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中国の王朝で一番好きな王朝

1 :世界@名無史さん:2015/08/23(日) 15:26:59.34 0.net
どう考えても明だろ

53 :世界@名無史さん:2015/10/12(月) 07:35:49.42 0.net
なかやまきんにく国

54 :世界@名無史さん:2015/10/12(月) 07:37:27.26 0.net
やはり体格のいい北狄人すなわちチュルク系だったからでしょうか?>>52

55 :世界@名無史さん:2016/03/13(日) 13:44:27.79 0.net
>>49
>肉林
原義では、ヤキニク・パーティーのことだからな
串焼きが林立している様をさす
女性の肉体は関係ない

56 :世界@名無史さん:2016/11/25(金) 17:16:30.24 0.net
ベタだけどやっぱ唐だな。
日本との関わり
国際色豊かな文化
安史の乱以後の変動っぷり

57 :世界@名無史さん:2016/11/26(土) 00:28:06.77 0.net
>>52
鉄の錫杖ってヌンチャクの事なのだろうか

58 :世界@名無史さん:2016/11/26(土) 19:19:30.30 0.net
>>49
あの時代の華北だと主食はコメではなくアワかな?
その点でも侘びしいな
まあ皇帝ならコメも食べられたろうけど

59 :世界@名無史さん:2016/12/05(月) 14:19:30.40 0.net
>>1
袁世凱

60 :世界@名無史さん:2017/05/07(日) 10:10:33.42 0.net
>>43
シェラコみたいなものか。美味そうじゃん。ガウチョ料理のシェラスコみたいだ

61 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 09:57:50.47 0.net
>>58
伯夷と叔斉の故事に因んで、面従腹背を良しとせず、雇い主の許を去る行いを
ナントカの粟をはまず 
とか言うだろ。

62 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 12:13:25.03 O.net
兄弟で山に籠って薔薇を摘んだんだっけ?

63 :世界@名無史さん:2017/05/08(月) 13:09:37.72 0.net
なにその801板の歴女の食い付きそうなエピソードは

64 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:24:55.67 0.net
大唐こそ、中国文明の絶頂期

65 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:27:02.35 0.net
世界の流れから隔絶した孤立感
それが中国史の特徴だ

例外は唐とモンゴル帝国
この2つは中央アジアとダイレクトにつながっていた

66 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:36:42.07 0.net
超巨大帝国

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/%E5%94%90%E7%96%86%E5%8F%98%E8%BF%81.gif/250px-%E5%94%90%E7%96%86%E5%8F%98%E8%BF%81.gif

67 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:41:09.41 0.net
大唐帝国とサラセン帝国が世界を二分

この頃のインドは三国鼎立時代

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg/1280px-Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg.png

68 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:43:28.94 0.net
長安には明教(マニ教)・祆教(けんきょう:祆は示偏に天。ゾロアスター教)
・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、
国際都市としての景観を持っていた。

69 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:56:07.15 0.net
華やかな貴族文化

たおやかな女人

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Chou_Fang_003.jpg/120px-Chou_Fang_003.jpg

70 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 21:57:00.76 0.net
この時代の文化が最優美

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Chou_Fang_004.jpg

71 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:03:09.79 0.net
唐の前半は西域の影響を強く受けたが、次第に国風文化へと移行した

http://fc.life.com.tw/upload_file/14/content/f78eb787-54ad-0254-30ad-8c2bb64103f4.jpg

72 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:06:13.36 0.net
後の時代よりも、唐のほうがずっとグローバル化していた

この頃は、日本も東アジアとダイレクトにつながっていた

その後、グローバル化が後退したのはなぜなのか?

73 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:19:08.62 0.net
まあ、古来から言い古されてきた疑問だが

74 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:22:26.02 0.net
ひとつには、海洋貿易が中心になってきたため、陸路のシルクロードが衰退した

唐とサラセン帝国の国力が衰え、中央アジアへの影響力が低下した

外来文化は、もう十分に取り入れたので、もういいやとなった

75 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:26:49.40 0.net
この歴史的な事例を見れば、現代のグローバリゼーションの流れも、やがて反転するのかもしれない

日本や中国が、欧米の文化を取り入れなくなり、国風文化へと移行するということ

76 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:33:17.92 0.net
中国は、首都を西安に移せ

77 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:38:55.95 0.net
ウイグル人のテロリストは、現代の突厥

突厥の脅威から国を守るための城塞都市は西安

78 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:42:44.46 0.net
かつて西安(長安)はシルクロードの出発点でした。

そのシルクロードで大きな役割を果たしたのがイスラム人で、ここ西安の回民街
(回民というのはイスラム人のことですから、日本語に直せば「イスラム人街」になります。)
の近くには西安大清真寺(モスク)があり、かつてはイスラム教徒が数多く住んでいたのでしょう。

今では西安随一のB級グルメ街になっていますから、
ここで店を出している人たちすべてがイスラム教徒だというわけではありません。

http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantown00.jpg

79 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:51:38.28 0.net
華やかな貴族文化といわれる唐代だけど、
建物も陶磁器も、明代あたりと比べると、
とても素朴だった

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Da_yan_ta.jpg

80 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 22:57:30.57 0.net
唐三彩

絢爛豪華な明の万暦赤絵とかと比べたら、とても素朴な陶器で、
弥生時代のハニワよりはマシという感じなんだけど、
これでも当時としては最先端の工芸品で、周辺諸国の憧れのマトだった

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Westerner_on_a_camel.jpg

81 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:10:42.34 0.net
よく思うのだが、漢や唐の大帝国ぶりを歴史地図で見ると、
同時代の日本の状況のささやかさと比べて大差を感じるんだが、
実際に国立博物館で骨董品を見ると、漢代のものは、
やっぱり弥生時代の土器や青銅器と大差ない。

もちろん、漢は先進国だから差がないわけじゃないのだが、現代人から見れば
あまりにも素朴で、似たようなものだ。まあ、同時代だから当たり前なんだが。

ていうか、あれでよく大帝国を作れたもんだよ。
あんなアフリカの原住民みたいなレベルの人たちが、
大軍を編成して広大な領域を制圧した。
人間ってのは、不思議なもんですな・・・。

82 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:20:43.97 0.net
オリエント博物館で古代メソポタミアの粘土版を見ると、
4000年以上も前のイラクの文化水準の高さに衝撃を受ける。

縄文時代に、これかよ・・・という感じ。
さすがに、同時代の日本じゃ考えられないレベル。

やっぱり、中国の水準が大幅に上がったのは、
唐の時代にシルクロードを通して西域の文化を
導入したときだと思うんだな。
それまでは、明らかに世界最先端は中東の西アジア。

中国信奉者の人には悪いけど、やっぱり、そうとしか思えない・・・。

83 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:32:06.29 0.net
>>69
小さくて見えないよ
この全体図を貼れ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/Zhou_Fang._Court_Ladies_Wearing_Flowered_Headdresses._%2846x180%29_Liaoning_Provincial_Museum%2C_Shenyang..jpg

84 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:34:43.69 0.net
>>76
わざわざ貧しい地域に遷都することは無かろう
順当なら最も豊かで文化の中心でもある地域、つまり江南
だから遷都するなら南京がふさわしいだろう

85 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:37:43.48 0.net
日本史の教科書には、「平安時代の日本では、逃亡する農民が増えて、
貴族の荘園も増えて、律令制が崩壊しました。」と書いてある。

「当初は大陸から文化を導入しましたが、やがて国風文化に移行しました」
とも書いてある。

実際のところ、唐の歴史もこれとよく似ている。
同じように、律令制が崩壊して貴族の荘園が増えた。
当初は西域から文化を導入したけど、後には中国風の文化に移行した。

平安時代の日本には帰化人が多かったが、やがて土着の日本人と融合し、新しい日本人が形成された。
唐の時代の中国も、これと同じような状況だった。

こういう東アジアとしての同時代性に、もっと着目してよいんじゃないかと思う。

86 :世界@名無史さん:2017/06/18(日) 23:44:33.18 0.net
というのも、数年前に、「中国の文明は、宋の時代に完成した。
日本はそれを追いかけて、江戸時代くらいでやっと宋のレベルに達した」
というような本が出てたのだが、それは全くおかしい。

確かに、宋は当時としては大変な先進国で、同時期の日本とはかなりの差があったが、
ほぼ近代国家に近い江戸時代の日本と並べるのは、いくらなんでも無理がある。

中国のことになると、どうも客観的な判断ができなくなる人が多いようだ。

87 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 10:08:19.77 0.net
日本からの遣唐使は、長安で皇帝から下賜されたものを、市中で交換して本を買い漁った。

日本人が欲しかった本はいろいろあるが、その最たるものは仏教の経典。

玄宗皇帝から「なぜ、道教も伝えないのか?」と文句を言われても、日本人の関心は仏教にあった。

88 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 10:13:13.10 0.net
戦前の皇国史観教育の反動で、戦後の復興期には、
「未開の土人国だった日本は、世界の中心の中国に遣唐使を送って、
先進国の文物を学びました」という自虐史観がやたらと刷り込まれたため、
その頃に教育を受けたクソマジメな爺さんたちが、今でもそれを信じ込んでいる。

たしかに、そういう面もあるのだが、日本人が唐で最も得たかった情報が何だったかを考える必要がある。

それは、なんといっても仏教の経典。

つまり、それは信仰の問題であり、宗教的情熱が最大のモチベーションだったことを忘れるべきでない。

89 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 14:17:30.01 0.net
十字軍みたいな話だな

90 :世界@名無史さん:2017/06/19(月) 17:50:25.27 0.net
吉備真備が持ち帰ったものは続日本紀に書いてある

入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。

つまり
礼儀に関する本、暦に関する本、音楽に関する本だね
礼儀は律令制運営に必要な政治書
暦は当時の最新天文学だね

91 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 19:11:04.69 0.net
>>81
青銅器は知らんが、陶磁器について言えば漢代の頃にはすでに自然釉じゃない釉薬が使われてるぞ
日本で意識的に釉薬が使われるようになったのは奈良時代

さすがにここら辺の技術差を無視して大してかわんねーwwっていうのは無理がある
漢代に万暦赤絵レベルのものが出てこないと納得できない人?

あと、黒陶っての見たことある?
陶器なんだが、最初実物見た時はどうして陶磁器の並びにいきなり金属器が出てきた?って首をかしげるくらい完成度が高い
これ、龍山文化だからBC2000くらいだぞ

日本age中国sageの昨今流行りのイデオロギー持ってる人か知らんが、さすがに乱暴だわ

92 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 19:40:43.73 0.net
いや別に、日本アゲ中国サゲしたいわけではない。
朝鮮人じゃあるまいし、「どっちの国の格が上か下か」なんてことに
コダワってるわけじゃないんだな。

それよりも、「未開の土人国だった日本は、超大国の唐に使節を送り、
先進的な文化を学びました」というイデオロギーを刷り込まれたおかげで、
唐のイメージがどうも歪められている。

というのも、自国のことだけに、奈良や京都のことはよくわかる。
しかも、平安時代の貴族の日記やら絵巻物やらが多量に残っていて、
千年前のことが妙に詳しく分かっている珍しい国だから、
奈良時代や平安時代の日本のことは、よく分かる。

それを基準にして「遥かに先進的な文明でした」と言われると、
どうしても近代に近いような、近世レベルのイメージになってしまうんだが、
それにしては、唐の建築やら陶磁器やらを見る限り、
やっぱり、素朴な古代人という感じしかしない。
明や清のそれと比べたら、原始人に近い・・・。

93 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:01:54.40 0.net
唐三彩の人物俑も、「ラクダに乗った人」とか、西域っぽい。

日本の雅楽を見れば、唐の音楽が分かる。
西域から伝来した西アジアの楽器だ。

やっぱり、唐は基本的に「遊牧民帝国」と思うんだけどねえ。
まあ、「右翼だ、反中だ」というのなら、それでいいけどな。

94 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:45:25.08 0.net
それは別にしても、唐の文化が最優美なのは事実

95 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:46:45.46 0.net
現代でいえばアメリカのような存在だ

ひとつの国というより、「世界の半分」という感じ

96 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:47:09.32 0.net
いや、それはイランのどこかの街のことだったな

97 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 20:48:23.83 0.net
>>83
デカすぎてスマホじゃ表示されない

98 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 22:23:54.83 0.net
>>91
黒陶の黒い色の成分は鉄

だから外見は南部鉄器みたいに見える

99 :世界@名無史さん:2017/06/20(火) 23:46:17.24 0.net
唐は移民国家で、民族のルツボ

「アメリカ合衆国」に似た国

100 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 04:19:46.51 0.net
>>93
なんで西域趣味が流行ると基本的に遊牧民帝国とやらになるのか意味が分からない

101 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 07:14:26.06 0.net
そりゃ、唐の建国者たちが遊牧民だからだろ

102 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:25:50.00 0.net
農耕民族が、あんな砂漠の奥深くまで侵攻するかいな

103 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:26:26.29 0.net
ペルシャの歴史でいえば、「パルティア」あたりに相当する

104 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 08:30:24.43 0.net
中国崇拝者が最も礼賛するのは宋

105 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 18:30:21.23 0.net
宋の趙匡胤も胡族の出身

106 :世界@名無史さん:2017/06/21(水) 18:31:50.83 0.net
中国の領土は、宋くらいで十分

107 :世界@名無史さん:2017/06/22(木) 01:40:09.05 0.net
北京が好きなので燕とか中山国とか金がいいや
漢人王朝じゃなくてもいいし元でもいい
統一的な大王朝は興味わかない
日本とのつながりなんて一番どうでもいい

108 :世界@名無史さん:2017/06/22(木) 06:01:30.11 0.net
中山国は、今でいう石家荘あたりなんだっけ?

109 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:55:24.59 0.net
なんたって、統一鮮卑が一番

110 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:55:42.27 0.net
檀石槐が14、15歳くらいになった頃に、別部族の大人である卜賁邑(ぼくほんゆう)が檀石槐の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。

母の部族が襲撃されたと聞いた檀石槐は激怒し、単騎で卜賁邑を追撃し、母の部族の牛や羊を取り返した。

それ以来、檀石槐の名は諸部族に轟いたという。

111 :世界@名無史さん:2017/07/17(月) 14:59:27.58 0.net
檀石槐が大人の位に就くと、高柳の北、300余里の弾汗山(だんおさん)、啜仇水(せつきゅうすい)のほとりにその本拠を置いた。

東や西の部族の大人たちはみな彼のもとに帰服してきた。
その兵馬は勢い盛んで、南は漢の国境地帯で略奪を働き、北では丁令の南下を阻み、東では夫余を撃退させ、西では烏孫に攻撃をかけた。
かつての匈奴の版図をまるまる我が物とし、東西は1万2000余里、
南北は7000余里にわたって、広大な地域をすっぽり手中に収めた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/%E9%AE%AE%E5%8D%91%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png/400px-%E9%AE%AE%E5%8D%91%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png

112 :世界@名無史さん:2017/08/30(水) 19:37:26.07 0.net
北京・・本土防衛の要
南京・・天下の台所
洛陽・・天下の中心
長安・・天然の要害

どこに首都を置くが肝だな

113 :世界@名無史さん:2017/08/30(水) 20:19:46.40 0.net
>>88
遣唐使より唐が日本に派遣した遣日使のほうが多い
実際に影響を受けていたのはむしろ唐のほうで、日本は古代から中国を通して世界に影響を与えていた文化強国だったということが
真実に目覚めた保守派の中高年男性の間では常識になっている

114 :世界@名無史さん:2017/08/31(木) 19:54:32.32 0.net
>>65
秦 …… 西方の異民族とされた勢力から中原を支配
漢 …… 中央アジアに本拠地を持つ匈奴の属国
北魏 … 中央アジア出自の鮮卑人の王朝、グレコバクトリア諸国との交流濃い
隋 …… 鮮卑人の王朝。唐の帝室とは閨閥関係
遼 …… 中央アジア出自の契丹人の王朝。支那の支配権を失うとトランスオクシアナ、イラン南部へと遷る(カラ・キタイ、ケルマーン・ヒターイー)
宋 …… 遼および西夏(タングート)に貢納
清 …… イェケ・モンゴル・ウルスの後裔として、チベットの盟邦且つトルキスタン諸国の宗主を主張、東トルキスタンを支配

115 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 12:08:14.68 0.net
>>113
そうなの?
奈良時代・平安時代ったら、まだ日本はまだ後進国だよ。
唐王朝ったら東西に広く勢力圏を持っていた鮮卑拓跋が支配層で、品だけでなく西方からインドから技術物産をかきあつめてこられる大帝国だかよ。
そんなところに日本がどんな影響与えてたの?

116 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 12:28:04.99 O.net
流れ豚切り失礼。
宋や明にはかなりの数の日本刀が輸出されている筈だが、
向こうに現存する物は無いの?

117 :世界@名無史さん:2017/09/01(金) 19:29:53.95 0.net
>>115
中国人に言わせると
楊貴妃もクールジッポングクファンションらしい

118 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:24:00.33 0.net
周、後周の時代(戦国まで)
漢の時代(秦から後普まで)
隋、唐時代
宋明の時代(遊牧服従朝)
清の時代(統一朝と内乱の集結と人口爆発の時代)

中国の時代は戦国まで5個の区分にわけられる
周の時代は神話的要素や想像加筆要素が大きく、史実の根拠性は弱いが、中原周は人口は当時の日本やASEANと比べてもそう多くない(1.5-2倍)の未開集団で王朝じゃなく、事実上の首長国

秦漢王朝は正当王朝と諸侯の時代。諸侯と王朝という伝統的王政が維持された時代

隋朝は対外的に国家的イニシアチブ、盟主性を確立したにもかかわらず、下劣なレイプ王の身内NTRで内政信用と対外信用をうしなって、王の崩壊につながった

119 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:24:55.13 0.net
宋、明は下賤が卑しい企みで王になったら、無能すぎて下劣な服従朝になった。王族は事実上の覇者の金、北元の貯金箱、奴隷であり
所詮匪賊である遊牧民のたかりで国土が荒廃した。尚宋と明年間の500年間は人口成長が停止していて
国土が荒廃したやばい時代だった。明末期は虐殺と震災で人口の10-15%が消失(離散含む)したほど荒廃してた

清は国土統一、遊牧反乱を無力化させ500年の遊牧の乱を鎮圧して服従させる
国家が一個の政府として統率し、主導権を維持できたためこの偉業は大きい
しかし経済的に人口爆発+農奴という荒廃モデルという麻薬をつかって、人口爆発病がおきて国家は荒廃した。
中国の清の人口爆発異常で、実は18世紀までは1.6-2億人しか人口いなかったのに、そこから崩壊時の実3.6-3.8億までの人口爆発は賠償や敗戦で政府が衰退する間におきた
中国は19世紀衰退年間だったにもかかわらず、人口爆発は止まるどころか、かえって人口爆発のペースは上がった

中国清の時代は敗戦の影響もあるが、いわゆるアフリカ経済のような貧困マイナス成長モデルになっちゃうんだよな。
でも人口増えれば赤字が補填できるから人口成長に歯止めがなかった

120 :世界@名無史さん:2017/09/03(日) 14:25:40.31 0.net
尚以後国民党の大乱で人口成長は停滞してたのだが、日本が満州国を中心に中国の農業生産を爆発的に増やしたため、満州国建国以降13年間で人口は4000-7000万人増えた。

人口成長は17世紀中期から18世紀末で2.5倍
清崩壊までに2倍
1910-1932で+4000万
1932-1945で+6000-7000万(5億到達)
1945-1960で+1.5億人(満州の農業生産の伸び)
1955-1970年間で1億人(これは相対的に制作による極地飢饉を招く)
1970-1980年間で2.5億人(この時点で人口10億人)

121 :世界@名無史さん:2017/09/04(月) 19:43:49.92 0.net
チャイナの統計は盛りすぎて信用できんw

122 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:42:38.01 0.net
飛鳥時代や奈良時代の日本は、ものすごい大昔の古代社会に思えるのに、唐はなんとなく、それほど大昔のように感じない。
 
四千年の歴史の中では、比較的最近の王朝だ。

まあ、エジプトとかイラクにも言えることだけど・・・。
 

123 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:44:51.74 0.net
宋は、弱体ぶりで際立っている。

契丹に朝貢していた。

ベトナムにも攻め込まれる始末。
 
この時代には、大理国や西夏国、吐蕃国など、東アジアに多くの国々があった。
 

124 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:49:24.15 0.net
唐は、本質的に遊牧民の征服王朝だった。
 
でも、なんとなく漢族の王朝だったようなイメージを定着させることに成功している。
 
「中国の栄光の歴史」として、真っ先に語られるのは唐だ。

125 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:52:47.74 0.net
大唐帝国はまさしく、歴史のロマン

126 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:54:39.22 0.net
唐は、アメリカ合衆国のような移民の国で、人種のルツボのグローバルな帝国

そこに現代性を感じるのではないか

127 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:55:15.57 0.net
唐の時代の中国が、最もグローバル化されていたように思える

128 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 00:56:47.64 0.net
しかし、「奴隷制だった」というのを理由に、唐を「古代」に分類する人もいる

129 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 02:43:56.49 0.net
>>122
チャイナは律令制が20世紀頭まで続いたからな
そりゃ源平合戦とか言うとすげー昔だが、辛亥家名とか割と新しいでよ

130 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:14:54.52 0.net
つまり中国は、唐から清までたいして変わらなかったということか

131 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:52:34.47 0.net
世界史の資料集を読んでいて、
中国の唐王朝の領土が西にかけて非常に横長く伸びていることに気づいて不思議に思ったことはないでしょうか。

今回は、その西に伸びた場所にあったオアシス諸都市が、
いかにして中国と経済的に結びつきを強め、そしてその支配下に入っていったかを書いていきます。

132 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:03.36 0.net
モンゴル高原や中央アジアは、匈奴や突厥といった遊牧民族が縦横無尽に駆けまわった地です。
ソグド人やオアシス諸都市は彼らとうまく共生関係を築き、半ば影響下にありました。
生活必需品を売ったり買ったりの関係もあったでしょうし、交易のパートナーでもあったことでしょう。
4〜8世紀は遊牧民族が大移動を行い中原の農耕民族と衝突を繰り返した時期にあたり、それに伴いソグド商人も活発に東方に進出を始めることになります。
遊牧民族の鮮卑が中国北方に打ち立てた北魏や、その政策を受け継ぐ隋王朝の時代、ソグド商人は中国に進出していき、先述の聚落を各地に作りネットワークを広げていきました。

133 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:54:29.47 0.net
現在の河西省、北にはモンゴル、南には青海省のある内陸の地に、5〜6世紀頃から多くのソグド人聚落ができ、活発に商業活動を行うようになりました。
この地は、本拠地のソグディアナも近い上に、モンゴル、チベット、華北への交通の要衝にあったため、河西を拠点に多くのソグド人が交易に従事しました。
中国人にしてみたら、ひいては遊牧民族と近い者たちが華北の目と鼻の先の河西で幅を効かせている、ということになります。
隋の為政者たちは、河西のソグド商人たちを王都・長安に誘致し、西域のマネーを中原に取り込むと同時に、ソグド商人と遊牧民族の連携を絶とうと試みました。
この政策は後の唐王朝に引き継がれ、結果的に前代未聞の大帝国を築くに至ります。 

134 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:55:03.67 0.net
7世紀前半に確立した唐王朝は、ソグディアナを含む西域世界を版図に取り入れて幹線を帝国の各地まで完備することで、
これまでせめぎ合いを続けてきた農耕民族と遊牧民族が融合した一大帝国を構築しようとしました。
これまで独自の統治を行ってきたソグドの聚落も一様に唐の支配下に入り、唐の統治理念に基づきソグド人たちも他の漢人と同様に「百姓」となりました。
ソグド人の漢化は進みつつも、言語や風習、そして交易ネットワークは変わらず据え置かれ、合法的に遠隔交易が可能でした。
逆に競合が少ない状態となった交易はソグド人にとっては独壇場になったことでしょう。

135 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 05:59:22.39 0.net
北魏や隋・唐といえば、「漢人化した王朝」ということがしきりに強調されるし、そういうイメージが定着している。

でも、実際にはおそらく、これらの王朝の支配者は、遊牧民の性質を濃厚に維持していたと思われる。

「シルクロードの遊牧帝国」というのが、これらの王朝の本質だろう。

136 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:02:14.37 0.net
唐とイスラム帝国の時代というのは、シルクロードの時代だった。

それ以前は、東西交易がこの時代ほど盛んになっていなかった。
 
それ以後になると、海洋貿易が主流になり、中央アジアを通る陸路が衰退する。
 
シルクロードは、この時代における最大の特徴。
 

137 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 06:03:14.07 0.net
しかし、唐もイスラム帝国も、ものすごい大昔であるにもかかわらず、中国と中東に
数千年の歴史があるおかげで、わりと最近のことに思えてしまう。

138 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:12.89 0.net
当時全国の政治・文化の中心であった唐の長安は、城内に坊と市を持つ。

坊は住宅区、市は商業区で、坊と市は区画されている。

市は東市と西市の2つがあり、東市は220の区画があり、四方に立派な邸宅が並び、ありとあらゆるものが集まっていた。

139 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:26:56.93 0.net
唐の長安城は明・清の北京城よりも24平方キロメートル大きく、当時世界最大の都市。

最も広い大通りは幅220メートル、東市の大通りは幅約15メートル。
西市の東西と南北には各2本の大通りが走り、市内を9つの区に分割している。
各区の四方にはいずれも大通りがあり、各業種の店舗が道沿いに軒を連ねていた。
一般的な店舗の面積は2小間、大きくても3小間だった。
出土した遺物をみると、西市には飲食店や宝石店などのほか、加工用の工場(手工業)もあった。

140 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 07:27:35.70 0.net
 西安市の東部・南鉄炉廟村の北高台にある青龍寺が、入唐八家のうち空海、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の6人が修法を授かった地であることは、特筆すべきである。

141 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:02:13.44 0.net
中国人は、唐の時代を最も栄光の時代と見ている。

京都や奈良に来ても、「唐の文化だ」と言い出す。

遣唐使の話を、恩着せがましく言う中国人も多い。

まあ確かに、その後の中国が、意外とパッとしないのは事実(笑)。
唐こそ、中国文明の最盛期だったと言えるだろう。

142 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:05:08.03 0.net
いま、中国は中央アジアに勢力を広げようとしている

大唐帝国の再現だ

143 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:34:58.70 0.net
実際のところ、現代の状況というのは、過去のイメージまで大きく左右する。

中近東・欧州・東南アジアのように、現代においてバラバラな国に分かれているところは、昔からそうだったように思える。

中国やインドは、昔から統一された1つの国だったように錯覚する。

北京人や上海人が、唐の長安の歴史を誇るのは、オスマン人がバグダッドやカイロの歴史を誇るようなものだ。

実際には、唐の長安と、中華人民共和国の北京は、人種的にも地理的にも文化的にも、ほとんど関係ない。

144 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:40:35.03 0.net
もしも、毛沢東が中国を再統一せず、バラバラな状況が続いていたならば、いまごろはきっと、北京と陝西省が別の国に見えていたことだろう。

北京人や上海人にとっての西安は、ロンドンやパリにとってのギリシャ・イタリアみたいな存在になっていただろう。

145 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:42:47.00 0.net
しかし、北京と陝西省は、意外と言語が似ている。

どちらかといえば、その間にある山西省のほうが、険しい山岳地帯にはさまれているせいか、言語が大きく異なる。

まあ、日本でも、関東と九州の違いより、その両者と関西の違いが大きいように思えるが(笑)

146 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:48:22.33 0.net
しかし、なぜか朝鮮人も、「唐の文化が日本に影響を及ぼしたニダ」といって威張ることがよくある。

朝鮮人の意識内では、彼らは唐の一部であり、日本は違うのかもしれない。

147 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 08:53:06.89 0.net
「日本人が反中・嫌韓なのは、中華秩序に対する反抗の表れニダ」という論調も、しばしば見かける。

そんな中華秩序など、日本人の意識には何の影響も及ぼしていない。

単に、中国が軍事的な脅威であるだけだ(笑)。

148 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:28.88 0.net
中国ネット「日本人は唐を神のように敬っている」日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり
2016/11/02 10:05

149 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:04:52.73 0.net
日本の教科書から分かる古代中国への崇拝っぷり=「日本人は唐を神のように敬っている」「中国人は現代日本を崇拝している」―中国ネット

150 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:05:54.66 0.net
2016年10月26日、中国のポータルサイト・今日頭条は日本の教科書から古代中国への崇拝っぷりがよく分かるとする記事を掲載した。

記事は日本の学校で使用されている歴史の教科書を紹介。

夏王朝の存在を認めてはいないものの、殷、周王朝の時代から、春秋時代、戦国時代、秦による中国統一、日本人の好きな三国時代、隋、そして日本が大きな影響を受けた唐の時代と、
領土の地図を細かく記しており、特に唐王朝に対する崇拝っぷりがよく分かるとした。

さらにその後の宋、元、明、清を経て、日中戦争の時代になると、明らかに中国への蔑視的な態度が教科書からも見てとれると主張した。

151 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:08:00.34 0.net
確かに、唐に対する日本人の思いは、崇拝といっても言いすぎでないように思われる。

高天ヶ原や竜宮城に住む天女は、唐の高貴な女性のような髪型で羽衣を身にまとっている。

唐こそは、憧れの理想郷。

152 :世界@名無史さん:2017/10/01(日) 11:29:29.34 0.net
唐宋変革とは

元々力の強い唐は中央集権体制
いわば、国が一括して民を統括してました。
そのため3つの大きな仕組み
・均田制
・租庸調制
・府兵制
が樹立されました。
均田制は"国が"国民に対して均等に
田畑(土地)を分配する事。
租庸調制は租(穀物)庸(労役)調(布)にわけて
わかりにくくし徴収する事です
府兵制は普段は農民、戦争があれば
兵士になる。いわば兵農一致です。

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