .net
>>607
鉄は点数より「鍛冶炉遺構」で判断すべき。   @阿波

634 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:24:18.06 .net
畿内説みじめだな
もはや議論をあきらめて連呼するだけ

九州説だと倭国王師升から説明できるし、
皇室ヤマト政権についても解析ができるが、

畿内説は邪馬台国だとワンポイントを主張するだけで、
倭国前後の歴史もヤマト政権の歴史もなーんにも説明できない。

635 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:24:26.85 .net
>>631
つまり邪馬臺国は毛人の国

636 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:25:47.19 .net
>>631
日数行程だけを信用する
伊都国に相当するのが山陰だよ

637 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:27:12.75 .net
>>617
それは帯方郡からの日数で
7000里に水行20日、440里に水行10日、600里に陸行1日だよ(陸行1月は陸行1日の誤記)

>>619
隋書には東西五月行、南北三月行は東西五日行、南北日行の誤記だな

638 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:28:57.09 .net
たしかに邪馬台国の東とは書いていないな
女王国の東だ。

639 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:31:08.37 .net
>>637
三日や五日じゃ無理だって
秀吉でも無理

640 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:32:45.42 .net
【最新情報】発掘調査結果報告(2024年4月時点)
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・大量の鉄製武器、鉄製工具他
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳

[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・大型建物(古墳建造作業員向け食堂?被葬者の遺族用宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・ゴキブリの羽のかけら

641 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:32:59.74 .net
女王国=邪馬台国だろ
邪馬台国以外で女王を戴いていた国なんか書かれていないんだから

642 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:33:23.14 .net
>>640
やめたれw

643 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:36:07.44 .net
>>640
こんな状況でありながら畿内説を唱える考古学者って人格疑うよな

644 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:36:11.05 .net
今日も元気にコピペ自演

645 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:36:59.71 .net
反論は無しw

646 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:40:55.50 .net
>>637
7000里を水行20日で行けるのになんで突然たった440里の移動に水行10日もかかるんだよ
滅茶苦茶すぎて草

647 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/05/21(火) 18:46:17.09 .net
ネトウヨって統一教会や日本会議なんだよな
邪馬台国九州説やアイヌ民族否定論を肯定している時点であ!なんだよな

648 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:47:19.94 .net
放射読み自体が詐欺だから

649 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:49:05.98 .net
放射読みは有り得ないし、萬二千余里からの引き算も有り得ないし、対馬海流に流されて呼子・唐津も有り得ない。   @阿波

650 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:50:18.07 .net
あるところに

資料を疑うことは簡単ですが、自分が知らないから怪しい、思わないなどと否定してしまえば歴史そのものが無くなってしまいます。古代の人々が書き残してくれた資料を尊重する、記述をそのまま受け取ることが基本で、否定的なデータがあるときのみ改めるという姿勢も必須でしょう。

だそうです。

651 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:50:34.79 .net
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/iffb4769c22bc10da/version/1535966336/%E9%89%84%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg
九州説は鉄器出土のデータも古い 
鉄伝播のルートが於投馬国(イズモ)への道

652 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:51:07.67 .net
>>648
だったら九州に上陸したとしてそこから水行ひと月陸行ひと月で何処に行くか説明してみろよ

653 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:52:23.04 .net
>>650
>>652

654 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:53:24.50 .net
>>651
北陸忌部の痕跡。   @阿波

655 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:53:44.87 .net
畿内説の立場では、「南」を東と読み替える必要がある。地図を90度ずらすのだ。根拠不明ではあるが、乗ってあげると、「東」は北に読み替えることになろう。とすると、倭人伝にある女王国の東の海とは畿内から見た北、つまり日本海になる。そうすると渡海千里の倭種とは、ウラジオストクにいた倭人伝ということになるのだろうか?畿内説をとる方はどのように解しているのだろう?

656 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:53:50.77 .net
>>638
うーん、確かにその通りですね!邪馬台国が女王国の東にあるとは書かれていないんです。でも、女王国が邪馬台国と同じ場所にあった可能性は十分あるんですよ。

実は、邪馬台国って、場所がはっきり分かっているわけではないんです。色々な説があって、九州北部にあったとか、畿内北部にあったとか、色々言われているんです。女王国も、場所がはっきり分かっていません。

でも、邪馬台国と女王国は、同じ時代に同じような文化を持っていたことが分かっているんです。だから、同じ場所にあった可能性は十分あるんですよ。

657 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:53:59.95 .net
>>652
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/b/c/2048m/img_bc7afa6d9b0dd9775b692139abc709d0252298.jpg
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/2048m/img_a005bdf54c16db56155cc36328cc54d6196233.jpg
https://gendai-m.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/2048m/img_986f9decec5a13cd247122dc0003f50e227179.jpg

658 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:56:29.43 .net
>>656
>でも、女王国が邪馬台国と同じ場所にあった可能性は十分あるんですよ。

「邪馬臺国」の首都が「女王国」。 鮎喰川下流が「女王国」。   @阿波

659 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:58:40.87 .net
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/ia96da4d8c07776aa/version/1634521209/image.jpg
紀年銘鏡の出土もこのルート

660 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 18:59:43.83 .net
>>653
正確な位置はわからないが、九州の南の海上かな

661 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:00:01.92 .net
>>657
俺は里数行程を信用してないだけで行程自体は俺と同じだ

662 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:00:02.31 .net
地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

663 : 警備員[Lv.18]:2024/05/21(火) 19:03:33.88 .net
つまり、イザナ「ミ」は本州のこと

イザナ「キ」は九州のことw

664 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:04:23.42 .net
九州説は福岡2ヵ月クルージング&ウォーキングツアーに参加したいか?

665 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:06:40.23 .net
耳萩原

666 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:08:30.94 .net
>>656
プロの論文を読めば全て邪馬台国大和説
纒向以外に女王之所都を置くものはいない

667 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:10:07.61 .net
女王国なんて名前の国は無い

668 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:10:23.62 .net
>>657
投馬国から邪馬台国に至る水行10日から陸行に、切り替える国名または地名がないのはなぜだろう?

669 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:10:27.43 .net
>>641
奴国も不彌国等も女王国ではないのだな?

670 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:11:53.93 .net
>>667
当然、なので邪馬台国と限定はできない。

671 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:12:33.68 .net
>>667
「邪馬臺国」の首都が「女王之所都」。 鮎喰川下流が「女王之所都」。   @阿波

672 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:12:46.03 .net
>>668
だから投馬国(半島)→邪馬台国(列島)の単純な行程なんだよ

673 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:15:15.68 .net
>>671
どこの国?

674 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:15:28.35 .net
>>646
すまん440里じゃなくて4400里だったw
7000里÷20日=350里/日(1里80mで28km)
4400里÷10日=440里/日(1里80mで35km)
600里÷1日=600里/日(1里80mで48km)

675 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:15:50.28 .net
古代九州ハザードマップ
https://stat.ameba.jp/user_images/20150302/06/blob-shima-jiiya/ab/c4/p/o0595044013232832334.png?caw=800
住んだらダメ!ゼッタイ!

676 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:16:59.16 .net
>>668
不彌国から投馬国もあるよね。

677 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:19:40.60 .net
>>665
日吉耳

678 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:21:02.48 .net
>>667
公孫氏の4代の間、倭の王は卑弥呼だったので女王の居る伊都国、奴国、不弥国付近の事を公孫氏では女王国と呼んでいた

679 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:22:44.56 .net
>>669
女王国連合の加盟国だから奴国でもあり不弥国でもあり女王国でもある
邪馬台国はイングランド
奴国や伊都国や不弥国は
北アイルランドやウェールズやスコットランド

680 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:23:20.21 .net
松木武彦の論文を読んでいたが、吉備の造山古墳を作っている時期に人口が爆増してる
吉備は初め、備前車塚古墳などを作るが、その後人口が激減
小規模の前方後円(方)墳しか作らなくなる

が、造山古墳(350m全国4位)ができる頃には人口が爆増
これは畿内

681 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:24:10.65 .net
>>656
ない可能性もあるよね。
断定できないだな。

682 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:25:28.69 .net
>>678
帥升は倭国王で卑弥呼と同じだから

683 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:25:31.41 .net
>>680の続き
これは畿内ヤマト王権がこの土地に影響力を示すためとし、畿内人の大量移住を想定している

684 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:25:33.05 .net
>>679
女王国は公孫氏時代の伊都国、奴国、不弥国付近の呼び名
邪馬壱国は魏使が北部九州地域全体を指して呼んだ名前

685 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:28:56.58 .net
女王国があるかのように錯覚してるけどそんなの無いから

686 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:29:07.49 .net
>>682
帥升は卑弥呼の曽祖父くらいだな

687 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:30:43.41 .net
松木武彦の論文から、300ヘクタールという巨大王都纒向と共に、纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、ホケノ山、箸墓という巨大な王墓を切れ目なく建設していた纒向は、
まさに邪馬台国7万戸にふさわしい国になっていたこたが確実である

688 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:31:18.19 .net
自女王國以北 其戸數道里可得略載
自女王國以北 特置一大率檢察

女王国は邪馬臺国のことだろうな

689 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:31:41.92 .net
>>684
投馬国もか?王の名はない。
官名はある。末盧国には王の名も官名ない。
末盧国には行っていないかもしれないな。

690 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:33:42.49 .net
>>688
違うと思う。
女王国までは里数あるが
邪馬台国は日数。

691 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:34:53.52 .net
>>690
つぎはぎだから矛盾が出てしまう

692 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:36:02.99 .net
>>691
断定までいたらない文献だよ

693 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:40:19.24 .net
>>651
多いので邪馬台国ではない思考
或いは多いから邪馬台国という事が証拠にもならない。別に奴国、不彌国等に多くてもいい。

694 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:40:47.87 .net
>>687
纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、ホケノ山、箸墓という巨大な王墓を切れ目なく建設していた纒向は、倭人(阿波勢力)の「古墳造営前線基地」が確実である。   @阿波

695 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:44:01.29 .net
>>685
卑弥呼を共立した連合国のことだろ
国語苦手か?

696 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:45:38.43 .net
松木武彦は吉備の人口激減を色々な観点から考えているようである
酸素同位体比年輪年代法の中塚氏の気候論も挙げているから、気候変動の影響も考えているのでしょう

が、吉備とは違って、纒向石塚から切れ目なく、
ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→市庭→コナベ→ウワナベ→津堂城山→仲ツ山→上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵古墳→ 土師ニサンザイ古墳→ 岡ミサンザイ古墳
と巨大古墳を造営していく畿内では、常に安定して多くの人口を抱えていたことは確実であろう。

しかし、これら大王墓は小さくなったり大きくなったりしていることから、松木、ないしは中塚の指摘通り、畿内でも気候変動によって、人口は上下したのであろう

697 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:50:07.69 .net
>>696
>しかし、これら大王墓は小さくなったり大きくなったりしていることから

だから、墳形も土器型も神代文字(阿波文字)も、倭人(阿波勢力)の派閥(少数民族)によって異なっていたのさ。   @阿波

698 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:56:42.79 .net
>>693
当然、そういう思考もあるわな。
邪馬台国が先進国で維新財、鉄、絹が豊富とかも
疑うべき。

699 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 19:58:59.48 .net
>>695
伊都国、奴国、不弥国が女王卑弥呼を共立した国なんだ
それでこの3か国が女王国と呼ばれていた

700 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:02:26.30 .net
>>699
女王の共立についてはテンプレをしっかり読み込むべき

701 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:04:55.74 .net
>>699
面白いだよね。斯馬國以降は此女王境界所盡という記述。女王国ではなく女王境という記述。

702 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:08:23.83 .net
>>699
>伊都国、奴国、不弥国が女王卑弥呼を共立した国なんだ

だという理由は?

>それでこの3か国が女王国

女王国まで12000余里なんだから、伊都国はまだ女王国じゃないだろ

703 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:09:06.26 .net
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

「その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、

一女子を『共に立てて』王と為した。

名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。
非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」

倭国争乱に参加した国々が共立したんだから
3か国ということは無いだろう

704 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:14:48.21 .net
女王国も親魏倭国を意味する広義の女王国と集落を意味する狭義の女王国があるね。

705 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 20:15:49.06 .net
であるから一番肝心なことは卑弥呼は鬼道で女王になったのだよ。
鉄や絹や朱は国家形成に必要で有るものと言うだけ。今の日本に石油はでんわ

卑弥呼本人の鬼道。
この鬼道があるところに卑弥呼はおるのだよ。
九州なぞ柱でも噛っていろ

706 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:17:12.53 .net
畿内が倭国になったのは3世紀よりもだいぶ後だろ

707 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 20:17:57.02 .net
はいはい。

708 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:19:29.17 .net
>>706
このように
言うこと言うこと常に理由がないのが九州説

709 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:22:31.80 .net
末盧国に王の名も官名もない無いのはここはたんに地名であって
王が居る国に属してるという解釈だけど

710 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:24:20.63 .net
>>704
邪馬台国を王都としてて矛盾が出るから女王国

711 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:25:00.91 .net
伊都国は女王国の一部と見做せないことは、文献だけを見ればそうなる
しかし、魏志倭人伝のみという文献のみに頼るべきでない
伊都国が女王国の一部でなかったことは考古も合わせて考えるべきであろう

そうすると、「畿内の飛び地」と化している博多と比較すると、伊都国は土器でも独自性を保ち、前方後円墳も受け入れないことからテンプレの通り、女王国の一部でないと見るべきであろう
テンプレに完全同意するわけではないが、この伊都国は日本列島にとってたいそう迷惑な存在になっていたというのは同意せざるを得ない

712 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:29:21.95 .net
>>711
伊都国が詳しく書いてるのはここは常に郡使が通るからだよ
一大率は関東にも居ただろうが郡使に関係ねえから

713 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:30:10.28 .net
>>705
卑弥呼は倭国大乱を収束させるために紛争当事国同士で共立した大王だから
霊能力よりも血統で選ばれてると思うぞ

714 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:30:40.07 .net
>>710
>邪馬台国を王都としてて矛盾が出るから

どんな矛盾?

715 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:31:15.61 .net
>>705
当たらない占い師は誰からも支持されない
恐らくガチの霊能者

716 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:33:46.11 .net
>>714
王都だから極めて狭い地域
でも治める地域はもっと広い
その使い分けの為に名前を分けてる
ただし邪馬台国は王都だけを指すんじゃないし女王国など存在しない

717 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:36:03.99 .net
中国は邪馬台国が王都だと隋代までずっと勘違いしている

718 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:40:44.97 .net
3世紀中に畿内が倭国だった証拠が無い

719 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:43:40.97 .net
>>712
意味不明

720 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:51:51.10 .net
>>719
旧唐書 置一大率検察諸国皆畏附之
一大率は刺史のようなものでそういう役割

721 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:52:28.10 .net
>716
それのどこが矛盾?

「邪馬台国を王都としてて矛盾が出るから」
と言うのは、ただの嘘ですか?
九州説らしい行動ですね
 

722 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:53:57.42 .net
>>718
>3世紀中に畿内が倭国だった証拠が無い

無いと言い張る理由は?

723 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:54:47.05 .net
>>721
邪馬台国は倭王が居る場所だよ
これは嘘でも何でもないわ
それと俺は伊勢遺跡説

724 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 20:57:27.52 .net
>>722
証拠が無いからだよ

725 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 20:58:49.73 .net
>>715.宗教的指導者は占い師じゃあないよ。
イランの喪に服する姿を観たかな、いまだにそういう状況。昼夜構築するような状態だな。
3世紀の証拠が無い?
紀年銘鏡もあるだろ。
九州には鬼道の痕跡は無い
有るのは朴赫居世信仰。
タマゴと柱と光明の鏡。

726 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:02:37.71 .net
>>725
宗教の信者はガチの奇跡がある(と信じられたから)信者になるんだよ
やり方は骨でも亀でも霊視でもなんでも良い
大切なのは実際に当たる実績

727 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 21:07:08.32 .net
>>726.陳寿の記す鬼道は占い師じゃあないよ。

そなたの占い師でもいいが倭人は隋代まで信じ隋代まで当たっていたんだな。

きっと。

728 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:08:00.55 .net
創価学会の信者だって
(それが事実かどうかは別にして)
創価に入信して幸せになったという体験談を聞いて入信するし
入信したことで(それが実際に創価学会に入信したからかどうかはともかく)幸せになれたと感じた人が熱心な信者になる

結論
何らかの政治権力を持つほどの宗教になるためにはガチの奇跡
少なくもと奇跡があると信じられるエピソードが多数必要

729 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:09:11.56 .net
奇跡を起こす手段が骨か亀かは些末な違い
大切なのはガチの実績

730 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:10:42.70 .net
>>713
卑弥呼が血統で選ばれた可能性は高い
が、いくつか疑問が出てくる
単に、血統で倭人がみんな言うことを聞いてくれるのなら、最初から卑弥呼の血統が王に立てば良い

それではダメだった。そこで、
・女子
・纒向という新首都
を「はじめ調停の庭」(テンプレの表現)として選んだのであって、纒向という東海にも影響力をもつ土地を確定的に選んだということを考慮しなければならないのである

731 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:11:21.02 .net
列島に亀卜が入ってきたのは古墳中期以降だぞ

だから弥生人が中国大陸から来てない事も分かる訳だが

732 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:11:30.01 .net
>>724
>証拠が無いからだよ

だから、無いと言い張る理由は?

ただのゴネ?

733 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 21:13:24.38 .net
コントロールする側の者のト骨はインチキなんだよ
卑弥呼の鬼道とは直接関係は無い。

734 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:13:25.66 .net
卑弥呼が選ばれたのはゴリゴリの支配者じゃないからだろう
共立してやったのに理不尽な要求されたら洒落にならない
コイツなら自国に不利益な要求してこないだろう
という信頼感が無ければ共立なんかされない

735 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:14:31.43 .net
倭人在帯方東南大海中依山島為國地多山林無良田食海物舊有百餘小国相接
至魏時有三十國通好戸有七萬男子無大小悉黥面文身自謂太伯之後又言上古使詣中國皆自稱大夫
晋書倭人伝だけどこれはどう読んでも倭国の事だし7万戸

736 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:17:48.07 .net
>>730
そうして男王を立てたが不満で揉めたんだろう
卑弥弓呼じゃ嫌だって

737 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 21:22:09.85 .net
>>734.それでは昼夜かけないであろう。
100人は殉教であるからそんな者も現れんし前方後円墳も終わっているだろ。

思いつきみたいな事ばかり話すのが九州だな。

巴西生まれの陳寿が鬼道とした以上。中華の鬼道なんだよ。

738 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:22:36.34 .net
卑弥弓呼は卑弥呼を恨んでたと思うよ
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和

739 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:27:55.89 .net
>>732
立派な証拠があるなら出せば良い

740 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:29:52.05 .net
朝鮮投馬国という滑りギャグを楽しむスレは此処ですか?

741 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:36:03.85 .net
次は俺だなと思ってた卑弥弓呼は面目丸つぶれ

742 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:39:06.12 .net
初心者ですけど、纏向遺跡からは楽浪郡帯方郡で使われていた形式の土器がほとんど出てこないと、どこかで読みました。
倭人伝に記載されているだけでも相当な交流があったようなので、ほとんど出てこないとなると、邪馬台国の候補地から外したほうがいいんじゃないかとも思います。

743 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:44:05.68 .net
土器なんか自前ですぐ作れるだろ

744 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:48:33.01 .net
まぁ、畿内人、北陸人、四国人は古墳人の末裔であることはわかってる。
つまり、卑弥呼の時代には日本列島にはいなかった人々。その時代には、もっぱら朝鮮半島にいたわけだ。
中国人から濊人や韓人と言われた人々が日本列島の中枢に入ってきたのだな。関西弁四国弁の故郷は朝鮮半島なんだな。

745 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:48:52.06 .net
>>739
>立派な証拠があるなら出せば良い

教科書に書いてあって全国の高校生が勉強してるよ

746 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:49:42.77 .net
>>744
なんで朝鮮人が前方後円墳造るの?

747 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:54:51.17 .net
>>745
ほら、証拠を出せない

748 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:55:51.50 .net
「大宜都比売命」は「阿波」の神。
ならば、殺した「須佐之男命」も「阿波」の神。
ならば、「須佐之男命」の姉神「天照大御神」も阿波」の神。
どう転んでも、記紀神話の神々は「阿波」の神々となる。 
ど素人でも簡単に分かる理屈なんだがww   @阿波

749 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 21:57:11.58 .net
倭人は半島から来た天皇家に南に駆逐されてクマソになった
クマソはさらに南に駆逐されて琉球人になった
沖縄の女性は近年までハジチ(針突)という入れ墨をしてた

750 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:00:13.40 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.

751 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:01:18.51 .net
>>703
最初に女王卑弥呼を共立した国が伊都国、奴国、不弥国の3か国で
他の北部九州の国々も参加して後に邪馬壱国と呼ばれる国になったんだ
卑弥呼が魏に使者を送った時点では伊都国の王が女王卑弥呼で、伊都国は邪馬壱国の構成国だっので
「邪馬壹國 女王之所都」と書かれたんだ
邪馬壹國が七万戸もあるのは北部九州地域全域が邪馬壱国だからなんだ

752 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:01:39.00 .net
九州説は狗奴国をクマソにこじつけてるが、邪馬台国時代にクマソなど居ない
南に駆逐された倭人がクマソなんだから

753 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:02:02.00 .net
4c後半まで確たる渡来はないですよ
ヤマト王権も大王の継承もすっかり完成されてます
ソースは胡散臭いですが皇室の男系が在来系なのには説得力があります

754 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:06:03.48 .net
>>701
>斯馬國以降は此女王境界所盡という記述。
この文章の原文が書かれた時点では邪馬壱国って名称が無かったんで
女王境界なんて表現が使われているんだ

755 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:06:19.94 .net
>>753
>ヤマト王権も大王の継承もすっかり完成されてます

されていない。
律令国家の王統継承の証として「三種の神器」を創設制定したのは、天武・持統辺りだろう。   @阿波 

756 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:09:12.97 .net
>>744
卑弥呼の生きていた弥生時代には、韓半島の帯方楽浪を除く全域で関西弁が使われていたってことですかね。朝鮮人の先祖の高句麗に駆逐されて、食いっぱぐれ関西弁が日本列島に逃げてきたと。でも、その食いっぱぐれが日本国を作るんだからたいしたもんですよね。

757 :岡上 :2024/05/21(火) 22:10:08.94 .net
岡上です。どんぐりシステムって意味不明。
御覧魏志に言及している方がいますが、もう一歩研究を進めてほしいですね。
御覧魏志=魏略ではありません。三木太郎でも読んでください

758 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:11:17.53 .net
帰天疑惑があるのは大国さんか

759 :琪瑛教大祭酒:2024/05/21(火) 22:13:52.06 .net
八角は四種でしょ
百済大刀契。

760 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:18:10.45 .net
韓半島の日流語はついに内地に来ることはなかった
東漢氏や秦氏に混じって東四国や関西に
来ていたのは確かだろうけど
この集団、楽浪漢人の声調の極端な中国語訛りと
朝鮮語話者のボソボソした訛りが混在していたんじゃないか

761 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:19:49.02 .net
“物部氏の始祖神の「ニギハヤヒ」、大伴氏の始祖神「アメノオシビ」など、大王家側近である氏の先祖神に は「―ヒ(日)」のタイプがいくつかみられる”
”このように「―ヒ」型が、皇室とその側近の物部・大伴にのみ集中していることは、きわめて注目される現象である”

卑弥呼のヒ?

762 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:28:40.49 .net
>>747
>ほら、証拠を出せない

出てるけど?
教科書に書いてあって全国の高校生が勉強してる事実

763 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:32:28.85 .net
>>762
何と書いているのか?そしてその教科書はどこの出版社なのか?

764 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:39:59.96 .net
>>763
高校出てないの?

765 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:40:43.85 .net
>>760
韓半島(笑) ナントカボクメツ隊さん コテ外しても尻尾が見えてますよー

766 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:42:46.68 .net
>>764

「 邪馬台国の位置については,古くから九州説と大和説がある。もし邪馬台国が九州にあったとすれば,銅鉾・銅戈分布圏を中心とする地域的な連合国家であり,大和にあったとすれば,銅鐸分布圏の勢力がすでに西日本を支配していたことになろう。」

—『もういちど読む 山川日本史』

つまり教科書では畿内が倭国だったとは断定されていないと言う事。

767 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:44:21.19 .net
令和書籍の日本史が邪馬台国をどう扱うのかが注目されるだろう

768 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:46:43.21 .net
>>766
それ倭についての記述じゃない
しょうもない事でスレ止めてるな
倭人在○○東南大海中

769 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:47:11.50 .net
わしの高校では理系は日本史か世界史の選択だったから、高校を卒業していれば日本史を学んでいると言う考えは誤りですな

770 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:47:17.03 .net
>>765
おっと。つい、な
韓国系の人らが日本語で書く論文がもう
デフォルトでそうなってきているからな

771 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:49:08.80 .net
阿波や畿内は繰り返し南海トラフに襲われている
しかし天武のときの白鳳地震(684年)より以前の記録がない
卑弥呼から天武までの間に1〜2回くらい起きている間隔
>>675
そのレベルは縄文海進。世界中が水浸し
>>761
物部の本拠地が福岡なのは畿内説も九州説も共通。断続的に東へ進出するだろうけど
南海トラフの記憶がないのが気になる

772 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:51:09.04 .net
>>769
つまり高校生程度の日本史の知識がない人が
証拠もなく「ない!」と断言したって
説得力ゼロってことだよな

773 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:51:09.46 .net
>>768
畿内が邪馬台国でない説の場合は畿内は倭種。倭国ではありません

774 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:52:10.34 .net
>>771
何が物部だよ?
せめてカタカナでモノノベと書いとけよ

775 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:52:38.67 .net
>>772
ではどの教科書に書いているか答えろよ

776 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:53:00.11 .net
>>773
でない説もう潰れてるから

777 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:53:00.41 .net
>>773
だから倭人在○○東南大海中

778 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:54:23.69 .net
>>777
それは翰海の事だから

779 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:57:30.87 .net
>>775
「3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現し・・・その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」山川
「そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。」清水書院

780 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:57:36.53 .net
何故海なんだよ?
無茶苦茶だな

781 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 22:58:03.03 .net
>>776
証拠は?

782 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:01:03.81 .net
>>779
邪馬台国の事では無いな

783 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:02:13.09 .net
ずーっと今も昔も旧石器時代からいる先住民が主でしょ
何が不満なのか意味不明なんだが

天地未明の時からずーっと日本列島にいる
国土の隅々まで知り尽くした存在
この季節山に入ったらこの鳴き声だらけでしょ

784 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:04:01.22 .net
要は奈良に全部引っ張り込みたい人ならそう強弁するだろって説にしか見えないよね
蓋然性から考えて
しかも規模だけなら群馬や九州にも大きな墳丘はいくらでも存在する。

785 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:04:01.89 .net
>>783
みんなそうでしょう
ある時期にガラッと人が入れ替わったと思ってるのか?

786 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/05/21(火) 23:07:26.99 .net
天地開闢からジャップが日本列島にいたのはネトウヨの迷信である
日本列島の本来の主はアイヌ人であり、日琉系民族は後からやってきて日本列島を占領したのだ

ネトウヨは日本を日本人のものとは思わぬことだ
日本は日本人だけのものではなく、先祖代々が日本人ではない人たちと共有するべきものであるのだ!

787 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:08:22.71 .net
>>786
いまさら文体変えても もう遅いよー

788 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:09:11.55 .net
渡来人渡来人うるせえよ
そら一部だけ見れば渡来人の技術かも知れんが建物とか和風なのに
何故渡来人のおかげって事になるのか?

789 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:09:28.76 .net
卑弥呼の即位は188年ごろ
80歳とかで死ぬのが247年
ちょうどこの頃から東進、東征が加速したのだろう>>779

790 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:09:35.52 .net
別人だよ


791 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:17:00.02 .net
邪馬臺国の官のうち、伊支馬は伊都国人、奴佳鞮は奴国人なんだろうけど、彌馬升、彌馬獲支はどこの集落の出身なのかね?彌馬国なんて、出てこないもんね

792 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:40:06.20 .net
>>610

3世紀前半の絹は九州でも畿内でもほとんど出ていない
鉄の矢じりはホケノ山で出ている
倭国大乱の可能性は時期的に青谷上寺地遺跡人骨くらいしかない
福岡と畿内で出土するようになるのが三角縁神獣鏡
道里からは会稽、東冶の東になるので海しかない
女王国連合が成立するのは卑弥呼が共立された後なので2世紀末以降の
3世紀前半の奴国の中心地博多と密接な交流関係は畿内

793 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:46:37.87 .net
>>631

山陰に行くのは山陰が投馬国の場合

794 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:51:12.40 .net
板付遺跡、弥生時代前期から中期の集落跡
興味深い
縄文時代の流れをくむ土坑墓と木棺墓
関西以東と墓のありようが似ている
紀元前1世紀頃、板付遺跡にいた人々は何処に移動したのか?

795 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:54:50.95 .net
普通は、

東に海がある→周防灘かな?畿内説なら伊勢湾だろうけど無理があるな。当時は海岸線が内陸に入っていると言っても。

北に一大率があり、伊都国に治す→糸島市の南だから九州かな?

南に狗奴国がある→東海地方を狗奴国とするのは無理だな。南ではなく東だから。熊本平野、菊池平野ならバッチリだな。となると九州だな。

会稽の東→畿内に中心がある国を会稽の東なんて表現しないよな。やっぱり九州北部だな。

素直に読めば、九州説になる。

796 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:55:27.39 .net
>>781
>証拠は?

九州説が反論できないという事実

 

797 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:56:41.54 .net
最古の土坑墓の跡は22000年前の藤井寺の竪穴式住居があった場所から見つかっている
堺にも旧石器時代の建物跡がある
日本列島に元々住んでいた神さまの痕跡かもな
堺の伝承では最初は神さましか住んでいなかったという

798 :日本@名無史さん:2024/05/21(火) 23:59:58.19 .net
>>795
ええとこ1世紀前半までだそんな勘違いができるのは
3世紀半ばの邪馬台国は九州には収まりきらない
もうこれはファクトです

799 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:07:30.58 .net
文化の伝来のほとんどが渡来人によるものではなく、
単に在来人によって取り入れられただけである

文化の伝来のほとんどが渡来人によるものではなく、
単に在来人によって取り入れられただけである



大切な事なので2回言いました

800 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:20:45.42 .net
今だって別にアメリカ人が渡来してるわけじゃないもんな
渡来はしてるけど何て言ったらいいんだろう
カルチャーとアグリカルチャーは情報伝達のみで
充分に同化が可能だということ

今だに認めたがらないのは「弥生人」は
在地系じゃないっていう論理
渡来とは何か問題とでも言うか

801 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:24:36.61 .net
>>795
普通は

伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国と順行で行ったと思う。
不弥国から2ヵ月かかってるから九州じゃないな、と思う。

中国人も順行式で解釈してるのに、なぜか不弥国から突然帯方郡に戻って、邪馬台国まで2ヵ月に曲解するのが九州説

802 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:28:42.36 .net
>>800
弥生人は出土人骨が北方モンゴロイド形質の別人種の骨だからだよ

明らかに弥生人は半島からではなく北方から渡来入植している

だが弥生人は土器は伝えたが稲作なんか伝えなかった

じゃあ誰が稲作を伝えたのか?

誰も伝えていない

もう在来人になっていた弥生人の子孫が単に半島から取り入れただけなのである

803 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:29:17.49 .net
>>800
> アグリカルチャーは情報伝達のみで
> 充分に同化が可能だ
 
おいおい、
現物の遣り取り抜きで同化が可能な農業ってどんなものだよ?

804 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:33:04.17 .net
>>803
情報とはハード(モノ)も含むよ当然
言葉不足で済まないね

805 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:33:46.48 .net
邪馬臺国が漢化した姿が大和国

806 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:41:11.98 .net
>>795

素直に読めば九州説と言いながら
熊本を悪者にして自分のところにもっていこうとする
考古学的根拠が何もない姑息な筑紫平野説

807 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:52:41.94 .net
802が分かる人は60年前の金関丈夫の



「朝鮮南部から弥生人が渡来して稲作を伝えた」


「稲作を携えた弥生人が朝鮮南部から渡来した」



という馬鹿発言の呪縛から抜け出して真実を知って墓に入る人です

808 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:57:39.48 .net
普通は

対馬から壱岐・呼子(末盧国)に南(実際は東南)で45度ズレてるな、と思う
呼子から糸島・博多に東南(実際は東)でも45度ズレてるな、と思う
博多(奴国)から不弥国へは東だけど、不弥国から水行してるから海岸沿いの福間・宗像あたりかな、けどそっちは北だから今度は90度ズレてるな、と気付く

809 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 00:59:53.92 .net
この点だけは残念ながら検定教科書レベルでも
そうなってる。最新の資料集くらいは詳しく解説が
あるのかもしれないけど

移動のきっかけは寒冷化しかありえない
半島は今でも寒い場所だけど何とか暮らしていけたんだろう
定住農耕者と渡来(移動)がまず背理だから
沿海州南部を旅立ったプレ弥生人は決死の覚悟だったろう
よく知られた航路であったには違いないけど

810 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:05:05.07 .net
>>809
沿海州南部と出雲の縄文人は黒曜石交易をやってたからな

一部が出雲に定着したんだろう

811 :琪瑛教大祭酒:2024/05/22(水) 01:07:33.95 .net
また、直ぐにドングリだな、面倒だわ。
九州は説にすらなっていない
認めようとしないだけ
中華に倭の別種と言われた連中そのもの

突然畿内に十字架の墓が造られたのだよ。
無駄だな。

九州は古朝鮮の一部。

812 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:12:15.62 .net
弥生人も縄文人も47000年前はアルタイ地方にいた同じ人種だった訳だ

ところが44000年後に日本列島で再会してみたら、
あなたはすっかり別の人種に変わっていたのです

813 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:15:53.49 .net
>>796
畿内が倭国だった証拠は無い

814 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:19:17.00 .net
農業神の元は伊予の神さまだろう
中原ど真ん中豫州から来た集団が愛媛を拠点にしていたんじゃないかな
弥生時代前期の卜骨も愛媛で見つかっている
弥生時代の稲作の中心は北緯35度から36度
稲の発育は緯度の影響が強い

伊予の地名の由来に謎を解く鍵がありそうだが

815 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:24:44.18 .net
>>812
人類集団のダイナミズムからすれば
これくらいの理解が相当妥当なように思う
男系が異なるのは確かに大きな問題だが
男の動きしか分からないのは相当欠陥だよ
MtDNAも動いてんだか動いてないんだか
よく分からない部分があるし

816 :琪瑛教大祭酒:2024/05/22(水) 01:29:18.63 .net
無駄だよ、墓は嘘をつけない
楯築でも北枕では無いのだよ。まったく新しい思想が現れたのだよ。
鬼道とは初期道教。
中華の巫女が広めたのだよ

817 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 01:53:37.93 .net
素直に読めば邪馬台国は九州以外。
さて、どこだろう?

818 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 02:03:18.65 .net
>>817
安房!

819 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 02:38:17.06 .net
安房と言えば南総里見八犬伝

820 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 02:38:45.52 .net
遺跡を見れば九州から発展した事がよくわかるhttps://i.imgur.com/wWIZZIs.jpeg

821 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 02:42:52.48 .net
>>819
卑弥呼こそ伏姫だ

822 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 02:57:57.39 .net
犬は狗

823 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 03:10:48.07 .net
>>820
ふっ 圧倒的じゃないか 千葉県は

824 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 03:15:36.35 .net
>>823
弥生時代を見ないとな

825 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 03:17:57.45 .net
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-20/blog-2/files/4eba53e35bc65ea6.jpg

826 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 03:23:09.99 .net
卑弥呼なんて日本史に出てきてすらいないわ

827 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 04:20:07.11 .net
山川の教科書

邪馬台国  
卑弥呼を女王とする邪馬台国は,後漢末期に楽浪郡の南に設けられた帯方郡を経由して魏と通交した。邪馬台国は 30カ国ほどを勢力下におく連合国家で,九州北部に外交と諸国の監督のための特別の役人を派遣していた。卑弥呼は 239年,魏に使いをおくり,皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ,その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた。このように魏が倭を重んじたのは,魏が呉・蜀や高句麗と対立していたためとみられる。  卑弥呼は呪力をもつ司祭者で,「男弟」がこれをたすけて国をおさめ,多くの奴婢がしたがい,宮廷はつねに兵にまもられていた。倭人の国々には大人と下戸といわれる身分が成立し,法の秩序がととのい,租税がおさめられ,市があって諸地域間の交易がおこなわれていた。卑弥呼が死んだあと男王がついだが,国中はしたがわず,壱(台)与という女王をたててはじめておさまったという。  邪馬台国の位置については,古くから九州説と大和説がある。もし邪馬台国が九州にあったとすれば,銅鉾・銅戈分布圏を中心とする地域的な連合国家であり,大和にあったとすれば,銅鐸分布圏の勢力がすでに西日本を支配していたことになろう。

—『もういちど読む 山川日本史』五味文彦, 鳥海靖著

828 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 04:21:52.58 .net
つまり日本史の教科書は畿内に邪馬台国があったとは断定していない

829 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 04:42:00.40 .net
山川の教科書は、「其山有丹」や「倭地温暖」を避けている。 触れると「阿波」に決まる。

「阿波」は、銅鉾・銅戈分布圏と銅鐸分布圏の両方の出発地。   @阿波

830 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 04:54:21.14 .net
>>829
阿波説など高校の教科書でも取り上げないトンデモだと言う事だよ。

831 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 05:04:57.72 .net
>>828
それ、教科書じゃないぞ

832 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 05:13:52.42 .net
>>831
教科書がベースだよ

833 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 05:43:58.99 .net
山川出版社『詳説日本史B』

邪馬台国の所在地については、これを近畿地方の大和に求める説と、九州北部に求める説とがある。
近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立してたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

834 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 05:53:18.54 .net
畿内が倭国だったとする根拠が教科書とするのは論破された模様です。

つまり畿内が倭国だった証拠は無い。

835 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:02:24.28 .net
■山川出版社『もういちど読みとおす山川新日本史』(2022年)
邪馬台国の所在地には、大和を考える近畿説と、九州北部を想定する説とがある。
近畿説をとれば、3世紀には近畿から九州北部におよぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、九州北部説をとれば邪馬台国連合は九州北部を中心とする地域政権で、日本列島の統一はさらに遅れることになる。
所在地については容易に結論は出ないが、古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。

836 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:16:58.07 .net
>>792
畿内説は息を吐くように嘘をつく

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

837 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:19:19.63 .net
>>836
絹についてはテンプレ通り
テンプレを読みましょう

838 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:22:30.34 .net
>>824
弥生時代後期まで小集落が残存していた九州の集落数を数えても意味がない

839 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:24:06.53 .net
>>836
https://www.sankei.com/article/20230628-TGGSSXTA5RIIXJWA2XSHPIXNBU/
これ何度も貼ってるんだがキリがないな

840 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:30:41.71 .net
>>837
テンプレのは典型的な詐欺じゃないか。

正しくは、
<現実>
弥生絹が見つかったのは九州だけ。
唐子鍵から絹は見つかっていない。

<詐欺>
倭人伝の絹が高密度絹だった根拠など無い。
唐子鍵のは大陸性高密度「繊維」なのにあたかも高密度絹かのように誤魔化す詐欺文章。

詐欺も詐欺。
しかも唐子鍵から大陸性の高密度繊維が見つかってるということは渡来人の集落だったことを示すだけだ。

841 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:32:18.61 .net
>>839
>よりをかけた絹糸を経糸(たていと)に、植物繊維を緯(よこ)糸(いと)にした綾織の技法

絹繊維が足りないから植物繊維を織り込んでる。
絹50%の粗悪品だろそりゃ。

この詐欺師が。

842 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:34:28.96 .net
>>841
絹があるかどうかの問題なんでしょ?

843 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:37:57.74 .net
>>840
したがって、絹によって邪馬台国が九州有利とは言えない

844 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:39:19.28 .net
>>843
また詐欺か。

唐子鍵に絹は無かったから、
弥生絹があった九州が倭国だよ。

845 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:40:54.58 .net
>>839
古墳時代じゃん
頭大丈夫?

846 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:41:42.42 .net
>>844
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

847 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:41:53.51 .net
>>845
3世紀中頃だと書いてるだろ

848 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:42:34.73 .net
>>840
九州説は典型的な詐欺だよ


<現実>
九州の弥生絹は低密度
卑弥呼が魏に献上したのは高密度絹

九州脱落

849 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:45:22.89 .net
>>848
そもそも低密度の意味をかんちがいしてるのでは?

850 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:45:30.54 .net
邪馬台国がいつの時代か理解してない馬鹿
九州には紀元前の絹すら出る
それは漢委奴国王印が西暦57年に渡されたように
紀元前から九州は大陸と交易があった証拠
対して纒向遺跡はいきなり3世紀中頃にいかなり現れた新興の都市
しかも100年で廃れたんだからもともと大都市が形成されるような利便性が無かった場所

851 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:46:28.40 .net
>>846
正しくは、
<現実>
弥生絹が見つかったのは九州だけ。
唐子鍵から絹は見つかっていない。

<詐欺>
倭人伝の絹が高密度絹だった根拠など無い。
唐子鍵のは大陸性高密度「繊維」なのにあたかも高密度絹かのように誤魔化す詐欺文章。

詐欺も詐欺。
しかも唐子鍵から大陸性の高密度繊維が見つかってるということは渡来人の集落だったことを示すだけだ。

852 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:46:34.07 .net
>>847
ちゃんと読めよw

>現代のデニム生地などにも使われる「綾織(あやおり)」の技法が用いられ、
>専門家は「古墳出現期の紡織技術の画期的進歩を示す発見」としている。

853 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:46:36.59 .net
>>811
古朝鮮というのは、
日本や南韓に統一国が成立していない
遼東や遼西の朝鮮のことか?

300年代の古代韓ならば、
王家が日本天皇の候国で、
奈良に宮を持ち
高句麗戦には宿禰や直費といった
日本軍の将軍の支援を受けていた。

ウリナラに古代史は可哀想。

854 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:46:42.76 .net
テンプレFAQ 29
献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。

布目先生転向済み

855 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:46:50.88 .net
>>842
絹が邪馬台国にあった記述はない。
奴国でも不彌国でもいいんだよ。

856 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:47:20.03 .net
>>851
ほんと畿内説はゴッドハンド捏造が好きな詐欺師ばかりだよな

857 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:48:20.18 .net
>>850
纒向の建設は2世紀末
150年ほどで廃絶した後、佐紀に王都が移る
常に畿内を王都としている点で畿内説には影響がない

858 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:48:43.54 .net
>>852
だから3世紀中頃なんだって
それが弥生時代でも古墳時代でもどうでもいい話

859 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:49:13.20 .net
>>857
4戸でカエル食ってる時点で王都じゃない

860 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:49:59.48 .net
>>855
絹はあったが、九州も倭国の一部なので、そもそも畿内説に影響しない

861 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:54:49.85 .net
>>860
九州、畿内説ではないけどなんら
絹、鉄、辰砂はなんら邪馬台国の証拠にはならない。倭国あればいい。邪馬台国が先進国と決めつけも疑問。

862 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:55:04.98 .net
>>859
纒向がヤマト王権の王都であることを否定する学者は存在しない
仮に、纒向が4世紀半ばだとしても、纒向石塚、纒向矢塚、纒向勝山、ホケノ山、箸墓と切れ目なく大王墓を築いており、畿内にかなりの人口があったことは疑いようがない

松木武彦も吉備の造山古墳の造営時に吉備の人口が爆増(10倍)となったことを指摘しており、箸墓(135万人の労働力)からも相当の人口を抱えていたことが明白である

貴殿の主張はまさに非科学的と言えよう

863 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:55:44.40 .net
>>858
それじゃ遅いんだよ
九州は紀元前からの養蚕なんだから
なんなら九州と交易してただけの話かもしれないぞw

864 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:55:57.71 .net
>>858
>よりをかけた絹糸を経糸(たていと)に、植物繊維を緯(よこ)糸(いと)にした綾織の技法

絹繊維が足りないから植物繊維を織り込んでる。
絹50%の粗悪品だろそりゃ。

だから唐子鍵では絹なし。
3世紀中頃になってもまだ絹50%の粗悪品しか扱ってなかったのだろ。

テンプレに謝罪文のせとけよ詐欺師。

865 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:57:30.53 .net
>>864
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

866 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:57:59.54 .net
邪馬台国がどこにあったのか知りたいなら
邪馬台国は畿内であって欲しい
その願望に合わせて現実を解釈するのを止めろ

867 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:59:07.90 .net
>>866
九州も同じだよ。

868 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 06:59:47.51 .net
>>866
そんなんじゃないんだけど
よく知らなかった時は俺九州説だったし

869 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:01:02.11 .net
>>867
ではない
九州説は単にイデオロギー、あるいは町おこしであるが、通説畿内説は学者が長い時間をかけて、莫大な論文を出して証明した結論である

870 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:02:35.93 .net
>>864
九州説また敗北

「1 号横帯と2号横帯の2 本が出土した。絹糸と植物繊維による綾織で、漆が塗られている。
1 号横帯は、現況の長さ18.7 p、幅4.5pであり、ほぼ全体の形が残る。2 号横帯は、長さ17.1 p、幅12.2 pであり、平織の紐通しが伴う。」

絹100%の紐通し、出てます

871 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:06:35.35 .net
九州説完全敗北だな

「土器による考古学的年代と理化学的年代測定から、靫の年代は庄内式期末頃に位置する可能性もあるが、下限としては布留式期初頭、暦年代では3 世
紀第2 四半期末頃と位置付けられる。」(元興寺文化財研究所)

872 :琪瑛教大祭酒:2024/05/22(水) 07:08:40.01 .net
卑弥呼は巫女であり倭人は巫を一番信じている期間が300年位はあるので廃れた訳ではない。

そもそも卑弥呼以前1世紀の北九州を否定していない。金印が本物であれば委奴国は滅んでいるが何れにしろ朴信仰の遺跡、半島の影響を受けた古辰国の一部とみられるというだけ
タマゴ分布からも半島南投馬国と間違う者もおるわな。
九州の責務は平原祭祀は鬼道なのか?正直になることだね。供述に嘘があり弁護士を呼べと言っとる状況

873 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:09:08.34 .net
多少矛盾があってもまあいいやで済ませるけどそれが積み重なると
魏志倭人伝に書いてある事がおかしいと考えるようになる
そうなるとこれは九州じゃないと思うようになる

874 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:09:30.98 .net
纏向は東征した大和政権が最初に作った王都であった事は
間違いないが邪馬台国とは無関係

875 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:10:35.93 .net
素人俗説九州説が
学者の研究で否定されたのは
自然の流れだ

876 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:11:38.13 .net
3世紀半出土という事は、
養蚕の初めが20、30年前から始まったと見ると
弥生時代にあたる。しかし稲部の絹は、吉野ヶ里からの養蚕伝播したのではないか?
もっとも養蚕の痕跡は九州、稲部にはない。
ただ、稲部には桑の実が出土される。

877 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:12:51.93 .net
>>874のように
全く理由を言わず
願望と政治思想だけをわめくのが九州説だよ

878 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:14:17.75 .net
>>862の一部訂正

造山古墳を築いた集落の人口が10倍
吉備全てで人口が10倍にはなってないので要注意

879 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:16:40.73 .net
>>873
俺の最初の九州説への疑念は投馬国が比定できないこと
そこから考古を学んで畿内説に転向

880 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:18:06.34 .net
>>876
九州産のを買ったのかも知れんし現時点じゃわかんねえな

881 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:18:06.90 .net
アホ畿内説がごたく並べてるが、
稲部遺跡は近江だからな。
北部九州→日本海沿岸→近江、で鉄や絹が持ち込まれたのだろう。

882 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:18:48.51 .net
>>879
投馬国は朝鮮半島南部と解明されたから、九州説に最終入居するといいよ。

883 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:19:40.85 .net
ハシラアナが無いと確定している部分にも柱を立ててしまったあの日

884 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:21:22.54 .net
朝鮮投馬国も教科書に載せるべきだな 
日本人の叡智の結晶

885 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:24:40.42 .net
>>801
投馬国から行程の説明が距離(里)じゃなくて、距離に掛かる時間(日)になるからさ
続けて読むと目的地までの距離も距離に掛かる時間も分からない
目的地である女王国まで12000里と書かれてるが
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里
で距離の12000里の説明も終了している
距離の説明が終了しているのだから日数行程は帯方郡から時間での説明

886 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:25:06.53 .net
>>881
だとしても、畿内説に全く影響しない

887 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:25:35.29 .net
>>883
絹でも敗北九州説
もうニセ情報での中傷に賭けるしかない九州説

ミジメ

888 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:25:58.51 .net
>>883
それって吉武高木遺跡の大型建物の事だっけ?
柱穴通りだと菱形になるやつ
調べてももう出てこないんだよなあ

889 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:26:12.11 .net
>>885
不弥国が目的地になっている放射読みはあり得ない

890 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:26:15.44 .net
>>879
投馬国が朝鮮半島南部に比定できない理由は何ですか?

891 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:28:26.00 .net
>>890
・放射読みがあり得ないこと
・5万戸の大国を半島に持っている物的証拠が出てこないこと

他にもたくさん理由はある

892 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:28:33.60 .net
問題は、九州には粗放な弥生絹の実績が辛うじてあるだけだから
卑弥呼の献上した高密度織りの絹は作れないってことだろ

893 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:28:33.85 .net
問題は、九州には粗放な弥生絹の実績が辛うじてあるだけだから
卑弥呼の献上した高密度織りの絹は作れないってことだろ

894 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:28:39.69 .net
>>885
九州の何処を一ヵ月歩いたの?

895 ::2024/05/22(水) 07:30:10.93 .net
投馬国が九州なら、陸行できるしw
投馬国が半島にあったら、陸行できるしw

896 ::2024/05/22(水) 07:34:24.35 .net
つーか、マジで画像貼れないから
俺の永平寺アーカイブスがコピペできん

司馬懿はリョウトウ征伐に

>懿曰、『四千里之地、往百日、攻百日、還百日、休息六十日、大約一年足矣。』

4000里を100日で往く
つまり、1日40里 = 魏長里なら1日約17キロ前後

妥当な線だねw

水行20日 = 800里
水行10日 = 400里
陸行1月  =1200里

となる里数なら

完璧でーすw

897 ::2024/05/22(水) 07:34:38.18 .net
>>742
正解

898 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:35:05.33 .net
>>880
買ってないかも知れんだろ。
或いは中国から輸入もあり得る。
九州、稲部と見学したので私見だが
質が違う。

899 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:37:22.25 .net
>>886
べつに邪馬台国に絹があった記述はない。
倭国にありゃいいと思う。

900 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:37:45.21 .net
太平御覧や梁書だと即死する九州説

901 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:37:54.17 .net
投馬国は朝鮮半島南部だけど俺は伊勢遺跡説
里数行程はなんも関係ないと考えるから九州には行ってない

902 ::2024/05/22(水) 07:41:05.60 .net
>>779
それはヤマト王権のことであって卑弥呼の邪馬台国とは年代が違う
却下

903 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:42:11.63 .net
>>830
>阿波説など高校の教科書でも取り上げないトンデモだと言う事だよ。

「阿波」には御用学者が付いていないってことだよ。   @阿波

904 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:45:12.86 .net
>>835
>「ヤマト」を中心とするヤマト政権

なんとも抽象的。 カタカナのヤマト? なんやそれ?   @阿波

905 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:49:18.62 .net
>>857
>150年ほどで廃絶した後、佐紀に王都が移る

墓域が佐紀に移っただけ。   @阿波

906 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:51:42.43 .net
半島→列島の単純な行程なんだよ

907 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:52:47.41 .net
>>862
>纒向がヤマト王権の王都であることを否定する学者は存在しない

碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い纏向が、ヤマト王権の王都な有り得ない!   @阿波

908 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:52:53.16 .net
>>902
>それはヤマト王権のことであって卑弥呼の邪馬台国とは年代が違う

どう違うの?
おなじ3世紀中頃でしょ?

九州説さん、また無内容な言い訳でしどろもどろ

909 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:52:53.27 .net
>>891
>・放射読みがあり得ないこと

同じ行程を距離と時間で説明しているだけですから放射状読みではありません
丁寧に解説してるだけです

>・5万戸の大国を半島に持っている物的証拠が出てこないこと

日数行程の投馬国、邪馬壱国は魏代の資料からの引用で
里数行程には短里が使用されているので公孫氏時代の資料からの引用
韓伝にも短里が使用されているので公孫氏時代の資料からの引用
韓伝にある馬韓、辰韓、弁韓の説明も公孫氏の資料からの引用なので
時代が異なり5万戸の大国を半島に持っていても問題ない

910 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:52:53.62 .net
>>902
>それはヤマト王権のことであって卑弥呼の邪馬台国とは年代が違う

どう違うの?
おなじ3世紀中頃でしょ?

九州説さん、また無内容な言い訳でしどろもどろ

911 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:54:24.19 .net
>>909
>日数行程の投馬国、邪馬壱国は魏代の資料からの引用で
>里数行程には短里が使用されているので公孫氏時代の資料からの引用

只の空想じゃ反論にならないよ

912 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:54:24.63 .net
>>909
>日数行程の投馬国、邪馬壱国は魏代の資料からの引用で
>里数行程には短里が使用されているので公孫氏時代の資料からの引用

只の空想じゃ反論にならないよ

913 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:55:49.45 .net
>>907
碌なもんがないのが邪馬台国かもしれん。
何を持って邪馬台国とするのは各説の自由であるけどね。

914 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:56:54.93 .net
>>900
太平御覧や梁書は後世に作られたものですからね
梁書は7世紀、太平御覧は10世紀頃でしょ
資料としては三級品ですね

915 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 07:57:59.43 .net
>>914
記紀もそうだよ。

916 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:02:08.30 .net
>>912
前にも説明しましたが只の空想ではない
公孫氏4代の間、倭の王は卑弥呼一人だけ
魏代は卑弥呼、男王、壱与と男王を挟むので倭を女王国とは呼べない
女王国は公孫氏時代の呼び名
女王国と短里は同時に使用されているから
短里を使用しているのは公孫氏の資料からの引用した文書

917 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:02:42.24 .net
>>913
>何を持って邪馬台国とするのは

先進文化を持っている集落群が在るか否かだな。  例えば「鍛冶炉遺構」を持っている集落遺跡群が在るか否か。   @阿波

918 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:02:49.02 .net
>>867-868
矢じりと絹と鏡で九州確定だろ

919 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:05:05.26 .net
>>918
「阿波」の影響確定。   @阿波

920 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:06:04.27 .net
つまり畿内説はもはや論争に参加する理由すらありませんよと

921 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:06:52.73 .net
>>914
現在伝わってる倭人伝って12世紀に作られた写本なんですが

922 ::2024/05/22(水) 08:07:40.39 .net
>>908
卑弥呼は2世紀後半に共立されて3世紀前半に亡くなっている
君が引用した教科書の記述は3世紀半ば以降のヤマト王権の話なので、年代も主語も違う

別の話なので完全に却下

923 ::2024/05/22(水) 08:10:53.96 .net
邪馬台国とヤマト王権を混同した、あるいは邪馬台国=ヤマト王権を根拠なく前提にした誤った学説が、一部の考古学関係者と一部の関西人だけが主張する畿内説という珍説

924 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:13:10.36 .net
>>922
ヤマト王権=倭(阿波)王権   @阿波

925 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:14:25.71 .net
>>924
ヤマト王権=倭(阿波)王権>「邪馬臺国」    @阿波

926 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:21:12.22 .net
神功皇后だの応神天皇や仁徳天皇が生きていた時代も

360年ころから420年ころの話なので開きはもっとひどくなるけどね

927 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:23:00.14 .net
考古学がない時代なら並立王朝も言えた
弥生人は朝鮮半島から来て稲作は江南から来たと
全部嘘だと分かっても鏡が…絹が…と震えながら呟いてるのが
九州説

928 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:25:20.46 .net
>>908
>君が引用した教科書の記述は3世紀半ば以降のヤマト王権の話なので、年代も主語も違う

あなた、高校生の学力ありませんねー

「【3世紀中頃から後半】になると・・・
「これら出現期の古墳は」・・・
「古墳の出現に【先だって広域の政治連合が形成】されて・・・「ヤマト政権という。」

はい、九州説また敗北

929 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:31:15.69 .net
>>917
なので阿波説にはならない。
定義違いなんでね。

930 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:31:28.25 .net
>>928
>邪馬台国とヤマト王権を混同した、あるいは邪馬台国=ヤマト王権を根拠なく前提にした誤った学説が、一部の考古学関係者と一部の関西人だけが主張する畿内説という珍説

それ、妄想
これ、教科書の記載内容、つまり世間でメジャー学説

「古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった。」

931 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:34:11.56 .net
>>929
>定義違いなんでね。

お前の定義は、妄想の多寡。   @阿波

932 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:35:33.59 .net
>>918
いや、奴国とか不彌国とかが確定と思う。
さて邪馬台国はどこにあるのか?

933 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:36:41.05 .net
>>931
阿波は願望の定義だね。

934 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:40:29.20 .net
>>932
まだ分からないの?
北部九州地域全域が邪馬壱国だったんだよ

935 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:42:28.80 .net
>>934
まだ、分からないのか?
思い込みでしょう。

936 ::2024/05/22(水) 08:43:18.92 .net
>>928
その政治連合(ないしその構成国)が邪馬台国という説明も論証もない

937 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:45:27.65 .net
>>935
北部九州地域全域が邪馬壱国で矛盾無く魏書東夷伝の内容を説明できますから
間違いないですよ

938 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:45:32.88 .net
>>891
仮称投馬国を任那に読み替えれば良い。
5万戸は後の国名弁辰韓からの取り間違い。

南至 水行20日 任那 5万戸
南至 水行10日 邪馬台国 7万戸
女王の処都 陸行1月=2000里

倭人船の寄港地の点と点の
地名を里程で示した行程ではなく
南に直列する経過国の地理説明。
その南に狗奴国、不属女王。

馬韓の通過に水行20日
対馬海峡の通過に水行10日
女王の処都まで陸行1月=2000里

投馬国と邪馬臺国は、
初探検者による仮称国名で
他で採用されてはいない。

247年帳政の伊都まで10500里
(+隣国紹介の各100里)と
240年の女王の処都まで12000里
筆致の違う2人の魏使の報告書二つが、
引用されている。

陳寿の文であるなら、
筆致は一貫して乱れない。

939 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:45:38.35 .net
>>935
それぞれの解釈で後は
思い込み、願望も入る。
いろんな角度や各説の逆定義も検討もいいね。

940 ::2024/05/22(水) 08:45:57.79 .net
教科書はあくまでも九州説と畿内説(近畿説)を並立で書いてある
それが客観的事実

941 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:47:46.48 .net
>>937
間違いと思う。帳尻合わせ。
帯方郡に戻て日数とかね。
かっと言って畿内説も疑問だよ。

942 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 08:49:08.52 .net
>>940
それでいいけど
他の思考をしてはいけないという決まりはない。

943 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:14:27.95 .net
>>940
>教科書はあくまでも九州説と畿内説(近畿説)を並立で書いてある

それは妄想
並立なわけない
両論併記
だが畿内説超優遇で書いている

「古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国が直接つながる可能性が高くなった」
とか
「大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている」
とかね

944 ::2024/05/22(水) 09:15:29.72 .net
>>942
教科書が九州説と畿内説の両論併記なのは客観的事実

945 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:18:00.31 .net
九州説(秦氏の前史の記録)って捉えてるんだけどね俺なんぞは

そんな昔から日本に渡ろうとしていた連中らがいたのか❓🤔ってな

縄文人の記録だの恥ずかしい勘違いだったんだろうな😳

946 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:18:16.98 .net
>>933
>阿波は願望の定義だね。

いや、「阿波」は、すばらしい遺跡でもっている。   @阿波

947 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:19:38.41 .net
記録には残っておらんけど吉備あたりにも紀元前から住み着き始めた連中らもいたんだぞ

948 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:20:28.02 .net
>>947
いわゆる、吉備忌部というやつだ。   @阿波

949 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:21:20.66 .net
そもそも縄文人と呼ばれる連中らの行動の西の果てが出雲だったりするわけ😳

それより西には縄文人の痕跡が残ってねえの

950 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:22:52.29 .net
>>949
>それより西には縄文人の痕跡が残ってねえの

縄文土器が出てないのか?   @阿波

951 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:24:09.46 .net
それ物部の遺跡だろ

952 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:25:12.93 .net
東から来たやつらが戦争をやったあとにそれらの土器なども作られておる

953 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:25:56.88 .net
元から住んでいたやつらの痕跡のことを言ってるんだよ

954 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:28:24.02 .net
>>944
>教科書が九州説と畿内説の両論併記なのは客観的事実

辛うじて名前だけ残してもらった九州説だが
勝負はもう着いてる

955 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:29:03.43 .net
>>949
お前日本人じゃ無いだろw
縄文人は西と南から渡ってきた民族だぞ
縄文人の居住跡は日本全国内陸も海岸も離島でも確認されている

956 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:30:22.37 .net
つまり畿内説には義務教育すら受けてない奴しかおらんのか

957 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:30:46.02 .net
240年魏使の 邪馬臺国の仮称は
魏志の公開で表意文字の臺は『壹』
同時代の廣志では『嘉』で採用。
魏略では仮称は不採用 である。

位置は伊都の南であり畿内説のような
段落の無い陳寿の文に起因する
ご都合主義の誤解は起きてはいない。

魏晋ではない、後世の後漢書からは
『臺』の文字への忌避が無い。

958 ::2024/05/22(水) 09:33:13.80 .net
>>954
それは君の妄想

959 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:34:05.35 .net
>>941
戻ると云うよりも
「南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸」
この部分は前後の文書とは別の資料からの引用で最後に挿入されたものだから飛ばして読めばスッキリする

960 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:34:29.68 .net
畿内説を推してる教科書は従軍慰安婦や強制労働の存在を認める記述を載せている
もともと日本の歴史教科書は赤チームの歴史すり込みツールだからな
畿内説が韓流なのもお察し

961 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:35:57.92 .net
>>958
>それは君の妄想

九州説さん、そういう根拠の示せない発言を妄想というのだよ

962 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:37:02.48 .net
なぜ畿内説は韓国式思考なの?
邪馬台国は何処?(2015年末)
説の分布
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

総合結果
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

963 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:40:10.54 .net
邪馬系ってのが始皇帝の子孫らにでも付けられた尊号みたいなものだからな😳

それだと邪馬のやつらが壺の国にいたってことになるぞ

964 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:40:43.06 .net
>>960
証拠は?
九州説さん、また証拠なしの中傷言い張りですか?

965 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:40:43.35 .net
>>960
証拠は?
九州説さん、また証拠なしの中傷言い張りですか?

966 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:42:06.32 .net
邪馬のやつらの拠点みたいなものが中国の山東地方に軍勢がいた楼閣みたいのとして残ってるわけだろ

その台地のことを邪馬台と呼ぶ

967 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:44:08.86 .net
>>965
何で都度連投してんだ?w

968 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:52:16.93 .net
>>959
それが陳寿が東夷伝序文で
遂に詳記を得た、と言った
未知だった倭の女王国の詳記30国名
なので

240年の魏使の報告の
女王所属の次有り21国列記は重要。

南至投馬国と邪馬台国は要らない。
水行至、倭で
至女王の処都 陸行二千里で良い。

評曰、
魏使の記録が随時
残った事は、素晴らしいことだ。
陳寿、倭人伝の意義

969 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 09:52:29.74 .net
DNA視点

・倭人の先祖はチベット→呉越を経て海を渡り、半島と九州に入植した
・縄文時代には日本列島全域に居住していた
・やがて半島でツングース系と混血した種族が日本の山陰〜北陸へと入植してきた
これが女王国の東に倭種の国を形成しヤマト王権の源となった

970 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 10:17:48.98 .net
ここは創作劇場だね。

971 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:15:35.20 .net
>>962
やっぱり漢化した地域でわかるな。
八世紀の畿内が元邪馬臺国だ。

972 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:19:29.06 .net
倭人は嘘つきだ❗

973 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:28:54.02 .net
>>971
史書によれば倭人は呉越の出であり、半島系ではない

974 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:33:31.74 .net
>>972
魏志の頃の倭人は嘘を言わず誠実だと書かれているが、旧唐書では日本人は本当の事を言わず不誠実だと書かれている
つまり畿内は半島系
畿内民が自意識過剰な民族なのはDNAのせい

975 ::2024/05/22(水) 11:36:35.50 .net
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1716339586/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

976 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:45:12.15 .net
>>974
東夷人を誠実といったのは孔子
倭人は縄文人でした、とかなw
太伯の時は縄文人だし。
縄文人が太伯の姫を連れて来た。
で、太伯の後は絶えた。

977 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:50:04.72 .net
>>976
邪馬台国は縄文系国家だったんだろう
のちに出てくる日本と名乗った連中が何者かを深掘りするべき

978 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 11:58:03.12 .net
>>977
200年には、
もう全員弥生混血してた。

BC1000~BC600で、
日本全国、総入れ替えというのは
縄文男子が数千人に減っていないと
難しいように思う。

979 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:01:09.13 .net
このスレで異常にウソばっかりついてるのは九州説で
言ってることは韓国起源説の又パクリなんだよな

980 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:03:53.25 .net
>>978
最近の研究によると、平安時代あたりまで一目で縄文人とわかる人が普通に歩いていたそうだ

981 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:04:24.68 .net
九州は西暦200年までに終わった地域
当時の倭国に人種差はない。すべて倭人
半島系が入るのは4c後半
とにかく時系列をごちゃ混ぜにして本人も
訳がわからなくなっているのが九州説

982 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:06:13.60 .net
>>980
縄文文化を享受する人が縄文人と呼ばれ、その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人と呼ばれる。

縄文人も弥生人も、同じ日本人ってこと。   @阿波   

983 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:06:13.81 .net
>>979
嘘八百を並べてるのは畿内説のテンプレ>>1-81だろ

984 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:06:22.73 .net
私の推測では、
弥生人女性は土偶のような宇宙人。

江戸時代に薩摩と陸奥の混血が
難しいのと、同じように、
普通の人間は、数百年で
日本中でくまなく混血出来ない。

985 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:06:40.08 .net
>>980
縄文文化を享受する人が縄文人と呼ばれ、その縄文人が、弥生文化を取り入れた時点で、弥生人と呼ばれる。

縄文人も弥生人も、同じ日本人ってこと。   @阿波   

986 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:08:02.52 .net
>>981

後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書いてある
この後継が卑弥呼女王である
魏志には邪馬台国は7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかるが倭国大乱により衰退し、女王を共立する事で再建を試みたものと考えられる
他の史書によれば卑弥呼時代に倭国で飢饉が発生したとも記録されている
3世紀中頃には狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退してしまったと思われる

987 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:10:58.04 .net
邪馬台国が3世紀の卑弥呼によって突如誕生したかのような妄言を吐いてるのは池沼か畿内説か韓国人だけ

988 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:15:24.26 .net
邪馬臺国は3世紀にまとまって台頭し4世紀以降大陸半島系を取り込んで漢化。
こんなの世界史的に常識。

989 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:21:15.12 .net
>>988
というお前の脳内世界における想像文ですね

990 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:26:33.04 .net
纏向は3世紀から4世紀初頭にかけて古墳造営キャンプ場として利用されていた地域
弥生時代から続く痕跡はほぼ皆無
埋められたのではなくたまたま落ちていたという銅鐸の破片だけ

991 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:29:27.79 .net
ウソやデマでは九州説の死を無かったことにできないよ

992 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:32:01.05 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである







.

993 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:33:54.15 .net
>>955

縄文人は小竹貝塚のmtDNAから北方ルートと南方ルート

994 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:35:12.15 .net
畿内説の人たちは自分たちが漂わしてる詐欺臭がわからないんだろうね
日本人は痛い経験があるから政府だとか偉い先生だとかの発表を鵜呑みにはしないわな

>>962

995 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:38:23.28 .net
3世紀中期の時系列で話せと言ってるんだよ
よろしいかパレモンゴリーデ

996 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:44:06.28 .net
>>990
纏向遺跡と唐子・鍵遺跡の場所は4kmほどしか離れていない
かつまた纏向遺跡のほうが盆地の周辺の山地に近いので早く干拓が進んだと思われる

997 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:51:54.45 .net
纏向遺跡は扇状地上の微高地

998 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:55:36.92 .net
畿内や阿波は魏使に発見さえされていない

999 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 12:58:57.28 .net
>>938
投馬国は対馬だわ

1000 :日本@名無史さん:2024/05/22(水) 13:00:16.43 .net
>>940
ここではそんな事をする必要は無い

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