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ウィトゲンシュタイン 5
- 1 :考える名無しさん:2023/12/04(月) 17:30:31.63 ID:0.net
- 存在論的に[オントロジー]痒いところに手が届くのが
形而上学や哲学であるのに対して、そこに手が届かないのが
科学や論理である。
よって、科学や数学、論理は「測れないもの」に対しては
原理的に無力にならざるを得ない。その一方、形而上学は
「測れないもの」への独自のアプローチと照射があるため、
それは現代でも世界中の人々の心を捉えて止まないのである
古代ギリシャ時代から哲学は一部の無知な者たちから罵倒、
揶揄されてきたが、現代においても廃れる傾向がないのである。
なぜなら、哲学は存在論的に普遍者を志向しているからである。
時代に関係なく、人類の知的クラスタの間には、普遍的な
ものへの志向があるのである。これが古代ギリシア語で、
智慧や叡智を意味する「ソフィア」と呼ばれるものになる。
つまり、この精神こそが、哲学(フィロソフィー)なのである。
※前スレ
ウィトゲンシュタイン 4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1700849339/
- 589 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 12:14:24.41 ID:0.net
- >>135
>「臨/隣在なくして存在なし」とは、分かりやすい喩えを用ゐるなら、「比なくして、数は存在しない」ということだが、この喩えには、まだ大きな問題がある。
なにがどのように問題なのか、もう少し分かりやすく言ひ換へてみよう。
この喩により言おうとしているのは、"a side"(かた・は(側/傍)・ら)が「存在者」として「あ(在/有/或)る」ことよりも、"side-by-side"という関係性の様態の方が先であるということだ。
- 590 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 12:20:29.50 ID:0.net
- >"a side"(かた・は(側/傍)・ら)が「存在者」として「あ(在/有/或)る」ことよりも、"side-by-side"という関係性の様態の方が先である
このように表現することは、「ただ(正)しい」が、しかし、この表現には大きな問題がある。
にもかかわらず、その問題に取り組もうとすることなく、その「ただ(正)しい」に開き直って留まってしまったことに、「現代思想」として流行した「構造主義」が根本的に抱えている欠陥もある。
- 591 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 12:26:49.62 0.net
- "side-by-side"という関係性の様態を「存在者」の「存在」に優先させることは「ただ(正)しい」が、しかし、今度は、「構造主義」は、"side-by-side"という関係性の様態を、「臨/隣在」を示すものとしてではなく、「存在」として無反省に扱ふようになってしまったのだ。
つまり、"a side"が存在するよりも"side-by-side"の方が先であるとしたまでは良かったのだが、今度は、"side-by-side"としての(任意の)"each side"の関係性を「二項関係の『存在』」として扱ふようになってしまったのである。
- 592 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 12:39:00.90 0.net
- それが「なに(何)」であるとされることになるにせよ、「なに(何)か/な(汝/己)・に・か」が「どのようにか」「『あら・は・(顕/現)』る」/「『あ(在/有/或)ら・は』る」」ことが、「臨/隣在」/"-by(/to be)-"の反映であり、その「どのようにか」を(最も一般的には、「こゑ(声)」によ(依)り)つた(伝)へるためにつか(使/仕/遣)はれるのが「ことば」である。
- 593 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 12:45:26.62 0.net
- 英語の場合、「臨/隣在」の感覚は、主として、"-by(/to be)-"により明示されるが、日本語の場合には、「〜ふ」、つまり、「〜をひっくりかへす」というメタ言語的な指示によって様態/作用の「ひっくりかへし」が可能となることに「臨/隣在性」の「『あら・は・(顕/現)』れ」/「『あ(在/有/或)ら・は』れ」」を見て取ることができる。
- 594 :考える名無しさん:2023/12/10(日) 13:04:01.32 0.net
- 神だが、これはなんだ?ヴィトゲンシュタイン
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