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DNAで追う銅剣・銅鏡文化による古日本建国史2

1 :LUNAMASK:2015/05/10(日) 20:48:59.17 ID:t3DzYj/5.net
海外のYDNA考古学も視野に入れて・・・

2 :LUNAMASK:2015/05/10(日) 21:22:57.46 ID:t3DzYj/5.net
銅剣銅鏡というのは青銅器文化、古日本建国というのも邪馬台国成立あたりのことで、弥生時代と古墳時代が
どう関係しているか、邪馬台国時代と記紀の天皇の時代がどうつながるかということ。

3 :LUNAMASK:2015/05/10(日) 21:28:40.77 ID:t3DzYj/5.net
神獣鏡というのは魔鏡、つまり、日光を鏡面から影の壁面に反射させると鏡背面の凹凸文様が壁面に像として
映るほど微妙な造りであったらしい。この辺が卑弥呼のカリスマの要因かもね。

4 :LUNAMASK:2015/05/11(月) 10:29:21.08 ID:Z2RcEfgw.net
「古代の「倭人」は、長江の上流域の雲南、貴州、四川一帯に住んでいたのではないかと思う。『史記』の中に
記述されているテン、夜郎、且蘭、チョン都、昆明、雋、徙、筰、丹、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」によって
建てられたと私は見ている。」張雲方「倭人」
「1979年、大阪教育大学の鳥越憲三郎教授が、日本人の源流は中国の雲南であると発表した。考察と研究に
よると、雲南のイ族とダイ族の赤ちゃんの蒙古斑は、日本人の赤ちゃんとまったく同じである。つまりこれが
日本人の源流の証拠であり、雲南が日本人の源流であることを実証するものだという。彼は同時に信仰や風俗
などの面から、イ族、ダイ族と日本を比較することによって、自分の見方が正しいとしている。わたしの個人的な
考えでは、中国の倭人は古代チャン人と中国西南地域の先住民との末裔であると思っている。チャン人の優秀な
文化を受け継ぎ、発展させた。」張雲方 チャン人

5 :LUNAMASK:2015/05/11(月) 11:25:57.56 ID:Z2RcEfgw.net
次に、
「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」には接点があるのか?
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb204.html
つまり、考古学と記紀の結合上のポイントは倭人・チャン人(騎馬民族・日ユ同祖論)ということになる。

6 :LUNAMASK:2015/05/11(月) 18:24:17.40 ID:Z2RcEfgw.net
>>4-5 <-これらの問題を俯瞰すると匈奴、フン、特にその外縁部である南シベリア、新疆ウイグル、内モンゴル、満州、朝鮮の考古学、遺伝子学的考察が鍵を握っていることが見て取れる。
●アムール黒竜江省での弥生土器/高地性集落発生と日本への伝播
●エベンキ・北満・日本における羌・百越YDNA
(1)匈奴外バイカル・アムール錬鉄製鉄、
(2)敬水、水体経由民族移動
(3)匈奴・ダウールでの子安貝流行、
(4)日本における貝輪
(5)雲南・南海/青銅器文様の見える銅鐸への応用、
(6)雲南/円底短頚壺
(7)雲南/棟持柱千木高床神殿
(8)天子躬耕、
(9)百越神体山信仰、百越鳥形祭器鳥神信仰
(10)内行花文鏡、
(11)阿覇羌布依箱式石棺墓

7 :出土地不明:2015/05/14(木) 15:26:19.08 ID:nP1415sk.net
.











【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











.

8 :LUNAMASK:2015/05/15(金) 09:29:55.91 ID:p/W9eLd3.net
古墳時代渡来人の故郷
http://s7.sinaimg.cn/middle/6fb43ea2gbe54d2b3bbc6&690
野中等2007西日本YDNA分布
列島固有
C1-M8    3.10 %
D2     26.80%
列島半島固有
O2b1 47z 26.80%
56.70%
C3 M217* 4.10% 東胡 蒙古高原

O3a2c1 M134 5.20% 二里頭→呉→雲貴高原
O1a M119 4.10% テン越 雲貴高原
O2a  M95* 1.00% ダイ  雲貴高原
10.30%
南嶺南麓
O3a3  M159 5.20% 畭 東南沿海丘陵

O2b SRY  9.30% 貊 東北平原

O3 002611 2.10% 後漢霊帝等 華北平原
O3a2c1a M117 5.20% 羌/秦 河西回(走)廊
O3a2   P201 6.20% 板楯蛮 四川盆地
13.50%

Hammer他2005日本全国: 追加
C3c-M86 1.2% 靺鞨 東北平原
NO-M214*   2.3% 夜郎 東南沿海丘陵   
N1-LLY22g*   1.2% 凉山彝族 四川盆地
N1c1-M178 0.4% 匈奴 蒙古高原
Q-P36   0.4% 匈奴 蒙古高原
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地

9 :LUNAMASK:2015/05/15(金) 10:15:06.54 ID:p/W9eLd3.net
●冒頓単于による燕王盧綰の東胡王任命に伴い匈奴に流出した河北製鉄技術がバイカル湖畔において石寨山
文化人の鋳銅技術とsinnergizeした結果、Ivolga錬鉄炉が誕生し、匈奴分裂と共にアムール、三韓へと移動。
●弥生後期から雲貴高原石寨山青銅器文化、泰族慢輪制陶技芸が三韓、日本に出現。
●山戎の山城戦略は東胡/貊により穢貊文化圏に拡大後高地性集落として日本に上陸した。

10 :LUNAMASK:2015/05/20(水) 15:58:13.18 ID:kdxO8hnK.net
●騎馬民族とは何か?
匈奴崩壊後西域盆地から黄土高原に流入した流民
O3a2c1 M134 5.20% 二里頭→呉→雲貴高原→匈奴
O3a2c1a M117 5.20% 羌/秦 河西回(走)廊
N1-LLY22g*   1.2% 凉山彝族 四川盆地
N1c1-M178 0.4% 匈奴 蒙古高原
Q-P36   0.4% 匈奴 蒙古高原
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地
四川盆地に帰還した原住民
O3a2   P201 6.20% 板楯蛮 四川盆地
●ユダヤ人と同祖関係というのは何人(ジン)か?
R-M207 0.4% ウイグル 西域盆地
I-P19 0.4% 吐火羅 西域盆地

11 :LUNAMASK:2015/05/20(水) 18:40:27.44 ID:kdxO8hnK.net
由此可見,中国古代北方的騎馬民族文化,在推動中原農業民族文化地区的暦史和文化発展、促進中国暦史上両次民族大融合的同時,対海東諸国古
文化的影響,也是非常明顕的。
其影響的過程或伝播的路線,根拠長城内外和東北遼寧、吉林等地出土従多的魏晋時期和朝鮮半島所発現的
公元4-5世紀的馬具情形,明確反映出,是従中国北方為起点,沿東北経朝鮮半島而向日本延伸発展的。
而這一影響的発生或向海東諸国伝播的暦史背景,当与公元4世紀初(公元307年)西晋的“永嘉之乱”,中原
地区的人民向中国東北大流亡等諸因素有着密切的関系。

騎馬民族文化淵源初探 -兼論与日本古墳時代文化的関系
王克林 山西省考古研究所研究館員、吉林大学客座教授

12 :LUNAMASK:2015/05/21(木) 10:41:05.28 ID:X48IZxPh.net
これからわかることは、中国古代北方の騎馬民族文化が中原農業民族文化地区の暦史、文化を推進し、
発展させたことと、中国歴史上の二度にわたる民族大融合と同時に海東諸国古文化にも影響を与えたという
非常に明白な事実である。その影響の過程乃至は伝播の路線は、長城内外と東北遼寧、吉林等の地点で
出土多数の魏晋時期事物から、及び、朝鮮半島で発現する紀元4‐5世紀の馬具の形状に明確に反映されている
が、中国北方を起点とし、東北に沿うようにして朝鮮半島を経て日本に向けて延伸発展している。このような影響
が発生し、そして海東諸国に伝播した暦史背景には紀元世紀初め(西暦307年)西晋の“永嘉之乱”によって中原
地区の人民が中国東北に大流出するといった諸因素が密切な関系をもっているのであろう。
http://economy.guoxue.com/?p=9240

13 :出土地不明:2015/05/24(日) 02:10:02.11 ID:i8mpTC/5.net
.











【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











.

14 :出土地不明:2015/05/24(日) 02:10:54.94 ID:i8mpTC/5.net
.











【註】(1)一部中国江南地方から西北九州への渡来を考える研究者もいるが(山口1984)
考古学的にこれを支持する証拠はない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf











.

15 :LUNAMASK:2015/05/24(日) 13:58:23.47 ID:RPhN2FVe.net
野中等2007西日本YDNA分布
----------------------------
前期古墳以前
O1a   M119  4.10% 越系東地兵百越テン人 
O2a   M95* 1.00% メコン・ダイ人 
O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
後期古墳以降
O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
O3a2   P201 6.20% 巴板楯蛮戦闘員
Hammer他2005日本全国: 追加
NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる   
N1 LLY22g* 1.2% 古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou 凉山彝族祖先

16 :LUNAMASK:2015/05/24(日) 15:50:29.32 ID:RPhN2FVe.net
俯瞰すると、始皇帝が徐福求仙入海に動員召集した百工・千童とは五尺道開削事業を中心とする西南夷制圧に
関わった諸民族であったといえる。山深い盆地の民であった彼らは自らを山区民族と呼び、これが倭国において
ヤマトとなったのであろう。

17 :出土地不明:2015/05/25(月) 01:50:25.16 ID:X7S+7BxS.net
>>15





O1a   M119が越系東地兵百越テン人だという証拠は?

O2a   M95*がメコン・ダイ人だという証拠は?

O3a3   M159が畭だという証拠は?

O3a2c1 M134が東呉(太白裔)東地兵テン人だという証拠は?

O3a2c1a M117が秦地羌乃至は過山瑶だという証拠は?

O3a2   P201が巴板楯蛮だという証拠は?

NO M214*が秦五尺道沿線夜郎だという証拠は?   

N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠は?




.

18 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 10:16:41.76 ID:wD7/NsRh.net
>>17 英文wikiに加え
楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598
従幾分父系単倍群数拠看広東部分人群源頭
http://geod.51.net/g98/20100806.htm
瑶族起源有那些人類学根拠?
http://yaozu.baike.com/article-106449.html
夜郎文化
http://baike.baidu.com/view/484490.htm
夜郎 赫章
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%83%8E
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%AB%E7%AB%A0%E5%8E%BF
竹崇拝
http://baike.baidu.com/link?url=5wvPRyqgK2V3FC6Y5U60R6Cm3JOqFWKgp_6mP7HNTTvXCEnyvKaZWuDT5KknciCAn7wVLTKC9qqCwXx_pwarPa
“古西南絲紬之路”的川Dian段有両途:
一条走“古Yak牛道(零関道),従成都出発,経双流、新津、Honglai、名山、雅安、栄経、漢源(窄都)、越西、喜徳、冕寧、西昌、到達会理以后,折向西南行,経攀枝花,渡金沙江至雲南大姚,最后到達大理。
別一途従成都出発,経彭山,沿岷江而下,経楽山、
宜賓(Yibin),再沿秦代開鑿的“五尺道”南行,経高県、Jun連、向西折入横江河穀,経豆沙関、大関、昭通、曲靖、昆明,最后到達大理。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yibin
http://en.wikipedia.org/wiki/Dali_City
両条路在大理会合后,経保山(永昌)、騰沖、盈江到達緬甸境内的八莫,従八莫出発又有水陸二途到印度。従印度又可通中亜、欧洲。
http://www.551.cn/UploadFiles/ynlydt/2010/12/2010122519002530360.jpg
http://ditu.551.cn/Item/9006.aspx
在五尺道開通之前,約在戦国年間或更早的時候,西南地区就有一条以成都為起点的商旅之路,
其中一条支線経Bo道(今四川宜賓)、朱提(今雲南昭通)、漢陽(今貴州赫章可楽)、味県(今雲南曲靖)、Dian県(今雲南昆明)、安寧(今雲南楚雄)至葉楡(今雲南大理),
------------------------------------------------------------------------
与別一条走臨Qiong(Qin's Linqiong)(今四川Qiongla)、筰都(今四川漢源)而来的支線相会合,
http://map.baidu.com/?newmap=1&s=s%26wd%3D%E9%82%9B%E5%B4%83%E5%B8%82%26c%3D635&from=alamap&tpl=mapcity
-----------------------------------------------------------------------
一路往西,経永昌(今雲南保山)出瑞麗而抵緬甸八莫,再到印度、阿富汗等国。
Ural Dolmen
http://www.ancient-origins.net/ancient-places-europe/spectacular-ancient-megaliths-ural-mountains-002517
秦郡図 徐福219-210
http://imgsrc.baidu.com/forum/pic/item/609f34d3d539b6006fb2b5e3e850352ac65cb733.jpg
東晋前秦地図
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6c/%E4%B8%9C%E6%99%8B%2816_Kingdoms%29.jpg/640px-%E4%B8%9C%E6%99%8B%2816_Kingdoms%29.jpg
戦国後期形勢図
http://h.hiphotos.baidu.com/baike/c0%3Dbaike150%2C5%2C5%2C150%2C50/sign=de159972b5fd5266b3263446ca71fc4e/8326cffc1e178a82e6dfea39f503738da877e84c.jpg

19 :縄文狼:2015/05/25(月) 10:19:29.51 ID:I4GkTzxJ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

20 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 10:37:51.35 ID:wD7/NsRh.net
↓この地図の右側、宜賓から赫章に向かう道に夜郎、丹後道主がいた。
http://www.551.cn/UploadFiles/ynlydt/2010/12/2010122519002530360.jpg
その先、昆明(テン池)が琵琶湖、その南でベトナムとの国境が邪馬台国、雲南モンラ県。
このモンラ県からメコン河を遡った保山が摂津・三島溝咋。この辺の千童百工が初期大和政権。
後期古墳時代はこの地図の左側、成都-西昌間のQiongdouが大型横穴石室墓と共にキルギスタン
経由、西匈奴末裔として九州に渡来する・・・いわゆる九州王朝だね。
成都-宜賓の東北には紀州人、板楯蛮、の故郷、巴-重慶がある。彼らはキルギスタンから北方
青海・甘粛・関中を経由し、三燕、百済、九州へと渡ったのだ。

21 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 10:39:43.15 ID:wD7/NsRh.net
>>19 そう。大和王権の万世一系を担保する唯一の根拠。

22 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 10:46:22.99 ID:wD7/NsRh.net
これから終日お買い物に出てるので失礼。

23 :縄文狼:2015/05/25(月) 11:03:50.60 ID:I4GkTzxJ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
>NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる  


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

24 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 11:14:40.36 ID:wD7/NsRh.net
>>23
>このダブりこそが、「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜
キルギスタンにまで走り、日ユ同祖論の基となる連中と徒党を組んだ秦氏を日本に引き寄せた
万有引力のようなエネルギー場は何だったんだろうか?
それは500年も昔、先祖が河北千童城で始皇帝に与えた誓いのようなものではなかろうか・・・
この辺で幾多郎のキャラバンを入れるといいと思うが(w

25 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 11:31:08.21 ID:wD7/NsRh.net
>>24
秦氏が建立した松尾大社は鳴鏑神、冒頓単于、稲荷狐・白狄狐突であり、イデオロギー的には
完全に匈奴。始皇帝への義理立ては微塵にも見られない。矢張り、ご先祖は匈奴に亡命したようだ。
Good Day!

26 :縄文狼:2015/05/25(月) 11:42:25.76 ID:I4GkTzxJ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>22
>>19 そう。大和王権の万世一系を担保する唯一の根拠。

わが列島の大和民族の始祖にあたる邪馬台国と
それを継承発展させた継体朝が万世一系たる由縁ですね〜

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h15c/1223-80.jpg

27 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 11:51:15.41 ID:wD7/NsRh.net
>>26
継体は騎馬民族が伽耶・ウクライナでよくやる追葬をしてまでも万世一系に拘泥している。
「宮内庁は「手白香皇女衾田陵」として、奈良県天理市中山町に所在する西殿塚古墳を治定している。
西殿塚古墳は、大和古墳群に属する古墳時代前期の前方後円墳であるが、年代的には整合しない。」
「(ホケノヤマ)上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に
営まれたものと考えられる。石室全長14メートル以上。玄室に組合式家形石棺。」

28 :LUNAMASK:2015/05/25(月) 12:10:05.44 ID:wD7/NsRh.net
追伸
旧テン国には周太白裔・呉人が移住して石寨山文化人となっているが、他方この地域には盤瓠を信奉する
苗瑶族も入っていた。ところが、彼らは共にO3a2c1 M134/O3a2c1a M117であり、その同一性を相互に認識
していた。盤瓠は意味的には邇邇藝命-神武と同義で、陶芸を掌る神であった。

29 :出土地不明:2015/05/26(火) 07:39:58.81 ID:dPeLPAVZ.net
>>18
で、それのどこに、




O1a M119が越系東地兵百越テン人だという証拠、

O2a M95*がメコン・ダイ人だという証拠、

O3a3 M159が畭だという証拠、

O3a2c1 M134が東呉(太白裔)東地兵テン人だという証拠、

O3a2c1a M117が秦地羌乃至は過山瑶だという証拠、

O3a2 P201が巴板楯蛮だという証拠、

NO M214*が秦五尺道沿線夜郎だという証拠、  

N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠、




が書いてあるの?

30 :LUNAMASK:2015/05/26(火) 13:38:08.95 ID:AQZQe6Uj.net
まずグーグルなんかで検索するが↓
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=LvFjVfzbAbLD8Af-pYHoBg&gws_rd=ssl
例えば YDNA haplogroup NO と打ち込むと
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_NO これが出てくる。
ここで
NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175), which potentially may belong either to Haplogroup NO* or to
Haplogroup N*-M231(xN1-LLY22g), has been found in 5.7% (2/35) of a sample of Buyi[2] and in
2.9% (6/210) of a pool of four samples of Japanese, particularly in Tokushima (4/70 = 5.7%).[3] Y-DNA
Haplogroup NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175)also has been found sporadically in samples of Han Chinese,
Yizu,Malays, Mongolians,Daurs, Manchurian Evenks, Hezhes, Huis, Yaos, South Koreans, and So.
断トツは5.7% (2/35) of a sample of Buyi[2] つまり布依。・・・ここで布依を検索。
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E4%BE%9D%E6%97%8F
布依族人口主要集中于貴州,該省布依族占布依人口的94.11%,布依族人口主要集中于貴州,該省布依族
占布依人口的94.11%,別外雲南的羅平、四川的寧南、会理等地也有布依族聚居区。外雲南的羅平、四川的
寧南、会理等地也有布依族聚居区。
--------------------------------------------------------------
布依族地区大多数房屋仍然保持古老的“干欄”形式,其楼房全系木質結構,一般先起底層,上立屋架,
両頭搭以偏厦,頂上蓋瓦或杉皮,有三間五間不等。楼上住人,底層関養牲畜、家禽,置農具,設春碓、
磨坊等。別外,部分布依族地区則以石頭作為主要的建築材料,有“石頭寨”之称。
===============================================================
他方、http://www.baidu.com/で テン国、夜郎国、地図を中文に変換し、入力検索すると
こうした画像を得る。
http://img1.imgtn.bdimg.com/it/u=961297444,1958190249&fm=21&gp=0.jpg
http://img1.imgtn.bdimg.com/it/u=2337629348,2591728005&fm=21&gp=0.jpg
以て、夜郎国と布依族が合致するから、夜郎を布依とする。
これは一例だが、こうした手順を繰り返すのだ。あらしになるからこの一例まで。

31 :LUNAMASK:2015/05/26(火) 15:28:00.55 ID:AQZQe6Uj.net
>>29 あなたの質問には感謝します。俺自身ヤッベ!と思っているのが、
↓これなんだ。
>O3a3 M159が畭だという証拠
コピペできないサイトだが、
「中華源流輯要」
http://geod.51.net/g98/200711yd2.htm
ここでは↓
O-M159 O3a3a 不算多見、分布干与東夷-荊蛮有関的山東漢人、苗瑶族等、亦見干カンボジア人群;
ここで、自分的には「土井が浜人」の原郷ではないかと思う。
ストーリー的には@徐福の琅邪あたりの徐戎では無いかという気がする。
秦郡図 徐福BCE219-210
http://imgsrc.baidu.com/forum/pic/item/609f34d3d539b6006fb2b5e3e850352ac65cb733.jpg
A次に福建省・畭族
Bカンボジアというのは後の世に山田長政だって行くところだから、山東の商人が足を延ばしても
不思議ではない。

32 :LUNAMASK:2015/05/26(火) 16:19:50.69 ID:AQZQe6Uj.net
中国人のYDNAと言うのは存在せず、中国人は雑種であるとするのが中国の建前。
しかし、食道がん発症リスクの高いYDNAというのが山西・湖南から福建・潮州へと飛んでいる。
http://europepmc.org/wicket/bookmarkable/uk.bl.ukpmc.web.utilities.redirect.RedirectPage?figure=pone-0011118-g001/&articles=PMC2886054
これは中原族が戦乱を避けて徐々に南方に移住した結果としている。
http://europepmc.org/articles/PMC2886054/
他方でこのO3a2c1 M134/O3a2c1a M117はシノ−チベタンとされている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M175
羌も同じとする情報もある。
で、おそらく日本にあるこれらもシノ−チベタン、しいて言うなれば羌として間違いなかろう。
私はこれを秦氏と見る。・・・甘粛・関中(A)
又、殷末の混乱期、犬戎の乱の影響を受けて江南に移動したものがあり、呉の太白もこれによる
ものと見る。・・・呉・楚・テン(B)
で、私は日本には三輪王朝が(B)、河内・継体王朝が(A)と考える。

33 :LUNAMASK:2015/05/26(火) 16:25:31.31 ID:AQZQe6Uj.net
>山西・湖南から
山西・河南から・・・の間違い
Henan Taihang Mountain 河南太行山

34 :LUNAMASK:2015/05/26(火) 16:46:57.05 ID:AQZQe6Uj.net
ヤバイ仕訳発見
自分的にO-002611は渡来人東漢氏としてきたがO-002611は苗がトップ、O-P201は土家がトップ。
O-002611 Subsequently, this haplogroup has been found with higher frequency in some samples taken in
and around China, including 12/58 = 20.7% Miao (China), 10/70 = 14.3% Vietnam, 18/165 = 10.9% Han (China
& Taiwan), 4/49 = 8.2% Tujia (China) (Karafet 2010).
O-P201 Outside of Austronesia, O3a2-P201(xO3a2b-M7, O3a2c1-M134) Y-DNA has been observed in
samples of Tujia (7/49 = 14.3%), Han Chinese (14/165 = 8.5%), Japanese (11/263 = 4.2%), Miao (1/58 = 1.7%),
and Vietnam (1/70 = 1.4%) (Karafet 2010 and Nonaka 2007).
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
この土家・苗の祖先がいたきそ神社、丹生都比賣神社等紀州人(巴重慶・貴州)の祖である板楯蛮と見たほうが
いいのかも。

35 :出土地不明:2015/05/27(水) 02:57:41.72 ID:4emvfPP/.net
>>31
でもそれは、例えば、山東漢人、苗瑶族、畭が単にO-M159 O3a3aを
持っているというだけの話で、山東漢人、苗瑶族、畭がO-M159 O3a3aの
発祥である証拠にはならないんだが。

土井ヶ浜遺跡には古代中国の文物も、それにインスパイアーした文物も
出土しておりません。

土井ヶ浜遺跡からは古くは刻目突帯文土器から板付式期の土器が、その後も
弥生後期まで時代ごとの九州北部と同じ弥生土器が出土するのみですよ。

36 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 10:36:15.07 ID:jWrCxbp6.net
>>35
O-M159 < O3/-LINE1 del %
Asahikawa 0.5 Kanto 1.5 Nagoya 5.1 Western Japan 5.2 Okinawa 4 Korea 6.2 Taiwan 11.7
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1469-1809.2006.00343.x/full
O-M159 O3a2a-M159 is a subclade of O3a2-P201. In an early survey of Y-DNA variation in present-day
human populations of the world, O-M159 was detected only in 5.0% (1/20) of a sample from China.
Unlike its phylogenetic siblings, O-M7 and O-M134, O-M159 is very rare, having been found only in 2.9%
(1/35) of a sample of Han males from Meixian, Guangdong in a study of 988 males from East Asia.(Xue 2006)
In a study published in 2011, O-M159 was detected in 1.5% (1/65) of a sample of Han Chinese with origins in
Southern China.
O-M159 was not detected in the same study's samples of Han Chinese with origins in East China (n=167) or
Northern China (n=129).(Yan 2011)
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
梅県 Hakka
http://en.wikipedia.org/wiki/Meixian_District
大洋州・台湾では検出されていない。↓
http://www.biomedcentral.com/1471-2156/15/77
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3164178/
韓国における農耕社会の成立 安在晧(東国大学校人文大学)暦博情報
「農耕社会の形成
 まず注目すべきは、いわゆる「突帯文土器」が出土する遺跡の存在である。現在まで、ソウル▲沙里遺跡、
忠北黄石里遺跡、慶北金陵松竹里遺跡、慶南晋州大坪里遺跡、同召南里遺跡、同泗川本村里遺跡、済州道上
●里遺跡で出土している。」・・・
「▲沙里式住居は無文土器時代には韓半島の西北・東北地域だけにみられる。遺物との関連からみて、鴨緑江
流域の西北地域との関連が深いと考えられる。
 ▲沙里遺跡と大坪里遺跡で見つかった▲沙里式住居と併存するのが、館山里式住居(Fig.2-2)である。これは
平面が細長方形で、炉を2基以上もち、欣岩里類型の土器(Fig.2-5)が出土する住居型である。欣岩里類型の形
成については、異論が提起されているが〔大貫1997〕、館山里式住居は韓半島南部で変容して形成されたもので
ある。しかし、あえて韓半島北部で類例を探せば、無文土器時代に属する大同江流域の丘陵性集落である
石灘里遺跡で見つかった、平面方形で、2基の竪穴式炉をもつ住居をあげることができる。」
土井が浜を縄文後期の刻目突帯文土器と同期とすれば、早くても弥生中期と考えられる銅鐸民の渡来と
合わない。↓
http://livedoor.blogimg.jp/matome02ch-news/imgs/4/2/4264f26e.jpg
O-M159ははやくとも弥生中期にとらいする現在は広東省梅県の客家の祖先と見ておくのが無難だろうか。

37 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 11:01:09.54 ID:jWrCxbp6.net
>>29
>N1 LLY22g*が古ヤク牛道沿線(西越)Qiongdou凉山彝族祖先だという証拠、
Paragroup N-LLY22g* reaches a frequency of up to 30% (13/43) among the Yizu of Butuo County, Sichuan
Province in southwestern China (Hammer 2005, Karafet 2001, and Wen2004b).
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_N-M231
凉山大石墓群
http://baike.baidu.com/view/4233991.htm
P.P. Azbelev Ancient Kyrgyz (Issyk-Kul Tarasui Culture)
http://kronk.spb.ru/mono/1.00.htm
凉山→西匈奴悦般/康居タラスイ文化→九州/西日本大型横穴石室墓

38 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 11:41:54.01 ID:jWrCxbp6.net
>>36
O3a2-P201は基本的に戦国楚民であって重慶、貴州、華中、その中に突然変異のO3a2a-M159があり、これが
華東、華南に分布していた。台湾・インドネシア西部に古層のO3a2-P201であり、O3a2a-M159は楚の崩壊後の
統一秦朝以降に各地に移動した・・・と見るべきか。

39 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 13:46:20.21 ID:jWrCxbp6.net
>>17
>O1a M119が越系東地兵百越テン人だという証拠は?
>O2a M95*がメコン・ダイ人だという証拠は?
語族と遺伝子↓参照 Austroasiatic (O-M95) Austro-Tai (O-M119)
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M175#Languages_families_and_genes
日本のO1a M119は呉越移民・薩摩人だろう
http://blog.sina.com.cn/s/blog_7eb83c9601012p37.html
参考
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Taikadai-en.svg
楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


40 :縄文狼:2015/05/27(水) 14:32:07.63 ID:wDXLsvzM.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>38
『晋書』辰韓伝によると、この呉系楚民は秦の統一で万里の長城建設に使役された後、
秦人として朝鮮南部に逃亡し、辰(秦)韓人になったとの伝承がありますね〜

41 :縄文狼:2015/05/27(水) 14:46:48.01 ID:wDXLsvzM.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>38
http://www.eonet.ne.jp/~temb/5/kika_1.htm
>牛トーテムの楚の姫氏、都怒我阿羅斯等が一族を率い、加羅から始めて日本に渡来した時、
>山口県(穴門)の西海岸に到達しました。
>弁辰人は、「魏志韓伝」に長身と表現されており、渡来して混血する以前は
>そうだったのでしょう。
>これは、山口県、土井ヶ浜遺跡の弥生人が長身であることに結び付きそうです。

42 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 14:51:41.21 ID:jWrCxbp6.net
>>39
>日本のO1a M119は呉越移民・薩摩人だろう
これは短絡であり、琉球人がブリャートに繋がる。
Ryukyuans present the smallest distances to Buryats from South Siberia,
followed in short by southern Chinese.
http://genome.cshlp.org/content/14/10a/1832.long
他方、ブリャートはO1a M119の第二の故郷のようなところ。
琉球のO1a M119は西日本と同率で日本最高↓
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1469-1809.2006.00343.x/full
これは私が徐福集団が古朝鮮から黒竜江省上遊に移動したとする仮説の有力な
理由。

43 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 15:08:21.61 ID:jWrCxbp6.net
>>40 長城云々は 『晋書』辰韓伝ではなく《魏略》載:“及秦併天下,使蒙恬築長城,到遼東。時朝鮮否立,畏秦襲之,
略服属秦,不肯朝会←これでないの?

44 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 15:20:37.64 ID:jWrCxbp6.net
>>41
基本的に徐福百工集団の内訳は:
管理・戦闘員 甘粛青海羌戎/山東徐戎
射撃資源探査要員 巴寡婦清私兵板楯蛮
高度冶金鋳造 石寨山型銅鼓的設計鋳造楚国越人
宮大工寺大工等木造建築・営林要員 慢輪制陶技芸 泰族
巨石築城技術 凉山彝族
竹細工 夜郎族
こうした明白な目的を持ったものであったのでは。

45 :LUNAMASK:2015/05/27(水) 15:37:33.13 ID:jWrCxbp6.net
>>41 言われてみれば土井が浜を縄文時代とするのも怪しいような気もするし?

46 :LUNAMASK:2015/05/28(木) 12:07:04.73 ID:+OghfTNO.net
>>38 >>36
>O3a2-P201は基本的に戦国楚民であって重慶、貴州、華中、その中に突然変異のO3a2a-M159があり、
>これが華東、華南に分布していた。
>台湾・インドネシア西部に古層のO3a2-P201であり、O3a2a-M159は楚の崩壊後の統一秦朝以降に各地に移
>動した・・・と見るべきか。
-------------------------------
O3a2a-M159 華東、華南は徐国、戦国呉国と一致するが、Wagnerは製鉄誕生を戦国呉国とする。
http://donwagner.dk/EARFE/EARFE.html
「古代吉備国は鉄の文化で栄えていました。 高梁川西岸・新本川流域は製鉄関連の遺跡が点在し、神官寺古墳
からは三角縁神獣鏡も出土しており、古代吉備の国発祥の地と考えられます。また、この辺りは渡来系の秦氏が
治めた地で、 秦氏は天日矛や阿加流比売を崇拝していたといいます。」
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okayama/soujyasi/himekoso/himekoso.html
秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で弁辰鉄を開発したものではなかろうか。

47 :LUNAMASK:2015/05/28(木) 12:23:46.24 ID:+OghfTNO.net
>>45 土井が浜人骨にかんする宝賀氏意見:
>ここの人骨は箱式石棺に入れられたものもあり、約三百体のなかには、胸の上に鵜を抱く形で鉄製の副葬品を
>もって埋葬された巫女の遺骸(第一号人骨)も見られて、鳥トーテムの関係でも留意される。土井ヶ浜が面する
>響灘に浮かぶ蓋井島には、盆になると鳥形の船で魂を西の海に送る風習があるといわれる。弥生期の遺跡から
>は、鳥形の木製品がしばしば出土しており(朝鮮半島でも同様)、また、鳥の姿をした司祭者が描かれた土器も
>あるという。
> 土井ヶ浜遺跡の南方約三十キロには、弥生中期の梶栗浜遺跡(下関市安岡)があり、箱式石棺のなかに
>多鈕細文鏡・細型銅剣など大陸系の遺物が入って出土したことで有名である。これまで九基の箱式石棺等が
>確認され、副葬品として銅剣・銅鏡・管玉が見られる。その近隣には蒲生野・熊野という地名や、「アヤ・アラ」に
>由来しそうな綾羅木・穴門も見える。この綾羅木川の流域と周辺台地の地域を支配したのが穴門直践立の一族
>であったとみられ*31、そこには長門最大の仁馬山古墳(全長七十四Mの前方後円墳)のほか、多くの古墳群
>がある。住吉三神の託宣により、韓地征討に功績のあったその荒魂を、践立が神主となって当地の山田邑に
>祀ったことが、神功皇后摂政前紀に見える。これが式内の住吉坐荒御魂神社(現住吉神社)であるが、同社
>(長門一の宮)及び近隣の忌宮神社(二の宮)では、特殊神事「スホウテー(数方庭)」があり、竹竿の頭に羽根を
>挿し鈴をつけた道具を用いる風習がある。このような竹竿は、朝鮮半島の「鳥杆」(杆頭に木製の鳥をつけて寺院
>の入口等に立てられ、ソッテーなどと呼ばれた)や「蘇塗」(大木に鈴鼓を懸けて鬼神を祀った)につながる。穴門
>国造の系譜は、「国造本紀」には桜井田部連と同祖と見えるくらいであるが、具体的には鍛冶神天目一箇命の
>後裔で天孫族の三上祝の一族であった*32。なお、鳥杆に似たものが、佐賀県神埼郡千代田町の託田西分
>遺跡で見つかっている。
箱式石棺・鉄器などは甕棺墓時代の終わった後漢初頭の時代背景で、倭奴国の頃であり、縄文とはあまりにも
乖離が大きすぎるが。

48 :LUNAMASK:2015/05/28(木) 13:29:09.49 ID:+OghfTNO.net
日韓、東胡、匈奴、五胡十六国を生み出した始皇帝の仙薬前払対価:
騎兵軍団 甘粛青海羌戎                  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
製鉄民  徐/呉民         O3a3 M159
山岳射撃戦闘・資源探査要員 巴寡婦清私兵板楯蛮 O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
高度鋳銅 テン国石寨山文化楚国越人     O1a M119
寺社建築・営林要員 慢輪制陶技芸 泰族     O2a M95
巨石築城技術 凉山彝族       N1 LLY22g
竹細工 夜郎族         NO M214

49 :LUNAMASK:2015/05/28(木) 13:44:31.63 ID:+OghfTNO.net
ホスト 縄文 C1 M8 D2 
半島/九州 O2b1 47z
モンゴリア N1c1 M178 
東胡/靺鞨 C3 M217 C3c M86  
内モンゴル・満州  O2b SRY
欧州中近東犬戎系 Q-P36 Catacomb Culture R-M207 Uighur I-P19 Tocharian

50 :出土地不明:2015/05/29(金) 06:44:16.56 ID:PqWi8LCv.net
まもなくNHKで放送される。

何十年も前に分っていたのにこれまでスルー。

51 :LUNAMASK:2015/05/29(金) 12:26:00.90 ID:zMh4AGWi.net
>わが国の秦氏は秦始皇の後という所伝・系譜をもつが、その歴代系譜には世代数が少ないなど問題点も
>いくつかあり、実際に秦始皇の近親一族の後とするのは疑問か。おそらく、遥か遠い祖先が秦始皇と同
>じ氏族(部族)であっても、華北沿岸部にあったものの流れか。秦韓王家が秦王室と同族であったとし
>ても、遥かに早い時期に分岐した支族ではなかったろうか、と考えられる。
--------------------------------------------------------------------------------------------
>わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が
>多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
>  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦
>氏一族を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じてい
>る次第である。
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
>>46 >秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で弁辰鉄を開発した
>ものではなかろうか。
応神朝渡来陝西省秦族が三輪王朝初期渡来の羸姓徐国(呉)末裔に存在した同系統を秦人としてまとめ上げた
のではなかろうか。

52 :LUNAMASK:2015/05/29(金) 12:45:31.89 ID:zMh4AGWi.net
徐福集団=秦+呉+巴+テン+チョン+夜郎
陝西・秦氏     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159
射楯兵主/丹巴人   O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
テン国銅工人        O1a M119
テン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95
チョンドウ人       N1 LLY22g
夜郎国人          NO M214

53 :出土地不明:2015/05/29(金) 12:55:26.45 ID:ZWSL6vBE.net
【話題】国内最古の「多鈕(たちゅう)鏡」鋳型、福岡で出土…権威の象徴だった多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする定説を覆す[05/29]&#169;2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1432842866/

54 :縄文狼:2015/05/29(金) 13:08:27.20 ID:tGEVdMEV.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>51
>応神朝渡来陝西省秦族が三輪王朝初期渡来の羸姓徐国(呉)末裔に存在した
>同系統を秦人としてまとめ上げたのではなかろうか。

>>15
>前期古墳以前
>O3a3   M159 5.20% 畭
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 東呉(太白裔)東地兵テン人←前期古墳とダブる
>O3a2c1a M117 5.20% 秦地羌乃至は過山瑶←前期古墳とダブる
>NO M214* 2.3% 秦五尺道沿線夜郎←前期古墳とダブる


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

55 :LUNAMASK:2015/05/29(金) 16:30:08.85 ID:zMh4AGWi.net
>>54 Update
>O3a3   M159 5.20% 呉人/羸姓徐氏
----------------------------
>後期古墳以降
>O3a2c1 M134 5.20% 秦/羌
>O3a2c1a M117 5.20% 秦/羌
>NO M214* 2.3% 古夜郎国人、これは第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父丹波道主命
「ヤオ族は古代羌と古代苗族の融合した民族としています。意味深長です。現在でも古羌族はペイ族とかアカ族
とかとして雲南や貴州や広西に残っています。盤古神話の原郷のようです。」
http://e-asia2.board.coocan.jp/?m=delconfirm&id=14_42
食道がん発症リスクの高いYDNAというのが山西・湖南から福建・潮州へと飛んでいる。
http://europepmc.org/wicket/bookmarkable/uk.bl.ukpmc.web.utilities.redirect.RedirectPage?figure=pone-0011118-g001/&articles=PMC2886054
これは中原族が戦乱を避けて徐々に南方に移住した結果としている。
http://europepmc.org/articles/PMC2886054/

56 :LUNAMASK:2015/05/29(金) 16:53:54.29 ID:zMh4AGWi.net
>>55 従い、↓これは前期古墳時代で、
NO M214* 2.3% 古夜郎国人、これは第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父丹波道主命
逆に、後期古墳には↓
チョンドウ人       N1 LLY22g
これが加わる。これと羌は岷江上遊、青衣江上遊、大渡河下遊、川西高原、川西南山地、テン西北高原、
テン中高原、西藏東部に広がる石棺葬文化を共有していた。この羌とチョンドウ(キョウト)が家型石棺、
阿蘇ピンク石をもたらす。

57 :画像版:2015/05/29(金) 22:19:35.37 ID:/070NUp9.net
.
●『まとめ』に「秋篠宮家の姉妹」に関する本当の事を暴露したら公開停止措置にされました●

『まとめ画像のキャプチャ』(画像を拡大し、読んで下さい:PCでの閲覧推薦)

http://imgur.com/a/PW1Ui


14http://imgur.com/J4EyKdQ.jpg
15http://imgur.com/jIVQP5A.jpg
★★17http://imgur.com/JkpbqAi.jpg
★★18http://imgur.com/kVkEtxl.jpg
★★20http://imgur.com/mzrXYnr.jpg
21http://imgur.com/pce64Ql.jpg

●他にも多数の暴露サイトがあるにもかかわらず、このサイトだけが突如として公開停止になりました。
実はこれで3回目の公開停止と削除です。
1回目:2013年3月(秋篠宮眞子.本人と思われるメールが着てまもなく"サイト削除")
2回目:2014年11月(音沙汰無しで"サイト削除")
3回目:2015年5月22日11:00(音沙汰為しで."権利者による申し出により公開停止措置")

これで『実態を知る者』の言っている事は本当の事だと証明されました。

(この様にキャプチャを公開するのは削除される度であって2013年から三度目です)

58 :LUNAMASK:2015/05/30(土) 11:04:16.01 ID:ES4Q2oDo.net
於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」
海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』
秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。
秦始皇三十七年(前210年),秦始皇東巡至琅谺,
徐市(福)推託説出海後並到巨大的鮫魚阻碍,無法遠航,
要求増派射手対付鮫魚。
秦始皇応允,派遣射手射殺了一頭大魚。
後徐福再度率衆出海。
始皇帝・徐福の企図
男子若振女與百工=呉+巴+蜀+テン+夜郎
琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159
蜀(秦・羌・Qiong)
川西羌/陝西・秦     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
チョンドウ人(蜀)(巨石・石棺) N1 LLY22g
巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao 
テン国銅工人     O1a M119
テン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95
夜郎国人(竹細工)      NO M214

59 :LUNAMASK:2015/05/30(土) 15:41:46.84 ID:ES4Q2oDo.net
三輪王朝=百越(呉・テン・夜郎)
@テン国銅工人     O1a M119 銅鐸民
A夜郎国人(竹細工)      NO M214 丹波
B琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159 神獣鏡 大和
河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
C川西羌/陝西・秦     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
Dテン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95  河内
E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao 播磨・但馬・紀伊
Fチョンドウ人(蜀)(巨石・石棺) N1 LLY22g 肥後
秦氏は河内、和泉、摂津に初期段階に分岐したものが多い:
>わが国の秦氏族が河内及び摂津(特に豊島郡*34)・和泉にも多く、なかでも初期段階に分岐した氏が
>多いことは、『百家系図』巻50に所載の「朝原忌寸系図」等から知られる。
>  これまで述べてきた秦氏族の分岐状況についての概略系譜を示して本稿を終えることとしたいが、秦>氏一族
を考えるとき、山城国のみならず、凡河内国の地域の重要性を改めて認識させられたと感じてい
>る次第である。
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
これは九州北部臨海部に箱式石棺墓・内行花文鏡を持って分布する川西羌/陝西・秦氏の第一陣の末裔であろう。

60 :出土地不明:2015/05/30(土) 16:30:19.03 ID:LI1R9IT5.net
>>53
結局この話題、お前ら的にどうなの?

61 :LUNAMASK:2015/05/30(土) 16:39:10.80 ID:ES4Q2oDo.net
>>59 その他の渡来時期
@ホスト 縄文 C1 M8 D2    弥生以前
A半島/九州 O2b1 47z  弥生早期 突帯文土器  
B東胡/靺鞨 C3 M217 C3c M86 弥生後期 墳丘墓
C内モンゴル・満州  O2b SRY 古墳中期 百済
Dモンゴリア N1c1 M178    古墳後期以降
E欧州中近東犬戎系 Q-P36 Catacomb Culture R-M207 Uighur I-P19 Tocharian
                古墳後期以降

62 :LUNAMASK:2015/05/31(日) 15:25:05.14 ID:bLkLFumu.net
古墳中期河内王朝は本州に須恵器・巨大古墳の時代をもたらしたが、この頃九州に渡来してきた秦氏等は
吐谷渾と青海の羌戎であった。つまり、河内には後の物部に繋がる勢力が成立し、筑紫、特に豊前には吐谷渾
(豊国)が大陸における秦ブームを意識して対外的に秦王国を名乗ったりしていた。
継体王朝には四川に興った五斗米道から始まる道教集団が北魏分裂と共に九州に上陸、修験道としてやがては
紀伊熊野に入る時代の幕開けであった。古代日本の脈動が始まり、仏教と神道の対立を通じて次第に国家的
宗教が模索されるようになった。

63 :縄文狼:2015/06/02(火) 10:37:15.56 ID:ib2KYnDj.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>46
>秦氏とは秦始皇帝の末裔ではなく、華東、華南に分布した徐・呉の末裔で
>弁辰鉄を開発したものではなかろうか。

>>59
●三輪王朝=百越(呉・テン・夜郎)
 B琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159 大和 → 神獣鏡

●河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
 C川西羌/陝西・秦  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
 E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
  播磨・但馬・紀伊 → 内行花文鏡


もう数年にわたって何度も指摘しておりますが
「秦氏は徐福の孫」と伝承される由縁ですね〜

64 :縄文狼:2015/06/02(火) 11:17:29.26 ID:ib2KYnDj.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>63
しかしこれで時系列的に疑問が沸くのが

内行花文鏡は後漢鏡
神獣鏡は呉鏡

であり、内行花文鏡を奉じた秦氏の方が先立ってわが列島に渡来していることになる

65 :縄文狼:2015/06/02(火) 11:21:48.88 ID:ib2KYnDj.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>64
>>59
>鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm
>秦王朝は中国の西疆たる陜西省の地に興起したが、鳥トーテムをもつ東夷の一派が
>西遷したものとみられている。
>秦と同じ姓や同族の偃姓の諸国が春秋時代に山東からその南方にかけて展開した
>という事情も、その辺の傍証となろう。

鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?

66 :縄文狼:2015/06/02(火) 13:19:23.54 ID:ib2KYnDj.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>65
山東半島から東夷(鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏)が渡来したと言えば
わかりやすいものを
朝鮮半島から穢人が渡来したとすり替えるから、迷走するのですよ〜

67 :LUNAMASK:2015/06/03(水) 16:25:32.09 ID:kfbnihjN.net
>>63-65
銅鐸民は “鳥神”を奉じる“羽民”であり、徐福求仙団に入り、匈奴、エベンキの地、烏洛侯から三韓に入り
鳥形祭器、ソッテを残したが、銅鐸圏においても大和盆地では越王の鳥台を飛鳥に置き、尾張朝日遺跡では
“安集鳥田之瑞”に則り尊鳥崇鳥の鳥田儀式を行った。彼らは夏王朝開祖禹の子孫の越民であり、中国最初の
製鉄文化人でもあった。鳥トーテムの大元と言える。ところが中国には羌族も夏の末裔とする伝承と共に秦、
山東の徐も羸姓とする伝承も存在する。おそらく河内の秦姓は三輪王朝以前に渡来した“羽民”であったものが、
秦氏との鳥トーテムの同一性からその姓を採用したものではないかと考える。

68 :LUNAMASK:2015/06/03(水) 18:41:23.71 ID:kfbnihjN.net
因みに呉の画文帯神獣鏡に固執するのは:
西周王朝的同族原本位于今棗荘地区(山東省南部)的姫姓東呉国在西周王朝的支持下向南拡張,
掠取了淮夷諸国的大片領地; 在春秋中期,姫姓東呉国勢力拡張到長江下遊南岸,成為南呉国的又一箇勁敵。

69 :出土地不明:2015/06/03(水) 23:13:37.81 ID:zaoiHpN/.net
【話題】国内最古の「多鈕(たちゅう)鏡」鋳型、福岡で出土…権威の象徴だった多鈕鏡はすべて朝鮮半島製とする定説を覆す[05/29]&#169;2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1432842866/

70 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 11:44:59.14 ID:RzruFc1w.net
>>68
画文帯神獣鏡と共に楽浪郡より渡来した積石塚ホケノヤマ族は楚同様に有虞氏“虎方”“南呉国”を嶺南に
?追い込んだ周王朝をバックとした新勢力であり、“南呉国”は分解し、揺族となって最終的にはデン国南方
の盤瑶、山子瑶として残っていた。この盤瑶、山子瑶の盤瓠伝説が瓊瓊杵尊となったものと考える。

71 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 11:54:09.18 ID:RzruFc1w.net
>>70
従い、瓊瓊杵尊神話を奉じた部族は二重口縁丸底土器の口縁「盤口」に拘泥したポリツェ民族中に
あり、神武一族は嶺南経由庄内式土器と共に渡来したものにあり、ピョンヤンから画文帯神獣鏡と共に
渡来したものではなかったのだろう。

72 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 12:02:56.21 ID:RzruFc1w.net
>>71  しかし、飛鳥に越の鳥台・雲梯を築き、鳥神・かやなるみ神を奉じ、金鵄の加護を受けるなどは
銅鐸羽民越人の世界観であり、出雲国造神賀詞等は習合プロセスそのものであった。

73 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 12:17:37.07 ID:RzruFc1w.net
三輪王朝を築いた雲南省を中心とする地域の民族は始皇帝が五尺道プロジェクトに関与した諸民族百工の
子弟であったが、なんと彼らは先秦時代に山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区から雲南に移住し
たもの、つまり、土井が浜等日本弥生時代人骨に最も多くみられるものであった。

74 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 12:22:59.25 ID:RzruFc1w.net
参考
呉太白裔=西周王朝的同族原本位于今棗荘地区(山東省南部)的姫姓東呉国
--------------------------------------------------------
有虞氏“虎方”“南呉国”→盤瑶
盤古、盤瓠与瑶族、畭族的来源 文/東皇太一 2012-4-19
http://blog.sina.com.cn/s/blog_47827cbb010100vs.html
瑶族的発祥地
因此,可以確定的是,瑶族的発祥地不是在湖南境内,而是
-----------------------------------------------------
在湖南以北的黄河、長江中下遊地区,江淮中上遊地区,範囲包括今
山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区。
這一地区正是九黎及三苗活動的範囲。
瑶族的発祥地在那裏? 2011-11-05 本文行家:趙明
http://a1.att.hudong.com/48/74/19300001370745132054747082141.jpg
http://yaozu.baike.com/article-95156.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


75 :縄文狼:2015/06/04(木) 13:35:09.86 ID:Yf6NWPYd.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>73
>始皇帝が五尺道プロジェクトに関与した諸民族百工
>なんと彼らは先秦時代に山東、河南、湖北及河北、安徽、江蘇部分地区から
雲南に移住したもの、
>つまり、土井が浜等日本弥生時代人骨に最も多くみられるものであった。

ですから、先秦時代にプレ秦氏が、山東半島から直接わが列島に到来したのでは
ないでしょうか??

→ 土井が浜等日本弥生時代人骨

76 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 14:17:15.65 ID:RzruFc1w.net
>>75 >>47 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku2.htm
>本稿では詳細は記せないが、これら遺跡は天孫族の移遷の経路(筑後川中流域から関門海峡を通じ、日本海
>沿岸を経て出雲方面へ)の上にあり、出土した人骨は天孫族関係集団の構成員のものではなかろうか。ただし、
>同集団内で通婚すれば、形質が変わらないことを考えると、同族内通婚が継続したり集団がかなり大きい場合
>には、日本列島渡来後に数世代を経ている可能性も考えられるので、土井ヶ浜の例はこのケースではなかろう
>か。ここの人骨は箱式石棺に入れられたものもあり、約三百体のなかには、胸の上に鵜を抱く形で鉄製の副葬
>品をもって埋葬された巫女の遺骸(第一号人骨)も見られて、鳥トーテムの関係でも留意される。---
>土井ヶ浜遺跡の南方約三十キロには、弥生中期の梶栗浜遺跡(下関市安岡)があり、箱式石棺のなかに多鈕細
>文鏡・細型銅剣など大陸系の遺物が入って出土したことで有名である。これまで九基の箱式石棺等が確認さ
>れ、副葬品として銅剣・銅鏡・管玉が見られる。---
玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と交替に箱式石棺墓が出現するのは金印倭奴国の時代。

77 :LUNAMASK:2015/06/04(木) 15:47:59.28 ID:RzruFc1w.net
>>65 >>64 >>59
天孫族原郷 箱式石棺墓原郷・藏彝走廊
http://image2.sina.com.cn/dy/c/2003-12-14/1071373175_GiaihZ.jpg
戦国後期形勢図
http://imgsrc.baidu.com/forum/w%3D580/sign=432f73d879899e51788e3a1c72a6d990/1e5401cb39dbb6fd24b345030b24ab18962b37bd.jpg
>鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?
たとえ始皇帝でも、越王勾践でも、たとえ、朝鮮半島であっても、この時代兵を進めることは
不可能。

78 :縄文狼:2015/06/05(金) 11:32:51.60 ID:4cYdtVoD.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>77
>鳥トーテムで鳥装のプレ秦氏の到来は、秦朝統一以前の春秋時代にまで遡るのではないか?
>>76
>玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と〜

わが列島の甕棺墓が興盛する松菊里文化並行期は、大陸で春秋時代にあたります
この時期に遠賀川式土器が全国に伝播していくわけですね〜
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi/nenpyou.jpg

この甕棺墓から大量出土する北方形質の人骨は、いったいどこから渡来したというのでしょう〜??

79 :LUNAMASK:2015/06/05(金) 16:44:45.99 ID:oRpXBBlU.net
「北方モンゴロイド」
弥生系は長江越族(O2)と中原漢族(O3)/北方モンゴロイドなので、
胴長短足・薄い体毛・奥二重か一重・大きな歯・粉耳垢・薄顔・下戸
http://okwave.jp/qa/q4916957.html
北部九州弥生中期城の越/須玖
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/yanagida.png
II 金海 城の越 汲田
分散所有型 
漢以前の朝鮮産青銅器  
南筑後 熊本 大村
甕棺独自の焼成制作技法の確立 器高50cm
III 須玖 立岩古 
朝鮮・前漢・九州産青銅器・鉄器 
嘉穂
焼成法の進歩 調整パターンの確立
器高 1m
IV 立岩新 桜馬場 三津永田 
集中所有型 
王莽 後漢 
九州産青銅器  熊本福岡佐賀で衰退
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
徐福出航は前210年であり、吉野ヶ里、須玖、三津永田は徐福ミッション以外には考えられない。
前期弥生以前の突帯文、板付遠賀川は主としてO2b1であったと見られる。

80 :LUNAMASK:2015/06/05(金) 17:15:42.16 ID:oRpXBBlU.net
徐福ミッションの内、吉野ヶ里に上陸した百越銅鐸民は、青銅原料を持たない段階であっても概念的に銅鐸の
イメージを持ち、土製品を製造していたが、やがて鋳型を作り、青銅製銅鐸の青蔵を開始した。
彼らが後に出雲に入り、更には近畿、東海へと進出、銅鐸を創造した。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1583928/55/53255455/img_1?1293679754

81 :縄文狼:2015/06/05(金) 18:36:12.66 ID:4cYdtVoD.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>79
>徐福出航は前210年であり、吉野ヶ里、須玖、三津永田は徐福ミッション以外には
考えられない。

弥生前・中期の吉野ヶ里は、まだ甕棺墓の時代ですよ〜
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=13

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/yanagida.png

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi/nenpyou.jpg
上図のとおり、弥生開始年が大幅に繰り上がっているわけです〜

82 :縄文狼:2015/06/05(金) 19:17:41.43 ID:4cYdtVoD.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>81
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

しかし改めてこの吉野ヶ里歴史公園のHPに載っている絵を見ると
細かい箇所までなかなか秀逸に描かれていますね〜

つまり、すでに弥生前・中期の甕棺墓列が形成される時代には、千木・鰹木を有する
高床式太陽神殿が設営されており、おまけにその傍らには、神籬(ひもろぎ)となる
立柱祭祀まで施されてます
高床式太陽神殿は弥生期になってから付加されたが、立柱祭祀は縄文由来のものでしょう

このように高床式太陽神殿(弥生文化)や立柱祭祀(縄文文化)が、わが大和民族の
基層にある祭祀体系の基本的な組合せとなり
古墳時代の幕開けとなった王都の纒向遺跡にもきちんと引き継がれて、その後の
継体朝でも発展していきます〜
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

そしてそれが、現代なお手厚く保護される神社とご神木・ご神域の関係に
受け継がれているわけですね〜

83 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 11:44:49.72 ID:sntfd3uP.net
>>82
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

>しかし改めてこの吉野ヶ里歴史公園のHPに載っている絵を見ると
>細かい箇所までなかなか秀逸に描かれていますね〜

この「うてな」墳丘墓は、主として出雲・尾張において紀元2世紀東バイカルから南下した東胡・烏桓の四隅突出型
墳丘墓・前方後方墳の二次平面的図形を、その「基礎完成,也就確定了敦子的範囲,即確定了墓地的範囲」
プロセスに習合して取り込み、弥生墳丘墓に成長した。
更にそれは三世紀後半に入り箸墓に象徴される前方後円墳に成長する。
江蘇句容、金壇土敦墓考古獲重大突破 “土敦墓是西周時期江南地区的一種特殊的埋葬方式,主要分布在
蘇南、皖南和浙江上海等長江下遊一帯。

従発掘的情況看,土敦的営造大致経暦這様一箇過程:
首先平整土地;再在其上舗dian(mat/bed)1-3層土,形成土敦的基礎,現有資料顕示「基礎完成,也就確定了
敦子的範囲,即確定了墓地的範囲」;
在基礎的中心部位建造中心墓葬及相関建築,封土形成最早的墳丘。
也有在土敦中部生土面或基礎面上建造祭祀性建築,后在建築基礎上堆土再建造中心墓葬;
以后不同的時期在墳丘上堆土埋墓,或進行祭祀活動;
在一定時期后再進行一次封土,停止埋墓和祭祀活動,
完成該土敦即墓地的経営過程。
http://www.kepu365.com/history/ZRKG/200701/48556_2.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm
臺(うてな) 眺望をよくするために、土を積んで高くした所。〈和名抄〉
七城町うてな遺跡
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1236
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1264
七城町の弥生時代の環濠集落であるうてな遺跡は、部分的な発掘しか行われておらず、話題にはなっていない
が、環濠の大きさや集落の規模は、佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵するのではないかと言われることがある。
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/kumamoto.htm
http://yumeko2.otemo-yan.net/e322658.html

84 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 12:19:35.47 ID:sntfd3uP.net
>>83 吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり第一波の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。
他方、「土敦墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉、越の地域付近)で行われた埋葬形態で
あった。越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは、土敦墓は消滅し、楚の木槨墓が行われるよう
になった。吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行われた土敦墓の
影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する。」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm
ところがこの「越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってから」
「古代中国曾誕生過被称為“春秋五覇”的両箇国家--句呉和于越。拠《史記・越王勾践世家》,公元前473年,
越王“勾践已乎平越,乃以兵北渡淮,与斉、晋諸侯会于徐州,致貢于周。周元王使人賜勾践胙,命為伯,
勾践已去,渡淮南,与淮上地与楚,帰呉所侵宋地于宋,与魯泗東方百裏。当是時,越兵横行于江、淮東,
諸侯賀畢,号称覇王”。勾践滅呉之后,統領故呉之地,到了公元前334年,越国被“楚威王興兵而伐之,
大敗越,殺王無彊。尽取故呉地至浙江”。于是,故呉越之地皆併入楚之版図,越国軍隊亦併入楚国軍隊建制,
因呉越地処楚国之東,併入楚国之越人軍隊,被称之為“東地兵”。楚国的越人東地兵,追随首領荘
Zhuang Qiao西進Dian池域建立古Dian王国,他們是石寨山型銅鼓的設計鋳造者。」
http://blog.voc.com.cn/blog.php?do=showone&type=blog&itemid=58598
吉野ヶ里から出雲、近畿、東海へと進んだ渡来徐福銅鐸民はこのテン国、楚国之越人軍隊,“東地兵”
であったのだ。

85 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 13:03:29.69 ID:sntfd3uP.net
●徐福の匈奴・三韓経由渡来説はキルギスタン、アルタイ、トゥーヴァ、バイカル考古学を加味することにより、
鳥越、諏訪、江上、暦博藤尾甕棺、新宮徐福協会の論述する考古学古代史仮説を万遍なく、齟齬なく説明する。
●しかし、この過程で明確になる前二千年紀前半のボルガ・ウラルにおける犬戎の形成と、これによるエジプト
第二中間期ヒクソス、中国周王朝の形成は日本古代史解明が世界史にとって要の位置を占めることは、
今後日本の次の世代による考古学の研究発展の重要性を物語る。

86 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 13:26:10.50 ID:sntfd3uP.net
ハヤヒワケとは肥前、肥後の火の国、であるが、弥生末に渡来するニニギ(陶芸の神)族の代表神武にとって、
ニギハヤヒとは出雲に代表される弥生中期火の国由来の部族の祖神であったのではなかろうか。
そして天孫とはテン国ゆらい由来の徐福求仙団(秦亡民)のことではなかっただろうか。

87 :出土地不明:2015/06/06(土) 13:29:58.43 ID:GEH1UAAx.net
BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。

粗製灰陶で出来ている鬲や鼎です。

灰陶も鬲も鼎もさっぱり伝わっておりません。

秦王朝のシンボルであり、祭器であり、死後、墓に埋葬されるはずの鼎も
土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。

古代中国の主力の農耕具だった石鋤などの石刃の農耕具もさっぱり伝わっておりません。

縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な楽器もさっぱり伝わっておりません。

中国青銅器は飲食器が中心のはずですが、鬲や鼎のみならず、様々な器形の酒器も
さっぱり伝わっておりません。

中国青銅器の表面を飾る文様である龍文はもちろん、龍信仰さえ伝わっておりません。

様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。

漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物なども全く出土しません。

徐福なんて来ておりません。

ただ無知で馬鹿で頭の弱い知恵遅れだけがダマされる創作です。

88 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 15:32:10.46 ID:sntfd3uP.net
「旧呉越の地は一切楚国の版図に編入された。越国軍隊はそのまま楚国軍隊となった。旧呉越の地は楚国東部
に位置したことから、楚国軍隊に編入された越人軍隊を“東地兵”と呼んだ。楚国の越人である東地兵は首領
Zhuang Qiaoに従って西進しDianchiで古Dian王国を設立し、彼らが石寨山型銅鼓を設計する。」
これが吉野ヶ里人↑

89 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 16:20:30.28 ID:sntfd3uP.net
旧呉越の地では漢代に後の青磁越州窯の原型が芽生えるが、古テン王国でも「泰族慢輪制陶技芸」があり、
http://www.baike.com/wiki/%E5%82%A3%E6%97%8F%E6%85%A2%E8%BD%AE%E5%88%B6%E9%99%B6%E6%8A%80%E8%89%BA
これらは匈奴回転台陶器、東京都大田区久が原出土弥生土器等を生んだ
Xiongnu potter's wheel ceramic
http://kronk.spb.ru/library/hudyakov-yus-1989.htm

90 :出土地不明:2015/06/06(土) 17:32:23.33 ID:iUT8pT7x.net
>>88
じゃあ、何で吉野ヶ里に銅鼓が伝わってないんだ?


>>89
旧呉越の地ではな、日本が弥生時代に入ってウホウホ言っていたその数百年も
前のBC14C頃には既に原始青磁の時代に入ってるんだよ。

日本に大陸のどこかから弥生土器が伝わったその数世紀も前から既に旧呉越の
地は土器じゃないんだよ。



「 陶 磁 器 」なんだよ。



何で渡来人は陶磁器じゃなくて弥生土器なんか伝えてるんだ?

しかも旧呉越の地に独特の器種も何一つ無い。

91 :縄文狼:2015/06/06(土) 18:18:54.39 ID:0mSANPHm.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>84
>吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり
>第一波の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。

ですから吉野ヶ里土敦墓のわが列島への到来は、秦統一以前の春秋戦国時代に
なるようではないでしょうか??
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

92 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 21:28:19.50 ID:sntfd3uP.net
>>91 >>84
>ですから吉野ヶ里土敦墓のわが列島への到来は、秦統一以前の春秋戦国時代に
>なるようではないでしょうか??
暦博藤尾氏サイト↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
ここでいう通り甕棺は刻目突帯文、板付から始まる。しかし、甕棺独自の焼成制作技法の確立は
徐福出航の前210年からに合致する金海・城の越・汲田に始まり、焼成法の進歩、調整パターンの確立は
須玖・立岩/古に起こる。そしてその後、立岩/新・桜馬場・三津永田の時代に消滅する。甕棺は本来刻目突帯文
土器人と共に入ってきた文化であり、銅鐸人はその文化に順応した。彼らは立岩/新方面にまで箱式石棺墓文化
が到来するとそれらと共に東方に移動した。

93 :LUNAMASK:2015/06/06(土) 21:41:34.13 ID:sntfd3uP.net
徐福集団はなぜ絹織物技術は持ち込んだのに、極東b器等とも称される須恵器を吉野ヶ里に持ち込めなかっ
たのか。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page137.html
なぜ匈奴には回転台土器技術が渡ったのか。
こうしたばらつきは百工が均質的なものではなく、原郷における集団単位にある程度別れていたことを示唆する。

94 :出土地不明:2015/06/07(日) 09:21:31.76 ID:/up5VYp9.net
>>93
弥生開始以前から古代中国のファッションは帯の付いたローブだよ。

ボタンが付いたものも既に登場していたし、今で言うベルトのバックルみたいに
帯を絞める時に使う帯玉が必須アイテムで、中でも龍を彫った帯玉が一番人気の
ファッションアイテムだった。

帯もローブもボタンも帯玉も龍も、何一つ伝わってないけど、
何でこれら中国のファッションが何一つ伝わってないの?

それに極東b器以前に、何で中国土器に独特な器種や穴窯の一つも
伝わってないの?

95 :LUNAMASK:2015/06/07(日) 11:49:15.89 ID:pScvZu6e.net
呉、越、楚、秦、テン、匈奴と絶えず追われながら、南蛮の地から、西戎、化外、北狄、東夷の地を経て列島に
たどり着いた民族には、華夏文化が何一つ伝わってないのが自然だが、逆に南蛮、西戎、化外、北狄、東夷の
文化、イデオロギーは極めて良く伝わっている。Core, Periphery, Marginと同心円を三分層した場合のMarginの
部分を回遊したことはそれだけユーラシアの多くの文化に触れたことになる。ユーラシアにとって中華は特殊な
ケースであり、その文化が全面的に他の文化に卓越しているというのではない。逆にMargin民族は遠くナイル、
ドナウの彼方の文化の恩恵を受けることとなった。

96 :LUNAMASK:2015/06/07(日) 12:07:24.08 ID:pScvZu6e.net
南蛮-庄喬、西戎-始皇帝、東夷-徐福、北狄-冒頓・・・大和族は主にテン王国を中心とする西南夷だが、
日本建国の原因はこうした沿辺の英雄達のそれを意図しない行動にあった。

97 :出土地不明:2015/06/07(日) 13:42:21.08 ID:qSYzADEK.net
テン王国なんて日本に何も関係ありません。

おかしな詐欺はやめなさい。

98 :LUNAMASK:2015/06/08(月) 12:56:28.46 ID:scA4KesB.net
>>6 参照
テン王国の領域というのは「弥生時代の銅鐸の文様の源流について 末房由美子」の添付地図において
Wanjiaba、石寨山銅鼓出土領域と図示されたところであって、更にこの地図で越族青銅器分布とされた広西省
横峯、福建省南安は「楚国越人是石寨山型銅鼓的設計鋳造者 黄懿陸」で楚国越人とされたものの原郷であり、
呉太白裔を含み、日本に神体山信仰、鳥形祭器、土敦墓、製鉄、鋳銅、銅鐸、絹織物等をもたらしたもの。
それは紅河となってハノイにくだる元江の右岸であり、広州珠江デルタに向かう北盤江に沿うように展開する。
unnang Map
http://www.bnxgx.com/uploads/allimg/131026/2-131026132235632.jpg
旅游略図
http://i1.okmk.com/map/2004961204678.gif
雲南旅游案内
http://guides.okmk.com/travel_intro_25.html
雲南省河流水系分布図
http://img.ph.126.net/-deS0kVTbUW390QqiwOoIg==/2758736246758090725.jpg
美哉云南(21)雄峻的地勢地貌
http://baijizhou19520101.blog.163.com/blog/static/6938892920118167127709/
http://en.wikipedia.org/wiki/Jinsha_River 上海
http://en.wikipedia.org/wiki/Nanpan_River 香港
http://en.wikipedia.org/wiki/Red_River_(Asia) ハノイ
http://en.wikipedia.org/wiki/Mekong ホーチーミン
http://en.wikipedia.org/wiki/Salween_River ミャンマー東部
http://en.wikipedia.org/wiki/Irrawaddy_River ミャンマー中央

99 :LUNAMASK:2015/06/08(月) 13:13:56.21 ID:scA4KesB.net
↑元江の左岸だね、ごめん。さて、元江西側にはカンボジア、ベトナムで河口に達するメコンが南流するが、ここ
が水神信仰、棟持柱千木高床神社、慢輪土師器・須恵器、子安貝通貨のダイ族の原郷。
メコンの西側にはミャンマー東部、中部を下りアンダマン海に南流するサルウィーン、イラワジがあり、雲南はま
さに東南アジアの高天原。この高天原から秦-匈奴経由オビ、エニセイ、レナ、アムールの高天原、サヤン・アル
タイ、興安嶺に降臨したのち、大和に降臨するのが大和族だから詐欺臭いんだよね。

100 :LUNAMASK:2015/06/08(月) 13:38:49.89 ID:scA4KesB.net
↑メコン上流のダイ族については↓この2つは必読。
「Dai族的水文化伝統与可持続発展 鄭暁雲」
「朝鮮半島における土器の技術革新と生産体制 : 民族事例の比較研究 長友朋子」

101 :縄文狼:2015/06/08(月) 23:10:02.96 ID:I2BkmtxD.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>92
>甕棺は本来刻目突帯文土器人と共に入ってきた文化であり、
>銅鐸人はその文化に順応した。

わが大和民族の文化の根幹をなす「高床式太陽神殿(弥生由来)と立柱祭祀(縄文由来)」が
刻目突帯文土器人によるものなのか?それとも銅鐸人がもたらしたものなのか?

中国側では、長江上流の金沙遺跡で発見された高床式神殿跡を古蜀大社と銘銘し
わが列島の神社群の原型としているようですね〜
http://www.recordchina.co.jp/a42245.html
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/images/izumo%20taisha-110.jpg

102 :縄文狼:2015/06/08(月) 23:46:13.63 ID:I2BkmtxD.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>92
>暦博藤尾氏サイト↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
>ここでいう通り甕棺は刻目突帯文、板付から始まる。

しかしながら、わが大和民族の文化の根幹をなす「高床式太陽神殿(弥生由来)と
立柱祭祀(縄文由来)」は板付T期にはすでに確立されていた
とすると、 やはり刻目突帯文土器人がわが大和民族の始祖となるのか

103 :LUNAMASK:2015/06/09(火) 11:55:55.90 ID:VsZLZ0z8.net
>>101 >>92
>甕棺は本来刻目突帯文土器人と共に入ってきた文化であり、
>銅鐸人はその文化に順応した。
>わが大和民族の文化の根幹をなす「高床式太陽神殿(弥生由来)と
>立柱祭祀(縄文由来)」が
>刻目突帯文土器人によるものなのか?
>>36 刻目突帯文土器人、これは韓国における農耕社会の成立 安在晧(東国大学校人文大学)によれば「美沙里式住居は無文土器時代には韓半島の西北・東北地域だけにみられる。遺物との関連からみて、鴨緑江流域の西北地域との関連が深いと考えられる。」
>それとも銅鐸人がもたらしたものなのか?
その通り。
>中国側では、長江上流の金沙遺跡で発見された高床式神殿跡を古蜀大社と銘銘し
>わが列島の神社群の原型としているようですね〜
そうではなくて金沙遺跡の復元が出雲神殿に似たということ。せこいね。
>>102 >>92
>暦博藤尾氏サイト↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan9.jpg
>ここでいう通り甕棺は刻目突帯文、板付から始まる。
>しかしながら、わが大和民族の文化の根幹をなす「高床式太陽神殿(弥生由来)と
>立柱祭祀(縄文由来)」は板付T期にはすでに確立されていた
そうではない。
>とすると、 やはり刻目突帯文土器人がわが大和民族の始祖となるのか
刻目突帯文土器人は縄文人の始祖でもなければ、大和民族の始祖でもない。

104 :LUNAMASK:2015/06/09(火) 12:27:00.78 ID:VsZLZ0z8.net
>>101
>わが大和民族の文化の根幹をなす「高床式太陽神殿(弥生由来)
八百万の神が天の安河の川原に集まり、どうすれば良いか相談をした。オモイカネの案により、様々な儀式を
行った。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。天の安河の川上にある堅い岩を取り、鉱山の鉄を採り、鍛冶師
のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8
祭神 天御影命(天目一箇神)  古代製鉄の神を祀る。神体山の三上山を祀る。
http://kamnavi.jp/ym/mikami.htm
http://jinja-kikou.net/oumi-kotou2.html
鏡とは天目一命がこの地で鏡を作った故事によるともいわれている地。
http://jinja-kikou.net/oumi-kotou3.html
近江湖東の古社巡り
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0077.html
野洲川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B4%B2%E5%B7%9D
伊勢 遺跡
http://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise1top.htm
伊勢 遺跡
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/iseiseki.html
「紀元1世紀末頃に、この遺跡は突如出現し、紀元2世紀末に衰退し始める。つまり、邪馬台国時代前夜に、
発達を遂げた不思議な遺跡
30棟の棟持柱付大型建物が円周上に配置されていると聞いて、筆者がすぐに思い浮かべた建物がある。
出雲大社の東と西の十九社である。我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいる。
10月10日に全国の神々が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、
出雲以外では神々が不在になるためである。東と西の十九社は、出雲に集まった神々の御旅社、つまり宿舎だ
そうだ。 」
「この住居跡から復元される建物の規模の大きさには驚くべきものがあるが、さらに注目すべきはその床と壁に
あった。住居をつくるのに、先ず深さ80cm以上掘り込み、次に厚さ約25cmの粘土を床面に貼り、その上面を
焼いて整え、さらに約8cmの精良な粘土を貼り高温で焼いて固めている。こうした床を焼床(やきどこ)といい、
従来にはなかった建築工法である。この床にはさらに、直径2cm程の穴が多数、開けられていた。一方、壁際に
は40cm×30cm、厚さ約8cmのレンガと思われる建築部材が少なくとも5個以上見つかっている。日本で出土
した焼成の最古のレンガは白鳳時代の7世紀後半とされてきたが、その歴史が500年もさかのぼることになる。」
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ise%20iseki.htm

105 :LUNAMASK:2015/06/09(火) 12:48:46.80 ID:VsZLZ0z8.net
吉野ヶ里に並行して半島中西部(京畿,忠清)に存在した徐福末裔集団の民族移動:
「発展期が終わる頃,細形銅剣文化の象徴でもある異形青銅器B群が東進の動きをみせる。衰退期になると中西
部(京畿,忠清)の威容は突然失せ,楽浪-漢式文化に組み込まれた西部と,細形銅剣文化を独自に展開させた
東南部が急激に台頭する。鉄器化が進むと共に青銅器は遺制を維持しつつ新たな役割を担い変容する。」「鋳造
鉄器の出現と軌を一にして異形青銅器B群の東進がおこり,発展4期を最後に中西部の栄華は終わった。」「異形
青銅器B群の東進に現れた人の動きは,青銅器づくりにとどまらない組織や知識を東南部にもたらした。結果,
東南部地域は青銅器文化とともに鉄器文化をいちじるしく発達させ,楽浪や倭はこぞって鉄資源の獲得に乗り出
した。」青銅器からみた紀元前一千年紀の朝鮮(概要)宮里 修
河内物部十種神宝蛇比禮(おろちのひれ)と異形青銅器B八珠鈴との類似から異形青銅器B群を製作したのは
徐福集団の秦人、本来、(1) Qiang (2) Qiongdou (3) Bandunman (4) Dian (5) Yelang (6) Ailaoの六部。下図で言
うと、半島東南部に到着したのは無文後期勅島・九州北部弥生中期須玖で、これが近畿弥生VI期の野洲川伊勢
遺跡に降臨、これがその後纒向に移動した。
http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/b3.gif?934737
蛇ヒレ
http://kamnavi.jp/mn/sgorotihire.gif
 

106 :LUNAMASK:2015/06/09(火) 13:20:24.67 ID:VsZLZ0z8.net
原高天原における天孫配置図
(1) Qiang(羌:四川省北西) (2) Qiongdou(四川省最南部) (3) Bandunman (板楯蛮:四川省東部)(4) Dian(テン)
(5) Yelang(夜郎) (6) Ailao(哀牢)、
http://syoki-kaimei.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/syoki-kaimei/B8420E99BB2E58D97E59CB0E59BB3.jpg
昆明とあるのは久米氏の原郷。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E6%B0%8F

107 :出土地不明:2015/06/09(火) 14:13:33.38 ID:5SO9UWTN.net
>>97
俺もそう思う

ダイ族(中原人)ではなくその先祖の苗や羌、越とバラバラに日本に文化が入っただけで
三国志の南蛮(巴)と日本人が直に繋がったとは考え難い

なんか倭人が百越の流れを組むからと華夏人みたいな錯誤に近いものを感じる

108 :出土地不明:2015/06/09(火) 22:06:18.86 ID:tu9kf1gs.net
>>107
>苗や羌、越とバラバラに日本に文化が入った


で、苗、羌、越から入った文化って具体的に何よ?

.

109 :出土地不明:2015/06/10(水) 04:58:57.27 ID:mRxfmaaZ.net
羌→吉野ヶ里の段々畑(水田?)
越→高床式倉庫か住居
苗→牛頭天王とか色々文化的なもの

逆に具体的と2ちゃんで聞く意味ってなくね?しかもコテがないとフルボッキうぜーで終わるわ

110 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 10:48:32.99 ID:jJw+6zkF.net
徐福は始皇帝に東シナ海のジョーズ危険水域を突破するためにはクロスボー狙撃兵団のコンボイが不可欠とし
てこの派兵を請求。始皇帝は当時四川省東部に居住していた、後に播磨に射楯兵主を奉じ、紀州に入り、紀州人
となる板楯蛮の派兵を決断した。

111 :縄文狼:2015/06/10(水) 11:37:35.43 ID:O7YwFMBy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>109
>羌→吉野ヶ里の段々畑(水田?)
>越→高床式倉庫か住居
>苗→牛頭天王とか色々文化的なもの

わが大和民族の祭祀文化の根幹をなす纒向型の「高床式太陽神殿」と「立柱構造物」は
東夷・南西夷のコングロマリットで醸成されたということでしょうか〜
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

そしてそれが、現代なお手厚く保護される神社とご神木・ご神域の関係に
受け継がれているわけですね〜

112 :縄文狼:2015/06/10(水) 11:58:41.51 ID:O7YwFMBy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>109
>羌→吉野ヶ里の段々畑(水田?)
>越→高床式倉庫か住居
>苗→牛頭天王とか色々文化的なもの → 高床式太陽神殿→神社社殿

+(プラス)

縄文 → 立柱祭祀(神籬(ひもろぎ))→ご神木・ご神域(神籬(ひもろぎ))

113 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 12:04:46.50 ID:jJw+6zkF.net
書き込みにくいなー

114 :縄文狼:2015/06/10(水) 12:09:44.00 ID:O7YwFMBy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>111
しかしながら、わが大和民族の祭祀文化の根幹をなす纒向型の「高床式太陽神殿」と
「立柱構造物」は、弥生前期にすでに吉野ヶ里で確立されていた

http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=13

115 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 13:00:53.08 ID:jJw+6zkF.net
>>110
弩狙撃兵である板楯蛮を伴い吉野ヶ里に上陸したものは出雲に向かい姫原西遺跡に弩の部品遺物を残したが、
後に倭の五王時代西国管理者であった靫負(ゆげい)大伴氏は装飾古墳を残しているが、特にメズラシ塚古墳
では板楯・靫負の画像を残している。これが更に後に、畿内に入り大伴氏となり、一部のものが播磨、紀州で
射楯兵主を奉じた。彼らは巴寡婦清を丹生都比賣として祀っている。彼らの九州における石室墓(Quongdou)、
石棺墓は石棺葬の領域藏彝走廊
http://image2.sina.com.cn/dy/c/2003-12-14/1071373175_GiaihZ.jpg
の出自であったことを物語る。

116 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 13:46:12.21 ID:jJw+6zkF.net
欧州のクロマニオン人よりも早くインドネシア・スマトラに達した東アジア最早期ホモサピエンスは、
現オーストロネシアン語族で、その神殿は千木、大社造。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mentawai_people

117 :縄文狼:2015/06/10(水) 14:02:47.27 ID:O7YwFMBy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>111
しかしながら、わが大和民族の祭祀文化の根幹をなす纒向型の「高床式太陽神殿」と
「立柱構造物」は、弥生前期にすでに吉野ヶ里で確立されていた

http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=13

>>103
つまり「銅鐸人」が吉野ヶ里に到来する以前に、「刻目突帯文土器人」によって
わが大和民族の根幹をなす祭祀文化の祖形が創生され、その後「銅鐸人」によって
牛頭天王や西王母などの道教・神仙思想と習合・深化されていったと考えられる

118 :縄文狼:2015/06/10(水) 14:30:09.09 ID:O7YwFMBy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>103
>刻目突帯文土器人は縄文人の始祖でもなければ、大和民族の始祖でもない。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search='%E6%B1%9F%E8%BE%BB%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E9%AB%98%E5%BA%8A'

この論文の筆者は、併行期にある半島の突帯文土器とわが列島を比較検証して

>縄文人が刻目突帯と沈線文のような文様だけを模倣した可能性が高い
>縄文人が刻目突帯と沈線文のような文様だけを模倣した可能性が高い
>縄文人が刻目突帯と沈線文のような文様だけを模倣した可能性が高い

と結論づけました

すなわちこの論文によると、刻目突帯文土器人は縄文人であった
ということになります〜

119 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 14:38:46.22 ID:jJw+6zkF.net
大和民族とは秦西南夷・哀牢族であり、ヤマトとは彼らの言語で覇區(盆地)民族、山區民族を意味しており、大和盆地の入植者を意味する。神道は大和民族、つまり、哀牢族の固有の宗教であり、
日本の寺社建築は哀牢民族の寺社建築を指す。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3e/Man_Chunman_Buddhist_Temple%2C_Dai_Ethnic_Garden%2C_Xishuangbanna_Prefecture%2C_China.jpg

120 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 14:46:30.84 ID:jJw+6zkF.net
伊勢神宮は本来水神瀬織津姫を祀ったものであり、神社建築形式、神宮林営林手法は哀牢族、現ダイ族の行う
ものである。後期弥生土器、土師器、須恵器は哀牢族、現ダイ族の文化である

121 :LUNAMASK:2015/06/10(水) 16:44:08.80 ID:jJw+6zkF.net
棲み分けを行ったもの: 大和-哀牢 出雲-テン越(楚呉越) 肥後/紀州-板楯蛮 丹波-夜郎 
全国展開したもの: 羌(毛野) Qiongdou

122 :出土地不明:2015/06/11(木) 00:50:12.92 ID:Qr59L5Gg.net
>>109


で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

123 :出土地不明:2015/06/11(木) 01:00:45.53 ID:Qr59L5Gg.net
>>118
じゃあ、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した北方モンゴロイド形質を
帯びた人骨はどこからやって来たの?

で、彼らがもたらした文物的証拠は?

ちなみに、その人骨は朝鮮人よりもはるかに北方民族に形質が近い土井ヶ浜の弥生人骨よりも
さらに北方モンゴロイド形質の数値が高い人骨だという点をお忘れなく。

124 :出土地不明:2015/06/11(木) 01:31:02.80 ID:35E/SNb0.net
>>122
お前に答える必要はない

125 :LUNAMASK:2015/06/11(木) 12:48:25.93 ID:KH3LnLJW.net
沿海州O2b1の気候寒冷化による南下はBP5400―5200 縄文前期、BP4700―4300 縄文中期、BP2500―2200 無文中期に発生したと考えられる。無文中期は沿海州Krounovkaに相当:
燕には名将楽毅・蘇秦の弟蘇代など、続々と人材が集まってきた。また、時期は不明であるが、昭王は不老不死
の仙人を求めて東方の海上に人を派遣したという。これらの人材を使い、昭王は燕の改革・再建を進めた。
この頃、将軍の秦開を派遣して、北方遊牧民族の東胡を討った。『史記』は「東胡は千里しりぞいた」という。また
新領土に郡県制をしき、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の5郡を設置し、『魏略』によると秦開に造陽から襄平ま
での東西二千里にわたる「燕の長城」を築かせたという。秦開はさらに満潘汗(平安北道博川)に至って朝鮮との
境を定めた。

126 :LUNAMASK:2015/06/11(木) 13:32:35.36 ID:KH3LnLJW.net
無文中期松菊里土器時代、D2/O2b1は板付・遠賀川土器の東方拡大と共に人口を拡大させた。

127 :LUNAMASK:2015/06/11(木) 14:12:43.32 ID:KH3LnLJW.net
蓋国是一箇先秦着作中記載的国度。中国曾出土銘文《王伐蓋侯 周公謀禽祝禽又脹祝王易金百孚禽用乍宝
彝》,周初成王(西元前1042年至1021年)時,蓋国多次起兵反抗周朝,蓋国貴族被周成王平定。
《山海経・海内北経》:「蓋国在鉅燕南,倭北,倭属燕。」春秋或戦国時期,蓋国与後来史書中的辰国位置大体
相当,是朝鮮半島南部的部落通称。辰国被認為是三韓的前身,其都城可能在漢江之南。
両江道、咸鏡南道、沿海州に蓋の地名があり、蓋国は西浦項システムと解釈し、これをO2b1の原郷としておきたい。
すると鉅燕は東胡、貊を含有した燕と言うことになり;
東胡;弥生後期に徐福秦人と同時に渡来;
C3-M217 4.10%
C3c-M86 1.2%
N1c1-M178
貊;
O2b-SRY 9.30% 主に河内王朝時代に百済人として来朝、後に高句麗人としても渡来、
と言うことになる。

128 :LUNAMASK:2015/06/11(木) 14:42:39.76 ID:KH3LnLJW.net
徐福東胡・百済を総合すると;
弥生後期東胡随伴: 大和-哀牢 出雲-テン越(楚呉越)  丹波-夜郎 
河内王朝百済随伴: 肥後/紀州-板楯蛮羌(毛野) Qiongdou(羨道付横穴石室墓)

129 :LUNAMASK:2015/06/11(木) 14:50:40.97 ID:KH3LnLJW.net
瀬織津姫を天照大神に換えたのはアルタイ系貊・板楯蛮/秦氏を含む羌であろう。

130 :縄文狼:2015/06/11(木) 15:19:06.08 ID:9binolT8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>126
>D2/O2b1は板付・遠賀川土器の東方拡大と共に人口を拡大させた。

D2/O2b1は刻目突帯文土器人すなわち縄文系倭人と同義ですね〜

131 :縄文狼:2015/06/11(木) 15:53:53.23 ID:9binolT8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>128
>弥生後期東胡随伴: 大和-哀牢 出雲-テン越(楚呉越) 丹波-夜郎
>河内王朝百済随伴: 肥後/紀州-板楯蛮羌(毛野) Qiongdou(羨道付横穴石室墓)

丹波が夜郎であるならば、河内王朝(応神-神功皇后朝)は丹波-夜郎の出自でしょう
>>105でいうとおり河内物部氏の一部であり、元伊勢の籠神社宮司である海部氏が
それに当たります

親百済の肥後/紀州-板楯蛮羌(毛野)の近畿圏進出は、継体朝になってからです
河内王朝(応神-神功皇后朝)ではまだ筑紫の磐井にすら至っていない

132 :縄文狼:2015/06/11(木) 16:10:33.83 ID:9binolT8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>131
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95_%28%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E8%B1%AA%E6%97%8F%29
>近年では、領域の中でも特に有明海沿岸地域が5世紀後半から6世紀初頭にかけての
>対朝鮮交渉の中心地であったことから、その対朝鮮の外交権を巡って
>ヤマト王権側との間に対立が生じたとする説が挙げられている

・5世紀後半から6世紀初頭

133 :縄文狼:2015/06/11(木) 16:29:20.76 ID:9binolT8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>131
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8
>考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期、5世紀中頃とされる。
>日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、
>最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として大阪府堺市南部、和泉市〜

・5世紀中頃

134 :出土地不明:2015/06/11(木) 16:33:40.93 ID:atZAj5MI.net
山海経自体が町の秘宝館レベルらしいがね

135 :出土地不明:2015/06/12(金) 00:15:12.99 ID:FUiLhjcg.net
>>124
学問板だから証拠の提出を求められて証拠が出せない場合は
その発言の信憑性を失う事くらい分かるよな?


で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

136 :出土地不明:2015/06/12(金) 00:18:06.56 ID:FUiLhjcg.net
123 :出土地不明:2015/06/11(木) 01:00:45.53 ID:Qr59L5Gg>>118
じゃあ、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した北方モンゴロイド形質を
帯びた人骨はどこからやって来たの?

で、彼らがもたらした文物的証拠は?

ちなみに、その人骨は朝鮮人よりもはるかに北方民族に形質が近い土井ヶ浜の弥生人骨よりも
さらに北方モンゴロイド形質の数値が高い人骨だという点をお忘れなく。

137 :出土地不明:2015/06/12(金) 10:11:35.27 ID:iDDmvqgT.net
>>135
だから?

138 :LUNAMASK:2015/06/12(金) 11:28:17.00 ID:nF5xQ8z4.net
>>130 刻目突帯文土器人はO2b1、遠賀川土器はD2。
>>131 竹トーテム、夜郎は丹波道主命。
神功/息長氏:
「・初期においては「息長」という一種の特殊な技術(例えば製鉄技術)を有する集団みたいなもののリーダーみた
いなものに与えられた名跡みたいなものだった。
・この名跡を婚姻、血族内の色々な関係を活用しながら、山城南部に息長の名跡を世襲する氏族が現れた。
・しかし、その山城息長氏族も跡が続かず、河内中部にその名跡が移った。この流れの血脈と神功皇后からの
山城南部息長氏の血脈が応神天皇を介して合流され、これから幾つかの血族関係のある息長氏なるものが
確立されその一つから26継体天皇が輩出された。」
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-9.html
元伊勢の籠神社宮司である海部氏→吉野ヶ里/背振北麓O2b1乃至は徐福系
近江毛野は青海(Amdo)羌の和訳(あおうみ[青海]けの[ケヤヌ])
>>132 筑紫の磐井は石棺葬文化青海羌とQiongdou羨道付横穴石室墓がチュルク石人石馬を加味した様式。
つまり、出自は東西トルケスタンであり、古の西匈奴であったと見られる。
>>133
「日本列島で最古の窯は大阪府堺市大庭寺窯跡であるが、最初に須恵器生産が始まった場所(窯跡)として
大阪府堺市南部、和泉市、大阪狭山市、岸和田市、にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑窯跡群、福岡県の
小隈・山隈・八並窯跡群が知られている。また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・
三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られる。これらの系譜は、
いずれも伽耶系である。
このうち大阪府の陶邑窯跡群は日本列島最大であり、天皇陵を含むと考えられている百舌鳥古墳群と地理的
に近接しており、やがてヤマト王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう統御されるようになったと
考えられる。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として堺市の深田遺跡や小角田遺跡が挙げられる。」

139 :LUNAMASK:2015/06/12(金) 12:21:04.90 ID:nF5xQ8z4.net
>>138
>元伊勢の籠神社宮司である海部氏→吉野ヶ里/背振北麓O2b1乃至は徐福系
海部氏は徐福系。海部氏等を伴い琵琶湖に入る倭奴国・博多湾志賀島安曇族は最終的には縄文の都、信州
安曇野に入ることから縄文人と見られる。彼らの神紋・三つ巴はブリャートの国章であり、彼らはアムール・レナ
水系にも足跡を伸ばしたと見られるが、彼らこそO2b1であり、彼らの更に西側エニセイ上流に住んでいたのが
O2b、山戎・貊であったのであろう。

140 :LUNAMASK:2015/06/12(金) 14:36:42.08 ID:nF5xQ8z4.net
海人族はO2b1
@縄文末期 半島西南/済州島/五島列島→背振周辺 遼東貝丘文化人→蓋(辰)O2b1 突帯文・甕棺
A弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
B弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族(O2b1)
応神朝から始まり、住吉系の守備範囲シルクロード接続シーレーンもO2b1であろう。

141 :出土地不明:2015/06/13(土) 02:54:34.88 ID:YPxkoVh1.net
>>137


だから、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

142 :出土地不明:2015/06/13(土) 02:56:14.96 ID:YPxkoVh1.net
.

123 :出土地不明:2015/06/11(木) 01:00:45.53 ID:Qr59L5Gg
>>118
じゃあ、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した北方モンゴロイド形質を
帯びた人骨はどこからやって来たの?

で、彼らがもたらした文物的証拠は?

ちなみに、その人骨は朝鮮人よりもはるかに北方民族に形質が近い土井ヶ浜の弥生人骨よりも
さらに北方モンゴロイド形質の数値が高い人骨だという点をお忘れなく。

.

143 :縄文狼:2015/06/14(日) 16:37:04.06 ID:lCGAe8v8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>142
http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf

引用元のこの論文では、以下のように結論づけてますね〜

○新町遺跡人骨の形質は、判明した限りでは縄文人的形質に傾いたものである
ことに疑いはない

○渡来に起因する文化受容は、在来文化に取ってかわるDisplacement Pattern
(置換パターン)ではなく、渡来要素を在来伝統の規制下に取り込み、外来情報が
蓄積されていくにつれシステムに動揺をきたし、ついには別のシステム(弥生文化)
へと変化するパターンであったと考えられる

○渡来人の量は、在来人の数に匹敵するような大量の規模ではなく、本来人口が
少なかった北部九州の縄文社会に渡来して、なお在来社会の規制を受ける程度の
ものであったと考えられる

○渡来的とされる形質は、在来人との混血によって、黒川式期から板付1式期までの
間におおむね形成され、板付1式の後半期から板付2式期のはじめに、移住を含む
かたちで、中国・近畿地方に向けて拡散を開始したと考えられる

本 当 に

144 :縄文狼:2015/06/14(日) 18:13:09.96 ID:lCGAe8v8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>140
>海人族はO2b1

海人族をひとまとめにしていますが、>>138では刻目突帯文土器人はO2b1、遠賀川土器はD2
と大別しているではないですか〜

http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/02/21/%E7%B6%BE%E7%BE%85%E6%9C%A8%E9%83%B73/
http://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/blog/201402/uid000067_201402191624011d9c68d6.jpg

弥生時代前期〜中期の「土笛」の分布域
響灘沿岸部や山陰・京都北部地方に広く分布し、西方の九州では福岡県福津市・
宗像市域を西限としていずれも響灘沿岸部に止まっている

>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。
>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。
>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。

その分布範囲は独特な山形重弧文や各種の貝殻文で知られる「綾羅木式土器」の分布圏と
ピッタリ重なっていることが判ります。
九州の響灘沿岸部から山陰の日本海側の弥生文化に共有されていた特有な文物で
独自の儀礼を伴う稲作文化であった可能性も指摘されています。

宗像地方以西は九州北部とは異なる漁労採集が中心の縄文人の文化圏だったようですね〜

145 :縄文狼:2015/06/14(日) 18:20:03.98 ID:lCGAe8v8.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>140
A弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
B弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族

このABの異なる海人族が、半島・大陸をつなぐ2つの海上ルート(A奴国ルート、
B邪馬台国ルート)の形成にそれぞれ大きく貢献するわけですね〜

146 :LUNAMASK:2015/06/14(日) 21:36:13.08 ID:CDdRi4l5.net
>>145 日本海・黄海沿岸部では縄文系以外の海人族はなかった。三輪王朝の大和族、出雲族を運んできたのは
縄文系。河内・継体王朝の百済人、テイ羌、鮮卑等を運んできたのは縄文人、乃至は、あったとしても百済
原住民の縄文人程度ではなかろうか。秦氏と言うのはテイ羌が主体で、肥後・紀州は北魏経由の成漢人だろうと
思うが、これらを縄文以来の倭人海人族が運んできたのだと思う。しかしながら、成漢人というのは巴人の末裔
で、九州に定着した後、ピンク石の輸送などの経験で、瀬戸内海で水軍化する傾向が強く、中世に入っては
ほとんどの内水域で制海権を獲得したと思う。

147 :LUNAMASK:2015/06/14(日) 21:55:19.38 ID:CDdRi4l5.net
>>146 紀州式石棚付横穴石室墓と肥後式横穴石室墓の類似をみていると、紀州人は北方トゥーヴァ西匈奴を
出たテイ羌、秦氏と一緒のまま、つまり、四川に戻らずに北魏、北燕、百済と移動した可能性も捨てられない。

148 :縄文狼:2015/06/15(月) 19:06:30.65 ID:D98MEyYM.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>146
昨年3月のシンポジウムでの土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム名誉館長の見解

『非縄文系人骨としては青海省リカザン・アハトラ山・チョーソンカの遺跡が
北部九州弥生人に酷似しており、かつ均質なので、原型か。青海省は羌族の居住地、
太公望は羌族、そして太公望は殷周革命後、山東省に封じられている。』

とのことです

人骨からみると山東半島からの羌族の渡来が本命のようですね〜

149 :縄文狼:2015/06/15(月) 20:09:13.83 ID:D98MEyYM.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>140
○弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
□弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族

>>146
この○□の異なる海人族が、半島・大陸をつなぐ2つの海上ルート
□邪馬台国ルート:三輪王朝の大和族、出雲族
○奴国ルート=後の筑紫の磐井ルート:継体王朝の百済人、テイ羌
の形成にそれぞれ大きく貢献するわけですね〜

150 :出土地不明:2015/06/16(火) 02:18:20.92 ID:/eRoO9ce.net
>>137


で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

151 :出土地不明:2015/06/16(火) 02:36:39.04 ID:/eRoO9ce.net
>>143
何で一番肝心な部分をカットするんだよ。


9号人骨(熟年男性)は、金関によって渡来的とされた形質の一つである眼窩示数が
81.4であり、山鹿貝塚縄文人の平均値73.9(九大・医・解二1989)、津雲貝塚縄文人の
77.4(池田1988)よりも大きいばかりか、土井ヶ浜(80.1)や金隈(80.2)の値をも
上回っている(図2にアミで示した部分)。

つまり、9号人骨は、低上顔・低身長ではあるものの、眼窩においては必ずしも縄文人的
ではなく、むしろ渡来人的ということができよう。そして、これは、新町遺跡の集団が
在来人のみによって構成されるのではなく、すでに混血による渡来的形質をもっていた
ことを示すものといえよう。
http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf


◆Qモードにおけるコンピュータを使った形質解析での土井ヶ浜弥生人骨の形質ポジション

http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg


土井ヶ浜弥生人骨は朝鮮人骨よりもはるかにオロチやギリヤークなどの北方モンゴロイドに
形質が近いが、新町遺跡から出土した北方モンゴロイド形質を帯びた人骨はその土井ヶ浜弥生人骨よりも
さらに上を行く数値なんだが、

それを踏まえた上で、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した
北方モンゴロイド形質を帯びた人骨はどこからやって来たの?

で、彼らがもたらした文物的証拠は?

152 :LUNAMASK:2015/06/16(火) 11:44:51.72 ID:RqAsyMN1.net
>>149 >>140
>○弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
>□弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族
>>146
>この○□の異なる海人族が、半島・大陸をつなぐ2つの海上ルート
>□邪馬台国ルート:三輪王朝の大和族、出雲族
>○奴国ルート=後の筑紫の磐井ルート:継体王朝の百済人、テイ羌
>の形成にそれぞれ大きく貢献するわけですね〜
↓安曇・宗像という区分は一時的、政治経済的なもので民族学・遺伝子的なものでなかった可能性もある
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608775/53/56132453/img_5?1392820038
然し、「紀州式石棚を持つ終末古墳及び肥後式横穴式石室の分布図」↓
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608775/53/56132453/img_0?1392820038
この分布から肥後/テイ羌、紀州/巴東板楯蛮・ソウ(Cong)の区分が出てくるのではなかろうか。

153 :LUNAMASK:2015/06/16(火) 12:00:22.39 ID:RqAsyMN1.net
>793 出土地不明 2010/02/12(金) 19:50:26 ID:Qyqlj0CA
>786わぉーー月光たん
>彝(イ)族の住む四川省凉山イ族自治州は、アランちゃん出身地の
>四川省ガンゼ・チベット族自治州のお隣です〜
> http://www.geocities.jp/kamazawakyuya/izoku.htm
>ここのタイマツ祭りは、熊野新宮の神倉神社のお灯祭り(おとうまつり)に似ていますね(^0^)/
>豊作を祈る祝祭で、歌垣も行われるようです〜
テイ羌については火把節関連の火祭り儀式の残っている地域で特定できる。

154 :LUNAMASK:2015/06/16(火) 12:27:35.25 ID:RqAsyMN1.net
徐福百工・千童・鮫射撃手
後期弥生 弁辰・吉野ヶ里→丹後・若狭
雲南出自
O3a3   M159 5.20% テン越 百工
O1a M119 4.10% テン越 百工
O2a-M95* 1.00% Zanke(夜郎) ダイ族 百工
10.30%
NO-M214*  *2.3% Zanke(夜郎)現布依族 百工  
============================
古墳後期 四川巴東・蔵彝
O3a2c1 M134 5.20% テイ羌・千童
O3a2c1a M117 5.20% テイ羌・千童
O3/-002611 2.10% 板楯蛮・鮫射撃手
O3a2 P201 6.20% 板楯蛮・鮫射撃手
18.70%
N1-LLY22g*  *1.2% Qiongdou・羨道横穴石室墓

155 :LUNAMASK:2015/06/16(火) 12:33:49.74 ID:RqAsyMN1.net
徐福と吉野ヶ里とチャン文化
「チャン人の問題を提起するのは、最近「徐福東渡時、連れて行った3000の童男童女は羌戎から集めた」という
資料を見たからである。わたしは、この可能性はかなり大きいと思う。なぜかといえば、当時、東部は何年も戦争
が続き、加えて万里の長城と阿房宮など壮麗な御殿の修築によって、戸籍が凋落し、人口も危うい状態で、
幼い子供は言うに及ばなかった。まして、始皇帝の性格から見れば、自分と血縁関係がある部落から人を選ぶの
は理の当然である。」国務院発展研究センター 張雲方
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm

156 :LUNAMASK:2015/06/16(火) 13:08:07.65 ID:RqAsyMN1.net
テイ羌は↓下の魏晋南北朝表で赤背景ブロックで夏407 - 431
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%99%8B%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E8%A1%A8
にいた流動性の高い、つまり、徐福出航後匈奴トゥーヴァ・ウルグヘム文化にあったもので、これが北魏、北燕を
通過し、百済、継体倭国へと移動し、他方、紀州/巴東板楯蛮・ソウ(Cong)は北魏にあって五斗米道の伝統を引
く同族の影響を受けた後、テイ羌共々北燕に移動、ここで遼西に集結した夫余・百済共々百済・筑紫へと移動した
ものと考える。

157 :縄文狼:2015/06/16(火) 21:05:07.46 ID:WpxNY+4R.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>140
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族

>>149
この●■の異なる海人族が、半島・大陸をつなぐ2つの海上ルート
■邪馬台国ルート:三輪朝の大和族、出雲族
●奴国ルート=後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
の形成にそれぞれ大きく貢献するわけですね〜



北部九州人●と、より縄文人に近い響灘・周防灘人■と2群に分けた方がよさそうですね〜

158 :縄文狼:2015/06/16(火) 21:25:46.20 ID:WpxNY+4R.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>154
徐福百工・千童・鮫射撃手
後期弥生 弁辰・吉野ヶ里→丹後・若狭
雲南出自
O3a3   M159 5.20% テン越 百工
O1a M119 4.10% テン越 百工
O2a-M95* 1.00% Zanke(夜郎) ダイ族 百工
10.30%
NO-M214*  *2.3% Zanke(夜郎)現布依族 百工

後期弥生に渡来の徐福百工・千童・鮫射撃手が弁辰・吉野ヶ里から丹後・若狭に
移動したのであれば、丹後一宮の元伊勢籠神社にみごとに符号します

つまり、古墳中期の応神・神功皇后朝は、丹後一宮の元伊勢籠神社の出自で
三輪朝の一部種族と同族であったということでしょう〜

159 :縄文狼:2015/06/17(水) 09:36:50.44 ID:IT0GSX86.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>157
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) →安曇海人族(O2b1偏向)
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘 宗像海人族(D2偏向)

>>149
この■宗像海人族が、半島・大陸をつなぐ海上ルート
■邪馬台国ルート=後のプレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族
の形成に大きく貢献するわけですね〜



■宗像海人族とは、●北部九州人とは別群の■響灘・周防灘人



すなわち宗像地域以東における弥生前期〜中期の『綾羅木式土器文化人』

http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/02/21/%E7%B6%BE%E7%BE%85%E6%9C%A8%E9%83%B73/
http://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/blog/201402/uid000067_201402191624011d9c68d6.jpg

弥生時代前期〜中期の「土笛」の分布域
響灘沿岸部や山陰・京都北部地方に広く分布し、西方の九州では福岡県福津市・
宗像市域を西限としていずれも響灘沿岸部に止まっている

>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。
>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。
>玄界灘沿岸より西側では出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。

その分布範囲は独特な山形重弧文や各種の貝殻文で知られる「綾羅木式土器」の分布圏と
ピッタリ重なっていることが判ります。
九州の響灘沿岸部から山陰の日本海側の弥生文化に共有されていた特有な文物で
独自の儀礼を伴う稲作文化であった可能性も指摘されています。

宗像地方以東は九州北部とは異なる漁労採集が中心の縄文人の文化圏だったようです〜

160 :縄文狼:2015/06/17(水) 09:59:49.47 ID:IT0GSX86.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>159
この■響灘・周防灘人 である『綾羅木式土器文化人』とは

綾羅木郷遺跡で出土した人面土製品からすると
「美豆良(みずら)結いで、顔面に刺青」を施していた!!
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/webhis/2yayoi/02-20/2-20-4.jpg

つまり邪馬台国成立以前、すなわち>>127でいう弥生後期に箱式石棺墓人である
徐福秦人と一緒に到来した東胡、貊(O2b1)がわが列島に分布拡大する以前に
宗像地域以東〜瀬戸内、関西において勢力圏を弥生前期〜中期に確立していた



これこそが魏志倭人伝で「男子は大小となく、皆黥面文身す」と記載された
邪馬台国(大和国)を構成する大和民族の主要民族でしょう〜

161 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 10:31:22.34 ID:rq7HZd0j.net
>>157-158
甲元真之の説によると半島南部と北九州をつなぐルートは3つあった。
@縄文末期には、朝鮮西南部の多海島を半島側の中心拠点として、済州島、五島列島と経由して西北九州と
つながるルートができた。このルートを通じて、支石墓や初期畑作技術が伝えられた。
A弥生時代には、対馬・壱岐を経て九州に至るルートができた。このルートを通じて、水稲農耕技術や金属器が
伝えられた。
Bそして弥生時代後期には、対馬の東海岸から沖の島の近くを通り福岡東部または山口県西部に達するルート
が開拓された。
これはインフラ的なもので当初は遼東貝丘文化人/縄文人によって創られたが、Aになると安曇海人族と言う
大陸系が濃厚になり、Bでは宗像/住吉海人族と言う新しい要素が濃厚になってくる。
河内王朝時代に出現するBルートは、神武説話時代からある摂津-纒向vs河内、円墳方墳の具現化したもの
で、秦氏到来時、山城と共に河内においても秦姓が増加することとも関係すると思う。
この大陸軸の背景は原郷、四川-雲南において既に存在していたものと見る。

162 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 11:00:04.96 ID:rq7HZd0j.net
>>161
匈奴においては興安嶺vsサヤン・アルタイの対立軸となったものは既に雲貴高原において羌vs百越・
哀牢(ダイ)、牧畜vs農耕(稲作)として潜在していた。楚の庄喬がテンに入った後、雲南省楚雄市的萬家覇を中心
に古哀牢国で栄えた青銅器文化は極めて高度な楚国越人石寨山文化にとって代わり、古哀牢国は古テン王国
によって継承されていた。古テン王国の文化は特に東隣の珠江上流の南盤江流域を支配した古夜郎国、その
南の紅河上流を支配した古句町国に伸びたが、古夜郎国からは珠江中・下流地域までに影響した。現代日本
文化における伊勢神宮、神宮林、水分、棚田等の基幹的水稲文化はこうした珠江・紅河、瀾滄江(メコン)の文化
に基因する。他方、水稲文化に特徴的な縦割り主義の欠陥をついて雲貴高原北東部には四川盆地西南蜀の
テイ羌をはじめとする各種牧畜文化人が稲作文化人の政治的支配を狙っていた。

163 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 11:12:44.58 ID:rq7HZd0j.net
>>162 牧畜文化人(素盞嗚命)は、匈奴のような共同体における牧畜民と農耕民の共存共栄を主張したが、
天照大神はこれを真っ向から拒絶、農民専制を主張し、国是とした。これは雲貴高原におけるテン王国の国是
を日本において実行したことによる。

164 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 12:43:44.79 ID:rq7HZd0j.net
>>163 雲貴高原におけるテン王国の国是とは言い過ぎで、実際、テン王国はテイ羌が国王になっている。
嘗羌,羌族,生年不詳,出生在雲南Dian池(今晋寧晋城),昆明青羌Dian王。
嘗羌,懐柔施政,鼓励雲南昆明地区羌人部族以Dian池四周平川為農田,大力発展農業経済,増強国力,
譲族民居安一方。対四隣部族友好相処,不主張武力相併。
公元前122年,漢武帝派使臣王然于,栢始昌等為開辟南方絲紬通商路到印度(身毒国),到達雲南Dian池,
嘗羌王友好接待西漢王廷使臣,併派熟識路径的羌人幇助拓路長達一年之久。
后因昆明羌部族中一部落不許尋径通路,追殺西漢使臣,嘗羌為了整箇族人的和睦,没有反対昆明部落
羌人的反抗,説服西漢使臣別選通道。
http://baike.baidu.com/link?url=32UPE3Ic9odCJ2XrhhHnISiGR--TLKbt4VXFug6RtopT_IyWDg_K_fKDE7MZ4SKvFHoJEUQzdVB-p5XDk7F3U_

165 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 12:56:11.75 ID:rq7HZd0j.net
>>164 昆明羌部族は攘夷政策を堅持し南方シルクロードに接近するものは抹殺するといった強硬な利権亡者
だったようだが、なんだか幕末長州藩の気質に一脈通じる。後漢には別ルートを説得している。

166 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 14:25:52.34 ID:rq7HZd0j.net
>>158
>後期弥生に渡来の徐福百工・千童・鮫射撃手が弁辰・吉野ヶ里から丹後・若狭に
>移動したのであれば、丹後一宮の元伊勢籠神社にみごとに符号します
これらが南下し邪馬台国を建国したが、卑弥呼死後、美濃の狗奴国が政権を奪取、物部を登用し、穢貊の
四道将軍政策を取り、九州の熊襲を征伐にかかる。ところが、
>>164-165
熊襲とは稲作民族、棚田民族である古羌人ハニ族↓ で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%8B%E6%97%8F
秦漢時期は“昆明叟”“ kun1 ming2 sou3 ”と呼ばれた。これは熊襲。昆明が久米直等の久米。後の中国では
ハニ、ワニ等と呼ばれている。上記「嘗羌,羌族,生年不詳,出生在雲南Dian池(今晋寧晋城),昆明青羌Dian王。 」すなわち、前漢時テン国王の嘗羌、
これなどは熊襲が天皇になったようなもの。
>つまり、古墳中期の応神・神功皇后朝は、丹後一宮の元伊勢籠神社の出自で
>三輪朝の一部種族と同族であったということでしょう〜
三輪朝の一部種族と同族っつーか、狗奴国・穢貊に奪われた王権を挽回したっつうことでしょう。

167 :LUNAMASK:2015/06/17(水) 14:41:02.71 ID:rq7HZd0j.net
●呉太白-南呉●山子瑶●昆明叟
O3a2c1 M134 5.20%
O3a2c1a M117 5.20%
いずれの場合であってもその男性遺伝子は上記を含有している筈。

168 :出土地不明:2015/06/17(水) 23:24:16.35 ID:LtmQTgvc.net
>>137


で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

169 :出土地不明:2015/06/17(水) 23:25:11.45 ID:LtmQTgvc.net
>>143
何で一番肝心な部分をカットするんだよ。


9号人骨(熟年男性)は、金関によって渡来的とされた形質の一つである眼窩示数が
81.4であり、山鹿貝塚縄文人の平均値73.9(九大・医・解二1989)、津雲貝塚縄文人の
77.4(池田1988)よりも大きいばかりか、土井ヶ浜(80.1)や金隈(80.2)の値をも
上回っている(図2にアミで示した部分)。

つまり、9号人骨は、低上顔・低身長ではあるものの、眼窩においては必ずしも縄文人的
ではなく、むしろ渡来人的ということができよう。そして、これは、新町遺跡の集団が
在来人のみによって構成されるのではなく、すでに混血による渡来的形質をもっていた
ことを示すものといえよう。
http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/ronbun/91toraijin.pdf


◆Qモードにおけるコンピュータを使った形質解析での土井ヶ浜弥生人骨の形質ポジション

http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg


土井ヶ浜弥生人骨は朝鮮人骨よりもはるかにオロチやギリヤークなどの北方モンゴロイドに
形質が近いが、新町遺跡から出土した北方モンゴロイド形質を帯びた人骨はその土井ヶ浜弥生人骨よりも
さらに上を行く数値なんだが、

それを踏まえた上で、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した
北方モンゴロイド形質を帯びた人骨はどこからやって来たの?

で、彼らがもたらした文物的証拠は?

170 :LUNAMASK:2015/06/18(木) 11:15:49.19 ID:7gKR+DbO.net
>>166 もう一つの仮説:
仲哀は>>161Aルート上に展開された三輪王権の版図拡大の「昔より祖先自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して
寧処にいとまあらず」の国策を貫いていたが、
搬入土器
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%90%AC%E5%85%A5%E5%9C%9F%E5%99%A8&biw=1340&bih=606&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=pgqCVfi9BOa5mAWB4qyoBg&ved=0CAYQ_AUoAQ
纒向地域への搬入土器と国名地名との関係
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1605203/90/49413590/img_1?1257990108
纒向遺跡2周辺プレ都市の九州人と遺跡の範囲
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49413590.htmlこれが@ルート上に吉野ヶ里・徐福彝族によって確立されていた子安貝・ゴホウラ・貝輪本位制度、百済貿易と抵触することとなり、
中国少数民族文化と琉球(沖縄)文化の連続性
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage%2023.htm 
彝族
http://baike.baidu.com/view/2731.htm
貝輪分布
https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B2%9D%E8%BC%AA%E5%88%86%E5%B8%83&biw=1340&bih=606&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=lhGCVZ3gA8z28QW124PYDw&ved=0CAYQ_AUoAQ
民族学伝承拾い上げ辞典
http://germanophobic10.rssing.com/chan-6309980/all_p8.html
北旭台遺跡出土の有鉤銅釧
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note31_1.htm
空気の読めない仲哀が廃され、神功が起った。

171 :LUNAMASK:2015/06/18(木) 11:39:22.50 ID:7gKR+DbO.net
>>170
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage%2023.htm#貝の道
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage%2023.files/image017.jpg
楚雄ターヤオ彝族は久米(昆明)島の先八重島石垣島に到着しているが、これは@ルートで吉野ヶ里に入ったもの
と見られる。Aルート神獣鏡本位制三輪王朝はタカラガイ/ゴホウラ本位制雲貴高原ハニ・彝族世界と衝突したわ
けだ。

172 :縄文狼:2015/06/18(木) 19:42:54.74 ID:wRUfHBIY.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>171
沖縄のアンガマの仮面と、雲南省の楚雄彝族の仮面が、男女別の歯の有無から
口の結び方の違いまで完全一致するとは、否定できない物証ですね〜

北方モンゴロイドである彝族が、貝の道すなわち柳田国男の言うところの海上の道を
通じて渡来したというのは、めぐり巡って何とも不思議な経路です

173 :縄文狼:2015/06/18(木) 20:19:17.58 ID:wRUfHBIY.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>172
失礼〜
>>161の縄文末期に九州北部・吉野ヶ里に渡来した北方モンゴロイドである彝族が
貝の道すなわち柳田国男の言うところの海上の道を北上したのではなく
九州から琉球列島に南下したということになりますでしょうか??

174 :縄文狼:2015/06/18(木) 20:31:53.77 ID:wRUfHBIY.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>161
しかし縄文末期に九州北部・吉野ヶ里に渡来した北方モンゴロイドである彝族が
南方式支石墓文化人だとすると、以下のホムペではその南方式支石墓文化人が
突帯文土器文化人であるとしてますね〜
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou58/kai05802.html

175 :縄文狼:2015/06/18(木) 20:39:32.91 ID:wRUfHBIY.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

とすると
>>169
>それを踏まえた上で、その刻目突帯文土器人にあたる新町遺跡から出土した
>北方モンゴロイド形質を帯びた人骨はどこからやって来たの?



縄文末期に>>171のルートで九州北部に南方式支石墓文化人が渡来したようですね〜



>>169
>で、彼らがもたらした文物的証拠は??

本 当 に

176 :出土地不明:2015/06/19(金) 00:15:20.42 ID:wc40UEJD.net
>>175
それ本気で言ってんのかな?

だとしたら、真剣に知的障害者だと言わざるを得ないね。

だいたい、証拠文物にしているイ族の仮面とやらが九州北部の弥生遺構に
さっぱり伝わってないじゃないの。

それに、アンガマの仮面にしたってだ、弥生開始期の石垣島や沖縄島などの
南西諸島に登場してるのかい?

南方式支石墓って、馬鹿か?

仮に支石墓が南方から伝わったとしてだ、何でそこに入れた副葬品に
南方の文物が一切伝わって無いんだよ?

古代中国では全土に渡り、王であろうが奴隷であろうが、身分に関係なく、
陶鼎が必ず墓に副葬されたんだよ。

日本の支石墓から出土した副葬品のどこに陶鼎があるんだよ?

177 :出土地不明:2015/06/19(金) 00:16:05.18 ID:wc40UEJD.net
それに、新町遺跡の北方モンゴロイド形質の人骨は朝鮮人骨はおろか、
土井ヶ浜弥生人骨よりも更に上を行く北方モンゴロイド形質なんだよ。

そんな南方から渡来した人骨が朝鮮人骨よりも北方モンゴロイド形質が
強いと思うか?

常識で考えて。

松下孝幸は弥生人骨の故郷の候補地は長江以南はありえないと言っているぞ。

178 :LUNAMASK:2015/06/19(金) 10:23:56.20 ID:w+6o+gJI.net
>172-173 吉野ヶ里乃至は馬韓から徐福団員羌戎裔が南下したのでしょう。
>>174 突帯文土器、吉野ヶ里甕棺・及び遼東・韓国南方支石墓はO2b1当地古人以捕魚採貝為生業
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%A3%E6%AD%B7%E5%8F%B2
沿海州シデミでしょう。このO2b1その後日本ではD2に次ぐ人口増を見せますが、おそらくは半島、
列島でブリャート/ツングース系C3の配偶者mtDNAを寝取ったものと見られます。

179 :LUNAMASK:2015/06/19(金) 12:26:09.32 ID:w+6o+gJI.net
>>174
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
突帯文土器と支石墓 伊東義彰
紀元前一六〇〇年頃、遼東半島(遼寧省)から吉林省南部の地域に出現した支石墓は、紀元前
七〜八世紀ごろまで造り続けられたとされています。中国で「石棚」と呼ばれている支石墓は、
地上に板石で四角い石室のような構造物を造り、その上に大きな石を載せたテーブル状の形をして
います。地上に高く巨石が聳え、それをささえるように板石で箱形の墓室が築かれています。
西ヨーロッパのドルメンとよく似た形をしており、築造後も出入りできる構造で、複数の人を順次埋葬
できるようになっています。
 紀元前一〇世紀ごろに、このテーブル形の支石墓が朝鮮半島に伝播し、紀元前三世紀ごろまで
造り続けられますが、半島を南下するにつれて構造や形状に変化が現れます。
 平壌付近の大同江流域には約一五〇〇〇基の支石墓があると言われており、ここの支石墓は
遼寧省と同じテーブル形のもので「北方式」と呼ばれています。
 西南部の全羅道を中心とする半島南部には、碁盤形・蓋石形といわれる「南方式」支石墓が二万
数千基あまり集中しており、北部九州に伝わったのはこの「南方式」です。「南方式」支石墓は埋葬
施設が地下に設置され、地表には石が置かれるだけのもので、埋葬後出入りすることができず、
原則として一人しか埋葬できません。
南へ伝播する過程で構造変化を起こした、とされています。
 ヨーロッパのドルメンも農耕との深い関係を指摘されていますが、東アジアの支石墓も農耕の
伝播と無関係ではなく、朝鮮半島への伝播は同時に水稲農耕を伴ったとされています。同じことは
日本列島についても言えるわけで、支石墓という墓制を持った人々が水稲農耕とともに、弥生早期・
紀元前五世紀初めごろに北部九州へ
伝えたものとされています。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

180 :LUNAMASK:2015/06/19(金) 12:26:36.52 ID:w+6o+gJI.net
>>179
これについては中国も
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
前1500年~前1000年 
相土従今遼東一帯移居河南商丘,開辟了蓬莱至大連航線。至帝辛時期,大連地区社会已転化為
方国,以双陀子遺址為例,該地区已深受山東岳石文化影響。商末時期,遼東半島出現大量石棚,
併出現大量墓葬器具,其中反映当地古人以捕魚採貝為生業,併逐歩転為農耕与畜牧業等。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
つまり、まず山東から岳石文化の移動があり、これをうけて現地遼東貝塚漁労民が支石墓文化に
よって農耕民化する・・・と言うプロセスがあるが、箕子朝鮮伝説と軌を一にしているとみられます。
日本で横行する日ユ同祖論の源流、支石墓の盛行した中東から華北に民族移動があったと思い
ます。
ロシア考古学によりドナウ方面からカザフスタンに突帯文土器文化が急速に移動している事実が
あります。

181 :LUNAMASK:2015/06/19(金) 12:53:01.97 ID:w+6o+gJI.net
>>173
水口他2007に基ずくYDNA %の推定原民族
西日本 沖縄
O2b* 9.3 3.4 貊
O2b1 26.8 19.5 安曇
---------------------------------
N/O 1 2.3 夜郎布依
O1* 4.1 1.2 テン越
O2a* 1 1.2 句町ダイ
O3LINE1del/M159 5.2 4   テン越(畭)
O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗)
O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗)
O3e*/M134 5.2 2.3 昆明叟(青羌)  
O3e1*/M117 5.2 2.3 昆明叟(青羌) 
上記は先ず吉野ヶ里で成立した突帯文土器裔安曇を中心とする民族が沖縄、西日本と分岐して
移動した結果であることを示しています。

182 :LUNAMASK:2015/06/19(金) 13:28:00.48 ID:w+6o+gJI.net
>>181
しかし、
O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗)
O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗)
の来朝は早くとも河内王朝以後、基本的には継体朝と見られるため、吉野ヶ里が初めから
一気通貫でテンパイしていたわけではなく、ペンちゃん状態であったが、恐らく継体朝で満貫テ
ンパイし、奈良朝以降に沖縄に移動するのではなかろうか。

183 :出土地不明:2015/06/20(土) 15:10:41.17 ID:p3+AvyuM.net
>>137


で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?

.

184 :出土地不明:2015/06/20(土) 15:56:43.31 ID:p3+AvyuM.net
>>179
>支石墓という墓制を持った人々が水稲農耕とともに、弥生早期・ 紀元前五世紀初めごろに
>北部九州へ伝えた



じゃあ何でその水稲農耕とともに支石墓という墓制を伝えた人々は朝鮮土器を作らなかったの?

おかしいだろが。

文化や文物が伝わっても、渡来人があったとは限らないんだぜ。

こちらから積極的に出向いて文化や文物を輸入する逆渡来だって相当あったんだぜ。

185 :出土地不明:2015/06/20(土) 16:14:21.00 ID:p3+AvyuM.net
>>181
で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

186 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 11:34:22.33 ID:l9XCrTs0.net
まず、秦西南夷を考えると
前漢末
●肥後大隅薩摩蜀人 政治経済・経営管理→豊前→大和/山城 ニニギ・神武
王子遺跡棟持柱建物跡
http://www.osumi.or.jp/sakata/ise/ouziiise.html
玉壁
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/Gyokuheki/Gyokuheki.htm
●筑前百越夜郎 百工 青銅器/竹細工他→出雲/越前/吉備
六世紀末
●筑後肥前巴人 武人 丹生都比賣・射楯兵主→紀州
匈奴とその後に形成される突厥等に足を引っ張られ、渡来には約6世紀の時間差があるものの
徐福・始皇帝・巴寡婦清の時代に、巴のBo族による五尺道開削とこれにインヴォルヴされた
霊関道の青羌、後の益州のテンエツは継体朝には歴史的再会を果たした。

187 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 11:50:14.52 ID:l9XCrTs0.net
穢貊,粛慎,東胡被称為古東北三大民族。 穢貊,粛慎,東胡は古東北三大民族と呼ばれる。
中文wiki英文wikiで比定をして行くとO2b貊、O2b1粛慎、C3/C3c東胡となる。中文資料では穢は
O3となる。ロシア・豪州資料では吉林・沿海州は縄文となり、総合するとO2b1が貝丘人、つまり、
突帯文土器人であり、粛慎は北方系C3/C3Cが優勢であることが見て取れる。

188 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 12:56:43.87 ID:l9XCrTs0.net
楽浪郡では前85年-紀元71年の156年間、四川省製漆器を使用している。後漢光武帝は
紀元30年楽浪郡を接収、嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。
紀元37年高句麗大武神王は鴨緑江南部の楽浪郡地方に進攻,一度占拠したが、七年后、光武帝は
渡海派兵し、楽浪の地を回復、高句麗の拡張を阻止した。
《后漢書・光武帝本紀》、《后漢書・東夷伝》中記有の記述では漢光武帝“建武中元二年(公元57年)、
倭奴国奉貢朝賀、使人は大夫と自称、光武は印緩を賜した。”とある。
「かし、1956年、雲南省王墓の中から「テン王の印」金印が出土し、「漢委奴国王」に一人の「兄弟」が
いたこととなり、これら金印が本物で、あることが立証された。漢武帝劉徹が前109年テン王嘗羌に
下付した金印は純金鋳造であり、印体方形、2.3CM角、高さ2.2CM、蛇紐、篆体字陰刻であった。
刻印された「テン王の印」の四文字が日本出土の「漢委奴国王」と異なる点を除くとその他は、
外観はおろか、尺寸、字体形状等、更には質の均一性等、日本出土ものと全く同等であった。
その後、中国文化大革命の期間中に江蘇省揚州市漢墓附近から又しても金印が一個出土し
たがこれが「広陵王璽」だ。「広陵王璽」と「漢委奴国王」金印は形状が相似、字体から文字の
彫り方まで、光武帝が日本委奴国に下付した金印とほぼ同一で、微妙に異なる点は
「漢委奴国王」が蛇紐なのに対して、広陵王璽が亀紐という点であるが、しかしながら、
この二つは高さとか、辺長及び重量においてほとんど差はなく、これら二個の金印は
親戚関系にあるのではないかと推測されている。
http://www.douban.com/group/topic/3049392/
テン王嘗羌は青羌であり、昆明、叟族も同様とされる。
叟族,納西族故称,春秋戦国時,叟人建立蜀国。
http://baike.baidu.com/link?url=Kl7vNzQSuxCW3YEvJomY9jnJs_ULBBsrbs9RofCd2Vr2jlX4WO64xAUmAVlw0AEKAHIcopoS9L7dglTWLCoO1_
で、日本では大隅に曽於国がある。
倭奴国王はニニギ系曽於人で、テン王嘗羌の直系であったことを光武帝は承知して
いたのだろうか。

189 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 13:42:41.37 ID:l9XCrTs0.net
後に邪馬台国の直前、画文帯神獣鏡を伴って纒向に入り、ホケノヤマ等の古墳群を興す
楽浪積石塚文化人の先祖は前漢時代から穢人として漢朝から夫租穢君の銀印等を受け
たことはあるものの、倭奴国金印は是と比すると破格の待遇だ。ギョっとはするが偶然、
高句麗の台頭に合従連衡的感覚を抱いた漢朝の政策がそうさせたのだろうか。

190 :出土地不明:2015/06/21(日) 15:43:57.33 ID:nxEhikzL.net
>>174
支石墓からは縄文系の骨が出るんだけどね。

191 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 16:45:17.93 ID:l9XCrTs0.net
>>185 で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという
    証拠は?・・・どうもこれはワ族、白族のようだ。ごめんね。
    ワ族はビルマ寄り。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E6%97%8F
    白族は神武后のような伝承あり、ひょっとして皇族かな。
    白族最早的文化族源是九隆伝説。這箇伝説認為白族的先祖是哀牢山一箇叫沙壱的聖母。沙壱在水裏並到一根沈木而懐孕,生下10箇孩子,其中一箇孩子叫九隆,其后代就是白族人。所以明代保留下来的白族墓碑上常刻有“九隆族”的字様。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BC%E6%97%8F

192 :LUNAMASK:2015/06/21(日) 16:51:49.57 ID:l9XCrTs0.net
>>185
>で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?
  これは現代の土家苗であることに間違いはないが、古代の板楯蛮はテイ羌の一種
  であって土家苗ではないらしい。これまたごめんね。

193 :LUNAMASK:2015/06/22(月) 11:25:31.12 ID:6rLiyKmv.net
>>191
琅邪-済州島-五島列島-甑島と来て、久米/熊/球磨/久万-昆明、曽於-叟、姶良-哀牢、
宇和/阿波/安房-アワ・・・
ホトタタラ・ヒメタタラの白族は姶良から油津、大三島、摂津三島溝咋、三輪山(サイ川)へ
と移動したのであろう。

194 :LUNAMASK:2015/06/22(月) 11:48:44.71 ID:6rLiyKmv.net
久米歌と言うのは姶良のよかおごじょが球磨のよかにせに贈ったラブソング集から
選んだのだろうか。

195 :LUNAMASK:2015/06/22(月) 12:17:13.48 ID:6rLiyKmv.net
>>194 しかし 「みつみつし 久米の子等が 垣下に 植ゑし椒 口ひひく 吾は忘れじ 
    撃ちてし止まむ」・・・ここで言う椒(枸醤)と久米の子の関係は蜀人と枸醤の
    関係を謳ったもので、この歌は少なくとも久米(昆明)兵との連帯を謳っており、
    ペー族に限定されるとは解釈できない。久米歌は久米族の歌か。

196 :LUNAMASK:2015/06/22(月) 14:41:56.69 ID:6rLiyKmv.net
>186 玉壁
《后漢書巻八十五・東夷列伝第七十五・倭》建武中元二年,倭奴国奉貢朝賀,使人自称
大夫,倭国之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭国王帥升等献生口百六十人,
願請見。
「倭国之極南界也」・・・前回は金印を出したが、中国の極南界である南越国には玉璧を
出している。帥升にも玉璧を出そう。・・・と言うことになったのではなかろうか。しかし、
これに対し大量の銅鏡を期待していた博多湾の海幸・安曇は山幸大隅帥升に対し戦闘
の火ぶたを切り、倭国は大乱に突入したと言うことではなかろうか。

197 :LUNAMASK:2015/06/22(月) 15:01:50.55 ID:6rLiyKmv.net
>>196 倭国の大乱を平定するために画文帯神獣鏡を持つ楽浪の残留徐福「阿残」を
豊葦原瑞穂国(東瀬戸内海沿岸)に派遣する決定をする司令塔・高天原はやはり
伽耶山麓高霊近辺か。

198 :縄文狼:2015/06/22(月) 20:06:10.97 ID:qglJjfsu.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>197
yahoo掲示板からのコピペ〜

【辰韓・楽浪、徐福末裔説】
「辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、
馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。」
・・・辰韓は徐福の子孫の国。

「楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、
楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。」
・・・楽浪も徐福の子孫の国。この楽浪人が卑弥呼時代に纒向に入る。

199 :縄文狼:2015/06/22(月) 20:10:33.98 ID:qglJjfsu.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>197
yahoo掲示板からのコピペ〜2

【先鋒としんがり】
ただし、吉備、阿讃播、纒向に入る木槨積石塚については、
ホケノヤマ、鳴門萩原出土の画文帯神獣鏡が楽浪出土と同ハンであること、
呉の鋳造技術があることなどから、秦韓の中華系亡民が阿残と称する
同胞である可能性が強く、共に徐福の成員とみて差し支えない。
このことは近畿の銅鐸が弥生後期からデザインにおいて石寨山・越系のカラーを
強めることと併せて考えると、弥生後期初めに秦韓・北部九州からの
徐福系工人の流入があったのに続いて
弥生終末に楽浪から残留徐福系亡民の渡来があった考えたほうがいいのかもしれない。


永年ずっとブレませんね〜

本 当 に

200 :縄文狼:2015/06/22(月) 20:20:18.68 ID:qglJjfsu.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>199
ところで秦韓(辰韓)の中華系亡民が「阿残」と称し、楽浪人も「阿残」を称する
のであれば
画文帯神獣鏡を伴って阿波徳島・纒向に入り、ホケノヤマ等の古墳群を興した
楽浪積石塚文化人の先祖は石寨山・越系ではあっても、>>189でいうところの
半島の穢人であることは絶対にないでしょう〜

201 :縄文狼:2015/06/22(月) 20:39:14.03 ID:qglJjfsu.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>189
このスレタイにある「銅剣・銅鏡文化」に基づいて判定するならば
江原道・東ワイ(穢)国においてわが列島と同様の、画文帯同向式神獣鏡の集中的な出土が
まったくみられない以上

わが大和民族と、江原道の東ワイ(穢)人とは一切関係ないと結論づけざるを得ないでしょう

202 :出土地不明:2015/06/22(月) 21:16:21.92 ID:TsLp6ujS.net
>>186
で、その棟持柱建物が蜀から伝わったという決定的証拠はあるかい?

で、仮にその棟持柱建物が蜀から伝わったとしてだ、何でもっと生活に密着した
中国土器の器種や器形の一つでも伝えなかったんだ?

で、その玉璧が楽浪文物じゃないという証拠は?

で、筑前に百越夜郎が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

で、筑後肥前に巴人が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

203 :出土地不明:2015/06/22(月) 21:48:07.00 ID:TsLp6ujS.net
>>188
で、倭奴国王がテン王嘗羌の直系だという証拠は?

>>189
で、ホケノヤマ等の古墳群を興すとおまえが勝手に決め付けている楽浪積石塚文化人は
何で朝鮮陶質土器を作らなかったんだ?

>>191
で、西日本沖縄にワ族、白族が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

>>192
で、西日本沖縄に板楯蛮が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

>>193
で、琅邪が済州島に渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

204 :出土地不明:2015/06/22(月) 22:08:39.35 ID:TsLp6ujS.net
>>195
で、椒(枸醤)と久米の子の関係は蜀人と枸醤の関係を謳ったものだと
どこの学者が言ってるの?

その学者名とその所属団体は?


>>196
で、その玉壁が後漢から下賜されたものだという証拠はあるの?


>>197
その前に徐福が半島に渡来したという半島の証拠遺跡とその証拠文物は?

205 :出土地不明:2015/06/22(月) 23:16:02.62 ID:TsLp6ujS.net
>>198
あくまで自称ですよ。自称。

BC3C末の事柄を1C以降に自称しているんですよ。

少しはおかしいとは思いませんか?

古老は秦の逃亡者って、そんな3百年以上も生きてるなんてキョンシーかww

卑弥呼時代に楽浪人が纒向に入ってたら、漢字も伝わるし、古代中国服飾も伝わるし、
金銀細工も伝わるし、朝鮮陶質土器(須恵器)の登場だって100年以上早まってるだろうよ。

もし銅鐸のデザインに徐福系工人が絡んでいたら、銅鐸に神獣や龍が泳ぎまくってるだろ(嘲笑

206 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 10:58:58.06 ID:etVo7WHH.net
@神武は倭の極南界、日向を出て、瀬戸内海を掌握、大和に移住した。
A神武は紀伊半島を縦走し、近畿・東海をおさめたことを示した。
B神武は天香具山の埴土の独占権を取得した。
C神武は近畿地元最高豪族・摂津三島溝咋の娘を皇妃とした。
神武が存在するかしないかは別として、これらは纒向新都と大和庄内土器の
起源を謳っているのは事実だ。
久米歌から見ると神武は久米、昆明(蜀系羌族)で、溝咋は水杭懐胎伝承を持つペー族。
神婚はやらせだね。
土器編年からすれば神武は卑弥呼と同期となる。

207 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 11:37:22.89 ID:etVo7WHH.net
銅鏡をフォーカスすると、
日本書紀第九段一書(一)まさに降ろうとしていた時に皇孫すでに生(あ)れき。
名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉・
八咫鏡及び草薙剣(天叢雲剣)の三種宝物(みくさのたから)を賜う(授けた)。併せて
五部(いつとものお)の神を配(そ)えて侍(はべら)しむ(従わせた);その中に、
石凝姥命(いしこりどめ)・鏡作(かがみつくり)の上祖。・・・
このニニギを想定外とする記述こそ
>>203 >で、ホケノヤマ等の古墳群を興すとおまえが勝手に決め付けている楽浪
積石塚文化人は
>何で朝鮮陶質土器を作らなかったんだ?
楽浪積石塚文化人ということになる。何で朝鮮陶質土器を持って来なかったんだ?
朝鮮陶質土器系統は須恵器として応神朝になる。重要な点だが、楽浪積石塚文化人は
低温焼成の土師器しか持って来ず、高温焼成の須恵器はお預けにしたということだ。
お預けになったというべきか。

208 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 12:42:20.69 ID:etVo7WHH.net
>>202 >で、その棟持柱建物が蜀から伝わったという決定的証拠はあるかい?
このスレで以前に言及したと思うが棟持柱建物は古テン王国貯貝器の蓋の部分にしか
出てこない。蜀はおろか、中国全土、日本を除くその他の世界にも存在していない。
だから、日本に棟持柱があるということは古テン王国からの移民があったという必要十分
条件なんだ。

209 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 12:53:28.94 ID:etVo7WHH.net
>>202 >で、その玉璧が楽浪文物じゃないという証拠は?
>>204 >で、その玉壁が後漢から下賜されたものだという証拠はあるの?
「璧のパターンは時代が下るにつれ複雑化しており、王の山のものは漢代の璧に酷似し
ている。同時代とみて問題ない。形式が定められていたらしく、他にも類似の獣文を持つ
漢代の璧が出土してる。
王の山古墳出土の璧は、右写真の南越王の玉璧とパターンが酷似しているが、より大き
く、渦巻き文の内側にもう一つ獣文が入って、格上と考えられる。南越王のものにはいく
つかあって、33.4cmで獣文、穀文、獣文を並べ、王の山の璧と同レベルのものもある。」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/Gyokuheki/Gyokuheki.htm

210 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 13:08:52.29 ID:etVo7WHH.net
>で、西日本沖縄にワ族、白族が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
で、[どこそこに]に[なになに]が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
これに逐次返していたら、俺、連投のアラシでアウチになっちゃうよ(w あんまり質問
すんなよな(w
基本的に中国の最新YDNAハプログループ民族仕訳情報と日本のYDNAハプログループ(w地域分布
を中国古代史・日本考古学に基づいてすり合わせてるんだ。
例えば>>203 ワ族、白族
http://blog.sina.com.cn/s/blog_7eb83c9601010mlf.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


211 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 14:41:04.09 ID:etVo7WHH.net
>>205
>卑弥呼時代に楽浪人が纒向に入ってたら、漢字も伝わるし、古代中国服飾も伝わるし、
「布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土しており」・・・という話もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E7%B7%A8%E5%B9%B4
窯の一つぐらいは作ったのかなー。しかし神武は手による整形のパフォーマンス程度
しかしなかったようだね。

212 :LUNAMASK:2015/06/23(火) 17:11:56.44 ID:etVo7WHH.net
>>200-201
前漢末“夫租Hui4君”は楽浪にあったがHui4族は楽浪東部日本海沿岸にあり、Wei4族
文化を内涵していた。
諸書清楚記明Hui4族的地域,略当高句驪、沃沮之南 ,辰韓之北,東浜大海,西至
楽浪,在今天的清川江与漢江之間的東部,即日本海、東朝鮮湾的咸興至江陵一帯,
亦即朝鮮中部偏東地区。
暦史文献多処的、確鑿的、記録的Hui4族位置,我国研究東北考古与暦史諸家,
当不可忽視。総之,因為“夫租Hui4君”銀印的発現,証実了Wei4族的物質文化内涵,
同時対于Wei4族的官制和暦史及其地理位置,也提供了新的依拠。
http://www.ranhaer.com/viewthread.php?tid=17789

213 :出土地不明:2015/06/24(水) 00:57:31.26 ID:gOEq48nw.net
>>206
で、昆明(蜀系羌族)が渡来した証拠遺跡とその証拠文物は?

で、ペー族が渡来した証拠遺跡とその証拠文物は?


>>207
土師器=古墳期以降の弥生土器。土師器は弥生土器そのものだぞ。

そのまま古墳期に入った弥生土器を単に土師器と呼んでいるだけだ。

楽浪土器には高温焼成の楽浪瓦質土器と後に登場した更に高温焼成の
朝鮮陶質土器しか無い。

それに古墳期の半島からの帰化人の定着があったところには必ず
朝鮮陶質土器の焼成痕が残っている。

で、何で楽浪人は楽浪土器を作る事をお預けにしたんだ?

お預けにしたその理由は?

214 :出土地不明:2015/06/24(水) 01:24:53.91 ID:gOEq48nw.net
>>208
棟持柱が日本で独自に発生したとも十分に考えられる。

だいたい古テン王国からやって来ておいてだ、何でその貯貝器や銅鼓自体を
伝えんのだ?


>>209
じゃあ、楽浪文物で全然問題ないじゃないのw


>>210
自分で公衆に向けて発言した事だろうが。

だったら自分の発言に責任を持てよ。

そんなハプロタイプなんか誰も聞いてないぞ。

ワ族、白族が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物を聞いているんだぞ。

西日本沖縄にワ族、白族が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

215 :出土地不明:2015/06/24(水) 01:31:00.41 ID:gOEq48nw.net
>>206-212
で、仮にその棟持柱建物が蜀から伝わったとしてだ、何でもっと生活に密着した
中国土器の器種や器形の一つでも伝えなかったんだ?

で、筑前に百越夜郎が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

で、筑後肥前に巴人が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

で、西日本沖縄に板楯蛮が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

で、琅邪が済州島に渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?

で、椒(枸醤)と久米の子の関係は蜀人と枸醤の関係を謳ったものだと
どこの学者が言ってるの?

その学者名とその所属団体は?

で、徐福が半島に渡来したという半島の証拠遺跡とその証拠文物は?

216 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 10:24:21.25 ID:Fze9GLn/.net
>>213 >で、何で楽浪人は楽浪土器を作る事をお預けにしたんだ?
お預けにしたその理由は?
「この事実により楽浪出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製され
たことが明白となり、更に3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接に関わっているこ
とをも強く示唆するものとして注目に値するといえます。」
http://ketsuyukai.digi2.jp/shiten3yamatai.htm
纒向・阿讃播の積石塚はその首長が楽浪に墳墓を営む、Hui4に内函されるWei4族で
あった。>>213
他方、「紀元前108年,漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、その故地である朝鮮半島北部・
大同江流域を中心に現地支配機構として4郡を建てた。楽浪郡以外の3郡は、いずれも
廃止・移転し、紀元前1世紀前葉には楽浪郡に他郡の属県も編入され大郡となった
(大楽浪郡時代)。現在の平壌地域では、楽浪郡の遺跡である古墳や土城が数多く調査
されており、その実態はある程度研究されているが、それによると、楽浪郡には漢文化が
移植され、その中に在地の文化も取り込まれた。土器においては、漢代の灰陶の流れを
汲む還元焔焼成の楽浪瓦質土器と、在地土器(古朝鮮土器)の流れを汲む滑石混和
土器がみられる。」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html
つまり、纒向に入ったのはポリツェ文化Wei4族。
お預けにしたその理由は? 漢系楽浪人ではなく外バイカル、アムール中流、沿海州と
移動する武闘民族であったからではないか。

217 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 10:36:01.83 ID:Fze9GLn/.net
>>214 >>209
>じゃあ、楽浪文物で全然問題ないじゃないのw
楽浪郡は後漢朝廷の出先機関、後漢末には遼東公孫氏により乗っ取られるが、189年、
公孫度が遼東太守となる以前の帥升の頃はまだ洛陽に直結していた。当時中国全土で
こんなに緻密・精巧な玉璧が作れるのは洛陽おいてない。

218 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 10:39:32.18 ID:Fze9GLn/.net
>>216 >>213 は >>212丹訂正。
総之,因為“夫租Hui4君”銀印的発現,証実了Wei4族的物質文化内涵,
同時対于Wei4族的官制和暦史及其地理位置,也提供了新的依拠。
http://www.ranhaer.com/viewthread.php?tid=17789

219 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 10:51:12.05 ID:Fze9GLn/.net
>>215
>で、椒(枸醤)と久米の子の関係は蜀人と枸醤の関係を謳ったものだと
>どこの学者が言ってるの?その学者名とその所属団体は?
東漢人劉徳注《漢書》称:“枸樹如桑,其椹長二三寸(雄花蕊),味酢。取其実
(雌株聚花果)以為醤,美。蜀人以為珍味。” 古代北方称構樹楮、南方称為枸。
《史記・西南夷列伝》載“唐蒙出使南越,食蜀枸醤,蒙問所従来,曰:‘道西北荘柯,
荘柯江広数裏,臨荘柯江,出番禺城下,夜郎者,臨荘柯江”
http://baike.baidu.com/link?url=szhNdwnfMBDEvdnOoHnD8r4xQ5H-ZsAUd6Y_4TAI57_EsNNl0NR_UpJSDL6olYmK

220 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 13:22:31.07 ID:Fze9GLn/.net
>>213 >>206
>で、昆明(蜀系羌族)が渡来した証拠遺跡とその証拠文物は?
神武の久米歌
>で、ペー族が渡来した証拠遺跡とその証拠文物は?
西都原前傾高床住居-これはスマトラ西部にO3021354*/P201と共に多い↓
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4b-43/hopi519/folder/1799281/18/60797718/img_0?1339302430
>>214 >>208
>棟持柱が日本で独自に発生したとも十分に考えられる。
日本以外にはテン王国貯貝器を除いてない。
>だいたい古テン王国からやって来ておいてだ、何でその貯貝器や銅鼓自体を
>伝えんのだ?
貯貝器同様に機能は「志高遺跡出土の双耳壺」がある。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J116.pdf
>>210
>自分で公衆に向けて発言した事だろうが。
>だったら自分の発言に責任を持てよ。・・・書き込み回数8回でアウトなんだよ。
>そんなハプロタイプなんか誰も聞いてないぞ。
O3021354*/P201 西日本・沖縄の主力中国系YDNAの一つ。
>ワ族、白族が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物を聞いているんだぞ。
ペー族は都都逸を詠む慣習を持つ。
http://www.ne.jp/asahi/syouken/yuyu/travel-1/china/kisyu1.htm
阿波族、安房族は首狩り族であると同時に日本では麻などの殖産民族だった。
>>215 >>206-212
>で、仮にその棟持柱建物が蜀から伝わったとしてだ、何でもっと生活に密着した
>中国土器の器種や器形の一つでも伝えなかったんだ?
中国系ではなくオーストロネシアン系。
>で、筑前に百越夜郎が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
竹の付く地名。
>で、筑後肥前に巴人が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
装飾古墳。
>で、西日本沖縄に板楯蛮が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
西日本は射楯兵主、丹生都比賣神社。沖縄はYDNA O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
>で、琅邪が済州島に渡来したという証拠遺跡とその証拠文物は?
琅邪は揚子江下流の古代地名、済州島は
 http://www.geocities.jp/horuhorushiho/tusin4.htm

221 :LUNAMASK:2015/06/24(水) 14:38:43.25 ID:Fze9GLn/.net
>>214 >>208
>だいたい古テン王国からやって来ておいてだ、何でその貯貝器や銅鼓自体を
>伝えんのだ?
銅鼓:
「万家覇型銅鼓;大約在公元前八世紀,即春秋時代早期(以雲南楚雄県万家覇古墓群
出土銅鼓為代表而得名)。」
「銅鐸の幾何学文の意匠は, 四川・雲南の青銅器との共通性が多く,銅鼓とはそれほど
強い結び付きはないということが判明した。」弥生時代の銅鐸の文様の源流について 
末房由美子
つまり、日本に渡来したのは万家覇型銅鼓の職人ではなく、石寨山文化の職人だったの
だ。

222 :出土地不明:2015/06/24(水) 20:08:36.60 ID:HbA2R9jI.net
>>216
全然自然な理由なっていない。

そんなもの使節団が楽浪を観光して鏡をもらってくれば全て済む話だろうが。

で、その鏡を踏み返しコピーして、楽浪の積石塚を纏向で見たまま再現しただけ
の話だろうが。


>>217
だったらなおさら洛陽から楽浪に搬入された品を楽浪で調達すれば良いだけじゃないの。

>>219
で、そのリンクのどこに椒(枸醤)と久米の子の関係は蜀人と枸醤の関係を謳ったものだと
書いてあんの?

223 :出土地不明:2015/06/24(水) 20:33:43.34 ID:HbA2R9jI.net
>>220
神武の久米歌のどこが証拠遺跡とその証拠文物なんだよ?

昆明(蜀系羌族)が渡来した証拠遺跡とその証拠文物を聞いているんだぞ。

昆明(蜀系羌族)が渡来した証拠遺跡とその証拠文物は?


>>220
高床式倉庫は九州北部の弥生遺構にそれが伝わる弥生前期よりも前の
半島の古代遺構にも既にあったんだから、高床式倉庫だけなら証拠には
ならんな。

土器や石器や農具の諸技術が導入されている半島から高床式倉庫も
九州北部に導入されたと言えてしまうだろ。

それに双耳壺という器種も朝鮮無文土器にあったんだから、
それが古テン王国からやって来た根拠にはならんね。

それに日本に都都逸が登場するのは江戸期だぞ。

馬鹿かおまえは。

224 :出土地不明:2015/06/24(水) 20:54:13.07 ID:HbA2R9jI.net
>>220
馬鹿だろおまえ。

例えば鼎という器種一つ採ってみても中国だけじゃないんだぞ。

タイ、ベトナム、カンボジアなどのインドシナ半島全域の紀元前20C以前の
古代遺跡から出土するんだぞ。

中国系だろうがオーストロネシアン系だろうが関係ねえんだバカヤロウ!

で、筑前に百越夜郎が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物が竹の付く地名???

で、筑後肥前に巴人が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物が装飾古墳???

で、西日本沖縄に板楯蛮が渡来したという証拠遺跡とその証拠文物が射楯兵主、丹生都比賣神社???

で、琅邪が済州島に渡来したという証拠遺跡とその証拠文物が琅邪は揚子江下流の古代地名、済州島は???

何なんだそれは???

全然質問に対する答えになってないじゃないか。

225 :出土地不明:2015/06/24(水) 21:07:57.24 ID:HbA2R9jI.net
>>221
じゃあ何で四川・雲南の青銅器の器種の一つも伝えんのだ?

石寨山文化の職人なら何で金メッキを伝えん?

何で馬や水牛の青銅器オブジェを伝えん?

何で帯玉を伝えん?

http://www.geocities.jp/silkroad_tanken/katsudou_tp16/others/shishido_seinan_silkroad/shishido_seinan_2/shishido_seinan_silkroad_2_.html

全部おまえに都合の良い妄想と創作マスターベーションじゃないか。

226 :出土地不明:2015/06/24(水) 21:13:02.01 ID:HbA2R9jI.net
全然あかん。あきません

納得できる解答を得られるまで永遠に聞き直しだ。

恨むなら俺をココに連れてきたわぉーを恨めよ。



>>216-221
で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

227 :出土地不明:2015/06/25(木) 03:05:07.33 ID:q+0P8H4I.net
いい加減にしろよ中国大陸が混血の集合体だっつうの琉球で基地外化しとらんわ
連中がまともにコア血統を維持出来た集団なら

228 :縄文狼:2015/06/26(金) 00:59:09.10 ID:2GRyMYvm.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>186
>まず、秦西南夷を考えると

>前漢末
●肥後大隅薩摩蜀人 政治経済・経営管理→豊前→大和/山城 ニニギ・神武
王子遺跡棟持柱建物跡

>六世紀末
●筑後肥前巴人 武人 丹生都比賣・射楯兵主→紀州

>渡来には約6世紀の時間差があるものの
徐福・始皇帝・巴寡婦清の時代、霊関道の青羌

後の益州のテンエツは継体朝には歴史的再会を果たした。


何度も指摘しておりますが、わが列島で再会を果たした
秦氏が徐福の孫なりというわけですね〜

229 :縄文狼:2015/06/26(金) 01:06:21.42 ID:2GRyMYvm.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>186
しかしながら、前漢末に古蜀人である徐福集団が棟持柱高床式太陽神殿を
もたらしたとするならば
江原道・東ワイ(穢)国においてわが列島と同様の、棟持柱高床式太陽神殿の
集中的な分布がまったくみられない以上

わが大和民族と、江原道の東ワイ(穢)人とは一切関係ないと結論づけざるを
得ないでしょう

230 :出土地不明:2015/06/26(金) 02:15:14.56 ID:ES5bgPMA.net
>>137



で、吉野ヶ里の段々畑(水田?)が羌から伝わったという証拠は?

で、高床式倉庫か住居が越から伝わったという証拠は?

で、牛頭天王とか色々文化的なものが苗から伝わったという証拠は?


.

231 :出土地不明:2015/06/26(金) 02:28:03.77 ID:ES5bgPMA.net
>>228
で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその文物は?


>>229
で、徐福集団が半島に伝えた半島における棟持柱高床式の証拠は?

232 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 11:09:23.60 ID:XDye9pZB.net
>>228 そうですね。
>>229 そうですね。逆に、棟持柱式神殿は日本にのみしか来ていない。つまり、満蒙
    朝鮮には足を延ばしていないと言えますね。おそらく最初は吉野ヶ里、そして
    その影響がそれが近畿に移動した遺跡とか、その後に渡来する王子遺跡
    に影響したんでしょう。これは皇統系統だと思います。

233 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 11:44:38.58 ID:XDye9pZB.net
日本神話から東胡/三貴神、アルタイ貊/鴨、太陽鹿を除くと;
@哀牢  九隆→三島溝咋
Aテン越 布洛陀鳥神/飛鳥 禹祭・安集鳥田之瑞/越王入呉時,有鳥夾王而飛,以為瑞也,因築鳥台
B畭瑶  盤瓠→ニニギ/金時
C夜郎  竹トーテム→竹取/桃太郎
D南越  密洛陀→箸墓
上記の5系統の神話群が残る。皇祖系統に関与するのはダイ族と瑶族の@B。

234 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 12:01:11.93 ID:XDye9pZB.net
安本美典氏によって解明された甘木朝倉と大和の地名類似は越人「飛鳥」国の具現化し
たもの。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1569408/44/54775444/img_0?1346329438
邪馬台国東遷論は越人東遷を表す。宇奈提とは鳥台のことで国王を挟んで飛来した
鳳凰(丹鳥)が到着したタラップのことなのだ。

235 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 13:41:23.77 ID:XDye9pZB.net
>>232
「盛土内から多数の木棺が出土した大阪の加美遺跡は,楽浪墳墓の影響を受けていると
もいわれていますが,吉野ヶ里墳丘墓より少し後のものです.これらのことから,中国の
築造技術の吉野ヶ里への伝播(でんぱ)は,朝鮮半島経由はあり得ない,と考えるのです.
もちろん,当時の北部九州と朝鮮半島との文化や技術など,さまざまな交流を否定するもの
ではありません.」
http://zairaichi.sagafan.jp/e624598.html

236 :縄文狼:2015/06/26(金) 14:31:23.30 ID:J7esI0H9.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>235
土器ちゃんから再三突っ込みのある生活財としての渡来土器の動向からすると
わが列島の北部九州への楽浪土器の搬入は、弥生後期から終末期にピークになり
古墳初期になると激減します

その代わり三韓土器の方は、同じく弥生後期から弥生終期にピークになった後
終末期以降は、伽耶系よりも馬韓系が増えるそうです〜

237 :縄文狼:2015/06/26(金) 14:42:15.55 ID:J7esI0H9.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>236
>>157
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族

>>149
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■邪馬台国(プレ大和朝廷)ルート:三輪朝の大和族、出雲族

弥生後期に新興の邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートが確立されると、
いったん奴国ルートは衰退するが、後に馬韓(百済)ルートとして復活する
という歴史展開を渡来土器(楽浪・三韓)の消長がよく表してますね〜

238 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 15:54:58.67 ID:XDye9pZB.net
>>236-237
「口縁部を拡張するというイメージが、甕の分化・多様化というコードに共鳴していくようで
ある。」
と言われた土師器の拡大・・・私はここに自己の技術を「盤口器」に表現した盤瓠伝説を
共有する瑶族、とりわけブリャーチアに遺伝子を残し、アムール中流ポリツェにタラカン
土器を含む盤口器を残した吉野ヶ里と同族の匈奴回り越族の姿を見る思いがします。
彼らは朝日遺跡に鳥形木製品を残して東日本に拡大を続けた。河内王朝時に百済から
渡来するのも彼らの別働隊ですね。皇祖ニニギとは盤を回す盤瓠の和名だと思います。

239 :縄文狼:2015/06/26(金) 16:21:16.94 ID:J7esI0H9.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>237
>弥生後期に新興の邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートが確立されると、
>いったん奴国ルートは衰退するが、後に馬韓(百済)ルートとして復活する
>という歴史展開を渡来土器(楽浪・三韓)の消長がよく表してますね〜

以上の推移をわが列島での銅鏡の消長と合わせてみると

前漢・後漢鏡:楽浪から三韓に一度伝搬し奴国ルートで北部九州に伝わる
   よって北部九州の墓制は三韓で当時に流行した甕棺墓!!

神獣鏡(呉鏡):楽浪から直接、邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートで阿讃播・近畿に伝わる
   よって阿讃播・近畿の墓制は楽浪で当時(楽浪4期)に流行した積石式木郭墓!!

240 :縄文狼:2015/06/26(金) 16:52:00.56 ID:J7esI0H9.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>238
ちなみに月光さんに釘さしておきますけど、前漢・後漢鏡の時代は
楽浪に土着豪族としてワイ(穢)人がいたとしても、積石式木槨墓なんて
造ってませんから〜

そして積石式木槨墓の流行る神獣鏡(呉鏡)の時代(楽浪4期)は
ワイ(穢)人は半島東部の江原道にもう追い出されてますから〜

241 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 18:03:50.39 ID:XDye9pZB.net
>>239 http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
>>240 >>218
総之,因為“夫租Hui4君”銀印的発現,証実了Wei4族的物質文化内涵,
要するに、“夫租Hui4君”銀印発見により、Wei4族の物質文化が内包されていることが
立証され、
同時対于Wei4族的官制和暦史及其地理位置,也提供了新的依拠。
同時にWei4族の官制並びに暦史及其の地理位置についても新たな根拠が提供される
こととなった。
http://www.ranhaer.com/viewthread.php?tid=17789
中国ソースは夫租Hui4君とは穢とは別の民族ということを強調している。

242 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

243 :縄文狼:2015/06/26(金) 20:10:27.13 ID:J7esI0H9.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>241
夫租Hui4君とは

前漢の玄菟郡の夫租県(現在の咸鏡南道の咸興市付近)にいた&#28618;貊系種族を指すもの
と考えられており、同じく&#28618;から分かれた夫余・東穢や高句麗とは同系とされている。

ですって

244 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 20:23:01.68 ID:XDye9pZB.net
>>243
>平壌貞栢洞土壙墓出土了
これはホケノヤマ・鳴門萩原画文帯神獣鏡と同じところ
>銅鏃,分三稜形和双翼形両式。
これは東海S字甕と同じ。

245 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 22:17:19.92 ID:XDye9pZB.net
>>244 上記平壌貞栢洞土壙墓随伴出土品土器2点:
(1)筒状鉢形器,褐色,含石棉和砂,似手制。大口小平底。平唇外折。高18厘米。   
(2)円腹罐,黄褐色,陶質致密。侈口,円肩,球形腹,大口小平底。頚部和腹部以
縄蓆紋為飾。高17厘米。 侈口=wide flared mouth
これを中国サーチエンジンに投入すると:
http://pds.exblog.jp/pds/1/201402/28/13/d0287413_173377.jpg
↑この土師器によく似た画像が得られる。

246 :出土地不明:2015/06/27(土) 02:58:48.16 ID:8FAvILqx.net
(1)地上建物(堀立柱建物)
福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェグャンチャンリ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。

247 :出土地不明:2015/06/27(土) 03:02:47.28 ID:8FAvILqx.net
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。

248 :出土地不明:2015/06/27(土) 03:05:26.18 ID:8FAvILqx.net
また,I沙里遺跡のSB205 号の例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を
兼ね備えていることもわかった。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは
儀礼空間として利用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,
性格の把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search='%E6%B1%9F%E8%BE%BB%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E9%AB%98%E5%BA%8A'

249 :出土地不明:2015/06/27(土) 03:08:45.21 ID:8FAvILqx.net
>>232
しっかり上記を読んどけよこの極悪詐欺師が!

250 :LUNAMASK:2015/06/27(土) 14:43:03.40 ID:w7PNxR+k.net
>>243 林Yunは“夫租Wei君”銀印中の“夫”字は“夭”字に該当すると認めている。
《漢書・地理志》県名“夫租”は楽浪郡に属すとあるのは実際“夭租”の伝写上の誤りで
ある(林Yun: 《夫余史地再探討》 、《北方文物》1999年 4 期) 。
つまり、阿讃播・纒向に画文帯神獣鏡を持ち込んだのは沃沮中のウェイ族であって
ワイ族ではないということ。ワイ族は穢貊である沃沮中の非貊人部分のこと。ウェイが
貊人であるというのはどんな根拠ですかね。中国文献では見つからないが。

251 :出土地不明:2015/06/28(日) 02:15:25.61 ID:0yq3yo9r.net
(1)地上建物(堀立柱建物)

福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

252 :出土地不明:2015/06/28(日) 02:24:04.04 ID:0yq3yo9r.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

253 :出土地不明:2015/06/28(日) 02:28:03.13 ID:0yq3yo9r.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

254 :LUNAMASK:2015/06/28(日) 16:44:04.23 ID:2cFnUTkK.net
>>250 楽浪貞柏里は2世紀後のホケノヤマ/画文帯神獣鏡ドウハン鏡が出るところで
あり、この集団はウェイ族と言って、貊でも、ワイでもないところから、恐らくは呉の流れを
引く、つまりは、吉野ヶ里人と同族と見られる。これは呉太白・夫差の流れが楚の東地兵
として時系列的には@庄喬A始皇帝・徐福B冒頓単于C至支単于のイベント、地理的に
は長江デルタ→古テン王国→匈奴→ポリツェを経由して楽浪に到着したのでしょう。

255 :縄文狼:2015/06/29(月) 10:26:16.47 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>254
楽浪貞柏里に積石式木槨墓と画文帯神獣鏡をもたらしたウェイ族の楽浪への流入は
果たしていつの時代でしょう??

わが列島で、墓制(積石式木槨墓)と威信財(画文帯神獣鏡)の変化をもって
他民族の流入があったとするならば、半島にも適用すべきではないでしょうか??
でなければ、楽浪と同様に列島の在来豪族が、当時流行した墓制(積石式木槨墓)と
威信財(画文帯神獣鏡)を会得したとしなければダブルスタンダードになります

積石式木槨墓と画文帯神獣鏡の楽浪貞柏里での出現は、楽浪崩壊直前の
弥生終末期である楽浪X(5)期まで下るのですよ〜

256 :縄文狼:2015/06/29(月) 11:24:16.03 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>254
この間のワイ貊人の変遷
1)後漢の建武6年(30年)、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。
その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の
諸県はみな侯となった。

2)夷狄(ワイ貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、
不耐のワイ侯だけは(晋の官吏としての)今(晋代)も続いている。
この不耐侯国の官吏はすべてワイ人(東ワイ人)が務めた。

3)後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばし
その支配下に収めた。

4)魏の正始6年(245年)、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、領内の東ワイが後漢末から
高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。

5)魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐ワイ王の位が授けられた。

6)313年には楽浪郡は高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。
楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入る

つまり、積石式木槨墓と画文帯神獣鏡の流行した2世紀の楽浪郡では、公孫氏の
影響力が拡大した時期に重なります

その後も、半島人の始祖であるワイ貊人は、現代とまるで同様に、高句麗と漢・魏
との間のコウモリ外交を繰り広げるわけですね〜

本 当 に

257 :LUNAMASK:2015/06/29(月) 12:10:09.57 ID:3sOx4Ay1.net
>>255-256
揺族の伝説の祖、盤瓠 は回転台土器製作者の意味であるが、他にも揺族は密洛陀
女神伝説を持つ。密洛陀は師匠女神の死後その遺骸を掲げ、天、地、水を創造した。
天は山、地はスカート、水は周辺の川となる。・・・これは土師器と前方後円墳の起源
となる。秦始皇帝が五尺道を開削した頃瑶族は桂林郡にあった。この頃象郡にあった
瑶族が現在の西双版納南東部に残したのが泰族慢輪制陶技藝であり、これが三韓で
成長し日本に須恵器として伝わる。始皇帝・徐福によって渡海したのは古テン国、
桂林郡、象郡、南夷、黔中郡の百工・千童、兵員であったが、燕の境界を離れると彼らは
匈奴に入り、回転台土器、子安貝文化を残し、至支単于の頃玄菟郡北辺黒竜江省に
南下、ポリツェ土器を残すが、これは同時に日本に中期弥生土器として伝達された。
彼らの土器は後に越窯青磁に見られる盤口形状を盤瓠のシンボルとして既に具現化して
いた。この頃黔中郡の兵員の子孫は北匈奴と運命を共にし、河内-継体王朝時に改めて
渡来し、残余の徐福ディアスポラと再会することとなる。・・・
基本的にはこういう流れですね。

258 :LUNAMASK:2015/06/29(月) 12:23:24.22 ID:3sOx4Ay1.net
>>255-256
ウェイ族というのは中国研究者によればテン王の印に比べると金と銀の差こそあれ遜色
のないものとされていますが、その後、ウェイ族の同族、倭奴国王は金印を受けています。
非常に極東最強の実力者とされたんでしょうね。少なくとも後漢としては高句麗対策として
そうした扱いとしたんでしょう。
公孫が楽浪郡に手を出すのは、恐らくウェイ族が纒向に移住したからじゃーないでしょう
かね。

259 :縄文狼:2015/06/29(月) 16:38:55.65 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>257
>その後、ウェイ族の同族、倭奴国王は金印を受けています。

月光さんは奴国と邪馬台国、後のプレ大和朝廷を同族と見立てているのでしょうか??

こちらのホームページでは、同様に奴国と邪馬台国を同族と見立ていますが、
プレ大和朝廷は公孫氏と関連の深い別族と見立てているようです〜

http://ketsuyukai.digi2.jp/shiten3yamatai.htm

260 :縄文狼:2015/06/29(月) 16:45:50.02 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

ちなみに自分は、墓制の異なる新興の邪馬台国(箱式石棺墓)と、奴国(甕木墓→
木棺墓)とは、主要構成民族である縄文系種族が異なると考えています

>>237
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族

すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■邪馬台国(プレ大和朝廷)ルート:三輪朝の大和族、出雲族

261 :縄文狼:2015/06/29(月) 16:56:16.04 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>260
この■邪馬台国(プレ大和朝廷)を支えた宗像海人族である『綾羅木式土器文化人』とは

綾羅木郷遺跡で出土した人面土製品からすると
「美豆良(みずら)結いで、顔面に刺青」を施していた!!
http://www.city.hofu.yamaguchi.jp/webhis/2yayoi/02-20/2-20-4.jpg

つまり邪馬台国成立以前、すなわち>>127でいう弥生後期に箱式石棺墓人である
徐福秦人がわが列島に分布拡大する以前に、
宗像地域以東〜瀬戸内、関西において勢力圏を弥生前期〜中期にすでに確立していた

これこそが魏志倭人伝で「男子は大小となく、皆黥面文身す」と記載された
邪馬台国・プレ大和朝廷を構成する大和民族の主要構成民族でしょう〜

262 :LUNAMASK:2015/06/29(月) 17:24:29.48 ID:3sOx4Ay1.net
>>259 公孫は渡来人ではあるが、皇室とは無縁でしょうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E5%B2%90%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE
>>260 前漢内行花文銘帯鏡=日光鏡・・・これに拘泥する須玖・三雲首長は楽浪貞柏里
銀印夫祖ウェイ君と同族と考えます。 
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm

263 :LUNAMASK:2015/06/29(月) 17:37:50.04 ID:3sOx4Ay1.net
>>261 哀牢人も刺青人種です。
哀牢人喜愛文身,即在皮膚上刻画竜紋,穿的衣服帯尾飾。這段触木而孕、
竜舐子背的伝説折射出哀牢母系氏族的図騰崇拝的影子。
http://baike.sogou.com/v8927793.htm

264 :縄文狼:2015/06/29(月) 19:17:39.18 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>262
内行花文鏡をもたらしたのがウェイ君と同族だとするとこちらと矛盾しませんか??
ちなみに徳島の萩原墳丘墓に塗布された朱銀は、イオウの同位体比分析の結果、
陝西省産朱だったようですね〜

>>59
>これは九州北部臨海部に箱式石棺墓・内行花文鏡を持って分布する
川西羌/陝西・秦氏の第一陣の末裔であろう。

三輪王朝=百越(呉・テン・夜郎)
@テン国銅工人     O1a M119 銅鐸民
A夜郎国人(竹細工)      NO M214 丹波
B琅邪・会稽 徐/呉民 O3a3 M159 神獣鏡 大和
河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
C川西羌/陝西・秦     O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
Dテン国陶芸・建築工人泰人 O2a M95  河内
E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao 播磨・但馬・紀伊
Fチョンドウ人(蜀)(巨石・石棺) N1 LLY22g 肥後

265 :縄文狼:2015/06/29(月) 19:30:18.55 ID:V0E9XkX2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>264
しかしこれで時系列的に疑問が沸くのが

内行花文鏡は後漢鏡
神獣鏡は呉鏡

であり、内行花文鏡を奉じた秦氏の方が先立ってわが列島に渡来していることになる

内行花文鏡は、プレ秦氏すなわち籠神社の海部氏の随伴
三輪朝と河内朝が同族であったというのは異論ありません〜

266 :LUNAMASK:2015/06/29(月) 21:56:28.39 ID:3sOx4Ay1.net
>>264
>九州北部臨海部に箱式石棺墓・内行花文鏡を持って分布する
>川西羌/陝西・秦氏の第一陣の末裔
同時期楽浪ではウェイが日光鏡(内行花文銘帯鏡)を収集。矛盾なし。
>>265
画文帯神獣鏡は後漢末期。

267 :出土地不明:2015/06/30(火) 02:48:16.29 ID:EGIGL18B.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

268 :出土地不明:2015/06/30(火) 02:48:45.22 ID:EGIGL18B.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

269 :出土地不明:2015/06/30(火) 02:49:25.20 ID:EGIGL18B.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

270 :出土地不明:2015/06/30(火) 02:58:05.58 ID:EGIGL18B.net
>>264-265



で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、徐福集団が半島に伝えた半島における棟持柱高床式の証拠は?


.

271 :出土地不明:2015/06/30(火) 03:05:43.38 ID:EGIGL18B.net
>>262-263
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

272 :縄文狼:2015/06/30(火) 10:52:13.52 ID:bL4sV/eg.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>270
>徐福集団が半島に伝えた半島における棟持柱高床式の証拠は?


その設問をなぜ俺に聞くんだ??



>>229
しかしながら、前漢末に古蜀人である徐福集団が棟持柱高床式太陽神殿を
もたらしたとするならば
江原道・東ワイ(穢)国においてわが列島と同様の、棟持柱高床式太陽神殿の
集中的な分布がまったくみられない以上

わが大和民族と、江原道の東ワイ(穢)人とは一切関係ないと結論づけざるを
得ないでしょう

273 :LUNAMASK:2015/06/30(火) 11:50:35.76 ID:oNmDn4F7.net
BC276年江浙呉越民と雲南に入った庄喬は以後半世紀に渉り、テン国において江南文化
の統合を行った。
@夏后禹の鳥神信仰/壮族、布依族的祖先神布洛陀信仰
A楚の鷺信仰
B古テン国の詛盟神殿(棟持柱)
この庄喬テン国の南西隣が九隆神話哀牢古国、四川凉山、雲南楚雄、紅河には古羌末
裔諸族が続いていた。
秦始皇帝は徐福の要請を受け強弓を引く、巴寡婦清配下の黔中郡羌系武士団をこれに
加えた。
こうした編成の徐福求仙東渡集団は黄海を横断したが、秦漢の乱を避け、若干の吉野ヶ
里、錦江、大同江植民者を除く大半は匈奴に亡命した。匈奴が南北に大分裂を起こす
前漢末、第一波の徐福集団は東匈奴領内から原三国・弥生後期西日本に向けて民族
移動を起こした。第二波の移動は五胡十六国の頃、遼西から河内王朝-継体王朝の
日本に向けて行われた。日本はこうして誕生した。 

274 :LUNAMASK:2015/06/30(火) 12:00:41.86 ID:oNmDn4F7.net
>>272
いや、東ワイ(穢)人はその後、その一部の貊人は白木としてかなり日本にも
?kはいるが、大半は中国が極北コリャーク族ではないかとしている満州系共々
新羅を建国したんじゃないっすかね。江原道の牛頭天王神社もおよびじゃ
ないようですね。

275 :縄文狼:2015/06/30(火) 14:03:31.70 ID:bL4sV/eg.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>273
なるほど渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■邪馬台国(プレ大和朝廷)ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏が内行花文鏡を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期に東匈奴、楽浪を経由、邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートを通じて
      徐福集団が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

276 :縄文狼:2015/06/30(火) 14:21:34.49 ID:bL4sV/eg.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>273
しかしながら、わが大和民族の文化の根幹をなす独立棟持柱を有する高床式太陽神殿は
弥生中期にはすでに成立していた



これを>>275の第0波〜第ニ波の渡来人がもたらしたとするならば、おのずと
第0波の渡来人、すなわち東匈奴、楽浪を経由せずに、騎馬民族化されていない
徐福集団であるプレ秦氏がその主役となるわけですね〜

277 :LUNAMASK:2015/06/30(火) 14:29:46.64 ID:oNmDn4F7.net
>>275 ↓これで見る限り
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
>1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏が内行花文鏡を奉じて北部九州に
渡来内行花文鏡/箱式石棺墓の渡来は第1波と平行の弥生5/庄内期ですね。

278 :縄文狼:2015/06/30(火) 14:32:35.68 ID:bL4sV/eg.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>276
>>270
なるほど、それで当時縄文形質が多数いる同一文化圏で倭の領域である半島南部にも
独立棟持柱を有する高床式太陽神殿が分布するわけですか〜

279 :LUNAMASK:2015/06/30(火) 14:35:33.22 ID:oNmDn4F7.net
>>276
詛盟典礼棟持柱千木神殿全容
http://b.hiphotos.bdimg.com/album/s%3D550%3Bq%3D90%3Bc%3Dxiangce%2C100%2C100/sign=768666db71cf3bc7ec00cde9e13bcb9c/c83d70cf3bc79f3de9537ee6bba1cd11738b29b1.jpg?referer=8fdea0550e2442a7f719c995976f&x=
此器生動形象地記録了Dian国的“詛盟典礼”儀式。
詛盟典礼 Bai百科
http://baike.baidu.com/link?url=e4p9-EsKBC92RkHs3-S9Z2KoUpzgUp3jogfVhMF4E_CT7SKIGX1upRQcKhvzLB02D5sIU8nWwvfMI6pGy12caq
詛盟場面銅貯貝器 画像と説明
http://www.chnmuseum.cn/tabid/450/Default.aspx?AntiqueLanguageID=701
詛盟典礼 互動百科
http://www.baike.com/wiki/%E8%AF%85%E7%9B%9F%E5%85%B8%E7%A4%BC
庄喬越国工人の写実主義へのこだわりが棟持柱を残したんでしょう。

280 :出土地不明:2015/06/30(火) 17:33:20.82 ID:sAFYGvY4.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

281 :出土地不明:2015/06/30(火) 17:34:21.69 ID:sAFYGvY4.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

282 :出土地不明:2015/06/30(火) 17:35:22.70 ID:sAFYGvY4.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

283 :出土地不明:2015/06/30(火) 17:38:00.66 ID:sAFYGvY4.net
>>279
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

284 :出土地不明:2015/06/30(火) 18:04:50.05 ID:sAFYGvY4.net
>>273
で、徐福が吉野ヶ里、錦江、大同江に植民したという証拠は?

で、徐福が匈奴に亡命したという証拠は?

で、徐福集団が東匈奴領内から原三国・弥生後期西日本に向けて民族
移動を起こしたという証拠は?

で、徐福集団が五胡十六国の頃、遼西から河内王朝-継体王朝の日本に
来たという証拠は?

285 :出土地不明:2015/06/30(火) 18:40:44.56 ID:sAFYGvY4.net
>>275-278
で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥章を伝えなかったの?

286 :出土地不明:2015/06/30(火) 18:44:10.27 ID:sAFYGvY4.net
×木骨泥章
○木骨泥墻

287 :縄文狼:2015/07/01(水) 09:47:10.98 ID:aTo/Ewo5.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>275ちょっと修正

なるほど渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■邪馬台国(プレ大和朝廷)ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・後漢鏡(内行花文鏡)を
奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期に東匈奴、楽浪を経由、邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

288 :縄文狼:2015/07/01(水) 10:51:17.98 ID:aTo/Ewo5.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>285
あれ?
土器博士ならば当然、弥生中期から盛況となった勒島貿易と原の辻貿易のことは
知ってるよな〜!!
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html

>>287
1)第0波:弥生中期、原の辻遺跡には原三国人(プレ秦氏)が居住
  三韓土器

2)第一波:弥生中期末〜後期、三雲遺跡には楽浪漢人(徐福)が居住
  楽浪土器

3)第二波:古墳前〜中期、西新町遺跡には三国人(秦氏)が居住
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド

289 :出土地不明:2015/07/02(木) 02:57:33.58 ID:AcNRHo58.net
>>287-288
その弥生中期とは弥生開始をBC4C前後に置いた旧年表での弥生中期だろ?

もう俺の頭の中の弥生中期は弥生開始をBC10Cに置いた歴博年表での
弥生中期だから、その弥生中期は弥生後期という事だな。


で、原の辻遺跡では原三国人(プレ秦氏)が居住しといて何で三韓土器の
生産をしなかったの?

で、三雲遺跡では楽浪漢人(徐福)が居住しといて何で楽浪土器の
生産をしなかったの?

で、西新町遺跡では三国人(秦氏)が居住しといて何で馬韓・加耶系土器
の生産をしなかったの?

290 :出土地不明:2015/07/02(木) 03:01:32.48 ID:AcNRHo58.net
>>287-288
で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥章を伝えなかったの?

291 :縄文狼:2015/07/02(木) 09:45:32.29 ID:GsNGy1PH.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>289
渡来人は長崎の出島にやってきたグラバーのように、当時の貿易拠点に滞在した
貿易商人だからな
鉄器や威信財を取り扱っていた貿易商人に、生活土器を生産しろというのがそもそも愚問だろ

おまけに、グラバーはちゃんと日本人との混血を遺しているな〜

本 当 に

292 :LUNAMASK:2015/07/02(木) 11:39:18.88 ID:kVjhJacB.net
>>273 @に秦桂林郡畭瑶密洛陀信仰を追加。

293 :LUNAMASK:2015/07/02(木) 12:04:57.79 ID:kVjhJacB.net
>>284 30日このサイトに特定ホストをスパム扱いするソフトが仕掛けられ、
   その後アクセスがはじかれてきた。今やっと直ったようだ。
>で、徐福が匈奴に亡命したという証拠は?
ロシア学会が匈奴本陣に回転台土器、錬鉄炉が出現したこと、子安貝装飾の盛行を確認している。
匈奴台頭の直前子安貝の盛行していたのは庄喬テン王国をおいてない。当時、徐福が秦に手ぶらで
帰っても、漢に投降しても、生き埋め、極刑は間違いないが、匈奴に入れば英雄となれた。徐福の
到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。徐福一行の
生きる道は匈奴を措いてなかった。ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。

294 :LUNAMASK:2015/07/02(木) 12:49:35.47 ID:kVjhJacB.net
>>283 >>279
>早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。
>で、西日本沖縄のXXXがYYYから入ったという証拠は? XXX 9種 YYY 6種(貊と西南夷5種)
これを説明するにはまず西南夷の大局だね。
始皇帝が徐福の百工・千童・射撃兵員の派遣要請に応じて動員命令を下したのは:
主として、五尺道プロジェクト関与地方諸民族:
@長江デルタ(江浙)から庄喬に率いられてテン王国に移住していた呉越人
A秦桂林郡に中原から移住していた盤瑶(盤瓠を奉じる瑶族)と畭族/畭瑶(霊渠プロジェクト)
B雲南省メコン上遊ダイ族/ぺー族哀牢古国民
C川テン青藏民族走廊-紅河古羌族
D秦黔中郡Cong族
E且蘭、夜郎等周辺民族
こういうところであろうが、これをYDNAと一対一対応さすことは不可能で、かなりの重複が
生じる。特にO3e*/M134 O3e1*/M117は古羌、揺族、呉民に共通している。

295 :LUNAMASK:2015/07/02(木) 13:09:35.40 ID:kVjhJacB.net
>>285 土器キッドさんっつーの?
>で、AAA期に渡来したBBBとやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
>伝えなかったの?
この質問重要だから俺からも答えさせてもらっていいかな。
日本に移住してきたのは当時の体制派中国人ではなく、反体制派ばっかりなんだね。
つうか、中国文化ではなくタイ、インドネシアのご先祖に近い文化の民族で、古代中国語
に対しては縄文人とどっこいどっこいの連中なんだね。

296 :LUNAMASK:2015/07/02(木) 16:53:32.13 ID:kVjhJacB.net
>>283
>で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?
貊人文化については河北の魏営子、凌河文化文化がそれであるという吉林大Lin Yun
教授による認証が行われ、続いて大連大王教授、孫研究生により大、小凌河流域は
査海文化、紅山文化、夏家店文化を継承した地域という説が出された。従い、遼東半島
の積石墓、石棚、大石蓋墓、石棺墓等も貊人文化と考えられる。
朝鮮半島YDNAから明確に北方系であるC3/Nを除くとO2b/O2b1が残るが、O2b1は世界
的に日本固有とする説が強い。すると、O2bが貊人であり、O2b1は日本系及び大陸系
縄文人となる。縄文前期日本に平底土器、勾玉、耳飾りが普及する時代O2b1は沿海州
にあって九州島の黒曜石の輸入等をしながら日本との懸け橋を果たしつつ住み着いた
のであろう。さて、O2bは紅山文化の積石塚、筒形器囲繞、現人神等の制度を継承し、
古朝鮮にあっては遼寧青銅器文化を発展させ、古墳時代の日本には物部として入って
きたものと考える。

297 :出土地不明:2015/07/02(木) 23:17:15.99 ID:qfJkaQOZ.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

298 :出土地不明:2015/07/02(木) 23:17:43.39 ID:qfJkaQOZ.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

299 :出土地不明:2015/07/02(木) 23:18:16.80 ID:qfJkaQOZ.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

300 :出土地不明:2015/07/02(木) 23:54:06.32 ID:qfJkaQOZ.net
>>291
むしろグラバー的境遇になるのはこちら側だろ。

文物はこちらばかりにあって、半島側にはこっちの文物が僅かしか無い訳だよ。

当時の先進性は半島側にあって、こちらには無い訳だよ。

渡来する理由や意味があるのはむしろこちらの方で、半島側には全く無い訳だよ。

西新町遺跡に竃や加耶系土器があると言っても、ほんの十数点だけ。

渡来人たちが住んでいた根拠にするのはあまりにもお粗末過ぎるんだよ。

むしろそれらはこちら側の逆渡来による輸入行為でもたらされたものだという
考え方の方がよっぽど筋が通る。

こちら側の逆渡来による輸入行為でもたらされたものだからこそ、竃にかけていた
土器は朝鮮土器ではなく、弥生土器が使われていた。

301 :出土地不明:2015/07/03(金) 00:32:58.94 ID:VrIcCYEj.net
>>291
だいたいだ、グラバーに当時の西洋陶磁を作れと言うのは技術的に無理があるが、
単純な素焼きの韓式土器くらいならアホでも作れるのである。

そんな単純なものさえ生産しなかったんですよ。

で、原の辻遺跡では原三国人(プレ秦氏)が居住しといて何で三韓土器の
生産をしなかったの?

で、三雲遺跡では楽浪漢人(徐福)が居住しといて何で楽浪土器の
生産をしなかったの?

で、西新町遺跡では三国人(秦氏)が居住しといて何で馬韓・加耶系土器
の生産をしなかったの?

302 :出土地不明:2015/07/03(金) 00:35:44.34 ID:VrIcCYEj.net
>>291
で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったの?

303 :出土地不明:2015/07/03(金) 01:08:37.54 ID:VrIcCYEj.net
>>293
で、その回転台土器、錬鉄炉、子安貝装飾が徐福がもたらしたものだという証拠は?

>>294
で、始皇帝が徐福の百工・千童・射撃兵員の派遣要請に応じて動員命令を下したのは
主として五尺道プロジェクト関与地方諸民族だという証拠は?

>>295
じゃあ、何で当時のタイ、インドネシアの印文陶を伝えなかったの?

で、タイ、インドネシアから彼らは何を伝えてくれたの?

>>296
何で査海文化、紅山文化、夏家店文化を継承すると、遼東半島
の積石墓、石棚、大石蓋墓、石棺墓等が貊人文化になるの?

で、物部氏がO2bだという証拠は?

304 :出土地不明:2015/07/03(金) 01:14:05.40 ID:cX7v30lY.net
>>293-296
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

305 :縄文狼:2015/07/03(金) 09:39:08.61 ID:oFS45z2x.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>300
>むしろグラバー的境遇になるのはこちら側だろ。
>当時の先進性は半島側にあって、こちらには無い訳だよ。

???
江戸期の先進性は、グラバーのイギリスの方があっただろ〜が
グラバーがわが列島に来て輸出したのは、比較優位性のある絹とお茶
大日本帝国は、東南アジアに先進性があったから南進したわけでなく
石油資源を求めたわけだが

当時の徐福集団が希少資源である丹砂・水銀鉱床などを探索していたのなら
わが列島に来る動機はあるだろう

306 :縄文狼:2015/07/03(金) 10:05:43.48 ID:oFS45z2x.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>297-299
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

>>176
>南方式支石墓って?

ちなみに支石墓の「北方式」「南方式」は半島での分類標記であり、高くそびえる
テーブル式が「北方式」、低い碁盤式が「南方式」で分布と由来が明確に分かれているから
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=54777505&no=2

307 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 10:34:54.26 ID:+nmBoDQp.net
>>303 >>294
>で、始皇帝が徐福の百工・千童・射撃兵員の派遣要請に応じて動員命令を下したのは
>主として五尺道プロジェクト関与地方諸民族だという証拠は?
仮称徐福マトリックスの主軸は雲貴高原の@テン呉越(神獣鏡/銅鐸)A走廊古羌
(火把節)Bダイ哀牢(九隆)、副軸は外郭のC桂林郡畭瑶(土師墓)D南盤江流域/北辺
且蘭/夜郎(竹取/桃太郎)E黔中郡Cong(射楯/丹生都)なんだが、貊との接点はKayue
(かやく)文化にあり、これが同時期の遼寧石棺墓文化に繋がったのだと思う。始皇帝は
徐福要請に極めて十分な配慮を見せつつ、弾薬庫のような西南夷から人質を取るという
一石二鳥の効果を狙ったのであろう。逆に言えば徐福とは始皇帝のやらせであったの
ではないかとも疑える。

308 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 10:57:27.59 ID:+nmBoDQp.net
>>303 >>295
>じゃあ、何で当時のタイ、インドネシアの印文陶を伝えなかったの?
>で、タイ、インドネシアから彼らは何を伝えてくれたの?
O3a2-P201はAustronesian-speaking populationsに多く
Batak Toba from Sumatra (21/38 = 55.3%),
Tongans (5/12 = 41.7%), and
Filipinos (12/48 = 25.0%). (Karafet 2010)
Outside of Austronesia, 以外では
Tujia (7/49 = 14.3%),
Han Chinese (14/165 = 8.5%),
Japanese (11/263 = 4.2%),
Miao (1/58 = 1.7%), and
Vietnam (1/70 = 1.4%) (Karafet 2010 and Nonaka 2007).
https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
別の情報では台湾を起点とし東南アジアに向けて漸減しているとしている。
従い、これはスンダランド以後に台湾付近からオセアニアに拡散した稲作を伴う文化で
あろう。
これが雲南の白族と仕訳されているわけだ。
テン王国貯貝器蓋に表明される千木棟持柱前傾妻型高床神殿はおそらくこのペー族の
祖先によってインドネシアから持ち込まれたのだろう。

309 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 14:26:42.13 ID:+nmBoDQp.net
>>284 >で、徐福が匈奴に亡命したという証拠は?
徐福マトリックスには戦国時から秦に属していた蜀郡麗江の犬戎・納西族を追加する
必要があるかもしれない。匈奴は犬戎を含み、徐福集団を匈奴に引き込むベクトルは
犬戎・納西族の存在に基因するのかもしれない。因みに、フイェトウと言うのは虎トーテム
東ワイ国の別名である。日本にはハヤト/隼人と称する犬戎が入っている。虎トーテムを
持つのは中国西南及び東北少数民族彝族、白族、Lisu族、納西族、普米族、怒族、
哈尼族、徳昂族、Dai族、摩梭(Mosu)族、蔵族、珞巴族、鄂倫春族、壮族、土家族、
赫哲族等等。この納西族が百済から夕月(悦般)君に随伴して渡来するのが秦族であろう。

310 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 15:12:47.33 ID:+nmBoDQp.net
>>309
匈奴治下トゥーヴァ盆地にはウルグヘム(かも河)文化というのが存在したが、墓制から
下記のように民族分類することができる。
(1) 箱式石棺墓    納西族
(2) 地下式石板石室墓 東胡族
(3) 肥後式石室墓   貊族
http://kronk.spb.ru/library/dluzhnevskaya-savinov-2007-30.htm
これら民族は河内王朝時から筑後・肥後に入植を始めるが、その後日向・大隅には
地下式横穴墓(Catacomb Burial)が始まる。これはイラン・欧州系犬戎アヴァール・アラン
乃至はエフタルではないかと見られる。

311 :縄文狼:2015/07/03(金) 15:15:56.38 ID:oFS45z2x.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。


この徐福を秦西南夷に置き換えてみると、以下の2つの仮説が説明されますね〜
1)東夷は西南夷
2)秦氏は徐福の孫

1)東夷は西南夷
>秦西南夷の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて
朝鮮に下っていた。
>秦西南夷一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。

後漢書東夷伝では、倭国は「会稽郡東冶の東にあり、朱崖や&#20747;耳と相似しており、
その法俗も多くが同じである」としている
"其地大較在會稽東冶之東、與朱崖・&#20747;耳相近、故其法俗多同"
(漢代に置かれた朱崖・憺耳両郡は倭人の風俗物産が同じ)

「男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。
着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。
婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。

稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、
矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。
ある物とない物を比べると&#20747;耳・朱崖と同じである。」

312 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 15:21:03.84 ID:+nmBoDQp.net
>>310 (3) ただし、筑後・肥後の装飾古墳については、その壁画の内容が犬戎文化に
近いものや、板楯蛮(射楯/大伴)系等と多岐に渉りはじめている。

313 :LUNAMASK:2015/07/03(金) 15:24:42.88 ID:+nmBoDQp.net
>>311 秦氏、徐福、始皇帝等皆同族だったんでしょうね。

314 :縄文狼:2015/07/03(金) 16:21:23.94 ID:oFS45z2x.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>310
>これら民族は河内王朝時から筑後・肥後に入植を始める
(1) 箱式石棺墓    納西族

昆明の納西族が箱式石棺墓人とすると
>>76
>玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と交替に箱式石棺墓が出現するのは金印倭奴国の時代。
としていることから、わが列島での渡来は河内朝よりも2世紀も遡ります〜

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・後漢鏡(内行花文鏡)を
奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期に東匈奴、楽浪を経由、邪馬台国(プレ大和朝廷)ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

すなわち(1)箱式石棺墓の納西族は、第二波の秦氏ではなく、第0波のプレ秦氏に該当しますね〜

315 :出土地不明:2015/07/03(金) 19:28:46.88 ID:GNSOBGbQ.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

316 :出土地不明:2015/07/03(金) 19:29:16.99 ID:GNSOBGbQ.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

317 :出土地不明:2015/07/03(金) 19:29:57.90 ID:GNSOBGbQ.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

318 :出土地不明:2015/07/03(金) 20:09:47.53 ID:GNSOBGbQ.net
>>305
目的が違うだろっての。

近世以降の白人諸国が世界各地に開国を求めてきたのは、その深層心理に
科学技術や先進武力を背景に、あわよくば侵略して植民地化、そうでなければ
経済的植民地にしてやろうという黒い目的があったからだよ。

で、実際にその手法で、アメリカ大陸もオーストラリアもインドも東南アジアも
中国もシベリアもアフリカも南洋諸島まで総て白人の手に落ちたし、今でも
その大半が事実上の白人の植民地ですよ。

あのザビエルにしたって布教活動という名目で日本に入ったが、侵略できるような
国ではない事が分かると早々に日本を切り上げたんだよ。

当時の半島人にそこまでの先進武力や科学技術がある訳もないし、そういう発想自体がないだろ。




で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったの?



.

319 :出土地不明:2015/07/03(金) 20:17:17.91 ID:GNSOBGbQ.net
>>305
で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったの?

320 :出土地不明:2015/07/03(金) 20:55:57.02 ID:GNSOBGbQ.net
>>307
で、徐福マトリックスの主軸が雲貴高原の@テン呉越(神獣鏡/銅鐸)A走廊古羌
(火把節)Bダイ哀牢(九隆)、副軸は外郭のC桂林郡畭瑶(土師墓)D南盤江流域/北辺
且蘭/夜郎(竹取/桃太郎)E黔中郡Cong(射楯/丹生都)だという証拠は?


>>308
で、日本の千木棟持柱前傾妻型高床がペー族の祖先によってインドネシアから
持ち込まれたという証拠は?

それに、だったらなおさら、何で当時のインドネシアの印文陶やインドネシア独特の
器種や器形を伝えなかったの?


>>309
それのどこが徐福が匈奴に亡命したという証拠なんだよ?

徐福が匈奴に亡命したという証拠を出せと言ってるんだよ。

徐福が匈奴に亡命したという証拠は?

それに、隼人が犬戎だという証拠は?

321 :出土地不明:2015/07/03(金) 20:58:40.45 ID:GNSOBGbQ.net
>>307-310
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

322 :縄文狼:2015/07/03(金) 21:27:43.96 ID:oFS45z2x.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>315-317
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

>>176
>南方式支石墓って?

ちなみに支石墓の「北方式」「南方式」は半島での分類標記であり、高くそびえる
テーブル式が「北方式」、低い碁盤式が「南方式」で分布と由来が明確に分かれているから
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=54777505&no=2

323 :出土地不明:2015/07/03(金) 22:03:37.43 ID:GNSOBGbQ.net
>>322
歴博に聞いてみたら?w




それと、↓んなもんくらい知ってますんで。



ちなみに支石墓の「北方式」「南方式」は半島での分類標記であり、高くそびえる
テーブル式が「北方式」、低い碁盤式が「南方式」で分布と由来が明確に分かれているから
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=54777505&no=2

324 :出土地不明:2015/07/03(金) 22:05:28.57 ID:OIEoXOyc.net
>>322
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったの?

で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったの?

325 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 10:46:23.07 ID:naFqtDNr.net
>>320 >>307
徐福マトリックスupdated
雲貴高原
@テン/呉越(神獣鏡/銅鐸)
A走廊古羌/納西・哈尼(火把節)
B哀牢/ダイ(九隆)
東南沿海丘陵
C桂林郡/畭瑶(土師墓)
D南盤江流域/北辺且蘭/夜郎(竹取/桃太郎)
四川盆地
E黔中郡/Liangzhong/Cong(射楯/丹生都)O3a2-P201
F黔中郡/楚苗族O3a1c-JST002611
----------------------------------
>で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったの?
上記四川盆地Cong/苗、現土家苗、は懸棺葬に見られる極度に発達した懸崖克服技術
をもつ民族で、辰砂鉱脈露頭発見能力を持っていた。これは修験道、密教、極めて強力
な宗教組織への発達へと導く。三雲、吉備で少量ながらも辰砂の蓄積を開始した彼らは
大和において周辺産地の丹砂を開始し、同時に紀州においては聖地建設を始めた。

326 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 12:12:44.86 ID:naFqtDNr.net
>>320 >>309
>それのどこが徐福が匈奴に亡命したという証拠なんだよ?
>徐福が匈奴に亡命したという証拠を出せと言ってるんだよ。
>徐福が匈奴に亡命したという証拠は?
>それに、隼人が犬戎だという証拠は?
隼人・秦氏は犬戎納西なんだが、河西回廊に進出していた穢貊(可約文化)と接触、
この結果として遼河に石棺墓文化が入ると考えたい。
During the second part of the Shang dynasty, three almost contemporary and
intersecting cultures appeared in Gansu, Ningxia, and northern Qinghai, known as
Siwa, Xindian, and Kayue 可約 (Lijianshan people of Kayue culture morphologically
have a general character of primitive Mongoloids, close to modern Evenks,
Mongolians, North Chinese, Japanese and Buryats, and they differ from the
Neolithic populations of Qinghai). These cultures, succeeding the Early Bronze
Age Qijia, show the presence of more advanced bronzes, in particular weapons.
http://s155239215.onlinehome.us/turkic/btn_Archeology/Zhou/CambridgeZhouChouNorthChinaEn.htm
で、秦皇島を出て遼河にまで進んだ徐福成年兵員は遼河の同族から始皇帝の死、
秦/漢の戦闘を知らされ、又、同じ犬戎の匈奴で有能な冒頓単于が起ち、今や東胡に
とって匈奴陣営に加担することがベストチョイスであることを覚ったのであろう。おそらく、
徐福兵員は直ちに遼河を遡上したのだと思う。

327 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 12:32:25.02 ID:naFqtDNr.net
>>320 >>308
>で、日本の千木棟持柱前傾妻型高床がペー族の祖先によってインドネシアから
>持ち込まれたという証拠は?
>それに、だったらなおさら、何で当時のインドネシアの印文陶やインドネシア独特の
>器種や器形を伝えなかったの?
O3a2-P201はAustronesian-speaking populationsに多くBatak Toba from Sumatra
(21/38 = 55.3%)
という事実、O3a2-P201が白族・ワ族に多いこと前傾妻型高床住居の存在であったの
だが、他方O3a2-P201は苗族のマーカーでもある。おそらく、白族・ワ族はインドネシア-
メコン河と帰還したもので、苗族は湖南省原住民なのかもしれない。

328 :出土地不明:2015/07/04(土) 18:48:44.60 ID:EGDlQEW+.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

329 :出土地不明:2015/07/04(土) 18:49:12.58 ID:EGDlQEW+.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

330 :出土地不明:2015/07/04(土) 18:52:15.43 ID:EGDlQEW+.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

331 :出土地不明:2015/07/04(土) 18:52:49.22 ID:EGDlQEW+.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

332 :出土地不明:2015/07/04(土) 19:10:27.12 ID:EGDlQEW+.net
>>325
だから、中国に居る段階で当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床が
あるってどうして分かったんだよ?


>>326
だから、何で隼人が犬戎なんだって聞いてるんだよ。

隼人が犬戎だという証拠は?

それにおまえの願望や妄想を聞いているんじゃなくて、徐福が匈奴に
亡命したという証拠を聞いてるんだよ。

徐福が匈奴に亡命したという証拠は?


>>327
どうでもいいけど、当時のインドネシアに千木棟持柱前傾妻型高床が
あったという証拠は?

333 :出土地不明:2015/07/04(土) 19:11:38.77 ID:EGDlQEW+.net
>>325-327
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

334 :出土地不明:2015/07/04(土) 19:12:21.53 ID:EGDlQEW+.net
>>322
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったの?

で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったの?

335 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 21:51:31.95 ID:naFqtDNr.net
>>332
日本では周知の事実なんだが・・・上代、犬のほえ声をまねて発し、宮廷を警備した隼人
(はやと)。いぬ‐ひと【犬人/狗人】
また、狗奴国を犬戎の国とする説もある。匈奴治下の烏梁海・烏洛侯を離れて廻間土器
と共に尾張に入ってきた烏桓・越人連合は周朝先祖与西戎同居,周幽王時有犬戎、
山戎、戎狄等,春秋時有義渠、大茘、烏氏、林胡、楼煩、東胡等都可能是匈奴先祖と
される匈奴、すなわち、狗奴と呼んでも不自然ではない。
しかし、犬戎隼人は4世紀末葉ころから北部九州の玄界灘沿岸地域で始まる横穴式
石室に関連するもので、2世紀半ばころから尾張で始まる方墳・前方後方墳は烏桓で
あろう。前者は東匈奴、後者は西(北)匈奴と考えられる。

336 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 22:11:23.59 ID:naFqtDNr.net
>>332
>それにおまえの願望や妄想を聞いているんじゃなくて、徐福が匈奴に
>亡命したという証拠を聞いてるんだよ。
>徐福が匈奴に亡命したという証拠は?
徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
進んだ可能性が強い。匈奴の好きなタイプじゃないからなー。
匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)、東胡に入り
早々と尾張に逃れるのが越人と一部烏桓であったのだろう。

337 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 22:25:44.06 ID:naFqtDNr.net
>>332 >>325
>だから、中国に居る段階で当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床が
>あるってどうして分かったんだよ?
中国にいて日本に丹砂・水銀鉱床があるってわかるようなあほなことはないよ(www

338 :LUNAMASK:2015/07/04(土) 22:29:39.71 ID:naFqtDNr.net
>>337 なぜ偶然に丹砂・水銀鉱床探査・採集の専門家が日本に来るのか・・・
    これは大きなミステリーの始まりなんだよ。
    

339 :LUNAMASK:2015/07/05(日) 11:25:31.28 ID:OhZr6vb6.net
>>327 Searched Batak Toba Stily Houses by yahoo.com
https://images.search.yahoo.com/search/images;_yltby Yahoo=A0SO8z7vlJhVrCgAlwJXNyoA;_ylu=X3oDMTE0Z2gwaHA4BGNvbG8DZ3ExBHBvcwMxBHZ0aWQDQjAxMjNfMQRzZWMDcGl2cw--?p=batak+toba+stilt+houses&fr=yfp-t-412-s&fr2=piv-web

340 :LUNAMASK:2015/07/05(日) 11:27:13.49 ID:OhZr6vb6.net
>>339
https://images.search.yahoo.com/search/images;_ylt=A0SO8z7vlJhVrCgAlwJXNyoA;_ylu=X3oDMTE0Z2gwaHA4BGNvbG8DZ3ExBHBvcwMxBHZ0aWQDQjAxMjNfMQRzZWMDcGl2cw--?p=batak+toba+stilt+houses&fr=yfp-t-412-s&fr2=piv-web

341 :出土地不明:2015/07/05(日) 12:39:19.81 ID:UnxEsHLQ.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

342 :出土地不明:2015/07/05(日) 12:39:51.99 ID:UnxEsHLQ.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

343 :出土地不明:2015/07/05(日) 12:41:41.18 ID:UnxEsHLQ.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

344 :出土地不明:2015/07/05(日) 13:35:44.87 ID:UnxEsHLQ.net
>>335
おまえブン殴るぞ!

犬戎の居た内モンゴルの土器文化は華北の土器文化そのものだぞ。

鬲などの三足土器がバンバン出土している。

じゃあ何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってない?副葬されてない?

何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってない?副葬されてない?

それに、廻間土器と共に尾張に入ってきた烏桓・越人連合とまでウソぶくなら、

何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないの?

何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないの?副葬されてないの?

だいただ、犬戎は秦や匈奴に吸収されて紀元前までに消滅してるから時代が違い過ぎるだろうがこのゴミ詐欺師!

345 :出土地不明:2015/07/05(日) 13:50:06.77 ID:UnxEsHLQ.net
>>336
だったら、楽浪、錦江、吉野ヶ里に徐福が入ったという証拠は?

で、板楯蛮、三苗、古羌が匈奴に亡命したという証拠は?


>>338
天国におまえが居る場所なんかない。

早く死んで地獄に堕ちろよ。

346 :出土地不明:2015/07/05(日) 13:52:27.38 ID:UnxEsHLQ.net
>>335-340
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

347 :出土地不明:2015/07/05(日) 13:52:57.62 ID:UnxEsHLQ.net
>>322
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったの?

で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

で、弥生中期に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
伝えなかったの?

で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を伝えなかったの?

で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったの?

で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったの?

348 :出土地不明:2015/07/05(日) 18:24:55.67 ID:Mi7LAi9q.net
フルボッキはいつ死ぬの?

349 :縄文狼:2015/07/05(日) 23:22:07.63 ID:5Z9SpScK.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>341-343
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

>>176
>南方式支石墓って?

ちなみに支石墓の「北方式」「南方式」は半島での分類標記であり、高くそびえる
テーブル式が「北方式」、低い碁盤式が「南方式」で分布と由来が明確に分かれているから
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=54777505&amp;no=2

本 当 に

350 :縄文狼:2015/07/05(日) 23:39:39.06 ID:5Z9SpScK.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)、

を前提とするとちょっと修正

渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

つまり、第0波、第一波ともに匈奴化の影響を受けずに渡来してきたことになりますね〜

351 :縄文狼:2015/07/05(日) 23:50:57.68 ID:5Z9SpScK.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)


この徐福を秦西南夷に置き換えてみると、以下の2つの仮説が説明されますね〜
1)東夷は西南夷
2)秦氏は徐福の孫

1)東夷は西南夷
>「秦西南夷」は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。

後漢書東夷伝では、倭国は「会稽郡東冶の東にあり、朱崖や憺耳と相似しており、
その法俗も多くが同じである」としている
"其地大較在會稽東冶之東、與朱崖・憺耳相近、故其法俗多同"
(漢代に置かれた朱崖・憺耳両郡は倭人の風俗物産が同じ)

「男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。
着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。
婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。

稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、
矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。
ある物とない物を比べると憺耳・朱崖と同じである。」

352 :出土地不明:2015/07/06(月) 00:21:34.04 ID:d/bWR8Pa.net
>>350-351
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

353 :LUNAMASK:2015/07/06(月) 13:02:55.15 ID:rNnMEv66.net
>>344
犬戎は1900-1700 BC頃、ヴォルガ中遊産銅地域で結成された犬を共食する秘密結社で、欧州、中東の犬飼青銅・二輪車交易集団で、
殷初オルドスに入り、この影響で西周時河西回廊に羌族の犬戎国が建国され、その子孫が雲南に南下し納西族となる。これが秦氏の
先祖で、他方匈奴はこの犬戎国から発展し、最後には北匈奴として悦般国となる。秦氏と随伴し渡来する夕月君とは悦般国王の意味。
秦崩壊後の徐福集団にあった納西族が匈奴に入るのは自然の流れ。

354 :LUNAMASK:2015/07/06(月) 13:51:04.55 ID:rNnMEv66.net
>>350 徐福第二回渡海に参加したものが吉野ヶ里(三津永田)に到着し、それが土井が浜を渡って本州を東遷するのは確実でしょう。
ただ、>>47 でも述べた通り、その時代は後漢初頭と考えてもいいでしょう。
前漢期は楽浪でも伊都国でも内行花文銘帯鏡がフィーヴァーしていますが、奴国では後漢に入り庄内期にかけて内行花文鏡が
広範に配布されている。http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
安曇海人族のとらいもさりながら、勒島貿易/原の辻貿易 http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html といった日本ホームの
考えも必要でしょう。なので本格的な渡来はやはり古墳期直前の弥生墳丘墓、積石塚時代じゃないかと思います。
>>351 擔耳朱崖は当時の中国が南越国にズーム・インしたもので箸墓建設の背後をついてきています。お見事ですね。

355 :LUNAMASK:2015/07/06(月) 15:27:56.89 ID:rNnMEv66.net
鹿屋王子遺跡、串間玉の山玉壁、天孫降臨、神武神話、帥升、倭の南極界等一連の情報が天皇家の故郷を日向・大隅としています。
これは天孫降臨-神武は事実であったことを物語っていると思います。弥生墳丘墓/積石塚は天孫に随伴する部民ではなかったでしょうか。

356 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:15:07.32 ID:cSRaC79f.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

357 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:15:41.86 ID:cSRaC79f.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

358 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:16:14.97 ID:cSRaC79f.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

359 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:26:02.02 ID:RfYBaxi2.net
 
ゴキブリ韓国(ゴキ韓) 世界遺産で 土壇場の卑劣な裏切り

   日本国民から嫌悪感 「あの国とは一切関わるな!」

       http://iroiro-itainews.xyz/2015/07/post-3184.html

 

360 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:26:23.20 ID:cSRaC79f.net
>>353
そんなこと誰も聞いてねえんだ馬鹿!


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?

何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えろよ。

361 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:27:51.37 ID:cSRaC79f.net
>>353-355
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

362 :出土地不明:2015/07/06(月) 22:28:32.00 ID:cSRaC79f.net
>>350-351
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

363 :縄文狼:2015/07/07(火) 00:58:00.13 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>356-358
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

>>176
>南方式支石墓って?

ちなみに支石墓の「北方式」「南方式」は半島での分類標記であり、高くそびえる
テーブル式が「北方式」、低い碁盤式が「南方式」で分布と由来が明確に分かれているから
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=54777505&amp;no=2

本 当 に

364 :縄文狼:2015/07/07(火) 01:00:30.46 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)、

を前提とするとちょっと修正

渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

つまり、第0波、第一波ともに匈奴化の影響を受けずに渡来してきたことになりますね〜

365 :縄文狼:2015/07/07(火) 01:02:24.11 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)


この徐福を秦西南夷に置き換えてみると、以下の2つの仮説が説明されますね〜
1)東夷は西南夷
2)秦氏は徐福の孫

1)東夷は西南夷
>「秦西南夷」は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。

後漢書東夷伝では、倭国は「会稽郡東冶の東にあり、朱崖や憺耳と相似しており、
その法俗も多くが同じである」としている
"其地大較在會稽東冶之東、與朱崖・憺耳相近、故其法俗多同"
(漢代に置かれた朱崖・憺耳両郡は倭人の風俗物産が同じ)

「男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。
着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。
婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。

稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、
矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。
ある物とない物を比べると憺耳・朱崖と同じである。」

366 :縄文狼:2015/07/07(火) 01:34:17.76 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)

>>84
>吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり第一波(こちらで言うところの
第0波)の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。

>>365の後漢書東夷伝では、倭国は
1)蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
としながらも
2)倭地に牛・馬はいない。
と報告している

これからしても、第0波の弥生中期のプレ秦氏(原三国人)と、第1波の
弥生後期の徐福集団(楽浪漢人)は、匈奴や東胡の影響を受けずに列島に
渡来したといえる

つまり>>85でいう鳥越憲三郎や諏訪春雄の倭族説と、江上の騎馬民族渡来説の
融合は、第二波の古墳中期以降に秦・羌族(秦氏)(三国人)の渡来で
はじめて生じるのである

367 :縄文狼:2015/07/07(火) 02:01:54.76 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>362
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

>で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々なリアルタイムの中国文化を
九州北部に伝えなかったんだ?

>で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

これをよく読んでみるとはっきりするよ〜!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

368 :縄文狼:2015/07/07(火) 02:09:04.53 ID:g6Q9WrHs.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>367
1)第0波:弥生中期、原三国人(プレ秦氏)が持参
  原三韓土器

2)第一波:弥生中期末〜後期、楽浪漢人(徐福集団)が持参
  楽浪土器

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が持参
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド

369 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:46:59.44 ID:wZCmYKST.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

370 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:47:37.17 ID:wZCmYKST.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

371 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:48:16.05 ID:wZCmYKST.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

372 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:49:10.80 ID:wZCmYKST.net
>>353
そんなこと誰も聞いてねえんだ馬鹿!


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?

何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えろよ。

373 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:49:47.15 ID:wZCmYKST.net
>>353-355
早く納得できる説明をしろよ極悪詐欺師。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

374 :出土地不明:2015/07/07(火) 02:59:53.41 ID:wZCmYKST.net
>>367
雲南なんて今でも奥地では鼎を使ってるの鼎のメッカじゃないか。


じゃあ、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は、何で様々なリアルタイムの
の北タイや雲南の中国文化を中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

375 :LUNAMASK:2015/07/07(火) 09:40:53.77 ID:1Cwita15.net
>>355
古東北類型   特点:高頭、広顔、顔部扁平度較大 分布区:東北三省和東蒙
古蒙古高原類型 特点:低頭、広顔、顔部扁平度較大 分布区:蒙古高原,延伸到内蒙中部
古華北類型:  特点:高頭、狭顔,顔部扁平度較大 分布区:内蒙古中南部,延伸到晋冀一帯
古西北類型:  特徴:高頭、狭顔、顔部扁平度中等 分布区:黄河上遊,延伸到関中地区
古中原類型:  特徴:中高頭、中顔、低 眼 、広鼻 分布区:黄河中下遊地区,延伸到長江中下遊。
峡江類型:   特徴:中頭型、狭顔、低 眼 、中鼻 分布区:川東、鄂西。
古華南類型:  特徴:長頭、低顔、広鼻、低 眼 分布区:東南沿海地区

古東北類型   C3c
古蒙古高原類型 C3
古華北類型:  O2b
古西北類型:  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
古中原類型:  O3a3 M159
峡江類型:   O3a2 P201 O3/-002611←これらのいずれかが天皇家の人相に近い
古華南類型:  O1a M119 O2a-M95*

376 :LUNAMASK:2015/07/07(火) 10:06:12.60 ID:1Cwita15.net
>>375 伽耶 の都怒我阿羅斯等(牛頭天王)/兵主大社を守護神とする纒向箸(土師)墓が既に別途日向に降臨し、後漢からは帥升として倭面土国玉璧
を受けていた神武の系統の初代元首卑弥呼のの墓でしょう。都怒我阿羅斯等はO3/-002611三苗の祖、蚩尤であり、墓の主は女系では摂津
    三島溝咋、古華南類型:  O1a M119 O2a-M95*、後を引くが、男系においては楚であっても、また、ペー族である古テン王国であってもよい
    O3a2 P201である可能性がもっとも高い。

377 :LUNAMASK:2015/07/07(火) 10:25:06.64 ID:1Cwita15.net
>>376
「そのため,楽浪建郡の余波で結束を強めた北部九州の倭人集団が,集落維持のために原の辻貿易のいわば"大株主"となっていた状況が想定
できよう。」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
縄文狼さんの言われる安曇海人族を率い、須玖・吉野ヶ里の青銅器工人、安本氏発見の鳥形集落を結成する夏・禹の鳥の吉兆神事を儀式化した
越人集団、を配下に置く三雲の大株主は多数の水夫を倭面土国・山幸に提供したにも関わらず、待ちに待った内行花文鏡はほとんど得られず、
これでは国事は任されないと天孫勢力打倒の狼煙を上げ、遂には倭国乱にいたり、天孫側は伽耶経由楽浪からの援軍を要請したのでしょう。

378 :LUNAMASK:2015/07/07(火) 10:59:46.36 ID:1Cwita15.net
少なくとも神武の山岳戦闘員は久米族であった。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jinmu.html
昆明(久米)族とは叟(曽於)族のことで、出自はテイ羌。
昆明族,実系叟族,也称昆族。昆明族出自Di羌后与其他民族交錯居住在一起,以后逐漸分化融合
,分別成為近代彝、哈尼、拉hu、Susu、阿昌、景頗等民族. 分布在雲南西部、中部地区的昆明族
是白族先民的主体,而且昆明族主要也分布于雲南西部、中部地区。因此 可以近似的認為
白族是昆明族主体的直系后裔。 漢武帝時期雲南的昆明族是当今白族。楼上的注意了:
《華陽国志・南中志》載:“夷人大種日昆,小種日叟”。出自氏羌系統的西南各族中,昆明族被称
為大種,叟族被称為小種。在后時很多着述中多以 昆 或者 叟 来指代其整体。所以有以上
昆明族実系叟族之説而昆明族是白族公認的先民~ (大理州政府官網 史学研究組織)イ尓応該
不会認為一箇民族可以整体性的数典忘祖巴~三苗,蚩尤,黄帝,華夏部,三苗部之類天知道
有多少箇伝説的版本~呵呵但有一点很重要:民族的遷徙与発展,融合与分化正如同暦史的
延続一様併非是一箇線性的発展暦程~~~~
http://zhidao.baidu.com/question/14221143.html
で、秦の頃、北方の羌系犬戎が既に雲南に到着を始めており、その一部が徐福に編入され、
これが後の涼州系秦氏となって匈奴の末裔、悦般(夕月)君共々継体朝として渡来する。

379 :LUNAMASK:2015/07/07(火) 11:18:31.93 ID:1Cwita15.net
楽浪から楽浪夷積石塚に載ってはせ参じる纒向ホケノヤマ被葬者はよりによって呉越の名鏡
画文帯神獣鏡を持参した。これは「原の辻貿易のいわば"大株主"」の須玖乃至は甘木朝倉の
越人・鳥トーテム民族/呉太白后裔にちらつかせ、倭国乱鎮静・天下安泰を狙ったのであったと
すれば、当時の倭国・勅島・楽浪の連絡は驚くほど密であったと言わなけてはならない。対馬の
楽浪土器は大きな意味があったのかもしれない。

380 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:15:38.33 ID:hiZcBZyg.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

381 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:16:14.37 ID:hiZcBZyg.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

382 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:16:58.30 ID:hiZcBZyg.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

383 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:18:45.68 ID:hiZcBZyg.net
>>375-379
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?

何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?

何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?

384 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:20:02.35 ID:hiZcBZyg.net
>>375-379
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

385 :出土地不明:2015/07/07(火) 23:23:08.19 ID:hiZcBZyg.net
>>367
で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

386 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:08:01.42 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>380-382
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

387 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:20:19.96 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>385
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

これをよく読んでみるとはっきりするよ〜!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

本 当 に

388 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:24:26.90 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)、

を前提とするとちょっと修正

渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期末〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
      後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期末に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

つまり、第0波、第一波ともに匈奴化の影響を受けずに渡来してきたことになりますね〜

389 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:25:48.14 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)


この徐福を秦西南夷に置き換えてみると、以下の2つの仮説が説明されますね〜
1)東夷は西南夷
2)秦氏は徐福の孫

1)東夷は西南夷
>「秦西南夷」は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。

後漢書東夷伝では、倭国は「会稽郡東冶の東にあり、朱崖や憺耳と相似しており、
その法俗も多くが同じである」としている
"其地大較在會稽東冶之東、與朱崖・憺耳相近、故其法俗多同"
(漢代に置かれた朱崖・憺耳両郡は倭人の風俗物産が同じ)

「男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。
着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。
婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。

稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、
矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。
ある物とない物を比べると憺耳・朱崖と同じである。」

390 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:28:12.71 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)

>>84
>吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり第一波(こちらで言うところの
第0波)の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。

>>389の後漢書東夷伝では、倭国は
1)蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
としながらも
2)倭地に牛・馬はいない。
と報告している

これからしても、第0波の弥生中期のプレ秦氏(原三国人)と、第1波の
弥生後期の徐福集団(楽浪漢人)は、匈奴や東胡の影響を受けずに列島に
渡来したといえる

つまり>>85でいう鳥越憲三郎や諏訪春雄の倭族説と、江上の騎馬民族渡来説の
融合は、第二波の古墳中期以降に秦・羌族(秦氏)(三国人)の渡来で
はじめて生じるのである

391 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:32:05.15 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>390
1)第0波:弥生中期、原三国人(プレ秦氏)が持参
  原三韓土器

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が持参
  楽浪土器

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が持参
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド

392 :縄文狼:2015/07/08(水) 09:41:08.65 ID:PSTQdPDC.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>391
土器ちゃんから再三突っ込みのある生活財としての渡来土器の動向からすると
わが列島の北部九州への楽浪土器の搬入は、弥生後期から終末期にピークになり
楽浪崩壊以前であっても古墳初期になると激減します

その代わり原三韓土器の方は、同じく弥生後期から弥生終期にピークになった後
終末期以降は、三韓土器として次第に伽耶系よりも馬韓系が増えるそうです〜

本 当 に

393 :LUNAMASK:2015/07/08(水) 11:10:03.10 ID:+ywWMMYl.net
>>388-391
今はこんなピクチャーです。
(全体)
峡江類型:   O3a2 P201
        @古テン王国神明造神殿
        A楚国板楯蛮/肥後(装飾古墳)紀州(丹生都比賣)
        O3/-002611 楚国三苗蚩尤→伽耶/ツヌガアラシト

(長江デルタ)
古華南類型:  O1a M119 O2a-M95* にぎはやひ(弥生中期) はやひわけ(吉野ヶ里) 
        呉越人/楚国越人是石寨山型銅鼓的設計製造者

(黄淮→東南沿海)
古中原類型:  O3a3 M159 ににぎ(弥生後期-古墳前期) 盤古、 盤瓠与瑶族、畭族的来源

(河西回廊→渭水)
古西北類型:  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117
        少彦名/炎帝(古墳後期以降) 20世紀西南地区石棺葬発現研究的回顧与思考
ニギハヤヒの九州での動きに並行して別働隊は錦江河口に上陸し、洛東江に移動した、これが
棟持柱神殿を残したんでしょう。彼らは伽耶で止まり、対馬・壱岐経由上陸する・・・
これってニニギでしょうね。
>>392 よくわかりました。

394 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:07:41.24 ID:ymRiNMRr.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

395 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:08:08.90 ID:ymRiNMRr.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

396 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:08:45.26 ID:ymRiNMRr.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

397 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:11:29.67 ID:ymRiNMRr.net
>>393
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?

398 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:14:15.94 ID:ymRiNMRr.net
>>393
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

399 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:20:25.68 ID:ymRiNMRr.net
>>386
↓こういう詐欺を働く悪質な人間がいるから貼ってやってるんだが。


232 :LUNAMASK:2015/06/26(金) 11:09:23.60 ID:XDye9pZB
>>228 そうですね。
>>229 そうですね。逆に、棟持柱式神殿は日本にのみしか来ていない。つまり、満蒙
    朝鮮には足を延ばしていないと言えますね。おそらく最初は吉野ヶ里、そして
    その影響がそれが近畿に移動した遺跡とか、その後に渡来する王子遺跡
    に影響したんでしょう。これは皇統系統だと思います。




で、半島の棟持柱高床式

400 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:22:19.84 ID:ymRiNMRr.net
>>386



で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?



.

401 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:26:35.87 ID:ymRiNMRr.net
>>387
原三韓土器って何?

そんな名称の土器なんか無いんだが、具体的にどの土器?

正式名称は?

402 :出土地不明:2015/07/08(水) 12:32:32.85 ID:0/Kam0er.net
>>386-392
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

403 :LUNAMASK:2015/07/08(水) 12:45:11.13 ID:+ywWMMYl.net
>>393 続き
古東北類型   C3c 粛慎・邑婁
古蒙古高原類型 C3 石板墓文化東胡・烏桓
古華北類型:  O2b 天日矛/貊人
貊人は河北凌河文化から遼寧銅剣文化、第二松花江琵琶形銅矛文化等の青銅器文化を発展
さすが、この第二松花江琵琶形銅矛文化がいわゆる沃沮人。これが縄文化している先住民貝丘
文化・安曇共々、粘土帯土器文化地帯に沿って南下、水石里、勅島、サドリに入る。
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a_t1.gif
この沃沮、安曇の頭越えで東胡・烏桓が彼ら共々出雲に入る。ここで九州から入ってくる長江
デルタニギハヤヒ・呉越人と習合し、弥生墳丘墓が誕生する。この習合の過程は後に纒向で
黄海沿岸貊人文化である積石塚と習合して前方後方墳を生むプロセスのモデルとなる。

404 :LUNAMASK:2015/07/08(水) 12:50:39.11 ID:+ywWMMYl.net
誤 この習合の過程は後に纒向で黄海沿岸貊人文化である積石塚と習合して前方後方墳を
  生むプロセスのモデルとなる。
正 この習合の過程は後に纒向で黄海沿岸貊人文化である積石塚と習合して前方後円墳を
  生むプロセスのモデルとなる。

405 :LUNAMASK:2015/07/08(水) 16:13:04.75 ID:+ywWMMYl.net
秋田物部で画像を検索すると↓
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%89%A9%E9%83%A8&biw=1350&bih=611&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=HsecVf70Gon58QWRjaLoCA&ved=0CAcQ_AUoAg
こうした円形積石が出てくる。
円形積石と前立本尊としての鹿石をセットにするのは西モンゴリアのヒリグスール・鹿石文化で
あった。YDNAでは現地には今もO2bが残る。恐らく秋田物部は神武に追われた河内物部であり、
石上の大和物と同族であろう。彼らは資源回収にも似た銅剣改鋳が生業の物部は極東最古の
青銅器文化ある遼寧銅剣、積石塚、支石墓文化の担架者であろう。従い、藤原氏の太陽鹿トーテ
ムの春日大社もどこかで物部に繋がっている可能性がある。ロシア学会は鹿石文化をコーカサ
スにつなげるが、私は逆に趙宝溝文化と結び付けたい。

406 :出土地不明:2015/07/08(水) 22:10:26.30 ID:lpYEAlWQ.net
>>403
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?

407 :出土地不明:2015/07/08(水) 22:11:38.61 ID:lpYEAlWQ.net
>>403-405
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

408 :LUNAMASK:2015/07/09(木) 10:55:03.70 ID:qvQbQ0xt.net
トゥーヴァ/肥後騎馬民族墓制
●箱式石棺墓→羌
●石板並砌墓壁形成した地下式石室墓→東胡
●石塊塁砌墓壁建成した古墳石室墓→貊
渾邪是漢代匈奴的一支。元狩二年(公元前121年),霍去病破隴西,俘虜渾邪王子及相国、
都尉。匈奴単于欲殺渾邪王。渾邪王和休屠王等遂降漢, 共四万余人,号十万。封渾邪王万戸,
為○陰(Dezhou, Shandong)侯。隴西、北地、朔方、雲中、代五郡設五属国納其部衆。漢従此遂占
有河間地。
http://baike.baidu.com/view/9202142.htm
西晋時期北方各族分布図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/%E8%A5%BF%E6%99%89%E6%99%82%E6%9C%9F%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%90%84%E6%97%8F%E5%88%86%E5%B8%83%E5%9C%96.png
これからわかることは、中国古代北方の騎馬民族文化が中原農業民族文化地区の暦史、文化を
推進し、発展させたことと、中国歴史上の二度にわたる民族大融合と同時に海東諸国古文化にも
影響を与えたという非常に明白な事実である。その影響の過程乃至は伝播の路線は、長城内外と
東北遼寧、吉林等の地点で出土多数の魏晋時期事物から、及び、朝鮮半島で発現する
紀元4‐5世紀の馬具の形状に明確に反映されているが、中国北方を起点とし、東北に沿うようにし
て朝鮮半島を経て日本に向けて延伸発展している。このような影響が発生し、そして海東諸国に
伝播した暦史背景には紀元世紀初め(西暦307年)西晋の“永嘉之乱”によって中原地区の人民が
中国東北に大流出するといった諸因素が密切な関系をもっているのであろう。
http://economy.guoxue.com/?p=9240

409 :LUNAMASK:2015/07/09(木) 11:26:46.47 ID:qvQbQ0xt.net
楽浪夷積石塚と共に渡来した物部の布留川石上神宮は明らかに沸流河松譲王を意識して立地し
ており、物部が高句麗と神話を共有していたことを物語るが、他方、西モンゴル、ザフチン・ウリャ
ンハイのヒリグスル・鹿石文化にあった中臣貊は熱河方面から匈奴に従軍してこの地に到り、トゥ
ーヴァでウルグヘム文化に入った後、霍去病の匈奴征服に伴い隴西、北地、朔方、雲中、代五
郡から青海省にかけて散らばっていたが、これが永嘉之乱で東方に民族移動を起こし、河内
王朝時に筑前・肥後にはいり、東遷し中臣氏となるものと考えられる。

410 :LUNAMASK:2015/07/09(木) 12:47:27.27 ID:qvQbQ0xt.net
永嘉之乱で千年前の犬戎国・下約文化・魏營子/凌河文化時代の民族状態が再燃し、民族移動
が始まった結果、中臣・秦(哈尼)・隼人(犬戎納西)・アヴァール/エフタル(土洞(カタコーム)墓)が
騎馬民族として九州に上陸、西日本・関東に移動する。これが謎の4世紀の実像であろう。

411 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:02:59.25 ID:8ZynbdpN.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

412 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:03:31.97 ID:8ZynbdpN.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

413 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:04:04.38 ID:8ZynbdpN.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

414 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:05:37.27 ID:8ZynbdpN.net
>>408-410
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?

415 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:06:48.64 ID:8ZynbdpN.net
>>408-410
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

416 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:08:24.47 ID:8ZynbdpN.net
>>386-392
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

417 :出土地不明:2015/07/10(金) 00:10:28.09 ID:8ZynbdpN.net
>>386-392
で、原三韓土器って何?

そんな名称の土器なんか無いんだが、具体的にどの土器?正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?

418 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:08:53.51 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>411-413
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

419 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:11:21.77 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>416
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜!!
(土器ちゃんを除く)

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

本 当 に

420 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:12:32.07 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)、

を前提とするとちょっと修正

渡来人の進入ルートを整理すると
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期末〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
      後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期末に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復活した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

つまり、第0波、第一波ともに匈奴化の影響を受けずに渡来してきたことになりますね〜

421 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:16:08.87 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>293
>徐福の到着した遼東・古朝鮮では国王盧綰は匈奴に亡命、衛満も漢を逃れて朝鮮に下っていた。
>徐福一行の生きる道は匈奴を措いてなかった。
>ただ、一部は吉野ヶ里、錦江に上陸しひたすら東へと伸びていた。
↓(月光さん修正)
>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)


この徐福を秦西南夷に置き換えてみると、以下の2つの仮説が説明されますね〜
1)東夷は西南夷
2)秦氏は徐福の孫

1)東夷は西南夷
>「秦西南夷」は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。

後漢書東夷伝では、倭国は「会稽郡東冶の東にあり、朱崖や憺耳と相似しており、
その法俗も多くが同じである」としている
"其地大較在會稽東冶之東、與朱崖・憺耳相近、故其法俗多同"
(漢代に置かれた朱崖・憺耳両郡は倭人の風俗物産が同じ)

「男子は両耳を露にして髪を結い、木棉の布でハチマキのように縛る。
着衣は場サ幅の拾い布をただ束ねて体に巻きつけて、おおよそ縫うことない。
婦人は頭髮を分けて束ね、単被のように衣をつくり、その中央を穿けて貫頭衣とする。

稲や麻を種え、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
倭地に牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。
武器には矛・楯・木弓を使う。木弓は握りの部分から下を短く上を長くしたもので、
矢竹の先には鉄の鏃と骨の鏃を用いる。
ある物とない物を比べると憺耳・朱崖と同じである。」

422 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:28:35.48 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>403-405
>>409
>>84
>吉野ヶ里土敦墓は東胡石板墓の影響を受けない最早期つまり第一波(こちらで言うところの
第0波)の純粋の徐福求仙団の遺跡だった。

>>421の後漢書東夷伝では、倭国は
1)蚕を飼って絹糸を紡ぎ、その糸を使って織物をつくる。
としながらも
2)倭地に牛・馬はいない。
と報告している

これからしても、第0波の弥生中期のプレ秦氏(原三国人)と、第1波の
弥生後期の徐福集団(楽浪漢人)は、匈奴や東胡の影響を受けずに列島に
渡来したといえる

>>408
>>408
>>408
つまり>>85でいう鳥越憲三郎や諏訪春雄の倭族説と、江上の騎馬民族渡来説の
融合は、第二波の古墳中期以降に秦・羌族(秦氏)(三国人)の渡来で
はじめて生じるのである

423 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:34:51.20 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>422
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が持参
  原三韓土器

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が持参
  楽浪土器

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が持参
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド

424 :縄文狼:2015/07/10(金) 11:43:14.99 ID:SBEGHbZA.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>393と照合すると
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が持参
  原三韓土器→→→【これがニギハヤヒ】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が持参
  楽浪土器→→→【これがニニギ】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が持参
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→→→【これがツヌガアラシト】

425 :LUNAMASK:2015/07/10(金) 15:17:32.74 ID:Imn+FIXC.net
匈奴は五胡(六夷)十六国に分かれるが、中臣氏はその内で、前燕を建国する鮮卑にあり、
百済が遼西を経略するに従い百済経由倭国に入るようになったのであろう。倭国では何かにつけ
先輩の物部に付いていたようだ。六夷とは五胡プラス巴テイのことを言う。九州の装飾古墳には
蕨手紋と呼ばれる羌族羊頭紋と楯が描かれるが、楯は秦朝で巴寡婦清が私兵を擁していた頃の
板楯蛮で、弩弓の射手として徐福集団に編入され、匈奴に入ったのであろう。つまり、九州には
テイ羌と巴テイが多かったということだが、板楯蛮は巴寡婦清を丹生都姫とし、部族の守り神を
射楯兵主とし、最終的には紀州でいろんな時代を私兵として生き抜いたもので、宗教に転じると
修験道、真言、仏教新宗派を生んだものと見られる。

426 :LUNAMASK:2015/07/10(金) 16:21:04.58 ID:Imn+FIXC.net
>>420-424 >>393
1)ニギハヤヒ集団は弥生中期吉野ヶ里(ハヤヒワケ)で誕生した青銅器文化集団が出雲、近畿、
東海に移住したもの。
2)ニニギ集団とは弥生後期中葉、弥生墳丘墓・積石塚と共に渡来し、主として盤口壺に似た
口縁形状を強調した土師器、S字甕を共通土器に使用する集団。
3)ツヌガアラシトは楚の苗族の守護神牛頭の蚩尤で徐福集団である呉越から雲南にかけての
諸族統合の象徴として卑弥呼の墓箸墓の守護神兵主神社に祀られるもの。これは初期大和
前方後円墳諸国首長連合成立の証しと言える。

427 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:09:40.18 ID:8ZynbdpN.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

428 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:10:09.18 ID:8ZynbdpN.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

429 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:11:26.17 ID:8ZynbdpN.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

430 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:13:00.57 ID:8ZynbdpN.net
>>425-426
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?

431 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:14:21.04 ID:8ZynbdpN.net
>>425-426
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

432 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:19:07.32 ID:8ZynbdpN.net
>>418-424
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?


で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

433 :出土地不明:2015/07/10(金) 18:44:41.69 ID:8ZynbdpN.net
>>418-424
そうだ、その原三韓土器という聞いた事もない不思議な未知の土器の
画像をここに貼って皆に見せてやってくれよ。

俺もどんなものだか楽しみだし。

434 :出土地不明:2015/07/11(土) 06:51:50.00 ID:0GIhSgKu.net
ドラえもん、最新作は『日本誕生』
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1436506678/
家でも学校でも叱られてばかりの のび太が、家出をしようと思い立つが、
どこに行っても持ち主のいない土地はないとを知ることから始まる。
ドラえもん、しずか、ジャイアン、スネ夫もそれぞれの理由で家出を決心するが、
みんなで行くところがなく途方に暮れ、いっそのことまだ誰も住んでいない太古の日本へ行こうと考え、
史上最大の家出へと出発する。

435 :LUNAMASK:2015/07/11(土) 11:18:32.11 ID:r77Bwi+/.net
●テン王国を中心に集結した戦国楚諸民族集団からなる徐福集団
●テイ、羌、巴を主体とする五胡中の徐福ディアスポラ集団
だがしかし、継体王朝の帯びるチュルクの色調はこれらだけでは説明不可能である。
高霊(コリョン)の池山洞(チサンドン)古墳群に見えるクルガン列群とトゥーヴァ・コケリ、クルガン
列群の比較から見えてくる継体朝と突厥を結ぶユーラシア・チュルク・ホライゾンに目を向ける
必要がある。

436 :縄文狼:2015/07/11(土) 18:47:27.58 ID:sconWX8n.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>426
>ツヌガアラシトは楚の苗族の守護神牛頭の蚩尤で徐福集団である呉越から雲南にかけての
諸族統合の象徴として卑弥呼の墓箸墓の守護神兵主神社に祀られるもの。これは初期大和
前方後円墳諸国首長連合成立の証しと言える。



なるほどわが大和民族が王都として開闢した三輪山の近くには、兵主神社があります
牛頭天王の蚩尤が、その後の王都京都の八坂神社の守護神になるわけですね〜

437 :縄文狼:2015/07/11(土) 18:58:41.76 ID:sconWX8n.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>426
>ツヌガアラシトは楚の苗族の守護神牛頭の蚩尤で徐福集団である呉越から雲南にかけての
諸族統合の象徴として卑弥呼の墓箸墓の守護神兵主神社に祀られるもの。これは初期大和
前方後円墳諸国首長連合成立の証しと言える。



これを受けて>>424をちょっと修正
>>393と照合すると
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が渡来
  原三韓土器→→→【これがニギハヤヒ】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が渡来
  楽浪土器→→→【これがニニギとツヌガアラシト】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が渡来
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→→→【これがアメノヒボコ】

438 :縄文狼:2015/07/11(土) 19:03:18.08 ID:sconWX8n.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>426
>ツヌガアラシトは楚の苗族の守護神牛頭の蚩尤で徐福集団である呉越から雲南にかけての
諸族統合の象徴として卑弥呼の墓箸墓の守護神兵主神社に祀られるもの。これは初期大和
前方後円墳諸国首長連合成立の証しと言える。



しかしこれでは↓と矛盾しませんか??
>>182
>O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗)
>O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗)
>の来朝は早くとも河内王朝以後、基本的には継体朝と見られるため、吉野ヶ里が初めから
>一気通貫でテンパイしていたわけではなく、ペンちゃん状態であった

439 :縄文狼:2015/07/11(土) 19:52:33.05 ID:sconWX8n.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>432
>原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?

しょうがないね、クレクレで 笑
そろそろ解説してあげよう〜

Q:原三韓土器とは?
A:
三韓土器は大きく瓦質土器と陶質土器の2つに分かれる
これに三韓の国家成立時期と重ねると、以下のとおり若干のずれがある

|←   瓦質土器   →|←  陶質土器 →|
|←    原三国時代    →|←三国時代→|

つまり原三国時代の後期から馬韓地域においては、大型の構造竈による陶質土器が造られ
復興した馬韓地域と九州北部を結ぶ奴国ルートを通じてわが列島の須恵器に大きな影響を与える
(ちなみに百済はじめ三国成立後も馬韓(慕韓)は5世紀まで存続する)

この馬韓(慕韓)人の一部が、>>438でいうところの
>O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗)
>O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗)

参考)
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期末〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
      後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期末に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復興した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

440 :縄文狼:2015/07/11(土) 20:02:18.37 ID:sconWX8n.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>433
つまり、わが列島の須恵器に影響をもたらす三国時代にまたがった陶質土器と、
それ以前の原三国時代にあった瓦質の三韓土器および第0波の渡来人を
明確に区分するために「原三韓土器」という名称を用いたのだよ

わかったか??
本 当 に

441 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:27:03.29 ID:pNK2Cs0i.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

442 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:27:38.90 ID:pNK2Cs0i.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

443 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:28:03.86 ID:pNK2Cs0i.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

444 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:29:46.18 ID:pNK2Cs0i.net
>>435
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

445 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:30:34.58 ID:pNK2Cs0i.net
>>435
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

446 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:35:05.99 ID:pNK2Cs0i.net
>>439-440
ほう、素晴らしい!


で、その原三韓土器のソースは?


で、その画像はどうしたの?


みんなも俺も楽しみにしているんだが。

447 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:37:38.06 ID:pNK2Cs0i.net
>>436-440
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

448 :出土地不明:2015/07/11(土) 20:38:20.01 ID:pNK2Cs0i.net
>>436-440
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

449 :LUNAMASK:2015/07/11(土) 22:26:36.23 ID:r77Bwi+/.net
>>438
吉野ヶ里は後に須玖に渡来する青銅工人と作用しあって飛鳥越人社会を創生、出雲、近畿、
東海へと銅鐸文化を伸ばしたんでしょう。徐福団全体では呉もあれば、楚もあり、また、納西、
哈尼などもあるわけで、まだテンパっていなかったんでしょう。

450 :LUNAMASK:2015/07/11(土) 22:37:29.13 ID:r77Bwi+/.net
>>435
日本初のバスカヴィル家の犬は後趙石氏の末裔、カンガル犬を擁するチュルク族継体王朝の
ものか
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/hinomiya/hinomiya.htm

451 :LUNAMASK:2015/07/12(日) 11:36:08.60 ID:OmUFPsRK.net
古墳中期から徐福系秦氏に伴って、百済を中心にして渡来するアルタイ人は総体的に
先着・同期の徐福系に押され数の上でも伸び悩んだようである。
O2b-SRY   9.30% Uryankhai Mononobe/Nakatomi
C3 M217 4.10% Wuhuan Talakan Culture Owari
13.40%
N1c1-M178 0.40%* Yakuts/East Buryats N1c1 80-90%
C3c-M86 1.20%* Mohe Hitachi
N1-LLY22g   1.20%* Gokturks/Dingling Katsuragi
Q-P36   0.40%* Kets Kamo
R-M207 0.40%* Catacomb Culture
I-P19 0.40%* Kyrghyz

452 :LUNAMASK:2015/07/12(日) 14:52:41.41 ID:OmUFPsRK.net
>>450
(補足) 宝歴九年(1759)十月に、日野宮神社の祝部(神主)佐飛三郎右衛門が鯖江藩に提出
した由緒書によると、狼は 「体長二丈(約6メートル)で異国からやってきて日本国中を徘徊、
人民牛馬に害をなすこと甚大」 だった。 このため 「欽明天皇が紀州日宮に遷座していた第三
の皇子・臘嘴鳥皇子に退治を命令。 鈴鹿山で三臣が立ち向かうと、王命に恐れてたちまち平伏」
 した。 
 「秘密の祭礼では、巌中霊神犬王の御神前に三石三斗三升の御供を捧げた」 という。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/hinomiya.htmll

453 :LUNAMASK:2015/07/12(日) 16:18:15.60 ID:OmUFPsRK.net
>>452 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、
41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87

454 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:27:44.25 ID:NOje9Z1p.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

455 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:28:24.22 ID:NOje9Z1p.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

456 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:28:49.52 ID:NOje9Z1p.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

457 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:32:10.17 ID:NOje9Z1p.net
>>449-453
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

458 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:32:59.65 ID:NOje9Z1p.net
>>449-453
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

459 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:34:51.32 ID:NOje9Z1p.net
>>439-440
で、その原三韓土器とやらのソースは?


で、その画像はどうしたの?


みんなも俺も楽しみにしているんだが、早くしてくれないかな。

460 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:35:40.02 ID:NOje9Z1p.net
>>436-440
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

461 :出土地不明:2015/07/12(日) 20:36:14.10 ID:NOje9Z1p.net
>>436-440
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

462 :LUNAMASK:2015/07/13(月) 10:10:02.71 ID:g6LKHb8q.net
日本人はどこから来たか
アルタイ(トゥーヴァ盆地・高地アルタイ・西モンゴリア)
O2b-SRY   9.30% 積石塚 前期(阿讃播) 物部 中後期(甲信) 中臣
C3 M217 4.10% 烏桓
13.40%
N1c1-M178 0.40%* 前方後方墳
C3c-M86 1.20%* 権現後式土器
N1-LLY22g   1.20%* 継体王朝/犬飼部
Q-P36   0.40%* 賀茂氏
R-M207 0.40%* 土洞墓
I-P19 0.40%* 堅昆
西南夷(雲南・広西・四川・貴州)
O3a2 P201 6.20% Badi 装飾古墳メズラシ塚
O3a2c1 M134 5.20% Qiang 横穴石室墓
O3a2c1a M117 5.20% Qiang 横穴石室墓

O3a3   M159 5.20% She 前方後円墳
O1a M119 4.10% Yue 銅鐸/鳥形木製品
O2a-M95* 1.00% Dai 三島溝咋
O3/-002611 2.10% Miao 蚩尤 兵主大社
NO-M214  *2.3% Tai Buyi 瀬織津姫
29.00%*
C1-M8     3.10 %
D2     26.80%
O2b1-47z 26.80%
56.70%
阿讃播 古墳時代前期(3〜4世紀)を中心 甲信 中期後半から後期(5〜6世紀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A

463 :LUNAMASK:2015/07/13(月) 14:25:55.64 ID:g6LKHb8q.net
>>462 訂正/追加
>O3a2 P201 6.20% Badi 装飾古墳メズラシ塚
(1)テン王国王族 棟持柱高床神殿祭祀
(2)Badi 装飾古墳メズラシ塚 板楯蛮/射楯兵主大社

464 :LUNAMASK:2015/07/13(月) 18:39:01.20 ID:g6LKHb8q.net
>>462 中後期(甲信) 中臣 扶桑国
現代では宝賀寿男[13]や大和岩雄[14]も同様に日本の別名とする説である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91

465 :出土地不明:2015/07/13(月) 19:35:57.77 ID:5Pn+XZD6.net
お前は片手鍋かw

466 :LUNAMASK:2015/07/13(月) 21:57:51.22 ID:g6LKHb8q.net
匈奴高気圧は武帝の頃前漢高気圧に最も押されてたが、その前漢高気圧の勢力の弱まりと共
に自分も勢力の中心を西に移したが、その後匈奴の故地には五胡十六国という新たな高気圧が
発生し、西晋に向かって南下を始める。そしてこの頃、一つの気団がチベット高原に南下した後
黄河左岸に沿って東進を開始する。縄文の故郷、安曇の里に上越から、又遠く蝦夷経由で千曲
川から遡上してきたのはこの気団であった。それは匈奴に下る数千年の昔から趙宝溝文化に
発生した太陽鹿文化だった。この頃信濃に入った旅人はそれを扶桑国と呼んだ。
蝦夷及び朝鮮半島と積石塚古墳との関係
http://rarememory.justhpbs.jp/emisi/b.htm

467 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:19:20.13 ID:VfeNUtAR.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

468 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:19:46.67 ID:VfeNUtAR.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

469 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:20:25.67 ID:VfeNUtAR.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

470 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:21:35.98 ID:VfeNUtAR.net
>>462-464
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

471 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:22:30.58 ID:VfeNUtAR.net
>>462-464
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

472 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:24:58.16 ID:VfeNUtAR.net
>>439-440
もしもーし。



で、その原三韓土器とやらのソースは?



で、その画像はどうしたの?




みんなも俺も楽しみにしているんだから、早くして頂きたい。

473 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:25:48.76 ID:VfeNUtAR.net
>>436-440
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

474 :出土地不明:2015/07/13(月) 23:26:21.42 ID:VfeNUtAR.net
>>436-440
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

475 :縄文狼:2015/07/14(火) 11:37:58.85 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>467-469
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

476 :縄文狼:2015/07/14(火) 11:40:49.73 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>473-474
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

本 当 に

477 :縄文狼:2015/07/14(火) 11:46:25.28 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>473
>原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?

しょうがないね、クレクレで 笑
そろそろ解説してあげよう〜

Q:原三韓土器とは?
A:
三韓土器は大きく瓦質土器と陶質土器の2つに分かれる
これに三韓の国家成立時期と重ねると、以下のとおり若干のずれがある

|←   瓦質土器   →|←  陶質土器 →|
|←    原三国時代    →|←三国時代→|

つまり原三国時代の後期から馬韓地域においては、大型の構造竈による陶質土器が造られ
復興した馬韓地域と九州北部を結ぶ奴国ルートを通じてわが列島の須恵器に大きな影響を与える
(ちなみに百済はじめ三国成立後も馬韓(慕韓)は5世紀まで存続する)

この馬韓(慕韓)人の一部が、>>438でいうところの
>O3/-002611* 2.1 6.3 板楯蛮(土家苗)
>O3021354*/P201 6.2 5.7 板楯蛮(土家苗)

参考)
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期末〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
      後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期末に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復興した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

478 :LUNAMASK:2015/07/14(火) 13:28:35.65 ID:o8YQOWuG.net
>>477 横レスですが、こんな風に考えてます。
1)第0波:徐福第1波土井が浜人が吉野ヶ里に上陸、爾後土井が浜山陰山陽経由
      畿内東海に銅鐸・鳥形祭祀、棟持柱神殿と共に入植
2)第一波:非徐福阿讃播積石塚物部に便乗した徐福東地兵裔が神獣鏡を持参渡来3c初
3)第二波:永嘉之乱による五胡中の:
      O3a2 P201 6.20%* 巴テイ  装飾古墳メズラシ塚 *既に一部吉野ヶ里に渡来
      O3a2c1 M134 5.20% 羌 横穴石室墓 肥後4c末/畿内5c末
      O3a2c1a M117 5.20% 羌 横穴石室墓 肥後4c末/畿内5c末

479 :LUNAMASK:2015/07/14(火) 15:56:35.63 ID:o8YQOWuG.net
倭王武の言葉を借りるなら;

毛人 ナラ林文化
O2b-SRY   9.30% 積石塚 前期3-4c(阿讃播) 物部 中後期5-6c(甲信) 中臣
C3 M217 4.10% 烏桓
13.40%
N1c1-M178 0.40%* 前方後方墳
C3c-M86 1.20%* 権現後式土器

衆夷 九州 西南夷(雲南・広西・四川・貴州) 匈奴/五胡経由
O3a2 P201 6.20% Badi  装飾古墳メズラシ塚
O3a2c1 M134 5.20% Qiang 横穴石室墓 肥後4c末/畿内5c末
O3a2c1a M117 5.20% Qiang 横穴石室墓 肥後4c末/畿内5c末

畿内  照葉樹林文化
O3a2 P201      一部テン国王族は土井が浜と共に吉野ヶ里にBCE2c
O3a3   M159 5.20% 楚国東地兵 土井が浜BCE2c
O1a M119 4.10% Yue 銅鐸/鳥形木製品
O2a-M95* 1.00% Dai 三島溝咋
O3/-002611 2.10% Miao 蚩尤 兵主大社
NO-M214  *2.3% Tai Buyi 瀬織津姫
29.00%*
照葉樹林文化とナラ林文化
http://www.enyatotto.com/donguri/ikiru/bunka.htm

480 :出土地不明:2015/07/14(火) 16:01:04.66 ID:qciJmEQN.net
【Y-DNA】ハプロタイプで語るスレ17【mtDNA】 [転載禁止]&#169;2ch.net・
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1435973941/

月面はまろ彦と話合うかもなw

481 :縄文狼:2015/07/14(火) 16:13:00.45 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>477
>>393と照合すると
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が持参
  原三韓土器→→→【これがニギハヤヒ】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が持参
  楽浪土器→→→【これがニニギ】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が持参
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→→→【これがツヌガアラシト】

482 :縄文狼:2015/07/14(火) 16:43:39.26 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>478
>2)第一波:非徐福阿讃播積石塚物部に便乗した徐福東地兵裔が
神獣鏡を持参渡来3c初

再三にわたって、呉鏡である神獣鏡の分布と、半島朝鮮人が始祖とする
ワイ(穢)貊人の分布は全く異なることを示しております〜

>>105,>>62では物部氏の異形青銅器が徐福集団の秦人としておきながら、
>>409ではなんで物部氏が貊人にすり替わるんですか??


わが大和民族の始祖であるニニギを擁する第二波の主役が
ワイ(穢)人

ウェイ人(>>250,>>254
 ※この集団はウェイ族と言って、貊でも、ワイでもないところから、
 恐らくは呉の流れを引く、つまりは、吉野ヶ里人と同族と見られる。

貊人(>>296,>>409

と毎度毎度、ワイ(穢)貊人の中でコロコロと主役をすり替わるようでは
土器ちゃんに、妄想ストーリーの極悪詐欺師と言われてもしょうがないですね!!

483 :縄文狼:2015/07/14(火) 16:45:51.09 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>482ちょっと修正
誤)わが大和民族の始祖であるニニギを擁する第二波の主役
正)わが大和民族の始祖であるニニギを擁する第一波の主役

484 :縄文狼:2015/07/14(火) 18:27:46.10 ID:CdfZzBfQ.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>481
第0波〜第ニ波渡来時期におけるワイ(穢)貊人の変遷

1)後漢の建武6年(30年)、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。
その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の
諸県はみな侯となった。

2)夷狄(ワイ貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、
不耐のワイ侯だけは(晋の官吏としての)今(晋代)も続いている。
この不耐侯国の官吏はすべてワイ人(東ワイ人)が務めた。

3)後漢末期の混乱期になると、遼東地方で台頭した公孫氏が楽浪郡にも勢力を伸ばし
その支配下に収めた。

4)魏の正始6年(245年)、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、領内の東ワイが後漢末から
高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。

5)魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐ワイ王の位が授けられた。

6)313年には楽浪郡は高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。
楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入る

その後も、半島人の始祖であるワイ貊人は、現代とまるで同様に、高句麗と漢・魏
との間のコウモリ外交を繰り広げるわけですね〜

485 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:22:06.91 ID:Flmk1UqV.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

486 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:22:32.36 ID:Flmk1UqV.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

487 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:23:01.43 ID:Flmk1UqV.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

488 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:24:36.71 ID:Flmk1UqV.net
>>478-479
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

489 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:26:18.20 ID:Flmk1UqV.net
>>478-479
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

490 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:27:46.31 ID:Flmk1UqV.net
>>481-484
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

491 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:28:33.44 ID:Flmk1UqV.net
>>481-484
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

492 :出土地不明:2015/07/14(火) 19:34:51.09 ID:WeaJtbU9.net
>>481-484




で、その原三韓土器とやらのソースは?




で、その画像はどうしたの?




何日みんなを待たせるんだよ。

早くしろよ。

493 :縄文狼:2015/07/15(水) 09:32:10.99 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>492
>何日みんなを待たせるんだよ。

みんなって、どうせ土器ちゃんとフルボッキだけだろ 笑
話題になった方がいいじゃん

本 当 に

494 :縄文狼:2015/07/15(水) 09:33:25.79 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>485-487
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

495 :縄文狼:2015/07/15(水) 09:43:19.07 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>490-491
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜
>>485-487
土器ちゃんみたいに同じ論文の切り抜きを何度も張ったりしないから
自分で読んでね!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

本 当 に

496 :縄文狼:2015/07/15(水) 09:47:05.41 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>492
>で、その原三韓土器とやらのソースは?

しょうがないね、クレクレで 笑
そろそろ解説してあげよう〜

Q:原三韓土器とは?
A:
三韓土器は大きく瓦質土器と陶質土器の2つに分かれる
これに三韓の国家成立時期と重ねると、以下のとおり若干のずれがある

|←   瓦質土器   →|←  陶質土器 →|
|←    原三国時代    →|←三国時代→|

つまり原三国時代の後期から馬韓地域においては、大型の構造竈による陶質土器が造られ
復興した馬韓地域と九州北部を結ぶ奴国ルートを通じてわが列島の須恵器に大きな影響を与える
(ちなみに百済はじめ三国成立後も馬韓(慕韓)は5世紀まで存続する)


参考)
●弥生 対馬/壱岐→九州 蓋(晨) O2b1→安曇海人族
■弥生後期末〜古墳中期 対馬→沖ノ島→響灘→阿讃播→近畿 宗像海人族
すなわち
●奴国ルート→後の筑紫の磐井ルート:継体朝の百済人、テイ羌
■プレ大和朝廷ルート:三輪朝の大和族、出雲族

1)第0波:弥生中期に奴国ルートを通じてプレ秦氏(原三国人)が前漢鏡・
      後漢鏡(内行花文鏡)を奉じて北部九州に渡来
2)第一波:弥生後期末に楽浪・錦江を経由、プレ大和朝廷ルートを通じて
      徐福集団(楽浪漢人)が神獣鏡を奉じて阿讃播・近畿圏に渡来
3)第二波:古墳中期以降に遼西を経由して復興した奴国ルートを通じて
      秦・羌族(秦氏)(三国人)が須恵器をもたらして九州・近畿圏に渡来

497 :LUNAMASK:2015/07/15(水) 10:18:30.04 ID:9U7eUz/6.net
>>482 >>478
>2)第一波:非徐福阿讃播積石塚物部に便乗した徐福東地兵裔が
>神獣鏡を持参渡来3c初
>再三にわたって、呉鏡である神獣鏡の分布と、半島朝鮮人が始祖とする
>ワイ(穢)貊人の分布は全く異なることを示しております〜
O3a3   M159 5.20% 呉太白后裔楚国東地兵 呉鏡である神獣鏡 
O1a M119 4.10% 夏后少康后裔楚国東地兵 銅鐸/鳥形木製品
>>105,>>62では物部氏の異形青銅器が徐福集団の秦人としておきながら、
>>409ではなんで物部氏が貊人にすり替わるんですか??
O2b-SRY 9.30% 積石塚 前期3-4c(阿讃播) 物部 中後期5-6c(甲信) 中臣
異形青銅器が徐福集団の秦人->O1a M119 4.10% 夏后少康后裔楚国東地兵 銅鐸/鳥形木製品
非徐福阿讃播積石塚物部に便乗した徐福東地兵裔->O3a3 M159 5.20% 呉太白后裔楚国東地兵O2b-SRY 貊人O2b  9.30% 積石塚 前期3-4c(阿讃播) 物部 中後期5-6c(甲信) 中臣
貊人の一種楽浪夷は古朝鮮遼寧銅剣文化であり、異形青銅器管理主体、日本では物部。
>わが大和民族の始祖であるニニギを擁する第二波の主役が
>ワイ(穢)人

>ウェイ人(>>250,>>254
> ※この集団はウェイ族と言って、貊でも、ワイでもないところから、
> 恐らくは呉の流れを引く、つまりは、吉野ヶ里人と同族と見られる。

>貊人(>>296,>>409
>と毎度毎度、ワイ(穢)貊人の中でコロコロと主役をすり替わるようでは
>土器ちゃんに、妄想ストーリーの極悪詐欺師と言われてもしょうがないですね!!
ぶれてないと思うが。

498 :LUNAMASK:2015/07/15(水) 10:25:45.95 ID:9U7eUz/6.net
日韓の差を敢えて強調すれば安定株主である縄文が向こうの多数派株主であるC3/C3c
に比してややおとなしかったという程度かなー。

499 :縄文狼:2015/07/15(水) 11:51:20.88 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>497
これでは、ニギハヤヒとニニギとツヌガアラシトはいずこに??

参考)
>ツヌガアラシトは楚の苗族の守護神牛頭の蚩尤で徐福集団である呉越から雲南にかけての
諸族統合の象徴として卑弥呼の墓箸墓の守護神兵主神社に祀られるもの。これは初期大和
前方後円墳諸国首長連合成立の証しと言える。



これを受けて
>>393と照合すると
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が渡来
  原三韓土器→→→【これがニギハヤヒ】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が渡来
  楽浪土器→→→【これがニニギとツヌガアラシト】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が渡来
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→→→【これがアメノヒボコ】

500 :縄文狼:2015/07/15(水) 15:46:10.36 ID:44Jjpno2.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>497
だいたいこの定義が根本的におかしい

>2)第一波:非徐福「阿讃播積石塚」物部

半島人の解釈からしても、始祖のワイ(穢)貊人の墓制である「積石塚」と
列島で生まれた阿讃播の「弥生墳丘墓」はまるで別のもの

1)封土に葺石をあげる阿讃播の「弥生墳丘墓」は、封土を積み上げてその中に
墓室主体部を配置するが、「積石塚」は墓室主体部に積石を積むようになるので
見かけは同じでも内部の構造はまったく異なる

2) 「積石塚」には周溝がないですが,阿讃播の「弥生墳丘墓」には周溝があり
それがわが大和民族が創生した前方後円墳に引き継がれる

501 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:03:32.29 ID:pbfgjyH4.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

502 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:04:23.59 ID:pbfgjyH4.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

503 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:04:52.39 ID:pbfgjyH4.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

504 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:05:51.91 ID:pbfgjyH4.net
>>497-498
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

505 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:06:52.62 ID:pbfgjyH4.net
>>497-498
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

506 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:08:12.36 ID:pbfgjyH4.net
>>493-496
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

507 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:08:54.78 ID:pbfgjyH4.net
>>493-496
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

508 :出土地不明:2015/07/15(水) 19:14:31.53 ID:pbfgjyH4.net
>>496
それのどこがソースなんだよ?

単に自分勝手な脳内妄想と脳内創作じゃねえか。

その原三韓土器とやらの学術的ソースを出せと言ってるんだよ。学術的ソースを。




で、その原三韓土器とやらの学術的ソースは?




で、その画像はどうしたの?




何日みんなを待たせるんだよ。

早くしろよ。

509 :LUNAMASK:2015/07/15(水) 21:48:17.64 ID:9U7eUz/6.net
>>499 >>497
>これでは、ニギハヤヒとニニギとツヌガアラシトはいずこに??
ニギハヤヒ=ハヤヒワケ(吉野ヶ里)守護神
ニニギ=盤瓠
ツヌガアラシト=蚩尤
アメノヒボコ=銅矛(日光感精神話太陽神)
>>500 >>497
>半島人の解釈からしても、始祖のワイ(穢)貊人の墓制である「積石塚」と
>列島で生まれた阿讃播の「弥生墳丘墓」はまるで別のもの
ワイ(穢)とは無関係。阿讃播の積石塚は貊人の墓制である「積石塚」
盛土(封土)墳丘墓の起源は長江デルタ土敦墓だが、箸墓は密洛陀神話に従って前方を
スカートにしたもの。

510 :出土地不明:2015/07/16(木) 00:27:28.20 ID:OTLjHEIm.net
盛土墳丘墓なんて世界中で見られる単に最も原始的な墓のスタイルなだけだろがカス!

アフリカやヨーロッパやアメリカの盛土墳丘墓の起源が長江土敦墓なのかよカス!

511 :LUNAMASK:2015/07/16(木) 11:05:31.88 ID:DFATaJ66.net
「弥生時代の墳丘墓と土敦墓(どとんぼ)
日本では、弥生時代の墳丘墓も、前方後円墳などの古墳も、遺体を墳丘の比較的高いところ
(地面より高いところ)に埋葬する。
ところが、中国の華北では、遺体を地面より深いところに埋め、その上に土を盛るのが原則である。
いっぽう、呉や越の国があった江南地域の土敦墓(土とは、土を積んでできた高まりを指す)では
地面よりも高いところに遺体を埋葬する。
そして、土敦墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉、越の地域付近)で行われ
た埋葬形態であった。
越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは、土敦墓は消滅し、楚の木槨墓が行わ
れるようになった。
吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に行われた土敦墓
の影響を受けた可能性を示しており、この時代の人々が、日本列島に渡来したことと整合する。」
呉は越に、越は楚に、楚は秦にと滅ぼされるが、楚・越・呉民はテン王国に植民した後で秦により徐福求仙団に編入され、これが匈奴、楽浪、馬韓、吉野ヶ里経由大和に入る。
第267回 中国古伝承のなかの倭 金印奴国の滅亡
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm

512 :LUNAMASK:2015/07/16(木) 15:54:17.10 ID:DFATaJ66.net
>>355 神武東遷伝説を事実だとするに足りる証拠としては、鹿屋遺跡 http://www.osumi.or.jp/sakata/ise/ouziiise.html
 が東遷し、琵琶湖南岸伊勢遺跡に発展したという事実ではなかろうか。

「紀元1世紀末頃に、この遺跡は突如出現し、紀元2世紀末に衰退し始める。つまり、邪馬台国
時代前夜に、発達を遂げた不思議な遺跡30棟の棟持柱付大型建物が円周上に配置されてい
ると聞いて、筆者がすぐに思い浮かべた建物がある。出雲大社の東と西の十九社である。
我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいる。10月10日に全国の神々
が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、出雲以外では
神々が不在になるためである。東と西の十九社は、出雲に集まった神々の御旅社、つまり宿舎
だそうだ。 」
「この住居跡から復元される建物の規模の大きさには驚くべきものがあるが、さらに注目すべき
はその床と壁にあった。住居をつくるのに、先ず深さ80cm以上掘り込み、次に厚さ約25cmの
粘土を床面に貼り、その上面を焼いて整え、さらに約8cmの精良な粘土を貼り高温で焼いて固
めている。こうした床を焼床(やきどこ)といい、従来にはなかった建築工法である。この床には
さらに、直径2cm程の穴が多数、開けられていた。一方、壁際には40cm×30cm、厚さ
約8cmのレンガと思われる建築部材が少なくとも5個以上見つかっている。日本で出土した
焼成の最古のレンガは白鳳時代の7世紀後半とされてきたが、その歴史が500年もさかのぼる
ことになる。」
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ise%20iseki.htm

513 :LUNAMASK:2015/07/16(木) 16:38:32.00 ID:DFATaJ66.net
>>512 しかし、こうすると神武東遷の記述とは齟齬をきたす。とすると、これは琵琶湖南岸伊勢
遺跡はニニギ系ではなくニギハヤヒ系天孫であったのだろうか。こうするとニギハヤヒ系天孫が
大和盆地を制圧した後で日向から鹿屋遺跡に遅ればせながら天孫降臨していたニニギ系が
神武として大和に入るというのが正解のようだ。

514 :LUNAMASK:2015/07/16(木) 20:58:37.37 ID:DFATaJ66.net
神武は吉備特殊器台・特殊壺を畿内に導入、摂津(O2a-M95* 1.00% Dai 三島溝咋)と政略結婚
し、三輪に狭井神社を勧進、三輪で大和型庄内土器の生産を開始する。・・・これは事実だろうな。

515 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:27:03.85 ID:KCu71j7t.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

516 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:27:36.98 ID:KCu71j7t.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

517 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:28:15.66 ID:KCu71j7t.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

518 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:31:10.10 ID:KCu71j7t.net
>>493-496
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

519 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:31:48.38 ID:KCu71j7t.net
>>493-496
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

520 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:32:17.72 ID:KCu71j7t.net
>>496
それのどこがソースなんだよ?

単に自分勝手な脳内妄想と脳内創作じゃねえか。

その原三韓土器とやらの学術的ソースを出せと言ってるんだよ。学術的ソースを。




で、その原三韓土器とやらの学術的ソースは?




で、その画像はどうしたの?




何日みんなを待たせるんだよ。

早くしろよ。

521 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:33:21.70 ID:KCu71j7t.net
>>511-514
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

522 :出土地不明:2015/07/17(金) 01:38:30.67 ID:KCu71j7t.net
>>511-514
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

523 :出土地不明:2015/07/17(金) 02:25:40.83 ID:f49WW6Mw.net
>511
そんな電波サイトなんか出してんじゃねえよこの馬鹿!

だいたい墳丘墓なんて、埋めてから盛るか、盛ってからその中に埋めるか
しか無いじゃないか。

おまえ江南の土敦墓の副葬品までちゃんと調べた事があるのかよ?

江南の土敦墓の副葬品はな、日本の墳丘墓が江南ブタランドから伝わったものなら
伝わってなければおかしなものだらけなんだよ。

前にも教えてやっただろ。

江南ブタランド含むオール古代中国の墓の副葬品はたとえ奴隷であっても
サイテーでも陶鼎が絶対に副葬されるんだカス!

それプラス、身分に応じて尊やらキやら罍やら、弥生土器には見た事も聞いた事も
ない器種器形の陶磁器(しかも印文陶や青磁の)、あるいは龍を象った帯玉、弥生文物には
見た事も無い数々の楽器なんかがワンサカワンサカ出てくるんだよ。

龍一つ伝わって無い、副葬されてない。

江南なんて2兆%あり得ないね。

つか、おまえの頭は考古に全く向いてないんだよ。

だいたい江南の土トン墓の出土品くらい原書で目を通せよカス!

http://www.cuhk.edu.hk/ics/ccaa/talk9.htm

524 :縄文狼:2015/07/17(金) 09:23:00.39 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>513
>これは琵琶湖南岸伊勢遺跡はニニギ系ではなく
ニギハヤヒ系天孫であったのだろうか。

>>158
後期弥生に渡来の徐福百工・千童・鮫射撃手が弁辰・吉野ヶ里から丹後・若狭に
移動したのであれば、丹後一宮の元伊勢籠神社にみごとに符号します

つまり、古墳中期の応神・神功皇后朝は、丹後一宮の元伊勢籠神社の出自で
三輪朝の一部種族と同族であったということでしょう〜

>>154
徐福百工・千童・鮫射撃手
後期弥生 弁辰・吉野ヶ里→丹後・若狭
雲南出自
O3a3   M159 5.20% テン越 百工
O1a M119 4.10% テン越 百工
O2a-M95* 1.00% Zanke(夜郎) ダイ族 百工
10.30%
NO-M214*  *2.3% Zanke(夜郎)現布依族 百工

525 :縄文狼:2015/07/17(金) 09:31:11.58 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>513を受けて
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が渡来
  原三韓土器→【これがニギハヤヒ】=【応神・神功皇后朝】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が渡来
  楽浪土器→【これがニニギとツヌガアラシト】=【神武朝】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が渡来
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→【これがアメノヒボコ】 =【継体朝】

526 :縄文狼:2015/07/17(金) 09:33:28.09 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>515-517
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

527 :縄文狼:2015/07/17(金) 09:40:33.96 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>518-519
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人や韓国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜
>>518-519
土器ちゃんみたいに同じ論文の切り抜きを何度も張ったりしないから
自分で読んでね!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

528 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 09:47:18.99 ID:ZJaEqKY0.net
庄内式土器
O3a2c1 M134 5.20% 瑶族 羌と同YDNA
O3a2c1a M117 5.20% 瑶族 羌と同YDNA
「言い伝えによれば天地が混沌とした遠古時代“Miluotuo”と呼ばれる一つの山があった。
この大山は不断に動いていたが、できてから九百九十五年を経た頃、突然大きな音が響き、
山腹中からMiluotuo女神が爆出して来た。Miluotuoには“Fuhuadong-Fahuafeng”(師匠の意味)
という遠祖があったが、その師匠の死後、Miluotuoは師匠のかぶり笠をもって天地水・三才を
造り、師匠の手脚をとって天の四角の支柱に当てがい、師匠の身体を天の中心柱に当てがった。
女神は天地を造った。地が天よりも広かったので糸を使って天辺地辺を縫い合わせ、天地を固く
縫い締めたため、天は鍋蓋の如く隆起し、大地は平らに置かれたスカートのようにプリーツが
入り、突起部分は高山、凹んだ部分は河川となった。この後Milotuoは子を産み、太陽、月及び
万物を造り、そして人類を造ったのだ。」LUNAMASK訳
=============================================================================================
相伝在天地混沌的遠古時代,有一座名叫“Miluotuo”的大山。 這座大山不断移動,経過九百
九十五年,突然発生一声巨響,山肚裏爆出了一位Miluotuo女神。 Miluotuo 遠祖叫“Fuhuadong
-Fahuafeng”(意思是“Master”),Master死后, Miluotuo用“Master”的雨帽造天官,把Master的
手脚当柱子支 cheng天辺四箇角,把Master的身体当大柱cheng起天的中央。 Ta造了天又造
地。地比天還寛,就用線把天辺和地辺連縫起来,使天官緊繃,隆起像鍋蓋,大地皺起像平放
的榴裙,突幾的成高山,凹下的成河川。此后,Milotuo又生出児子,造出日、月和万物等,再造
人。 盤古、盤瓠与瑶族、畭族 的来源 文/東皇太一 2012-4-19
http://blog.sina.com.cn/s/blog_47827cbb010100vs.html
上記伝承は前方後円墳・箸墓の原郷を三江併流に限定する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B1%9F%E4%BD%B5%E6%B5%81 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


529 :縄文狼:2015/07/17(金) 09:58:22.85 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>520
しょうがないね、クレクレで 笑
そろそろ解説してあげよう〜

Q:原三韓土器とは?
A:
三韓土器は大きく瓦質土器と陶質土器の2つに分かれる
これに三韓の国家成立時期と重ねると、以下のとおり若干のずれがある

|←   瓦質土器   →|←  陶質土器 →|
|←    原三国時代    →|←三国時代→|

原三国時代の後期から馬韓地域においては、大型の構造竈による陶質土器が造られ
復興した馬韓地域と九州北部を結ぶ奴国ルートを通じてわが列島の須恵器に大きな影響を与える
(ちなみに百済はじめ三国成立後も馬韓(慕韓)は5世紀まで存続する)

つまり、わが列島の須恵器に影響をもたらす三国時代にまたがった陶質土器と、
それ以前の原三国時代にあった瓦質の三韓土器および第0波の渡来人を
明確に区分するために「原三韓土器」という名称を用いたのだよ

「原三韓土器」すなわち「三韓系瓦質土器」ということだ
わかったか???

本 当 に

530 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 09:59:37.46 ID:ZJaEqKY0.net
つまり、箸墓とは高天原・三江併流
http://gg-earth.org/asia/chi_sanko.html
から降臨した徐福民族が故国の山河の記憶を表現し、大和の礎とした
遺跡なのだ。

531 :縄文狼:2015/07/17(金) 10:02:29.50 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>520
>で、その原三韓土器とやらの学術的ソースは?
>で、その画像はどうしたの?

しょうがないね、クレクレで 笑
ほらよ
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c09harunotuji/c09harunotuji.html

土器博士なのに、原の辻貿易とか知らんの??

本 当 に

532 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 11:26:19.14 ID:ZJaEqKY0.net
>>530
「笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を
移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。
同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる。
笠縫邑は大嘗祭、豊明節会の起源に関係する土地との説もある。垂仁天皇紀25年3月丙申条
に、倭姫命は天照大神を磯城の厳橿の本に祀ったとあり、厳橿は神霊の神木で、崇神朝に
磯堅城の神籬を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91
当時、天照大神は“Miluotuo”の師匠であり、豊鍬入姫命、倭姫命は“Miluotuo”を代行する巫覡
であったと見られる。

533 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 12:01:18.16 ID:ZJaEqKY0.net
>>514 三江併流における河川の位置を見ると哀牢九隆伝説を継承するペー族は瀾滄江/元江
分水嶺地帶に位置する。>>191 白族最早的文化族源是九隆伝説。這箇伝説認為白族的先祖
是哀牢山一箇叫沙壱的聖母。沙壱在水裏並到一根沈木而懐孕,生下10箇孩子,其中一箇孩子
叫九隆,其后代就是白族人。所以明代保留下来的白族墓碑上常刻有“九隆族”的字様。
哀牢九隆伝説
http://www.mekong.ne.jp/directory/culture/legend01.htm
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E9%9A%86-1300588
従い、「沙壱」的聖母を大和川水源の三輪に置いたのであろうか。

534 :縄文狼:2015/07/17(金) 12:06:36.66 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>528
Miluotuoの祭壇である前方後円墳は、天地水・三才を具現化してるのでしょうか
これには>>532でいうところの神籬(ひろもぎ)となる神木の厳橿は出現しないので
三輪朝に継承された神籬による立柱祭祀は縄文由来なのでしょう〜

535 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:24:19.38 ID:9RK2v8oa.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

536 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:24:56.30 ID:9RK2v8oa.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

537 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:25:44.16 ID:9RK2v8oa.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

538 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:27:00.28 ID:9RK2v8oa.net
>>532-533
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

539 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:28:04.40 ID:9RK2v8oa.net
>>532-533
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

540 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:29:38.25 ID:9RK2v8oa.net
>>524-531
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明を頼むわ。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

541 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:30:36.88 ID:9RK2v8oa.net
>>524-531
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

542 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:42:25.53 ID:9RK2v8oa.net
>>529
>「原三韓土器」すなわち「三韓系瓦質土器」ということだ
>わかったか???




ぜーーーーーーんぜん分かりません。

三韓瓦質土器を原三韓土器と呼んでいるドキュメントなんか見た事がありません。

ちなみに三韓瓦質土器の登場はBC1C以降、楽浪瓦質土器の登場はBC2C末の事で、
ともに徐福の時代のBC3C末より100年以上も後の事ですんでね。




.

543 :出土地不明:2015/07/17(金) 12:46:21.48 ID:bOzbheVP.net
>>531



で、そのリンクのどこに原三韓土器なんて書いてあるんだよ?



で、どれが原三韓土器の画像なんだよ?




.

544 :縄文狼:2015/07/17(金) 13:22:32.60 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>542
山ノ寺式期の特異性を語らずに夜臼式期で一色単に論じてしまうのと同様に
瓦質土器と陶質土器をまとめて三韓土器にくくってしまうかわいそうな人のために
わざわざ分別して呼称してあげたんだが 笑

本 当 に

545 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 13:23:51.52 ID:ZJaEqKY0.net
>>534
弥生時代年表参照
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/sousei/yayoinoukou/hokoku05/b/b3.gif
秦西南夷(徐福)民族の吉野ヶ里植民は上図中国戦国/前漢の境。これが近畿中期IIに縄文文化
を銅鐸文化に変える。近畿はこの後、中期IVに縄文文化が消滅し銅鐸文化一色となる。近畿は
その後、後期VIに吉備に上陸してきた特殊器台・特殊壺から生まれた庄内式土器時代に入る。
この時「山子瑶没有社廟,為了方便祭祀,以石頭為神的象征,供于大樹之下。」山子瑶は社廟
を持たず、祭祀を行うには岩石を持って神の依り代とし、これを大樹の下に供う。・・・三輪山では
これが行われることとなる。
http://baike.baidu.com/link?url=_J_NH2noVLTS3IsSytvAMLYKeLvvAURSnCn3w1XxaLVhgn7x5u0nJWsfbyOEWJzuU6Pc-7hW2e3d29OkgnB33a

546 :縄文狼:2015/07/17(金) 13:25:41.16 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>535-537
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

547 :縄文狼:2015/07/17(金) 13:28:26.95 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>540-541
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人や韓国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜
>>540-541
土器ちゃんみたいに同じ論文の切り抜きを何度も張ったりしないから
自分で読んでね!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

548 :縄文狼:2015/07/17(金) 13:30:48.91 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>513を受けて
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が渡来
  原三韓土器→【これがニギハヤヒ】=【応神・神功皇后朝】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が渡来
  楽浪土器→【これがニニギとツヌガアラシト】=【神武朝】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が渡来
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→【これがアメノヒボコ】 =【継体朝】

549 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 13:39:12.76 ID:ZJaEqKY0.net
>>545 土器内容は遠賀川等であろうが、たいして渡来があったわけでなく、形質的には
     東北縄文人が主流だったのではと見ている。

550 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:00:06.60 ID:bOzbheVP.net
(1)地上建物(堀立柱建物)


福岡県江辻遺跡で確認された弥生早期の地上建物(堀立柱建物)は,松菊里文化との関連がとり
あげられたことがある[武末 2002, 小澤 2006]。今回,一般的な地上建物以外に棟持柱地上建物を
検討の対象にしたのは,韓半島の棟持柱地上建物に関する研究があまりないためである。
保寧ェ倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[&#21555;圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。この特徴的な棟持柱建物については象徴的な性格を持たせようとする傾向がつよい[大
阪府立弥生文化博物館2002]。つまり,日本の独立棟持柱あるいは近接棟持柱建物は主に祭祀的な性
格が強い祭殿として理解されている。その根拠は数多く発掘された堀立柱建物の中で,この形式は
ごく一部に過ぎない点である。また,8 世紀代に創立されたと考えられる伊勢神宮正殿と柱の配置
が同一であり,奈良時代以後は神殿形式の一つとして現在まで命脈を保ってきたためである。さら
に,弥生時代や古墳時代にもこの形式の建物が集落の中心に位置すること,銅鐸や土器にシャーマ
ンとみられる人物やシカ,船などと共に装飾された高床建物として描かれる例が多いことなどから
みて,弥生時代以後の独立(近接)棟持柱建物は儀式や儀礼と関連した象徴的な建物として把握さ
れていると考えられる[小笠原好彦 1990, 宮本長二カ 1996, 清水真一 1997, 広瀬和雄 1998, 設楽博己 
2009](図6 (8)) 。特に広瀬和雄[1998]はこれを農耕祭祀と結び付けて,この建物が普通は稲を収納
する高床倉庫として利用され,春の播種から秋の収穫までの期間のみを神殿として利用したという
仮説を提示したこともあるし,清水真一は倉庫の機能を兼ねた拝殿とみている[清水1997]。

551 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:00:35.96 ID:bOzbheVP.net
また,設楽博己は弥生時代の独立棟持柱建物が住居域に位置する場合と墓域に位置する場合に分
けて解釈を行っている[設楽2009]。前者はまた,竪穴住居と混在するものと特定場所に造られる
もの,区画施設を持つものなどに細分し,これを時間の経過を加味しながら,共同体的な施設から
首長居館施設への変貌すると考えた。前述した弥生絵画に描かれた独立棟持柱建物の特殊な装飾,
竪穴などから出土する遺物などからみて,このような建物が祭殿の役割を果たしていたと推定した。
さらに,墓域を伴う独立棟持柱建物がもつ祭儀の中身の一部を祖霊祭祀と連動させた。
上記のような象徴性を付与する見解について否定的な見解[佐原1998]もある反面,それが持っ
ている解釈上の問題もやはり考古学的に究明するには困難な分野であるため,今後の議論が期待さ
れる。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
ェ倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南I沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗&#27800;期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。保寧ェ
倉里の独立棟持柱建物址を,他の地上建物や住居との位置関係でみると,数棟の住居と一つのグルー
プをなしているようにみえる。しかし,集落内で棟持柱を持つ唯一の建物が集落東側の境界地点の
比較的よい立地に単独で占地していることは多少の別の意味をもつと考えることができる。また,
隣接して貯蔵穴と土器窯が多数存在することも考慮する必要がある。
公州新影里遺跡では,貯蔵穴が密集分布するところの外廓に1 棟だけが分布している。これは集
落の調査の一部のみであったためと考えているが,詳細な検討が不可能な状況である。ただ,棟持
柱地上建物が貯蔵空間に接していることはェ倉里と共通している。

552 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:01:04.57 ID:bOzbheVP.net
比較的多い7 棟の棟持柱建物が確認されたI沙里遺跡の場合,やはり混在する他の地上建物との
同時性を認定するのは困難だが,住居群と一定の間隔を保って3 棟あるいは4 棟ごとに集まって群
を成している。特に注目できるのはSB205 号の場合,建物内部の地面に3 基の土坑が一列に整然
と配置されていることである。報告者はこの土坑の存在から,この遺構を地上建物というよりは地
面に設置した貯蔵施設物を保護するための構造物として把握した[尹世英・李弘鍾 1994:196]。しかし,
筆者は日本の絵画土器などを根拠として,この遺構も高床倉庫である可能性が高いと考えているし,
土坑は報告者の指摘のように貯蔵穴ともみえるので2 つの機能を兼ねたと理解したい。
以上,棟持柱地上建物を祭殿と関連した祭祀遺構とみる日本の研究方法にしたがって検討してき
たが,韓半島の場合は資料不足もあり分析対象とすることはまだ困難であることがわかった。特に,
日本の研究成果を検討するうちにこの遺構が祭殿のような象徴性を兼ね備えているのかどうかを認
定することはできなかったが,棟持柱地上建物がハシゴをもつ高床建物であり,さらに,穀物貯蔵
に関連した倉庫として利用された可能性が高いことを確認した。また,I沙里遺跡のSB205 号の
例からみて一部の独立棟持柱地上建物には高床倉庫と貯蔵穴の機能を兼ね備えていることもわかっ
た。青銅器時代中期のェ倉里や新影里の例でも特定はできず,高床倉庫あるいは儀礼空間として利
用されたと推定される。とにかく,地上建物は出土遺物から時期と比定することが難しく,性格の
把握も難しいのが現実だが,形態・規模と関連した建築学的な側面をはじめ,集落内での位置関係,
絵画資料,民俗事例などに注目して考える必要がある。
韓半島の考古学研究ではまり注目されてこなかった棟持柱建物は,日本との関連のなかでより深
い研究が必要であることをここで強調しておく。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf#search=

553 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:01:57.78 ID:bOzbheVP.net
>>549
おまえはさっさと答えろよこの極悪詐欺師が。


何で犬戎の中国土器が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で犬戎の鬲が隼人鹿児島や、おまえの言う北部九州の横穴式石室に伝わってないんだ?
副葬されてないんだ?


何で廻間土器に華北土器、江南土器の器種器形文様や中国灰陶の焼成技術が
何一つ伝わってないんだ?


何で尾張地方やその方墳・前方後方墳に華北土器、江南土器の器種器形文様や
中国灰陶の焼成技術が何一つ伝わってないんだ?副葬されてないんだ?


さっさと答えんかいこの極悪詐欺師が。

554 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:02:31.31 ID:bOzbheVP.net
>>549
早く納得できる説明をしろよこの極悪詐欺師が。



で、西日本沖縄のO2b* 9.3 3.4が貊から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のN/O 1 2.3が夜郎布依から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO1* 4.1 1.2がテン越から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO2a* 1 1.2 が句町ダイ から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3LINE1del/M159 5.2 4がテン越(畭)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3/-002611* 2.1 6.3が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3021354*/P201 6.2 5.7が板楯蛮(土家苗)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e*/M134 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

で、西日本沖縄のO3e1*/M117 5.2 2.3が昆明叟(青羌)から入ったという証拠は?

555 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:04:08.24 ID:bOzbheVP.net
>>546-548
これを読めとか、そういうインチキな逃げ方をするんじゃなくて、
ちゃんと自分の言葉で説明しろよこの極悪詐欺師が。


で、原三韓土器という名称の土器なんか無いんだが、正式名称は?


で、半島の棟持柱高床式が九州北部から伝わっているという証拠は?


で、弥生中期に九州北部に渡来したプレ秦氏とやらは何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を九州北部に伝えなかったんだ?


で、弥生後期に阿讃播・近畿圏に渡来したという徐福集団は何で様々な
リアルタイムの北タイや雲南の中国文化を阿讃播・近畿圏に伝えなかったんだ?

556 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:04:51.29 ID:bOzbheVP.net
>>546-548
で、当時の徐福集団が日本に丹砂・水銀鉱床があるってどうして分かったんだ?


で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?


で、古墳期以降に遼西を経由して九州・近畿圏に渡来したという秦・羌族(秦氏)は、
何で朝鮮陶質土器(須恵器)じゃなくて、リアルタイムの中国陶磁を伝えなかったんだ?


で、何で弥生中期に棟持柱高床式を伝えたという徐福集団であるプレ秦氏とやらは
当時の中国の主力建築だった木骨泥墻を伝えなかったんだ?

557 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:12:22.27 ID:qY2daLX7.net
>>547
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に





だからその原三韓土器とかいう聞いた事も見た事も無い土器の学術的ソースは?






.

558 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:13:38.80 ID:qY2daLX7.net
>>547
>「原三韓土器」すなわち「三韓系瓦質土器」ということだ
>わかったか???




ぜーーーーーーんぜん分かりません。

三韓瓦質土器を原三韓土器と呼んでいるドキュメントなんか見た事がありません。

ちなみに三韓瓦質土器の登場はBC1C以降、楽浪瓦質土器の登場はBC2C末の事で、
ともに徐福の時代のBC3C末より100年以上も後の事ですんでね。




.

559 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:16:19.38 ID:qY2daLX7.net
>>547



http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c09harunotuji/c09harunotuji.html



で、↑このリンクのどこに原三韓土器なんて書いてあるんだよ?



で、どれが原三韓土器の画像なんだよ?




.

560 :縄文狼:2015/07/17(金) 14:23:17.36 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>550-551
わが列島の北部九州と同じく、半島南部に縄文人が入植したり、南方式支石墓や
独立棟持柱を有する高床式建物があったら、なんか特別問題あるん??

魏書東夷伝でも、狗邪韓国は倭国内の領域で西北端だろ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

それとも、半島朝鮮人が始祖とするワイ(穢)貊の生息した半島北東部に
独立棟持柱高床式建物の集中分布地でもあるんですか??

本 当 に

561 :縄文狼:2015/07/17(金) 14:24:50.40 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>555-556
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に

>その他

その答えは、プレ秦氏(原三国人)や徐福集団(楽浪漢人)が中国人や韓国人ではなく
秦西南夷の北タイ人や雲南西双版納人に近いから

みんなもこれをよく読んでみるとはっきりするよ〜
>>555-556
土器ちゃんみたいに同じ論文の切り抜きを何度も張ったりしないから
自分で読んでね!!

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/11356/1/mrh_044_31A.pdf

562 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:29:03.82 ID:qY2daLX7.net
>>561
>で、BC3C末頃の秦の移民を裏付ける半島南部における証拠遺跡とその証拠文物は?

原三韓土器があるだろ 本 当 に






だからその原三韓土器とかいう見た事も無い聞いた事も無い土器の

学術的ソースをさっさと出せよバカヤロウ!







.

563 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:32:41.53 ID:qY2daLX7.net
>>561
>「原三韓土器」すなわち「三韓系瓦質土器」ということだ
>わかったか???





分かるかバカヤロウ!


三韓瓦質土器を原三韓土器と呼んでいるドキュメントなんかねえんだバカヤロウ!


三韓瓦質土器の登場はBC1C以降、楽浪瓦質土器の登場はBC2C末の事で、

ともに徐福の時代のBC3C末より100年以上も後の事だバカヤロウ!




.

564 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:35:18.87 ID:qY2daLX7.net
>>561




http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c09harunotuji/c09harunotuji.html




で、↑このリンクのどこに原三韓土器なんて書いてあるんだバカヤロウ!




で、どれが原三韓土器の画像なんだバカヤロウ!




.

565 :縄文狼:2015/07/17(金) 14:45:00.54 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>513を受けて
1)第0波:弥生中期〜後期、原三国人(プレ秦氏)が渡来
  原三韓土器→【これがニギハヤヒ】=【応神・神功皇后朝】

2)第一波:弥生中期末〜後期末、楽浪漢人(徐福集団)が渡来
  楽浪土器→【これがニニギとツヌガアラシト】=【神武朝】

3)第二波:古墳前〜中期、三国人(秦氏)が渡来
  馬韓・加耶系土器、加耶系カマド→【これがアメノヒボコ】 =【継体朝】

566 :縄文狼:2015/07/17(金) 14:49:49.01 ID:L/UURi3l.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>563
>三韓瓦質土器の登場はBC1C以降、楽浪瓦質土器の登場はBC2C末の事で、
>ともに徐福の時代のBC3C末より100年以上も後の事だバカヤロウ!

おまえは>>565を百回読め
どこにもプレ秦氏が徐福だと書いてなのだが
そうじゃないと時系列的に整合とれないだろ

本 当 に 小 笑 い

567 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:50:03.70 ID:qY2daLX7.net
全部おまえの作った脳内妄想な。

誰がそんなバカ丸出しの妄想を食ってくれるんだよこのバカ!

568 :出土地不明:2015/07/17(金) 14:51:37.66 ID:qY2daLX7.net
>>566
読むかバカヤロウ!

ええ加減にせいよこの極悪詐欺師が!

569 :LUNAMASK:2015/07/17(金) 16:07:05.27 ID:ZJaEqKY0.net
>>565
勒島貿易と原の辻貿易
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
並行関係Tab1
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a_t1.gif
朝鮮半島東南部 
水石里-勅島-茶戸里 穢貊系
弁辰韓I-V式     秦西南夷系
弁辰韓V期は庄内式(弥生終末)に並行
======================================
朝鮮半島東南部水石里-勅島IIが日本弥生中期
朝鮮半島東南部弁辰韓III-IVが日本弥生後期
朝鮮半島東南部弁辰韓Vが日本弥生末、庄内

1)第0波:弥生中期吉野ヶ里ニギハヤヒが渡来
  土器は吉野ヶ里甕棺土器を使用

2)第一波:後期末、楽浪ウェイ(徐福集団)が渡来
  これが楽浪ウェイ神獣鏡、
  この時日向に降臨していたニニギが東遷、ウェイに随伴して来た吉備の特殊器台特殊壺
  を近畿に持ち込む=【神武朝】

3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】

570 :出土地不明:2015/07/18(土) 02:14:27.48 ID:Hc2sYUYi.net
>>566
565がチャンチャラおかしいのはな、

まず、半島において中国土器の生産が始まるのはBC2C末の漢の武帝に
よる朝鮮侵攻後の漢四郡設置以降だ。

ゆえに半島初の楽浪土器の生産である楽浪瓦質土器の登場ならBC2C末以降だし、
その影響で後に登場してくる三韓瓦質土器の登場ならBC1C以降だ。

ともにBC3C末の徐福の時代から100年以上も後の史実である。

ところが、おまえの作ったそのバカ表ではBC2C末以降でしか存在しない
はずの楽浪漢人をBC3C末の徐福集団としているのみならず、楽浪土器の
影響で登場してきた三韓土器の登場を楽浪土器の登場の前に持ってきて
しまっている。

これはもう考古学以前の問題で、正しい史実を正確に覚える能力がない、
つまり、考古学を語るレヴェルに無い人間である事を自らアピールしているのと
何ら変わりはないのである。

571 :縄文狼:2015/07/18(土) 09:06:49.72 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>570
本当に大丈夫か??
またまた秒殺されちゃうぞ 笑

570がチャンチャラおかしいのはな、
半島や大陸の土器登場時期をもって、何でわが列島への渡来時期に直結させるんだよ!!

列島への渡来土器が舶載品なのか、人の移動を伴うもののなのかを分別するために
さんざん渡来人の生活痕や生産活動の有無にこだわってきたのがおまえじゃないか

ドヤ顔のおまえの額に巨大なブーメランがぶっ刺さっているぞ 笑

楽浪漢人が原三国人よりも先にわが列島に渡来しているというのなら
その考古学的根拠をおまえの論法で示してみろよ

「これはもう考古学以前の問題で、正しい史実を正確に覚える能力がない、
つまり、考古学を語るレヴェルに無い人間である事を自らアピールしているのと
何ら変わりはないのである。」

本 当 に 小 笑 い

572 :縄文狼:2015/07/18(土) 09:40:34.60 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>570
土器博士なのに、原の辻貿易とか知らんの??
考古学の常識じゃないの?? 笑

>>569
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
第-1波)勒島貿易 渡来主体:列島弥生人 勒島遺跡(弥生前期〜)

第0波)原の辻貿易 渡来主体:原三国人 原の辻遺跡(弥生前期後半〜)

第1波)原の辻貿易 渡来主体:楽浪漢人 三雲遺跡(弥生中期末〜)

第2波)博多湾貿易 渡来主体:三国人 西新町遺跡(古墳前期〜)


本 当 に 小 笑 い

573 :縄文狼:2015/07/18(土) 10:06:42.93 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>572
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
楽浪土器のわが列島での変遷
1類 墓地で出土するもの。土器の数や器種が限定された事例のみで,対馬に集中している。武末の「対馬型」の一部。
2類 居住域とその周辺域から出土するもの。
2a類 鉢など単一器種が1個体分ほど出土するもの。武末の「対馬型」の一部。
2b類 内容物の運搬に可能な器種のうち複数器種が出土するもの。武末の「カラカミ型」。
2c類 IIb類に,器台など運搬に適さない器種も加え,多くの個体が出土するもの。武末の「三雲番上型」。

「弥生中期後半から後期前半にかけては大型壺・筒杯・大鉢・器台など(2b類)が主体をなし、
中頃〜終末期にかけては壺・鉢・杯(2c類)が主体をなしてくる」

「三雲遺跡は,楽浪土城でみられるような多くの器種がそろい,運搬に適さない大型壺や
器台など(2c類)までみられ,楽浪人の居住も想定される」

わかったか??
もうおまえのコピペ回避すんの面倒だから、わざわざ貼らなくてよいよ
新しい新鮮でまともな知見なら、いつでも歓迎してやんよ

本 当 に 小 笑 い

574 :出土地不明:2015/07/18(土) 10:57:53.57 ID:Hc2sYUYi.net
>>571-573
おはようw

そうとう刺さってるみたいだけど、そんなに痛かったか?w

何が言いたいのかさっぱり分からんのだがw

弥生人が半島人とでも言いたいのか?ww




楽浪土器の生産遺跡でも見つかったのかな?(爆

575 :出土地不明:2015/07/18(土) 18:29:23.85 ID:PMPPDozv.net
>分かったか??
>もうおまえのコピペ回避すんの面倒だから、わざわざ貼らなくてよいよ



ここに俺を呼んだのはおまえだろw

ぜっかくだから目いっぱい楽しませてもらうぜw

ヘッヘッヘッ

576 :縄文狼:2015/07/18(土) 19:39:28.18 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>574
>>そうとう刺さってるみたいだけど、そんなに痛かったか?

>>571
そうとう痛いのは、ドヤ顔のおまえの額に刺さっている巨大ブーメランなんだが 笑

570がチャンチャラおかしいのはな、
半島や大陸の土器登場時期をもって、何でわが列島への渡来時期に直結させるんだよ!!
570がチャンチャラおかしいのはな、
半島や大陸の土器登場時期をもって、何でわが列島への渡来時期に直結させるんだよ!!
570がチャンチャラおかしいのはな、
半島や大陸の土器登場時期をもって、何でわが列島への渡来時期に直結させるんだよ!!

早くみんなを納得させる言い訳してみろよ

本 当 に 小 笑 い

577 :縄文狼:2015/07/18(土) 19:52:52.21 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>569から転記
1)第0波:弥生中期吉野ヶ里ニギハヤヒが渡来
  土器は吉野ヶ里甕棺土器を使用

2)第一波:後期末、楽浪ウェイ(徐福集団)が渡来
  これが楽浪ウェイ神獣鏡、
  この時日向に降臨していたニニギが東遷、ウェイに随伴して来た吉備の特殊器台特殊壺
  を近畿に持ち込む=【神武朝】

3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】

↑今までの流れで概ね合意なんですが、相互に関連するゆずれない修正箇所が
3点ほどあります

一点目)
これでは、第0波のニギハヤヒが穢貊系との誤解を与えます
>>393との整合はいかに??ニギハヤヒが古華南類型なら、穢貊系ではなく
楚国越人是石寨山系の渡来ルート、時期を明示すべきでしょう

>>393
古華南類型:  O1a M119 O2a-M95* にぎはやひ(弥生中期) はやひわけ(吉野ヶ里) 
        呉越人/楚国越人是石寨山型銅鼓的設計製造者

578 :縄文狼:2015/07/18(土) 20:03:14.55 ID:EIigzRl+.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>569から転記
1)第0波:弥生中期吉野ヶ里ニギハヤヒが渡来
  土器は吉野ヶ里甕棺土器を使用

2)第一波:後期末、楽浪ウェイ(徐福集団)が渡来
  これが楽浪ウェイ神獣鏡、
  この時日向に降臨していたニニギが東遷、ウェイに随伴して来た吉備の特殊器台特殊壺
  を近畿に持ち込む=【神武朝】

3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】

↑今までの流れで概ね合意なんですが、相互に関連するゆずれない修正箇所が
3点ほどあります

二点目)
楽浪ウェイ(徐福集団)はニニギとは別種族なんですか?
それならば楽浪ウェイではなく、ニニギの渡来ルート、時期を明示すべきでしょう

>>86との整合は?
ハヤヒワケとは肥前、肥後の火の国、であるが、弥生末に渡来するニニギ(陶芸の神)族の代表神武にとって、
ニギハヤヒとは出雲に代表される弥生中期火の国由来の部族の祖神であったのではなかろうか。
そして天孫とはテン国ゆらい由来の徐福求仙団(秦亡民)のことではなかっただろうか。

579 :出土地不明:2015/07/18(土) 22:11:39.71 ID:91od1fGc.net
>>576
半島からチンコロが来たって言ってるんだろ?

だったら、半島における中国灰陶の影響土器の生産開始年代は頗る重要な手がかりだろが。

半島における中国灰陶の影響土器の生産開始以降に半島からチンコロが来たと言うなら
時間的な辻褄が合うが、それ以前なら時間的辻褄が合わねえだろが。

例えば、漢四郡設置で中国灰陶の影響土器たる楽浪土器の生産開始よりも
100年以上も前の時代にあたる徐福一行などのチンコロの半島における存在とかなw

580 :出土地不明:2015/07/18(土) 22:14:55.88 ID:91od1fGc.net
>>577
弥生の甕棺墓は元は半島南部の壺棺墓で小児用の墓だったものが伝わって
九州北部で成人用として甕棺墓に発展したというのが最有力だが、土器棺墓は
縄文時代には既に東北で登場しているで、弥生オリジナルの可能性も高いんだぞ。


で、ニギハヤヒが渡来したという証拠は?

で、徐福一行が楽浪設置の100年以上も前に半島に渡来していたという証拠遺跡と証拠文物は?

で、吉備の特殊器台特殊壺が楽浪からの渡来土器だという証拠は?

で、古墳中後期に騎馬民族が渡来したという証拠は?

で、ニニギが渡来したという証拠は?

581 :LUNAMASK:2015/07/19(日) 10:07:45.44 ID:SuKOa7CA.net
>>577 >一点目)
>これでは、第0波のニギハヤヒが穢貊系との誤解を与えます
>>393との整合はいかに??ニギハヤヒが古華南類型なら、穢貊系ではなく
>楚国越人是石寨山系の渡来ルート、時期を明示すべきでしょう
>>393
>古華南類型:  O1a M119 O2a-M95* にぎはやひ(弥生中期) はやひわけ(吉野ヶ里) 
        呉越人/楚国越人是石寨山型銅鼓的設計製造者
=============================================================================
秦帝国を吹っ飛ばす爆弾、旧楚国軍隊の最強、が雲南に穴熊として籠っていた。始皇帝には
不老不死もさりながら穴熊退治が至上命題であった。徐福の百工、千童、連射強弓兵要求は
それを穴熊退治に利用すれば一石二鳥の妙案であった。・・・船団の内、即戦力ある連射強弓兵、
特殊山岳戦闘員は結果的には即匈奴となるのだが、しんがりを務め、先鋒は呉越の若武者が
これを務め、吉野ヶ里に上陸した。

=============================================================================
>>578 >二点目)
>楽浪ウェイ(徐福集団)はニニギとは別種族なんですか?
>それならば楽浪ウェイではなく、ニニギの渡来ルート、時期を明示すべきでしょう
>>86との整合は?
>ハヤヒワケとは肥前、肥後の火の国、であるが、弥生末に渡来する
>ニニギ(陶芸の神)族の代表神武にとって、
>ニギハヤヒとは出雲に代表される弥生中期火の国由来の部族の祖神であったのではなかろうか。
>そして天孫とはテン国ゆらい由来の徐福求仙団(秦亡民)のことではなかっただろうか。
==============================================================================
戦闘中の匈奴本陣に回転台式土器を提供することを生業としていたニニギは前漢末の匈奴崩壊
が逃亡のチャンスであり、後漢には広く三韓に広がり、後漢中期から後期には出雲・吉備から
東海に至る地域に盤口壺形状の土器を流行らせた。

==============================================================================

582 :LUNAMASK:2015/07/19(日) 11:53:18.19 ID:SuKOa7CA.net
>>581 皇祖ニニギの?YDNA
Xinanyi Yunnan
O3a2 P201 6.20% Bai Dian Cong
O3a3   M159 5.20% Wu
O3a2c1 M134 5.20% Shanzi Yao /Qiang ←これがニニギだ。
O3a2c1a M117 5.20% Shanzi Yao /Qiang
O1a M119 4.10% Yue
O3/-002611 2.10% Miao from Chu (Sichuan)
O2a-M95* 1.00% Ailaoyi
----------------------------------------------------
雲南省孟臘:山子瑶、頂板瑶 趙明
http://a4.att.hudong.com/56/08/19300001370745132215083201848_950.jpg
http://yaozu.baike.com/article-106449.html
四面都是強敵,所以南呉国最終在春秋末期支離崩析,四分五裂;
大部国土被楚、東呉、越呑併,一部加入苗族,成為“武陵蛮”。
東皇太一
http://blog.sina.com.cn/s/blog_47827cbb010100vs.html
ニニギは武陵蛮として楚から庄喬に伴いテン王国入りを果たしたものと考える。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


583 :LUNAMASK:2015/07/19(日) 14:44:55.02 ID:SuKOa7CA.net
徐福求仙団雲南秦西南夷在西日本YDNA%
O3a2 P201 6.20% テン王族 板楯蛮→騎馬民族
O3a3   M159 5.20% 楚国東呉東地兵
O3a2c1 M134 5.20% 武陵蛮
O3a2c1a M117 5.20% 哈尼 羌→騎馬民族
O1a M119  4.10% 楚国越人東地兵 銅鐸
O3/ 002611 2.10% 庄喬楚苗 牛頭天王
O2a M95* 1.00% 哀牢夷 三輪狭井神社
火の国族ニギハヤヒが吉野ヶ里甕棺集落に降臨してから600年後匈奴転じて騎馬民族に変貌した
Cong-Diは火の国族ニギハヤヒの跡地に降臨する。おそらく熊襲とも呼ばれたその先祖の故地に
引き寄せられたのであろう。

584 :出土地不明:2015/07/19(日) 14:51:27.11 ID:/fWeFB8u.net
>>581
で、呉越の若武者が吉野ヶ里に上陸したという証拠文物は?



で、ニニギが後漢中期から後期に出雲・吉備から東海に至る地域に
盤口壺形状の土器を流行らせたという証拠は?



そもそもニニギが渡来したという証拠は?

585 :LUNAMASK:2015/07/19(日) 15:15:47.10 ID:SuKOa7CA.net
唐代の詩人王之渙(688〜742年)は、「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須ゐん
楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。本文で言う羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く
人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿覇チベット族チャン族自治州のチャン
人の先祖でもある。
羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm
枚方ゆ 笛吹きのぼる 近江のや 毛野の若子 笛吹き のぼる  <日本書紀>
http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/koto/osaka/d_kuzuha.html

586 :LUNAMASK:2015/07/19(日) 16:07:40.41 ID:SuKOa7CA.net
徐福求仙団雲南秦西南夷在西日本YDNA%・・・大和民族
O3a2 P201 6.20% テン王族 板楯蛮→騎馬民族
O3a3   M159 5.20% 楚国東呉東地兵
O3a2c1 M134 5.20% 武陵蛮
O3a2c1a M117 5.20% 哈尼 羌→騎馬民族
O1a M119  4.10% 楚国越人東地兵 銅鐸
O3/ 002611 2.10% 庄喬楚苗 牛頭天王
O2a M95* 1.00% 哀牢夷 三輪狭井神社
神武とはこの大和民族が三輪山を布洛陀・須弥山とし、三上山を密洛陀とし、自らの象徴・
三江併流の雲南を表した箸墓を築く一連のエピソードの序曲を言うものであろう。

587 :出土地不明:2015/07/20(月) 01:09:30.19 ID:Rg46Exwz.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

588 :出土地不明:2015/07/20(月) 20:00:05.52 ID:7i9UZ7Pa.net
おまえらって実はチンコロなんだろ?w

589 :縄文狼:2015/07/20(月) 23:44:08.42 ID:VXrW10Rh.net
わぉ〜わぉ〜あぉ〜

>>588
エベンキ族と同祖とか言ってるやつよりははるかにマシじゃね!?

本 当 に 小 笑 い

590 :出土地不明:2015/07/20(月) 23:45:02.24 ID:mS0PrEZW.net
日本人も雑種さw

591 :出土地不明:2015/07/21(火) 00:48:07.89 ID:vrwf/mh6.net
チンコロはその何十倍もクッサイ雑種だろがw 

ブタとハノイ人を足して二で割ったような醜悪極まりないキショイ生き物じゃないのw


>>588
そんなブタ広鼻とニグロ突顎と巨大タラコ唇見て何か嬉しいか?

ブタ広鼻とニグロ突顎と巨大タラコ唇

エベンキの方がさっぱりして

592 :出土地不明:2015/07/21(火) 01:01:44.80 ID:vrwf/mh6.net
>>589
そんなブタ広鼻とニグロ突顎と巨大タラコ唇見て何か嬉しいの?

顔面をちょっとチラ見しただけで、ブタ広鼻とニグロ突顎と巨大タラコ唇から
滲み出ているブタとウンコを混ぜたような凄まじい汚臭が高温多湿の
生暖かい湿った風に乗ってこちらまで漂ってくる。

超汚らしい。クドくてキモキモです。

エベンキの方がシベリアの爽やかな風に吹かれてさっぱりしてるね。

ただ弥生人は地理的にエベンキよりもヤクートの方が近いと思うがな。

593 :縄文狼:2015/07/21(火) 10:31:14.55 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>591
>エベンキの方がさっぱりして
>>592
>エベンキの方がシベリアの爽やかな風に吹かれてさっぱりしてるね。

あれ、なんでエベンキ擁護を連発してるの??
>>589でエベンキ族と同祖とか言ってるやつって、ま さ か ??

本 当 に 小 笑 い

594 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 10:39:55.73 ID:5k427cxx.net
大和・邪馬台国・三輪王朝時代
証拠: 棟持柱 箸墓 三輪山/三上山 狭井神社 盤口壺
Wuluohou Yunnan Xinanyi
O3a2 P201 6.20% Bai Dian Cong
O3a3   M159 5.20% Wu
O3a2c1 M134 5.20% Shanzi Yao /Qiang
O3a2c1a M117 5.20% Shanzi Yao /Qiang
O1a M119 4.10% Yue
O3/-002611 2.10% Miao from Chu (Sichuan)
O2a-M95* 1.00% Ailaoyi
==============================================================
葛城、河内/継体/飛鳥/奈良/平安時代
証拠:鴨、熊野・白鳥、太陽鹿・鹿島/春日
Uryankhai (West Wulouhou) Native
O2b-SRY   9.30% Uryankhai-Kudara-Maek
C3 M217* 4.10% Wuhuan Talakan Culture
Hammer et al 2005 for all Japan:
C3c-M86 1.20%* Mohe
N1c1-M178 0.40%* Uryankhai
NO-M214   2.30%* Tai Buyi   
N1-LLY22g  1.20%* Qiang
Q-P36   0.40%*
R-M207 0.40%*
I-P19 0.40%*
-------------------------------------------------
YDNA的には上下入り組んでいる。

595 :縄文狼:2015/07/21(火) 10:41:07.03 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>583
>火の国族ニギハヤヒが吉野ヶ里甕棺集落に降臨してから600年後匈奴転じて騎馬民族に変貌した
>Cong-Diは火の国族ニギハヤヒの跡地に降臨する。おそらく熊襲とも呼ばれたその先祖の故地に
>引き寄せられたのであろう。


この関係こそが、第0波のプレ秦氏であるニギハヤヒ族と、
600年後の第2波の秦氏との関係になりますね〜

596 :縄文狼:2015/07/21(火) 11:09:26.94 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>569
>1)第0波:弥生中期吉野ヶ里ニギハヤヒが渡来
  土器は吉野ヶ里甕棺土器を使用

>2)第一波:後期末、楽浪ウェイ(徐福集団)が渡来
  これが楽浪ウェイ神獣鏡、
  この時日向に降臨していたニニギが東遷、ウェイに随伴して来た吉備の特殊器台特殊壺
  を近畿に持ち込む=【神武朝】

>3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】

>>581
>戦闘中の匈奴本陣に回転台式土器を提供することを生業としていたニニギは前漢末の匈奴崩壊
>が逃亡のチャンスであり、後漢には広く三韓に広がり、後漢中期から後期には出雲・吉備から
>東海に至る地域に盤口壺形状の土器を流行らせた。


第1波のニニギ族が匈奴経由とすると、>>336との整合はいかに??

>>336
>徐福は逆に匈奴に亡命せずに、おそらくは楽浪乃至は錦江、あるいは吉野ヶ里方面に
>進んだ可能性が強い。
>匈奴に亡命したのは板楯蛮、三苗、古羌・つまり犬戎納西族(秦氏、隼人)

匈奴経由ならばなおさら、ニニギ族の到来は、弥生後期(後漢中期)以降
ということになりますね〜

597 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 12:04:30.05 ID:5k427cxx.net
>>596 >>336 邪馬台国の系図における伊福部が徐福くさいが・・・
http://kamnavi.jp/ym/yamakei.htm
百度辞典によると徐戎は BC512年呉に併合されており、例のウェイは
この徐戎・伊福部集団に一部と解釈すると呉の画文帯神獣鏡への拘泥
がうなづける:
徐戎 古族名。東夷之一。 夏至周 分布于今 淮河 中下遊。
周 初建立 徐国 ,在東夷中最称強大,曾数次聯合 淮 夷等抗周。
春秋時曾為楚所敗, 周敬王八年(公元前512年)為呉国所併。
《書・費誓》:“徂茲淮夷,徐戎併興。”
孔伝:“今往征此淮浦之夷, 徐州之戎併起為冦。”

598 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 12:11:10.40 ID:5k427cxx.net
>>597 伊福部は物部一家に草鞋を脱いだ客人・・・O3a3   M159 5.20% Wu
本隊は既に吉野ヶ里に入っていた連中のいわゆる阿残-残留孤児。

599 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:16:43.70 ID:IvBtgMp6.net
証拠が何一つ出せない出まかせ創作でブタ土人を日本人の祖先に仕立て上げて何か爽やかか?

600 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:19:26.80 ID:IvBtgMp6.net
ブタが祖先で何か楽しいか?

601 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:25:32.66 ID:IvBtgMp6.net
おまえらの祖先がブタだからといって我々日本人の祖先まで創作で
ブタにしないでくれないか?

602 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:31:34.31 ID:IvBtgMp6.net
せーーーーーーーーんぶウソ創作。

まともな証拠一つ出せねえ。

本当が何一つ無い。

ウソ創作で日本人の祖先がブタだとひとすらウソブいているだけ。

ブタチンコロに相応しい行動だなw

603 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:37:03.58 ID:IvBtgMp6.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

604 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:37:36.33 ID:IvBtgMp6.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

605 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:38:01.89 ID:IvBtgMp6.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

606 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:38:28.68 ID:IvBtgMp6.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

607 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:40:35.15 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

608 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:41:43.99 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

609 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:42:11.53 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

610 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:42:35.68 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

611 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:42:58.31 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

612 :出土地不明:2015/07/21(火) 12:43:24.01 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいか?

613 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 12:51:13.32 ID:5k427cxx.net
>>594 Jomon of West Japan Nonaka et al 2007 (Tab.4)
Jomon-Yayoi
C1-M8   3.10 %  南回り新石器文化・西南縄文人
D2     26.80% 北回り新石器文化・東北縄文人
O2b1-47z 26.80% 大陸臨海貝丘文化・安曇海人族
56.70%
大陸臨海貝丘文化・安曇海人族は縄文初期から大陸と列島間で二足の草鞋を履いていたので
あろう。
O2内の突然変異は華中内陸、考古学的にみてO2b/O2b1内の遺伝子浮動は中国東北部の
東北部で
発生したようである。

614 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 13:06:39.30 ID:5k427cxx.net
日本人が中国人なんて、んなわけねーよ!縄文時代から変わってねーんだよ・・・
こういわせるのは大陸臨海貝丘文化・安曇海人族O2b1-47zの存在、卓越した文化吸収能力、
学習能力にあったのであろう。三つ巴紋の神紋を持つ神社はあたかも縄文文化が変身を
遂げたように全国津々浦々に広がった。

615 :出土地不明:2015/07/21(火) 15:55:53.61 ID:MDWiB4rQ.net
相変わらず自分が縄文人だなんて思っている痛々しい縄文狼とかいう糞コテが捏造してるんだな

お前弥生人だぞ完全に

616 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 16:16:08.49 ID:5k427cxx.net
記紀は>>594の後段-葛城、河内/継体/飛鳥/奈良/平安時代に属する三貴神を
前段-大和・邪馬台国・三輪王朝時代の神話早期においている。
このことは神話背景の時代考証に混乱をもたらしている。早い話、騎馬民族の牧畜文化に
属する神話水田農耕文化が本格化した時代に、これよりも早い時代の文化とする国史を創作
したのだ。

617 :縄文狼:2015/07/21(火) 16:29:07.51 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>613-614

>>569
>水石里-勅島-茶戸里 穢貊系
>弁辰韓I-V式     秦西南夷系
>弁辰韓V期は庄内式(弥生終末)に並行
======================================
>朝鮮半島東南部水石里-勅島IIが日本弥生中期
>朝鮮半島東南部弁辰韓III-IVが日本弥生後期
>朝鮮半島東南部弁辰韓Vが日本弥生末、庄内

これによると、勅島貿易の主役が、半島の穢貊系と列島の安曇海人族O2b1-47zであった
かのように受け取れるが、実際列島側の縄文人の主役は低顔・低身長種であり
半島南部にも多数入植していた

●新町遺跡(福岡市糸島市)で南方系支石墓から、低顔・低身長タイプの人骨が出土
http://fuwaiin.com/jyoumon-iseki/fukuoka/sinmati-iseki-tenzikan/sinmati.html

618 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:17:06.29 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

619 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:17:47.97 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

620 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:18:11.54 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

621 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:18:59.78 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

622 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:19:29.51 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

623 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:20:17.67 ID:IdZ7ugcb.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

624 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:21:46.04 ID:4fJYR9H2.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

625 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:22:14.92 ID:4fJYR9H2.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

626 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:22:39.99 ID:4fJYR9H2.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

627 :出土地不明:2015/07/21(火) 17:23:04.96 ID:4fJYR9H2.net
ブタが祖先で何か嬉しいのかってんだこの在日ブタ野郎が!

628 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 18:11:54.02 ID:5k427cxx.net
>>617
甕棺・支石墓は東北縄文人をはじめとする在地系縄文人が築いた弥生文化であり、埋葬され
いる人骨が渡来系であってはおかしい。しかし、甕棺支石墓の後から来る箱式石棺墓の人骨は
渡来人の筈である。

629 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 18:19:13.72 ID:5k427cxx.net
>>617
勅島・原の辻遺跡とは縄文人である甕棺支石墓人が渡来人である穢貊系水石里・勅島・茶戸里
民族並びに秦西南夷であって南島南亜系華人であった弁辰韓人と交易を行っていた遺跡である
ことを認識しなくてはならない。

630 :LUNAMASK:2015/07/21(火) 18:30:09.57 ID:5k427cxx.net
この頃甕棺文化三津永田を出た土井が浜人は玄界灘で渡来系箱式石棺墓の影響を受け、
出雲で弥生墳丘墓を開始する。それは山陰・若狭・近畿・東海へと広がる。

631 :縄文狼:2015/07/21(火) 19:40:02.80 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>572から転機
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html
第-1波)勒島貿易 渡来主体:列島弥生人 勒島遺跡(弥生前期〜)

第0波)原の辻貿易 渡来主体:原三国人 原の辻遺跡(弥生前期後半〜)

第1波)原の辻貿易 渡来主体:楽浪漢人 三雲遺跡(弥生中期末〜)

第2波)博多湾貿易 渡来主体:三国人 西新町遺跡(古墳前期〜)

>>628-629
第-1波の渡来主体(勒島貿易はマイナス波であり、列島から半島への入植を表す)が
列島弥生人すなわち在地系縄文人だとすると、>>630の渡来系箱式石棺墓人は次の第0波の
ニギハヤヒに該当します〜
これが>>629の「秦西南夷であって南島南亜系華人であった弁辰韓人」ということに
なりますでしょうか?

632 :縄文狼:2015/07/21(火) 20:45:54.67 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>82から転記
http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif

しかし改めてこの吉野ヶ里歴史公園のHPに載っている絵を見ると
細かい箇所までなかなか秀逸に描かれていますね〜

つまり、すでに弥生前・中期の甕棺墓列が形成される時代には、千木・鰹木を有する
高床式太陽神殿が設営されており、おまけにその傍らには、神籬(ひもろぎ)となる
立柱祭祀まで施されてます


>>534
千木・鰹木を有する高床式太陽神殿と、神籬(ひもろぎ)となる立柱祭祀は、
弥生前・中期の甕棺墓時代に吉野ヶ里に成立しています〜
>>545
しかし>>582でいうところの山子瑶がニニギ(陶芸の神)であり、匈奴経由で
弥生末期にもたらしたとすると間に合いません

やはり立柱祭祀は>>629の「縄文人である甕棺支石墓人」由来のものでしょう

633 :縄文狼:2015/07/21(火) 20:46:45.75 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>632
このように高床式太陽神殿(弥生文化)や立柱祭祀(縄文文化)が、わが大和民族の
基層にある祭祀体系の基本的な組合せとなり
古墳時代の幕開けとなった王都の纒向遺跡にもきちんと引き継がれて、その後の
継体朝でも発展していきます
http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/images/seioubo_saisi.jpg

そしてそれが、現代なお手厚く保護される神社とご神木・ご神域の関係に
受け継がれているわけですね〜

634 :縄文狼:2015/07/21(火) 21:02:57.01 ID:KqmvgN+O.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>631
>>314から転記
>>310
>これら民族は河内王朝時から筑後・肥後に入植を始める
(1) 箱式石棺墓    納西族

昆明の納西族が箱式石棺墓人とすると
>>76
>玄界灘沿岸では甕棺墓の消滅と交替に箱式石棺墓が出現するのは金印倭奴国の時代。
としていることから、わが列島での渡来は河内朝よりも2世紀も遡ります〜

すなわち(1)箱式石棺墓の納西族は、第二波の秦氏ではなく、第0波のプレ秦氏
すなわちニギハヤヒに該当しますね〜

635 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:24:55.53 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

636 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:25:27.00 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

637 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:25:46.44 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

638 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:26:39.17 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

639 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:27:01.39 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

640 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:27:29.34 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

641 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:28:04.21 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

642 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:28:32.18 ID:xCZkEmY6.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

643 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:30:06.24 ID:EjKCl96s.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

644 :出土地不明:2015/07/21(火) 22:30:52.31 ID:EjKCl96s.net
在日チンコロは考古板から出てけよバカヤロウ!

645 :LUNAMASK:2015/07/22(水) 13:18:53.26 ID:OtrEAKPm.net
>>631 ですね。弁辰韓/楽浪は秦西南夷で、粘土帯土器は:
https://www.google.co.jp/search?q=%EC%A0%90%ED%86%A0+%EB%9D%A0+%ED%86%A0%EA%B8%B0&biw=1354&bih=615&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0CAYQ_AUoAWoVChMI4PKLqs7txgIVBySmCh1XUQvw
これは大連東方海上小島の遼寧銅剣/甕棺墓遺跡上馬石上層類型(櫛目文晩期-無文早期
平行)拠C14測定,上馬石上層為公元前一二二○〜前一一八○(公元前一四一五〜前一二七○)
年。以上両箇C14数拠具体表明了上馬石上層類型的絶対年代。
三.瓮棺墓D 瓮棺墓経過発掘的有上馬石瓮棺墓地,共十七座。葬具瓮棺均為黒皮陶大壷,
分口向上和倒置口向下両種,后者有的底部被有意識打掉。随葬器物絶大多数是明器,有壷、
罐、椀,其它還有石鏃、骨管、貝珠等,属于双○tuo2子二期文化。
双○子三期文化和上馬石上層類型都与大連地区曲刃青銅短剣遺存有密切的関系。
双○子三期文化的最后帰宿為双房遺存,這在于家村○頭積石墓地已露端倪,双房遺存的
陶壷直接継承了于家村○頭積石墓地的作風。上馬石上層類型的長頚壷、器耳等,也応是曲刃
青銅短剣同類器物的淵源之一。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_553794350101aguc.html
が遅れて南下したもので沃沮でしょうね。
>>632 http://www.yoshinogari.jp/contents3/thumbs_files/1205824377_1.gif
弥生墳丘墓の先駆的土敦墓と遼寧瓮棺文化の習合したもの
>>633 南島文化人柱 http://s8.sinaimg.cn/mw690/678be5c6gx6BH7S09Uj87&690
>>634 同感 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:a1694171c52d18691058ee628c4f7c04)


646 :LUNAMASK:2015/07/22(水) 15:02:00.97 ID:OtrEAKPm.net
>>631 粘土帯土器はロシアのヴォストレーツォフが述べるクロウノフカ文化の南進としての沃沮
に言及したものですが、ヴォストレーツォフはクロウノフカ文化が先行するヤンコフスキー文化を
押しのけたとしています。ヤンコフスキー文化は貝丘文化であり、縄文と共通するところが多く、
安曇海人族と考えると粘土帯土器文化を日本海、東シナ海沿岸に広げたものとしてぴったり合い
ます。つまり、遼寧・古朝鮮青銅器文化を拡散したのは安曇海人族であり、瀬戸内・大阪湾岸・
大和盆地・東海地方に三韓土器と共に渡来したのが
秦西南夷である三韓人と言うことだと思います。
The second time interval coincides with the beginning of the second stage of adopting of
cultivation in the Eastern Sea Basin near 2400-2300 BP and is connected with spreading of
millet , barley , wheat cultivators in the North-Western (Krounovsky culture from ca. 500 BC
- at least 200-300 AD) and rice cultivators (Yayoi culture ) in the South. Expansion of both
cultures began approximately simultaneously near 3 c. BC. The start of moving can have
been initiated by changing of ecological and social circumstances. After 3 c. B.C. populations
of Krounovsky culture occupied most part of area of Yankovsky culture in coastal zone.
VOSTRETSOV Yuri (Institute of History, Archaeology and Ethnology of the People of the Far
East Vladivostok), "Environment Changes and Migrations: A Case Study"
http://www.seaa-web.org/arc-con-dae-abs2.htm

647 :縄文狼:2015/07/22(水) 19:07:49.36 ID:PAr8BKD/.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>569から転記
1)第0波:弥生中期吉野ヶ里ニギハヤヒが渡来
  土器は吉野ヶ里甕棺土器を使用

2)第一波:後期末、楽浪ウェイ(徐福集団)が渡来
  これが楽浪ウェイ神獣鏡、
  この時日向に降臨していたニニギが東遷、ウェイに随伴して来た吉備の特殊器台特殊壺
  を近畿に持ち込む=【神武朝】

3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】

↑今までの流れで概ね合意なんですが、相互に関連するゆずれない修正箇所が
3点ほどあります

三点目)
>3)第二波:古墳中後期 騎馬民族渡来 =【応神/継体朝】では
【応神朝】と【継体朝】を第ニ波としております

しかし
>>63から転記
●河内王朝=蜀(秦・羌・Qiong)
 C川西羌/陝西・秦  O3a2c1 M134 O3a2c1a M117 山城・秦氏
 E巴(射楯兵主/丹)(射手対付鮫魚) O3a2 P201 Tujia O3 002611 Miao
  播磨・但馬・紀伊 → 内行花文鏡

【応神朝】が>>634でいう内行花文鏡を奉じた箱式石棺墓人・納西族だとすると
【応神朝】は第0波のプレ秦氏すなわちニギハヤヒではないでしょうか

648 :出土地不明:2015/07/22(水) 20:51:30.91 ID:Ky/wwRXR.net
ニギハヤヒが渡来(笑)

649 :LUNAMASK:2015/07/22(水) 21:06:32.12 ID:OtrEAKPm.net
>>647
>>647 吉野ヶ里(ハヤヒワケ)に入植したものに後の秦氏、つまり甘粛方面から渡来する石棺葬
文化の羌を含む騎馬民族系民族がいたかどうかですが、考古学的に吉野ヶ里に存在したのは
土敦墓文化の徐戎乃至は呉越民族であり、石棺葬文化の片鱗は見られません。弥生末の
玄界灘・響灘の箱式石棺墓は吉野ヶ里と同族であったというのは難しいが、越人・楚人の
鳥トーテム文化に理解を示す徐福ディアスポラであったのかもしれません。

650 :LUNAMASK:2015/07/22(水) 23:09:16.34 ID:OtrEAKPm.net
>>649 参考情報 >>47 >>51

651 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:24:40.07 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

652 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:26:13.07 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

653 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:27:19.91 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

654 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:27:53.20 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

655 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:28:30.13 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

656 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:29:12.98 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

657 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:30:33.12 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

658 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:30:54.78 ID:Idb3KiBj.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

659 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:32:37.40 ID:ZBvaDT8Y.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

660 :出土地不明:2015/07/23(木) 00:33:27.81 ID:ZBvaDT8Y.net
我らが高貴な日本人の祖先を、そんなクッサイ汚らしい醜悪なブタチンコロに仕立て上げて何か嬉しいか?

661 :縄文狼:2015/07/23(木) 14:51:52.24 ID:ia4WkrJy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>651-660
エベンキ族と同祖とか言ってるやつよりははるかにマシじゃね!?


>>591
>エベンキの方がさっぱりして
>>592
>エベンキの方がシベリアの爽やかな風に吹かれてさっぱりしてるね。

あれ、なんでエベンキ擁護を連発してるの??
エベンキ族と同祖とか言ってるやつって、ま さ か ??

本 当 に 小 笑 い

662 :縄文狼:2015/07/23(木) 14:55:08.04 ID:ia4WkrJy.net
わぉ〜わぉ〜わぉ〜

>>651-660
学術板でコピペ連投荒らしに陥ったら、消えていなくなる日も近いよ〜

しかし、しっかり10回ずつ連投しているところが、几帳面な性格が出てるね

本 当 に 小 笑 い

663 :LUNAMASK:2015/07/23(木) 15:16:17.52 ID:Zs6LKks0.net
われわれの話が律令以前に限定していたため退屈したということもあるんでは。日本は律令後に
全く主役が変わりますねー。南島・南亜系からアルタイに変わり現代に続いているんですね。
横持柱というハードに太陽神というソフトが乗り、演奏が中臣になるんですね。蘇我の館が焼け
落ちたのをいいことに古代の記憶はほとんど抹消された。

664 :出土地不明:2015/07/23(木) 15:23:47.67 ID:cSrYS9Gm.net
>>661
エベンキ族と同祖とかそれただの揶揄じゃん
実際は韓国にもエベンキ族なんてあまりいないしさあ
誰も言ってない事捏造すんなよ自分が縄文人だと思いこんでる弥生人
鋏状咬合で直毛で蒙古襞までついてるんだからさ

665 :出土地不明:2015/07/23(木) 15:30:34.67 ID:2YuZUFuD.net
>>664
奴はチンコロだっての。

父が日本人、母が香港台湾のブタとかな。

666 :LUNAMASK:2015/07/23(木) 15:33:02.15 ID:Zs6LKks0.net
縄文狼さんがよく言うように秦氏関連の納西族(犬戎)というのは藏彝走廊
http://image2.sina.com.cn/dy/c/2003-12-14/1071373175_GiaihZ.jpg
春秋戦国期この地域を南北に振り飛車の如く活躍していたようで、その中心にある三星
古蜀文化とも関係している可能性があります。ただし、犬戎というのはそもそも印欧系
コーカソイド民族でヒクソスとしてエジプトにも入っていたようですね。納西族はコーカソイドと
共闘血盟をしていたモンゴロイドであったのでしょう。太陽神、三貴神はこの犬戎が持ち込んだ
神話のようです。

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