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宝塚エリザベート総合スレ 15
- 1 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/14(月) 19:07:52.64 ID:x/g30lK9.net
- 96年の初演雪組エリザから09年の月組エリザまでの本公演に
今年秋開催されるスペシャルガラコンサートまで、
宝塚の超ヒット作エリザベートについて色々語りませう。
前スレ
宝塚エリザベート総合スレ 12
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/siki/1413775147/
宝塚エリザベート総合スレ 13
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/siki/1472609373/
宝塚エリザベート総合スレ 14
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/siki/1476361571/l50
- 2 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/16(水) 08:51:14.95 ID:z+P8rCUq.net
- >>1乙です
ガラコン楽しみ!
- 3 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/16(水) 21:19:12.71 ID:OrJrtzPc.net
- ガラコン八回みますだ
- 4 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/16(水) 23:57:17.62 ID:p8SQzKyW.net
- いいなあ
アニバーサリーバージョン見てみたかった
DVDで出るかな?
- 5 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/17(木) 14:20:23.44 ID:yn5TFs0Q.net
- アニバーサリーってごちゃごちゃしそうであまり興味が湧かない
前回のドリームも出演者がころころ変わって落ち着かなかった
今回は衣装を着けないから普通のコンサートと思えば楽しいのかな
- 6 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/17(木) 18:56:17.66 ID:2imZ5ZUs.net
- DVDは出るだろうけどどれを出すかだよね
いつも梅芸だけど今回は理事が出ないから東京なのかな?とか
- 7 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/17(木) 19:45:31.85 ID:AYy07TlJ.net
- また初演とアニバーサリーだけだったらキレる
東京星はほぼフルメンバーだから残して欲しい
ずんこも通しで観たいしあさみども観たい
DVDで残せないバージョンはスカステで放送して
- 8 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/17(木) 20:37:20.04 ID:Aq8hwUXx.net
- 前回が初演DVDだったから、今度は違うのにして欲しい
順番だとすると、マリコあやかかなー
オサみどりのコスチューム無しが、どんな感じになるのか気になる
ずん花の回が無いのが残念だよね
>>7
あさみど?
オサみどでは無く
- 9 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/17(木) 23:15:54.97 ID:EsiwN2tm.net
- >>8
東京はあさみどあるよ
- 10 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 01:28:15.15 ID:5LB4bhM3.net
- 梅芸公式に梅田水トートフルコスチューム
一公演のみだけど戻ってるよ!
全席種あるから今のうちにー!
- 11 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 07:35:27.44 ID:8iHmGb25.net
- その公演定価以下で出回ってるからなぁ…w
- 12 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 07:37:14.56 ID:uZZHXPGY.net
- 昨日見た時はぴあにも11日と13日は戻ってたよ
- 13 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 08:04:31.51 ID:kLpFvt5c.net
- 前回も色々希望は出てたけど結局、梅芸主催なんだから当然梅芸収録だわなでFA
マリコあやかは前々回が星メインだったよね
そもそも、コスチューム着けて当時の本役がほぼ揃ってっていうのが初めて実現したのが前々回で、星版ガラコンって評判だったから、そこから前回は雪版も企画したんだろうなって思ってた
今回は出演者多数だから、特典ディスク付きで3〜5枚組とかになる可能性はあるかもね
- 14 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 11:53:44.27 ID:Ev0TyOwR.net
- >>13
梅芸収録なら、まさおシシィはDVD来るかな
在団中接点あった、さえトートとの映像希望
- 15 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:12:14.09 ID:MKIjBHJr.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 16 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:12:47.25 ID:MKIjBHJr.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 17 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:13:16.64 ID:MKIjBHJr.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 18 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:13:22.29 ID:zv/DkOWp.net
- ゲッまたかよ
- 19 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:13:42.28 ID:MKIjBHJr.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 20 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:14:05.53 ID:MKIjBHJr.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 21 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:14:31.46 ID:MKIjBHJr.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 22 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:16:12.04 ID:MKIjBHJr.net
- 1853年、南ドイツの緑に囲まれた湖畔のポッセンホーフェン城では、エリザベートの父マックス公爵が旅に出ようとしていた。自由奔放に生きる父親の影響で、宮廷生活とは無縁の片田舎で詩や乗馬を好む少女として育ったシシィは、
予定されている親戚同士の集まりから逃げだすため、父と一緒に行きたいと願い出る。("パパみたいに") 親戚の集いでは、母ルドヴィカから長女ヘレネがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とお見合いをするとの発表がある。縁談はルドヴィカの姉でオーストリア皇太后のゾフィーが取り持った。
("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
- 23 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:16:40.61 ID:MKIjBHJr.net
- 彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
- 24 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:17:55.56 ID:MKIjBHJr.net
- 革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 25 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:19:38.03 ID:MKIjBHJr.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
- 26 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:21:19.76 ID:MKIjBHJr.net
- しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 27 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:22:12.69 ID:MKIjBHJr.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
(結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
- 28 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:22:43.82 ID:MKIjBHJr.net
- 1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 29 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:25:15.47 ID:MKIjBHJr.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 30 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:25:47.41 ID:MKIjBHJr.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 31 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:29:15.11 ID:MKIjBHJr.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 32 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:31:13.43 ID:MKIjBHJr.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 33 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:32:43.78 ID:MKIjBHJr.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 34 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:35:27.19 ID:MKIjBHJr.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 35 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:38:06.52 ID:MKIjBHJr.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 36 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:40:06.42 ID:MKIjBHJr.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 37 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:45:30.39 ID:sBPiyl2a.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 38 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:47:00.79 ID:sBPiyl2a.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 39 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:47:22.43 ID:sBPiyl2a.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 40 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:48:50.32 ID:sBPiyl2a.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 41 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 13:49:26.85 ID:sBPiyl2a.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 42 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:11:09.35 ID:jCTkiUwU.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 43 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:11:30.24 ID:jCTkiUwU.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 44 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:13:06.75 ID:jCTkiUwU.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 45 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:13:43.17 ID:jCTkiUwU.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
- 46 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:15:05.84 ID:jCTkiUwU.net
- 特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 47 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:18:25.13 ID:jCTkiUwU.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 48 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:19:33.38 ID:jCTkiUwU.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 49 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:20:00.11 ID:jCTkiUwU.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 50 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:21:08.29 ID:jCTkiUwU.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 51 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 18:22:19.60 ID:jCTkiUwU.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 52 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 21:15:57.45 ID:cDLPpUWA.net
- 通報して書き込み禁止にできないのこの人?
- 53 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:10:49.57 ID:3wbWCR1a.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 54 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:10:51.94 ID:LXf9DMq0.net
- NGに登録したのにコピペ消えないと思えば3回もID変わってた
おかげでスレ真っ黒状態
- 55 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:12:02.61 ID:3wbWCR1a.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 56 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:12:34.53 ID:3wbWCR1a.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 57 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:13:53.41 ID:3wbWCR1a.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 58 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:15:51.25 ID:3wbWCR1a.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 59 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:17:41.75 ID:3wbWCR1a.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 60 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:19:59.19 ID:3wbWCR1a.net
- 捨て子として孤児院に入れられ、孤児院から孤児院、里親から里親へとたらいまわしにされた。定職に就けず、国から国へと渡り歩いた先のスイスで無政府主義に出会い、傾倒した。
生まれながらに特権を享受する王族や貴族階級は、彼にとって誰よりも憎むべき存在でなければならなかった。("キッチュ〈リプライズ〉")
- 61 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:21:12.63 ID:3wbWCR1a.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 62 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:23:38.63 ID:3wbWCR1a.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 63 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:25:14.11 ID:3wbWCR1a.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 64 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 22:26:16.14 ID:3wbWCR1a.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 65 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:47:18.74 ID:yXrhd25R.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 66 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:47:52.21 ID:yXrhd25R.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 67 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:48:59.14 ID:yXrhd25R.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 68 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:51:11.53 ID:yXrhd25R.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 69 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:53:07.77 ID:yXrhd25R.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 70 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:53:41.96 ID:yXrhd25R.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
- 71 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:54:28.50 ID:yXrhd25R.net
- 宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 72 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:56:21.67 ID:yXrhd25R.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 73 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:58:44.95 ID:yXrhd25R.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 74 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/18(金) 23:59:39.24 ID:yXrhd25R.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 75 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 00:00:00.95 ID:O1+If8qu.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 76 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:01:22.00 ID:Nc7USivW.net
- Vの追加
どの日が残っていました?
はねられ続けてやっと入れた時には完売だった
- 77 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:02:42.65 ID:ymsiI24j.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 78 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:03:17.43 ID:ymsiI24j.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 79 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:04:07.07 ID:ymsiI24j.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 80 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:05:53.24 ID:ymsiI24j.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 81 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:06:36.36 ID:ymsiI24j.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 82 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:07:48.26 ID:ymsiI24j.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 83 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:08:35.70 ID:ymsiI24j.net
- 1853年、南ドイツの緑に囲まれた湖畔のポッセンホーフェン城では、エリザベートの父マックス公爵が旅に出ようとしていた。自由奔放に生きる父親の影響で、宮廷生活とは無縁の片田舎で詩や乗馬を好む少女として育ったシシィは、
予定されている親戚同士の集まりから逃げだすため、父と一緒に行きたいと願い出る。("パパみたいに") 親戚の集いでは、母ルドヴィカから長女ヘレネがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とお見合いをするとの発表がある。縁談はルドヴィカの姉でオーストリア皇太后のゾフィーが取り持った。
- 84 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:10:08.69 ID:ymsiI24j.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 85 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:11:52.79 ID:ymsiI24j.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 86 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:13:23.22 ID:ymsiI24j.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 87 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:14:30.98 ID:ymsiI24j.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 88 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 11:16:06.67 ID:ymsiI24j.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 89 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 15:27:15.44 ID:t4Ft/UzQ.net
- 暇だよね
年中スレ見てるのかしらん
- 90 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:15:35.10 ID:6oceDgXf.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 91 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:16:50.66 ID:6oceDgXf.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 92 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:17:33.58 ID:6oceDgXf.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 93 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:18:25.00 ID:6oceDgXf.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 94 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:19:27.55 ID:6oceDgXf.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 95 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:19:54.82 ID:6oceDgXf.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 96 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:21:25.89 ID:giKdQE1y.net
- お花さまは宝塚歌唱で歌うのかしら?現行歌唱で歌うのかしら?
- 97 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:27:12.30 ID:6oceDgXf.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 98 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:28:28.87 ID:6oceDgXf.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 99 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:28:57.28 ID:6oceDgXf.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 100 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 21:30:37.85 ID:6oceDgXf.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 101 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 22:41:27.74 ID:qRrsfS2h.net
- >>96
現行歌唱とは?
無理な地声に拘った末のはずれまくりの半音下がったさぐり歌唱のこと?
宝塚娘役歌唱ならさぐりでもまだ少しはましだけどね
- 102 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:03:34.60 ID:kCeDADRj.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 103 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:04:32.75 ID:kCeDADRj.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 104 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:06:00.40 ID:kCeDADRj.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
- 105 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:07:22.17 ID:kCeDADRj.net
- ("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 106 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:09:09.44 ID:kCeDADRj.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 107 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:10:49.03 ID:kCeDADRj.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
- 108 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:11:59.03 ID:kCeDADRj.net
- 国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 109 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:13:26.44 ID:kCeDADRj.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 110 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:15:02.03 ID:kCeDADRj.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 111 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:16:14.28 ID:kCeDADRj.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 112 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:19:19.09 ID:kCeDADRj.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
- 113 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:21:11.65 ID:kCeDADRj.net
- 特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
- 114 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/19(土) 23:23:48.42 ID:kCeDADRj.net
- 敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 115 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:13:03.19 ID:4liH3kZR.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 116 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:13:38.67 ID:4liH3kZR.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 117 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:14:14.10 ID:4liH3kZR.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 118 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:16:25.44 ID:4liH3kZR.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 119 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:16:58.27 ID:4liH3kZR.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 120 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:18:17.76 ID:4liH3kZR.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 121 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:19:42.82 ID:4liH3kZR.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
- 122 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:21:13.74 ID:4liH3kZR.net
- 常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
捨て子として孤児院に入れられ、孤児院から孤児院、里親から里親へとたらいまわしにされた。定職に就けず、国から国へと渡り歩いた先のスイスで無政府主義に出会い、傾倒した。
生まれながらに特権を享受する王族や貴族階級は、彼にとって誰よりも憎むべき存在でなければならなかった。("キッチュ〈リプライズ〉")
- 123 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:22:56.42 ID:4liH3kZR.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 124 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/20(日) 22:23:54.82 ID:4liH3kZR.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 125 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 17:19:33.44 ID:hzV2aVpd.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 126 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 17:20:04.06 ID:hzV2aVpd.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 127 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 17:22:53.83 ID:hzV2aVpd.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
- 128 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 17:25:12.69 ID:hzV2aVpd.net
- 皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 129 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 17:27:06.94 ID:hzV2aVpd.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 130 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:46:09.80 ID:OCpCs0DJ.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 131 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:47:43.15 ID:OCpCs0DJ.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 132 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:50:14.20 ID:OCpCs0DJ.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 133 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:51:24.14 ID:OCpCs0DJ.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 134 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:54:03.71 ID:OCpCs0DJ.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 135 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:57:00.27 ID:OCpCs0DJ.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 136 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 22:59:11.92 ID:OCpCs0DJ.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 137 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/21(月) 23:00:48.74 ID:OCpCs0DJ.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 138 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 12:26:18.09 ID:TKfw5nS8.net
- イープラス
注釈チケットまだありますよ!
- 139 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:15:33.32 ID:OafkPeXy.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 140 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:21:46.64 ID:OafkPeXy.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 141 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:22:45.63 ID:OafkPeXy.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 142 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:23:28.13 ID:OafkPeXy.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 143 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:25:13.51 ID:OafkPeXy.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 144 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:33:13.04 ID:Sq2p+Lgn.net
- イープラでアニバーサリー取れた
見れたらどこでもいい!と思って取ったけど
取れたら取れたでどこらへんの席なのかが気になるw
- 145 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:43:44.69 ID:OafkPeXy.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 146 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:44:24.30 ID:OafkPeXy.net
- 1853年、南ドイツの緑に囲まれた湖畔のポッセンホーフェン城では、エリザベートの父マックス公爵が旅に出ようとしていた。自由奔放に生きる父親の影響で、宮廷生活とは無縁の片田舎で詩や乗馬を好む少女として育ったシシィは、
予定されている親戚同士の集まりから逃げだすため、父と一緒に行きたいと願い出る。("パパみたいに") 親戚の集いでは、母ルドヴィカから長女ヘレネがオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とお見合いをするとの発表がある。縁談はルドヴィカの姉でオーストリア皇太后のゾフィーが取り持った。
("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 147 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:45:27.98 ID:OafkPeXy.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 148 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:48:54.35 ID:OafkPeXy.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 149 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 13:54:52.84 ID:OafkPeXy.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 150 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:36:55.99 ID:GbcvqszI.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
- 151 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:44:27.10 ID:GbcvqszI.net
- 彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
(結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
- 152 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:49:28.68 ID:GbcvqszI.net
- 1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 153 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:50:42.59 ID:GbcvqszI.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
- 154 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:51:12.82 ID:GbcvqszI.net
- しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 155 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:57:20.23 ID:GbcvqszI.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 156 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:58:35.42 ID:GbcvqszI.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
- 157 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 16:59:41.38 ID:GbcvqszI.net
- 結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 158 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 17:01:01.44 ID:GbcvqszI.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 159 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:19:13.29 ID:vgZi6HTr.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 160 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:20:25.68 ID:vgZi6HTr.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
- 161 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:21:58.40 ID:vgZi6HTr.net
- 帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
- 162 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:22:48.64 ID:vgZi6HTr.net
- しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 163 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:24:15.50 ID:vgZi6HTr.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 164 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:25:31.64 ID:vgZi6HTr.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 165 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:27:23.51 ID:vgZi6HTr.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
- 166 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/22(火) 22:27:54.92 ID:vgZi6HTr.net
- 夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 167 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 10:14:11.48 ID:vaBOOmm/.net
- いーぷら見るとやっぱり水は人気ないのがわかるw
- 168 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 10:59:17.06 ID:bCIxAhEF.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 169 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:02:28.76 ID:bCIxAhEF.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 170 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:03:39.55 ID:bCIxAhEF.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 171 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:04:49.61 ID:bCIxAhEF.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
- 172 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:05:38.17 ID:bCIxAhEF.net
- 特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
- 173 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:07:17.02 ID:bCIxAhEF.net
- 敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 174 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:07:44.84 ID:bCIxAhEF.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 175 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:13:18.03 ID:bCIxAhEF.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 176 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:13:57.08 ID:qM1SB+v4.net
- 花組のが残ある
- 177 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:14:29.00 ID:bCIxAhEF.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 178 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:17:05.14 ID:bCIxAhEF.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 179 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:17:39.05 ID:bCIxAhEF.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 180 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:19:05.06 ID:bCIxAhEF.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 181 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:20:43.79 ID:bCIxAhEF.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 182 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:21:36.28 ID:bCIxAhEF.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 183 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:22:13.00 ID:bCIxAhEF.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 184 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:22:47.38 ID:bCIxAhEF.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 185 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:25:18.36 ID:bCIxAhEF.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 186 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:25:45.39 ID:bCIxAhEF.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 187 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:26:22.81 ID:bCIxAhEF.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 188 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:29:51.91 ID:y1QB4gaD.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 189 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:30:21.51 ID:y1QB4gaD.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 190 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:31:56.48 ID:y1QB4gaD.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 191 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:34:13.17 ID:y1QB4gaD.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
- 192 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:34:41.82 ID:y1QB4gaD.net
- 彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 193 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:35:16.53 ID:y1QB4gaD.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 194 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:38:04.83 ID:y1QB4gaD.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 195 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:39:06.78 ID:y1QB4gaD.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 196 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:40:05.49 ID:y1QB4gaD.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 197 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:42:38.20 ID:y1QB4gaD.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 198 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:43:55.42 ID:y1QB4gaD.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 199 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:46:27.54 ID:y1QB4gaD.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
- 200 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:46:59.73 ID:y1QB4gaD.net
- 成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
- 201 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 11:47:51.55 ID:y1QB4gaD.net
- 最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 202 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:01:15.20 ID:fU8sYhCa.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 203 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:02:29.78 ID:fU8sYhCa.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 204 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:03:28.56 ID:fU8sYhCa.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 205 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:06:17.21 ID:fU8sYhCa.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 206 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:07:02.24 ID:fU8sYhCa.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 207 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:08:07.77 ID:fU8sYhCa.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 208 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:08:54.18 ID:fU8sYhCa.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 209 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:09:45.91 ID:fU8sYhCa.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 210 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:10:22.00 ID:fU8sYhCa.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
- 211 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:11:02.00 ID:fU8sYhCa.net
- 革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 212 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:12:00.03 ID:fU8sYhCa.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
- 213 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:12:27.22 ID:fU8sYhCa.net
- しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 214 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:19:50.38 ID:2pEMis9L.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
(結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
- 215 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:20:26.09 ID:2pEMis9L.net
- 1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 216 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:20:53.33 ID:2pEMis9L.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 217 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:22:04.66 ID:2pEMis9L.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 218 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:22:31.63 ID:2pEMis9L.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 219 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:23:04.53 ID:2pEMis9L.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 220 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:23:48.28 ID:2pEMis9L.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 221 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:25:30.30 ID:2pEMis9L.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 222 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:25:54.09 ID:2pEMis9L.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 223 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:26:23.94 ID:2pEMis9L.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 224 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 12:54:45.38 ID:P7dSS27a.net
- また個人情報流出
きっかけ
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/operate/1479465626/35
35 名前:動け動けウゴウゴ2ちゃんねる[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 01:05:54.65 ID:JzexZqxX0 [1/2]
https://www.sendspace.com
****
穴実のクローラー漁ってたらなんかやばそうなのが出てきた
↓
45 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ db4d-dXbs)[age] 投稿日:2016/11/22(火) 02:08:53.39 ID:34kmBDen0 [3/11]
パッと見でまとめ
漏れたもの
・名前
・住所(○県○市 郵便番号)
・メロン使った時のIP
↓
269 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 6613-2XGH)[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 04:20:20.86 ID:a4fq5b7x0 [6/6]
ファイルが2つあって
BEID, Email
│
名前, Email, 住所…
って構造だからbeと決済で共通のメールアドレス使ってたり
そのアドレスでググるだけで出てくるようなSNSとかリアル活動公開してる人は特定される恐れがある
おもむろにMysqlにぶち込んでEmailを結合キーにして出力したら酷いことになる気がする
とりあえず2つのファイルを自分のメールアドレスで検索して、両方とも該当する糞コテの人はアウトやね(合掌)
- 225 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:06:33.48 ID:inPkkb4A.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 226 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:08:13.30 ID:inPkkb4A.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 227 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:09:25.28 ID:inPkkb4A.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 228 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:10:12.60 ID:inPkkb4A.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 229 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:11:34.53 ID:inPkkb4A.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 230 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:13:21.76 ID:inPkkb4A.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 231 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/23(水) 19:14:35.38 ID:inPkkb4A.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 232 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 12:54:38.15 ID:gseSt4oi.net
- 出てるトップの人数もバラバラなのに◯◯が売れてるとか売れてないとかいうかアホってなんなの
- 233 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:04:09.29 ID:wvLsjUih.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 234 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:06:02.21 ID:wvLsjUih.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 235 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:07:33.10 ID:JyLrMFN0.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
- 236 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:08:20.31 ID:wvLsjUih.net
- ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
(ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 237 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:09:06.59 ID:wvLsjUih.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 238 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:10:20.63 ID:wvLsjUih.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 239 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:11:08.18 ID:wvLsjUih.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 240 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:12:09.26 ID:wvLsjUih.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 241 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:13:38.42 ID:wvLsjUih.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 242 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:14:45.44 ID:wvLsjUih.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 243 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:15:48.24 ID:wvLsjUih.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 244 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:16:50.42 ID:wvLsjUih.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 245 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:18:28.97 ID:wvLsjUih.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 246 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:19:20.87 ID:wvLsjUih.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 247 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:49:43.91 ID:7b/DIS+H.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
- 248 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:50:27.31 ID:7b/DIS+H.net
- ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
- 249 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:50:56.33 ID:7b/DIS+H.net
- 結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 250 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:51:26.58 ID:7b/DIS+H.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 251 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:53:37.44 ID:7b/DIS+H.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 252 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 13:54:01.64 ID:7b/DIS+H.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 253 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 14:49:09.65 ID:8PZIbCNt.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 254 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 14:50:08.05 ID:8PZIbCNt.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 255 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:05:02.46 ID:8PZIbCNt.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 256 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:06:12.04 ID:8PZIbCNt.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 257 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:08:17.30 ID:8PZIbCNt.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 258 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:08:41.08 ID:8PZIbCNt.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 259 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:09:35.44 ID:8PZIbCNt.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 260 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:13:32.85 ID:8PZIbCNt.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 261 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:14:03.37 ID:8PZIbCNt.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 262 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:15:54.17 ID:8PZIbCNt.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 263 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:16:30.11 ID:8PZIbCNt.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 264 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 15:17:51.03 ID:8PZIbCNt.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 265 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:08:57.10 ID:dYgHLd1L.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 266 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:10:55.08 ID:dYgHLd1L.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 267 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:11:41.53 ID:dYgHLd1L.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
- 268 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:13:30.36 ID:dYgHLd1L.net
- 成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
- 269 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:14:10.13 ID:dYgHLd1L.net
- 最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 270 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:20:44.96 ID:Ae+fBGsf.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 271 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:22:15.39 ID:Ae+fBGsf.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 272 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:23:56.78 ID:Ae+fBGsf.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 273 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:24:48.19 ID:Ae+fBGsf.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
- 274 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:25:29.38 ID:Ae+fBGsf.net
- 1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 275 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:26:05.17 ID:Ae+fBGsf.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 276 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:27:41.75 ID:Ae+fBGsf.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 277 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:29:10.71 ID:Ae+fBGsf.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 278 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:31:08.49 ID:Ae+fBGsf.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 279 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:32:19.13 ID:Ae+fBGsf.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 280 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:34:07.55 ID:Ae+fBGsf.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 281 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:34:52.13 ID:Ae+fBGsf.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 282 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/24(木) 22:36:51.54 ID:Ae+fBGsf.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 283 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/25(金) 23:38:41.49 ID:fzFcNjZu.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 284 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/25(金) 23:43:04.99 ID:fzFcNjZu.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 285 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/25(金) 23:43:56.02 ID:fzFcNjZu.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 286 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/25(金) 23:44:49.15 ID:fzFcNjZu.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 287 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/25(金) 23:47:44.41 ID:fzFcNjZu.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 288 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:32:13.40 ID:TWhc/AEz.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 289 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:33:12.83 ID:TWhc/AEz.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 290 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:33:48.72 ID:TWhc/AEz.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 291 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:34:43.96 ID:TWhc/AEz.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 292 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:37:08.41 ID:TWhc/AEz.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 293 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:43:36.45 ID:TWhc/AEz.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 294 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:44:56.10 ID:TWhc/AEz.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 295 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:45:25.41 ID:TWhc/AEz.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 296 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/26(土) 23:46:10.15 ID:TWhc/AEz.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 297 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:05:09.13 ID:jja0/6pB.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 298 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:06:05.66 ID:jja0/6pB.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 299 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:07:13.60 ID:jja0/6pB.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
- 300 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:08:57.74 ID:jja0/6pB.net
- ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
(ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 301 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:09:53.39 ID:jja0/6pB.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 302 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:11:32.31 ID:jja0/6pB.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 303 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/27(日) 21:11:57.88 ID:jja0/6pB.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 304 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:17:38.49 ID:0ow9ltCT.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 305 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:18:40.09 ID:0ow9ltCT.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 306 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:20:22.12 ID:0ow9ltCT.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 307 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:21:37.80 ID:0ow9ltCT.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 308 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:22:50.88 ID:0ow9ltCT.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 309 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:24:19.93 ID:0ow9ltCT.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 310 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:25:53.37 ID:0ow9ltCT.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 311 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:28:20.85 ID:0ow9ltCT.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 312 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:28:58.05 ID:0ow9ltCT.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 313 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:30:35.34 ID:0ow9ltCT.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 314 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:31:37.70 ID:0ow9ltCT.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 315 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/28(月) 22:32:37.76 ID:0ow9ltCT.net
- 捨て子として孤児院に入れられ、孤児院から孤児院、里親から里親へとたらいまわしにされた。定職に就けず、国から国へと渡り歩いた先のスイスで無政府主義に出会い、傾倒した。
生まれながらに特権を享受する王族や貴族階級は、彼にとって誰よりも憎むべき存在でなければならなかった。("キッチュ〈リプライズ〉")
- 316 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:00:03.59 ID:lT2vyhd9.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 317 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:00:55.32 ID:lT2vyhd9.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 318 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:01:59.31 ID:lT2vyhd9.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 319 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:02:38.55 ID:lT2vyhd9.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 320 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:03:57.18 ID:lT2vyhd9.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 321 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:04:42.18 ID:lT2vyhd9.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 322 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 00:06:28.05 ID:lT2vyhd9.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 323 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:38:58.50 ID:lKRKYpLC.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 324 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:39:31.95 ID:lKRKYpLC.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 325 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:40:42.70 ID:lKRKYpLC.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 326 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:42:05.40 ID:lKRKYpLC.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 327 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:48:48.06 ID:lKRKYpLC.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 328 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:50:01.67 ID:lKRKYpLC.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 329 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:51:30.74 ID:lKRKYpLC.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 330 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:52:18.35 ID:lKRKYpLC.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 331 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:53:10.77 ID:lKRKYpLC.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 332 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 21:59:47.57 ID:wO4vNGRf.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 333 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:01:00.99 ID:wO4vNGRf.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 334 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:01:42.08 ID:wO4vNGRf.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 335 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:02:39.33 ID:wO4vNGRf.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 336 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:04:23.07 ID:wO4vNGRf.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 337 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:05:25.84 ID:wO4vNGRf.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 338 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:06:14.98 ID:wO4vNGRf.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 339 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:07:11.51 ID:wO4vNGRf.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 340 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:08:11.16 ID:wO4vNGRf.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 341 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/29(火) 22:09:07.03 ID:wO4vNGRf.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 342 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:41:17.12 ID:1HQl3tyv.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 343 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:42:22.29 ID:1HQl3tyv.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 344 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:44:46.08 ID:1HQl3tyv.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 345 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:46:01.42 ID:1HQl3tyv.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 346 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:46:41.67 ID:1HQl3tyv.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 347 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:47:44.93 ID:1HQl3tyv.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 348 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:49:18.33 ID:1HQl3tyv.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 349 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:50:17.36 ID:1HQl3tyv.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 350 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:51:49.22 ID:1HQl3tyv.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 351 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:52:32.90 ID:1HQl3tyv.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 352 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/11/30(水) 22:55:10.11 ID:1HQl3tyv.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 353 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 17:02:39.08 ID:H+5qqojD.net
- 何が目的なのかわからんけどすごい根性だなしかし
- 354 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 18:59:31.68 ID:XhK3r2Cg.net
- 何なんだ、このあぼーんだらけのスレは…
とうこがルキーニも歌うって?
- 355 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:36:03.11 ID:eo3EjI3W.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 356 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:36:46.13 ID:eo3EjI3W.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 357 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:37:10.59 ID:eo3EjI3W.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 358 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:38:03.46 ID:eo3EjI3W.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 359 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:39:08.76 ID:eo3EjI3W.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 360 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:39:59.13 ID:eo3EjI3W.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 361 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:40:47.39 ID:eo3EjI3W.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 362 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:41:57.79 ID:eo3EjI3W.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 363 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:56:34.82 ID:nN2UOb2W.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 364 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:57:04.13 ID:nN2UOb2W.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 365 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:57:34.33 ID:nN2UOb2W.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 366 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:58:07.58 ID:nN2UOb2W.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
(ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 367 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 19:59:20.07 ID:nN2UOb2W.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 368 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 20:00:01.29 ID:nN2UOb2W.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 369 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 20:01:21.88 ID:nN2UOb2W.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 370 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 21:58:38.61 ID:6GZrBNep.net
- エリザモニュメント タータンととうこがルキーニパート歌うって!
- 371 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:07:35.50 ID:kATAnhaS.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 372 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:08:59.32 ID:kATAnhaS.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 373 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:09:25.63 ID:kATAnhaS.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 374 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:12:06.28 ID:kATAnhaS.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 375 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:12:31.57 ID:kATAnhaS.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 376 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:13:17.65 ID:kATAnhaS.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 377 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:13:57.16 ID:kATAnhaS.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 378 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:15:10.29 ID:kATAnhaS.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 379 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:17:43.90 ID:kATAnhaS.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 380 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:18:47.76 ID:kATAnhaS.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 381 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:19:46.83 ID:kATAnhaS.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 382 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:21:11.16 ID:kATAnhaS.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 383 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:22:34.81 ID:kATAnhaS.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 384 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:46:26.94 ID:xLZ3BLZ1.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 385 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:47:47.96 ID:xWi0TxZ9.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 386 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:49:04.35 ID:xWi0TxZ9.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 387 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:50:45.12 ID:xWi0TxZ9.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 388 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:52:31.36 ID:xWi0TxZ9.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 389 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:54:30.83 ID:xWi0TxZ9.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 390 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:55:23.06 ID:xWi0TxZ9.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 391 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:56:50.46 ID:xWi0TxZ9.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 392 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:57:22.17 ID:xWi0TxZ9.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 393 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/01(木) 23:59:55.71 ID:xWi0TxZ9.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 394 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 00:57:47.64 ID:iPYZTIJI.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 395 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 00:58:54.08 ID:iPYZTIJI.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 396 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 00:59:23.76 ID:iPYZTIJI.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 397 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:00:25.29 ID:iPYZTIJI.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 398 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:01:05.26 ID:iPYZTIJI.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 399 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:02:51.94 ID:iPYZTIJI.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 400 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:03:59.96 ID:iPYZTIJI.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 401 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:05:00.69 ID:iPYZTIJI.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 402 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:06:26.58 ID:iPYZTIJI.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 403 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:07:46.10 ID:iPYZTIJI.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 404 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 01:09:08.44 ID:iPYZTIJI.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 405 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:51:10.24 ID:lq/6INco.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 406 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:53:18.41 ID:lq/6INco.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 407 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:54:40.68 ID:lq/6INco.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 408 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:55:07.68 ID:lq/6INco.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 409 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:56:13.79 ID:lq/6INco.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 410 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:57:25.99 ID:lq/6INco.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 411 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:58:13.17 ID:lq/6INco.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 412 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:58:56.61 ID:lq/6INco.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 413 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/03(土) 23:59:41.60 ID:lq/6INco.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 414 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 19:50:07.56 ID:DD0mctpH.net
- 源氏スレ過疎ってる
- 415 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:10:46.69 ID:mO4aL3VN.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
(1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
- 416 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:11:33.02 ID:mO4aL3VN.net
- また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
- 417 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:12:00.29 ID:mO4aL3VN.net
- 帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 418 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:13:03.73 ID:mO4aL3VN.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 419 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:13:35.76 ID:mO4aL3VN.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 420 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:14:37.07 ID:mO4aL3VN.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 421 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:15:05.15 ID:mO4aL3VN.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 422 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:16:19.73 ID:mO4aL3VN.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
- 423 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/04(日) 22:16:43.14 ID:mO4aL3VN.net
- 夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 424 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:26:28.65 ID:RCBMj3SO.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
- 425 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:26:50.73 ID:RCBMj3SO.net
- 国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 426 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:27:17.75 ID:RCBMj3SO.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 427 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:27:47.28 ID:RCBMj3SO.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 428 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:28:39.30 ID:RCBMj3SO.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
(ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 429 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:30:22.26 ID:RCBMj3SO.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 430 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:31:09.64 ID:RCBMj3SO.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 431 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 00:31:36.50 ID:RCBMj3SO.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 432 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:37:48.61 ID:ZgpJ8GMF.net
- 梅田のチケットどこでも引き取りないみたいだけど、客席空席多くなるんじゃないかと心配
やたら高値つけてる人はゴミにならないうちに定価以下にしたほうがいいと思うよ
東京も
- 433 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:46:31.66 ID:hRKYy384.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 434 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:46:57.84 ID:hRKYy384.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 435 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:48:13.63 ID:hRKYy384.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 436 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:48:38.36 ID:hRKYy384.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 437 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:49:57.43 ID:hRKYy384.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 438 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:50:22.01 ID:hRKYy384.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 439 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:51:09.35 ID:hRKYy384.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 440 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:52:26.02 ID:hRKYy384.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 441 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:52:53.93 ID:hRKYy384.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 442 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:53:23.87 ID:hRKYy384.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 443 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:54:27.12 ID:hRKYy384.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 444 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:56:07.68 ID:hRKYy384.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 445 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 20:57:38.87 ID:hRKYy384.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 446 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:04:07.02 ID:734RpaT0.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 447 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:06:24.07 ID:734RpaT0.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 448 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:06:46.26 ID:734RpaT0.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 449 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:07:52.40 ID:734RpaT0.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 450 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:09:12.69 ID:734RpaT0.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 451 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:10:33.41 ID:734RpaT0.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 452 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:14:48.72 ID:Cyyziv3G.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 453 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:15:54.79 ID:Cyyziv3G.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
- 454 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:16:52.54 ID:Cyyziv3G.net
- 宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 455 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:18:22.64 ID:Cyyziv3G.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 456 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:19:16.01 ID:Cyyziv3G.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 457 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:20:59.50 ID:Cyyziv3G.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 458 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 22:22:28.70 ID:Cyyziv3G.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 459 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:19:34.31 ID:0R/Nn53M.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 460 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:19:58.52 ID:0R/Nn53M.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 461 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:20:55.00 ID:0R/Nn53M.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 462 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:22:04.36 ID:0R/Nn53M.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 463 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:22:58.53 ID:0R/Nn53M.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 464 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:23:48.79 ID:0R/Nn53M.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 465 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:25:18.86 ID:0R/Nn53M.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 466 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:27:02.78 ID:0R/Nn53M.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
- 467 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:27:38.70 ID:0R/Nn53M.net
- 革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 468 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:28:39.97 ID:0R/Nn53M.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
- 469 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/05(月) 23:29:59.95 ID:0R/Nn53M.net
- しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 470 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 18:37:27.47 ID:Bp3uc+d1.net
- もう来ないかな?
普通にガラコンの話題で盛り上がりたいよ
いよいよ明々後日だし
良席ではないけど、見たかった人のフルコスバージョンも取れたので本当に楽しみ
- 471 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 18:53:43.35 ID:pVgOMwRV.net
- チケット結構戻ってるな
- 472 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 18:58:46.64 ID:Uh5uNf1V.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 473 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 18:59:21.36 ID:Uh5uNf1V.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 474 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:00:09.93 ID:Uh5uNf1V.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 475 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:01:12.31 ID:Uh5uNf1V.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 476 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:01:37.49 ID:Uh5uNf1V.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 477 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:07:23.27 ID:Uh5uNf1V.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 478 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:08:12.70 ID:Uh5uNf1V.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 479 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:08:49.02 ID:Uh5uNf1V.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 480 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:10:58.00 ID:Uh5uNf1V.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 481 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:12:45.05 ID:Uh5uNf1V.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 482 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:13:16.50 ID:Uh5uNf1V.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 483 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:19:09.46 ID:WURYWPTA.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 484 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:19:35.56 ID:WURYWPTA.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 485 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:20:22.06 ID:WURYWPTA.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 486 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:26:29.13 ID:WURYWPTA.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 487 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:27:05.24 ID:WURYWPTA.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 488 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:31:59.06 ID:WURYWPTA.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 489 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 19:32:30.45 ID:WURYWPTA.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 490 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:24:43.19 ID:Bp3uc+d1.net
- トート閣下この人連れ去って下さい
- 491 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:34:35.37 ID:4rPuqvb4.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 492 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:35:08.59 ID:4rPuqvb4.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 493 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:36:19.21 ID:4rPuqvb4.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 494 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:36:47.96 ID:4rPuqvb4.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 495 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:38:37.10 ID:4rPuqvb4.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
- 496 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:39:48.71 ID:4rPuqvb4.net
- 貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
- 497 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:40:36.64 ID:4rPuqvb4.net
- 彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 498 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:42:23.00 ID:Hdnp714V.net
- >>490
閣下にも好みがございましてな…
ルドルフやシシィは御自らお迎えにいらっしゃる…
ゾフィーは黒天使に全てお任せになる…
フランツはむしろ長寿…
- 499 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:43:07.60 ID:4rPuqvb4.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 500 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:43:56.85 ID:4rPuqvb4.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 501 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:44:51.26 ID:4rPuqvb4.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 502 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:46:04.17 ID:4rPuqvb4.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 503 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:47:37.40 ID:4rPuqvb4.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 504 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:47:59.58 ID:4rPuqvb4.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 505 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:58:04.27 ID:p/n90/yo.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 506 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:58:34.18 ID:p/n90/yo.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 507 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 20:59:04.14 ID:p/n90/yo.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 508 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:01:19.02 ID:p/n90/yo.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 509 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:04:35.99 ID:p/n90/yo.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 510 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:05:06.45 ID:p/n90/yo.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 511 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:06:07.06 ID:p/n90/yo.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 512 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:06:55.57 ID:p/n90/yo.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 513 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:16:39.34 ID:kqBZ1A75.net
- 源氏の人とまさ基地って一緒だよね
誰も読まない書き込みを一生懸命書き込むとこ
リアルでは絶対に関わりたくないけど、一見普通の人なんだろうか。。。
- 514 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:22:21.59 ID:6nvb8Uky.net
- この情熱を是非ほかの場所でいかしてほしいな
- 515 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:37:12.10 ID:+lzCUeuf.net
- ガラコンにも宝塚版と同じようにフィナーレってありますか?
- 516 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:40:07.40 ID:CLcOdyNk.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 517 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:40:48.13 ID:CLcOdyNk.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 518 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:41:23.29 ID:CLcOdyNk.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 519 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:42:53.24 ID:CLcOdyNk.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 520 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:44:46.58 ID:CLcOdyNk.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 521 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:45:15.62 ID:CLcOdyNk.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 522 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:46:46.82 ID:CLcOdyNk.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 523 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:47:19.82 ID:CLcOdyNk.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 524 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:49:42.17 ID:CLcOdyNk.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 525 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:50:05.85 ID:CLcOdyNk.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 526 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:54:31.37 ID:CLcOdyNk.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 527 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:54:56.08 ID:CLcOdyNk.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 528 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:56:44.26 ID:CLcOdyNk.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 529 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 21:57:08.65 ID:CLcOdyNk.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 530 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:09:54.90 ID:g6/CUUZ4.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 531 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:10:31.64 ID:g6/CUUZ4.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 532 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:11:19.29 ID:g6/CUUZ4.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 533 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:12:41.59 ID:g6/CUUZ4.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 534 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:13:59.15 ID:g6/CUUZ4.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 535 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:16:07.51 ID:g6/CUUZ4.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 536 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:17:37.52 ID:g6/CUUZ4.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 537 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:18:53.74 ID:g6/CUUZ4.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
- 538 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:19:51.80 ID:g6/CUUZ4.net
- 革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 539 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:21:43.05 ID:g6/CUUZ4.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 540 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 22:23:03.75 ID:g6/CUUZ4.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 541 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:35:06.49 ID:zF+pJYIy.net
- >>515
今週金曜から始まるのはTAKRAZUKA20周年スペシャル・ガラ・コンサートで宝塚歌劇版と明記されてる
21世紀入ってから始まった東宝版ではないし、CSでかちゃが話していたように現役団員の専科も出演する
1日署長や雑誌掲載などと同様に主催が劇団ではなくても宝塚としてのお仕事に入る
今回どうかはまだ知らないけれど、梅芸企画のエリザガラコンを複数観てきた経験では
デュエダンや群舞、パレード歌い継ぎというフィナーレは無し
最後に全員登場してその回の主演から一言とオーケストラ紹介、お手振りはあり
- 542 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:56:17.30 ID:o6/+z0RU.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 543 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:56:51.19 ID:o6/+z0RU.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 544 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:57:29.38 ID:o6/+z0RU.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 545 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:58:30.65 ID:o6/+z0RU.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 546 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/06(火) 23:59:14.89 ID:o6/+z0RU.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 547 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:00:41.40 ID:UcCAS4ab.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 548 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:01:06.11 ID:UcCAS4ab.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 549 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:01:56.63 ID:UcCAS4ab.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
- 550 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:03:19.12 ID:UcCAS4ab.net
- 結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 551 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:03:48.82 ID:UcCAS4ab.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 552 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:05:25.74 ID:UcCAS4ab.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 553 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:06:28.10 ID:UcCAS4ab.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 554 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:07:26.33 ID:UcCAS4ab.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 555 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:08:50.81 ID:UcCAS4ab.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 556 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 00:09:42.19 ID:UcCAS4ab.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 557 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 06:58:09.26 ID:FVHFEor2.net
- >>515>>541
個人的にはやってくれたら嬉しいけど、例年を見る限りまぁやらないでしょうね…
お歌はともかく、ダンスに関しては退団後ずっと踊ってない方もいるだろうし…
- 558 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:47:57.95 ID:LbQ1wlse.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 559 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:48:34.96 ID:LbQ1wlse.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 560 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:49:03.22 ID:LbQ1wlse.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 561 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:50:37.24 ID:LbQ1wlse.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 562 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:51:07.69 ID:LbQ1wlse.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 563 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:52:38.69 ID:LbQ1wlse.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 564 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:53:13.93 ID:LbQ1wlse.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 565 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:53:39.33 ID:LbQ1wlse.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 566 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:54:46.11 ID:LbQ1wlse.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 567 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:56:15.97 ID:LbQ1wlse.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 568 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 11:57:13.89 ID:LbQ1wlse.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 569 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:19:15.59 ID:G+Hisca2.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 570 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:20:00.88 ID:G+Hisca2.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 571 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:21:00.03 ID:G+Hisca2.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 572 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:21:54.23 ID:G+Hisca2.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 573 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:22:53.24 ID:G+Hisca2.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 574 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:24:15.31 ID:G+Hisca2.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 575 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:25:00.91 ID:G+Hisca2.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 576 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:25:55.77 ID:G+Hisca2.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 577 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:27:52.85 ID:G+Hisca2.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 578 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:29:23.71 ID:G+Hisca2.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 579 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:29:52.97 ID:G+Hisca2.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 580 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/07(水) 21:31:10.44 ID:G+Hisca2.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 581 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:11:19.89 ID:j59o13Sv.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 582 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:11:51.52 ID:j59o13Sv.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 583 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:12:14.66 ID:j59o13Sv.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 584 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:13:22.42 ID:j59o13Sv.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 585 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:14:16.59 ID:j59o13Sv.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 586 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:15:31.75 ID:j59o13Sv.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 587 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 19:16:02.26 ID:j59o13Sv.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 588 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:11:40.28 ID:1U1nrwYx.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 589 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:12:31.50 ID:1U1nrwYx.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 590 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:12:58.83 ID:1U1nrwYx.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 591 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:13:54.41 ID:1U1nrwYx.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 592 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:14:40.17 ID:1U1nrwYx.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 593 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:16:00.84 ID:1U1nrwYx.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 594 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/08(木) 23:16:52.99 ID:1U1nrwYx.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 595 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:11:24.50 ID:bvZJzQd6.net
- ずんこのトートはDVDに入らないんだ
そこ、はずすか?
- 596 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:36:00.40 ID:p/G1x6VQ.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 597 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:36:32.17 ID:p/G1x6VQ.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 598 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:37:04.96 ID:p/G1x6VQ.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 599 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:37:33.28 ID:p/G1x6VQ.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 600 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:39:58.96 ID:p/G1x6VQ.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 601 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:41:25.92 ID:p/G1x6VQ.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 602 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:42:05.96 ID:p/G1x6VQ.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 603 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:42:44.60 ID:p/G1x6VQ.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 604 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:43:30.67 ID:p/G1x6VQ.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 605 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:44:03.88 ID:p/G1x6VQ.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 606 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 18:55:11.70 ID:gcqg5pQY.net
- >>595
でもずんこのトートはあらゆるところで拝見してるので
むしろトートしか
- 607 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:06:36.33 ID:XA7V1knf.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 608 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:07:07.82 ID:XA7V1knf.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 609 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:07:29.82 ID:H40DqjDa.net
- なぜ一番人気のない水となバージョンが入るのか?謎だ・・w
- 610 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:12:20.01 ID:H40DqjDa.net
- あ!ダイジェストはマリコあさこ水、だからトート初登場の人を収録なのか?
- 611 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:13:29.72 ID:XA7V1knf.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 612 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:15:24.06 ID:XA7V1knf.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 613 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:17:30.04 ID:XA7V1knf.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 614 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:18:52.86 ID:XA7V1knf.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 615 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:19:25.39 ID:twBprbm4.net
- 元男役トップの出演者人数違うのに
本当に印象操作しつこいわ
- 616 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:19:47.47 ID:XA7V1knf.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 617 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:20:11.50 ID:XA7V1knf.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 618 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:20:36.22 ID:XA7V1knf.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 619 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:21:26.16 ID:XA7V1knf.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 620 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:21:51.81 ID:XA7V1knf.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
- 621 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:22:24.67 ID:XA7V1knf.net
- 今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 622 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:24:57.95 ID:DAJ6EuF1.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 623 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:25:21.70 ID:DAJ6EuF1.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 624 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:25:50.57 ID:DAJ6EuF1.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 625 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:26:13.64 ID:DAJ6EuF1.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 626 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:27:56.34 ID:DAJ6EuF1.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 627 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:28:41.77 ID:DAJ6EuF1.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 628 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:29:04.29 ID:DAJ6EuF1.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 629 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:30:02.38 ID:DAJ6EuF1.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 630 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:30:31.28 ID:DAJ6EuF1.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
(ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
- 631 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:34:32.25 ID:DAJ6EuF1.net
- 結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
- 632 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:36:03.94 ID:DAJ6EuF1.net
- 特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
- 633 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:36:47.98 ID:DAJ6EuF1.net
- 敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 634 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:39:55.63 ID:qtCiSMkL.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 635 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:40:18.56 ID:qtCiSMkL.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 636 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:43:18.14 ID:qtCiSMkL.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 637 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:47:20.35 ID:qtCiSMkL.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 638 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:47:56.05 ID:qtCiSMkL.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 639 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:51:18.43 ID:qtCiSMkL.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 640 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:53:09.30 ID:qtCiSMkL.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 641 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:54:48.96 ID:qtCiSMkL.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 642 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:56:14.49 ID:qtCiSMkL.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 643 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:57:21.32 ID:qtCiSMkL.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 644 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 19:58:34.73 ID:XiN/JrAy.net
- ガラコンサートはじまったね
- 645 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:02:04.07 ID:Y0+iYcVB.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 646 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:02:44.60 ID:Y0+iYcVB.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 647 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:04:12.74 ID:Y0+iYcVB.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 648 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:05:48.66 ID:Y0+iYcVB.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
- 649 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:07:43.61 ID:Y0+iYcVB.net
- また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 650 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:09:11.91 ID:Y0+iYcVB.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 651 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:10:50.15 ID:Y0+iYcVB.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 652 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:13:20.31 ID:Y0+iYcVB.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 653 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:14:42.29 ID:Y0+iYcVB.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 654 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:17:39.71 ID:EVuip0je.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 655 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:18:03.51 ID:EVuip0je.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 656 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:20:13.29 ID:EVuip0je.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 657 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:21:06.84 ID:EVuip0je.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている
- 658 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:22:50.46 ID:EVuip0je.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 659 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:23:58.89 ID:EVuip0je.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 660 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:25:05.39 ID:EVuip0je.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 661 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:27:08.92 ID:EVuip0je.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
- 662 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:27:57.58 ID:EVuip0je.net
- 最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 663 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:47:17.84 ID:RcQLDdPk.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 664 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:48:05.48 ID:RcQLDdPk.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 665 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:49:09.83 ID:RcQLDdPk.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 666 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:50:39.38 ID:RcQLDdPk.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 667 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 20:51:32.28 ID:RcQLDdPk.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 668 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 21:59:45.44 ID:jICaWPkk.net
- >>610
えっ
じゃぁ春野さんとさえちゃんも収録なし!?
- 669 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:01:25.24 ID:XSpssp5t.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 670 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:01:54.81 ID:XSpssp5t.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 671 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:02:56.89 ID:XSpssp5t.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 672 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:03:24.51 ID:XSpssp5t.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
- 673 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:03:57.05 ID:XSpssp5t.net
- 1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 674 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:05:34.48 ID:jICaWPkk.net
- >>668
ごめん自己解決
そっか〜…全員分収録の方が売り上げ上がると思うけどなぁ…買う気満々だったのに収録されてないとはショック
- 675 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:06:00.44 ID:XSpssp5t.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 676 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:07:32.71 ID:XSpssp5t.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 677 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:07:55.12 ID:XSpssp5t.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり"
- 678 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:08:59.17 ID:XSpssp5t.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 679 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:09:29.51 ID:XSpssp5t.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 680 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:11:23.44 ID:XSpssp5t.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 681 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:11:49.57 ID:XSpssp5t.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 682 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:14:10.34 ID:XSpssp5t.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 683 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:14:38.60 ID:XSpssp5t.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 684 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:23:54.76 ID:Y0+iYcVB.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 685 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:27:00.58 ID:SO04GAOP.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 686 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:28:50.67 ID:SO04GAOP.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 687 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:29:19.57 ID:SO04GAOP.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 688 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:30:44.24 ID:SO04GAOP.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 689 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:31:57.19 ID:SO04GAOP.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 690 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:34:58.29 ID:SO04GAOP.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 691 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:36:14.35 ID:SO04GAOP.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 692 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:40:06.22 ID:SO04GAOP.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 693 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:45:57.87 ID:6xk8iNSM.net
- 今日のガラコンの情報いただきたいんですけど。
どなたもご覧になっていない?
- 694 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:46:51.15 ID:hWNM6yLu.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 695 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:48:35.84 ID:hWNM6yLu.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 696 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:50:13.56 ID:hWNM6yLu.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 697 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:50:47.37 ID:hWNM6yLu.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 698 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:53:06.25 ID:hWNM6yLu.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 699 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:55:40.18 ID:hWNM6yLu.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 700 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:57:15.76 ID:hWNM6yLu.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 701 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 22:58:25.11 ID:hWNM6yLu.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 702 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:00:26.95 ID:hWNM6yLu.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 703 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:01:30.99 ID:hWNM6yLu.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 704 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:10:30.70 ID:UGzY7iz7.net
- ガラコンサートの感想はどのスレに書いてくれるのかなあ?
すごく聞きたいんだけど。
- 705 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:15:53.36 ID:PekxYx6W.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 706 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:16:32.53 ID:PekxYx6W.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 707 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:18:08.40 ID:PekxYx6W.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 708 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:20:23.31 ID:PekxYx6W.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 709 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:21:18.71 ID:PekxYx6W.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 710 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:22:52.41 ID:PekxYx6W.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 711 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:24:42.63 ID:PekxYx6W.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 712 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:26:19.08 ID:PekxYx6W.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 713 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:27:15.62 ID:PekxYx6W.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 714 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:28:45.86 ID:PekxYx6W.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 715 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:30:12.10 ID:PekxYx6W.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 716 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/09(金) 23:57:16.26 ID:2Pguseew.net
- >>704
ツイッター見たほうが早いと思うよ。
今のこの状況じゃここに書く人皆無のような気が。
- 717 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:04:00.51 ID:xYpKLd4v.net
- >>704
変な人がいるから書きたくても書けないんでしょ
- 718 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:34:08.47 ID:xM8SvHY7.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
- 719 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:36:10.67 ID:xM8SvHY7.net
- また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
- 720 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:38:08.21 ID:xM8SvHY7.net
- そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
- 721 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:39:30.44 ID:xM8SvHY7.net
- 皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 722 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:42:03.92 ID:xM8SvHY7.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 723 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:45:26.51 ID:jeDPoY7I.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 724 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:47:37.65 ID:jeDPoY7I.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 725 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:49:34.42 ID:jeDPoY7I.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 726 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:51:14.39 ID:jeDPoY7I.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 727 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:54:11.40 ID:jeDPoY7I.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 728 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:56:26.09 ID:jeDPoY7I.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 729 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 00:58:00.19 ID:jeDPoY7I.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 730 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:00:46.05 ID:jeDPoY7I.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
- 731 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:02:38.46 ID:jeDPoY7I.net
- 最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 732 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:08:58.58 ID:NXL7exYU.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 733 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:11:23.98 ID:NXL7exYU.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 734 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:13:11.44 ID:NXL7exYU.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 735 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:15:52.25 ID:NXL7exYU.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 736 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:17:56.29 ID:NXL7exYU.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 737 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:19:19.54 ID:NXL7exYU.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 738 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:21:39.27 ID:NXL7exYU.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 739 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:22:55.81 ID:NXL7exYU.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 740 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:25:46.71 ID:NXL7exYU.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 741 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:27:38.88 ID:NXL7exYU.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 742 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 01:30:47.13 ID:NXL7exYU.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 743 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 10:02:39.99 ID:C6UBB13k.net
- この人、一生怨念を引きずって生きていくんかな
かわいそうに・・
- 744 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 11:28:31.58 ID:eyLBElx6.net
- 宝塚歌劇 星組 燃ゆる風 軍師・竹中半兵衛 17/1/23 (月) 14:30 宝塚バウホール
https://item.ticketcamp.net/moyuru-kaze-tickets/event-314385/29459464/
3〜5列 センターブロック
- 745 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:00:56.87 ID:nuz1zCJA.net
- 明日遠征する
たのしみ
- 746 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:13:55.44 ID:xeBG3hFS.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 747 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:16:04.78 ID:xeBG3hFS.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 748 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:17:14.35 ID:xeBG3hFS.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 749 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:18:52.08 ID:xeBG3hFS.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 750 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:20:14.85 ID:xeBG3hFS.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
- 751 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:21:31.35 ID:xeBG3hFS.net
- 我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 752 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:23:01.88 ID:auXGQHsl.net
- 感想聞きたいな。
- 753 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:23:30.86 ID:xeBG3hFS.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 754 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:25:13.36 ID:xeBG3hFS.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 755 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:26:08.05 ID:xeBG3hFS.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 756 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:27:21.42 ID:xeBG3hFS.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 757 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:29:06.80 ID:xeBG3hFS.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 758 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:30:18.63 ID:xeBG3hFS.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 759 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:36:29.72 ID:Ye+pX+jn.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 760 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:37:03.94 ID:Ye+pX+jn.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 761 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:38:37.74 ID:Ye+pX+jn.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 762 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:40:10.58 ID:Ye+pX+jn.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 763 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:41:17.54 ID:Ye+pX+jn.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 764 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:42:37.92 ID:Ye+pX+jn.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 765 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:44:00.96 ID:Ye+pX+jn.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
- 766 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:44:45.26 ID:Ye+pX+jn.net
- 夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 767 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:46:52.84 ID:zMJrk1xd.net
- >>610
まりこは前々回のガラコン映像が残ってるけどDVDじゃないから今回入れたのか?
でもまりこを残すのにあやかシシィじゃないのは納得できない
- 768 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:54:26.43 ID:h40g87zz.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 769 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:55:33.41 ID:h40g87zz.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 770 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:56:20.95 ID:h40g87zz.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 771 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:56:48.22 ID:h40g87zz.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 772 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 14:59:05.48 ID:h40g87zz.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
- 773 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:00:16.62 ID:h40g87zz.net
- 貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
- 774 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:02:32.38 ID:h40g87zz.net
- 彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 775 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:04:33.15 ID:h40g87zz.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 776 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:05:16.71 ID:h40g87zz.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 777 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:06:39.68 ID:h40g87zz.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 778 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:08:11.34 ID:h40g87zz.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 779 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 15:09:22.45 ID:h40g87zz.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 780 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 17:41:25.12 ID:iX+MmD5E.net
- >>767
むしろエリザベート:龍 真咲を残すためじゃね?
- 781 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:32:36.60 ID:xYpKLd4v.net
- 今ずんこさんのフルコスやってるとこだね
感想気になる〜〜
- 782 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:53:39.66 ID:V1SYTYRV.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 783 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:54:20.25 ID:V1SYTYRV.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 784 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:55:23.97 ID:V1SYTYRV.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 785 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:56:56.80 ID:V1SYTYRV.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 786 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:57:23.98 ID:V1SYTYRV.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 787 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 18:59:10.41 ID:V1SYTYRV.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 788 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:01:24.42 ID:V1SYTYRV.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 789 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:01:48.85 ID:V1SYTYRV.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 790 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:04:25.97 ID:V1SYTYRV.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 791 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:06:42.29 ID:V1SYTYRV.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 792 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:09:05.31 ID:V1SYTYRV.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 793 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:46:17.63 ID:yZ/QozyX.net
- 二回連続でみた。
素晴らしくて涙出た。
どこか、避難場所ないのかな?
- 794 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:51:57.02 ID:xvbdbXf3.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 795 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:52:21.36 ID:xvbdbXf3.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 796 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:53:01.20 ID:xvbdbXf3.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 797 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:53:56.70 ID:xvbdbXf3.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 798 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:55:06.99 ID:xvbdbXf3.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 799 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:56:01.76 ID:xvbdbXf3.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 800 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 19:59:06.11 ID:xvbdbXf3.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 801 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:00:01.90 ID:xvbdbXf3.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 802 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:00:40.21 ID:xvbdbXf3.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 803 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:01:47.05 ID:xvbdbXf3.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 804 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:02:43.56 ID:xvbdbXf3.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 805 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:21:54.47 ID:cyY1Gu8q.net
- >>793
詳しくお話し聞きたいなぁ〜
関係ないのはNGしてるからお気になさらず
- 806 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:26:43.18 ID:gfntGXeg.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 807 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:27:19.72 ID:gfntGXeg.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 808 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:28:16.26 ID:gfntGXeg.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 809 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:32:22.62 ID:gfntGXeg.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 810 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:33:02.51 ID:gfntGXeg.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 811 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:33:29.41 ID:gfntGXeg.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 812 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:34:27.57 ID:gfntGXeg.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 813 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:35:50.85 ID:gfntGXeg.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 814 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:36:42.04 ID:gfntGXeg.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 815 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:37:17.19 ID:gfntGXeg.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 816 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:38:02.15 ID:gfntGXeg.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 817 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:39:15.27 ID:gfntGXeg.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 818 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 20:59:08.63 ID:4JoSw/7H.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 819 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:00:05.70 ID:4JoSw/7H.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 820 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:01:11.61 ID:4JoSw/7H.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
- 821 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:02:38.64 ID:4JoSw/7H.net
- マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 822 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:03:05.44 ID:4JoSw/7H.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 823 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:05:35.37 ID:4JoSw/7H.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 824 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:06:56.28 ID:1tU0dxTf.net
- かわいそうな人だよな
- 825 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:07:45.32 ID:4JoSw/7H.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 826 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:08:09.89 ID:4JoSw/7H.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 827 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:09:29.63 ID:4JoSw/7H.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 828 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:10:19.18 ID:4JoSw/7H.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 829 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:11:14.65 ID:4JoSw/7H.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 830 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:11:58.88 ID:k0XYyTwI.net
- 和央ヲタはいい加減にしろ
- 831 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:14:10.43 ID:GKiiHvzp.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 832 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:14:48.00 ID:GKiiHvzp.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 833 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:16:38.90 ID:GKiiHvzp.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 834 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:17:54.41 ID:GKiiHvzp.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 835 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:19:33.47 ID:GKiiHvzp.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 836 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:21:11.99 ID:pOW65igy.net
- ガラコン観に行った方、幕間休憩含め所要時間どれくらいでした?
- 837 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:21:19.72 ID:GKiiHvzp.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 838 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:21:48.66 ID:GKiiHvzp.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
- 839 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:24:26.82 ID:GKiiHvzp.net
- 夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 840 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:26:04.48 ID:GKiiHvzp.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 841 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:26:28.69 ID:GKiiHvzp.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 842 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:29:39.02 ID:GKiiHvzp.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 843 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:31:05.81 ID:GKiiHvzp.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 844 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:35:17.03 ID:+ngS2asf.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
- 845 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:36:32.50 ID:+ngS2asf.net
- 貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
- 846 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:38:14.79 ID:+ngS2asf.net
- 彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 847 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:39:27.27 ID:+ngS2asf.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 848 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:41:27.33 ID:+ngS2asf.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 849 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:44:13.36 ID:+ngS2asf.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 850 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:45:35.92 ID:+ngS2asf.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”
- 851 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:47:03.74 ID:+ngS2asf.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 852 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:48:22.30 ID:+ngS2asf.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 853 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 21:57:54.29 ID:PU+atEOd.net
- 面倒だけど、専ブラを使って
貼付けられた各レスの一文説をNG登録したらスッキリ
開けるたびに20位レスが飛んでて笑ってしまう
- 854 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:03:28.10 ID:h40g87zz.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 855 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:04:09.21 ID:h40g87zz.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 856 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:05:49.06 ID:yZ/QozyX.net
- >>836
約三時間、といっても私はモニュメントバージョン二回だけなので、
他も一緒かは不明。
予定は二時間半だったけど延びてたよ。
- 857 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:06:10.84 ID:h40g87zz.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 858 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:07:03.40 ID:h40g87zz.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 859 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:08:24.43 ID:h40g87zz.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 860 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:09:04.24 ID:h40g87zz.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 861 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:09:32.70 ID:h40g87zz.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 862 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:10:49.91 ID:h40g87zz.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 863 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:11:47.07 ID:h40g87zz.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
- 864 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:19:01.61 ID:F+bzRCAA.net
- ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
- 865 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:20:11.27 ID:F+bzRCAA.net
- 沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
- 866 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:21:11.23 ID:F+bzRCAA.net
- 1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
- 867 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:22:15.96 ID:F+bzRCAA.net
- 彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 868 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:23:31.17 ID:F+bzRCAA.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 869 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:25:07.38 ID:F+bzRCAA.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 870 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:26:45.97 ID:F+bzRCAA.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 871 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:28:29.13 ID:F+bzRCAA.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 872 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 22:29:18.97 ID:F+bzRCAA.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 873 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:42:29.35 ID:wX3sPcAP.net
- >>836
今日のフルコス版5時半の公演観ましたが、終演が8時過ぎ
幕間は20分ってアナウンス流れてたので2時間40分ってところ
- 874 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:43:27.11 ID:wX3sPcAP.net
- こめん計算間違えた、2時間10分です
- 875 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:47:13.09 ID:E16Dcj4B.net
- 瞳子ルキーニがかなり良かった。
タータンも。
宙エリザを観た後だけにね。
たー星時代が好きな私はねったんを久しぶりに観れて嬉しかったよ。
- 876 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:48:07.22 ID:5w/WEJDO.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 877 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:48:41.10 ID:5w/WEJDO.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 878 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:49:40.55 ID:5w/WEJDO.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 879 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:50:44.08 ID:5w/WEJDO.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
- 880 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:52:08.00 ID:5w/WEJDO.net
- 最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 881 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:53:02.08 ID:5w/WEJDO.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 882 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:54:15.85 ID:5w/WEJDO.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 883 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:55:36.69 ID:5w/WEJDO.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
- 884 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:56:35.32 ID:hvuAL6Z7.net
- >>767
>>780
マジ龍真咲イラネー
- 885 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:57:22.24 ID:5w/WEJDO.net
- そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 886 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:58:07.85 ID:5w/WEJDO.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 887 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/10(土) 23:59:36.77 ID:5w/WEJDO.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 888 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:00:47.42 ID:XCCxfgEs.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 889 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:03:28.15 ID:XCCxfgEs.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 890 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:03:42.25 ID:hqLpfCvc.net
- 初日は客席に異様な緊張感が漂っていて、大作の初日を思い出しました。
そのため、トークも最初は客席の反応が固いなぁと感じました。
ただ一路さんが出てきて、天然ぶりを発揮するにつれ、解れて楽しい話で盛り上がりました。
初日に一番印象的だったのは、代役公演のお稽古、誰がどの役の大役だったかということを言っていて、誰もルキーニの代役を思い出せず、轟さんは丈夫だから代役不要となったんだね、と結論付けられて、居ないと何でも言われてこわいよね、とのこと。
それと一路さんの言葉で、再演に決まった麻路さんが嫌ですとはっきり言ってたけども、トートのベースを作ったのは自分(一路さんのことね)なら、男役の役として膨らまし発展させてくれたのは麻路さん、彼女がいたからこんなに魅力的で素敵なトートになったと思う、と。
二日目のはそこまで印象的な話はでなかったかな、初日と重なるネタもあったし。
歌は両日安心して聞けました。
初演の初日も見てるので、あのときの感情がよみがえり、途中から涙が出て困りました。
- 891 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:06:43.60 ID:XCCxfgEs.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
- 892 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:08:16.08 ID:XCCxfgEs.net
- (この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
1853年8月、オーストリアの保養地バート・イシュルではフランツ・ヨーゼフとヘレネの縁談が行われていた。ゾフィーの当初の目論みは、息子とドイツ連邦で勢力を拡大するプロイセンの王女アンナと政略結婚させることにあった。
しかし、これが破断したため、友好国バイエルン王国の公女で操りやすい妹の娘に白羽の矢が立ったのである。一方、バイエルン王女の生まれでありながら身分の劣るヴィッテルスバッハ公爵家に嫁いだルドヴィカにとっても、娘と皇帝の結婚は願ってもない名誉挽回の機会であった。
- 893 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:09:29.39 ID:XCCxfgEs.net
- しかし、縁談は両家の母親の思惑を通りには運ばない。皇帝は、お后教育を受けて育った礼儀正しいヘレネではなく、たまたま同行していた妹のシシィに一目ぼれしてしまう。
皇帝を前にしても天真爛漫に振る舞う美しい少女に心を奪われた彼は、生まれて初めて母親の意向に逆らい、彼女との結婚を決意する。("計画通り")
- 894 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:09:54.76 ID:XCCxfgEs.net
- 数日後、彼は将来皇后として負うことになる義務や束縛について告げ、それでも私を支えてくれるかシシィに尋ねる。
彼女は婚約の証に送られたネックレスの重さに戸惑いの表情を見せるが、「あなたが側にいれば、どんな困難でも乗り越えられる」と、皇帝からの求婚を受け入れる。
15歳の少女はおとぎ話のような恋に胸がいっぱいになったが、宮廷での結婚生活という現実に直面する準備はできていなかった。("あなたが側にいれば")
- 895 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:11:23.20 ID:XCCxfgEs.net
- (結婚までの短期間にエリザベートへの語学や宮廷作法などのお后教育が施されたが、成果は思わしくなく、母親が結婚式を延期してほしいと願い出るほどだったという。)
1854年4月24日午後6時半、ウィーンのアウグスティーナ教会で、エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフの結婚式が執り行われた。
夕刻時という珍しい時間帯の結婚式も、災いの幕開けにはぴったりだとルキーニが野次を飛ばす。ルドヴィカとゾフィーに付き添われた新郎新婦は、大司教の前にひざまずく。
- 896 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:11:49.40 ID:XCCxfgEs.net
- 「結婚はあなたの意志であるか」との問いに、エリザベートは「はい」と返答する。すると彼女の声は教会内に何度もこだまし、結婚を祝う鐘の音が、まるでハプスブルク終焉の始まりを告げるかのように不気味に鳴り響く。
この瞬間、エリザベートは滅びゆく運命にある帝国に自らの意志で嫁いだのである。("不幸の始まり")
- 897 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:13:07.22 ID:XCCxfgEs.net
- 数日後、シェーンブルン宮殿では盛大な宮廷舞踏会が催された。大広間の外では、新婦の父親と新郎の母親が結婚への不満を漏らしている。
マックスは宮廷の堅苦しさがシシィを殺してしまうと心配しており、ゾフィーはエリザベートには皇后としての資質が欠けていると苛立っていた。
また、舞踏会の参加者もめいめいに新婦の噂話に興じている。彼女の美しさを称える者、身分の低さを揶揄する者、狂気の血筋を危惧する者、若さや無作法を心配する者など様々である。("結婚の失敗")
- 898 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:14:46.18 ID:XCCxfgEs.net
- やがて、皇帝夫婦が広間に姿を現す。連日の行事に神経をすり減らしてたエリザベートは、皇帝の腕の中で安堵の表情を浮かべ、無邪気にワルツを踊る。
しかし、突然音楽が鳴り止むと、エリザベート以外の人間は蝋人形のように血の気を失い、彼女の前に再び「死」が現れる。
彼は「お前は彼を相手に選んだが、最後にお前と踊るのは私だ(意中の異性と舞踏会で最後にダンスを踊るという意味と、人が死ぬ間際に死神と死の舞踏を踊るという中世ヨーロッパの死生観の意味)」と告げて消える。
我に返り動揺するエリザベートの様子を、まるで見せ物を見るような好奇の目で周囲の人々が見つめる。その瞬間彼女は、自分が宮廷という異質な世界に入ってしまったことを真に実感したのだった。("最後のダンス")
- 899 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:16:15.95 ID:XCCxfgEs.net
- 行事や式典が落ち着くと、皇帝夫婦はウィーン郊外のラクセンブルク宮殿に居を構えた。
しかし、皇帝は執務で夜遅くまで宮殿を留守にしていたため、一人取り残されたエリザベートを待っていたのは、夫との幸せな新婚生活ではなく、姑の厳しい皇后教育であった。
朝5時から綿密にスケジュールが組まれ、歩き方から、お辞儀の仕方、言葉遣いまで厳しく躾けられた。女官の手を借りず一人で着替えをしたり、入浴することも禁止された。自分のことは自分でする環境で育ったエリザベートにとって、耐え難いことであった。
プライベートはなく、お世継ぎ作りを催促され、何よりも好きであった乗馬も禁じられた。("皇后の務め")
- 900 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:18:47.95 ID:iKTLt3zL.net
- 宮廷の息苦しさと孤独感に耐えかねた彼女は夫に助けを求めるが、「母の言う通りにすることが君のためにもなる」と、皇帝は母親の味方をする。
エリザベートは自らが宮廷で孤立無援であることを悟るが、「私は誰の所有物でもない、私は私だけのもの」と、姑の言いなりとなり、宮廷に飼い慣らされることを拒否する。("私だけに")
- 901 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:20:34.15 ID:iKTLt3zL.net
- 結婚1年目、クリミア戦争の戦火拡大のため皇帝は執務室に篭ることが多く、宮殿に取り残されたエリザベートの話し相手は、皇帝からの誕生日プレゼントのオウムだけであった。
結婚2年目、待望の長女が生まれるが、エリザベートは育児を許されず、名前も皇太后と同じゾフィーと決められてしまう。母親であるのに授乳も許されず、我が子に謁見できるのは皇太后の許可が出たわずかな時間だけであった。
結婚3年目、次女が生まれるが、またして姑に子供を奪われてしまう。しかし、転機が訪れる。当時ハプスブルク帝国の一部であったハンガリーで独立の気運が高まりをみせていた。
- 902 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:20:37.04 ID:LkNH3zXO.net
- フルコスチュームバージョン観られた方、出演者の客席降りはありましたか?
- 903 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:21:14.28 ID:iKTLt3zL.net
- 皇帝は帝国の支配権の誇示のためのハンガリー訪問に皇后を同行させ、その美貌を利用してこの動きを沈静化しようと試みる。
彼女は協力の見返りとして、娘を皇太后のもとから引き離し旅に同行させることに成功する。宮廷でエリザベートが手にした初めての勝利だった。("結婚生活の様子")
- 904 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:22:58.08 ID:iKTLt3zL.net
- しかし、無常にも旅先で彼女を待っていたのは「死」であった。慣れない長旅に疲弊した長女ゾフィーが病死してしまう。
自責の念に打ちひしがれるエリザベートの前に現れた彼は、「偽りの愛にすがるなら、今後帝国をさらなる不幸が待ち受ける」と警告する。("闇が広がる")
- 905 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:25:14.77 ID:iKTLt3zL.net
- (1848年のハンガリー革命後の弾圧を主導していた皇太后ゾフィーとの不和が噂されていたこともあり、エリザベートの訪問はハンガリー国民に好意的に迎えられた。
また、彼女も姑への反発や権威主義的なウィーン宮廷とは異なるハンガリーの自由な空気を気に入り、以後ハンガリーに対する抑圧を緩和する政策を皇帝に口添えするようになる)
- 906 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:26:58.31 ID:iKTLt3zL.net
- 19世紀末、ヨーロッパの東西南北の人と文化が交差するウィーンでは、没落に向かうハプスブルク帝国の混乱や陰鬱な時代背景の下で世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的な文化の爛熟が興っていた。
今日もウィーンのカフェでは、多種多様な知識人が集まり、新聞を読み、皇室や政治の話題で暇を持て余していた。カフェで一番の話題は、皇太子ルドルフの誕生である。
帝国にとって待ち望まれたお世継ぎであるが、痛ましいことにまたしても息子は母親の手から引き離されてしまう。
- 907 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:27:47.52 ID:iKTLt3zL.net
- 次に、当時帝国の一部であった北イタリアがフランス皇帝ナポレオン3世と組み、オーストリアに対して独立戦争を起こした話題となる。
次々と領地を失い国際的に孤立する帝国の現状を「俺たちにできることは、カフェで他愛もない話をして、ただ破滅の時を待つことだけさ」とカフェの客たちは皮肉たっぷりに笑い飛ばす。("楽しい黙示録")
- 908 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:29:34.73 ID:iKTLt3zL.net
- 1865年のある夜、宮殿のエリザベートの鍵のかかった寝室の前では、皇帝が扉を開けてほしいと妻に呼びかけている。イタリア独立戦争に敗れ、北イタリアの領地を失ったオーストリア帝国は窮地に陥っていた。
帝国の各地で独立の気運が再燃し、小ドイツ主義を掲げるビスマルク率いるプロイセンは、ドイツ統一に向け虎視眈々とオーストリアとの開戦の準備を進めていた。
度重なる戦争で国家財政は破綻寸前であり、そのすべての重圧が皇帝の肩に重く圧しかかっていた。彼は一晩だけでもあなたのそばで心休まる夜を送りたいと懇願する。
- 909 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:31:31.47 ID:iKTLt3zL.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 910 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:33:25.07 ID:iKTLt3zL.net
- 一方、エリザベートはルドルフが臣下に虐待されていると訴え、「息子の養育を自分に任せてほしい、さもなければ私は宮廷を出て行く」と悲壮な覚悟で夫に最後通牒を伝える。
しかし、あくまで母親への忠誠心を崩さない夫の態度に彼女は絶望する。そして「死」が彼女に囁きかける。「全ての葛藤は終わる、苦しみから救ってやろう」と。
しかし、エリザベートは宮廷での自由を手にするためなら自らの美貌さえ武器にしてみせると、彼の誘惑を拒絶する。("エリザベート、開けておくれ")
- 911 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:33:27.86 ID:3h4fFrMG.net
- >>856.873
ありがとう!今週行くんだけど延びたら帰りの新幹線ぎりぎり…
でも楽しみだー
- 912 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:34:51.80 ID:iKTLt3zL.net
- ウィーンの中央広場ではミルクの配給を求める市民が集まっている。何故ミルクがないのか詰め寄る市民をルキーニは、「皇后が横取りしてミルク風呂に使っているからだ」と扇動する。
戦費をまかなうための重税で市民生活は困窮し、皇室の求心力は著しく低下していた。市民は「子供が死んでいるんだ!」、「皇后に思い知らせてやる!」と叫び声を上げる。再びウィーンでは革命の火種がくすぶり始めていた。
("ミルク") 一方宮殿では、女官が皇后の入浴用の大量のミルクを化粧室に運んでいた。彼女はミルク風呂だけではなく、オリーブ油風呂、苺や生肉のパック、仔牛の肉汁のジュースなど、効果があると思われるあらゆる美容法を実践していた。
- 913 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:35:47.51 ID:iKTLt3zL.net
- その長く美しい髪は、卵とコニャックを調合した特製シャンプーで、3週間に一度、丸一日かけて手入れをした。
身長172cm、ウェスト50cm、体重50kg以下と言われるスタイルを維持するため、ほとんど食事は口にせず、一日の大半を体操などの運動に費やすこともあった。
過剰ともいえる美容やダイエットと引き換えに、彼女の美貌はヨーロッパ中に知れ渡り、宮廷も無視できない程の影響力を持つこととなる。("皇后の務め〈リプライズ〉")
- 914 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:38:01.62 ID:tKrNL/zs.net
- しばらくして、皇后の寝室の前に皇帝が現れる。彼は突然の訪問に驚く女官たちに下がるよう命じると、衝立越しに妻に語りかける。
彼は「統治者は自らの感情を抑えなければならないが、君を失うくらいなら唯一の掟をも破れる」と、エリザベートの美貌の前に敗北を認め、母親ではなく妻を選び、彼女の要求をすべて受け入れることを決める。
夫の言葉を聞き終え、姿を現したエリザベートは「これからもあなたと生きていきます、でも私は私だけのもの」と高らかに勝利を宣言する。
その姿は、美の神と称えられたかの有名なヴィンターハルターの肖像画で描かれたエリザベートそのものであった。("私だけに〈リプライズ〉")
- 915 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:40:21.04 ID:tKrNL/zs.net
- 第二幕
ブダペストの大聖堂前は、オーストリア=ハンガリー帝国の国王フランツヨーゼフと王妃エリザベートの戴冠式を祝う人々で溢れかえっていた。
ハンガリー国民は大規模な自治権を認める二重帝国の実現に力添えをしたエリザベートに対して「エーヤン、エリザベート!(エリザベート、万歳!)」と歓声を送っている。 ("エーヤン") 一方、ルキーニは群衆の前でトランクを広げ、記念品の即売会を始める。
国王夫婦の仲睦ましい姿が描かれたグラスや、王妃と息子が並び描かれた肖像画を手にして、「こんなものはキッチュ(まがいもの)だ!」と切り捨てる。
死後100年間、本や映画で好意的に描かれてきた彼女の姿はどれも偽者や偶像で、本当の彼女は傲慢なエゴイストだと彼は言う。("キッチュ")
- 916 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:42:09.43 ID:tKrNL/zs.net
- 反対するゾフィーらウィーン宮廷の多数を屈服させ、自らの希望を実現させたエリザベートは人生の絶頂の時を迎えていた。
自信と威厳に溢れた表情で、「私は自分の意志で踊る、もう誰にも操られない」と、夫や宮廷だけでなく、「死」との決別をも誓う。
しかし、すべてを見透かす彼は「この満ち足りた瞬間は、すぐに生への憎しみに変わる」「なぜなら、お前は私を愛している」と不敵な笑みを浮かべ立ち去る。("私が踊る時")
- 917 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:44:39.05 ID:tKrNL/zs.net
- ホーフブルク宮殿の寝室では、9歳になったルドルフが熱に浮かされていた。真っ暗の部屋の中で一人寒さに震える皇太子は、母にそばにいて欲しいとつぶやく。
息子の養育権を取り戻したエリザベートは、息子に軍隊式の訓練を施していた臣下を解任して、肉体的訓練よりも精神的教育を重視するリベラルな教育係を自ら選任した。
虚弱体質であったルドルフは、自由な環境を与え、苦しみから解放してくれた母への感謝の念を生涯忘れなかった。
- 918 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:45:06.80 ID:tKrNL/zs.net
- しかし反対に、姑に勝利して満足したエリザベートは、徐々に宮廷や息子との距離を取り始め、堅苦しいウィーンを離れ、多くの時間をハンガリーでの居城ゲデレー城で過ごすようになる。
ルドルフは母親を慕っていたが、母は息子の気持ちに答えようとはしなかった。母の愛を知らずに育ったルドルフは、かつてのシシィのように「死」に母の面影を重ね、彼を友として慕うようになっていた。("ママ、どこにいるの?")
- 919 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:46:01.38 ID:tKrNL/zs.net
- (ルドルフの教師は、慣例であった聖職者や貴族という地位に囚われず、能力のある市民の知識人から選任された。
結果として皇太子は、皇帝を頂点とする君主制とは相容れない自由主義的な思想に惹かれるようになり、母親と同じように父親やウィーン宮廷と対立していくこととなる。)
- 920 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:47:33.93 ID:tKrNL/zs.net
- 宮廷の義務からは逃避したエリザベートであるが、孤児院や救貧員への慰問など社会奉仕活動には積極的であった。
貧民や病人の世話が幼い頃からのヴィッテルスバッハ家の伝統であり、また彼女自身も、自分が興味を持つことに関しては、偏見を持たず、相手の地位や身分にとらわれず接する人物であった。
特に、彼女が生涯足しげく通ったのが精神病院であった。これは親類が多く精神の病を患っていたことも関係する。そして、ウィーン郊外のとある精神病院を慰問した際、エリザベートは一人の女性患者と出会う。
- 921 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:51:01.98 ID:tKrNL/zs.net
- 彼女は自分こそが気高き皇后であり、エリザベートこそ狂った精神病者だと叫び、拘束具で取り押さえられる。
彼女は、皇后というしがらみに拘束されている己を省みて、肉体は拘束されていても、何も縛られない無垢な魂を持つその女性に惹かれる。
敬愛する戯曲『真夏の夜の夢』に登場する妖精ティターニアのように、周りからどんなに奇異な目で見られ狂ったと言われようと、気高く心のままに生きられたらどんなに素晴らしいかと。
- 922 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:51:35.31 ID:tKrNL/zs.net
- そして、ウィーン宮廷や姑との戦いに勝利しても、結局何一つ自分が望むものは手にいれられていないことに気づかされる。まるで今の自分は、自由の象徴であった曲芸のロープの上で、暗闇の中、恐怖に震え立ち竦んでいるようだと。
「いっそ足元の深淵に身を投げてしまいたい」と本心では願っていても、暗闇の先に待つ虚無の不安に怯えながら、見せかけの人生を歩み続けるしかないのか、彼女は自問自答する。(“魂の自由”)
- 923 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 00:53:25.39 ID:tKrNL/zs.net
- ホーフブルク宮殿のサロンでは、ゾフィーと近親が、皇帝を皇后から引き離すための策を話し合っていた。
皇帝は、オーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の初代首相に、1848年のハンガリー革命の首謀者の一人であるアンドラーシを任命した。彼はエリザベートと親しい関係にあり、後に帝国の外相も勤めることになる。
これ以上皇后の介入を許すと帝国が瓦解してしまうと恐れた彼女らは、非常手段として皇帝に愛人を用意する。("我々か彼女か") しかし売春宿から連れてこられた娘は病気持ちだった。("マダム・ヴォルフのコレクション")
- 924 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:23:25.34 ID:qOZynppS.net
- 姿月バージョン観てきた
個人の感想なので噛みつかないでね
>>902
1部途中でトート下手通路から登場
2部初めルキーニ上手通路から登場
2部半ばルキーニ舞台上手側から下りてマグカップをお客さんにプレゼント(1つだけ)
ずんちゃん最初何ヶ所か音外してたかも
段々調子を上げてはいたけど前回ガラコンの時の方が良かった
ミルクのシャウトとか前回はショーストッパーになってたけど今回はそこまでじゃなくて
流石に歳なのか痩せたからなのか少し残念
わたるくんは歳を感じず客席下りの時は会場を盛り上げ、マダムヴォルフとは濃厚なキスをして今からでも即男役に戻れそう
ねったんのお歌もビジュアルも良かった
タキさん声が若干高くなってる?ゾフィ優しめ
はっちゃんお歌全く進歩なく酷すぎ
安定の樹里ちゃん
みどりちゃんお歌は良いんだけどやはり歳を、、、
昇天の場面はずんちゃん共々オペラで見ちゃイカンでした
すずみん悪くないんだけどトートとの身長バランス的にコムちゃんで観たかったな
お衣装はできるだけ当時の物を着てたように思うけどブーツは新調してたっぽいのもあった
踊れるところは踊ってたし小物も少しは使ってた
余談だけど大司教さまのとなりにヨシヒコを探してしまった
- 925 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:43:48.42 ID:2S9+8l5+.net
- >>924
詳しく乙です
ヨシヒコワロタ
- 926 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:46:18.26 ID:XCCxfgEs.net
- 体操室で運動中に倒れたエリザベートは、医師から原因は過剰なダイエットではなくフランス病だと告げられる。夫の忠誠心を信じきっていた彼女は取り乱し、自ら命を絶つと口ばしる。
すると、その言葉を待っていた「死」が現れ、最後の決断を迫る。しかし、彼女は皇帝との婚約の証を首から外すと、この裏切りをむしろ宮廷とのしがらみを絶つために夫が自分に与えた救いなのだと受け取る。
そして以後、彼女はウィーンを離れ、旅から旅への流浪の生活を続けることになる。("微熱")
- 927 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:47:18.38 ID:XCCxfgEs.net
- ホーフブルク宮殿では、フランツ・ヨーゼフが、エリザベートを自身から引き離す策略に対して母ゾフィーに抗議している。私は帝国のためにやったという母の言葉に、もう二度と夫婦の間に干渉はさせないと言い残し、彼は立ち去る。
1848年の革命は、皇帝が退位する事態にまで発展してオーストリアは危機に陥った。その際、非情にも無能な夫フランツ・カールに帝位継承権を放棄させ、息子であるフランツ・ヨーゼフに皇帝を継がせたはゾフィーであった。
息子に皇帝として必要なあらゆる教育を施し、勤勉で非の打ち所のない人物へと厳しく育て上げた。エリザベートに厳しく接したのも、すべて帝国の行く末を案じてのことであった。
「義務を忘れたものは、滅ぶ運命にある」との言葉を残し、ゾフィーは息を引き取った。(“ベラリア”)
- 928 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:49:44.42 ID:eDXs99x4.net
- 療養と称してエリザベートは、マディラ島、コルフ島、ハンガリー、イギリスと、公務を放棄して1箇所に留まることなく当て所ない旅を続ける。
傘と扇子を持ち、早足で山から海へと歩き続け、くたびれ果てた表情で従者たちが彼女の後を追う。一方、皇帝はウィーンに戻らない妻の体調を案じて毎日のように手紙を書いている。
そして、10年が経った。皇后専属の美容師は髪を梳かした後、まっさらな櫛を彼女に見せる。櫛についた抜け毛を隠して、エリザベートを安心させるのは彼女の日課であった。
- 929 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:50:50.42 ID:eDXs99x4.net
- しかし、ルキーニがこっそり一本抜き取ると、それは白髪であった。エリザベートはさらに旅を続けた。ハイネのように詩に没頭し、乗馬にのめりこみ、古代ギリシャに傾倒した。
ハイネへの博識は専門家を凌駕するほどで、乗馬の腕前はヨーロッパ有数の実力とまで言われた。結果エリザベートは17年間、何かを求めて走り続けた。ルキーニが彼女に鏡を差し出す。世紀の美貌と謳われた皇后にも確実に老いの影が忍び寄っていた。("放浪の歳月”)
- 930 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:51:46.28 ID:eDXs99x4.net
- 旅の末にエリザベートがたどり着いたのはギリシャのコルフ島であった。彼女はここに敬愛する古代ギリシャの英雄アキレウスの名を付けた別荘を建て、外界との接触を避けるように閉じこもった。
崇拝する哲学者や詩人ハイネの銅像を飾り、詩作に没頭した。エリザベートはハイネの情熱的で自然溢れる詩を愛し、彼のシニカルで社会批判的な思想に共感を覚えていた。
ドイツ生まれのユダヤ人として生涯国に馴染むことができず、後にドイツを追われフランスで晩年を過ごす生い立ちにも彼女は親近感を感じていた。彼女はハイネを師と仰ぎ、彼の魂と繋がりがあると信じていた。
- 931 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:52:43.03 ID:eDXs99x4.net
- ある日、エリザベートがハイネの魂に呼びかけようと試みると、懐かしい声の主が語りかけてきた。その声は、現世から目を背け死者の魂とばかり向き合う彼女の身を案じていた。
しかし、シシィはこの時代、この世界に自分の居場所はないと嘆くだけであった。そして、「アデュー、シシィ(Adieuはフランス語で永遠の別れの意味)」という言葉を残して声は消えた。
同じ頃、シシィの誰よりの理解者であり、憧れであった父マックスはこの世を去った。行き着く先を失くした自由な魂は、コルフ島にも長くは留まらず、安住の地を求めて再び彷徨い始めた。("パパみたいに〈リプライズ〉")
- 932 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:53:56.19 ID:eDXs99x4.net
- エリザベートが旅を続ける間に、ルドルフは青年へと成長した。一方で、ヨーロッパでは民族主義やファシズムが台頭を始めており、帝国領内の民族による複合国家であるオーストリアでも、各民族の自治や権利を求める動きが強まっていた。
特に多民族都市であるウィーンでは、ドイツ人の民族的優位と権利擁護を掲げるシェーネラーなどのドイツ民族主義者が台頭しており、少数ながら経済的に恵まれていたユダヤ人はその格好の標的であった。
ルドルフは、市民の権利を押さえ込み、領内の民族主義運動を弾圧する父親の古い権威主義的な統治方法では、一時的には帝国の体面は保てても、結果としてその崩壊を早めてしまうだけだと危機感を持っていた。
- 933 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:55:22.40 ID:eDXs99x4.net
- 彼の理想は中央ヨーロッパの各民族が対等な権利を持ち、ドナウ連邦として共存共栄を図ることにあった。しかし、匿名で新聞に投稿した体制批判の記事が暴露され、父親と決定的に対立し、民族主義者からも裏切り者と糾弾される。
結婚生活も冷え切っており、政治的にも宮廷生活でも孤立した彼は、徐々に精神を病んでいく。そんな折、母がウィーンに帰ってきた。ルドルフは自らの心情を吐露して、皇帝へ口添えして欲しいと助けを求めた。
しかし、宮廷との繋がりをすべて断ち切っていたエリザベートは、息子の懇願を頑なに拒否する。絶望したルドルフは、1889年ウィーン郊外のマイヤーリンクで「死」の接吻を受け入れ、拳銃で自ら命を絶つ。
- 934 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 01:57:44.34 ID:eDXs99x4.net
- 息子の死を前に、エリザベートはルドルフは自分の生き写しだったことに気づく。そして、己の自由を求めるばかりに、同じように自由を欲していた息子を見殺しにしたことを悔やみ、棺の前で泣き崩れる。
その悲しみはあまりに深く、彼女は息子の命を奪った忌々しき相手にさえ哀れみを乞うた。だが、「死」はその嘆きに答えようとはしなかった。
息子の死はエリザベートに大きなショックを与えた。彼女は身の回りの豪華なドレスや宝飾品はすべて譲り渡し、残りの生涯を喪服だけで過ごした。
- 935 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:01:03.85 ID:eDXs99x4.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 936 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:02:01.35 ID:eDXs99x4.net
- すでに父親は他界しており、事件の翌年には姉ヘレネ、そして母ルドヴィカと親しい者が彼女を残して次々とこの世を去った。無理なダイエットがたたり、神経痛に悩まされ、病気がちであった。
常に傘と扇で皺の目立つ顔を隠して、それでも孤独に旅を続けるエリザベートを新聞は、狂気に憑かれた哀れな皇后と同情的に書きたてた。
しかし、ルキーニは認められなかった。息子の遺体の前でうずくまる皇后の写真を手に、これも国民の同情を買うためのキッチュなんだと彼は訴えた。ルキーニは悲惨な人生を送った。
- 937 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:03:22.65 ID:eDXs99x4.net
- 1895年2月マルタン岬のテラス、フランツ・ヨーゼフはエリザベートの旅先を訪れ、満月の夜に二人は再会する。その苦難の人生を象徴するかのように、皇帝の髪と長く伸びた髭はすでに真っ白に染まっていた。
彼は、宮廷に戻らない妻を責めようとはせず、出会いから変わらない愛を伝え、「私の元に帰ってきてほしい」と呼び掛けた。しかし、エリザベートは自分たちを積荷も目的地も違う二艘の船に例え、海上で偶然すれ違うことはあっても、二人が完全に相容れることは今後も決してないと告げると、夫の元を発っていった。
バートイシュルで愛し合い結ばれはずの夫婦が、40年の時を経て、お互いの孤独と愛の限界を再確認するだけの不幸な再会であった。("夜のボート")
- 938 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:05:38.55 ID:eDXs99x4.net
- (晩年のエリザベートの姿を残した写真や絵はほとんどない。彼女が最後に公に姿を現したのは、1896年のハンガリー建国千年の式典である。
皇帝の傍らにただ無表情で座る皇后の姿を新聞は、「現実から離れてしまっている」「死の影に寄り添われている」とも報じている。
体調の悪化に伴い、エリザベートの滞在先も移動が容易なスイスなどの観光地に限定された。この頃になってもダイエットをやめることはなかったという。無政府主義が蔓延る不穏な時代、何度も警察が護衛を申し出るが、エリザベートはこれを拒否している。)
ハプスブルク帝国は戦争で多くの領地を失い、残された地域でも独立を求める民族主義運動が激化していた。
- 939 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:07:13.29 ID:eDXs99x4.net
- また、皇帝の弟メキシコ皇帝マキシミリアンが革命で銃殺、皇后の従兄ルートヴィヒ2世は精神を病み湖で溺死するなど、皇帝や皇后の周辺でも不幸な事件が続いていた。ハプスブルク600年の栄光はすでに過去のものとなり、その滅亡の時が刻一刻と近づいていたのである。
そしてある晩、皇帝フランツ・ヨーゼフは悪夢に魘され、その夢の中で「死」と対峙する。彼の手には、エリザベート暗殺の凶器のやすりが握られていた。
沈みゆく帝国を模した沈没寸前の巨大船のデッキの上で、逃げまどう亡国の住人たちをよそに、エリザベートは虚ろな表情で何かを待つかのようにただ佇んでいた。皇帝は妻を救い出そうとするが、亡霊たちに妨げられ身動きが取れない。
- 940 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:11:09.24 ID:eDXs99x4.net
- そして、ついに「死」はルキーニにやすりを手渡す。その瞬間、阿鼻叫喚の叫び声と共に、皇帝や亡霊たちは次々と光の中へと吸い込まれていった。再び、裁判官の尋問の声が響き渡り、ルキーニが最後の証言を行う。("最後の証言")
1898年9月10日ジュネーヴ、レマン湖のほとり。船の汽笛が鳴り響くと、エリザベートと侍女のスターレイ伯爵夫人が現われる。
二人は蒸気船の乗り場へと向かっていた。突然、すれ違いざまに一人の男が皇后の胸をヤスリで突き刺す。男はその場ですぐに取り押さえられた。
- 941 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:14:58.68 ID:1JNZafHd.net
- 皇后はすぐに起き上がり周りの者を制して桟橋へと向かうが、再び倒れ意識を失う。闇の中、エリザベートが日の光に目覚めると、そこには少女の頃と同じく「死」の姿があった。
彼女は身に着けていた喪服を脱ぎ捨てると、過去のすべての記憶の消滅と、いつ何処とも知れない魂の安住の地での再生を誓い、死と深い口づけを交わした。エリザベート暗殺の18年後、皇帝フランツ・ヨーゼフも崩御する。
彼の死の2年後、ハプスブルク帝国は崩壊、帝国内の各民族は独立を果たし、中央ヨーロッパに新しい時代が到来した。("ヴェールは降りた")
- 942 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:16:53.92 ID:1JNZafHd.net
- ...私が旅に出るたびに、カモメの群れが船のあとについてきた。そのなかには必ず、ほとんど黒に近い濃い色のカモメが一羽いる。
時にはその黒いカモメが、大陸から大陸へと移動する間、ずっと私に付き添っていたこともあった。その鳥は私の運命なのだと思う...(「死」の着想となったとされるエリザベートの詩より)
- 943 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:18:41.49 ID:yycImB1U.net
- ええ話
すごく書くの上手っすね
次エリザ観るとき参考になりまっす
- 944 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:46:24.22 ID:Mj2GpS3m.net
- バカみたいに繰り返しあらすじというかストーリーを書いてる人って何者?
アタマおかしいの?
- 945 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 02:51:46.37 ID:yycImB1U.net
- 初見の人にもよく理解して欲しいエリザマニアさんじゃないかな?
ええやん(え〜やん!)
- 946 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 05:09:18.87 ID:YCM7O3Y/.net
- このコピペスレ嵐は、
どなたかのアンチによる
虚しい戦いなんですよ。
- 947 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 07:42:09.49 ID:LkNH3zXO.net
- >>924
ありがとうございます!
漠然と良かった〜とか感動した〜とか言われるより、こういう感想の方がいろいろ想像できるのでありがたいです
客席降りもあるんだ〜楽しみ!
- 948 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:21:57.75 ID:LoBSh94K.net
- エリザベート -愛と死の輪舞-
概要
小池修一郎が、1992年にロンドンで現地のミュージカル作品の音楽集で興味を惹かれるものを探していたところ、その店の店主からこの『エリザベート』を薦められた[注 1]。
また翌年には、歌劇団に来客として訪れたイスタンブール在住の中国人の大学教授から、『エリザベート』のドイツ語プログラムを受け取ったりもしている。
これらの経緯を経て、日本では宝塚歌劇団が上演権を取得し、1996年に初めて日本に紹介。雪組で、当時トップスターだった一路真輝のサヨナラ公演として初演された。始めこそ評判はいまひとつであったが、次第にチケットが取れないほどの人気が出る。
- 949 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:22:49.04 ID:LoBSh94K.net
- 一路の退団公演だったため「なぜサヨナラ公演で死を演じるのか?」「トップ退団公演で死はおかしい」など当時は疑問視されたが、公演開始後に徐々に批判はなくなった。
また「宝塚版はウィーン版を改竄している」と熱烈なミュージカルファンから批判があったため、東宝版はウィーン版に倣って制作された。
日本人には馴染みの薄い歴史を描いた演目ではあったが、成功を収め、その後も再演を繰り返し、宝塚歌劇団を代表する人気演目に成長した。
また、これが原因で女性を中心に「ハプスブルク帝国ブーム」がおき、その華麗な宮廷生活への憧れなどからオーストリア・ウィーンへの観光客増加を惹起した。
- 950 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:23:12.30 ID:LoBSh94K.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 951 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:23:12.84 ID:TIeXVaOf.net
- 宝塚版とウィーン版の違い
このミュージカルの重要人物である Tod は、ドイツ語で「死」「死神」を表す単語である。日本以外の各国の公演では、その国の言語で死を表す言葉が役名に当てられている(英訳では "Death")。
これは芸術表現である「死の舞踏」や絵画『民衆を導く自由』での例のように、抽象概念(この場合は死)を擬人化するヨーロッパ諸語の慣行によったものである。
宝塚歌劇団での上演にあたって、トップの演じる役が死という設定では問題があったため、この役を「トート」という名前の「黄泉の帝王」に設定が変更された。
- 952 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:24:31.59 ID:TIeXVaOf.net
- また、男役のトップを主役に置かなければならない伝統に則り、エリザベートではなくトートが主役になるよう脚本や演出が潤色された。
そのため、エリザベートと黄泉の帝王とのラブストーリーに重点を置いた宝塚版と、エリザベートと死の絡み合いをハプスブルク帝国崩壊に準えて描いたウィーンをはじめとする各国版では、同じミュージカルでありながら趣が異なった作品に仕上がっている。
- 953 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:26:01.93 ID:TIeXVaOf.net
- あらすじ
煉獄で一人の男が裁判にかけられていた。彼の名はルイージ・ルキーニ。彼はエリザベート皇后殺害の容疑で、彼女の死後100年経った今でも裁判官から尋問を受けていた。
だがルキーニは「俺は望まれてやったんだ」「エリザベートは死と恋仲だった」と言い、それを証明させるためにハプスブルク時代の霊魂を呼び寄せる。その中に黄泉の王トートがいた。
ルキーニは彼らに皇后のことを語らせて、どういう経過になったのかを説明し物語はエリザベートの少女時代へと移る。
- 954 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:26:44.95 ID:TIeXVaOf.net
- 1853年、まだ少女のエリザベートはバイエルン王国の公女として自由を満喫していた。ある時、彼女は綱渡りに挑戦しようとしてロープから落ち、意識不明の重体に陥る。冥界に迷い込んだエリザベートにトートは一目で惹きつけられ、禁断の恋におちる。
トートはエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。こうして、愛と死の輪舞が始まった。
エリザベートはその後フランツ・ヨーゼフと結婚しオーストリア皇后となるも、父に似て自由であることを生き甲斐とする彼女は姑ゾフィーの取り仕切る王家としての公務や義務に耐えられず追い詰められる。
- 955 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:28:02.86 ID:TIeXVaOf.net
- トートに唆されるも、死に逃げず自分一人で生きていく決意をする。その後、姑ゾフィーに奪われていた子どもの養育権を取り戻し確執に勝利するも、忙しさに負け、ようやく取り戻したはずの息子ルドルフを顧みることはなく、ルドルフは孤独な生活を送る。
一方でエリザベートは、自身の美貌が役立つと気付き、それを磨くことに時間を惜しまなかった。過激なダイエットで倒れたエリザベートにトートが夫の不貞を告げ、「死ねばいい!」と誘惑されても、エリザベートは負けなかった。
成人した息子ルドルフは父フランツ・ヨーゼフと対立し母エリザベートに助けを求めるも、宮廷に無関心のエリザベートはそれを拒む。絶望したルドルフは自殺し、トートの死のくちづけを受ける。
- 956 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:29:19.26 ID:TIeXVaOf.net
- ルドルフの死に悲嘆するエリザベートは、トートに死を哀願するも、「まだ俺を愛していない」とそれを拒絶される。
トートが欲しいのはあくまで彼女の愛であった。エリザベートはその後、常時黒の服を身に纏い、旅を続けた。
最後の舞台はジュネーヴのレマン湖。ここでエリザベートはルキーニに襲われそうになり、一度は振り切ったが、トートの叫びを聞いたエリザベートはルキーニに自ら向き直り、刃物で殺害される。
その後エリザベートはトートの愛を信じ、二人で天空に向かう。そして舞台は終焉を迎える。
- 957 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:30:17.63 ID:TIeXVaOf.net
- エリザベート (ミュージカル)
『エリザベート』(原題:Elisabeth)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベトの生涯を描いた、ウィーン発のミュージカル。脚本・作詞はミヒャエル・クンツェ、作曲はシルヴェスター・リーヴァイ。
日本語の題名が『エリザベート』であるのは、日本ではその他の表記(「エリーザベト」など)に比べて、より一般的な単語として認知されているためである。
- 958 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:31:22.03 ID:TIeXVaOf.net
- 作品概要
長きにわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク帝国末期19世紀後半のオーストリアを舞台に、ドイツ地方・バイエルン王国公爵の次女として自由な環境で生まれ育ち、偶然にも皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から見初められ、
16歳でヨーロッパ宮廷随一と謳われる美貌のオーストリア皇后となるが、伝統と格式を重んじる宮廷との軋轢の中で苦しみ、やがてウィーンを離れヨーロッパ中を流浪する日々を送り、
その旅の果てに暗殺された皇妃エリザベートのベールに包まれた半生を、彼女につきまとい誘惑する「死」という架空の存在を通して迫り、これを以って中央ヨーロッパにおける帝国支配の終焉と新時代の萌芽を描いた作品。
- 959 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:32:21.97 ID:TIeXVaOf.net
- 「ブロードウェイ・ミュージカルとは違う世界観の作品を作りたい」との理念の下、グラミー賞を獲得するなどアメリカで作曲家として活躍していたハンガリー人のシルヴェスター・リーヴァイと、
数々のミュージカルのドイツ語翻訳を手がけ、小説家としても成功を収めていたチェコ・プラハ生まれのドイツ人ミヒャエル・クンツェが共同で制作を始める。
ミュージカルの題材として伝説的な皇妃を選んだ理由としてクンツェは、「一つの時代、王朝の終焉を描くと同時に、その最後の時に生きた人々の内面を描きたかった」と言う。
そして、「古い時代を代表するハプスブルク王朝にあって、新しい現代的な感性を持ったエリザベートはその宮廷文化の凋落を予見していた。
- 960 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:33:09.26 ID:TIeXVaOf.net
- その没落する船に囚われ逃れられないと知りながら、誰よりも自由を追い求め、それゆえに死に惹かれていく一人の女性を通して、懐古趣味ではない現代にも通じるドラマを描きたかった」と述べている。
1992年9月3日、オペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演され、6年のロングランを記録する。その後、世界各地で上演されドイツ語ミュージカルとして史上最大のヒット作となった。
日本においては、宝塚歌劇団による1996年の初演以来上演が続いており、2000年からは東宝版も上演されている。
- 961 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:33:54.70 ID:TIeXVaOf.net
- 登場人物
エリザベート - 愛称はシシィ(Sissy)。オーストリア皇后。
死(トート) - 死の抽象概念を擬人化[1]したもので、金髪の青年の姿をしている。シシィが心酔した詩人ハインリヒ・ハイネの若き頃がモデル。
フランツ・ヨーゼフ1世 - オーストリア皇帝でエリザベートの夫。
ルイージ・ルキーニ - イタリア人無政府主義者。エリザベートを暗殺した男。
ルドルフ皇太子 - エリザベートの息子。オーストリア皇太子。
ゾフィー - オーストリア皇太后でフランツ・ヨーゼフの母。
以下は宝塚歌劇団版と東宝版のみ。
エルマー・バチャニー - 革命家。
エルマーを含む三人のハンガリー革命家は日本初演の雪組公演で誕生した。宝塚の若手男役のために作られた役とも、日本で馴染みの薄かったオーストリアとハンガリーの歴史を分かりやすく説明するためとも言われ、後の東宝版でも採用されている。
- 962 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:37:13.17 ID:c7EqDHdh.net
- ストーリー
第一幕 編集
オーストリア皇后エリザベートの暗殺者ルキーニは、暗殺から100年経った後も死者の世界で裁判にかけられていた。彼は皇后暗殺の動機と背後関係を問う裁判官の尋問に、「動機は愛、黒幕は死だ。
なぜ殺したかって?彼女自身が望んだんだ!」と不可解な供述をする。そして証人として、未だに煉獄で自由を得られずに彷徨い続けている、エリザベートと同じ時代を生きたハプスブルク帝国の亡霊を呼び起こし、彼らはエリザベートについて語り始めるのだった。("プロローグ")
- 963 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:38:18.79 ID:c7EqDHdh.net
- ("ようこそみなさま") しかし、一同が縁談の話で持ちきりとなる中、興味を示さず一人で木に登り曲芸の練習をしていたシシィは、足を滑らせ高所から落下して意識を失う。その後、目を覚ました彼女は中性的な美しい姿の青年が自分を抱えベッドに連れ帰してくれたことを感じる。
彼女はそれが「死」だと気づくが、彼に何にも縛られない自由な父親の面影を重ね、強い憧れを感じる。("黒い王子")
- 964 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:39:53.91 ID:c7EqDHdh.net
- その頃、ウィーンのホーフブルク宮殿謁見の間では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが執務机に腰掛け書類に目を通していた。その傍らには「宮廷でただ一人の男」と呼ばれる皇太后ゾフィーの姿がある。
ある死刑囚の母が陳情に訪れる。彼女は自由と叫んだだけで死刑を宣告された息子の減刑を願い出る。1848年に起こったフランス2月革命の余波で、ウィーンでも3月革命が勃発、宰相メッテルニヒが失脚、皇帝フェルディナント1世が退位する事態となった。
革命は鎮圧されたものの、その影響を押さえ込むためゾフィーは当時18歳の息子フランツ・ヨーゼフを次期皇帝として即位させ、反君主制的な動きを弾圧していた。皇帝は母親の悲痛な叫びに苦悩する表情を見せるが、皇太后に促され陳情を却下する。
- 965 :名無しさん@花束いっぱい。:2016/12/11(日) 08:41:45.18 ID:c7EqDHdh.net
- 次に、臣下よりクリミア戦争の情勢について、革命の鎮圧に手を貸してくれたロシア側について参戦すべきと進言を受ける。ゾフィーは「戦争は他家に任せておけ、幸運なオーストリアは結婚で勢力を拡大せよ」
というハプスブルク家の家訓を例にして、戦争には中立の立場を取り、皇帝は縁談の席に出発するよう指示する。("皇帝の義務")
(この旧態依然の日和見的な判断によって、結果としてオーストリアはヨーロッパ大陸におけるロシアという後ろ盾を失うことになる)
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