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中国の王朝で一番好きな王朝

1 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 15:26:59.34 0.net
どう考えても明だろ

159 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:03:13.14 0.net
長安は、都でなくなって千年以上がすぎており、今では単なるゴミゴミした地方都市になった

160 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:04:43.06 0.net
中国人が、京都や奈良に来て歴史と文化に感心するのはそのせい

まあ、京都も、寺と神社が多いのを除けば、単なるゴチャゴチャした地方都市だが

161 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 13:24:20.72 0.net
中国人は器がでかい。
雑胡でも皇帝なることはできるし、
死後百年たっても燕の地では英雄扱い

広州ではムスリムのアラビア人が南漢を建国
まかり間違えば、阿倍仲麻呂だはないが日本人でも皇帝になれるかもしれない

162 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:10:37.16 0.net
>>131
唐の皇帝ではなく、拓跋の河汗として、西の遊牧圏と同盟を結んでいた、という程度のものだろ

163 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 20:12:00.85 0.net
>>161
中国人は数ばかりいても基本アホなので、有能な外部勢力に支配してもらってようやっとこ国の体裁を為しているというような時代が多かった

164 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:14:15.27 0.net
日本も、平安時代の貴族社会と、それ以後の武士の世で大きく違うけど、中国も、唐とそれ以後の違いが非常に大きい。

日本の場合は、東国に武家政権ができてからも、京都の貴族はしっかり続いてた。
室町時代には京都に幕府ができたし、江戸時代になっても京都の文化的な優位が続いた。
関東に政治権力が移ってからも、日本人は仏教を信仰し続けた。

中国では、唐末に貴族が大粛清されて貴族階級が消滅し、しかも長安から都が移って二度と戻らなかった。
仏教も、宋の後半あたりから衰退し始めた。
    
大陸の歴史は、日本のように漸進的ではなく、断絶がある。
 

165 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 07:15:53.82 0.net
明の時代の江南は、近代資本主義の一歩手前といえるほど経済が発展した。

技術も資本も市場も、すべてがそろっていた。

ただひとつ、「資本主義の精神」が欠けていたが、それ以外のものは、すでにそろっていた。

まさに世界の最先端。ほぼ近代国家のレベルに到達していた。
 

166 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:12:46.86 0.net
明朝は面白い時代である。今の中国に似ていると言われる。

この王朝の影響は今日の中国のいたるところに見られる。

いわば、現代の基礎は明朝にあると言っても過言ではない。

167 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:14:08.21 0.net
現代の人々が秦漢、隋唐、宋元時代のものだと認識しているもの
(万里の長城は秦の代表、『三国志演義』は後漢の物語、
『西遊記』は唐が背景である伝奇、『唐詩選』は唐の文化のピーク、
『水滸伝』は北宋のストーリーである)はほとんど明代にできたものだと言える。

言い換えると、我々が「伝統中国」として抱くイメージは実はほとんど明代に達成されたものである。

168 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:15:51.28 0.net
中国四大名書のうち、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』はすべて明代に書かれた。
また、詩の精華である『唐詩選』は明代の李攀龍という文人により編纂された。

北京の万里の長城や故宮なども明代に建てられた。
万里の長城は秦の始皇帝の傑作と考えられているようだが、
実は今見ているものはほとんど明代に建てられたものである。
故宮、すなわち紫禁城も明の成祖、永楽帝が遷都した後元の宮殿が基になっている。
明末、李自成の乱で焼失したが、清朝の皇帝は明の規模に基づいて再建した。

169 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 10:23:48.52 0.net
>>166
すぐ粛清したりとか一族皆殺しとかインド洋方面にちょっかい出したりとか?

170 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:15:48.87 0.net
明では、官僚の汚職を厳しく取り締まっていた。

見せしめで処刑することも多かった。

171 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:18:09.23 0.net
明朝はその後期に大きな社会変化があった。
明では、商業経済が大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。
人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。

それにともない、様々な問題も出てきた。
奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。
しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。

もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。
しかし、歴史は仮定できないことである。
明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。
明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。

172 :世界@名無史さん:2017/10/02(月) 19:20:36.08 0.net
しかしながら、奢侈がもたらしたよい面もあった。紡織業、手工業、食品加工業、製陶業、製紙業などの工業に進歩が見られた。

江南地域の絹織物業を例としてあげると、生産規模、産業分業、品種、質量などが新しい段階に入った。しかも、機戸と機工の間に、賃金契約関係が成立した。

言い換えると、江南の紡織業に中国歴史上初めての資本主義の萌芽が見られたのである。食品加工業、成衣業なども商業化、専門化した。工業のほか、第三産業サービス業でも大きな発展があった。市民に仕事の機会を提供し、庶民に利益を獲得させた。

173 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 06:58:33.59 0.net
北魏と隋唐は鮮卑、宋は突厥沙陀部、遼・金・元はいうに及ばず、清は満州

漢族による王朝は明だけ

174 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:19:33.73 0.net
それにしても、小中学校の日本史の授業では、「奈良時代の律令国家が崩壊して、平安時代には貴族の荘園がひろがりました」という話がやたら強調され、徹底的に刷り込まれた覚えがある。

北魏や隋唐の律令制も、同じようなプロセスをたどって崩壊したはずなんだが、高校の世界史では、そこはあんまり強調してなかったな?

175 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:23:30.36 0.net
宋になると、「地主階級」が台頭して、地主の子弟が科挙官僚となり、支配層を形成する。

日本が貴族の世から武士の世になったように、中国も貴族の世から科挙官僚の世に変わった。

このあたりのストーリー展開で、高校の東洋史を分かりやすくできるんじゃなかろうか?

176 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:24:35.20 0.net
しかし、平安時代の日本には最強貴族の藤原氏がいた。

唐には、王氏も謝氏ももういない。

177 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:27:18.25 0.net
やはり、中国はデカくて複雑だ。

日本史ほど単純なストーリーにはしにくい。

178 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:31:04.36 0.net
隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、
その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、
その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。

179 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:32:32.98 0.net
唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。

初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。

これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。

180 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:35:35.62 0.net
解決済の質問

山東門閥の由来、起こりを解説してください。

181 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:37:06.77 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏を代表とする山東門閥ですね。

起源は西晋崩壊時の混乱期です。この時期、琅邪王氏、陽夏謝氏など華北の有力貴族の一部は東晋の建国者である司馬睿と共に江南にくだり、
南朝の支配階級を形成したのですが、華北に残留し五胡の支配下に降った漢人貴族もいました。

この残留した漢人貴族が山東門閥(山東貴族)の先祖です。
彼らは異民族の浸入による混乱と分裂の華北で、その異民族の支配下に甘んじ、地方官職などにつき、漢人を統治していましたが、華北が北魏に統一されると、漢化政策が始まる前後から、その中央政府に出仕する者も現れます。
北魏・太武帝に仕え司徒にまで登った崔浩(清河崔氏)などはその代表的人物です。

その後、北魏の分裂に伴い、山東貴族は東魏→北斉に仕えます。
北魏、東魏、北斉は共に王室は鮮卑系なのですが、この中で山東貴族は鮮卑の貴族(元々は漠北の部族長)を差し置いて最高の家格とされました。
これには府兵制が深く関わっていたとされています。
つまり、王朝の皇帝は元々の出身が北方の騎馬民族でも、中国(中原)で帝位に着くと中央集権を目指し、
それまで同格(多くの北方遊牧民の指導者は部族連合体の長でしかない)であった同じ部族長らの武力を当てにしないで済むように自身が直接指揮権を持つ(将軍の任命権を持つ)政府軍(府兵)を持ちたがった事が原因です。
漢族の府兵を組織できたら、遊牧貴族は不要になり、漢人貴族(この場合は山東貴族)が最も扱いやすかったんですね。

山東貴族が仕えた北斉は西魏→西周から譲りを受けた隋に滅ぼされてしまいますが、
隋・唐で支配者層を形成した関隴貴族より家格は山東貴族が上と目されているようでした(『貞観氏族志』参照)。

その後、自身も関隴貴族の末端にありながら、その関隴集団よりの支持を期待できない則天武后により、
山東貴族は取り立てられ盛唐から中唐、末唐にいたるまでおおいに栄えました。

182 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:40:30.21 0.net
玄武門の変が、関隴集団と山東貴族の対立、というのは有名だけど、地域的に考えて当然ながら山東貴族は北斉の遺臣であり、北周、隋、唐初では不遇だったのか。

このグループの中心が、隋の時の薛道衡だったとかいう説。玄武門で世民に荷担したのが19人くらいいて、山東系は12人とか。

183 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:51:06.27 0.net
清河崔氏,是中国中古时代一个以清河郡为郡望的崔姓士族,汉末三国时期开始崛起为山東望族。

北魏时,魏孝文帝分定姓族,清河崔氏与范陽盧氏、滎陽鄭氏、太原王氏並稱為四姓。
在唐朝,清河崔氏有十二名宰相。

184 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:53:49.88 0.net
>清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、滎陽鄭氏

↑唐の貴族を代表する四姓

日本でいえば、源平藤橘に相当する

185 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 08:58:33.50 0.net
しかし、山東貴族が、日本の藤原氏みたいに荘園を広げたかっていったら、そういうわけではない。

地主階級や科挙官僚の台頭は、唐からすでに始まっていた。

彼らは、むしろ山東貴族を脅かす新興勢力だった。

186 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:05:44.22 0.net
魏晋南北朝から唐の時代に形成された貴族(門閥貴族)は唐末にその基盤であった荘園制と共に没落し、庶民社会へと移行した。

庶民は律令制下の均田農民層であったが、均田制の崩壊に伴い、
上層の新興地主層(形勢戸)と中・下層の都市民、農民(小作人=佃戸)とに分解し、
上層庶民は地主であると共に士大夫や読書人と言われる知識人、
科挙に合格した官僚として支配階級を形成した。

しかしその身分と地位はかつての貴族と異なり、原則として世襲されることはなかった。

187 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:07:42.27 0.net
漢末から西晋にかけての争乱で、古代黄河文明は滅亡し、中国はリセットされた。

そこから、歴史は再び始まる。

188 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:09:43.52 0.net
北斉・北周・南朝を統合した隋唐は、貴族社会となった。

北斉に由来する山東貴族と、北周に由来する関隴集団。

この二大勢力が貴族階級を形成した。

189 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:11:45.52 0.net
しかし、貴族の世はいつまでも続かなかった。

地主階級+科挙官僚が、新興勢力として台頭。

唐末に貴族が虐殺されて姿を消してからは、この勢力が中国の支配層となる。

190 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 11:15:07.00 0.net
しかし、中国の時代劇を見ると、いつも満州人の皇族・貴族が出てきて、華やかな宮廷恋愛を繰り広げている。

科挙官僚は、見るからに学者っぽい地味なオジサン。

やっぱり、清もそういう意味では貴族社会なのではなかったか?

191 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 12:31:18.27 0.net
将門は今や坂東一の武者としてその名は天下にとどろいている。
昔のことは知らないが、今の世は、武勇のある者を君主とする。
たとえ我が国に前例がないとしても、すでに他国には例がある。
大契丹王は渤海国を討ち、国名を東丹とし領有した。力をもって征服したのだ。


平将門が弟の将平に新皇宣言を諌められた時の返答だが、ここで将門が言っている大契丹王とは遼の建国者、耶律阿保機。
京の都から離れている坂東武者にまでその名(契丹)が知られていたのだから、遼の建国はそれなりにエポイックメントな事件だったのかもしれない。

192 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 19:15:28.93 0.net
>>190
科挙自体が貴族制の維持のための仕組だろ。
募集は公開ではない、日時場所も応募方法も、一般は知る由もない。
既に登官している者がその地位に応じて推薦することで試験資格が生ずる。
縁故があるか、なければ賄賂を積んで、受験資格を得るという。

193 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:16:19.59 0.net
北からやってきた征服者が、貴族の代わりになった
 

194 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:17:19.57 0.net
代表的な山東貴族の崔氏も、教養ある漢人の文官が必要だから北朝で重用されたわけで

195 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:27.39 0.net
こうしてみるとやはり、唐こそが、その後の中華帝国の原型

196 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:18:56.06 0.net
しかし、唐は黄土に埋もれて荒れ果てた

197 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:19:12.86 0.net
征服者のその取り巻きやら縁故やらが貴族になるのは古今東西どこでも同じ。
イギリスだってノルマン時代に、アングロ系貴族はみんなお取り潰しで、ノルマン系の貴族に入れ替えられてる

198 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:20:58.78 0.net
日本でいえば藤原系の公家と同じで、藩屏ですな

199 :世界@名無史さん:2017/10/03(火) 21:23:53.30 0.net
それを思うと、側近を粛清しまくっている金正恩はすごいな

藩屏をみずから壊している

200 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:57:18.96 0.net
 律令は「りつりょう」と読まれることが多いが、「りつれい」でよい。
まず刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。
漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
 三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。
次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。
8世紀前半の玄宗の時が最も整った時期のものとされている。
この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6〜7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。
さらに後代の明では、明律と明令が制定された。

201 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 04:58:35.34 0.net
隋の文帝は皇帝となった581年に、さっそく律令を制定した。これを開皇律令という。これそのものは残っていないが、唐の律令もこれをもとにして作られたと言われている。
 律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。

また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。

また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。

202 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:00:46.54 0.net
唐を建国した李淵(高祖)は隋に続いて624年に武徳律令を制定した。
その後、唐王朝で律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度が整備され、
三省六部制の国家機構、科挙による官吏登用・官僚制、均田制の土地制度、
租庸調制の税制、府兵制の軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、
身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制が出来上がった。

203 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:01:08.99 0.net
律 律は一般に刑法にあたる。
令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
格 格(キャク)は臨時法にあたる。
式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。

204 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:23:45.49 0.net
明律

洪武帝が編纂した刑法。大明律ともいう。

大明律ともいわれる明の刑法。初代の洪武帝の時、1367年の第1回以来、3回の改変が行われ、1397年に完成し、明令とともに明の基本法典とされた。
律は唐の律令制度と同じく、刑法を意味し、唐律などを参考にして定められた。洪武帝は明律の中で、良民を略奪して奴婢にすることを十悪罪の一つとして、厳禁した。
また、皇族・貴族を除いた一般人は、奴婢を所有し使役することを禁止した。モンゴルの支配で奴隷身分にされていた農民を解放し、自由に農業生産を行わせ、租税基盤を増加させるためであった。

明律は次の清朝にも継承され、さらに李朝の朝鮮、黎朝のベトナム、日本の江戸幕府の法律にも影響を与えた。

205 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:24:46.96 0.net
律令国家という体制は、日本におよぼした影響の大きさから、隋唐のものが強調されているが、
実際には秦から清まで続いた。

206 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:25:39.83 0.net
しかし、律令が確立されたのは、やはり隋唐

207 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:27:12.81 0.net
唐宋変革

唐代後半の藩鎮割拠という分裂状態が唐の滅亡で極まったのがこの時代である。この時期の分裂は単なる軍閥割拠ではなく,その背景には大きな社会変動があり,いわゆる〈唐宋変革〉における過渡期とみなされる。

〈唐宋変革〉に関しては,中世から近世へとする学説と,古代から中世へとする学説とがあって一致をみないが,とにかく唐から宋への間に中国史の画期を設定する点では一致している。…

208 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:28:08.03 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。

209 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:31:16.43 0.net
具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。

五代においては有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。

対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、
またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。

貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。
宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。
現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。
この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。
経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。
唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。こ
れに対して宋代においては文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すことになったなどの変化(これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。
これらの変化は単に王朝の変遷というのみならず「中国史上で最も大きな変化があった」と思考できる学説がある。内藤湖南が唱えた唐宋変革論という大日本帝国時代の帝国大学で研究された東洋史の学説である。

210 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:33:35.38 0.net
内藤湖南が唱えた唐宋変革論

要するに、唐と宋で何がそれほど違うのかといえば、日本でいえば「平安時代までが貴族の世、
鎌倉時代からが武士の世」とされるのと同じで、中国では、「唐までが貴族の世、宋からは科挙官僚の世」
とされているということ。

さらに、宋から紙幣が発行され、飛躍的に貨幣経済が発達した。
この結果、宋からの中国は、ほとんど別モノと化した。
 

211 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:23.02 0.net
日本でいえば戦国時代に相当する五大十国の大争乱期を経て、宋の太祖・趙匡胤は、
武官優位の体制を改め、文官優位の統治体制を作った。
 
それが、その後の千年の中国のありかたを決定する。

212 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:35:55.98 0.net
五大十国じゃない、五代十国

213 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:42:57.83 0.net
最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。

関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、
朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、
安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、
貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。

唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。

214 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:43:33.58 0.net
長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。

明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。

215 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:49:36.54 0.net
「貴族の世」から「科挙官僚の世」に変わったのと並ぶ大きな変化は、内陸から沿海へと中国の中心が移ったことだろう。

現代の中国は、北京・上海・広東省といった沿海部が圧倒的な中核で、内陸部は植民地みたいな状態になっている。

この傾向がハッキリしたのは、元や明あたり。

唐までは、洛陽・長安といった内陸部が国の中核となっていた。

もっとも、隋唐でもすでに、隋の煬帝が江南に行幸したまま帰ってこないほど江南が発展していたが。
北京や広東省はまだ辺境もいいとこだった。
 
漢末では、まだ「天下の3分の2は魏」と言われ、呉は「魏が攻めてくる」と聞いただけで重臣たちが降伏論を唱えるほど、洛陽・長安あたりの優位が歴然としていた。

216 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 05:59:36.78 0.net
欧州でも、似たような変化があった。

欧州では、古代からずっとギリシャ・イタリア・スペインといった南欧諸国が文化的にも経済的にも優位にあったけど、16世紀から17世紀あたりを境に、イギリス・フランス・オランダ・ドイツといったアルプス以北の国々が伸びてくる。

「なんで、南欧は没落したのか?」というのが、今でも大きなテーマ。

もしも、欧州が中国みたいな統一国家だったとしたら、これは「国の中の中心地の移動」ということで済んだだろう。
バラバラだから、それでは済まない(笑)。

中国だって、洛陽・長安から、北京・上海・広東省への中心地の移動は、これに勝るとも劣らない大変化だ。
ヨーロッパみたいに各国が分かれてないおかげで、この違いが目立っていない。
 
北京人や上海人は、欧州でいえばイギリス・フランスみたいなものだ。
彼らが「中国四千年の歴史」を誇るのは、筋が通っていない。
 

217 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:04:43.91 0.net
日本の場合は、古代からずっと京都・奈良・大阪が中心地だったが(まあ、それ以前は北九州というのもあったが)、江戸時代に入って、江戸が台頭する。

徳川家康が大土木工事をやる前の江戸は、大湿原地帯で、人が住むようなところじゃなかった。

江戸が本当に発展してくるのは18世紀。本当に京都を追い抜いたのは、江戸時代も後期の、19世紀に入ってからのことだろう。

それでも、幕末に江戸幕府が崩壊すると、政治の中心はすぐ京都に戻ってしまった。
最後の将軍・徳川慶喜は、京都で即位して、京都で退位した。
 

218 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:15:44.23 0.net
もっとも、唐までの貴族も、宋からあとの士大夫も、どっちにしても「教養ある文官」という社会的なポジションに変わりないので、違いが分かりにくい。

そもそも、唐の貴族を「貴族」と呼ぶのは日本での慣習にすぎず、中国では「士大夫」もしくは「士族」と呼んでいるというから、ややこしい。

日本の公家と武家ほどの、わかりやすい違いがない。

219 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:19:59.04 0.net
しかし、唐の貴族は都会育ちで家柄が良くて華やかだけど、宋の士大夫は猛勉強で儒教イデオロギーを刷り込まれた地方出身の秀才だから基本的に地味。
 
文官とはいえ、質実剛健だ。

文天祥などは、文官なのに軍を率いてモンゴル人と戦った。 

220 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:49:18.12 0.net
北宋を樹立した趙匡胤(太祖)は、五代の武断主義の反省から科挙を大幅に強化し、文治政策を定めた。

それまで1回につき10人ほどであった科挙及第者が、太祖時代に数百人まで増やされ、これら科挙官僚は3代真宗期から実質的に朝廷を主導し始める。

221 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:11.56 0.net
「唐にも科挙はあった」といったって、合格者は1回につき十人くらいだった。

宋では数百人に増えたので、社会的な影響力は比べものにならない。

222 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:50:52.96 0.net
「三年清知府、十万雪花銀」という詞がある。
3年地方官を勤めれば、賄賂などで10万両くらいは貯めることができることを意味する。
また、科挙及第者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や、
罪を金で購うことができるといった数々の特権を持っていた。

これらの点から、一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚に押し上げることは、最も得する商売であったとも言える。
この現象は「陞官発財」(官に陞(のぼ)れば、財を発する)とも言われた。

223 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 06:51:39.99 0.net
その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。
明から清にかけて、士大夫が新たに郷紳という階級を形成し始める。
郷紳は基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力者としての意味合いが強調された語である。
中には私兵を持つものもおり、曽国藩・李鴻章らの湘軍・淮軍などは、清王朝後期の堕落した正規軍に代わって内憂外患に対処できるほどの実力を備えた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。

しかし、現代中国においても、士大夫の意識は残っているとされ、中国共産党のエリートは、現代の士大夫とみなされることが多いとされる。

224 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:35:59.34 0.net
千年以上も前に、貴族社会から官僚国家への変身を遂げた中国。

宋は、ほとんど近代国家。

あまりにも先進的だ・・・。

225 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:38:11.52 0.net
解決済の質問

世界史についての質問です。
中国の、府兵制と募兵制の違いはなんですか?また、どちらが先ですか?
どなたか教えて下さい。

226 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:38:44.13 0.net
ベストアンサーに選ばれた回答

府兵制とは、農民に武器を持たせ、兵士とすることです。
昔の日本でいうと防人のようなもので、国境警備などを行わせたりします。
徴兵制みたいなものです。

南北朝時代に確立し、唐代まではこの府兵制が続きますが、この府兵制が厳しく納税ができなくなり逃亡する農民がでます。

農民逃亡→税が減る→税UP→
さらに農民逃亡→税がへる→etc

という風に 農民=兵士 がいなくなり均田制、府兵制ともに崩壊します。

これにかわってできたのが募兵制です。これは、給料払うので兵士を募集することです
要するに、職業軍人をつくるのですね。今でいう志願制みたいなものです。

現代でも、先進国などでは冷戦終結と共に徴兵制がなくなり、志願制に移行していっています。
なので、流れ的には現代と一緒で
徴兵制=府兵制から志願制=募兵制という流れですね。

227 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:39:38.15 0.net
ベストアンサー以外の回答

府兵制が先です。

府兵制: (均田制の農民を対象に)徴兵による兵役

募兵制: 志願兵制


唐の時代の事ですね。当で律令制が整備され、均田制も大幅に施行されました。(のとの徒は貴族豪族の大土地所有を抑え中央集権国家を確立するためという意図があった)
その均田農民から徴兵して首都やl国境警備に当てたのが府兵制です。

しかし、玄宗皇帝の頃から徐々に律令制や均田制が行き詰まり、徴兵が難しくなって志願制の募兵制にチェンジしました。

228 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 07:43:16.71 0.net
社会主義国の集団農業みたいな均田制は崩壊した。

ついでに、社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制も崩壊した。

官僚国家で、自由主義経済で、志願兵制。

なんという先進国なのだ、宋すごすぎ・・・。

229 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:41:39.30 0.net
国民皆兵(こくみんかいへい)とは、国民全員で国防を担おうという国家の姿勢を指す。
イスラエルやスイスが代表例。
対象国では主に男性に兵役が義務づけられているところが多い。

230 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:42:02.66 0.net
徴兵制度から志願制度への移行は、世界的な潮流となっており、
現在でも徴兵制度を維持している国家は少数派である。

231 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 08:43:41.89 0.net
千年以上前の中国で起きた、国民皆兵制度の崩壊。

現代の世界でも、徴兵制から志願兵制への潮流が起きている。

さすがは、中国。

世界を千年はリードしている。

232 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:02:12.92 0.net
>>84
中国首脳部の間で西安遷都計画があるという情報をブッシュ大統領が言ったことがある。
北京は水不足で限界が来ており、西安に遷都するという。
その後は全く情報を聞かないが。

233 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:08:52.37 0.net
>210
隋・唐は言わずもがな、明や清でも皇族や功臣の子孫から世襲の特恵を剥奪することに結構難儀してたけど、なんで間の宋では貴族社会ではなかったの?

まっとうな印刷技術もない宋の時代に紙幣? 騙してナンボの中国人だよ、贋金だらけにならんかったのかい? 
銅が相当に高価だった時代でも私鋳銭の禁止に手を焼いてたのに。

234 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:32:41.71 0.net
>>221
殿試に数百人? 皇帝のお仕事たいへんだねえw

235 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 09:34:58.68 0.net
>>224
近代国家のクセにモンゴルのような中世的封建体制の国に負けたの?
普通は戦争なんて開明度の高い方が勝つものだけれどねー

人口・経済力も宋が圧倒的だったよね?

236 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:14:44.91 0.net
>>233
宋の時代には、貨幣経済が浸透した

237 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:15:53.02 0.net
生産は土地の国有を前提とする均田制から、土地の私有を前提とする地主=佃戸制(地主が所有する土地を小作人である佃戸が耕作する体制)へと移行した。

徴税体系は、均田農民を負担者とする租庸調制から、地主を負担者とする両税法へと転換した。

これは現物経済から貨幣経済への転換も意味する。

国家財政は地税収入よりも、貨幣経済と商業流通の発展に即応した専売収入に依存してゆく。

軍事体制も均田農民を徴兵する府兵制から、兵卒を金銭で募集する募兵制へと移行した。

238 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 13:17:48.03 0.net
>>235
宋には近代的な官僚機構があったが、軍隊は弱かった

そこが、18世紀のプロイセンとの違い

239 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:37:24.64 0.net
解決済の質問

両税法の意義として「国家が支配の基礎を農民から大土地所有者に、そして課税対象を人から土地に変えたことであった」とあるのですが、
後半の「課税対象を人から土地に変えたことであった」がピンとこないのですが、これについてどういうことなのかわからないので説明してください。
よろしくお願いします。

240 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:37:52.16 0.net
ベストアンサー

従来は租庸調などを個別の人民に人頭税のように課したのが、所有している土地の面積や収量を基準にした税制に移行したということです。

241 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:38:34.55 0.net
つまり課税対象が人間であった租庸調から、土地所有に対して課税する両税法へと変化した。このことは国家が人民の私的土地所有を認めたものとして大きな歴史的意義を持つものといえる。

242 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:41:30.88 0.net
古代中国は厳しい身分制社会で、人民は奴隷のような存在だった。

社会主義国の集団農業みたいな均田制で口分田を配給され、租庸調の税金を課された。

これまた社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制で、容赦なく徴兵された。
 

243 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:43:33.29 0.net
それが崩壊して、個人の自由が大幅に拡大したのが、唐宋変革期。

税金は、土地に対して課税される固定資産税みたいなものが主体の、両税法に変わった。
国家が、土地の私的所有という現実を追認したのだ。

しかも、徴兵制は廃止され、志願兵制に変わった。

こうして、宋では個人の自由が大幅に拡大した。
 

244 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:45:18.21 0.net
先に、両税法の成立を国家によるきびしい支配が農民を逃亡させ、租庸調制が実施できなくなったためであると述べてきたが、それでよいのであろうか。
それは支配者の論理・歴史ではないのか。むしろ生産力の発展によって両税法が実施されるようになったのではないか。

唐代に2年三毛作が普及し、江南でも水稲栽培に田植えの技術が加わったことに着目し、そうした生産力の発展を基礎に地主制が展開され、一方で自作農=中小農民の土地に対する所有権を強めていったのではないか。

両税法施行の意味は、たんに均田制を否定して土地の私有化を国家が認めたことや、搾取の形態が労働中心から生産物中心に移っただけでなく、土地の占有権しかもたなかった農民が土地の所有権を獲得できたことを意味すると私は思う。

このような観点に立てば、宋代の社会経済の発展、商業都市の成長、さらに庶民文化が生まれてくることが理解できるのである。

245 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:47:53.16 0.net
なんか、唐宋変革期の話ばかりを延々と続けてしまった

スレ違いなので、別スレを立てますた

https://lavender.5ch.net/whis/#1

246 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:51:58.05 0.net
明が大好き

胡惟庸(こいよう)の獄(1380)、李善長の獄(1390)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393)という事件がある。
それぞれ、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍になったものたちが、謀反の罪で処刑された事件です。
事件そのものが、朱元璋によるでっち上げらしいのですが、それぞれの事件で処刑された人数がすごい。
胡惟庸の獄が1万5千人、李善長の獄も1万5千人、藍玉の獄が2万人。合計すれば5万人ですよ。
一族郎党、関係者、ちょっとででも疑われたもの、みんな殺されてしまった。
皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者はみんな殺されたということです。

乞食坊主だったことは、そうとう朱元璋のコンプレックスになっていたらしい。
役人が作成文書に「僧」「禿」とかいう文字があったら、とんでもないことになった。
杭州府学という官立学校の教授の文章に「光天の下、天は聖人を生ず」という一節があって、
この先生は死刑になったそうです。光という文字が、坊主を連想させたらしい。

247 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:53:16.89 0.net
やっぱり、明が最高

朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后になってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。

馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。ところが、医者にも診てもらわないし、薬も全然飲もうとしない。朱元璋が心配して差し向ける医者もすべて追い返してしまう。

心配した侍女が、「どうして医者に診てもらわないのですか」とたずねたら、こう答えた。

「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からないことは自分が一番よくわかっている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。

馬皇后は、夫の残虐なおこないをたしなめることができる唯一の人でした。こんな人柄だから、朱元璋が人気がない反面で、みんなから敬愛されたようです。

248 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 20:36:34.70 0.net
洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。
官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明代には試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。
これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。

249 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 22:13:48.35 0.net
>>238
いやいや、いくらなんでも開明度が高くてホーム戦で人口財力文明力に劣る勢力に負けないでしょうに

250 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:21:42.50 0.net
宋はあまりにも文化が高かったため、野蛮人の暴力に屈してしまったな

251 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:22:15.26 0.net
文官優位の国の弱点を突かれた

252 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:23:57.14 0.net
僕たちが普段使う「近代化」はほとんど「西洋化」という意味だ。
日本は近代化に成功したが、歴史という長いスパンをとって考えれば、必ずしも西洋の「近代化」を進んだ考えと言うことはできない。
だが、アジアの中で真っ先に「近代化」を進めた日本は優秀な国で、「近代化」に必要な「法の支配」や「議会制民主主義」が欠如している中国は遅れた国だと多くの日本人は考えがちだ。

しかし、中国は本来、人類史上最初に身分制を廃止し、かつて世界のほどんどの富を独占する「進んだ」国だった。
しかし、どうしてそれが「遅れた」国とみなされ、逆に西洋は現在「近代化」と言われているものを成し遂げたのか。

253 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:24:57.30 0.net
西洋の持つ、他の社会とくらべて最も魅力的な考え方、「法の支配」や「議会制民主主義」は、もともと中世貴族の既得権益だった。
ヨーロッパ型の近代化とは、貴族の既得権益を下位身分のものと分けあっていくプロセスだった。

だが、中国は宋朝の時代に身分制を廃止した「進んだ」国家であり、そもそも貴族がいなかったから、政治の面での「西洋化」が進まなかった。

実は日本は、「近世に貴族が絶滅した」という点では、西欧よりも中国に近い。
だから、日本がヨーロッパの考えを取り入れて「近代化」していった、とは別の捉え方で歴史を考え直す必要があるのではないか。

254 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:28:27.23 0.net
今の中国の元となる仕組みができたのが近世の宋朝だった。
世界で最初に身分制や世襲制が撤廃され、移動、営業、職業選択が自由になる。
「科挙」という形での身分に関係なく支配者層へ成り上がる方法も行き渡った。
しかし、「科挙」以外の政治的な自由は極めて強く制限されている。
宋朝以降の皇帝は、朱子学という全世界的な理念をもってして人民を統制した。

255 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:30:02.99 0.net
宋は、いちはやく身分制社会から脱して、官僚国家へと変身を遂げた。

近代の日本や西欧は、「宋」というゴールに向かって社会変革してきたようなものだ。

256 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:34:48.54 0.net
宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃された結果、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が、広く江湖に行きわたることになります。
科挙という形で、官吏すなわち支配者層へとなり上がる門戸も開放される。
科挙は男性であればおおむね誰でも受験できましたので、(男女間の差別を別にすれば)「自由」と「機会の平等」はほとんど達成されたとすらいえるでしょう。

……え、「結果の平等」はどうなるのかって?

もちろん、そんなものは保障されません。
機会は平等にしたわけですから、あとは自由競争あるのみです。
商才を発揮してひと山当てた人、試験勉強に没頭して頑張りぬいた人にのみ莫大な報償を約束し、
それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって、
無能な貴族連中による既得権益の独占が排除され、
あまねく全員が成功に向けて努力せざるを得ないインセンティヴが生み出されるのです。

257 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:40:36.35 0.net
飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。
    ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
 
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。
      しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。
      宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。
 

258 :世界@名無史さん:2017/10/05(木) 06:41:42.12 0.net
與那覇 それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。
      戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。
 

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