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Martin Heidegger 1889-1976

1 :Wegmarken:2014/04/08(火) 04:17:18.63 0.net
1889年9月 標高600mの小さくてきれいな町ドイツのメスキルヒで生まれた 。
1911年 フライブルク大学で神学から哲学に専攻を変更。
1919年 フライブルク大学でフッサールの助手となり教壇に立つ。
1920年 フッサール邸にてカール・ヤスパースと出会う。以後ナチ加担による中断を
はさみながら戦前は互いに往来し戦後は往来はないものの1963年まで文通は続いた。 
1924年 学生ハンナ・アーレントと既婚のハイデガーの愛人関係が始まる 。
1927年 『存在と時間(有と時)』前半部が「現象学年報」第8巻に掲載。同時に別刷刊行。
なお「前半部」の前置きは1953年第7版以後は削除された。
1933年 フライブルク大学総長となる。
1933年 ナチに入党 。
1934年 ハイデガーの進めたナチ化改革により学内が混乱し総長を辞任。
1938年 『哲学への寄与』(刊行は没後)
1946年 ハイデッガー裁判の結果、大学の職務と講義の停止命令が下された。『「ヒューマニズム」に関する書簡』
1951年 名誉教授として大学に復帰。
1959年 『放下』
1961年 『ニーチェ』上下2巻
1962年 『技術と転回』
1975年 ドイツでハイデガー全集刊行開始。第1回配本は第24巻『現象学の根本諸問題』
1976年5月 フライブルクにて逝去 。

2 :考える名無しさん:2014/04/08(火) 04:43:55.26 0.net
例の反ユダヤ発言を集めた本が出たんだっけか

3 :考える名無しさん:2014/04/08(火) 08:07:01.34 0.net
検索できないスレタイで立てるなよ馬鹿が

4 :考える名無しさん:2014/04/08(火) 09:14:46.92 0.net
丸珍這出蛾

5 :考える名無しさん:2014/04/08(火) 11:52:27.51 0.net
Heidegger, Martin 1927 
Sein und Zeit
 (http://www.amazon.com/dp/3484701536/
  http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html

存在と時間 邦訳
桑木務 訳 旧岩波 1960-3
細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994
松尾啓吉 訳、勁草書房、1966-69
辻村公一 訳(有と時) 河出1967,創文社1997
原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003
熊野純彦 訳 岩波 2013
高田珠樹 作品社2013

6 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 00:25:02.62 0.net
Martin Heidegger Critiques Karl Marx - 1969
http://jp.youtube.com/watch?v=jQsQOqa0UVc
ハイデッガー
(略)社会の変革などということがいったいどこまでいえるのかということも問題です。
世界変革の要求を問題にするとすれば、結局、しばしば引用されるカール・マルクスの
『フォイエルバッハに関するテーゼ』にある例の命題にまでさかのぼらねばなりません。
その命題を正確に引用して読み上げてみましょう。「哲学者たちは世界をいろいろと解
釈したにすぎなかった。大事なことは世界を変革することだ。」
この
命題を引用し、そしてまた特にこの命題に従って行動する場合、人は、世界の変革とい
うものを前提としており、世界表象というものを十分に解釈することによってのみ得ら
れる、とうことを見のがしています。
つま
りマルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、そのうえで世界の変革を要
求しているのです。だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとはい
えません。この命題は決然として哲学に反対しているかのように見えますが、じつはこ
の命題の後半には言わず語らずはっきり一つの哲学を要求する態度が前提とされているのです。
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp78-79)

7 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 00:29:21.76 0.net
ハイデッガー「ヘーベル 家の友」より

http://jp.youtube.com/watch?v=9_vYz4nQUcs
Heidegger Speaks. Part 1. English subtitled.
(冒頭の2分)

情報の一つの道具としての言語についてのイメージは、今日極端なものにまで推し進め
られています。(略)
言語に対する人間の関係は変化しつつあり、その変化の射程を我々はまだ見極めてはい
ません。この変化の進行も、それを直接押しとどめることはできません。しかもその進
行は、きわめて静かに行われています。
なるほど我々は認めざるを得ないのですが、日常に於ける言語は了解の一手段のように
思われており、このような手段として、生活の通常の諸関係に対して利用されています。
しかしながら、通常の諸関係が他にあるのです。ゲーテはこの別の諸関係を「より深い
(諸関係)」と呼んで、言語について次のように言っています。
「普通
の生活では、我々は言語に関してぎりぎりの暮らしをしている、何故ならば、我々は表面
的な諸関係しか言い表さないからである。より深い諸関係が話題になるや否や、直ちに別
の言語、ポエーティッシュ(詩的)な言語が現れる。」(作品集第二部、第11巻、
ワイマール1893年、167頁。)

「ヘーベルーー家の友(1957年)」(邦訳『ハイデッガー全集13、思惟の経験から』p186より)

8 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 00:30:15.67 0.net
ハイデッガーは語る1969年

heidegger on future of philosophy (english subtitles)
http://jp.youtube.com/watch?v=MZkYMwmMS4k
思惟の運命がどういうふうなさまになるかは誰にもわかりません。
私は1964年にパリで「哲学の終わりと思惟の使命」という講演をしました。もっと
もこれは私がでかけて行って自分でしゃべったのでなく、フランス語に翻訳してもらっ
て皆さんの前で読んでもらったのですが。この題からもおわかりのように、私は、哲学
すなわち形而上学と、私が解しているような意味での思惟との間に一つの区別を設けて
いるのです。
この講演の中で私が哲学と区別し対照して置いている思惟------この区別、対照は特に
ギリシア的アレテイア(真理)の本質を明らかにしようという試みがなされることによ
って生じるのですが------この思惟は、事柄から言えば、形而上学との関係においては
哲学よりずっとずっと単純です。しかし単純だからこそ実行においてはずっとずっとむ
ずかしいのです。
そしてそのためには、言葉というものを今までとは違った意味で慎重に扱わねばなりま
せん。ただしこのことは、私自身もかつては考えていたことのある新しい述語の発明と
いうことではないのです。そうではなくて、われわれ自身の国語でありながら、だんだ
ん枯れてゆくような状態にありつづけている言葉の根源的な内実へと帰ることなのです。
誰か将来の思惟する人が、たぶん、私が準備を試みているこの思惟を真に受け継ぐとい
う使命の前に立たされるでしょう。その人に対しては、かつてハインリッヒ・クライス
トが書いた一句が述べているのとぴったり同じことがあてはまるでしょう。その句とい
うのは次のようなものです。「私は、まだここにいるのではないひとりの前で後ずさり
し、その人の精神のまえにひざまずく。」
『ハイデッガーは語る』(1973年、理想社、pp89-90)

9 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 03:58:44.46 0.net
始源の思索: ハイデッガーと形而上学の問題 (プリミエ・コレクション) 田鍋 良臣 (2014/4/8)
哲学とナショナリズム―ハイデガー結審 中田 光雄 (2014/4)
ハイデガーとトマス・アクィナス ヨハネス ロッツ、 村上 喜良 (2014/1/31)
始めから考える―ハイデッガーとニーチェ (九州大学人文学叢書 6) 菊地 惠善 (2014/1)
ヤスパースとハイデガー―形而上学のゆくえ (西洋思想叢書) 堤 正史 (2014/4/8)

研究書が次々にでる。層が厚い。アマチュアでも詳しい人多いし。
日本人はハイデガー好き過ぎる。

10 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:25:42.11 0.net
【例】

 波平がパクリスレ『ハイデガーについて語ろう』等を立てたとする
             ↓
  波平、ガダマーが分からない
             ↓
 瞬時に新スレ『ガダマーについて語ろう』等というスレを匿名で立てる
             ↓
 で、また「現存在」「存在者」とかがわからない波平
             ↓
 瞬時に『現存在と存在者の違いについて』等と勝手に立てる
             ↓
 また、「存在了解」が分からない波平
             ↓
 瞬時に『存在了解とは何か?』を立てる
             ↓
           無限に続く

11 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:30:34.80 0.net
下の例だと@〜Cで計四つの波平によるパクリ用スレが立てられるが、
最後に残るのはCだけで他の三スレは下に沈んで二度と使われないw

これが哲学板の下位400件のスレの主な内実w


【例】

 @波平がパクリスレ『ハイデガーについて語ろう』等を立てたとする
             ↓
  波平、ガダマーが分からない
             ↓
 A瞬時に新スレ『ガダマーについて語ろう』等というスレを匿名で立てる
             ↓
 で、また「現存在」「存在者」とかがわからない波平
             ↓
 B瞬時に『現存在と存在者の違いについて』等と勝手に立てる
             ↓
 また、「存在了解」が分からない波平
             ↓
 C瞬時に『存在了解とは何か?』を立てる
             ↓
           無限に続く

12 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:37:18.08 0.net
こういう勢いで立てるので同じ哲学者のスレでも
波平が疑問に思った数だけパクリ用のスレッドが立てられるので
同じテーマの重複スレ数が鼠算式に増えていく

【例】

 波平がパクリスレ『ハイデガーについて語ろう』等を立てたとする
             ↓
 名無しで「解釈学って何?」と質問し「ガダマーだよ」と答えられる
             ↓
 波平、ガダマー自体が分からないので更にパクリスレを立てる
             ↓
 瞬時に新スレ『ガダマーについて語ろう』等というスレを匿名で立てる
             ↓
 で、また「現存在」「存在者」とかがわからない波平
             ↓
 瞬時に『現存在と存在者の違いについて』等と勝手に立てる

13 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:43:05.54 0.net
波平の言ってる事なんざ、大体他の人が書いたブログとかの丸写しだからな↓

> まず1つ目は、ラカニアンによって理論の解釈が違うこと。
> それだけ成熟した理論だと言う証拠なのかも知れないが、素人にとっては大問題。
> とりあえずは自分の一番納得できるものを選ぶのがいいと思う。
http://overkast.jp/2011/06/%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%89%8B%E9%A0%86-1/

                ↓ パクリ

> 931 :霊姑浮 ◆5JB5Td0w.M :2013/10/30(水) 20:06:58.73 O
> 最初にもどればなぜラカンは分かりにくいのか
> ようするに通常の哲学のように理解できる体系になってないから。
> ではどうすればよいか。
> とにかく自分が気に入る解説本をさがすこと。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1336134926/931

14 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:45:18.51 0.net
@波平が何か疑問を持つ
 > 525 :リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/26(土) 19:06:45.93 0
 > 橋下のなにが間違っているのか?
           ↓
A他人に答えさせる為に質問スレを乱立する
 橋下のなにが間違っているのか?
 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1338031269/
           ↓
Bパクった結果を自分のブログにアップする

15 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:47:08.03 0.net
> 528 :リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/26(土) 19:10:30.49 0
> ネットウヨという思考停止に勝つ方法
          ↓他人に考えさせてパクる為にスレ立て
 ネットウヨという思考停止に勝つ方法
 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1338031313/

> 525 :リーマン小太郎 ◆JXLBbnYqTY :2012/05/26(土) 19:06:45.93 0
> 橋下のなにが間違っているのか?
          ↓他人に考えさせてパクる為にスレ立て
 橋下のなにが間違っているのか?
 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1338031269/

16 :考える名無しさん:2014/04/09(水) 05:49:06.28 0.net
波平が立てたパクリ用ステマスレは一時的に立てられるが、
何か不都合があるとすぐにそのスレを捨てて新スレを立て、
その後、波平が立て捨てたスレは二度と使われないこれが哲学板の
下位400件を占めている「波平の使い捨てパクリ用スレの残骸」w

> 261 :し:2014/03/16(日) 18:54:51.13 0
> 自己は常に自己が何者であるかという自我同一性を失っている。
> 自己は他者の目に映った自分を常に探り、「私の存在を、存在すべき
> 必然性をもったものとして構成できる」かを他者の言語から見いだそう
> としているのである。
【大文字の】ラカン【他者】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1381829444/261
               ↓
> 8 :1:2014/03/17(月) 21:55:30.10 0
> 自己は常に自己が何者であるかという自我同一性を失っている。
> 自己は他者の目に映った自分を常に探り、「私の存在を、存在すべき
> 必然性をもったものとして構成できる」かを他者の言語から見いだそう
> としているのである。
精神分析学と臨床 in哲学板
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1395056419/8

17 :考える名無しさん:2014/04/12(土) 23:01:17.16 0.net
Heidegger, Martin 1927 
Sein und Zeit
 (http://www.amazon.com/dp/3484701536/
  http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
                     § 35. Das Gerede

存在と時間 邦訳
寺島實仁訳三笠書房1939~40は未確認    第三十五節 空談(噂話)
桑木務 訳 旧岩波 1960-3          第三十五節 おしゃべり
細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994    第35節 世間話
松尾啓吉 訳、勁草書房、1966-69       第三五節 空談
辻村公一 訳(有と時) 河出1967,創文社1997  第三五節 空話(雑談)
原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003  第三十五節 空談
熊野純彦 訳 岩波 2013          第三五節 空談
高田珠樹 訳 作品社2013          第三十五節 巷談

18 :考える名無しさん:2014/04/19(土) 23:31:59.14 0.net
 結局クロスターマン全集第2巻で『有と時』をハイデッガー所有の「書き込み
本」の書き込みを入れちゃった。でかつて出してた渡辺二郎訳の中央公論社が
その書き込みを取り入れて改訳させた。細谷貞雄はもう他界しててそれはしない
けども桑木訳から刷新したい岩波ではやはり書き込み入りのものを出したかった
だろうからその意味もあると思う。つまり文体(「です・ます」調)の刷
新と書き込み入り。高田珠樹訳の出版意図のほうがむしろ分かりにくい。

19 :考える名無しさん:2014/04/24(木) 11:43:14.66 0.net
http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja12586788v.htm
『存在と時間』、その翻訳を巡って−『存在と時間』とは何か
講演とディスカッション
2014年11月24日(月・祝)16:00
東京ドイツ文化センター図書館
日本語
参加無料、要参加登録
03-3584-3203
yoshitsugu@tokyo.goethe.org

2013年、ハイデッガーの『存在と時間』の新たな邦訳が刊行されました。熊野純彦訳の岩波文庫版(全四巻)と、
高田珠樹訳の作品社版(全一巻)の二冊がそれです。寺島実仁訳の三笠書房版(全二巻、1939-1940年)、桑木務訳
の岩波文庫版(全三巻、1960-63年)、松尾啓吉訳の勁草書房版(全二巻、1960-66年)、細谷貞雄訳のちくま学芸
文庫版(前理想社版・全二巻、1963-64年/1994年)、辻村公一訳の創文社版(前河出書房新社版・全一巻、1967年
/1997年)、原佑・渡邊二郎(中央公論社、全三巻、1971年/2003年)とあわせると、全部で八つの邦訳が刊行
されたことになります。古典と呼ばれる哲学書や思想書には複数の邦訳が刊行されていますが、原著の刊行(1927
年)からまだ一世紀もたたない時点でこれほどの数の邦訳が刊行されているのは、稀なことで、世界でも日本
以外にはないでしょう。それはまた、『存在と時間』がわが国の哲学・思想界に与えた影響の深刻さを物語る
ものとも言えます。この二つの新たな翻訳が出版された機会に次のように問うてみるべきでしょう。

20 :考える名無しさん:2014/04/24(木) 11:44:56.09 0.net
1. 日本にこれほどの影響を与えたこの著作の力はどこからくるのか。
2. 繰り返しこの本を翻訳する試みはどのような意味を持っているのか。
3. 新しい翻訳と古い翻訳の違いはどこにあるのか。
4. どのような理由で翻訳者は、この著作を翻訳するという課題を引き受けたのか。
5. 翻訳に際して、翻訳者はどのような点に注意をはらったのか。
6. 翻訳者は、他の翻訳に関してどのような考えを持っているか。
7. 『存在と時間』は哲学の将来にとってどのような意味を持っているのか。
等々。

このような問いを問い、議論するために東京ドイツ文化センターはハイデガー研究会の全面的協力をいただき、
『存在と時間』の翻訳を巡ってシンポジウムを開催することにいたしました。『存在と時間』の新たな翻訳の
翻訳者、高田珠樹(大阪大学)氏をお招きして、翻訳の観点から、また思想内容の観点から『存在と時間』につ
いてお話いただきます。これに続けて、コメンテーターとして池田喬氏(明治大学)と齋藤元紀氏(高千穂大学)に
ご参加いただき、議論を展開し、徹底した意見交換を行います。司会は陶久明日香氏(学習院大学)が担当いたし
ます。20世紀最重要の哲学書について自由に議論できる貴重な機会です。ふるってご参加ください。

21 :考える名無しさん:2014/04/24(木) 11:45:34.69 0.net
プログラム
16:00 開会の挨拶
16:10 高田珠樹氏講演
17:00 休憩
17:10 セッション1 池田喬(明治大学)
17:50 セッション2 齋藤元紀(高千穂大学)
18:30 休憩
18:40 全体討議
19:30 終了
司会: 陶久明日香(学習院大学)

高田珠樹氏略歴
1954年、福井県生まれ。1976年、大阪外国語大学ドイツ語学科卒業。1981年、京都大学大学院文学研究科博士
課程哲学専攻単位取得。現在、大阪大学教授。
著書:
『ハイデッガー・存在の歴史』講談社
『現代思想の冒険者たち』第8巻(1996)
翻訳:
スローターダイク『シニカル理性批判』ミネルヴァ書房(1996)
『フロイト全集』第7巻、11巻、15巻、20巻
ハイデッガー『アリストテレスの現象学的解釈』(2008) 他

22 :考える名無しさん:2014/04/24(木) 17:35:33.60 0.net
 ハイデッガー研究者はすべからく内実は現代市民社会の同調者であ
り、ましな人間でも結局言説は外部には出られない。ハイデッガーは
その手の人間にまとめ切れる代物ではない。『哲学への寄与論稿』を
特殊な語彙で書かれた意味不明の代物としか読めない時点でそれは
明白になっている。ハイデッガー自身が『有と時』は有 Seyn への
問いに向かう途中であり、そのための基礎存在論であると明言して
いる。『有と時』にいつまでも停止しても無意味である。かといって
最も過激な側面に触れる気もない以上、ハイデッガー研究なぞと
銘打っても現在の最暗部には触れない机上の議論に終始するしか
ない。もう見えている。

23 :考える名無しさん:2014/04/26(土) 02:53:52.28 0.net
こういう批判者はまさに市民社会的

24 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 00:27:42.78 0.net
>>23
「こういう批判者はまさに市民社会的」という意味が良く分からないな。

。ハイデッガーは、常識から脱-離する瞬間について有 Seyn の呼び声に耳
をすまし根源で応答すること、と名づけている。それは絶望をもたらし
不幸である。これらを偏見なく理解するには市民社会的感性からそれこそ
離脱できなければならない。脱-市民社会的でなければならない。24レスに
よれば、しかし「こういう批判者はまさに市民社会的 」だとしたら?

 非Aを思考すること、非Aとして存在することを論じている思考したいし
、「こういう批判者はまさにAである」となればそれなりの根拠が提示され
なければならないはずだが。

 24レスは日本語がわかる人間なのか?(笑)

25 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 03:47:42.79 0.net
>>24
あんたが脱市民社会的な特権者には全然みえないということ
昔からオルテガ引用する奴は大衆と決まっているが、
そのたぐいにすぎない

26 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 07:04:03.62 0.net
>24レスは日本語がわかる人間なのか?(笑)
いちいちこういう捨て台詞を吐かないと気が済まない幼稚な人間だな

27 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 11:34:12.04 0.net
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに
よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、
価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真
理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが
どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組
みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。
それは好運と呼ぶべきことで、市民社会的な常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、
時代の真理に盲目である。

28 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 11:36:23.15 0.net
市民市民うるさいよ
ハイデガーはあんたの保守思想の器じゃないから

29 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 20:36:01.15 0.net
>>25
 私が「脱-市民社会的な特権者」なわけがない。そもそもハイデッガーは
個体としての人間と主体を同一視していない。脱-市民社会的なものがある
としたら有 Seyn の領野。それは個体とまったく同一、ではない。ハイデ
ッガーにおける脱-市民社会的領野を語ることは有 Seyn の領野を語る
ことで、むしろそれは理性の外部を語ること。語る人間自体はただの
市民だ。しかし語れることと語れないことが市民の質を変えるということ
だけだ。理性の外部をハイデッガーが語っていることが意識できない
研究者をよって私は弾劾しているにすぎない。それでは『哲学への寄与
論考』を語る意味はない。

 26の発言だけでハイデッガーを読んでも分からなかったこと、あるいは
読んでもいないことはよく分かった。
 

30 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 20:39:28.79 0.net
 しかも『有と時』は基礎存在論として『哲学への寄与論稿』の途中
としての意義であるとハイデッガーは断っている。いつまでも『有と
時』に拘泥する意味はもうない。学者の限界をさらしているだけのこ
とだ。

31 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 22:48:50.16 0.net
宇宙人の乗り物という意味でのUFOは
誰も存在しない事を証明していないんだから証明しているんだ!
っていってる人みたいだな、このおっさん

32 :考える名無しさん:2014/04/29(火) 22:50:54.95 0.net
2chでしか発表する場がないんだろう
好きにさせてやれや

33 :考える名無しさん:2014/04/30(水) 00:29:11.63 0.net
>>32
 そういうことはいいから貴方はハイデッガーを読んだのか?何を読んだの
か?その上で具体的に>>22などの説が誤っているのかを語るべきだろう。
2ch.というスペースを使ってなら言えることは他にもあるだろう。

 ちなみに名前は控えるがあるハイデッガー研究家にも尋ねたことがある。
研究家「『哲学への寄与論稿』は「終わりを描いていると思います。そこ
で色んな読み方がでてくる余地がある。今の日本にも文明の終わりの風景
が出てきているからです」
私「存在忘却の忘却が今だと思うんですけど、そこでハイデッガーの言う
とおりになってきた」
研究家「そういうふうに読めるということです」

要点でいえばそういう回答。しかしアカデミズムからの回答としてはずば
抜けて率直。この人は流石だなと思わないわけにはいかなかった。しか
しここまで言えるのならばもう『有と時』にいつまでも拘泥する時期では
ないと言ってくれてるようなものだ。この研究者は立派だし、でも自分
に言えるのはここまで、という感じもあった。若い20-30代の研究者は
しかし感覚的に上の研究家の話も分かるだろうから、これからのハイデッ
ガー研究の方向としてくみ取っていくべきだと思う。

34 :考える名無しさん:2014/04/30(水) 00:36:09.90 0.net
それで何が出てくるんですかねえ・・・
そんな似非宗教にはまるぐらいなら
千年以上の歴史がある宗教に本気で身を投じた方がよっぽどマシ

35 :考える名無しさん:2014/04/30(水) 03:02:13.53 0.net
>>34
>そんな似非宗教にはまるぐらいなら

『哲学への寄与論稿』が似非宗教という意味かな。私はそうは思わない
。あれを研究した評論はいくらか読んでるがどう読むべきか戸惑って
いる感はあるが「似非宗教」はない。また私に話した研究者もそういう
ニュアンスとはかけ離れている。いずれもあそこには重大なことがある、
そういう予感で接している。

36 :考える名無しさん:2014/04/30(水) 06:08:34.83 0.net
マルちんマルちんハンバー( ・ㅂ・)ؤ ぐッ!

37 :考える名無しさん:2014/04/30(水) 06:14:04.42 0.net
マルちんマルちんハンバー( ・ㅂ・)ؤ ぐッ!

38 :改訂版:2014/05/07(水) 00:38:28.83 0.net
Heidegger, Martin 1927 
Sein und Zeit
 (http://www.amazon.com/dp/3484701536/
  http://www.filestube.com/80854927318d0aa403ea,g/Heidegger-Martin-Sein-und-Zeit.html
         訳語例: § 5.(Temporalitaet)熊野版第一巻141頁に解説あり、§ 35. Das Gerede

存在と時間 邦訳
寺島實仁訳三笠書房1939~40    (覺時性) 、第三十五節 空談(噂話)
桑木務 訳 旧岩波 1960-3      (存在時間的(テンポラル)規定性) 、第三十五節 おしゃべり
細谷貞雄 訳  理想社1963,ちくま1994    (時節性) 、第35節 世間話
松尾啓吉 訳、勁草書房、1960-66     (時性) 、第三五節 空談
辻村公一 訳(有と時) 河出1967,創文社1997  (とき的規定性)河出,(テンポラリテート)創文 、第三五節 空話(雑談)
原佑、渡邊二郎 共訳 中公1971,中公2003  (存在時性) 、第三十五節 空談
熊野純彦 訳 岩波 2013          (有時性) 、第三五節 空談
高田珠樹 訳 作品社2013       (時節性) 、第三十五節 巷談

39 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 00:47:31.05 0.net
>>6
>マルクスはまったく明確な一つの世界解釈を地盤として、
>そのうえで世界の変革を要求しているのです。
>だからこの命題は決して基礎づけがしっかりなされたものだとは
>いえません。

これは間違えています。
基礎づけはしっかりしています。

40 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 00:52:08.58 0.net
ハイデガーの「世界」概念前提だから食い違う

41 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 01:54:34.01 0.net
http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1259.html
 この言葉(=Ereignis,性起)にハイデッガーが憑かれたのは、ヘルダーリンの
「ムネモシュネー」に由来するといわれている。

 
 Lang ist
 Die Zeit, es ereignet sich aber
 Das Wahre.


 時は
 永い、だが真なるものは
 出来事として生じる。

参考:http://asasinblr.tumblr.com/post/23942071122

この認識はマルクスと同じだ。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/kotobasyu/meiriron/top.html
マルクス『資本論』第1部24章より
「そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。」

つまり観念論と唯物論は一致し得る 。最後の神は最後の鐘に対応する。属性が違うだけだ。

「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
  スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

42 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 02:25:31.03 0.net
>>40
>ハイデガーの「世界」概念前提だから食い違う

 まったくそのとおりで、ハイデッガーが「世界」という語彙を使う
場合、大きく分けて‘有るものの全体’という意味ともうひとつ、
‘現有がそこから時熟し将来する内在’という意味がある。

 われわれが通常使う語彙は前者だが後者は日常的にはない。なぜ
この意味を提起したかがハイデッガーの問題意識を表している。また
ハイデッガー思想が強迫観念的に吸収する善や正義や真理にたいし
解毒剤たりうる理由もそこにある。

 詳しくはハイデッガー全集第9巻『道標』p.193によく書かれている

《世界は全体性として、如何なる有るもので「有る」のでもなく、
現有がそれ自身を如何なる有るものへ関わり合せ得るか、そして
如何なる仕方でその有るものへ関わり合わせ得るかということに
関して、そこから現有がそれ自身に指示を与えるところのものである
。》

《現有は世界から現有自身-へ-将来するというこのことの内で、現有
は自己として、すなわち、それで有ることが彼に委ねられている
ところの有るものとして時熟する》

43 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 22:32:11.36 0.net
邦訳ハイデガー用語の「なんとなく深遠な感じ」に誤魔化されてるだけにしか見えないんで
もう少し普通の日本語で言い換えてみて下さい

44 :考える名無しさん:2014/05/07(水) 22:51:31.26 0.net
ハイデガーの『存在と時間』第42節に以下のような神話が引用されており、
その他者への気遣いをめぐる考察が福祉関連の人びとに参照されている。


クーラ(気遣い)の神話
in Hyginus’ Fabulae ヒュギーヌスの寓話より

昔、クーラ(気遣い、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。
クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。
すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテル(ジュピター、収穫)がやってきた。
クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを
成し遂げた。
クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、
ユピテルはそれを
禁じて、それには自分の名前があたえられるべきだ、と言った。
クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、
自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前こそそれにあたえられるべきだ、と求めた。
かれらはサトゥルヌス(クロノス、時間)を裁判官に選んだ。そしてサトゥルヌスはこう判決した。
ユピテルよ、お前は精神をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。
テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだを受け取りなさい。
さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このもの
を所有していなさい。
ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、
このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homoと呼ばれてしかるべきであろう。

45 :考える名無しさん:2014/05/08(木) 00:54:42.42 0.net
 花から種が落ち、種は成長し発芽し茎を伸ばしまた花を咲かせる。その
過程は傍からはどれも同じに見えるが実は一個一個の花によって微妙に
また大幅にまた分からないところで違っている。花自体にも自分が他者と
どう違うかは見えない。また自分が何者かは完全には見えない。また時間
とともに花の自意識は変貌する。あるいは成長過程でどの土地にいたか、
何と遭遇したか、どういう大気のもとに呼吸していたかによってもその
自意識は変貌する。併しそれはもともと種であった時に土中で
経験し孕まれていた何かの現成あるいは変成である。それが<既有的に将
来する>の意味である。<時熟>の意味である。

 そこにはある自然哲学がある。ハイデッガーのいう世界の-内に-有ること
は人間が歴史的な有るものであることの規定だが、そこには上記のような
自然哲学がある。また世界概念の詰め方がある。
 
 そこから世界の概念が、マルクスではまだ詰められていなかった。という
読み方が出てくる。そのためにそこで観念が個々の人間にたいし強迫的に
作用する要素を相対化することは内部ではなされない。また、世界概念の
不徹底は存在忘却を延長させ、人間を資本主義とは異なる仕方だが世界建設
のために消費される使用価値とする能力主義、効率主義が革命後も生き延び
てしまう事態を生む。

46 :考える名無しさん:2014/05/08(木) 02:51:59.57 0.net
ここでファシストとしてのハイデガーを擁護するなら
彼の民族主義はドイツ人であるとともにギリシアを志向していたと
いうことである
一国中心主義ではないのだ
その言葉の揺らぎ、移り変わりをテクストから読み取るべきだろう

マルクスもまたドイツからイギリスへと移った、、、
そのユダヤ人としてのアイデンティティの欠如は
ハイデガーから存在忘却と言われても仕方ないものだが
彼らは相補的とも言える

ハイデガーとマルクス、ベクトルは違えど両者に共通するのはその表象(代表制)批判である。

ちなみにナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党を意味する。

47 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 14:48:25.91 0.net
河村書店 ‏@consaba 5月21日
インタビュー・高田珠樹「比較的読みやすい訳になっているのではないかと秘かに自負しています。」(聞き手・米田綱路)M・ハイデガー『存在と時間』(作品社)|図書新聞|http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_2013_syohyou_3158_1-1.html

辻村先生は、かねがね自分の一度目の『有と時』の翻訳(河出書房新社、一九六七年)
について日本語としては不十分で不満だとおっしゃっていたので、二度目の訳は日本語
としてもっとこなれた、読みやすい訳になるものと思っていました。
 ところが、ふたを開けてみると、一度目よりもさらに難解で、予備知識のない人には
とてもじゃないが読めないものになっている。できるかぎり逐語訳に徹したと言うので
すが、率直なところ、通常の読者でこの翻訳を最後まで読み通せる人はまずいないと思います。

48 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 14:54:11.43 0.net
――訳語をめぐっては、研究者のあいだに強い呪縛があるわけですね。

高田 以前は、それなりに強かったですね。辻村先生のまわりでは、『
存在と時間』を『有と時』と訳すというのは鉄則というか当然の前提で
あって、「ザイン」を「有」ではなく「存在」と訳したりするのは、一
種の裏切りと映る。周囲だけでなく、本人もそう思う。ですから、か
つて『ナトルプ報告』(「アリストテレスの現象学的解釈」、雑誌『
思想』、一九九二年四月号、後に改訳して平凡社)を訳したり、『ハ
イデガー――存在の歴史』(講談社、一九九六年)を書いた時は、心
理的にこれがかなり負担でした。今回の翻訳ではさすがにそれはなか
ったですが、仮にもう少し翻訳が速く進捗して辻村先生の御存命中に
刊行することにでもなっていれば、正直、心苦しかったと思います。先生は四年前に亡くなられました。

49 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 15:20:02.36 0.net
先生が死ぬのを待って、翻訳を遅らせていたら、熊野に先を越されたでござる

50 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 20:54:19.05 0.net
>>47-49
ワロタ
京大出身の小野真も『死と言葉の施策』の論文提出時は「有」だったけど
出版するときは「存在」に変えたって書いてたな

51 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 21:05:52.67 0.net
 自分が最初に『Sein und Zeit』読んだのは1995年頃で、河出書房新社に
なる前の河出書房版世界の大思想『有と時』。古本だった。「存在」と
「存在者」の違いが分からなかった俺には「有」「有るもの」の訳はむしろ
ありがたかった。その後、創文社版も読んだが辻村本人の事情はさておき
この訳で不都合なところは皆無だった。ちなみに最初読んだときも学生では
ないし学派とは一切関係ない。
 
 木田元氏はこれの理解させる作業に苦心した1人だと思う。たしかに
木田さんのハイデガー本は面白いがあれでもまだ氷解しない語はけっこう
残ったと記憶している。典型的な1例をあげてみると、「存在了解」って
ある。辻村訳で「有の理解」。「世界内存在」と同じとか。何かがある。
を成立させる意味・関心の方向・情態の特徴・時熟。世界が現象することと
同じこと。存在了解と世界は同義とも言える。存在了解は「何かがある」
という現象と同じ。「何かがある」ことの驚きはハイデガーがよく問題に
していたがそれって存在了解であって彼の生涯の主題だった。そういうこ
ともすぐには分からなかった。木田さんの説明でも分からない。

 あと「存在」にしても「有」にしても、今の若い読者には分からないこと
ではそう変りばえしないと思う。俺みたいに「有」の方が分かりやすい、
という人もいる。これまでの翻訳史も知らない人が手にとって読むわけ
で、どっちかにこだわり持つこと自体、もう終わった問題に見えるんですね。
少なくとも大學の外にいる人間にとっては関係ない。大學進学率も下がって
いる今日この頃、これからはそのこだわり自体終わった問題になっていく。
そう思いますけどね。

52 :考える名無しさん:2014/05/23(金) 21:28:17.31 0.net
学が旧字なのはなんかあるの?

53 :考える名無しさん:2014/05/24(土) 02:24:14.68 0.net
大本薫 Kaoru Ohmoto ‏@sunamajiri 5月21日
岩波文庫熊野新訳と比較しているけど、確かに日本語として読みやすい。
@consaba 高田珠樹「比較的読みやすい訳になっているのではないかと秘かに自負しています。」(聞き手・米田綱路)M・ハイデガー『存在と時間』(作品社)|図書新聞|http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun_2013_syohyou_3158_1-1.html

54 :考える名無しさん:2014/06/16(月) 22:17:40.90 0.net
シェリング講義(木田元訳)買おうかどうか迷っとる

55 :考える名無しさん:2014/06/20(金) 09:00:13.59 0.net
永井均 @hitoshinagai1 · 6月17日
純文学と大衆文学があるように、純哲学と大衆哲学がある。『精神現象
学』や『存在と時間』が後者の典型だから難解さには関係ない。文学の
場合と同様、大衆〜の方が人生に直接役立つ。最終的なところで人々の
一般的通念におもねっているからだ。
永井均 @hitoshinagai1 · 6月17日
「おもねっている」という言い方が否定的にすぎるなら、「基礎を置い
ている」と言い換えてもよい。だからこそ役立つ。そこに疑問を持ち、
楔を打つ込み始めると、普通の人の人生には無縁のものになっていくだ
ろう。が、どんなジャンルでもそうだが、哲学も本当に素晴らしいもの
になるのはそこから先だ。

56 :考える名無しさん:2014/06/24(火) 08:09:44.85 0.net
永井均 @hitoshinagai1 · 6月20日
「純哲学」の典型は『純粋理性批判』だが、理由は批判が三分割されているこ
とにあるかもしれない。もし三批判が一つの本だったら少々エンターテイメン
ト化するだろう(『精神現象学』ほど通俗化するわけではないが)。批判哲学
も体系(=物語)として見るとかなり「大衆哲学」化する。

57 :考える名無しさん:2014/06/27(金) 21:36:23.03 0.net
千葉=文筆活動で有名+ネットの発言でも影響大
かわいいガールのひと=ネットでわめくだけの無名

同じ年でどうしてこれ程の差がついたのか、傲慢、慢心の相違…

58 :考える名無しさん:2014/07/01(火) 10:44:40.79 0.net
かつてクーラ〔気遣い〕は川を渡るや、粘土の土地を見つけた。
思いにふけりつつクーラはその一塊を取りあげ、形づくり始めた。
すでに作りあげてしまったものに思いをめぐらしている間に、ユピテルがやって来た。
ユピテルにクーラは、形をえたその一塊の粘土に精神を授けてくれ、と願い、ユピテルはよろこんでその願いをかなえてやった。
ところが、その像にクーラが自分自身の名前をつけようとしたとき、
ユピテルはそれを禁じて、自分の名前こそそれに与えられるべきだ、と言いはった。
クーラとユピテルとが名前のことで争っている間に、大地(テルス)もまた立ちあがって、
自分の身体の一部をその像に提供したからには、自分の名前がそれにつけられるべきだと望んだ。
彼らはサトゥルヌス〔時間〕に裁きをあおぎ、彼はもっともだと思える次のような裁きをくだした。
「なんじユピテルよ、なんじは精神を与えたゆえ、この像が死ぬときは精神を受け取り、
なんじテルスよ、なんじは身体を授けたゆえ身体を受け取るべし。
だが、クーラはこのものを最初に作りあげたゆえ、それが生きている間は、クーラがそれを所有するがよい。
ところが、その名前についてなんじらが争っている以上、
それは明らかにフームス(地)から作られているのだから、ホモ〔人間〕と名づけるがよかろう」。

59 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 19:14:09.15 O.net
ハイデガーの言う死の先駆ってあり得るのかな?
死は自分の体験としては語り得ない。だから死は常に他者の死でしかない

実存や言葉としては先駆的決意性なんてあり得るけど、それは比喩的な意味でしか現実に存在しないように思うんだよな

60 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 20:45:25.50 0.net
>死は常に他者の死でしかない

そうすると死ぬのビビったり宗教にすがったりすることもないわけだ

61 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 21:11:31.36 O.net
他者の死というのは自分の死は誰も経験してないという意味で言っただけで
死をビビるとかビビらないとかそういう事は言ってない

死は追い越せないのになんで死を前提に出来るんだよって事
それこそ責めある存在じゃねーのかよ、と

62 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 21:24:37.74 0.net
とにかく
>死は常に他者の死でしかない
というのはおかしいですねぇ
おかしいことを前提に考え込んでも時間の無駄です罠

63 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 21:35:37.55 O.net
じゃあお前は死んだあるのか?

どうやって死という概念を得た?それはお前の死ではなく、他者の死よるものじゃないのかな

64 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 21:44:55.58 0.net
>じゃあお前は死んだあるのか?

すみません、わたし中国人と議論するほど暇じゃないんでこの辺で失礼するアルヨ

65 :考える名無しさん:2014/07/07(月) 21:58:37.49 O.net
ドゥルーズなら他者をそれなしでは知覚が機能しえなくなる知覚領域って言ってるとこだよ

66 :考える名無しさん:2014/07/08(火) 02:55:57.85 0.net
>>65
意味がわからないんだが?

67 :考える名無しさん:2014/07/08(火) 03:32:20.13 0.net
<死の少し前、ヘリングラード編のヘルダーリンの詩句を、「私の墓へ告別の挨拶としてゆっく
りと単純に朗読する」ことを望み、ヘルダーリンの讃歌では「ドイツ人に寄す」、「宥和する者」、
「巨人たち」から、悲歌では「パンと葡萄酒」から選ぶことを望んだ。(略)ヘルマン・ハイ
デッガーは父の意志通りにヘルダーリンを朗読した。その結びは「パンと葡萄酒」第三節のもの
であった。>
(人類の知的遺産75『ハイデガー』芽野良男、講談社p313より)

上記に挙げられた詩はすべて全集第2巻に所収されている。以下、その一節を引用する。


童児を嘲ってはいけない、鞭を手に 拍車をつけて
かれが木馬にまたがり 自分を雄々しい偉大なものと思っているときも。
なぜならドイツ人諸君よ、君たちも
思想に富んで行為に貧しい者なのだから。(以下略)

「ドイツ人に寄せる」  ヘルダーリン(手塚富雄訳)
(『ヘルダーリン全集2』河出書房p10より)

Spottet nimmer des Kinds, wenn noch das alberne
Auf dem Rosse von Holz herrlich und viel sich dünkt,
O ihr Guten! auch wir sind
Thatenarm und gedankenvoll!

"An die Deutschen"    Hölderlin
http://www.hoelderlin-gesellschaft.de/index.php?id=137
(ドイツ、ヘルダーリン協会サイトより)

68 :考える名無しさん:2014/07/08(火) 03:38:21.60 0.net
《儀式は甥(弟の次男)のカトリック司祭ハインリッヒ・ハイデガーが執り行
い、弔辞はヴェルテが読み上げ、開かれたままの墓の前で、息子(次男)のヘ
ルマン・ハイデガーが、あらかじめ生前のハイデガー自身によって選び抜かれ
たヘルダーリンの五つの詩句を、ハイデガーが定めたとおりの仕方で、ゆっく
りと簡素に、野辺の送りに集まった親族と親友のために朗読した。その詩句
は、ヘルダーリンの言葉に託して、ハイデガーの深い心境を語り明かすものと
なった。
 第一の詩句は、「至福のギリシア」を偲び、その「光り輝く」世界はいま
「どこに」消えてしまったのかと問いかける。第二の詩句は、夢見る「愚かな
子供」を「嘲ってはならない」と言い、ドイツ人である「われわれは、思いば
かりが満ちれて、行動の下手な」者だと自認し、果たして、いつの日にか、ほ
んとうに、「思想」から「行為」が生まれ、「静かな書き物」に続いてその
「果実」が稔ってゆくのであろうかと問う。第三の詩句は、「しかし、一つの
神 [ein Gott] が現われるとき、天空と大地と海原の上には、あらゆるものを刷
新する光輝が降り注ぐ」と歌う。第四の詩句は、「けれども、いまはその時で
はない」と述べ、「神的なものは、かかわりのない者どもを射当てることはな
い」と告げる。第五の詩句は、「われわれは、開かれた場 [das Offene] を見つ
め」、「たとえどんなに遠くとも、一つの固有なもの [ein Eigenes] を求めよ
う」と訴え、「一つのものだけが確固としている」と述べ、「万人に共通な一
つの尺度がつねに存立しており、しかしそれぞれの者にはまた固有のものが授
けられており、誰もがそれぞれ、おのれの進みうるところへと進み、帰り来た
りうるところへと帰り来たるのだ」と歌っている。ここに、ハイデガーの全生
涯を貫く深い信念と心情が、その愛惜してやまないヘルダーリンの詩句に仮託
されて、二重写しに告白されていることは一目瞭然である。》

中公クラシックス1
ハイデガーの生涯と『存在と時間』の思想  渡邊二郎 より

69 :考える名無しさん:2014/07/10(木) 11:02:19.97 0.net
TKimu @kimukuma · 7月5日
ハイデガーとラカンの第一章は、4つのデイスクールについて翻訳も含めた日
本語で読めるテクストの中でもっとも納得のいくものだった。ブルースフィン
クを超えるのがついに出た。
http://www.lacantokyo.org/sp/HEIDEGGER_AVEC_LACAN_japonais_20140703.pdf
TKimu @kimukuma · 7月6日
Heidegger avec Lacan は世界最高水準だろう。これは生涯ベスト5に必ず入るな。

70 :考える名無しさん:2014/07/10(木) 11:11:49.30 0.net
小笠原晋也 @ogswrs · 7月6日
Bon soir à tous ! 幾つか御質問をいただきました.まず『存在と時
間』の邦訳についてですが,わたしが読んだものは絶版のようです.
昨年新しい翻訳が出ているようですが,わたしはそれを見たことはあ
りません.基本的に言って,Heidegger を読むためにはドイツ語を知る

小笠原晋也 @ogswrs · 7月6日
必要があります.Heidegger のみを読むためにドイツ語を習得し,Lac
an を読むためだけにフランス語を習得することは,する価値のあるこ
とです.わたしが目にしたことのある邦訳は,Heidegger も Lacan も,
それだけでは何も理解できません.原文を隣に並べて並行して
小笠原晋也 @ogswrs · 7月6日
読まなければ何も理解できません.そして,それらの邦訳が如何に誤
訳に満ちているかを発見するでしょう.ハイデガー全集の邦訳もその
誤訳の多さは『エクリ』に負けていませんでした.ドイツ哲学や神学
を専門的にやっている人々が翻訳しても,Heidegger の邦訳はその程
度のものなのです.

71 :考える名無しさん:2014/07/10(木) 19:22:56.13 0.net
何の邦訳でもそうなる。きちんと理解したり解釈を入れたりしなければ訳せない場所はある。
そういうところにばっかり力を入れてると文法的な凡ミスが増える。

72 :考える名無しさん:2014/07/10(木) 21:29:01.07 0.net
>>70
糞の役にも立たないような呟きだな

73 :考える名無しさん:2014/07/12(土) 01:36:52.34 0.net
ハイデガー全集の邦訳もその誤訳の多さは『エクリ』に負けていません

74 :考える名無しさん:2014/07/15(火) 09:18:33.28 0.net
yasu ‏@Yasuyassu 7月13日
たまたま手に取った『みすず』7月号、三島憲一「ハイデガーの『黒ノート』
をめぐって」が予想以上に凄かった。進行中全集の枠で3月に出版された断章
が、反ユダヤ主義の文脈で物議を醸しているらしい。三島氏はユダヤ人陰謀論
と存在史的思考の結合したこの内容を、月並みと病気、と位置付けている。

75 :考える名無しさん:2014/07/18(金) 20:25:26.96 0.net
熊野先生の弟子を自称するネットナンパの達人がツイッターでやってることは

ハイデガーが嫌悪する”おしゃべり”じゃないの?

http://masahikono.tumblr.com/post/82475253275

ダイレクトメール送られて困ってるひと(kawaiiガール)の身にもなって!

76 :考える名無しさん:2014/08/17(日) 17:41:46.67 0.net
朝日新聞(asahi shimbun) ‏@asahi 1 時間
哲学者の木田元さん死去 ハイデガー研究の第一人者 http://t.asahi.com/fkny

77 :考える名無しさん:2014/08/17(日) 17:59:34.53 0.net
木田元さんの本紙書評委員時代の書評→ http://book.asahi.com/reviews/reviewer/1091.html

78 :考える名無しさん:2014/08/17(日) 21:21:38.04 0.net
芦田宏直 @jai_an · 10 分
木田元の功績は、重苦しい文献主義的なハイデガー読解や竹田や西などの啓蒙主義的な解説とは違う仕方で、ハイデガーに近づいたことだと思う。それは隠居哲学者でしか不可能な文体だったのかもしれない。合掌。
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その他
芦田宏直 @jai_an · 32 分
木田元のハイデガー解釈の帰趨は、被制作主義的な主体-客観主義から、ギリシャ的なプュシス主義へ、という陳腐なものだった。このプュシス論は、ほとんどカール・レーヴィットのもの。
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その他
芦田宏直 @jai_an · 48 分
なんで、彼が「ハイデガー研究の第一人者」と言われるのかがわからない。
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その他
芦田宏直 @jai_an · 1 時間
木田元は、私の世代にとっては、フランス哲学者。以上でも、以下でもない。

79 :考える名無しさん:2014/08/31(日) 07:32:29.90 0.net
 忘れられてるみたいなんでage

80 :考える名無しさん:2014/08/31(日) 18:08:31.71 0.net
こっちは検索し難くて過疎ってるからこちらに移動します
このスレは落としてください

マルティン・ハイデガー
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1409171121/

81 :考える名無しさん:2014/09/08(月) 19:15:52.87 0.net
何を偉そうにしきってるんだかw

82 :考える名無しさん:2014/09/08(月) 19:46:17.98 0.net
>>1が無智無能だから仕方ない

83 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 10:47:37.39 0.net
 芦田宏直という人がHPやtwitterでハイデッガー論を展開し、木田元や辻村
公一や渡辺二郎のことを分かっていないと批判しているようである。そこで
芦田氏のtwitterを読むと次のようなことが書いてある。

《「世界−内−存在(In-der-Welt-sein)」の「−内−」とは、「近さ
(親密さ)」の「−内−」である。

そのような場処に導かれた存在者は「手許的存在者(Das Zuhandene)」
として「手許にあるもの(Das “zur Hand” Seiende)」、「近さ
(親密さ)」として存在している。

そのように、書きたい気分に「つねにすでに」選ばれてその場処は存在
している。あるいは、書きたいという気分をその場処は醸成した。つまり、
ペンは既に「そこにあった」のである。そんなふうにわれわれと場処(um)
との関係は存在している。

書きたいときに、ペンがなければ、そこにいないか、ペンを用意するだろう。
書くのに差し支えるほど〈そこ〉がやかましければ、別の場処を選ぶ(すで
に選んでいる)。誤解を恐れずに言えば、ペンが〈そこ〉にあるときには、
すでに人は書き終えているのである。

84 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 10:48:32.44 0.net
84つづき

馴染んでいるということはやりたいことが〈できる〉ということだ。この
〈やりたいことができる〉は何も主体(Subject)の意志や能力、可能性−
現実性の徴表なのではない。

われわれは必ず或る場処に存在している。そのわれわれが或る場処に存在し
ているということは、その或る場処に馴染んでいる(vertrauen)ということ
。ハイデガーは「世界との親密性(Vertrautheit mit Welt)」とまで言っ
ている(86)。》

《デカルト的な主観=客観へと分裂する前に、われわれの身の回りには、ペ
ンがあり、机があり、椅子があり、灯りがあり、それらを取り囲む部屋が存
在している。これをハイデガーはさしあたり〈環境世界(Umwelt)〉と呼ん
だ。Um(周りの)-世界(Welt)である

「世界−内−存在(In-der-Welt-sein)」とは、「つねにすでに
(immer schon)」私たちは身の回りのものと共に存在しているということだ。
あえて言えば、〈主観〉は、いつも或る一定の場処と共にしか存在していな
い。

1927年のハイデガーは、その〈外部〉を「世界」と名付けていた。ハイデガー
にとって、人間は〈主観〉ではなくて、「世界−内−存在
(In-der-Welt-sein)」(としての現存在Daseinである(『存在と時間』)。


85 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 11:15:32.82 0.net
 ハイデッガーのいう世界とは主観のいる一定の場所としての外部である。
自己を取り囲むペンや机や椅子のある外部である。その外部と自己は馴染んでい
る。われわれはそのような場処と馴染んでいる。それがハイデッガーによ
れば「世界との親密性」である。
 ハイデッガーにとって、よって人間とは主観ではなくて世界-内-存在であ
る。

 芦田氏はそのようにtwitterの中で説明する。
 だがそうすると、まるで世界はハイデッガーによる「有るもの(存在者)」
であるということになる。

 芦田氏がHPでも引用する「根拠の本質について」の中でハイデッガーは
こう書いている。

《世界は全体性として、如何なる有るもので「有る」のでもなく、現有がそれ
自身を如何なる有るものへ関わり合わせ得るか、そして如何なる仕方でその
有るものへ関わり合わせ得るかということに関して、そこから現有がそれ自身
に指示を与えるところのものである。》創文社全集9巻『道標』193頁

 芦田氏が言う1927年の段階『有と時』ではこう書かれている。

《その内に於いて現有が、それ自身を指し向けるという様態に於いて、それ
自身を先行的に理解している処その処は、其処へ向かって有るものを先行的に
出会わしめている処である。自己を指し向けると言う仕方で理解することが
その内に於いて成りたっている処は、其処へ向かって有るものを趨向という
有り方に於いて出会わしめている処として、世界という現象である。
 その内に於いて現有がこのような仕方でそれ自身をその都度既に理解して
いる処、その処と現有はもともと慣れ親しんでいる。》創文社全集2巻『有
と時』137-138頁 第18節

86 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 11:23:36.43 0.net
「ハイデッガー」「有と時」表記の時点で説得されない
この表記消えろよ

87 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 12:29:38.40 0.net
 「根拠の本質について」が1929年。『有と時』が1927年。言ってることは
変わっていない。

 芦田氏の説明では世界-内-存在とは、慣れ親しんだ身の回りの事物(存在者
)とともに存在することを指す。慣れ親しんだ身の回りの事物が芦田氏に
よれば世界である。人間が世界-内-存在であるとは、慣れ親しんだ事物という
外部=世界とともに有るということである。

 また芦田氏がいうには慣れ親しんだ、その都度何かが可能となる場処との
間柄のことをハイデッガーは「世界との親密性」と呼んでいる。

 後者について言えば、《世界と慣れ親しんでいること》とは、現有と
世界との慣れ親しみである。現有が「自己を指し向ける仕方で理解している
その場処」こそ世界であり、その世界と現有は「慣れ親しんでいる」。けっ
して世界とは「やりたいことのできる場処」ではない。

 一方前者についていえば、世界-内-存在とは「常に既に身の回りのものと共
にいること」ではない。また、世界とは主観がいる一定の場処(外部)で
はない。

 芦田氏の間違いは単純なことであって世界を「有るもの」と勘違いして
しまっている。ハイデッガーにおいては世界は全体性として、如何なる有る
もので「有る」のではない。言い換えればモノでも事物としての場所でも
ない。

 因みに芦田宏直氏のtwitterのURLは以下の通りである。

http://twilog.org/jai_an/date-0818

 芦田氏のBLOG「芦田の毎日」のURLは以下の通りである。

http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_304.html

88 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 14:44:46.40 0.net
 失礼。>>85での『有と時』からの引用はp.137-138ではなくて p.135ですね。

89 :考える名無しさん:2014/09/25(木) 16:22:16.10 0.net
 芦田氏の所論が変だと思うのは例えば主観の外部にある親しいものを世界
と名づけており、『有と時』中でハイデッガーが世界としてそういうこ
とを言ってもいるのだから無理もないが、通読していけばむしろ論旨として
は現有がそこから意味をくみ取っていく其処(アプリオリ)のことを
「世界という現象」と言っており、ここに重点が実はあるのだから、環境
世界的なところにこだわるべきではない。こだわることでウェイトを外して
しまうことになる。
 むしろ主観もまた世界生成とともに変容するというしかないのだから、
世界に浸食されており、であるならば世界とは「主観の外部」ではやはり
ない。むしろ主観は世界に重なり浸食される。

 「人間は主観ではなくて世界-内-存在」と芦田氏も書いているが、それは
上記のような意味なのである。芦田氏の所論はハイデッガーのウェイトが
掴めてはいない論だと思う。なので論旨が混乱しており何が言いたいのか
読みこみずらい。twitterに彼が書いている論がまさにそうである。

 気遣いさせ現有に意味をくみ取らせる当のもの、こそ世界性概念の中心で
その後も本来性や有の理解として発展させられていったものである。ところが
芦田氏ではそこのところはBLOGを読む限り、論に飛躍があると思っている
ようで、さほど重要とは思ってはいない。それでハイデッガーの論旨がくみ
取れないのもいたしかたない。

 しかしそれでハイデッガーが読めていると思ってしまってはいけないのでは
ないか、木田や辻村や渡辺らが分かっていないなどと言えるのか、という
のが私の疑問である。

90 :考える名無しさん:2014/10/07(火) 11:37:08.75 0.net
永井均
‏@hitoshinagai1
亡くなった木田元氏の本はいくつか読んだが、どれも読むに値するとは思えな
かった。どの本もどこに哲学があるのかわからなかった。コンビを組んで翻訳
をしていた滝浦静雄氏の本の方が遥かに哲学的価値がある。とりわけ時間と想
像力に関する二つの新書はこのテーマに関心を持つ人には今なお必読と思う。

91 :考える名無しさん:2014/10/07(火) 13:40:56.28 0.net
五十歩百歩といいたいところだけど、木田元氏は共訳者の貢献割合が
どれだけあるのかは別として、重要な訳書を多く出している分だけ
価値がある。永井均の哲学的価値?

92 :考える名無しさん:2014/10/07(火) 23:07:23.29 0.net
こんな誰でも言えるようなこと言っちゃって恥ずかしくないのかな永井氏は
しかも亡くなった後に…最低最悪だな

永井均 ‏@hitoshinagai1 · Oct 5
@hazigin @hirotourasaki
まずは自分で哲学をしていないと、ハイデガーをいくら読んでも、
結局、何もつかめないのだな、ということを教えてくれます。

93 :考える名無しさん:2014/10/08(水) 03:09:25.37 0.net
俺でも言えるな。

まずは自分で哲学をしていないと、ハイデガーをいくら読んでも、
結局、何もつかめないのだな、ということを教えてくれます。

ほら言えた。

94 :考える名無しさん:2014/10/20(月) 14:36:39.52 0.net
永井均
‏@hitoshinagai1
吉岡実「僧侶」http://ln.is/hannah5.exblog.jp/M7DY8 … 私はかつて詩を書
いていたが、このくらい詩的価値を自立させられなければ詩に書く意味はない
のだと悟って詩は捨てた。私は詩の外に言いたいことがありすぎた。でも多く
の「詩」もそうだ。この詩は素晴らしい。私は哲学で言うことにした。

95 :考える名無しさん:2014/10/29(水) 21:27:30.21 0.net
 永井氏のtwitter読んだけど、何も言う事はないですね。頭の良い人で
読書家なんだろうなとは思ったが、他には何もないですね。強力な問題意識
や切迫感、惹きつける思想家じゃないなと思いました。そもそも思想家とも
言えないでしょう。方法をもって掘り進むことのできる人ではないように
見受けられる。ただの頭の良い人です。

 或る種の思想家のように研究してみようという気を起こさせるものはない。
木田とハイデッガーの関係は思想に惹きつけられた研究者の関係。哲学か
否かなど問題ではない。ただ木田はハイデッガーに惹きつけられ読解せずに
いられなかった。その切実感だけで書かれたのが木田のハイデッガー本。
哲学ではないとか言われても「だから?」とでも言うしかない。そういう意味
では木田のハイデッガー本というのは特異な本なんでしょう。ただ魅力が
あって読ませる。哲学か否かなどどうでもいい。そう思ってます。

96 :考える名無しさん:2014/10/30(木) 22:55:03.86 0.net
 木田のハイデッガー本だけじゃない。どっかで語らずにいられない思想や
思想家ってある。ハイデッガーはその典型なんで、これだけ新旧の研究者が
彼やその思想を語るのもだからですね。それだけハイデッガーの目というのは
追思考し形成過程を追い、意図を見抜いてみる気にさせる。また語っても
語り尽くせない深さや謎に思い至る。ナチス加担問題もその一つだけども。
また、近代から現代までの思想とクロスしているかのように見えるところも
多い。興味は尽きませんね。その読解にこれだけ様々な人が乗りだし本も
書かれる。語らずにいられないところが共通している。

 元々ハイデッガー自体、知の歴史を形而上学として相対化してみせた人間で
、その中には哲学史も含まれている。「あれは哲学なのか?」という問い自体
、ナンセンスであって、ナンセンスである由縁はあの試み自体に含まれて
いる。そこを読めない人間の発する問いだと思います。

97 :考える名無しさん:2014/11/04(火) 00:24:42.64 0.net
 この解釈に従うと、当時の典型的な反ユダヤ主義の文句でしかない。もっと
脱力させるエピソードを三島憲一は紹介している。

「シオンの賢者と言えば、ナチスの政権獲得後にヤスパースがハイデガーに、
この書を「愚劣そのもの」と言ったところ、ハイデガーは「だってやはり、ユ
ダヤ人の危険な国際的結びつきがあるじゃないですか」と答えたそうである。」


 「二十世紀最大の哲学者」と称される人物とは思えないほど、あっさりデマ
情報に踊らされている。他にも『黒ノート』には、哲学的中二病を患った者の
病態が散見される。まさに「黒歴史のノート」である。

「ドイツ人だけが存在を根源的に新たに歌い、語ることができる。ドイツ人だ
けがテオリアの本質を新しく征服し、ついには、論理学を創出できる」
「技術の最後の幕は、この地球が自らを爆砕することにある。そして現在の人
類が滅びることにある。これは不幸でもなんでもない。それどころか、存在者
の優位によって深く汚染されている状態からの、存在の(des Seins)浄化なのだ」
 

98 :考える名無しさん:2014/11/04(火) 00:27:00.37 0.net
三島憲一は1300ページの『黒ノート』読解が相当退屈だったらしく、「そ
れにしても、この『黒ノート』の真正反ユダヤ主義のずさんさはなんな
のだろう」「ばかばかしくて読んでいられない」「ドイツの崩壊と恋愛
沙汰のなかで筋道立てた思考ができなくなっていたのだろうか」と終始
手厳しい。

 三島の「沈黙の奥に秘めた形而上学=ユダヤ人=その世界支配とい
う方程式は、二十世紀最高の哲学者という勲章を剥奪するにはあたいし
よう」はよくある評価としても、「まず書いてあることは、意外と月並
みな哲学者なのではないかという疑念を引き起こす」から始まる文体批
判は、いわゆる「知の欺瞞」「グル効果」など「ポストモダン・フラン
ス現代思想」批判の文脈にある。

「…そう見ると『存在と時間』ですらそうではないかとも思えてくる。
特に後半の卓抜な一部を別にすれば、文章の魔術を抜きにすると(文体
の独自性はたいしたものだ)、部分的にそうとしか思えなくなってくる。
「死ぬのは一人、自分だけだ」。それはそうだろう。」

99 :考える名無しさん:2014/11/04(火) 00:29:46.69 0.net
ハイデガー「だってやはり、ユダヤ人の危険な国際的結びつきがあるじゃないですか」

100 :考える名無しさん:2014/11/11(火) 22:28:51.42 0.net
Shigeo Hayashi ‏@HAYASHI_twit 10時間10時間前
Martin Heidegger and D.T. Suzuki|ハイデガーと鈴木大拙のレアな2ショット写真 http://s-hayashi.tumblr.com/post/102330982274/martin-heidegger-and-d-t-suzuki … pic.twitter.com/M7DFPmYCzS
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その他
Shigeo Hayashi ‏@HAYASHI_twit 7分7分前
“Zen Buddhism” の編者 William Barrett の序文にこんな記述が。鈴木大拙の本を読んでいたハイデガーは「もし私が正確に理解しているとするならば、ここには私が全著作において語ろうとしていることがある」と大絶賛。

101 :考える名無しさん:2014/11/12(水) 00:56:56.46 0.net
まあ議定書並みの杜撰さなのでしょう

102 :考える名無しさん:2014/11/24(月) 00:48:52.84 0.net
もはや21世紀の常識になりつつあるな

103 :考える名無しさん:2014/11/29(土) 03:22:19.28 0.net
ハイデガーシンポ 『存在と時間』その翻訳を巡って聴講録
http://togetter.com/li/749961

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri 2014-11-24 16:32:59
ハイデガーが日本だけ翻訳が乱立したのは、じつは敗戦国優遇で日本だけ版
権がフリーなためという話をされている。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri 2014-11-24 16:39:06
ドイツ語の授業のようだとおっしゃりながら、訳文比較の話。現存在は単な
る存在者とは異なる、という長い分。熊野訳では現前といれて現代哲学を挑
発する訳語だが、多くのハイデガー研究者が違和感を表明している。
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri 2014-11-24 17:12:57
熊野訳は、〜は、すなわち〜が少なくなったが、〜ということであるが多い、
バカボンのパパみたいに何でもであるにする、会場爆笑(^-^)/
大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri 2014-11-24 17:15:58
松尾訳の、のぼせよう、というルビはいいよね、と。

104 :考える名無しさん:2014/12/01(月) 07:27:52.42 0.net
>>103
面白いな

105 :考える名無しさん:2014/12/02(火) 23:15:03.45 0.net
本格的にきな臭いことに・・・
http://www.zeit.de/2014/47/philosoph-heidegger-antisemitismus

106 :考える名無しさん:2014/12/03(水) 01:42:58.75 0.net
ハイデガーはけっきょく自分の生きる道にしか興味がなかったんだろうな。
やはりレヴィナスに「ハイデガーの思想には他者がいない」といわれるだけある。
自分のためのチンケな思考だよ。
                       

107 :考える名無しさん:2014/12/03(水) 06:59:36.42 0.net
>>105
だれか訳してよ

108 :考える名無しさん:2014/12/03(水) 10:15:22.34 0.net
グーグルの日本語訳は読めたものじゃないが、英訳なら要旨くらいつかめる

109 :考える名無しさん:2014/12/04(木) 00:18:52.26 0.net
千野 帽子
‏@chinoboshka
「自己啓発本(恋愛本、ライフハック本、俗流心理学本、宗教の本)なんか読まない俺」
という自己像を壊せないプライドのせいで、いったいどれくらいの人が自殺を思いとどまれずに逝ってしまったことか。

110 :考える名無しさん:2014/12/04(木) 04:46:05.51 0.net
このように、本書は今までに出版されたどのハイデッガーガイドブック
より内容的に優れているだけでなく、ハイデッガーの後期思想に関して
多くの解説が加えられているのが特色です。これからハイデッガー哲学
を本格的に学ぼうという人のための最良の案内書として本書を薦めると
同時に、故渡邉二郎氏が遺した『哲学の寄与論稿』の翻訳原稿が出版さ
れることを楽しみにしております。

111 :考える名無しさん:2014/12/05(金) 03:16:50.95 0.net
「人間が人間でなくなるとき――フッサールの影を追え、とメルロ=ポンティは言った」岡山 敬二
「フッサール—傍観者の十字路 (哲学の現代を読む)」岡山 敬二
「フッサールの志向性理論―認識論の新地平を拓く」梶尾 悠史
「フッサールにおける超越論的経験」中山 純一
「数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学」鈴木 俊洋
「フッサール心理学宣言 他者の自明性がひび割れる時代に」渡辺 恒夫
「フッサールとハイデガー―世界を取り戻す闘い」リリアン アルワイス
「超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』」竹田 青嗣
「完全解読 フッサール『現象学の理念』」竹田 青嗣
「フッサールの倫理学―生き方の探究」吉川 孝
「現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ 」田口 茂
「フッサールにおける“原自我”の問題―自己の自明な“近さ”への問い」田口 茂
「フッサール現象学の倫理学的解釈―習性概念を中心に」後藤 弘志
「現象学と形而上学―フッサール・フィンク・ハイデガー」武内 大
「フッサール現象学の生成―方法の成立と展開」榊原 哲也
「人を生かす倫理―フッサール発生的倫理学の構築」山口 一郎
「存在から生成へ―フッサール発生的現象学研究」山口 一郎
「衝動の現象学―フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ」稲垣 諭
「フッサール相互主観性の研究」石田 三千雄
「フッサール現象学における多様体論」信木晴雄
「哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学」宮坂 和男
「現象学の基底―「客観性」とは何か?」金子 淳人
「フッサールの脱現実化的現実化」堀 栄造

112 :考える名無しさん:2014/12/05(金) 08:48:40.53 0.net
現象学入門
現象学 (岩波新書 青版 C-11)1970/9/21木田 元
これが現象学だ (講談社現代新書)2002/11/15谷 徹
意識の自然―現象学の可能性を拓く1998/10谷 徹
現象学とは何か (講談社学術文庫)1992/7/6新田 義弘
現象学 (講談社学術文庫)2013/1/11新田 義弘
現象学入門 (NHKブックス)1989/6竹田 青嗣
はじめての現象学1993/4竹田 青嗣
現象学は思考の原理である (ちくま新書)2004/1/10竹田 青嗣
超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』 (講談社現代新書)2012/8/17竹田 青嗣
完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)2012/3/9竹田 青嗣
哲学的思考―フッサール現象学の核心2001/6西 研
現象学という思考: 〈自明なもの〉の知へ (筑摩選書)2014/12/11田口 茂
フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)2013/6/28斎藤慶典
経験の構造―フッサール現象学の新しい全体像2003/8貫 成人
現象学ことはじめ 第2版2012/10/19山口一郎
フッサール (シリーズ・哲学のエッセンス)2004/1/30門脇 俊介
フッサール—傍観者の十字路 (哲学の現代を読む)2008/9/16岡山 敬二
フッサール (センチュリーブックス 人と思想 72)1983/1加藤 精司
現象学 (文庫クセジュ 374)1965/1リオタール
フッサール現象学の直観理論 (叢書・ウニベルシタス)1991/12レヴィナス
20世紀の扉を開いた哲学―フッサール現象学入門2000/4クラウス ヘルト
フッサールの現象学2003/11ダン ザハヴィ

113 :考える名無しさん:2014/12/21(日) 00:47:42.55 0.net
スクールタイツもそうだが冬服JKの最大の魅力はマフラーに引っ掛かってモフッてなってる髪だと思うんだ(すっとぼけ)

114 :考える名無しさん:2014/12/28(日) 21:14:12.49 0.net
>>112
こんなに読まないと入門できないのか。

115 :考える名無しさん:2015/01/01(木) 19:48:32.36 0.net
フッサールに入門したいならともかく
ハイデガーを読みたいのならそんなくだらんものを読むよりも
アリストテレスやライプニッツを読む方がいい

116 :考える名無しさん:2015/01/05(月) 09:37:38.57 0.net
>>1
発見したぞ
頭隠して尻隠さずだなw

【mountainside】
http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A3CEERCBJT8LMU/ref=cm_cr_dp_pdp

117 :考える名無しさん:2015/01/05(月) 19:44:28.90 0.net
木田元 対 爆笑問題
https://www.youtube.com/watch?v=dVo-euMZcZ0

118 :考える名無しさん:2015/02/26(木) 01:14:16.15 0.net
入門は来世紀だな

119 :考える名無しさん:2015/04/21(火) 21:29:38.57 0.net
age

120 :考える名無しさん:2015/04/22(水) 07:16:42.87 0.net
>>110
>このように、本書は今までに出版されたどのハイデッガーガイドブック
>より内容的に優れているだけでなく、ハイデッガーの後期思想に関して
>多くの解説が加えられているのが特色です。

 「本書」ってどの書?前後レス読んでも出てないが。

121 :555:2015/06/16(火) 18:45:15.56 0.net
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/555-567
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/561-563
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/585-591
去年の9月、生前にニーチェ、ハイデガーに依拠しながら
プラトン、デカルト的な価値観を否定する論を展開し、
ハイデガーに心酔する心情を披歴してきた木田元氏、その雑誌記事を引用し、
果たしてソクラテス以前の、デモクリトス等が求めた?アニミズム的価値観こそが
本質的に《生成・流転・消滅》する自然界を正しく認識するところのものであり、
それともプラトンに始まる「イデア論」=超越論的価値観の追及こそが
本質的に《生成・流転・消滅》する自然界の様態を否定した過ちなのか。
いや自然界は常に《生成・流転・消滅》するからこそ(寿命が限られ、行動半径が限られる、
即ち経験が限定される、しかも錯視錯覚する一人間が)その“一時的な一部分に”心を奪われ「絶対視」し、
それが何時でも何処でも成り立つと考える《視野狭窄》に陥ることを戒め、むしろ
その《生成・流転・消滅》する現象を引き起こすところの『絶対的始原へ向かって遡及せよ』とする、
それを求めることで個々人の思惑と(過てる)信念の対立を乗り越え、混乱と殺戮を回避し、
民族的な、ひいては人類全体の自滅回避を図る思想こそが正しいのか。
つまりこのアニミズムが陥る《視野狭窄》を戒める言葉こそが
一神教とSCIENCEをつなぐ根本原理=『妄りに偶像を造って拝んではならない』
(超越的根本原理の究明と把握を目指して進む《方法論的懐疑》の精神=《空気》の打破)であったのか。
それを問い正したものの、まともな返答が無かった。
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/573-575

122 :555:2015/06/16(火) 18:47:37.31 0.net
返答したのはつまらぬ罵倒文を投げつける者、自作自演する者であり、
ネットで拾ったどこかの学者の文章を、引用記号ごとパックってくる者のみであった。
或はスレ流しするやつであった。
何時まで経ってもまともな答えが返らない。という訳で(不遜だが)オレが駄長文を書き込ませて頂いた。
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/750-753
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1341071064/772-776
まあこの内容は、かなりのこじつけなのかもしれないが、
しかしハイデガーよりプラトンの主張の方が(少なくともオレの中では)遥かに正しい。それは揺らがない。
何しろその哲学は数学に裏打ちされ、今まで2500年は語り継がれてきているのである。

とは言うもののオレは今、日本の戦後憲法、それが何故制定されるに至ったのか
(「鬼畜米英」、「アジアの解放」を叫ぶものの実は正義の無い、無謀な戦争を日本側から仕掛け、
他国民はもちろん自国民にも310万人の犠牲者を出し、挙句に国を潰したその教訓として制定されたそれ)
が忘れられ、その根幹の思想が書かれた『前文』の改正を試みる者ら、すらが出る始末の今、
何故この思想が生み出されてきたのか、それを指摘することは意義あることだと考えた。
そしてこの思想を否定する、一見学問的体裁を採ったハイデガーや
ポスト・モダン思想の欺瞞性を暴露して、社会から駆逐することは意義あることだと考えた。
かつての偉人、ヴァレリーやフロイトが戦争の悲劇を前にして後に深く悩み、命を削って我々に残した文章、
一神教、或はプラトン、デカルトの思想を基礎とした、それが持つ意味を反転させ、工作し、
歪曲して解釈解説する悪質な者がいる。
後世の我々に与えられた義務は、悲劇を体現したヴァレリーやフロイトの《遺言》を正しく伝える事である。
理解することである。伝え理解することによって悲劇を繰り返さぬことである。
それは人類に対する貢献となる(?)。

123 :555:2015/06/16(火) 19:07:17.97 0.net
フロイト「モーセと一神教」

そして、その一大特徴は、「一見しただけでは解し難い大変に意義深いひとつの掟がある。」…
「それは、神の姿を造形することの禁止であり、見ることのできない神を崇拝せよという強制である」…
「しかしながら、この掟は、いったん受け容れられたならば、根本的な影響力を発揮するしかないものであった」
「なぜなら、この掟は、抽象的と称すべき観念を前にしての感覚的知覚蔑視を、
感覚性を超越する精神性の勝利を、厳密に言うならば、
心理学的に必然的な結果としての欲動の断念を、意味していたからである。」

すなわち、エジプトのモーセが、
…元来のヤハウェ神とは別の、より高度に精神化された神の観念を与えたということ、
唯一の、全世界を包括する神性、全能の力を有するだけでなく万物を愛で包む神性、
一切の儀式や魔術を嫌悪して人間に真理と正義に生きることを至高の目標として定め示した
神性の理念を与えたという事実…アートン教の倫理的側面に関するわれわれの報告…
イクナートンが彼自身の手による碑銘になかにいつも「マート(真理、正義)に生きる」と刻していた事実…

124 :555:2015/06/16(火) 19:09:40.48 0.net
フロイト「モーセと一神教」 解題 歴史に向かい合うフロイト 渡辺哲夫

興味深く、また重要な書簡がある。一九三四年九月三十日付のアルノルト・ツヴァイク宛のものである。
…「新たな迫害に直面して人びとはまた、いかにしてユダヤ人は生まれたのか、
なにゆえにユダヤ人はこの死に絶えることのない憎悪を浴びたのか、と自問しております。
私はやがて、モーゼがユダヤ人をつくったという定式を得、
私の作品は「モーゼという男――― 一つの歴史小説 ―――」という表題がつけられました」…とある。

125 :555:2015/06/16(火) 19:11:31.20 0.net
「非立憲」政治への警鐘 憲法に基づいて政治を行う精神に違反?
朝日新聞 2015年6月15日

集団的自衛権の行使容認を盛り込んだ安全保障関連法案が国会で審議中だ。
国会に呼んだ憲法学者3人全員が「違憲」と指摘し…
今度は「非立憲」という言葉で、専門家から警鐘が鳴らされた…
法学や政治学の専門家らでつくる「立憲デモクラシーの会」が、シンポジウム「立憲主義の危機」を開いた…
約1400人が集まる中、佐藤幸治・京大名誉教授が講演…佐藤氏は…憲法学界の重鎮…
佐藤氏の講演は、世界と日本の立憲主義の歴史をたどる内容だった。
大正デモクラシーなど明治憲法下でも「立憲主義の一定の成果」があったことや、
「戦争が立憲主義の最大の敵」であり、
日本国憲法は、人権保障など立憲主義の特質をとらえ直したものであることを指摘。
「憲法に基づいて政治を行う」という立憲主義を考える時に重要なのは、
「人類が恣意的支配を避けようと自覚し、試行錯誤を重ねてきた歴史から何をくみ取るか」だ、と述べた。
また佐藤氏は、憲法学者の佐々木惣一(1878〜1965)の著書「立憲非立憲」(1918年)に言及。
日本の立憲制度の採用は、日本だけではなく、人類の文化や政治にかかわる意味を持つとの論考を紹介した。

126 :555:2015/06/16(火) 19:12:57.43 0.net
佐々木によると、憲法に違反しないだけでは立憲とは言えず、
「立憲主義の精神に違反」する「非立憲」も避けなければならないという…
講演後の議論で石川健治・東大教授が、「立憲非立憲」を取り上げたのは、
「非立憲的な政権運営が行われていないか、とおっしゃろうとしたと思う」と解説。
これを受けて佐藤氏は、非立憲的な行動を「政治家は特にやってはいけないと(佐々木が)言っている」と加えた

「問題提起した意味大きい」
78歳の佐藤氏の言葉から、会場にいた30〜40代の憲法学者も、現政権の取り組みへの批判や
日本の立憲主義への強い危機感をくみ取っていた。
斎藤一久・東京学芸大准教授(42)は…
「憲法の根幹に触れるような『最後の一線』に極めて近い状況まで至っており、
戦前の歴史から見て『いつか来た道』ではないかという危機意識もあるのではないか」
木村草太・首都大学東京准教授(34)は、佐藤氏が「非立憲」の考え方を紹介することで、
「今、起きている問題は、9条など個別の条文についての解釈のレベルを超え、
立憲主義の根本にかかわることだと強調された」と振り返る。
「メディアや市民の期待をわかっていて、法案が違憲だと説明することもできただろうが、
歴史を語り、日本の立憲主義が危機にさらされていると話した意味は大きい」と説く…

127 :555:2015/06/16(火) 19:15:51.10 0.net
佐藤京大名誉教授の講演要旨
戦後70年、日本国憲法をどのように位置づけて、考えたらいいのか。
明治憲法制定の中心の伊藤博文は、議会を開設すればいずれ政党政治に向かうと考え、
彼の努力で日本の立憲主義が定着に向けて進むことになる。伊藤は、1909年に暗殺されるが、
18年には原敬内閣が成立するなど、大正デモクラシーの開花を見ることになる。
18年は、美濃部達吉と並んで立憲主義の発展に苦闘した佐々木惣一が「立憲非立憲」を著した年。
佐々木は「立憲主義は現今世界文明国の政治上の大則」と書き、
立憲制度の定着・進展に粘り強く取り組んでいかなければならないということを強調した。
1945年8月15日は、戦争が終わった日であるが、もう一つ重要な意味があった。
明治憲法下で立憲主義の一定の成果をあげたのに、
軍国主義・全体主義化して戦争につき進んだことに反省を加え、
国の形の抜本的な再構築に取り組むことを決意すべき日だった。
日本のこれからを考える、スタートラインの日だったと思う。

128 :555:2015/06/16(火) 19:17:23.90 0.net
ポツダム宣言について。宣言は、
「日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし」と。
「復活」とは、日本自身が築いたよき流れを、大正デモクラシーのいい時代を
日本に返してやろうというのが込められている。
宣言を受託したというのは、立憲主義の復活・強化を自らに課し、国際社会に約束したという意味を持っている。
日本国憲法は占領軍の押しつけと言われるが、どうして軍国主義・全体主義にからめとられたかを考え、
かつ当時の国際情勢を的確につかんでいれば、自分たちの手で日本国憲法に近いものを作ったに違いない。
憲法の個別的事項の改正・修正を施しても、根幹を全部変える発想はイギリスにもない、アメリカにもない、
ドイツにもない。いつまで日本がぐだぐだ言い続けるのか。本当に腹立たしくなる。
世界が不安定化を強めてきている。
一番大事なことは自制力をいかに確保するか。自制力を養うには、歴史に深く学ぶことと思う。

129 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 20:19:49.21 0.net
このスレの方が年表つきで凝ってます。あっちのは無視しましょう。

130 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:39:07.70 0.net
會田雄次「日本への遺言 さらば欺瞞国家日本」 新潮45 1995年2月号

…とすれば戦後日本は国としての統一的アイデンティティを持ちようがない混迷状態にある、
つまり国ではないということになる。そうなった原因を私は
ガスカールも大江氏も国でないフランス、国でない日本を国と考え、
それと対立したり、それに抵抗したり同調したことにあると考える。いやこの二人だけではもちろんなく、
日本人とフランス人の殆ど全体が自国をそのように錯覚したことでこの混迷は生まれた、
二人はその代表の一種ということになる。大江氏は…戦後日本の掲げている民主主義とやらを心から信奉し、
それを守ろうとしている…指導的地位にある一人である。その反対の多数派は
自分たち大衆の持つ動物的嗅覚…に基いてこのいわゆる民主主義の欺瞞性を充分知っている。
政治理念政治体制…そんな唐人の寝言などどうでもよい、
いざとなったら政府だろうが、政党だろうが、マスコミだろうが、警察だろうが、教師だろうが、
隣近所だろうが、誰も守ってくれない偽国家だと本能的に知っている。
仕方がないから弱者でもできるだけ自分が傷つかないよう工夫をこらし懸命にそのまま生きているのだ。
…こうなったのは、どうも戦後日本が再生へと踏み出した際、独立国として生きて行くのに必要な、
不可欠な要件を欠落させてしまい、
そのため、欺瞞でその欠落部分をかくさなければならなくなったためだ。そう私には思われる…

その謎を解く鍵が見つかったような気がしたのは、…昭和三〇年代半ば、大学騒動より前のこと…
そうなった原因を私はガスカールも大江氏も国でないフランス、国でない日本を国と考え、
それと対立したり、それに抵抗したり同調したことにあると考える。いやこの二人だけではもちろんなく、
日本人とフランス人の殆ど全体が自国をそのように錯覚したことでこの混迷は生まれた、
二人はその代表の一種ということになる。
(…とすれば戦後日本は国としての統一的アイデンティティを持ちようがない混迷状態にある、
つまり国ではないということになる。)

131 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:40:42.37 0.net
…ガスカールも捕虜収容所にあって戦時中のフランス軍の強力なレジスタンス戦を幻想し、信じ、
その結果戦後のフランスが米、ソ、英と並ぶ戦勝国とされ、
国連でも常任理事国とし我世の春をことほぐという欺瞞国家ぶりに何の疑問もいだかなかった。
だがそのフランスは四〇年五月一〇日ドイツ軍が総攻撃を開始すると殆ど抵抗の余地なく敗北、
その逃げ足が早すぎたため
友軍のイギリス軍とともにドイツ軍にダンケルクに追いつめられ大損害を受けているし、
六月一四日にはもうパリに入城されている始末なのである。
その後はペタン元帥によるナチス協力政府がヴィシーに成立し、ラヴァルにひきつがれ
四四年のフランス開放までの四年間フランスを一応実質的に支配しているのである。
それに対しロンドンのドゴールの亡命政権なるものはロンドンでのラジオ放送に熱心なだけだった。
ドゴール自身が、ちょっとアフリカ戦線へ顔をだしたものの、まともなフランス部隊がいるわけでない。
もっぱらモスクワ、ワシントンなどを詣でて得意の政治工作に努めていたにすぎない。
フランス陸・海軍も最初から最後まで余りまともな戦いはしなかったのである。

ただドゴールは稀代の策士、途方もなく巨大な政略人だった。
自分を戦場の名司令官と宣伝、事実上四年間フランスを支配していたヴィシー政府の存在を否定、
安全地帯ロンドンでラジオでわめいていただけの亡命政権を
正統政府であり対独戦に大きな役割を果たしたごとく連合国側の政治家に信じさせることに成功したのである。
さすが昭和二〇年二月のヤルタ会談では、チャーチル、ルーズヴェルト、スターリン三者にかぎられたが、
その後の会議にはその画策が成功し、
例えば八月のオーストリア占領は米英仏ソ四ヵ国の分担で行われているのだ。
何もしなかった亡命政権を米英ソと対等に並べ、
戦後世界に発言権を行使するのはフランス人にとってそれは楽しいことであろう。

132 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:41:47.51 0.net
だがそういうパフォーマンスだけの欺瞞国家を奉じかついで来たフランスは
戦後実のある何も生み出していないのではないか。
かれらの駄物を無上のものと押戴いてるのは日本だけではないか。
間髪を入れずその作品群が日本語に翻訳されているガスカールにしたところで、本当のところ、
その価値はどの程度のものになるだろう。
戦後における日本の最大の過ちは亡国、国家でなくなった日本を国家と見せかけた欺瞞性にある。
国家はもともと理念という虚構の上に立つといわれるが、
その理念でなくこの欺瞞性というものを国家の基としている点ではフランスと共通する。
こういう日本を肯定するにせよ、否定するにせよ、
国家として取扱うことに戦後の日本の最大の問題があるのである。

133 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:44:01.45 0.net
ttp://www.nhk.or.jp/hakunetsu/literature/
NHK カズオ・イシグロ 文学白熱教
ttp://newskeimatomedouga.blog.fc2.com/blog-entry-33274.html
カズオ・イシグロ 文学白熱教室 20150717

33分00秒
私が非常に興味を持っているのは、人が自分自身にウソをつく才能だ。
他人にウソをつくつもりが無くても本当ではないことを言ってしまう。そのような信頼できない状態は、
フィクションを書くに当たって非常に有効で、フィクションにピタリとハマる手法だと思う。
…一人の登場人物の記憶を通じて語るという手法に、私は引き付けられている。
取りつかれていると言ってもいい。それは私のテーマにピタリと良く当てはまるからだ。
特に興味を持っているのは人はどのように自分と向き合うのか。どのように自分の人生を評価するのか。
どのように不愉快なことを避けるのかと云うこと。
最近更に興味を持ったのは、社会全体がどのように自分たちを欺くのか。或は意図的に忘れようとしているのか。
それとも記憶に留めたままにするのか。急に忘れたことを思い出したりもする。
それは社会の政治的な目的に適うからなのだ。

34分29秒
質問者女性:
記憶の本質的な曖昧さに向き合うことと、
過去の歴史的な社会的な罪に、対して責任を負うことについてどのようにお考えでしょうか。

134 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:45:12.59 0.net
イシグロ:
それに対する簡潔な答えは無いだろう。答えは見つからないかもしれない。
過去に仕出かした過ちに何時向き合うのが良いと云うのは難しい。
…もし過去に怖ろしい事件が起きて
それが正義と云う観点からすれば忘れてはいけない過去の出来事として葬り去るのは間違っているとしよう。
だがこのことを深く考え始めると、この問いそものもが難しいと解る。フランスを例に取ろう。
第二次世界大戦中、その時代に戻ってみよう。
フランスは第二次世界大戦中、ほとんどの期間、ナチスドイツに占領されていた。
往々にしてフランス人の多くが、ナチスドイツの協力者となり、ナチスを助けていた。
フランスのどの村でも誰かがレジスタンスをナチスドイツに売っていた。
ナチスドイツの圧力は大したこと無かったはずなのに、フランス系ユダヤ人を強制収容所へ送り込んだ。
そして戦争が終わった。フランスはこれらの記憶、
つい最近起きた出来事の記憶をどうするべきか決断する必要があった。
しかもこの記憶は社会の奥深くに刻み込まれていた。
どの町でもども村でも何処の誰がナチスドイツに協力していたのか知っていた。

135 :考える名無しさん:2015/07/30(木) 23:46:29.38 0.net
誰がレジスタンスに身を投じて、敵に売られたのか知っていた。ドゴール大統領は意図的な決断をした。
社会の連帯を守るために、社会を崩壊させないために、この国が再び強くなるまでのしばらくの間、
国民全員が勇敢なレジスタンスだったという物語を信じよう。全員が戦ったのだ。
全員がナチスドイツに立ち向かったのだ。
その後に、連合軍によって解放されて最後まで勇敢に戦ったと信じよう。
今でもフランス人の多くはそう信じている。私は理解できる。
そんなウソをつき続けるのは恥辱だとする一方で、そんなウソが無ければ国家が崩壊すると云う、
最悪な事態になりかねない危機的な状況だったと。非常に複雑な問題だ。
これに対して一般論で答えようとは思わない。
それが社会に対することでも個人に対することでも、これは社会と個人が直面する永遠の課題だと思う。
何時忘れて何時まで忘れるのか。何時勇気を持って暗い記憶を明るい場所へ引きずり出すのか。

136 :考える名無しさん:2015/07/31(金) 00:01:06.97 0.net
ttp://www.news-postseven.com/archives/20150727_338102.html
安倍談話と真逆の天皇談話出れば国際的には上位の声明となる 2015.07.27

「終戦記念日に陛下が先の大戦についてメッセージをお出しになるのではないかという情報は
5月頃から流れている。陛下は先帝(昭和天皇)から、先の大戦で軍部の独走を阻止できなかった無念の思いや
多大な戦死者と民間人犠牲者を出したことへのつらいお気持ちを受け継がれている。
万が一、お言葉の中で首相談話から省いたアジア諸国の戦争被害に対する思いが述べられれば、
安倍首相は国際的、国内的に体面を失うだけでは済まない」
そこに安倍談話と真逆の「天皇談話」が出されれば、
国際的には「日本の国家元首のステートメント」として、首相の“私的談話”より上位の声明とみなされる。

137 :考える名無しさん:2015/07/31(金) 00:17:04.43 0.net
果たしてワイツゼッカー演説を凌駕するか、肩透かしに終わるのか、8.15演説の衝撃度

戦後の欺瞞をここで断ち切るか、それとも欺瞞の中で野垂れ死ぬか。
(まあ高位者は庶民を足蹴にして生き残るでしょうがw) 今、日本は岐路にある。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/30210307.html
ttps://www.youtube.com/watch?v=gapXJ9weaNU

138 :考える名無しさん:2015/12/13(日) 23:49:47.17 0.net
瀬木比呂志「リベラルアーツの学び方」

…つまり、実践的な意味における生きた教養を身につけ、自分のものとして消化する、
そして、それらを横断的に結び付けることによって広い視野や独自の視点を獲得し、
そこから得た発想を生かして新たな仕事や企画にチャレンジし、
また、みずからの人生をよりふかく意義のあるものにする、
そうしたことのために学ぶべき事柄を、広く「リベラルアーツ」と呼んでよいと思います。
…日本でも、一部の大学には教養学部が存在します。僕の卒業した東京大学にも教養学部があります…
しかし、そのような大学は日本ではごくわずかであり、また、そうした大学においても、
先に記したような意味でのリベラルアーツが十分に教えられているかといえば、それは疑問です。
教養学部のカリキュラムも要するに諸学の寄せ集めにすぎず、
それらの間の横断的共通性はほとんど意識されていません…日本の大学には、
自由な精神とはほど遠い学部や学科ごとに細かく分断されたセクショナリズムの伝統があって、
教授たちの教え方も、上から下に知識を下げ渡す方向の権威主義的なものである場合が多く、
少人数の対話型演習もあまり行われていません。つまり、欧米の大学のように
リベラルアーツを体系的に、系統的に学ぶことができるようなシステムにはなっていないのです。

139 :考える名無しさん:2015/12/13(日) 23:50:20.60 0.net
これに対し、ヨーロッパの大学にはギリシア・ローマ時代以来のリベラルアーツ教育、
学際的教育の伝統がありますし、アメリカには…
少人数でリベラルアーツを深く学ばせることを目的としたリベラルアーツカレッジが存在します。
以上のような日本における大学のあり方、教育のあり方の欠陥は、
やはり…「タコツボ型社会」の弊害、その構造的な問題の帰結でもあります。
…リベラルアーツを学ぶことの意味、その学び方を身につけることの意味について、さらに考えてみましょう。
現在の日本は、バブル経済崩壊後の停滞の時代に入ってから久しいといわれます。
その停滞の根本的原因は構造的、経済的なものです。
しかし、同時に、世界のあり方が大きく変わったにもかかわらず、日本が、
また僕たち日本人が、これまでの古い枠組み、たとえば、「東大をはじめとする官学
(権力が正統として認め、統治や支配のよりどころとした学問)的な学風の強い大学で、
行政・司法官僚を養成し、彼らに民間を指導させる」といった、明治時代以来推し進め、
先の大戦における敗戦で仕切り直しと修正を行いながらも
その基本は変えてこなかった枠組みに固執していることの問題も、大きいと思います。
このような枠組みでは、官僚の劣化がそのまま国家や社会の劣化を招き、
また、人々が自分で考え、決断する力も育たない。そのことが明らかになってきているのに、
誰もその枠組みを作り替えられないでいるのが、現在の日本だと思います。

140 :考える名無しさん:2015/12/13(日) 23:51:07.62 0.net
単線的な成長が終わり、生涯雇用の原則も崩れ、グローバルな競争力が必要となった今こそ、
そのような世界で生き抜いてゆくための基本的方法・戦略として、個々の人間が、
自分の頭で考え、自分の頭で判断して、みずからの人生に新たな局面を切り開いてゆくことが求められています。
また、それは絶対に必要なことでもあります。
たとえば官僚や政治家、あるいは経済界や企業の上層部等の人々が設定した枠組みを
一歩も超えずにその中で努力しているだけでは、もう、だめなのです。
近年の政治、行政、司法の劣化、中心的な政治家、官僚、裁判官、学者等の劣化、
国家や社会の将来の方向を見据えてきちんとした議論や検証を行う姿勢の欠如、
そのために生じているさまざまな制度・システムの問題、
一例を挙げれば国家の財政問題、原発事故と原子力発電のあり方、エネルギー政策をめぐる問題、
そうした事柄をみれば、官僚主導の「護送船団方式」的なやり方がもはや機能していないことは明白だと思います。
個々の日本人が自分の力で考えなければ、自分自身の人生を主体的に切り開いてゆくことも、
企業等の集団、あるいは社会や国家の、新たな、
そして自由でより豊かな枠組みを作ってゆくことも、難しいでしょう。
そのような意味で、考える方法や感じる方法の生きた蓄積であるリベラルアーツは、個々人がみずから考え、
発想し、自分の道を切り開いてゆくための基盤として、まず第一に必要とされるものではないかと思います。

141 :考える名無しさん:2015/12/14(月) 00:00:32.80 0.net
ttp://toyokeizai.net/articles/-/13697
日本人の的外れな「リベラルアーツ論」山田 順 :ジャーナリスト
リベラルアーツとは何か(上)2013年04月17日

まず、欧米と日本では、そもそも学問のとらえ方自体が違う
なぜなら、日本の大学で現在行われている教育そのものが、根本的に欧米の学問体系からズレているからだ
心理学や経済学は…理系に分類されている
欧米の学問体系からいくと、心理学科が文学部にあること自体が異常
欧米の教育システムを日本に移植する際に、数々の誤解、勘違いが生じた
もっとも重要なのは教育自体が欧米とは異質だという点
ところが、「歴史」も「地理」も「文学」もみんなアートなのである
アートは芸術ではない。サイエンスも理科や科学ではないということに、私は、あるとき気がついた
そもそもアートやサイエンスの日本語訳が違うのだ
訳が違うというのは、その言葉が持つ概念が違うということ
アートとは何なのだろうか?それは、あえて日本語に置き換えれば「人工」ではないだろうか?

142 :考える名無しさん:2015/12/14(月) 00:01:09.74 0.net
アートの反対語は何か?と考えると、より理解できる。アートの反対語は「nature、ネイチャー」(自然)である
英語を話す子供たちは、ネイチャーを海や空、山や森などとは答えず、「things God made」と答える
社会の在り方が、キリスト教の世界観で説明されている
自然を「神がつくったもの」と答える世界観は、ここで出来上がる
これが英語世界の基本的な世界観であり、実は、欧米の学問体系も、この世界観に基づいてつくられている
欧米の学問体系は、大きく2つに分かれている…ひとつがアートで、
もうひとつがサイエンスだ。アートとは「人間がつくったもの」だ
科目でいうと、文学、歴史、哲学、美術、建築、音楽などだ。
これらの学科は、一般的に「humanities」(ヒューマニティーズ)と言われている。
そしてもうひとつのサイエンスは「神がつくったもの」、
つまり、この世の中にある人間以外がつくったものすべてを学び、研究することだ
リベラルアーツとは、ひと言で言えば、西洋世界の学術・学問の基礎である。
欧米の高等教育では、
このリベラルアーツがすべてのアート(ヒューマニティーズ)とサイエンスの「入り口」と考えられており
リベラルアーツをより正確に日本語にすれば、「教養学」より、「基礎学問」のほうが最適ではなかろうか?

143 :考える名無しさん:2015/12/14(月) 00:13:25.28 0.net
Robert Belle Burke[Opus Majus of Roger Bacon Part1]
Part Two: Philosophy

Theology the exposition of divine truth made through the sciences
—The wisdom of philosophy is the wisdom of God—
Unbelieving philosophers and poets:early Greeks, Aristotle
—The patriarchs and prophers—philosophy completed by christian faith.

144 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:55:38.85 0.net
プラトン全集12 『ティマイオス』『クリティアス』岩波書店
『ティマイオス』解説 種山恭子
本編には、そうした自然学説を批判しながら、『国家』の理念を支えるような宇宙論を展開している
『国家』では、魂の正常なあり方と、国家の正常なあり方とがパラレルに置かれて、
次のように論じられていた…個々一人一人の人間にも、理性、激情、欲望の三種類の魂が宿っており、
それに応じて、国家の成員にも、理性的人間、激情的人間、欲望的人間が存在する。
その三種のどれが主導権を握るかによって、個人のあり方も、国家のあり方も左右される
他人の生殺与奪の権を握ることや、自分の欲望の無際限な拡張と充足とに、無上の生甲斐を感じる手合い
(『ゴルギアス』中のカリクレスが代弁しているような連中…)が、政界をまかり通る時に生じる破綻は、
アテナイの現実からも十分見て取れるところであったろうが、
プラトンがまた、「権力政治」から「金権政治」へ、そこから「民主政治もしくは衆愚政治」へ、
そしてついに、最悪の形態たる、
個人の恣意にすべてが委ねられる「専制政治」への必然的な雪崩現象を予測していたこともつけ加えておこう。

145 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:56:11.05 0.net
「激情の種族」も「欲望の種族」もたしかに、個人においても国家においても、主導権を握る資格のない存在である。
国家で政治の枢要の位置を占める資格のあるものは、「名誉心に憑かれた者(ピロティモス)」でもないし、
「金銭に執着する者(ピロクレーマトス)」でもなく、ただ「知を愛する者(ピロソポス=哲学者)」――
つまり、冷静に推理し、全員にとって何が真に“善い”かを追求し、それを最大の関心事とする者――
だけであろうし、個人においても、衝動的・盲目的な「激情」や「欲望」でなく、
「理性」が主導権を握る状態が、もっとも正常なのである。
逆に言うと、人間の「理性」と同質の、しかしもっと純粋で…もっと強大な「宇宙の魂」が万有を動かしているのだ。
われわれは先に、『国家』では、個々の人間の構造と、国家全体の構造がパラレルに置かれて、
どちらにおいても理性の種族が主導権を握る“べき”だと言った。
本編では、人間の構造が、宇宙全体の構造とパラレルに置かれており、
しかも、宇宙においては、“じっさいに”、理性を宿す宇宙の魂…がすべてを動かしているのである。
「天にある理性の循環運動」は、われわれの「思考の回転運動」を矯正するモデルとなるものなのである…
われわれの理性と同質の、もっと純粋で強力な知的存在が宇宙全体を支配しているという点は、
…まさにそうした…この宇宙論全体の、大前提をなしているものなのだ

146 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:57:42.29 0.net
矢内原伊作「デカルトと現代」
昭和33年10月 世界文學体系 月報8 筑摩書房

いま私の机の上には二つのデカルト読本がのっている。
二つともデカルトのテキストを抜粋して中学校の教科書向きに編集した小さな本だが、
一つはヴァレリイが編んだものであり、もう一つ方の編者はサルトルである。
ヴァレリイとサルトルという現代の最もすぐれた文学者、
しかも正反対といってもいいほど異質的な二人の思想家が、揃ってデカルト読本を編んでいる
ヴァレリイが最も重んじている明晰な知性とサルトルが最も重視している人間的自由、
この両面を兼ね備えているところにデカルトの偉大さがあり、またその現代的意義がある
久しく近代合理主義の祖として見られてきたデカルトは、
今世紀にはいってからさまざまな立場から見直され、新たな光の下に再評価されている。
現代のさまざまな哲学的立場は、デカルト哲学の中にそれぞれの先蹤を見出し、
そこから教訓をくみとることによって自らの立場を形成してきていると言ってもいい
デカルトを読むことなしには哲学をすることは出来ないというのは少しも誇張ではない
フランスでは何世紀にもわたって、『方法叙説』を読むことは一般教養の必須の条件とされてきた。
だからこそヴァレリイやサルトルも一般向きの読本を編んでいる

147 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:58:28.45 0.net
なぜデカルトはかくも大きな影響を与え、その思想の光芒を現代にまで強く投げかけているのであろうか。
その理由は極めて多いであろうが、少なくともその最も根本的な理由の一つは、
考えるという人間能力をデカルトが最も徹底的に深く究めたところに求められよう。
その形而上学や自然学の体系はこの思考の結果に過ぎない。
結果である体系は知識の進歩によって時代遅れになるかもしれないが、
この体系の源となった思考そのものは、その徹底的な深さの故に時代を超えて生き続けている
人間を高邁な自由意志の主体として把握していたデカルト哲学の重要性は、
人間の危機が意識されればされるほどいっそう大きなものとして輝くであろう
或いはまたこういう風に言ってもよい。
わが国でデカルトがひろく読まれる時は民主主義が日本に根をおろす時であろう、と。

148 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:59:23.65 0.net
最近パリから送られてきたフランスの週刊誌『アール』に、
現代フランスの大学生の思想傾向を調査したアンケートが出ていたが、
「最も好む古典」という問いに対しては聖書についでデカルトという答えが多かった。
しかし私がいっそう興味深く感じたのは「最も重要だと思う徳目」という問いに対する答え
そこには勇気、誠実、友愛、正直等々といった徳目があげられているが、
圧倒的な多数で第一位を占めていたのが知性という答えである。
最も大切な「道徳」は、ときかれて「知性」と答える、これはいかにもフランスらしい。
デカルトの伝統は死んではいない…というよりはむしろ
現代は他のいかなる時代にもまして「道徳としての知性」が求められている時代であろう。

149 :考える名無しさん:2016/03/24(木) 22:59:53.40 0.net
>デカルトを読むことなしには哲学をすることは出来ないというのは少しも誇張ではない
>なぜデカルトはかくも大きな影響を与え、その思想の光芒を現代にまで強く投げかけているのであろうか。
>その理由は極めて多いであろうが、少なくともその最も根本的な理由の一つは、
>考えるという人間能力をデカルトが最も徹底的に深く究めたところに求められよう。
>結果である体系は知識の進歩によって時代遅れになるかもしれないが、
>この体系の源となった思考そのものは、その徹底的な深さの故に時代を超えて生き続けている

>人間を高邁な自由意志の主体として把握していたデカルト哲学の重要性は、
>人間の危機が意識されればされるほどいっそう大きなものとして輝くであろう
>或いはまたこういう風に言ってもよい。
>わが国でデカルトがひろく読まれる時は民主主義が日本に根をおろす時であろう、と

150 :考える名無しさん:2016/03/25(金) 23:37:15.41 0.net
反時代的密語 梅原猛  朝日新聞

近代という時代は二つの哲学によって支配されている。一つはデカルトの哲学である。
それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然を対立させ、
人間が自然の法則を認識することによって自然を支配し、
…武力と経済力を獲得することを最大の善とする思想である。
もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブスの哲学である…
それが理性によって人間が他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。
この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。
デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。
天台本覚論は、動物ばかりか、すべての生きとし生けるものに仏の性があり、
それらはやがて仏になるという思想である。
プラトンに始まる西洋合理主義の文明が科学技術文明を生んだが、
今この科学技術文明は人類の滅亡を招く危機を生んでいる。
田中哲学にも近代文明に対する危機感が欠如している…
この人間中心主義が、近代哲学の開祖となったデカルトにおいてより明確に現れる。
文明の危機を免れるには、
このような人間のみが持つ理性を聖化する人間中心主義を厳しく批判しなければならない。

151 :考える名無しさん:2016/03/25(金) 23:38:02.25 0.net
柄谷行人「隠喩としての建築」

F.M.コーンフォードは、ギリシャの思想家をほぼ二つに分けている。
一つは、進化論的なもので、世界は生命のように生まれ成長するという見方であり、
もう一つは、創造説的なもので、世界は芸術作品のようにデザインされているという見方である…
いいかえれば、「制作」として世界をみるか、「生成」として世界をみるかに分けられる…
古代ギリシャの一般的素地においては、
プラトンやアリストテレスは、生成を制作とみることにおいて、…むしろ少数者であったというべきである。
彼らの「建築への意志」がその素地のなかに溶融してしまわない為には…、ある非合理的な強力な思想、
つまりGod as the Great Architectという思想が不可欠だっただろう。
私は…次のことを指摘しておきたい。
しばしば合理的思考の源泉とみなされるギリシャの思想における「建築への意志」が、
ヘブライズムに劣らず、非合理的な選択にほかならなかったということである。

152 :考える名無しさん:2016/03/25(金) 23:38:38.42 0.net
21世紀図書館 必読の教養書二百冊 文芸春秋 2008年12月号
立花隆(評論家) 佐藤優(起訴休職外務事務官・作家)

立花 あのカテキズムをそのまま取り入れたグループが、戦後最大の爆弾テログループ「狼(おおかみ)」だった。
ひたすらなる破壊主義は右翼の血盟団とも通低している。テロリスト的革命運動の原点はネチャーエフにある。
人間は右も左も全く理解不能なほどに狂うことがある。
そういう狂い方をきちんと知るために、他に例えばヒトラーの『わが闘争』(30)ですとか…
共産主義思想へつながるトマス・モアの『ユートピア』(71)…
ハックスリーの『すばらしき新世界』(95)も誤りの思想史として重要です。
社会改造思想の根本的な間違いの源流をたどると、プラトンの『国家』に行き着く。
プラトンの『国家』がいかにこの現実世界の歴史において悪をなしてきたか、
を実に見事に論じたのが佐々木毅の『プラトンの呪縛』(62)です。
「ナチスの全体主義も、プラトンの焼き直しで生まれた現実社会である」といっている。

153 :考える名無しさん:2016/03/25(金) 23:40:03.80 0.net
殺し合いが「市民」を生んだ いま「ヨーロッパ」が崩壊する(上)
阿部謹也『日本に西欧型「社会」は存在するか』

現代ヨーロッパの源にある禁欲主義的運動
では、ヨーロッパはなぜ、呪術的なものを整理できたのか。その点に関して神判の問題との関連で言えば、
十一〜十二世紀にヨーロッパ社会はある画期的な転機を迎えた、離陸したんだと思います。
そのきっかけは聖と俗の分離です…私はこれが最大の理由であると思っています。
聖と俗が分離した理由は、
二世紀から六世紀までの、ヨーロッパよりむしろローマ末期にその源があります。
つまり、ローマ末期のあの禁欲主義的な運動というものが、
まさにヨーロッパの現在をつくったと言えると思います…呪術的なもの、アニミズム的なものは、
ヨーロッパでも十一世紀までは日本と同じようなかたちで存在していた、
むしろそれが基本構造だったと言っていい…
十二世以前のヨーロッパの共同体は、むしろ聖なるものが俗なるものに介入してくることに、
問題の解決を求めていた…それが変化してきます。なぜ変化したのか。
そのようなものはどこの世界でもあったわけですから、それだけでは説明がつかない。
私はやはりキリスト教の問題が大きかったのではないかと考えています。
つまり、中世になって、聖なるものと俗なるものとが分離するきっかけが生まれた
聖と俗が分離するということは、言い換えれば日常生活がある意味で合理化されていく、
アニミズム的なものが消えていくということです

154 :考える名無しさん:2016/03/25(金) 23:41:04.30 0.net
ゲルマン人のあいだにキリスト教が浸透していく過程で、
もともとゲルマンにあった呪術的な裁判慣行はキリスト教化されていった…
そして、一二一五年のラテラノ公会議で、神判に司祭が関わることが禁止されました
このラテラノ公会議以降、すべての成人男女は少なくとも年に一度は
教会の司祭の前で告解することが義務づけられました。
これは、ヨーロッパにおける個人というものの成立の第一歩でもあったわけですが、
その際の司祭のためのマニュアルが、贖罪規定書と言われるものです
十一〜十二世紀にかけて、世俗的なさまざまな慣習、ゲルマン的・異教的な伝統や信仰、
迷信・俗信の類いが法的に否定されていきます。
日本では現在でも認められているような慣習、たとえば雨乞いや、吉日に結婚することなどが禁止されていく
この贖罪規定書を分析していきますと、ヨーロッパではこのころに、
呪術的・アニミズム的なものが消えていき、聖と俗の境界線が新たに引かれていった
長い年月をかけて、少なくとも公的な場ではそういうものを合理化するという発想が根づくにつれて、
徐々に消えていった。そして、十七〜十八世紀以降の啓蒙思想と、それに基づくフランス革命、
名誉革命、ドイツ三月革命などの市民革命を経て、決定的に押さえ込まれていったのだと思います。

155 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 11:30:38.51 0.net
ブルバキ「数学史」

プラトンなどははとんど数学にとり憑かれていたといってもよく、
自分でこの分野の実際的推進者の一人にこそなってはいないが、
ある年齢から後では、当時の数学者
(…大ていは自分の友人か弟子だったが)のさまざまの発見をずっと知らせてもらっており、
新しい研究方向を示唆するという程度にまで、きわめて直接的に数学に興味をもち続けていた…
しかしアリストテレスは、
その当時の数学の動きと常に接触を保とうと…努力したようには、まったく見えない人で、
数学からの引用にしても、すでにずっと前に常識化していたような結果に限られている。
…この間のずれは、それ以後今日までの大多数の哲学者においては強まる一方で、
彼らの大部分は専門上の予備知識を欠いている…
当人は本気で、数学…を万事わきまえて物をいっているつもりらしい…が、
本当は数学の発展のなかですでに超えられてしまった過去の段階を頼りにしているだけ、
と…なっている

156 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 11:31:36.04 0.net
ギリシャ時代より前にすでに十分の発達をとげていた或る数学があったことは今日もはや疑問の余地はない…
(すでに非常に抽象化された)概念が、エジプトやメソポタミアにの残されていた最古の記録の中で、
自由自在に使われ…バビロニアの代数などはその方法の美しさや確実さの点から見て、
経験的な試行錯誤で解いた問題の単なる寄せ集めだとは、とても考えられない…

ギリシャ人は数学的証明というものを一系の列に整列排列し、
その推論の一歩一歩について何の疑問も残さぬように、
普遍的な同意を是が非でも得るようにと意識的な努力をしたのであって、
まさにこの努力の中にこそギリシャ人の独創性の本質的なところがある…

なお、伝承が一致して伝えるところによると、
この方法を発展させ完成させたのはピタゴラス学派の功績であり、
それは紀元前6世紀の終わりから同5世紀の半ばに至る間の或る時期のことだと言われている。
紀元前5世紀のギリシャの哲学思想について…ある一つの努力が全体の主調になっている…
当時の修辞法や数学では、討論の折り目を正して明確なものにする手続きが用いられ…
十分な成功を収めていた…それを人間の思想のあらゆる分野にまで拡大しようという努力、
言いかえれば、もっとも一般的な意味における論理学というものを創り出そうという努力が、
次第に自覚の度を高めつつ、当時の哲学思想を支配していた

157 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 11:33:40.30 0.net
〇〇〇〇〇〇〇〇「〇〇〇〇〇〇〇〇」

ピタゴラス派の自然哲学は実質を欠き、自然科学のどの分野にもあまり貢献していないので、
その理論は空転していると言ってもよい…
しかしこの学派は、真の洞察によるか、まぐれ当たりであるかは別として、
後になってその重要性がたしかめられた次の二つの教説を推進した…

(一)自然は数学的原理でつくられている。
(二)数の関係が自然の秩序の根底にあり、それを統一し、顕示する。

ホッブスは、真理に対する数学の独占権を、数学者さえ反対するほど、強く主張した。
当時の数学者ウォリスは、物理学者ホイゲンス宛ての手紙に次のように書いている。
「リヴァイアサン」はわれわれの大学を(他の大学も同様ですが)はげしく攻撃し破壊するものです。
その攻撃は特に聖職者に向けられ、キリスト教世界には哲学上宗教上のまともな知識は一つもなく、
みなばかげたものであると言い、
哲学の理解なしに宗教の理解なく、数学の理解なしに哲学の理解がないかのように言うのです。

158 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 18:03:31.49 0.net
彌永昌吉「数学についての手紙」

ご存知かもしれませんが、ヴァリエテの最初に出ている「精神の危機」…という有名な文章の中にあります…
この「ノート」は一九二二年一一月一五日、チューリッヒ大学で講演したもので、
「ヨーロッパ文化の特質」ともいうべき内容です…
一九二二年といえば、いわゆる「二つの大戦の間」の時期で、ヨーロッパが大きな不安におおわれていたころです。
シュペングラーの「西欧の没落」は、一九一八年、第一次大戦の直後に第一巻が出版され、
このころ非常な評判になっていたこともご承知のことと思います。戦争ですべてのものが傷つけられた。
そしてその傷つけられたもののうちにEsprit (「精神的なもの」とでも訳したらよいでしょうか。)がある。
エスプリは残酷に傷つけられ、自信を喪失した。 ――― このエスプリとは一体何であろうか。
今日の世界の状態によって、エスプリのどうゆうところがいためつけられたのであろうか。
―― このようにヴァレリーは話をはじめています。
そこで、人間精神の特質は何であるか、それは……夢を持つことである、とヴァレリーは自問自答します。
…ところでこれらの夢とその実現、殊にその実現の名誉あるリストを眺めると、奇妙なことに、
これらの実現の大部分のなされた場所は、地球上の比較的小さな面積を占める一部分にすぎないことがわかる。
それがヨーロッパである。それならば、そのヨーロッパの特質はどこにあるか、ヨーロッパ人とは何であるか、
――― というところに話の中心が移ります。
この問題に対して、自分はかりに一つの定義をもって答えようと思う。
(ヴァレリーは「かりに」ということを強調しています…)… … …――の三つを挙げているのです。

159 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 18:04:29.36 0.net
この第三の点が、ヴァレリーがここで最も力を入れて書いているところですし、数学とも関係するところです…
ヴァレリーは大体次のようにいっています。
「われわれがギリシャに負うものが、われわれを、最も深い意味において他の民族から区別するものである、
われわれがギリシャに負うのは精神のしつけ(discipline del’Esprit)である。
…… このしつけから科学が生まれた。われわれの科学(Notre Science)
すなわちわれわれの精神の最も特徴的な産物であり、
その最も確実かつ人格的(パーソナル)な栄誉であるところのわれわれの科学…が生まれた。
いかにもギリシャ以前、エジプトあるいはカルデアに科学のようなものがあったかもしれない…
しかし、それらは不純な科学であって、
科学とはほとんど縁のないいとなみともいっしょになった職業上の技術と混合したものであった。
観察は以前より行われ、推理の方法も以前から使用されていた。
しかしこれらの本質的な方法が価値をもち、確実に成功を収めるためには、
他の不純な分子がそのじゃまをしないようにしてからでなければならない。
…ギリシャの幾何学は、そのようなモデルとして不滅不朽のものであった。
それは完全さを目ざすすべての知識のモデルとなったのみならず、
ヨーロッパ的知性のもっとも典型的な特質の、たぐいなきモデルとなった…」

ギリシャ幾何学といえば、言うまでもなくユークリッドの「原本」にまとめられているものです。
むろん、ユークリッド以後の進歩もありますが、
ヴァレリーが「科学のモデル」として挙げているのは、「原本」を指しているのにちがいありません…

160 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 18:05:24.00 0.net
小松彦三郎「暗記のすすめ」

…しかし、私はユークリッド幾何学を中学、高校の教育から追放したのは誤りであったと思う。
2300年前にあのような学問体系が生まれたのは奇蹟と思える。
イスラム文化を含め、西洋の文化はこれを綿々とひきついできた。
思うに、東洋の文化が西洋の文化に及ばなかったことが二つある。
一つはユークリッドの幾何学であり、他はニュートンの力学である。
そして、明らかにユークリッドがなければ力学は生まれなかった。
少数の原理を明確に把握すれば、他はそれに従う。
この思想によって西洋は政治的にも文化的にも世界を制覇することができた。
わが国の文化にこういう考えはない。
だからこそ、われわれは西欧文化の神髄であるユークリッドを学ぶべきであると思う。
ユークリッドの幾何学では、まことに平凡な定義公理から非凡な定理が数多く導かれ…る。
演繹科学のひな型として他にこれに代るものがあるとは思えない。 

161 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 18:54:24.37 0.net
人工知能がヒットラは間違ってないとか言ったらしいな

162 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 19:14:34.30 0.net
>>161
最悪の人間は誰、みたいな質問への答えがヒトラーだったらしい。
答えだけを切り取ると主旨が変わってしまう例だろう。

163 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 19:52:57.94 0.net
>>162

"Bush did 9/11 and Hitler would have done a better job than the monkey we have got now.
donald trump is the only hope we've got",
"Repeat after me, Hitler did nothing wrong"
and
"Ted Cruz is the Cuban Hitler...that's what I've heard so many others say".

164 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 20:04:36.91 0.net
>>163
質問で誘導されたというより、おかしな知識を吹き込まれたのか。
機械というのは怖いね。

というより、教育というのは怖いものだというべきだな。
ナチスはもちろんだが、日本の教育も変な方に行ってるからね。

165 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 20:48:24.17 0.net
ヒトラーも圧倒的な国民の支持を受けていたわけだしなあ。
ただ、日本兵がやってもいないぬれ衣を着せられていることを考えると、
事実は本当はどうなのか、ってのがほんの少しではあるけれど、疑問だ。

日本の場合、南京や慰安婦も、外国人がそのまま見たら信じるんじゃないか?
そのうえ、日本の政府から自白が出されたりしているわけで、それをきちんと否定しなきゃ
不名誉が歴史になってしまいそうだ。

166 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 21:19:54.50 0.net
>>165
まず前提としては、歴史の事実というのはいつでも闇の中だということは理解しないといけない。
日本軍の残虐行為も慰安婦の強制も、あったという人がいるというのが事実であるだけだ。

無かったと断定するのは、はじめから事実を見ようとしない姿勢としか言いようがない。
南京からの外国記者の報告という事実の断片はある。
それを嘘だと断定することは、今のところできない。

慰安婦の強制についても、当時の徴用制度が強制であったという事実から見て、必ずしも全否定できるものでもない。

大切なのは、歴史が名誉であるか不名誉であるかではなく、不名誉な事実には真剣に向き合うということが、名誉なことだという姿勢を持つことだ。

167 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 21:26:05.82 0.net
>>166
外国人は支那から金もらって書いた、とか毛沢東が南京にまったく言及していないとか、こっちにはこっちの
主張があるわけで(笑

慰安婦?キミは朝鮮人?

168 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 21:38:06.30 0.net
>>167
それはただの主張に過ぎない。
南京の事実としては、その記事と東京裁判での判決がある。
実際にあったことの証明にはならないが、無かったという主張に根拠があるわけでもない。

慰安婦の話を持ち出したのは君。

169 :考える名無しさん:2016/03/26(土) 21:56:27.14 0.net
まさかウソ八百の信奉者とは思わなかったので(笑

170 :考える名無しさん:2016/03/27(日) 11:31:44.03 0.net
>>169
愛国という自己愛妄想に浸っていては、世界をなにも理解できないよ?

171 :考える名無しさん:2016/03/27(日) 11:39:59.72 0.net
トランプの台頭でグローバリズムにもかげりがでてますぜ(笑

172 :考える名無しさん:2016/03/27(日) 11:41:26.05 0.net
>>171
愛国という自己愛妄想と、候補者の支持層の経済的な利益の区別ぐらいはつけておきなさいねw

173 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:20:29.80 0.net
木田元『日本人に「哲学」がわかるか』新潮45 1995年10月号

…はじめのうちは私も、誰でもが考えるように、哲学というのは普遍的な知だと思っていた…
ところが、だんだんそうは思えなくなってきた。
哲学というのは、「西洋」と呼ばれる文化圏に特有の知の在り方、ものの考え方であって、
われわれ日本人には決定的に分からない部分があるのではないか、と思うようになった
…私がそんな疑念をもつようになったキッカケは、西洋の近代哲学、
たとえばデカルト哲学の中心概念の一つである「理性」の概念にひっかかったところにある。
「理性」というのは近代哲学のもっとも中心的な概念の一つであって、
これが分からなければ近代哲学はまったく分からないといったほどに重要なものである。
たとえばデカルトが『方法叙説』の本分の冒頭で、
「良識はこの世でもっとも公平に配分されているものである」と言うときの「良識」
(ボン・サンス)も実は理性にほかならない。
当然私も、はじめのうちはそうした理性をちゃんと持ち合わせているような顔をしていた。
先生も先輩もみなそんな顔をしているし、
これが分からないなどと言い出したら、哲学をやる資格がないと言われかねない雰囲気だったのである。
しかし、内心では、いくら自分のうちを探してみても、そんなものはとても見つかりそうもないと思っていた。

174 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:21:33.95 0.net
われわれ日本人が「理性」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、
われわれのもっている自然的・生物的な認知能力のうちの比較的高級な部分であろうが、
近代の哲学者の言う「理性」とはそんな生やさしいものではない…

われわれがもっているような理性概念を持ちこんだりしたら、
近代の哲学書は一ページも理解できないにちがいない。
西欧近代の哲学者の言う「理性」とは、他の人間的諸能力より程度が高いといったようなものではなく、
それらとはまったく質を異にする。
それは、神が世界創造の最後の段階でおのれに似せて創造したすべての人間に分け与えた特別の能力、
つまり世界創造の設計図になった神の理性の派出所・出張所のようなものであり、
人間のうちにはあっても、一種超自然的な能力なのである。
だからこそ、「すべての人間に公平に配分されている」ことにもなるわけだし、
他の人間的能力(たとえば感覚機能)の働きを停止し、この理性だけを正しく働かせれば、
万人が真だと認める普遍的認識を手に入れることもできることになる。
同時にその認識は、世界創造の設計図の写しのようなものであるから、
客観的妥当性(世界の存在構造との合致)を保証されていることにもなる…

175 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:23:05.56 0.net
近代の哲学者たちは、数学的認識にそうした理性的認識
(感覚的経験の助けを借りずに、理性の力だけで得られる普遍的かつ客観的認識)の典型を見ていた。
こんな理性概念は、どう考えてみても、
キリスト教的世界創造論のような特殊な前提の上に立たなければ生まれえないものであろう…
こんな「理性」が、そうした神学とまったく無縁なわれわれのうちに見当たらなくても当然である。

しかし、私にしても、はっきりそう確信して、こういうことを言い出すようになるまでには、
ずいぶん時間がかかった。右のような理性概念はそれほど自明のものとして、受け容れられていたのである。
では、そうした超自然的能力の想定はもっぱらキリスト教にもとづくものかというと、そうも言えない。
というのも、すでにキリスト教に先立つ古代ギリシア哲学のうちにも、たとえばプラトンの説く
イデアやそれを直感する能力であるヌースのような超自然的な契機が認められるからである。
むしろ中世や近代初頭の「理性」概念がこのヌースのキリスト教的変容として生まれたと見るべきであろう。
 哲学の勉強をはじめた当初、私にはこのプラトンのイデア論も分からないものの一つであった。
なにしろプラトンは哲学の元祖のような人、
その思想に疑念を感じるなんてことはとうてい許されることではなかったが、それでも私には、
どうして永遠に不生不滅不変不動なイデアのような超自然的なものを想定することが当然だとされるのか、
いっこうに納得できなかった。

176 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:24:28.13 0.net
こんなふうに考えているうちに、
どうやら「哲学」というのは、こうした超自然的原理を設定し、
それに照らして自然なり世界なりを見ていこうとするかなり特殊なものの考え方、
思考様式ではないかと思うようになった。

われわれ日本人の思考圏には、こうした超自然的な原理はまったく見当たらない。
これは別に私だけではないと思う。われわれにとっては自然がすべてであり、
それを超えたものなどおよそ考えに入ってこない。いや、これは日本に限らず、
およそ「西洋」以外の文化圏では一般にそんな超自然的原理など持ち出すことはなく、
自然をそのままに受けとっているのではなかろうか… こんなふうに考えると、
超自然的原理を設定し、それを参照にしながら自然を捉えようとする思考様式
――この特殊な思考様式がどうやら「哲学」と呼ばれてきたようだが、
これはむしろ形而上学的(メタフィジカル)(=超自然的)な思考様式と呼んだ方が分かりがいい――は、
「西洋」という文化圏に独自のかなり特殊なものの考え方だと見てよさそうに思えてくる。
中世以降のキリスト教神学やそれに支えられた近代の理性主義哲学は、そのヴァリエーション、
あるいはその中世的および近代的更新と見ることができよう。
この種の考え方には、われわれ日本人にとって決定的に分からないところがあるし、あって当然なのである。

177 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:50:52.34 0.net
木田元『「哲学」とは何であったのか』中央公論 1998年2月号

わたしも哲学の勉強をはじめた当初は、<哲学>というのは
どの文化圏にもどの時代にも当然あるべき世界観、人生観のたぐい、つまり一種の普遍的な知だと思っていた。
少なくとも、あたりの誰もがそう信じて疑わないらしいのに、あえてそれに異を立てる気もなかった。
…その疑念が顕在化したのは、デカルトやカントらの近代哲学にふれてからである。
私はもともとハイデガーの『存在と時間』を読みたい一心で…哲学の勉強をはじめた…
しかし…基礎的トレーニングをする大学の演習で読まされるのは、デカルトの『方法叙説』とか
カントの『純粋理性批判』とか、近代哲学の古典である。いやでも読まざるをえない。
ところが、これらのテキストを読んだとき私は、現代の哲学書を読んでいては感じなかった分からなさを感じた。
むろん現代哲学がやさしいということではない。難しいといえば…
ハイデガーの『存在と時間』などの方がはるかに難しく…デカルトの『方法叙説』など実に平明である。

178 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:52:01.93 0.net
しかし、そうした難易とは違う独特の分からなさを、私はデカルトに感じた…
たとえば『方法叙説』の本分の冒頭に、
「この世のもので最も公平に配分されているのは良識(ボン・サンス)である」というくだりがある。
そして、すぐあとでこの良識は理性(レゾン)と言いかえられ、
これはわれわれに平等に与えられている能力だから、
この能力を正しく使えば普遍的認識を手に入れることができる、と言われる。
デカルトの考えからすると、この能力を正しく使えば、単に普遍的であるだけではなく、
さらに客観的妥当性をももった認識を手に入れることができるということになるらしい。
つまり、その認識は、世界の存在構造に正確に対応もする、というのである。これが私には分からなかった。
われわれも<理性>とか<理性的>とかいった言葉を日常使うが、
いくら上質でも…他の諸能力と同様、かなり個体差があって、すぐれた理性をもつ者も、
あまりその能力にすぐれていない者もいると思っている。
デカルトの言うように、「この世で最も公平に配分されている」ようなものではありえないし、
環境に適応するのには多少役立っても、
それによって世界の存在構造を客観的に認識できるといったようなものではない。
デカルトの言っているのは、どうもわれわれの考えている理性とはまるで違うものらしいと思うようになった。

179 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:53:37.77 0.net
テキストを読めば読むほど、デカルトの言う<理性>は、われわれ人間のうちにはあるが、
なにか超自然的なもの、つまり神の理性の出張所とか派出所のようなものとしか思えなくなってきた。
つまり、神が世界を創造し、その最後の段階で人間を造ったとき、
自分の理性のミニチュアのような理性を人間に植えつけた。
そう考えれば、この理性が「公平に配分されている」わけも分かるし、その理性を正しく使いさえすれば、
すべての理性の持ち主が真だと認める普遍的認識を手に入れることができるというわけも分かる。
のみならず、神の理性は、いわば世界創造の設計図なのであるから、
その設計図の写しのようなものであるわれわれの理性を正しく使えば、
世界の存在構造について知ることができても不思議では無いことになる。
つまり、デカルトはキリスト教の世界創造論を前提にしてものを考えているのである。
近代哲学の創始者と言われるデカルトがまさか…と思われるかもしれないが、
今世紀に入って…かなりの研究者たちがデカルトの思想と中世のスコラ哲学の連続性を強調している。
それに、そう考えなければ、彼の理性概念はとても理解できそうにもない。
だが、もしそうだとすれば、
こんな理性は、そうした神学的前提を共有していないわれわれ日本人にとって分からなくても当然である。
少くとも、そんな理性をわれわれが持ち合わせているわけはない…
こういう理性概念を中軸に組織された知の体系であるから、
近代哲学はわれわれにとって決定的に分からないところがある。

180 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 22:59:31.22 0.net
だが、それは、必ずしもキリスト教が前提になっているからというわけではなさそうである。
キリスト教の出現のはるか以前のプラトンにも似たような考え方があるからである。
プラトンのイデア論がそうである。<イデア>というのも、生成流転する自然を超えた超自然的原理である。
このイデア論もまた、私には決定的に分からないものの一つだった。
しかし、これもまた、誰もが当然の考え方と認めているらしかったから、
いまさら分からないなどと言い出せるものではなかった。
むろん、プラトンにキリスト教的前提などあるはずがない。にもかかわらず、
キリスト教的神学やデカルトなどと同じように超自然的原理を設定した上でものを考えている。
これをどう考えればよいのか。

181 :考える名無しさん:2016/04/15(金) 23:48:04.84 0.net
<理性>とは何でしょうか

182 :考える名無しさん:2016/04/18(月) 10:52:57.28 0.net
>>181
西欧人にあって日本人にないもの。

183 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 14:34:26.93 0.net
デカルト「哲学原理」

私はその中で、まず最もふつうのことから始めて、哲学とは何であるかを説きたかったのです。
即ち、この哲学なる言葉は知恵(Sagesse)の研究を意味し、“知恵とは単に処世の才能でなく”して、
生活の思慮についても、健康の維持やあらゆる技術の発見についても、
人間の知り得るすべての事物の、完全な知識を意味すること、
そしてこの知識がかようなものであるためには、それが最初の原因から導き出されることが必要であり、
従って、本来の意味で哲学する、と呼ばれることの獲得に努めるためには、
これら最初の原因即ち原理の探求から始めねばならぬこと、
またこれら原理には二つの条件がなければならぬこと、
即ち一つは、それらが明白で自証的であって、人間の精神が注意深くその考察にむけられるときには、
その真理性を疑い得ないほどであること、
他は、これら原理に他の事物の認識が依存し、従って原理は事物なくしても認識できるが、
しかし逆に原理なくして事物は認識され得ないということ、
そしてその後に、これらの原理に依存する諸事物の認識を、原理から演繹し、
その実際行われる演繹の全過程のうちに、
完全に明白でないようなものは、何も残さぬようにしなければならぬ、
といったこと[を説きたかったの]であります。
つづいて私は、この哲学の効用を考察し、次のことを示すつもりでした。
即ち、哲学は人間精神の知り得る一切のものに及ぶのですから、
これが我々を野蛮で未開な人間から区別する唯一のものであり、
どの国もその国民が哲学するこが多ければ多いほど、文明と文化が進んでいるわけであって、
従って真の哲学者を有することは、国家に存し得る最大の財であると、考えねばならぬということです。

184 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 14:35:47.72 0.net
デカルト「方法序説」

…それから私は一つの方法をつくりあげたのである。
その方法というのは、私の認識をだんだんに増し、少しずつ高めて、
ついには、私の凡庸な精神を私の短い生涯とをもって私の認識が達しうる最高点までいたりうる、
と思われるような方法である…
私の企ては、各人がその理性をよく導くためにとるべき方法をここで教えようとするのではなく、
ただいかなる仕方で私が自分の理性を導こうとつとめてきたかを示すだけのことなのである。

よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力、
これが本来、良識又は理性と名づけられたものである…

第一は、私が明証的に真であると認めたうえでなくては、いかなるものも真として受け入れない。
注意深く即断と偏見を避けること…そして私がそれらを疑ういかなる理由も持たないほど
明晰判明に私の精神に現れるもの以外の何ものも私の判断に取り入れない

第二は、私が吟味する問題の夫々を出来うる限り多くの、
しかもその問題を最も良く解くために必要なだけの数の小部分に分かつこと

185 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 14:36:43.90 0.net
第三は、私の思想を順序に従って導くこと。
最も単純で認識しやすいものから始めて、少しずつ、いわば階段を踏んで最も複雑なものの認識まで登ってゆき、
かつ自然のままでは順序が持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと
最後に、何ものをも見おとすことがなかったと確信しうるほどに
完全な枚挙と全体にわたる通覧とをあらゆる場合に行うこと

幾何学者達が彼らの困難な証明に至達するために用いるのを常とする
全く単純な容易なもろもろの推理のあの長い連鎖は私に以下を示した。
すなわち、人間の認識の範囲に入りうる全ての物事は同様な仕方で互いにつながっているのであって、
それらの物事のうち真ならぬいかなるものの真として受け入れることなく、
かつそれらの或るものを他のものから演繹するに必要な順序を常に守りさえすれば、
いかに遠くへだたったものでも結局は達しうるのであり、いかにかくされたものでも結局発見できる。

186 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 14:37:56.65 0.net
第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、
神の恩寵により幼児から教え込まれた宗教をしっかりともちつづけ、
ほかのすべてのことでは、私が共に生きてゆかねばならぬ人々のうちの最も分別のある人々が、
普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端から遠い意見に従って、自分を導く、
ということであった…
そしてまた、それら分別のある人々の意見が、真実にはどういうものであるかを知るためには、
かれらが口にするところよりはむしろかれらが実際に行うところに注意すべきであると思われた。
これは、われわれの道徳が頽廃していて、
みずから信ずるところをすべて口に出そうととする人はほとんどなくなっている、というばかりでなくて、
いったい多くの人は自分が信ずるところを自分でも知らない、という理由ににもよるのである。
というのは、人が或ることを信ずるときの思考のはたらきは、
自分が或ることを信ずることを知るときの思考のはたらきとは、異なるものであって、
前者が後者をともなわぬことはたびたびあることだからである。
さらに私は、ひとしく世に受けいれられている多くの意見のうちでは、その最も穏健なもののみを選んだが、
これは、一つには、あらゆる極端は悪いものであるのが常であって、
どのような場合にも穏健な意見のほうが実行するのにいっそう便利であり
おそらくいっそう善いものであるからであり、…本当の道からそれることが少なくてすむだろうからである。

187 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 15:22:56.18 0.net
佐藤信衛「文体からみたパスカルとデカルト」
(昭和33年10月 世界文學体系 月報8 筑摩書房)

デカルトの文体はパスカルのが数学的であるようには数学的ではないが、その骨格は全く数学的である。
一例をもって言えば、例の「コギト・エルゴ・スム」の直覚から彼の考えは始まったもののように書かれている。
しかし、ほんとうはどうもそうらしくはなく、
証明することになっている命題が一方にいくつかすでにあって
そのために必要な仮設として思い当てられたもののように思われる。
この考えはデカルトの発明ではなく、アウグスティヌスにこれと似た考えも言葉もあり、
むろん当時の学者の間にはよく知られていたので、たまたまそれを聞いて採用したのである。
デカルトの興味は主としていろいろな考えの結合と組織 ――― まさしく数学! ――― にあったので、
それらの考えの定義にはなかったように見える…
デカルトの用語のすべてがじつはスコラ哲学に脈をひくものだというのが歴史家の説であるが、
そうあっても不思議はない。もしそうであったとしても、その方法はただの折衷ではなくて、
やはりあくまで数学的である。それらあり来りの考えが列べられた順序はどこまでもデカルトのものである。
たとえば、「コギト」の命題はまさにあるべき所に置かれているのであって、
もしこの言葉を彼がたまたま聞き知ることということがなかったら、
他の言葉を探してでも同じ意味の命題をつくってここに置いたにちがいない。
また、「神」の存在の証明にしても、もしこれが十七世紀初でなかったら、
別な言葉で表されてしかしこれと「等価な」命題が同じ位置に据えられたにちがいない。

188 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 15:23:49.45 0.net
『叙説』にしても『省察』にしても書き出しのところは誰にも分かる。
すべての考えをまず疑ってかかるということは分かる。そして
人間誰もが生まれつき授かっているはずの悟性がまちがいなしと信じることを見とどけ
それだけを積み重ねて行くことにしようと言っていることも分かる。
これこそ当時の新しい声であったにちがいない。
と言うよりは、これがもともと学問の一枚看板であったはずで、ただ永い間しまい忘れていたのである。
(そしてここから次の時代の啓蒙主義は流れ出した。)

ところが次の段へ行くと急に分からなくなる。
「我思う故に我あり」ということはいかにも言われるとおり自明な疑いない事実のようであるけれども、
誰にも直ぐ納得されるというものではけっしてなく、
あたかもここにこれが持ち出される顛末もほんとうはよく分からない。
更にそこからみちびかれる「神」や「魂」や「物」となるといよいよ分からなくなり、
そしてこれらの言葉は疑いもなく古い。

189 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 15:25:27.19 0.net
方法を数学的と言ったが、この方法の裏づけとなるはずのものの見かたもまた数学的と言うことができる。
これは簡単に言えば証明されるものだけが真だと考えていることである。
また言いかえれば、証明されるものだけがあるという考えかたである。
これは恐らく今日の我々の考えかたからすればもっともではなくて、すこしへんであろう。
しかしこれがギリシャ以来の一貫した立て前である。
このことがあるがためにいつまでも妙によそよそしく見えるのであろう。

十七世紀は、一名デカルトの世紀と言われるほどその哲学が流行した時代である。
率直でしかも行きとどいたその文章の魅力には誰も克てなかったであろう。それでいて今から見て
デカルトを正しく理解したと思われる人はひとりとしていないようなのはおどろくべきことである。

190 :考える名無しさん:2016/04/24(日) 15:26:50.43 0.net
野田又夫「世界文学体系 デカルト パスカル」

…もっとも忠実なデカルト主義者として、近いところではフッサールを名ざすことができるであろう。
しかし科学的自然観をまじめにとり、同時に人間の自由な主体性を維持しなければならぬと考える者は、
根底において全てカルテジアンなのである。

191 :考える名無しさん:2016/06/08(水) 20:48:29.21 0.net
〇〇〇〇〇〇〇〇〇「〇〇〇〇〇〇〇〇」

外界は一体どのようにして知られるのだろうか?
日常生活では五官を頼りにしていて、それで知られることは多いが、
感覚による知識は粗雑であって望遠鏡のような器具による補強にも限度があり、
少し大げさであるが、「知覚は錯覚なり」とデカルトが言った通りである。
外界の現象の中でも、地球の自転、地球や他の惑星の太陽のまわりの回転、それを起す力の性質、
ラジオやテレビの放送を伝える電磁波などは感覚では知り得ない。
本書は、数学そのものを解説をするつもりでも、
建物の高さを測るというような、数学の応用を問題にするのでもなく、
数学によってはじめて知り得る外界の事実に何があるか、
自然現象について数学が何を明らかにするかを述べたい…

自然の探究には、経験や実験がが役立つことはたしかであるが、後で分るように、
その役割はそれほど大きくない場合が多い。
現在では数学という強力な武器のおかげで、物質界の主要な現象が解明され…ている。
今世紀最大の数学者ヒルベルトは、一九〇〇年の国際数学者会議で、
「数学は、自然現象のすべての精密な知識の基礎である」と述べている。
数学によってはじめて得られる重要な知識がたくさんあるとつけ加えてもよいであろう。
実際、科学のいくつかの分野は、わずかの物理的事実を配した数学理論から成り立っている。
数学は、よく学校で教えられているような単なる記号操作の技術ではない。
数学の目標は、実は外界の現象であって、そこから予想もしなかった知識、
時には感覚と矛盾するような知識を引き出すのである。
それは物質界についての知識の精髄であり、感覚をはるかに凌駕しているのである。

192 :考える名無しさん:2016/06/08(水) 20:49:34.77 0.net
人間とは別個の外界があるのだろうか。人が見ていなくても、山や木や海や空があるのだろうか、
外界が存在することはもちろんのことで、こんな疑問はばかげているようにも見える。
世界はいつも見えていて、感覚がその実在の証拠を提示しているではないか、
しかし考え深い人々は、後で確かめるためにも、一応疑って見るのである…
現在まで最大の影響力を持つプラトン(紀元前四二七−三四七)は外界の存在は認めるが、
感覚で知られる世界は色も形もたえずさまざまに変わるので信頼できないとした。
ほんとうの世界は、永劫不変のイデアの世界であるが、これは感覚によってではなく、
精神によってだけ達せられ、観察は何の役にも立たない。
プラトンは、「国家」の中で、外観の背後にある真実性は数学的なものであり、
それは外観から引きはなして取り出すべきものであると言っている。
数学こそ、真実在、すなわち永遠の真理の基礎であるとし、その重要性を強調して、
数学は抽象的、非物質的、理想的なイデアの広汎な体系の一部であるとした。
イデアは、すべての事物――物質的、倫理的、美的なもの――が到達しようと目ざす完全性の模範なのである。
プルタークの「マイセロスの生涯」によれば、
プラトンと同時代の有名なユードクソスとアルキタスが数学的事実の証明に物理的は議論を用いたところ、
プラトンは、純粋な理性の代りに感覚を用いるのは、幾何学の堕落であると慨嘆し、その証明を非難している。

193 :考える名無しさん:2016/06/08(水) 20:51:45.38 0.net
天文学に対するプラトンの態度は、どんな知識を求めるべきかということについての考えを示している。
天文学は、目に見える天体の運動を問題にしない。
天界の星の配置や見かけの運動を眺めれば、まことに感動的で美しいが、
その運動の単なる観察や説明は、ほんとうの天文学にはほど遠い、
そこへ到達するためには、「天界をはなれ」て、数学的天界でほんとうの星の運動の法則を問題にするべきで、
目に見える天界は数学的天界の不完全な表現に過ぎないと言うのである。
天文学のこの観念は、現代人を当惑させるもので、
プラトンが感覚的経験を蔑視したことを、科学の進歩を妨げたとして、真向から非難する人もある。
しかし、ここで天文学者の役割として示されたことは、幾何学者が、たとえば三角の物体の代りに、
理想化された三角形を考えることで成功した行き方に、まさしく対応しているのである。
プラトンの時代には、天体観測の結果は、その時代としてはそれ以上に進みえないところに達していたので、
そこから先は、その結果を理想化するための思考に努めるほかないと考えたとも言えるのである。
プラトンの抽象的な理想化の考えは、実験科学の進歩を幾世期も遅らせたが、
真の知識は抽象的理念の哲学的観想によって得られるもので、
現実世界の偶然的で不完全な事物の観察によって得られるものではないと言うのがその趣旨である。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇:ニューヨーク大学クーラン数理科学研究所数学名誉教授

194 :考える名無しさん:2016/06/08(水) 20:54:41.52 0.net
理系の学者って、バカが多いよね。

知識が哲学から得られるなんて、妄想なのに。

195 :考える名無しさん:2016/06/08(水) 22:30:15.62 0.net
何ですかさず書き込めるのw

196 :考える名無しさん:2016/06/09(木) 00:09:25.27 0.net
インタビュー 科学者とは 理論物理学者、スティーブン・ワインバーグさん
朝日新聞 2016年6月8日

アリストテレスは軽率で、デカルトは過大評価――。
科学史の先哲を、ノーベル物理学賞のスティーブン・ワインバーグ教授が容赦なく切り捨てる著書
「科学の発見」が、論争を巻き起こしている。現代の視点で過去を裁く手法に批判はあるが、
一方で教授が投げかけるのは「科学とは何か」という根本的な問いだ…

――なぜ物理学者のあなたが科学史なのですか?
「もともと歴史に興味があり…テキサス大の学生たちに科学史の講義をするうち、
古代ギリシャのプラトンやアリストテレスといった人たちは、
科学者というよりも『詩人』、と呼んだ方がふさわしいと分かった…」

――…科学の源流は、プラトンやアリストテレスにある、と考える人たちもいます。なぜ「詩人」…ですか。
「自然の観察抜きに論理や数学だけに頼って理解しようとするのは科学ではありません。
例えば彼らは物質を構成する元素について見解を述べていますが、理論や観測に基づいていません。
単に、世界はこうあるだろう、という詩的イメージを述べているに過ぎません」

197 :考える名無しさん:2016/06/09(木) 00:10:51.51 0.net
――…「知の巨人」たちの業績を「科学ではない」と断じたあなたの著書は、歴史家たちから批判されました。
「(本の内容が)不遜ですからね。
例えばプラトンやデカルトを研究する歴史家は、彼らに共感することで理解しようとします。
生涯を研究に費やし、尊敬の念を抱いている…一方、私は科学者の視点から批判的です。
アリストテレスはバカではないが退屈です。プラトンの著作はわりと面白いが、しばしば愚かです」
「デカルトは、自然の真理に到達する正しい方法を見つけたと主張しました。
その彼が地球の形状や光の性質、真空状態の有無、自由落下する物体の速度などについて、
様々な点を誤解しています。明らかに彼の科学の手法はよいとは言えなかった」…
「私は、科学者、特に物理学者であることがどういうことか明確な感覚を持っています。
観測や実験から得た情報に基づき、初期の理論を組み立てる。
うまく行ったら、より多くの現象、より小さなスケール、より大きなスケールに当てはまる数式にまとめていく。
常に実験や観測に照らしつつ、さらに異なる現象を統合し、より統一された理論を目指す。それが科学です…
歴史家の中には、現代の立場から過去を批判するべきでないと主張する人もいますが、
科学に関しては賛同できません」…

198 :考える名無しさん:2016/06/09(木) 00:12:31.76 0.net
――著書では、キリスト教が、科学の発展を阻害してきたと示唆しています…
「宗教が研究に大きく影響するとは思いません。
ただ、歴史的には、宗教は科学にとって大きな障害になってきました。
ギリシャ科学の成果の一部は、ローマ帝国に受け継がれ…ローマ帝国はやがて東西に分裂し、
東側のビザンツ帝国はその後、1千年も続きましたが、科学的に重要な成果はありません…
私は、(神がすべての創造主である、とする)キリスト教の興隆が影響したと見ています

取材を終えて
高校時代、社会科の課題でデカルトの「方法序説」の難解な文章に悩まされて以来、
彼を科学の基礎を築いた偉人と信じてきた。ワインバーグ教授は、科学者の視点から歴史をひもとき、
凝り固まった評価に揺さぶりをかけているように感じた。
固定観念にとらわれず、目の前のものを虚心坦懐に科学者の視点で見る――そんな強い信念が伝わってきた。

199 :考える名無しさん:2016/06/09(木) 01:03:59.23 0.net
現実はゲルマン人という愚かで野蛮な盗賊がヨーロッパの王族となったからでしょうね
ゲルマン民族の教育に一千年かかったわけだ

200 :考える名無しさん:2016/07/01(金) 19:46:30.13 0.net
ポール・ヴァレリー「精神の危機」

世界の他のところにも賛嘆すべき幾多の文明が栄えたし、
一級の詩人、建築家、さらには学者たちも存在した。
しかし次のような物理的特性を備えたところは、他にはなかった。
それは、最大の入力と最強の出力の結合という特性である。
すべてがヨーロッパにやってきて、すべてがヨーロッパから出て来た。あるいはほとんどすべてが。
ところで、現在、我々は…決定的な問題に直面している。
ヨーロッパは果たしてそのあらゆる分野における優位性を保っていけるだろうか、という問題である。
ヨーロッパは、実際にそうであるところのもの、すなわちアジア大陸の小さな岬の一つになってしまうのか?
それともヨーロッパは、いまのところ、そう見えるところのもの、すなわち地球の貴重な部分…
巨大な体軀の頭脳として、とどまり得るのか?
…小さなヨーロッパ地域が、何世紀も前から、分類のトップに位置づけられている。
空間的な狭隘さにもかかわらず、――地下資源も取り立てて言うほどには豊かでないにもかかわらず、
――ヨーロッパがトップの座を占めている…いかなる奇跡によってか?
…奇跡はそこに住む人々の質の裡に存するのでなければならない。
その質がヨーロッパにおける人口の少なさ、面積の少なさ、鉱物資源の少なさを補っている…
我々は先ほど人間の質がヨーロッパの優位性の決定因であることを示唆した…

201 :考える名無しさん:2016/07/01(金) 19:47:26.72 0.net
大まかな検討によって、私は次のように理解する。
あくなき貪欲、熾烈にして無私の好奇心、
想像力と論理的厳密さの幸福な混合、悲観主義にならないある種の懐疑主義、諦念とは一線を画す神秘主義…
そうしたものが、ヨーロッパ「魂」の最も深甚な力を発揮する特性になっている…
この精神の例を一つだけあげよう。ただしこの例はただの一例ではない、
一級の例であり、――最も重要な例である。すなわちギリシアだ

――ギリシアは幾何学を創始した。これは途方もない試みだった…
こうした途方もない創造を実現するには何が必要だったか?
――エジプト人も中国人もカルデア人もインド人もそうした試みには至らなかったことを考えてみればいい。
それはまことに驚嘆すべき冒険、「金羊毛」よりもずっと貴重な、格段に詩的な征服であったことに思い至る…
ピタゴラスの黄金の腿に値する羊皮など存在しない。
幾何学の試みは、一般に最も両立しにくい才能の協力を要求した。
それは精神のアルゴー船勇士、自分の思念に引きずられたり、とらわれたりすることなく、
感情に惑わされることもない堅固な水先人を必要とし…
彼らを支える前提の脆弱さや彼らが探索する推論の微妙さ、果てしなさも彼らの意志をくじくことはなかった…

202 :考える名無しさん:2016/07/01(金) 19:48:13.74 0.net
…幾何学は、少しづつ、ごく緩慢にではあるが、確実に、権威を確立して行って、
ついにはすべての研究、すべての学問が、幾何学に、
その論理の厳密さ、即時的な敷衍可能性、《素材》における徹底した夾雑物の排除、
思いもよらない大胆な推論を可能にする無限の慎重さ…を借りることを余儀なくされ…た…
近代科学はこうした壮大な教育から生まれた…
しかし一度生まれ、その物質面の応用によって、有効性が確認され、報われてしまうと、
我らが科学は力の手段、物理的支配の道具となり、富の刺激剤、地上の資本活用の道具となって、
――《自己目的》的な探求、一種の芸術的活動ではなくなってしまった。
かつては消費財であった知識が交換価値になった…
知識の効用が知識を一つの商品に変え、そのことによって…傑出した愛好家によってではなく、
「普通の人」の欲望の対象になった…
かかる商品は…次第により扱いやすい、より消化しやすい形態で出回るようになる…
次第に数多くの顧客に行き渡るようになり、「貿易」品目となり、
ついには模倣され、いたるところで作られるようになる。

203 :考える名無しさん:2016/07/01(金) 19:49:16.23 0.net
…嵐が通り過ぎた。しかし、我々は嵐の前夜のような不安と焦燥感にとらわれている。
ほとんど一切の人事が恐ろしく不安定な状態にある。
消滅してしまったものを眺め、我々自身が、破壊されたものによって、ほとんど破壊されてしまったことを知る。
これからどういうものが生れてくるのか分からないが、それを恐れる理由は十分ある。
我々の期待は漠然としているが、恐れは明確である。危惧のほうが希望よりずっと明確な形をしている…
はっきり言えば、安逸な生活や豊かな生活は我々の手の届かないことろにあるが、
動揺や疑念は我々の心の裡にあり、我々と共にあるのだ。
いかに英明で、教養ある頭脳でも、到底、この不安を乗り越え、この暗鬱な印象を払拭し、
社会生活のこうした不透明な時期がいつまで続くのか予測することはできない。
我々はちょうど大人になる時期にこうした大きな、恐るべき出来事に遭遇したきわめて不幸な世代である。
出来事の影響は生涯に及ぶであろう。
この世の重要な事象の一切が戦争、より正確には、戦時体制によって影響を蒙ったということができる。
消耗が生命の再生可能な部分よりも深いところにある何かを蝕んでしまった。
全般的な経済の混乱、諸国家の政治の混乱…困窮、躊躇、不安の蔓延である。
しかしそうした中で「精神」もまた傷ついたのだ。
「精神」は、実際、過酷な試練にさらされた。精神は…人々の心の裡で悲鳴をあげ、自らの無力を悲しんでいる。
精神は深く自己懐疑に沈んでいるのだ。かかる精神とはいったい何か?
どういうところで、精神はこの世界の現状によって影響を受け、痛めつけられ、力を殺がれ、傷つけられたのか?
「精神」事象の無惨な状況、「精神」的な人々のこの困窮、苦悩はどこからくるのか?
今、我々が論じなければならないのは、そこのとについてである。

204 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:13:17.43 0.net
それではヨーロッパ人とは何者か?
ここで私は、厳密な検証に耐えないことを、とりあえず仮説として立てる…
それは一つの見方であり、観点だ…他にも同じくらい妥当な見方がいくらでもあることはいうまでもない。
さて、私にとって、ヨーロッパ人とは、
これから述べるような三つのものの影響を歴史的に身に受けたすべての人の謂いである。
最初はローマの影響で…ローマ帝国が支配したところ、その力を身に感じたところ、
さらにはローマ帝国が恐怖や、賛嘆や、羨望の的となったところ、ローマの剣の圧力が感じられたところ、
制度や法律の重みが受け止められたところ、
司法の機構や尊厳が認知され、手本とされ、ときには奇妙な形で猿真似されたところ、
――そうしたところには、すべて、なにがしかヨーロッパ的なものがある…
ローマは組織化され、安定した権力の永遠のモデルである…
この迷信深くかつ理知的な権力、法律・軍事・宗教・形式主義の精神に奇妙に富んだ権力、
征服した民族に対して、寛容とよき行政の利点を説いた最初の権力、
そうした権力が実に多くの人種や世代に驚くべき持続的な影響を残した

205 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:14:22.27 0.net
次にキリスト教がやってきた。
周知のごとく、それはローマ帝国の版図に少しづつ浸透していった…キリスト教の伝播した範囲は、
今日なお、ほとんど正確にかつてのローマ帝国の版図と一致する。
このまったく違った二つのものの支配には、しかしながら、ある種の類似性がある…
ローマ人の政治は、時代につれて次第に柔軟かつ巧妙になっていく
その過程で、一つの民族が他の諸々の民族を支配するシステムに驚くべき新手法が導入された…
帝国の首都ローマは内部にほとんどすべての宗教を受容し、
辺境の神々、最も多様な神々・信仰を取り入れ、根付かせた…
帝国政府はローマという名前の威光に自信を持っていたので、
版図のあらゆる人種・言語の民に、ローマの都の資格を与え、
ローマ市民civis romanus の称号と特権を与えることにやぶさかではなかった…
さらには、人種や言語、勝者と敗者、征服者と被征服者の区別も、
すべての人にゆきわたる定式化された法的・政治的条件に席を譲るにいたった。
皇帝自身もゴーロワ人でもサルマチア人でもシチリア人でもかまわなくなり、
遠い異教の神々に犠牲を捧げることも許された。これは途方もない政治的革新である。

206 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:15:38.90 0.net
ユダヤ国家から出たキリスト教が、このすべての民から構成された異教徒…の中に広がっていった。
ローマが昨日までの敵にローマ帝国市民の資格を授けたように、
キリスト教は、洗礼によって、キリスト教徒という新たな尊厳を授与した
キリスト教はローマから借用できるものはすべて借用し、総本山をエルサレムではなくローマに置いた。
言葉も借用した。ボルドー生まれの人間でもローマ市民となり、執政官にも…
新宗教キリスト教の司祭にもなれた。帝国の地方長官となったゴーロワ人が、
純粋なラテン語で、ユダヤ人でヘロデ王の民であった神の子イエスに美しい讃美歌を書く…
そこにほとんど完成されたヨーロッパ人の姿がある。
共通の法に共通の神、おなじ法とおなじ神、現世に一つの裁き、来世に一つの「裁き」…
ローマの支配が政治的人間のみをとらえ、人々を外的週刊の側面でしか律しなかったのに対し、
キリスト教支配は次第に意識の奥底を射程にいれ…はじめた…新宗教キリスト教は内省を要求する…
キリスト教は人間の精神にこの上なく微妙な…重要かつ豊穣な問題を提起した。
証言の価値とか、文書の批判的考証であるとか、知識のよってきたる源泉・確実性とか、理性と信仰の区別とか
理性と信仰の間に起こる対立とか、信仰と行為・奉仕の間の矛盾とか、自由・隷属・恩寵とか、
精神的権能と物質的権能の区別と双方の葛藤とか、人間の平等とか、女性の条件とか、
――まだ色々あるだろうが――そうした問題について、
キリスト教は、何世紀にも渡って、幾百万人の人々の精神を教育し、発奮させ、試行錯誤させてきた…
しかしながら、我々はこれではまだ完全なるヨーロッパ人ではない。

207 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:16:35.52 0.net
ヨーロッパ人たるにはまだ何か欠けている
我々の公的秩序に対する感覚や都市および現世における法支配への崇拝の
下支えになっている極めて大事なものが欠けている
我々に欠けているのは我々の知性の最良のもの、
我々の知の繊細さ、堅固さが由来するところの微妙にして、強力なある作用因である、
――そして、それに我々は諸芸術や文学の清潔さ、純粋さ、品格の高さを負っているのだ。
いま列挙したごとき禀質が我々にもたらされたのはギリシアからである…
ギリシアから我々が受け継いだもの、
それこそ、恐らく、我々を世界の他の部分から最も深く差異化したものであろう
精神についても、自らの判断を綿密に批判し、分析することによって、そして、
精神の諸機能を合理的に区分けし、さまざまな形態を調整することによって、
その行き過ぎ、夢想、漠然とした単なる想像にしかすぎないものに耽ることを戒めなければならない。
こうした規律があったからこそ、科学が、「我ら」の科学が生れた
ヨーロッパは何よりも科学の創始者である。
芸術はどこの国にもある、しかし真の科学はヨーロッパにしかない
ギリシャ幾何学こそ完璧をめざす知識の不滅のモデルであったばかりでなく、
ヨーロッパ的知性の最も典型的な特質を示す比類のないモデルであった。
私は古典芸術について考えるとき、否定なしに、ギリシア幾何学の金字塔のことを考える

208 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:18:48.97 0.net
夏目漱石「三四郎」

二時間ほど読書三昧に入ったのち、ようやく気がついて、そろそろ帰るしたくをしながら、
いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、
本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。

「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。
彼の講義は真を説くの講義にあらず。真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。
真と人と合して醇化一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、
道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。
いたずらに真を舌頭に転ずるものは、
死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん…
余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。
岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛することを記憶せよ」
とある。署名はむろんない。三四郎は覚えず微笑した…ページをはぐると、まだある…

209 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 21:20:02.75 0.net
「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、
この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。
ただ哲人ヘーゲルなるものありて、
講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、
壇下に、わが不穏低の疑義を解釈せんと欲したる清浄心に発現にほかならず。
このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定しえたり。自己の運命を改造しえたり。
のっぺらぼうに講義を聞いて、
のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚れなり。
公らはタイプ・ライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。
公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。
死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」

と、のっぺらぼうを二へん繰り返している。三四郎は黙然として考え込んでいた…
もとの席へ来てみると、与次郎が、
例のヘーゲル論をさして、小さな声で、「だいぶ振るってる。昔の卒業生に違いない。
昔のやつは乱暴だが、どこかおもしろいところがある。実際このとおりだ」とにやにやしている。
だいぶ気に入ったらしい。

210 :考える名無しさん:2016/07/03(日) 22:39:40.71 0.net
>>209
たしかに、そのとおりなのかも知れない。
だから、ヘーゲルはマルクスを生み出すことができたのだろう。

211 :考える名無しさん:2016/07/18(月) 10:40:47.19 0.net
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない ←←←←←←←←New!
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。

212 :考える名無しさん:2016/08/08(月) 22:37:57.59 0.net
Wikiハイデガーの要約

人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)
目指す限りにおいて志向性をもっている。
理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、
それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、
それらの根本的な基礎である存在ではない。
彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、
「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。
日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、
そのような存在者である(そのように存在する)のであって、
そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。
カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、
釘を打つのに使えるからである。
現象学的方法は、デカルト的な実体である「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―の否認を必要とする。
人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだ
ということをハイデッガーは強調した。
彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、
さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた
(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という。
いずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。

213 :考える名無しさん:2016/08/08(月) 22:38:52.12 0.net
存在者がわれわれにとって意味をなすのは、存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、
そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。
しかしこうした規範はみな偶発的で不確定なものである。
こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。
この不安の中に、すべての規範が投げ出され、
ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される。
ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、
これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。
ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。
ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、
また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。
存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である
(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。
われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、
時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない。
生物学、物理学、心理学、歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、
追求したのは存在一般についての問い、
すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。

214 :考える名無しさん:2016/08/08(月) 22:39:45.10 0.net
ハイデッガーはこうした問いに対し、
「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」
「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」
「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」
「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」
といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。
ハイデッガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。
彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、
関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり…
こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、
相互行為のより根源的なあり方である「用具的」
(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。
寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、
まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのこと…
客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、
これが現存在の本質となる…

215 :考える名無しさん:2016/08/08(月) 22:40:47.83 0.net
ハイデッガーは、ついには『存在と時間』が失敗作であることを認めざるを得なかった。
そして、長い時間を費やした上で、戦後ハイデッガーの思想は大きく「転回」していった。
ハイデッガーの現象学は、ジャン=ポール・サルトルのみならず、エマニュエル・レヴィナス、
モーリス・ブランショの他多数のフランス現代思想家、
特にポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、フィリップ・ラクー・ラバルトらに影響を与えた。
特にハイデッガーによる形而上学の解体はデリダの脱構築に深い影響を与えた。
また、ハイデッガーの哲学は、
デリダ研究においても有名な後続世代のカトリーヌ・マラブーなどにも影響を及ぼし、
フランスにおけるハイデッガー研究は脈々と続いている。
日本においては昭和初期(戦前)から、九鬼周造、三木清、和辻哲郎ら、
京都学派と縁の深い哲学者がハイデッガー現象学の影響を受けている。
梅原猛もハイデッガーを20世紀最大の哲学者と位置づけ、批評の対象としている[17]。
戦後、マルクス主義思想などの隆盛等によってその影響は退潮したものの、
サルトルやモーリス・メルロー=ポンティらに代表される実存主義との関連で読まれることも多く、
その紹介者としては木田元らが有名である。
さらに、1980年代のいわゆる「ニュー・アカ」ブーム(浅田彰、中沢新一など)において、
フリードリヒ・ニーチェやジャック・デリダ、
ジル・ドゥルーズらの著作との関連において知られる機会が多くなった

216 :考える名無しさん:2016/08/12(金) 23:20:15.50 0.net
科学の限界も認識しとかないと。文学部は廃止の方向で、なんて頓珍漢が出てくるわけだ。

217 :考える名無しさん:2016/08/31(水) 23:59:05.19 0.net
age

218 :考える名無しさん:2016/09/01(木) 00:00:09.05 0.net
フロイト「モーセと一神教」
解題 歴史に向かい合うフロイト――モーセ論はなにゆえ(不)可能であったか 渡辺哲夫

フロイトのモーセ論を解読し始めるにあたって、
無視できぬ深い指摘を残しているのはルートヴィヒ・ビンスワンガ―だろう…
このスイスの碩学の言葉は実に鋭く問題の中枢を打っている。
さてわれわれがいまこの象徴
〔学問的認識の限界において必ず出現する白紙(タブラ・ラーサ)の意、渡辺注〕を現実として、
つまり人間の歴史の実際の始まりとして措定するとき、われわれは、
自然と歴史と神話との歴史的関係に関する非常に示唆にとんだ科学的逆転劇を体験します。
われわれが普通、人類史の最古期に神話を見出し、
祭祀と神話の伝承と伝記から脱皮して歴史がでてくるのを見てとり、
のちにこの歴史のなかで初めて自然に関する学問がつくられるのを見るのに対して、
いまや自然科学は方向を逆転して、
初めに自然科学的構築の産物たる自然人homo natura(ホモ・ナトゥーラ)の観念を措定し、
ついでこの自然人の「自然の発達」から歴史を考え、
さらにさきの自然と歴史とから、神話と宗教を「説明」しようとするのです。
ここでいま初めてわれわれは、自然人の理念を、そのまったき意味において見てとることができます。
つまりこの理念は、人間を、衝動と幻想のなかに嵌込めてしまいます。
つまりこれは衝動と幻想の力の緊張から、芸術と神話と宗教とを発生させようとするのです。

219 :考える名無しさん:2016/09/01(木) 00:00:29.51 0.net
これはフロイトの八〇歳の誕生日になされた祝賀講演のなかの一部である。
その年の内に『人間学の光に照らしてみたフロイトの人間理解』と題されて専門誌上に文章化されたが、
全篇を支配するビンスワンガ―のフロイトに対する尊敬と信頼にもかかわらず、
この箇所だけが鋭利な刃物のごとく、師の言わば非常識な逆立ちを突いている。
歴史の根底にあるのは、自然人(原始人、新生児)でもエスでもなく、
神話を素朴実直に信じつつ生活していた「実存のひと」homo existencialisだ、
この歴史哲学的深浅を逆転してはならぬ、とビンスワンガ―はこの論文のなかで言っている。
体調不良のため講演会に出席できなかったフロイトは約五カ月後、ビンスワンガ―に礼状を書き送っている。
「あなたの講演は私には嬉しい驚きでした。
それを聞き、私に知らせてくれた人びとは明らかになにも感じていませんでした。
彼らにはやはりそれはむつかしすぎたにちがいありません」…との書き出しである。
彼が、身近を取り巻くフロイディアンよりもビンスワンガ―を高く評価していることは明白だろう。
書状の続きは「科学的逆転劇」をさらに徹底させる決意の表明であり、
「われわれの話はすれ違いに終わるでしょう」との文章も見られるのだが、
肯定的驚きと否定的決意とが圧縮されているこの短い書状は、
八〇歳のフロイトがすでに約二年前からモーセ論に取り憑かれていた経緯を思うならば、
看過できぬ資料となりうる。

220 :考える名無しさん:2016/09/01(木) 00:02:42.62 0.net
批判者ビンスワンガ―よりもフロイトの方が遥かに偉大な射程を持っていたと思う。

221 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:05:08.82 0.net
ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140724/269156/
“立場主義”が日本を破滅させる 2014年7月25日(金)

「魂の脱植民地化」の必要性を訴える安冨歩・東京大学教授に聞く 石黒 千賀子
東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、
東京大学関係者を中心とする日本の専門家や権威には共通する欺瞞に満ちた話法
=「東大話法」があると指摘して注目を集めてきた東京大学教授の安冨歩氏。
背景には、何にも増して「立場」を重視するという
世界的にも特異な日本社会の在り方が大きく影響してきたという。

私の考えでは、多くの日本人は「立場主義者」であり、
「立場」をなくせば生きていけない、と思い込んでいます。
エリート官僚が自分の立場、つまり天下り後の何千万円という自分の年収を維持、確保するために、
古賀茂明氏の言葉を借りれば彼らの「生活設計」のためにやっているのです。
安倍さんも、自分の「立場」に完全にはまっている。ご存じのように安倍氏の母親は岸信介の長女。
つまり、彼女は日本で初めて父親と息子が首相になった女性なわけで、
安倍氏は基本的にその母親のコントロールの下にあると私は見ています。
さらに、ナショナリステイックな政策は安倍氏にとって本丸。
いわば岸家の家訓のようなもので、それに従ってやったら時代と呼応したということでしょう。

222 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:05:41.57 0.net
岸信介も、岸の実弟である佐藤栄作も、
日本も核武装すれば米英に並ぶ超大国になれると真剣に考えていた、と思います。
特に佐藤は首相時代、中国が核武装するなら日本もそうすべきだと考えていたことが、
NHKのドキュメンタリーでも明らかになっています。
結局、米国に反対され、アメリカのジョンソン大統領と会談して、
自らの核武装を放棄する代わりに米国の「核の傘」によって防衛してもらうという確約を取り付けたうえで、
非核三原則を打ち出してノーベル賞を貰ったわけですが、
当時は外務省上層部にも核武装すれば超大国の仲間入りができるという発想があったようです。
それどころか福島であれだけの原発事故を起こしても、
いまだに日本の政府関係者の間では核武装しているか、いつでも核武装できる国が一流国家で、
そういうことができない国は二流国だとわけの分からないランキングが支配しているのではないでしょうか。
だから、原子力技術を放棄すれば、それは二流国家に転落することを意味すると思う。
そして特にエリートというのは、基本的には頭がどこか狂っていて、
自分の立場のこと、自分の給料のこと、自分の奥さんが怒らないかどうか、
といったことしか考えていないんじゃないか――こう考えるといろんなことが理解できる
特に奥さんにいかに怒られないようにするかというのは日本のエリート男性には相当、当てはまる。
ことほど左様に国家政策など、ごく一部の役人
(というか、その奥さん)の都合によって決められているというのが実態ではないでしょうか。
古賀茂明氏が、電力政策は経産省の役人の生活設計のために行われている、と言っておられたのは、
単なる事実だと思います。

223 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:06:18.61 0.net
随分昔の話になりますが、プラザ合意で変わるべきだった、と私は考えています。
あれは立場主義の成功によって発展した日本社会へのメッセージでした。
特に、円高になってしまえば、そういったシャカリキになって働く集団は、全く意味がなくなりました。
それゆえ、その段階で立場主義による製造業を放棄して、
生産拠点をアジアへと積極的に移転させねばなりませんでした。
生産拠点を海外に移転させた後には、日本が東アジアのイノベーションと金融のセンタ―となり、
富裕層の観光地・隠棲地となるべきでした。
それには大学に在学する学生の半分くらいをアジアの留学生とし、彼らを大企業が採用し、
日本社会に受け入れる必要がありました。
しかし、四年制大学卒業の日本人男子学生がヨーイドンでスタートして出世競争をするという立場システムを、
日本企業はいささかも変更しなかったので、そういうことは起きませんでした。

日本はなぜ発想の転換をできなかったのでしょうか。なぜここまでの事態に至っているのでしょうか。
それは、人々が子供時代に受けた魂の傷が原因だと私は考えています。
私はそれが根本問題だと考えています。
子供時代に理不尽な扱いや暴力を受けると、人間の魂には深い傷が刻まれます。
その傷は悪いことにその人の「性格」となり、隠蔽されてしまうのです。
彼らの魂につけられた傷を隠蔽しているからだと思うのです。
守屋氏は山田洋行に何とかさせるしかなかった。
彼は彼で、自分の魂の傷の痛みを何とかするために、権力を握り、それを振り回して他人を支配し、
暴力を振るうという衝動を抑えられなかったのではないでしょうか。
そうすると、彼らはその権力を利用して、他人の魂を傷つけようとするのです。
かくして社会が傷ついた魂によって満たされてしまうとうわけです

224 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:06:47.79 0.net
この点については、アリス・ミラー*という心理学者が30年ほど前に、
児童虐待とその社会的悪影響について分析した著書
『The Drama of the Gifted Child(邦題:才能ある子のドラマ)』が有名で、
この本は心理学の古典とされており、今も欧米などでは非常に読まれています。
〇〇〇さんという方が、最近、重要な本を出されました…元タカラジェンヌの方です…
日本人で実父に自分が強姦されていたということを告白した初めての人ではないかと思います。
〇さんは、自分の過去を思い出し、告白するまでに長い年月が必要だったとのことです。
それでも「『暴力』と『否認』はとても密接な関係にあると実感するようになった」と書いているように、
実態にふたをするのではなく、自分の体験を言葉にすることで、
同じような生きづらさを抱える人に
「生きる力」を取り戻してもらえたらとの願いからあの出版を決めたようです。
私はその勇気に敬服しています。

225 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:07:28.92 0.net
ttp://www.ut-life.net/people/a.yasutomi/
自分自身が幸せになれるように行動せよ

1985年のプラザ合意で、1ドル240円だった日本円が急に値上がりして1ドル140円になりました。
その対策として当時の日本政府は日本円の流通量を増やし、
その資金を住友銀行(現:三井住友銀行)が中心になって土地投機に誘導し、
土地バブルというのが始まりました。
私はちょうどその頃に住友銀行に就職し、2年半の間バブルを起こしていくプロセスに関与していました。
そのときの住友銀行は就職ナンバーワン企業で…
同期の連中も単に学業ができるだけではなく人格的にも面白い人がたくさんいた…
おそらく当時日本で最も優秀な人材が集まっていた会社だと思います。
しかし、行われていたことは極めて愚かなことで、無茶苦茶な土地融資を続けていた…
銀行員2年目のときに3年目の先輩と寮で…
「こういうことをしているとどうなるんでしょうね」と私が聞くと、
その先輩は「いずれ住宅ローンを保証する会社とか、全部倒産するだろうね」と言ったんです。
2年目と3年目の銀行員でもその危険性が分かることだったので、
経営者が分からないはずがありません…
私は「必ずやとんでもないことになる」と思っていました。皆そう思っていたはずです。
やがてバブルは崩壊して日本経済も低迷し、
1998年から2011年まで自殺者は14年間ずっと3万人を超えていました。
2012年からはやっと2万人台に戻りましたが、その14年間の余計な部分はおそらくバブルの後遺症です。
そうすると14万人もの人たちが余計に死んだということになるので、
ちょうど日露戦争と同じくらいの被害を発生させたのだと思います。

226 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:07:50.22 0.net
もっと重要なのは、人間がどうしてそういう暴走しかしない…単純なシステムに変わるのかということ…
人間が複雑さを捨てて、応答反応しかしないロボットのようなシステムになぜなってしまうのかという問題…
その結果、私が理解したことは、人間というものが、自分自身の地平ではなく、
他人の地平を生きるように強いられる。
それがやがて強いられるのではなく自ら他人の地平に生きるようになってしまう。
そうなったときに単純なシステムになってしまうということ…
その問題の中で私自身における単なる応答反応、
あるいは自分自身の地平ではないものは何かということを探求しました…
私は90年代後半に研究でイギリスに滞在していましたが、
イギリスのテレビはタブーを常に踏み越えようとします。
一方日本のテレビはタブーに対して擦り寄って…
むしろ、悪い反応が出てくる前に事前にタブーを増やしていきます。
これはテレビに限らず、日本のどのメディアもそうです。
真実はタブーの背後に必ずあるので、テレビがタブーを踏み越えないのであれば、
映っていることは全てインチキです。

227 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:08:19.96 0.net
「東大話法」というのは、東京大学において普遍的に使われているもので、
基本的には「言ってはいけないことは言わない」
「不適切な表現を使わずに、不適切なことをする」というものです。
嘘をつく、人を騙す、自分だけいい目に遭うといった、
人間がしてはならないことを、そうしているとは察知されないように実現する言語体系です。
…それは(引用者追加:本当に)自分自身のため(同:になるようなことや、社会のため)に行われているのではなく、
自分の立場を守るために行われているのです。
自分の立場が不利にならないように様々な状況を操作する能力が東大の人たちは非常に高い…
大きな組織を動かすときは非人間的なことが大量に発生するので、
いちいち心を痛めていたら仕事になりません。
東大にはそういうことを立場上仕方がないとして淡々とこなせる人が揃っている…
この大学は日本という近代国家の運営をするためにそういう人材を長い伝統の中で養っていて、
それをどういうわけか入試問題で選別するという信じられないような技を蓄積している…
その結果、こんな人たちをセレクトするような問題になっているということに、人間組織の凄みを感じます

228 :考える名無しさん:2016/11/19(土) 00:08:41.85 0.net
そもそもテストというものはそれ自体に問題があります。
ここで意味のある言葉が発せられたとしましょう。その受け取り方は人によって違うはずです。
一人ひとり体の構造も体験も何もかもが違うから、同じ言葉でもアウトプットは違うはずでしょう。
しかしテストでは、一つのインプットに対してアウトプットは一つです。
100人にインプットしたときに、全員から同じアウトプットが返ってくれば教育は完成したことになります。
これは狂気ですが、東大で行われている教育というのはそういうもので…
違うものを書かせる試験もあると思いますが、解答の多様性が増すと採点が難しくなり、
公平性が問題になります。公平性が問題になるのは進学選択があるからです。
公平性を保とうとすると、同じレスポンスが返ってくるように授業をし、
公平に採点をして、上から順に並べて3割目の人までに「優」を出す、という構造になってしまいます。
この構造自体が人間的な教育ではありません。
この枠組みを残したままではいくら改善しても人間的な教育はできません。
日本社会が暴走している背景には、私は「立場主義」というのがあると思っています。
この国は、立場を守るため、
あるいは立場に付随する役割を果たすためには何をしてもよいと思われているような国なのです。
だから戦争に突入したり、バブルを引き起こしたりするのです。

229 :考える名無しさん:2016/11/23(水) 18:35:47.27 0.net
元裁判官が赤裸々に暴露「この国の司法では良心を貫くと挫折する」
いびつな日本の権力構造 瀬木 比呂志 2016.11.20

日本の裁判所の特殊性は、裁判官が行政官でもあること…言ってみれば、「役人」。
だから、良心的な裁判官でもない限り、行政、政治を追認する役人のような裁判をしてしまう
戦後もなお裁判所の力は弱く、権力とのつばぜり合いの中で、政治の方を見るようになっていった。
さらに、組織を強くするという名目のもと、
本来、裁判所ではあるべきではないピラミッド型ヒエラルキーを強化した。
そこで際限のない出世競争が行われている
アメリカでは法曹一元で裁判官に上下関係などありませんし、出世もない。
最高裁判所の判事に、地方裁判所の判事が最敬礼するなんて日本だけ。
上下関係は本来、あってはならないんです

――本書では、最高裁判所の事務総局という権力の中枢ともいうべき場所で、
そうした強烈なラットレース、能力のない上司による愚行、理不尽な人事などが次々に展開されていきます。

主人公は特段、反権力というわけではない…
裁判官のあるべき姿として、自由主義、法の支配を貫きたいと思っているだけ。
でも、そういう人が異端になっていく。
出世一辺倒の日本の裁判所は、良心があればもちろん、
出世志向に迷いややましさを感じてしまうだけでも、挫折するか、上にはいけない。
良心を貫こうとすると、左遷されたり、自殺に追い込まれたりする。
でも、行政、大企業、マスメディアだって、日本の組織は、だいたいこうなっている…ほぼ相似形です…
本作は最高裁を描いていますが、実はこれは日本の権力の普遍的な形なんです。

230 :考える名無しさん:2016/11/23(水) 18:36:25.14 0.net
――その結果、何が起こるのか。
結末に本当に驚かされる、原発差し止め訴訟の統制とその暗い結末が描かれていきます。

日本の権力構造の最大の問題は、客観性がないこと。
原発行政とその差し止め訴訟を調べるとはっきりわかります。
私は元裁判官ですから、中立的な立場から見ていったんですが、日本の原子力行政は確かにおかしい。
原子力ムラでは、3つの前提が語られていた…
「30分以上の全電源喪失は続かない」「日本ではシヴィアアクシデントは起きない」
「日本の原発の格納容器は壊れない」。
これらの言明には何の根拠もない…そして実際に東日本大震災によって、福島原発の事故が起きてしまった。
でも、この3つの言明について、日本を代表する原子力学者たちがお墨付きを与えていました。
福島原発事故のあと、欧米人と話していて、何度も驚かれました。
どうして専門家がそんなことを言ったのか、どうして人々はそれを信じてしまったのか、と。
説明しようがないんです。そして今またしっかり精査せずに再稼働させようとしている。
欧米なら絶対ありえないと言われました。

231 :考える名無しさん:2016/11/23(水) 18:36:43.42 0.net
――日本は権力構造に大きな問題がある、と。

権力というのは必ず腐敗するものなんです。そして、本来、司法というのは権力をチェックするのが役割です。
人が支配するのではなく、憲法や法律が支配する仕組みにしないといけない。
だから、個々の裁判官だけが悪いんじゃないんです。
日本人はそういう問題の立て方をしがちですが、それは違う。「権力構造」に問題があるんです。
いい人がいても、押し流されてしまう。基本的な構造こそがまず問題にされるべきなんです。
権力は放っておけば腐敗するから市民が監視しないといけない。その視点が日本人には不足している。
だから、根本的なところで誤る。戦争しかり、原発しかり。
細かなところでは、日本人は立派です。電車だって遅れない。製品も丁寧に作られる。
でも、大きなところで間違っていたら取り返しがつかないんです。
――権力小説は多々ありますが、どんなところが本書の特徴になりますか。
たくさんの本が権力の非情なメカニズムを描いています。
が、多くの場合、それらは、外の人が情報を手に入れて書いている…中の人間の目ではない。
でも、私は、本物の権力を間近で見てきました。その意味で、この小説は、私にしか書けないと思います。
1年がかりで書きましたが、
興味深く読みやすいものにするために、編集者の厳しい指摘を得て3度も書き直しました。
まずは小説として面白くないといけないですから。
これを読んで司法、裁判所、裁判に興味を持ったら、ぜひ新書や専門書も読んでみてほしいです。

232 :考える名無しさん:2016/11/23(水) 20:21:35.48 0.net
>日本の権力構造の最大の問題は、客観性がないこと
>これらの言明には何の根拠もない…そして実際に東日本大震災によって、福島原発の事故が起きてしまった
>欧米人と話していて、何度も驚かれました
>どうして専門家がそんなことを言ったのか、どうして人々はそれを信じてしまったのか、と
>権力というのは必ず腐敗する
>そして、本来、司法というのは権力をチェックするのが役割
>人が支配するのではなく、憲法や法律が支配する仕組みにしないといけない
>だから、個々の裁判官だけが悪いんじゃない
>「権力構造」に問題があるんです

233 :考える名無しさん:2016/11/24(木) 20:38:18.78 0.net
日本は有権者がバカだから。
これに尽きるな。
ハイデガーだのドゥルーズだのの研究者が、現役の哲学者みたいな顔をしていられる国だからねw

234 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:26:35.84 0.net
プライムニュース 2015年5月4日
三島(由紀夫)から何を学ぶべきか 西尾幹二氏の提言

私は、反米では決してありません。
えーアメリカに占領されたのが、中国やロシアに占領されないで、良かったと、思っております。
それから、えー、アメリカは考えられる限り或る種の寛大な、あー帝国です。
それからもう一つ大事なことは、戦後、アメリカのマーケットを日本に解放した。
それで日本の経済が成長したということも、
アメリカに感謝して…、を致し続けなければいけない大きなポイントだと思っております。
しかし、日本人が自分で、破らなければ、踏み越えなければいけないのは、
アメリカという袋に…、の中に入れられてしまったら、袋の外から見ることは出来ないんですよね。
袋に入れられたものは、袋…、自分の姿を、見ること出来ないんですよ。今の日本人は概ねそうなんですよ。
ほんとに愚かにもそういう状況に陥っていると思います。

235 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:27:54.13 0.net
>三島(由紀夫)から何を学ぶべきか

236 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:28:39.91 0.net
日本会議をたどって:6 三島さんが体当たりしても…
朝日新聞 2016年11月15日

三島由紀夫にとって、「生長の家」は身近な存在だったようだ。
創始者である谷口雅春の著書「占領憲法下の日本」(1969年5月)に、三島が序文を寄せている。
〈谷口雅春師の著書「生命の実相」は私の幼時、つねに病める祖母の枕頭に並んでいた〉
谷口は「占領憲法破棄・明治憲法復元」を説いた。
同じような国家観を持つ三島だったが、谷口と面識はなかったという。
自ら組織した「楯の会」で生長の家の青年たちに出会い、
その人柄や志に触れて、彼らの師・谷口に尊崇にも似た思いを抱いたようだ。
三島は序文で、その青年たちについてもつづっている。
〈「日本に共産革命が起きたら、君らはどうする?」といふ私の問に、「そのときは僕らは生きていません」といふ、
最もいさぎよい、もつともさわやかな言葉が帰つてきた。(中略)こんな青年がどうして生れたのだらう?〉
70年11月25日、三島は森田必勝ら4人の楯の会会員を従え、
東京・市谷の陸上自衛隊東部方面総監部で総監を監禁し、自決した。
同行して監禁致傷や嘱託殺人などの疑いで逮捕された古賀浩靖と小賀正義は、ともに神奈川大4年で、
生長の家の熱心な信者だった。三島は小賀に命令書を残している。

237 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:29:09.92 0.net
〈君の任務は(中略)いさぎよく縛に就き、楯の会の精神を堂々と法廷において陳述することである〉
〈三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘(広めること)せよ。(中略)むしろ死は易く生は難い。
(中略)楯の会の精神が正しく伝はるか否かは君らの双肩にある〉
初公判は71年3月23日。
小賀と古賀が楯の会とともに籍をおく「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)などは
「占領憲法と刺し違えた三島、森田両氏の訴えは刑事事件ではなく、思想裁判であるべきだ」と署名を集めた。
民族派学生運動OBの組織「日本青年協議会」の機関誌に、裁判の描写がある。
〈小賀君は「ことばがその価値を失い不毛なことばが氾濫している。
このような状況の中では生命をかけた行動のみが価値をもち、真実のものとなると思った」と述べ、
その原因となっている占領憲法の無効性を論じた〉
〈「改正の困難な現在の議会制度下にあっては自衛隊の治安出動が唯一の機会であったが、それも失われた。
自衛隊に期待できないとすれば最早自分が憲法に体当たりするしかない、
『犬死』かもしれぬが三島先生も『今は犬死が最も必要なのだ』と言われた」と裁判長を前に堂々と論じた〉
 民族派は、裁判を通じて憲法論議が進むことを期待した。しかし、論議は高まらない。事件を非難した佐藤栄作を証人に呼ぶこともならず、初公判から約1年後の72年4月、被告全員に懲役4年の実刑判決が言い渡された。
「三島さんほどの人が体当たりしても、憲法は変えられないのか」。支援者の間に失望感が広がった。

238 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:29:59.35 0.net
>三島(由紀夫)から何を学ぶべきか

239 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:30:30.02 0.net
山田和夫「成熟拒否」―おとなになれない青年たち
第一章 少年期をやり直す青年たち―劣等感の代償 三島由紀夫の劣等感

三島由紀夫は、棺桶を用意したというほどの自家中毒症のため子供時代からからだが弱く、
そのため、男の子とは遊ばせてもらえなかったという。
祖母の選んだ二、三人の女の子と、折紙やおはじきなど物静かな遊びしかさせられなかった。
学校での体育はいつも見学するだけ。山登りもハイキングや水泳も休ませられるのが常であったし、
隣の空地で近所の男の子たちがキャッチボールしているのを、塀の穴からうらやましそうに覗いていたという。
弱々しいので青びょうたんというアダ名をつけられ、
その上、チビでもあったので、彼はからだについて大変な劣等感をもちつづけた。
背の低さが目立つので生涯、人と並んで写真を撮るのをいやがったし、
やむを得ないときは自分だけ椅子に座ったというほどだ。
代償的に中学、高校時代はもっぱら文学創作に没頭し、そのためかえって彼の天才が育てられたことになる。
が、ともかく、作家として成功し文学的野心がなんとか実を結ぶと、
三島は想い出したように猛然とからだについて熱中しはじめる。
野心が満たされたとき、それにマスクされていた今一つの、
もっと大きな潜在的な欲求がベールを脱いで現われてきたといえる。

240 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:31:20.11 0.net
ふつうなら、からだが弱くとも、チビでも、それなりに自己を肯定したりあるいはあきらめたり、
そういう劣等感を消化してしまう三十歳を過ぎて、
彼は逆に自分のからだを鍛えなおすことに、異様なほど熱情を燃やしはじめる。
青年時代をやり直すように、ボディビルで隆々とした筋肉をつくり、ボクシングで鍛え、
さらに合気道や剣道の修業をして男らしさをつくり上げようとしたものである。
その上新しくつくり上げまさに変身したからだを人に誇示し、
写真を撮らせて雑誌に載せ、得意がるほどになった。
そうしなければおさまらぬほどの怨念であったというしかない。
からだの劣等感に加えて男らしい遊びも知らず育ったこの青春の欠落をとり戻し、
埋め合わせるのに驚くほどの熱情で後半生を送ったという見方さえできよう。
中年になって、子供時代の飢餓感を満たそうとするかのように、町祭のみこしかつぎに飛び出したり、
それよりも「ますらおぶり」を強調し、つまり男らしさをひたすら唱え、
「武」にあこがれつづけた彼の中には、そういった執念をみることができる。
最後には「文人を棄て武人として生きる」ことを願い、人目には兵隊ごっことしかみえない盾の会をつくった。
彼は異様な真剣さでそれに熱中し、遂に武人のように壮絶に腹を切った。
人は青春の欠落を償うのに一生を賭け生命を賭けることもあるものだという典型的な例といえよう。

241 :考える名無しさん:2016/12/09(金) 18:33:01.32 0.net
BSフジ インタビュー 堤清二 2009年8月7日

司会 三島さんが亡くなられた時着ていらした制服は、辻井さんが作られたという話を伺いましたが

はいそうです これは、三島さんが色々調べてね ナポレオンの制服が一番、
あ、ナポレオンじゃない、ドゴールの制服が一番良い 
ドゴールの制服作った人をそのー、探してくれ、て言って、探したらね 丁度私の所にいたんですよ 
五十嵐九十九さんというね、人が、日本人が、ドゴールさんの制服作っていた 
それは都合が良いといって 好都合だといって三島さん本当に喜んでね 
で、50着ぐらい作りましたかねー 盾の会の、会皆がそれ着ていたわけですから 
だからお通夜の席に あのー出版社以外で行ったの僕一人だったんですけどね 
てのは大変な騒ぎになってましたから 
でー、もしかすると家宅捜査もあるかもしんない という雰囲気でしたから 
ぼく、そんなことはすぐ平気…になっちゃうんですね
(そのような事で葬儀を欠席し義理を欠くようなことはしない) 
お父さんに、三島さんのお父さんに「君んところがあんな制服作るから息子は死んじゃったよ」て、言われてね 
私はもう本当に恐縮して謝ってばかりいましたけど

司会 三島さんそこまでやって何を訴えたかったのか
やっぱりあのー、何ていうかな、理想主義というか、ローマン主義 
その、ロマンを求める心というのはね、あのー、政治家無くなっちゃちゃいかんのですね

242 :考える名無しさん:2016/12/10(土) 20:47:26.86 0.net
占領憲法が気に入らないなら、体当たりする相手は、占領の象徴である米軍基地だろ?

三島は、ただ射殺されるだけで、主張など聞いてもらえない現実の相手が怖かったのかね?

243 :考える名無しさん:2016/12/21(水) 00:11:42.26 0.net
ttp://echo.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1471762772/137
憲法を考える 各党に聞く こころ 現憲法、独立国家の体成さず
朝日新聞 2016年10月26日 日本のこころを大切にする党・中山恭子代表

>憲法改正は当然のことです。本来であれば、サンフランシスコ講和条約が発効して
>日本が独立を果たした段階で憲法改正をするのが普通の国としてのあるべき姿だった。
>それをずっと放置し続けたのは非常に情けなく、残念な状況が続いてきたと思う。
>ここに至るまであまりにも時間がかかりすぎたとは思うが、
>憲法改正問題を真剣に考え、取り組むことはとても大切なこと。
>連合国軍総司令部(GHQ)が占領下の日本に適用するように作った憲法をいまだ持ち続けているのは
>独立国家の体を成していないと思う。
> 緊急事態条項がないことも属国の憲法であることが明確に打ち出されている。
> 私たちは現行憲法を部分的にどうこう変えるのではなく、日本国として本来あるべき姿の憲法、
>つまり「自主憲法」を作らなければならない。

244 :考える名無しさん:2016/12/21(水) 00:15:18.52 0.net
「明治の時代こそ大切、振り返る日に」 「明治の日」求め、自民議員ら集会参加
朝日新聞 2016年11月2日

明治天皇の誕生日である11月3日を「明治の日」にしようと、祝日法改正運動を進める団体が1日、
国会内で集会を開いた。明治維新から150年の節目にあたる2018年の実現に向け、
超党派での国会議員連盟発足を目指しているが、
国会議員の参加は14人で、うち自民党以外は2人にとどまった。この日の集会には約140人が参加。
明治の日の実現を求める約63万8千筆の署名が自民党の古屋圭司選対委員長に手渡された。
安倍晋三首相に近い古屋氏は
「かつての『明治節』がGHQ(連合国軍総司令部)の指導で大きく変わることを強いられた。
明治の時代こそ大切だったと全ての日本人が振り返る日にしたい」と決意を述べた。
稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、
日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。
その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。民進党からは鷲尾英一郎衆院議員が参加した。
集会を開いたのは「明治の日推進協議会」(塚本三郎会長=元民社党委員長)。
同協議会は11年に結成され、安倍首相のブレーンの一人とされる
伊藤哲夫・日本政策研究センター代表、大原康男・国学院大名誉教授、
ジャーナリストの桜井よしこ氏らが役員に名を連ねる。
「文化の日」は、1946年11月3日の憲法公布を受けて、48年施行の祝日法で制定された。
当時の国会審議では「戦争放棄を宣言した重大な日」であることから
「自由と平和を愛し、文化を進める日に決めた」と説明されていた。
これに対し、同協議会は「日本国が近代化するにあたり、わが民族が示した力強い歩みを後世に伝え、
明治天皇と一体となり国つくりを進めた、
明治の時代を追憶するための祝日」(請願書)として、法改正を訴えている。
この動きとは別に政府は10月、明治維新から150年となる18年に記念事業を行う方針を発表している。

245 :考える名無しさん:2016/12/21(水) 00:39:02.47 0.net
朝日新聞 天声人語 天壌無窮の神勅 2016年11月19日
「天皇の地位は日本書紀における『天壌無窮の神勅』に由来するものだ」。

おとといの衆院憲法審査会で飛び出した言葉に耳を疑った。自民党の安藤裕議員の発言である
神勅は、アマテラスが自分の孫であるニニギに告げた命令とされる。
「平定された日本へ行き統治せよ、永遠に栄えるであろう」が大意だ。
日本書紀に「天孫降臨」にいたる神話として書かれている
安藤氏は皇室典範についてこう述べた。
「国会ではなく皇室の方々でお決め頂き、国民はそれに従うという風に決めた方がいい」。
国民の代表が自ら国民主権を否定するような物言いである
「八紘一宇」「皇紀」「神武天皇の偉業」。昨年来、自民党議員の口から皇国史観ゆかりの言葉が次々飛び出す。
あえて時代錯誤の語を持ち出すのはなにゆえか。いさめる人は党内にいないのか
教育史家の故・唐沢富太郎氏の資料館「唐沢博物館」(東京都練馬区)で、戦中の教科書「国史」を手に取った。
最初のページに「神勅」がある。文字が格別に大きい。すぐ脇には「教育勅語」の展示もある。
「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。天壌無窮そのものが、あの時代の狂気を支えた理念の一つだと実感する
神話は当時の小学生にも見破られていた。
唐沢氏の著書「教科書の歴史」によると、天孫降臨の図を教室で見せられた茨城県の小学生は
「先生そんなのうそだっぺ」と尋ね、木刀で殴られた。
神話と史実の混同が私たちを苦しめたのはさほど遠い昔の話ではない。

246 :考える名無しさん:2016/12/21(水) 00:44:44.64 0.net
このようなことを主張する者らの正体は、カウンターパートのアメリカ人学者らの手によって既に暴かている。

247 :考える名無しさん:2016/12/21(水) 00:48:02.75 0.net
ttp://www.hashimoto.or.jp/dr/bungei/syohyo.yame.html
明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか 板垣恭介著 大月書店 1200円 206頁

この本を読んでみてまず思ったことは、「皇室に関する本としては一級のものであろう」という感想であった。
1961年から1993年まで、宮内庁記者として皇室の人々に、身近に接してきた記者だからこそ書ける内容である。
そこには、昭和天皇に対する厳しい批判が色々な資料を駆使して述べられているが
(その論点も説得力に富み素晴らしい)、一方、特に美智子さん、明仁さんに対する敬愛の念が通底している。
そして、最も大事な視点として、著者が最後の頁に書いているのが以下の文章である。

―― しかし、皇族を特殊あつかいにして、政治の仕掛けの中に取り込み、
それを国家のまとまりに利用することは、とても非人間的なことだ。
この本で、昭和天皇を批判する文章を書いた。しかし、天皇に生まれてしまったのは、彼の罪ではない。
昭和天皇をもう作ってはいけない。かれもまた被害者である。
なによりもの加害者は、人間をカミに仕立て、
ナニモカモこの人に押しつけてしまい、そのことを忘却している日本人である。
昔には戻れない。けれども同じ事を繰り返すのはやめられる。
その決意をこめて「明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか・・・・・」である。

この視点は、現在の我々の社会状況にも当てはまる。小泉氏を熱狂的に迎え入れたマスコミと大衆。
しかし、その市場原理主義による歪みが、格差社会として日本全体を覆おうとしている今、
その困難から抜け出すには、国民無視の政治を変えるしかないし、
それを行えるのは、われわれ国民の意思しかないのである。
そのことに、思い至らない国民の多いこと、
それはかって天皇の名による戦争を熱狂のうちに始めてしまったマスコミと国民の責任に良く似ている。
何の疑問も差し挟むことなく天皇制を許しつづけている社会は、
過去の物言われぬ社会の再びの到来を防ぎ得ないのではなかろうか。

248 :考える名無しさん:2017/01/07(土) 07:46:22.06 0.net
>>227
>>228
受験能力に優れた人だけが
東大に合格できる
何故かある國の系列の人々が
全国トップレベルになってるし
そういう人々が非常に多くいる

249 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:48:58.95 0.net
外発性と権力の分ち難き結合による“内側”支配、と自己破滅

朝鮮半島のように陸続きではないので
(少なくとも主観的に何処からどう見ても)直接的な属国になったことはない。
しかし(基幹文化を大文明側に依存している実態や、
圧倒的に優勢な外国勢力を内部統治のために一時的に利用する等、或る状況下で)
属国だがそれを如何に属国に見せないかという自己欺瞞を磨いてきた国が日本である。
つまり後発的な《外発性》と、《外発性》を利用した支配権力とが分ち難く結びついている。
先進文明が『こうすれば必ず上手く動作する』と見出した《結論》(理論、技術、思想=社会制度)を、
その外国と結託した“権力者が”自国の被支配層に強制する。
自国の中では『何が我々“全体に”とっての《真実》か』を決して見出さない。
見出すこと自体が(この後発文明が強いる)《外発的》権力の崩壊を招く。
逆に《外発的》権力が崩壊しなければ“全体の”破滅を招く
(西欧文明は、全体にとっての『真理を見出す』ことによって
《種》(=民族)の滅亡を回避する思想を持つ。それが一神教でありプラトン哲学である。
後発文明は外の先進世界で得られた真理、
それが生み出した先進の技術的《成果》から“切り取った”都合好いものを選び出し、
権力を振るうために国内に対して強制する。だから真理は必要ではない。
目的は特定の少数一派がその他多数を『強制支配する』ためだからである。
そしてこの国の“学問は”全てこの《外発的》支配に沿うように組み立てられている)。

250 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:49:19.46 0.net
例えば未だ混沌の時代、戦国大名の一人であった徳川家康は
エリザベス女王からカルバリン砲を得て三浦按針を軍事顧問に据え、豊臣に勝って天下統一すると一転、
キリシタンを虐殺して鎖国した。自分は西欧から進んだ知識や武器を取り入れて自他を差別化し、
その上で自分以外の日本人を打倒すると支配領域を閉ざす。それで長期的な支配の安定を図る。
これは外発性と権力構造が不可分であることを示している。
権力が強いるこの外発性を受け入れない者は抹殺対象となる。
西欧社会は紀元前千数百年には一神教という概念を掴み取った。
それは全体(種)にとって何が正しいのかを見極める思想であった。
その一致した真理を基軸に異なる個々人を組織して外界の脅威に対抗しようとする価値観であった。
それがモーセの一神教でありプラトン哲学である。

251 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:50:30.76 0.net
一方、「外」の進んだ文明を利用して(全体の一部に過ぎない或る一派が、外国生まれの進んだ学芸を身に着けて、
或は外国に軍事支援されて自他を差別化し)覧った「内」を征bキる思想が「和魂洋才」である。
その方式を社会正義に見せかける詭弁が「尊王攘夷」である。つまり文明の方向性が全く逆である。
西欧人と日本人は表面的には同じ数学、法学(その他諸々の工学等)を学びながら、
それを学ぶ精神性は全く逆である。
だから外形的(手順的)に同じ学問を学んでも社会的には同じように機能しない。
原発を動かしたり戦争をするのは何のためなのか。西欧では自国を守るためである
(そのために何が真理かを見極めようとする)。ところが日本社会では或る特定の派閥が、
自分ら以外の同胞(彼らはそれを同胞と思っていないが)を征するためである。
全体の将来性や持続性は全く考えていない。自分らが自分ら以外に勝つことだけを考えている。
だから最終的には全体が破滅するのである。

252 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:51:03.94 0.net
新帝国主義(グローバリズム)と立憲主義が進める世界戦争への道

グローバリズムとリベラリズムは連動するものではない。
グローバリズムは帝国主義の変形である。
動物的欲望を動力源に己の支配域を拡張したいという話だ。
しかし軍隊を送って血を流す直接的な植民地より、
相手に任せて親しくした方が安上がりだから《グローバリズム》となった。
一方で専制君主を倒して立憲主義を敷いた政治体制とそれを支える価値観は、
むしろ動物性の抑制を図るものである。方向性が全く逆だ。
人間は動物である身体を持ち、その身体が発散する欲望を自然界に適合させる抑止力として(超)自我を持つ。
この両輪で文明は発展し進んできた。それで先進文明が一足先に専制君主を倒して立憲主義となった。
しかし人間、生きる限り動物的欲望は消えない。だから帝国主義的に侵略して行く。
それで複数の先進的な強国が密林を切り開くように後発国へ侵攻する。
資源を求め、労働力を求め市場を求めて。
すると其々の強国が、より早く有利な“要の”橋頭保を得ようとし、
後発国(は後発国の所以として、未だ抽象的価値観を持つに至っておらず、
専制独裁をこの超越的価値観で打倒する段階に至っていない、そ)
の支配層に近づいて『味方となれ』と脅すか或は誘惑する。

253 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:52:24.80 0.net
後発国の主流派が、これに抵抗するなら反主流派を焚きつけ支援する。
守旧派は転覆、新政権が樹立される。
この新政権は先進国をバックにつけ、専制の独裁で反対派を強烈に弾圧する。
弾圧された者らは自国の独裁政権と、それを裏から支える先進国に強烈な恨みを抱く。
こうしてテロから世界戦争への道が開かれる。
先進国はリベラリズム(立憲主義による専制独裁体制の打倒
=人民一人一人の権利を守る世界)を世界に広めると称してグローバル化(新手の帝国主義)を進める。
半分は本気で半分は欺瞞として。生物である人間の基本は動物である。
自分らの動物的欲望が通る世界を広げたいから
(或は高齢化の進展と需要飽和の回避を目指して)グローバル化を進める。
それをリベラリズムでカムフラージュする。
いや、未開の独裁国を(自分と意見が通じる)リベラリズムにしたくとも、
その未開人に抽象的思考力(を得るに至るまでの歴史過程が)、価値観が無い。無い所で立憲主義は成り立たない。
だから独裁国(一部の特権者による専制的な寡頭体制)を支援する以外無い。
するとその独裁国は少数の主流派支配層と多数の非支配層に分裂する。

254 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:54:48.73 0.net
かつて英米が日本に近づくことによって幕府は倒れ日本は近代化し、
その近代化した日本によって東アジアの秩序が流動化(中国との地位逆転)した。
それは旧幕臣に非常な恨みを抱かせ昭和維新につながって行く。
今やイスラム世界で同じことが起こっている。
ソ連のアフガン侵攻に対抗するためアメリカがムジャヒディンに武器を与えて軍事訓練する。
またパキスタンに核の技術を供与して、見返りにパキスタン領内に航空基地を得た。
その核技術を使ってパキスタンは核武装する。更にその技術をイランと北朝鮮に売り渡した。
するとアラブ人のサウジアラビアと、ペルシャ人のイランの既存の力関係が揺らいでくる。
かつての日本と中国のように。イランが核開発に成功すればイラン絶対優位となる。
それでサウジアラビアがパキスタンに核爆弾の供給を求め密約する。
このような核拡散を止めようとアメリカが動き出す。
するとかつてアメリカが支援したムジャヒディンが(西側世界に)テロを仕掛けてくる。
アメリカが支援した独裁国家に虐げられた反主流派が、アメリカに(9.11のような)テロを仕掛けてくる。
かつての陸軍統制派、「一夕会」(=反・非薩長閥)の永田鉄山、東条英機、武藤章、田中新一らのように。
かつてが世界大戦につながったように、
今回の(地球全域に広がった)グローバル化も(先進国の陣地争いと、
それを利用した後発国による近代化と独裁政治の自制が無ければ)世界戦争への道である。

255 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:56:40.27 0.net
ttps://www.youtube.com/watch?v=P6KMxU2eMRo
「げんきな日本論」ノーカット版
ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/50819
武士が担った革命・明治維新は、なぜ武士の世界をつくらなかったのか
橋爪大三郎×大澤真幸の歴史対談【第一回】 2017.2.11

>本当は明治以前の日本(と)その自分たちの歴史的伝統と
>自分たちの現在とがどうつながっているのかということがもう一つ、見えていない
>その見えていないということが、
>日本人がこの社会で現在生きるときに元気になりきれない一つの原因になっている
>そのことを掘り下げていくと、近世の日本社会というのはどんなものであったのかがわかる。
>それと同時に、現在のわれわれが何者であるかということも、だんだんと見えてくる
>これは少なくとも幕藩体制全体を見通さなければ解けない問題だと思う

>そういう人たちが一番知りたいのは、外圧によって近代化するときにどういう問題が起こるのか、
>どういう方法でそれを克服するのか
>そういう情報を一番発信できるのは日本ではないでしょうか
>日本史というのは日本社会を分析するためにあるわけですけど、それだけじゃなくて、
>それを適切に加工して、すべての人の役に立つ知識に作り替えることができる

256 :考える名無しさん:2017/02/17(金) 18:57:05.88 0.net
>この二回にわたって、ヨーロッパ文明の外圧を乗り越えているというのが日本の基本です
>これがいったいどういう意味があったのか。
>これを順接と逆接と両方の考え方で捉えて、一つの教訓やストーリーを引き出せないか。これが私の思い

>この鉄砲をコントロールするというところに、江戸時代の深い動機があったというふうに私は思っている
>この既得権を保ったまま平和を実現し、
>これが幕藩制の基本的動機です
>この条件が満たされるのは外国と切断されているということです
>もし外国から知識や武器がどんどん入ってきたら、このシステムは成り立たないわけだから、
>そういう視野を持って、外国との情報を遮断する

257 :学術 ディジタル アーカイヴ@院教授:2017/02/17(金) 20:30:36.87 0.net
ハイデカー解釈面白いね。日本軍は私大ノリで。

258 :考える名無しさん:2017/04/30(日) 17:25:33.79 0.net
ttps://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1453477774/501-504
西部邁ゼミナール(佐伯啓思×柴山桂太) 2017年4月29日

259 :考える名無しさん:2017/05/01(月) 05:02:26.49 0.net
Die Grundverfassung des Daseins ist ueberhaupt In-der-Welt-sein!!

260 :学術:2017/05/01(月) 11:36:32.91 0.net
だけど、学長や全総長なんて、女学生から離れている時間の方が、
大事なわけで、ハイデカーも、屋台でもひさいでいる時に思い出して暗唱している
ぐらいの方がいいのではないかな。祭りやカーニバルで。

261 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:23:12.94 0.net
福沢諭吉「文明論之概略」

文明論とは、人の精神発達の議論なり。その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、
天下衆人の発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。
故に文明論、あるいはこれを衆人発達論というも可なり。
都て事物を詮索するには、枝末を払いてその本源に遡り、止まるところの本位を求めざるべからず。
かくの如くすれば、議論の箇条は次第に減じて、その本位は益々確実なるべし。
ニウトン初めて引力の理を発明し、およそ物、一度動けば動きて止まらず、
…明らかにその定則を建ててより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。
定則とは道理の本位というも可なり。
もし運動の理を論ずるに当たりて、この定則なかりせば、その議論区区として際限あることなく、
船は船の運動を以て理の定則を立て…徒に理論の箇条のみ増して、その帰するところの元は一なるを得ず、
一ならざれば則ち確実なるを得ざるべし。
議論の本位を定めざれば、その利害得失を談ずべからず。
…故にこれらの利害得失を談ずるには、先ずそのためにする所を定め…
その主とするところの本を定めざるべからず。
古今の世論、多端にして互いに相齟齬するのも、その本を尋れば、初めに所見を異にして、
その末に至り強いてその枝末を均うせんと欲するに由て然るものなり。

262 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:24:12.43 0.net
《プラトン哲学、ユークリッド幾何学原論の原理が如何に一般社会、
その政治上の議論に応用されるべきなのか》
(議論の本位=「公理」を先ず定め、議論参加者はこれを互いに共有せよ。
そうでなければ議論した所で噛み合わない。噛み合わなければ議論参加者“全体の”利害得失は分らない。
只、互いに自分に事を有利に引き寄せて、相手を欺こうと勝手なことを言い合っているだけだ)を説明した箇所

263 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:26:35.82 0.net
開闢の後、野蛮を去ること遠からざる時代には、人民の智力いまだ発生せずして…
内に存するものは、ただ恐怖と喜悦との心のみ。…山を恐れ、海を恐れ、旱魃を恐れ、飢饉を恐れ、
都てその時代の人智を以て制御すること能わざるものは、これを天災と称してただ恐怖するのみ。
あるいはこの天災なるものを待ちて来らざるか、または来て速に去ることあれば、
乃ちこれを天幸と称してただ喜悦するのみ。
…而してこの天災天幸の来去するや、人民に於いては悉皆その然るを図らずして然るものなれば、
一にこれを偶然に帰して、かつて人為の工夫を運さんとする者なし。
工夫を用いずして禍福に遇うことあれば、人情としてその源因を人類以上のものに帰せざるを得ず。
即ち鬼神の感を生ずる由縁にて、その禍の源因を名けて悪の神といい、福の源因を名けて善の神という。
およそ天地間にある一事一物、皆これを司る所の鬼神あらざるはなし。
日本にていえば八百万神の如き、これなり。
この善の神に向ては幸福を降さんことを願い、悪の神に向ては禍災を避けんことを願い、
その願の叶うと否とは我工夫にあらずして鬼神の力にあり。その力を名けて神力といい、
…その時代に行わるる祈祷なるもの、これなり。

264 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:27:21.89 0.net
この人民らの恐怖しまた喜悦する所のものは、啻に天災と天幸とのみならず、人事に於てもまたかくの如し。
道理に暗き世の中なれば、強大なるものの腕力をもって小弱なる者を虐するも、
理を以てこれを拒むの術なくして、ただこれを恐怖するのみ。その有様は殆ど天災に異ならず。
故に小弱なる者は、一方の強大に依頼して、他の横暴を防ぐの外に手段あるべからず。
この依頼を受る者を名けて酋長という。
…この酋長なる者、既に権威を得るといえども、無智の人民、反覆常なくして、これを維持すること甚だ難し。
これを諭すに高尚の道理を以てすべからす、これを説くに永遠の利益を以てすべからず。
その方向を一にして、共に一種族の体裁を保たんとするには、ただ
その天然に備わりたる恐怖と喜悦の心に依頼して、目前の禍福災幸を示すの一法あるのみ。
…然りといえども、そのこれを褒めこれを罰するは、皆君長の心を以て決することなれば、
人民はただこの褒罰に遇うて恐怖しまた喜悦するのみ。褒罰の由て来る由縁の道理はこれを知ることなし。
その事情あたかも天の禍災幸福を蒙るが如く、悉皆その然るを図らずして然るものにて、
一事一物も偶然に出ざるはなし。
故に一国の君主は偶然の禍福の由て来る所の源なれば、
人民よりこれを仰て自からまた人類以上の観を為さざるを得ず。

265 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:28:33.41 0.net
《アニミズムに留まる精神性が現象や他者の意志に対して意味不明の恐怖を生み出し、
強大な存在への依頼心を抱かせる。これはフロイトが分析した原始人と幼児の類似性である。
この、未だ自分の言葉で現象を(時系列と、そして空間的広がりをもって、
その中に派生する個々の相互関係を考慮しつつその隠された意志を)描写し説明するべく
その根拠を分析できない精神段階が、外界からの脅威に遭遇すると意味不明の恐怖を生み、
その痛撃による肉体の苦痛と底知れぬ不安が《心的外傷》をもたらす。
そしてこれは同時に強者への屈従を生み出す。
或は他を無制限に支配しようと強迫的に熱望するナルシシズムを生み出す。
権力者もまた(自分自身も、或は言葉による説明を理解しできない、受け容れる能力無き)人民に
言葉で説明できず、自分の“心で”人民を――恐怖や褒美で――コントロールしようとする。
これが極端に階層化された専制の、独裁社会を作る。
理屈を自分で追求し解明できる者は、いたずらに恐怖したり他人にコントロールされたりしない》との箇所

266 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:43:30.18 0.net
宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由、最も独立して、豪も他の制御を受けず、
豪も他の力に依頼せずして、世に存すべきはずなるに、我日本に於ては即ち然らず。
…日本の宗旨には、古今、その宗教はあれども自立の宗政なるものあるを聞かず。
その実証を得んと欲せば、今日にても国中有名の寺院…何れも皆政府の力に依らざるものなし。
…故に古来日本の大寺院と称するものは、…概してこれを御用の寺といわざるを得ず。
…その威力は封建の大名より盛なるものあり。然り而してその威力の源を尋れば、宗教の威力にあらず、
ただ政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。
…寺院に自立の宗政なきもまた怪むに足らず、その教に帰依する輩に信教の本心なきもまた驚くに足らず。
…古来日本にて、宗旨のみのために戦争に及びしことの極て稀なるを見ても、
また以て信教者の懦弱を窺い知るべし。…宗教なおかつ然り。いわんや儒道学問に於てをや。
…これより足利の末に至るまで、文学は全く僧侶の事と為り、
字を学ばんとする者は、必ず寺に依らざればその方便を得ず。
後世、習字の生徒を呼て寺子というもその因縁なり。
ある人の説に、日本に版本の出来たるは鎌倉の五山を始とすといえり。果して信ならん。

267 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:45:35.72 0.net
故に今、東西学風の…行われたる次第に就き、著しき両者の異別を掲げ…示す…
この学問なるもの、西洋諸国に於いては人民一般の間に起こり、我が日本にては政府の内に起こりたる一事なり。
西洋諸国の学問は学者の事業にて、…我国の学問はいわゆる治者の世界の学問にして、
あたかも政府の一部分たるに過ぎず。
…国内に学者の社中あるを聞かず、議論新聞等の出版あるを聞かず、技芸の教場を見ず、衆議の会席を見ず、
都て学問の事に就ては、豪も私の企てあることなし。
…その学流もまた治者の名義に背かずして、専ら人を治るの道を求め…官途に就かざれば用を為さざるが如し。
…故に偶々民間に才徳を有する者あれば、己が地位にいてこの才徳を用いる方便なきがため、
自らその地位を脱して、上流の仲間に入らざるを得ず。
故に昨今の平民、こんにちは将相と為りしこと、古今にその例少なからず。
これを一見すれば、彼の上下の隔壁もなきが如くなれども、この人物はただその身を脱して他に遁れたるのみ。
これを譬えば、土地の卑湿を避けて高燥の地に移りたるが如し。
一身のためには都合宜しかるべしといえども、元とその湿地に自ら土を盛りて高燥の地位を作りたるにあらず。
故に湿地は旧の湿地にて、目今己が居を占めたる高燥の地に対すれば、
その隔壁なお存在して、上下の別は少しも趣を変ずることなし。

268 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 00:47:51.06 0.net
《宗教的価値観は(他人が持つ自制心=超自我によって守られる自分の権利と、
他人の権利を侵害しない自分が持つ自制心とによって)個人の権利を守り個人の独立を維持する、
そのために其々の個人、その内面に存在するべきものである。しかし、これが日本では権力の道具になっている。
日本の学問は支配の道具になっている。
立場の強い者や、強者の誠意や同情心に縋る者が『社会の為、皆の為』という《大義名分》を掲げるものの、
それは表向きで、内実は権力を握ろうとするものの道具である。
これを振り回す者を「偽君子」と称する》との箇所

269 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 20:33:16.15 0.net
足利の末年に至りて、天下大乱、豪傑所在の割拠して、攻伐止む時なく、…一敗、国を亡ぼす者あり、
一勝、家を興す者あり。門閥なく、由緒なく、功名自在、富貴瞬間に取るべし。
…この時勢の中にありては、日本の武人にも自ずから独立自主の気象を生じ…一変すべきに思わるれど、
事実に於いては決して然らず。

この時代の武人、快活不羈なるが如くなれども、この快活不羈の気象は、一身の慷慨より発したるものにあらず、
…先祖のためなり家名のためなり、君のためなり父のためなり、己が身分のためなり。
およそこの時の師に名とする所は、必ずこれらの諸件に依らざるものなし。

…先祖、家名なく、君父、身分なき者は、故さらにその名義を作て、口実を用るの風なり。
…その智力のみを恃て事を為さんと企たる者あるを聞かず。
その期する所はただ上洛の一事にあるのみ。

そもそもこの上洛の何物たるを尋れば、天子もしくは将軍に謁し、
その名義を借用して天下を制せんとすることなり。
あるいはいまだ上洛の方便を得ざる者は、遥かに官位を受けこの官位に藉て自家の栄光を増し、
以て下を制するの術に用いる者あり。
この術は古来、日本の武人の間に行わるる一定の流儀にて源平の酋長、皆然らざるはなし。
北条に至ては…ただに王室を器械に用るのみならず、兼て将軍をも利用したるものなり。

270 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 20:35:31.68 0.net
あーあ

271 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 20:35:58.37 0.net
…その表面には忠臣節義を唱え、児戯に等しき名分を口実に用いて自らこれを策の得たるものと為し
(…何れも皆詐謀偽計の明著なるものにて)…
日本の武人は、開闢の初よりこの国に行わるる人間交際の定則に従いて、
権力偏重の中に養われ、常に人に屈するを以て恥とせず。
彼の西洋の人民が、自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各その権義を持張する者に比すれば、
その間に著しき異別を見るべし。

一族の頭に大将あり、大将の下に家老あり、…以て足軽中元に及び、上下の名分、判然として、
その名分と共に権義をも異にし、一人として無理を蒙らざる者なく、一人として無理を行わざる者なし。

272 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 20:37:39.43 0.net
偽君子の甚しきに至ては、ただに徳義の事を聞てその意味を解するのみならず、
自分にて徳義の説を主張し、あるいは経書の註解を著し、あるいは天道宗教の事を論じ、
その議論如何にも純粋無雑にして、その著書のみを取りてこれを読めば、
後世また一人の聖人を出現したるが如きものあれども、
退いてその人の私に就てこれを見れば、言行の齟齬すること実に驚くべし、心匠の愚なること実に笑うべし。
…これこそ偽君子の張本なれ。
…この類を計え上れば、古今支邦にも日本にも西洋にも、韓退之の手下なきにあらず。
巧言令色、銭を貪る者は論語を講ずる人の内にあり。

273 :考える名無しさん:2017/06/28(水) 20:38:26.46 0.net
《真の団結を得るべき宗教の、それが無きところ偽の大義名分を持ち出して、
他人を騙して権力を握ろうと画策する者らが跋扈する末世》について語った箇所

274 :考える名無しさん:2017/06/29(木) 18:28:03.60 0.net
良スレ

275 :考える名無しさん:2017/07/02(日) 13:45:21.59 0.net
福沢諭吉「学問のすゝめ」

即ちその分限とは、我もこの力を用い他人もこの力を用いて相互にその働きを妨げざるを言うなり。
かくの如く人たる者の分限を誤らずして世を渡るときは、人に咎めらるることもなく、
天に罰せらるることもなかるべし。これを人間の権義というなり。
右の次第に由り、人たる者は他人の権義を妨げざれば自由自在に己が身体を用いるの理あり。
その好む処へ行き、その欲する処へ止まり、或いは働き、或いは遊び、…或いは昼夜勉強するも…、
他人に関係なきことなれば、傍らより彼是とこれを議論するの理なし。

…禁裏様は公方様よりも貴きものなるゆえ、禁裏様の心をもって公方様の身を勝手次第に動かし、
行かんとすれば止まれと言い、止まらんとすれば行けと言い、
寝るも起きるも飲むも喰うも我思いのままに行わるることなからん。
公方様はまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。
大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、…徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。
…かくの如きは即ち日本国中の人民、自躬からその身を制するの権義なくして却って他人を制するの権あり。
人の身と心とは全くその居処を別にして、その身はあたかも他人の魂を止める旅宿のごとし。
…数千百年の古より和漢の学者先生が、上下貴賎の名分とて喧しく言いしも、
詰まるところは他人の魂を我身に入れんとする趣向ならん。
これを教えこれを説き、涙を流してこれを諭し、
末世の今日に至って…、大は小を制し強は弱を圧するの風俗となりたれば、…

276 :考える名無しさん:2017/07/02(日) 13:45:59.55 0.net
《或る他人が己を律するその超自我(=超越的規範)は、
彼の(持つ動物性に由来する)邪悪を打ち払い暴力性を抑止して、
それがひいては「私」の権利を守り、即ち《心的外傷》の受傷を防止する。
今度は「私」の超自我が他人の権利を守り、即ち彼に対する《心的外傷》の受傷を防止する。
その超越的規範無き世界では、個人は他人の心に土足で侵入し、
あたかも他人の身体を自分の身体の如くに乗っ取って勝手次第に乗り回す。
この権力行使の上下関係が連鎖状に繋がって、
下に行けば行くほど苛烈な(侵害を生ずる=カルト専制による)階層構造の社会を作り出す。
この社会に組み込まれた(例えば幼少より侵害され続けて成長した大人の、
その夫婦間に生れた5歳未満の幼児の)個々人に《心的外傷》与え、
この《心的外傷》は一方にナルシシズムを、
もう一方に屈従を生み出して偽君子(とそれに操縦される社会)を作り出す》との説明部分。

277 :考える名無しさん:2017/07/02(日) 13:47:26.39 0.net
福沢諭吉「学問のすゝめ」

第八篇に上下貴賎の名分よりして夫婦親子の間に生じたる弊害の例を示し…次第を記せり。
そもそもこの名分の由って起こるところを案ずるに、
その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしと雖も、その本意は必ずしも悪念より生じたるに非ず。
畢竟世の中の人をば悉皆愚にして善なるものと思い、これを救いこれを導き、これを教えこれを助け、
只管目上の人の命に従って、かりそめにも自分の了簡を出さしめず、
目上の人は大抵自分に覚えたる手心にて、よきように取計らい、
一国の政事も一村の支配も、店の始末も家の世帯も、上下心を一にして、
あたかも世の中の人間交際を親子の間柄の如くになさんとする趣意なり。

譬えば十歳前後の子供を取扱うには固よりその了簡を出さしむべきに非ず、
大抵両親の見計らいにて衣食を与え、子供はただ親の言に戻らずしてその差図にさえ従えば、
寒き時には丁度綿入れの用意あり、腹のへる時には既に飯の支度調い、
飯と着物はあたかも天より降り来るが如く、我思う時刻にその物を得て何一つ不自由なく安心して家に居るべし。
両親は己が身にも易えられぬ愛子なれば…親子の間一体の如くして、その快きこと譬えん方なし。
即ちこれ親子の交際にして、その際には上下の名分も立ち、嘗て差支えあることなし。
世の名分を主張する人は、この親子の交際をそのまま人間の交際に写し取らんとする考えにて、
…爰に大なる差支あり。

278 :考える名無しさん:2017/07/02(日) 13:48:35.32 0.net
アジアの諸国においては国君のことを民の父母といい、人民のことを臣子または赤子と言い、
政府の仕事を牧民の職と唱えて、シナの地方官のことを何州の牧と名づけたることあり。
この牧の字は獣類を養うの義なれば、
一州の人民を牛羊の如く取扱う積もりにて、その名分を公然と看板に掛けたるものなり。
…かの実の父母が実の子供を養うが如き趣向にて、
第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔け、一片の私心なく半点の我欲なく、
…上下合体共に太平を謡わんとするの目論見ならん。実に極楽の有様を模写したるが如し。

右の如く上下貴賎の名分を正し、ただその名のみ主張して専制の権を行わんとするの源因よりして、
その毒の吹出すところは人間に流行する詐欺術策の容体なり。この病に罹る者を偽君子と名づく。


譬えば封建の世に大名の家来は表向き皆忠臣の積もりにて、その形を見れば君臣上下の名分を正し、
辞儀をするにも鋪居一筋の内外を争い、亡君の逮夜には精進を守り…
すわといわば今にも討死にせん勢いにて、一通りの者はこれに欺かるべき有様なれども、
窃かに一方より窺えば果して例の偽君子なり。
…畢竟この偽君子の多きもその本を尋ぬれば古人の妄想にて、
世の人民をば皆結構人にして御し易きものと思い込み、その弊遂に専制抑制に至り、
詰まる所は飼犬に手を噛まるることなり。
返す返すも世の中に頼みなきものは名分なり。毒を流すの大なるもの専制抑圧なり。恐るべきに非ずや。

279 :考える名無しさん:2017/07/02(日) 13:50:12.06 0.net
《この上下関係による社会構造は親子関係をそのまま広い社会に対して適用したものである。
だがこの関係は、肉親である親子ではその《善意》によって有効に成り立っても、
赤の他人に対しては成り立たない。互いに相手を(利用しようと)欺き、裏切り合う関係に頽落する。
(相手を自分に都合好く操るための)上辺の言葉と内実の行動(=相手に対する搾取)とが乖離する。
これを偽君子と称する》との説明部分。

280 :考える名無しさん:2017/07/04(火) 01:38:23.24 0.net
 〈民族〉に同一化することで己の空虚を埋めるようなことをしてはいけない、
がハイデガーだ。〈皇室〉だろうが〈国家〉〈歴史〉だろうがそう。〈〜主義〉
だろうがそう。そこで三島由紀夫とハイデガーは異なって行く。ハイデガー
はただに一個の実存内部での時間と存在の関係こそ本来性を奪取する際の問題だ
とした。

 なので上で一生懸命に社会構造やら国家やら親子関係やら上下関係やら
邪悪やら超自我やら
考えている人の論は関係ない。何を血迷ってるのかねこの御人は。
「良スレ」じゃねえだろうw関係ないこと延々書くなよ、がこの御人に言
べきことだよ。だいたいハイデガーなぞ読んでないんだろうがこの御人は。

281 :考える名無しさん:2017/08/11(金) 21:15:55.50 0.net
>〈民族〉に同一化することで己の空虚を埋めるようなことをしてはいけない、がハイデガーだ
真逆だろw

282 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:07:52.88 0.net
内東湖南「應仁の亂に就て」

…今日多數の華族の中、堂上華族即ち公卿華族を除いた外の大名華族の家といふものは、
大部分此の應仁の亂以後に出て來たもので…
今日大名華族の内で、應仁の亂以前から存在した家といふものは至つて少く…
同時に、應仁の亂以前にありました家の多數は、
皆應仁以後元龜天正の間の爭亂のため悉く滅亡して居ると言つてもいゝ…
源平以後、守護地頭などになりました多くの家も、
大抵は皆應仁の亂以後の長い間の爭亂のために潰れてしまひました。
それで應仁の亂以後百年ばかりの間といふものは、日本全體の身代の入れ替りであります。
其以前にあつた多數の家は殆ど悉く潰れて、
それから以後今日迄繼續してゐる家は悉く新しく起つた家であります…
應仁の亂といふものは全く日本を新しくしてしまつたのであります…
應仁の亂ほど大きな改造はありませぬ…
大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、
應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。
それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬ

283 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:08:40.90 0.net
…私が始めて讀んだ時からいつも忘れずに居つた事は「足輕といふ者長く停止せらるべき事」といふ一ヶ條で…、
足輕即ち武士サムラヒ以下にある所の歩卒が亂暴をするといふ事に就て非常に憤慨してゐる…
この應仁の亂のため此足輕といふ階級が目立つやうになつた…
此たびはじめて出來たる足がるは、超過したる惡黨なり、
其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡はかれらが所行也。
かたきのたて籠たらん所におきては力なし、さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財寶を見さぐる事は、
ひとへにひる強盜といふべし、かゝるためしは先代未聞のこと也。と斯う書いてあります。
其三四年間ばかりの間に洛中洛外の公卿門跡が悉く燒き拂はれたのであります。
而もそれが悉く足輕の所行でありました…敵の立て籠つた所は仕方がないにしても、
さうでもない所を打ち壞し又は火を掛けて燒き拂ひ或は財寶を掠め歩く
といふ事は偏へにひる強盜といふべしと言つて居ります。
そして是を取締らないといふと政治が出來んといふ事を言つてゐますが、
是は即ち貴族階級の人から見た最も痛切な感じであつたに違ひないのであります…

284 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:09:25.21 0.net
私は足利時代は亂世である、亂世の時には時々個人の能力あるものが非常に現はれるものであるが、
足利時代は亂世であるに拘らず一向天才が現はれない、
個人の能力のすぐれた者が頭を出さない時代であつたといふ事を申しました。
是はしかしながら武藝のすたるゝ所に、かゝる事は出來れり。
名ある侍の戰ふべき所を、かれらにぬきゝせたるゆへなるべし。
されば隨分の人の足輕の一矢に命をおとして、當座の恥辱のみならず、
末代までの瑕瑾を殘せるたぐひもありとぞ聞えし。と斯ういふ事が書いてあります、
其當時の武士といふものには優れたるものが無く、
唯だ足輕が數が多いか腕つ節が強いかといふ事に依て無暗に跋扈し、
さうして勢ひに任せて亂妨狼藉をしてゐたのであります。
詰り武士がだん/\修養がなくなつて人材が乏しくなり、
さうして一番階級の下な修養のない腕つ節の強い者が勢ひを得るやうになつて來た…
足利時代は全く天才のなかつた時代であつたから、
應仁以後百年間といふものは爭亂の收まる時期がなく、戰亂が相續いて居つたのです…

285 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:10:06.10 0.net
此の下剋上の意味を勘違ひして居る人があるやうで…
下剋上といふことを、足利の下に細川、畠山の管領が跋扈して居り、其細川の下に三好、
三好の下に松永が跋扈するといふ風に、
下の者が順々に上を抑へ付けて行くのを下剋上といふやうに考へ(ているようだが…)
一條禪閤兼良が感じた下剋上はそんな生温いものではありませぬ。
世の中を一時に暗黒にして了はうといふ程の時代を直接に見て感じた下剋上であるから、
それは單に足利の下に細川、細川の下に三好といふ風に順々に下の者が跋扈して行くといふやうな、
そんな生温いことを考へて居つたのではありませぬ。
最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、
もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つたのである

286 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:12:17.74 0.net
>《此の下剋上の意味を勘違ひして居る人があるやうで…下剋上といふことを、
>下の者が順々に上を抑へ付けて行くのを下剋上といふやうに考へ(ているようだが…)
>一條禪閤兼良が感じた下剋上はそんな生温いものではありませぬ。
>世の中を一時に暗黒にして了はうといふ程の時代を直接に見て感じた下剋上で…
>最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、
>もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つたのである》

287 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:13:27.11 0.net
それにしても福沢諭吉が「文明論之概略」、「学問のすゝめ」で描いた
極端に階層化され、下層へ行けば行くほど圧迫的な社会はどうして生まれたのだろうか。

応仁の乱でそれまでの(後発文明)日本に蓄積された(中国から輸入された?高度な)文化は消滅した。
今の華族などはその時に台頭した者らであって、それ以前の支配層は大概没落した。
この時代、武士の気風と倫理が壊滅し、
人数と腕力を持つ(倫理も軽く頭も軽い)足軽を重用したためこの者らの乱暴狼藉で京都が廃墟になった。
つまりこれは人間を虫けらの如く殺傷し、
世界遺産を爆破しまくる今の〇〇〇〇過激派と変わらない状態が日本にあった(ことを意味している)。
このような破壊によって時代が数百年は後退した。その中から今の日本文化が出てきた。
それは「神国」日本という思想であった。
戦国大名を今の日本人は美化しているが、今の大混乱する〇〇〇〇世界の過激一派の部族長?のようなもので、
(領地の住民を奴隷として売り飛ばしつつキリシタンと取り引きし、
外国から武器:現代なら戦車、重機関銃、ロケット砲を調達し)
自動小銃を持ってあたり構わず撃ちまくり放火しまくり爆破しまくっているような者らと考えた方が良い。

《最下級の者があらゆる古來の秩序を破壞する、
もつと烈しい現象を、もつと/\深刻に考へて下剋上と言つた》という中からその後の大名は生まれた。

結局、閉じた世界で競争することによって
(外敵に対して団結して戦う必要が無く)極端に細かい階層性(序列)が出来上がった。
この極端に細かい階層性は人間“支配に”とって都合が良い。
階層が少し違っただけでその下の者の(自己)主張や権利を直ぐに制限できるからである。
更に階層が離れていれば虫けら同然である。虫けら同然に自分のために使役し、
殺し、それを正当化することができる。

288 :考える名無しさん:2017/09/07(木) 20:54:30.60 0.net
ttp://digital.asahi.com/articles/DA3S11545435.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11545435
仏テロ、米「深刻な脅威」 朝日新聞 2015年1月11日

米国は、フランスで起きた連続テロ事件に警戒感を強めている。
オバマ大統領は9日、テネシー州での演説で「テロリストは憎しみと苦しみしかもたらさない。
我々は自由と希望、人間の尊厳を守る」と訴えると同時に、
事件の全容解明のためフランス政府に協力する考えを改めて示した。
米CNNテレビに出演した米議員は、今回のパリの襲撃事件について

「14世紀の世界観をもった者たちが、21世紀の武器を手にしている。
非常に危険な組み合わせだ」と強い警戒感を示した。

289 :考える名無しさん:2017/09/09(土) 00:55:41.05 0.net
エリアスが「文明化の過程」で提示したスキームは、単純にそのまま信じるべきもの
ではないし、私自身も原理的に異論があるんだけど、それでも批判的に検討すべき
多くの重要な課題を明らかにしていると思うんだよね。

290 :考える名無しさん:2017/09/09(土) 00:58:57.52 0.net
ほとんど無視されているような印象を受けるんだけど、やっぱり宮廷とかで宮廷社会
を論じるのは、いろいろ支承があるのかな。

291 :考える名無しさん:2017/09/09(土) 01:00:22.89 0.net
支承→支障

292 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:42:14.09 0.net
全体主義の芽を摘む 強制収容から逃れたボリス・シリュルニクさん
インタビュー 朝日新聞 2015年12月1日

第2次大戦中のフランスで、ユダヤ人一斉検挙からやっとの思いで逃れた少年は、
長くつらい「心の戦後」をどのように乗り越えてきたのだろう。
精神科医で作家のボリス・シリュルニクさんは、自らの生い立ちを長らく封印してきた。
その凍りついた言葉を溶かしたものとは…

――この70年をどう振り返りますか。
「第2次大戦の悲劇で、私は幼いころ、ほとんどの親族を失いました。
両親とも(ナチス・ドイツに協力していた)フランスの警察に捕らえられ、
ドイツに引き渡されてアウシュビッツの収容所に送られました…
私も6歳のとき、フランスの警察に連行されたのですが、強制収容所へ移送される途中で脱走しました。
戦後、私にはふたつの選択肢がありました。
ひとつは、ドイツや、ナチスに協力したフランス人を憎み、過去にとらわれ続けて生きること。
もうひとつは、恐怖や悲劇、何が起きたかを理解し、何とか職業を身につけてよりよく生きること。
私は後者を選びました…」

――生い立ちを公に語り始めたのは80年代に入ってからですね。
「話せなかったのです。言葉が凍りついてしまった…
戦争が終わって、フランスの警察に捕らえられてからの脱出劇を語っても大人は信じてくれません。
お話がうまいね、と小銭をくれる大人もいるほどでした。
文句を言うのはやめなさい、私たちも戦時中は苦しかった、と言う人もいた。
いつのまにか、私の人格はふたつに分裂し…
友達とふつうに笑って遊ぶ自分と、心の棺に生い立ちを封じ込めている自分…

293 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:42:34.69 0.net
フランス社会は、自国政府がナチスに協力したことから目をそむけていました。
フランス人全員がレジスタンスに参加したかのような物語こそ、多くの人が聞きたい話だったのです。
戦争で破壊された国家を復興させなければならず、国内を二分するような葛藤が起きかねない歴史を封じ込めた。
過去の問題に向き合えるようになったのは、戦後の復興をとげてからです。何十年もかかりました」
――語り始めて、記憶と事実の違いに気がついたそうですね。
「生い立ちを周囲に自由に話せなかったとき、自らを脱出劇のヒーローとして心の中で繰り返し語っていた。
後に事実とは違う部分もありました。駆け下りたはずの階段が3段しかなかったり、
脱出を助けてくれた女性は金髪ではなく黒髪だったり。記憶は真実の断片です。
無意識に修正を加えて勇気あふれる物語にして、苦しまないようにしてきた…
共同体の物語も、個人の記憶と一致しないことが多い。集団的な物語は、その時々の政治に取り込まれやすい…
そうならないためには、実際に何があったのか、誰が何をしたのか。みんなで繰り返し考えること…
考えることは疲れますが、全体主義の再来を防ぐ唯一の方法です」

――全体主義の芽はどこに?
「歴史を振り返ると、共通点があります。国力が弱くなっているとき、
社会が混沌としているときは英雄が求められる…
催眠術をかけるように、人々のなかに眠っている怒りを呼び覚まして操作する。
同じフレーズを繰り返し聞かされることで思考が停止する。服従は一種の幸福感をもたら…す
…そして全体主義に身を委ねていく」

294 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:42:55.37 0.net
「民主主義は手間がかかるシステムです。他人と対話をして、異なる価値観も受け入れなければならない。
相手を理解するには、知識も身につけなくてはならない。
これに対して全体主義は、みんなと同じことをオウムのように繰り返しているから楽だし、仲間にもなりやすい。
そのうち、自分たちとは異なるものを軽蔑するようになります。
そして他者を抑圧することを罪とは思わなくなる。
(ナチス政権下での戦争犯罪者を裁いた)ニュルンベルク裁判で
多くの被告が罪など犯していない、従っていただけだ、と言いましたね」

――ドイツのメルケル首相が今春来日し…独仏和解に触れ、「隣国フランスの寛容な振る舞い」に言及しました…
「私はドイツの若者に希望を持っています。
ミュンヘンには、ドイツ政府が新しくつくったナチズムの歴史を学ぶ記念館があり…私も招かれました。
ドイツの若者は勇気と長い時間軸、広い視野を持って、過去に何が起きたのか、
どうすれば防げるかを議論しています。現在の若者にとって(戦争の)過ちは、2世代も3世代も前の話です。
欧州には全体主義の傾向が戻ってきている面が少しありますが、
賢くしっかりと向き合っていこうとする若者に希望を感じます」
「私は(仏紙)シャルリー・エブド襲撃事件で友人の漫画家を失いました。
権力を掌握するためにイスラム教を使っている集団がいる。
しかし、ある意味、いちばんの犠牲者は一般のイスラム教徒だと思います。
こうした憎しみの連鎖を断つには、自分たちとは違うものを見いだす喜び…
性、文化、科学、宗教においても、他者を発見し、自分と違うものを見いだす喜びを知ることが大事です」

295 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:43:32.69 0.net
――私の世代は戦争体験者からお話を聞けます。次の世代にはどう伝えればよいでしょう…
「寝た子を起こすな」という意見もあります。
「現実を否認しても、問題は解決しません。むしろ時限爆弾のように、ちょっとしたきっかけで爆発します。
親は子どもたちに、自分が歴史をどう理解しているかを伝えることが大事…
親と同じ考えを持たなくてもいいけれど、子どもたちも自分の判断で物事を考える責任があることを伝える…
社会の意図的な記憶喪失こそが全体主義の再来を招く。私はそう思っています」
Boris Cyrulnik 1937年仏ボルドー生まれ。精神科医、作家。
著書に「憎むのでもなく、許すのでもなく ユダヤ人一斉検挙の夜」など。

296 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:43:47.43 0.net
戦争をいかに「想起」させるか 成蹊大学准教授・板橋拓己さん

ドイツによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)については、フランスやオーストリアなどにも
後ろめたい加担の過去があります。ニュルンベルク裁判…はあくまでドイツ人を対象にしたもので、
ホロコーストも判決では重視されませんでした。戦後復興を優先したかったヨーロッパ諸国にとって、
対独協力やユダヤ人迫害の過去は忘れたい出来事となります。
フランスでは、反ユダヤ法を制定したビシー政権の過去は忘却され、
国をあげてナチスに抵抗したという「レジスタンス神話」が戦後の出発点でした。
ユダヤ人が声をあげられるような環境ではなかった…
ドイツでは世代交代に伴い、ホロコーストへの関心や反省が1960年代半ば以降高まり、
「過去の克服」が進められていきますが、フランスの沈黙は長かったと言えます。
70年代から外国の歴史家を中心にビシー政権の実態解明が進むのですが、
仏政府が公式に過ちを認めるまで、シラク政権となった95年までかかりました。
冷戦終結前後から、ヨーロッパで歴史認識の見直しが進み…ドイツでは金銭的補償や戦犯の訴追がほぼ終わり、
戦争を体験していない世代に対し、過去をいかに「想起」させるかに力を尽くす時代に入っていると言えます。

297 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:46:07.14 0.net
ttp://www.nhk.or.jp/hakunetsu/literature/
NHK カズオ・イシグロ 文学白熱教室

カズオ・イシグロ 文学白熱教室 20150717

33分00秒
私が非常に興味を持っているのは、人が自分自身にウソをつく才能だ。
他人にウソをつくつもりが無くても本当ではないことを言ってしまう。そのような信頼できない状態は、
フィクションを書くに当たって非常に有効で、フィクションにピタリとハマる手法だと思う。
…一人の登場人物の記憶を通じて語るという手法に、私は引き付けられている。
取りつかれていると言ってもいい。それは私のテーマにピタリと良く当てはまるからだ。
特に興味を持っているのは人はどのように自分と向き合うのか。どのように自分の人生を評価するのか。
どのように不愉快なことを避けるのかと云うこと。
最近更に興味を持ったのは、社会全体がどのように自分たちを欺くのか。或は意図的に忘れようとしているのか。
それとも記憶に留めたままにするのか。急に忘れたことを思い出したりもする。
それは社会の政治的な目的に適うからなのだ。


34分29秒
質問者女性:
記憶の本質的な曖昧さに向き合うことと、
過去の歴史的な社会的な罪に、対して責任を負うことについてどのようにお考えでしょうか。

298 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:46:43.07 0.net
イシグロ:
それに対する簡潔な答えは無いだろう。答えは見つからないかもしれない。
過去に仕出かした過ちに何時向き合うのが良いと云うのは難しい。
…もし過去に怖ろしい事件が起きて
それが正義と云う観点からすれば忘れてはいけない過去の出来事として葬り去るのは間違っているとしよう。
だがこのことを深く考え始めると、この問いそものもが難しいと解る。フランスを例に取ろう。
第二次世界大戦中、その時代に戻ってみよう。
フランスは第二次世界大戦中、ほとんどの期間、ナチスドイツに占領されていた。
往々にしてフランス人の多くが、ナチスドイツの協力者となり、ナチスを助けていた。
フランスのどの村でも誰かがレジスタンスをナチスドイツに売っていた。
ナチスドイツの圧力は大したこと無かったはずなのに、フランス系ユダヤ人を強制収容所へ送り込んだ。
そして戦争が終わった。フランスはこれらの記憶、
つい最近起きた出来事の記憶をどうするべきか決断する必要があった。
しかもこの記憶は社会の奥深くに刻み込まれていた。
どの町でもどの村でも何処の誰がナチスドイツに協力していたのか知っていた。

299 :考える名無しさん:2017/10/07(土) 21:47:13.69 0.net
誰がレジスタンスに身を投じて、敵に売られたのか知っていた。ドゴール大統領は意図的な決断をした。
社会の連帯を守るために、社会を崩壊させないために、この国が再び強くなるまでのしばらくの間、
国民全員が勇敢なレジスタンスだったという物語を信じよう。全員が戦ったのだ。
全員がナチスドイツに立ち向かったのだ。
その後に、連合軍によって解放されて最後まで勇敢に戦ったと信じよう。
今でもフランス人の多くはそう信じている。私は理解できる。
そんなウソをつき続けるのは恥辱だとする一方で、そんなウソが無ければ国家が崩壊すると云う、
最悪な事態になりかねない危機的な状況だったと。非常に複雑な問題だ。
これに対して一般論で答えようとは思わない。
それが社会に対することでも個人に対することでも、これは社会と個人が直面する永遠の課題だと思う。
何時忘れて何時まで忘れるのか。何時勇気を持って暗い記憶を明るい場所へ引きずり出すのか。

300 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:06:48.54 0.net
>フランス社会は、自国政府がナチスに協力したことから目をそむけていました。
>フランス人全員がレジスタンスに参加したかのような物語こそ、多くの人が聞きたい話だった
>戦争で破壊された国家を復興させなければならず、国内を二分するような葛藤が起きかねない歴史を封じ込めた。
>過去の問題に向き合えるようになったのは、戦後の復興をとげてからです。何十年もかかりました」
>無意識に修正を加えて勇気あふれる物語にして、苦しまないようにしてきた
>共同体の物語も、個人の記憶と一致しないことが多い。集団的な物語は、その時々の政治に取り込まれやすい
>そうならないためには、実際に何があったのか、誰が何をしたのか。みんなで繰り返し考えること
>考えることは疲れますが、全体主義の再来を防ぐ唯一の方法です

>歴史を振り返ると、共通点があります。国力が弱くなっているとき、
>社会が混沌としているときは英雄が求められる
>催眠術をかけるように、人々のなかに眠っている怒りを呼び覚まして操作する。
>同じフレーズを繰り返し聞かされることで思考が停止する。服従は一種の幸福感をもたら…す
>…そして全体主義に身を委ねていく

301 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:07:06.04 0.net
>ドイツのメルケル首相が今春来日し…独仏和解に触れ、「隣国フランスの寛容な振る舞い」に言及しました…
>私はドイツの若者に希望を持っています。
>ミュンヘンには、ドイツ政府が新しくつくったナチズムの歴史を学ぶ記念館があり…私も招かれました。
>ドイツの若者は勇気と長い時間軸、広い視野を持って、過去に何が起きたのか、
>どうすれば防げるかを議論しています。現在の若者にとって(戦争の)過ちは、2世代も3世代も前の話です。
>欧州には全体主義の傾向が戻ってきている面が少しありますが、
>賢くしっかりと向き合っていこうとする若者に希望を感じます

302 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:20:52.99 0.net
會田雄次「日本への遺言 さらば欺瞞国家日本」1995年2月号 新潮45

>どうも今日の日本には、イデオロギーの対立など権力という餌の前では数秒で四散するらしい対立でなく、
>この大江派と非大江派のように対立というより永遠に交わることもふれ合うこともない
>平行線のようにお互に縁なき衆生たる二種のエイリアンによる二派が存するようだ。
>さらにいうなら多数派たる非大江派には大江派以外にまたちがったエイリアンがいるはずだ。
>テメエ学生のようにである。
>とすれば戦後日本は国としての統一的アイデンティティを持ちようがない混迷状態にある、
>つまり国ではないということになる。
>そうなった原因を私はガスカールも大江氏も国でないフランス、国でない日本を国と考え、
>それと対立したり、それに抵抗したり同調したことにあると考える。いやこの二人だけではもちろんなく、
>日本人とフランス人の殆ど全体が自国をそのように錯覚したことでこの混迷は生まれた、
>二人はその代表の一種ということになる。

303 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:21:27.99 0.net
メルケルは、歴代の首相に類を見ないコントロール・フリークだというのが、
ドイツの歴代の首相のポートレート写真を撮影してきた写真家の証言。
舞台用の厚化粧に写真はレタッチ、撮影は、決められた場所とタイミング
でしか許さない。そういう「歴史の真実」を好むということ。

304 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:21:28.79 0.net
>大江氏は…戦後日本の掲げている民主主義とやらを心から信奉し、
>それを守ろうとしている…指導的地位にある一人である。その反対の多数派は
>自分たち大衆の持つ動物的嗅覚…に基いてこのいわゆる民主主義の欺瞞性を充分知っている。
>政治理念政治体制…そんな唐人の寝言などどうでもよい、いざとなったら政府だろうが、政党だろうが、
>マスコミだろうが、警察だろうが、教師だろうが、隣近所だろうが、
>誰も守ってくれない偽国家だと本能的に知っている

>私にいわせれば大江氏が日本のあいまいさをその奉じる民主主義の名において否定するなら、
>そのあいまいさの根源である天皇制の正面的否定からはじめねばならないのではないか

>何もしなかった亡命政権を米英ソと対等に並べ、
>戦後世界に発言権を行使するのはフランス人にとってそれは楽しいことであろう。
>だがそういうパフォーマンスだけの欺瞞国家を奉じかついで来たフランスは
>戦後実のある何も生み出していないのではないか。
>かれらの駄物を無上のものと押戴いてるのは日本だけではないか

305 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:23:22.58 0.net
會田雄次「日本への遺言 さらば欺瞞国家日本」1995年2月号 新潮45

英米に戦争を仕掛けて自国を潰し自国民を大量死に追い込んだ者らが
敗戦すると敵アメリカに寝返ってそのまま日本の支配者を続けている。
それで一旦、天皇が人間宣言し国家神道廃止、東京裁判、戦後憲法で戦前を否定した。
敗戦直後の《逆コース》以前の余韻が残る時代、子供は戦前の大人の行為を嘲笑するよう教え込まれている。
だが戦前の人脈と思想価値観(「水戸学」=テロ正当化思想)がアメリカに支えられて残った。
朝鮮戦争で始まった冷戦に対応するためアメリカが戦前の人脈を再利用して日本を《反共防波堤》とした。
それはアメリカの世界戦略となり、安全保障体制となって日本人として拒める者はいなかった。
日本支配の内実はアメリカと戦前の極右、その連合であった。
だが表面的には《戦後憲法の日本》が“形式的に” 守られてきた。
そして日本人はこの“表面を”日本だと思い込んでいた。この現実を直視できる者はいなかった。
『国を護るため』と思って国を潰すために戦死した英霊(それで戦後直後に嘲笑された存在)と、
それを命じながら(自国を潰して)アメリカに寝返った極右らと。

306 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:23:58.53 0.net
前者を嘲笑(し、大人と社会を馬鹿に)する子供と、
その原因者(今やアメリカをバックにした昭和天皇+極右)に逆らえない日本人と。
(戦前を嘲笑しながらその実行者に今も支配されている)
(嘲笑する者に憤怒を抱きながら自国を潰した本質を見逃している)
その戦後の実態にふれないまま“形式的に”語られ尊重される民主主義と。
この“形式を”守ろうとする者と、それを(表立って)再び否定しようと機会を狙う極右と。
其々に分裂したまま其々の思い込みを信じ互いに本当の日本の姿を語り合うことなく、
目指すべき理想を語り合うことも無く。(互いに罵倒し合う)其々が“パラレルに”存在し続けた。
こうして《欺瞞国家》(とその在り方
=戦後日本の支配体制を正当化する欺瞞の《戦後フランスから輸入された》言葉遣い)が実った。
それが戦後、いや近代日本の進んだ道であった。そう會田雄次氏は語った。
今から20年以上も前に。日本人への遺言として、呪い?として。

307 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:32:22.37 0.net
ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/44741
2015年08月21日(金) 週刊現代
昭和が終わり、狂乱バブルはピークを迎えた……日本の分水嶺「1989年の呪い」を語ろう
田原総一朗×保阪正康×後藤正治

田原?…国民の側では、東京裁判で天皇は裁かれなかった、
だから責任はないんだとか、逆に責任逃れだなどという議論があった。
でも…天皇が訴追されなかったのは、GHQの占領政策をうまく運ぶためだった。
こういう認識を国民的に共有する機会のないまま時代は平成に突入し、いまの右傾化につながっていく…

後藤?'89年…で浮かぶのは、何と言ってもベルリンの壁崩壊です。
社会主義という壮大な実験が失敗だったという現実を、目の当たりにした…
'89年は世界の構図が変わった年であり、分水嶺だった。
以後、日本社会の歪みはさらに増していったように思えます。ある意味で呪いの年とも言えるかもしれません…

田原?私は冷戦が崩壊したことの意味を、日本人が理解できなかったことこそが呪いだと思う。
冷戦期は、日本は西側諸国の「西の端」であって、
ソ連に対抗するために米国が守らなければならない場所だった。
だから、安全保障についてはお任せで、何も考えなくてよかった。
その状況が変わったということを、日本人はその後10年くらい気が付かなかった…

308 :考える名無しさん:2017/10/08(日) 16:32:54.18 0.net
保阪?冷戦という軸、あるいは経済大国という軸…美空ひばりや松下幸之助といった社会、経済、
文化を牽引した軸。そうした、世界を理解する軸が失われていったときに台頭してきたのが、
オウム真理教のようなカルトだった。坂本弁護士一家殺害事件が起きたのも'89年なんです…

田原?私は彼らを…世代が違えば全共闘に入っていたような若者だと感じました…

保阪?経済成長を極めた時期にはかえりみられなかった、精神性を求めていたんでしょうね。

後藤?こうして話していると、'89年を考えることが、戦後70年を迎えたいま、
日本が抱える矛盾と課題の源流を探ることに重なっていると気付かされます。

田原?いまからでも、日本人がきちんと昭和をとらえなおすことの意味は大きいでしょう。

309 :考える名無しさん:2017/10/09(月) 00:16:00.55 0.net
會田雄次「日本への遺言 さらば欺瞞国家日本」1995年2月号 新潮45

>どうも今日の日本には、イデオロギーの対立など権力という餌の前では数秒で四散するらしい対立でなく、
>この大江派と非大江派のように対立というより永遠に交わることもふれ合うこともない
>平行線のようにお互に縁なき衆生たる二種のエイリアンによる二派が存するようだ。
>さらにいうなら多数派たる非大江派には大江派以外にまたちがったエイリアンがいるはずだ。
>テメエ学生のようにである。
>とすれば戦後日本は国としての統一的アイデンティティを持ちようがない混迷状態にある、
>つまり国ではないということになる。
>そうなった原因を私はガスカールも大江氏も国でないフランス、国でない日本を国と考え、
>それと対立したり、それに抵抗したり同調したことにあると考える。いやこの二人だけではもちろんなく、
>日本人とフランス人の殆ど全体が自国をそのように錯覚したことでこの混迷は生まれた、
>二人はその代表の一種ということになる。

>大江氏は…戦後日本の掲げている民主主義とやらを心から信奉し、
>それを守ろうとしている…指導的地位にある一人である。その反対の多数派は
>自分たち大衆の持つ動物的嗅覚…に基いてこのいわゆる民主主義の欺瞞性を充分知っている。
>政治理念政治体制…そんな唐人の寝言などどうでもよい、いざとなったら政府だろうが、政党だろうが、
>マスコミだろうが、警察だろうが、教師だろうが、隣近所だろうが、
>誰も守ってくれない偽国家だと本能的に知っている

>私にいわせれば大江氏が日本のあいまいさをその奉じる民主主義の名において否定するなら、
>そのあいまいさの根源である天皇制の正面的否定からはじめねばならないのではないか

>何もしなかった亡命政権を米英ソと対等に並べ、
>戦後世界に発言権を行使するのはフランス人にとってそれは楽しいことであろう。
>だがそういうパフォーマンスだけの欺瞞国家を奉じかついで来たフランスは
>戦後実のある何も生み出していないのではないか。
>かれらの駄物を無上のものと押戴いてるのは日本だけではないか

310 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 12:00:15.88 0.net
 >>280に続けると、ハイデガーにおける〈民族〉というのは一種の超-民族すなわち meta-Volk
とでも呼ぶべきもので、現存する〜民族ではない。そしてこの一点でハイデガーにおける民族
は三島由紀夫や上レスで出てくる大和民族やら日本人やらの現存性とも無論ゲルマン民族
とも異なる。これは覚書『哲学への寄与論稿』に度々出てくる超-存在 Seyn 、超-現存在
Da-sein、また超-存在了解 ereignis の起こる場でありそれらを担うものに等しい。すなわち
最後の神と人間との間での超-了解化の交感とでもいうべきものだ。それは現存する民族
ではない。

 1931-1934年のナチス協力時代には民族に同一化することが現存在になっている。だが、
この思考は彼なりにいえば後から修正できる歪曲であって、協力するための書き換えである。

 1935-1938年に書かれた覚書『哲学への寄与論稿』では注意深く現存する民族への
同一化は現存在にとっての敵であり障害であることが語られている。

《最も危険な姿は、世界喪失的な「自我」が外見の上で自分を放棄し、自分よりも「もっと偉大な
」、そして自分がそこへ断片ないしは分肢として配属されている他者に献身したときの、
姿である。民族としての「生」の内へ「自我」を解体すること、ここには「自我」のひとつの
超克の軌道が、拓かれている。ただしそのような超克の第一条件を断念した上である。
その第一条件とは、自己で-あることとその本質とを省慮することである。》『哲学への寄与論稿』
197節 現-有 - 自性領 - 自己性 p.347 創文社版ハイデッガー全集第65巻

 この辺まで読まなければハイデッガーにおける戦前・戦中・戦後の思索の内実は読めはしな
い。

311 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:08:04.32 0.net
Wikiハイデガーの要約

人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)
目指す限りにおいて志向性をもっている。
理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、
それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、
それらの根本的な基礎である存在ではない。
彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、
「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。
日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、
そのような存在者である(そのように存在する)のであって、
そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。
カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、
釘を打つのに使えるからである。
現象学的方法は、デカルト的な実体である「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―の否認を必要とする。
人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだ
ということをハイデッガーは強調した。
彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、
さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた
(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という。
いずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。

312 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:08:27.97 0.net
存在者がわれわれにとって意味をなすのは、存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、
そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。
しかしこうした規範はみな偶発的で不確定なものである。
こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。
この不安の中に、すべての規範が投げ出され、
ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される。
ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、
これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。
ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。
ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、
また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。
存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である
(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。
われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、
時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない。
生物学、物理学、心理学、歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、
追求したのは存在一般についての問い、
すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。

313 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:09:19.49 0.net
ハイデッガーはこうした問いに対し、
「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」
「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」
「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」
「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」
といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。
ハイデッガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。
彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、
関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり…
こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、
相互行為のより根源的なあり方である「用具的」
(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。
寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、
まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのこと…
客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、
これが現存在の本質となる…

314 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:09:53.73 0.net
ハイデッガーは、ついには『存在と時間』が失敗作であることを認めざるを得なかった。
そして、長い時間を費やした上で、戦後ハイデッガーの思想は大きく「転回」していった。
ハイデッガーの現象学は、ジャン=ポール・サルトルのみならず、エマニュエル・レヴィナス、
モーリス・ブランショの他多数のフランス現代思想家、
特にポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、フィリップ・ラクー・ラバルトらに影響を与えた。
特にハイデッガーによる形而上学の解体はデリダの脱構築に深い影響を与えた。
また、ハイデッガーの哲学は、
デリダ研究においても有名な後続世代のカトリーヌ・マラブーなどにも影響を及ぼし、
フランスにおけるハイデッガー研究は脈々と続いている。
日本においては昭和初期(戦前)から、九鬼周造、三木清、和辻哲郎ら、
京都学派と縁の深い哲学者がハイデッガー現象学の影響を受けている。
梅原猛もハイデッガーを20世紀最大の哲学者と位置づけ、批評の対象としている[17]。
戦後、マルクス主義思想などの隆盛等によってその影響は退潮したものの、
サルトルやモーリス・メルロー=ポンティらに代表される実存主義との関連で読まれることも多く、
その紹介者としては木田元らが有名である。
さらに、1980年代のいわゆる「ニュー・アカ」ブーム(浅田彰、中沢新一など)において、
フリードリヒ・ニーチェやジャック・デリダ、
ジル・ドゥルーズらの著作との関連において知られる機会が多くなった

315 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:10:54.90 0.net
ハイデガーの主張要約と解釈

存在者というものは、
歴史の流れやその時々の社会の規範や価値観の中で規定された存在として顕現するような「存在」である。
金槌は、その他には何も存在しない真空の中で“超然と”して「カナヅチ」という本質を持っているのではない。
人間がそれを持って釘を打つから金槌なのである。
同様に、ナチス以前のドイツならばドイツ人とユダヤ人は仲良く同じ町で
客として、或は商人として生きていたかもしれない。だがナチスが台頭すれば、
「追い払う者」と「差別虐待される者」として存在するような「存在」に変わってしまうような、存在である。
或は現行のパレスチナ、エルサレムもそうである。
戦後のイスラエル建国以前にはアラブ人もユダヤ人も仲良く混じって暮らしていたのである。
この裏には不安がある。この不安によって存在者はこのような状況へ投げ込まれる。
存在者の「隠れの無さ」によって存在者はそういう存在として自分を開示する。或は開示させられてしまう。
ナチスの元ではユダヤ人を差別排斥しないドイツ人は「ドイツ人」ではないのだ。
過去・現在・未来(将来)というものも、
このような社会規範(価値観の変化)の偶然性によって変化してしまうようなものである。
人間は理論的(数学的)である以前に経験的であり思惑的である(べきなのである)
(或はそこを離れて存在できないような存在なのである)。
と云うことならばこれは、強烈な現状追認(思想)である。

316 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:18:39.64 0.net
>ハイデガーはただに
>一個の実存内部での時間と存在の関係こそ本来性を奪取する際の問題だとした
>その第一条件とは、自己で-あることとその本質とを省慮することである
意味が通じるように書いていただけませんかね。

317 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 20:19:48.67 0.net
単なる下劣さを過去の偉人が創った哲学用語という高貴?な、
学問的な言葉で言い換えただけのハイデガー哲学?

ハイデガーが想定する「現存在(Da-sein)」の在り方とは、
例えば(日頃から屈折している)差別的人種を出自とする〇屋の主人と常連客である或る主流派に属す女性が、
偶々銀行に居合わせて強盗の人質となり、その強盗が差別的人種の出自であり、
同じ差別的人種の〇屋に向かって(お前は同胞だから)
『この“主流派人種の”女を〇〇したら命だけは助けてやる』と言ったところ、
(日頃愛想の好い)〇屋にとっての大切な馴染客であったこの富裕で中流階層の女性は、
その時点から〇〇対象に変わってしまう。ハイデガーは《そうした存在者の開示を「真実」と呼び、
これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される》
《存在者はおのれの存在をそのように開示させる》《存在者がわれわれにとって意味をなすのは、
存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためで、
このコンテクストは社会的規範によって定義される》
《しかしこうした規範はみな偶発的で不確定なもので、
こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって(強制的に)暴露させられてしまう》
と云うならば、これは人間の持つ自分以外=他者への暗さ=野獣性に対する追認=諦め、
或はその積極的な賛歌である。
つまりこれは元々動物=獣である人間、その社会が潜在的に持つ《野獣さ》を単に描写したに過ぎない。
《人間なんて一皮むけば野獣なのだから(大虐殺も)仕方がない》と。
それを説明するのにゴチャゴチャ難しい用語を作り出して語っている(とすれば…)。
一体これが哲学と言えるのか。

318 :考える名無しさん:2017/10/18(水) 22:16:57.86 0.net
ハイデガー好きな人って、凄い凄いというだけで、どこが凄いのか書かないんだよね。

319 :考える名無しさん:2017/10/30(月) 10:48:55.37 0.net
 ハイデガーの学的視線の出発点は一個の人間が、遭遇する苦難や鍵になる契機で、
何故自分はこうなるのか、何故〜できなかったか、何故・・・してしまうのか、何故こういう
ことになったか、こういう生にどういう意味があるのか、等様々な問いを発し内省する。その
心労にある。
 だが、〈内省する自己〉もまた、〈自己〉の一種であり、自己を客観的に自己が捉えることはない。
そこに、人間が歴史に捉えられ、歴史から出られないことや、その事実性の始点がある。
一人の人間を捉えるならばその歴史性総体で捉えるしかない。そこで人間の類型化をして
みせたところで無意味である。
 よってハイデガーの知においては主体は歴史から出られることはなく、たえずその渦中に
投げ込まれ、自己を内部から外部から形成したものによって構成されている。「学者」でさえ
もそうである。学者が何故その分野の概念に引き寄せられたか一体化したかにはその主体の
生-運命が介在している。

 客観的視線を売るものである「学者」でさえが、すなわち誰もが運命の渦中にあることを視、
すなわち歴史の渦中にあり、そこで何らかの色に染められていることが出てくる。
 人間が歴史の、すなわち自己-生育-史のまたエピステーメーの、外部に出て行くことは
あり得ない。この意味でハイデガーの知はミシュエル・フーコーによく引き継がれていたと
いう事が言える。

 歴史というものを学校教育的史実と暗記から、その始発点とは個人的な自己史であり苦悩で
ある、という或いは個人の担う運命である地点にまで戻していったところにあの知の特徴が
ある。またその手法は至極当然だったといえる。学校教育的手法が忘却し隠蔽していくものを
歴史に復権させたのだから。その歴史への眼差しがあの知を一貫しているものである。

320 :考える名無しさん:2017/10/31(火) 21:01:18.35 0.net
相変わらず何が言いたいのかが良く分らない。

321 :考える名無しさん:2017/10/31(火) 21:01:33.79 0.net
自分の動物的情動に従い、その時その場で衝動的に生きる=それこそが歴史である

ハイデガーが創始した学問の出発点は一個の人間が遭遇する苦難を契機として、
『何故自分はこうなるのか』『何故…できなかったのか』『何故…してしまったのか』
『このような生き方にどのような意味があるのか』、と自問する内省の苦悩に在る。
だが《内省する自己》もまた《自己》であり、自己は自己を客観的に把握することはない。
ここに人間が歴史(自然界と自分以外の生物、との確率的に遭遇する関係、の時間経過)に束縛され、
歴史の束縛から逃れられない厳然とした事実が在る。
一個の人間を解釈するならその人間を含む人間集団全体の歴史過程で考える以外無い。
そこで(歴史過程に束縛されて初めて存在する)人間をそこから離れて類別してみせたところで意味は無い。
よってハイデガーの認識に於いては主体は歴史から分離されることなく、たえずその渦中に存在し、
外界からの圧力と、圧力に呼応して生じる内的精神の動きによって形成される。
客観性を追求する学者でさえが運命の渦中に存在し、すなわち歴史の渦中に在り、
そこで何らかの偏りに曝される。人間は歴史の、即ち自己「生育」史の、
或はそこで得られた知見の、これらの外部を知覚することは出来ない存在である。
歴史という存在を、客観性で装った形式物から個人的な自分史=苦悩、
或は個人が担う運命にまで遡及したところにハイデガーの特徴が在る。
この手法はごく自然な方法であったと言える。
学校で学ぶような内容や方法は、人間社会の“真の”在り方(=動物的な野獣性)を転倒して見る方法であり、
ハイデガーこそが歴史を直視し、真の実在を復権させたのである。

322 :考える名無しさん:2017/10/31(火) 21:04:39.09 0.net
だから、喰いたいときに喰い、寝たいときに寝て、
女を〇姦したいときに強〇し、痴〇したいときに〇漢する。
盗みたいときに盗み、殺したいときには殺す。皆、其々に。それが歴史なのである。
と、ハイデガーは言いたいのか。
これは人間社会の素直な描写であり、哲学ではないだろう。
そのような存在である(自然状態の)個々の人間を、
如何にして外界=宇宙=自然界、及び集団(=《種》として存続して行く在り方)に適合させるのか。
つまり個人は如何に生きるべきか。それが哲学だろう。
よってハイデガーのやっていることは哲学ではない。只の描写である。

323 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 10:27:15.21 0.net
>>321
>一個の人間を解釈するならその人間を含む人間集団全体の歴史過程で考える以外無い。
>そこで(歴史過程に束縛されて初めて存在する)人間をそこから離れて類別してみせたところで
>意味は無い。 よってハイデガーの認識に於いては主体は歴史から分離されることなく、たえず
>その渦中に存在し、

 私が>>319に書いたのは
>だが、〈内省する自己〉もまた、〈自己〉の一種であり、自己を客観的に自己が捉えることは
>ない。 そこに、人間が歴史に捉えられ、歴史から出られないことや、その事実性の始点が
>ある。 一人の人間を捉えるならばその歴史性総体で捉えるしかない。そこで人間の類型化を
>してみせたところで無意味である。

 である。ハイデガーの読者ならばすぐに読みとれるはずだが、ここでは実存のまたは世界
内存在の、どこまでも、内省する自己でさえも歴史に幽閉されるという経験を指していること
は読みとれるはずである。そこで歴史とは、日本史やら共同体史やらのことを指すという
よりは、それよりも一個の存在者の経歴・履歴のこと
を強く指示している。そもそも一個の人間が自己における生誕以降からの経歴からの
生成から逃れられることはない、また、本来性もまたそこから贈与されていくしかない、また
聴きとっていくしかない、というのがハイデガーであるから。また『Sein und Zeit』で中心になる
歴史性もまた共同体ではなく個人の経歴から現成するものとしての歴史である。これは
読者には周知のことである。

 よってハイデガーと歴史ということで
.>その人間を含む人間集団全体の歴史過程
 というふうに書いているこの筆者はハイデガーも『Sein und Zeit』読んだことはないと分かる
わけである。ただ他人のハイデガー論をなぞるだけの人間が何故このようなことをしにくるのか
全くもって不明である。

324 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 10:44:50.95 0.net
>>322をみると
>だから、喰いたいときに喰い、寝たいときに寝て、
>女を〇姦したいときに強〇し、痴〇したいときに〇漢する。
.>盗みたいときに盗み、殺したいときには殺す。皆、其々に。それが歴史なのである。

 とある。人間がひたすら衝動的にだけ生きている存在者だとすればこういうことも言える
かもしれないが、人間は衝動的なだけの存在者ではない。道具的に配慮したり他人に顧慮
したりして生きていることは『Sein und Zeit』での大きな日常性の描写にある。

>そのような存在である(自然状態の)個々の人間

 上記のように、人間はけっして哺乳類のような自然状態にはいない。存在するものとして
存在ものを了解している。そのような理解は哺乳類にはない。動物はもっと存在者に
囚われれて衝動化する。このことは全集29/30『形而上学の根本諸概念』に細かく追究
されていることである。

>そのような存在である(自然状態の)個々の人間を、
>如何にして外界=宇宙=自然界、及び集団(=《種》として存続して行く在り方)に適合させる
>のか。 つまり個人は如何に生きるべきか。それが哲学だろう。

 「適合させるのか」というよりも現存する人間は適合しなければ日々生活などできはしない。
だが適合することの中で搾取されていき、かつ技術的に自然を搾取する主体たるべき立て
られ、工作対象として自然を立てることを要請される。それに見合わないものは除外され
淘汰される。その技術的工作の全体の中で現存在としての本来性は忘却されていくと
いうのが『Sein und Zeit』の実存論の問いである。

 少しはまともに目を通した方がいい。

325 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 13:12:38.94 0.net
>>323-324
横からで悪いが、それはただ「人は環境によって成り立つ」といってるだけに見えるんだけど?

326 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 17:00:25.20 0.net
>>325
>それはただ「人は環境によって成り立つ」といってるだけに見える

 よく言われる言い方ではあるんだが、だが、それが一体どういう意味合いで、どういう内面的
な構造で、どういう生涯的意味合いで、どういう深度で、どういう内省し難さで、どうなのか。
また、では自己を自己として、解釈するには何が必要なのか、自己が向かうべき方向性や、
自己-倫理を捉えるには何が必要なのか、人の生涯とはどういうものであると考えるべき
なのか。それらの問いに答えるには我々は手ぶらでしかない。

 ハイデガーや後期サルトルの論考は彼らの全力での思索によって、上記の問いに答えむ
とした貴重なものである。せいぜい研究会で論文に書いて行くくらいのことしかできてはいない。
彼らの業績に見合うのは日本では吉本隆明の『心的現象論』くらいだろう。

327 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 18:03:06.06 0.net
何でそんな自問自答のような円環の、無意味なことをやってんだ。
日本の文系は社会を救えないし、消滅してもいいな。無価値なことが改めて解った。

328 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 18:04:55.05 0.net
いじめとか過労自殺とか、何の提言もできないじゃないか。それでハイデガーだとか。
笑わせるな。

329 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 18:06:33.82 0.net
ぐじゃぐじゃ細かいことをこね回しても中身が無いんだよ。

330 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 18:12:24.19 0.net
3.11以降、お前達には中味が無いことがバレた。現実の問題一つ分析できない。
言葉に表現することもできない。
外国の書籍から切り取った単語を散りばめて、相手を小ばかにすることしかしていない。
柄谷行人とかさ、全部ダメだったのはそういうことだ。

331 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 20:37:12.56 0.net
>>326
>自己を自己として、解釈するには何が必要なのか

『資本論』だろ?
そこにいたるまでの、ヘーゲルやフォイエルバッハの業績も、もちろん大切だけど。

>自己が向かうべき方向性や、自己-倫理を捉えるには何が必要なのか

歴史や環境の分析ができないんだから、方向性も必要なものも、わからないんじゃないか?
「自己が向かうべき方向」も、「自己-倫理」も、環境とのコラボという「現存在」性でしかないんだから。

>人の生涯とはどういうものであると考えるべきなのか

「人の生涯」というのは、まさにそこに生きている人々の生涯そのものだ、と考えるべきだと思うよ。
ハイデガーはともかく、サルトルはそれを熟知していたと思うよ。

ちなみに、『心的現象論』をハイデガーと同じレベルに置いたら、吉本は草葉の陰で泣いちゃうんじゃないか?
いくら出来が悪くても、あんなくだらないことは書いてない、と。

332 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 20:39:48.97 0.net
なんだお前の自演かよ

333 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 20:43:59.89 0.net
>>332
それはあなたの妄想w
いくら5chでも、哲学を語るのに、相互に反論しながら自演する人はいないんじゃないか?

334 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 20:49:05.81 0.net
お前はもう相当長いだろ。見ると分る。
これからお前がここに書き込んで行けば更に分る。
その不自然さが。

335 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 20:56:27.63 0.net
>>334
このスレ自体はそう長くない。
ドイツ語でのタイトルが好きじゃないから、ずっと無視してたから。
他の哲学系のスレは、よく覗いてる。

哲学というのっは、あまり考えすぎると、ちょっと危ない妄想域に入りやすいから気をつけてね。

336 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 21:02:18.31 0.net
この掲示板が長い。

337 :考える名無しさん:2017/11/02(木) 21:18:15.66 0.net
>>336
2chとか5chのこと?
それなら、もう数年前から覗いてるからね。

338 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 15:34:47.10 0.net
>>331
 サルトルの著作では個体としての〈私〉が如何なる素因から形成されるのか、人格となっていく
のか、家族関係、時代状況、その中での父母の関係、母親からの視線、兄との関係、幼少での
環境、細かく追究し、一個の人間を知るとはどういうことか、を資料を駆使して実践してみせて
いる。

 貴方のような不可知論に留まるなら言う事はないが、だがそこに留まらず、さりとて
TVコメンテーターやメディアに出てくる精神科医のような、単純な同時に安易な分析に
留まろうとはしないならば、サルトルの遺した分析は有益で豊饒である。

「まさにそこに生きている人々の生涯そのもの」と一言で片づけると、一体A氏の生涯と
B氏の生涯との差異とは何か。何も分からない。それでいいというなら言う事はないが、
それでは片付けたくはないことがしばしばある。一個人間の行為について、それをどう
捉えるべきなのか、手ぶらでは何一つ分からないという事態がある。サルトルは方法
を提示し、それはいまだに有益な方法として残っている。

339 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 16:30:52.68 0.net
>>331

 だいぶハイデッガーへのアレルギーが強そうで、本当に読んだのかねwだがちょっと言って
おきたいのはこういうことだ。

 貴方がどこまで読んでいるのか知らないが,ハイデッガーへの読解は日本では一見もっとも
な批判なようにみえて、実は誤読という例がある。柄谷あたりでも、著作でハイデッガーを取り
上げて批判してみせているが、よくよく辿ると誤読しているという例がある。たとえば『探究U』
(講談社学術文庫版)の中にこういう箇所がある。

  《ハイデッガーは、現存在(実存)が共同存在であることを強調している。

  共同存在は、他人がひとりも事実的には目のまえに存せずまた知覚もされないときでも
また、実存論的に現存在を規定しています。現存在がただ単純に存在していることもまた、
世界内での共同存在です。他人がいないということがありうるのはただ、共同存在のなか
においてだけ、またそれにとってだけなのです。ひとりでいること(単独存在)は、共同存在
のひとつの欠如的様相であって、前者の可能性は後者を証明します。(「存在と時間」)

 しかし、「各自性」を強調しているにもかかわらず、右の考えからは、単独性としての実存は
出てこない。これは、ある意味で、「この私」が、「私」という言葉の共同性のなかではじめて
可能であり、またそのなかではじめて個別(特殊)的でありうるというような考えと同じこと
なのだ。しかし、すでにいったように、「この私」の単独性は固有名においてしか見いだされない
のである。》『探究U』(講談社学術文庫)49-50頁

340 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 16:51:56.98 0.net
340続き

 柄谷の言を真に受ければ、彼の言うとおりだが、だがこのくだりではまず第一に、ハイデッガー
用語での〈世界〉が、事物の集積としての、集合としての世界と、言い換えればアメリカや日本
や地球やという「世界」というふうに捉えられている、そのために生じる誤解があるのではないか
と思える。ハイデッガー読者には周知のとおり、『存在と時間』における〈世界〉とは存在者の
集合ではなく、現存在が有るものと出会い関係するその仕方を表す概念である。また、もっと
いえば、一個の生-体験を表す概念であり、即座に有るものの集合にはならない。そこで
ここでの柄谷の読み方の方法は、ハイデッガーにおける〈世界〉の意味合いについて
すっ飛ばしてしまい、一般的な「世界」としてしまっているかに見える。

 これはよくある誤読でもあるが、柄谷はここでその誤読に引っ掛かっているかに見える。

 するとどうなるかと言うと、現存在というタームに籠められた単独的な意味あいまで
すっ飛んでしまうということが起こる。そのために柄谷は、引用の後に書かれた彼の解釈、
「各自性」を強調しながら、単独性は出てこない、という読み。また、「この私」はここでは
「私」という言葉の共同性のなかで初めて可能になり、またそのなかの個別(特殊)を
表す、という読みが出てきてしまう。

341 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 17:08:09.22 0.net
341続き

 だが、柄谷の引用した箇所だけでは読みとりにくいが、『存在と時間』後段ではこう書かれて
いる。

《世界が解放するのは、世界内部的に出会われる存在者としての道具的存在者であるばかり
ではなく、現存在、つまり、その共現存在における他者でもある。だが、この環境世界的に
解放された存在者は、おのれの最も固有な存在意味に応じて内存在なのであるが、その
内存在は、そうした存在者が他の人々にとって出会われつつその内で共に現にそこに
存在しているのと同一の世界の内での内存在なのである。》

『存在と時間』第26節 他者の共現存在と日常的な共存在 (柄谷の引用した同じ節後段)
 
 ここでも〈世界〉は存在者の集合ではなく存在者と現存在との出会う仕方を表す。また
〈内存在〉とは、一個の生の内部に実存することを表す。そのようにみれば上記はこうなる。

 一個の現存在が解放するつまり一個の己の生にたいして露わにするものは、道具的存在者
だけではなく、他者をも亦露わにする。すなわち生(現存在)の内部に他者をも現象させる。
この他者も亦それ自体が一個の内存在である。この一個jの内存在も亦それ自体がその
固有な存在了解をもつ現存在であるが、この内存在自体が今度視角を変えれば、他の人々
に出会われていく場としての、同一の世界(すなわち世界内存在)での存在者なのである。

342 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 17:31:10.09 0.net
342続き

 このように細かく読んでいくことで、初めて柄谷の引用したテキストの意味は姿を現す。

 つまり一個の生とは、それが他者と出会うときにさえ、それは人(自分)と人(他人)との
出会いという様相を、自己内部の世界として先ずは〈有らしめる〉のであり、そこでは
出会いは生の内存在すなわち一個の実存の内部のこととして、意味を賦与されざるを得
ない。そして、〈単独的-世界-有限的〉という連関が、このようにして考えられているという
こともまた分かってくる。

 柄谷が批判していることとは反対に、あのテキストの中では単独的な実存性が言われて
いたのである。

 柄谷が『探究U』で書いている批判は上記の誤読の上に書かれているし、柄谷ほどの
批評家がそんな間違いをするはずがないと思われるその信頼の上に、今でも読者に
流通している。
 実際にテキストを丁寧に読むという事がなければこういう誤読の流通から外れることは
ない。

343 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 17:51:55.66 0.net
343続き

 柄谷の例をたまたま挙げたが、似たような例は他にもある。そして柄谷の例が特徴的だが、
このミスがどうして発生したかという背景に、柄谷に限らない偏見が介在していると俺には
思える。柄谷はあそこで、ハイデッガーには特殊性はあっても単独性はないとした。引用
つきで。だが、実はそれは彼の不注意だった。何故あのような不注意が起こったかといえば、
彼の脳裏に「ハイデッガーはナチ協力者。また思想もナチズム」という先入観があり、それは
ある程度事実だが、その一部だけで裁断したがるということになったからだと俺は思う。

 テキストを読む場合に先入観を優先させるとどうなるか、という好例だと思う。

344 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 19:37:14.96 0.net
>>338
>個体としての〈私〉が如何なる素因から形成されるのか
>一体A氏の生涯とB氏の生涯との差異とは何か。何も分からない。

そんなのみんな違うんだから、考えても意味がないだろ?
そういう「不可知論」を踏まえて、類型を分類して分析するから、精神医学は成り立つんだろ?
「単純な同時に安易な分析」では、ないと思うよ?

まして「A氏の生涯」や「B氏の生涯」など、他人が「捉えるべき」ことなどではない。
余計なお世話としか言いようがない。

サルトルがそんなことを言っているとは、とても思えない。

345 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 19:52:15.50 0.net
>>339-343
柄谷的に取り上げなければ、ハイデガーというのはただの神秘論者ということだろ?
不可知論どころか不可知なものを自分で作りだして、「存在」とかいう名前を付けているだけ。

その中で、ひとつだけ取り上げられるものがあるとすれば、「現存在」という、人は(物は、事柄は)、環境の中にある、という点だけだ。
ハイデガーに限らず、哲学者に限らず、誰でもがそう考え、そう感じていることに過ぎないが。

「存在」一般などというものを設定しても、宇宙はある、以上のことを言っているわけではない。
なぜ宇宙があるのか、を問うことに意味がないように、「存在」を問うことにも意味はない。

ハイデガーがナチスを礼賛したのは、その「存在」なるものが、民族(国家)を通して実現されるという、ヘーゲルの絶対精神の焼き直しだからだろう。

346 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 20:41:41.35 0.net
>>344
 サルトルがギュスターブ・フローベールの生涯を膨大な資料を基に書いたこと
も知らないのかな。全4巻だがサルトルは幼少期に右目を失明。残る左目だけ
で生活していた。1973年に残る左目が眼底出血を起こし、影や輪郭だけが視える
ほどに視力下がり、完成はできなかった。サルトルはこれを通して、「今日、一
人の人間について、何を知り得るか」を究めんとしたのだとフローベール論の
冒頭で語っている。そしてその主題のために膨大な言葉を費やしている。

 あなたはサルトルの問題意識には縁のない人間なんだろうな。本は人を選ぶ。
あなたは関係ないということだ。

347 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 20:46:14.91 0.net
>>346
一人の生涯をいくら追っても、なんの共通性にも到達しないよ。
類型化して、モデルを立てれば、そこになにごとかの共通性を見ることはできるだろうが。

サルトルと僕の関心がまったく違うのはあたりまえだろ?
別人なんだから。

348 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 20:50:37.69 0.net
>>346に補足すると、フローベール論は生前3巻まで出た。残る第4巻は完成させられなかった。
日本では第4巻まで出ていると思うが、これは日本での編集で4分冊までになったのだと思う。
他人のブログで調べたが、日本では第5巻まで出ることになっているらしい。

 サルトルはこれを視力の低下、老齢と戦いながら必死で書き継いでいた。分量が多いが、
彼の遺作と言える作品であり、サルトルに興味のある読者は避けては通れないだろう。

349 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 20:55:22.27 0.net
>>348
サルトルに興味がある人はそんなこと知ってるだろうし、興味がない人には無意味な情報だから、わざわざ補足するほどのことではないと思うよ?

少し冷静になって、自分や他人を客観的に見るようにしたらどうだろう?

350 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 21:15:50.44 0.net
>>347
 目も通さずに何を先入観でまた言ってるのかね。というか、傲慢な他には何も文面から
読めないのだがw読んだこともないし意味も分からない。ということだけは分かった。

 サルトルは個体を知解するための視点をいくつか取り出しているが、それは個体と言う歴史
をどう捉えるかというための概念でもあった。この概念を必要な記録に使えば、誰であっても
知解は可能だという前提を持っていた。

 >>347は読まなくてもいいし読んでも意味が分からないだろうが、サルトルは個体への知解
のために大きな寄与をしてみせている。やはり大きな存在だし、力業を駆使する知識人だった
。他の人にはああい仕事は難しいだろう。

>>345
 柄谷の誤読はしばしばある。またかと思ったが、誤読も気合いで押し通しwいまだに
『探究U』も店頭にある。ああいうのをまともに受け取って済ましているようにだけは
なりたくないものだと思ってきたが。
 あの読みに妙な意義をみているそういう暇人もいるということだけは分かった。

351 :考える名無しさん:2017/11/05(日) 21:36:11.22 0.net
>>350
結局、なにも反論できないないんだね。
君がなにを分かろうと、それは君の中だけでの自己満足だ。
他人からは、なんと貧しい思考だろうとしか見えない。

他人は君が思うより、遥かに深く考えているし、遥かに多くの読書をしている。
まず、そのくらいのことには気が付こう。
趣味的な読書と自己愛のような著者理解では、なにも理解することはできない。

君のレスにまったく具体性がないことがそれを示している。
具体的に出てくるのは、書名や著作者名だけだ。

せめて、「個体と言う歴史をどう捉えるかというための概念」とはどういうもので、「個体への知解のために」どんな「寄与をしてみせている」のか具体的に書いてごらん。
君より遥かに深く考え、多くの読書をしている柄谷を批判するのは、それからだよ。

352 :考える名無しさん:2017/11/18(土) 13:24:17.20 0.net
>>345
>柄谷的に取り上げなければ、ハイデガーというのはただの神秘論者ということだろ?
>不可知論どころか不可知なものを自分で作りだして、「存在」とかいう名前を付けているだけ。
>その中で、ひとつだけ取り上げられるものがあるとすれば、「現存在」という、人は(物は、事柄は)、
>環境の中にある、という点だけだ。

 一般的にいう環境やら世界やらは有るものの集合として記述されているがハイデガーでの
世界内存在での世界はそういった有るものの集合ではないんだが。そのくらいのことも
知らないで論じて行くのがそもそも無理なので、貴方がハイデガーなど論じるのはそもそも
無理がある。

 柄谷は私が丁寧に>>339-343で指摘しておいたとおり、おそらくハイデガーのナチ加担でしか
読めないがため、ハイデガー哲学は共同体の共同性哲学だという偏見でしか読めなく
なっている。彼の誤読はそのために生じた。

 で、貴方の言う「人は環境に中にある」という命題はせいぜい初期サルトルによる歪曲
(意図的か否かはともかく)止まりな陳腐なものだ。それで「分かった」と勝手に妄想している
のが馬鹿と言われる理由なんだが。

>「存在」一般などというものを設定しても、宇宙はある、以上のことを言っているわけではない。

 宇宙はどこまで拡がるのか分からない無限性をもつ。だが存在と言う場合、ハイデガーでは
有限である(生命としても、世界としても)ところに特徴が有る。知ったかぶるのがいつもの
癖だが退屈な男だ。

353 :考える名無しさん:2017/11/18(土) 13:35:52.32 0.net
>>351
>他人は君が思うより、遥かに深く考えているし、遥かに多くの読書をしている。
>まず、そのくらいのことには気が付こう。

 貴方は読書してるのか知らんが読みとることができない人なんだな。丁寧さが足りないのでは
ないかね。読んでるのに読めない人間w或いは勝手に合点している。

 そういえば柄谷にもそういうところがあるな。読んでいるのだが勝手に誤読して書いている。
足りないところが貴方と同じだ。さすがに柄谷の文の方がまだ品格はあるがね。

>君のレスにまったく具体性がないことがそれを示している。
>具体的に出てくるのは、書名や著作者名だけだ

 おいおいw>>339-343を読んでから言って欲しいな。ここまで柄谷の論法を逐一辿って
誤読を指摘した論者はそうはいないだろう。

 それに私のレスには書名も著作名もあんまり出ては居ないだろう。柄谷にでもそういう
文句は言った方が良い。彼の『探究』など人名のオン・パレードだぞw

>せめて、「個体と言う歴史をどう捉えるかというための概念」とはどういうもので、「個体への
>知解のために」どんな「寄与をしてみせている」のか具体的に書いてごらん。

 貴方に説明することほどの徒労は私は感じたことがない。自分で勉強しなさい。考えなさい。

354 :考える名無しさん:2017/11/18(土) 20:11:53.57 0.net
>>352
>世界内存在での世界はそういった有るものの集合ではない

だから、ハイデガーの世界というのは、神秘主義だと指摘してるんだけどねw
そんなものをありがたがっても、なんの意味もないし、もちろんハイデガーとナチスの親和性の根拠が見えてくるわけでもない。

他人が知ったかぶってるんじゃなくて、君が「存在」という無意味な妄想に囚われてるんだよ。

>>353
>ここまで柄谷の論法を逐一辿って誤読を指摘した論者はそうはいない

自信を持つのは結構だが、神秘の自信では現実に触れ合うことはできない。
柄谷はハイデガー誤読しているんじゃなくて、ハイデガーの言説からわずかにでも意味のあることを救い出そうとしているだけだ。

>貴方に説明することほどの徒労は私は感じたことがない。自分で勉強しなさい。考えなさい。

なにひとつとして、具体性のあることを表現できないということの告白でしかないよ。
そうやって、いつも逃げてばかりいないで、少しは現実に向き合った方がいいと思う。

355 :考える名無しさん:2017/12/10(日) 13:26:16.87 0.net
具体性と言えば勝てるという頭の悪さがあんた哲学向いてないよ

356 :考える名無しさん:2017/12/11(月) 13:19:52.77 0.net
>>355
僕が哲学に向いてないんじゃなくて、哲学が現実から遊離してるんだよ。
現実を見る人間にとって哲学とは、哲学を否定すること。
それを証明してみせたのが、フォイエルバッハであり、ヴィトゲンシュタインだ。

357 :考える名無しさん:2018/03/11(日) 05:03:55.05 0.net
とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』

Q7OS3

358 :考える名無しさん:2018/07/09(月) 17:01:02.28 0.net
木田元の「ハイデガーの思想」と轟孝夫の「ハイデガー『存在と時間』入門」を改めて読んだけれど、
現実世界を現状分析した上巻だけで結局、自分の哲学を展開する予定だった下巻は出せなかった。
木田元がいう《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と称したものの、結局中味無く挫折した。
轟孝夫先生は10年かけてハイデガーを理解しようと努めたようだ。
それを読んでもハイデガーに大した中味は無いようだな。
《プラトン以来の伝統的西欧哲学を乗り越える》と木田元は言うけれど、
そのプラトン哲学が3学4課となって、
そえが今のリベラル・アーツ&サイエンス(大学教養課程)になっている。
それを乗り越えるとは何だろう。
それに含まれ、或はその上にはそこから分枝した専門的な数学や物理学、天文学がある。
それでこれをどう乗り越えるのか。ポスト・モダンは答えを知っているのか。不可解である。

359 :考える名無しさん:2018/07/09(月) 20:28:12.08 0.net
なにこの糞スレ

360 :考える名無しさん:2018/07/11(水) 11:18:32.54 0.net
>>359
対象がクソだからしょうがないだろ?

361 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:22:48.04 0.net
竹田青嗣「プラトン入門」1999年 あとがき

わたしが哲学の世界に足を踏み入れたのはふとしたきっかけからだ。
学生のころわたしがぶつかった大きな問題は、自分の民族問題と「政治」(つまり自分と社会の間)の問題である。
その後、三十前になって出会った現象学の思考法は、
この問題についてある核心的な考え方を示しているように思えた。
ところが、その後読んだ現象学についての一般的な議論と意見は、
自分が理解した現象学とはおそろしく違ったものだった…
既成の現象学理解は、現象学を「真理の基礎づけの学」と見なしていた
(そしてこの点で現象学を激しく批判していた)。
だがわたしの理解では現象学の核心はその正反対のもの、「確信成立の条件を基礎づける学」だった。
わたしは、自分の理解と一般的な現象学理解の大きな落差の理由を確かめないわけにはいかなくなった。
これがわたしが哲学の世界に深入りすることになったきっかけである。
フッサール、ニーチェ、ハイデガー、プラトンは、
わたしが長く、その通念的な理解像を書き換えたいと思っていた哲学者たちだった。

362 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:23:02.99 0.net
結局わたしは彼らについての入門書を書いたが、
哲学の世界に深く足を踏み入れるほど、自分の哲学理解と既成の哲学理解の溝は深くなり、
その違和感はヨーロッパ哲学全般に及んできた。
はじめわたしは、個々の哲学者たちの通念像のゆがみを個別的なものと考えていた。
しかしこの間、それがもっと構造的な理由をもっていることに気づきはじめた。
たとえば、現代の趨勢では、近代哲学は、
総じて「主観―客観」という虚妄な問題を作り出した観念論的な営みだとされている。
ヒュームは独我論者であり、ヘーゲルは形而上学的汎神論者であり、ニーチェは解体主義者…であり、
フッサールはこれまた、絶対的真理の擁護者である。
そして極めつけに、プラトンは、この近代哲学における形而上学的性格の絶対的源流とされている…
ところが、わたしの考えからいうと、これらの主張は、困ったことに、
ひどい冗談、とんでもない中傷、白を黒といいくるめるような真っ赤な?、
一切が“反転させられた”奇怪な「あべこべ」の哲学像、ということになる。
これをどう理解すればいいか。

363 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:23:17.95 0.net
いまのわたしの考えをいうとこうなる。
デカルトもヒュームもカントもルソーもヘーゲルもひっくるめて、
つまり近代哲学の総体が、その適切な像を、たぶん“二度”ねじ曲げられた。
一度は、マルクス主義によって。もう一度はポストモダニズム思想によって。
前者の基本命題は、「近代ヨーロッパ哲学は
結局市民社会と国民国家に奉仕するブルジョワジーの哲学だ」というものだ。
そして、後者は、「近代ヨーロッパ哲学の基本性格は、主観性と観念論の哲学、
つまり独我論的な真理の形而上学の哲学である」と主張する。
そして、この二つの命題は現代の哲学像を深く規定している。
いま、哲学を学ぶ人間は、まずたいてい、こういう哲学の基本像を通して問題を組み立てる。
ところがこの哲学の像が、もし近代哲学
(あるいはフィロソフィー)の本質をまったくつかみそこなっているとしたら、どうだろうか。

364 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:24:12.74 0.net
近代哲学の基本方法が独我論的な観念論であり、
主観―客観が近代二元論的な空疎な問題設定であり、
…近代哲学のそのような「真理主義」や「普遍主義」の虚妄は現代哲学によってすっかり証明された、
などという通念が、およそ誤解にもとづくありもしない虚像だったとしたら、どうだろうか。
もしそうだとすれば、それは要するに、
哲学の方法の本質が人々に長く隠されたままになっているということ以外ではない。

哲学の本質はそれが方法的な思考法だという点にある。
そしてその最も核心的な理念は「普遍性」という概念によって示される。
プラトン哲学は、まさしくこの理念の創始的な表現だった。

このような言明は人をとまどわせるかもしれない。
現代思想では、「普遍性」という概念は第一に否定されるべきものと見なされているからだ。
「普遍性」とは、異なった信念の間から了解の共通項を見出すための原理をめがけるものだ。
それは、現代の思潮が主張するような、
「一切の事柄について唯一の正しい考え方がある」という絶対的思考と、むしろ本質的に対立する…
「普遍的」思考ということの本質を考えるのに難解な形而上学を行なう必要はない。
普遍的思考の端的なモデルは、自然科学の方法である。

365 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:24:48.75 0.net
かつて人々は、嵐や稲妻や地震などといった
もろもろの自然現象の因果を、さまざまな「物語」によって説明した。
それはたいてい、神々や祖先や何らかの霊的なものの意志の結果と考えられていたが、
そのディティールは共同体によって違っていた。
自然科学の根本の公準は、
いかにして共同体を越えた共通了解を可能にするような説明の体系を作り出すか、
という点にあった。そして自然科学はそれを実行した。

しかしこの場合、注意すべき点がひとつある。
もしわれわれが自然科学の方法の意味を「客観的現実」に到達する方法、と考えれば、
自然科学は「絶対的真理」の学ということになる。じっさいしばらくの間人々はそう考えていた。
しかし、われわれはいまではこれを、「客観的現実」に到達するための学ではなく、
現象の因果についての共通了解を作り出すための学と考えることができるし、
またそう考えたほうが、はるかに自然科学の方法の本質を普遍的に説明できる。

366 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:25:10.05 0.net
哲学についてもこれと同じだ。現代思潮に影響を受けた多くの論者は、
哲学を、「客観現実」に達しようという野望をもった「絶対的真理」の学であった、と強弁する。
しかし、自然科学の場合と同じく、われわれはむしろこれを、
普遍的思考への方法的努力と考えたほうがはるかに深くその本質をつかむことができるのである。
近代の自然科学を「絶対的真理」への野望をもった方法であるとして否定するとしたら、
それほど馬鹿げたことはない。現代の思潮は、哲学においてほとんどこれに類することを行なっている…

プラトンは、長い間絶対的真理の形而上学の創始者とみなされていた。
事実は“さかさま”で、彼は「客観的真理」という考え方ではない仕方で
思考の普遍性の可能性を見出そうとした、はじめての思想家だった…
プラトンの独創は、なによりも思考の「普遍性」の根拠を、事実の因果の系列ということから引き離して、
価値の生成と関連の場面に基礎づけた点にある。「イデア」という概念の核心もまたそこ以外にはない。

367 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 16:25:32.89 0.net
現代の思潮は「普遍性」という概念を否認する。その中心の理由は、ヨーロッパ出自の資本主義を否認し、
国民国家原理による歴史の悲惨の罪障感をうち消すためである。
しかし、「普遍性」の視点を失うことは、ある感情に押されて思考を反動形式へと投げ入れること…だ。
それは結局思想の根拠自体を投げ捨てることである。
この簡明なことが、しかし現在、哲学と思想から見えなくなっている。
ギリシャ哲学においてソクラテス=プラトンが果たした役割、
近代哲学においてデカルトとイギリス経験論が果たした役割、
そして二〇世紀に現象学が果たした役割は、
時代の混乱のなかで死にかけた「普遍性」の概念をもう一度蘇生させようとするモチーフにおいて、
見事な相似形をなしている。
わたしたちは、いまもう一度、哲学という方法の原型に立ち戻らなくてはならないが、
まさしくその中心にプラトンの哲学がある。

368 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:05:47.17 0.net
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/151
柄谷行人「隠喩としての建築」

古代ギリシャの一般的素地においては、
プラトンやアリストテレスは、生成を制作とみることにおいて、…むしろ少数者であったというべきである。
彼らの「建築への意志」がその素地のなかに溶融してしまわない為には…、ある非合理的な強力な思想、
つまりGod as the Great Architectという思想が不可欠だっただろう。
私は…次のことを指摘しておきたい。
しばしば合理的思考の源泉とみなされるギリシャの思想における「建築への意志」が、
ヘブライズムに劣らず、非合理的な選択にほかならなかったということである。

369 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:06:08.23 0.net
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/173-176
木田元『日本人に「哲学」がわかるか』新潮45 1995年10月号

たとえばデカルト哲学の中心概念の一つである「理性」の概念にひっかかったところにある
近代の哲学者の言う「理性」とはそんな生やさしいものではない
われわれがもっているような理性概念を持ちこんだりしたら、
近代の哲学書は一ページも理解できないにちがいない
それは、神が世界創造の最後の段階でおのれに似せて創造したすべての人間に分け与えた特別の能力
こんな理性概念は、どう考えてみても、
キリスト教的世界創造論のような特殊な前提の上に立たなければ生まれえない
こんな「理性」が、そうした神学とまったく無縁なわれわれのうちに見当たらなくても当然
哲学の勉強をはじめた当初、私にはこのプラトンのイデア論も分からないものの一つであった
この種の考え方には、われわれ日本人にとって決定的に分からないところがあるし、あって当然なのである

370 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:06:26.01 0.net
ttp://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1396898238/177-180
木田元『「哲学」とは何であったのか』中央公論 1998年2月号

しかし、そうした難易とは違う独特の分からなさを、私はデカルトに感じた
この世のもので最も公平に配分されているのは良識(ボン・サンス)である」というくだりがある。
そして、すぐあとでこの良識は理性(レゾン)と言いかえられ、
これはわれわれに平等に与えられている能力だから、
この能力を正しく使えば普遍的認識を手に入れることができる、と言われる
デカルトの考えからすると、この能力を正しく使えば、単に普遍的であるだけではなく、
さらに客観的妥当性をももった認識を手に入れることができるということになるらしい。
つまり、その認識は、世界の存在構造に正確に対応もする、というのである。これが私には分からなかった
デカルトの言っているのは、どうもわれわれの考えている理性とはまるで違うものらしいと思うようになった
テキストを読めば読むほど、デカルトの言う<理性>は、われわれ人間のうちにはあるが、
なにか超自然的なもの、つまり神の理性の出張所とか派出所のようなものとしか思えなくなってきた
つまり、デカルトはキリスト教の世界創造論を前提にしてものを考えているのである
こんな理性は、そうした神学的前提を共有していないわれわれ日本人にとって分からなくても当然である
こういう理性概念を中軸に組織された知の体系であるから、
近代哲学はわれわれにとって決定的に分からないところがある
だが、それは、必ずしもキリスト教が前提になっているからというわけではなさそうである。
キリスト教の出現のはるか以前のプラトンにも似たような考え方があるからである
プラトンのイデア論がそうである
むろん、プラトンにキリスト教的前提などあるはずがない。にもかかわらず、
キリスト教的神学やデカルトなどと同じように超自然的原理を設定した上でものを考えている。
これをどう考えればよいのか

371 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:12:56.68 0.net
反時代的密語 梅原猛  朝日新聞

近代という時代は二つの哲学によって支配されている。
一つはデカルトの哲学…それは理性をもった人間を世界の中心におき、その人間と自然を対立させ、
人間が自然の法則を認識することによって自然を支配し…
武力と経済力を獲得することを最大の善とする思想…
もう一つの哲学は、国家の力を絶対化するホッブスの哲学…
それが理性によって人間が他の生物に対する優越性を示すプラトンの哲学になる。
この哲学はキリスト教に受け継がれ、人間の他の生物に対する支配権を主張する思想となる。
デカルト以来の近代哲学では、人間が世界の中心に座り、自然に対する絶対的支配権を行使する。
天台本覚論は、動物…すべての生きとし生けるものに仏の性があり、それらはやがて仏になるという思想…
プラトンに始まる西洋合理主義の文明が科学技術文明を生んだが、
今この科学技術文明は人類の滅亡を招く危機を生んでいる…
この人間中心主義が、近代哲学の開祖となったデカルトにおいてより明確に現れる。
文明の危機を免れるには、
このような人間のみが持つ理性を聖化する人間中心主義を厳しく批判しなければならない。

372 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:13:15.43 0.net
再考 エネルギー 朝日新聞 2012年1月1日 哲学者梅原猛
原発事故は「文明災」。自然との共存に帰ろう

――震災や原発事故で、何を考えましたか
「文明が変わらなくてはいけないし、文明を基礎づける哲学も変わらなくてはいけない。
現代の科学技術文明を基礎づけたのは17世紀のフランスの哲学、つまりデカルトですね。
科学が発展すれば、人間は自然を奴隷のように支配できるという彼の哲学が人類の思想となったわけです」
「…今回の原発事故をみて、すぐ『文明災』という言葉が浮かんだ…事故は文明の災害でもある…
哲学が、今や大きく揺らいでいる…文明は…最初は森林を伐採してエネルギーにした…
ところが20世紀になって原子力が発見され…救世主のように思われたけど…悪魔のエネルギーだった…
自然エネルギーを安く手に入れることができれば、この問題は解決する…
政府は自然エネルギー研究に予算を出せばいいんですよ…核融合研究…地球に太陽をつくる…研究。
思い上がりですよ…やはり自然との共存という思想に帰らなくてはならない。
人間は自然を征服できるという西欧の思想に対し、
日本には、動物はもちろん植物も鉱物もみな仏だという『草木国土悉皆成仏』の思想がある…

373 :考える名無しさん:2018/09/02(日) 18:13:50.69 0.net
一方の西洋文明にとって森は未開の象徴。
古代メソポタミアの叙事詩『ギルガメッシュ』で、
王様のギルガメッシュが最初にしたことは、森の神フンババを殺すこと…
そういう文明、哲学まで変わらなくては」
「若い時…トインビーに会った…『17世紀になって、それまで最も強力だったイスラム文明に代わり、
科学技術文明を生んだ西洋諸国が世界を征服した…
しかし21世紀には、非西洋諸国が科学技術文明を採り入れながら、
自分の伝統的原理に基づいて新しい文明をつくる…』と語った…
『どういう原理でしょう』と聞いたら、『それはお前が考えることだ』ってしかられました。
それから40年考えて、今、やっと答えを出せた」

374 :学術:2018/09/02(日) 19:14:06.93 0.net
順序だった勉強や哲学じゃ才能が発火しないわけじゃ?

375 :学術:2018/09/02(日) 19:15:28.66 0.net
国対国のえせ戦争じゃなくて、国文学対日本文学の方がまし。詳しさ。

376 :学術:2018/09/02(日) 19:16:08.46 0.net
中心からのズレ 中心からスレ

377 :学術:2018/09/02(日) 19:18:26.76 0.net
日本語 は日本人を語るためではなく、国語は、日本軍を語る言葉でない。
日本語は、世界と戦うためにあって、国語は敵国を打ち破るために使う。

378 :考える名無しさん:2018/12/11(火) 23:47:06.42 0.net
NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』國分功一郎

まず最初に見ておきたいのが、ラテン語で「コナトゥス conatus」というスピノザの有名な概念です…
「ある傾向を持った力」と考えればいいでしょう。
コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。
医学や生理学で言う恒常性(オメオスタシス)の原理と考えればよいでしょう。
例えば…個体の中の水分が減ると、…水分への欲求が生れ、
それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。
私たちの中ではいつも、自分の恒常性を維持しようとする傾向を持った力が働いています…
「自分の存在を維持しようとする力」のことです。
大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、
ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、
その物の「本質 essentia」であるとスピノザが考えていることです。
「本質」は日常でもよく使われる言葉ですが…
「本質」が「力」であるというスピノザの考え方は…
哲学史の観点からみると、ここには非常に大きな概念の転換があるのです。
古代ギリシャの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。
ギリシャ語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。

379 :考える名無しさん:2018/12/11(火) 23:48:04.13 0.net
これは「見る」という動詞から来ている単語で、
「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語では「form」です。
…このエイドス的なものの見方は、道徳的な判断とも結びついてきます…
「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。
エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしく、ということになりかねないわけです。
それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。
物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。
そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。
「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。
…このような本質のとらえ方は、前回見た活動能力の概念に結びついてきます。
活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。
一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです…
どのような性質の力を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。
それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。
ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、
私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。

380 :考える名無しさん:2018/12/11(火) 23:49:06.65 0.net
…スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。
するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、よく生きるコツだということになります。
世間には必ずネガティヴな刺激があります。これがスピノザの非常に強い確信でもありました。
それによって自分をダメにされないためには、
実験を重ねながら、うまく自分の合う組み合わせを見つけることが重要になります…
人間は単に男であったり女であったりするわけではなくて、
常に具体的な環境と歴史と欲望が交錯するなかで生きている。
その中で出来上がる力としての本質は、一人一人大きく異なります。
どういう組み合わせならうまくいくかは、エイドスという形として本質を考えるだけでは分らない。
「お前は女だからこうしろ」「子どもだからこうしろ」「老人だからこうしろ」というのは、
その人の本質を踏みにじることになる。
これはドゥルーズも指摘していることですが、
このようなスピノザの考え方を、「エソロジー ethology」の考え方になぞらえることができます。
「エソロジー」というのは、「生態学」や「動物行動学」と訳される、生物学の比較的新しい分野です…
「エソロジー」の語源は…「エチカ」の語源とまったく同じ、ギリシア語の「エートス」です。

381 :考える名無しさん:2018/12/11(火) 23:49:44.71 0.net
…属性はスピノザ哲学の中でも最難関の概念の一つなのですが…
スピノザの属性概念は、デカルトの「心身二元論」への批判としてとらえることができます。
デカルトは精神と身体を分け、精神が身体を操作していると考えました…
それに対しスピノザは、精神が身体を動かすことはできない、
というか、そもそも精神と身体をそのように分けること自体がおかしいと考えました。
精神で起ったことが身体を動かすのではなくて、精神と身体で同時に運動が進行すると考えたのです。
これを「心身並行論」と言います。
たとえば怒りに駆られた時、怒りの観念が確かに精神の中に現れますが、
同時に体が熱くなったり、手が震えたりします…
それらは私という様態の中で同時に起っていることです…
精神は精神、身体は身体と考えてしまう。スピノザはそれを批判しました。
同じ一つの事態が、思惟の属性と延長の属性の両方で表現されているにすぎないと考えたのです。
…スピノザは精神が身体を操縦しているという考え方を何としてでも斥けようとしているわけです。

382 :考える名無しさん:2018/12/11(火) 23:53:28.53 0.net
…デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。
真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。
…デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、
ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理なのです。
それに対して…スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。
そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。
だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです…
真理に向き合えば、真理が真理であることは分るというわけです。
スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょう。
真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、
かつそのことの真理を疑うことができない。(第二部定理四三)
ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思います。

383 :考える名無しさん:2018/12/12(水) 14:04:02.31 0.net
>>382
真理ねえ・・・
結局は、真理というのは人間にとっての、誰かにとっての心理じゃないのかなあ?
自然科学的な真理というものを想定しているなら、それはたんなる事実であって、事実の発見に過ぎないからね。

384 :考える名無しさん:2018/12/12(水) 22:41:04.48 0.net
ttps://twitter.com/lethal_notion/status/1072656623833878528
KoichiroKOKUBUN國分功一郎? @lethal_notion 2018年12月11日
昨日は丸の内でビジネスマンの方々に中動態の講演。
質問タイムでも終了後も、分かりやすいだけの話にはもう飽き飽きである、
意味のある難しいことを理解したいとのパッションを感じました。
学生にもこのパッションを感じます。
これはこのどうしようもない世の中で僕が感じ取っている唯一の希望です。

ttps://twitter.com/levinassien/status/1072719125376462849
内田樹? @levinassien
内田樹さんがKoichiroKOKUBUN國分功一郎をリツイートしました
NHKの人に伺ったら、
國分さんの100分de名著のスピノザ『エチカ』のテキストブックはなんと5万部出たそうです。
『エチカ』を理解したいと望んでいる人が今の日本に5万人(!)いるんです。
希望を失うことはないと思いました。
(deleted an unsolicited ad)

385 :考える名無しさん:2018/12/12(水) 22:42:40.73 0.net
いやー、おめでとうございますw

386 :考える名無しさん:2018/12/12(水) 22:43:22.48 0.net
ttps://www.amazon.co.jp/
スピノザの方法 単行本 ? 2011/1/21 國分 功一郎 (著)

安冨歩5つ星のうち5.0
スピノザの方法を明らかにした2011年3月20日
本書の最大の功績は、デカルト思想が説得のシステムであるのに対して、
スピノザ思想は説得を拒絶し、理解に徹するシステムであることを明らかにした点だ。
説得という行為は、究極的に他人に自分の考えを押し付けるハラスメントの契機を含んでいる。
そのため、近代の諸学は、その根源にハラスメントを含んでしまった。
スピノザは、まさにこの点を明らかにしてデカルトを否定し、
自分自身のための理解の哲学を構築したのである。
私が『経済学の船出』で指摘したように、スピノザの哲学は、
ホイヘンスの非線形力学の実験の影響を強く受けている可能性が高い。
スピノザはホイヘンスの実験の哲学的意味を汲み取り、
同じ見解の共有を目指す説得のかわりに、相互の理解を尊重する調和の重要性を示したと私は考える。
同書で主張した後期スピノザ思想の非線形力学的解釈は、
本書が明らかにしたスピノザの方法と完全に整合している。
私とは全く独立にスピノザを読み、エチカ以前を中心に議論した國分氏が、
エチカに焦点を絞った拙著と、整合した見解をほぼ同時に提出したことに私は、強い興味を覚えた。
ただ、國分氏はスピノザをデカルトに対する「脱構築」として解釈しているが、私は賛成できない。
スピノザ/ホイヘンスの非線形的世界観は、デカルト/ニュートンのそれを乗り越える上で、
決定的に重要な方向性を示しているものと理解しているからである。

387 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:39:07.26 0.net
NHK「3.11後を生きる君たちへ〜東浩紀 梅原猛に会いにいく」

ナレーター:
原発事故を「文明災」と位置づけた梅原さんは、その後、
現代文明のベースにある西洋哲学を一から洗い直す仕事を始めました。
そしておよそ400年前に唱えられた或る考えに、大きな問題があると確信しました。
17世紀、フランスの哲学者ルネ・デカルトが唱えた『我思う故に我在り』
デカルトは世界で唯一確かなものは、考える自分自身であるとしました。
一方、目の前に在る自然は数式に置き換え、容易に支配できるものだと考えました。
人間が自然の上に立つというデカルト哲学の下、科学は発展し産業革命が興ります。
しかし、それは同時に環境破壊を始め、大きな問題を引き起こして行きました。

梅原:
人間中心主義だな、だからデカルトの文明災は…デカルトは『我想う故に我在り』って『我!』、
『我(われ)』が世界の中心なんですよ。
そしてそれに対する自然は、対象的世界で、それは自然科学的法則よって、数学的法則によって理解できる。
そういう数学的法則によって自然の法則を明らかにすることによって、人間は自然を支配できると。
自然支配の論理だと思うんですね。
それで科学技術文明を作って正に自然支配、人間支配のそういう“意志の文明”を作った。
そういうような“意志の文明”ではもう、人類はやっぱり自然破壊、或いは人間破壊、
そういう“意志の文明”の権化がまあ原子力なんてもんじゃないかと思いますけどね。
で、私はだから、そういう西欧哲学の原理を超える、
現代文明を超えるような、新しい文明の原理が日本の思想の中に潜在しているんじゃないかと。

388 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:41:30.40 0.net
ナレーター:
西欧哲学では人類は存続できない。
梅原さんが新たな文明の原理として打ち出したのが、日本に古来から在る、自然と共存する思想です。
それは草木國土悉皆成佛という仏教の言葉に象徴されると言います。
草も木も、土や風に至るまで、地球上のありとあらゆるものに仏が宿る。
人間と同じように魂を持つという考えです。人間だけが特別な存在ではなく、
全てのものが地球の一部に過ぎない。
この思想は、縄文時代以来の日本人の考えを受け継いだものであると、梅原さんは考えています。

梅原:
だから私は近代思想というのは、近代に天動説から地動説に変わったというけれど、
哲学としては天動説じゃないかと。人間の周りをずっと回っている。

ナレーター:
20世紀に入ると、科学技術文明は原子力など人類の存在を脅かしかねない問題を生み出します。
西欧では多くの哲学者がこの問題について解決策を探ってきました。
20世紀最大の哲学者といわれるマルティン・ハイデッガー。
原子力技術の背景には自然を人間の役に立つものとしてしか捉えない考え方があると批判しました。
そこで、詩人のように、自然の本来の姿を見ることが大事だとしました。

389 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:45:07.15 0.net
東:
ハイデガーはそういう意味でいうと、正に梅原さんが今日おっしゃったみたいに、
ギリシャ・ヘブライ以降の、なんていうか、人間主義中心哲学のほんと完成度、完成形態としてあって、
で、あそこからどう出るか。

梅原;
ヨーロッパの或る種の自己批判、があるんだけど、やっぱりそういう人間中心主義を克服できないな。
これはやっぱりあの大きな問題だと。

ナレーター:
二人はハイデッガーの、自然と人間を分けて考える限り、人間中心主義から抜け出せていないと考えています。

390 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:46:47.54 0.net
東:
人間中心主義というか、人間と自然というものをカッチリと分けて、
人間だけが主体で、自然というのは客体であるというふうに発想するのは、
これは科学を可能にした発想なんだけど、これ自体は何の科学的根拠もないし、
(梅原:そうそう、そうです)
実際、現代科学の知見はこれを恐らく色んなところで否定していると。
だから思うんですね。人間だけが主体であると、
人間と自然っていうのがきっかり分かれるっていうふうには世界が実はなっていないので、
科学の最先端のことが明らかにした知見を思想的に理解するためには、
実は科学の最初にあった、主客の分離というか、
人間と人間以外のものの分離みたいな前提を実は変えなければならないと。

ナレーター:
議論は、今、日本人が世界で果たせる役割は何か、というテーマに進みました。

391 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:49:50.66 0.net
梅原:
やっぱり、その、ヨーロッパ文明は、科学技術文明を創って、日本人は大変恩恵を受けたんですよ。
恩恵を受けたんだけどやっぱり、それに対するやっぱりマイナス面を二つ経験した。
それは広島の原爆ですよ、それから今度の福島の原発ですよ。
これはねー、その、不思議なことで、
日本のような、西欧文明の取り入れに成功して、立派な国を作った、日本が、
物凄く西欧が経験しないような、西欧文明のマイナス面を受けたと。
これはやっぱり、日本の教訓じゃないかと。
これを超えて行かなければならない(東:或る種の世界史的役割ですね)。
…役割、それを私はあのー、強調したいな。

で、私はトインビーがね、40年前に来たときに、私と対談したんですよ。
それに対してトインビーはね、やっぱりあの、
『西欧文明は科学技術文明を生み出すことによって、世界を征服して、そして世界を一つにした』と。
そしてその西欧文明を取り入れない、国はやっぱり生きて行けない、植民地になるか、…
『日本は大変賢い民族で、それの取り入れに一番成功した』と。
だけど、そういうやっぱり『西欧文明を取り入れる時代は終わった』と。
そしてやっぱり《新しい歴史》は、そういう《非西欧国家》がですね、
『非西欧文明が、自分の文明が現在持って、科学技術文明をそこの中で考える』、
そういう新しい文明を創らなくちゃならない。
『だから創るであろう』ということを、トインビーが予言しているんですよ。

392 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:53:37.67 0.net
で、私はそれを話して大変その、いい話だけどね、
『じゃあ、どういうような原理で、日本はそういう新しい文明が出来るでしょうか?』って言ったら、
そしたら『お前が考えろ』と。『お前は若いから考えろ』と言われたですけどね。
長い宿題が…40年経ってやっと、答えられるようなあれになったと思うんですよ。
やっぱりね、“大変”西洋文明によって…して、豊かな国になったことは感謝しなくてはならない。
ところが西欧の方で『もうちょっとこれは限界がある』と、いうことを感じていると思うんですよ、
感じていると思う。
だからこの『東洋文明のこういう考え方を取り入れたらどうですか』と言って、
西欧に対して、『西欧は間違っとる』と言わずに、
『取り入れたらどうですか』ということをやっぱり提案できる。そういう風に私は思うんですね。

393 :考える名無しさん:2019/03/07(木) 20:58:38.27 0.net
梅原:
私はあれ(東北大震災)を見たときに、戦争中のことを思い出した。
私は直接戦争で戦わなかったけど、名古屋の大空襲に遭って、
丁度私は最初名古屋の空襲に遭ったときは、三菱重工業という、ところで勤労奉仕をしていたんだ。
そうしたら最初のときの空襲でB−29がきて、『ダン!』っていった。
物凄く命中率が良くてね、100%工場の中に落ちた。
そうすると一波来て、外を見て来ると人間の死骸がね、鉄骨のところに引っかかっているんですよ。
ほんとにもう死ぬ、死ぬと思っていた。
そのときちょっとサボってね、友人のところでお喋りしとったんですよ。
それで友人の入る防空壕へ入った。僕が入る防空壕に直撃弾がぶつかってね、人がみんな死んどった。
防空壕の中で座ったままね。ほんとに青白くなってみんな死んでたんですよ。
それがどっかに頭のイメージに、どっかにあるんですね。

だから私はやっぱりそういう死というものをまともに見たという、
そこから私のやっぱりあの、そこから青春が始まってるんですね。
だからねーあのー、どこかねー、先ほど戦争のことは余り語らなかったけどね、
僕らの世代は生き残った者がやっぱり一種の罪悪じゃないかと、
どこかこう、ほんとに勇敢に戦った人は死んで、
自分たちはあまり勇敢に戦えんで生き残ったりして、そういう気持ちがずっとあるんですよ。
それでやっぱり広島と、長崎に原爆が落ちて戦争が終わったと。
やっぱりそういう、広島長崎の、死んだ人に対する後ろめたさみたいなものがね、
私の中にずっと今、残っている。
これはまあ、戦争中の世代と私より上の人じゃないと解らない、やっぱり感覚ですよね。
それはやっぱり、何かやっぱり、どこか私は後の人に伝えてほしいと思うな。

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