2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

なぜ、馬鹿には哲学は無理なのか?

1 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 20:57:56.17 0.net
近所にいる馬鹿に、こう訊ねてみよう。「あなたは今、どんな哲学を持っているのか?」

その馬鹿の反応「は?」

たぶん、その近所にいる馬鹿は、生まれてこの方、一度も哲学を持った試しがないことであろう。それが、当該人物が馬鹿であることの根拠でもあり、原因、理由でもあるのだ。哲学を持たぬ者は、環境と状況、有力者や権力、知人、マスメディアの言説に右往左往するだけの塵芥、すなわち馬鹿として一生を終えることになる

2 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:02:00.51 0.net
また、馬鹿の特徴は現状の認識論の枠組みで、世界をすべて分かった気になることである。馬鹿は単細胞なので、何事においても安直に分かった気になれるのである

この意味では、馬鹿は幸せである

3 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:04:36.94 0.net
よって、必然的に馬鹿は哲学と無縁になる

4 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:05:59.83 0.net
馬鹿は、そもそも思考すること自体を厭う傾向があるので、馬鹿が哲学を嫌うのは理に適うのである

5 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:09:05.33 0.net
頭は良い方でもないし悪い方でもないけど、哲学は好きだよ
本当に頭良い人と話すと置いていかれるけど

6 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:09:41.38 0.net
馬鹿が好きなことは、考えることや哲学ではなく、考えないことであり、気を散らすことである

そもそも馬鹿には集中力が全くないので、難解な哲学書は読めないように出来ているのである

7 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:19:15.57 0.net
現代人は、反射するだけである。物事を深く考えないで、即、その場で反射するのである。ひろゆきやホリエモンがその代表例である

8 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:23:07.16 0.net
哲学は、反射するのでなく、投射するのである。カントのような遠大な投射は、時空を超えて現代にまで光を投げかけるのである

9 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:33:54.34 0.net
考えることや哲学することがそんなにいいことなのか?

10 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 21:37:08.39 0.net
社会的な腐敗の理由も、その社会が良質な哲学やコンセプト、理念を欠いているからである

そうした哲学や理念を欠いた社会は動物化する

11 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:09:01.01 0.net
たしかにな

12 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:13:42.43 0.net
One Over Many(多に亘る一)

13 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:16:22.01 0.net
馬鹿が哲学をやるんだよ
哲学なんてやってるやつは馬鹿だけ

14 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:17:10.99 0.net
この糞荒れた板を見ろよ
頭良いやついるか?
いねーだろ
それが答え

15 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:21:18.58 0.net
近所にいる人に「あなたは今、どんな哲学を持っているのか?」って訪ねる奴
こんなん不審者の極みだろ

そんな事すら分からないキチガイ>>1「馬鹿に哲学は無理」

16 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:21:56.66 0.net
笑笑

17 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:41:34.97 0.net
考えない馬鹿=適応的に生きている
哲学する人間=適応的に生きることができていないのであれこれ考え始める

18 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:44:53.06 0.net
>>12
The “One Over Many” Argument
According to Aristotle, the Platonists had an argument for the existence of Forms that he called the “One Over Many.” Plato himself never used this title, although he sometimes described a Form as being a “one over many.”

The idea behind the One Over Many is probably best exemplified in Plato’s dialogues in the principle enunciated at Rep. 596a:We customarily hypothesize a single form in connection with each collection of many things to which we apply the same name.

19 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:45:44.80 0.net
The idea is this:If there is a set of things all of which have the same “name,” then there is a Form for that set.
By “name” here we should probably understand “general term” or “predicate” (to use the word that Aristotle invented for this kind of “name”) - that is, a term that can be applied in the same way to many different things that all have something in common, a term like ‘bed’ or ‘table’. Cf. the next speech in Rep. 596a-b:

Then let’s now take any of the manys you like. For example, there are many beds and tables ... but there are only two forms of such furniture, one of the bed and one of the table.

20 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:47:09.04 0.net
We are now in a position to see why Aristotle called this an argument for the Forms. The only thing we have seen so far that even looks like an argument would go like this:
a, b, and c are all tables (i.e., things to which we apply the name “table”).
Therefore, there is a Form (the Table Itself) that a, b, and c all share in; and it is by virtue of sharing in this Form that they are all tables.

The argument moves from a premise asserting the existence of a plurality of things that have something in common to a conclusion that asserts the existence of something else. But what is this something else?

21 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:47:43.03 0.net
One might suggest: it is some feature that they all have in common. But this seems too weak; for it’s already asserted in the premise that they all have something in common: they are all tables.

Rather: the conclusion asserts the existence of some entity that explains the fact that they all have some feature in common.
[Aristotle, in his Peri Ideôn, attributed to the Platonists a more elaborate version of this argument, but it is not found in any of Plato’s dialogues.]

22 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:48:21.93 0.net
Plato never made completely clear the nature of the relationship between the many things and the one Form that is “over” them. He tended to use the term “participation” or “sharing in” to describe this relation. The idea seems to be that it is by participating in a Form that a thing comes to be the kind of thing that it is - tables are tables because they participate in the Form Table;

beautiful things are beautiful because they participate in the Form Beauty. That is: participation explains predication. A thing is F because it participates in the Form, F-ness.

23 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:49:05.43 0.net
But what more can be said about the nature of participation? There are some clues in the Phaedo. Recall 74-76: equal sticks and equal stones are said to be like the form of Equality, but to be deficient, to fall short. This suggests that participation involves, at least in part, deficient resemblance.This idea is supported by the Allegory of the Cave in Republic 514ff.

24 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:49:39.08 0.net
The view that emerges from these passages (Republic 514ff, 596aff; Phaedo 74-76, 100c-d) may be called the Resemblance Theory of Predication:

Forms are paradigms, perfect examples of the properties or common features of the things they are invoked to explain. These paradigms are accessible to the mind, and it is by comparison to them that we apply their “names” to objects of sense-perception. It is by resemblance to a Form that is (perfectly) F that a participant in that Form is said to be (imperfectly) F.

25 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:50:15.15 0.net
The semantic theory embedded in this: general terms are proper names of Forms. We can apply these terms to participants in the Forms by a kind of courtesy, provided that the participants measure up sufficiently closely to the paradigms.
Plato came to be critical of the resemblance theory of predication. The criticism emerges in his dialogue Parmenides, to which we now turn.

26 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 22:59:16.58 0.net
この一連の英文は、One Over Many(多に亘る一)という哲学的な概念の説明になるものだが、プラトンやアリストテレスのこうした分類法が、現代のAIの知識表現やクラスタリングに繋がることが容易に想像できるのではないだらうか

27 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 23:07:34.50 0.net
プラトン的な観点だと、「一」としてのリンゴのイデアやプロトタイプが抽象次元に実在し、そこからの派生形として、個物としての個々の、すなわち「多」としてのリンゴの存在がそれぞれにある、ということになる感じかな

28 :考える名無しさん:2024/01/27(土) 23:25:26.30 0.net
たしかに、例にあるテーブルやベッドだけでなく、個々の対象は個物性を有しており、そこには差異やグラデーションがあると言える。

たとえば、スマホでも色々な個々の違いがあるのだが、それらをスマホという一つのクラスとしてタグ付けする。唯名論においては、普遍は存在せず、こうしたタグ付けや名指しだけが存在するという認識論的な立場になる

29 :考える名無しさん:2024/01/28(日) 00:05:27.76 0.net
原理的なレイヤーで深く考究しようとするならば、人は必然的に哲学に向かわざるを得なくなる。

そうした必要性に内的に駆られないのが馬鹿のクラスタなので、彼らに哲学は不要なのである。哲学は客層を選別するのであり、下賤な輩には無縁な代物である

30 :考える名無しさん:2024/01/28(日) 00:24:01.16 0.net
>>17
己の価値観に適応するのが哲学

社会の価値観に適応するのが奴隷や社畜

31 :考える名無しさん:2024/01/28(日) 00:31:32.43 0.net
人が病む理由は、己の内在的な価値観を捨てて、社会の価値観に過剰に適応しようとするからである。これは、その社会が狂っていたり、腐敗している場合、そのままその個人へ負のフィードバックとして作用するようになる

哲学は社会的な価値観さえ鵜呑みにすることはないのである

32 :考える名無しさん:2024/01/28(日) 00:43:05.02 0.net
哲学を持たぬ現代人は、その精神が社会的な下らない表層的な価値観に浸潤され尽くされており、そのことによって己の本来の価値観を失い、病むようになりやすいのである。

哲学は、社会的な価値観によって無化された己の価値観を回復させるのである。

33 :考える名無しさん:2024/01/28(日) 08:41:40.58 0.net
馬鹿にも色んな馬鹿が居るからなと思慮出来ない奴が本当のバカ。

34 :考える名無しさん:2024/01/29(月) 14:39:20.89 0.net
うんこにお前はうんこだと言われても、うんこが言うことなんてなあとしか

35 :考える名無しさん:2024/01/30(火) 03:25:43.65 0.net
ウンコはウンコでも巻糞かもしれないだろ

36 :考える名無しさん:2024/01/30(火) 11:47:35.51 0.net
それはレアで個性的ね

37 :考える名無しさん:2024/01/30(火) 11:49:47.39 0.net
馬鹿の示す範疇が人それぞれ違うのに馬鹿馬鹿言ってもな

38 :考える名無しさん:2024/01/30(火) 19:14:13.39 0.net
さすがにカントくらいは普通読むだろ、相当の馬鹿でもない限り

39 :考える名無しさん:2024/01/31(水) 07:45:08.08 0.net
読んでも理解出来るかはまたべつのおはなし

40 :考える名無しさん:2024/01/31(水) 13:08:52.16 0.net
そもそも大多数は分かったつもりになってるだけで本当には理解してなかったりする。
哲学書は当然ながら人を選ぶ。
それはどういう事かといえば、哲学書を読む以前に哲学が出来ていなければならないからだ。
科学的な思考法が有るように哲学にも特有の思考法がある。

41 :考える名無しさん:2024/01/31(水) 20:03:17.39 0.net
親切過ぎたので反省中

42 :考える名無しさん:2024/02/01(木) 09:01:48.34 0.net
哲学書読むには確かに訓練必要よね
ファッションで哲学書読もうとするタイプが1番救い難い馬鹿だと思うけど、普通は内的問題を抱えて辿り着くとこだろうから知能の差こそあれお互い頑張ろうなとしか

43 :考える名無しさん:2024/02/01(木) 09:08:20.06 0.net
>>29
そういう必然性に駆られないイコール馬鹿、って随分と乱暴だわね

そのクラスタからしたら、毒にも薬にもならない腹も膨れない一文にもならない哲学なんかに時間割くのはアホだと思ってるんじゃ?
生物ホモサピエンスとしては遺伝子を未来へ運ぶために女の尻追っかけて生命繋いで充分理に適ってるけどねえ

せっかくメタ認知のある、自己存在について唯一思考可能な人間であるならそっちを頑張りたいけどな俺も
でも人間全員がそれやってたら社会は崩壊するからこれでいいんだよ、お互い馬鹿アホと罵り合う必要性もない

44 :考える名無しさん:2024/02/01(木) 13:13:40.98 ID:0.net
実用日本語表現辞典

トナラー
人のすぐ隣(となり)に位置取る人のこと。たとえば駐車場や、電車や映画館やサウナの座席、などで、他の場所がいくらでも空いているのに、わざわざ人のすぐ隣に来る人。「トナラー」という表現はもっぱら隣に来られる側(先客)の立場から「不快、苛立つ、迷惑だ」という意味・ニュアンスを込めて用いられる。

45 :考える名無しさん:2024/02/03(土) 13:44:08.09 ID:0.net
馬鹿にとっての学問は受験勉強止まり

46 :考える名無しさん:2024/02/03(土) 17:37:12.93 0.net
受験勉強は学問なのかな
テクニックではあると思うけど

もしくは学問するための土台かと

47 :考える名無しさん:2024/02/03(土) 20:14:25.79 ID:0.net
>>46
肝心の主語が抜けてるぞ

48 :考える名無しさん:2024/02/03(土) 21:22:54.62 ID:0.net
二項対立にする意味合いは何?
馬鹿か馬鹿じゃないかを分けるメリットは何?

49 :考える名無しさん:2024/02/03(土) 22:47:39.05 ID:0.net
俺様のプライドを保つため

50 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 05:34:19.14 ID:0.net
人間なんだからプライドは有ってナンボだろ

51 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 05:35:38.55 ID:0.net
賞味期限切れのババアみたいなレスだな

52 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 07:26:25.28 0.net
誰かを馬鹿に仕立てないと保てないプライドなんてな

53 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 08:20:10.57 ID:0.net
お、スレ伸びてるな

54 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 10:20:30.45 0.net
まず「馬鹿」が何を指す言葉なのかそこから定義しないと

55 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 10:43:05.70 0.net
「哲学」が何を意味するかも合わせて

56 :考える名無しさん:2024/02/04(日) 15:10:05.28 ID:0.net
>>54
知能が低い人間の総称

57 :考える名無しさん:2024/02/08(木) 00:40:50.60 ID:0.net
哲学とか幸福論とか心理学とかは娯楽のない昔のひとのつぶやき ぼやきだと思います 全否定はしませんが 視野のせまい人
ばかりです テレビやネットがなかったのでしかたないですね

58 :考える名無しさん:2024/02/08(木) 02:48:22.86 0.net
ヒント∶3S

59 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 06:48:39.99 0.net
知能が高いから哲学的に考えることができるからといって、それが幸せに生きることを保証する能力でもなんでもない。運動ができる絵が描けるピアノがうまく弾けるといったそれぞれが持つ能力の高低の一つに過ぎない。

60 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 07:02:11.57 0.net
まあ他人を平気でバカバカ言ってる時点で当人が不幸せですと自己紹介してるようなもんだしな
それを認めるだけの度量も精神的成熟もない

61 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 07:21:46.12 0.net
>>51

62 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 07:22:11.64 0.net
👵

63 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 08:11:29.07 0.net
「言論の自由」ということに関して言えば、言論がどのように規制されて統制されているのかを不明にするためにこそ、包括的な書込みの規制や、書込みをすべて不能にする全面的なシステム障害が実施されるのである。
したがって、書込み規制やシステムの復旧「にもかかわらず」、無意味で不快な書込みや、極めて不快で病的な押し付けがましい広告が氾濫するのではなく、規制やシステム管理の強化と軌を一にしてそれらがさらに野放しに氾濫するのである。

64 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 08:44:03.27 0.net
だから、アドブロッカー入れれば一切、広告出ないと言っているじゃん
強情だね、君は。書き込み規制はUPLIFT購入者にはないよ。
ケチくさいクレーマだね

65 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 08:50:35.63 0.net
これまで何回、繰り返し試みても、そのたびにアプリケーションがフリーズさせられるか、理由も示されずに「書き込めません」とされるか、「書込み中です」という表示でそのままフリーズさせられて、結局、書き込むことのできなかったことを、ここで再び書き込むことを試みてみよう。
ただし、内容をまとめると、何がどのように規制させられているのか不明となるので、今回は、それをステップ・バイ・ステップで試みる。
最後まで書き込めれば、これに関する限りでは、「めでたし、めでたし」である。
こう予告しただけで、予告も含めて書込み規制にならなければの話だが。

66 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:00:58.35 0.net
>書き込み規制はUPLIFT購入者にはないよ。

規制するかどうかの権限は、書き込むがわにはない。
しかも、私が受けているのは、「事実上の」書込み規制であって、書込み規制の事実そのものが明確な事実として規定されているわけではない。
〜をオンラインで購入するということは、「自身の身元証明を引き渡すことに正式に同意する」ということと同義だ。
匿名で書き込んでいるからといって、匿名性が保護されているなどという幻想を抱いてはいないが、その幻想を抱いていないことと、「自身の身元証明を引き渡すことに正式に同意する」ということとは異なる。

67 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:07:56.98 0.net
それも違うな。匿名性はないことは、誹謗中傷で開示請求受けるケースが5ちゃんでも
あるから、事実上はそれほど、匿名的ではない。

という理解はあるようだが、君の場合は単にケチ臭いだけだと思う
快適さは金で買うのが資本主義で、創意工夫出来るのが知的人間
クレーマーは、ただのクレクレ星人で下衆だよ

68 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:12:05.64 0.net
ニーチェは、「自らの血を流して書かれたもの以外には読む価値がない」といったようなことを言っていたが、自らの血を流すことと引き換えに書き込むのに、それに加えてさらに身銭を切るような愚かな者は、自滅に向かう途だけが与えられている。
私は、自分が愚か者であることを自覚してはいるが、そこまで愚かではない。

69 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:15:25.00 0.net
タレブは「身銭を切れ」という本を出しているよ

70 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:18:23.71 0.net
欧米人はサービスは金で買うものという意識があるのに対して、日本人は無料の
サービスをおもてなしとして当然と考えるので、クレーマー体質になりやすい
老害などもそうだ。甘えの精神が日本人だから、外国からは幼稚だと思われる

71 :蒟蒻:2024/02/09(金) 09:27:24.58 0.net
いつまでこんな工作を相手にしていても埒が明かないので、書こうと思っていたことを、のんびりと「一歩」ずつ、気の向いたときに書き込むことにする。
書込みをたどることができるように、名前欄には「蒟蒻」と書き込むことにする。その意味は、後で分かることになるだろう。

72 :蒟蒻:2024/02/09(金) 09:32:28.16 0.net
「にく(肉)」は、「にく」という表現に使はれるこゑ(声)そのものが「生身のやはらかさ」を想起させ、より一般的に表現するなら、「当たるように触れたときのやはらかさ」を想起させるが、「肉親(にくしん)」という表現からもすぐに分かるとおり、漢語である。

73 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:40:41.39 0.net
日々雑記スレの方で十分お腹いっぱいです
あっちでやっててくれませんかね

74 :蒟蒻:2024/02/09(金) 09:40:51.78 0.net
>幼稚だと思われる

「幼稚」の「幼」は、朝鮮語の読みでは「유/yu」であるが、「肉」の朝鮮語の読みは「육/yuk」であり、同じ「こゑ(声)」で読まれる漢字には、「六」と「陸」がある。

75 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:43:05.09 0.net
>宍
For pronunciation and definitions of 宍 – see 肉 (“meat; flesh; pork; etc.”).
(This character, 宍, is a variant form of 肉).
(出典 en.wiktionary.org/wiki/宍)

76 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:45:02.30 0.net
言語辞典になるのが、君の哲学なのか

77 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:52:21.97 0.net
誰も自分の書いたものなど読んでないとあっちでも言ってたじゃん
人が多そうだからってこっちを埋めるのやめてよ
自分用のスレ立てればいいのに

78 :蒟蒻:2024/02/09(金) 09:55:25.14 0.net
それがどのように表記されて書き留められることになるにせよ、どのようにか「『こゑ(声)』を発する」ことなしに哲学することができると思ってるの?

79 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 09:55:35.76 0.net
言語なんて所詮は意味づけラベルに過ぎない
思考にはそれを使わざるを得ないだけなのだということを忘れないようにしないと
記号に与える意味づけすら人それぞれ微妙に違うことも忘れがち

80 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 10:46:20.39 ID:0.net
>人それぞれ微妙に違う

どのようにすると、それを確かめることができるのですか?

81 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 10:48:23.99 ID:0.net
>意味づけラベルに過ぎない

「意味づけラベルがないもの」があるとして、その「意味づけラベルがないもの」にはなにかどのようにか「意味がある」のですか?

82 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 11:05:24.87 ID:0.net
哲学の問いがどこから始まっているのかが分かっていない典型的なパターン

>記号に与える意味づけすら人それぞれ微妙に違う

そのことをなぜか自分だけはどのようにか知ることができていると思い込んで、その思い込みを前提としてしまう

83 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 11:47:11.91 0.net
普通に人と会話してて使ってる意味がズレてることなんて日常的にあるんだが。お互い勉強になるね、という場面が多い

84 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 11:48:37.91 0.net
哲学的な文脈で話をする場合は事前に擦り合わせる
その時に互いにわかると言えば伝わるか?

85 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 11:51:11.83 0.net
お兄さん的にソシュールはどんな位置付けなの

86 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 11:55:55.79 0.net
「蒟蒻(こんにゃく)」の「にゃく」のこゑ(声)に蒟蒻をつかんだときの「やはらかさ」を想起することは、現代の日本語を母語とする人々にも普通の感覚だろう。

87 :蒟蒻:2024/02/09(金) 11:59:42.15 0.net
では、朝鮮語を母語とする人々は、朝鮮半島の料理として日本でも知られる「ユッケ」という名称の「肉」の朝鮮語読みに相当する「육/yuk」のこゑ(声)に、同様に「やはらかさ」を感じるのだろうか。
私には、その応へは、「是」であるように思える。

88 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 12:07:41.44 0.net
日々雑記に書き込めなくなったからこっちに流れてきたのか?
他の人も言ってるが、自分のスレ立ててやれよ
何を述べたいのかスレタイで出せば寄って読んでくれる人も居るかもしれんのに

89 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 13:14:02.39 0.net
あらかじめ何かが与へられて存在し、何事も、その存在者を明確に規定/定義することから始めるなら、正しく振る舞ふことができるという思ひ込みにより、「ひと(人/一)」が「ばか」になる。
ことばを伝へようとする「こゑ(声)」がどう伝はるかにより、「ひと(人/一)」の感知機能が「ばか」になっているかどうかを確かめることができる。
スレタイにぴったりのことを話題としていますが、何か?

90 :蒟蒻:2024/02/09(金) 13:28:17.37 0.net
>宍 異体字 : 肉(正字)
音読み 呉音 : ニク、漢音 : ジク

「六」可作為「肉」的聲符。
"Six" can be used as the sound symbol for "meat"

91 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 13:41:48.17 ID:0.net
日本語で「肉」が「にく」であるのは、中国語の中古音として想定される"nyuwk"を引き継いでいるからであるとされるが、実のところ、この中古音の想定そのものが、日本語として使はれる「にく」というこゑ(声)から逆に想定されたものだろう。
「いづ(孰若)れ」にしても、日本語としての「にく(肉)」の「に」のこゑ(声)は、「蒟蒻(こんにゃく)」の「にゃ」がそうであるように、「当たるように触れたときのやはらかさ」を想起させるが、これらのいずれのこゑ(声)も、現代の中国語では、ピンインにおいて"r"で表記されるこゑ(声)に引き継がれている。
では、中国語における「肉」や「蒻/弱」の語頭のこゑ(声)とされる、ピンインにおいて"r"で表記される発声は、日本語や朝鮮語においてそれに対応するとされるこゑ(声)と同様に、中国語においてもやはり、「当たるように触れたときのやはらかさ」を想起させるのだろうか。
私には、この問ひに対する応へも「是」だろうと思はれる。
だからこそ、この中国語の「そり舌音」と呼ばれるこゑ(声)に、ピンインにおいて"r"が当てられていることがとても奇異に感じられるのだ。

92 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 13:46:00.14 ID:0.net
哲学板にいる奴らは哲学やってるのに知的障害者レベルで馬鹿やん笑
救えねー笑

93 :蒟蒻:2024/02/09(金) 13:50:21.26 ID:0.net
ところで、「六」が朝鮮語では、「육/yuk」と読まれることは既に述べたが、このこゑ(声)もやはり「当たりのやはらかさ」を感じさせるだろう。
「六」は、日本語としては、「ろく」と音読みされ、それほどやわらかい印象はないが、想定されている中国語の中古音は、"ljuwk"であり、こちらのこゑ(声)は、ソークラテースが"l"の文字によって表記されるこゑ(声)について述べたような滑らかさが感じられる。
三角形→四角形→五角形→六角形と変化する推移において、角が鋭くなくなり、当たりがやはらかくなるために、このようなこゑ(声)によって表現されるのではないかと私には思える。
「六」が、やはらかさを想起させる「宍/肉」を表現するこゑ(声)を表すために用ゐられ得るということであれば、なおさらである。

94 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 13:57:33.09 ID:0.net
ここまで拗らせてるともう本当に救えないな確かに
シンプルに自分のしていることすら他人からみたらどうなのかすらわかろうとしないで言葉がどーのこーのってな
頭の中で勝手にやってろつーの

95 :蒟蒻:2024/02/09(金) 14:01:20.67 ID:0.net
これに関連して興味深いのが、朝鮮語においてきわめて一般的に用ゐられる語尾の「요/yo」である。

>用言のヘ体(해に代表される非格式・非丁寧体)からヘヨ体(해요に代表される非格式・丁寧体)を作る語尾。
해요. 가요. 먹어요.
창문이 열렸어요.: 窓が開きましたよ。

朝鮮語には、名詞としての「요」もあるとされ、こちらは、
>a blanket on which one sleeps, often used in Korea in lieu of beds
を意味するものとして用ゐられるとされるが、その語源は、
>First attested in the Won'gakgyeong eonhae (圓覺經諺解 / 원각경언해), 1465, as Middle Korean ᅀᅭᇂ (Yale: zywòh), from Late Middle Chinese 褥 (MC nyowk).
とされ、
>褥
1. cotton-padded mattress; mattress; cushion
2. bedding
であり、ピンインにおける表記は、「肉」と同じである。

96 :蒟蒻:2024/02/09(金) 14:07:36.60 ID:0.net
ここで、さらにネットワークとして連想されることになるのが、「褥」の声を表す「辱」は、「侮辱(ぶじょく)」の「じょく」であり、日本語としては、「はづかし(辱)め」に対応することだ。
すると、「は・ぢ(恥)」、「は・づ・かし(辱)め」、「ゆ・づ・(譲)る」、「い・づ・(出)る」などの「づ」のこゑ(声)も、中国語の「そり舌音」とされる"r"によって表記されるこゑ(声)と対応関係にあるのではないかという疑ひが生じる。

97 :蒟蒻:2024/02/09(金) 14:12:00.58 ID:0.net
互いに多くの異なる発音を私が恣意的に関連付けているように見えるかもしれないが、例えば、スペイン(/ポルトガル語)の"ll"と表記される発声について考へてみるといい。
例えば、"llu"に対応する発声には大きな地域差があり、その違ひをカタカナに移すなら、「リュ」、「ジュ」、「シュ」、「ユ」など様々なものとなるだろう。

98 :蒟蒻:2024/02/09(金) 14:13:55.30 ID:0.net
既に別のところで述べた結論を繰り返そう。

0051考える名無しさん
2024/02/07(水) 11:01:08.880
>中国語の普通話のそり舌音の"r"に対応する「こゑ(声)」は、「弁別性が『やは(柔/軟)らぐ』こと」/「弁別性を『よは(弱)める』こと」をその作用/様態として想起させるように、英語を用ゐて記述するなら、"mellowing/yielding of distinctiveness"を作用/様態としてイメージさせるように「つか(使/仕/遣)は」れるのだろうとうことだ。

99 :蒟蒻:2024/02/09(金) 14:14:55.47 ID:0.net
ほぼ言ひたかったことを言ひ終へたので、「めでたし、めでたし」。
一応、これで打ち止めとする。

100 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 14:24:38.02 ID:0.net
>>82
お兄さん的にソシュールはどんな位置づけなの?

101 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 14:36:51.93 0.net
>>100
藁人形論法の標的として便利に使はれる言語学/記号学者
「ソシュールの思想」が再考されて、それが有効に用ゐられ得る限りで、その考察をソシュールの議論に基づかせるべき理由がなく、記号論や現象学の方面から哲学的に考察を進めれば済む話

102 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 14:39:58.78 0.net
>>100
例えば、言語学においてソシュールを継承するバンヴェニストは、記号論的な考察に本来、不要である言語学的な制限枠をあらかじめ設定してしまう。

103 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 14:49:36.62 0.net
>>101
ああなるほどね、ありがとう

バンヴェニストってどっちかと言えばソシュール批判してなかったっけ、比較言語はあんま知らないので勘違いかもしれないが

104 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 15:45:07.91 0.net
どっちかと言えば、刷新しただけで、批判せずに継承している。

105 :考える名無しさん:2024/02/09(金) 21:47:21.86 ID:0.net
>>76
突き詰めると、哲学は言語学になるという説がある。

106 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 04:44:05.63 0.net
いやそれはないね。
言語に回収されないものもある。

107 :ビルヂング:2024/02/10(土) 08:45:31.60 0.net
哲学的な探求はつねに「舌足らず」なのですよ

108 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 10:09:03.36 0.net
意味のはっきりした「言葉」にならないことを、それでも伝へようとするなら、それを「ことば」にしようとするこゑ(声)を介して、それがどのようなことであるのかをし(知/領)ろうとするしかないだろう。
それがいづこからいづるこゑ(声)であるのかさだ(定)かではないとしても。

109 :Junoという若輩(ぢゃくはい):2024/02/10(土) 10:16:05.03 0.net
>June
sixth month, c. 1300, Iun, June, Juin, from Latin Iunius (mensis), probably a contraction of Iunonius, "sacred to Juno" (see Juno). Replaced Old English liðe se ærra "earlier mildness."
(出典 etymonline.com/search?q=june)

110 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 10:24:46.91 0.net
>記号論的な考察に本来、不要である言語学的な制限枠をあらかじめ設定してしまう

言語学の枠組みにおいては、「舌足らずな発声」を、規範的とされる「正しい『発音』」として認めることができないのだ。
したがって、「舌足らずな発声」として発せられるこゑ(声)が、そのこゑ(声)の「特性」として「弁別性が不十分である」ことを意識的に示す場合にすら、それを「定義」によ(依)り「正しい発音」として規定して、「充分に舌が足りている発音」、つまり、「弁別性が完全に備わってた音声」としあらかじめ存在していることにしてしまうのである。

111 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 11:37:13.86 0.net
誤:備わってた
正:備わった

112 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 19:05:43.13 ID:0.net
意味が明確なら言葉にできるだろうが、
意味が不明瞭で、なおそれに価値があるということを、
どう証明できるかという問題があるように思う。
たとえば、「存在は深淵である」とか、「生きるとは何か」
という問題に、不明瞭に認識できるというのは矛盾だ。
「昨日の歯痛は今日と同じだ」と、どのようにして証明できるかという
問題がある。しかし、これは変な文ではない。

113 :考える名無しさん:2024/02/10(土) 20:34:08.59 0.net
いくら記号やその記述の規則をいくら精緻に構築しようとも、私たちは同じデータを受け取って常に同値を返すような機械ではなく違う現象的反応、意識的活動をするということを前提としないと、精緻化を突き進めても人間のいないSFファンタジーを語ることになるんじゃない?

114 :考える名無しさん:2024/02/11(日) 20:07:22.98 0.net
「精緻化を突き進めても人間のいないSFファンタジーを語ることになる」
そうだからこそ、そのようなファンタジーには口を閉ざすべきという意見がある。

115 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 10:01:53.29 0.net
 
射程距離外からの批判とイジメが大好き
そりゃこんなゴミを助けようなんて誰も思わないw
何で自分から嫌われるようなことするんだろうね

・・・これが気持ち悪いということなのか

116 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:13:07.05 0.net
>>74のレスは、哲学と思想では、「思考のレベルが違ふ」ことを示すのにちょうど良い好例となっている。
議論において、物事を検討しているレベルが異なっていることを指摘されると、それだけで「ばかにされた」と思って激怒する人が少なくないが、「思考のレベルが違ふ」というのは、別に相手を「ばかにしよう」とする指摘ではない。
しかし、そのような指摘に対して激怒することが反論の代わりになると感じてしまうような人々は、間違いなく、思考回路が本当に「『ばか』になっている」ので、そのような人々を相手にそれ以上、哲学をするためのことばを向けることは無駄である。
そのような人々は、物事を検討する「思考のレベル」というのを、身分制における「位階」のようなものだと思っており、「思考のレベルの違ひ」に気づくように促されただけで、「身分制における自分の位階が貶められた」かのように感じてしまうのである。
しかし、そのような感じ方は、あながち完全に間違っているとも言えない。なぜなら、哲学の問ひは、身分制における「位階の違ひ」を無視してしまうからだ。
自分の方が「身分制における位階が上である」ことを暗黙の前提としている人々は、そのように位階が無視されることにより、自分が蔑まれたと感じるのである。

117 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:37:44.47 0.net
>>70の「幼稚だと思われる」という発言において、相手に(この場合、「私に」ということになるが)「幼稚」という言葉を向けることは、間違いなく相手を蔑むことを意図している。
相手を蔑む言葉を発するということは、裏を返せば、すなはち、自分の方が位階が上であることを示すことを意図して発言していることになる。
しかし、>>74のレスで示すとおり、ここで検討していることについて哲学的に考へるのに、私が実際に「幼稚である」かどうかは「どうでもいい(どちらでもよい)」のである。
そして、これは、哲学と思想における「思考のレベルの違ひ」を示す好例となっている。

118 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:41:46.28 0.net
>>-117
哲学とは何か

119 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:48:07.18 0.net
自分の方が位階が上であることを示すことを意図して発せられた言葉に対して、「そんなことは、どうでもいい/どちらでもよい」と応じることは、通常は(つまりは、「思想」の言説のレベルまでにおいては)、相手が主張する位階の違ひを「ないがし(蔑)ろ」にしようとする反応と見做されることになるだろう。
その「どうでもいい/どちらでもよい」という哲学的な思考レベルでの応へを、そしてそのように、「身分の違ひを蔑ろにしようとする反抗的な態度」としてしか解釈できないのが、「思想」までの「思考のレベル」まででしか物事を考へることができない人々なのだ。
そして、そのような人々は、「思考のレベル」を切り換へることが「できない」という意味で、確かに本当に「思考回路が『ばか』になっている」のだが、その「「ばか」になっている」という事実に気づかせようと問ひかけられる哲学のことばを、「人を『ばか』にしている」としか受けとめることができないのである。

120 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:49:01.96 0.net
誤:そしてそのように、
正:そのように、

121 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 11:54:15.05 0.net
足るを知らないのが、馬鹿の王道

122 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 12:07:17.88 0.net
この場合、哲学的に「そんなことは、どうでもいい/どちらでもよい」とうのは、
別に「幼稚と思われる」という指摘を否定することを意図しているわけではなく、さらには、私に向けられた「幼稚」という言葉が無効であると主張するものですらない。
それは、この場合、私が、「幼稚」という表現について、思想のレベルではなく、哲学のレベルで検討しているからだ。
思想レベルの議論では、「幼稚だ」という言葉が向けられれば、いや、「そちらこそ幼稚だ」とか、「いや、こちらの方が老成している」とか、あるいは、「老成しているより、幼稚である方がよい」とか、その議論の妥当性がどうであれ、やり合ふことになるのだろう。
しかし、哲学の思考のレベルでは、それ以前に、「私が『幼稚』であろうとなかろうと」、「『幼稚』であるとは、どのようなことであるのか」、その「どのようなことであるか」は、「どのように伝はり、確かめられて知ることができるのか」の方が問はれるのである。
そして、これらの問ひについて妥当な応へが得られるなら、そのことにより、「幼稚」という表現について、身分制の位階の違ひや、相手が示そうとする優位性が妥当であるか否かにかかわらず、「な(汝/己)のま(真)こと(如/事)」をし(知/領)ることができたことになる。

123 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 12:49:17.25 0.net
そして、この場合、「幼稚」の「よう」というこゑ(声)が伝へるのは、「きは(極)めて若い」/"quite young(ヤング)"ということだろう。
日本語では、「よう」と読まれるこの「幼」という漢字は、朝鮮語では、カタカナ表記すれば「ユ」に対応するこゑ(声)で読まれ、一方、日本語では、「にゃく/じゃく」と読まれる「若」という漢字は、朝鮮語では、同じくカタカナ表記すれば「ヤク」に対応するこゑ(声)で読まれる。
ところで、英語で六月を意味するように用ゐられる"june(ジュン)"もやはり、語源的には、"young(ヤング) one"(「若いもの」)に相当する意味であったのではないかと想定され、イタリアの有名なフットボール・クラブの名称として知られる「ユヴェントス」という言葉も「若さ」を意味する表現に由来する。
このように見てくると、互いに変移することが可能な偏差と見做され得るように互いによく類似したこゑ(声)が、類似した様態を想起させるようにことばの表現として用ゐられていることに気づかされる。

124 :こゑ(声)を「たより」にすることばの任(にん)(意)性:2024/02/12(月) 14:28:59.12 ID:0.net
ひと(人/一)がこゑ(声)を出すことは、特定の弁別素性を備えた音が発せられる出来事として生じて、それに後付け的に何らかの内容が結び付けられるのではない。
そうではなく、こゑ(声)を出すこと自体が、なにかをどのようにか伝へようとするひと(人/一)としての行為なのだ。

125 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 14:30:28.04 ID:0.net
誤:こゑ(声)を「たより」にすることばの任(にん)(意)性
正:こゑ(声)を「たより」にすることばの任(にん)(意)/人(為)性

126 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 15:11:11.42 ID:0.net
ところで、"take leave"は、「まか(罷)る」ことだが、"leave x to y"は、「xをyにまか(任)す」ことである。
このことを前提に、「人」という漢字を見ると、この文字は、それぞれ一方が他方に、つまり、「かた(片)み(身)に」身を「まか(任)せ」ている様態を表しているように見える。

127 :考える名無しさん:2024/02/12(月) 15:15:17.00 ID:0.net
では、"believe"とはどのようなことか?

128 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:03:53.44 ID:0.net
"belief"とは、「掛け値なしの『ま(任)け』」である。
したがって、一般に通用している、英語学における"belief"の語源についての、以下に見られるような後半部分の解釈は不要であるとともに、過剰である(語源的に関連性を示すことができるという意味で誤りではないが、「その過剰性において、後付けの民間語源説的な解釈」である)。

>belief (n.)
late 12c., bileave, "confidence reposed in a person or thing; faith in a religion," replacing Old English geleafa "belief, faith," from West Germanic *ga-laubon "to hold dear, esteem, trust" (source also of Old Saxon gilobo, Middle Dutch gelove, Old High German giloubo, German Glaube), from *galaub- "dear, esteemed," from intensive prefix *ga- + PIE root *leubh- "to care, desire, love." The prefix in English was altered on analogy of the verb believe. The distinction of the final consonant from that of believe developed 15c.

The be-, which is not a natural prefix of nouns, was prefixed on the analogy of the vb. (where it is naturally an intensive) .... [OED]
(出典 etymonline.com/word/belief#etymonline_v_8276)

129 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:09:16.03 ID:0.net
>>126-128
このそれぞれの対応関係は、実例により容易に示すことができる。
シェイクスピアの"All'S WELL THAT ENDS WELL"に見られる台詞を参照してみるといい。

130 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:14:12.36 ID:0.net
HELENA
I have, sir, as I was commanded from you,
Spoke with the king and have procured his leave
For present parting; only he desires
Some private speech with you.
(出典 litcharts.com/shakescleare/shakespeare-translations/all-s-well-that-ends-well/act-2-scene-5)

131 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:16:04.11 ID:0.net
BERTRAM
'Twill be two days ere I shall see you, so
I leave you to your wisdom.
(出典 同上)

132 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:18:16.71 ID:0.net
SECOND GENTLEMAN
Such is his noble purpose; and believe 't,
The duke will lay upon him all the honour
That good convenience claims.
(出典 litcharts.com/shakescleare/shakespeare-translations/all-s-well-that-ends-well/act-3-scene-2)

133 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:21:04.05 ID:0.net
歴史的な資料を踏まえても、英語やゲルマン語系の言語、さらには印欧諸語の範囲に限定して考へるより、日本語の古語との対応関係を参照した方が、これほどまでに基本的な英語の表現の用法も明確に意識されるようになるということも、方法論的にとても興味深いことではないだろうか。

134 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 11:52:22.63 ID:0.net
「ま(任)けのまにま(随意)に」という日本語の古語の表現について考へてみるといい。
「自発的『任性』」が「意識」させられて(つまり、メタ意識の作用として)「ことばの表現」となってあら(顕/現)はれるという「よぢ(捩)れ」に、「『みづから(身づ柄/自ら)』に課す『自発的な強制』」として認識される「力の働き」を見てとることができる。

135 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 13:20:36.47 ID:0.net
"belief"について、
>from *galaub- "dear, esteemed," from intensive prefix *ga- + PIE root *leubh- "to care, desire, love.
という語源説明を、私は、「その過剰性において、後付けの民間語源説的な解釈」であるとしたが、だからといって、それは、このような関連付けが「役に立たない」ということではない。
それどころか、この関連付けは、"belief"における"lief"が、こゑ(声)としてどのような様態の想起と結び付いているのかを知るのに多いに役立ち、この場合、こゑ(声)とそれによって想起される様態の対応関係から、例えば、英語の"love"ややドイツ語の»Liebe«という表現が、日本語としては、「恋(こひ)」や、漢語の「愛(あい)」よりも、むしろ、古語の「ゆかし」に対応していることがはっきりと意識されることにもなるのである。

136 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 13:29:45.97 ID:0.net
例えば、「六」は、中国語の中古音としては、"ljuwk"のようなこゑ(声)であったものと想定されているが、そのこゑ(声)は、朝鮮語では、"yuk"に移される。
この場合に、"lju"と"yu"を互いに同様の様態を想起させるこゑ(声)の変種と見做すことができるように、英語の"belief"の"lie"のこゑ(声)も、それが想起させる様態から、日本語にすれば、「ゆ」に対応させることができるだろうと考へることができるのである。
例えば、"leave"の"lea"の発音は、「ゆるし」の「ゆ」に対応する様態を想起させるのだろうという推測が容易に成立する。

137 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 13:44:00.18 ID:0.net
"belief"の"lief"について、そのこゑ(声)とそれによって想起される様態対応関係から、このような想定をすることが無理なこじつけでないことは、
例えば、ドイツ語の»lieben«の語源が印欧祖語として"*lewbʰ-"として再構築されて想定されているのに対して、
ルーマニア語で意味的にそれに対応する表現となる"iubi"が、教会スラブ語を介して、印欧祖語として同じ*lewbʰ-"に依り語源的に解釈されていることからも確かめることができる。

>Borrowed from Old Church Slavonic любити (ljubiti), from Proto-Slavic *ľubiti, from Proto-Indo-European *lewbʰ-.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/iubi#Romanian)

138 :考える名無しさん:2024/02/13(火) 13:54:00.18 0.net
ことばの表現をし(知/領)ろうとするとは、ことばとして用ゐられているこゑ(声)がどのようなことを伝へようとしているのかを、その可能性を探ることであり、その探求を無視して、単に「言葉」として辞書的に定義された意味でことばの表現を置き換へてみても、ちょうど、万葉集の歌を「現代語訳」で読んでいるようなもので、確かに歌に詠まれているそれぞれの言葉の意味がなんとなく分かったような気にはなるが、歌がどのようなこころの動きを伝へようとして詠まれたものであるのか、なぜそのような歌を詠んだのかは不明となってしまうのである。

139 :神に誓って:2024/02/14(水) 09:04:04.21 0.net
"I believe in/trust you"というのが「あなたにまか(任)せる」というのとほぼ同義であり、"Believe in/trust me"というのが「私にまか(任)せなさい/私が請け合ひます」というのとほぼ同義であることからも分かるとおり、"belief/truth"というのは、「掛け値なしのま(任)け/請け合ひ」なのだ。
したがって、「神は『存在者』ではない」ことを前提とする限りにおいて、残念ながら、「神の真実」、すなはち、「掛け値なしの無限のま(任)け/請け合ひ」というのも存在し得ないのである。

140 :そば(傍)か(離)り:2024/02/14(水) 09:16:55.41 ID:0.net
「人の真実」は、"belief/trust"によ(依)ってではなく、つねに、「そば(傍)か(離)り」/"be・trayal"としてあら(顕/現)はとなる。
だからこそ、そのうら(憾/恨)みとして「掛け値なしの無限のま(任)け/請け合ひ」、つまり、「神の真実」が希求されるわけだが、そのようなものは存在し得ないのである。

141 :考える名無しさん:2024/02/14(水) 09:19:54.66 ID:0.net
そして、人にとって最も痛切な「そば(傍)か(離)り」/"be・trayal"が「死別」なのだ。

142 :考える名無しさん:2024/02/15(木) 10:35:09.63 0.net
»kennen« ⇔ 「し(知)る」
»Kennzeichen« ⇔ 「しる(/ろ)・し」
»bekennen« ⇔ 「しら(白)はた(旗)を掲げる」

※書紀(720)景行一二年九月(寛文版訓)「亦素幡(シラハタ)を船の舳(へ)に樹(た)てて参向(まうき)て啓して曰さく」
※常陸風土記(717‐724頃)行方「是に、寸津毗売(きつひめ)、懼悚(おそ)り心愁(うれ)へ、白幡を表挙(かか)げて、道に迎へて拝(をうが)みまつりき」
(出典 精選版 日本国語大辞典)

143 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 08:14:46.21 ID:0.net
ところで、話が逸れるが、現代の日本語としてときどき見かけることのある「はな(鼻)じろ(白)む」という表現は、もとは、「はなやぐ」と対比される意味で用ゐられる表現、つまり、「はな(鼻)じろ(白)む」ではなく、「はな(花/華)じろ(白)む」であったのではないか。
それが、「色を失ふ」という解釈を介して「面食らって顔色を失ふ」というような理解が生じ、「はな(鼻)じろ(白)む」となったのではないか。
検証していないので、ふとそう思っただけだが。

144 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 08:36:34.32 0.net
>>142
しろ(白)≒澄明(ちょうめい)≒"clear"≒"translucent/transparent"≒「透き通ること」≒「つた(伝)はり方/伝達ににご(濁)りがないこと」≒「掛け値なしに/あ(或/在/有)りのままにつた(伝)へること」である。

※和漢朗詠(1018頃)下「草木扶疎たり、春の風山祇の髪を梳る、魚鼈遊戯す、秋の水河伯の民を字(やしな)ふ〈大江澄明〉」

145 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 08:39:55.21 0.net
>大江 清通(おおえ の きよみち)は、平安時代中期の貴族。参議・大江朝綱の孫。民部少輔・大江澄明の子。官位は従四位上・木工頭。

大江澄明⇒大江清通(おおえ の きよみち)

どちらもペンネームにしか見えないが。

146 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 08:54:28.66 0.net

† to be clean; to be pure
† to wash
† to regulate
† marking line
(出典 en.wiktionary.org/wiki/#Translingual)

147 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 08:58:33.82 0.net
깨끗하다

148 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 17:40:03.53 0.net
>> なぜ、馬鹿には哲学は無理なのか?

ここに電話すれば、教えてくれるかも
https://www.1242.com/jinseisoudan/

149 :波@SEx好き:2024/02/16(金) 18:43:14.78 ID:0.net
馬鹿は株ができます

150 :考える名無しさん:2024/02/16(金) 20:27:38.77 ID:0.net
年末にほぼ最安値で買った銘柄が2日連続でストップ高だが?

151 :l'amour-propre:2024/02/17(土) 09:20:53.88 ID:0.net
trad. (潔身自愛) 潔 身 自愛
simp. (洁身自爱) 洁 身 自爱

152 :l'amour-propre:2024/02/17(土) 09:21:56.91 ID:0.net
Synonyms
潔身自好/洁身自好

153 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 09:23:22.53 ID:0.net
As You Like It

154 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 11:20:31.01 0.net
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきが、どのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかし(知/領)れないという感覚が、「生き甲斐のなさ」であり、その「生き甲斐のなさ」が、償はれることなしに、みづから(身づ柄/自ら)のあたひ(能/価/値)が蔑まれ、損なはれ、失はれつづけているという「いた(痛/悼)み」として感じられることになる。

155 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 11:38:07.49 0.net
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきが、どのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかをし(知/領)ることができるようにすることの代わりに「ひと(他人)」からあた(与)へられる償ひは、それが称賛という名誉であれ、金銭的価値であれ、宗教における神による救済であれ、その「いた(痛/悼)み」の感覚を麻痺させるための「鎮痛剤」、つまり、「麻酔薬」に過ぎない。
したがって、ひと(人/一)は、その「鎮痛剤」/「麻酔薬」を求めることを「生き甲斐」の代わりとして、みづから(身づ柄/自ら)をつか(使/仕)ふべくはたらくようになるなら、みづから(身づ柄/自ら)のいのち(命/息の力)をつか(使/仕)ひ果たすまで終はることのない、もはや自分自身でも止めることのできない依存症に陥ることになる。

156 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 11:41:50.85 0.net
人々の階層的な組織化は、その依存症を好都合に利用する仕組み/仕掛けである。

157 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 11:55:27.32 0.net
「生きるのに『生き甲斐』などというものを求めるのは、人間だけで、他の生き物はそんなものは必要としていない。そんなものを求めるのは、まだ甘えている証拠で、恵まれすぎているからそんな贅沢を言ふのだ。」といったようなことを言ひたがる人がよくいるが、この認識は、日本古来のものではない。
そのことは、日本語の「わ(侘/詫)ぶ」という表現を考へてみればわかる。「わ(侘/詫)ぶ」のは「人(ひと)」だけではない。寒さが厳しくなり、活動をしてもその「甲斐」が感じられなくなると、虫も草も「わ(侘/詫)ぶ」のである。
みづから(身づ柄/自ら)のはたらきの「甲斐」が感じられなくなり、はたらきつづけることによってむしろ、みづから(身づ柄/自ら)のいのち(命/息の力)が浪費されるだけであると感じられるようになるなら、活動を停止して仮死状態に入り、活動することに「甲斐」があるようになるまで待つ、というのは生きることの基本であり、さもなければ生き延びることができない。
そして、そのように自らの活動を縮減する状態に入ることが、「わ(侘/詫)ぶ」ことである。

158 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 12:38:44.64 0.net
「パレートの法則」とか、そういう考え方だよ。多くの人は、本質的なものと関係ないことに
多大な労力を費やして、人生をいたずらに浪費して虚しくその一生を終える

159 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 12:44:20.62 0.net
>>155
それがドーパミン中毒で、SNSの承認欲求やマウントも依存症で、
薬物ジャンキーと同じである

160 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 12:51:24.27 0.net
コアラが一日20時間も寝るのも、この動物が極端にエコに適応しているからだと言える。
コアラは、あの大きな鼻でユーカリの葉の種類を識別できるようだが、それでも
ユーカリの葉だけを食べて生きられるというのは、途轍もなくエコに優しい生き物であろう
ユーカリの葉にある毒性をゆっくりと消化するために、20時間もコアラは寝るのである

金のために環境破壊ばかりする愚かな人類も、少しはコアラの高いエコ意識を見習うべきであろう

161 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 13:17:24.94 0.net
>>155
この「損失」として感じられる「いた(痛/悼)み」が、所謂、「疎外」だが、その「損失」を「損失分」として数量化できるという幻想に囚われ、それをイデオロギーとして普及させたのがマスクスであり、マルクス主義である。
その「損失分」が数量化可能であるならば、逆に、それは、その損失分がどのようにか埋め合わせられるなら、平等、均衡、公正さとして実現可能であることになる。
ところが、その考え方は、もともと、市場経済主義に組み込まれたものであり、市場が公平、公正な規則により運用されるなら、市場取引の結果は、市場における各自の取組みの正当な成果と見做される公平、公正なものと解釈される。
それが、所謂、「新自由主義」と一般に呼ばれることの多い成果主義のイデオロギーである。
実のところ、マルクス/マルクス主義と公正な市場を前提とした成果主義は、イデオロギーとして同じ穴の狢なのだ。

162 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 13:34:35.35 0.net
ところで、統治権力がひと(人/一)の管理を徹底強化して、自身のはたらきがどのようにどのようなことにつか(使/仕)へている(/なにがどのようにできている)ことになるのかをし(知/領)ることができない状態に置くなら、ひと(人/一)が代償として確認することができるのはみづから(身づ柄/自ら)が獲得して、つか(使/仕)ふことのできる通貨価値だけということになり、ひたすら、通貨価値を獲得するみずから(身づ柄/自ら)のはたらきの効率/効果を高めようとすることにつとめることになる。
すると、パラドックス的に思えるかもしれないが、何もしないで勝手に金が転がり込んでくるように仕組むことが、それが合法的で、罰せられる可能性がない限りにおいて、ひと(人/一)にとって最も効率的な「働き方」となるのである。

163 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 14:10:35.19 0.net
数学を操る自然科学が不得意な者が、科学者になれず哲学者になる。
文学的イマジネーションの貧しい者が、小説家になれず哲学者になる。
色彩と形を表現する才能のない者が、美術家になれず哲学者になる。
音痴で不器用な者が、音楽家になれず哲学者になる。
哲学者にすら成れない者が、評論家になる。

164 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 14:13:31.92 0.net
>>162
これは、統治権力がいくら管理を強化してもそうなる、というより、管理の強化を徹底すればするほどそうなる。
なぜなら、いくら目の前に餌をぶら下げられて、「差し出されたこの餌が目に入らないのか」と言われたところで、その餌で誘っていることが意図している目的が不明となり、鞭を振り上げられて怒鳴りつけられ、「この鞭で打ちつけてやろうか」と脅されたところで、追い立てられて向かわされる先に何が待っているのか皆目分からないからである。
すると、とりあえず、頼りになるのは、誰にでも一般に通用する通貨価値だけとなり、それを可能な限り効率的に、つまり、楽をして手に入れることが賢明であることになる。

165 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 14:17:48.31 0.net
現在の日本で評論家と呼べるような活動をしている人を見たことがない。
安倍公房が評論活動をしていたくらいまでの時代で評論家と呼べるような人々は死に絶えたんじゃないのかな。

166 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 14:18:48.19 0.net
安倍公房 ×
安部公房 ○

一発変換されないとにも反映されているのだろう。

167 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 14:27:42.29 0.net
ここからどういう展開に向かうのか、歴史的に興味深い状況だと思う。

168 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 15:42:58.22 0.net
現状は、極力何もしないようにすることが最も有利となる状況を統治管理そのものが作り出している。

169 :考える名無しさん:2024/02/17(土) 15:52:55.57 0.net
だから、一応、名目上は匿名の掲示板においてでも、私のように口を開くことは、個人的な利益を優先するなら愚行である。

170 :考える名無しさん:2024/02/18(日) 08:04:13.99 0.net
哲学とは、ものごとのありようがただ(只)しく伝はるようにメタ言語的記述をただ(正)しくなほ(直)そうとするこころみである。

171 :考える名無しさん:2024/02/18(日) 08:07:55.53 0.net
糺(ただ)す、糺(あざな)ふ

>糺
1. to collaborate
2. to band togethe

172 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 12:03:30.62 0.net
検索機能を活用した知性の使ひ方の効率化について考へてみよう。
これについて後で書き込むことにする。

173 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 13:02:11.25 ID:0.net
>>165
美術評論家はいるだろ

174 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 13:06:04.27 ID:0.net
>>172
知性は、どのように使ふことが効率的なのか。
それは、何を「効率的」と考えるのか、その「効率」をどのような比として捉へているのかに依存するだろう。

175 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 13:10:14.41 ID:0.net
例えば、正解があらかじめ決められた試験において好成績を収めるために知性を使ふということであれば、その試験において出題される問題と正解を事前に知り、試験が実施される日時まで暗記しておくことが最も効率的な知性の使ひ方であると言へるだろう。

176 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 13:38:23.91 0.net
それが不可能であるならば、事前の策は、試験において出題される問題をその集合の中に含む割合が高い問題集と正解集、または試験に出題される問題に可能な限り類似した問題とその正解を入手して、それを暗記することだろう。
多くの人々は、それが学校教育において要求される通常の知性の使ひ方であるため、知性を効率的に使ふとは、そのようなことであると思っている場合が多い。
と同時に、試験において基準を満たす成績を収めて、そのことにより何らかのリソースにアクセスする資格を認められてしまえば、極めて効率的に獲得した「知識」が一体何の役に立つのかも不明で、その後、それを役立てる機会に遭遇することもないということが珍しくない。
したがって、どのような試験においても問はれることがなく、自身の日常においてもそれを知っている必要性に遭遇しないような問題とそれに対する応へについて知ろうとすることは、無駄な雑学的な知識を得ようとすることであると感じられることになる。
その一方で、世の中で生きるうえで、知っている方が役に立つことは数限りなくあり、一体何を知ろうとしてそのために特別な労力を費やすことが望ましいのかすらはっきりしない。
例えば、細かい税法上の決まり事を知っていることは、誰にでも役立つが、何にどこまで詳しくなるように力を注ぐことが合理的なのかはよく分からない。
それと同様に、食事の栄養についてであれ、交通機関の利用法についてであれ、買い物についてであれ、知っていた方が得になることは無数にあり、その知識の対象とされる情報の内容も変化しつづける。

177 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 13:41:53.45 0.net
誤:事前の策は
正:次善の策は

178 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 14:00:23.23 0.net
私自身、暗記はとても苦手で、自分が利用するほとんどの知識をネット検索に頼っている。
今では、難しい複雑な漢字については、私と同様に多くの人が、その文字表記法を暗記してはおらず、電子機器のネット検索機能と文字変換機能に頼っているだろう。
さらに知識の「検索」について言ふなら、それをネット検索に限定して考へる必要はなく、何かを書き留める行為そのものが、一般に、後で情報を検索できるようにすることを目的としていると言えるだろう。
私が、この掲示板に書き込むのも主としてそのためだ。
ふと、自分で何かに気づいて、そのことを書き込む。
その場合、気づいたことに関連して検査した内容と情報ソースを加へることが多いが、それは自分が何をどのように考へたのかを後で辿ることができるようにするためである。
それを記録しておけば、そのとき、そのときに何をどのように、どのような根拠に基づいてそう考へたのか、事細かに記憶している必要がない。検索してみれば、すぐに分かるからである。

179 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 14:11:37.55 0.net
以上は、やや長たらしくなってしまった前置きであり、私が書きたいのは、このように誰もがネット検索を利用することが日常生活の一環となっているような現状において、どのように知性を使ふことが私にとって効率的であり、有用であると感じられるかである。
抽象的な一般論は、ここまでにして、具体的な事例によりそれを示すことにする。

>尫
(en.wiktionary.org/wiki/尫)

という漢字を知っているだろうか。「知っているだろうか」と問ひかけたところで、私自身、このような漢字の存在を今日の今日まで認識しておらず、どう音読み、訓読みされるのかも知らず、実際に文章において使はれているのを見たこともなかったので、他の人々に対してこの漢字についての私の知識を伝へようというわけではない。

180 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 14:14:30.43 0.net
この漢字は、
On (unclassified): おう (ō)
Kun: まがる (magaru); よわい (yowai)
(en.wiktionary.org/wiki/尫)

と読まれることになっているそうである。私が、今日、この漢字に遭遇した経緯と何を思ってこのような漢字を引き合ひに出したのかについて、また後でつづきを書き込む。

181 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 14:25:38.55 0.net
誤:検査した内容と
正:検索した内容と

182 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 15:03:26.86 0.net
>尫
このような事例を引き合ひに出しただけで、多くの人々は、「そんな雑学はどうでもいい」と感じるだろう。
この漢字は、私自身、実際に使はれているのを見かけたことがなく、さらに「まがる」、「よわい」と読まれるのであれば、「曲がる」、「弱い」という表記が一般に通用するものとして用ゐられているので、それらの代わりにこの漢字が用ゐられるべき理由も見当たらない。
そのため、このような漢字に注意を向けさせることそのものが、私の個人的な「雑学的な知識の収集に対する特別な関心の表れ」に見えたとしても自然なことである。
実際、私の物事への関心の持ち方は、他人から見ると、互いにどういうつながりがあるのか不明な雑学的なものに見えるようである。
しかし、その一方で、私自身は、暗記力も弱く、クイズやパズルなどには一切関心がなく、どのような対象についても網羅的に蒐集したいと感じるような趣味がない。
私自身は、むしろ、何かがどのようにか私の知性の使ひ方を効率的にするのに役立つ、言い換へるなら、それをし(知/領)ることが私自身の認識リソースの大幅な節約をもたらすと感じられるときにこそ悦楽を感じるのだ。
そして、この場合、私が、今日、この漢字について知ったのは、プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文を読んでいて出合ったフランス語の表現がきっかけである。

183 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 15:33:51.90 0.net
私は、ほとんどの場合、日本語以外で書かれた書物に目を通しているが、そのときに目が留まるのが、私にとってその意味を日本語ではうまく言い換へて記述することができない日本語の表現のメタ言語的記述としてぴたりとよく合ふ他言語における対応する表現である。
「日本語ですらうまく説明できない日本語の表現に他言語の表現がぴたりと合ふ」ことがあるという主張は、奇妙なものに感じられ、それが認められたとしても不思議なことであるように思はれるかもしれないが、それがどのような事態であるのかを原理的に考へてみれば、特に奇妙なことでも、不思議なことでもない。

例えば、今、説明しようとしている事例の場合、私の念頭に浮かんだのは、使はれているフランス語の表現が、それにうまくメタ言語的記述として対応するものとして想起されたのは、日本語の古語の「やまひ(病)が『あつ(篤)しく』なりゆきて」と表現される場合の「あつ(篤)し」である。
仮に身内に病人が出て長期に入院することになったとしよう。誰かに病人の容態を尋ねられて、「容態は『あつ(篤)しく』なるばかりで」と答へても、何を言っているのかよく通じないだろう。
「あつ(篤)しく」は、現代の日常的な表現としては、通用していないからだ。代わりに、「容態は重くなるばかりで」と言えば、伝へようとするのと似通ったことは伝はるだろうが、「あつ(篤)し」は表現として、「重い」と同じではない。
そこで代わりに「重篤」という漢語を用ゐたなら、「あつ(篤)し」に用ゐられるのと同じ漢字が参照されることになるが、「危篤」を想起させて、「今にも死に瀕している」という表現として捉へられることになるだろう。
それでも、「重篤」は、「容態が深刻に重い」と捉へられるだけで、「重篤」という漢語を使ふことにより、「あつ(篤)し」の意味が伝はることになるわけではない。

184 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 15:43:56.20 ID:0.net
そこで、岩波古語辞典で「あつし【篤し】」を引いて見ると、その意味の説明として
>病弱である。衰弱がひどい。
と記載されている。この説明は、「あつ(篤)し」のメタ言語的記述として適切だろうか。
私には、そうであるとは感じられない。

185 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 16:01:21.46 0.net
>篤
(literary) honest; sincere; earnest; whole-hearted
(literary, of illness) serious; severe; critical
(literary) solid; firm; strong; hard
(literary) deep; profound
(出典 en.wiktionary.org/wiki/篤)

日本語の「あつ(篤)し」という表現に「篤」という漢字が当てられているのは、明らかにこの漢字の用法が、「あつし」という日本語によって想起される様態とそれなりに重なるからであって、「篤」の漢字が想起させるのは、「弱まる」とか、「衰弱する」といったことではない。

186 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 16:22:01.36 0.net
つまりは、日本語の古語の「あつ(篤)し」は、現代語としては死語となってしまっていて通用せず、この表現が伝へようとする意味は、分かるようで分からないものになってしまっているのだ。
それを「極めて重い」と言い換へてしまっては、なぜ「あつし」と表現したのか、その理由が不明で、「重篤」という言葉で置き換へてみても、それはそのように置き換へても良いという習慣に依拠することになるだけで、「あつ(篤)し」という表現を説明することにはならない。

187 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 17:44:50.39 ID:0.net
いつものことながら、論点の要旨にさしかかると、アプリケーションがフリーズされてなにも書き込めなくなる。
再起動させようにも、シャットダウンすらしない。酷いものだ。

188 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 17:54:25.62 ID:0.net
順を追って論拠を書き込もうとしても、どうせまたフリーズさせられて、途中で書き込めなくなるので、結論だけ先に述べておこう。

189 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 18:01:51.07 ID:0.net
プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文において、日本語の古語の「あつ(篤)し」のメタ言語的記述に相当する表現が見られるのは、次の箇所である。

>comme si la viellesse et la maladie, de plus en plus impérieuse à l'en croire, avaient brisé en lui le désir d'innovation

この《impérieuse》が「あつ(篤)し」に対応する。

>Définition de impérieux ​​​
, impérieuse ​​​ adjectif

1. Qui commande d'une façon qui n'admet ni résistance ni réplique. ➙ autoritaire, tyrannique. Un ton impérieux.

2. (choses) Qui force à céder ; auquel on ne peut résister. ➙ irrésistible, pressant. Un besoin impérieux.

(出典 dictionnaire.lerobert.com/definition/imperieux#google_vignette)

190 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 18:37:57.10 ID:0.net
岩波古語辞典において、「あつし【篤し】」が
>病弱である。衰弱がひどい。
を意味するものと解釈されている根拠は、
「あつし」が、さらに古くは、「あづし」とされ、
その「あづし」に「尫」という文字が当てられるとともに、「あづし」の説明として「支離」という記載も見られるということのようだ。
しかし、「尫」は、広く一般的に用ゐられた漢字ではないようで、「あづし」にどのような理由で「尫」を当てたのか、自明であるわけではない。
「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。
しかし、それと同時に、フランス語の《impérieux》と「尫」を並べて見ると、いかにも互いに似て見えることも確かだろう。

その一方で、「支離」は、「あづし」のメタ言語的な解釈による説明であると見られるが、「あ・づ・し」に「支離」を対応させようとするなら、「あ」に対応するのが「離」であり、「づ」に対応するのが「支」になるはずである。
私は、以前から、「あ」は、不特定に離れた様態を表現するように使はれると説明しているので、この解釈は、その説明を裏付けるものとなるだろうが、「支離」というメタ言語的な記述が、「やまひ(病)が『あづし』く」なる」ことの説明として適合するかは、この表現に「篤」という漢字が当てられることになったことを考え合はせるなら、極めて疑はしいだろう。

191 :考える名無しさん:2024/02/20(火) 18:55:42.82 ID:0.net
尫痹
wāng bì
〈中医〉尫痺.リウマチ様関節炎
(出典 中日辞書 北辞郎:検索 - 尫痹)

192 :「ひとみ」/《prunelle》という青淵(あをふち):2024/02/21(水) 08:06:21.62 ID:0.net
ひと(人/一)とは、「比等」(万葉集の歌にもそう表記されるとおり)、つまり、《
adéquation》であるとともに、「被跡」/"contact"/»Berührung«でもある。

193 :考える名無しさん:2024/02/21(水) 08:14:41.88 ID:0.net
>「あづし」の説明として「支離」という記載も見られる

「支離」⇔céder irrésistiblement
とする解釈は成立するだろう。

194 :「ひとみ」/《prunelle》という青淵(あをふち):2024/02/21(水) 10:40:18.72 ID:0.net
「ひとみ」/《prunelle》とは、不定の「比等(ひと)しさ」を「被跡」/"contact"/»Berührung«としてもたらす開孔である。

195 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 10:25:40.43 0.net
存在するものとしての「言語」とは、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの効果を確かめようとするこころ(試)み(/心観)によ(依)り暫定的にもたらされた「を(折)り(合)ひ」である。

196 :たわ(撓)む・しな(撓)りのなまめかしさ:2024/02/23(金) 11:41:35.73 0.net
>>190
日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」に当てられた「尫」という漢字によって伝へられる「こゑ(声)」についてさらに少し検討してみると、とても興味深いより一般的な関係性が見えてくる。
それは、代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできるだろう。

これについて、後でまた書き込むことにする。

197 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 13:47:46.54 0.net
それを裏付ける検証のプロセスを無視して、私の独断による推測をまず述べるなら、日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」を表現するのに最も分かりやすく、適合する表記を考へると、「あつし」と「あづし」のいずれが先であったにせよ、「あつ/づ(壓/压/圧)し」になるのだろうと思ふ。

>壓
1. to press; to push down
2. to keep under control; to control
3. to suppress; to bring pressure on; to intimidate
4. to surpass; to prevail over
(出典 en.wiktionary.org/wiki/壓)

198 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 13:58:41.65 0.net
では、なぜ、どのような理由で「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのか。
また、この漢字により伝へられる「こゑ(声)」が、なぜ
>代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできる
ことになるのか。それについて説明しようと思ふが、しかし、それは、言葉で説明するよりも、まずは、"Ü"と"∩"が、というより、視覚的な表記だけに頼るなら、"∪"と"∩"が、重力方向において向きが違うだけで同じ記号であることに注意するように促すことの方が、説明を簡単にするだろう。

199 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 14:08:01.56 0.net
さらに、聴覚的な認識を利用するなら、
「壓」という漢字の中国語としての中古音は、"'aep"、古代の発音は、"/*ʔˁrep/"であったものと想定され、英語としては、"press down"に相当する意味で使はれたものとされるが、ここで、
"step up"という英語の表現を考えてみるなら、"up"という作用がその反作用としてそのまま、"press down"、つまり、「「壓」("'aep"または"/*ʔˁrep/")」を生じるという関係性に留意するように促すこともできる。

200 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 14:12:42.02 0.net
「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられた理由を推測することは難しくない。
なぜなら、「まがる」、「よわい」と読まれるように「尫」という漢字が使はれている事例に遭遇することはまずないものの、「まげる」という言葉のMS IMEの変換候補としては、私が普通に使う漢字ではないものの、すぐに「枉(ま)げる」が出てくるからである。

201 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 14:20:00.97 0.net
>枉
1. bent; crooked
2. depraved; indecent; perverse
3. to distort; to twist; to bend
4. unjust; wrong
5. injustice
6. (literary) to condescend; to deign

202 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 14:47:38.11 0.net
>>190
>「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。

要するに、「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのは、
>重力方向で「あつ(壓)」が生じてゐて、その「あつ(壓)」にま(負)けていること、すなはち、《pressant》/《cédant》という関係性の作用が働いている様態を、形が重力方向でたわ(撓)むように成形される(視覚的に"U"の記号によって代表させることができる)ことを具体例として示すことにより伝へようとしている
からである、と説明することができるだろう。

203 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 15:21:04.84 0.net
ところで、日本語において「たわ(撓)む」の「わ」は、そのこゑ(声)の使ひ方において「わ(輪)」と重なっているだろう。
「わ(輪)」は、それを形として記号により代表させるなら"○"であるが、この形は、漢語としては「圓/円(ゑん)」である。

>圓
Middle Chinese: zjwen, hjwen

Korean
圓 (eumhun 둥글 원 (dunggeul won))
Hanja form? of 원 (“won”).
(出典 en.wiktionary.org/wiki/圓)

日本語の「わ(輪)」は、アルファベットを用ゐるなら、"wa"である。
中国語の漢字としての「王」は、(ピンインではなく)日本語のアルファベット表記の慣用に従っても"wang"であり、古代の日本語としては、語末が開音節に移されて「わに」として取り入れられていると考へられる。
「円」の音読みは、日本語のこゑ(声)では、「ゑん」/"wen"であり、朝鮮語では、「ウォン」/"won"であり、中国語としては、「圆」/" yuán"(ピンイン表記)である。
これらの表現に使はれている「こゑ(声)」は、互いに変移させることが可能であるようによく似ていると言へるのではないか(「こゑ(声)」を写そうとしたのだから当然であると言へるかもしれないが)。

204 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 15:31:31.77 0.net
ここで唐突に、まったく無関係に思える英語の"you"について考へてみよう。

>you
(pron.)

古英語の eowは、þu(thouを参照)の与格・対格複数形で、「あなたたち」を意味する ge の目的格である。「あなたたち」を意味する ye (yeを参照)も同じです。これらはプロトゲルマン語の *juz-、*iwwiz(古ノルド語の yor、古サクソン語の iu、古フリジア語の iuwe、中オランダ語やオランダ語の u、古高ドイツ語の iu、iuwih、ドイツ語の euchにも通じる)に由来し、これ自体はインド・ヨーロッパ祖語の二人称複数代名詞 *yuに起源を持ちます。
(出典 etymonline.com/jp/word/you#etymonline_v_4985)

205 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 15:32:26.44 0.net
>14世紀から「あなた」を意味する youと主格形の yeの発音が徐々に統合され始め、1600年頃には、使い分けが一般的でなくなりました。12世紀以降のイングランドでフランス語が広く使われるようになったことで、英語の youはフランス語の vousと同様の関連性を持ち始め、当初は上位の人に対する敬意の表現(「王様の一人称」のように)として、次に同等の者や見知らぬ人に対して、そして最終的には(おおよそ1575年頃に)一般的な呼びかけの形式となり、単数主格の thouを徐々に置き換えました。13世紀を通じて、英語には「あなたたち二人」を意味する双数代名詞 ink「ふたりのあなた;お互い」も存在しました。

206 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 15:54:48.02 0.net
語源学的に互いに関連付けられてはいないが、英語の"you"とドイツ語の»über«の»ü«も互いにこゑ(声)としてよく似ているだろう。
»über«は、»Übermensch«が「超人」と訳されることが多いことからも分かるとおり、一般に「超える様態」を表現するものとされるが、英語の"yonder"という表現における"yon"に似ていると言ふことができるだろう。

>yon
(adj., pron.)
古英語のgeon「あちら(あの)」は、プロトゲルマン語の*jaino-(古フリジア語のjen、古ノルド語のenn、古高ドイツ語のener、中期オランダ語のghens、ドイツ語のjener、ゴート語のjains「あの、あなた」が源です)から来ています。
(出典 etymonline.com/jp/word/yonder#etymonline_v_4981)

207 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 16:00:43.04 0.net
ところが、興味深いことに、»über«の語源をWiktionaryで辿っていくと、
その語源として想定されて、印欧祖語として再構築された"*upó"は、
>under, below
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/upó)
を表現したものとされている。

別に私は、このような言語系統論が方法論的に正しいと主張したいわけではない。
それでも、互いに関連しているとされるこゑ(声)の関連性とたどりながら、意味解釈上、認めざるを得なくなるこのような関係性が、興味深いと指摘しているのである。

208 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 16:13:22.77 0.net
しかし、このようなこゑ(声)の使はれ方について表現の論理から考へるなら、解き難い矛盾などないことにすぐに気づくはずである。

英語の"you"にせよ、"yon"にせよ、ドイツ語の»über«の»ü«にせよ、それが上側を表現するか、下側を表現するか決めなければならないなどと悩む必要はないのだ。
相手側を"you"もしくは"yon"としてうやうや(敬々)しく指し示すように示すなら、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∩"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∪"として暗示していることになる。
逆に相手の呼びつけるような態度で、相手側を"you"もしくは"yon"として指し示すなら、相手が不相応に偉そうにしていることを指摘して、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∪"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∩"として示していることになる。

209 :考える名無しさん:2024/02/23(金) 16:17:31.73 0.net
日本語でも、自称として「『よ(余)』は〜である」と発言したら、それだけでいかにも相手を見下していて偉そうにしていると理解されるだろう。

このような事例から見ても、表面上、考へられているより、異なる言語間でも、こゑ(声)の使ひ方にはかなりの共通性もしくは類似性があると言ふことができる。

210 :考える名無しさん:2024/03/08(金) 14:13:56.75 0.net
カントとか投げ出したくなるんだよな
ニーチェは系譜があるからマシ
文系哲学よりやはり数学者や物理学者の哲学の方が分かりやすい

211 :考える名無しさん:2024/03/08(金) 14:58:14.96 0.net
カッシーラーとかですかね。
ドイツ語の流麗さは一級品だとか社会思想の先生が言っていました。

212 :考える名無しさん:2024/03/08(金) 21:52:15.79 ID:0.net
ソクラテスと仏陀は量子力学や物理的な相対性の性質を見破ってたと思う
今で言うとIQ300とかサヴァン症候群のようなラマヌジャンのような観ただけで理解する感覚を持った人

213 :考える名無しさん:2024/03/08(金) 23:48:28.45 0.net
両手で手を叩いて音が鳴ったのはどっちの手ですかー?
停止させてた手の方が鳴った?動かした方が鳴った?の話は物理が相対性なの分かってるよね
時代的に計算式で理論を表現できなかっただけで

214 :考える名無しさん:2024/03/09(土) 18:47:02.41 ID:0.net
>>1 このスレで一番馬鹿な人

215 :考える名無しさん:2024/03/12(火) 21:59:54.39 0.net
偏差値教育が染み付いてしまったからな
自分で考えることより平均点の競い合いに時間を割く

216 :考える名無しさん:2024/03/14(木) 11:09:30.21 0.net
人は誰でも、というより、いづれの生き物も自ずと追求しているのは「価(あたひ)」、つまり、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"であって、「損得」ではない。
ところが、人の「メリトクラシー/能力主義」は、他人から成果が高く評価されなければ、どのような行ひもまったく何にも「あたひ(価)しない」と徹底的に思ひ知らせることにより、他人の評価に基づく「損得勘定」ばかりを追求するように訓練する。
つまり、人の「メリトクラシー/能力主義」は最初から、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"の追求として倒錯しているのだ。
しかも、人は、そのような倒錯した訓練により、他人の評価に依拠する「損得勘定」ばかりを気にかけるようにつねに強制/矯正されながら、その振舞ひが、自分の「損得勘定」しか気にかけていないと絶えず批判され、どのようにか高い「価値」を追求しているのだという見せかけを繕ふ偽善的な姿勢を保つことまで要求されるのである。

217 :考える名無しさん:2024/03/14(木) 11:39:25.85 0.net
>いつはりの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまし

218 :考える名無しさん:2024/03/22(金) 07:17:12.49 ID:0.net
                      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \     ナハハッハ〜イ♪
   /   /・\  /・\\     \_________
   |      ̄ ̄   ̄ ̄  |      ___________
   |      (_人_)   |     | |             |
   |      \   |    |   _ | |             |
   \       \_|   / j゙~~| | |             |
__/          \   |__| | |             |
| | /   ,              \ n||  | |             |
| | /   /         r.   ( こ) | |             |
| | | ⌒ ーnnn         |\ (⊆ソ .|_|___________|
 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄  ̄l二二l二二  _|_|__|_

答えはここを見よ
https://imgur.com/a/K2hZe5U

219 :考える名無しさん:2024/04/23(火) 07:50:47.52 0.net
日本語訳がクソ

220 :考える名無しさん:2024/05/08(水) 05:55:19.12 ID:0.net
いかにして哲学は100年前に滅亡したか

1.ラッセルのパラドックスの発見(1902年)
1902年、哲学者のバートランド・ラッセルが論理学における矛盾を発見しました。
このパラドックスは、通常の論理学では回避できないことが判明し、哲学に大きな衝撃を与えました。

2.ラッセルによる新しい論理学の構築(1903年~)
1903年以降、ラッセルはパラドックスの原因が論理学の仕組みにあると見抜きました。
自己と自己言及を明確に区別して混同しないルールを導入し、パラドックスが起こらない新しい論理学の仕組みを構築しました。

3.ウィトゲンシュタインによる論理学の研究(1911年~)
1911年頃から、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはラッセルの弟子となり、新しい矛盾のない論理学で何が言えるのかを研究しました。
その結果、形而上学や哲学を論理的に扱うことは不可能であることが判明しました。
1921年に出版された「論理哲学論考」で、ウィトゲンシュタインは形而上学や哲学は論理学の誤用から生まれる全く意味のない妄想であると論理学を用いて証明しました。
現在までにこの証明に反証できた人間は歴史上1人もいません。

4.ゲーデルの不完全性定理(1931年)
1931年、クルト・ゲーデルもラッセルの論理学に影響を受け、「論理学によって仮定そのものの正しさをその仮定から証明できるか?」を考察しました。
ゲーデルは、それが不可能であることを証明しました(ゲーデルの第一不完全性定理)。
この定理は、当初ペアノ算術におけるω無矛盾性が証明不可能として確立されましたが、後にロッサーの証明ではペアノ算術における単純無矛盾性、シェファードソンの表現定理により任意のΣ1集合で構成される任意の論理式に対して無矛盾性の証明が不可能であることまで拡張されました。

5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~)
1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。
アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。
つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。

221 :考える名無しさん:2024/05/08(水) 05:55:26.57 ID:0.net
これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。
ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。
また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。
1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。
一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。

222 :考える名無しさん:2024/05/09(木) 07:45:38.83 ID:0.net
6.哲学の滅亡(1930年代~現在)
1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。
20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。
また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。
利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。
さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。
哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。

223 :考える名無しさん:2024/05/09(木) 07:45:46.03 ID:0.net
7.結論
以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。
現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。
ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。

哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。

224 :考える名無しさん:2024/05/09(木) 07:45:53.09 ID:0.net
フッサール 現象学の理念
On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism.
日本語訳:
「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」

225 :考える名無しさん:2024/05/09(木) 07:45:59.96 ID:0.net
フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。

ラッセルのパラドックスとは、集合論において、「自分自身を要素として含まない集合全体の集合」を考えたときに生じる矛盾のことです。この集合は、自分自身を要素として含むか含まないかで矛盾が生じてしまいます。
フッサールは、「自明性一般を否定すること」を考察しています。これは、「自明ではないものの集合」とも言い換えられます。ここで、この集合自身が自明かどうかを考えてみましょう。
もしこの集合が自明だとすると、自明ではないものの集合に含まれることになり矛盾します。一方、もしこの集合が自明でないとすると、自明ではないものの集合に含まれないことになり、やはり矛盾します。
つまり、「自明性一般を否定すること」は、ラッセルのパラドックスと同様の構造を持っていると言えます。
ただし、現代の論理学では、ラッセルのパラドックスを回避するための様々な工夫がなされています。例えば、集合の定義に制限を加えたり、型理論を導入したりすることで、矛盾を生じさせない形で集合を扱うことができます。
しかし、フッサールの議論では、あえてラッセルのパラドックスを矛盾として仮定することで、「矛盾する=矛盾しない」という爆発律を導いています。爆発律とは、矛盾から任意の命題を導けるというものです。
爆発律が成り立つと、全ての真偽は自由に決めることができてしまいます。つまり、フッサールの議論は、ラッセルのパラドックスを出発点として、爆発律を経由し、最終的に詭弁を正当化するという典型的なパターンに当てはまると言えます。
このように、フッサールの議論は、論理学的に見ると問題があります。ラッセルのパラドックスを安易に矛盾として受け入れ、爆発律を用いて詭弁を正当化するのは適切ではありません。むしろ、現代の論理学の知見を踏まえ、矛盾を回避する形で議論を進めることが求められます。

以上が、フッサールの議論に潜むラッセルのパラドックスと、それを矛盾と仮定することによる爆発律の問題点についての説明です。論理学の基礎知識がない人にも理解しやすいよう、できるだけ平易な言葉で解説しました。

87 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :

read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★