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ウィトゲンシュタイン 3

4 :考える名無しさん:2023/11/21(火) 11:54:21.16 0.net
それでは形而上学とは本質的には何かと言えば
「言及のたびに内容が変化するのに記号としては変化していないように見せかけられるもの」となる。
例えば倫理や道徳は自然言語で「善」などと書いてしまうと上の「見せかけ」を許してしまうので形而上学となる
逆に言えば言及のたびに意味が変化しないか、意味が変化するならばその変化を記号の変化として明示すれば形而上学にはならない。

例えば
善(1939年のウィトゲンシュタインにとって)

善(1939年のアメリカ市民の90%以上が同意するもの)
のように書く。
このように明示すればそれは形而上学でなくなり「語り得るもの」となる
そしてこれらの記号があるだけでは論理はトートロジーしか成せないのだから、その真偽もまた意味がないものとなる。
その論理がトートロジーでなくなるためには記号が指す内容がどのくらい確からしいのか現実世界の出来事と比較しなければならない。
それを全て行ったとき、人はそれを科学と呼ぶ。
倫理が科学となるのか形而上学となるのかにはそのような違いがある。

本当に重要なことはこの形而上学と科学の違い、形而上学的妄想を如何にして科学の対象に変換可能なのかということだ。

はっきりと言ってウィトゲンシュタインの著作の解説本なんかを読んで論考や探究を読みとこうするのは全くの人生の無駄だ。
そんなことより遥かに重要なことは沢山ある。
ニュートンの著作を自力で読む時間など無駄でしかない。同じ時間で流体力学を学んでシミュレーションでもした方が遥かにマシだし
論考や探究なんかを読む前に従来は形而上学だとみなされていた概念を科学として研究する分野は無数にあるのだからそちらを学ぶ方が遥かに良い。

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