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源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは

1 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:11:40.61 .net
誰ですか?

2 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:40:50.01 .net
北条泰時 足利義満 徳川綱吉

3 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:29:00.34 .net
参考
日光東照宮
祭神
主 徳川家康
相伴 豊臣秀吉
源頼朝

家康は吾妻鏡を愛読

4 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:57:39.89 .net
源頼朝は源氏嫡流

足利尊氏は源氏嫡流

徳川家康はなんちゃって源氏嘘流

5 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:00:49.58 .net
日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

6 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:04:51.17 .net
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

7 :日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:24:32.42 .net
>>4
頼朝が嫡流というのも後付けだとも言われてるけどな。

8 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 02:41:36.31 .net
源頼朝

9 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 08:53:05.97 .net
三河の源氏なんちゃって伝承は徳川が源氏に擦り寄るために創作したお花畑物語
よって創作部門第一位は徳川家康

10 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 12:08:58.83 .net
平成の世は仮冒平家ばっかりじゃん。

11 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:54:41.33 .net
>>1
「重要」を詳しく定義しろよ

12 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:36:57.23 .net
>>11
甘えとらんで、それくらい自分で定義しろ

13 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:04:15.35 .net
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する

14 :日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:05:01.34 .net
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する

15 :日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:56:59.46 .net
以後500年間の武家源氏の権力デフォを確立したから尊氏だろ。

16 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:12:27.73 .net
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

17 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:21:13.68 .net
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び

18 :日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:46:28.26 .net
岡崎市民の三河人いい加減にしろ

19 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 00:10:23.15 .net
大雑把に
軍人としてなら
家康>尊氏>>頼朝
政治家としてなら
頼朝=家康>>尊氏

こんなもんだろ

20 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 00:23:09.86 .net
足利尊氏が最も重要だゼッ!!!
なにしろ京の都に幕府を開いたからナッ!!

21 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 10:04:47.05 .net
・武家政権確立
・500年中興の祖
・250年稀な安定

好きなの選べば

22 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:47:01.88 .net
>>17
尾張は関係ないだろ
何でしゃしゃりでてくるのか?
田舎者は困ったもんだな

23 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:16:17.56 .net
全部。
それぞれ個性が違うし、時代環境も違う。
それぞれの時代にそれぞれ適応してた。

24 :日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:42:12.56 .net
頼朝は尾張出身で地元の尾張熱田神宮に祈願したし
尊氏は尾張熱田神宮を参拝して祈願したし
家康も尾張熱田神宮に祈願した

みんな尾張にゆかりがあるね

25 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:34:32.49 .net
>>24
んなこと言ったらみんな相模にゆかりがあるし、
みんな武蔵にゆかりがあるし、
みんな駿河にゆかりがあるし、
みんな山城にゆかりがある。

26 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:42:06.07 .net
関東
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
三河
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候(甲陽軍鑑)

27 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 05:38:49.86 .net
>>24>>25
頼朝は父親が元下野守で
尊氏は本領が下野にあって
家康は下野国日光東照宮に祀られた。

28 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 06:33:51.98 .net
>>24
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)


三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)


当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw

29 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:12:30.24 .net
>>26
三河ワロタw
>>28
それでも三河ファンタジーを信じる健気さに
三河基地外のお前にまたワロタw

>>27
>頼朝は父親が元下野守で
鋭い
下野すげー

30 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:25:47.56 .net
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝




万年パシリ乙w

31 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 07:30:27.19 .net
■鑁阿寺(足利氏菩提寺)

1234年、大御堂を建立

(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏

(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘



万年パシリ乙w

32 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:14:19.80 .net
足利尊氏の200年ほど前の先祖の母方外祖父の一人の
コピペを繰り返し貼らなければいけないほど
三河は有名人に飢えているって話だな

33 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 12:17:05.13 .net
源頼朝の母親と足利義兼の母親が、三河の藤姓熱田大宮司家出身の姉妹だった、中世はこれが全て
足利氏は三河守護になったのではなく、源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との所縁で三河守護になれたが重要

34 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 12:53:50.74 .net
霜月騒動で三河の頼朝譜代はやられたが、尊氏はその敵討ちしただけだろうw


・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼家に室を出し生まれた子供が公暁
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭


これ全部やられちまったんだからよ

35 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:16:13.07 .net
そりゃ〜やっぱり頼朝だろう。幕府政治の原型をつくったのは
頼朝だし。

36 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:32:12.86 .net
>>33
頼朝も尊氏も軍事貴族の清和源氏出身だというのがすべてだろ

熱田神宮家がいつ軍隊出して頼朝や尊氏を将軍にしたんだよw

37 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:11:13.05 .net
>>34
追加

12年後に、吉見義世(範頼流)が処刑されて、頼朝縁者追放は完結した
尊氏は三河の代表としてよくリベンジしたわな

38 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:15:08.04 .net
>>37
足利尊氏が200年前の先祖の母方外祖父の母親の血筋の
代表のわけがなかろうがw

39 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:18:02.29 .net
三河のおもしろさは、有名人がことごとく絡んでくる所だわな
とにかくド派手ですわw

吉見氏

■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する

40 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:23:19.61 .net
三河を知り尽くしていた男、足利尊氏
マメすぎるwお前は家康とやらかよw


足利尊氏関連史跡

■天恩寺(岡崎市)
足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所


■勝楽寺(西尾市)
創建、お手植えの松あり


■その他
【岡崎市】
・滝山寺/足利宗家の氏寺、寺領寄進
・高隆寺/七堂伽藍造営
・真福寺/持地院建立
・満性寺/太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・竜泉寺/日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野一族(足利一族)の竜泉寺城
・総持寺/高一族屋敷跡に、高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮/社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社/庇護(百貫文寄進)、三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社/足利尊氏の墓あり、近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった

【豊田市】
・長興寺/三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ

【幸田町】
・安国寺/三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ

41 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:24:34.26 .net
>>40 続き

【西尾市】
・実相寺/安国寺(全国66ヶ国2島の安国寺)に指定、尾張国の安国寺の代わりらしい(尾張国にあった記録なし)
・金蓮寺/真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、金蓮寺として再興
・饗庭神社/新田開発し、一宮、二宮、三宮を鎮守、その内の二宮、饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係
・幡頭神社/参拝、弓矢奉納

【豊橋市】
・赤岩寺/阿弥陀如来坐像奉納

【新城市】
・冨賀寺/真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として寺領を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀

42 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:40:47.64 .net
>>40 >>41
伝説が混ざりすぎ
尊氏関連ならこっちのほうがよっぽど凄いんだが
尊氏が200年前の先祖の外戚の母方が三河出身であったことを誇りにしていて
自分の三河の血を自慢してたのならば当然これより凄いのが三河にあるよね?

■等持院(京都市)
足利尊氏創建
尊氏以降、代々の足利将軍の菩提寺
足利歴代将軍の木像・足利尊氏墓あり

■等持寺(京都市)
尊氏が自邸内に建立した寺
後に廃絶したため等持院が法灯を継ぐ

■御所八幡宮(京都市)
足利尊氏が将軍御所内に清和源氏の守り神である八幡宮を勧請したもの

■天龍寺(京都市)
足利尊氏建立
この寺の創建のために尊氏は「天龍寺船」を送った

■鑁阿寺(足利市)
足利義兼創建の足利氏氏寺
本堂は国宝

■足利学校(足利市)
足利義兼が復興

43 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:13:59.79 .net
知らんわけないだろw舐めてんのか?万年パシリ
すぐ前に鑁阿寺のレスもあるだろが

マイナーな頼之創建の地蔵院や師直創建の真如寺にも行った事があるマニアだ


義兼の母親を菩提寺した法界寺(樺崎八幡宮)はどーした?
三河絡みで隠蔽か?w北関東に足利ゆかりは極めて少ない、一覧にしてあげてみなw



・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼

44 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:20:20.29 .net
よくみりゃ足利学校が義兼と書いてやがるな、万年パシリの田舎猿
伝承以下だろがw

三河の伝承は嘘、三河以外は正しい伝承か?笑わしよるな、万年パシリ


正しい伝承の例(笑)
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい

・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した

45 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:04:46.73 .net
>>32
南朝鮮人の捏造歴史・パクリ文化を盲信する
ウリナラファンタジー信者にソックリだよな
裏を返せばコンプレックスの塊
何も無いから何でも創れる盗れる

46 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:15:08.58 .net
>・滝山寺/足利宗家の氏寺
>藤原季範(額田冠者(三河国額田郡


虚言妄言のオンパレード王者では
三河の徳川家康と三河岡崎じじぃが一番

47 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:38:24.45 .net
>>43
嘘つき三河狸がほとんど無関係な寺社ばかりあげて
42クラスの寺社をあげられない馬鹿だということは分かったよ

脳なしなので話題そらしているが42がきいているのは
42クラスの寺社が三河にあるのか、ということ
で、ないのが事実

無能なコピペを毎日繰り返すニート三河狸。

48 :日本@名無史さん:2014/01/09(木) 23:30:40.73 .net
>>40
>滝山寺/足利宗家の氏寺 ×

空気を吐くように嘘ばかりつくなよw

滝山寺は三河土着の足利一門の氏寺 ○


足利宗家の氏寺は鑁阿寺や等持寺
岡崎三河に足利宗家は存在しない



滝山寺は足利宗家じゃねーぞw
足利一門の氏寺だろw

49 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 01:38:01.79 .net
滝山寺
・正しい家時の没年を記載

鑁阿寺
・家時の位牌の没年を間違える(笑)



何で間違えたかと言うと、法要を鑁阿寺でやっていないからだろ
間違えを指摘する関係者すらいなかったとか笑い殺すつもりか?w

50 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 04:55:25.91 .net
そういえば鑁阿寺って国宝なんだな

地元の高校生の喫煙スポットなんだが火事にはなってないな

てか韓国窃盗団に盗まれた仏像とか、日本て国宝のセキュリティが
世界に例のないくらい甘いな

51 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:49:49.94 .net
滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角

1220年代〜1330年代まで

【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する

52 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 09:52:08.02 .net
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する 14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山

53 :日本@名無史さん:2014/01/10(金) 20:51:33.98 .net
徳川家は新田源氏を祖ですと愛知県三河岡崎市

それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知

それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党

今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん

54 :日本@名無史さん:2014/01/11(土) 09:42:08.17 .net
源頼朝

55 :日本@名無史さん:2014/01/11(土) 10:11:18.29 .net
源頼朝はS体質で恐怖政治で失敗
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功

よって足利尊氏の圧勝

56 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 00:28:16.03 .net
足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ

これは間違い


承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、縁故者の足利氏に給されて、一族が移り住んだ


三河守護になるならないは関係無し

57 :sage:2014/01/12(日) 18:02:02.44 .net
>>56
正解

三河バカがコピしている尾張熱田大宮司が三河の藤姓熱田大宮司家に
怠慢や諸問題で職を手放し譲渡したかのように捏造拡散しているが大きな間違い

そもそも藤姓熱田大宮司家は神官職についてからは
神宮という職務がら(武家や公家とは違う)本貫を尾張に変更
当然、氏寺も三河バカが捏造寺伝書を拡散する
滝山寺ではなく尾張にある

58 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 20:41:55.13 .net
>>53
そりゃそうだ。wikiにすら古事記坊主と書かれてるレベルの出自だからなww
チカウジなんて出生地すらわからん人間やからなあ

59 :日本@名無史さん:2014/01/12(日) 20:50:27.19 .net
ただ、新田庄世良田得川なんて単に自称しただけで円もゆかりもないだろ

60 :日本@名無史さん:2014/01/13(月) 19:28:58.12 .net
義国流の三河と下野への関わりはタイムラグは無い
しっかり下野に土着していないから、三河と下野を比べた場合、三河を選ぶわな
鎌倉殿にも繋がる三河の人脈は華やかだからw

・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条

61 :日本@名無史さん:2014/01/13(月) 19:37:03.84 .net
義氏が三河守護になって、三河にやってきた時、範頼の息子も坊さんで三河にいたんだよな
吉見氏が、室町幕府の幹部として優遇されたのも、全部三河繋がり
これが中世〜近世、日本を支配した三河ネットワークですわ


吉見氏

■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)

正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する

62 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 01:30:46.39 .net
>>53
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。

63 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 02:11:36.39 .net
>>62
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない

64 :sage:2014/01/14(火) 21:38:06.27 .net
徳川家康って最初は藤原氏の末裔を名乗っていたんじゃねえ?
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww

65 :日本@名無史さん:2014/01/14(火) 23:27:59.40 .net
途中から本姓を変えるなんて当時はよくあることで、
正直別にすごくない。

66 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 02:07:37.22 .net
影響力から言えば
当然古いほうが影響力がでかい

67 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 12:47:15.09 .net
少なくとも指導者の資質としては尊氏は後の二人より明らかに落ちるな。
「いい人」であることは幕府の指導者としての資質としては必ずしもプラスではない。
やはり、最初に確固とした武家政権を築くのに力のあった頼朝が歴史気的影響としては大だろう。

68 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 14:30:38.63 .net
成り上がり度とプラスアルファ
一位 頼朝 (流人しかも譜代の郎党は実は皆無→武士トップ&公卿、
実は存在しない清和源氏嫡流捏造成功
利害関係がドライな主従関係の時代に御恩と奉公確立)
二位 家康 (一応譜代がいる小土豪→武士のトップ&大臣&孫娘が皇室に嫁ぐ&死後に神格化
奇跡の260年の泰平の基礎)
三位 尊氏 (有力御家人&一門多数&譜代多数&頼朝によってageられた源氏の血筋→将軍
大混乱の時代を勝ち残れたことは評価できるが足利時代は混乱の連続)

69 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:10:30.13 .net
>>68
譜代は土豪じゃなく山の名かにすんでた山賊崩れじゃん
土豪とは言わない
結局秀吉一門見れば成り上がりは蜂須賀みたいなリアル荒くれ集団従えて力による統治でしょ
松平も山奥の、譜代とかほざく山賊集団従えて平野に降りてきたでしょ
そもそも山奥の山中住みが土豪とか、・・・
秀吉は川並衆みたいな川賊を従えて物流や職人技で他を圧倒し
松平は生粋の山賊上がりを従えて東海を圧倒した
土豪なんて後ずけの正当化だよ

70 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:57:41.68 .net
>>68
清和源氏嫡流は当時決まっていなかったとはいえ
頼朝の父・祖父は保元の乱に勝利して嫡流の座を武力で奪い取ってきたのだし
頼朝はその嫡子なのだから捏造といえるほどでもないよ

家康の捏造のほうが酷いだろ
そもそも清和源氏の血を引いていないのだから

71 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:05:34.23 .net
>>69
家康の先祖の出身には色々ありそうだけど
家康の頃には先祖の代からの家臣というかお仲間がいたでしょ?
(麗しの主従関係は後付けの話で実際は裏切りでもなんでもありのドロドロしたもんだと思うけど
)

72 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:08:24.65 .net
>>70
義朝敗北、頼朝流刑の時点で勝ち取ったものは全てチャラ。

73 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:12:04.62 .net
ちなみに頼朝挙兵の少し前の時点では
八条院側近で公卿の頼政の立場や地位のほうが上だし
保元平治の頃の各源氏も義朝やその所属勢力の同盟者であって
義朝の支配下にはいない。

74 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:56:28.90 .net
>>68
頼朝の兄弟皆殺し見れば納得するわ
嘘で塗り固めて成り上がった張りぼてが見事に行動と心境に写し出されてるからな
まあ頼朝自体も担ぎ上げられただけのそこらの馬の骨だから暗殺されたわけだ

75 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 17:22:03.50 .net
三河の源頼朝がつき、三河の足利尊氏がこね、三河の徳川家康とやらが食った天下餅か?w

家康とやらは、源氏が構築した三河ネットワークに、ただ乗りしただけだな
三河の王以外が、天下を取れた可能性はゼロだわな

76 :日本@名無史さん:2014/01/19(日) 19:29:40.82 .net
天皇家だろうが公家だろうが家格の高い武家だろうが
正当な嫡流がスンナリ収まるってことは平安末期〜戦国の中世では寧ろ希

けど家康の場合は捏造して三河と近辺に源氏捏造古文書や寺伝書やら創作して
吾妻鏡やら中世文献を都合よく箇所箇所、編纂させ
近江や相模・武蔵・伊豆から源氏ゆかりの仏像やら武具やらを三河に奪取させて
三河源氏ファンタジーを造った努力の人
だから三河岡崎の縁起・由緒が分かる重要な手がかりである古文書で
国宝級重要文化財級はもとより
愛知県指定の重要文化財級の古文書は一切ないのは当然www

77 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 09:14:05.32 .net
>>72
チャラになってないよ。
その証拠に、平家打倒を呼びかけた以仁王は諸国源氏に放棄を呼びかけ、
頼朝にも挙兵を命じる令旨を送っている。
チャラになっていたなら、挙兵できるはずもない流人の頼朝にそんなの送らないよね。
武家源氏の嫡流として平家さえ弱ればいつでも挙兵できると思っているからそんなものを送るわけで。
平家と不和をきたした後白河法皇自体、頼朝の流刑を解いて平家追討の院宣を与えている。
勿論、頼朝がすべてチャラになった庶民以下の罪人ならこんな院宣与えない。

78 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 12:14:32.80 .net
>>77
まず令旨は頼朝にだけ出されたものではない。
近江、美濃、尾張、甲斐、義仲などの諸源氏(ちなみに義仲な倶利伽羅峠まで都では無名な存在)、八条院支配下にある藤原系武士(小山氏)などにも出されている。
頼朝はその中の一人に過ぎない。(伊豆知行主頼政に近い伊豆国人からの推挙か)
数打ちゃ当たるの中のどさくさで出されたうちの一人で、差ほど期待されていたかも不明。
ちなみ後白河院が令旨と同時に赦免したとか院宣出したというのは後の結果を知ってるフィクション「平家物語」だけの内容。
頼朝が赦免されたのは挙兵から三年後の1183年に出された「十月宣旨」の時でそれまでは都では罪人扱い。

79 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:33:03.58 .net
75
足利の植民地がなんかいってんの?
三河幻想っていつからかね〜

80 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:35:07.90 .net
その藤原ってのがいつから定着したかが謎なんだよな〜

81 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:43:22.31 .net
源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家の親戚として三河に拠点を設けましたが?

・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)


・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条

82 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 13:47:56.41 .net
何回言っても理解できないクルクルパーだなw



足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ

これは間違い


承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、その所領が縁故者である足利氏に給されて、一族が移り住んだ

83 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 15:00:10.05 .net
>>78
だから、完全チャラになっていたならそもそも頼朝に令旨が届かないでしょ

絶対に挙兵できない相手になんで手間もお金もかかるのに
使者使ってそんなもん送るんだよ
送った以上は挙兵を期待していたはずなのに

それに源氏の多くは平治の乱で敗れて流人や乳母に隠されて養育されていた
そんな状態からでも挙兵できたのは
やはり清和源氏が平家に並ぶ武の血筋だったからに他ならない

84 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 16:38:01.36 .net
>>83
憶測激しいわ
仮に源氏の血筋が根拠と言うなら、その血筋を流用して使用したのが後の頼朝だろうな
だから兄弟に情どころかいつタマとられるか気が気でなく、暴挙に出たあげく自分も消されたんだろう

85 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:12:17.43 .net
>>83
頼朝挙兵成功の理由の要因は東国武士同士の対立に上手く乗ったことなんだよな。
東国武士の平家方豪族に圧迫されていた非平家方豪族をやっつけたい、
その為には反平家の旗頭が欲しい。そこにたまたま頼朝がいただけ。
反平家方豪族は旗頭はそれなりの血筋があって前歴でもいいから官位をもっていて都に人脈があれば
別に源氏でなくても誰でも良かった。
たまたま坂東で令旨をもらっためぼしいのが頼朝しかいなかったのと
頼朝と坂東武士がうまく時流にのっただけ。
ちなみに伊豆の豪族は当初頼政の孫の有綱をかつごうとしたけど
有綱が坂東から逃亡したからピンチヒッターで頼朝を担いだという説がある。

お金と手間に関しては挙兵のスポンサー八条院は大富豪だから問題なし。

味方は多いほどいいからね。

86 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:16:43.04 .net
ついでに書くと最終的に勝利したのが頼朝と坂東武士団だから彼らが
反平家の中心勢力だと思われるけど
決してそうだとは言い切れない。
近江や美濃、寺社勢力のほうがむしろ期待されていたと思われる。
事実富士川直後に彼らは挙兵し平家の当初の交戦相手は畿内の勢力だった。

87 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 17:43:50.46 .net
>>83
逆に考えようか。
全盛を誇る平氏と戦うということは
当時の人から見れば狂気の沙汰でしかない。
地位や財産のある人は失いたくないものがあるから挙兵しない。
少なくとも先陣は切れない。
しかし失うものが何もない流人は
自棄を起こせばなんでもできる。

しかも伊豆は頼政の支配下にある。
脅しつけてでも頼朝を挙兵させることができる。
そしてそれを導火線にして反乱の火の手を拡大させる。
成功すれば御の字で成功の果実は頼政が頂く。
失敗したら流人の反乱で処理して口を拭う。
頼朝は導火線の着火点位位の役割で
令旨を出されたじゃないのかな?

88 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:00:45.37 .net
>>84
>>85
頼朝が源氏の血筋を引いて無くても令旨が届いたのかい?

それをまず考えてみるといいよ

89 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:11:46.00 .net
>>88
源氏の血をひいてない小山氏(藤原氏)も令旨をもらってますが。

90 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:29:49.20 .net
面積最大の八条院領、三河国加茂郡高橋荘・高橋新荘

・立券:藤原季兼(三河四郎大夫)か?
・寄進:藤原季範(額田冠者)か?
・荘司(治承年代):足助重長、長田忠致


藤原季兼(三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝

91 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:08:01.06 .net
中央集権に近い政権別

江戸幕府>>>>>>>>鎌倉幕府>>>>>>>>室町幕府

政権樹立後安定させた機関

江戸>>>>>>>>>>鎌倉>>>>>>>>>>>>>>>室町
長きにわたる平和が
各藩の士族の世襲による増加により財政疲弊をおこして
廃藩置県の時に、スムーズに中央集権化がなされたところを
評価するならば  家康が最強
豊臣政権があのまま続いてたら、欧米勢力に植民地化されていたであろう

92 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:21:44.47 .net
>>87
以仁王の挙兵から探ろうぜ

>>90
徳川の創作物語を平成の世にしつこく語り継ぐお前は悲惨
痴呆板愛知県岡崎スレに逝けw

93 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:38:27.65 .net
>>89
小山氏は藤原秀郷流の武門の家だろ
もともと兵を揃えた家だよ

頼朝は平治の乱で全くゼロの状態になったというのだから
つまり、百姓以下
百姓もしくはそれ以下に令旨を与えた例を挙げろ

94 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:04:05.64 .net
>>93
チャラになった=百姓以下とは極端な解釈。
チャラというのは
・義朝以前から積み上げた都の武者としての地位
(といっても武家源氏のトップに立つ棟梁を意味しない)
・義朝が入り込んだ人脈
・それらを背景に従えた利害関係むき出しの東国武士との主従関係
がチャラになったという意味だよ。

95 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:07:17.70 .net
>>97
以仁王の挙兵自体が、計画の最中に情報漏れて
バタバタした想定外の出来事だけどね。

96 :日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:17:16.09 .net
>>91
といっても江戸幕府も直轄地以外は各藩が自分たちのやり方で政治していた連邦政府に近いモンだったんじゃない?
鎌倉期は武士は土地を支配する権利だけもってただけ。しかも御家人じゃない武士も多数いたし
朝廷も武士も手出しできない寺社という厄介な存在もいたよね。

室町が一番グダグタという点には異論はない。

97 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 01:10:54.22 .net
>>94
史実で挙兵後、あれだけ多くの家来が従ったってだけで、
「チャラになってない」ってことがわかりそうなもんだが・・・

頼朝は決して唯一の「清和源氏嫡流」でなく、鎌倉幕府を開いたからこそ嫡流になった、
っていう程度なら、それは正しいけど、
「チャラになった」ってのはどう考えても言いすぎ。

98 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 05:25:32.44 .net
>>97
言いたいことはわかったけど
あなたの書き込みは頼朝の下に東国武士が従った理由を
頼朝の血筋のみに求めようとする見方のようにも読み取れたんだよね。
頼朝の先祖と東国武士との間には累代の主従関係があったという見方は最近は否定傾向。
源氏と東国武士との間に利害関係があるうちは主従であるけど
利害関係がなくなると主従関係は抹消される。
都での地位を失い、無力となった1160年時点の頼朝と東国武士との主従関係は完全に消滅(=チャラ)
ただし、東国武士同士の対立が深まり1179年の治承三年の政変で東国での知行国主の交代で
緊張が高まったらかつて都の武者だった頼朝の利用価値が急激に高まった。
この事態は1160年時点では誰も予想できなかった事。
つまり、血筋+時代状況+頼朝の人脈と過去の履歴+頼朝の能力
で頼朝の成功をみるべきで頼朝の血筋のみに成功の要因を見いだすべきではないと言いたい。
(血筋のみに求めようとしていると読み取ったのが誤解ならばお詫びします)

99 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:44:15.58 .net
なによりでかいのが鎌倉氏(平氏)の娘を嫁にしたことだろ
じゃねえと平氏筋が従う理由がないからな、あとは将門あたりの
失敗が大きいかも
同族で纏まる機会をこいつが潰してるもん|( ̄3 ̄)|

100 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:45:52.35 .net
あ〜頼朝じゃなくて義家かな?

101 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:49:06.91 .net
つうか京に対する対抗筋だから失敗すればもとから殺されるだけの運命

頼朝公のシャレコウベっていってな|( ̄3 ̄)|

102 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:32:30.28 .net
まとめといたよ

■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数

103 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:34:33.60 .net
B藤原範季
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

104 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 19:36:01.88 .net
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

105 :日本@名無史さん:2014/01/21(火) 20:54:12.13 .net
糞みたいなコピペ連投はやめろよクズ

106 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 18:20:27.85 .net
日本のテロに「隠れたメッセージ」があった

http://music.geocities.jp/jphope21/0202/9/189_1.html

そこに、重要な事項があった。

( http://music.geocities.jp/jphope21/0103/36/249.html )

107 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 21:59:05.83 .net
頼朝が搗き、尊氏が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは家康

108 :日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:17:46.00 .net
頼朝に決まってる
鎌倉幕府はもはや革命

109 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 21:52:08.45 .net
>>107
三河のが抜けていないかい?

くだらないセンゴク、家康とやらだけ(今川もか?)は守旧派だったわけだな
上層部を三河武士が占める武家政権を変革する必要はないわけだから

110 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:02:42.89 .net
>>102
崇徳院の妾、兵衛佐局(皇子垂仁親王の乳母は池禅尼
)は、武衛の親戚の記録があって、三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるらしいな
もう一人の妾は三河権守の娘



これも三河ネットワークか?w

111 :日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:20:02.96 .net
三河厨土人は脳に蛆わいてんの ?

112 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:24:17.57 .net
頼朝居なくても義仲が決起してただろうし尊氏居なくても
新田が北条倒してただろうし家康居なかったら豊臣が幕末まで
天下握ってただろうから三人とも要らん!!

113 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:47:04.00 .net
>>112
一番差がつくのは足利と新田
新田が足利に変わるのは無理

114 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 00:58:10.91 .net
そういや義仲って瞬間的に将軍にならなかったか?

115 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:14:43.43 .net
>>114
義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」とする説が有力らしい

116 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:31:19.94 .net
尾張のドン百姓に政治は無理だわなw
織豊時代(笑)は20年位だっけ?w
日本を統治したとは言えまへんw

117 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 01:55:59.49 .net
>>113
新田には運営ノウハウが無さそうだよね
100年くらい幕府中枢から弾かれてたんだろ

118 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 12:07:08.25 .net
当時新田は朽ち果てた地方の源氏一門
兵を挙げるにも100騎くらいしかなかった
源氏嫡流の足利に対して家格も求心力を全く及ばなかったし
新田義貞自身も武将・政治家として評価は低いよね
ただ楠木や北畠と上手く共闘していれば時代は変わったかもしれない

119 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 16:43:15.61 .net
>新田
頼朝に嫌われたのがケチの付き始めだねぇ
源氏の名乗りを許されないわ、庶流に次々と独立されるわで踏んだり蹴ったり
途中合流した一族は、義貞が上野陥落させるまでは様子見してたんじゃなかろうか

120 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 16:56:21.93 .net
>>113 >>117
北条倒したのは新田だろ
尊氏は都にあって六波羅探題を攻めただけ

まさか、鎌倉攻めを指揮したのは当時4歳の千寿王
千寿王には4歳にして戦のノウハウがあったと?

121 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:00:51.74 .net
たかが4歳
されど4歳
昭和平成の4歳タラちゃんと比べちゃいけない

それだけ源氏棟梁足利家の嫡男が新田に付く影響は大なんだよ
事実、千寿王が加わったわずか数百騎の軍勢だった新田勢には、
上野・下野・上総・常陸・武蔵の関東各地の足利一族と
源氏一党が続々と集結を始め、その日の夕方には二十万騎に達したわけ

122 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:12:53.02 .net
>>117
代わりに修正したよ



三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き、三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の家康とやら

123 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:31:32.84 .net
>>121
に十万騎とか本気で信じてるのか?
全国統一の秀吉の小田原征伐ですらに十万なのに、
本気であの時代に関東だけでに十万集めたとでも思ってるのか?
関東の覇者後北条ですら三万レベルなのに、なんだって?

もう一回いってくれや人数を!

124 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 19:53:47.53 .net
そう興奮するなモチつけw

誰もあの時代に二十万騎きっちり揃うわけねーじゃんw
太平記や難太平記や鎌倉の北条方も古文書などに記述はあるが
当時の今川始め、書いた本人達も盛りに盛った数字くらい
理解していたはずw
けど千住王が加わっって新田の軍勢が以上に膨れ上がったのは事実って
ことだ

125 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:32:46.16 .net
やっぱこういうの聞くと源氏の正体はファンタジー国家からの渡来人じゃないかと疑ってしまうよ、、
実際疑惑はいっぱいあるしさ
盛りにもってよくて二千強を二十万とオオホラつくところはもう皆さんお馴染みの渡来人レベルにだ

126 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:49:59.99 .net
戦国は云うに及ばず源氏も平家も似たり寄ったり
その凝縮系が家康三河・三河厨土人ってことだなw

127 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 20:58:51.88 .net
渡来人とやらにどんだけ夢みてるんだ?
日本はもとより物部系の国ですがなあ|( ̄3 ̄)|

128 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 21:02:27.95 .net
まあありえるとしたら天皇関係でやたら天神地祇って言葉がでてくるからそれ関係の渡来してきたやつらはいるかもな
半島あたりが過去は先進地帯だのってのは幻想だからあきらめろ

129 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 21:12:32.67 .net
日本人なんか元を糺せばみな渡来人だしww
日本列島で人類が発祥したとでも思ってんの?w

130 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:28:52.15 .net
>>127物部こそ得たいの知れない渡来系ですがな?

131 :日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:39:18.65 .net
三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き
三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは三河の家康とやら

132 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:21:06.08 .net
>>131
そこまで女系優遇だったのならば源氏三代がほろんだら当然に
藤姓熱田大宮司家から次の将軍が迎えられるべきだったのに。
源頼朝じゃなくて三河頼朝、三河尊氏なんでしょ。
藤姓熱田大宮司家って、鎌倉幕府や室町幕府内で
将軍の出身氏族としてどんな役職についていたの?

133 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:32:09.91 .net
>>109
悪りぃ三河が抜けたワw

近江尾張の頼朝が搗き
相模下野の尊氏が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは得体知れずの三河山賊の家康とやら

その家康の捏造糞を貪り食うは三河厨の岡崎土人とやら

134 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 15:40:25.83 .net
坊門姫は、三河の藤姓熱田大宮司家の血を引いとるがな
役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな

135 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:31:26.45 .net
火病ってる三河バカは全く学習能力ないな

尾張の熱田神宮の初代藤姓熱田大宮司藤原季範から代々
尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
宮司職として本貫も氏寺も藤原季範の代から尾張に変更してから平成の現代に至るまで
尾張になっている
三河は熱田大宮司職とは全く関係ない
三河に土着した親父も季範の大宮司職とは全く関係ない

つまり初代「藤姓」熱田大宮司は尾張なんだよ
三河藤姓熱田大宮司家は妄想の家で現実は存在しない
あえて史実に忠実に書くなら
尾張藤姓熱田大宮司

マスカキ・クズレスばっかで三河の恥をこれ以上晒すなよw
現実を観ろwww

136 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:48:41.16 .net
>尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった


室町期以降の話だろw


頼朝同母

・坊門姫
・希義


土佐吉良氏

希義→希望(吉良八郎希望)

土佐吉良氏の歴史を記した『吉良物語』を見ると、希義は平田俊遠の弟三郎経遠の女のもとに通い、希義が討たれたあとに女は男子を生んだという。
これを希義に心を寄せていた夜須七郎が聞き付けて、頼朝の高聴に達した。頼朝はこれをにわかに信じなかったが、のちに希義の子と認め、土佐郡吾川郡のうちに数千貫の土地を与えた。
さらに、三河吉良庄に馬の飼場三百余貫を賜り、吉良八郎希望を名乗った。そして、吾川郡大野荘に吉良峯城を築城し、土佐吉良氏の始めとなったである。



史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw

137 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:57:54.38 .net
源頼朝関連史跡
尾張
・頼朝が生まれた産湯(頼朝は名古屋でうまれたぎゃ〜)

三河
■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する

一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂、普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂

■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営、源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨

■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進

【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築

138 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:58:36.87 .net
【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請

【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建

【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納

【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進

【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営

【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進

139 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 17:05:00.39 .net
>>135
初代藤姓熱田大宮司藤原季範の誕生からだから平安末期だな

140 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 17:22:14.07 .net
>>120
当時幕府軍の主力は西国の謀反軍を鎮圧するため京周辺に集結していた
鎌倉は京周辺にいた幕府軍の主力が壊滅した段階で既に死に体だった
だから六波羅探題を陥した足利が鎌倉を陥した新田よりも評価された

141 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 18:15:03.04 .net
なぜ源頼朝と足利氏は、尾張を無視するのか?



三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)          ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む

142 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 18:20:26.12 .net
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

143 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 19:12:45.80 .net
>>134
坊門姫は頼朝の妹で親父は頼朝と同じ
正統な源氏の血筋だろw

父系で頼朝と同じ源氏の血を引かないにもかかわらず
母系の藤姓熱田大宮司のみの血の力で頼朝に重用されないと
頼朝の母系重視・藤姓熱田大宮司重視とは言えない
坊門姫は熱田大宮司を継いだわけでなし母方の藤原姓を名乗ったこともない
父系重視で重用されたとしかいえん

144 :日本@名無史さん:2014/01/25(土) 19:25:54.92 .net
なぜ尾張は無視されるのか?親戚の一人もいないだぎゃ〜
これではただの、頼朝が生まれたと主張する頭の悪い田舎者だぎゃ〜



頼朝の従兄弟

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏



鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html


吾妻鏡 元暦二年(1185)二月

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。

145 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 08:56:29.70 .net
>>136
>役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな
>室町期以降の話だろw
>史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw

三河バカにかかったら
父系も母系も室町時代も平安時代も史実も時代考証も関係なしってことか

146 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:39:32.15 .net
>>144
お前の大好きな頼朝の女系熱田大宮司を出してきてやったぞw

古代豪族尾張氏ー尾張員職ー女ー藤原季範ー由良ー源頼朝

頼朝は古代豪族尾張氏の血を引いてるんだね。
三河人の血は引いてない。

熱田神宮の有る場所=尾張
熱田神宮に近い尾張誓願寺は熱田大宮司の自宅があった場所で、頼朝生誕の地の碑が建つ。

147 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:14:59.46 .net
>>146
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる


名古屋は一切関係無し
ダサいダサ過ぎるw


頼朝の名古屋飛ばしが無慈悲過ぎるw

148 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:29:50.88 .net
ごめん傍からすまんが、仮に移住してきたとしても、
尾張国の人であることには間違いないんでないの?少くとも三河とは全く関係ないし。

149 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:34:08.69 .net
頼朝に関しては、自分に近い源氏は粛正、母方、乳母関係者優遇は常識だろ
頭の悪いレスばかりしやがって、万年パシリの尾張猿め

150 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:10:08.66 .net
>>148
尾張に住んだ事すらないw熱田神宮の社領を守り切れず、三河の実力者にすがりついたはいいが、大宮司職を乗っ取られたw

尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)



三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)

151 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:13:43.18 .net
まあ三河は関係ないな。

152 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:22:24.64 .net
>>45
まあそう言うことだ

153 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:02:42.52 .net
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)



当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw
頭の悪い田舎者、名古屋人のセンズリねたじゃねーつーのw

154 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:52:36.19 .net
>>135
納得

三河バカが叫んでいる
頼朝・尊氏の根幹が藤姓熱田大宮司家なら
尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん
尾張サゲのカスレス連発で必死だけど
自分で自分の首を絞めているってことくらい気づけよw

155 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 15:47:54.77 .net
三河厨土人は妄想ファンタジー史しか語らないなあ
お前はなに人だ?w

156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57 .net
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

157 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:11:47.40 .net
>藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間


またお前はまちがえているなw
この間も間違えていたいただろう、低能め


こいつは同姓同名、後白河院とは年代がちがうだろw


藤原季兼
平安末期の管絃に堪能な殿上人。父方の祖父敦家,父敦兼,母方祖父顕季と名だたる管絃堪能者が居並ぶ家系に生まれる。
『尊卑分脈』に「正四下備後守」と注される季兼が,にわかに殿上を許されたのは崇徳天皇の御遊の際であった(『今鏡』)。
『古今著聞集』には,保元3(1158)年の復活内宴でひちりきを奏した話(巻3)や鳥羽院の八幡御幸で神楽庭火の本歌をとなえた話(巻6)などが載っている。
『梁塵秘抄口伝集』には「資賢,季兼など語らひ寄せてもきゝ」と親王時代の後白河天皇の今様先達のひとりでもあったことが記されている。




時系列さえ掴めていない、馬鹿丸出しの田舎猿め

158 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:19:54.73 .net
えーか低能、生没年は1044-1101年
馬鹿向けにわかり易くまとめておいた、これさえ理解できない、クルクルパーめ



三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)          ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む

159 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:39:14.02 .net
>>158
お前の言う三河人第一号・藤原実範の前の家系図は?
馬鹿なの?

160 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:44:40.71 .net
>>158
>藤原実範
この前を何故書かない?

藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。

で、その息子がいきなり三河人???

血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が

なんで都人の息子を三河人だというんだ?

161 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:49:19.05 .net
>尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん



だったら足利王国は尾張にできていたはずだろw
現実は、尾張は要らないとばかりの尾張無視w

162 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:50:14.53 .net
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)

163 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:53:46.61 .net
なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代・渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の足利家氏と共に滝山寺(愛知県岡崎市)で出家(板倉右衛門入道)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動

164 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:46:12.47 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

165 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:46:51.30 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

166 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 18:56:39.98 .net
>>161
足利は下野国足利庄に発祥し、
承久の乱後に三河の地に来た外様。

どこまで馬鹿なの?

167 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:04:40.19 .net
>藤原実範
この前を何故書かない?

藤原実範の父藤原能通はキ生まれ都育ちの貴族。

で、その息子がいきなり三河人???

血統主義で一度でも女系で三河人の血が入れば
その子孫は永遠に三河人だと言い切るお前が

なんで都人の息子を三河人だというんだ?

168 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:06:14.74 .net
クルクルパーはこれだからw親戚がいっぱいの縁故地でしたがw



D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)


E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

169 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:25:51.71 .net
>尾張が頼朝・尊氏の根幹ってことになるじゃん



後醍醐天皇追悼の一大イベント

天龍寺供養参列者
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html



当然、三河だらけですが、尾張は一切ありませんなw
いやいたか?w尾張だぎゃ〜と主張する、三河守の千秋三河守惟範(三河国設楽郡千秋)さんがw

170 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:24:04.72 .net
三河バカが爆走しているお陰で

なぜ幕府の開祖は人気がないのか スレと

区別がつかない件についてe

171 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:41:52.43 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。

172 :日本@名無史さん:2014/01/29(水) 14:46:16.78 .net
滝山寺の嘘縁起のコピペ繰り返して暴れてたのは
三河馬鹿だったかw

173 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 00:07:27.38 .net
頼朝や家康が尊氏みたいに兄弟2頭政治をやったらどうなっていたんだろうね
室町幕府と鎌倉公方みたいな2大拠点をやってたらどうなっていたんだろうね

174 :日本@名無史さん:2014/01/31(金) 12:12:54.56 .net
>>173
駿府で大御所やってる時は、実質的に江戸と駿府の2拠点になってたけど

江戸幕府初期は江戸と伏見が活動拠点だったし

175 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 15:36:35.24 .net
足利歴代将軍の木像の中で
尊氏が一番優しげな貌しているな。

176 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:36:28.26 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


やってんだよねじゃねーよw万年パシリの猿

177 :日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:04:25.71 .net
>>174
江戸と駿府を未来も継続しようと思わなかったはず
一般的な史実は承知の上で
改めて、
京都ではなく
頼朝は京都ではなく
鎌倉に家康は何故に幕府を開いた
のかが不思議なんだよね

178 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:08:08.30 .net
範頼を追加しておいたよ



■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数

179 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:10:42.46 .net
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

180 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 00:11:21.94 .net
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

181 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 08:24:42.32 .net
>>154
それでも猿のマスカキを止められない三河バカ
よっぽど尾張の藤姓熱田大宮司家と熱田神宮と尾張が大好きなんだな

182 :日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:10:34.64 .net
頼朝はオナニーネタだみゃ〜
頼朝は名古屋生まれだみゃ〜か?w

183 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 13:54:39.26 .net
三河バカ、とうとうご臨終かw

184 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:08:43.73 .net
で、結局は武家も滅んで今じゃ一般市民ですよ
彼等にとって何のための800年だったのか・・・

185 :日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:19:57.77 .net
歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成26年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
大阪市(難波宮、難波京)
奈良市(平城宮、平城京)
京都市(平安宮、平安京)
江戸(東の京、東京)
江戸城を築いたのは大阪の源氏
東京へはまだ遷都されていない為現在でも首都は東京じゃない

186 :日本@名無史さん:2014/02/11(火) 08:27:25.79 .net
wikiだが

藤原範季
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3


>どのような伝を辿ったのか不明だが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の子・範頼を引き取って

>後白河法皇の指示か奥州藤原氏との縁によるものか不明だが、源義経を庇護し



わからなければ、三河の藤姓熱田大宮司家を調べろつーの、間抜けめ
恐らく二人の援護者は藤原範忠(頼朝母の兄)
三河守になれた範頼は言うまでもないが、三河守護所があった明大寺の由来は義経創建と言われる妙大寺
これが三河ネットワーク


http://blog.livedoor.jp/ttmsh/archives/7065229.html

187 :日本@名無史さん:2014/02/16(日) 07:35:27.93 .net
必死にwikiまで
晒して都合が良いとこだけ拝借・捏造して
人間として恥かしくないのかねw

188 :日本@名無史さん:2014/02/16(日) 22:57:46.59 .net
ホント恥ずかしい行き恥さらしのカスだなぁこいつはw
同じ人間であることが恥ずかしい

189 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 22:25:01.62 .net
難太平記 足利歴代について

(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた


大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない



中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼


親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝

190 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 22:53:44.45 .net
源頼朝⇒鎌倉神君
足利尊氏⇒無し
徳川家康⇒東照神君

初代将軍の結論は
(*◎д◎)♂ これでハッキリしてる

191 :日本@名無史さん:2014/02/21(金) 23:04:00.72 .net
【ネット署名を受付中】

「朝日新聞」社長と「河野洋平」氏の証人喚問要請
http://www60.atwiki.jp/team_japan/pages/30.html

〜 慰安婦問題は全てここから始まった。 〜

192 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 00:24:33.42 .net
訂正


難太平記 足利歴代について

(義兼は)頼朝右大将の側近となられたが、なお世にはばかって狂人のふりをされてその代は無為に過ごされた


大げさと思ったが、当時、三河の藤姓熱田大宮司家が緩やかに分裂していたとしたら、範頼がやられたことで義兼がびびった気持ちもわからないではない



中立グループ
・藤原範忠(由良御前の兄、義兼の実の祖父)
・藤原範季(範頼の養父)
・源義経(元服に藤原範忠が立会い、嫁は比企尼の次女の娘)
・源範頼(幼少期は三河の藤姓熱田大宮司家が庇護、嫁は安達盛長と比企尼の長女の娘)
・足利義兼(藤原範忠の実の孫)


親源氏グループ
・藤原範雅(由良御前の兄)
・藤原範経(藤原範雅の息子、1185年に頼朝の後押しで大宮司)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・源頼朝

193 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 01:14:32.73 .net
頼朝でしょうな

194 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 08:12:13.20 .net
 
             _,,..--――--,,..
           /:::  ハゲ     \
          /:::"            ヽ   ←ジャムリン
          ,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟   i
       `. `Y..      / ー-' ヽ        '.    
        >イ ヽ  ::.| ト‐=‐ァ' |:     i    ボクはジャムリンです♪
       ノ∧  丶、 ` `二´'      }ィ´`フ
 _人_    /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く  V
 `Y´    /::::::://:::/:::::|  ><  /:::丁´:::::::::::::V゚}∩  *  ボク、ジャムリンは 
       /::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
.     /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::}    っ     ウィキペディアに悪意に満ちた編集・加筆してます
    //:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧  , ィ´
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    `ー七:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::/
     //:::::::::::::::::::::::<>::::::::::/::::/  ヽ:::::::::::/
   /⌒〈:::::::::::::::::::::::::::::::::::イ::::::::/    `ー‐'  *

195 :日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:05:37.21 .net
みんな信長よりは下。

196 :日本@名無史さん:2014/02/24(月) 23:23:35.67 .net
小保方さんと小弓公方は関係あるでしょうか?

197 :日本@名無史さん:2014/03/01(土) 17:00:55.83 .net
鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝

鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥 尊氏

鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康

198 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 06:08:03.74 .net
>>197
尊氏は
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう
では?

199 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 09:33:36.33 .net
後醍醐天皇を見切って北朝を造った尊氏ってことだな

200 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:47:08.95 .net
面白いスレだな
>>96
江戸幕府は「強い中央政府ありきの地方分権体制」だからな
各藩の自治を認めていた
大名に中央政治には関わらせないことにしたってあるけどそもそもが地方分権論者だったし家康
大名連中も自分の領地は自分で自治したいって連中だし
この「強い中央政府ありきの地方分権体制」がよかったんだと思う
中央集権と地方分権の融合の産物=江戸幕府
>91の維新後にスムーズに中央集権に移行できたのもこの体制のおかげかも

>室町が一番グダグタという点には異論はない
室町幕府は中央集権しすぎちゃった鎌倉幕府の反省ありきで成立した政権なんで(´;ω;`)

豊臣は組織を構築してから外征した方がよかったて今振り返ってみるとわかる
外征してる時間を政権作りにもっとまわしていればもうちょっと長く続いたかも
結局秀吉の死後に権力争いで豊臣政権が崩壊したし。ちゃんと正式に組織を作って役割分担しておけってことだな

201 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 12:55:41.28 .net
>>197
「鳴かぬなら・・・」って有名だけど、信長・秀吉・家康の実態をよく示してるとは思えないんだよね。
特に秀吉。「鳴かしてみしょう」とか、そんな良いもんじゃない。
むしろ↓こんな感じだと思う。


● ある日、森を歩いていたら、水辺を散歩している美しいお姫様に会いました。

信長は「明日から俺の側室になれ。ならぬなら殺す。明日、嫁入り道具一式と一緒に俺の屋敷に来い」
その日お姫様は逃げだして、行方不明になってしまいました。

秀吉は何を思ったかいきなり、その場でお姫様に飛びかかり、陵辱してしまいました。
次の日、哀れにもお姫様は自殺してしまいました。

家康は丁重にお姫様に向かってこう言いました。「もしよければ私と結婚してください」
数日後、盛大な婚儀が行われました。子孫は幸福に繁栄しましたとさ。

202 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:07:53.31 .net
頼朝と尊氏って
どっち方がより多くの軍勢を率いたの?

203 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:09:14.23 .net
>>201

頼朝は屋敷に帰った後、配下に命じてお姫様の居館をつきとめ、兵を出してお姫様を連れてこさせました。
お姫様は頼朝の側室となりましたが、子を儲けることはありませんでした。

尊氏は「ボクと結婚してくれない?だめかな?」と言いました。お姫様に断られると、
その妹を連れてこさせて結婚しました。年端のいかない娘と戯れまくっている尊氏をみて、家臣はみな、
「殿はこんなょぅι"ょ好きだったとは・・・」とドン引きでした。

204 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:24:12.17 .net
>>201
チンギス・ハンは何も言わず、無言で配下に合図をすると、その場でお姫様を拉致して
家に連れ帰りました。

ルイ15世は知らぬふりをして家に帰り、次の日臣下に命じてお姫様を拉致させ、
自分の邸宅の中の密園に住まわせました。

カエサルは何を思ったかいきなり、お姫様の目の前で
「見よ、私の美しき禿頭を!私は女のあなたにとって男であり、男のあなたにとって女である!」
といって、服を脱いで踊りはじめました。
お姫様はカエサルの妻となりましたが、夜な夜な奇妙な性癖になやまされる日々でした。

205 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:41:51.08 .net
実朝は「ああ、あなたは美しい。どうか私のために、これを受け取ってください」と言って、お姫様に形見を渡しました。
次の日、実朝は惨殺された死体として発見されました。

義満はお姫様に「そなたは誰の娘かね?」と尋ねました。
次の日、お姫様は父親の命により義満の側室として輿入れさせられました。

家光はお姫様には目もくれず、傍らで遊んでいた少年を拉致して帰って行きました。

206 :日本@名無史さん:2014/03/02(日) 16:34:36.04 .net
>>201
201は何か秀吉に恨みでもあるのかww
晩年はあれだが凌辱は幾らなんでもやらんと思うんだがな
でもホトトギスの鳴かせて見せようよりは確かに殺してしまえのほうかな秀吉は

>197の鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥は家康にあってるかもw個人的にツボったw
>198も鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょうは尊氏にあってる

鳴かぬなら殺してしまえ時鳥 頼朝
鳴かぬなら 鳴く時鳥に 替えましょう時鳥 尊氏
鳴かぬなら鳴かないでいいです時鳥 家康

各幕府初代将軍三人はこんな感じかな。これは広めたいw
個人的に頼朝も殺してしまえとも違うんだがいいのが思いつかない
あと秀吉はこれ 鳴かぬなら殺してしまえ時鳥
信長はどうしよう。鳴かぬなら鳴かしてみよう時鳥も違うしな 

207 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 09:04:32.95 .net
>>200
徳川幕府のうまいところは
地方の藩に自治をやらせて、そのかわりに不手際があったら
その藩の藩主に責任とらせて改易することだな。
中央集権やりすぎると、怒りの矛先が中央政府に行くし
地方分権やりすぎると、中央政権の全国への統制力が崩壊するし。

208 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 13:41:31.89 .net
うまいっつーか、幕府の成立過程からして、中央集権は無理。
地方分権しか有り得ないが、参勤交代などを進め最大限、擬似集権的にするより他に
選択肢はなかったはず。

結果として適度な分権がうまく機能したってのは事実だが、
それは徳川幕府が、与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったってこと。
もし初めから中央集権なら中央集権で、良い体制もあり得るので、
概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。

209 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 18:49:39.73 .net
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。

210 :日本@名無史さん:2014/03/08(土) 23:43:11.65 .net
>まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが
ついでに言えば神社仏閣を破壊し耶蘇に改宗した日本人の女子を東南アジアに
売り捌いていた宣教師達を一網打尽にした報告も渡っているからね
信長じゃなくて良かったわ
信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部

211 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 12:37:36.33 .net
>>208
> 概念として「適度な分権」が「完全な集権」よりも良い、って話じゃない。
202だが、地方分権が中央集権より上とは思ってないよ
自分の書き方がわるかったかな?

>>209
秀吉は結局中央集権体制の組織は作ってないぞ
だから秀吉死後に権力争いになった
>しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし
>南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
>それだけの蓄積が日本にはあった。
なんかvipとかにいる典型的な秀吉マンセーだな

209のいうように関ヶ原の戦いで武断派による功績が大きかったからは間違いじゃない
208の徳川幕府は与えられた状況の中で最大限良い体制を作ったも事実
何もかもお思い通りに事が運ぶなんてことはあり得ないんだから
むしろその状況でどう上手く立ち回ることが政治には必要だろう
秀吉だって何もかも思い通りに事が運んだ訳じゃないし、そこをうまく対処して
権力を掌握していったんだろ。それは悪いことじゃないし、政治に悪も善もないだろ

>幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康
弱体国じゃないだろ
あと藩王って何?藩主ならまだわかるんだが。インドの藩王国?それとも明治後の琉球王?
改めて言うけど幕藩体制も最初からこう呼ばれてた訳じゃない
藩は○○家中と呼ばれてた。藩主は当主だし
>210
>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
意味が分からない

212 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 14:08:15.99 .net
>>210

>信長だったなら今頃日本は中国共産党の一部
家康でも同じだったかもな

213 :日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:20:19.10 .net
信長は兵站戦略発想がないので、
ロジスティクス思考がない。
それを構想したのは武田や豊臣。
なので、織田軍では九州すら平定できない。

214 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 09:26:22.43 .net
>>213
羽柴秀吉に任せればいい。

215 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 22:25:37.98 .net
波乱万丈の中の波乱万丈は何度も都や鎌倉を取っては取られ
京を何度も追い出せれ九州迄落ち延びて復活した尊氏こそが
素晴らしい

216 :日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:51:01.44 .net
〜都道府県の居住意欲ランキング〜

1位は『 京都 』

「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。

京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。

年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。

217 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 01:00:52.16 .net
『西遊草』
著者:清河八郎(山形県=出羽国東田川郡清川村出身の幕末尊攘派志士。剣は北辰一刀流)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg
京師は高位貴官の在る王城にも似合ず万事軽薄鄙吝を専となし、何事も陰等に事をはかろふ故、遂に弁舌の工みと相成、内大小相違するなり。
それ故近辺のうわさにも「京の弁舌」といひて、人を欺く習ひと相成、歎ずべきの至りなり。
其故男児らしき英偉磊落の気風はさらに無し。うちめうちめと計ろふなれば、少しく侠心のある人々は、とても永住のならぬ地なり。
(岩波文庫)

218 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 01:25:15.01 .net
>>215
田楽キチガイの尊氏なんて一番どうでもいいよw

219 :日本@名無史さん:2014/03/11(火) 23:30:47.94 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

220 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 02:44:26.93 .net
>>215
尊氏て勝ったり負けたりで軍事能力測りにくいね
良いときは寡兵でも乾坤一擲な勝利を物にしたり、駄目なときは大軍率いても駄目だし

221 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 02:57:48.17 .net
躁状態の時は大将自ら飛び込んでいくだけの話だろ

222 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 20:27:12.45 .net
>>219
★すっかり正体が割れてしまった運営三河グループによる【荒らしの作法】

・敵味方に分かれての自演バトル―本部マニュアル指示通りの典型的な煽り手法
→左右イデオロギー、地域対立(会津vs長州など)、○○ヲタ(作品、俳優)間の憎しみあい〜反日がー、長州がー、信者がー、ヲタがー。
→喧嘩ごっこの猿芝居で罵り合い、そこに煽られ熱くなった「関係者(一般人)」が参入すれば、もっとも安直にレスが稼げる。
・自らのよってたつ立場=極右とは相容れない(と勝手に決めつけた)大河への犯罪性も露わな尾張や関東や京都あんどの誹謗中傷
→清盛に対する王家がー、汚盛がー、キモ盛がー、反日がー、在日がー、チョンがー、草加がー、犬HKがー。
・脈略なしの完全茶番レス稼ぎ→同じく清盛の時のID粘着、無言連投、MVP連投、マルチポスト、AA貼り、極右政治宣伝など。
・歴史薀蓄雑談でのスレ占拠→ドラマが盛り上がらず一般人が乗ってこないと見るや、延々とスレチ談義の花を咲かせて穴埋め。
・低視聴率が出るやニュース板にスレを立て、大河板と同じメンバーが同じ内容で猛バッシングをかける。そこにネトウヨが押しかけ判で押したようなNHK攻撃を
開始する。さらに一般人クレーマーや業界人(特に民放ドラマ)も参入するので、あっという間にスレが埋まる。実況と並ぶ荒稼ぎのための美味しいツール。
・作品・俳優・脚本家・P等中傷スレ、ネタスレを個別に乱立させる→スレ立て自体がアジェンダ・セッティング。悪質なスレタイでイメージ崩壊を狙い、
2ちゃん世論をミスリードする。
・荒らしとは性格が異なるが、自分たちが規範とするところの独善的な「本格大河」を振りかざしてイマの大河を酷評、マイナスイメージの固定化を図る。

223 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:09:36.78 .net
頼政を枝化したよ


■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数

A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数

224 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:21:08.30 .net
B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐

D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

225 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:24:53.57 .net
E藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Fへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Gへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Hへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

F藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

G藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

226 :日本@名無史さん:2014/03/12(水) 22:26:37.55 .net
H藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)

227 :日本@名無史さん:2014/03/13(木) 21:15:16.16 .net
>>135
納得

228 :日本@名無史さん:2014/03/14(金) 16:08:05.84 .net
>>185
今の大阪の衰退ぶりを見ると、何か寂しくなるわ・・・

229 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 17:48:11.21 .net
家康の狸親父さえいなければな

230 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 18:23:50.83 .net
>>185
島津(薩摩) 源頼朝の庶子→父系は渡来系秦氏族の惟宗氏(京都の下級貴族)、母系は武蔵国(埼玉県)の比企氏。
大友(豊後) 源頼朝の庶子→相模国足柄郡(神奈川県)の藤原姓近藤氏族。
伊達(陸奥) 藤原北家の末裔→常陸国新治郡(茨城県)の伊佐氏の末裔。
大内(周防) 百済聖明王の末裔→周防国(山口県)の渡来系多々良氏族。
朝倉(越前) 皇室の末裔→但馬国造(兵庫県)日下部氏の末裔。
太田(武蔵) 丹波(京都府)の清和源氏多田氏族→相模国造(神奈川県)の族、大田部氏の末裔。
織田(尾張) 平重盛の末裔→剣神社(福井県)の神官、藤原姓または忌部姓とも。
徳川(三河) 上野国新田郡徳川(群馬県)の清和源氏新田氏族→出自不明の三河(愛知県)の豪族。

231 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:02:56.08 .net
>>230
朝倉氏は、但馬国造(兵庫県)日下部氏だから、一応、皇室の末裔。
太田氏も摂津源氏で正しいと思う。
徳川氏は、たぶん、地祇系の賀茂氏。
伊達氏は、伊佐氏で、これは、平繁盛の末裔の可能性もある。

232 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:45:03.39 .net
だから徳川はちがーべや
親氏が加茂市という証拠出せや

233 :日本@名無史さん:2014/03/15(土) 22:25:00.35 .net
>>231
>伊佐氏で、これは、平繁盛の末裔の可能性もある
伊達氏とこの常陸平氏の伊佐氏とは多分別系統
元は下野出身の地方豪族だと思われる

234 :日本@名無史さん:2014/03/24(月) 07:09:15.14 .net
兄の源頼朝と兄に殺害された有能な義経

兄の足利尊氏と兄に殺害された有能な直義

兄の徳川家康と兄にこき使われた無能な弟達

無能な弟を待つと幕府は安定するね

235 :日本@名無史さん:2014/03/24(月) 12:05:51.38 .net
家康の弟達は、異父弟で徳川家の継承権がないから家康にとって恐れる存在ではない。
松平定勝あたりは結構有能だったらしいが。

236 :日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:46:31.66 .net
尊氏の直義殺害の場合は賛否あるよな

237 :日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:52:20.17 .net
文系と理系でこの辺は意見が分かれるだろw

238 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:46:47.65 .net
文系は古文書を開き想像し
理系は急死の病状を検証するって
ことね

239 :日本@名無史さん:2014/03/31(月) 14:31:13.60 .net
戦時中は足利尊氏って言っただけで非国民扱い
またそんな暗黒時代が来るかもね
教科書から削除されたり

240 :日本@名無史さん:2014/04/07(月) 19:47:54.58 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

241 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 09:10:31.12 .net
ネット版のホストみたいなの発見。

イケメンなら稼げるんだろうけど。
話が上手けりゃ稼げるかな。

誰かレポ頼む。
メンガでググると出てくる。

242 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 20:39:19.64 .net
>>240
粘着必死だが
バ カ 丸 出 し だ ぞ
岡 崎 三 河 屋

>>1310年頃の足利荘担当の足利奉公人は高頼基(南右衛門入道)

ところで奉公人って何だ?w

243 : 忍法帖【Lv=8,xxxP】(1+0:5) :2014/04/12(土) 11:10:10.09 .net
gygj

244 :日本@名無史さん:2014/04/13(日) 16:52:12.99 .net
家康

245 :日本@名無史さん:2014/04/13(日) 21:26:57.17 .net
鎌倉神君
足利大逆賊
東照大権現

246 :日本@名無史さん:2014/04/14(月) 23:14:04.79 .net
平清盛という気も

まあ、それはギャグとしても、頼朝はある意味古代を終わらせてるよな。

247 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 21:20:15.78 .net
三河屋は論破されて逃亡中です

248 :日本@名無史さん:2014/04/16(水) 11:54:12.50 .net
清盛がつき、頼朝がこねし、天下餅をすわりしままに食うは北条

249 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 07:57:33.66 .net
>>27
下野最強

徳川以外の頼朝と尊氏は毛野一族の末裔だしな

250 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 08:29:38.77 .net
>>249
頼朝は清和天皇の末裔(清和源氏)
足利も清和源氏の源義家の末裔

毛野一族とは姻族の血にはあるだろうが、末裔とは言わない。

251 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 10:27:04.56 .net
その論法でいったら新田も上野だから毛野になるなw
新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか

252 :日本@名無史さん:2014/04/19(土) 10:28:04.12 .net
失敬

>>251
×新田後裔を称する徳川の毛野じゃねえか
○新田後裔を称する徳川も毛野じゃねえか

253 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:26:49.33 .net
ただの万年パシリだろw


■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

254 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:32:52.49 .net
実績のない田舎者は、都合よく夢想しがちだよなw こんな感じで現在も実績あるのか?
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め

リーマンショック後の不交付団体
■平成 21年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000032095.pdf
・全国の不交付団体 151市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内10市町村
豊田市、みよし市、岡崎市、安城市、刈谷市、高浜市、知立市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 22年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000075077.pdf
・全国の不交付団体 74市町村
・西三河の不交付団体 13市町村の内7市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、西尾市、幸田町
■平成 23年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000124636.pdf
・全国の不交付団体 58市町村
・西三河の不交付団体 10市町村(西尾市合併により3町減る)の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 24年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000169057.pdf
・全国の不交付団体 54市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町
■平成 25年度 不交付団体の状況
http://www.soumu.go.jp/main_content/000240073.pdf
・全国の不交付団体 48市町村
・西三河の不交付団体 10市町村の内6市町村
豊田市、みよし市、安城市、刈谷市、碧南市、幸田町

255 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 13:33:56.40 .net
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの百姓共め

平成22年度生活保護率(主要自治体)

5.30% 大阪市 141,026人

4.33% 函館市 12,187人

3.74% 東大阪市 18,892人、3.63% 旭川市 12,690人、3.37% 尼崎市 15,604人、3.31% 高知市 11,380人、3.28% 札幌市 62,531人

2.94% 京都市 43,118人、2.88% 神戸市 44,225人、2.74% 堺市 22,960人、2.65% 長崎市 11,762人、2.64% 青森市 7,962人、2.46% 福岡市 35,761人
2.26% 鹿児島市 13,700人、2.09% 北九州市 20,559人、2.06% 松山市 10,646人、2.04% 和歌山市 7,547人、2.03% 川崎市 28,571人、2.02% 広島市 23,633人

1.93% 奈良市 7,044人、1.75% 名古屋市 39,501人、1.75% 熊本市 12,792人、1.75% 宮崎市 6,970人、1.65% 横浜市 60,488人、1.62% 大分市 7,618人
1.62% 久留米市 4,914人、1.60% 千葉市 15,315人、1.59% 岡山市 11,195人、1.55% 福山市 7,162人、1.53% 盛岡市 4,571人、1.53% 下関市 4,313人
1.53% 秋田市 4,975人、1.52% 高松市 6,355人、1.44% 仙台市 14,883人、1.40% 船橋市 8,389人、1.39% 宇都宮市 7,065人、1.38% 西宮市 6,646人
1.36% 相模原市 9,710人、1.34% 倉敷市 6,355人、1.33% 高槻市 4,705人、1.28% 岐阜市 5,247人、1.28% いわき市 4,406人、1.24% 姫路市 6,641人
1.24% さいたま市 14,977人、1.19% 新潟市 9,641人、1.10% 川越市 3,739人、1.09% 大津市 3,633人、1.08% 横須賀市 4,519人、

0.96% 前橋市 3,241人
0.94% 静岡市 6,713人
0.89% 郡山市 3,029人
0.79% 柏市 3,152人
0.77% 浜松市 6,276人
0.75% 金沢市 3,436人
0.63% 長野市 2,408人
0.60% 豊橋市 2,278人
0.54% 豊田市 2,287人   ←三河国
0.46% 岡崎市 1,734人   ←三河国

256 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 15:26:14.64 .net
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

257 :日本@名無史さん:2014/04/24(木) 07:03:42.88 .net
>>251 >>252
徳川は自称だから論外だろ
家康の松平・徳川創作源氏物語から
三河岡崎の源氏ファンタジー歴史が生まれた

258 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 18:46:33.09 .net
頼朝って草木も頼朝になびくって凄くない?
実質、何百年と続く 武士の世の始まりだし

259 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 20:20:24.78 .net
武家社会は戦国時代で完全に終焉しただろ

そもそも徳阿弥こと親氏が古事記でなかった保障もないしな
そんな古事記まがいの子孫が名門武家をことごとく滅ぼし天下統一したのが江戸時代

武士の歴史は戦国時代で終焉してんだわ

260 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 21:02:47.80 .net
いや戦国もたいがいだろ
織豊ってか三好あたりからもう名門も何も無い、武士の歴史は終わってた
礼節ってもんがないと武家とは言わんな

誰が勝っても、所詮ボス猿のサル山社会
でも、本能だけじゃなく知恵もあった徳川はやはり一枚上手だった

261 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 21:49:25.52 .net
::::::::        ┌─────────────── ┐
::::::::        |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな… 
:::::   ┌───└───────────v───┬┘
:::::   |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 … 
┌──└────────v──┬───────┘
| ジャムリンめ、氷鷺ごときに殺られるとは  
| ウィキペディア編集者の面汚しよ…      
└────v─────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡     
T 爪| / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\
  海獺        Ks aka 98     池脱兎   

262 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:16:39.32 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw



156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。



>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。



だよねじゃねーつーのw

263 :日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:37:58.55 .net
クソワロタ

264 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:19:52.89 .net
武士の世、戦国時代あたりで終わっていたら
徳川は武士じゃないの?
小学生でもそんなこと言わないよ。
もう相手しないのが一番なのかorz

265 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:51:14.50 .net
武士といっても、もう武士の意味合いも成り立ちも生い立ちも違う別次元に変貌してるという話なんだよ
それくらい分からないかな?偏差値いくつ?
鎌倉御家人と徳川幕府御家人て全く意味合いも質も真逆だよな?
与力も旗本も同心も鎌倉と江戸時代では全く質も意味合いも成り立ちも別次元になってる

それこそ室町までの武士は土地という価値観が重要だが、
江戸時代は土地なんて完全無視
戦国時代以降は
秀吉みたいなのがごろごろ大名にまでなってる
完全に鎌倉時代から続いた武士層は戦国時代でほぼ消滅してしまってるし
本来的武士という性質的武士は戦国時代以前以降で完全に解離している

武士というものを語るなら同じカテゴリーでは絶対語ることてきない

266 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 09:55:45.18 .net
それこそ戦国時代以前は極端な話楠木ですら武士として扱うか迷うレベルの質だったりする。
それこそ地侍でも豪農か武士か難しいという程の質のレベル

だが江戸時代は足軽中間までもが武士という範疇
もう別次元

267 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 13:23:30.77 .net
なんで、本物の武家社会は終わってしまったんだっろうなぁ

でも、徳川は知識があったから
システムとしてのバーチャル武家社会を再現したって意味では評価できる
自身が仮想源氏となって、源氏長者に就任し
伝統的武家観念の保全・奨励に努めた
武士観念の崩壊の一途にあった戦国より遥かにまし

しかし、戦国や江戸時代の形骸化した武士道を
本物だと思って有難がっている現代人は哀れだな

268 :日本@名無史さん:2014/04/27(日) 14:39:03.52 .net

、!

269 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 10:55:07.76 .net
本物の武士道(棒)

街道歩いてる坊主をとっ捕まえて屋敷に連れ込んで身ぐるみはぐのがそれか

270 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 07:43:17.73 .net
>>267
本物の武士道っていつの時だ?
まさか鎌倉・南北朝・室町なーんて思っていないよなw

271 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 08:23:06.92 .net
▽幕末の剣聖
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
▽幕末三剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流)
※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流)
※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流)
▽中西道場三羽烏
寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流)
白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流)
高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派)
▽天保の六剣士
男谷信友(東京都墨田区、直心影流)
長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流)
杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流)
千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流)
加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流)
大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
▽幕末著名流派別最強剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流)
千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流)
岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流)
桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流)
岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流)
▽明治の剣聖
榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流)
山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流)
下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流)

272 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:04:23.40 .net
>>256
三河wwwワロタwww
捏造源氏で源氏の名を穢し
名ばかり武士集団の三河武士でまたまた源氏の穢し

三河・岡崎は日本中の恥さらしwww

273 :日本@名無史さん:2014/05/19(月) 18:36:58.83 .net
>>256
と、口では勇ましかったが結果的には
上方兵がマジで攻めてきたとき大半は戦わずに逃げまどい、
戦った者も信濃の中心の城を一日で落とされて滅亡(笑)

274 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 00:16:23.36 .net
>>272
馬鹿にされすぎて発狂したか?w
誰か、いい精神病院を紹介してやれw

275 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 07:43:20.38 .net
日本史板随一の馬鹿三河厨

276 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 08:00:03.30 .net
と言ってるやつらは怖くもなんともないんだよな

277 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 09:28:42.72 .net
三河馬鹿ってあらゆる時間帯に現れ
誰一人読まない無駄なコピペをエラーが出るまで貼る基地外だよね?
ニートなの?

278 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 21:15:49.69 .net
日本史板でボコられたら
そくり同じ捏造ソースをコピペして
大河太平記板にも寄生して楽しそうw

279 :日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:31:23.47 .net
【古河公方館推定復元模型(茨城県古河市)】
http://mirai660.net/castle/kogakuboyakata_model.html

280 :日本@名無史さん:2014/05/31(土) 16:12:07.55 .net
独力で、利権まみれの南関東とガチ勝負している地域、三河以外にどこがある
足利とかいうだっぺ君が対等に話ができる相手でないだろうが


【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。


総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)            ←相模国
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)                  ←摂津国
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)            ←武蔵国
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)              ←武蔵国

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)        ←武蔵国、相模国
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市)       ←武蔵国、相模国
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)          ←武蔵国
09位 名鉄西尾線(愛知県安城市〜西尾市)              ←三河国
10位 名鉄豊田線(愛知県みよし市〜豊田市)             ←三河国

11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)         ←武蔵国
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)                ←武蔵国
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)       ←武蔵国、相模国
14位 名鉄三河線(愛知県豊田市〜碧南市)              ←三河国
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)              ←武蔵国

ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.ht

281 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 10:12:05.29 .net
>>277

趣味は鉄オタと歴史音痴の岡崎三河創作物語が大好物
関東に異常にコンプレックスを持っている
60代ナマポ不正受給者で在日らしい

282 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 10:24:35.37 .net
糞野郎なんだな

283 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 15:35:23.24 .net
>歴史音痴


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

284 :日本@名無史さん:2014/06/01(日) 19:53:25.65 .net
三河馬鹿はこの辺は否定しないんだなwww

・岡崎三河創作物語が大好物
・関東に異常にコンプレックスを持っている
・60代ナマポ
・不正受給者で
・在日らしい

285 :日本@名無史さん:2014/06/02(月) 22:04:58.93 .net
> 関東に異常にコンプレックスを持っている


上から目線で馬鹿にしているだけだろw

286 :日本@名無史さん:2014/06/05(木) 19:35:40.68 .net
>>285
それが典型的コンプレックスじゃね?

287 :日本@名無史さん:2014/06/05(木) 20:46:19.83 .net
>典型的コンプレックス


これの事か?w


http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね

288 :日本@名無史さん:2014/06/06(金) 06:40:54.79 .net
>>287
おいおい自分で糞レス撒き散らしておきながら
名古屋と関東の区別もつかねーのかよwww

289 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:16:39.91 .net
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄弟)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼 (三河四郎大夫 )は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼( 三河四郎大夫) 、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で過し没する(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・同時期、藤原季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(鳥羽殿)
・1090年、季範(額田冠者)生まれる
・季兼(三河四郎大夫)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する

290 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:35:00.91 .net
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する  ←足利王国の誕生

291 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 07:44:03.07 .net
三河馬鹿ってなんで歴史音痴でスレタイが読めないの?

292 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 08:16:10.08 .net
>歴史音痴


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

293 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 09:17:11.19 .net
三河馬鹿ってニートだよね

294 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 10:00:18.26 .net
三河馬鹿って岡崎市民の恥部じゃないの

295 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 15:50:09.68 .net
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1184年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1199年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)

296 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 15:50:50.80 .net
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を5男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

297 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:01:53.16 .net
誰も読まないコピペを貼り続ける三河馬鹿

298 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 17:27:00.36 .net
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、三河国碧海郡志貴荘を立券する
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後の鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)

299 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 18:15:12.57 .net
三河馬鹿は同じコピペしかないのかよw
無能w

300 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:24:31.25 .net
>>288

ワロタw

301 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:38:37.09 .net
>>135
そう言うこと
同様なことを
熱田神宮が
昔から平成の今も
神宮史をもとに
藤姓熱田大宮司家の本貫は
尾張で始まり
尾張にて継続していると
きちんと説明している

三河バカは藤姓熱田大宮司家を捏造愚弄するのもいい加減にしろ

302 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 21:48:18.48 .net
徳川家康 愛知県生まれ
源頼朝 京都府または愛知県生まれ
足利尊氏 京都府生まれ

京都府と愛知県ばかり

303 :日本@名無史さん:2014/06/17(火) 23:00:12.24 .net
美川馬鹿はタヒねよ粕

304 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:24:06.03 .net
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる

305 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:29:51.86 .net
12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する

13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

306 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 06:36:05.27 .net
>>302
とーちゃんが三河にいたのに、スルーして京都に行くかよw三河は通り道だぞw


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。

307 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 07:53:45.34 .net
頼朝や尊氏の母方をさかのぼった先祖の一人が
その昔一時期三河に住んでいたことがあったからって
日本史の大勢からはどうでもいいことなのに
毎日何を必死になってるんだ、三河コピペ馬鹿は

308 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 08:35:07.96 .net
肝心の頼朝・尊氏・家康に関する知識が完全欠落しているのが
三河馬鹿の浅はかなところ

309 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 08:49:08.68 .net
熱田大宮司家はもともと尾張出身の尾張氏
その地を母系で受け継ぐのが藤姓熱田大宮司家

源頼朝の母系を遡るのならば藤姓熱田大宮司家の母系も遡らないと
源頼朝は尾張氏の血を引いてるんだってね

310 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 12:57:31.64 .net
元暦元年(1184)6月20日

臨時除目

頼朝推薦

権大納言:平頼盛
侍従:平光盛
河内守:平保業
讃岐守:一条能保
三河守:源範頼     
駿河守:源広綱
武蔵守:平賀義信



名古屋飛ばしが明確なんだがw
尾張氏の何を語れと?w
尾張に頼朝ゆかりはありませんw
あるのは産湯伝承w

311 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:33:02.86 .net
尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー源頼朝
尾張氏ー尾張姓熱田大宮司家ー藤姓熱田大宮司家ー足利義兼…足利尊氏

ほら、源頼朝も足利尊氏も母系を遡ると尾張氏になるんだよな!
藤姓熱田大宮司家は女系を辿ると尾張氏にいきつく
三河馬鹿の出る幕なし

312 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 13:37:58.75 .net
伊勢から上総くらいまでを繋いでた東海道沿いの水軍衆っていたよね?

313 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 14:59:45.95 .net
http://toppy.net/myamya/myamya40.html
>かわりに鎌倉幕府を開いた源頼朝でもいいと思うのですが。彼は熱田神宮の隣りで生まれていますから。
>こうして見ると、日本の歴史は名古屋っ子が作ってきたと言っても過言ではありませんね



頭の悪い田舎者乙w

314 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:02:09.04 .net
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)


三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)


当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうがw




頭の悪い田舎者乙w

315 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:16:27.54 .net
尾張員職(熱田大宮司)-女(尾張氏)−藤原季範ー由良御前ー源頼朝

尾張員職(熱田大宮司))-女(尾張氏)−藤原季範ー藤原範忠-女ー足利義兼…足利尊氏



三河馬鹿はまずこの家系図を頭に叩き込めw
頼朝も尊氏も尾張氏の血を引いている

316 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:23:45.01 .net
>>314
頼朝出生地について
1.^ 『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。
2.^ 『尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。
3.^ 『尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。
4.^ 『系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。

以上、wikiから

三河馬鹿はこれらの史料を完全否定し
頼朝の三河生まれを証明する最有力史料を挙げられるの?
日本史板なのに史料提示をしない人だな

317 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:23:55.74 .net
何が言いたいのかね?
お前さんは(^ー^)ノ
大宮司家の正体晒しか?

318 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:25:53.79 .net
最近知ったんだが
名古屋君、家康とやらの母方が水野で尾張だぎゃ〜
家康は名古屋だぎゃ〜とか言っているらしなw

その発想は無かったわw


こりゃ完全に日本は中の朝鮮人と言っても間違いではないw

319 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:27:23.16 .net
>>316
江戸時代の書物なんですがw
アイゴーw

320 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:28:41.99 .net
お前の言う朝鮮人とやらの基準はなんなんだ?
どうも最近、虫が飛んでて目につくわ

321 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:37:01.98 .net
頼朝については、名古屋市教育委員会が深く立ち入らない事で察してやれw

322 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:37:40.72 .net
>>319
で?
お前は頼朝が三河生まれだという平安時代の史料を出せるの?
そんなもんないだろうがw

323 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:38:39.23 .net
岡崎市教育委員会は頼朝が三河生まれだなんて言ってないもんなあ
完全に三河馬鹿の脳内

324 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:41:04.32 .net
何を察するんだ?

325 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:41:42.58 .net
常識的に考えれば頼朝は京都生まれ
由良御前の姉妹は女院に出仕して宮仕えしており、
由良御前も宮仕えしていた可能性がある
当然、都で暮らしていた
由良御前が三河で暮らし頼朝を三河で産んだなんて言ってるのは
三河馬鹿以外ない

326 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:46:34.34 .net
頼朝が三河で生まれたとか一切言っていませんがw
レスを出してくださいよ

疲れる老人だなw

327 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:57:59.49 .net
>>326
>藤原季範(額田冠者、三河国 額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)

季範の本拠地は京都だろ

328 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 15:58:11.44 .net
誰が出した説だっけ?

329 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:00:45.42 .net
なんで老人なの?
何でそう思ったかその結論に至った心理状況に興味があるなあ

330 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:06:25.70 .net
チミ達もーえーわw

331 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:10:40.78 .net
>>319
「平家物語」に
「頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける」
というくだりがある。
平家物語の時代に、頼朝は幡屋(尾張国幡屋)で生まれたと言ってるんだが。

332 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:13:20.82 .net
331
お前がもーいーよ(・ω・)ノ

333 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:14:30.82 .net
332
義朝が殺されたのが尾張か美濃どっちか

334 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:18:58.57 .net
>>333
義朝の話などしてないだろ
話題そらすな

335 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:19:59.68 .net
332
なんで源氏の大将となるとか書いてあるんだよ?
まだ義平生きてるぞ

336 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:21:56.33 .net
335
バーカw

337 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:22:29.94 .net
>>335
いいから、話題そらしやめろ。

お前、マジで史料読んだことないんだな。
平家物語読んで来い。
文脈が分かるよ。

338 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:24:13.52 .net
>>336
反論できないとバカとはな。

これで頼朝尾張生まれの同時代史料が見つかったな。

お前も反論したいならまともに史料探せ。

339 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:24:52.10 .net
>>331
だから、その程度の事知らんわけねーだろ

平治物語は玉葉愚管沙レベルの資料なのかい?
ただの軍記だろw

340 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:26:39.66 .net
源氏の大将ならまだ義光一派が継ぐ可能性もあったし義賢なんかも
ライバル候補だけど?
義仲が挙兵したのも源氏の大将としてでなかった?
ちょっとその平家物語りが書かれた年代を疑った方がいいね

341 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:31:02.97 .net
事実、冨士川の戦いで平氏を破ったのは甲斐源氏(武田諸氏)単独の力だって分かってる?
そのあと頼朝についたが勢力争いを受けて宗家は遠征軍により滅んでる

342 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:32:29.27 .net
>>339
少なくとも時代は近いわな。

で、お前の言う額田冠者というのは玉葉愚管沙に出てくんの?

343 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:33:30.78 .net
>>339
あと季範が三河国額田に住んでいたという記述も
玉葉愚管沙からの抜き出し頼む。

344 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:36:03.30 .net
>>339
お前がこの程度のことでも知っていたら>>314みたいな恥ずかしい書き込みドヤ顔でしないだろw
無知、乙。

345 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:36:23.11 .net
>額田冠者

尊卑文脈



そういや平治物語だと季範が熱田季範と記載されているんだよな
適当にも程があるw

346 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:38:03.19 .net
武田忠頼が頼朝に殺されたから石和信光が武田継ぐことになったんだよな

347 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:40:49.53 .net
>>345
尊卑文脈って何だよw
尊卑分脈ね。

あれは室町時代成立。
同時代史料ではない。
藤原道長の娘が源高明の妻になっていたり、
平安時代のことはかなり不明瞭、適当にも程があるw

348 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:41:01.00 .net
346
そりゃまた別の話
現在のあれやこれやはそういった資料を元にしてないか?
本当に子孫か戦国時代の下剋へてるから分からないけどな

349 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:43:55.01 .net
348
古文が古くなると転写するから原本はあったんじゃねえの?

350 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:53:52.12 .net
>>347
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw


平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄  義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した


これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?


真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)


真福寺は天台宗な


平治物語はただの軍記w

351 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:57:20.21 .net
尊卑分脈を否定するなら、今後日本史などウリナラファンタジーでいいんじゃね?w

352 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 16:58:58.96 .net
天台宗ですか〜

353 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:04:25.24 .net
>>345
季範は熱田大神宮宮司なのだから熱田季範で何も問題ない。
馬鹿じゃね?
逆にお前の主張する額田表記がどこにもないんじゃねーの

354 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:06:34.67 .net
仏教破滅の音が聞こえてくる

355 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:06:46.09 .net
>>351
逆切れする三河馬鹿w
尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった
とんでもない無知であることを露呈したなあ

玉葉愚管抄レベルの書物に何度もはっきりと書いてあるんじゃなかったのー?
今後、三河馬鹿の書き込みはウリナラファンタジーでいいってことですね。

356 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:10:54.90 .net
熱田季範なんて平治物語しか出てこねーよw
作者は熱田神宮→熱田→熱田季範(キリ なんだろw
所詮は軍記だからw


>額田表記

だから尊卑文脈と言っているだろ
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、そーですかと言うしかないw

357 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:12:10.96 .net
>尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった


知らんわけねーだろw
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、もはやそーですかと言うしかないw

358 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:13:44.86 .net
頼朝でしょ、
幕府の創始者。帰化人朝廷?から歴史上邪馬台国以来、日本人に政治を持ってきた。

359 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:14:47.25 .net
???

360 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:17:12.82 .net
>>349
それを言い出したら江戸時代成立の尾張誌にだって
当然参考にした原本はあるだろ
しかし同時代一次史料でなければ信憑性は薄いわけだ

三河馬鹿は後世史料を完全否定して
同時代一次史料である玉葉愚管抄レベル以外信用できないといっておきながら
自分のほうは後世史料である尊卑分脈を出してきてドヤ顔してるから馬鹿だといってるの
尊卑分脈なんて間違いだらけだし一次史料でもなんでもない

361 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:24:21.76 .net
すまんすまん、熱田季範は保元物語だったわw
保元の乱はいいが、季範は1155年に死んでいるんですけどw
いずれにせよ軍記は適当だなw

362 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:29:15.79 .net
>>360

じゃあ熱田季範にしておけw


熱田大宮司だから熱田季範は正しい、尊卑文脈は適当、額田冠者は間違い(キリ 



これでいけw

363 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:34:04.01 .net
お前ら何をそんなに焦っているんだ?(・ω・)ノ

364 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:39:50.33 .net
>>360

熱田大宮司だから熱田季範は正しい(キリ
額田冠者は間違い(キリ、尊卑文脈は適当(キリ、間違いだらけだし一次史料でもなんでもない(キリ



東大京大学習院に乗り込んで、主張してこいw
俺はお前を支持するw

365 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 17:49:28.02 .net
お前に指示されてもうれしくないだろうことは文脈で分かる(・ω・)ノ

366 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 18:13:49.71 .net
>>364
心配しなくても東大京大学習院の教授は尊卑分脈を一次史料だなんて言ってないからw

そんなこと言ってるのは尊卑「文脈」だといって聞かない三河馬鹿だけ

367 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 22:49:28.14 .net
三河バカ
反論まだぁ〜w
藤姓熱田大宮司は昔から尾張だと
熱田神宮が昔から今までも
断言しているのだが
本貫も氏寺も尾張熱田だと
断言しているのだが
熱田神宮にある最古の文献の熱田神宮史を
もとに断言しているのだが
反論まだあ〜w

368 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61 .net
>>366
自演は慈円の間違いだろはまだかよw


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw

369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:23:18.71 .net
>>367
本貫ってこれの事?w
全部三河でんがなw


千秋 三河国設楽郡千秋
野田 三河国設楽郡野田
星野 三河国宝飯郡星野
一宮 三河国宝飯郡一宮
萩 三河国宝飯郡萩
篠田 三河国宝飯郡篠田
長山 三河国宝飯郡長山

370 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 06:48:49.19 .net
>>368
>自演は慈円の間違いだろはまだかよw

三河馬鹿がとうとう壊れたなw
このスレのどこにそんなことが書いてあるんだよ

371 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:31:52.28 .net
ハイどうぞw
頭の悪い奴めw



351 日本@名無史さん 2014/06/18(水) 16:53:52.12
>>347
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw


平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄  義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した


これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?


真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)


真福寺は天台宗な


平治物語はただの軍記w

372 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:34:46.56 .net
しかしアレだな
頼朝の幡屋武者王は、いかにも嘘くせーなw

373 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 07:46:19.33 .net
>>371
>何故自演が知っていたのか?

そんなもん自分で書いた三河馬鹿ぐらいしか覚えてねーわw

374 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 12:58:38.72 .net
恐らく、新聞を墨から墨まで読んで、誤字脱字を指摘するのが趣味のくだらない奴なんだろうが
それすら出来ない奴だったかw
頭の悪いゴミめ

375 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 13:27:08.62 .net
>>374
このスレで分かったことは三河馬鹿が
頭の悪いゴミだということだけだよ

376 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:51:44.63 .net
>新聞を墨から墨まで読んで

隅から隅までの間違いだろの指摘はどーした?w


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだと言っただろ
頭の働かないダサい奴め



369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61
>>366
自演は慈円の間違いだろはまだかよw


ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw

377 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 21:08:12.30 .net
■真福寺(愛知県岡崎市)

推古天皇二年(西暦594年)物部の守屋の次男真福が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、
滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、
(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。
これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。
■名  称 霊鷲山降劒院真福寺
■建  立 聖徳太子建立 三河国最古寺院
■本願施主 物部の大将守屋の次男 真福
■国宝なし
■重要文化財 木造慈恵大師坐像

どうよ尾張ザル関東ザルたちよ
これが滝山寺とともに三河が日本史を築いた証だ
これが三河ネットワークの凄さだ
関東には聖徳太子建立なんて
こんな凄い古刹はないだろ

ダサいや奴めw

378 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 21:36:53.06 .net
頼朝からすれば足利は家人の一人でしかないし
家康は頼朝の真似っこに必死だったし

ぶっちぎりで頼朝だろ
敵じゃないね

379 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 22:01:44.91 .net
なぜだろ
何故か足利尊氏に惹かれる

380 :日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:26:10.34 .net
結局、
尊氏と頼朝って
どっちが強いの?

381 :日本@名無史さん:2014/06/23(月) 22:05:14.38 .net
>>371>>377
そんなに自慢したい
飛鳥時代から続くオラが岡崎村の寺なのに
坐像一体だけ重文指定なんだな
江戸初期に一部消失したとは言え
寺伝やら古文書の類はファンタジーなのね
滝山寺と一緒だなw

382 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 01:11:09.13 .net
まぁアレだ

パゴヤの頼朝=旗屋武者王には負ける(笑)w

383 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 01:32:09.73 .net
>>380
圧倒的に尊氏

384 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:20:44.67 .net
■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる

385 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:23:43.40 .net
12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する

13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生

386 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 05:44:38.27 .net
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。

長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)

387 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 06:09:00.70 .net
>>380
武力だけなら尊氏だろ。頼朝は政治力の勝利だ。

388 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 22:28:49.10 .net
>>384
三河岡崎バカって

藤姓熱田神宮の反論は結局何〜にも出来ないのねw

次は真福寺と滝山寺の反論まだぁ〜w

389 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 22:35:20.65 .net
頼朝は旗屋武者王(笑)だぎゃ〜
名古屋だぎゃ〜

390 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:15:19.30 .net
>尾張国造


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

391 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:52:54.65 .net
畿内の河内やら古代からの優れた地方豪族である尾張氏や毛野氏
頼朝も尊氏とも接点も多い
残念なことにそのころの三河は土人と獣の動物天国
やっと鎌倉時代になって足利家の植民地となって人が住むようになった

392 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 00:10:08.30 .net
>尾張氏(関西人)


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

393 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 23:27:30.36 .net
>>391
てか
その頃は三河って名前や岡崎って名前なんか無かったよ
単なる原っぱ

394 :日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:35:54.56 .net
何でもいいが、パゴヤは出入り禁止なw
源頼朝、足利尊氏、徳川家康とパゴヤは関係ねーからw
何回も言わせんな、パゴヤ

395 :日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:44:04.74 .net
愛知県東部の人間はなぜ戦いが強いのか
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1367681761/

396 :日本@名無史さん:2014/07/10(木) 08:16:46.91 .net
歴史なんてタイミングと偶然がほとんどだろ
みんなそれぞれ違う時代に同じ環境で生きてたら
多分誰も何も出来ずに終わるだろう

397 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 23:04:30.76 .net
>>392
出雲もだろ
丹波の出雲氏が移住して来て国の名になった

398 :日本@名無史さん:2014/09/20(土) 16:11:38.80 .net
徳川最強

399 :金田一少年の事件簿:2014/09/20(土) 22:44:00.53 .net
歴代江戸幕府将軍の格付け

S 徳川家康
A 徳川家光
B 徳川綱吉、徳川吉宗、徳川慶喜
C 徳川秀忠、徳川家綱、徳川家宣、徳川家治
D 徳川家斉、徳川家慶、徳川家茂
E 徳川家継、徳川家重、徳川家定

400 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:05:00.67 .net
>>396
そりゃその通りだ。(・_・)

個人が優れているから、英雄になるわけじゃない。
生まれた場所、時代、身分、全てがマッチしたからこそ、英雄になれる。(・_・)

401 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:46:09.42 .net
>>400
ほんと最近思うけど運命って決まってるんだって思うよ
日本史上最悪な時代は第二次大戦
あの時代に生まれたらどうしようもないわw

402 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 09:56:19.46 .net
>>395 >>396 >>398 >>400 関が原スレでは家康の兵は弱兵で意見が一致。

403 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 10:06:19.32 .net
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

404 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 11:44:19.42 .net
>>403
『甲陽軍鑑』は徳川時代になって書かれた可能性が高いから、
そこの三河賛美を素朴に認めるわけにはいかんよ。(・_・)

405 :日本@名無史さん:2014/09/21(日) 12:34:29.19 .net
この3人より恵まれた環境で、天下とれなかった奴はカス

406 :日本@名無史さん:2014/09/29(月) 22:34:19.65 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

407 :日本@名無史さん:2014/10/01(水) 15:09:40.45 .net
>>392
>国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
>大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる

お前、バカ丸しで出イタすぎる

408 :日本@名無史さん:2014/10/01(水) 19:12:08.61 .net
頭の悪いニートの三河馬鹿が暴れ出したな

で、源頼朝の母方を辿ると古代豪族・尾張氏になるという事実は
いい加減理解できたのかね?
ニート君

409 :日本@名無史さん:2014/10/03(金) 23:17:43.77 .net
重要なのは頼朝

410 :日本@名無史さん:2014/10/08(水) 22:19:23.14 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

411 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:07:01.72 .net
頼朝、尊氏、家康
仕えるなら尊氏がいい
アタフタしたい

412 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 20:15:48.93 .net
足利尊氏=織田信秀
足利義教=織田信長

413 :日本@名無史さん:2015/01/21(水) 00:21:46.04 .net
Yoritomo

414 :日本@名無史さん:2015/01/24(土) 18:16:16.19 ID:I25N7m4xe
3人とも強運の持ち主だがその中でも頼朝は最強

415 :日本@名無史さん:2015/02/05(木) 18:42:08.03 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

416 :日本@名無史さん:2015/02/05(木) 21:21:26.09 .net
三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw

417 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 16:05:10.75 .net
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

418 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 17:41:17.69 .net
出現に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取り始めた頼朝だが
結果に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取りきった家康

419 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 18:28:58.32 .net
三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw

420 :日本@名無史さん:2015/03/08(日) 18:59:45.96 .net
家康の頃は、国司は名義だけで実態が消滅してるだろう。

421 :日本@名無史さん:2015/03/09(月) 00:09:31.72 .net
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51D3SU0yeaL._SL500_.jpg
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。

422 :日本@名無史さん:2015/03/09(月) 13:03:37.09 .net
1310年頃に三河にいた事が確認できる頼重だが、それ以前の1305年頃からいれば、当然生誕地は三河と言う事になる


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。

423 :日本@名無史さん:2015/03/11(水) 08:16:07.13 .net
元暦二年六月大十六日丁卯。典膳大夫。近藤七等爲關東御使。帶 院宣。巡檢畿内近國。成敗土民訴訟。然間。當時其誤不聞。二品内々被感仰之處。尾張國有玉井四郎助重云者。本自爲先猛悪。
令懷諸人愁之由謳歌。近日殊又有違 勅之科。仍件兩人爲尋沙汰。雖遣召文敢不應。還及謗言。于時久經等言上子細之間。爲俊兼奉行。今日被仰助重云。違背 綸命之上者。不可住日域。依令忽緒關東。不可參鎌倉。早可逐電云々

424 :日本@名無史さん:2015/03/12(木) 09:15:30.67 .net
やっぱり頼朝だな

425 :日本@名無史さん:2015/03/27(金) 18:05:46.70 .net
かりに頼朝の血筋が100年後まで続いていたら
子孫の男子は少なくとも数百人に達していただろうから
そのときには足利氏は源氏でも末流扱いだろう

426 :日本@名無史さん:2015/03/28(土) 00:29:16.13 .net
日本史は、清盛登場から足利義満が死ぬまでが一番おもしろいな

427 :日本@名無史さん:2015/03/28(土) 16:36:08.19 .net
>一番おもしろいな


頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw


156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。


>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。


だよねじゃねーつーのw

428 :日本@名無史さん:2015/04/06(月) 02:45:45.65 .net
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)

429 :日本@名無史さん:2015/04/07(火) 11:53:41.63 .net
>>399
家光の評価が異常に高いけどさ、これは忠臣・松平伊豆守のおかげだよ。
家光自身は凡庸で弟の方が優秀だったというのは定説だからね。

430 :日本@名無史さん:2015/04/08(水) 16:14:30.48 .net
http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世

学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス)

431 :日本@名無史さん:2015/04/20(月) 01:15:28.36 .net
スレタイの「源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは?」

この3名、歴史的に重要じゃなかった人物だと思いますよ。

432 :日本@名無史さん:2015/04/27(月) 13:55:44.16 .net
頼朝 家康 尊氏の順

433 :日本@名無史さん:2015/05/02(土) 14:06:33.12 .net
>>432
同じ戦力で正面から戦をすれば
尊氏>家康>>>頼朝

434 :日本@名無史さん:2015/05/02(土) 16:26:25.61 .net
頼朝はまともな戦力で戦った時は以外と強い。

対佐竹 勝利
対奥州 勝利


負けた時は戦力的に問題外過ぎ

平治 敵三千以上 自軍 八百(しかもうち三百は途中で敵に寝返り)

石橋山 敵三千、味方三百

435 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 00:17:29.82 .net
源頼朝は大阪の天皇の分家の源氏で
摂津国の源氏を祖とする河内の源氏

436 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 11:24:28.44 .net
>>431
頼朝≒泰時
尊氏<義満
家康(やはり徳川15代では飛び抜けた存在)

437 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 14:18:53.08 .net
>>428
武蔵国→備中伊勢氏に無双されてしまうw
信州→弱兵だと侮っていた尾張兵と近江兵が襲来すると逃亡、唯一戦場となった高遠城はわずか一日で陥落w


結局、かつて東国に強い武士がいたのは、蝦夷討伐のための関西から精兵の派遣先だったからってだけ。
それがなくなったらただの雑魚地域。

438 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 15:22:20.14 .net
>>437
北条の兵は相模伊豆の兵士で武蔵と同じように強いと言われてんだから
そこに並べるのはちがうだろ

439 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 16:30:35.17 .net
>>438
早雲はほとんど領土を持ってない状態から30日で伊豆一国を切り取ってるからなあ。
大元はそのときに働いた備中か京都から連れてきた手勢だろう。

440 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 16:39:12.11 .net
>>439
最近の研究ではだいたい明応2年から明応7年の約5年間で、ということになってるよ。

441 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 17:44:28.28 .net
「夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒」
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』古代政治社会思想)

「戦士勇山東之民一兮当千、豈以皇畿近州之嬰児、対東関蛮夷之勇健乎」
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。
坂東武士の勇健は一騎当千の強さである。畿内近国の赤ん坊のような弱い武力で、強健な東国武士に手向いできようか。
(『吉田定房奏状』中世政治社会思想・下)

442 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 17:49:31.68 .net
河内物部氏は個人としてはパッとした人物を出せずに滅んだし、○○源氏なんて言っても住居は京や鎌倉。
渡辺党は埼玉、楠木も埼玉の武蔵七党出身。
鴻池→島根、住友→福井、三井→三重。
幕末は超が付くほど悲惨。
大阪は剣も戦も日本一弱い。
戦国時代を除いても人物は愛知の方が遥かに出てる。
それも派手な尾張よりも堅実な三河に人物は多い。

443 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 18:59:17.26 .net
渡辺←嵯峨源氏(京都)
楠木←橘氏(奈良)
鴻池←近江源氏(滋賀)
住友←蘇我理右衛門(大阪)
三井←近江藤原(滋賀)

甲子園優勝回数
1位 大阪21
2位 愛知18
3位 兵庫13

日本一強いのが大阪人

444 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 19:14:57.14 .net
甲子園()

445 :日本@名無史さん:2015/05/04(月) 19:23:31.97 .net
日本人メジャーリーガー通算war
2位 野茂英雄 大阪
3位 黒田博樹 大阪
5位 ダルビッシュ 大阪
6位 大家友和 京都
7位 上原浩治 大阪
7位 長谷川滋利 兵庫

1位は尾張のイチローだけどね
三河って誰かいるのかなあ

446 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 15:55:18.66 .net
イチローはゴキローだろw
岩瀬がいるな
岩瀬と言えば幕末三俊の岩瀬忠震

447 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:11:19.96 .net
長州ネトサポのプロパガンダ
縄文土器は朝鮮土器
天皇は夫余(穢族で後の満州族)
弥生人も朝鮮北東部の穢族
すり替えのプロパガンダはスレ一覧見れば分かるよな
お探し学者が無茶苦茶なこじつけするのも長州プロパガンダ
考古学、人類学、遺伝子学全て無茶苦茶な歪曲は長州プロパガンダ

448 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:12:16.01 .net
イチローのほうが格上だね

449 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:23:25.71 .net
先祖代々パシリが勝てるのか?勝てるわけないだろがw

最大の皇室領荘園だった豊田市に繋がる鎌倉将軍家、足利将軍家、徳川将軍家、トヨタグループが、今も昔も、皇室を庇護する日本の番長なんだからよw


■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる

450 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:24:47.72 .net
■三種の神器
現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎


■伊勢神宮(八咫鏡)

大宮司

鷹司尚武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E6%AD%A6
大給松平家’三河国加茂郡大給松平、三河県豊田市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%A6%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6


伊勢神宮崇敬会
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/yakuin.html
>会長 豊田章一郎(三河吉田藩山口村)


■熱田神宮(草薙剣)

大宮司家

千秋家(三河国設楽郡千秋、三河県新城市)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html

熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

451 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:25:25.06 .net
■源頼朝と従兄弟2人の関東支配の裏歴史


1181年:源頼朝は藤姓足利氏を滅ぼし、三河の母方従兄弟の源義兼に足利荘を安堵する(源姓足利氏の始まり)
1181年:源頼朝の意向で、足利義兼は北条時子(政子の妹)と結婚する
1182年:源頼朝の従兄弟の寛伝が、頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる

■日光山
源頼朝が母方の従兄弟(寛伝)を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた

源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝

足利義兼(初代足利氏)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼

寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(三河県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(三河県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(三河県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する

452 :日本@名無史さん:2015/05/05(火) 19:26:08.32 .net
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ


源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁


・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている


・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁

・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)

木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。

453 :日本@名無史さん:2015/05/19(火) 15:35:26.91 .net
また三河馬鹿か

454 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 10:52:17.70 .net
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」

455 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 11:43:44.17 .net
いいかげんにしろよ三河乞食

456 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 13:23:18.24 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

457 :日本@名無史さん:2015/05/24(日) 13:23:50.75 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

458 :日本@名無史さん:2015/05/29(金) 01:18:33.72 .net
3人とも重要だけど、足利尊氏は確実に2ランク位落ちる。

459 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 06:13:20.09 .net
1頭…足利尊氏
2オデコ…足利義詮
3目…足利義満
4鼻…足利義持
5口…足利義量
6顎…足利義教
7首…足利義勝
8肩…足利義政
9鎖骨…足利義尚
10胸…足利義稙
11みぞおち…足利義澄
12ヘソ…足利義晴
13下っ腹…足利義輝
14ひでぇ奴…足利義栄
15お尻…足利義昭

おkかな

460 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 10:48:11.19 .net
頼朝の源氏直系、信長の織田氏はエゴイスト過ぎて子孫が政権維持できず
秀吉の豊臣氏も唐入りの野心で金を食いつぶして二代で崩壊
北条、足利両氏も政権崩壊後は影響力維持できず
藤原と徳川両氏のみが政権崩壊後も影響力を駆使し続けた
この両一族の権謀術数DNAは現在まで引き継がれている

461 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 12:13:54.16 .net
こんな感じ

頼朝: 田舎侍のみこしに過ぎないと思っていたが、意外にずるがしこく、京都にも精通し、後白河院がバカだったので、関東に一大勢力を築いた。体制を維持するという視点はなかった。残された人たちは常にバトルロワイヤル。

尊氏: 気前がよくなんだか武士の受けがいいので、どんなに窮地に陥ろうとついてくる武士がいた。そんな感じでずるずると死ぬまで楽しく生きた。体制の維持については人任せだった。そのため、おもしろくないと人はついてこないというタレント主義の足利幕府が作られた。

家康: 地道に勢力を伸ばし、最後には天下人となった。後継育成と体制の維持という視点を生前から持っていた。
 

462 :日本@名無史さん:2015/06/10(水) 20:10:55.46 .net
>>460
織田信吉とやらがいつ天下を取ったんだよ
みゃ〜みゃ〜泣きながら真っ黒けの炭になった濃尾平野の間抜けはスレ汚した

463 :日本@名無史さん:2015/06/11(木) 12:43:10.39 .net
江戸庶民は
徳川家康なんか知らないだろう
草紙や舞台で取り上げるの禁止だったし

464 :日本@名無史さん:2015/06/12(金) 07:10:07.72 .net
『室町幕府東国支配の研究』 江田郁夫 高志書院
東国大名の存在は、擾乱以降、不安定な状況が続いていた畿内の政治、軍事情勢を回復するうえでも重要な役割を果たした。
尊氏は文和2(1353)年に東国大名を率いて大挙上洛した。
このとき尊氏に従って活躍した「東国ノ諸大名并軍勢」として次のようなものがいた(『源威集』)。
佐竹右馬頭義篤、同刑部大輔師義、結城中務大輔直光、同大内刑部大輔重朝、常陸大椽入道浄永、那須備前守資藤、
小田讃岐守孝朝、小山左衛門佐氏政、武田陸奥守信武のほか、高坂氏重らの平一揆や白旗一揆である。
尊氏勢上洛のさいには、「関東ノ武威ヲ恐テ、洛中ノ敵従退散」、「其武勢ニ恐、山陰道南方ノ御敵、不戦洛中ヲ退散ス」という(『源威集』)。
上洛してくる東国勢の精強は、南朝方もよく知るところであった。
足利政権にとって東国大名の保持する軍事力は、まさに切り札的な存在だったといえる。
その点は、畿内での戦闘においてもいかんなく発揮され、南朝らは以降も何度か入京を果たすものの、結局は一時的なものにとどまっている。

465 :日本@名無史さん:2015/06/18(木) 19:09:46.57 .net
最近になって尊氏が意外と重要なんじゃないかと思い始めてきた
後醍醐という強烈なカリスマ性を持った天皇に対して、
南北朝の初期に北朝の優位を決定づけ、観応の擾乱で勝利

敵としては一番やりづらい相手で、いつ足をすくわれてもおかしくない感じなんだが、
あのストレス状況でも田楽に狂ってたような意味不明な性格で乗り切った感じw

466 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 17:10:24.26 .net
徳川家康は、1590年初めて江戸に入国しました。藁葺き屋根の家が百ほどの大湿地帯に過ぎませんでした。
徳川家康は、後世にもっとも影響を与える日本人です。
入国当時湿地が広がり農業に適さない寂れた場所、いかにも粗相で町屋など茅葺きの家、百ばかり、ここもかしこも潮入りの芦原の寒村に過ぎなかったという。

467 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 18:47:34.13 .net
江戸湊は頼朝の挙兵の時から要衝だったけどね
江戸湾−旧利根川−香取海の結節点として栄えた湊
だから頼朝は江戸氏を孤立させるために房総・豆相の水軍で江戸湾を封鎖して武蔵へ侵入

468 :日本@名無史さん:2015/06/21(日) 23:55:22.06 .net
三河人の日本発展の貢献度は際立っているよなw

469 :日本@名無史さん:2015/06/26(金) 07:23:32.06 .net
甲陽軍鑑
・東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱)

470 :日本@名無史さん:2015/06/27(土) 09:05:01.87 .net
仕えるなら尊氏がいい。尊氏が人気あったのはわかる

471 :日本@名無史さん:2015/07/01(水) 00:21:00.85 .net
しかし、その治世は安定しないだろうがね。
結局は仕える物が仲違いしちまうのさ。

472 :日本@名無史さん:2015/07/02(木) 04:08:36.40 .net
九州に逃げ出したくせになんだが逆転の高氏、ミラクルすぎて、
見方にすると頼りなく、敵にすると怖いw

473 :日本@名無史さん:2015/08/02(日) 22:55:23.03 .net
うい

474 :日本@名無史さん:2015/10/26(月) 01:11:00.03 .net
尊氏は負け方が上手いというか、後で見ると上手く負けたようにみえる
大事な場面では結構勝ってるし

475 :日本@名無史さん:2015/10/27(火) 01:22:20.37 .net
尊氏は天下取った武将ではぶっちぎりのラッキーマンだからなあ
能力以上の戦功を挙げ、能力以上の部下を得て、能力以上の地位を得た
本人に能力が無い事は尊氏本人が一番、解ってるから、源氏の棟梁なのに異様に自信がないw

476 :日本@名無史さん:2015/12/06(日) 23:18:41.07 .net
頼朝も尊氏も、武家の棟梁だな。
本人の才能があまり見えない。でも、人がついてくる。
武力でも策謀でも仁徳でもなく、棟梁だから武士がついて言っている感じ。

家康は、一つ一つ地位と人脈と石高と武力を積み上げていって権力を掌握したのと違って
そんなもの何にもないのに、頼朝も尊氏も人がついて言っている感じ。

477 :日本@名無史さん:2015/12/22(火) 00:28:47.98 .net
だから早々簒奪されたり、早々形骸化したんだろ。
能力以上の物を得るとなる典型だよね。

478 :日本@名無史さん:2015/12/24(木) 02:43:29.90 .net
家康も結局、信長という駿馬に付いてっただけのラッキーマンという見方も出来る
もし信長がいなかったら天下どころか三河一国手に入れられたかも怪しい

479 :日本@名無史さん:2015/12/26(土) 21:56:56.57 .net
今川くらいは下克上して簒奪したんじゃないかな。
すると史実とは反対に乱世の梟雄という扱いになるね。
まぁ史実でもエグいが。

480 :日本@名無史さん:2015/12/27(日) 23:21:01.12 .net
三河のショボい豪族から265年続いた長期安定政権の創設者になったっていう結果が全てだよ
○○がいなかったらみたいなIFは何も意味がない

481 :日本@名無史さん:2016/01/01(金) 12:16:20.90 .net
足利幕府は関東へ下らなかった点が評価できる。

都人となって、宮廷文化を採り入れたしのう。

独自の北山文化・東山文化を産み出したぞよ。

482 :日本@名無史さん:2016/01/01(金) 15:33:21.29 .net
>>476 頼朝に最初挙兵に応じたのは、工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、
天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉 だけで、後は日和見と感じだぞ。
尊氏は、鎌倉幕府で北条氏に次ぐ御家人で一族郎党多数であった。頼朝
は海の者とも山の者ともわからん状態だった。
>>481 関東へ下らなかったではなく、関東へ下れなかったの。下っていたら
関東の地方政権になっていた。

483 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 14:17:48.85 .net
>>479
徳川家康は初代今川氏今川国氏の血を引くのに、何で下克上せなあかんのか?

484 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 14:21:21.98 .net
徳川家康は源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子を引き継いでいる
こんな奴はどこにもいない

485 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 21:01:37.38 .net
まあ後から作った血筋だけどなw
戦国三英傑に貴種はいないよ
それぞれ平家の末裔、天皇の落胤、源氏の末裔と家系を捏造しまくりw

486 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:17:36.40 .net
松平信光の正室が一色氏の娘と書いてあるのは、今川氏の正史である今川記
松平親忠の正室は鈴木重勝の娘、鈴木重勝の父親が足助重範と楠木正成の娘の子と記されているのは熊野国造家の和田家の系図



貴種だからこそ、天皇と懇意だったのさ


存牛(松平信光の孫、松平親忠の子)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/存牛



出自の悪い田舎者は恥ずかしレスをするよな

487 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:45:02.85 .net
おいおい、後から捏造されてる記録を信じるなよw
松平氏は長親以前はほとんど記録が残っておらず、伝聞だからいくらでも捏造出来た
正室の出自も怪しい上に、正室から生まれた記録も無いしな
アホはもっと本読めよカスw

488 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:54:17.58 .net
出自の悪い田舎者の罵倒が気に触ったのか?w
田舎者というのは煽られ耐性がないわなw

こう言った間抜けに限って、本だけでなく新聞をすみからすみまで読んで賢いつもりでいるんだよなw

489 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:56:36.78 .net
煽るだけしか出来ないとはお粗末だな
徳川史観に染まったアホが湧き出てくるのも正月ならではw
マトモに本を読んだことすら無いんだろうな

490 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 22:59:08.23 .net
尊氏以外かなり重要

491 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:00:35.27 .net
徳川氏の出が良いなんて言ってる辺り、戦前生まれなお爺ちゃんでしょ。
相手にするだけ無駄だよ。

492 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:06:51.29 .net
この平成の世で相手を出自が悪いとか言い出すってどんだけだよwしかもネットでw
こりゃ相当なジジイだな

493 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:15:35.40 .net
尊氏は面白い
行き当たりばったりな事ばっかやってるのに、それが全部ズバリになるんだよなw
政務は弟が、軍事は高兄弟が、で、本人はカンバン

494 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:23:58.86 .net
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが



■三河国高橋荘・高橋新荘

豊田市全域は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した


・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?


・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる

495 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:31:00.97 .net
地の力っておいw新年から笑かすなよジジイw

496 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:31:12.97 .net
徳川家康とやらは、この最大の皇室領の荘官だった足助氏の血を引いている
辻殿の兄(母親は源為朝の孫)、その兄の正室は安達盛長の娘
徳川家康とやらは、いい遺伝子が入っているよな

ホレホレ反論してみろ


源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ

源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁

・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている

・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁

・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)

木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。

497 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:33:41.32 .net
>>495
現代社会においても稼ぐ力で勝てる相手か?
これが地の力だ、ワーキングプアの貧乏人め




関東〜関西間の日本地図


年収1000万円以上世帯が8%を超える地域(「世帯の年収マップ」より)
https://news.careerconnection.jp/wp-content/uploads/2015/12/1202_nenshu.jpg

498 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:33:52.19 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

499 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:35:09.44 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

500 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:36:02.72 .net
ついに荒らしになったお爺ちゃん。

501 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:37:09.29 .net
ジジイな事は否定しないのなw

502 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:43:36.29 .net
反論って「血を引いてない」で終わりなんだがw
無関係な事象を羅列してどうするんだよこの爺はw

503 :日本@名無史さん:2016/01/03(日) 23:59:26.70 .net
貧乏土人親に生まれた貧乏土人に系図の話をした俺が悪かったよw
土人に分かるわけねーもんなw

504 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:05:49.98 .net
反省してこれからは本くらい読めジジイ
残り少ない人生無駄にすんなw

505 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:21:40.07 .net
平成の時代に出自がいい悪いはないと言っちゃう貧乏土人親から生まれた貧乏土人だからな

あのな、一つ教えてやる
財閥系企業の幹部の有名大学生の息子が、車の窃盗をしたとする 
初犯なら送検されるが間違いなく不起訴
もっと上級なら送検もされず、被害者に親が謝罪弁償して釈放
これは日本社会が出自で区別する紛れもない現実だ
大騒動を起こして、補助金詐欺で立件されるべき小保方晴子も、父親が徳川に繋がる三菱系幹部だからこそ、未だに処分があやふやだろが



本なんか読んでるからまぬけなレスをするんだよ
外に出ろよw

506 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:24:54.38 .net
このお爺ちゃんは何と戦ってるんだよ?

507 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 00:47:36.50 .net
どん百姓ほど出が良いとか言い出すんだよな

508 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 01:06:51.66 .net
誰も読んでないのに妄想長文垂れ流しまくるとはヒマなジジイですな。
火病ってるっぽいから突つけばもうちょっと楽しめそうw

509 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 17:50:10.36 .net
馬鹿は本など一切読まないほうがマシだわなw
こういう奴な限って、本だけでなく新聞ガー、テレビのニュースガーなんだろうな
まさに世の中の汚物といっても過言ではないw

510 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 18:18:32.95 .net
確かに、ここまでアホな爺は今更本読んでも無駄だわなw

511 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 19:11:44.63 .net
必死に連投するなよw
お前こそ誰と戦っているんだよw

512 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 19:52:59.57 .net
連投してるのはジジイだけやろ常考。

513 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 20:04:53.35 .net
流石は3連投は無いわなw
3連投からは必死さが伝わってくるよなw

514 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 20:50:52.22 .net
出自の次は連投かよ
相変わらずボキャブラリーの少ない爺さんだわw

515 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 21:05:56.11 .net
一人だけ会えるなら尊氏だな
人間としては魅力がありそうだ

516 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 21:18:51.63 .net
確かに尊氏はいいひとっぽいアニキ分なイメージがあるね
しかし、躁鬱病だったらしいので、日によっては、かなり変わりそうだけど
何故か尊氏の鎧がメトロポリタン美術館に有るんだよね

517 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 23:37:49.53 .net
あやふやじゃないけどな

518 :日本@名無史さん:2016/01/04(月) 23:59:20.19 .net
逆に、嫌なヤツなのは圧倒的に家康だな

519 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 00:12:47.50 .net
頼朝も大概でしょ
つーか尊氏も弟殺しとかしてるし大概と言えば大概(頼朝、家康より甘かったのは間違いないが)

520 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 15:36:24.12 .net
あれは弟も悪い
南朝に走るなんてどうかしてる
頼朝は島流しで頭がおかしくなったとしか思えない
だいぶ平家一門に対する不平が関東豪族にあったのでたまたまうまくいった
家康は法治主義者というイメージがある

521 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 17:39:53.63 .net
本を読んで、系図に詳しいようだが
こんなポンコツ脳では、時間の無駄じゃないっすか?w
頼朝の曽祖父と後白河が今様仲間ってなんすっか?w



156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

522 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:17:05.77 .net
>>521
頼朝にも尊氏にも三河土人の血が一滴も流れていないのに
勝手に捏造する
くやしいのう、三河馬鹿w

523 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:22:42.84 .net
お前はポンコツ脳なんだよw

524 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 19:24:21.69 .net
ポンコツ脳はお前だろう、24時間365日貼りつく耄碌爺、三河馬鹿w
頼朝にも尊氏にも三河土人の血は一滴も流れていないのに勝手に捏造する
くやしいのう、三河馬鹿w

525 :日本@名無史さん:2016/01/05(火) 20:31:08.86 .net
源氏は痛いと思う
平家は手堅い
家康も手堅い

526 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 20:05:28.43 .net
>>505 もう、親子とも大手を振って歩けない。親が死んだら、晴子も終わり。

527 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 23:28:04.08 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

528 :日本@名無史さん:2016/01/06(水) 23:28:46.67 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

529 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 18:07:41.22 .net
これ、どーみても中学生以下だろw
徹底的に馬鹿にされてもノコノコ現れるとは面の皮が厚い奴だ





156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

530 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 20:05:02.78 .net
>>520 尊氏も南朝に下ったことがある。

531 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 20:30:11.68 .net
三河三河うるさい
別のスレでやってよ

532 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 21:16:55.41 .net
三河を外したら語るべき根幹が除外されてしまうだろ
尾張パゴヤは部外者にも関わらずレスしてくるけどな
尾張パゴヤは頭の悪い貧乏糞カッペだから図々しいw

533 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 21:38:30.65 .net
3人の中で最も戦争で強いのは足利尊氏かな。
メンタルは3人中最も弱いけど。
つーか日本史を通じて最も戦争強くて、
名を成した人物では最もメンタル弱いか。

これほどメンタル弱いのに戦争最強いというのは
たとえて言うなら「ヒキコモリの戦争ヲタ」だったのか。

534 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 22:18:42.98 .net
正一位を贈られた将軍をみればいい。

室町時代の将軍には、誰も贈られていない。
時の将軍の力をもっても授けられなかったのだ。

室町時代の将軍ゼロ。徳川時代の将軍には14代まで授けた。
15代慶喜には授けられなかった。不平等条約を勝手に結んだからです。

豊臣秀吉・織田信長にはその後、正一位が与えられた。
明治になってからです。ここが日本の凄い所だった。
日本というより、陛下の凄さでしょう。
歴史とそれに尽力した人への理解する能力。

江戸時代は、天下泰平の世です。民の平安という事です。
故に、江戸将軍は14代まで正一位を与えられたのだ。
室町時代の為政者傲慢の時代を打開した織田信長、その後を受け継いだ豊臣秀吉。
その後の江戸時代。民の為に尽くしたから正一位なのです。

535 :日本@名無史さん:2016/01/07(木) 22:51:16.18 .net
正一位ってそんな観念的な基準で決まってたの?

536 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 00:36:25.25 .net
明治政府は南朝が正統だからな

537 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 06:31:14.86 .net
 義満の贈太上天皇を受けなかった義持。

538 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 11:52:49.30 .net
>>534
みゃ〜みゃ〜泣きながら真っ黒けの炭になった間抜けと天下を取ったと思い込んだはいいが、死後、子孫を根絶やしにされた間抜けはスレ違い

539 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 15:46:03.44 .net
頼朝には大江
家康には本田
尊氏には…

540 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 20:00:17.49 .net
>>534
不平等条約って慶喜じゃなくね?
はい論破

541 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 20:54:03.75 .net
>>536
そうともいえない

542 :日本@名無史さん:2016/01/08(金) 21:28:29.76 .net
尊氏がメンタルが弱かった具体的な事例があったか
メンタルが弱くて、鎌倉から福岡をまたにかけて戦えないだろう

543 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 00:25:27.98 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

544 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 00:26:01.96 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

545 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 14:23:28.98 .net
頼朝が義経を討伐したのは、鎌倉政権としては当然な判断
まあ、範頼誅殺は言い訳出来んがw
尊氏が直義を死に追いやったのは、観応の擾乱絡みで、
元々は文治派(保守)VS武闘派(革新)の争いが発端で、収拾がつかなくなった感じ

546 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 18:54:17.52 .net
義経より範頼のがヤバイよ、承久の乱の首謀者は高倉家だっただろ
範頼がその気がなくても、息子や孫が担ぎ上げられていただろう
頼朝の将来を見通す力は超一流

547 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 21:40:51.75 .net
>>541
いや南朝が正統と明治帝はのたまわったよ
ただ明治帝は北朝だったwww

548 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 21:48:38.24 .net
結果的に北条に乗っ取られて子孫が断絶してるのに未来を見通すも糞もないだろ

549 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:00:53.18 .net
>>548
身内を粛清して数少ない息子のみに後継者を限定した結果
血筋が絶えたのは頼朝と秀吉って似てるな

550 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:01:38.71 .net
結果的にそうなったが
初代が頼朝と母方の従兄弟である事が強烈なプライドの源泉の足利氏が、義家流が武家の頂点に君臨する体制に戻したでしょ
足利と必死になって姻戚を結んだ北条だったが、足利と惨めに跡形もなく消え去った

551 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:03:19.99 .net
>>549
秀吉はスレ違い
スレが汚れる

552 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:19:45.13 .net
>>545
義経粛清で鎌倉幕府が2つに割れなかったことは頼朝の功績だと思うよ
たとえ息子の代で北条に乗っ取られたとしてもさ

553 :日本@名無史さん:2016/01/09(土) 23:24:43.27 .net
>>550
頼朝時代の御門葉(頼朝の一族)といえば
「吾妻鏡」で平賀、安田、加賀美、大内などが挙げられていて
足利など御門葉とはいえ相当順番が後だぞ

554 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 00:42:27.14 .net
足利氏のブライド(当人の気持ち)に吾妻鏡に記載されている序列が何か関係あんの?

555 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:13:12.79 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

556 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:13:41.38 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

557 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 01:45:40.06 .net
939 日本@名無史さん 2015/02/09(月) 20:14:06.46
俺は前歯の裏凹んでるぞO型だしな

558 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 08:40:50.12 .net
阿野氏というのも、ぱっとしないね。

559 :日本@名無史さん:2016/01/10(日) 18:19:42.99 .net
頭の悪い田舎者、尾張パゴヤの馬鹿レスを晒し上げw



156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

560 :日本@名無史さん:2016/02/01(月) 08:10:18.64 .net
あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

それともいくつですか?

561 :日本@名無史さん:2016/03/12(土) 04:59:24.16 .net
>>542
新幹線もない時代に鎌倉、京都、九州を
行ったり来たりした尊氏はすごすぎ

生まれる時代があと700年遅ければマイルが貯まりまくったろう

562 :日本@名無史さん:2016/03/14(月) 20:51:59.69 .net
>>561
そんなに交通発達してりゃあ、頼朝が流刑なった意味はないよなあ。

563 :日本@名無史さん:2016/04/19(火) 22:17:36.33 .net
頭の悪い田舎者、尾張パゴヤの馬鹿レスを晒し上げw



156 日本@名無史さん 2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん

頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない

>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw

ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。

564 :日本@名無史さん:2016/04/20(水) 09:42:10.82 .net
頼朝と秀吉は一門を冷遇したのであっけなく衰退

鎌倉北条や江戸徳川は一門と争っても
戦後それらの遺族にそれなりの待遇与えたことが多かったので長持ちした

565 :日本@名無史さん:2016/04/20(水) 10:59:34.39 .net
>>564
頼朝、秀吉は直系が残らなかっただけだろう
一門冷遇というがやったのは兄弟甥冷遇だけで直系である息子の冷遇はしていない

家康はそもそも兄弟がいない
家康の父、松平広忠には家康以外に男子が誰もいなかった(異母妹はいたが。
家康母が再婚して異父弟はいたがそもそも家康に対抗するべくもない)
息子たちが残ったので江戸幕府は続いた

566 :日本@名無史さん:2016/04/20(水) 11:05:23.11 .net
一つの地域に根付いて9代目の家康とどこの馬の骨とも分からん秀吉とは比べ物にならない

567 :日本@名無史さん:2016/04/20(水) 11:24:05.20 .net
>>566
家康はせいぜい室町時代頃から土豪やってたことがわかる程度だろ
名家は他にもっとある

568 :日本@名無史さん:2016/04/21(木) 01:07:18.39 .net
頼朝は自分に取って代わられる不安を無くすため、本来は将軍家を守り立てる同族の源氏を滅ぼしすぎて、結局滅亡させてしまったしな。

569 :日本@名無史さん:2016/04/23(土) 13:26:08.83 .net
うちは家康に改易されたものの
松平家に色々世話になって、家光時代に松平家の口利きで御三家の一つに仕官させて貰った上
改易前の石高からは減少するも、領地も貰えたらしい。
トップが処断するだけじゃなく、周囲がフォローするから反発少なく長持ちした

570 :日本@名無史さん:2016/04/28(木) 22:43:25.63 .net
源頼朝>徳川家康>足利尊氏の順に重要だと思う。但し、どの人も欠くことが出来ない重要人物。
頼朝:実質的には平清盛が武家の台頭を実現していたが朝廷外での武家政治を開いた。
    武家の台頭は今に続く実力主義的価値観の基礎になっている。
家康:現代に及ぶ日本人の公への価値観は江戸期に形成されており、日本人の勤労精神
    形成に大きく寄与している。現代への影響力が一番強い。
尊氏:この人が居なかったら日本史はもっと動乱しており足利期に形成される日本特有の文化が
    形成されなかった。中国、朝鮮、日本の違いを最終的に方向付けた時代は室町期。

571 :日本@名無史さん:2016/05/02(月) 23:34:39.36 .net
>>568
平安時代は藤原氏も血を流さなかっただけで
同族争いはきつかったぞ。
鎌倉初期までは男系同族といえば協力者になるよりライバルに回る可能性が高い時代。

572 :日本@名無史さん:2016/05/03(火) 02:08:40.58 .net
足利兄弟も当時としては珍しく仲が良かったというのが悲劇だね。

573 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 11:41:06.94 .net
>>255
三河と北陸と群馬は生活保護世帯が少ない。

関東で生まれ三河で育った今川了俊は九州島で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った細川頼之は四国島で無双したものな。
上野で生まれ上野で育った山名時氏は北近畿山陰で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った中条長秀は京師で無双したものな。

中世史の川添昭二さんは今川了俊は鎌倉生まれで子供時代に東海地方へ移住したと書いてたな
中世史の佐藤進一さんは高兄弟は三河出身の三河武士と書いてたな
中世史の峰岸純夫さんは足利尊氏は鎌倉大倉生まれの鎌倉武士と書いてたな
中世史の海津一朗さんは楠木氏は武蔵北部出身の武蔵武士と書いてたな

三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。
(『甲陽軍鑑』)

574 :日本@名無史さん:2016/06/03(金) 03:04:33.54 .net
来週の「アウトデラックス」に尊氏の子孫だとかいう女の子が出演するって予告で見たんだけど、
平島公方系なのか喜連川系(途中で他家の養子が入るから厳密には子孫じゃないけど)なのか、はたまた仮冒なのか気になる・・・。

575 :日本@名無史さん:2016/06/04(土) 11:53:37.43 .net
6月4日(土)13時半〜『スノーデン氏生ライブインタビュー』ほか」を中継。
https://twitter.com/iw akamiyasumi/status/738732540920369156



宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8

竹下雅敏
「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」

世界演説は英国BBCが放送

マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk



         【スーパーサヨク覚醒】     マイト★レーヤ出現     【ゲスウヨ、貢米ポチ、理研は命乞いしろ】



日本から始まる世界的株式市場の大暴落

日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト★レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
非常に間もなくマイト★レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト★レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。
彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。マイト★レーヤが公に現れるにつれて、UFOが姿を表すでしょう。

576 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 06:15:49.24 .net
>>572 新田も楠木も仲がよかったんじゃないか?

577 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 12:32:32.27 .net
尊氏ではないことは確か

578 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 16:57:36.00 .net
>>571
藤原氏も同族争いはやったが血は流さなかったお蔭で
敗れた人の子孫でも後の時代には日の目を見て
公家として脈々続いてたりするけどな
藤原氏があんなに増えまくったのも血を流さなかったせいだろう
勝利者が兄弟皆殺しにしてたらあんなに残っていない

579 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 17:18:32.11 .net
>>578 それは、藤原北家に限っての話ではない。南家 式家 京家 は 維新
まで たどりついた家は式家の高倉家くらいのもの。

580 :日本@名無史さん:2016/06/05(日) 21:21:49.07 .net
>>579
平安時代初期までは藤原氏も殺し合いをやっていたので仕方がない
藤原仲麻呂(南家)、藤原仲成(式家)などが処刑されている
藤原氏が殺し合いを止めたのは平安時代中期からだろ

581 :sage:2016/06/05(日) 23:09:21.97 .net
https://www.youtube.com/watch?v=NOhAj0dfhxs

582 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 19:55:59.51 .net
 
 
  戦乱が原因で余った女性がヒステリックにならないという保証はない。
 
 
 

583 :日本@名無史さん:2016/06/18(土) 20:55:10.24 .net
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!


赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。


それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。

台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。

赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。

gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3)


584 :日本@名無史さん:2017/02/16(木) 20:03:09.93 .net
「東人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、ことうけのみよくて、まことなし」

 東国の人間は、言ったことはきちんと守る。京都の人は簡単に受け合うけれど、誠実さがないというわけだ。
これに対して尭蓮上人の答えはこうだ。都の人が嘘つきなわけではない。「心やわらかに、情ある」ために、人の頼みを断り切れないのだ。
しかも貧しい人が多いから、結果的に頼まれたことが実現できないのである。
東国人は、心に含みがなく、無骨で、一途に強い気性だから、できないことは「はじめより否といひて」断ってしまう。
それでも財産・実力があるから、他人からは頼みにされるのだ。
都人を弁護する議論だからこうなっているのだが、これがもし『軍鑑』作者や朝倉教景ならば、きっとこう付け加えるであろう。

 だから公家には命をあずけられないのだ、と。

 武士の世界で「頼む」というのは、己れの命をあずけることである。確実な裏付けもなく「ことうけのみ」よいような、それこそ「うろんなる」者に命はあずけられぬ。
頼むに値する武士、「頼もしい」大将とは、一を一とする、「分別」ある「有りのまま」の人物でなければならない。
(『武士道の逆襲』講談社現代新書)

上方の弓矢すえになりたる国ども、町人に相似たる侍ども、弱敵の国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。
(『甲陽軍鑑』)

三河の猛将・本多平八郎忠勝(『本多平八郎聞集』)
「武士は武士臭いのが、味噌は味噌臭いのがよろしい」
「武士は上方風の公家臭いのより百姓臭いほうがマシである」
「上方風の業平侍のような女の腐ったような侍は俺は大嫌いだ」

585 :日本@名無史さん:2017/02/25(土) 15:30:35.87 .net
https://youtu.be/85-XncAUZXc

586 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 23:43:34.01 .net
征韓大将軍・金正恩

587 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 22:26:52.39 .net
「徳川家康 境界から天下人云々」とやらの本が発売近いです。
どんなんですかね? 書店で見て購読するか否かを決めるのが楽しみです。

あ、「江戸城の全貌」読み損なって、書店の棚から消えていますね。今からでも探し出して読むべきですか?

588 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 22:44:46.16 .net
中世武士選書の頼朝は頼朝本の集大成として必読だぞ。

589 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 08:55:33.34.net
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆

590 :日本@名無史さん:2017/07/29(土) 18:49:07.32.net
>源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは

源頼朝 ----ご先祖様を殺そうとした屑
足利尊氏----ご先祖様を取り立ててくれた恩人
徳川家康----ご先祖様を改易した屑

591 :日本@名無史さん:2017/08/17(木) 17:01:52.87 .net
余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
『応仁の乱』と『観応の擾乱』が二冊とも
そろってベスト・セラーになったゼッ!
いづれも、中公新書だから、実質的には野球新聞でしかない
読売新聞社の儲けになるんだけど、俺はあんな低俗新聞社の回し者なんかぢやあ
断じて無えのサッ!!!!!

分かったナッ!

! 

592 :日本@名無史さん:2017/12/09(土) 05:21:11.18 .net
足利尊氏の恋、武家の恋、婆娑羅の恋

太平記略書き
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/bookall/1511584351/404

593 :日本@名無史さん:2017/12/09(土) 10:51:50.35 .net
>>565
内藤信成「・・・」

594 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 15:03:10.87 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

57CUV

595 :日本@名無史さん:2018/07/12(木) 17:50:34.64 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

G62

596 :日本@名無史さん:2018/07/15(日) 22:27:34.58 .net
何故そんな事をせなあかんかったのか?
それは三種の神器が政争に巻き込まれんようにだろうが


■三種の神器
現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎


■伊勢神宮(八咫鏡)

大宮司

鷹司尚武
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B0%9A%E6%AD%A6
大給松平家’三河国加茂郡大給松平、三河県豊田市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B5%A6%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6


伊勢神宮崇敬会
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/yakuin.html
>会長 豊田章一郎(三河吉田藩山口村、トヨタ自動車(三河県豊田市))


■熱田神宮(草薙剣)

大宮司家

千秋家(三河国設楽郡千秋、三河県新城市)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sensyu.html

熱田大宮司千秋家譜について
http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

597 :日本@名無史さん:2018/07/19(木) 13:07:37.36 .net
尊氏が意外と重要かもと思って本読み直した結果、
この人だめだわと再確認した。
直義の手柄と息子の義詮の手柄を侵略してる部分が多すぎる。
太平記オタが痛いだけ。

598 :日本@名無史さん:2018/08/15(水) 17:34:32.17 .net
,
織田ザコナガの天下統一はまだか?

織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?

北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな

599 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 19:15:15.63 .net
医療大麻でみる歴史
https://plaza.rakuten.co.jp/denkyupikaso/diary/201808160000/

600 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 21:03:46.31 .net
北条スルー時の大河ドラマまだあ?

身分が低すぎて将軍にも公卿にもなれなかったけどなwww

601 :日本@名無史さん:2018/08/21(火) 23:43:28.78 .net
焼き殺された織田マケナガwww

602 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 21:03:41.46 .net
安倍晋三だろ

603 :日本@名無史さん:2018/08/22(水) 22:34:19.46 .net
www

604 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 14:37:27.65 .net
ppp

605 :日本@名無史さん:2018/12/31(月) 23:54:16.85 .net
ヨリシロ

606 :日本@名無史さん:2019/11/28(木) 13:53:55 .net
内府殿

607 :日本@名無史さん:2019/11/28(木) 16:24:00 .net
室町幕府最盛期には三河の国衆に過ぎない松平氏は源氏とは認められなかった
源氏将軍三代の間は足利は御門葉筆頭(筆頭は平賀氏)ですらなかったし
そもそも源氏嫡流と見なされたのは一次資料によれば鎌倉幕府滅亡後

608 :日本@名無史さん:2019/12/03(火) 15:33:21 .net
足利は代々北条家から正室を娶っていたから
徐々に家格が上がっていったんじゃね
足利尊氏に流れてる血は3分の1ぐらい北条だろ

609 :日本@名無史さん:2020/05/09(土) 20:23:35 .net
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))




三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ



■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝


寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

610 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 22:05:05 .net
大坂都市計画の父、道頓堀の名付け親

松平忠明(徳川家康の孫)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E



東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市)
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ 徳川家康


どいつもこいつも、他力本願の田舎者

611 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 17:32:16 .net
「私本太平記」読む限り、足利尊氏は家柄に胡坐かいてるだけの優柔不断男だな。
戦弱いし。

612 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 21:09:31 .net
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの8連隊め

▽生活保護率(人口千対) 厚生労働省/平成24年度
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&listID=000001119498
大阪市57.1
東大阪市41.9
尼崎市39.8
京都市32.2
神戸市31.8
堺市30.4
豊中市25.8
広島市23.6 和歌山市23.4 東京特別区23.2 川崎市22.5 奈良市21.7
名古屋市21.2 八王子市20.3 水戸市20.0 千葉市18.9 横浜市18.8
岡山市18.7 相模原市17.6 福山市17.2 西宮市16.5 宇都宮市16.3
姫路市16.2 さいたま市15.7 岐阜市15.6 倉敷市15.0 船橋市14.0
新潟市13.9 横須賀市12.9 四日市市12.9 甲府市12.8 川越市12.4
静岡市11.7 大津市11.6 前橋市10.8 津市10.0 柏市9.6
浜松市9.3
小山市9.0
土浦市8.0
高崎市8.0
松本市8.0
長野市7.6
豊橋市6.7
豊田市5.9
岡崎市5.8

家康17,000 vs 秀吉100,000
三河出身の家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(磯田道史・岡山県出身の歴史学者)

613 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 21:11:50 .net
京都、大阪人って静岡の野鳥より弱いのなw
人間失格やなww

神奈川
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじ(続日本紀)
東男は出で向かひ、返り見せずて勇みたる、猛き軍卒(万葉集)
愛知
三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候
その証拠は、むくろ此方へ転たるは、うつむきになり、浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候(甲陽軍鑑)
京阪
宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww(山槐記)
宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww(愚管抄)

614 :日本@名無史さん:2020/05/24(日) 03:23:32 .net
日本人は禿げだからコロナになりにくい

615 :日本@名無史さん:2020/05/24(日) 18:59:47 .net
義仲義経が平家と闘ったけど
頼朝まるで闘って無くね

616 :日本@名無史さん:2020/05/25(月) 01:09:47 .net
松平の最有力な出自はどういうものですか?
遊行僧が松平郷に居着き世良田を名乗ったてやつですか?

617 :日本@名無史さん:2020/05/25(月) 22:45:40 .net
>>615
義経は営業マンで頼朝は社長みたいなもん
いくら営業が優れていてもその上に立つ経営者がいないとダメなんよ

618 :日本@名無史さん:2020/05/29(金) 13:13:43.20 .net
足利尊氏は源頼朝、徳川家康に比べれば過小評価されがちだが、当時の評価は非常に高い。
周囲の武士たちからの人望が高く、合戦に敗れてもまた武士が集まってくる。
夢窓疎石、楠木正成からその人物を高く評価されている。
また、鎌倉末期において武士団の中心となり得るのは、尊氏以外には考えにくい。
源氏御門葉としての家格、広大な所領と一族の多さ、本人の人柄など、棟梁としての
要素を兼ね備えていた。

619 :日本@名無史さん:2020/06/28(日) 09:09:27 .net
>>1
源頼朝だけは子孫が絶えちゃってるね
女系も男系も孫の代で絶滅しちゃってる

620 :日本@名無史さん:2020/07/31(金) 23:13:57 .net
もう一度ブルーインパルスを東京上空に飛ばし
医者に観戦させろ

今やらなくていつやるの
今でしょ

621 :日本@名無史さん:2020/08/15(土) 18:53:00 .net
強盗キャンペンで味噌土人ヒーハー

622 :日本@名無史さん:2020/08/15(土) 19:47:50 .net
619
島津、大友は頼朝の側室から生まれた末裔説あるけど?

なら島津氏は頼朝の子孫らってなる

623 :日本@名無史さん:2020/08/15(土) 19:58:21 .net
本宗家が絶えちゃったってだけの話だからな
 
徳川氏だって本宗家は何度も絶えてるじゃん

624 :日本@名無史さん:2020/08/30(日) 00:11:57 .net
得川氏のこと?
僭称松平徳川のこと?

625 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 13:14:18.84 .net
18代将軍 徳川ベトナム守

626 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 00:38:57.57 .net
非国民の安倍チョンが辞任

627 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 04:00:00.27 .net
7
嫡流だぞ
河内に領地持ってるかって意味だからな

628 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 04:01:28.83 .net
他に移ったのが庶流

629 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 04:04:11.73 .net
源義国は八幡庄を継いだ、源義光は常陸に配流された

義光は兄の義家や義綱殺しの嫌疑がかかっていた

630 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 18:37:40.87 .net
臣下の身で平家もろとも天皇ヌッ殺した頼朝に及ぶ奴はいないわなあ
頼朝の後は菅内閣に至るまでプライムミニスター争いが延々と続いてるだけだからな

631 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:10:56.66 .net
河内に本拠地を持ってるのが

頼信一頼義一義家一義宗=為義一義朝

河内源氏の東国の拠点と言われた八幡庄を継いだのが

頼信一頼義一義家一義国一義重

632 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:14:48.00 .net
頼朝は鎌倉に拠点移したからな

鎌倉頼朝とも呼ばれとる

八幡庄は代々、新田家が継承してきたが足利、新田らは新たな荘園を得たからそちらに拠点移した

新田一族の中でも里見、山名などは新田庄内に拠点はないが八幡庄内において拠点を継いだ

633 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:18:47.04 .net
一方、兄弟殺しの嫌疑のため京都における拠点を失った義光の系統は初めは常陸に移りそのあと甲斐にきて一族が繁栄した

頼朝は佐竹や武田に対しては武力行使にでとるだろ

河内源氏の惣領を狙い頼朝の祖先を殺した嫌疑があったんだな

634 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:28:36.89 .net
新田義貞などは源氏歴代の東国の拠点、八幡庄において祈願掛けして鎌倉を攻めた

鎮守府将軍として源氏の連中らが東国における戦いの戦勝を祈願して挑んだ始まりの地だからな

635 :日本@名無史さん:2020/09/21(月) 20:29:33.56 .net
あまり足利が源氏の棟梁だの目されてよ〜が関係ない

そ〜思ってるのは朝廷や公家らの方だけなんだよ

636 :日本@名無史さん:2020/10/01(木) 23:57:02.14 .net
徳阿弥という遊行僧の子孫、松平元康

637 :日本@名無史さん:2020/10/21(水) 20:49:35.55 .net
ρ(ーoー)
あなたも私もアベコロナ〜♪

638 :日本@名無史さん:2020/10/23(金) 19:15:40.90 .net
頼朝が居なくても義仲が幕府を開いていたよ

639 :日本@名無史さん:2020/11/25(水) 14:44:52.54 .net
ヅラスガ「強盗キャンペンでアベコロナ拡大したな
よっしゃよっしゃあ!」

640 :日本@名無史さん:2020/12/24(木) 00:10:58.73 .net
天中殺だ

641 :日本@名無史さん:2021/01/16(土) 00:26:08.70 .net
令和元年度普通交付税不交付団体
豊橋市 岡崎市 碧南市 刈谷市
豊田市 安城市 小牧市 東海市
大府市 知立市 高浜市 日進市
田原市 みよし市 長久手市 豊山町
大口町 飛島村 武豊町 幸田町
https://www.soumu.go.jp/main_content/000635010.pdf

蒲郡はずっと地方交付税を貰っている
競艇があっても貧乏
むしろ競艇に頼って他の収入を軽視してきた結果ではないか

642 :日本@名無史さん:2021/01/28(木) 07:38:55.18 .net
7年も暴れてるのかw

643 :日本@名無史さん:2021/02/10(水) 13:11:51.53 .net
これが現在も堂々たる武士の国だ、よく見ろよ万年パシリの8連隊め

▽生活保護率(人口千対) 厚生労働省/平成24年度
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&listID=000001119498
大阪市57.1
東大阪市41.9
尼崎市39.8
京都市32.2
神戸市31.8
堺市30.4
豊中市25.8
広島市23.6 和歌山市23.4 東京特別区23.2 川崎市22.5 奈良市21.7
名古屋市21.2 八王子市20.3 水戸市20.0 千葉市18.9 横浜市18.8
岡山市18.7 相模原市17.6 福山市17.2 西宮市16.5 宇都宮市16.3
姫路市16.2 さいたま市15.7 岐阜市15.6 倉敷市15.0 船橋市14.0
新潟市13.9 横須賀市12.9 四日市市12.9 甲府市12.8 川越市12.4
静岡市11.7 大津市11.6 前橋市10.8 津市10.0 柏市9.6
浜松市9.3
小山市9.0
土浦市8.0
高崎市8.0
松本市8.0
長野市7.6
豊橋市6.7
豊田市5.9
岡崎市5.8

家康17,000 vs 秀吉100,000
三河出身の家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(磯田道史・岡山県出身の歴史学者)

644 :日本@名無史さん:2021/04/29(木) 00:10:29.76 .net
三河の狸

645 :日本@名無史さん:2021/05/03(月) 02:00:33.16 ID:uwdGlQboU
>>1
史上最強の武将、「楠正成」を、正々堂々とした戦いで、一騎打ちで、打ち破った、つまり、正しく、日本史上最強の楠正成を越えた、日本史上最強の将軍ですね!(^^)wwwwwwwwwww
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

646 :日本@名無史さん:2021/06/04(金) 08:00:02.66 .net
麻原尊氏

647 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 11:40:59.57 .net
源頼朝と徳川家康の役割は、同時代の他の人でもできた可能性がある。
一方、足利尊氏の代わりができた人物は他にいただろうか?
家格、経済力、人柄のどれをとっても、突出した求心力があった。

648 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 17:26:33.02 .net
>>647
足利尊氏は家格、経済力、人柄が突出していたから
みんなにお願いしますと頼まれて仕方なく将軍になったわけではない
何度も負けて味方を募るために恩賞を弾むしかなかった
おかげで室町幕府の直轄地は山城国一国しかなく室町幕府はいつも金欠
守護大名の方が裕福だった

649 :日本@名無史さん:2021/06/17(木) 02:16:46.64 .net
室町幕府は末期になるとほぼ権威化してたよな

650 :日本@名無史さん:2021/06/18(金) 13:15:00.62 .net
鎌倉公方家は関東では権威があって、そのため室町幕府が倒れた後も徳川将軍家の客将として残った
もし源氏将軍が続いていたら、鎌倉幕府が倒れた後も残ったかな?

651 :日本@名無史さん:2021/06/18(金) 14:12:22.03 .net
鎌倉公方は分裂してそのうちの一家、古河公方の末裔が家康から客分扱いされた
古河公方は後北条の主筋だったが後北条の勢力が拡大する過程で断絶した
後北条を滅ぼした豊臣秀吉は後北条に追いやられた鎌倉公方復興を名目にするために
古河公方の末裔の娘に婿を取らせて古河足利家を復興させた
後北条滅亡後に関東へ入府した家康もこれを引き継ぎ古河足利家を客分扱いした
立場上優遇している様子を見せた方が統治しやすいならそうするだろうし
特にメリットないなら特別扱いもないだろ

652 :日本@名無史さん:2021/06/24(木) 19:10:49.38 .net
家康はないな
頼朝が革命なき革命、武士の時代を始めたのは大きい
尊氏は建武政権を挟んで武士の時代を結果的に存続させた
そして近代日本に大きな影響を与える日本史上最大のイデオロギーである南北朝正閏論の対立を作ったひとりでもある

尊氏が最も重要かな

653 :日本@名無史さん:2021/06/29(火) 13:02:42.47 .net
結果として家康が天下を掌握したが、織田や豊臣の天下が続いた可能性もあった。
「天下人はどうしても徳川でなければならない」必然性はない。
一方、足利尊氏はその時代に突出した人物であり、鎌倉幕府の成果を継承できる人物は
他にはない。足利氏しか武士団を統治できる者はいなかった。

654 :日本@名無史さん:2021/07/01(木) 03:33:52.74 .net
その武家政権を終わらすのが明治維新
それに多大な影響を与えたのが南北朝、太平記の時代

源平合戦、関ヶ原でどっちついたかなんてイデオロギーにならんけど
南北朝はなる

よって尊氏が最重要

655 :日本@名無史さん:2021/07/02(金) 13:28:52.29 .net
足利尊氏は史上最強の中継ぎエース
尊氏がいなければ家康も存在しなかった

656 :日本@名無史さん:2021/07/03(土) 01:23:27.15 .net
足利尊氏は超カリスマ

657 :日本@名無史さん:2021/07/06(火) 15:56:57.82 .net
足利は天皇と公家に接近しすぎ。武士を守る組織幕府が公武合体でおかしくなった。

658 :日本@名無史さん:2021/07/08(木) 20:28:27.32 .net
初代の足利尊氏からして権威ある偉い人には敬意払う人だったからな
鎌倉幕府に謀反を起こすのも後醍醐天皇に反抗するのも
後醍醐天皇と光厳天皇の命令が出てからだからな

659 :日本@名無史さん:2021/07/09(金) 16:56:48.48 .net
後醍醐天皇は別として光厳天皇の命令は実質尊氏が命令させたのと同じやんけ

660 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 04:01:34.86 .net
敬意払うなら北朝裏切って南朝に降伏しないでしょw

661 :日本@名無史さん:2021/09/12(日) 08:12:51.75 .net
頼朝は義経がいなかったら平家を倒せなかった
家康は信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をくすねた

征夷大将軍らしいのはやっぱ尊氏
九州大返し、そして湊川の戦いで大勝利とかロマンやん

662 :日本@名無史さん:2021/09/26(日) 22:55:51.58 ID:sIqcWZMwI
徳川一派が殺人鬼だから!(^^)wwwwwwww

「島原・天草大虐殺事件!」
<ハルナさん事件を絶対に忘れない市民の会です(^^)!wwwwwwwww>
徳川家始め、旧幕府及び戦国時代の軍閥のメンバーの子孫も全員で処刑でお願い致します!(^^)wwww

(まるで文鮮明のような人物!徳川家康です!(榛名!!!怒!!!!!!!!)
幕府から派遣された松平天草総督は、カネ、オンナ、奴隷、何もかもを欲しいままにした!
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter020.html

ハルナさんよ!永遠に!(^^)wwwwwwww
https://twitter.com/wsss_rauha/status/1391329835255926785

心優しき、天国へ居るハルナさんへ、一輪の花を手向けて、懇ろに弔いたいです・・・
https://www.amazon.co.jp/dp/4063343871/

本籍・住所・氏名・年齢不詳の女性、所持金品は碁石金、「ハルナ」と片仮名で銘が入った小刀。
上記の者は、平成26年12月11日の午前10時15分頃、松平町大字徳川内の造成工事現場から白骨化した遺体で発見されました。
死後500年近く経過したと推定されます。
身元不明のため、遺体は火葬に付し、遺骨は保管してあります。
心当たりの方は、当町健康福祉課まで申し出てください。

663 :日本@名無史さん:2021/10/05(火) 23:09:57.36 ID:CmAil1NMt
アシカはしか

664 :日本@名無史さん:2021/12/30(木) 02:11:59.17 .net
【三河最強伝説】

■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)

■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士

■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士

■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士

■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士

665 :日本@名無史さん:2022/03/23(水) 10:56:06.45 .net
意外に人気だった新人キャバ嬢の源氏名とは?
2021/11/10 11:00
著者:矢野達人
https://news.mynavi.jp/article/20211110-2181896/

https://news.mynavi.jp/photo/article/20211110-2181896/images/001l.jpg
(Twitter 茅原クレセ @kayaharakureseより引用)

源氏名の意味がわかっていなかった新人キャバ嬢が選んだ源氏名は「頼朝」。そして、辞めるまで頼朝で通したという二段オチ。読者の元ネタを見ると「名前のお陰でそこそこ人気だった」そうです。フォロワーも源氏ネタ、歴史ネタで大いに盛り上がりました。

https://news.mynavi.jp/photo/article/20211110-2181896/images/002l.jpg
(Twitter 茅原クレセ @kayaharakureseより引用)

「いい国つくろうキャバクラ幕府」「いざキャバクラ」「妹分は義経で」「“政子”だったらキャバクラを乗っ取っていたかもww」「いつか平氏が来襲してきそう」などなど。

(略)

666 :日本@名無史さん:2022/03/23(水) 10:59:20.14 .net
ん?自分の専ブラではプレビューできません
再度、画像URLのみを上げます(ダメなら諦め)

https://news.mynavi.jp/article/20211110-2181896/images/001l.jpg
https://news.mynavi.jp/article/20211110-2181896/images/002l.jpg

https://news.mynavi.jp/article/20211110-2181896/images/001l.jpg/webp
https://news.mynavi.jp/article/20211110-2181896/images/002l.jpg/webp

667 :日本@名無史さん:2022/03/23(水) 19:42:08.04 .net
>>658
尊氏は後醍醐天皇に最初は勅命なしに反旗を翻して北畠顕家に敗れた
やっぱり誰かを担がないとダメだなと
後醍醐に退位させられた光厳上皇を自分の陣地に迎え取って
光厳上皇から錦の御旗を受けてようやく勝てた
あとは光厳上皇の院宣でその弟光明天皇を即位させて
光明天皇から征夷大将軍を受け幕府を開く

668 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 08:54:32 .net
鎌倉殿サミット2022で東国国家論の
東大学派の近藤、本郷が京大学派を
はじめとする他のパネリストに完膚なきまで
にボコボコに論破されてたのは日本史の秘密w

鎌倉殿サミット2022
源頼朝死をめぐるミステリー日本史上の大転換点

669 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 09:28:10 .net
>>1
家康
日本人の精神をもっとも知り抜いた人物だな
今でも十分通用するコミュ力あるわ
日本で天下とるには狸親父になるしかないんだなw
俺には無理だわwww

670 :日本@名無史さん:2022/05/23(月) 03:58:48.36 .net
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)

藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)

藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)

藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)

藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)

671 :日本@名無史さん:2022/06/01(水) 06:57:13.64 .net
>>255
京都者が百人居たら99人はクズだろう

趣味は略奪!京都第16師団長の家具泥棒中島中将
各国大使館の自動車を盗んだ土人の兵隊京都16師団
趣味は虐殺!京都第16師団佐々木少将城内粛清委員長
南京のクーニャンハンター京都16師団の将兵はレイテでも女子供を殺しまくる
のちのレイテ戦で真っ先に逃げたのも16Dの京都歩兵第9連隊と福知山歩兵第20連隊です

672 :日本@名無史さん:2022/09/01(木) 03:17:37.23 .net
藤原経忠→信輔→信隆→信清→女→四条隆衡→隆親(三河国知行国主、妾に足利義氏(三河守護)娘)

藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)

藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)

藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)

藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼娘)

藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)

藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘、室は阿野全成の娘)


藤原顕憲→盛憲→清房→上杉重房

藤原顕憲→能円(正室は藤原範子)→女→土御門天皇

源雅通→通親(正室は藤原範子(再婚))→中院通方→土御門顕方(妾に吉良長氏娘)


藤原能兼→範兼→女(範子)→土御門天皇

藤原能兼→範兼→女(範子)→中院通方→土御門顕方(妾に吉良長氏娘)

673 :日本@名無史さん:2022/09/01(木) 03:20:50.46 .net
藤原能兼→範季→源範頼(養子、三河守)→範円(三河国正法寺僧)

藤原能兼→範季→女(養女)→土御門天皇

藤原能兼→範季→女→順徳天皇

藤原能兼→範季→範茂→範房(三河守)

藤原能兼→範季→範茂→女(四条隆親(三河国知行国主)室)

藤原能兼→範季→範茂→女(忠成王妃)

藤原能兼→範季→女(吉田資経(三河守)室)

674 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 02:23:42.50 .net
三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))

☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→①へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→④へ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)

①藤原季綱
・藤原友実→②へ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)→成範→女(長谷部信連室)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)→葉室顕頼(三河守)→藤原俊成(養子、三河守)
・他多数

②藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→③へ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→④
・他多数

675 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 02:24:56.75 .net
③藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見為頼(初代吉見氏)
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数

④源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐

⑤藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→⑥へ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

676 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 02:25:59.54 .net
⑥藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→⑦へ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→⑧へ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→⑨へ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三条局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

⑦藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)

⑧藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)

677 :日本@名無史さん:2022/12/22(木) 02:11:18.11 .net
崇徳院妾は、源頼朝と初代源姓足利氏たる足利義兼の従兄妹


崇徳院
中宮 皇嘉門院(三河国吉良荘領家、兄弟に九条兼実(三河国知行国主))

妾 兵衛佐局(三河の藤姓熱田大宮司家か、源頼朝の親類(吾妻鑑))→重仁親王(乳母は池禅尼(三河守頼盛の母))

妾 女子(父:源師経(三河権守、母:由良御前姉妹、源頼朝・足利義兼従兄妹)

源頼朝の母親の姉妹の子供、頼朝の従兄弟が崇徳院の妾になっている
もう一人の妾、兵衛佐局も三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるそうだが、その子供の重仁親王の乳母は池禅尼
池禅尼の息子が三河守頼盛だ

吉良荘は崇徳院の正室、皇嘉門院領で、寄進したのは三河の藤姓熱田大宮司家と思われる


補足説明だが、頼朝を捕縛し助命嘆願した三河守頼盛家人の平宗清は三河目代だった

678 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 03:32:10.56 .net
■源為義乳母父:首藤資道
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))

■源義朝乳母:鎌田通清(初代鎌田氏)の嫁
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→鎌田通清(初代鎌田氏)→政清(源義朝乳母兄弟)

■源頼朝乳母:山内首藤俊通(初代山内首藤氏)の嫁(山内尼)
首藤資清(初代首藤氏、三河国住人)→資道(源義家郎党、三河国住人(尊卑分脈))→親清→義通→山内首藤俊通(初代山内首藤氏)→経俊(源頼朝乳母兄弟)

679 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 03:34:14.79 .net
高階惟長→滝口惟忠→大平惟行(三河国滝山寺)

高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→師有(関東執事)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師秋(家時置文保管者)→三郎(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師行→女(高師直室)

高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師世(幕府執事)→いち(三河国総持寺住持)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師秀
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→明阿(高師冬妻、三河国総持寺開基)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師泰(初代幕府執事)→師武(国司師武)?

高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師夏
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師詮
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師冬(関東執事、三河守、室は高師泰の娘、高師直猶子)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→師直(幕府執事、三河守)→師兼(初代三河守護、高師直猶子)

高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→師重(三河国額田郡菅生郷)→貞円(三河国滝山寺)
高階惟長→惟重→高重氏→師氏(三河国額田郡菅生郷・比志賀郷)→女(稲荷女房、三河国額田郡比志賀郷)

680 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 03:37:44.52 .net
◆鎌倉末期、足利氏御領◆

■知行国
・三河国(1221年~)
・上総国(1259年~)

■奉行人(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
・足利庄担当
奉行頭人:南右衛門入道(高頼基、高師直祖父兄弟)
奉行人:駿河六郎二郎、横瀬五郎入道、粟飯原十郎、醍醐三郎入道、堀松三郎二郎、寺岡太郎左衛門尉

・上総国担当 
奉行頭人:三戸八郎左衛門入道(三戸為澄、三浦為澄の孫)
奉行人:寺岡左衛門入道、彦部二郎左衛門尉、海老名七郎太郎、有木中務丞六郎、源民部七郎、村上助房

・三河国担当
奉行頭人:上椙三郎入道(上杉頼重、尊氏祖父)
奉行人:倉持新左衛門尉、設楽太郎兵衛入道、梶原太郎左衛門尉、小嶋三郎、有富三郎、明石二郎左衛門尉、大炊助 

■所領一覧(倉持文書(足利氏所領奉行注文、御領奉行の事))
【東北】
陸奥国
・賀美郡(宮城県加美郡)

681 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 03:42:04.98 .net
【関東】
下野国
・足利庄(栃木県足利市全域及び佐野市・館林市の一部)
上野国
・広沢郷(群馬県桐生市広沢町)
・大佐貫郷(群馬県邑楽郡明和村)
上総国
・市東西両郡(千葉県市原市)
安房国
・朝平郡(千葉県安房郡東南部)
相模国
・愛甲荘(神奈川県愛甲郡・厚木市)
・宮瀬村(神奈川県愛甲郡清川村)

【東海】
三河国
・額田郡(三河県岡崎市・額田郡)
・設楽郡(三河県新城市・北設楽郡)
・富永保(三河県新城市富永)

【北陸】
能登国
・土田上荘(石川県羽咋郡志賀町)

682 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 13:22:56.06 .net
【関西】
山城国
・久多大見(京都市左京区内)
丹波国
・八田郷(京都府綾部市)
・漢部郷(京都府綾部市)
丹後国
・宮津荘(京都府宮津市)
河内国
・田井荘(大阪府八尾市内か)
和泉国
・放光寺(大阪府岸和田市)

【四国】
阿波国
・秋月荘(徳島県板野郡土成町)

【中国】
備前国
・宇甘郷(岡山県御津郡御津町)
美作国
・垪和東郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・垪和西郷(岡山県久米郡旭町・中央町)
・新野郷(岡山県津山市)
・田中郷(岡山県津山市)
・田邑郷(岡山県津山市)
・讃甘荘(岡山県英田郡大原町)
・稲岡南荘(岡山県久米都久米南町)

683 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 13:25:01.42 .net
【九州】
筑前国
・戸栗重富(福岡県福岡市西区戸切・早良郡早良町重留か)

不明
賀治山村、黒田保、友子荘、阿土熊

684 :日本@名無史さん:2023/01/16(月) 02:48:30.52 .net
3代目松平信光創建

・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給

・妙心寺(1461年創建)  1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給



信光が創建した信明光寺だが、開いた坊さんの師匠は増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘

685 :日本@名無史さん:2023/01/16(月) 02:49:20.75 .net
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したんだよ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ

頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった


・金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める

・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)

686 :日本@名無史さん:2023/01/16(月) 02:50:25.01 .net
一見して、三河とは関係ないと思われる源義国と源義重だが、義重の祖母は三河物部氏の娘


中原季成(三河物部氏)→女→女→源義重→世良田義季→頼氏(三河守、三河守護代)


中原氏は、三河物部氏の興原氏から分かれた中原氏

687 :日本@名無史さん:2023/01/16(月) 02:51:13.97 .net
日本の最初の王(ニギハヤヒ?事代主?)は三河国出身の可能性が高い

三河県豊橋市石巻小野田の石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてあり
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい

纒向遺跡の東海色はよく知られているが、纒向は追い出されたが、時代を下り源頼朝、足利尊氏、徳川家康と三河は関東関西を圧倒した

グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている

実は三輪山の奥院、三河の神山(石巻山)に向いているわけだな

688 :日本@名無史さん:2023/01/16(月) 21:44:50.23 .net
梅松論には、東国を征伐する歴史を語る記事で、日本武尊に言及している

つまり義家流源氏は、東国征伐のルーツを日本武尊に求めていた事が分かる
日本武尊と言えば、草薙剣
三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く源頼朝、足利尊氏の使命感の源泉でもある

日本武尊の実在モデルが建稲種命なら、三河に墓がある
正法寺古墳がその墓で、祀る神社が旗頭神社だ

正法寺古墳
https://ja.m.wikiped...F%E5%B0%BE%E5%B8%82)

幡頭神社
https://ja.m.wikiped...AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

そして正法寺古墳の裾には、足利尊氏再興の正法寺がある
三河を探れば、全部意味があるんだよ

正法寺
https://jinja.dr-lea...ji-nisio-kiraokkawa/
寺宝
足利尊氏寄進 扁額
足利義満寄進 太刀、獅子頭、扁額

日本武尊の双子の兄弟を祀る、猿投神社
https://yaoyorozulab...azujinja-kira-nisio/

足利尊氏は、猿投神社の東の宮を創建し、槍と鏡奉納した

689 :日本@名無史さん:2023/01/18(水) 00:19:07.76 .net
最上氏


大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任


斯波家兼(足利家兼)
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」

「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした


永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。

690 :日本@名無史さん:2023/01/18(水) 00:20:32.43 .net
清洲城の築城者は、元岡崎市民と西尾市民の娘の間の子供の斯波義重

斯波義重
・斯波氏(武衛家)6代当主
・管領
・越前、尾張、遠江、加賀、信濃守護
・正三位

父:斯波義将
・斯波氏(武衛家)5代当主
・管領
・越前、越中、信濃守護
・従三位

母:吉良満貞の娘
・父は西条吉良氏
・父は三河国西条城主
・父は引付頭人


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」

「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした

691 :日本@名無史さん:2023/01/18(水) 00:24:53.60 .net
黒本尊
製作:恵心僧都源信

所有者の変遷
源頼義

源義家

源為義

源義朝

平重盛

平清盛

常磐御前

源義経

明眼寺(現在は妙源寺、三河県岡崎市)

徳川家康

増上寺

恵心僧都源信創建、源空寺(三河県岡崎市)、誓願寺(三河県岡崎市)

源頼義創建、長瀬八幡宮(三河県岡崎市)、上の宮熊野神社(三河県碧南市)

692 :日本@名無史さん:2023/01/18(水) 02:43:44.33 .net
徳川家康は受け継ぐ遺伝子
源義家
足利義兼
足利義氏
今川国氏
一色公深
吉良長氏
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成



■今川記(1553年成立)より

松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘

一色満範の娘の仮定する

源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康

■熊野国造家 和田家系図より

松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘

・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康

693 :日本@名無史さん:2023/01/22(日) 16:37:36.63 .net
大嘗祭

天武 悠紀:播磨、主基:丹波
持統 悠紀:播磨、主基:因幡
文武 悠紀:尾張、主基:美濃
元明 悠紀:遠江、主基:但馬
元正 悠紀:遠江、主基:但馬
聖武 悠紀:備前、主基:播磨
孝謙 悠紀:因幡、主基:美濃
淳仁 悠紀:丹波、主基:播磨
称徳 悠紀:美濃、主基:越前
光仁 悠紀:三河、主基:因幡
桓武 悠紀:越前、主基:備前
平城 悠紀:伊勢、主基:備前
嵯峨 悠紀:三河、主基:美作
淳和 悠紀:美濃、主基:丹波
仁明 悠紀:近江、主基:備中
文徳 悠紀:伊勢、主基:播磨
清和 悠紀:三河、主基:美作
陽成 悠紀:美濃、主基:備中
光孝 悠紀:伊勢、主基:備前



清和天皇の三河と美作の田んぼは、鎌倉期の足利御領(三河国幡豆郡、美作国英多郡)内にあった
そして、三河国幡豆郡は清和天皇皇女の一身田だった由緒を持つ

下野ガー、足利ガーとか、どうでもいいから

694 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 01:22:58.58 .net
3代目松平信光創建

・信明光寺(1451年創建)
1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給

・妙心寺(1461年創建) 
1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給


4代目松平親忠創建
・大恩寺(1477年創建)
1493年、後土御門天皇勅願所、紫衣着用が許される

695 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 01:25:18.87 .net
蜷川氏
元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の三河県豊川市)と推定される。


宮道天神社(三河県豊川市)

源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納

696 :日本@名無史さん:2023/02/02(木) 03:00:37.49 .net
>>626
まずな疑問に思え、何故豊田佐吉は東(関東)に向かわず西(三河)に向かったのか

豊田佐吉は三河譜代藩文化の三河吉田藩領で生まれ育った
豊田佐吉の親戚は三河の豊橋にいる

つまり、浜松より豊橋寄り
の人間なんだよ
尚且つ、静岡といえども、駿河、伊豆など縁もゆかりもない


豊田佐吉
1867年3月19日三河吉田藩山口村で生まれる。

1875年、下等小学校入学(坊瀬の妙源寺の寺子屋が途中で川尻小学校に変わる)。
1878年春、小学校在学中、三河県岡崎市の岩津天満宮へ参拝、徒歩で往復。
1878年12月、吉津村川尻小学校を卒業。
1885年、二俣紡績(遠州紡績会社)への就職を希望。父の反対で断念。
1886年2月 山口夜学会を山口観音堂で実施。
1886年春、佐吉は朋輩の佐原五郎作と無断で東京方面へ出奔。
1887年春、徴兵検査を受けるが、抽選のがれで入隊できず。
1887年暮、三河県豊橋市中八丁の大工・岡田波平のもとで修行。
1889年正月、再度家を出る。神奈川県横須賀の佐原谷蔵宅に寄寓。
1889年春、愛知県知多郡岡田村へ織機の研究。
1890年4月、東京上野で開催の第3回内国勧業博覧会を見る。
1890年11月11日、豊田式木製人力織機を発明、特許申請。
1891年5月14日付で、豊田式木製人力織機の特許を得る。
1892年10月、東京浅草外千束に住む。
1892年、織機研究のため埼玉県蕨市、高橋新五郎を訪ねる。
1893年3月26日、佐原豊作の三女たみと結婚、東京で暮す。
1893年年末、東京を引き揚げ、妻たみと山口村へ帰る。
1894年正月、家出。三河県豊橋市曲尺手町の叔父・森重治郎宅へ。妻は取り残される。

697 :日本@名無史さん:2023/02/02(木) 22:27:01.38 .net
藤原経忠→信輔→信隆→信清→信子(源実朝正室)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→昇子内親王(母は九条兼実(三河国知行国主)の娘)、順徳天皇准母)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国分国主)→後鳥羽天皇→土御門天皇(母は源在子(母親の養父は藤原範季)

藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇→順徳天皇(母は藤原範季娘)

藤原経忠→信輔→信隆→親輔(三河守)

藤原経忠→信輔→信隆→信行→忠輔(三河守)

藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘)

藤原経忠→忠能→一条長成→源義経(養子)

藤原経忠→女→成親→阿野公佐(母は俊成(三河守)娘)

698 :日本@名無史さん:2023/02/07(火) 01:12:56.97 .net
三河国分国主、知行国主

1191年07年:九条兼実(知行国主)、関東申次、嫡男の嫁は一条全子(坊門姫の娘)
1199年02年:吉田経房(知行国主)、初代関東申次、母の兄弟に藤原俊成(三河守) 、孫が水無瀬信成(父は藤原親兼(室に足利義兼の娘)、後鳥羽院の命で養子入り後に水無瀬殿を譲られる)娘
1200年03月:七条院(分国主) 、姪は坊門信子(源実朝室)
1227年11月:七条院(分国主)、再任
1234年01年:四条隆親(知行国主)、室に足利能子(足利義氏(三河守護)の娘)
1240年12月:葉室資頼(知行国主)、藤原顕頼(三河守、正室は藤原季範従兄弟)の玄孫、すぐに四条隆親と交代
1240年12月:四条隆親(知行国主)、再任
1254年04月:平敦朝
1288年02月:西園寺実兼(知行国主)、関東申次
1301年02月:持明院統(伏見院)(分国主)
1303年04年:持明院統(伏見院)(分国主)
1321年06年:日野俊光(知行国主)、辞退
1321年06年:西園寺実衛(知行国主)、関東申次
1324年01月:持明院統(花園院)(分国主)

699 :日本@名無史さん:2023/07/31(月) 22:38:05.11.net
大草家料理書
「宇治丸かばやきの事。丸にあぶりて後に切也。醤油と酒と交て付る也。又山椒味噌付て出しても吉也。」



大草衆 
大草衆とは、大草氏の惣領を中心に時衆の阿弥号(観阿弥、世阿弥も時衆)を持つ者(同朋衆)を取り込み形成された一種の職能集団で強い仲間意識で連帯していた。  
阿弥号を持つ者は、主として身分が低い者が身分制度から抜け出て南北朝や応仁の乱の乱世で、己の才で主に芸術面で活躍することができた。  
大草衆は庖刀式などの儀式のみならず、書式、書札式、礼式、数式、絵図式、礼法、兵法、歳時記 十節句、年中行事、臨時儀礼(冠婚葬祭等)、音声などを自らの職能とし室町幕府を文化面で支えた。  
大草流は武家諸礼式の流派小笠原流や伊勢流と、ならぶ故実の伝承者であり、群書類従で有名な大草家料理書、大草殿より相伝の聞書などは、大草流の伝え事のほんの一部でしかないのである。 

大草流庖丁道 
https://ja.wikipedia...E9%81%93  


大草氏 
http://www2.harimaya.....   
>家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。 
> 三河国額田郡大草(三河県幸田町)を領して、大草を家号にしたと伝える。

700 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 02:06:54.90 .net
http://i.imgur.com/lDOfN6d.jpg

701 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 16:15:19.22 .net
尊氏が一番偉いにきまってるじゃないか。頼朝の子孫が失った源氏将軍を再興して徳川に伝えたんだから。
北条も建武政府も織田も豊臣もすぐに滅びて清和源氏の天下が長く続いたのは尊氏の功績。

702 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 18:08:00.45 .net
>>701
家康は初期は藤原氏名乗ってた
征夷大将軍なら源氏かなあってことで
新田流得川氏に繋げる家系図出して清和源氏ということにした

鎌倉時代は源氏将軍はさっさと終わって摂家将軍に
そして親王将軍だった時代が一番長い

初代征夷大将軍は坂上田村麻呂だし
征夷大将軍は源氏のものではないわけだが

703 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 00:09:48.46 .net
>>702 そうじゃない

新田流清和源氏の子孫を自称したのは、祖父清康の代からのことで、家康はそれを受け継いだまで

ところが、三河守になる際に源氏のままでは難しかったらしく、藤原姓を名乗った

源氏に戻そうとしたのは秀吉が生きてた頃からで、将軍職の就任とはあまり関係ない

704 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 05:11:52.76 .net
源氏将軍を再興して武家政権を正しいあり方に戻した尊氏は偉大。

705 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 08:54:08.88 .net
>>0700
源氏に戻したのは秀吉の次を狙ったから。秀吉が将軍になりそこねたのを見て、やはり清和源氏じゃなければダメだと確信したんだ。

706 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 09:29:12.40 .net
>>705 貴方の認識は、古い学説に基づいたものですよ

新しい研究では、家康が源氏に戻したのは、遅くとも1592年のことだとわかってる。秀次が関白をしていて、家康が秀吉の次を狙える状況じゃない頃のこと

秀吉が将軍になりそこねたというのも、林羅山が豊臣滅亡後に述べた話が元になってる。これは、秀吉がなりたくてもなれなかった将軍に家康はなれたから、豊臣より徳川の方が偉いという刷り込みを狙った、徳川プロパガンダのための創作

実際のところは、秀吉が征夷大将軍になろうとすればなれたことは、同時代の多聞院日記の記述によって判明していることです

707 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 11:10:42.86 .net
建武政権や織田政権や豊臣政権が短命だったのは武士たちが清和源氏にして征夷大将軍を棟梁に仰ぎたかったから。

708 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 11:41:24.33 .net
源頼朝
源尊氏
源家康

一人だけ僭称が混じってますな

709 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 16:21:28.53 .net
清和源氏でなければ武士が心服しなかったってことだね。

710 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 18:40:50.95 .net
頼朝も家康ももし居なくても誰か他の人が代わりをしてそうだけど
尊氏だけは居なかったら誰も代わりしてなさそうなイメージ

711 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 19:49:39.33 .net
将軍は源氏でなければというのは足利将軍家と徳川将軍家が15代続いたことから来る結果論だろう
2代目か3代目の基盤固めが失敗したら鎌倉源氏将軍みたいに短命になるわ

712 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 00:39:33.39 .net
征夷大将軍、征東将軍は義仲以前、実朝以降の親王将軍、摂家将軍や南朝の親王将軍が居る。
足利が15代も世襲したことにより将軍は清和源氏のイメージが着いたんだろうね

713 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 12:34:24.19 .net
>>0709
1,足利氏は清和源氏嫡流にして最強最大の御家人。北条氏の専制に不満を持つ御家人の期待は足利氏に集まった。
2,足利氏にはもともと天下取りの野望があって機会を伺っていた。

つまり尊氏でなくても一旦天下が乱れたら足利氏の当主が武家の棟梁になって天下を平定するのは約束されていたこと。

714 :日本@名無史さん:2023/09/17(日) 20:14:50.28 .net
足利は得宗との縁戚関係で幕府内の地位が高かったんじゃないの
源氏嫡流扱いではないでしょ

715 :日本@名無史さん:2023/09/20(水) 00:23:41.93 .net
>>0711
北条は足利を警戒していたから縁戚関係で懐柔と統制を図った。北条氏を母に持たない家時は疎まれて自害に追い込まれた。尊氏は祖父家時と同じく上杉氏を母に持つから祖父の無念を晴らして源氏を再興すべく決起した。

716 :日本@名無史さん:2023/09/20(水) 08:32:57.87 .net
北条が征夷大将軍にならなかった理由で「出自が低いから」というのはよく聞く話だが、じゃあなんで秀吉は関白になれたの?

717 :日本@名無史さん:2023/09/20(水) 10:47:29.28 .net
北条を母に持たない尊氏は北条にとっていやな存在だった。ましてや登子が男子を生んでから尊氏の立場は極めて不安定になった。父の喪中と本人の病中に出陣させたのも、お前なんか要らないんだぞというメッセージ。清和源氏嫡流のメンツにかけて決起せざるを得なかった。

718 :日本@名無史さん:2023/09/20(水) 21:40:44.31 .net
つまり長崎円喜に代表される得宗被官と足利尊氏に代表される御家人層の対立を無能な高時は調停できなかったということ。

719 :日本@名無史さん:2023/09/21(木) 11:06:24.49 .net
>>714
鎌倉時代の足利氏は北条得宗家の縁戚という地位もあるが、頼朝と近い「源氏御門葉」という地位もある
所領や一門の数も多く、一定の官位も帯びて御家人の中では家格も格段に高い
当時、反乱の求心力になるとしたら、足利尊氏をおいてほかにはない
頼朝や家康より希少性の高い存在だったと思う

720 :日本@名無史さん:2023/09/22(金) 06:18:17.20 .net
頼朝はともかく家康は天下を取るべくして撮ったんだよ。秀次が失脚したとき家康の天下は約束された。家康は着々と天下取りの布石を打っていった。秀吉が死ぬと熟柿が落ちるように天下は家康の手に落ちた。

721 :日本@名無史さん:2023/09/22(金) 10:00:23.94 .net
頼朝も尊氏も家康も清和源氏だ。偶然なわけないだろ。

722 :日本@名無史さん:2023/09/22(金) 23:19:05.29 .net
松平元康さんは仮冒だけどな

血縁で言えば阿野全成や義円の子孫の方が近いのに足利が河内源氏筆頭の扱いになったのは北条との縁戚じゃないの

723 :日本@名無史さん:2023/09/23(土) 10:59:06.21 .net
家康が源氏を仮冒したのはそうしなければ将軍になれなかったから。

724 :日本@名無史さん:2023/09/23(土) 18:09:02.41 .net
頼朝は朝廷に逆らわない平将門として東国の棟梁になったからスケールが小さい
今でいう維新の会代表みたいな感じ

725 :日本@名無史さん:2023/09/23(土) 20:32:30.02 .net
朝廷との関係でいうなら、スケールが一番大きいのは頼朝でも尊氏でも家康でもなく、足利義満だろ

頼朝と家康は子や孫を入内させて朝廷の権威にすがろうとしたが、義満はむしろ朝廷を圧倒しようとした

726 :日本@名無史さん:2023/09/23(土) 21:34:35.41 .net
日本国王と名乗った源義満

727 :日本@名無史さん:2023/09/24(日) 10:58:16.37 .net
実際に朝廷を圧倒したのは家康だよ。

728 :日本@名無史さん:2023/09/24(日) 12:54:56.17 .net
>>725
頼朝も家康も初代将軍
足利も初代の尊氏は娘を天皇に入内させるようとしていた
尊氏は鶴王という娘を崇光天皇に入内させようとしたが
鶴王が早世し実現しなかった
鶴王は死後に頼子と命名され
天皇の妃に殉じて従一位が贈られ大夫人の称号を受けた

729 :日本@名無史さん:2023/09/25(月) 06:19:13.84 .net
清和源氏の中でも河内源氏、河内源氏の中でも義家流が嫡流なんだ。幕府を開いたのはみんな義家流。

730 :日本@名無史さん:2023/09/25(月) 06:22:33.75 .net
建武政権も織田政権も豊臣政権も短命に終わったのは清和源氏将軍をトップに据えなかったから。

731 :日本@名無史さん:2023/09/25(月) 18:22:55.18 .net
松平・徳川が清和源氏新田流を称したのは家康の祖父・清康の時代で、征夷大将軍任官とは関係ない
家康の前期には三河守任官にも苦労するくらいの家格に過ぎなかった
家康の天下が近づいたのは晩年になってからで、もともとは三河の土豪に過ぎない

732 :日本@名無史さん:2023/09/25(月) 18:48:10.68 .net
いつなぜ清和源氏を称したかはどうでもいい。秀吉がなれなかった征夷大将軍になれたのは清和源氏を称してたから。関白と征夷大将軍のどっちが偉いかなどもどうでもいい。武士が心服するのは清和源氏兼征夷大将軍だけ。

733 :日本@名無史さん:2023/09/25(月) 23:30:16.54 .net
>>732 秀吉は征夷大将軍になれなかったのではなく、なれたけどならなかったのだと、>>706にも書いてあるだろ

734 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 06:46:56.04 .net
『多聞院日記』の記事は伝聞。

735 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 08:01:26.54 .net
新田は足利よりも家格が上なんだ。太平記にも「源家嫡流の名家」と書いてある。家康の深謀遠慮恐るべし。

736 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 08:06:05.44 .net
家康は今川にも信長にも秀吉にも面従腹背しながらチャンスを待ってたんだよ。

737 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 12:55:42.53 .net
征夷大将軍は摂家(藤原氏)や皇族が任官している例を見れば、清和源氏とは必ずしも関係がない
源頼朝自身、いくつかの「将軍」と名のつく武官職からたまたま征夷大将軍に任官したに過ぎない
征夷大将軍任官=鎌倉幕府開始ではないことも、すでに明らかになっている
近年の研究成果を踏まえた議論をしよう

738 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 15:26:56.09 .net
摂家将軍も宮将軍も源氏将軍を阻止するための一時しのぎに過ぎない。尊氏は、源氏の天下を奪い、祖父を自害に追い込んだ北条氏を倒して源氏将軍を再興する機会をずっと伺ってたんだ。高時は馬鹿だから尊氏の本心を見抜けなかった。

739 :日本@名無史さん:2023/09/26(火) 23:08:47.06 .net
松平のルーツは徳阿弥とかいう遊行僧という説もあるね
清和源氏とは無縁でしょ

740 :日本@名無史さん:2023/09/27(水) 05:36:43.18 .net
新田氏の徳阿弥が松平家に婿入りしたってことらしい。

741 :日本@名無史さん:2023/09/28(木) 11:45:48.70 .net
源氏将軍の源実朝自身が自分の後継者を後鳥羽院の皇子、すなわち親王将軍にしようとしていた
まさか実朝自身が源氏将軍を阻止しようとしていたということ?
そうではあるまい
清和源氏以外の高貴な人物を鎌倉殿(将軍)に迎える構想は、源氏将軍生存中にすでにあったということだよ
きちんと近年の研究成果を踏まえた意見をお願いしたい

742 :日本@名無史さん:2023/09/28(木) 15:15:23.55 .net
実朝生存中に後鳥羽院の皇子を将軍に迎える計画を推進したのは義時と政子。和歌と蹴鞠にうつつを抜かして関東武者から見放された実朝は逆らえなかった。

743 :日本@名無史さん:2023/09/29(金) 09:43:25.06 .net
実朝は現実逃避して和歌に耽り、宋に逃亡しようとした。まともな政治判断ができる人間ではなかった。

744 :日本@名無史さん:2023/09/29(金) 20:10:37.31 .net
頼朝担ぎ上げた坂東武者の多くは坂東八平氏だし
東国の独立さえ脅かさなければ将軍は誰でも良かった
というか鎌倉は子供のうちにだけ在位させて成人したら退位を繰り返してた

745 :日本@名無史さん:2023/09/30(土) 07:42:35.26 .net
天下取りは足利氏の宿願。北条氏に面従腹背しながら機会を伺っていた。高時は馬鹿だから尊氏の野望を見抜けなかった。見抜いてたら時家と同じように自害に追い込んだろうに。

746 :日本@名無史さん:2023/09/30(土) 22:57:43.91 .net
河内源氏義家流が清和源氏の嫡流なんだ。

747 :日本@名無史さん:2023/10/01(日) 01:17:08.71 .net
源頼朝との血の近さで言えば
 
 源希義-吉良希望-希仁-希綱-希満

 源範頼-範圓-吉見為頼-義春-義世-尊頼

の方が近いけど命脈を保てなかったのは

748 :日本@名無史さん:2023/10/02(月) 09:00:50.89 .net
血筋頼みじゃない家康がトップ

次点で尊氏。この人だから絶妙な(つーか意味不明な)なバランスで乱世を乗り切った
論外は頼朝。ずーっと運頼みの棚ボタ人生、その運も使い果たしたら怪死
      頼朝だったら清盛の方を推す

749 :日本@名無史さん:2023/10/03(火) 00:47:43.38 .net
家康も豊臣秀吉、前田利家が相次いで亡くなった棚ぼたでしょ

750 :日本@名無史さん:2023/10/03(火) 11:09:08.86 .net
「和歌と蹴鞠にうつつを抜かし」という実朝像は、近年の研究で否定されている
実朝は大江広元や北条義時の補佐を受けながらも、自分の意思と実力を備えた主君だったし、
関東武士からも広範に支持されていたこともわかっている
和歌や蹴鞠は公卿だけでなく、武士にとっても大切な素養であった
実朝自身が親王将軍を後継者にしようとしたこともわかっている
「鎌倉殿の13人」もこういう近年の研究を取り入れて描かれていたよ

751 :日本@名無史さん:2023/10/03(火) 19:07:18.13 .net
一度も朝敵にならなかった家康が一番偉い。

752 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 08:15:08.37 .net
実朝は「唐様で書く三代目」をそのまま実践したんだね。源氏将軍を絶やそうとする義時の策謀にみごとに嵌ってしまった。

753 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 09:14:29.96 .net
「北条義時や関東御家人が源氏将軍(実朝)を倒そうとした」という見方は、近年では否定されている
実朝が暗殺されたのは公暁による単独犯行であり、北条氏はその黒幕ではない
実朝が「無能な三代目」という見方も否定されている
吾妻鏡の読解が進んだため、旧来の見方が否定されていることに注意しよう

754 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 18:00:25.54 .net
公卿に実朝を殺させ、将軍殺害の罪で公卿を殺せば手を汚さずして源氏断絶と幕府乗っ取りが成し遂げられる。結果を見れば誰が仕組んだかは明らか。

755 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 18:02:29.13 .net
本能寺の変の秀吉と同じだな。

756 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 18:48:35.57 .net
「公暁に実朝を殺させ」という見方は、近年ではされなくなり、公暁による単独犯行の見方が有力になっている
源氏断絶・幕府乗っ取りという解釈は、ほぼ20世紀までの研究
この解釈に疑問が提起され、実朝の人間像や実朝期の幕政が根本的に見直された
従来の解釈を安易に「明らか」と考えてはならない

757 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 19:50:22.87 .net
公暁をそそのかしたのは三浦義村だが、義村も義時に踊らされてたんだ。

758 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 21:45:30.13 .net
織豊の天下が長く続かなかったことを考えると
徳川将軍家を続けるのに重要な役割果たしたのは何気に秀忠なんじゃ

759 :日本@名無史さん:2023/10/05(木) 22:15:50.01 .net
関東御家人は源氏将軍(実朝)を倒そうとはしてない
義時(と義村)が実朝及び源氏将軍候補を殺しただけ

760 :日本@名無史さん:2023/10/06(金) 09:38:31.74 .net
実行犯が頭巾を被ってたのがミソ
つまり中の人が公暁本人かどうかわからないw

761 :日本@名無史さん:2023/10/06(金) 17:33:29.96 .net
>>0755
秀忠は関ケ原に遅参するし嫁はんに頭が上がらないボンクラだよ。

762 :日本@名無史さん:2023/10/06(金) 19:16:19.17 .net
>>公暁をそそのかしたのは三浦義村
これは作家の永井路子氏が提唱し、石井進東大教授が認めたことで、かつては有力な学説になった
昭和54年の大河ドラマ「草燃える」でも、この永井説に沿って描かれた
だが、研究が進んだ今日では支持されなくなっている
「北条義時や三浦義村が実朝暗殺を企て、その黒幕となった」というのは、実朝の人間像を誤って理解してきたこと、
当時の幕政の実態を見誤ったことから導かれた誤りである

763 :日本@名無史さん:2023/10/06(金) 22:01:24.69 .net
実朝が自我を持ち始めたから、もう可愛いオバカ人形じゃないから、消されたのでは?
実朝が大御所となり源家が力を持ち始めたら、北条ふっ飛んじゃうもん

764 :日本@名無史さん:2023/10/07(土) 09:53:16.08 .net
義時は実朝暗殺を事前に知ってたから逃げたんだよ。秀吉の大返しと同じだな。

765 :日本@名無史さん:2023/10/07(土) 09:58:54.59 .net
実朝暗殺計画を知ってながら阻止しようとしなかった義時は黒に決まってる。

766 :日本@名無史さん:2023/10/07(土) 20:02:23.49 .net
実朝は文弱に流れて関東武士の信任を失ってしまった。本人もそれに気づいて宋に逃げようとした。

767 :日本@名無史さん:2023/10/08(日) 06:58:13.75 .net
吾妻鏡に踊らされすぎww

768 :日本@名無史さん:2023/10/08(日) 14:25:27.88 .net
実朝の無能と不人気が公暁や義村や義時の野望を燃え立たせてしまったんだね。

769 :日本@名無史さん:2023/10/09(月) 07:44:11.44 .net
実朝は御家人達から人気あった、むしろ義時よりもずっと。だからヤバかったんだろ。

770 :日本@名無史さん:2023/10/09(月) 08:37:08.28 .net
義時の幕府乗っ取りに目立った抵抗がなかったのは実朝が御家人から見放されてたから。実朝は公家に憧れて公家の真似ばかりしていた。御家人にあいそをつかされるのが当たり前。

771 :日本@名無史さん:2023/10/09(月) 10:01:49.87 .net
公暁一人の脳内にある計画を義時が察知できるはずがない。公暁と義村の接触の情報を掴んでたからこそ逃げて助かったんだ。

772 :日本@名無史さん:2023/10/10(火) 08:01:28.15 .net
実朝に子供がないから公暁は最有力の将軍候補者。公暁が将軍になったら頼家を殺した義時は生きられない。しかも公暁のバックには三浦義村がいる。義時が大博打に打って出ざるを得なかったのは必然。

773 :日本@名無史さん:2023/10/11(水) 18:30:56.23 .net
出家した公暁は高僧としてのコースを歩んでおり、鎌倉殿の後継候補になどなっていない
実朝の後継者として親王を鎌倉下向させる交渉も北条政子が行っている
鎌倉殿の実朝、実朝を支える大江広元、北条氏の間で、親王将軍を迎える構想は共有されていたと考えられる
執権・義時が「大博打」を打つ事情など何もない

774 :日本@名無史さん:2023/10/11(水) 20:06:59.76 .net
実朝を殺さなければならない動機など公暁にはもっと無い

775 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 09:00:28.43 .net
公暁は二代将軍の嫡男だ。これよりふさわしい将軍候補はない。しかし、公暁が将軍になったら頼家を殺した義時の命はない。だから後鳥羽上皇の皇子を迎えて公暁の芽を摘もうとした。実朝の関心は和歌と蹴鞠と宋渡航にあって、政務は義時、広元らが仕切っていた。公暁を将軍にという声が表立って出なかったのはみんなが義時を恐れていたから。公暁を将軍にするには義時を除かなければならない。だから義時も暗殺の対象になった。

776 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 09:05:29.42 .net
広元は諫言を無視して官位栄達に盲進する実朝を見限って義時の幕府乗っ取りに協力した。

777 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 11:55:02.33 .net
広元も相当臭い。頼家は大江宅でいきなり倒れて意識不明。
比企に対するクーデターも広元が一枚噛んでる可能性大。
頼家の忘れ形見達は北条一派にとって危険分子でしかないだろうね。

778 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 13:20:47.72 .net
公暁を将軍にしないのが御家人の総意なら実朝と義時を殺しても将軍になれないことは公暁もわかってる。バックがいたから行動を起こしたのだ。そしてそのバックは乳母夫の三浦義村以外にありえない。

779 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 15:56:52.05 .net
親王を将軍に迎えても実朝が大御所として後見したら義時の思い通りにはならない。親王将軍を傀儡にして幕政を恣にするためには実朝は除かれなければならなかった。

780 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 16:55:36.39 .net
実朝を殺すにしても公暁自ら手を下す必要性は全く無い
義村に洗脳された説も違うだろう
暗殺者を放ち公暁の名を騙らせたが正解じゃね
義村がんな危険な野心を持ってたら義時にとうに粛清されてるよ

つまり義時と義村はズブズブ
和田合戦然り二人はずっと共犯者ってことだ

781 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 17:19:00.65 .net
>>779
あなたの学説では、公暁の乳母夫の三浦義村、実権を握りたい北条義時、義時に協力する大江広元が
共謀して公暁の実朝を暗殺させ、その公暁も最後に殺すことによって、
親王将軍だけ残して、親王将軍を傀儡にする体制を作ろうとした、ということですか?

782 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 19:37:14.32 .net
>>779に同意
公暁の単独犯行という学説は無理クリすぎる

783 :日本@名無史さん:2023/10/12(木) 21:45:22.03 .net
義村と公暁は義時に踊らされたんだね。

784 :日本@名無史さん:2023/10/13(金) 12:00:55.08 .net
仮に「親王将軍を傀儡にして幕政を恣にするため実朝を除いた」のだとしよう
だが、実朝暗殺の段階ではまだ親王将軍の鎌倉下向は実現していない
肝心の親王将軍がまだいないのに、なぜ実朝を殺してしまったの?

785 :日本@名無史さん:2023/10/13(金) 14:09:39.88 .net
実朝暗殺を企てたのは三浦義村だよ。義時はいずれ実朝は片付けなければならないからじゃあこの機会にと思ったんだね。親王下向の前だけど、手を汚さずに実朝を片付けるチャンスなどまた来るもんではないから決断したんだよ。実朝暗殺後も義朝は親王下向の交渉を続けてるよ。これでおじゃんになるとは思わなかったんだ。

786 :日本@名無史さん:2023/10/13(金) 17:42:36.55 .net
政子が兼子と話を付けて親王の下向はもう決まっていた。義時的に下向してからでは遅かったんでしょ。
子は出来ないわ生意気になるわで実朝へのフラストレーション溜ってただろうし。
八幡宮参賀は絶対に逃してはならない千載一遇のチャンスだった。
義時は何が何でも親王を手に入れる気だったしそこに遠慮なんて欠片も無いしだから兵を率いて後鳥羽を恫喝した。

787 :日本@名無史さん:2023/10/13(金) 19:20:16.60 .net
後鳥羽院が皇子の鎌倉下向を許すことにしたのは、院と実朝の信頼関係があったからでは?
皇子の義父(後見人)にふさわしいように、官位も急速に昇進させて最後は右大臣にまでした
その実朝が右大臣拝賀式で暗殺されれば、普通は信頼関係が壊れると分かるものでは?
「これでおじゃんになるとは思わなかった」とすれば、義時は間抜け過ぎるけど、それくらい愚かな人だったということ?

788 :日本@名無史さん:2023/10/13(金) 22:40:58.49 .net
義時は実朝暗殺の後も皇子の下向を求めている。 それは別としても義時が実朝暗殺を事前に知っていたことは太刀持ちを源仲章に押し付けて逃げたことでも明らか。事前に知っていて阻止しようとしなかったのは実朝を片付けるいい機会だと思ったから。

789 :日本@名無史さん:2023/10/14(土) 10:12:22.41 .net
「義時が実朝暗殺を事前に知っていた」というのは吾妻鏡の記述からの推定であり、明らかな事実ではない
愚管抄には義時は実朝の命令で八幡宮の中門に留まり儀式に参加しなかったとあり、これによりたまたま難を逃れたことになる
また、当時の義時は主君の実朝から「お前はここで留まっておれ」と命じられて儀式への参加を止められる程度の存在に過ぎなかったということだ
「太刀持ちを源仲章に押し付けて逃げた」というのが愚管抄の記述と違っており、事実と断定できない
義時は実朝暗殺後も後鳥羽院に対して皇子の下向を求めているが、拒絶されている
まさに実朝暗殺で院との信頼関係が壊れた結果では?

790 :日本@名無史さん:2023/10/14(土) 21:20:00.94 .net
その程度の身分でしかない義時は実朝により待機させられた。
楼門をくぐれるのは公家だけ、ということを義時及び全御家人は知っていた。
神前で武装はNG、義時のアリバイ完璧、これ以上のチャンスはなかった。
実朝が殺された責任を本気で感じてるなら、義時は時間をかけ信頼回復を図るべきだった。
なのに都に押しかけ強訴、散々挑発しといて朝敵指名されたらたちまちガクブル。
やっぱ愚かだし、後先考えられないくらい焦ってた証拠だよね。

791 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 10:35:39.02 .net
暗殺事件当時、「その程度の身分でしかない」義時は実朝を失えば、関東御家人たちを統治する自信はなかったのでは?
それは大江広元など幹部も同様で、三浦義村のようなさらに身分の低い(義時や広元より下の「侍」身分)者ならなおさらだ
だから、義時にも広元にも、そして義村にも、朝廷と渡り合えて御家人たちの求心力となる実朝を殺害するメリットはなかった
まだ親王将軍を迎えてもいないタイミングで実朝を失うなど、あってはならないことだ
それ故に、義時・広元・義村が公暁の黒幕であったという考え方は否定されるようになっている

792 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 13:14:52.45 .net
その程度の身分でも親王を囲い込めれば話は別。下向が約束された時点で源氏は粗大ゴミ。
実朝が大御所となったら親王をバックアップするのは義時ではなく源家。
公暁が実朝の猶子になったのも内心気に食わなかっただろうし
頼家の遺伝子(よし子除く)は殲滅したいが本音。何より実朝が扱いづらくなってきた。
粗大ゴミ処分後、よし子には鼠のように子を産んで欲しかったのにそれも叶わず。
北条は自分達の血に自信が持てない、全てはそこに繋がるんだよ。
実朝亡き後は必死で足利の血を取り込んだしね。

793 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 17:15:25.75 .net
>>下向が約束された時点で源氏は粗大ゴミ
実朝暗殺後、100人を超える御家人が悲しみの余り出家しており、御家人社会にとって実朝は「粗大ゴミ」ではない
出家者の数は頼朝が死んだときを上回っており、御家人社会において実朝の存在が大きかったことを示している
親王将軍下向は実朝と後鳥羽院の信頼関係のもとに交渉が進められている
交渉には北条政子・時房が関わっており、義時も実朝の重要性を理解していたはずだ
「粗大ゴミ」史観は当時の御家人社会や朝幕の交渉の現実を見落としている

794 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 17:37:40.81 .net
>>その程度の身分でも親王を囲い込めれば話は別
親王将軍は果たして北条氏の傀儡になるのだろうか?
将軍候補となった頼仁親王はすでに成人しており、自分の意思で政務を行える
親王の背後には後鳥羽院という実朝以上に権威のある存在があり、その介入も予想される
実朝から「お前はここで留まっておれ」と命じられる程度の軽輩の義時が、親王や院に対して何ができるのか?

795 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 17:52:03.61 .net
将軍を傀儡化し、ライバルになる有力御家人を滅ぼして幕府の最高権力者になるのは時政の代からの既定路線。実朝暗殺のような大事件に義時が無関係なわけがない。上皇と実朝の信頼関係なるものは実朝がひたすら上皇にひたすら忠誠を誓ったから形成されたもので義時義村らには関東の独立を失いかねない危険事態。思い切った処置が必要だった。

796 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 18:01:28.58 .net
実朝という玉を失っても義時は親王の下向を要求してるやん
こんな物騒なとこに大切な皇子をやれるか!と当然のこと言われても
返す言葉もありません…じゃなくて大軍率いて都に乗り込んだじゃんw
種無し実朝はもう玉でも何でもなかったってオチ

797 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 19:26:55.19 .net
実朝って、体育系マッチョ集団のトップがなよっちい文学青年だったってことで、こりゃ必ず破綻するよね。

798 :日本@名無史さん:2023/10/15(日) 23:13:46.49 .net
利用価値が無くなれば将軍もダストシュート、ゲバゲバ年中無休、そして誰もいなくなった
男の嫉妬は女よりドロドロを体現してるのが坂東武士だと思う
頼朝が長生きしたってどぉぉにもならなかったでしょ、これ

799 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 06:52:32.45 .net
義時の目的は関東の最高権力者になることだが、実朝は幕府を朝廷の出先機関に変えようとした。実朝暗殺に義時が無関係なわけがない。

800 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 06:58:26.84 .net
鎌倉幕府は武士階級が古代国家に反乱を起こして樹立した革命政権。実朝は反革命を企てたから殺された。黒幕は誰かということよりも歴史の大きな流れで捉えればそういうこと。実朝暗殺も承久の乱も幕府が武士の政権として純化される過程で避けられなかった事件。

801 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 09:14:56.56 .net
>>鎌倉幕府は武士階級が古代国家に反乱を起こして樹立した革命政権
こういう階級闘争史観(マルクス史観)は今の歴史学では否定されているよ
予断やイデオロギーで歴史を見るのは禁物で実証的に見る態度が大切

802 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 12:22:56.48 .net
仮に「将軍を傀儡化し・・・幕府の最高権力者になるのは時政の代からの既定路線」だったとしよう
だが、現実に時政も義時も諸大夫クラスの身分に過ぎず、実朝から軽くあしらわれる程度の存在だったということだ
ならば、親王将軍という実朝を超える高い権威を迎え、その背後に後鳥羽院という最高権威がいれば、
義時はますます軽輩扱いされるのは目に見えている
親王将軍が伴った側近の公卿たちが将軍家政所の別当となり、親王将軍を補佐することになろう
執権別当である義時は、そのような公卿たちの意見も取りまとめ、親王将軍を補佐する役割にとどまるだろう
「親王将軍さえ迎えてしまえば、義時は全権を掌握できる」という発想には、根本的な誤謬がある

803 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 13:48:01.83 .net
野望のために手段を選ばない義時。邪魔になる公卿がいれば殺してでも排除していっただろう。頼家や実朝を殺したように。

804 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 14:40:23.71 .net
もしも義時が京下りの公卿に屈したら命がけで自分たちの政権を作った関東武士たちはおとなしくしていない。二人の将軍を殺した義時にかれらが付いていったのは朝廷や荘園領主から武士の利益を守ってくれると期待したからだ。京に屈した義時は実朝のように投げ捨てられるだろう。

805 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 16:28:54.11 .net
実朝が暗殺されたとき、100人を超える御家人が悲しみの余り出家している
幕府の幹部であった大江広元、大江親広、大江(長井)時広もそうだ
実朝は後鳥羽院と親密な関係にあり、多くの公卿たちと交流していた
実朝の将軍家政所には都の公卿も参加している
そのような実朝を関東武士たちは支持していたというのが現実だ
関東武士たち自身も官位を望み、しばしば実朝に推挙を懇願している
関東武士の所領を守ることと、鎌倉殿が公卿と交わり、自らも公卿の地位に昇ることは両立する
実朝が「投げ捨てられた」とか鎌倉幕府は「革命政権」だとか言うのは、事実と異なる

806 :日本@名無史さん:2023/10/16(月) 20:30:22.08 .net
将門なら革命政権でもわかるけど、鎌倉幕府は朝廷にそこまで喧嘩打ってないだろ
初期は今の維新の会レベルのローカル政権 
承久の乱、蒙古襲来などを通じてじわじわと勢力範囲を拡大してる

807 :日本@名無史さん:2023/10/17(火) 08:30:49.50 .net
頼朝は労働運動に入り込んだプチブル・インテリ指導者で、最後までプチブル的動揺を克服できなかった。実朝は資本家に懐柔された労働貴族で、現場叩き上げの労働者活動家によって放逐された。つまり頼朝−実朝の労使協調路線が義時らの階級闘争路線に取って代わられた結果が承久の乱という一大階級決戦の勝利。

808 :日本@名無史さん:2023/10/17(火) 12:18:21.18 .net
頼朝より親能広元兄弟が傑物かもしれない。
後鳥羽は鬱陶しい義時を挿げ替えたかっただけで鎌倉を潰す気はなかったと思う。
それを朝廷叩くなら今でしょ!とやったのが鎌倉武士ではなく宮廷の下級文官だったんだから。

809 :日本@名無史さん:2023/10/17(火) 19:32:37.39 .net
「当代は、蹴鞠を以って業と為し、武芸は廃るるに似たり、女性を以って宗と為し、勇士はこれなきごとし。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜ふ」
これが御家人の実朝評。ここまで言われたら武家の棟梁としてはお終いだな。殺害という手段はあらっぽすぎるけど、主君押込の一変型と思えば納得がいく。

810 :日本@名無史さん:2023/10/18(水) 17:31:55.80 .net
資本主義の行き詰まりが誰の目にも明らかになって社会主義的変革が不可避とされる現代において、上皇・貴族・寺社等の古代的勢力と戦いながら封建制を発展させていった中世武士の軌跡は教訓にもなるし励みにもなる。

811 :日本@名無史さん:2023/10/20(金) 11:40:00.50 .net
鎌倉殿見ていて励まされたことなど一度もない
こんな糞な時代に逆戻りしたくないとは思ったw

812 :日本@名無史さん:2023/10/20(金) 16:43:24.46 .net
>>0808
だったら早く資本家階を倒して労働者の世を作ろうね。

813 :日本@名無史さん:2023/10/20(金) 17:08:27.35 .net
頼朝、尊氏、家康。腹黒さでは家康が一番。

814 :日本@名無史さん:2023/10/20(金) 19:48:59.25 .net
サイコパス頼朝、メンヘラ尊氏、腹黒い家康

815 :日本@名無史さん:2023/10/21(土) 11:51:47.16 .net
頼朝も尊氏もかなり場当たり的にやったみたいだ、周到に計画して着々と実現して行ったのは家康。

816 :日本@名無史さん:2023/10/21(土) 12:00:48.24 .net
家康だって、場当たり棚ぼたみたいな展開ばっかりだろ

817 :日本@名無史さん:2023/10/21(土) 18:13:41.84 .net
家康は今川義元にも信長にも秀吉にも面従腹背で雄飛の時期を伺ってたんだ。秀吉政権の下で着々と力を蓄えて遂に野望を叶えた。恐るべき忍耐と計画性の人物。

818 :日本@名無史さん:2023/10/21(土) 18:15:46.30 .net
関ヶ原も大坂の陣も家康が書いた筋書き通りに進んだ。家康恐るべし。

819 :日本@名無史さん:2023/10/21(土) 18:21:16.52 .net
会津征伐はわざと畿内を空白にして反家康勢力の決起を誘う罠。

820 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 06:42:29.42 .net
尊氏も天下取りの野心は前から持っていたが、元弘の乱が起きなければチャンスはなかった。家康は必ず来る秀吉の死後に備えて着々と手を打っていった。家康の計画性と根気強さは凄い。

821 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 07:10:19.38 .net
家康だって、本能寺がなかったら織田政権下の一大名止まりだし、豊臣政権の内紛がなかったら天下が取れるチャンスなんてないっての

家康信者は妄想しすぎじゃ

822 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 08:16:16.53 .net
徳阿弥とかいう賤しい遊行僧の子孫

823 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 12:19:32.84 .net
上野国新田郡に得川氏って本当にいたの?

824 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 12:53:32.03 .net
本能寺の変も豊臣政権の内紛も家康が絡んでるんだよ。

825 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 12:55:26.75 .net
秀次を殺した時点で家康の天下は約束された。

826 :日本@名無史さん:2023/10/22(日) 15:42:58.97 .net
源義重(新田氏祖)
 義俊(里見氏祖)
 義範(山名氏祖)
 義兼
 義季(得川氏祖)
  頼有
   頼泰
    頼尚
     尚氏
  頼氏(世良田氏祖)
 経義(額戸氏祖)

頼有の子孫、頼尚、尚氏以降は信憑性に欠けるらしいね

827 :日本@名無史さん:2023/10/23(月) 07:48:26.47 .net
秀吉は家康より先に死ぬ。その時秀頼はまだ幼い。奸智に長けた家康が適切に布石を打っていけば天下は家康の手に転がり込む。もっとも天下取りの決意を固めたのはもっと前。秀吉が将軍になりそこなったのを知って、じゃあ清和源氏の俺ならなれると思ったんだね。

828 :日本@名無史さん:2023/10/23(月) 13:23:57.75 .net
家康の野心と計画性と狡賢さと忍耐強さは超人的。過小評価しては戦国末期江戸初期の歴史の流れは読めない。

829 :日本@名無史さん:2023/10/25(水) 04:14:51.86 .net
本能寺の変の裏にも家康の影がちらほら。

830 :日本@名無史さん:2023/10/25(水) 07:06:44.84 .net
>>0803
将門の時代には封建制が形成されていないので将門の乱は封建領主階級の革命的蜂起ではありえない。鎌倉幕府は封建制の一定程度の形成を背景にして新興封建領主階級を組織した政権。

831 :日本@名無史さん:2023/10/25(水) 20:32:31.13 .net
鎌倉創生期は、土地の支配をめぐるせめぎ合いで
土地システム自体は変わってないんだよね

832 :日本@名無史さん:2023/10/25(水) 20:32:41.60 .net
鎌倉創生期は、土地の支配をめぐるせめぎ合いで
土地システム自体は変わってないんだよね

833 :日本@名無史さん:2023/10/27(金) 00:17:17.29 .net
残念度では家康が最悪
尾張人信長と違い、内弁慶三河人家康は鎖国
江戸に引っ込んでしまった(当時外国から見れば僻地)
信長の意志を継ぎ大坂中心に世界と交易を続けていれば
北海道(酪農)も東北(果物)ももっと早く開発出来て
機関銃も蒸気船も日本発だったかも?
(猿の秀吉は正に信長の猿真似で失敗した)

頼朝にしても鎌倉って。あんな小さい場所で何がしたかった?
一所懸命って小さい考え方と違うのか
小田原や平塚、駿府 武蔵 近くに広い場所はあったろうに。

尊氏は室町通の突き当たりに屋敷立ててお寺作っただけ
田舎モンが上洛してかしこまっただけに思える。
応仁の乱の原因はコイツのせい。おかげで国中ボロボロ。
古代を含めて(清盛除く)
遣唐使以前の為政者はダイナミックだったと思わないか
結果
(密輸で儲けた)旧毛利藩の恨みのエネルギーが徳川幕府を倒す
そんな成れの果てが今の岸田政権だと思うと納得はいく。
権力を取るだけが目的の奴は要らん。
三人とも陰キャラ、特に大声で『アホンダラ家康』と言っておく。

834 :日本@名無史さん:2023/10/27(金) 11:28:42.19 .net
>>0830
家康は鎖国をやってないし、室町の屋敷は二代将軍義詮から。

835 :日本@名無史さん:2023/10/27(金) 16:12:42.87 .net
>>頼朝にしても鎌倉って。あんな小さい場所で何がしたかった?
防衛を考慮して周囲を山と海に囲まれた鎌倉を拠点としたのだろう

836 :日本@名無史さん:2023/10/27(金) 21:06:06.39 .net
>>833
江戸は頼朝の時代から御家人がいた武士の拠点だろ
大坂のほうがお寺をどかして武家の拠点に変えてるんだよ

837 :日本@名無史さん:2023/10/27(金) 21:11:06.75 .net
頼朝の時代は山に囲まれた鎌倉にいるのが適地
でも足利の関東公方が利根川筋の古河に逃げた途端に衰退
小田原北条は再興させようとするが拠点城は鎌倉に置かず玉縄城
家康が拠点にすることなどありえない状況だっただろう

838 :日本@名無史さん:2023/10/28(土) 08:07:43.45 .net
江戸は家康入部のときは寂れた漁村。湿地が多く地下水は塩水を含み、大きな人口を養える土地ではなかった。秀吉は家康の力を削ぐために小田原ではなくて江戸を拠点にさせた。

839 :日本@名無史さん:2023/10/28(土) 13:25:40.14 .net
家康は自分がやられたことを天下を取ってからやったんだね。参勤交代やお手伝い普請は大名の力を削ぐ策略。

840 :日本@名無史さん:2023/10/28(土) 20:06:42.35 .net
>>24
頼朝は三嶋大社に祈願詣りだろ

841 :日本@名無史さん:2023/10/28(土) 20:06:42.57 .net
>>24
頼朝は三嶋大社に祈願詣りだろ

842 :日本@名無史さん:2023/10/28(土) 20:06:45.06 .net
>>24
頼朝は三嶋大社に祈願詣りだろ

843 :日本@名無史さん:2023/10/29(日) 07:44:09.23 .net
太政大臣になった家康が一番偉い。

844 :日本@名無史さん:2023/10/30(月) 10:17:50.91 .net
信長・秀吉の重商絶対主義を農本封建制に引き戻した家康はクソの中のクソの中のくそ。こいつこそ大航海時代の世界から日本を切り離して植民地獲得にも産業革命にも出遅れさせたA級戦犯。

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