2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

中国の王朝で一番好きな王朝

1 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 15:26:59.34 0.net
どう考えても明だろ

123 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:44:51.74 0.net
宋は、弱体ぶりで際立っている。

契丹に朝貢していた。

ベトナムにも攻め込まれる始末。
 
この時代には、大理国や西夏国、吐蕃国など、東アジアに多くの国々があった。
 

124 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:49:24.15 0.net
唐は、本質的に遊牧民の征服王朝だった。
 
でも、なんとなく漢族の王朝だったようなイメージを定着させることに成功している。
 
「中国の栄光の歴史」として、真っ先に語られるのは唐だ。

125 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:52:47.74 0.net
大唐帝国はまさしく、歴史のロマン

126 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:54:39.22 0.net
唐は、アメリカ合衆国のような移民の国で、人種のルツボのグローバルな帝国

そこに現代性を感じるのではないか

127 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:55:15.57 0.net
唐の時代の中国が、最もグローバル化されていたように思える

128 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:56:47.64 0.net
しかし、「奴隷制だった」というのを理由に、唐を「古代」に分類する人もいる

129 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 02:43:56.49 0.net
>>122
チャイナは律令制が20世紀頭まで続いたからな
そりゃ源平合戦とか言うとすげー昔だが、辛亥家名とか割と新しいでよ

130 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:14:54.52 0.net
つまり中国は、唐から清までたいして変わらなかったということか

131 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:52:34.47 0.net
世界史の資料集を読んでいて、
中国の唐王朝の領土が西にかけて非常に横長く伸びていることに気づいて不思議に思ったことはないでしょうか。

今回は、その西に伸びた場所にあったオアシス諸都市が、
いかにして中国と経済的に結びつきを強め、そしてその支配下に入っていったかを書いていきます。

132 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:03.36 0.net
モンゴル高原や中央アジアは、匈奴や突厥といった遊牧民族が縦横無尽に駆けまわった地です。
ソグド人やオアシス諸都市は彼らとうまく共生関係を築き、半ば影響下にありました。
生活必需品を売ったり買ったりの関係もあったでしょうし、交易のパートナーでもあったことでしょう。
4〜8世紀は遊牧民族が大移動を行い中原の農耕民族と衝突を繰り返した時期にあたり、それに伴いソグド商人も活発に東方に進出を始めることになります。
遊牧民族の鮮卑が中国北方に打ち立てた北魏や、その政策を受け継ぐ隋王朝の時代、ソグド商人は中国に進出していき、先述の聚落を各地に作りネットワークを広げていきました。

133 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:29.47 0.net
現在の河西省、北にはモンゴル、南には青海省のある内陸の地に、5〜6世紀頃から多くのソグド人聚落ができ、活発に商業活動を行うようになりました。
この地は、本拠地のソグディアナも近い上に、モンゴル、チベット、華北への交通の要衝にあったため、河西を拠点に多くのソグド人が交易に従事しました。
中国人にしてみたら、ひいては遊牧民族と近い者たちが華北の目と鼻の先の河西で幅を効かせている、ということになります。
隋の為政者たちは、河西のソグド商人たちを王都・長安に誘致し、西域のマネーを中原に取り込むと同時に、ソグド商人と遊牧民族の連携を絶とうと試みました。
この政策は後の唐王朝に引き継がれ、結果的に前代未聞の大帝国を築くに至ります。 

134 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:55:03.67 0.net
7世紀前半に確立した唐王朝は、ソグディアナを含む西域世界を版図に取り入れて幹線を帝国の各地まで完備することで、
これまでせめぎ合いを続けてきた農耕民族と遊牧民族が融合した一大帝国を構築しようとしました。
これまで独自の統治を行ってきたソグドの聚落も一様に唐の支配下に入り、唐の統治理念に基づきソグド人たちも他の漢人と同様に「百姓」となりました。
ソグド人の漢化は進みつつも、言語や風習、そして交易ネットワークは変わらず据え置かれ、合法的に遠隔交易が可能でした。
逆に競合が少ない状態となった交易はソグド人にとっては独壇場になったことでしょう。

135 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:59:22.39 0.net
北魏や隋・唐といえば、「漢人化した王朝」ということがしきりに強調されるし、そういうイメージが定着している。

でも、実際にはおそらく、これらの王朝の支配者は、遊牧民の性質を濃厚に維持していたと思われる。

「シルクロードの遊牧帝国」というのが、これらの王朝の本質だろう。

136 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:02:14.37 0.net
唐とイスラム帝国の時代というのは、シルクロードの時代だった。

それ以前は、東西交易がこの時代ほど盛んになっていなかった。
 
それ以後になると、海洋貿易が主流になり、中央アジアを通る陸路が衰退する。
 
シルクロードは、この時代における最大の特徴。
 

137 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:03:14.07 0.net
しかし、唐もイスラム帝国も、ものすごい大昔であるにもかかわらず、中国と中東に
数千年の歴史があるおかげで、わりと最近のことに思えてしまう。

138 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:12.89 0.net
当時全国の政治・文化の中心であった唐の長安は、城内に坊と市を持つ。

坊は住宅区、市は商業区で、坊と市は区画されている。

市は東市と西市の2つがあり、東市は220の区画があり、四方に立派な邸宅が並び、ありとあらゆるものが集まっていた。

139 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:56.93 0.net
唐の長安城は明・清の北京城よりも24平方キロメートル大きく、当時世界最大の都市。

最も広い大通りは幅220メートル、東市の大通りは幅約15メートル。
西市の東西と南北には各2本の大通りが走り、市内を9つの区に分割している。
各区の四方にはいずれも大通りがあり、各業種の店舗が道沿いに軒を連ねていた。
一般的な店舗の面積は2小間、大きくても3小間だった。
出土した遺物をみると、西市には飲食店や宝石店などのほか、加工用の工場(手工業)もあった。

140 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:27:35.70 0.net
 西安市の東部・南鉄炉廟村の北高台にある青龍寺が、入唐八家のうち空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の6人が修法を授かった地であることは、特筆すべきである。

141 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:02:13.44 0.net
中国人は、唐の時代を最も栄光の時代と見ている。

京都や奈良に来ても、「唐の文化だ」と言い出す。

遣唐使の話を、恩着せがましく言う中国人も多い。

まあ確かに、その後の中国が、意外とパッとしないのは事実(笑)。
唐こそ、中国文明の最盛期だったと言えるだろう。

142 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:05:08.03 0.net
いま、中国は中央アジアに勢力を広げようとしている

大唐帝国の再現だ

143 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:34:58.70 0.net
実際のところ、現代の状況というのは、過去のイメージまで大きく左右する。

中近東・欧州・東南アジアのように、現代においてバラバラな国に分かれているところは、昔からそうだったように思える。

中国やインドは、昔から統一された1つの国だったように錯覚する。

北京人や上海人が、唐の長安の歴史を誇るのは、オスマン人がバグダッドやカイロの歴史を誇るようなものだ。

実際には、唐の長安と、中華人民共和国の北京は、人種的にも地理的にも文化的にも、ほとんど関係ない。

144 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:40:35.03 0.net
もしも、毛沢東が中国を再統一せず、バラバラな状況が続いていたならば、いまごろはきっと、北京と陝西省が別の国に見えていたことだろう。

北京人や上海人にとっての西安は、ロンドンやパリにとってのギリシャ・イタリアみたいな存在になっていただろう。

145 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:42:47.00 0.net
しかし、北京と陝西省は、意外と言語が似ている。

どちらかといえば、その間にある山西省のほうが、険しい山岳地帯にはさまれているせいか、言語が大きく異なる。

まあ、日本でも、関東と九州の違いより、その両者と関西の違いが大きいように思えるが(笑)

146 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:48:22.33 0.net
しかし、なぜか朝鮮人も、「唐の文化が日本に影響を及ぼしたニダ」といって威張ることがよくある。

朝鮮人の意識内では、彼らは唐の一部であり、日本は違うのかもしれない。

147 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:53:06.89 0.net
「日本人が反中・嫌韓なのは、中華秩序に対する反抗の表れニダ」という論調も、しばしば見かける。

そんな中華秩序など、日本人の意識には何の影響も及ぼしていない。

単に、中国が軍事的な脅威であるだけだ(笑)。

148 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:28.88 0.net
中国ネット「日本人は唐を神のように敬っている」日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり
2016/11/02 10:05

149 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:52.73 0.net
日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり=「日本人は唐を神のように敬っている」「中国人は現代日本を崇拝している」―中国ネット

150 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:05:54.66 0.net
2016年10月26日、中国のポータルサイト・今日頭条は日本の教科書から古代中国への崇拝っぷりがよく分かるとする記事を掲載した。

記事は日本の学校で使用されている歴史の教科書を紹介。

夏王朝の存在を認めてはいないものの、殷、周王朝の時代から、春秋時代、戦国時代、秦による中国統一、日本人の好きな三国時代、隋、そして日本が大きな影響を受けた唐の時代と、
領土の地図を細かく記しており、特に唐王朝に対する崇拝っぷりがよく分かるとした。

さらにその後の宋、元、明、清を経て、日中戦争の時代になると、明らかに中国への蔑視的な態度が教科書からも見てとれると主張した。

151 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:08:00.34 0.net
確かに、唐に対する日本人の思いは、崇拝といっても言いすぎでないように思われる。

高天ヶ原や竜宮城に住む天女は、唐の高貴な女性のような髪型で羽衣を身にまとっている。

唐こそは、憧れの理想郷。

152 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:29:29.34 0.net
唐宋変革とは

元々力の強い唐は中央集権体制
いわば、国が一括して民を統括してました。
そのため3つの大きな仕組み
・均田制
・租庸調制
・府兵制
が樹立されました。
均田制は"国が"国民に対して均等に
田畑(土地)を分配する事。
租庸調制は租(穀物)庸(労役)調(布)にわけて
わかりにくくし徴収する事です
府兵制は普段は農民、戦争があれば
兵士になる。いわば兵農一致です。

153 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:52:14.76 0.net
しかし、玄宗や安史の乱などで
唐という国は弱体化し
国民からの信頼も衰退しました。
そのため中央集権体制から
地方に任せる地方分割体制に変化。
それに伴い以下の3つも変化。
・均田制→荘園制
・府兵制→募兵制
・租庸調→両税法
になりました。
荘園制は貴族などによる大土地所有者(地方で力を持っている人)に土地経営を任せる。
募兵制は府兵制だと農民は不満ですよね?
戦争があると兵士になるため
農作物が作れません。。。
そのため希望者のみ、となりました。
両税法はわかりにくい事をやめ
夏と秋に徴税する事になりました。
要するに、農民のご機嫌取りです。

154 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:56:12.69 0.net
唐は、貴族社会で、移民社会で、仏教文化で、シルクロード文明で、華夷融合で、社会主義体制

中国の歴代王朝の中でも独特の存在だ

中国史の中でも、唐と宋の違いが一番大きいと言われている

155 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:26:52.84 0.net
まあ、どの王朝も、それぞれに独特なんだが

156 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:29:00.23 0.net
最近は、中国政府による中央アジア進出計画のおかげで、唐のシルクロード支配が改めて注目されている

その意味で、唐はいま時流に乗ったテーマ

157 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:29:00.93 0.net
ソウトウに違う

158 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 12:30:16.83 0.net
しかも、今の朝鮮半島情勢と、それを巡る周辺大国の動きが、唐の初期を思わせる

159 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:03:13.14 0.net
長安は、都でなくなって千年以上がすぎており、今では単なるゴミゴミした地方都市になった

160 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:04:43.06 0.net
中国人が、京都や奈良に来て歴史と文化に感心するのはそのせい

まあ、京都も、寺と神社が多いのを除けば、単なるゴチャゴチャした地方都市だが

161 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:24:20.72 0.net
中国人は器がでかい。
雑胡でも皇帝なることはできるし、
死後百年たっても燕の地では英雄扱い

広州ではムスリムのアラビア人が南漢を建国
まかり間違えば、阿倍仲麻呂だはないが日本人でも皇帝になれるかもしれない

162 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:10:37.16 0.net
>>131
唐の皇帝ではなく、拓跋の河汗として、西の遊牧圏と同盟を結んでいた、という程度のものだろ

163 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:12:00.85 0.net
>>161
中国人は数ばかりいても基本アホなので、有能な外部勢力に支配してもらってようやっとこ国の体裁を為しているというような時代が多かった

164 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:14:15.27 0.net
日本も、平安時代の貴族社会と、それ以後の武士の世で大きく違うけど、中国も、唐とそれ以後の違いが非常に大きい。

日本の場合は、東国に武家政権ができてからも、京都の貴族はしっかり続いてた。
室町時代には京都に幕府ができたし、江戸時代になっても京都の文化的な優位が続いた。
関東に政治権力が移ってからも、日本人は仏教を信仰し続けた。

中国では、唐末に貴族が大粛清されて貴族階級が消滅し、しかも長安から都が移って二度と戻らなかった。
仏教も、宋の後半あたりから衰退し始めた。
    
大陸の歴史は、日本のように漸進的ではなく、断絶がある。
 

165 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:15:53.82 0.net
明の時代の江南は、近代資本主義の一歩手前といえるほど経済が発展した。

技術も資本も市場も、すべてがそろっていた。

ただひとつ、「資本主義の精神」が欠けていたが、それ以外のものは、すでにそろっていた。

まさに世界の最先端。ほぼ近代国家のレベルに到達していた。
 

166 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:12:46.86 0.net
明朝は面白い時代である。今の中国に似ていると言われる。

この王朝の影響は今日の中国のいたるところに見られる。

いわば、現代の基礎は明朝にあると言っても過言ではない。

167 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:14:08.21 0.net
現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの
(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、
『西遊記』は唐が背景である伝奇、『唐詩選』は唐の文化のピーク、
『水滸伝』は北宋のストーリーである)はほとんど明代にできたものだと言える。

言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。

168 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:15:51.28 0.net
中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。
また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。

北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。
万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、
実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。
故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。
明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。

169 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:23:48.52 0.net
>>166
すぐ粛清したりとか一族皆殺しとかインド洋方面にちょっかい出したりとか?

170 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:15:48.87 0.net
明では、官僚の汚職を厳しく取り締まっていた。

見せしめで処刑することも多かった。

171 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:18:09.23 0.net
明朝はその後期に大きな社会変化があった。
明では、商業経済が大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。
人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。

それにともない、様々な問題も出てきた。
奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。
しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。

もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。
しかし、歴史は仮定できないことである。
明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。
明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。

172 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:20:36.08 0.net
しかしながら、奢侈がもたらしたよい面もあった。紡織業、手工業、食品加工業、製陶業、製紙業などの工業に進歩が見られた。

江南地域の絹織物業を例としてあげると、生産規模、産業分業、品種、質量などが新しい段階に入った。しかも、機戸と機工の間に、賃金契約関係が成立した。

言い換えると、江南の紡織業に中国歴史上初めての資本主義の萌芽が見られたのである。食品加工業、成衣業なども商業化、専門化した。工業のほか、第三産業サービス業でも大きな発展があった。市民に仕事の機会を提供し、庶民に利益を獲得させた。

173 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 06:58:33.59 0.net
北魏と隋唐は鮮卑、宋は突厥沙陀部、遼・金・元はいうに及ばず、清は満州

漢族による王朝は明だけ

174 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:19:33.73 0.net
それにしても、小中学校の日本史の授業では、「奈良時代の律令国家が崩壊して、平安時代には貴族の荘園がひろがりました」という話がやたら強調され、徹底的に刷り込まれた覚えがある。

北魏や隋唐の律令制も、同じようなプロセスをたどって崩壊したはずなんだが、高校の世界史では、そこはあんまり強調してなかったな?

175 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:23:30.36 0.net
宋になると、「地主階級」が台頭して、地主の子弟が科挙官僚となり、支配層を形成する。

日本が貴族の世から武士の世になったように、中国も貴族の世から科挙官僚の世に変わった。

このあたりのストーリー展開で、高校の東洋史を分かりやすくできるんじゃなかろうか?

176 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:24:35.20 0.net
しかし、平安時代の日本には最強貴族の藤原氏がいた。

唐には、王氏も謝氏ももういない。

177 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:27:18.25 0.net
やはり、中国はデカくて複雑だ。

日本史ほど単純なストーリーにはしにくい。

178 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:31:04.36 0.net
隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、
その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、
その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。

179 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:32:32.98 0.net
唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。

初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。

これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。

180 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:35:35.62 0.net
解決済の質問

山東門閥の由来、起こりを解説してください。

181 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:37:06.77 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏を代表とする山東門閥ですね。

起源は西晋崩壊時の混乱期です。この時期、琅邪王氏、陽夏謝氏など華北の有力貴族の一部は東晋の建国者である司馬睿と共に江南にくだり、
南朝の支配階級を形成したのですが、華北に残留し五胡の支配下に降った漢人貴族もいました。

この残留した漢人貴族が山東門閥(山東貴族)の先祖です。
彼らは異民族の浸入による混乱と分裂の華北で、その異民族の支配下に甘んじ、地方官職などにつき、漢人を統治していましたが、華北が北魏に統一されると、漢化政策が始まる前後から、その中央政府に出仕する者も現れます。
北魏・太武帝に仕え司徒にまで登った崔浩(清河崔氏)などはその代表的人物です。

その後、北魏の分裂に伴い、山東貴族は東魏→北斉に仕えます。
北魏、東魏、北斉は共に王室は鮮卑系なのですが、この中で山東貴族は鮮卑の貴族(元々は漠北の部族長)を差し置いて最高の家格とされました。
これには府兵制が深く関わっていたとされています。
つまり、王朝の皇帝は元々の出身が北方の騎馬民族でも、中国(中原)で帝位に着くと中央集権を目指し、
それまで同格(多くの北方遊牧民の指導者は部族連合体の長でしかない)であった同じ部族長らの武力を当てにしないで済むように自身が直接指揮権を持つ(将軍の任命権を持つ)政府軍(府兵)を持ちたがった事が原因です。
漢族の府兵を組織できたら、遊牧貴族は不要になり、漢人貴族(この場合は山東貴族)が最も扱いやすかったんですね。

山東貴族が仕えた北斉は西魏→西周から譲りを受けた隋に滅ぼされてしまいますが、
隋・唐で支配者層を形成した関隴貴族より家格は山東貴族が上と目されているようでした(『貞観氏族志』参照)。

その後、自身も関隴貴族の末端にありながら、その関隴集団よりの支持を期待できない則天武后により、
山東貴族は取り立てられ盛唐から中唐、末唐にいたるまでおおいに栄えました。

182 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:40:30.21 0.net
玄武門の変が、関隴集団と山東貴族の対立、というのは有名だけど、地域的に考えて当然ながら山東貴族は北斉の遺臣であり、北周、隋、唐初では不遇だったのか。

このグループの中心が、隋の時の薛道衡だったとかいう説。玄武門で世民に荷担したのが19人くらいいて、山東系は12人とか。

183 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:51:06.27 0.net
清河崔氏,是中国中古时代一个以清河郡为郡望的崔姓士族,汉末三国时期开始崛起为山東望族。

北魏时,魏孝文帝分定姓族,清河崔氏与范陽盧氏、滎陽鄭氏、太原王氏並稱為四姓。
在唐朝,清河崔氏有十二名宰相。

184 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:53:49.88 0.net
>清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏

↑唐の貴族を代表する四姓

日本でいえば、源平藤橘に相当する

185 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:58:33.50 0.net
しかし、山東貴族が、日本の藤原氏みたいに荘園を広げたかっていったら、そういうわけではない。

地主階級や科挙官僚の台頭は、唐からすでに始まっていた。

彼らは、むしろ山東貴族を脅かす新興勢力だった。

186 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:05:44.22 0.net
魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。

庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、
上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、
上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、
科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。

しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。

187 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:07:42.27 0.net
漢末から西晋にかけての争乱で、古代黄河文明は滅亡し、中国はリセットされた。

そこから、歴史は再び始まる。

188 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:09:43.52 0.net
北斉・北周・南朝を統合した隋唐は、貴族社会となった。

北斉に由来する山東貴族と、北周に由来する関隴集団。

この二大勢力が貴族階級を形成した。

189 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:11:45.52 0.net
しかし、貴族の世はいつまでも続かなかった。

地主階級+科挙官僚が、新興勢力として台頭。

唐末に貴族が虐殺されて姿を消してからは、この勢力が中国の支配層となる。

190 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:15:07.00 0.net
しかし、中国の時代劇を見ると、いつも満州人の皇族・貴族が出てきて、華やかな宮廷恋愛を繰り広げている。

科挙官僚は、見るからに学者っぽい地味なオジサン。

やっぱり、清もそういう意味では貴族社会なのではなかったか?

191 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 12:31:18.27 0.net
将門は今や坂東一の武者としてその名は天下にとどろいている。
昔のことは知らないが、今の世は、武勇のある者を君主とする。
たとえ我が国に前例がないとしても、すでに他国には例がある。
大契丹王は渤海国を討ち、国名を東丹とし領有した。力をもって征服したのだ。


平将門が弟の将平に新皇宣言を諌められた時の返答だが、ここで将門が言っている大契丹王とは遼の建国者、耶律阿保機。
京の都から離れている坂東武者にまでその名(契丹)が知られていたのだから、遼の建国はそれなりにエポイックメントな事件だったのかもしれない。

192 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 19:15:28.93 0.net
>>190
科挙自体が貴族制の維持のための仕組だろ。
募集は公開ではない、日時場所も応募方法も、一般は知る由もない。
既に登官している者がその地位に応じて推薦することで試験資格が生ずる。
縁故があるか、なければ賄賂を積んで、受験資格を得るという。

193 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:16:19.59 0.net
北からやってきた征服者が、貴族の代わりになった
 

194 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:17:19.57 0.net
代表的な山東貴族の崔氏も、教養ある漢人の文官が必要だから北朝で重用されたわけで

195 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:27.39 0.net
こうしてみるとやはり、唐こそが、その後の中華帝国の原型

196 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:56.06 0.net
しかし、唐は黄土に埋もれて荒れ果てた

197 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:19:12.86 0.net
征服者のその取り巻きやら縁故やらが貴族になるのは古今東西どこでも同じ。
イギリスだってノルマン時代に、アングロ系貴族はみんなお取り潰しで、ノルマン系の貴族に入れ替えられてる

198 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:20:58.78 0.net
日本でいえば藤原系の公家と同じで、藩屏ですな

199 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:23:53.30 0.net
それを思うと、側近を粛清しまくっている金正恩はすごいな

藩屏をみずから壊している

200 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:57:18.96 0.net
 律令は「りつりょう」と読まれることが多いが、「りつれい」でよい。
まず刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。
漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
 三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。
次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。
8世紀前半の玄宗の時が最も整った時期のものとされている。
この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6〜7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。
さらに後代の明では、明律と明令が制定された。

201 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:58:35.34 0.net
隋の文帝は皇帝となった581年に、さっそく律令を制定した。これを開皇律令という。これそのものは残っていないが、唐の律令もこれをもとにして作られたと言われている。
 律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。

また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。

また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。

202 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:00:46.54 0.net
唐を建国した李淵(高祖)は隋に続いて624年に武徳律令を制定した。
その後、唐王朝で律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度が整備され、
三省六部制の国家機構、科挙による官吏登用・官僚制、均田制の土地制度、
租庸調制の税制、府兵制の軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、
身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制が出来上がった。

203 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:01:08.99 0.net
律 律は一般に刑法にあたる。
令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
格 格(キャク)は臨時法にあたる。
式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。

204 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:23:45.49 0.net
明律

洪武帝が編纂した刑法。大明律ともいう。

大明律ともいわれる明の刑法。初代の洪武帝の時、1367年の第1回以来、3回の改変が行われ、1397年に完成し、明令とともに明の基本法典とされた。
律は唐の律令制度と同じく、刑法を意味し、唐律などを参考にして定められた。洪武帝は明律の中で、良民を略奪して奴婢にすることを十悪罪の一つとして、厳禁した。
また、皇族・貴族を除いた一般人は、奴婢を所有し使役することを禁止した。モンゴルの支配で奴隷身分にされていた農民を解放し、自由に農業生産を行わせ、租税基盤を増加させるためであった。

明律は次の清朝にも継承され、さらに李朝の朝鮮、黎朝のベトナム、日本の江戸幕府の法律にも影響を与えた。

205 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:24:46.96 0.net
律令国家という体制は、日本におよぼした影響の大きさから、隋唐のものが強調されているが、
実際には秦から清まで続いた。

206 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:25:39.83 0.net
しかし、律令が確立されたのは、やはり隋唐

207 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:27:12.81 0.net
唐宋変革

唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。この時期の分裂は単なる軍閥割拠ではなく,その背景には大きな社会変動があり,いわゆる〈唐宋変革〉における過渡期とみなされる。

〈唐宋変革〉に関しては,中世から近世へとする学説と,古代から中世へとする学説とがあって一致をみないが,とにかく唐から宋への間に中国史の画期を設定する点では一致している。…

208 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:28:08.03 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。

209 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:31:16.43 0.net
具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。

五代においては有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。

対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、
またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。

貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。
宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。
現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。
この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。
経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。
唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。こ
れに対して宋代においては文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すことになったなどの変化(これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。
これらの変化は単に王朝の変遷というのみならず「中国史上で最も大きな変化があった」と思考できる学説がある。内藤湖南が唱えた唐宋変革論という大日本帝国時代の帝国大学で研究された東洋史の学説である。

210 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:33:35.38 0.net
内藤湖南が唱えた唐宋変革論

要するに、唐と宋で何がそれほど違うのかといえば、日本でいえば「平安時代までが貴族の世、
鎌倉時代からが武士の世」とされるのと同じで、中国では、「唐までが貴族の世、宋からは科挙官僚の世」
とされているということ。

さらに、宋から紙幣が発行され、飛躍的に貨幣経済が発達した。
この結果、宋からの中国は、ほとんど別モノと化した。
 

211 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:23.02 0.net
日本でいえば戦国時代に相当する五大十国の大争乱期を経て、宋の太祖・趙匡胤は、
武官優位の体制を改め、文官優位の統治体制を作った。
 
それが、その後の千年の中国のありかたを決定する。

212 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:55.98 0.net
五大十国じゃない、五代十国

213 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:42:57.83 0.net
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。

関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、
朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、
安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、
貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。

唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。

214 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:43:33.58 0.net
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。

明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。

215 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:49:36.54 0.net
「貴族の世」から「科挙官僚の世」に変わったのと並ぶ大きな変化は、内陸から沿海へと中国の中心が移ったことだろう。

現代の中国は、北京・上海・広東省といった沿海部が圧倒的な中核で、内陸部は植民地みたいな状態になっている。

この傾向がハッキリしたのは、元や明あたり。

唐までは、洛陽・長安といった内陸部が国の中核となっていた。

もっとも、隋唐でもすでに、隋の煬帝が江南に行幸したまま帰ってこないほど江南が発展していたが。
北京や広東省はまだ辺境もいいとこだった。
 
漢末では、まだ「天下の3分の2は魏」と言われ、呉は「魏が攻めてくる」と聞いただけで重臣たちが降伏論を唱えるほど、洛陽・長安あたりの優位が歴然としていた。

216 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:59:36.78 0.net
欧州でも、似たような変化があった。

欧州では、古代からずっとギリシャ・イタリア・スペインといった南欧諸国が文化的にも経済的にも優位にあったけど、16世紀から17世紀あたりを境に、イギリス・フランス・オランダ・ドイツといったアルプス以北の国々が伸びてくる。

「なんで、南欧は没落したのか?」というのが、今でも大きなテーマ。

もしも、欧州が中国みたいな統一国家だったとしたら、これは「国の中の中心地の移動」ということで済んだだろう。
バラバラだから、それでは済まない(笑)。

中国だって、洛陽・長安から、北京・上海・広東省への中心地の移動は、これに勝るとも劣らない大変化だ。
ヨーロッパみたいに各国が分かれてないおかげで、この違いが目立っていない。
 
北京人や上海人は、欧州でいえばイギリス・フランスみたいなものだ。
彼らが「中国四千年の歴史」を誇るのは、筋が通っていない。
 

217 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:04:43.91 0.net
日本の場合は、古代からずっと京都・奈良・大阪が中心地だったが(まあ、それ以前は北九州というのもあったが)、江戸時代に入って、江戸が台頭する。

徳川家康が大土木工事をやる前の江戸は、大湿原地帯で、人が住むようなところじゃなかった。

江戸が本当に発展してくるのは18世紀。本当に京都を追い抜いたのは、江戸時代も後期の、19世紀に入ってからのことだろう。

それでも、幕末に江戸幕府が崩壊すると、政治の中心はすぐ京都に戻ってしまった。
最後の将軍・徳川慶喜は、京都で即位して、京都で退位した。
 

218 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:15:44.23 0.net
もっとも、唐までの貴族も、宋からあとの士大夫も、どっちにしても「教養ある文官」という社会的なポジションに変わりないので、違いが分かりにくい。

そもそも、唐の貴族を「貴族」と呼ぶのは日本での慣習にすぎず、中国では「士大夫」もしくは「士族」と呼んでいるというから、ややこしい。

日本の公家と武家ほどの、わかりやすい違いがない。

219 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:19:59.04 0.net
しかし、唐の貴族は都会育ちで家柄が良くて華やかだけど、宋の士大夫は猛勉強で儒教イデオロギーを刷り込まれた地方出身の秀才だから基本的に地味。
 
文官とはいえ、質実剛健だ。

文天祥などは、文官なのに軍を率いてモンゴル人と戦った。 

220 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:49:18.12 0.net
北宋を樹立した趙匡胤(太祖)は、五代の武断主義の反省から科挙を大幅に強化し、文治政策を定めた。

それまで1回につき10人ほどであった科挙及第者が、太祖時代に数百人まで増やされ、これら科挙官僚は3代真宗期から実質的に朝廷を主導し始める。

221 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:11.56 0.net
「唐にも科挙はあった」といったって、合格者は1回につき十人くらいだった。

宋では数百人に増えたので、社会的な影響力は比べものにならない。

222 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:52.96 0.net
「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。
3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。
また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、
罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。

これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。
この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた。

総レス数 390
115 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200