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中国の王朝で一番好きな王朝

1 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 15:26:59.34 0.net
どう考えても明だろ

2 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 17:33:37.74 0.net
いちばん日本に文化をくれたのは唐

3 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 19:12:05.32 0.net
いちばん日本を邪な目で見たのは孫呉だな

4 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 19:30:58.18 0.net


5 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 21:04:08.97 0.net


6 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 21:57:11.43 0.net


小国のくせに1000年以上も存続したと言われる。
我もこのように細く長く生きたいものよの。

7 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 22:13:53.79 0.net
↓北斉とか言う奴

8 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 22:16:05.63 0.net
北斉

9 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 22:43:38.94 0.net
特にないな
王朝の移り変わりや其の原理を考えるのは好きだけど
好きとかはないわ

10 :世界@名無史さん:2015/08/24(月) 02:28:41.30 0.net
北宋

11 :世界@名無史さん:2015/08/24(月) 15:52:17.22 0.net
南宋かな

12 :世界@名無史さん:2015/08/24(月) 20:50:12.50 0.net
ああっ王莽さまっ

13 :世界@名無史さん:2015/08/24(月) 22:19:14.15 0.net
中山

14 :世界@名無史さん:2015/08/24(月) 22:33:29.80 0.net
閩(但し初代閩王の治世)

15 :世界@名無史さん:2015/08/25(火) 12:22:18.24 0.net
隋の後世への自己犠牲

16 :世界@名無史さん:2015/08/26(水) 01:10:43.60 0.net
南明

17 :世界@名無史さん:2015/08/27(木) 12:22:24.37 0.net
遼かな
陳舜臣の桃源郷読んでそう思った

18 :世界@名無史さん:2015/08/29(土) 00:41:58.16 0.net
宋は確かにいいな 戦争弱いけど文化や日本の寺院建築などの影響も凄いし
ずっと続いて欲しかった

19 :世界@名無史さん:2015/08/29(土) 16:14:30.19 0.net
宋は暴君が少ない
寵臣や宦官の横暴も少ない感じ
版図も満州や雲南を含まず調度いい

20 :世界@名無史さん:2015/08/29(土) 22:30:02.30 0.net
戦国時代の宋や南北朝の劉宋だとだいぶ事情が違ってくるがw

21 :世界@名無史さん:2015/08/30(日) 10:09:33.24 0.net
劉宋は南朝にて最強・・・

22 :世界@名無史さん:2015/08/31(月) 02:51:04.74 0.net
古代の宋は殷の末裔の国だったっけ
だから蔑視されてて宋人は愚か者として書かれることが多かった

23 :世界@名無史さん:2015/08/31(月) 03:04:03.16 0.net
孔子は確か宋の王族の子孫が魯に移り住んだ末裔だな

24 :世界@名無史さん:2015/08/31(月) 03:20:35.18 0.net
ということは本意ならあまり尊敬される出身ではなかったということか

25 :世界@名無史さん:2015/08/31(月) 09:57:02.14 0.net
吐蕃

26 :世界@名無史さん:2015/09/02(水) 17:39:15.79 0.net
歴代で一番好きな魏は?

27 :世界@名無史さん:2015/09/04(金) 21:29:31.73 0.net
明は皇帝権力の拡大がのちの政治的停滞を起こしたからあまり好きではないな。政治面ではね。
文化面では白文とくに水滸伝には子供の頃から美惑されてるから好きだ。

全てのの国では都市や中心地の記録が多く残っているけど、日本で言うところの沖縄の『おもろそうし』みたいな辺境の風物誌みたいなのがあれば教えて。
とくに唐や宋などの古い時代のを。

28 :世界@名無史さん:2015/09/06(日) 00:42:50.03 0.net
思い切り古いところで山海経はどうか

29 :世界@名無史さん:2015/09/06(日) 05:59:38.23 0.net
中国共産党

中国の抗日戦争勝利70周年 軍事パレード
軍事パレードや周辺情勢をまとめてみた。

【動画】
https://youtu.be/ILrTQ0xc-VU

30 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 07:58:37.16 0.net
じゃあみんなに聞くけどタイムマシンがあったらどの王朝の都に行きたい?
俺は唐の長安か北宋の開封で迷うな〜

漢代の長安にも行ってみたい(どんな街並みが広がってるのか見たい)

31 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 08:44:45.43 O.net
孫殯がいた頃の斉の臨シ

32 :世界@名無史さん:2015/09/16(水) 22:53:58.06 0.net
俺は西周の都、宗周(鎬京)だな
そこで幽王が愛妃を笑わせたいがために必死にニセ松明を挙げ捲ってるところを見てみたいw

33 :世界@名無史さん:2015/09/20(日) 17:49:01.21 0.net
俺は酒池肉林が見たい。

ようは乱交パーティだよなw

34 :世界@名無史さん:2015/09/20(日) 22:15:29.29 0.net
毛沢東の中共が
チベットもウイグルも完全制圧しているから
最強ではないかw

35 :世界@名無史さん:2015/09/20(日) 22:39:05.45 0.net
>>30
惜しいところを突いてくるなあ
唐の長安も北宋の開封も魅力的だが
一番は臨安(杭州)

36 :世界@名無史さん:2015/09/20(日) 22:55:54.70 0.net
明の南京と北京にも行ってみたいけどなんか暗そう
国民は平和だと聞くがやっぱり暗そう

37 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 00:29:45.28 0.net
漢代の長安ってほとんど宮殿の敷地で占められてて庶民とか一体どこで暮らしてたのかさっぱりわからん

38 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 01:53:05.41 0.net
漢代→暗い

唐代→華やか

宋代→明るい

元代→カオス

明代→かなり暗い

清代→やや暗い

39 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 02:04:28.93 0.net
>>33
酒池肉林は実際は神々の祭祀を盛んにしてただけって話が…

40 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 02:33:09.99 0.net
後世の漢文では肉山脯林と酒池肉林はほぼ同義語で使われてるが
肉山脯林は夏王朝、酒池肉林は殷王朝に由来し、
本来はまったく別の意味だった可能性がある

41 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 02:35:26.17 0.net
肉林の具体的なイメージが湧かん

42 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 16:16:19.68 0.net
>>33
>俺は酒池肉林が見たい。
>
>ようは乱交パーティだよなw

ちがうよ
お酒のみほうだい、焼肉くいほうだいの、グルメ向きパーティーだよ
(しかも古代のことだから、まっずい濁り酒と、塩ふっただけのまずい焼肉)

43 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 16:19:07.45 0.net
>>41
>肉林の具体的なイメージ

丸太に、口から肛門まで突き刺したヒツジの丸焼きの串焼きを、
床の大穴に突き刺して林立させた、要は「量」だけは大量な
ヤキニク
 

44 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 18:21:53.59 0.net
酒池肉林の時代にはまだ料理なんて発達してなかったから
贅沢するのも量的な贅沢だけで
質的には大して美味いものではなかっただろうという想像は容易にできる。

質的な贅沢もしてるなら「どこの産地の酒」とか「どこの産地の肉」まで書くはず。

45 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 18:28:07.07 0.net
ステーキ・バーベキュー食べ放題したいなあレベルの話でしかないのか・・・

46 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 19:00:17.32 0.net
>>41
東京だとついこないだまで黄河文明展とかちょいちょいやってた印象がある
ああいうの回るといいよ
だいだいほとんどの青銅器って肉盛り皿か酒器ばっかり

>>42-45
だからそれは周王朝の政治的プロパガンダなんだよw
神々の祭儀を盛大に営んでただけw

47 :世界@名無史さん:2015/09/23(水) 08:10:54.51 0.net
>>46
>神々の祭儀を盛大に営んでただけw

だから、祭壇に、
 薄〜〜〜〜いまず〜〜〜〜いどぶろくとか、
 塩ふっただけの焼肉をもりつけた饕餮紋(とうてつもん)のお皿とか、
 イケニエの羊を血抜きした血をひたひたに満たした饕餮紋(とうてつもん)のバケツとか、
 イケニエの羊の内臓を盛り付けた饕餮紋(とうてつもん)の鼎(かなえ)とか
を盛大にならべてたんでしょ?

48 :世界@名無史さん:2015/09/25(金) 19:15:42.29 0.net
スレ違い

49 :世界@名無史さん:2015/09/25(金) 19:31:09.62 0.net
あの時代で酒池肉林の楽しみをするのと、
今の日本で負け組み引きこもり生活を送るのだったら、
やっぱり負け組み引きこもり生活を送るなww
せいぜいSEXくらいしか楽しめそうにないもんなぁ
酒だって、ろくなのがなさそうだし、しょうゆも味噌もソースも
唐辛子もなさそうだし
果物にしても、ブドウはあったか?ミカンはあったか?
スイカ、メロンはとなるとなぁ
殷周の時代で酒池肉林を楽しむのなら、絶対今の日本で
負け組引きこもりを選ぶよ
食べ物だけでも、中華皇帝で今の負け組引きこもりよりもいいものを
食えるようになったのは、唐の時代からかねぇ
それとも宋の時代に入ってからかなぁ

50 :世界@名無史さん:2015/09/25(金) 22:30:50.56 0.net
やっぱ皇帝が楽できて豪華なもの食えるのは唐じゃね
玄宗とかそのイメージだけどやらかして酷い目にあったという

51 :世界@名無史さん:2015/10/07(水) 12:53:02.43 0.net
代国や中山国が好きって人おるんかな?

52 :世界@名無史さん:2015/10/07(水) 16:14:49.00 O.net
呂氏春秋に出ている、鉄の鎧を身に包み鉄の錫杖を持って敵を大いにへこますと書いてある程に屈強だった中山国の兵に関心がありますね。

53 :世界@名無史さん:2015/10/12(月) 07:35:49.42 0.net
なかやまきんにく国

54 :世界@名無史さん:2015/10/12(月) 07:37:27.26 0.net
やはり体格のいい北狄人すなわちチュルク系だったからでしょうか?>>52

55 :世界@名無史さん:2016/03/13(日) 13:44:27.79 0.net
>>49
>肉林
原義では、ヤキニク・パーティーのことだからな
串焼きが林立している様をさす
女性の肉体は関係ない

56 :世界@名無史さん:2016/11/25(金) 17:16:30.24 0.net
ベタだけどやっぱ唐だな。
日本との関わり
国際色豊かな文化
安史の乱以後の変動っぷり

57 :世界@名無史さん:2016/11/26(土) 00:28:06.77 0.net
>>52
鉄の錫杖ってヌンチャクの事なのだろうか

58 :世界@名無史さん:2016/11/26(土) 19:19:30.30 0.net
>>49
あの時代の華北だと主食はコメではなくアワかな?
その点でも侘びしいな
まあ皇帝ならコメも食べられたろうけど

59 :世界@名無史さん:2016/12/05(月) 14:19:30.40 0.net
>>1
袁世凱

60 :世界@名無史さん:2017/05/07(日) 10:10:33.42 0.net
>>43
シェラコみたいなものか。美味そうじゃん。ガウチョ料理のシェラスコみたいだ

61 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 09:57:50.47 0.net
>>58
伯夷と叔斉の故事に因んで、面従腹背を良しとせず、雇い主の許を去る行いを
ナントカの粟をはまず 
とか言うだろ。

62 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 12:13:25.03 O.net
兄弟で山に籠って薔薇を摘んだんだっけ?

63 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 13:09:37.72 0.net
なにその801板の歴女の食い付きそうなエピソードは

64 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:24:55.67 0.net
大唐こそ、中国文明の絶頂期

65 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:27:02.35 0.net
世界の流れから隔絶した孤立感
それが中国史の特徴だ

例外は唐とモンゴル帝国
この2つは中央アジアとダイレクトにつながっていた

66 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:36:42.07 0.net
超巨大帝国

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/%E5%94%90%E7%96%86%E5%8F%98%E8%BF%81.gif/250px-%E5%94%90%E7%96%86%E5%8F%98%E8%BF%81.gif

67 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:41:09.41 0.net
大唐帝国とサラセン帝国が世界を二分

この頃のインドは三国鼎立時代

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg/1280px-Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg.png

68 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:43:28.94 0.net
長安には明教(マニ教)・祆教(けんきょう:祆は示偏に天。ゾロアスター教)
・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、
国際都市としての景観を持っていた。

69 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:56:07.15 0.net
華やかな貴族文化

たおやかな女人

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Chou_Fang_003.jpg/120px-Chou_Fang_003.jpg

70 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:57:00.76 0.net
この時代の文化が最優美

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Chou_Fang_004.jpg

71 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:03:09.79 0.net
唐の前半は西域の影響を強く受けたが、次第に国風文化へと移行した

http://fc.life.com.tw/upload_file/14/content/f78eb787-54ad-0254-30ad-8c2bb64103f4.jpg

72 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:06:13.36 0.net
後の時代よりも、唐のほうがずっとグローバル化していた

この頃は、日本も東アジアとダイレクトにつながっていた

その後、グローバル化が後退したのはなぜなのか?

73 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:19:08.62 0.net
まあ、古来から言い古されてきた疑問だが

74 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:22:26.02 0.net
ひとつには、海洋貿易が中心になってきたため、陸路のシルクロードが衰退した

唐とサラセン帝国の国力が衰え、中央アジアへの影響力が低下した

外来文化は、もう十分に取り入れたので、もういいやとなった

75 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:26:49.40 0.net
この歴史的な事例を見れば、現代のグローバリゼーションの流れも、やがて反転するのかもしれない

日本や中国が、欧米の文化を取り入れなくなり、国風文化へと移行するということ

76 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:33:17.92 0.net
中国は、首都を西安に移せ

77 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:38:55.95 0.net
ウイグル人のテロリストは、現代の突厥

突厥の脅威から国を守るための城塞都市は西安

78 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:42:44.46 0.net
かつて西安(長安)はシルクロードの出発点でした。

そのシルクロードで大きな役割を果たしたのがイスラム人で、ここ西安の回民街
(回民というのはイスラム人のことですから、日本語に直せば「イスラム人街」になります。)
の近くには西安大清真寺(モスク)があり、かつてはイスラム教徒が数多く住んでいたのでしょう。

今では西安随一のB級グルメ街になっていますから、
ここで店を出している人たちすべてがイスラム教徒だというわけではありません。

http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantown00.jpg

79 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:51:38.28 0.net
華やかな貴族文化といわれる唐代だけど、
建物も陶磁器も、明代あたりと比べると、
とても素朴だった

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Da_yan_ta.jpg

80 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:57:30.57 0.net
唐三彩

絢爛豪華な明の万暦赤絵とかと比べたら、とても素朴な陶器で、
弥生時代のハニワよりはマシという感じなんだけど、
これでも当時としては最先端の工芸品で、周辺諸国の憧れのマトだった

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Westerner_on_a_camel.jpg

81 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:10:42.34 0.net
よく思うのだが、漢や唐の大帝国ぶりを歴史地図で見ると、
同時代の日本の状況のささやかさと比べて大差を感じるんだが、
実際に国立博物館で骨董品を見ると、漢代のものは、
やっぱり弥生時代の土器や青銅器と大差ない。

もちろん、漢は先進国だから差がないわけじゃないのだが、現代人から見れば
あまりにも素朴で、似たようなものだ。まあ、同時代だから当たり前なんだが。

ていうか、あれでよく大帝国を作れたもんだよ。
あんなアフリカの原住民みたいなレベルの人たちが、
大軍を編成して広大な領域を制圧した。
人間ってのは、不思議なもんですな・・・。

82 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:20:43.97 0.net
オリエント博物館で古代メソポタミアの粘土版を見ると、
4000年以上も前のイラクの文化水準の高さに衝撃を受ける。

縄文時代に、これかよ・・・という感じ。
さすがに、同時代の日本じゃ考えられないレベル。

やっぱり、中国の水準が大幅に上がったのは、
唐の時代にシルクロードを通して西域の文化を
導入したときだと思うんだな。
それまでは、明らかに世界最先端は中東の西アジア。

中国信奉者の人には悪いけど、やっぱり、そうとしか思えない・・・。

83 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:32:06.29 0.net
>>69
小さくて見えないよ
この全体図を貼れ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/Zhou_Fang._Court_Ladies_Wearing_Flowered_Headdresses._%2846x180%29_Liaoning_Provincial_Museum%2C_Shenyang..jpg

84 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:34:43.69 0.net
>>76
わざわざ貧しい地域に遷都することは無かろう
順当なら最も豊かで文化の中心でもある地域、つまり江南
だから遷都するなら南京がふさわしいだろう

85 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:37:43.48 0.net
日本史の教科書には、「平安時代の日本では、逃亡する農民が増えて、
貴族の荘園も増えて、律令制が崩壊しました。」と書いてある。

「当初は大陸から文化を導入しましたが、やがて国風文化に移行しました」
とも書いてある。

実際のところ、唐の歴史もこれとよく似ている。
同じように、律令制が崩壊して貴族の荘園が増えた。
当初は西域から文化を導入したけど、後には中国風の文化に移行した。

平安時代の日本には帰化人が多かったが、やがて土着の日本人と融合し、新しい日本人が形成された。
唐の時代の中国も、これと同じような状況だった。

こういう東アジアとしての同時代性に、もっと着目してよいんじゃないかと思う。

86 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:44:33.18 0.net
というのも、数年前に、「中国の文明は、宋の時代に完成した。
日本はそれを追いかけて、江戸時代くらいでやっと宋のレベルに達した」
というような本が出てたのだが、それは全くおかしい。

確かに、宋は当時としては大変な先進国で、同時期の日本とはかなりの差があったが、
ほぼ近代国家に近い江戸時代の日本と並べるのは、いくらなんでも無理がある。

中国のことになると、どうも客観的な判断ができなくなる人が多いようだ。

87 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 10:08:19.77 0.net
日本からの遣唐使は、長安で皇帝から下賜されたものを、市中で交換して本を買い漁った。

日本人が欲しかった本はいろいろあるが、その最たるものは仏教の経典。

玄宗皇帝から「なぜ、道教も伝えないのか?」と文句を言われても、日本人の関心は仏教にあった。

88 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 10:13:13.10 0.net
戦前の皇国史観教育の反動で、戦後の復興期には、
「未開の土人国だった日本は、世界の中心の中国に遣唐使を送って、
先進国の文物を学びました」という自虐史観がやたらと刷り込まれたため、
その頃に教育を受けたクソマジメな爺さんたちが、今でもそれを信じ込んでいる。

たしかに、そういう面もあるのだが、日本人が唐で最も得たかった情報が何だったかを考える必要がある。

それは、なんといっても仏教の経典。

つまり、それは信仰の問題であり、宗教的情熱が最大のモチベーションだったことを忘れるべきでない。

89 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 14:17:30.01 0.net
十字軍みたいな話だな

90 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 17:50:25.27 0.net
吉備真備が持ち帰ったものは続日本紀に書いてある

入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

つまり
礼儀に関する本、暦に関する本、音楽に関する本だね
礼儀は律令制運営に必要な政治書
暦は当時の最新天文学だね

91 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 19:11:04.69 0.net
>>81
青銅器は知らんが、陶磁器について言えば漢代の頃にはすでに自然釉じゃない釉薬が使われてるぞ
日本で意識的に釉薬が使われるようになったのは奈良時代

さすがにここら辺の技術差を無視して大してかわんねーwwっていうのは無理がある
漢代に万暦赤絵レベルのものが出てこないと納得できない人?

あと、黒陶っての見たことある?
陶器なんだが、最初実物見た時はどうして陶磁器の並びにいきなり金属器が出てきた?って首をかしげるくらい完成度が高い
これ、龍山文化だからBC2000くらいだぞ

日本age中国sageの昨今流行りのイデオロギー持ってる人か知らんが、さすがに乱暴だわ

92 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 19:40:43.73 0.net
いや別に、日本アゲ中国サゲしたいわけではない。
朝鮮人じゃあるまいし、「どっちの国の格が上か下か」なんてことに
コダワってるわけじゃないんだな。

それよりも、「未開の土人国だった日本は、超大国の唐に使節を送り、
先進的な文化を学びました」というイデオロギーを刷り込まれたおかげで、
唐のイメージがどうも歪められている。

というのも、自国のことだけに、奈良や京都のことはよくわかる。
しかも、平安時代の貴族の日記やら絵巻物やらが多量に残っていて、
千年前のことが妙に詳しく分かっている珍しい国だから、
奈良時代や平安時代の日本のことは、よく分かる。

それを基準にして「遥かに先進的な文明でした」と言われると、
どうしても近代に近いような、近世レベルのイメージになってしまうんだが、
それにしては、唐の建築やら陶磁器やらを見る限り、
やっぱり、素朴な古代人という感じしかしない。
明や清のそれと比べたら、原始人に近い・・・。

93 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:01:54.40 0.net
唐三彩の人物俑も、「ラクダに乗った人」とか、西域っぽい。

日本の雅楽を見れば、唐の音楽が分かる。
西域から伝来した西アジアの楽器だ。

やっぱり、唐は基本的に「遊牧民帝国」と思うんだけどねえ。
まあ、「右翼だ、反中だ」というのなら、それでいいけどな。

94 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:45:25.08 0.net
それは別にしても、唐の文化が最優美なのは事実

95 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:46:45.46 0.net
現代でいえばアメリカのような存在だ

ひとつの国というより、「世界の半分」という感じ

96 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:47:09.32 0.net
いや、それはイランのどこかの街のことだったな

97 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:48:23.83 0.net
>>83
デカすぎてスマホじゃ表示されない

98 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 22:23:54.83 0.net
>>91
黒陶の黒い色の成分は鉄

だから外見は南部鉄器みたいに見える

99 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 23:46:17.24 0.net
唐は移民国家で、民族のルツボ

「アメリカ合衆国」に似た国

100 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 04:19:46.51 0.net
>>93
なんで西域趣味が流行ると基本的に遊牧民帝国とやらになるのか意味が分からない

101 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 07:14:26.06 0.net
そりゃ、唐の建国者たちが遊牧民だからだろ

102 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:25:50.00 0.net
農耕民族が、あんな砂漠の奥深くまで侵攻するかいな

103 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:26:26.29 0.net
ペルシャの歴史でいえば、「パルティア」あたりに相当する

104 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:30:24.43 0.net
中国崇拝者が最も礼賛するのは宋

105 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 18:30:21.23 0.net
宋の趙匡胤も胡族の出身

106 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 18:31:50.83 0.net
中国の領土は、宋くらいで十分

107 :世界@名無史さん:2017/06/22(木) 01:40:09.05 0.net
北京が好きなので燕とか中山国とか金がいいや
漢人王朝じゃなくてもいいし元でもいい
統一的な大王朝は興味わかない
日本とのつながりなんて一番どうでもいい

108 :世界@名無史さん:2017/06/22(木) 06:01:30.11 0.net
中山国は、今でいう石家荘あたりなんだっけ?

109 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:55:24.59 0.net
なんたって、統一鮮卑が一番

110 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:55:42.27 0.net
檀石槐が14、15歳くらいになった頃に、別部族の大人である卜賁邑(ぼくほんゆう)が檀石槐の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。

母の部族が襲撃されたと聞いた檀石槐は激怒し、単騎で卜賁邑を追撃し、母の部族の牛や羊を取り返した。

それ以来、檀石槐の名は諸部族に轟いたという。

111 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:59:27.58 0.net
檀石槐が大人の位に就くと、高柳の北、300余里の弾汗山(だんおさん)、啜仇水(せつきゅうすい)のほとりにその本拠を置いた。

東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。
その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令の南下を阻み、東では夫余を撃退させ、西では烏孫に攻撃をかけた。
かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、
南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/%E9%AE%AE%E5%8D%91%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png/400px-%E9%AE%AE%E5%8D%91%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png

112 :世界@名無史さん:2017/08/30(水) 19:37:26.07 0.net
北京・・本土防衛の要
南京・・天下の台所
洛陽・・天下の中心
長安・・天然の要害

どこに首都を置くが肝だな

113 :世界@名無史さん:2017/08/30(水) 20:19:46.40 0.net
>>88
遣唐使より唐が日本に派遣した遣日使のほうが多い
実際に影響を受けていたのはむしろ唐のほうで、日本は古代から中国を通して世界に影響を与えていた文化強国だったということが
真実に目覚めた保守派の中高年男性の間では常識になっている

114 :世界@名無史さん:2017/08/31(木) 19:54:32.32 0.net
>>65
秦 …… 西方の異民族とされた勢力から中原を支配
漢 …… 中央アジアに本拠地を持つ匈奴の属国
北魏 … 中央アジア出自の鮮卑人の王朝、グレコバクトリア諸国との交流濃い
隋 …… 鮮卑人の王朝。唐の帝室とは閨閥関係
遼 …… 中央アジア出自の契丹人の王朝。支那の支配権を失うとトランスオクシアナ、イラン南部へと遷る(カラ・キタイ、ケルマーン・ヒターイー)
宋 …… 遼および西夏(タングート)に貢納
清 …… イェケ・モンゴル・ウルスの後裔として、チベットの盟邦且つトルキスタン諸国の宗主を主張、東トルキスタンを支配

115 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 12:08:14.68 0.net
>>113
そうなの?
奈良時代・平安時代ったら、まだ日本はまだ後進国だよ。
唐王朝ったら東西に広く勢力圏を持っていた鮮卑拓跋が支配層で、品だけでなく西方からインドから技術物産をかきあつめてこられる大帝国だかよ。
そんなところに日本がどんな影響与えてたの?

116 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 12:28:04.99 O.net
流れ豚切り失礼。
宋や明にはかなりの数の日本刀が輸出されている筈だが、
向こうに現存する物は無いの?

117 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 19:29:53.95 0.net
>>115
中国人に言わせると
楊貴妃もクールジッポングクファンションらしい

118 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:24:00.33 0.net
周、後周の時代(戦国まで)
漢の時代(秦から後普まで)
隋、唐時代
宋明の時代(遊牧服従朝)
清の時代(統一朝と内乱の集結と人口爆発の時代)

中国の時代は戦国まで5個の区分にわけられる
周の時代は神話的要素や想像加筆要素が大きく、史実の根拠性は弱いが、中原周は人口は当時の日本やASEANと比べてもそう多くない(1.5-2倍)の未開集団で王朝じゃなく、事実上の首長国

秦漢王朝は正当王朝と諸侯の時代。諸侯と王朝という伝統的王政が維持された時代

隋朝は対外的に国家的イニシアチブ、盟主性を確立したにもかかわらず、下劣なレイプ王の身内NTRで内政信用と対外信用をうしなって、王の崩壊につながった

119 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:24:55.13 0.net
宋、明は下賤が卑しい企みで王になったら、無能すぎて下劣な服従朝になった。王族は事実上の覇者の金、北元の貯金箱、奴隷であり
所詮匪賊である遊牧民のたかりで国土が荒廃した。尚宋と明年間の500年間は人口成長が停止していて
国土が荒廃したやばい時代だった。明末期は虐殺と震災で人口の10-15%が消失(離散含む)したほど荒廃してた

清は国土統一、遊牧反乱を無力化させ500年の遊牧の乱を鎮圧して服従させる
国家が一個の政府として統率し、主導権を維持できたためこの偉業は大きい
しかし経済的に人口爆発+農奴という荒廃モデルという麻薬をつかって、人口爆発病がおきて国家は荒廃した。
中国の清の人口爆発異常で、実は18世紀までは1.6-2億人しか人口いなかったのに、そこから崩壊時の実3.6-3.8億までの人口爆発は賠償や敗戦で政府が衰退する間におきた
中国は19世紀衰退年間だったにもかかわらず、人口爆発は止まるどころか、かえって人口爆発のペースは上がった

中国清の時代は敗戦の影響もあるが、いわゆるアフリカ経済のような貧困マイナス成長モデルになっちゃうんだよな。
でも人口増えれば赤字が補填できるから人口成長に歯止めがなかった

120 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:25:40.31 0.net
尚以後国民党の大乱で人口成長は停滞してたのだが、日本が満州国を中心に中国の農業生産を爆発的に増やしたため、満州国建国以降13年間で人口は4000-7000万人増えた。

人口成長は17世紀中期から18世紀末で2.5倍
清崩壊までに2倍
1910-1932で+4000万
1932-1945で+6000-7000万(5億到達)
1945-1960で+1.5億人(満州の農業生産の伸び)
1955-1970年間で1億人(これは相対的に制作による極地飢饉を招く)
1970-1980年間で2.5億人(この時点で人口10億人)

121 :世界@名無史さん:2017/09/04(月) 19:43:49.92 0.net
チャイナの統計は盛りすぎて信用できんw

122 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:42:38.01 0.net
飛鳥時代や奈良時代の日本は、ものすごい大昔の古代社会に思えるのに、唐はなんとなく、それほど大昔のように感じない。
 
四千年の歴史の中では、比較的最近の王朝だ。

まあ、エジプトとかイラクにも言えることだけど・・・。
 

123 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:44:51.74 0.net
宋は、弱体ぶりで際立っている。

契丹に朝貢していた。

ベトナムにも攻め込まれる始末。
 
この時代には、大理国や西夏国、吐蕃国など、東アジアに多くの国々があった。
 

124 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:49:24.15 0.net
唐は、本質的に遊牧民の征服王朝だった。
 
でも、なんとなく漢族の王朝だったようなイメージを定着させることに成功している。
 
「中国の栄光の歴史」として、真っ先に語られるのは唐だ。

125 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:52:47.74 0.net
大唐帝国はまさしく、歴史のロマン

126 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:54:39.22 0.net
唐は、アメリカ合衆国のような移民の国で、人種のルツボのグローバルな帝国

そこに現代性を感じるのではないか

127 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:55:15.57 0.net
唐の時代の中国が、最もグローバル化されていたように思える

128 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:56:47.64 0.net
しかし、「奴隷制だった」というのを理由に、唐を「古代」に分類する人もいる

129 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 02:43:56.49 0.net
>>122
チャイナは律令制が20世紀頭まで続いたからな
そりゃ源平合戦とか言うとすげー昔だが、辛亥家名とか割と新しいでよ

130 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:14:54.52 0.net
つまり中国は、唐から清までたいして変わらなかったということか

131 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:52:34.47 0.net
世界史の資料集を読んでいて、
中国の唐王朝の領土が西にかけて非常に横長く伸びていることに気づいて不思議に思ったことはないでしょうか。

今回は、その西に伸びた場所にあったオアシス諸都市が、
いかにして中国と経済的に結びつきを強め、そしてその支配下に入っていったかを書いていきます。

132 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:03.36 0.net
モンゴル高原や中央アジアは、匈奴や突厥といった遊牧民族が縦横無尽に駆けまわった地です。
ソグド人やオアシス諸都市は彼らとうまく共生関係を築き、半ば影響下にありました。
生活必需品を売ったり買ったりの関係もあったでしょうし、交易のパートナーでもあったことでしょう。
4〜8世紀は遊牧民族が大移動を行い中原の農耕民族と衝突を繰り返した時期にあたり、それに伴いソグド商人も活発に東方に進出を始めることになります。
遊牧民族の鮮卑が中国北方に打ち立てた北魏や、その政策を受け継ぐ隋王朝の時代、ソグド商人は中国に進出していき、先述の聚落を各地に作りネットワークを広げていきました。

133 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:29.47 0.net
現在の河西省、北にはモンゴル、南には青海省のある内陸の地に、5〜6世紀頃から多くのソグド人聚落ができ、活発に商業活動を行うようになりました。
この地は、本拠地のソグディアナも近い上に、モンゴル、チベット、華北への交通の要衝にあったため、河西を拠点に多くのソグド人が交易に従事しました。
中国人にしてみたら、ひいては遊牧民族と近い者たちが華北の目と鼻の先の河西で幅を効かせている、ということになります。
隋の為政者たちは、河西のソグド商人たちを王都・長安に誘致し、西域のマネーを中原に取り込むと同時に、ソグド商人と遊牧民族の連携を絶とうと試みました。
この政策は後の唐王朝に引き継がれ、結果的に前代未聞の大帝国を築くに至ります。 

134 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:55:03.67 0.net
7世紀前半に確立した唐王朝は、ソグディアナを含む西域世界を版図に取り入れて幹線を帝国の各地まで完備することで、
これまでせめぎ合いを続けてきた農耕民族と遊牧民族が融合した一大帝国を構築しようとしました。
これまで独自の統治を行ってきたソグドの聚落も一様に唐の支配下に入り、唐の統治理念に基づきソグド人たちも他の漢人と同様に「百姓」となりました。
ソグド人の漢化は進みつつも、言語や風習、そして交易ネットワークは変わらず据え置かれ、合法的に遠隔交易が可能でした。
逆に競合が少ない状態となった交易はソグド人にとっては独壇場になったことでしょう。

135 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:59:22.39 0.net
北魏や隋・唐といえば、「漢人化した王朝」ということがしきりに強調されるし、そういうイメージが定着している。

でも、実際にはおそらく、これらの王朝の支配者は、遊牧民の性質を濃厚に維持していたと思われる。

「シルクロードの遊牧帝国」というのが、これらの王朝の本質だろう。

136 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:02:14.37 0.net
唐とイスラム帝国の時代というのは、シルクロードの時代だった。

それ以前は、東西交易がこの時代ほど盛んになっていなかった。
 
それ以後になると、海洋貿易が主流になり、中央アジアを通る陸路が衰退する。
 
シルクロードは、この時代における最大の特徴。
 

137 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:03:14.07 0.net
しかし、唐もイスラム帝国も、ものすごい大昔であるにもかかわらず、中国と中東に
数千年の歴史があるおかげで、わりと最近のことに思えてしまう。

138 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:12.89 0.net
当時全国の政治・文化の中心であった唐の長安は、城内に坊と市を持つ。

坊は住宅区、市は商業区で、坊と市は区画されている。

市は東市と西市の2つがあり、東市は220の区画があり、四方に立派な邸宅が並び、ありとあらゆるものが集まっていた。

139 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:56.93 0.net
唐の長安城は明・清の北京城よりも24平方キロメートル大きく、当時世界最大の都市。

最も広い大通りは幅220メートル、東市の大通りは幅約15メートル。
西市の東西と南北には各2本の大通りが走り、市内を9つの区に分割している。
各区の四方にはいずれも大通りがあり、各業種の店舗が道沿いに軒を連ねていた。
一般的な店舗の面積は2小間、大きくても3小間だった。
出土した遺物をみると、西市には飲食店や宝石店などのほか、加工用の工場(手工業)もあった。

140 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:27:35.70 0.net
 西安市の東部・南鉄炉廟村の北高台にある青龍寺が、入唐八家のうち空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の6人が修法を授かった地であることは、特筆すべきである。

141 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:02:13.44 0.net
中国人は、唐の時代を最も栄光の時代と見ている。

京都や奈良に来ても、「唐の文化だ」と言い出す。

遣唐使の話を、恩着せがましく言う中国人も多い。

まあ確かに、その後の中国が、意外とパッとしないのは事実(笑)。
唐こそ、中国文明の最盛期だったと言えるだろう。

142 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:05:08.03 0.net
いま、中国は中央アジアに勢力を広げようとしている

大唐帝国の再現だ

143 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:34:58.70 0.net
実際のところ、現代の状況というのは、過去のイメージまで大きく左右する。

中近東・欧州・東南アジアのように、現代においてバラバラな国に分かれているところは、昔からそうだったように思える。

中国やインドは、昔から統一された1つの国だったように錯覚する。

北京人や上海人が、唐の長安の歴史を誇るのは、オスマン人がバグダッドやカイロの歴史を誇るようなものだ。

実際には、唐の長安と、中華人民共和国の北京は、人種的にも地理的にも文化的にも、ほとんど関係ない。

144 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:40:35.03 0.net
もしも、毛沢東が中国を再統一せず、バラバラな状況が続いていたならば、いまごろはきっと、北京と陝西省が別の国に見えていたことだろう。

北京人や上海人にとっての西安は、ロンドンやパリにとってのギリシャ・イタリアみたいな存在になっていただろう。

145 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:42:47.00 0.net
しかし、北京と陝西省は、意外と言語が似ている。

どちらかといえば、その間にある山西省のほうが、険しい山岳地帯にはさまれているせいか、言語が大きく異なる。

まあ、日本でも、関東と九州の違いより、その両者と関西の違いが大きいように思えるが(笑)

146 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:48:22.33 0.net
しかし、なぜか朝鮮人も、「唐の文化が日本に影響を及ぼしたニダ」といって威張ることがよくある。

朝鮮人の意識内では、彼らは唐の一部であり、日本は違うのかもしれない。

147 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:53:06.89 0.net
「日本人が反中・嫌韓なのは、中華秩序に対する反抗の表れニダ」という論調も、しばしば見かける。

そんな中華秩序など、日本人の意識には何の影響も及ぼしていない。

単に、中国が軍事的な脅威であるだけだ(笑)。

148 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:28.88 0.net
中国ネット「日本人は唐を神のように敬っている」日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり
2016/11/02 10:05

149 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:52.73 0.net
日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり=「日本人は唐を神のように敬っている」「中国人は現代日本を崇拝している」―中国ネット

150 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:05:54.66 0.net
2016年10月26日、中国のポータルサイト・今日頭条は日本の教科書から古代中国への崇拝っぷりがよく分かるとする記事を掲載した。

記事は日本の学校で使用されている歴史の教科書を紹介。

夏王朝の存在を認めてはいないものの、殷、周王朝の時代から、春秋時代、戦国時代、秦による中国統一、日本人の好きな三国時代、隋、そして日本が大きな影響を受けた唐の時代と、
領土の地図を細かく記しており、特に唐王朝に対する崇拝っぷりがよく分かるとした。

さらにその後の宋、元、明、清を経て、日中戦争の時代になると、明らかに中国への蔑視的な態度が教科書からも見てとれると主張した。

151 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:08:00.34 0.net
確かに、唐に対する日本人の思いは、崇拝といっても言いすぎでないように思われる。

高天ヶ原や竜宮城に住む天女は、唐の高貴な女性のような髪型で羽衣を身にまとっている。

唐こそは、憧れの理想郷。

152 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:29:29.34 0.net
唐宋変革とは

元々力の強い唐は中央集権体制
いわば、国が一括して民を統括してました。
そのため3つの大きな仕組み
・均田制
・租庸調制
・府兵制
が樹立されました。
均田制は"国が"国民に対して均等に
田畑(土地)を分配する事。
租庸調制は租(穀物)庸(労役)調(布)にわけて
わかりにくくし徴収する事です
府兵制は普段は農民、戦争があれば
兵士になる。いわば兵農一致です。

153 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:52:14.76 0.net
しかし、玄宗や安史の乱などで
唐という国は弱体化し
国民からの信頼も衰退しました。
そのため中央集権体制から
地方に任せる地方分割体制に変化。
それに伴い以下の3つも変化。
・均田制→荘園制
・府兵制→募兵制
・租庸調→両税法
になりました。
荘園制は貴族などによる大土地所有者(地方で力を持っている人)に土地経営を任せる。
募兵制は府兵制だと農民は不満ですよね?
戦争があると兵士になるため
農作物が作れません。。。
そのため希望者のみ、となりました。
両税法はわかりにくい事をやめ
夏と秋に徴税する事になりました。
要するに、農民のご機嫌取りです。

154 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:56:12.69 0.net
唐は、貴族社会で、移民社会で、仏教文化で、シルクロード文明で、華夷融合で、社会主義体制

中国の歴代王朝の中でも独特の存在だ

中国史の中でも、唐と宋の違いが一番大きいと言われている

155 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:26:52.84 0.net
まあ、どの王朝も、それぞれに独特なんだが

156 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:29:00.23 0.net
最近は、中国政府による中央アジア進出計画のおかげで、唐のシルクロード支配が改めて注目されている

その意味で、唐はいま時流に乗ったテーマ

157 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:29:00.93 0.net
ソウトウに違う

158 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:30:16.83 0.net
しかも、今の朝鮮半島情勢と、それを巡る周辺大国の動きが、唐の初期を思わせる

159 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:03:13.14 0.net
長安は、都でなくなって千年以上がすぎており、今では単なるゴミゴミした地方都市になった

160 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:04:43.06 0.net
中国人が、京都や奈良に来て歴史と文化に感心するのはそのせい

まあ、京都も、寺と神社が多いのを除けば、単なるゴチャゴチャした地方都市だが

161 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:24:20.72 0.net
中国人は器がでかい。
雑胡でも皇帝なることはできるし、
死後百年たっても燕の地では英雄扱い

広州ではムスリムのアラビア人が南漢を建国
まかり間違えば、阿倍仲麻呂だはないが日本人でも皇帝になれるかもしれない

162 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:10:37.16 0.net
>>131
唐の皇帝ではなく、拓跋の河汗として、西の遊牧圏と同盟を結んでいた、という程度のものだろ

163 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:12:00.85 0.net
>>161
中国人は数ばかりいても基本アホなので、有能な外部勢力に支配してもらってようやっとこ国の体裁を為しているというような時代が多かった

164 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:14:15.27 0.net
日本も、平安時代の貴族社会と、それ以後の武士の世で大きく違うけど、中国も、唐とそれ以後の違いが非常に大きい。

日本の場合は、東国に武家政権ができてからも、京都の貴族はしっかり続いてた。
室町時代には京都に幕府ができたし、江戸時代になっても京都の文化的な優位が続いた。
関東に政治権力が移ってからも、日本人は仏教を信仰し続けた。

中国では、唐末に貴族が大粛清されて貴族階級が消滅し、しかも長安から都が移って二度と戻らなかった。
仏教も、宋の後半あたりから衰退し始めた。
    
大陸の歴史は、日本のように漸進的ではなく、断絶がある。
 

165 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:15:53.82 0.net
明の時代の江南は、近代資本主義の一歩手前といえるほど経済が発展した。

技術も資本も市場も、すべてがそろっていた。

ただひとつ、「資本主義の精神」が欠けていたが、それ以外のものは、すでにそろっていた。

まさに世界の最先端。ほぼ近代国家のレベルに到達していた。
 

166 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:12:46.86 0.net
明朝は面白い時代である。今の中国に似ていると言われる。

この王朝の影響は今日の中国のいたるところに見られる。

いわば、現代の基礎は明朝にあると言っても過言ではない。

167 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:14:08.21 0.net
現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの
(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、
『西遊記』は唐が背景である伝奇、『唐詩選』は唐の文化のピーク、
『水滸伝』は北宋のストーリーである)はほとんど明代にできたものだと言える。

言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。

168 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:15:51.28 0.net
中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。
また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。

北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。
万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、
実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。
故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。
明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。

169 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:23:48.52 0.net
>>166
すぐ粛清したりとか一族皆殺しとかインド洋方面にちょっかい出したりとか?

170 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:15:48.87 0.net
明では、官僚の汚職を厳しく取り締まっていた。

見せしめで処刑することも多かった。

171 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:18:09.23 0.net
明朝はその後期に大きな社会変化があった。
明では、商業経済が大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。
人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。

それにともない、様々な問題も出てきた。
奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。
しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。

もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。
しかし、歴史は仮定できないことである。
明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。
明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。

172 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:20:36.08 0.net
しかしながら、奢侈がもたらしたよい面もあった。紡織業、手工業、食品加工業、製陶業、製紙業などの工業に進歩が見られた。

江南地域の絹織物業を例としてあげると、生産規模、産業分業、品種、質量などが新しい段階に入った。しかも、機戸と機工の間に、賃金契約関係が成立した。

言い換えると、江南の紡織業に中国歴史上初めての資本主義の萌芽が見られたのである。食品加工業、成衣業なども商業化、専門化した。工業のほか、第三産業サービス業でも大きな発展があった。市民に仕事の機会を提供し、庶民に利益を獲得させた。

173 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 06:58:33.59 0.net
北魏と隋唐は鮮卑、宋は突厥沙陀部、遼・金・元はいうに及ばず、清は満州

漢族による王朝は明だけ

174 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:19:33.73 0.net
それにしても、小中学校の日本史の授業では、「奈良時代の律令国家が崩壊して、平安時代には貴族の荘園がひろがりました」という話がやたら強調され、徹底的に刷り込まれた覚えがある。

北魏や隋唐の律令制も、同じようなプロセスをたどって崩壊したはずなんだが、高校の世界史では、そこはあんまり強調してなかったな?

175 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:23:30.36 0.net
宋になると、「地主階級」が台頭して、地主の子弟が科挙官僚となり、支配層を形成する。

日本が貴族の世から武士の世になったように、中国も貴族の世から科挙官僚の世に変わった。

このあたりのストーリー展開で、高校の東洋史を分かりやすくできるんじゃなかろうか?

176 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:24:35.20 0.net
しかし、平安時代の日本には最強貴族の藤原氏がいた。

唐には、王氏も謝氏ももういない。

177 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:27:18.25 0.net
やはり、中国はデカくて複雑だ。

日本史ほど単純なストーリーにはしにくい。

178 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:31:04.36 0.net
隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、
その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、
その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。

179 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:32:32.98 0.net
唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。

初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。

これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。

180 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:35:35.62 0.net
解決済の質問

山東門閥の由来、起こりを解説してください。

181 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:37:06.77 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏を代表とする山東門閥ですね。

起源は西晋崩壊時の混乱期です。この時期、琅邪王氏、陽夏謝氏など華北の有力貴族の一部は東晋の建国者である司馬睿と共に江南にくだり、
南朝の支配階級を形成したのですが、華北に残留し五胡の支配下に降った漢人貴族もいました。

この残留した漢人貴族が山東門閥(山東貴族)の先祖です。
彼らは異民族の浸入による混乱と分裂の華北で、その異民族の支配下に甘んじ、地方官職などにつき、漢人を統治していましたが、華北が北魏に統一されると、漢化政策が始まる前後から、その中央政府に出仕する者も現れます。
北魏・太武帝に仕え司徒にまで登った崔浩(清河崔氏)などはその代表的人物です。

その後、北魏の分裂に伴い、山東貴族は東魏→北斉に仕えます。
北魏、東魏、北斉は共に王室は鮮卑系なのですが、この中で山東貴族は鮮卑の貴族(元々は漠北の部族長)を差し置いて最高の家格とされました。
これには府兵制が深く関わっていたとされています。
つまり、王朝の皇帝は元々の出身が北方の騎馬民族でも、中国(中原)で帝位に着くと中央集権を目指し、
それまで同格(多くの北方遊牧民の指導者は部族連合体の長でしかない)であった同じ部族長らの武力を当てにしないで済むように自身が直接指揮権を持つ(将軍の任命権を持つ)政府軍(府兵)を持ちたがった事が原因です。
漢族の府兵を組織できたら、遊牧貴族は不要になり、漢人貴族(この場合は山東貴族)が最も扱いやすかったんですね。

山東貴族が仕えた北斉は西魏→西周から譲りを受けた隋に滅ぼされてしまいますが、
隋・唐で支配者層を形成した関隴貴族より家格は山東貴族が上と目されているようでした(『貞観氏族志』参照)。

その後、自身も関隴貴族の末端にありながら、その関隴集団よりの支持を期待できない則天武后により、
山東貴族は取り立てられ盛唐から中唐、末唐にいたるまでおおいに栄えました。

182 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:40:30.21 0.net
玄武門の変が、関隴集団と山東貴族の対立、というのは有名だけど、地域的に考えて当然ながら山東貴族は北斉の遺臣であり、北周、隋、唐初では不遇だったのか。

このグループの中心が、隋の時の薛道衡だったとかいう説。玄武門で世民に荷担したのが19人くらいいて、山東系は12人とか。

183 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:51:06.27 0.net
清河崔氏,是中国中古时代一个以清河郡为郡望的崔姓士族,汉末三国时期开始崛起为山東望族。

北魏时,魏孝文帝分定姓族,清河崔氏与范陽盧氏、滎陽鄭氏、太原王氏並稱為四姓。
在唐朝,清河崔氏有十二名宰相。

184 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:53:49.88 0.net
>清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏

↑唐の貴族を代表する四姓

日本でいえば、源平藤橘に相当する

185 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:58:33.50 0.net
しかし、山東貴族が、日本の藤原氏みたいに荘園を広げたかっていったら、そういうわけではない。

地主階級や科挙官僚の台頭は、唐からすでに始まっていた。

彼らは、むしろ山東貴族を脅かす新興勢力だった。

186 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:05:44.22 0.net
魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。

庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、
上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、
上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、
科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。

しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。

187 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:07:42.27 0.net
漢末から西晋にかけての争乱で、古代黄河文明は滅亡し、中国はリセットされた。

そこから、歴史は再び始まる。

188 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:09:43.52 0.net
北斉・北周・南朝を統合した隋唐は、貴族社会となった。

北斉に由来する山東貴族と、北周に由来する関隴集団。

この二大勢力が貴族階級を形成した。

189 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:11:45.52 0.net
しかし、貴族の世はいつまでも続かなかった。

地主階級+科挙官僚が、新興勢力として台頭。

唐末に貴族が虐殺されて姿を消してからは、この勢力が中国の支配層となる。

190 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:15:07.00 0.net
しかし、中国の時代劇を見ると、いつも満州人の皇族・貴族が出てきて、華やかな宮廷恋愛を繰り広げている。

科挙官僚は、見るからに学者っぽい地味なオジサン。

やっぱり、清もそういう意味では貴族社会なのではなかったか?

191 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 12:31:18.27 0.net
将門は今や坂東一の武者としてその名は天下にとどろいている。
昔のことは知らないが、今の世は、武勇のある者を君主とする。
たとえ我が国に前例がないとしても、すでに他国には例がある。
大契丹王は渤海国を討ち、国名を東丹とし領有した。力をもって征服したのだ。


平将門が弟の将平に新皇宣言を諌められた時の返答だが、ここで将門が言っている大契丹王とは遼の建国者、耶律阿保機。
京の都から離れている坂東武者にまでその名(契丹)が知られていたのだから、遼の建国はそれなりにエポイックメントな事件だったのかもしれない。

192 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 19:15:28.93 0.net
>>190
科挙自体が貴族制の維持のための仕組だろ。
募集は公開ではない、日時場所も応募方法も、一般は知る由もない。
既に登官している者がその地位に応じて推薦することで試験資格が生ずる。
縁故があるか、なければ賄賂を積んで、受験資格を得るという。

193 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:16:19.59 0.net
北からやってきた征服者が、貴族の代わりになった
 

194 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:17:19.57 0.net
代表的な山東貴族の崔氏も、教養ある漢人の文官が必要だから北朝で重用されたわけで

195 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:27.39 0.net
こうしてみるとやはり、唐こそが、その後の中華帝国の原型

196 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:56.06 0.net
しかし、唐は黄土に埋もれて荒れ果てた

197 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:19:12.86 0.net
征服者のその取り巻きやら縁故やらが貴族になるのは古今東西どこでも同じ。
イギリスだってノルマン時代に、アングロ系貴族はみんなお取り潰しで、ノルマン系の貴族に入れ替えられてる

198 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:20:58.78 0.net
日本でいえば藤原系の公家と同じで、藩屏ですな

199 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:23:53.30 0.net
それを思うと、側近を粛清しまくっている金正恩はすごいな

藩屏をみずから壊している

200 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:57:18.96 0.net
 律令は「りつりょう」と読まれることが多いが、「りつれい」でよい。
まず刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。
漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
 三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。
次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。
8世紀前半の玄宗の時が最も整った時期のものとされている。
この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6〜7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。
さらに後代の明では、明律と明令が制定された。

201 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:58:35.34 0.net
隋の文帝は皇帝となった581年に、さっそく律令を制定した。これを開皇律令という。これそのものは残っていないが、唐の律令もこれをもとにして作られたと言われている。
 律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。

また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。

また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。

202 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:00:46.54 0.net
唐を建国した李淵(高祖)は隋に続いて624年に武徳律令を制定した。
その後、唐王朝で律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度が整備され、
三省六部制の国家機構、科挙による官吏登用・官僚制、均田制の土地制度、
租庸調制の税制、府兵制の軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、
身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制が出来上がった。

203 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:01:08.99 0.net
律 律は一般に刑法にあたる。
令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
格 格(キャク)は臨時法にあたる。
式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。

204 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:23:45.49 0.net
明律

洪武帝が編纂した刑法。大明律ともいう。

大明律ともいわれる明の刑法。初代の洪武帝の時、1367年の第1回以来、3回の改変が行われ、1397年に完成し、明令とともに明の基本法典とされた。
律は唐の律令制度と同じく、刑法を意味し、唐律などを参考にして定められた。洪武帝は明律の中で、良民を略奪して奴婢にすることを十悪罪の一つとして、厳禁した。
また、皇族・貴族を除いた一般人は、奴婢を所有し使役することを禁止した。モンゴルの支配で奴隷身分にされていた農民を解放し、自由に農業生産を行わせ、租税基盤を増加させるためであった。

明律は次の清朝にも継承され、さらに李朝の朝鮮、黎朝のベトナム、日本の江戸幕府の法律にも影響を与えた。

205 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:24:46.96 0.net
律令国家という体制は、日本におよぼした影響の大きさから、隋唐のものが強調されているが、
実際には秦から清まで続いた。

206 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:25:39.83 0.net
しかし、律令が確立されたのは、やはり隋唐

207 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:27:12.81 0.net
唐宋変革

唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。この時期の分裂は単なる軍閥割拠ではなく,その背景には大きな社会変動があり,いわゆる〈唐宋変革〉における過渡期とみなされる。

〈唐宋変革〉に関しては,中世から近世へとする学説と,古代から中世へとする学説とがあって一致をみないが,とにかく唐から宋への間に中国史の画期を設定する点では一致している。…

208 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:28:08.03 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。

209 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:31:16.43 0.net
具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。

五代においては有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。

対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、
またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。

貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。
宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。
現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。
この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。
経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。
唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。こ
れに対して宋代においては文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すことになったなどの変化(これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。
これらの変化は単に王朝の変遷というのみならず「中国史上で最も大きな変化があった」と思考できる学説がある。内藤湖南が唱えた唐宋変革論という大日本帝国時代の帝国大学で研究された東洋史の学説である。

210 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:33:35.38 0.net
内藤湖南が唱えた唐宋変革論

要するに、唐と宋で何がそれほど違うのかといえば、日本でいえば「平安時代までが貴族の世、
鎌倉時代からが武士の世」とされるのと同じで、中国では、「唐までが貴族の世、宋からは科挙官僚の世」
とされているということ。

さらに、宋から紙幣が発行され、飛躍的に貨幣経済が発達した。
この結果、宋からの中国は、ほとんど別モノと化した。
 

211 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:23.02 0.net
日本でいえば戦国時代に相当する五大十国の大争乱期を経て、宋の太祖・趙匡胤は、
武官優位の体制を改め、文官優位の統治体制を作った。
 
それが、その後の千年の中国のありかたを決定する。

212 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:55.98 0.net
五大十国じゃない、五代十国

213 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:42:57.83 0.net
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。

関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、
朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、
安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、
貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。

唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。

214 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:43:33.58 0.net
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。

明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。

215 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:49:36.54 0.net
「貴族の世」から「科挙官僚の世」に変わったのと並ぶ大きな変化は、内陸から沿海へと中国の中心が移ったことだろう。

現代の中国は、北京・上海・広東省といった沿海部が圧倒的な中核で、内陸部は植民地みたいな状態になっている。

この傾向がハッキリしたのは、元や明あたり。

唐までは、洛陽・長安といった内陸部が国の中核となっていた。

もっとも、隋唐でもすでに、隋の煬帝が江南に行幸したまま帰ってこないほど江南が発展していたが。
北京や広東省はまだ辺境もいいとこだった。
 
漢末では、まだ「天下の3分の2は魏」と言われ、呉は「魏が攻めてくる」と聞いただけで重臣たちが降伏論を唱えるほど、洛陽・長安あたりの優位が歴然としていた。

216 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:59:36.78 0.net
欧州でも、似たような変化があった。

欧州では、古代からずっとギリシャ・イタリア・スペインといった南欧諸国が文化的にも経済的にも優位にあったけど、16世紀から17世紀あたりを境に、イギリス・フランス・オランダ・ドイツといったアルプス以北の国々が伸びてくる。

「なんで、南欧は没落したのか?」というのが、今でも大きなテーマ。

もしも、欧州が中国みたいな統一国家だったとしたら、これは「国の中の中心地の移動」ということで済んだだろう。
バラバラだから、それでは済まない(笑)。

中国だって、洛陽・長安から、北京・上海・広東省への中心地の移動は、これに勝るとも劣らない大変化だ。
ヨーロッパみたいに各国が分かれてないおかげで、この違いが目立っていない。
 
北京人や上海人は、欧州でいえばイギリス・フランスみたいなものだ。
彼らが「中国四千年の歴史」を誇るのは、筋が通っていない。
 

217 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:04:43.91 0.net
日本の場合は、古代からずっと京都・奈良・大阪が中心地だったが(まあ、それ以前は北九州というのもあったが)、江戸時代に入って、江戸が台頭する。

徳川家康が大土木工事をやる前の江戸は、大湿原地帯で、人が住むようなところじゃなかった。

江戸が本当に発展してくるのは18世紀。本当に京都を追い抜いたのは、江戸時代も後期の、19世紀に入ってからのことだろう。

それでも、幕末に江戸幕府が崩壊すると、政治の中心はすぐ京都に戻ってしまった。
最後の将軍・徳川慶喜は、京都で即位して、京都で退位した。
 

218 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:15:44.23 0.net
もっとも、唐までの貴族も、宋からあとの士大夫も、どっちにしても「教養ある文官」という社会的なポジションに変わりないので、違いが分かりにくい。

そもそも、唐の貴族を「貴族」と呼ぶのは日本での慣習にすぎず、中国では「士大夫」もしくは「士族」と呼んでいるというから、ややこしい。

日本の公家と武家ほどの、わかりやすい違いがない。

219 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:19:59.04 0.net
しかし、唐の貴族は都会育ちで家柄が良くて華やかだけど、宋の士大夫は猛勉強で儒教イデオロギーを刷り込まれた地方出身の秀才だから基本的に地味。
 
文官とはいえ、質実剛健だ。

文天祥などは、文官なのに軍を率いてモンゴル人と戦った。 

220 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:49:18.12 0.net
北宋を樹立した趙匡胤(太祖)は、五代の武断主義の反省から科挙を大幅に強化し、文治政策を定めた。

それまで1回につき10人ほどであった科挙及第者が、太祖時代に数百人まで増やされ、これら科挙官僚は3代真宗期から実質的に朝廷を主導し始める。

221 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:11.56 0.net
「唐にも科挙はあった」といったって、合格者は1回につき十人くらいだった。

宋では数百人に増えたので、社会的な影響力は比べものにならない。

222 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:52.96 0.net
「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。
3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。
また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、
罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。

これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。
この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた。

223 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:51:39.99 0.net
その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。
明から清にかけて、士大夫が新たに郷紳という階級を形成し始める。
郷紳は基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力者としての意味合いが強調された語である。
中には私兵を持つものもおり、曽国藩・李鴻章らの湘軍・淮軍などは、清王朝後期の堕落した正規軍に代わって内憂外患に対処できるほどの実力を備えた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。

しかし、現代中国においても、士大夫の意識は残っているとされ、中国共産党のエリートは、現代の士大夫とみなされることが多いとされる。

224 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:35:59.34 0.net
千年以上も前に、貴族社会から官僚国家への変身を遂げた中国。

宋は、ほとんど近代国家。

あまりにも先進的だ・・・。

225 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:38:11.52 0.net
解決済の質問

世界史についての質問です。
中国の、府兵制と募兵制の違いはなんですか?また、どちらが先ですか?
どなたか教えて下さい。

226 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:38:44.13 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

府兵制とは、農民に武器を持たせ、兵士とすることです。
昔の日本でいうと防人のようなもので、国境警備などを行わせたりします。
徴兵制みたいなものです。

南北朝時代に確立し、唐代まではこの府兵制が続きますが、この府兵制が厳しく納税ができなくなり逃亡する農民がでます。

農民逃亡→税が減る→税UP→
さらに農民逃亡→税がへる→etc

という風に 農民=兵士 がいなくなり均田制、府兵制ともに崩壊します。

これにかわってできたのが募兵制です。これは、給料払うので兵士を募集することです
要するに、職業軍人をつくるのですね。今でいう志願制みたいなものです。

現代でも、先進国などでは冷戦終結と共に徴兵制がなくなり、志願制に移行していっています。
なので、流れ的には現代と一緒で
徴兵制=府兵制から志願制=募兵制という流れですね。

227 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:39:38.15 0.net
ベストアンサー以外の回答

府兵制が先です。

府兵制: (均田制の農民を対象に)徴兵による兵役

募兵制: 志願兵制


唐の時代の事ですね。当で律令制が整備され、均田制も大幅に施行されました。(のとの徒は貴族豪族の大土地所有を抑え中央集権国家を確立するためという意図があった)
その均田農民から徴兵して首都やl国境警備に当てたのが府兵制です。

しかし、玄宗皇帝の頃から徐々に律令制や均田制が行き詰まり、徴兵が難しくなって志願制の募兵制にチェンジしました。

228 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:43:16.71 0.net
社会主義国の集団農業みたいな均田制は崩壊した。

ついでに、社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制も崩壊した。

官僚国家で、自由主義経済で、志願兵制。

なんという先進国なのだ、宋すごすぎ・・・。

229 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:41:39.30 0.net
国民皆兵(こくみんかいへい)とは、国民全員で国防を担おうという国家の姿勢を指す。
イスラエルやスイスが代表例。
対象国では主に男性に兵役が義務づけられているところが多い。

230 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:42:02.66 0.net
徴兵制度から志願制度への移行は、世界的な潮流となっており、
現在でも徴兵制度を維持している国家は少数派である。

231 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:43:41.89 0.net
千年以上前の中国で起きた、国民皆兵制度の崩壊。

現代の世界でも、徴兵制から志願兵制への潮流が起きている。

さすがは、中国。

世界を千年はリードしている。

232 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:02:12.92 0.net
>>84
中国首脳部の間で西安遷都計画があるという情報をブッシュ大統領が言ったことがある。
北京は水不足で限界が来ており、西安に遷都するという。
その後は全く情報を聞かないが。

233 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:08:52.37 0.net
>210
隋・唐は言わずもがな、明や清でも皇族や功臣の子孫から世襲の特恵を剥奪することに結構難儀してたけど、なんで間の宋では貴族社会ではなかったの?

まっとうな印刷技術もない宋の時代に紙幣? 騙してナンボの中国人だよ、贋金だらけにならんかったのかい? 
銅が相当に高価だった時代でも私鋳銭の禁止に手を焼いてたのに。

234 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:32:41.71 0.net
>>221
殿試に数百人? 皇帝のお仕事たいへんだねえw

235 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:34:58.68 0.net
>>224
近代国家のクセにモンゴルのような中世的封建体制の国に負けたの?
普通は戦争なんて開明度の高い方が勝つものだけれどねー

人口・経済力も宋が圧倒的だったよね?

236 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:14:44.91 0.net
>>233
宋の時代には、貨幣経済が浸透した

237 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:15:53.02 0.net
生産は土地の国有を前提とする均田制から、土地の私有を前提とする地主=佃戸制(地主が所有する土地を小作人である佃戸が耕作する体制)へと移行した。

徴税体系は、均田農民を負担者とする租庸調制から、地主を負担者とする両税法へと転換した。

これは現物経済から貨幣経済への転換も意味する。

国家財政は地税収入よりも、貨幣経済と商業流通の発展に即応した専売収入に依存してゆく。

軍事体制も均田農民を徴兵する府兵制から、兵卒を金銭で募集する募兵制へと移行した。

238 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:17:48.03 0.net
>>235
宋には近代的な官僚機構があったが、軍隊は弱かった

そこが、18世紀のプロイセンとの違い

239 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:37:24.64 0.net
解決済の質問

両税法の意義として「国家が支配の基礎を農民から大土地所有者に、そして課税対象を人から土地に変えたことであった」とあるのですが、
後半の「課税対象を人から土地に変えたことであった」がピンとこないのですが、これについてどういうことなのかわからないので説明してください。
よろしくお願いします。

240 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:37:52.16 0.net
ベストアンサー

従来は租庸調などを個別の人民に人頭税のように課したのが、所有している土地の面積や収量を基準にした税制に移行したということです。

241 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:38:34.55 0.net
つまり課税対象が人間であった租庸調から、土地所有に対して課税する両税法へと変化した。このことは国家が人民の私的土地所有を認めたものとして大きな歴史的意義を持つものといえる。

242 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:41:30.88 0.net
古代中国は厳しい身分制社会で、人民は奴隷のような存在だった。

社会主義国の集団農業みたいな均田制で口分田を配給され、租庸調の税金を課された。

これまた社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制で、容赦なく徴兵された。
 

243 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:43:33.29 0.net
それが崩壊して、個人の自由が大幅に拡大したのが、唐宋変革期。

税金は、土地に対して課税される固定資産税みたいなものが主体の、両税法に変わった。
国家が、土地の私的所有という現実を追認したのだ。

しかも、徴兵制は廃止され、志願兵制に変わった。

こうして、宋では個人の自由が大幅に拡大した。
 

244 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:45:18.21 0.net
先に、両税法の成立を国家によるきびしい支配が農民を逃亡させ、租庸調制が実施できなくなったためであると述べてきたが、それでよいのであろうか。
それは支配者の論理・歴史ではないのか。むしろ生産力の発展によって両税法が実施されるようになったのではないか。

唐代に2年三毛作が普及し、江南でも水稲栽培に田植えの技術が加わったことに着目し、そうした生産力の発展を基礎に地主制が展開され、一方で自作農=中小農民の土地に対する所有権を強めていったのではないか。

両税法施行の意味は、たんに均田制を否定して土地の私有化を国家が認めたことや、搾取の形態が労働中心から生産物中心に移っただけでなく、土地の占有権しかもたなかった農民が土地の所有権を獲得できたことを意味すると私は思う。

このような観点に立てば、宋代の社会経済の発展、商業都市の成長、さらに庶民文化が生まれてくることが理解できるのである。

245 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:47:53.16 0.net
なんか、唐宋変革期の話ばかりを延々と続けてしまった

スレ違いなので、別スレを立てますた

https://lavender.5ch.net/whis/#1

246 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:51:58.05 0.net
明が大好き

胡惟庸(こいよう)の獄(1380)、李善長の獄(1390)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393)という事件がある。
それぞれ、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍になったものたちが、謀反の罪で処刑された事件です。
事件そのものが、朱元璋によるでっち上げらしいのですが、それぞれの事件で処刑された人数がすごい。
胡惟庸の獄が1万5千人、李善長の獄も1万5千人、藍玉の獄が2万人。合計すれば5万人ですよ。
一族郎党、関係者、ちょっとででも疑われたもの、みんな殺されてしまった。
皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者はみんな殺されたということです。

乞食坊主だったことは、そうとう朱元璋のコンプレックスになっていたらしい。
役人が作成文書に「僧」「禿」とかいう文字があったら、とんでもないことになった。
杭州府学という官立学校の教授の文章に「光天の下、天は聖人を生ず」という一節があって、
この先生は死刑になったそうです。光という文字が、坊主を連想させたらしい。

247 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:53:16.89 0.net
やっぱり、明が最高

朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后になってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。

馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。ところが、医者にも診てもらわないし、薬も全然飲もうとしない。朱元璋が心配して差し向ける医者もすべて追い返してしまう。

心配した侍女が、「どうして医者に診てもらわないのですか」とたずねたら、こう答えた。

「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からないことは自分が一番よくわかっている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。

馬皇后は、夫の残虐なおこないをたしなめることができる唯一の人でした。こんな人柄だから、朱元璋が人気がない反面で、みんなから敬愛されたようです。

248 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 20:36:34.70 0.net
洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。
官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明代には試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。
これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。

249 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 22:13:48.35 0.net
>>238
いやいや、いくらなんでも開明度が高くてホーム戦で人口財力文明力に劣る勢力に負けないでしょうに

250 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:21:42.50 0.net
宋はあまりにも文化が高かったため、野蛮人の暴力に屈してしまったな

251 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:22:15.26 0.net
文官優位の国の弱点を突かれた

252 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:23:57.14 0.net
僕たちが普段使う「近代化」はほとんど「西洋化」という意味だ。
日本は近代化に成功したが、歴史という長いスパンをとって考えれば、必ずしも西洋の「近代化」を進んだ考えと言うことはできない。
だが、アジアの中で真っ先に「近代化」を進めた日本は優秀な国で、「近代化」に必要な「法の支配」や「議会制民主主義」が欠如している中国は遅れた国だと多くの日本人は考えがちだ。

しかし、中国は本来、人類史上最初に身分制を廃止し、かつて世界のほどんどの富を独占する「進んだ」国だった。
しかし、どうしてそれが「遅れた」国とみなされ、逆に西洋は現在「近代化」と言われているものを成し遂げたのか。

253 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:24:57.30 0.net
西洋の持つ、他の社会とくらべて最も魅力的な考え方、「法の支配」や「議会制民主主義」は、もともと中世貴族の既得権益だった。
ヨーロッパ型の近代化とは、貴族の既得権益を下位身分のものと分けあっていくプロセスだった。

だが、中国は宋朝の時代に身分制を廃止した「進んだ」国家であり、そもそも貴族がいなかったから、政治の面での「西洋化」が進まなかった。

実は日本は、「近世に貴族が絶滅した」という点では、西欧よりも中国に近い。
だから、日本がヨーロッパの考えを取り入れて「近代化」していった、とは別の捉え方で歴史を考え直す必要があるのではないか。

254 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:28:27.23 0.net
今の中国の元となる仕組みができたのが近世の宋朝だった。
世界で最初に身分制や世襲制が撤廃され、移動、営業、職業選択が自由になる。
「科挙」という形での身分に関係なく支配者層へ成り上がる方法も行き渡った。
しかし、「科挙」以外の政治的な自由は極めて強く制限されている。
宋朝以降の皇帝は、朱子学という全世界的な理念をもってして人民を統制した。

255 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:30:02.99 0.net
宋は、いちはやく身分制社会から脱して、官僚国家へと変身を遂げた。

近代の日本や西欧は、「宋」というゴールに向かって社会変革してきたようなものだ。

256 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:34:48.54 0.net
宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃された結果、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が、広く江湖に行きわたることになります。
科挙という形で、官吏すなわち支配者層へとなり上がる門戸も開放される。
科挙は男性であればおおむね誰でも受験できましたので、(男女間の差別を別にすれば)「自由」と「機会の平等」はほとんど達成されたとすらいえるでしょう。

……え、「結果の平等」はどうなるのかって?

もちろん、そんなものは保障されません。
機会は平等にしたわけですから、あとは自由競争あるのみです。
商才を発揮してひと山当てた人、試験勉強に没頭して頑張りぬいた人にのみ莫大な報償を約束し、
それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって、
無能な貴族連中による既得権益の独占が排除され、
あまねく全員が成功に向けて努力せざるを得ないインセンティヴが生み出されるのです。

257 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:40:36.35 0.net
飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。
    ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
 
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。
      しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。
      宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。
 

258 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:41:42.12 0.net
與那覇 それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。
      戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。
 

259 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:45:01.03 0.net
アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。
内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。
内藤のこの史観を述べながら、著者は次のように書く。

「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。
同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で
競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」

260 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:53:03.94 0.net
宋は、いちはやく身分制社会から脱して、近代的な官僚国家に変身を遂げた。

それに比べて日本は、その数百年後の江戸時代に、逆に士農工商の身分制を強化した。

隣の国なのに、じつに好対照をなしている。

261 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 07:59:00.72 0.net
三大発明に代表される技術進歩も、自由競争社会の産物

262 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 08:02:53.98 0.net
江戸時代の日本は、宋とは逆の方向に向かって進んでしまった

その結果、深刻な停滞に陥った

263 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 11:01:36.22 0.net
中国で一番残念なのが秦と明だな 異端を弾圧しすぎて秦の前の春秋戦国、明の前の宋時代の面白い部分を全部潰してしまった感じ
高麗の後の朝鮮もそうだ 朝鮮も初期より後期の方が明らかに劣化して益々見るものがなくなった感じ
宗教で言えばキリスト教やイスラム教みたいだ 今のタリバンやISと一緒

264 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 14:09:23.48 0.net
やっぱり、中国はバラバラなときのほうが面白いな

明や清はデカすぎて、つまらない

265 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 15:13:00.26 0.net
明代の北京は封建的な儒教社会だが、江南は伸び伸びと発展した面白い時代

266 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 15:31:50.59 0.net
唐の人民は、奴隷のように支配される存在だった

267 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 15:37:18.00 0.net
それ以前に、唐は奴隷制の社会だった

268 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 17:32:16.65 0.net
唐に生まれるなら、貴族じゃないと

平民にとっては最低の時代

269 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 19:01:40.34 0.net
>>256
>それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって、

バカじゃね?
宋と言えば形勢戸と呼ばれる新興地主や商人が力を持った時代と習ったろ

本来は官戸層が担っていた行政権を民戸でありながら多くの胥吏を使役して代行する者が現れたり
貴族も文武百官も力を失って、とにかく金持ってる資産を蓄積できる奴が偉いとなったのが宋代

270 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 19:29:03.44 0.net
>>242
>社会主義国の集団農業みたいな均田制で口分田を配給され、租庸調の税金を課された。
>これまた社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制で、容赦なく徴兵された。

はぁ?お前世界史の授業の時寝てただろ?
府兵は租庸調や力役といったすべての税を免除されるだが
この府兵はかつて宇文泰が組織した漢人郷兵集団の末裔と考えらおり民戸と区別され旧西魏以外の州にはほとんど存在しなかった
つまり一種の軍事カーストが若干の特権と共に軍事を担う構造になっていたわけで
社会主義とも国民皆兵とも全然違う

271 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:25:37.18 0.net
>貴族も文武百官も力を失って、とにかく金持ってる資産を蓄積できる奴が偉いとなったのが宋代

現代中国の拝金主義の原点だな

272 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:26:15.16 0.net
おカネある人、えらい人

おカネない人、だめな人

中国では、それ以外の価値観が消滅した

273 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:28:25.68 0.net
征服王朝が古来からの伝統を廃絶してしまうおかげで、高貴な家柄が消滅

カネ持ちだけが偉くなった

274 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 21:28:52.07 0.net
それを「自由で平等な社会」とは笑わせる

275 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 22:01:30.51 0.net
>>270
庶民からの不平不満が絶えない、不平制

276 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 22:04:01.07 0.net
この問いは、政治指向が表れるな

277 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 21:23:14.56 0.net
明清の時代は、王朝は交代しますが、社会・経済・文化はひとつづきのものとして発展していきます。
特徴的なことを何点かみていきます。

蘇州、杭州など、特に長江下流地域に商工業都市が発展します。
工業では綿織物、絹織物工業が発展。
宋代からはじまる景徳鎮の窯業も盛んです。

商業も盛んで、山西商人、新安商人などによる遠隔地交易が盛んになる。
山西商人は山西省、新安商人は安徽省徽州府出身の商人で、同郷者どうし協力しあい、ネットワークをつくって中国全土を舞台に活躍した。
各地に「会館」「公所」と呼ばれる自分たちの宿泊施設や、商品の倉庫をつくりました。会館という名前は、日本語にもなっていますね。

278 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 21:24:21.92 0.net
銀の大量流入。
明清時代に中国国内に大量の銀が入ってきます。
これは、海外貿易で中国からの輸出品の代金として支払われたものです。
当時、アジア地域の国際貿易は銀で決済していたのです。
なぜかというと、大量の銀があったから。
出所は、日本とメキシコ。
戦国時代から江戸時代の半ばにかけての日本は、世界的にみても大量の銀が採掘されていたのです。
代表的な銀山が兵庫県の生野銀山。
これが、オランダなどを通じて中国に流れる。
メキシコからはスペインが大量の銀をアジアに運んだのです。

大量の銀が中国国内に流通するようになるので、明の一条鞭法や、清の地丁銀など税の銀納化がすすんだのです。
戦国時代や江戸時代の日本の農民が、年貢を銀で支払う、なんていうことを想像できますか。
できないでしょ。
そう考えると、いかに明清時代の中国で貨幣経済が発展していたかということがわかるとおもう。

279 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 21:30:18.59 0.net
ヨーロッパはやっぱ国が投資して工業が発展したのかね?
明だと民間は活力あるのに工業の発展とかがあまりない

280 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:55:52.12 0.net
明代には、北京は封建的な儒教社会だったけど、長江下流デルタが大発展して近代資本主義経済の一歩手前までいった。
 
穀物の生産は長江の中流に移り、下流では商品作物の生産が中心になった。
それを原料として、繊維工業が盛んになった。
 
商業も発達して、ほとんど高度大衆消費社会の域に近づいた。
 

281 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 22:58:01.84 0.net
「なんで、あそこまで行ったのに近代資本主義への飛躍が起きなかったのか」というのが、
むしろ社会学における大きなテーマ
 

282 :世界@名無史さん:2017/10/06(金) 23:19:02.12 0.net
なんでヨーロッパのほうがすべての点で上になるんだろう?
日本だってすべての分野でヨーロッパを規範にしてるしな
柔道とかですらヨーロッパの学問をおさめたやつが柔術を改造したものだし

283 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 01:01:57.11 0.net
柔道と洋学に何の関係があるんだが
レスリングには一つの技が次の技の布石になる(連絡技)、関節技、絞め技、急所の概念がないだろ
中国武術にも同様の概念があるけど、戦闘の際に技や相手の状態を系統だって考察するのは東アジア系の特徴なんだろうな

284 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 06:11:21.48 0.net
まあ、アチラは、エジプトやシュメールからの歴史とつながってるからな

人類発祥の地はアフリカだ

歴史の長さで東アジアは及ばない

285 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 06:12:31.22 0.net
しかし、東アジアが世界の最先端だった時期はある
 
宋・元・明あたりでは最先進国だろう
 

286 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 06:13:50.79 0.net
預言者マホメットも、「宗教はアラブ、技術は中国」、「知識を求めよ、中国にまで」という言葉を残している

287 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 06:14:28.75 0.net
東アジアには科学がないが、技術は昔から高い

288 :世界@名無史さん:2017/10/07(土) 07:44:28.91 0.net
>>281
>なんで、あそこまで行ったのに

よっしゃこれから、というところで農民大反乱&女真族乱入

289 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:14:18.96 0.net
清の時代の中国人といえば、闘将ラーメンマンとか、らんま1/2とかを見ればイメージわくけど、モンゴル帝国はどうだったんだろうな?

やっぱり、元の時代の中国人も、辮髪に胡服を着てたんだっけ?

290 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:18:21.26 0.net
モンゴル人の辮髪は、清のようなお下げ髪とは違って、三つ編みを左右のツインテールにしていた。

アタマは河童のように剃っていた。

清とは違って、漢民族にはこのヘアスタイルを強要しなかった。

291 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:23:26.11 0.net
なんで何度も北方民族に支配されていたのに、
清だけが髪や服装を押し付けたのか?

292 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:23:48.50 0.net
解決済の質問

辮髪令は清王朝のものが一番厳しく、禁令を破ると死罪という事が王朝滅亡まで続きましたが、
遼、金、元代の時はどうだったのですか?辮髪令は一時的な事だったのですか?

293 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:23:49.43 0.net
>>288
秀吉もあるな

294 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:24:38.20 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

桑原隲藏の『支那人辮髮の歴史』によると、
遼は不明、金は強制、元は迎合、清は強制だったようです。

「金」以前にも辮髮種族が中国内地を占領して、
国を建てたことがあるものの、
その領内の漢民族が、
辮髮にしていたかどうかの記録は残っていないようです。

漢民族が辮髮した記録が残るのは、
「金」時代に遡ります。
「金」はご存知のように1114年に遼より独立し、
1125年、その遼を滅ぼして、
ついで1127年に北宋の都開封を陷れてから、
直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、
及び江蘇・安徽二省の北部を、
金の勢力下に置きます。
「金」の太宗は1129年にその領内の漢人に対して、
胡服・辮髪の令を下しました。

「是年六月行下禁。民漢服及削髮不如式者死。」
(『大金國志』卷五)

295 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:24:55.98 0.net
実際に、辮髮令に背いたため、
青州の觀察使李邈、保義郎李舟、右武大夫の郭元邁らの、
宋の忠臣が死罪にされた記録が有ります。
『北轅録』や、『北行日録』等、南宋時代に金へ使いした紀行にも、
金の領内の漢民族が、
胡服を着用していたとされ、辮髮していたと推察されます。
章宗時代(1200年)に、
女真族・漢民族の拜儀について議論があつた時、
司空の完顏襄が、
「今諸人袵髮皆從二本朝金之制一。宜レ從二本朝拜一。」
と主張しており、金宮廷の官吏は、
民族の区別なく胡服・辮髮したことがわかります。

296 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:25:32.16 0.net
金の後に蒙古が興ります。1234年金を滅ぼし、
1276年南宋を併せて天下を統一します。
この蒙古も女真と同樣、辮髮種族ですが、
形は違い左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものです。
フランス王の命を奉じて1253〜54年に、
蒙古の憲宗を訪問した「ルブロック」は、
蒙古人の辮髮について、
「男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、
この四角形の前方の両隅からこめかみまで、
頭の両側を剃り下げる。
頭の後部も同樣ぼんのくぼまで剃り下げる。
前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。
この殘した一束の髮はそのまま眉際まで垂れ散らし、
頭の左右両側に存する髮は、編みて両耳の邊に辮髮とする。」
と記しています。

297 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:26:07.28 0.net
蒙古人の直間接の支配を受けた朝鮮やペルシアでは、
一律に辮髮が流行したようです。
13世紀のペルシアではキリスト教徒、イスラム教徒を問はず、
多くの者が辮髮をしていたとされます。
朝鮮の忠烈王は、元の世祖の娘を娶ったこともあり、
1278年、朝鮮国内に辮髪胡服令を下し、
(『高麗史』卷七十二輿服志)
頭髪を辮髪にしてモンゴル服を着用する よう強制します。
これは1387年まで続きます。

298 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:26:30.21 0.net
漢民族はというと、
明の太祖時代(1368年3月)に、
「明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、
中国古来の衣冠を再興した」
とありますので、元時代の漢民族は辮髮・胡服していたようです。
ただし、朝鮮宮廷が辮髮・胡服を令として強制させた際に、
元の世祖は、
「みだりに国の風俗を変えた」ことを戒めたそうですので、
恐らく強制ではなく、
元時代の漢民族は自から進んで蒙古名に改名し、
蒙古語を習ったという記載もあり、
征服民族への自発的な迎合かと思われます。

299 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:30:00.21 0.net
長いコピペになってしまったが、要するに、金や清といった満州人の王朝は、漢民族に辮髪を強制した。

でも、モンゴル人は寛容というか、「俺たちは俺たちで、アイツらはアイツらだ」というような割り切りがあったためか、異文化を強制しなかった。

しかし、漢人も、モンゴル帝国に迎合するため自発的に胡服辮髪する人は多かったようだ。

そんな中で、高麗の宮廷は、言われてもいないのに朝鮮人に胡服辮髪を強制した。
かえって北京からたしなめられるほどの露骨な迎合ぶり。
さすがは、朝鮮半島の王朝。
 

300 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:33:28.99 0.net
韓国の歴史ファンタジードラマ「奇皇后」では、モンゴル帝国の皇帝たちが明の宮廷みたいな格好をしていて、
高麗の王様たちは李氏朝鮮みたいな格好をしていた。

これはもちろんファンタジードラマだからで、本当は、モンゴル帝国も高麗も、上層部は全員が胡服で辮髪。

中国には伝統漢服の人もいたが、高麗は一般民衆まで胡服辮髪だったはずだ。
 

301 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 10:47:23.59 0.net
>>299
日本だって明治に洋服にてわらいものになったしたいして変わらん

302 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:12:16.12 0.net
まあ、確かに

303 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:13:18.01 0.net
日本では、神社の神主さんとか、いまでも衣冠束帯して笏を持ってる人がいるけど、
中国人の観光客があれを見ると、「唐の時代のコスプレか?」とビックリする。

304 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:15:14.07 0.net
奈良時代の日本は、自発的に唐そのものと化した

奈良の古墳の壁画に描かれた人たちも、高句麗の壁画に描かれた人たちも、
唐の貴族の服装とあまりにも似ていて見分けがつかない
 

305 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:23:22.59 0.net
現代の日本人の服装は、欧米そのものと化した

一度も強制されたことはないが

306 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:40:31.25 0.net
服を変えるというのは相手のほうが強かったり文明的に優れていたりかっこいいと認めるということ

307 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:42:09.47 0.net
>>287
でも日本にしろ中国にしろ、
近代ではすべてのジャンル(農業とか音楽とかすべて)で西欧に負けてるのはなぜか

308 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:52:37.36 0.net
>>303-304
唐の文化は鮮卑の文化

309 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 11:59:30.32 0.net
>>306
ヨーロッパ男性はギリシャ・ローマ文明の服装じゃなく
非文明なスキタイの服装を選んだ

310 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 12:24:43.18 0.net
>>306
戦国七雄の武霊王が北方騎馬民族から胡服文化をパクったのは、
中華文明よりも異民族の文明が優れてかっこいいからなのか

311 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:34:44.92 0.net
農耕民族の服より、騎馬民族の服のほうが機能的で動きやすいから、利便性で勝ち目なし

これは東洋と西洋を問わない、世界的な傾向

312 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:36:34.92 0.net
>>307
電子工業など、手先の器用さが勝負の分野では完全に追い抜いた

313 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:45:18.42 O.net
近代の話だろ。

314 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:50:43.73 0.net
音楽・美術・文学・建築は、近代ヨーロッパの作品が世界共通の古典になった

あれに匹敵するようなものが、今後も出てくる気がしない

315 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:51:33.64 0.net
アメリカでも東アジアでも、ヨーロッパのクラシック音楽を必死で練習して演奏している

316 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 14:59:41.36 0.net
日本では、唐の雅楽がいまでも神社で普通に演奏されている。

神職の関係者は、烏帽子をかぶって笏を持った衣冠束帯という、唐朝様式のコスプレみたいな人たち。

建物も、唐の様式そのもの。

日本の神社には、タイムカプセルのように唐の文化が残っているので、中国人はビックリ。

仏教寺院より、神社にとくにそういう傾向が強い。

317 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 15:07:02.87 0.net
>>316
ペルシャ・インドの音楽や踊りを唐がマネしたんだよ

318 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 15:07:11.07 0.net
これに対して朝鮮は、明の文化に染まった。
明から清に代わっても、明の様式をガンコに守り続けた。
チマチョゴリも、明の女性衣装がベースになっている。

それ以前の古い文化がほとんど無いせいもあって、朝鮮の古い建築や伝統衣装は、基本的に明の様式。

このため、最近の中国では、「唐の文化を見たければ日本に行け。明の文化を見たければ韓国に行け」と言われている。

台湾はどうかというと、台湾には中華民国の文化が残っている。

319 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 15:30:34.75 0.net
明の役人

https://i.pximg.net/c/600x1200_90/img-master/img/2013/01/29/04/14/53/33173729_p0_master1200.jpg

320 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 20:26:48.46 0.net
>>316
ペルシャやインドは烏帽子も笏も衣冠束帯もないが
唐の頃の日本の文化レベルは原始時代に毛が生えた程度なのだから唐のまるまるコピーになるのも無理はない

321 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 21:01:39.79 0.net
だが平安時代に唐は消滅してしまった
日本国は今日までずっと存在し続けるのに

322 :世界@名無史さん:2017/10/08(日) 21:22:52.96 0.net
日本では、鎌倉幕府や江戸幕府の時代にも、京都では皇室と公家が脈々と続いていた。

おかげで、平安時代の貴族の文化が、幕末維新まで残った。






 

323 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 07:18:06.37 0.net
唐から宋にかけての大きな変化に挙げられるのは、貨幣経済の進展だ。

唐の後期でも、農民が作物を換金して金銭納税するほどに貨幣経済が進展していた中国だが、
宋になると、宋銭が大量に発行され、貨幣の使用が極めて盛んになった。

宋銭の使用は、日本や東南アジア諸国・中央アジア諸国にまで広がった。
アジアでは、今の米ドルをもしのぐ基軸通貨であった。

鎌倉時代や室町時代の日本は、宋銭や明銭を大量に輸入して、自国で流通させていた。
日本からの輸出品を持って出航した船は、中国の銅銭を満載して持ち帰ってきた。

324 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 07:19:18.32 0.net
唐代から飛銭と呼ばれる役所発行の手形が用いられていたが、北宋になると商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われるようになった。
特に銅銭に比べて重く銭価の低い鉄銭流通が強制された四川・陝西では、全国一律で同じ価値を持つ交子は他地域との交易には欠かせないものとなった。
交子は仁宗の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。
これが世界で最初の紙幣である。
しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生した。

325 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 07:20:42.80 0.net
明では宝鈔という紙幣と銅銭を併用していた。
また、金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。
宝鈔は金銀と兌換できず価値は徐々に下落したために、銀が通貨として用いられるようになっていった。
金銀の貨幣利用を禁止していた政府も民間の流れに沿い、銀による納税を認めた。

清代は基本的に明代と同じような通貨政策がとられが、銅銭の普及が本格化し、各皇帝が良質な銅銭の普及に力を入れたため銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。

326 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 10:47:38.62 0.net
唐の貴族の服装は、日本の平安貴族の衣冠束帯と似てるっていうか、ほぼ同じ。
ただし、それは男性の正装、いまでいえばサラリーマンのスーツみたいなものに限った話だけど。

聖徳太子みたいな笏を手に持ってるのが特徴で、古代の東洋の神秘を感じさせる。
実際には笏は神秘的なものじゃなくて、儀式進行とかの備忘録が書きつけてあったらしいが。
 

327 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 10:57:40.48 0.net
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。
こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。
生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で東ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。
服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。
そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。

328 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:10:10.73 0.net
宋は漢人、遼は契丹人、金では満州人、元はモンゴル人、明は漢人、清は満州人と、支配者が変わるたびに、そこの民族衣装が主流になり、服装が激変した。

だから、時代劇を見ると、じつは時代背景が分かりやすい・・・はずなんだが、実際には金や元が舞台になってることは少ない。
 

329 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:16:22.43 0.net
清はセコすぎるよな
中国のほうが遥かに上だからといって、
そちらの文化を破壊して自分に近づけるとは

330 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:16:58.67 0.net
明の官僚は、外套みたいな長衣を着て、カラスの羽飾りみたいなものが左右についた烏沙帽をかぶっている。

胸には四角い刺繍があって、それを見れば文官・武官の区別や官位が分かったという。

331 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:20:22.30 0.net
朝鮮の両班の服装は、明の官僚そのものなので、明の服装を知るには韓国の時代劇を見るのが手っ取り早い。

ただし、ウソをウソと見抜けない人には、韓国の時代劇はオススメできないが・・・。
 

332 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:21:27.09 0.net
>>329

辮髪とチャイナドレスのない中国文化には、魅力が乏しい

333 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 11:24:05.18 0.net
清一代で中国は「昔すごかった国」にまで転落した
清は疫病神

334 :世界@名無史さん:2017/10/09(月) 12:02:06.49 0.net
やはり、明が中国文明の黄金期だったか?

335 :世界@名無史さん:2017/10/10(火) 18:56:59.67 0.net
>>320


唐の頃の日本はひらがなを発明できたが
唐王朝は表音文字を発明できず、
漢族が原始時代に作った象形文字だけに依存した

336 :世界@名無史さん:2017/10/10(火) 22:43:41.40 0.net
そうだな。

実際には、唐は鮮卑系の移民が建てた国。

文語はともかく、話し言葉ではアルタイ化が進んでいたはずで、表音文字がなければ不便だったはずだ。

337 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 00:35:15.81 0.net
道武帝の鮮卑語禁止令以後公の場で話されなくなって数百年たってるから
唐代になると誰もしゃべれない
だから遼や女真みたいに辞典もないので永久にナゾ

338 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 11:56:24.35 0.net
鮮卑語をしゃべらなくても、彼らのしゃべる中国語は、アルタイ系の影響を受けるはず。

中国語と違って「テニヲハ」がつくし、漢語でない語彙も多くなる。

表音文字があったほうが間違いなく便利。

339 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:02:30.86 0.net
ゲルマン人の大移動でドイツができたように、唐は鮮卑族の大移動でできた国

340 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:03:28.75 0.net
長安の人口のかなりの部分を、鮮卑とその子孫が占めていたはずだ

341 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:06:07.91 0.net
もともと、周や秦は、西の牧畜民族の国家が発展してできた王朝

長安の本質はそこにある
 

342 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:31:45.28 0.net
北京語は満州語なのか

343 :世界@名無史さん:2017/10/11(水) 20:41:13.29 0.net
「満州語」とまでは言い過ぎだが、長い清代を通じて、満州人の影響を受けて大きく変わったと言われている。

344 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 06:18:16.78 0.net
朝鮮語も、昔は「テニヲハ」が少なく、今よりずっと中国語に近かったと考えられる。

今でも、たとえば、「日本の東芝」というのを、「日本東芝」というように、「の」を省略する傾向がある。
 

345 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 06:19:50.85 0.net
関西弁にも、そういう傾向はある。

「目が痛い」を、「目ェ〜痛い」というように、助詞の省略が結構多い
 

346 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 19:54:55.42 0.net
明は清に滅ばされたのではなく、李自成により滅ばされました。
清はその李自成を滅ぼしました。
李自成とその残党を滅ぼすことで正当性を主張し、殺された崇禎帝を祀ったり明の制度を活用するなどして明との継続性を示して安心させました。
逆らわない限りは寛容な方針でした。
少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を支配するためには、力で抑えつけることなどできず、漢民族の協力が必要だったのです。

347 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 19:56:27.74 0.net
李自成が明を滅ぼしてくれたのは、清にとっては幸運だった。

正統王朝の明を滅ぼした逆賊・李自成を討つことによって、明の継承者になれた。

李自成には、足を向けて寝られない。

348 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:01:49.43 0.net
唐は貴族

宋は士大夫

元はモンゴル人とトルコ人

明は郷紳

・・・と、中国の上流階級は移り変わっていった

349 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:03:19.41 0.net
士大夫

宋代の支配者階級を形成した階層。その性格は、次の三つの面を併せ持っているとされている。

1. 政治的には科挙に合格して上級官僚となったもの。

2. 経済的には新興地主(形勢戸)であることが多い。

3. 文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」。

なお、宋代の士大夫は、明清では郷紳と言われるようになる。

350 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:04:28.93 0.net
宋学の主体は誰であるか。
それは「士大夫」にほかならない。
宋学とは、士大夫の学なのであり、士大夫の思想なのである。

士大夫とは何か。

唐代、科挙制度の確立とともにおこり、宋代にいたって確乎不動の勢力となったところの独特の支配階級である。
経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずも必須の条件ではない。

士大夫の特徴は、なによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち「読書人」たる点に求められる。
いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるように、そのような人々の階級である。

<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.14>

351 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:04:53.84 0.net
また、宋代の美術の主流となった文人画を支えたのも、士大夫であった。
右図では、風雅な読書人、文人としての士大夫の生活の理想が描かれている。

352 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:05:33.13 0.net
次の征服王朝である元の時代になると、科挙が停止されたこともあったため、士大夫層は没落した。

かわって明代に農業生産力の向上に伴って成長した地主層が科挙の合格者としての地位もしめるようになり、彼らは郷紳といわれるようになる

353 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:07:12.51 0.net
郷紳(きょうしん)

明、清時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。
多くは科挙の合格者として官途につき、引退後は故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動し、読書人とも言われ明の文化を担う存在であった。

宋代の士大夫に相当する。
イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。

明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。

354 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:09:28.81 0.net
郷紳とは読んで字の如く、在郷の搢紳(しんしん)、すなわち地方在住の知識階級にして官位を持ち、同時に大地主、又は資産家を兼ねたものであるが、この階層が社会に及ぼす作用は三つの面に要約することができる。
 
第一は郷曲に武断することであり、これは土地の弱小民衆の上に権力又は財力を以て影響を及ぼし、意のままに動かす作用を言う。
ここで注意しなければならぬのは、この作用は必ずしも常に地方民衆を抑圧するとは限らず、時には民衆の希望を代弁する場合もあったのである。
 
第二は官政を把握することであり、郷紳はその実力によって、地方官庁の政治に圧力を加え、政治方針に干渉したり、その実施に異議を唱えたりすることであった。
これもその結果がいつも害毒を地方に流すとばかりは限ったわけではない。ずいぶん、弱きを助け強気を挫くといった義侠的な行動もあった。
 
第三には更に進んで遥執朝炳、遠方に居ながら中央政府の方針を動かすに至るが、これはどんなことであろうか。
このことばは、先には東林の際に(顧憲成に)、後には復社の張溥(ちょうふ)の場合にも用いられている。

<宮崎市定『中国史の名君と宰相』2011 中公文庫 p.224-225 読みやすいように改行した。>

355 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:12:21.34 0.net
郷紳、それは、古代の豪族と、近世の科挙官僚を兼ねるような地方の有力者だった。

インドのマハラジャ、日本や西欧の封建領主みたいなものだ (ちょっと違うが)。

やがて、清末民国初の激動期には、彼らが中国社会を動かしていく。
 

356 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:17:46.57 0.net
明代ともなると、農業生産力の向上に伴い、地主のパワーが極めて強くなった。
その結果、地主は地方の権力者となった。
ついでに、科挙官僚も彼らが占めた。

それに比べて、宋の士大夫は、地主が多かったとはいうものの、「文人」、「科挙官僚」という側面がより強かった。

宋を高く評価する人が多い理由が、ここにある。

357 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:21:34.12 0.net
周王朝だろ
それ以後の歴史は学ぶ価値無し

358 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:54:17.05 0.net
いや、中国の最盛期は明王朝

359 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 20:55:11.03 0.net
それ以前の歴史も、明へと至るプロセスとしては学ぶ価値がある

360 :世界@名無史さん:2017/10/12(木) 22:50:03.26 0.net
>>339
移動するも何もドイツがゲルマン人の故地だが
>>340
鮮卑族のほとんどは六鎮で防人やらされてただろ
暴走した武川鎮は内陸部に入って来たけど他は脱走するかそのままずっと防人

361 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 03:06:45.57 0.net
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。

一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。
郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。
官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。

しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。

362 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 03:08:01.73 0.net
ジェントリ(gentry)は、イギリスにおける下級地主層の総称。郷紳(きょうしん)と訳される。
貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成する。
貴族とジェントリの間には称号(及び貴族院議員資格)以外の特権的な差異はなく、一つの「地主貴族層」として扱われた。
ジェントリは治安判事など地方行政職を無給で引き受け、地方の行政機構の一翼を担うとともに、中央官職へ人材を供給した。
家柄や所領規模に応じて、バロネット、ナイト、エスクワイアに分類される。

363 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 03:13:31.92 0.net
明清は、郷紳の時代。

イギリスのジェントリと同様、地方の地主貴族(そういうのを豪族というんじゃないかと思うが)で、
官僚になる者が多く、教養があってノブレス・オブリージュを自覚していた。

地方で大きな勢力を持っていた。

イギリスも中国も、大陸欧州ほど貴族階級が育たなかったので、そういう連中が代役を務めたということだろう。

364 :世界@名無史さん:2017/10/14(土) 03:15:31.41 0.net
それだけ、明清では農業生産力が向上して余剰が発生し、地方が大きな力を蓄えたことを意味する。 

365 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 21:58:07.72 0.net
>>363
清は、女真族による植民地時代だろ
アヘンに法外な関税を掛けて政府が専売していた

366 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:03:41.83 0.net
そこへ、お前たちだけズルいぞと、紳士の国が乱入

はれてシナ人たちは、良心価格でアヘンを購入出来るようになった

367 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:55:29.99 0.net
安史の乱で、中国は終わった

368 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 22:59:46.78 0.net
唐は、滅びた先住民による失われた旧文明

369 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 23:01:10.52 0.net
宋はトルコ系王朝

370 :世界@名無史さん:2017/10/20(金) 23:02:10.56 0.net
明も、漢族王朝だったのは最初だけ

永楽帝からはモンゴル系王朝

371 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 13:03:19.18 0.net
本来、中華とは河南省のことだ

372 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 13:04:39.76 0.net
河南省だけが中華と呼ぶに値する

373 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 13:12:26.62 0.net
春秋の鄭・宋・衛・陳

このあたりが中華

374 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 13:13:47.09 0.net
中原情勢の推移

B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。

375 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 13:15:50.73 0.net
↑ こんな調子が延々と何百年も続く

376 :世界@名無史さん:2017/10/21(土) 16:23:34.54 0.net
春秋時代は、一応朝廷と諸侯の秩序があって
日本の中世(平安末期〜戦国)に近いんだよ
それ以後ぐちゃぐちゃに成る

377 :世界@名無史さん:2018/01/30(火) 10:44:10.93 0.net
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

5DBUP

378 :世界@名無史さん:2018/03/25(日) 19:29:32.65 0.net
統一するまでの司馬一族による晋朝
なお統一後

379 :世界@名無史さん:2018/07/12(木) 12:39:48.79 0.net
友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

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380 :世界@名無史さん:2018/10/03(水) 23:27:49.32 0.net
女真とか蒙古は獣でしょ

381 :世界@名無史さん:2018/12/14(金) 23:04:05.88 0.net
このスレでは唐と明が人気のようだが、個人的には中華文明のピークは宋・元の頃であって、
明の中期から以降は全くの斜陽期ではないかと考えている。
現代の中国が成程 経済的軍事的には強大化の過程にあり、21世紀の覇権国になりそうな気配があるが、
それは単に図体がでかいことからくるものであって、文明論からいけば既に終わっている国という認識がある。
明・清の発展も過去の遺産とスケールメリットから来ている、ということである。

382 :世界@名無史さん:2018/12/15(土) 19:21:19.56 0.net
まあ、唐が中国の最盛期じゃないのは間違いないな

そもそも、唐が中国と言えるのかどうかという問題もある

383 :世界@名無史さん:2018/12/15(土) 22:24:10.11 0.net
小室直樹はモンゴルに征服された以降の中国はオワコンと言ってた。80年代前半の著書で。

384 :世界@名無史さん:2018/12/16(日) 21:46:38.88 0.net
>>383
唐の最盛期を、中国のピークと考えていたな

「安史の乱より後、2度と繁栄は戻らなかった。宋の統一は唐に及ばず、元は異民族、明の統一も唐に及ばず、清は異民族」
「これを見れば、楊貴妃に入れ込んで安史の乱を引き起こした、唐の玄宗の罪は万死に値する」とかなんとか、そういう話じゃなかったかな

385 :世界@名無史さん:2018/12/16(日) 21:48:20.97 0.net
小室直樹も、当時としては驚くべき博学だったが、しょせんインターネットがなかった時代の人だけに、情報量に制約があった

386 :世界@名無史さん:2019/02/11(月) 22:27:35.11 0.net
>>382
唐は掌握してる人口でも前漢にも及ばない

387 :世界@名無史さん:2019/04/03(水) 11:38:58.12 0.net
北宋(南宋含む)は領土はともかく経済力と生産力では歴代でもかなり上の方じゃ

388 :世界@名無史さん:2019/05/12(日) 16:52:08.57 0.net
宋が持ち上げられるように成ったのは戦後
専守防衛の宋から学べと東洋学者たちが言い出した
中国では社会の退廃した時代として評価は低い

389 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 07:49:11.25 0.net
>>388
宋が持ち上げられ始めたのは、もっと前

唐の貴族社会が崩壊して、合格すれば誰でも高級官僚になれる科挙と、商売に成功すれば 誰でも金持ちになれる市場経済により、近代的な市民社会が形成されたと言われた

中華民国の近代化が遅れてモタモタしてた頃の話だ

390 :世界@名無史さん:2019/05/17(金) 23:57:20.05 0.net
伯陽に拠れば
中国史で比較的明るい時代は
春秋時代
唐の貞観の治
清の康熙の治
しか無い、それ以外は全て暗黒時代

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