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維新の三傑って誰なの?

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/03/02(月) 20:20:40.63 ID:zoH+XKJ+0.net
戦国の三英傑
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
↑文句なし

維新の三傑
・西郷隆盛
・大久保利通
・木戸孝允
↑えっ、この三人?

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 15:52:09.20 ID:CoG1+qbC0.net
>>199
三傑は誰かを語るスレなのに、失敗とか話そらしてんじゃねーよww
消えろよ!クソ荒らし野郎

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 15:52:28.34 ID:4sTxAOiV0.net
>>199
独立も主権も失ったのは、維新の三傑や十傑がいなくなってからだいぶ後のことだろ

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 16:33:18.86 ID:UGD05nUu0.net
だな。それなら関ヶ原で完全に島津毛利長宗我部を家臣まとめて潰しとけっつのw

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 20:22:52.27 ID:1Q26/gyr0.net
>>200
まあそれは日本だけじゃあるまい

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/06(月) 21:36:38.08 ID:itnicuSo0.net
西郷大久保は分かるけど木戸は違うだろ
3人目は岩倉だな

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 00:38:42.39 ID:gjxgleL30.net
>>199
大日本帝国の末路を考えると桶狭間の戦いは失敗だね

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 00:50:11.75 ID:C57iRS/E0.net
>>202
木戸は喜ぶだろう
しかしなかなか進まない復興などの政策には
いろいろ口出ししてくるだろうな

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 03:58:04.31 ID:ZWs9hY9J0.net
木戸の評価が低いのは司馬史観のせい?

立憲君主制へ繋げたのは三傑の中でも木戸だけでは?

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 06:52:29.23 ID:PNWmxH8B0.net
木戸が重要でないわけではないんだが、
岩倉使節団に参加した時はすでに過去の人になりかけてたのが1つ

あと憲法制定作業は左院(議長:後藤象二郎、副議長:江藤新平 他宮島誠一郎など)がリードしていて
明治5年4月には「立憲国議」や民選議院を提言した「下議院を設くるの議」が正院に提出されている
民法編纂も左院で始まってる。
ただ、左院で議論をリードした後藤や江藤は留守政府の中心人物になったあげく
明治6年政変で下野してしまったから…

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 07:12:28.09 ID:6mSC87Sx0.net
憲法制定作業は
左院主導(明治3〜7)→元老院主導(明治9〜13)→明治14年政変で伊藤博文主導と変遷していて
左院(宮島・江藤・後藤)は空中分解、元老院(大木ら)のは岩倉・伊藤に潰されたから無視されてる
内容的にはかなり先進的
立憲君主制云々を言うなら、左院や元老院の作業のほうが圧倒的に大きいわけだしな

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 07:50:27.82 ID:Lb/yMy3s0.net
明治国家って

大久保〜伊藤
西郷〜山県

ってラインだよね

それで木戸は?って考えた場合
確かにその系譜はどう受け継がれたんだろうって考える事はある

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 10:23:27.71 ID:6cNqvSK5O.net
伊藤は木戸が育てたからこそのつながりだろ
権力的な価値観はおいといて

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 11:25:36.47 ID:C2oQi1r+0.net
立憲君主制への道筋を説いていた点から言えば、伊藤西園寺が政治思想的には木戸の系譜かな。

板垣、大隈の政党活動はしょせん猟官運動でしかなかったわけで。
犬養なんかはその面受け継いで議員の立場から統帥権問題引き起こすアホやらかす。

政策的にいえば木戸は江戸以来の民憮的な発想が中心なんだけど、これは育った時代考えたらまあ仕方ないかなと。
国際金融絡んだ経済政策は2つ下の世代の高橋是清とか井上準之助の時代になってようやく色々手を打てるようになったし。

明治政府自体が創成期で政府が何をするか、民間が何をするかまだ曖昧。
だから渋沢栄一みたいな存在が重要になったりもした。

木戸の良さは具体的な政策が今という状況の中でどうバランスを取れるかを見抜くところだと思う。
逆に言えば具体的な成果とか結果とか残し辛い。
それが三傑は誰かという話になった時に木戸が外されやすい要因かな。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 13:39:48.09 ID:vJ5SzZp9O.net
木戸がいたから長州の暴発があのレベルで済んだ

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 21:10:33.38 ID:KJ9T7+B30.net
なんというか
木戸は有名な名前が二つあることで
イメージがわかりにくくなってる感がある

ドラマや小説での登場回数は桂>木戸

でも桂のままだったら維新の三傑に入らなかったような気もする

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 21:15:54.15 ID:nSdeW7ay0.net
> 西郷〜山県
このラインはよくわかんないな。
むしろ大村→山縣と思ってるんだけど

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 21:37:45.78 ID:nSdeW7ay0.net
>>215
> 木戸の良さは具体的な政策が今という状況の中でどうバランスを取れるかを見抜くところだと思う。
> 逆に言えば具体的な成果とか結果とか残し辛い。
> それが三傑は誰かという話になった時に木戸が外されやすい要因かな。

西郷が据え置きで木戸が外れる当たり、明治時代入ってからの政策をトータルで評価して
外しているというより、評価対象が慶応三年の京都の政局に集中してるせいな気がする。

活躍時期が微妙にズレるんだよなあ>西郷・大久保・木戸

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/07(火) 23:33:12.40 ID:fmUGbGQ70.net
>>210の言う、木戸が立憲君主制に繋げたってのは、木戸が憲法制定作業って
実務に携わったって話じゃないと思うけど

左院主導の憲法制定作業が江藤後藤の下野でポシャった後、元老院設置までを繋いだって話じゃ?
そもそも、左院というか三院制自体も木戸のごり押しの賜物って印象なんだが

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 00:57:34.22 ID:qkU8sPJk0.net
長州からのトップが木戸とかありえねえわ。
大楽源太郎のレベル。
普通に大村益次郎が妥当。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 02:03:57.33 ID:pESfstgX0.net
大村益次郎って傑物ってほど政治力はないな
長州藩的にもなんか亜流だし

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 02:17:04.37 ID:exIn4qPD0.net
>>220
もともと政体に関する腹案は新政府要人は多かれ少なかれ持ってる
立憲君主制の提言から言えば木戸が帰朝後に提言したものより、左院の建議のほうが早いし、
内容も先進的。木戸が出発するかしないかの頃にはもう草案詰めてるのだから。
左院では箕作麟祥のようなプロが翻訳に当たり、江藤新平が議論に当たり、後藤象二郎のバックアップを受ける、
という具合でかなり矢継早に草案出してるんだよね。

木戸の存在意義は乱暴に言えば長州閥の代表者というくらいだけど、実際は幕末ごろから広沢兵助が藩政で最高幹部の地位にあったし、
実務的能力ということになると広沢が上と思わざるを得ない面はある。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 03:05:34.05 ID:P6I8VzJYO.net
広沢は長州にいながら功山寺の挙兵にいなかったね
実務型の人間には間違いないけど、大村も同等で木戸がいたからこそ力を発揮できたんじゃないの
スキルはあるけど社長にはなれないって印象

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 07:45:07.42 ID:0z0+RSiC0.net
>>219
どちらかと言えば西郷がはずれるなあ
最終的に反乱起こして維新の足引っ張っちゃったから
ただ、木戸、大久保も活動時期としては微妙な期間もあるから
功績的にバランスとれば、西郷が入ってもいいかなという感じ
意図して作った三傑ではなく、やはりこの連中こそという存在感なんだろうね

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 07:56:09.01 ID:g/sgXZpG0.net
>>218
大久保 実務家
木戸 理想主義者(桂時代はネゴシエーター)
西郷 カリスマ

これが俺の勝手なイメージで

大久保の実務面を伊藤が引き継いだ
西郷のカリスマはカリスマ無き山縣が天皇をカリスマにして引き継いだ
こんなイメージ、ちなみに

大村 テクノクラート
小松 政治家

一番生きてて欲しかったのは小松かな

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 08:44:59.38 ID:onoN27sA0.net
>>223
いや、誰が早いかとか内容の先進性の話じゃなくて、政局の話。
そりゃ専門知識で言えば、幕末からずっと政治家やってた木戸より、学者の方が持ってるでしょ。

そういう専門知識もってるやつを起用して、バックアップするのが政治家なわけで
憲法導入に消極的な大久保と、早々に議会開設もとめる連中の間とって、斬新路線を
大久保に呑ませたあたりの事をいっている。

ついでに言えば先進的ならいいってもんでもない。
そもそもヨーロッパと日本の隔たり考えたら、左院は拙速、というのが木戸の意見だったかと。(うろ覚え)

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 08:52:42.57 ID:onoN27sA0.net
>>223
> 木戸の存在意義は乱暴に言えば長州閥の代表者というくらいだけど、実際は幕末ごろから広沢兵助が藩政で最高幹部の地位にあったし、

そうなん? 木戸と広沢は御互い相手のスペアという印象だった。
広沢興味あるけど、あんまり詳しくないな。その辺の広沢の役職詳しいならちょっと教えて欲しい。

>>224
> スキルはあるけど社長にはなれないって印象

桂と波多野の出世速度、というか仕事内容見てると桂かなりヤリ手だよなあ。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 19:33:51.45 ID:QIkO4OqT0.net
明治立憲体制に繋げる意見が木戸や大久保に集約していったのが重要なのでは?

テクノクラートは嫌いじゃないが、代わりはいくらでもいるのでは?
技術的なめんで大久保がダメになったら江藤あたりが台頭したりしそう。
大村自体が中折れして政策が山田などに引き継がれて木戸が取り上げられているし。

西郷ほどでなくとも大久保は薩摩幕府寄りに引きずられているので対抗軸は必要。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 19:36:33.89 ID:QIkO4OqT0.net
どうもここで出てきた小松押しと広沢押しは藩内のリーダーシップ面の評価に片寄っているように思えるのだが。
勢力内の影響力を評価軸にするなら最高峰は勝になるのか?

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 20:31:51.62 ID:OQTxyXj40.net
えっ?w

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/08(水) 21:14:46.90 ID:onoN27sA0.net
>>229
> テクノクラートは嫌いじゃないが、代わりはいくらでもいるのでは?

いくらでもっていうと、ちょっと江藤と大村が気の毒な感じはするなぁ。
この辺のテクノクラートは、明治の本当の最初期だとやっぱ希少だと思う。
確かに、留学生が育ったら取って代わられたであろう過渡期の人材だけどさ。
それ言ったらこのスレで名前出てる人、全員過渡期の人だし。

まあ、そういう近代国家に必要な人材を安定供給するために、留学生送ったり
学校制度整えたりするわけだから、その辺の国家戦略や方針たてる政治家を
上位に上げるべきだろうね。

じゃないと三傑どころか十傑でもおさまんない。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 11:39:44.94 ID:D7mzjdOg0.net
>>229
西郷は幕府作ろうとしてたの?

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 11:55:04.66 ID:J1Kb4d5Y0.net
西郷は邁進力∞

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 20:47:46.83 ID:GQyeYGVZ0.net
>>233
久光の息が掛かって引き面れるのが嫌で引退。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 21:08:57.04 ID:N4KSdisZ0.net
征韓論てなんだったんだろ?

新政府に集まってる人たちは国民国家の成立をみんな望んでたはずなのに
征韓論というささいな出来事から下野し
佐賀の乱から始まる不平士族の反乱にかつがれてしまう
なぜこんなことが起こったのだろう?

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 21:13:52.99 ID:GQyeYGVZ0.net
>>236
はず?猟官運動とか激しかったけど?

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 21:28:23.27 ID:kbdaocHB0.net
士族なくす前に最後のボーナスステージくれるか政府高官のポストくれという要求が征韓論だと思う。

萩、佐賀、薩摩という新政府にも高官送り込んでいる藩閥元藩士も結局主流から外されたから乱を起こした。

土佐は元々一枚岩じゃない上に領袖の板垣自身がそんなに権力いらんけど、みんなの顔立ててみたいな感じだったし武力決起はなかった。
その後の民権運動という名の猟官運動でも板垣自身よりその下の世代、土佐閥にぶら下がるゴロツキが極端な行動したりだし。

そんな板垣だから大阪会議で大久保や木戸も妥協点見つけられたかなと。
多分大雑把な方針としては板垣より木戸の方がよほどリベラルで理念曲げないタイプだったから大久保は手こずっただろうねw

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 21:38:54.65 ID:N4KSdisZ0.net
>>238
んー?そうかな

江藤新平は有司専制と非難する建白書に参加していて
帰郷を大久保の思うつぼだと木戸らに止められているよね
しかも江藤は相当なフランスかぶれでいち早く民法導入してるし
旧体制の維持を望んでいるとは思えない、過激な革新派だと思う
島義勇も士官されていたにもかかわらず佐賀の乱に参加させられている。
下野は分かるとしても、そこから反乱への参加が意味不明すぎる
萩の乱でも前原一誠はなるべく反乱を抑えようとしたとあるし

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 22:01:43.97 ID:GQyeYGVZ0.net
>>239
祭り上げられて下僚の暴発に巻き込まれるのがパターン。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 22:01:49.80 ID:kbdaocHB0.net
担がれた奴らはな。
担いだ奴らは神輿があれば大義はあとからつけられるからそんな事はどーでも良い。

新政府内で主流から外れたあと帰京したら担がれるのは誰の目にも明らか。
最後の西郷の時なんかは佐官級ごっそり引き連れた形。

これで何を言い訳しても無理だろ。
担がれた奴らじゃなくて、乱に参加した数万の人間の思惑の方が時代を反映していると思うがどうだろう?

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 22:11:35.58 ID:N4KSdisZ0.net
でも、征韓論が単なるきっかけなのか、それとも
裏に何やら思惑があったと考えるのかでずいぶん解釈が変わってくる。
征韓論は実は士族の雇用先だったのかとか
でもそれなら大久保の台湾出兵の意味が分からなくなるし
因果関係を探ろうとするだけ無駄なのかな

あと、大きな反乱おこしたのって西側だけなんだよね
薩摩、佐賀、長州にちょっと特異な肥後が加わっているって感じ。
他の藩よりめぐまれてるはずなのになんで反乱おこしたのか
なまじ戦争に勝って政権をとったと思ってるから反乱をおこしたのか
なぜなんだろう

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 22:50:06.18 ID:N4KSdisZ0.net
そもそも攘夷論てなんだったんだろう。
萩の乱では松陰の家が相当かかわっていたとあるし
不平士族の反乱に強硬な攘夷思想が残存していたとは言えないだろうか?

wikiの攘夷論からの受け売りで申し訳ないが
攘夷の背景には朱子学的な名分論を換骨奪胎させた国学があり
ある種、貿易を文化思想侵略とする思想があったように思う。
というか、この考えは程度の差こそあれ、現代でも通用する部分があると思う。
オランダのプロパガンダという面もあるが、ある面では確かにスペインポルトガルは
キリスト教を使って他国を侵略していたし
オランダも英仏もキリスト教の布教はしないよう控えたものの
自由貿易という名で世界各地の市場と商売を行う一方
ヨーロッパの他国が自分の確保した市場に入ってこないように独占を試みた。
貿易港には富が集まり、はじめはwinwinの関係であったが、
貿易港を治外法権にとられ、富を吸い出されても力では対抗できないようになると
19世紀はじめには英仏にアジアの多くの国が植民地として従属をしいられていた。
これらはすべて港という経路を介しての文化や富の侵入であり、
既存文化や経済の破壊であるから、ここから貿易=悪とする考えが清や日本ではびこったとしても
おかしくはなかった。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 22:53:26.62 ID:kbdaocHB0.net
小泉改革の時と同じで勝ち馬に乗ったから大したことない奴まで勘違いして高望みした。

が、結局行政面では元幕府官吏とか実務経験あって有能なのが登用された。
大臣クラスの席は望むべくもなく。

一つ一つの事件や出来事に意味をつけようとし過ぎると無理があるかと。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 23:07:01.53 ID:J1Kb4d5Y0.net
革命家達が革命後に老害化してしまうことを大村は恐れていたみたいだね。
韓信が粛清されたように、主流から外れた武力は国家の脅威となるから、自ずと排除の対象となる。そのあたりを西郷が察していたのかそうでなかったのかは今でも不明だが、他と合流するわけでもなく暴発に身を委ねて滅びゆく様は、英雄にふさわしいのではないかと。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/09(木) 23:32:07.44 ID:N4KSdisZ0.net
幕府はそれまで長崎沖縄アイヌ対馬の四口に貿易を制限しており
貿易がなかったわけではないが、貿易による不利益を最大限制限しようとしてきた。
そして貿易をする理由も、経済的利益ではなく、情報にあったようにすら思われ、攘夷のための貿易だったのではなかろうか。
寛政には幕府の公的学問所では異学の禁が行われるものの
実際はキリスト教以外の西洋書を翻訳した漢籍が大量に日本に入ってきており
とくに蘭医学の研究は民間で盛んにされており、伊能忠敬の日本地図などその影響を受けている。

一方、攘夷論者も、たとえば吉田松陰や佐久間象山も、攘夷を唱えつつも西洋の技術を受け入れることを別に否定していない。
また攘夷で有名な水戸学を簡単にまとめれば、天皇を中心とした国家体制の強化、産業振興、人材育成採用
適所適材、外国の攻撃から身を守るだけの戦略、武装を調えて、その国力によってこれまで通り
外国とは極力かかわらないようにしようというものであるが、同時に孫子が引かれ、敵を知ることも重要視されている。
そもそも水戸学は既存の体制を保守するために門閥を乗り越えて優秀な者を登用するというある種矛盾をかかえており、
明治維新の萌芽を内包させている。

では攘夷論者は何に不満をもっていたのか。開国論者、特に武備開国と言われた斉彬らとは何がちがっていたのか。
思うに、外国の脅威、あるいは外国が戦争を仕掛けてきたときに
どの程度の準備によって自国が勝つことができるかの具体的なビジョンの違いであると思う。
伊藤や井上、高杉は下関戦争の欧米による第一次反撃のときに上海に赴いているが
そこで軍艦の多さを目にして条約破棄を目的とした攘夷を諦めている。
その後、帰国して同輩を説得するが、禁門の変、下関戦争の第二次反撃と敗北を味わうまで軍制改革が進まないでいる。
一方、幕府側も開国当初、廃藩置県までの考えには至っていないと思われる。
長州征伐に敗北したことから、幕府の軍制改革は明らかに遅れており、これが彼らのビジョンの先見性のなさを示している。
結果から先に言えば、大久保がしたように欧米秩序に組み込まれることでしか、日本は自国の安全保障を維持できなかった。と思われる。
それに朝鮮の攘夷派のようにゲリラや焦土作戦をも辞さない覚悟で望めと政府に迫ったのが士族たちであったのではないか。
しかし、佐賀は倒幕に最後の最後に参加しただけでそれまでずっと慎重な態度で事態を見守っていただけ。
そのような推論もやや全体を説明づけるには弱いように思う。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 01:29:54.48 ID:jlwb0ec+0.net
>>245
西郷には西郷の都合があったというだけかと
維新でも英雄と呼ばれた人達は意図してかっこよく死のうとかしたというよりは
激動の中でその人物にしかできないことを命がけでして死んでいったというだけ
西郷を担がれただけとするのは何か無理がある
薩摩の状況を見るに、やはり薩摩が中心の政府を新たに作ろうとしていたと考えた方がしっくりくる

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 02:12:57.68 ID:hyWLXxb00.net
>>247
西郷の意思はどうあれ結果的に乱は制圧されているので、武力を背景にする政治から、より民主的な政治に移行されたところが当時のその直後の人たちの共感を得たのではないかとも思う。実際最後の士族の反乱になった点も直近の反乱分子への抑止力にもなっている。
西郷は旧薩摩藩内の教育を通じて全国の見本としたかったところへ有頂天になった西郷を慕う軍人たちが集まり、結果、小さな国が形成される形となったとすれば、政府との衝突は必然だったのではとも考えられる。
人望がありすぎた所以の流れではないか。
と言っても、完全に政府に従順の意を示さなかった点は弁護の余地はないが。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 07:32:06.16 ID:OXen8Nn10.net
留守政府の面々によるその後の歴史を見たかった
薩摩長州よりも肥前土佐の方が多いやんw
なんで簡単に下野しちゃうかな
自分がその立場なら絶対に地位にしがみつくけどなw

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 08:43:01.55 ID:tiFm20j20.net
>>249
その時々で選択していったことなんだから
そういうイフの話してもしかたないわ
下野した結果暴れるという者はその程度ということで

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 10:00:36.53 ID:OvDzua4g0.net
西郷も下野して暴れたそこまでの人物で
大久保も暴政が行き過ぎて暗殺されただけの人物だと

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 10:22:27.35 ID:w/H0KjZtO.net
広沢や大村、横井も小物に反感かって暗殺されただけの人物だね

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 12:36:35.74 ID:JqJaBuOnO.net
下野して反乱起こした連中よりは
踏みとどまった連中のほうが偉いとは思う
暴れるだけなら野蛮人でもできるし
日本を近代化させようとする維新のはずが
自分の不満で早速にぶっ壊そうとするのは感心できない

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 12:51:01.37 ID:JqJaBuOnO.net
>>241-244
維新の勢力でもトップの方は明確な志と危機感を持って命懸けで改革を目指していたが
勝ち馬に乗ろうとするだけの烏合の衆みたいなのも多くくっついていて
そいつらは目先の利益しか考えないから改革などについていける頭もない
維新は単純に幕府との戦いではなく
古い価値観にぶら下がってるだけの連中との戦いだったとも言えるだろうね

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 13:01:37.58 ID:hyWLXxb00.net
まあ、そういう感情は上に立った者にしかわからないところなんだよね

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 22:23:22.81 ID:UW11aBHR0.net
いわゆる三傑は鳥羽伏見までの三傑?

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/10(金) 22:56:33.58 ID:cASC8LQ90.net
> いわゆる三傑
史実の三傑なら、むしろ鳥羽伏見以降な気がする。
西郷、大久保、木戸が朝廷の臣として藩から浮き上がった存在になったのは
明治入ってからだと思うし。

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 03:00:41.66 ID:XE3z7Z9W0.net
西郷 大久保 岩倉

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 06:00:46.50 ID:w9PKX0080.net
抽出 ID:N4KSdisZ0 (5回)

全文コピーしてメモに保存させていただきました。貿易悪玉論か!なるほど、そういう考え方もあったのだな。

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 06:19:27.77 ID:drUjErks0.net
>>259
維新の前にテロったり弾圧したり、後で暗殺や反乱起こしているのは、大半はただの小中華思想かと。

漢字だって輸入品、良いものは取り入れようぜ、負けないように、とか言ってるところされちゃうんだぜ。

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 06:24:01.55 ID:olYZJNbi0.net
小攘夷と大攘夷の違いは早くから議論されてる

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 06:29:37.50 ID:olYZJNbi0.net
ただ大攘夷が想定していた開国がどの程度だったのか不明。
明治維新はやりすぎな感がある。
岩倉や大久保はヨーロッパ見て度胆をぬかれたんだろうな

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 12:44:50.41 ID:1QuXk9al0.net
大攘夷って、結局開国の方便って感じするけどね。
海外に対して忌避的な当時の人間を鼓舞して、海外に目を向けさせるためというか。

明治維新がやりすぎに感じるレベルで、西洋文化取り入れたのは、↑の意識変革を
企図した部分もあると思うけど、既存の秩序体系を破壊したうえで新たに自分を権威づけ
しようと思ったら、よそから持ってこなきゃいけなかったんじゃないかと。
王政復古って言ったって、本当に七百年前にもどすわけにもいかないし、上辺だけ
戻してみてもコスプレにしかならない。

江戸時代の服制とか髪型とか言語とか、身分とか出身地の区別するものだから
均一的な「日本人」を作ろうと思ったら、大々的な文化破壊になったというか……。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 12:48:54.56 ID:1QuXk9al0.net
>>263
追加
髪型はさておき、服装については戦前はまだ仕事着以外は和服デフォみたいな
感じだったとは思うけどね。

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 21:58:35.76 ID:olYZJNbi0.net
いや、うわべだけ西洋文化を入れたほうがコスプレだろ

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 23:35:13.46 ID:aJQykmBQO.net
時代が変わっていて、それについていこうとする改革だから
立ち往生しているような態度ではダメだろ
復古というのは日本人の本来の精神に立ち返るみたいなもので
昔のまんまに再現なんてアホっぽいことするわけじゃないからな
日本が変われば周囲の国も変わるしな

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 23:56:03.56 ID:1QuXk9al0.net
>>265
うん、同じコスプレなら機能性が高い方がマシという話。

あとさ、中国の掲示板とかでさ、漢服とかの写真見てるとさ、やっぱコスプレって思うのよ。
彼らからすると(日本人の想定する一般的な)チャイナ服って満州族の伝統服だから、
漢民族の伝統復古させたいみたいなのがあるっぽいんだけどさ。
明代の服制と現代に至る迄にどうしようもない程の断絶があるわけで。

日本の場合そういう断絶はないけど、数百年にわたって変化し続けたもの拒絶して
昔に戻すってのもやはり断絶っていうか、すごい溝が生じるんだよ。

というかね、今更男子はみんな月代、制服は上下袴って言われるのと大して変わらん。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/11(土) 23:59:28.78 ID:1QuXk9al0.net
と、実際に直垂着て仕事させられていた明治初期の官僚の気分を(勝手に)代弁してみた。

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 00:05:51.75 ID:q/sOBTTc0.net
>>267
服装と近代化はペアなのか?
いまいち意味がわからん

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 00:08:33.95 ID:aZvWtYqE0.net
見た目の変化は分かり易いんで服装とか儀式的なものは広報的に使われるという話じゃないかな?

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 00:45:20.28 ID:AcwMi1Jv0.net
>>263
そう。明治維新がもたらした結果を成功か失敗かという論点で語り出したらまさにそこに行き着くのだ。
実際はそれまで存在しなかった「日本というクニ」を無理やり造ろうとした結果が、結局は極端な欧化政策だった。
小中華思想は欧州礼賛絶対追従へとすげ変わってしまった。脱亜入欧なんて言って。
強引極まりない暦法の改正統一、凶悪な文化破壊の廃仏毀釈、土地のいい加減極まりない農民への私有化はその最たるものだと。

こう語るには江戸幕府は日本を統一したのでは無く日本という枠組みの完成を260年以上遅らせてしまった、という前段階が出てくるのだが。

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 00:52:41.68 ID:q/sOBTTc0.net
廃仏毀釈なんて国学の影響じゃん
暦法の改正も給料払えなかったからだし
服装も庶民はずっと和装じゃん
戦後の話なら分かるが、あれはアメリカの差し金だろ?

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 02:50:08.37 ID:AcwMi1Jv0.net
そもそも明治期から広まった「和服」の様式はもともとは「呉服」である。
あんな高級な衣装は世界遺産にもなった大規模紡績技術が西欧から導入されて後です。
このあたりからして、日本の伝統なんてもののそもそものあやふやさが露見するのです。

私達の祖先、それもそんな遠くないせいぜい6〜7世代前の住んでいた日本列島ってものはもっと多様で多文化だった。
国民国家ってものを形成するのに、そういった多様性は有害、と時のテクノクラート達、「維新の元勲」以下官僚達に受け取られたのだろうな。
一つの国家、一つの民族、一つの思想。それこそが歴史。昔からそうだったのだ。そんなものを強調するところ、今の共産党独裁中国に似てる。
いや、何のことはない。東アジア、東洋漢字文化圏における西欧文明の移植は、そもそも日本から始まったムーブメントなのだから。こちらが先なのだ。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 03:57:18.90 ID:q/sOBTTc0.net
言いたいこといっぱいあるんだが
とりま、極端な欧化政策ってやつはどこ行ったんだ
つーかその、話してるうちに何がトピックがわからなくなるやつやめろよ
イラつかせようと思ってないなら、親切で言っておいてやるけどそれ、それぜんぜんおもしろくないよ

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 08:56:23.13 ID:w/puA1A30.net
>>269
ごめん、コスプレという単語に引きずられて話がそれた。
制度方面についても似たようなもんだと思うけど。

ただ、個人的には明治維新の西洋文化導入がコスプレとは思ってない。
(服装とか建築とかそういう上辺部分はさておき)

木戸が明治二年の普通教育に関する建白の中で「政府に英雄が2,3人いても人民が
アホじゃ意味ない」というようなこと書いてるんだけど
幕府が安政の条約結んだ時、「幕閣には英雄がいない」みたいなこと言って歎いていた
ヤツがこういうこと言うようになったのが、幕末という時代なんだと思う。
こういう、社会の進展にそった国家体制を構築しようと思ったら、旧に復するというのは
まあ無理で、他所で実績のある体制を持ってくることにるんじゃないかと。

大体ヨソの体制参考にするって、どこの国でもやってるしなぁ。
そいういうのを、欧米化とかなんとか言うの好きじゃないな。

一から自分らで構築しようと思ったら、それこそ何十年単位でグダグダすることになる。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 09:50:42.14 ID:Zq6JxiLe0.net
三井八郎右衛門高朗
伊藤八兵衛
鴻池善右衛門幸富

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 10:18:17.40 ID:RIryrEH90.net
時代の枠組みをどうするか?というところを幕末〜明治10年ぐらいまでの間にとにかく形にしなければないかったからな。

幕末なんて鎖国か開国か?幕府はどうするか?
ぐらいで中身については慶応年間に入ってようやく少し出てきたぐらいで実質明治の10年間に旧秩序社会から近代秩序社会へ移したんだからな。

模倣できるものをたたき台にして、まずいところを部分修正やアレンジで補いタイミングをズラすことで社会的なストレスを軽減するぐらいしか実際には難しい。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 11:50:21.72 ID:AcwMi1Jv0.net
>>276
今からでも鹿児島に金返せって言うべき。

叩き潰されたのは当時の日本各地にあった文化であって旧秩序などでは無い。なんの根拠もなく威張ってた連中は勝手に溶けた。
現実には、そんなクソどもの現状維持に新生日本の国家予算は大半持ってかれてたのが明治前期。
旧秩序も旧秩序、天皇なんてものを今更のように担ぎ出す事で国民国家は強引にまとめられた。
ひな壇に上げたお内裏様とお雛様は率先して洋装させられて。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 12:16:49.76 ID:w/puA1A30.net
>>278
> 天皇なんてものを今更のように担ぎ出すことで

「この国の主権者は誰か?」という命題は幕末になって急に持ち出されたわけじゃないから。

自分も頼山陽とかの話になると詳しくないから、あんまり人のこと言えないが
もうちょっと幕末の流れを確認してから書きこんだ方がいいと思う。

ここ明治スレじゃなくて維新三傑スレだから、バックボーンとなる世界観・文明観を語るのはいいと思うけど、
幕末→明治初期の流れのなかで誰がどういう役割を果たしたかって方向に持ってけるように語ってくれ。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 16:02:58.88 ID:AcwMi1Jv0.net
>>279
実体の無い「日本」なんてものを綴る存在は他にいなかった。ただこれだけのことだ。
ビスマルクが我が連邦こそは神聖ローマ帝国っていまっさら言い出してハプスブルク家の馬の骨担ぎ出すようなもんだ。
グダグダと、日本ってのをなにか特別な存在のように考えずに世界史のただ一国の事と目を覚ませば、それだけの事。
かなり、時代錯誤でみっともない。この無理やりな大義名分の為に結局このクニは侵略国家の汚名を着ることになった。

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 19:27:59.91 ID:t8KTZKR30.net
>>280
日本という国が一つにまとまって意識持つというのが何か都合悪いのか?
侵略してくるから?

なるほどなるほどw

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 20:33:53.44 ID:AcwMi1Jv0.net
>>281
Wのあとづけ始めると、もう会話は成立しない。でもいいや、少し続ける。
いや、聞きたいんだけどさ。そもそも19世紀末に無理やり日本って枠組みでクニを造る必要、あったのかね?
日本は外国の植民地になってたんだろうか?

ハッキリ言ってならなかったと言い切れるよ。欧米列強がつまみ食いしてた諸州より遥かに強大な連邦だったのだから。
幕末の動乱期に幕府が整備をはじめた国軍の素体は言うに及ばず。薩長土肥という辺境の中堅国が慌てて買い込んだ銃器で武装した、
農民崩れまで動員した奇兵隊なんて連中ですら、とんでもない武器弾薬の保有数なんだから。

あなたは、こういう風に考えたことは無いだろうね。
「はたして日本は、19世紀末の時点で統一国家である必要があったのか?」
実はかなり微妙なんじゃないかな。徳川官僚システムがとりあえず中心となって、
公家天皇家のパトロンとしてそのまま緩やかに連邦政府を運営するシステムが、
しばらく続いたほうが。よほどマトモなクニだったんじゃないのかな。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 20:44:08.50 ID:AcwMi1Jv0.net
もっと言おう。薩長土肥にその武器弾薬を売りつけたのはそもそもその欧米列強、英米の死の商人たちだ。
地方の藩王をそそのかして武装させてそのクニの中央政府に揺さぶりをかけ、文化の移植で揺さぶりをかける。
これは、ズバリそのまま欧米列強の植民地化政策そのままだ。日本の藩王達はまんまとそれに乗っかったのだ。

藩王の反乱に内応するように、幕閣の立場から手練手管を弄して結果的に徳川の分裂を決定的に導いた勝海舟。
王政復古が聞いて呆れる換骨奪胎ぶりで、尊王を唱えながら元号と暦法を寸断し15歳の少年を持ち上げて洋装させる。
これが岩倉具視のやったことであり、廃藩置県、版籍奉還で強引に国土を出現させる。これが木戸孝允がやったことであり。
富国強兵を唱えながら、明治となった途端に対外派兵を繰り返す。半死半生状態だった朝鮮半島なんぞ割譲していったい何になるんだろう?
これは果たしてその後に出現した大日本帝国という存在を健全なものにし得ただろうか?

歴史は応えてくれている。しなかったのだ。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 22:06:00.89 ID:t8KTZKR30.net
>>282-283
未来人が「もしも」の話してもなあ
おまえさんがタイムマシンでそこへ行けるわけでもないし

逆におまえさんの理想の流れに乗った国は本当にできたのか?できたとして問題はなかったのか?
それを考えればどっちもどっちだと思う

そして、>地方の藩王をそそのかして…それが欧米の植民地化政策
と、そこを問題にするなら、地方の、辺境の周辺国が存在する事自体がいけないということになる
そういう国が存在すること自体が悪ということだろ
何百年も、ただ従順に従うことだけを強要するなら、それこそ国内の植民地政策みたいなものだ

立ち上がった藩の者達は、そういう自分達をこそ消すために既存の価値観と戦っただけなんじゃないかね
とすれば、やはり幕府の体制のままでは無理があったとうことになると思う

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 22:38:48.70 ID:KNDUeYgQ0.net
>>282アホすぎるなwwお前

「日本は外国の植民地になってたんだろうか?」
「ハッキリ言ってならなかったと言い切れるよ」

じっさいに対馬がロシアに侵略占領されてたんだけどな
それに対し幕府は自力でロシア撤退させられなかったんだけどな

草不可避だボケww

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 22:41:07.47 ID:UcE3Pz/m0.net
>>283
> 「はたして日本は、19世紀末の時点で統一国家である必要があったのか?」

あったと思うよ。というか、薩長も幕府側の人間も、必要と考えていたろ。
一番強烈にそれを認識していたのが幕府の外国奉行じゃないか?

幕末で一番最悪なルートって、安政の時点で朝廷が開国方針になることだと思ってる。
諸藩が先を争って開国・開化した場合、発生しうる事態を考えてみるといい。
欧米が日本に軍事的に侵略するメリットなんかないし、軍事的に敗北して植民地になる
可能性はほぼないけどね。
破産寸前の大名がよそに借金して国土やインフラ施設の権利を売りとばす可能性は大いにある。
おまけに、日本/外国で足並みそろえてくれればいいけど、ある藩はイギリス・ある藩はアメリカみたいに
個別に関係結び始めたら、欧米の国際関係の拗れがダイレクトに日本に影響してくるわけですが。

で、諸藩と外国の間に問題が発生した場合、幕府はちゃんと責任とれるの?
とれなかったよね? 薩長を抑えることも、薩長の側に立って外国に立ち向かう事もできなかったよね?
賠償金を肩代わりして、体面保つことしかできなかったよね?
だからこそ、薩長とイギリスが直接結びつくことになったわけですが。

慶応年間の長州の割拠政策や薩摩の対外政策を批判するのは、妥当とは思うけど
幕末のあの展開を、薩摩がー長州がーとか、攘夷派がーっていうのはどうかと思う。
別に薩長が問題起こさなくても、開国が進めば何処かしらで問題が発生したでしょうよ。

だからこそ、版籍奉還・廃藩置県で己のバックボーンである薩長および雄藩をただの地方にした
新政府は偉いんだろ。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 22:45:43.73 ID:UcE3Pz/m0.net
>>285
しまった、ポサドニック号事件のこと忘れてたわ。

小栗はあっさり処刑されてしまったけど、生き延びた場合、廃藩置県みてどう思うか
感想聞いてみたくなる。

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 22:54:46.20 ID:veFA4RDE0.net
まとめると

西郷大久保木戸でいいというところが着地点と、なる。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 23:02:32.49 ID:UcE3Pz/m0.net
よくよく考えてみると、一周廻って妥当な感じしてくるよな。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 23:18:25.87 ID:lpUJ7Z+o0.net
>>282
幕府にも武器弾薬売りつけてるやんけw
朝鮮半島の介入は将軍慶喜時代にフランスと約束したことが発端やっちゅーねんw

クソ長文で無知さらしてダッサwwwww

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 23:42:07.67 ID:KNDUeYgQ0.net
>>283
明治天皇(祐宮睦仁親王)践祚した時は、岩倉具視の御所出禁まだ解かれてないんだけどねww
その時に宮中を牛耳ってたのは佐幕派の二条斉敬関白(摂政)なんだけどねww

アホなくせにしょうもない工作してんじゃねーよww

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/12(日) 23:58:15.18 ID:KNDUeYgQ0.net
慶喜厨が逃げてから ID:AcwMi1Jv0みたいに維新失敗を連呼するアホが湧いてきてるようだな

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 00:48:16.08 ID:8+XqeylM0.net
もっとまったりやってくれよ、うぜぇ

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 02:46:11.28 ID:L7B9wQUc0.net
人間は思考の外にある言葉を耳にするとヘラヘラ笑い出すものだ。考えが及ばない、という事です。
一度でも想像してみたらいい。もしも統一国家日本が出現しなかったなら?という可能性も。
案外、それほど悪くもならなかったと思える。もちろん、これは「未来人の俺」の後付けに過ぎないが。

>>286
一言で切り返すなら(そうなったかどうかはまた別の話だが)、日本列島それぞれの地域がそれぞれの外国と手を結び、
その結果として日本国というひとつのネイションが出現しなかったとしても(これも恐らくそんな事には第二次大戦の頃までには統合が進んでいくと思うけど)、
それでその後に発生した日本という国家に引き起こされた悲劇を回避できていたとしたら、そのほうが良かったのでは?

で、対馬が占領されたと騒いでいるが、されてないね。さらに言えば対馬国は対馬国である。その後ロシアと彼の地の人々が友好的な関係を結べたのであれば
何の問題も無かったであろう(極めて薄い可能性であり、本国政府の意図と無縁の一戦艦の越権行為なんぞその後の歴史には何の影響も及ぼさないと思うけど)。
むしろ露による対馬の一時的占領という事件が江戸幕府のゆるやかな全国統治という形態に与えた影響は確かに大きかったのだろうな。

>>291 
小御所会議。以上。俺が岩倉が長州人の少年を天皇に祭り上げたとか陰謀論言い出してるとか思ってんの?

維新は失敗だったと言い得る根拠はいくらでもある。だから、そもそも傑物が19世紀末の日本をリードしたとは考えられない、という視点も当然あるという話です。
これからは、例えば大久保西郷木戸が三傑で妥当ってんなら、その根拠を書きなよ。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 03:24:59.88 ID:8+XqeylM0.net
敗戦の原因が維新にあるというのはあまりに短絡というか結論ありきだろう

俺は大正デモクラシーの平和ボケが大きいと思ってる
昭和の軍閥ひきいてるのは東北出身だしさ、石原にしろ東条にしろ

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 03:36:18.67 ID:8+XqeylM0.net
なぜなら、天皇は226や満州事変を嫌悪して見てたのに、これに好意をもって迎えたのが
さわぎたてた新聞、煽られた国民であるし、その大衆のうねりを政治に反映させてしまったのが普通選挙法だからな
大正期の言論は冷戦期のそれとほとんど同じで、資本論を底本にした社会主義者や共産主義者による今となっては自称
”合理的”な社会システム論ばかりがもてはやされて、英米の自由主義が批判されている状況で
貧困をどうにかすべしという熱狂の中で、低レベルなイデオロギーでしか物事を見られない全体主義がはびこっていった。

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 04:18:35.78 ID:RHi+qwF+0.net
支離滅裂になってきたな ID:L7B9wQUc0

「対馬が占領されたと騒いでいるが、されてないね」
ってドヤってるくせに
「露による対馬の一時的占領という事件」
ってキチガイかよww

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 05:36:19.11 ID:CVxs/lTl0.net
>>294
それ思考とゆーより妄想なww
「想像してみたら」とか「もしも」とか「回避できていたとしたら」とか、
たらたら連呼してアホ丸出しだっつーのwwここ近代の歴史板なんだよ

起きた事実から目を背けて、起きてないことを妄想するから笑われるんだよww

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 05:48:40.86 ID:L7B9wQUc0.net
>>297
対馬国領内での、本国政府の意図とは無縁に行われたロシア艦艇乗組員による一部地域の極短期間の一時的占拠、と書くといいのかな?
いいから、君は一生笑ってろよ。そしていかに維新の元勲が偉大であって三傑は誰であったか論拠を交えて開陳してなさい。


>>298
起きた事実に目を向けると、維新と呼ばれる時期は尊王は革命の御旗にすげ替えられないがしろにされて攘夷は開国へと180度変わり、
日本の伝統文化を護るとか言いながら極端な欧化政策へ狂奔してこの地に根付いていた様々な文化文明を破壊荒廃させたんだよな。
そして挙句の果てに待っていたのは外国軍隊による占領支配でありそれは今もって続いているのだ。大した成果だね。
これ、どこが素晴らしいの?まずこのあたりから説明してよ。

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 06:29:50.72 ID:CVxs/lTl0.net
>>299

外国軍隊による占領支配は維新と呼ばれる時期じゃないだろww
領事裁判とかはあったけどなw徳川幕府時代からだけど

日本語も平がなも守られてるし、大規模移民も受け入れてないから、極端な欧化政策へ狂奔もしてない
そもそも欧化政策はじめたのは維新前からだしなww

徳川幕府時代に結んだ不平等条約を明治政府が改正してんだから攘夷実現してるんだよ
だから攘夷と開国も全く矛盾しない

お前ごとき低能がなんぼ妄想しても維新をけなすのは無理なんだよww

「その後ロシアと彼の地の人々が友好的な関係を結べたのであれば
何の問題も無かったであろう」
↑↑↑↑↑↑↑↑
こんなことを妄想してるようではなwww

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 17:58:32.10 ID:8It9dEpB0.net
現状に満足できないから過去の分岐点までさかのぼって独自の妄想で責任回避をしたいだけなんだな。
未来を変えてみろよ。そうすれば維新が輝いてくるからw

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/13(月) 18:58:03.41 ID:L7B9wQUc0.net
明治維新ってのがいかに素晴らしいか自分の言葉で語ってからそのうえで三傑ってのを根拠を立てて書きなさい。以上。


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