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邪馬台国畿内説 Part645
- 1 :1 :2020/10/02(金) 18:39:16.66 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。
- 2 :1 :2020/10/02(金) 18:40:28.11 .net
- ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
- 3 :1 :2020/10/02(金) 18:41:22.07 .net
- ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
- 4 :1 :2020/10/02(金) 18:42:23.46 .net
- ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
- 5 :1 :2020/10/02(金) 18:43:20.96 .net
- ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
- 6 :1 :2020/10/02(金) 18:44:18.69 .net
- ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
- 7 :1 :2020/10/02(金) 18:45:08.01 .net
- ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
- 8 :1 :2020/10/02(金) 18:46:52.15 .net
- (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
- 9 :1 :2020/10/02(金) 18:48:08.27 .net
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 10 :1 :2020/10/02(金) 18:49:13.16 .net
- ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
- 11 :1 :2020/10/02(金) 18:50:06.20 .net
- ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山
- 12 :1 :2020/10/02(金) 18:50:58.56 .net
- ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
- 13 :1 :2020/10/02(金) 18:51:48.26 .net
- ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
- 14 :1 :2020/10/02(金) 18:52:46.57 .net
- (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
- 15 :1 :2020/10/02(金) 18:53:40.71 .net
- ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
- 16 :1 :2020/10/02(金) 18:54:48.98 .net
- ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
- 17 :1 :2020/10/02(金) 18:55:38.82 .net
- ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
- 18 :1 :2020/10/02(金) 18:56:30.28 .net
- ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
- 19 :1 :2020/10/02(金) 18:57:24.99 .net
- ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
- 20 :1 :2020/10/02(金) 18:58:27.81 .net
- ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
- 21 :1 :2020/10/02(金) 18:59:37.87 .net
- ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
- 22 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:01:21.27 .net
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- 23 :1 :2020/10/02(金) 19:01:43.09 .net
- ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
- 24 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:01:56.86 .net
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- 25 :1 :2020/10/02(金) 19:02:35.95 .net
- ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
- 26 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:02:45.50 .net
- 146 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2020/07/06(月) 12:57:59.26
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。
ことで畿内説は成立しています。
- 27 ::2020/10/02(金) 19:03:39.97 .net
- ∧ ∧ {^^}
_(=゚ω゚)⌒ i | ギャハハハハハ
(⌒ ー 一 r、!
ヽ弋 。 X 。イ(`ー′ つぶせ! つぶせ!!
〔勿\ ヽ
) r⌒丶)〜
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( く !|||| ガッガッガッ
\ i |||‖|‖
__> ヾ从/∧_∧从
⊂⌒ヽ从/( ;`Д´) >>1
';:;:,;.:,;:
- 28 ::2020/10/02(金) 19:04:21.05 .net
- 畿内説オワタ\(^o^)/
- 29 :1 :2020/10/02(金) 19:04:34.96 .net
- ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
- 30 ::2020/10/02(金) 19:04:43.10 .net
- 第二波キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
畿内説崩壊キタ━━━━━━━━━━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━━━━━━━━━!!
- 31 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:06:33.41 .net
- キチスレ
- 32 ::2020/10/02(金) 19:06:48.50 .net
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- 33 ::2020/10/02(金) 19:07:10.45 .net
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- 34 :1 :2020/10/02(金) 19:07:41.54 .net
- (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
- 35 :1 :2020/10/02(金) 19:08:33.88 .net
- ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
- 36 ::2020/10/02(金) 19:08:58.91 .net
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- 37 :1 :2020/10/02(金) 19:09:29.67 .net
- ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
- 38 ::2020/10/02(金) 19:09:38.58 .net
- >>1
( ^ω^)
/ \ ( ) 死ねって
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||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
|||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧.
_/ ヽ は?死ねよ \| ( ´_ゝ`) 頭おかしいのか?
. | ヽ \ / ヽ.
. | |ヽ、二⌒) / .| | |
. .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ ./
ヽ、___ ( ) … ~\_____ノ| ∧_∧
. _/ ヽ \| (´Д` )きめぇ
. | ヽ \ / ヽ、
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. .| ヽ \\ (⌒\|__./ ./
. ヽ、____ \\ ~\_____ノ|
\..∧_∧ ギャハハ泣かすなよオメーら
. ( ) \ ∧_∧
. _/ ヽ \. ( ´_ゝ`) 何言ってんだコイツ?
. | ヽ \ / ヽ.
. | |ヽ、二⌒) / .| | |
. .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ ./
ヽ、___ ( ) プッ ~\_____ノ| ∧_∧
. _/ ヽ \| (´Д` )遠くて聞こえねえよ
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- 39 :1 :2020/10/02(金) 19:10:17.58 .net
- ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
- 40 :1 :2020/10/02(金) 19:11:08.04 .net
- ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
- 41 :1 :2020/10/02(金) 19:11:52.14 .net
- ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
- 42 ::2020/10/02(金) 19:11:54.62 .net
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- 43 :1 :2020/10/02(金) 19:12:29.26 .net
- ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
- 44 ::2020/10/02(金) 19:12:45.21 .net
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- 45 :1 :2020/10/02(金) 19:13:08.09 .net
- ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
- 46 :1 :2020/10/02(金) 19:13:51.17 .net
- ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
- 47 :1 :2020/10/02(金) 19:14:33.41 .net
- ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
- 48 ::2020/10/02(金) 19:15:00.15 .net
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- 49 :1 :2020/10/02(金) 19:15:29.70 .net
- ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
- 50 ::2020/10/02(金) 19:15:46.19 .net
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- 51 :1 :2020/10/02(金) 19:16:13.21 .net
- ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
- 52 ::2020/10/02(金) 19:16:47.98 .net
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- ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
- 54 :1 :2020/10/02(金) 19:17:49.24 .net
- ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
- 55 ::2020/10/02(金) 19:18:09.59 .net
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- 56 :1 :2020/10/02(金) 19:18:31.77 .net
- ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
- 57 ::2020/10/02(金) 19:18:52.83 .net
- キチスレ
- 58 :1 :2020/10/02(金) 19:19:08.59 .net
- ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
- 59 ::2020/10/02(金) 19:19:38.05 .net
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- 60 :1 :2020/10/02(金) 19:19:53.72 .net
- ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
- 61 ::2020/10/02(金) 19:20:05.56 .net
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- 62 :1 :2020/10/02(金) 19:20:30.88 .net
- ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
- 63 ::2020/10/02(金) 19:21:06.38 .net
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- 64 :1 :2020/10/02(金) 19:21:24.20 .net
- ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
- 65 ::2020/10/02(金) 19:21:48.32 .net
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- 66 :1 :2020/10/02(金) 19:22:44.92 .net
- ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
- 67 :1 :2020/10/02(金) 19:23:25.52 .net
- ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
- 68 ::2020/10/02(金) 19:23:58.26 .net
- キチスレ連呼荒らしキナイコシ
- 69 :1 :2020/10/02(金) 19:24:05.12 .net
- ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
- 70 ::2020/10/02(金) 19:24:21.74 .net
- キチスレ
- 71 :1 :2020/10/02(金) 19:24:44.05 .net
- ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
- 72 :1 :2020/10/02(金) 19:25:21.37 .net
- ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
- 73 :1 :2020/10/02(金) 19:26:04.60 .net
- ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
- 74 :1 :2020/10/02(金) 19:26:50.79 .net
- ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
- 75 :1 :2020/10/02(金) 19:27:29.44 .net
- ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
- 76 :1 :2020/10/02(金) 19:28:05.93 .net
- ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
- 77 :1 :2020/10/02(金) 19:28:44.58 .net
- (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
- 78 :1 :2020/10/02(金) 19:29:23.91 .net
- ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
- 79 :1 :2020/10/02(金) 19:30:04.62 .net
- ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
- 80 :1 :2020/10/02(金) 19:30:43.62 .net
- ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
- 81 :1 :2020/10/02(金) 19:31:20.86 .net
- ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
- 82 :1 :2020/10/02(金) 19:32:08.80 .net
- ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
- 83 :1 :2020/10/02(金) 19:32:46.33 .net
- ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
- 84 :1 :2020/10/02(金) 19:33:22.77 .net
- ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
- 85 :1 :2020/10/02(金) 19:34:04.60 .net
- ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
- 86 :1 :2020/10/02(金) 19:34:43.65 .net
- ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
- 87 :1 :2020/10/02(金) 19:35:30.46 .net
- ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
- 88 :1 :2020/10/02(金) 19:36:10.18 .net
- ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
- 89 :1 :2020/10/02(金) 19:36:58.65 .net
- ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
- 90 :1 :2020/10/02(金) 19:37:46.76 .net
- ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
- 91 :1 :2020/10/02(金) 19:38:31.02 .net
- ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
- 92 :1 :2020/10/02(金) 19:39:37.47 .net
- ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
- 93 :1 :2020/10/02(金) 19:40:14.64 .net
- ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
- 94 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:41:54.68 .net
- キチスレ
- 95 :1 :2020/10/02(金) 19:42:13.93 .net
- ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 96 :1 :2020/10/02(金) 19:42:47.73 .net
- 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
- 97 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:46:04.02 .net
- 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601250629/1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
- 98 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 19:47:21.38 .net
- テンプレがスレの1割とか馬鹿すぎだろ
- 99 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 20:02:43.07 .net
- 受理されなかった学位論文の原稿を
せめてここに書き込んで、見せびらかしては憂さ晴らしをしてるんだろう、悲しいね。
- 100 :1 ◇n7jxAxKCBhb6:2020/10/02(金) 20:05:28.44 .net
- 前スレが終了してから書き込んでください
邪馬台国畿内説 Part644
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601250629/1
- 101 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 21:10:26.06 .net
- .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
- 102 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 21:10:46.58 .net
- .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
- 103 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:16:11.53 .net
- 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波
- 104 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:30:42.25 .net
- >>103
貧相な証拠だなw
- 105 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:34:59.82 .net
- >>947
>どこにもすぐ下(南)と書いてない
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
(その南に、殆ど距離0里で)「邪馬壹國女王之所都」の国がある、
と書かれている事になるから、
「すぐ南にある」と書かれている事になる。
- 106 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:48:00.27 .net
- >>961
>北部九州の不彌國が会稽の東の九州南端あたりにあるという地理観は完全に間違っているので
行程を実際の地理には当てはめられない
九州北岸の不彌國や邪馬壹國や女王之所都で萬二千余里がほぼ終わっていて、
それから「水行二十日」の九州南岸に女王國の一国の投馬國があるんだから、
女王國は「ほぼ九州島付近」である事になって、めでたしめでたし。
- 107 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:56:04.50 .net
- >>105
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
それが古田珍説独特の「自己解釈」wだから
誰も信用しない
- 108 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:58:20.77 .net
- 元々、魏書には、奈良にあるヤマトと、ヤマトの三輪山に居る姫巫女ら卑弥呼の描写がある。
そして、景初三年の卑弥呼は同一人物ではなく、別の卑弥呼。
前者は三輪山の太陽の女神を封じる出雲族。
後者は月の女神を封じるウサ族
別の時期の人間を一人のように解釈できるように書いたことが原因で二つの国が一つであるかのようになってしまった。
邪馬台国はヤマトの大陸の別称であり、紀元後から続くヤマト国。
畿内説のアホは、そもそもが、ヤマトの存在を証明するのに銅鏡、距離の話も不要なのに無関係のモノを証拠と称し醜い嘘を垂れ流す
北九州派は、距離の優勢を生かせず、偽装邪馬台国の本質が物部氏である答えに到達できずに居る事により、畿内説にとどめを刺すことが出来ない
大陸の史書に先人が何度も登場しているのにそれを否定しながらの機内説との戦いは滑稽ですらある。
記紀の比喩や例え話に踊らされ、対比できる人物が大陸の史書に書かれていたとしても記紀の時間軸を中心に考え、惑わされる。
- 109 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 22:59:02.07 .net
- >>973
>会稽の東に「揚子江河口域の上海付近」だなんて存在しない
本当は北なんだから「北→東」の地理歪曲 だ
杭州付近から、揚子江河口の最先端付近は、「東北東〜東北」の方向だ。
大和説者や大和説学やや東大理系博士号男は嘘つきで、
いつも人を騙そうとするんだな
- 110 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:04:54.89 .net
- >>104
>貧相な証拠だなw
そんなね、餓鬼みたいな減らず口を叩いて覆るような、チンケな証拠じゃないんだよ。
莫迦は身の程を弁えな。 わははははは @阿波
- 111 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:05:20.78 .net
- >>974
>投馬國は邪馬壹(臺)國よりも前に書いてあるから北側に位置する
いや、邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南の「移動距離がほぼ0里」の位置にあり、
投馬國も、不彌國の南に「水行二十日」の位置にある、と書いてあるから、
この大和説男(東大理系博士号自称男)は、・・・・アホの詐欺師だ。
- 112 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:10:45.34 .net
- >>976
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しいの大和説者らや、
東大理系博士号男らの歴史歪曲は、ちゃんと学校に行った人間なら簡単に気付く程度の嘘だから
大和説が学問に戻れる日はもう来ない
- 113 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:13:54.78 .net
- >>977
「会稽東治→会稽東冶」の史料事実の曲解も、大和説の致命傷
- 114 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:15:26.97 .net
- 福岡の場所を訊かれて佐多岬を指さすのは古田鮮人集団くらいしかいない
日本に不要な人種
- 115 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:16:33.16 .net
- 伊都国が女王国の北にあるわけだから、
その時点で畿内説の可能性はゼロなんだが
- 116 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:18:19.41 .net
- >>978
ダメダメ。
「陸行一か月」は、
郡から女王之所都までの所要日数の「水行十日陸行一月」の一部であり、
大和説では、説明できないよ。
- 117 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:30:05.46 .net
- 九州説なんて全部不要だろ
単なる板汚しなだけ
邪馬台国は奈良盆地だし卑弥呼陵は黒塚古墳で箸墓は台与陵、
狗奴国は天竜川以東から神奈川東部あたりで都が沼津の足高尾遺跡群で
卑弥弓呼陵は高尾山古墳
もう全部分かりました
- 118 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:41:31.49 .net
- 勉強からより霊感に導かれて辿り着いた答えばかり
正直、勉強するより霊感や直感で探した方が早かったですよ
- 119 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:43:35.26 .net
- 行程では畿内説の可能性はない
陳寿が会稽東冶の東つまり九州最南端よりも南まで行くと書いてるのだから
それをはるか北の福岡の春日あたりでいいと言い張ってるのが
竹島どろぼう反日鮮人集団とその類
- 120 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:58:57.98 .net
- 倭人伝の行程とは齟齬はあるけれども
考古知識があまり無い者が出土遺物から北部九州に比定するというならまだわかる
- 121 :日本@名無史さん:2020/10/02(金) 23:59:49.26 .net
- 認めたら大変な事になるよね、でも桃だな。ぴったりだもん
- 122 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 00:20:13.74 .net
- ■箸墓の桃の種の年代
https://i.imgur.com/DyAJWGe.png
15年1月に纒向学研究センターを訪れた中村さんが「15個ほどいただきたい」と寺澤薫所長に直談判。
10個以上の試料を調べれば正確性が増すためで、前処理にも細心の注意を払った。
その結果、平均値の誤差が前後わずか6年という正確な炭素年代を測定できたが、補正用のグラフに合わせると
実年代では100年ほどの幅を持つ部分に当たってしまった。
「現時点ではこれが限界。数字をどう捉えるかは考古学者の方たちに委ねたい」
近年の研究では日本の試料は国際的な補正データとズレがあることが指摘され、日本独自の補正グラフの作成が
求められている。「過去を調べて、未来を見る。やるべきことはまだたくさんある」。
正確さを求める中村さんの挑戦は続く。
- 123 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 00:21:33.14 .net
- ヤマトは弥生時代を知らずに4世紀に古墳時代に突入したのであった
- 124 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 00:50:47.64 .net
- 名大の中村俊夫の測定では135年〜230年のほぼ100年間の範囲から現段階では絞れない
だろ
- 125 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 01:11:51.58 .net
- >>122のグラフは美典が新井に作らせたやつだろ
下に書いてる内容と関係ない
- 126 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 02:27:50.18 .net
- 桃の種は纒向遺跡で出土したものであって、箸墓で出土したものじゃないだろ
箸墓の築造年代と関係ない
- 127 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 02:32:09.89 .net
- 邪馬台国テスト
- 128 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:04:47.27 .net
- 纏向の大型建物跡での祭祀は、4世紀半ば過ぎまで続いていたのだけどな。
そのあとは、応神らの古市古墳群の墓域の祭祀のために、祭祀所が新たに畝傍山に設けられた。
しかし、そのあとも纏向では従来通り祭祀が続けられたと考えれば、モモの種が4世紀後半のものであってもおかしくないけどな。
- 129 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:21:59.71 .net
- 五万戸の理由には十分だし投馬国は桃魔、桃毛国だな、といっても抵抗するでしょ、認めたら大変だもんね。
- 130 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:23:17.03 .net
- >>128
>纏向の大型建物跡での祭祀は、4世紀半ば過ぎまで続いていたのだけどな。
ソース不明
明らかに発掘調査担当機関の発表と違う
- 131 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:40:25.93 .net
- >>128
>>122のグラフは纏向遺跡のモモの年代ではないな。
ホケノ、箸墓、東田大塚のものだ。
なんだよ、というところだな。
- 132 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:43:37.89 .net
- >>130
発掘調査では、3世紀中頃前に建物の柱が抜き取られていて、建物はなくなったとされているが、その建物があった場所での祭祀も終わったとはどこにも書かれていないと思ったが。
- 133 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:53:48.78 .net
- 発掘された銅鐸なんかは仏教なんかの方の連中らが目につけて今では仏教の宝具扱いみたいなんで使ってるだろ
仏教は600年ころからが日本では始まり〜
もともと銅鐸祭儀があったのは発掘調査では古代中国の越の国なんだよね〜
関東でも出てるから銅鐸祭儀圏がいまでは西は出雲、東は関東まで広がった
中国での戦乱から拡散したものらが持ち込んだものと思われる
- 134 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:56:09.44 .net
- 狗奴国と邪馬台国とやらの争いとやらが本当なら日本に於いては日本で起こったのは祭儀形式を巡っての争いやな
- 135 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:58:15.83 .net
- その争いの結果、片方の連中らが全ての銅鐸類を土中に埋めたものと思われる
これが西暦100年〜200年ころに起こったこと
- 136 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 05:59:15.62 .net
- 大和の連中らは銅鐸祭儀のことを知らなかった
この意見は参考になったわ😃
- 137 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:12:45.48 .net
- >>132
>発掘調査では、3世紀中頃前に建物の柱が抜き取られていて、建物はなくなったとされているが、その建物があった場所での祭祀も終わったとはどこにも書かれていないと思ったが。
じゃあ
「纏向の大型建物跡での祭祀は、4世紀半ば過ぎまで続いていた」
ってのは誰が書いたんだ?
知能が低いのか?
- 138 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:15:53.49 .net
- 関東においては銅鏡類はあまり出土していない
大和の成立と銅鏡分布はリンクしているものと思われる
- 139 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:29:33.02 .net
- だいたい卑弥呼の時代あたりから銅鏡が日本で作られ広まったとされるだろ
卑弥呼以外と思われる王らの墓からは銅鐸がでる
- 140 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:37:41.87 .net
- 銅鐸も銅鏡も勾玉も水銀朱も鉄器も「阿波」の特産品。
畿内説や九州説がいくらウダウダ言っても、「阿波」にとっては相手にならない戯言。 @阿波
- 141 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:43:28.38 .net
- >>139
銅鐸は墓から出ない
- 142 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:47:44.14 .net
- 方形周溝墓なんかの遺跡あたり周辺からでる
- 143 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 06:50:44.36 .net
- 方形周溝墓の次の時代が古墳時代となる
- 144 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 07:04:59.30 .net
- 徳島市国府町矢野の道路建設工事で、数多くの遺跡が見つかっています!!
まさに掘れば出てくるのがこの地域なのです!! @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
- 145 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 07:08:34.90 .net
- 弥生時代中期の青銅祭器の分布
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/188_73.png
「銅剣・銅矛・銅戈」も「平形銅剣」も「銅鐸」も全て倭国(阿波)がその中心に位置する。
これらすべての青銅器分布が含まれているのは唯一倭国(阿波)だけ。
まさに、阿波に【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】が鎮座するのも尤もな話である。
これは、倭の王権が「倭国(阿波)」にあった証拠。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 146 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 07:09:02.18 .net
- >>144
なんで畿内説スレに来んの?
- 147 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 07:14:22.96 .net
- >>146
畿内説を糺すためさ。 @阿波
- 148 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 07:27:57.84 .net
- なぜか、畿内説の最後と公孫氏の最後がかぶる
ま、阿波は司馬懿といったところか・・、
- 149 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:00:36.92 .net
- >>147
能力的に無理だな
- 150 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:10:16.43 .net
- >>149
>能力的に無理だな
私の能力がなくとも、「阿波」の圧倒的遺跡群や古文献・古神社などが、畿内説を糺してくれる。 @阿波
- 151 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:25:07.16 .net
- ほう、阿波も意外に正直者じゃないか。見直したわい。
- 152 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:39:02.83 .net
- .
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
.
- 153 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:39:28.95 .net
- >>150
それ、他人に提示できないでしょ
だから無理
- 154 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:49:43.80 .net
- >>100
>(8)蒸して食べる・・・
この投稿も、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
直接的な史料事実や史料実態の曲解や否定をしている事の釈明もせずに、
直接的な関係が殆どない推論を書き並べるだけの、
・・・・アホ詐欺師の大和説者の投稿であるが、
騙される人が出来てはいけないから、
その事だけは、出来るだけ指摘しておきましょうね。
- 155 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:51:47.63 .net
- >>145
八千矛神社は新しい神社。
そもそもが、出雲王朝第8代の主王を祀る時点で古さはない。
副王のスクナヒコの神社はどこに行った?w
- 156 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:53:49.36 .net
- >>138
関東は大彦系の国の支配地だから、銅鐸は出ても銅鏡はかなり少なくなる。
物部嫌いだったからね
- 157 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:56:46.61 .net
- >>107
>それが古田珍説独特の「自己解釈」wだから
誰も信用しない
この投稿も、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
・・・・アホ詐欺師の東大理系博士号男の投稿?であり、
世間の人々が騙されてはいけないから、その事を指摘して、放置しておくだけね。
- 158 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 08:57:31.34 .net
- 福岡市西区吉武高木遺跡の
三種の神器がでた3号木棺墓と12m大型建物跡から
紀元前1世紀の福岡市西区に偉大な王がいて
使用した傷のある銅剣から武力によりこの一帯を治めたんだろう
王族が住んだ推定場所
吉武高木遺跡(西区)→吉武大石遺跡(西区)→樋渡遺跡(中央区)
→三雲遺跡(糸島市)→井原遺跡(糸島市)→平原遺跡(糸島市)
この辺以外の九州の王族は分家だろう
- 159 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 09:02:12.36 .net
- >>108
この男も、
存在もしなかった「邪馬台国」という嘘つき騙し文言を使い、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しをしている、
・・・・アホ大和説詐欺師であるから、放置ね。
- 160 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 09:06:46.97 .net
- >>114
マスコミさんや世間の皆様。
この投稿も、史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの、
・・・・極右の東大理系博士号自称男のようであるから、放置ね。
- 161 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 09:08:24.09 .net
- >>115
>伊都国が女王国の北にあるわけだから、
その時点で畿内説の可能性はゼロなんだが
ふーん、成程。
- 162 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 09:47:51.99 .net
- >>154
おまえの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
.
- 163 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 09:50:59.80 .net
- >>159
結局また
自分の説を否定する者を
アホだ嘘つきだと罵るだけで
何も反論しないのが九州説の悪しき典型
- 164 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:01:42.11 .net
- 末盧国から東南へ500里陸行せよ!、
この陳寿の指令を無視した者は即刻アウト。
- 165 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:08:19.45 .net
- >>160
所謂邪馬台国事件は第二次物部東征時に起きた出来事で、都合二回、大和は物部に乗っ取られている。
魏書の最初の卑弥呼を世話してた弟は大和の出雲族の出で、太田氏。現在でも近くの墨坂神社の社家。
出雲と大和を責めた、タジマノモリの直系であり、出石神社の社家をやってた神床家
そもそもの北九州の豊玉姫実家のウサ家はウサ八幡宮社家。
東出雲王家の本は、先代伝承者が、書籍、謎の出雲帝国で取材という形でしか歴史を公開していなかったが、息子さんが30年ぶりに書籍を出版。
邪馬台国事件は、当事者の家系が今でも生きてるのにまだ自説にこだわるんだからなぁw
手に入れようと思ったら誰でも買える程度の本だぞ?
知りたくてここにきてるのではなく、出てもいない鏡が大陸で出たとか、デマを書きたいだけの人と同じなら、取るに足らない存在だ。あなたは。
- 166 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:12:23.08 .net
- 阿波は阿房宮だろうから一瞬都だったかもしれないね、国中不服の。
- 167 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:20:06.78 .net
- >>158
吉武高木は発見当時は最古の王墓と言われたけど
今は王墓とは考えられていない
特定集団墓
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/yoshitaketakagi/know/
- 168 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:26:27.53 .net
- >>164
末盧国(福津市辺り・万津浦) に上陸したら、東南の伊都国 (直方辺り) へお進みなさい。
倭女王卑弥呼のお話しは、そこから始まります。 @阿波
- 169 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:29:31.56 .net
- >>165
>所謂邪馬台国事件は第二次物部東征時に起きた出来事で
海の無い山奥で、ジメジメした湿地帯の奈良盆地に、わざわざ東征する九州バカが、まだいるらしい。 わははははは @阿波
- 170 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 10:58:54.59 .net
- >>168
末盧国(唐津市・古代中原港) に上陸したら、東南500里の伊都国 (佐賀市大和町カワカミノタケル砦) へお進みなさい。
倭女王卑弥呼のお話しは、そこから始まります。
- 171 :uz :2020/10/03(土) 11:05:57.41 .net
- >>164 > 陳寿の指令を無視した者は即刻アウト//
過去に命令は出来ません。
> 末盧国から東南へ500里陸行せよ!//
東北とは、いや、北という方角を書きたくなかったんでしょうね。
同時代人の曹爽なら、命令は出来ます。
東と南へ行った事にしておけ、距離は山ほど盛っておけ。
新大陸に達するくらいで構わんぞ、とね。
アメリカ原住民って蒙古系なんて云われます。
アジアから進出したんでしょうね、有史以前のずっと古い昔に。
当時の中国はなんとなく、東海岸を北上すれば、新大陸に接していて、
風貌の似た民族が住んでいる、と知ってたんだと思う。
- 172 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:13:25.62 .net
- 陳寿の忠告に逆らったミイラ取りが、
自らミイラになったという伝説もある
- 173 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:28:28.19 .net
- 171
アーリア系の別系統と呼ぶべき集団なんだね
中国においてはON同祖系がやってきて長江を境にNが北側、Oが南側に拡散始めたとね
QR系とも言うべき集団がQは東側に向かいRは西側に向けて進路方向をとっている
- 174 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:29:56.50 .net
- >>169
奈良の大和の開拓は紀元前後に出雲族により始まります。
確かにそれまではジメジメの土地。
水を抜けば稲作ができると判断したのでしょう。
ヒボコの冨岡盆地の開拓と同じですよ。
だから二回に渡る物部東征が、神武天皇の業績にされ、記紀によって紀元前に持ってこられたのですよ。
- 175 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:30:03.15 .net
- ヨーロッパ人てより南側にいるインドアーリア系とネイティブインディオたちが遥かな昔に分裂した
- 176 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:31:00.14 .net
- 北欧人らと一番近いのはもともとの中東系のやつら
はっきり言ってほとんど単なる色違い
- 177 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:33:24.36 .net
- 白人系の連中らは過去にかなりひどい栄養失調を祖先らが経験していると言われている
そのときに脱色がおこりそのまんま遺伝子として継承したと言われとる
- 178 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:36:26.53 .net
- >>169
最初に入植したのは東出雲王家。今で言う下鴨神社や、一言主神社のあたり
次に入ってきたのは西出雲王家。上賀茂神社のあたり。
次に来たのは徐福の海幸彦wwついてきちゃったらしい。
これは二上山近辺。尾張村あたりには火の雷神社がある。笛吹連とも言われたね。分家が海部家。
第二次物部東征で追われて、五芒星で有名な籠神社の辺りまで逃げた。
加茂市は後に復権し、それで京都の方に賀茂神社が二つできた。
- 179 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:43:12.81 .net
- だから、奈良の大和は紀元後にはすでに存在してた。
これは東出雲王家の分家である磯城登家と、神武天皇である天叢雲(尾張家)の連立政権が大和国。
つまり、記紀は物部を隠すために、神武が、神武を倒したという時系列的におかしな話になってるわけ。
大和(邪馬台国)を説明するのに、魏書の距離の話も不要というのはそれが理由。
でも、次に出てくる卑弥呼は都万の卑弥呼。
記紀を編纂した人は魏書の内容を把握していた。
だから万世一系を創作するときに名前を変えたり家族関係を混ざるな危険した。
- 180 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:52:38.49 .net
- >>174
>水を抜けば稲作ができると判断したのでしょう。
そこまでして、山奥で不便な奈良盆地を目指す理由は? 考えた事あるの?
私が九州物部なら、豊かな「阿波」に東征するよ。 そうは思わないかい? @阿波
- 181 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:56:38.86 .net
- 結局、物部東遷説も、奈良盆地で野ツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 畿内説同様にね。 @阿波
- 182 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 11:56:39.39 .net
- 平原遺跡のイヤリングで女性と思われる被葬者や卑弥呼や台与は
出雲から王は女性にしろと言われたのかもな
女王だと武力で領地を広げることはないと出雲は考えたか
女王では武力による領地拡大は難しいが
畿内に行って30ヶ国の女王になって欲しいと呼ばれて
出雲も合意してる
東遷は武力を使わず勢力を広げる戦略だったんじゃないか
- 183 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:00:47.41 .net
- >>180
アメノヒボコは朝鮮王族の長男でね、末子相続のために半島を追い出された。それで日本を頼った。
そこでうまくやれば良かったのに、出雲王との話の中で態度が悪く上から目線だったので土地を世話して貰えなかった(半島の人の気質は昔かららしい)
そこからしばらく船上生活をしてたが、冨岡盆地の水を抜いて開拓をした。
これはすげえ反発もあった様で、ヒボコの死後の出石神社のヒボコの墓は禁足地になりひた隠しにされてきた経緯がある。
神床家は、開拓により力をつけたヒボコに嫁をやった家系。
昔は稲作ができそうかどうかが発展性の判断のカギだったらしいね。
- 184 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:03:10.72 .net
- なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波
- 185 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:03:15.99 .net
- >>180
阿波は、徐福勢の連れてきた諸氏。
千家と変わりがないレベル。そんなに重要ではない。
物部のおこぼれで出雲国司やったりとか、宮中祭祀をやらせて貰えたとかその程度。
- 186 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:04:28.62 .net
- >>185
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波
- 187 :コテ略:2020/10/03(土) 12:04:44.73 .net
- >>181 > 息の根を止められる宿命なんだよ。 @阿呆//
サッサと野ツボから這い上がってくる事だね、莫迦。
- 188 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:05:24.70 .net
- >>174
>水を抜けば稲作ができると判断したのでしょう。
そこまでして、山奥で不便な奈良盆地を目指す理由は? 考えた事あるの?
私が九州物部なら、豊かな「阿波」に東征するよ。 そうは思わないかい? @阿波
- 189 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:06:27.73 .net
- >>117
ヤマト説なんて全部不要だろ
単なる板汚しなだけ
>邪馬台国は奈良盆地だし卑弥呼陵は黒塚古墳で箸墓は台与陵、
狗奴国は天竜川以東から神奈川東部あたりで都が沼津の足高尾遺跡群で
卑弥弓呼陵は高尾山古墳
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であったし、
卑弥呼も狗奴國も、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
もう全部、九州だと、
分かりました
- 190 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:06:45.94 .net
- >>184
まあ、学者の研究成果ではなく、旧家の伝承の本なんて、最初は小説とか読み物レベルの認識で入る方が正しいスタイルだとは思うよ?否定はしない。
- 191 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:07:17.59 .net
- >>187
馴れ馴れしいため口叩いて対等のツモリかね。
オ〆は寝るとき以外はマスクしてればいいんだよ。
莫迦が伝染ると迷惑だ。飯も喰うには及ばんよ。
どうせウンコの製造原料にしかならんのだシネ。 わははははは @阿波
- 192 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:10:02.18 .net
- 171uz ◆bq94Vh60JQ 2020/10/03(土) 11:05:57.41
>> 陳寿の指令を無視した者は即刻アウト//
>過去に命令は出来ません。
過去に命令とか、面白いことを云うな。 ま、陳寿は後世の人々のために倭人伝を記したのだがな。
- 193 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:10:27.46 .net
- >>189
魏書の朝貢した頃の邪馬台国は都万国。
でも本当の大和は昔からあった。
第二次物部東征も、記紀の作為により、崇神天皇が、大和の元々の天皇を倒したというおかしな話しになってる。
物部イニエ=崇神天皇は、大和入りしてない。
- 194 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:12:20.71 .net
- >>119
行程では大和説の可能性はない
陳寿が女王國を、会稽東治の東、つまり九州島付近だと書いてるのだから
それを、はるか東の大和あたりでいいと言い張ってるのが
嘘つき騙しや、殺戮戦争狂極右の大和説学者ら集団とその類
- 195 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:14:51.60 .net
- >>120
倭人伝の行程との齟齬もないし、
考古知識があまり無い者が、出土遺物から北部九州に比定する、というのも、
十分わかる
- 196 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:17:34.31 .net
- >>194
そもそもが大和は紀元後からあったのに、魏志倭人伝が好きすぎて、偽装大和国の朝貢した卑弥呼とことすら、これは畿内の話だと欲を書いたのが論争の原因。
そもそも工程に奈良の地名なんて一切出てこないじゃんw
- 197 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:17:51.97 .net
- >>195
齟齬あるだろう
水行10日陸行1月もして、なんでまだ北部九州なんだ
- 198 :コテ略:2020/10/03(土) 12:19:10.76 .net
- >>192 > ま、陳寿は後世の人々のために倭人伝を記したのだがな//
読み取れなきゃどうしようもないでしょ、愚かだね。
- 199 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:19:56.89 .net
- >>196
>そもそも工程に奈良の地名なんて一切出てこないじゃんw
邪馬台国
- 200 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:25:13.52 .net
- >>199
途中の吉備国とかはワープかよw
- 201 ::2020/10/03(土) 12:27:21.15 .net
- 伊都国の位置はほぼ確定している
女王国の北に伊都国があったことは倭人伝に書かれている通り
この時点で畿内説は消える
- 202 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:31:07.80 .net
- >>121
>認めたら大変な事になるよね、でも桃だな。ぴったりだもん
柵列があった場所に「庄内3や桃の土坑」を掘る訳がないので、
柵列は、「3世紀最末〜4世紀の庄内3」の後。
という事は、柵列や建物群が造られて使われたのは、4世紀。
- 203 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:35:58.09 .net
- >>201
朝貢したときの品物は直接渡す決まりになでてたから、豊玉姫は都万から受け取りに来てる。
畿内からなんて遠くて直ぐには無理だわw
大陸の朝貢も、伊都国と同じで使節は決まった場所で足止めになっていた。
当時の都万も、伊都国で役人は止まり、そこから先には行けなかった。
魏書の最初の卑弥呼は結婚してなくて弟が世話をしてたとあるよね。
一方、豊玉姫は結婚しててトヨを生んだ。
だから張政は、トヨを後継者に指名した。
注意すれば、別人とわかる様な記述になっていると言われれば、そうなってね?w
- 204 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:38:55.37 .net
- 筑紫国が伊都の近くであれば、ウサ八幡宮は比較的近いよね。
八幡と鏡を受け取りに行こうと思えば行ける場所
- 205 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:38:55.76 .net
- >>202
>柵列があった場所に「庄内3や桃の土坑」を掘る訳がないので、
まったく理由がない
トンデモだな
九州説は思考がおかしい
- 206 :longinus_bouz :2020/10/03(土) 12:39:08.37 .net
- >>200 > 途中の吉備国とかはワープかよw//
そうだよ。
出雲(投馬)に止まって、卑弥呼死後の争乱を窺いつつ情報収集に努め、
分水嶺が最も穏やかな生野越えして、陸路で邪馬台国に至って、トヨたんを告諭した。
瀬戸内海は経由しなかったので、略載して国名を列挙しただけ。
大体さ、途中で大和の地名出てくりゃ、それは大和へ行く行程ではあるまい。
- 207 ::2020/10/03(土) 12:39:48.90 .net
- >>203
>畿内からなんて遠くて直ぐには無理だわ
牛も馬もいないのに、でかい国作るのは無理
伊都国の場所が確定している以上、そこからさほど遠く無い場所に女王国があったことは確実
- 208 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:41:51.11 .net
- >>200
>途中の吉備国とかはワープかよw
投馬国を通りますが、何か不都合でも?
- 209 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:43:58.46 .net
- >>207
>牛も馬もいないのに、でかい国作るのは無理
史料によらずに、こういう御託宣で決めるから
九州説はダメなんだよ
- 210 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:44:21.45 .net
- >>206
160年代の第一次物部東征は、吉備国が強く、四国ルートで熊野灘に入った。
だから和歌山みたいなところに徐福伝説が残ってる。
景初年間以降の第二次物部東征は、瀬戸内海ルート。
8年くらい戦ってるうちに、豊玉姫が病死してしまい、厳島にて荼毘に付された。
吉備国は分裂した葛城国の片割れ。
記紀の神武東征は、二つのルートを一つにして書かれてるから、瀬戸内海を通った記述になってるよね。
- 211 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:46:46.90 .net
- >>206
第二次物部東征で出雲を攻めたのはヒボコの子孫であるタジマノモリと、後に神魂神社の社家になる物部十千根。
豊国本体は瀬戸内海ルート。
- 212 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:48:26.74 .net
- >>201
>伊都国の位置はほぼ確定している
>女王国の北に伊都国があったことは倭人伝に書かれている通り
>この時点で畿内説は消える
消える訳なかろう
「南」が信用されてないから畿内説が有力で九州説がジリ貧なんだもの
- 213 ::2020/10/03(土) 12:51:30.98 .net
- >>209
>史料によらずに、こういう御託宣で決めるから
>九州説はダメなんだよ
じゃあ世界史上、牛馬、あるいはその代替となるような動物がいないのに大きい国を作った例を出してくれないかな?
例が出せないならお前が妄想言っているだけ
- 214 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:54:54.72 .net
- 三角縁神獣鏡は、西軍を裏切り、東軍側に鞍替えした武内宿禰を始めとする鏡で、当時の第王家や加茂氏が大量に買い込んで地方の豪族を取り込むために比較的短時間で国内生産され、複製などされて配られた粗悪品。
元になったのは呉の三角縁仏獣鏡で、大陸のものより大型化するために三角縁の技術が使われた。
卑弥呼が貰った鏡100は、平縁の神獣鏡が含まれていた程度。
- 215 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:56:15.97 .net
- >>213
インカ、アステカ
- 216 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:57:39.65 .net
- >>213
邪馬台国
7万戸なら大きい国だ
そして牛馬がいない
- 217 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 12:59:07.00 .net
- 魏書が大好き過ぎで欲を出した山対抗畿内派の拠り所である、三角縁神獣鏡は、1984年に日本の学会から招かれた中国の鏡研究の権威により、大陸伝来説は否定されて、邪馬台国との関連には終止符が打たれている。
神獣鏡が大陸では一枚も出てない事と、内部の模様が、武内宿禰ゆかりの模様で、大陸には一切ない事が根拠として、大陸説は正式に否定されている。
- 218 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:01:28.79 .net
- >>217
さすが情報の古い九州説
前世紀の遺物だな
- 219 ::2020/10/03(土) 13:10:25.16 .net
- >>215
リャマがいるだろ
バカかお前は
- 220 :uz :2020/10/03(土) 13:13:04.28 .net
- >>213 > じゃあ世界史上、牛馬、あるいはその代替となるような
動物がいないのに大きい国を作った例を出してくれないかな?//
逆だよ。土木技術の向上があったからこそ、いきなり巨大古墳が作られた。
灌漑用に、無かった牛馬を導入したからこそだ。
馬が乗用のぜいたく品として埴輪なんかにあしらわれるのが後世であっても、
生産用に用いられたのはもっと前、でなければ、巨大古墳発生の理由が説明できない。
それとさ、牛馬なくして生産力が飛躍した例を出さねばならんのは、アンタでしょ。
>>215
逆だと思う。何らかの動物使役をしてたんじゃないかな。
インカうぃきざっと見たが、牧畜はしてたなんて書いてあるし。
>>219 > リャマがいる//
という事だ。
>>210-211 > 物部東征は//
ちょっと待っとけ。
- 221 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:13:04.61 .net
- 陳寿を考えると、邪馬台は山泰、狗奴国は河内、投馬は桃魔、補佐する弟は名も出さない、行程は方角が出鱈目、由えに陳寿は誰だか解って書いてる。
- 222 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:15:25.20 .net
- >>218
畿内説のカルト派は、未だに一部の人間があの鏡に縋り付いてる
振り上げた拳を下げる事が出来ないのだろう。
古い後漢鏡の出土の殆どは北九州。
それが景初年間から以降は、瀬戸内海東征ルートを中心に畿内出土に偏っていく事になる。
本にもなってるよ。
- 223 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:29:52.74 .net
- >>221
確か、邪馬台国の記述の後が、突然現れる400年以上前の徐福の記述だったかと。
彼は物部氏の祖人に気づいていた可能性がある。
- 224 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:46:00.82 .net
- >>198
その通りだ、読み取れなくて箸墓に池ポチャした畿内説はその代表事例な
- 225 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:47:17.54 .net
- .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
- 226 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 13:49:45.43 .net
- 振り上げた拳が下せない畿内説w
空けた大口が閉じれない畿内説w
広げた風呂敷が重すぎる畿内説w
- 227 ::2020/10/03(土) 13:52:18.50 .net
- 畿内説オワタ\(^o^)/
- 228 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:21:46.45 .net
- >>226
九州説って中身がないね
無意味な悪口しか言えないんだね
- 229 :uz :2020/10/03(土) 14:24:10.86 .net
- >>210 > 記紀の神武東征は、二つのルートを一つにして書かれてるから、
瀬戸内海を通った記述になってるよね//
外国から大和に来るには、瀬戸内海通るのが一般的、という事だよな。
だからこそ、一般的なルートで、それなりの勢力もいたであろう瀬戸内地域をさ、
無視は出来なかったから、記録として残さざるを得なかったんだよ。
但し、経由はしなかったから、略載して国名を列挙しただけ。
生野越えで通過しそうな、但馬は斯馬國、播磨は巴利國であっても構わんと思うがね。
但し、卑弥呼死後の争乱が収束して、トヨたんが立ったんで、
急いで仕事しなきゃってんで大急ぎだったから、通過はしても国名だけ。
まぁ、其餘旁國はダジャレの域を出んけどな。
>>210 , >>211 > 物部東征は//
マンド臭いから結論だけだ、取敢えず。ツマラン妄想を垂れ流すな。
物部王朝説と、邪馬台国東遷説を混ぜただけなんだろ。
ニギハヤヒについては、物部氏には気を遣わにゃならんかったから、
ヘンな付会なんかしないで、在来の祖先神だったと、正直に書かれただけだ。
別段、ナガスネヒコを後見ていた、皇室以前の前王朝だった訳ではない。
誰がどう気を遣ったのかは、後日の話とする。
神武東遷ってのは、全くの虚構だよ。
日向伝説をさ、大和の創世譚に取り込んじゃったからなんだよ。
とすれば、空から降ってきた日向のオサーンの子孫はさ、
どうしても一般的ルートを辿って、大和に繰り出さにゃならんだろ。
>>224 > その通りだ//
>>227 ◆UiepmfCeDJqf > オワタ\(^o^)///
いずれもガナー案件だ、チョコはガーナ案件だがな。
- 230 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:25:36.74 .net
- >>219
>リャマがいるだろ
メキシコで馬の代わりに使ってだという証拠プリーズ
- 231 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:32:22.17 .net
- >>222
>古い後漢鏡の出土の殆どは北九州。
二世紀前半くらいまでのね
それ以降はパッタリになる
あとは割れたクズばかり
倭国乱を境に九州が畿内勢力の下流に立った状況がモロ見え
- 232 :コテ略:2020/10/03(土) 14:32:31.65 .net
- >>230
インカアステカでは動物動力使った巨石を積み上げ、
邪馬台国では牛馬使って灌漑し巨大古墳を作った、で構わないでしょ。
- 233 ::2020/10/03(土) 14:32:45.14 .net
- >>230
ググってみろよ
昔から荷物の運搬用に使われている
- 234 :コテ略:2020/10/03(土) 14:36:05.72 .net
- >>233
だからさ、インカアステカでは動物動力使った巨石を積み上げ、
邪馬台国では牛馬使って灌漑し巨大古墳を作った、で構わないでしょ。
- 235 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:41:22.44 .net
- 西日本って世界史上では大きな国なのか
- 236 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:47:48.17 .net
- >>234
>邪馬台国では牛馬使って灌漑し巨大古墳を作った
のは、「忌部はん」 だと、何度言えばw @阿波
- 237 :コテ略:2020/10/03(土) 14:48:20.32 .net
- >>235
西日本の小さな国々の内、牛馬使って古大和湖を灌漑し巨大古墳を作って、
筆頭国になった邪馬台国王が共立されて、少し大きな国になった、で構わんでしょ。
- 238 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:51:04.18 .net
- >>174
奈良御所市の中西遺跡は弥生最大級の水田跡で、巨勢山の麓の緩やかなスロープに作られている。
時期は弥生前期後半。
「ヤマトの開拓は紀元前後」よりずっと早いの。
物部や神武が来る前にすでに大和を開拓した者らがいたちゅーこと。
- 239 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:52:46.46 .net
- >>237
そんなことを妄想捏造してるのはオ〆だろ、虫けら。 わははははは @阿波
- 240 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:53:58.67 .net
- >>238
>物部や神武が来る前にすでに大和を開拓した者らがいたちゅーこと。
だから、「忌部はん」 だと、何度言えばw @阿波
- 241 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:55:40.45 .net
- >>231
それにしては、九州で大和や河内の土器が出るのは3世紀中頃からだけどね。
- 242 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:56:31.09 .net
- 倭国の乱とは、
弥生時代から続く旧宗主国の博多湾岸奴国勢力と、帯方郡下の新規渡来集団の伊都国・邪馬台国勢力の激突だった。
この新規渡来集団は、最新の鉄器で武装し、対馬・壱岐を落とてし末盧国唐津から佐賀平野に抜け、守り手薄の南側から博多の旧宗主国に襲い掛かかり、大勝利した、
そして鬼道の卑弥呼を立てて倭30国を手中に納めたというわけだ。
- 243 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:58:34.53 .net
- >>241
>それにしては、九州で大和や河内の土器が出るのは3世紀中頃からだけどね。
だから、「東阿波型土器」 だと、何度言えばw @阿波
- 244 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 14:58:37.77 .net
- >>241
博多では3世紀前半から畿内の土器を模倣制作している
筑前以外はまだ関係ない
- 245 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:00:12.77 .net
- >>244
>博多では3世紀前半から畿内の土器を模倣制作している
だから、「東阿波型土器」 だと、何度言えばw @阿波
- 246 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:02:54.83 .net
- >>210
>四国ルートで熊野灘に入った。
物部は刀鍛冶だから、人影の薄いところでは商売にならんので、熊野灘へは行かんだろう。
- 247 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:05:57.53 .net
- >>245
何度言っても
証拠がないので
みなが無視して笑う
- 248 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:06:45.52 .net
- >>245
博多では秘境の土器は使っていない
- 249 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:07:24.61 .net
- >>233
証拠の出せない連句点がまた論争に負けた
- 250 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:07:42.14 .net
- >>240
忌部はんは、どんだけ都落ちして来るんだよ。
- 251 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:11:16.98 .net
- >>250
>忌部はんは、どんだけ都落ちして来るんだよ。
関東、北陸から朝鮮半島まで。 @阿波
- 252 ::2020/10/03(土) 15:22:31.53 .net
- >>249
つーか、どこにでも書いてあるやろ・・・
アホじゃね?
- 253 :コテ略:2020/10/03(土) 15:26:59.19 .net
- >>251 > 関東、北陸から朝鮮半島まで。 @阿波//
北陸かは微妙だが、先ずは新潟にリベンジすれば?
https://vk.sportsbull.jp/koshien/game/2017/400/156925/
県大会ベスト4までは行ってる様だが。
https://vk.sportsbull.jp/koshien/game/2020/637/197329/
- 254 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:28:41.41 .net
- >>243
大和などの東阿波型土器は、阿波の土器職人集団が出向いて行って作ったもの。
その職人らが今度は大和から博多まで行って仕事したというわけではにゃ〜のよ。
- 255 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:33:31.02 .net
- >>252
どうしても証拠の出せない連句点は、いつも論争に負け続ける
- 256 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:38:57.76 .net
- 倭国の乱とは、
弥生時代から続く旧宗主国の博多奴国勢と、
公孫氏楽浪・帯方郡指揮下の新規渡来集団である伊都国・邪馬台国勢力の激突だった。
- 257 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:44:22.40 .net
- >>254
>その職人らが今度は大和から博多まで行って仕事したというわけではにゃ〜のよ。
もちろんだよ。博多の「東阿波型土器」は、筑紫忌部 だと、何度言えばw @阿波
- 258 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:44:46.74 .net
- >>248
ざんね〜ん。
北部九州では、3世紀中頃以降はその秘境の土器の真似。
- 259 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:48:35.83 .net
- >>257
筑紫忌部がつくったのは西新町式土器と言わんのか♪
- 260 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:48:52.38 .net
- >>258
北部九州だけじゃないよ。 庄内式も「東阿波型土器」だから。 @阿波
- 261 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:49:08.69 .net
- >>258
秘境鮮人の妄想
- 262 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:50:42.56 .net
- >>259
>筑紫忌部がつくったのは西新町式土器と言わんのか♪
軽量薄型の「東阿波型土器」は、西新町式土器みたいな古臭い弥生土器じゃないよ。 わははははは @阿波
- 263 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 15:51:47.06 .net
- まあ、祇園山古墳の方墳以外の部分は、山門権現塚のコピーなんだけどな。
- 264 ::2020/10/03(土) 15:55:33.64 .net
- >>255
どこにでも書いてあるよ
wikiでも見ろや、クソが
- 265 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:02:33.96 .net
- >>229
妄想じゃなくて旧家の当事者の出版した本だと何度言えばww
- 266 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:09:08.98 .net
- >>229
但馬の地名はヒボコ勢の播磨侵攻後についた名前だから違う。
- 267 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:09:34.70 .net
- >>262
筑紫忌部は西新式土器と違う薄型テレビ、いつ発案したん?
- 268 :コテ略:2020/10/03(土) 16:11:59.28 .net
- >>265 > 妄想じゃなくて旧家の当事者の出版した本だ//
胡散臭くなる一方だな。
- 269 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:12:12.89 .net
- 242.大体そういう事だね、曹家のころも司馬懿のころも道士を集めたりしてるからね、陳寿は弟の名前は書けないんだよ、皆にバレちゃうから、会稽東治も東治だと思うんだけどねぇ、治が気になるね
- 270 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:13:15.19 .net
- >>267
>筑紫忌部は西新式土器と違う薄型テレビ、いつ発案したん?
阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波
- 271 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:13:19.92 .net
- >>263
久留米、八女には円形周溝墓が普通にあるから、山門権現塚が円形周溝墓であるのは普通のことだし。
ただ、周溝幅が広いことと、円墳のその円形がかなり整った形であることからすると、そうとう進んだ円形周溝墓であることがみてとれる。
やはり、卑弥呼の寿陵として造られたものだろうな。
- 272 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:16:27.15 .net
- それと徐福はお呼びじゃ無いよ、秦の度量衡が無い。あんたらの商売でやってくれ
- 273 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:18:34.71 .net
- >>267
>筑紫忌部は西新式土器と違う薄型テレビ、いつ発案したん?
阿波國鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波
- 274 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:25:23.89 .net
- >>268
知りたいわけじゃなく、自説を書き込みたいだけのカルトかよw
それこそお呼びじゃねーよw
- 275 :コテ略:2020/10/03(土) 16:25:31.79 .net
- >>266 > 但馬の地名はヒボコ勢の播磨侵攻//
妄想を並べられても知らんがな。但馬播磨新羅の関係者に擬されてるだけじゃん。
- 276 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:30:24.95 .net
- >>275
だからタジマノモリはヒボコの子孫だもん
- 277 :コテ略:2020/10/03(土) 16:38:55.58 .net
- >>274 > それこそお呼びじゃねーよw//
随分と口ぎたない旧家の当事者だな。
当事者って、どんな事に当たってたんだよ。
> 知りたいわけじゃなく//
オ〆は胡乱なハナシを知らせたいのか?
> 自説を書き込みたいだけのカルトかよw//
矛盾でもあるってなら、サッサと書けよ。
>>276 > タジマノモリはヒボコの子孫だもん//
だから何だ?
- 278 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 16:44:37.84 .net
- >>277
地名というのは書物や神社の祭神と違ってそうそう簡単に変わるものではないんだよ
出雲王家本は昔から買ってるだけの読者だよ
口から泡を飛ばす前に少しは落ち着けカルトさんよw
- 279 :コテ略:2020/10/03(土) 16:56:08.54 .net
- >>278
> 地名というのは書物や神社の祭神と違ってそうそう簡単に変わるものではないんだよ//
はァ? ヒボコボコが簡単にかえちまったんだろ、オ〆の言い草なら。
> 出雲王家本は昔から買ってるだけの読者だよ//
マントラ買ってるカルトのサマナかね。胡乱な香具師だな。
で、その出雲王氏とかは、どんな事に当たってる御仁で、何でオ〆の損紙なんだ。
> 口から泡を飛ばす//
汚いからやめて、マスクしろ。矛盾でもあるってなら、サッサと書けよ莫迦。
- 280 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:05:22.72 .net
- >>1
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/ ______________
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ />>1くん!もう二度とくそスレをたてないで!
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < すぐにくびをつってしんでね!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \しまじろうとお約束だよ!!!
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐"  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \
- 281 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:05:41.75 .net
- _∧_∧
/ ̄ ( ・∀・)⌒\
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ヽヽ / / \ | | ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
\\| |____| .| | .,llll゙゙゙゙゙ ゙゙゙゙゙lllll,
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| ヽ_「\ | |、 | ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
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/.// ・l|∵ ヽ\ ←>>1
- 282 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:06:17.31 .net
- キナイコシがいつまでたっても無職のままでいる理由が判明!
【学生減】考古学就職スレ【募集増】
2出土地不明2011/11/28(月) 04:52:13.46ID:LKl0KTwV>>25
FAQ
公務員ならコネ効く?
昔はきいた。今は微妙。
地元有力者レベルはほぼない(そんなもんがある奴は考古学なんかで就職しない)し、最近は論文歴や実務経験重視も多い。
口利きレベルならまああるけど、一次突破できなきゃ終わり。むしろ嘱託で人格を知られることにより、そこでは就職できないことも。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1322423510/
嘱託で人格を知られることにより、そこでは就職できないことも←注目!!
- 283 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:06:45.80 .net
- キナイコシは偉そうなことばかり言っているが、こいつは単なる無職の負け組ジジイ
自分は専門家だと言い張っているが、そんな主張はそれ相応の定職についてからすべき
現状ではキナイコシは古代史愛好家のど素人ジジイでしかない
まさか学会に入っているだけで専門家と認知してもらえると思っているわけじゃないだろうね?
- 284 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:25:10.19 .net
- 平原の守りは鉄壁と言える
北は海、西と南は山、東は奴国で侵入が難しい
平原の鏡40枚巫女被葬者はそんなとこにいた
次の女王がわざわざ自分から狗奴国の方に遷都するとは思えない
遷都したとしたら平原よりも安全なところで
それが九州ではないどこかなら納得できる
- 285 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:34:14.55 .net
- >>284
墓地に後続の墓が造られてるので
引っ越しはしてない
- 286 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:35:34.69 .net
- >>284
>平原の守りは鉄壁と言える
北部九州は、倭国(阿波)を皮切りに、後に続く代々王権の防人出先機関でしかなかった。 @阿波
- 287 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:39:42.97 .net
- 帯方郡の使者が滞在して九州北部でもっとも安全なところは伊都国
だが伊都国は邪馬台国じゃないし
皇帝の代理とも言える使者は卑弥呼や台与に会ってないから
近くにもいない
狗奴国の存在のせいで九州北部はどこも危険だが
もし卑弥呼や台与が九州北部にいたのであれば
九州北部で一番安全である伊都国へ来れないのはおかしい
はい九州北部消えた
皇帝の臣下が会わないとか非常に失礼だが
魏志倭人伝では邪馬台国は非常に遠く
往来が危険であるかのように書いていてお咎めがない
九州北部から邪馬台国へたどり着くのは危険がともなうほど遠い
魏志倭人伝はその前提で書かれてる
だから会わないことについてのお咎めが魏志倭人伝にはどこにもない
- 288 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:44:05.26 .net
- 日本列島を沿岸水行するより玄界灘を渡るほうが危険
- 289 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:45:50.20 .net
- >>287
>だから会わないことについてのお咎めが魏志倭人伝にはどこにもない
いずれにせよ、畿内は魏志倭人伝に関係しないから。 いや、倭種で関係有るな。 わははははは @阿波
- 290 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:49:20.17 .net
- >>279
出雲大社の上官職筆頭が王家の末裔、向家だよ
その人が書いてる
その辺のおっさんの本ではないよ。
出雲大社の前身の杵築大社を作った一族。
ま、カルトには何を言っても無駄だとは思うが、思い込みで人を下げる様な醜態は晒すものではない
- 291 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:56:12.41 .net
- >>290
島根が今あるのは、出雲忌部のお陰なんだよ。 出雲忌部を無視するのかい? @阿波
- 292 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:56:42.58 .net
- >>163
結局また
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、
自分の説を否定する者を
アホだ嘘つきだと罵るだけで何も反論しないのが、
大和説者らの悪しき典型
- 293 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 17:59:59.17 .net
- >>164
陳寿の記載通りに、末盧国からの出発時点で東南へ出発し、
後は案内人の従って、伊都国へ500里陸行せよ!、
この陳寿の指令を無視した者は即刻アウト
- 294 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:04:09.14 .net
- >>293
末盧国(福津市辺り・万津浦) に上陸したら、【東南】陸行500里 (25km)1里50m の伊都国 (直方辺り) へお進みなさい。
倭女王卑弥呼のお話しは、そこから始まります。 @阿波
- 295 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:06:33.71 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 296 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:08:24.59 .net
- >>295
まーだやってらっしゃるのか
「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 297 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:20:25.09 .net
- >>284
>(海と山に囲まれて)平原の守りは鉄壁と言える、(通じているのは東の奴国のみ)
な〜んだ、平原は奴国の雪隠じゃないか、ゲラゲラプー
- 298 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:23:18.84 .net
- >>165
>所謂邪馬台国事件は第二次物部東征時に起きた出来事で、都合二回、大和は物部に乗っ取られている。
九州倭國や倭人の東征は、「国生み神話」の頃から始まり、五瀬命らの東征や、
三道将軍らの東征などが記録されている。
また、「物部」に関しては、九州倭國の神職家であったらしい高良大社の「古系図」にも、
物部の名前が残されている。
>魏書の最初の卑弥呼を世話してた弟は大和の出雲族の出で、太田氏。現在でも近くの墨坂神社の社家。
出雲と大和を責めた、タジマノモリの直系であり、出石神社の社家をやってた神床家
そもそもの北九州の豊玉姫実家のウサ家はウサ八幡宮社家。
出雲は、国引き神話頃に建国し、天照らの国生み神話や国譲り戦争に敗北したが、
結局は、6世紀の梁書頃まで、「文身國」として存続していたらしい。
>東出雲王家の本は、
先代伝承者が、書籍、謎の出雲帝国で取材という形でしか歴史を公開していなかったが、
息子さんが30年ぶりに書籍を出版。
邪馬台国事件は、当事者の家系が今でも生きてるのにまだ自説にこだわるんだからなぁw
手に入れようと思ったら誰でも買える程度の本だぞ?
後期高齢で体力も視力も低下して、新しい本を読む元気も気力もない。
PCでの検索や、掲示板での議論をするので、体力が精一杯。
- 299 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:23:33.23 .net
- >>287
>皇帝の代理とも言える使者は卑弥呼や台与に会ってないから
拝仮倭王と書いてあるのに、倭王卑弥呼には会っていないと抜かすトンチンカンチンポン
- 300 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:36:34.30 .net
- >>179
>でも、次に出てくる卑弥呼は都万の卑弥呼。
これはダメ。卑弥呼は、筑紫の女王。
- 301 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:39:34.95 .net
- 末盧国からは東南500里の伊都国へ向けて陸行せよ!、
この陳寿の指令を無視した者はレッドカードの即刻退場
- 302 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:42:42.71 .net
- >>182
>出雲から王は女性にしろと言われたのかもな
女王だと武力で領地を広げることはないと出雲は考えたか
女王では武力による領地拡大は難しいが
畿内に行って30ヶ国の女王になって欲しいと呼ばれて出雲も合意してる
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
卑弥呼や壹與は、(大和ではなく)北部九州の女王であるから、それも×。
- 303 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:55:11.35 .net
- >>193
>魏書の朝貢した頃の邪馬台国は都万国
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國女王之所都は筑紫にあった。
>でも本当の大和は昔からあった。
大和の原語は、九州倭國の地方の市を監督する「大倭」職の事。
>第二次物部東征も、記紀の作為により、
崇神天皇が、大和の元々の天皇を倒したというおかしな話しになってる。
物部イニエ=崇神天皇は、大和入りしてない。
天皇なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の将軍に物部もいた事は否定しないが、
物部は、東征将軍の一人であった、と言える程度。
- 304 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 18:56:47.16 .net
- >>298
>掲示板での議論をするので、体力が精一杯。
やってるのはオウム返しだろw
- 305 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:00:15.31 .net
- >>195
女王國九州島付近説であれば、倭人伝の行程との齟齬もないし、
文献考古知識が余りなく、思想宗教的な「結論先にありき」の・・・・アホ詐欺師が、
前方後円墳や出土遺物だけから大和に比定する、
というのも、十分有り得る。
- 306 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:05:20.42 .net
- >>197
>齟齬あるだろう
水行10日陸行1月もして、なんでまだ北部九州なんだ
萬二千余里は、不彌國や邪馬壹國之所都付近で終わっており、
「水行10日陸行1月」という日数説明文は、
その直前文言の「女王之所都」の説明になるから、郡から女王之所都への所要日数だ。
- 307 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:06:13.08 .net
- 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡
当時はヤマトに奈良という呼び方がまだなかったように吉備という呼び方もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼び方の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、海岸線が今よりもはるかに内陸にあったために都がかなり内陸に
あったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
- 308 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:08:43.26 .net
- >>199
>>そもそも工程に奈良の地名なんて一切出てこないじゃんw
>邪馬台国
邪馬台国なんて存在もしなかった文言であり、
「邪馬壹國」を大和に摩り替えて、世間の人々を騙そうとした詐欺文言。
- 309 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:21:04.45 .net
- >>206
>出雲(投馬)に止まって、卑弥呼死後の争乱を窺いつつ情報収集に努め、
分水嶺が最も穏やかな生野越えして、陸路で邪馬台国に至って、トヨたんを告諭した。
瀬戸内海は経由しなかったので、略載して国名を列挙しただけ。
大体さ、途中で大和の地名出てくりゃ、それは大和へ行く行程ではあるまい。
出雲とか生野越えとか邪馬台国とか大和説とかは、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。
- 310 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:23:02.58 .net
- >>208
>>途中の吉備国とかはワープかよw
>投馬国を通りますが、何か不都合でも?
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。
- 311 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:24:42.32 .net
- >>306
終わったころが九州最南端の佐多岬じゃないなら陳寿の地理観が間違ってる
- 312 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:26:35.11 .net
- >>209
>>牛も馬もいないのに、でかい国作るのは無理
>史料によらずに、こういう御託宣で決めるから九州説はダメなんだよ
魏志倭人伝の「其地無牛馬虎豹羊鵲」を無視して、
史料によらずに、こういう御託宣で決めるから、
大和説はダメなんだよ
- 313 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:33:15.57 .net
- >>212
>>伊都国の位置はほぼ確定している
女王国の北に伊都国があったことは倭人伝に書かれている通り
この時点で畿内説は消える
>消える訳なかろう
「南」が信用されてないから畿内説が有力で九州説がジリ貧なんだもの
消えない訳がなかろう
「南≠東」は、普通の成人人類なら決して間違える事がない、
というのが人類の常識であり、
だから、九州説がほぼ絶対的に優位であり、
大和説が信用されずに、がジリ貧なんだもの
- 314 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:37:51.67 .net
- >>218
>さすが情報の古い九州説
前世紀の遺物だな
さすが情報が60年位古い大和説
前世紀の遺物だな
- 315 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:40:55.48 .net
- オレが決めた平原が伊都国ダ〜
オレが決めた岡山が投馬国ダ〜
オレが決めた奈良が邪馬台国ダー
オレが決めた箸墓が卑弥呼の墓ダー、以上、文句あっかーの畿内説
- 316 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:42:25.17 .net
- >>220
>逆だよ。土木技術の向上があったからこそ、いきなり巨大古墳が作られた。
灌漑用に、無かった牛馬を導入したからこそだ。
馬が乗用のぜいたく品として埴輪なんかにあしらわれるのが後世であっても、
生産用に用いられたのはもっと前、でなければ、巨大古墳発生の理由が説明できない。
じゃ、大和が牛馬を導入出来たのは、
卑弥呼の倭國の「其地無牛馬虎豹羊鵲」の後になり、
大和説は×になっただけだ。
それとさ、牛馬なくして生産力が飛躍した例を出さねばならんのは、アンタでしょ。
- 317 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:48:11.59 .net
- >>221
>陳寿を考えると、邪馬台は山泰、狗奴国は河内、投馬は桃魔、
補佐する弟は名も出さない、
行程は方角が出鱈目、由えに陳寿は誰だか解って書いてる。
陳寿を考えると、「邪馬台」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言、
「狗奴国は河内」は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って×、
投馬は南九州、補佐する弟は名も出さない、行程は方角もほぼ正確、
魏使らは、同時代の実地も見聞記録を書き、それを陳寿が踏襲して書いてる。
- 318 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:52:04.53 .net
- >>228
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の大和説って、
中身がないね
無意味な悪口しか言えないんだね
- 319 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:54:26.63 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 320 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 19:58:34.30 .net
- >>229
>外国から大和に来るには、瀬戸内海通るのが一般的、という事だよな。
魏使らは、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」や、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」から、
「大和に来て」いないので、×。
- 321 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:01:45.89 .net
- 軍事資料にもなるんだから東と南を間違えたら処刑されっぞ
庶民の道楽じゃないんだからな。
- 322 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:05:18.52 .net
- オレが決めた平原が伊都国ダ〜
オレが決めた岡山が投馬国ダ〜
オレが決めた奈良が邪馬台国ダー
オレが決めた箸墓が卑弥呼の墓ダー、 以上、文句あっかーの畿内説
- 323 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:05:59.69 .net
- 軍事資料にはならんよw
孫呉は滅んでるから
司馬氏の正当性の根拠にはなるけど
- 324 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:09:28.98 .net
- >>231
>>古い後漢鏡の出土の殆どは北九州。
>二世紀前半くらいまでのね それ以降はパッタリになる
なっていない。黄金鏡や明帝下賜の銅鏡百枚などがある。
>あとは割れたクズばかり
明帝下賜の「尚方作」の21枚の方格規矩鏡や、世界最大の内行花文鏡もある。
>倭国乱を境に九州が畿内勢力の下流に立った状況がモロ見え
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和は、九州倭國の「別種分家の旧小国の附庸國の大倭職」の国。
- 325 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:13:51.85 .net
- >>234
だからさ、インカアステカでは動物動力使った巨石を積み上げ、
卑弥呼の3世紀頃の倭國は「其地無牛馬虎豹羊鵲」であるから、
牛馬使って灌漑し巨大古墳を作った大和は、3世紀頃よりも遥かに後の時代、
で構わないでしょ。
- 326 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:18:18.37 .net
- >>319
誤認して書かれた史書をありがたがって宝にしている古代史ファン。
まあ、そういうケースはままあるけどな。
- 327 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:20:21.25 .net
- >>237
西日本の小さな国々の内、牛馬使って古大和湖を灌漑し巨大古墳を作ったんなら、
それは4世紀頃であり、
卑弥呼共立の3世紀の九州倭國の「其地無牛馬虎豹羊鵲」の話ではなく、
九州倭國の別種分家の旧小国の附庸國の「地方の市を監督する大倭職」の大和が、
少し大きな国になった、で構わんでしょ。
- 328 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:45:19.40 .net
- >>298
あの本は一部では人気が出ておりまして、ファンの方がウェブページを出しています。
・筑紫舞 SOMo SOMoさんのブログ
・出雲と蘇我王国 oyasumiponさんのブログ
他にもいくつかありますよ。
初めて見る人にはトンデモ内容なのは分かります。
面白い読み物だと思って覗いてみてください
- 329 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 20:52:52.36 .net
- >>298
オラワクワクしてきたぞw
この神社の秘密が、祭神イコール先祖が物部であることは隠せ、さもなければ全山焼き討ちにあう、みたいな内容だったかと
徐福の母親、高木神を祀る神社のはずです
〉「物部」に関しては、九州倭國の神職家であったらしい高良大社の「古系図」にも、
物部の名前が残されている。
- 330 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:02:13.00 .net
- .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
- 331 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:35:52.70 .net
- >>241
>それにしては、九州で大和や河内の土器が出るのは3世紀中頃からだけどね。
「大和や河内の土器」というのは、ちょっと問題だな。
明治の佐々木?だったかも書いていたが、
筑紫の庄内と大和の庄内の「型式」が同じだ、という事であり、
筑紫の3世紀前半の庄内は筑紫の胎土で造られていたんだから、筑紫の土器であり、
「大和や河内の土器」ではなく、「市を介して搬入された土器」でもなく、
逆に、大和の庄内1は3世紀末の石塚からであるから、年代順が逆であり、
大和の方が、後になって、筑紫から搬入された庄内を学んで造った、
という事になる。
- 332 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:42:48.48 .net
- >>331
竹島どろぼうチョンのデマなのでならない
- 333 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:43:20.94 .net
- >>244
>博多では3世紀前半から畿内の土器を模倣制作している
筑前以外はまだ関係ない
これも×。
博多の庄内は3世紀前半に筑紫の胎土を使って、筑紫で造られており、
大和の庄内は、3世紀末の石塚の庄内1が大和付近の胎土で造られており、
という事は、時系列的に、大和は、
九州倭国の地方の市を介してや、東征毛人五十五國軍が持ち込んだ庄内を真似て、
3世紀末に庄内1を造った、という事になる。
- 334 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:43:23.42 .net
- >>331
>筑紫の3世紀前半の庄内は…
その3世紀前半の庄内はどの遺跡で出たものなのか。
那珂なのかな。
- 335 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:49:05.13 .net
- 大和の庄内2式の模倣制作である筑前型庄内甕は3世紀前半から
- 336 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:53:08.95 .net
- >>258
>ざんね〜ん。
北部九州では、3世紀中頃以降はその秘境の土器の真似。
ざんね〜ん。
北部九州では、庄内は3世紀中頃以前に筑紫の胎土で庄内を造り始めているが、
大和や阿波と言った秘境の庄内は、3世紀後半以後に筑紫の庄内を、
市を介したり、東征毛人軍の持参庄内を知って、
3世紀末に自前の庄内を造り始めたの。
- 337 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 21:58:18.93 .net
- >>271
>久留米、八女には円形周溝墓が普通にあるから、山門権現塚が円形周溝墓であるのは普通のことだし。
ただ、周溝幅が広いことと、円墳のその円形がかなり整った形であることからすると、そうとう進んだ円形周溝墓であることがみてとれる。
やはり、卑弥呼の寿陵として造られたものだろうな。
ふーん、成程。
- 338 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:15:05.85 .net
- >>287
>帯方郡の使者が滞在して九州北部でもっとも安全なところは伊都国
だが伊都国は邪馬台国じゃないし
皇帝の代理とも言える使者は卑弥呼や台与に会ってないから近くにもいない
邪馬台国も台与も存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男が×。
>狗奴国の存在のせいで九州北部はどこも危険だが
卑弥呼の時は狗奴國は「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」であったらしいが、
壹與の時からは「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」であるから、
危険は無くなっていた事になる。
>もし卑弥呼や台与が九州北部にいたのであれば
九州北部で一番安全である伊都国へ来れないのはおかしい はい九州北部消えた
はい、キミの妄想がバレて消えた。
>皇帝の臣下が会わないとか非常に失礼だが 魏志倭人伝では邪馬台国は非常に遠く
往来が危険であるかのように書いていてお咎めがない
書いていない。
>九州北部から邪馬台国へたどり着くのは危険がともなうほど遠い
魏志倭人伝はその前提で書かれてる
だから会わないことについてのお咎めが魏志倭人伝にはどこにもない
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言。
- 339 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:22:35.77 .net
- >>307
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの
史料事実や史料実態に拠って、
この大和説男が×。
- 340 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:28:38.96 .net
- >>311
>終わったころが九州最南端の佐多岬じゃないなら陳寿の地理観が間違ってる
関係がない。
女王國は南の投馬國を含むから、佐多岬も含み、
魏の役人たちは、足摺付近の侏儒國付近まで「參問倭地」をしており、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種」の一部まで実地に見聞計測をしている。
- 341 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:31:46.72 .net
- >>316の訂正
>>220
>逆だよ。土木技術の向上があったからこそ、いきなり巨大古墳が作られた。
灌漑用に、無かった牛馬を導入したからこそだ。
馬が乗用のぜいたく品として埴輪なんかにあしらわれるのが後世であっても、
生産用に用いられたのはもっと前、でなければ、巨大古墳発生の理由が説明できない。
それとさ、牛馬なくして生産力が飛躍した例を出さねばならんのは、アンタでしょ。
じゃ、大和が牛馬を導入出来たのは、
卑弥呼の倭國の「其地無牛馬虎豹羊鵲」の後になり、
大和説は×になっただけだ。
- 342 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:40:07.09 .net
- 邪馬台国に牛馬はいない
巨大古墳は牛馬なしにつくるのは無理
巨大古墳の推定年代が正しければ、そこは邪馬台国ではないし
邪馬台国だとすれば、推定年代が間違っている
- 343 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:43:21.96 .net
- >>335
>大和の庄内2式の模倣制作である筑前型庄内甕は3世紀前半から
筑紫の3世紀前半の庄内式の筑前型庄内甕の、
「市や東征軍」を介しての模倣制作になる大和の、
石塚の庄内1は、3世紀末から
- 344 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:47:39.80 .net
- >>340
>関係がない。
関係がないのはお前たち反日朝鮮人
- 345 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:49:33.30 .net
- >>342
大規模古墳を牛馬で造ったと考えてる学者はいない
- 346 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 22:53:54.47 .net
- >>342
>邪馬台国に牛馬はいない
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
そんな文言を使って「牛馬はいない」なんてのたまわっても、根拠にならない。
>巨大古墳は牛馬なしにつくるのは無理
無理、というほどでもない。
生口や守墓人を獲得できれば、可能。
>巨大古墳の推定年代が正しければ、そこは邪馬台国ではないし
邪馬台国だとすれば、推定年代が間違っている
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり、
大和の巨大古墳は3世紀末の石塚など以後であり、
筑紫の3世紀前半の卑弥呼の頃の庄内のずっと後になり、
間違っていない。
- 347 :日本@名無史さん:2020/10/03(土) 23:16:31.96 .net
- 牛は5世紀の牛骨(奈良県御所市)、馬は4世紀後半の馬歯(山梨県甲府市)の出土が最古資料
- 348 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 00:02:01.37 .net
- >>338 妄想であることは認めるが違うとかないとかではなく
ちゃんと歴史的資料や証拠を提示してね
違うとかないとかサルレベルの反論は無意味
>壹與の時からは「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」であるから、
>危険は無くなっていた事になる。
そのあとに続くのも書こうね 政等以檄告喩壹與
危険でなくなって邪馬台国が九州だと言うなら
台与は張政に直接あえばいいのに檄で告げて諭してるのはなぜ
ここでいう「國中」は30ヶ国連合の国内の混乱はおさまったけど
狗奴国を平定したわけではないと思われ
- 349 :コテ略:2020/10/04(日) 00:05:45.73 .net
- >>316
> 大和が牛馬を導入出来たのは、
卑弥呼の倭國の「其地無牛馬虎豹羊鵲」の後になり//
重機たる牛馬の存在なくして、
3世紀中葉の巨大古墳の突然の発生は説明が付かない。
また、重機の存在を以ってして、古大和湖の灌漑が進んだ事により、
他地域を凌いだ大和たる、邪馬台国の突出が説明しうる。
逆なんだよ。牛馬もなかった地域がさ、
巨大古墳も築造でき、倭の中でも抜きんでた勢力に成り上がった事に、
驚きを以って記載されたんだよ、牛馬無しってのはね。
九州王朝国なぞ存在しない。何もかもが吸収王朝国のしたことです、
なんてのはね、何もかもがフリーメーソンの陰謀です、
ってのと何一つ変わらない。オ〆みたいな莫迦にはな、何もかもが無理なんだよ。
身の程を弁えろ、虫ケラ。
>>309 > 出雲とか生野越えとか邪馬台国とか大和説とかは//
矛盾でもあるってなら、サッサと書けよ、
オカルト脳なマジナイ並べてるんじゃなくてな、ノータリン
- 350 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 00:10:55.59 .net
- >>338 >書いていない。
この状況で安全だったの思うの?
思うのなら手漕ぎの船で海を五千余里渡ってみようか
参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭地を考えてみると
遠く離れた海中の島々の上にあり
離れたり連なったり
巡り巡って五千余里ほどである
- 351 :コテ略:2020/10/04(日) 00:22:49.54 .net
- >>342 > 巨大古墳は牛馬なしにつくるのは無理//
だからこそ、巨大古墳がある場所には、牛馬があり、
巨大古墳の年代は、張政の行った3世紀中葉なのであり、
そこは大和の邪馬台国だ。
牛馬無しってのはね、かつては牛馬すらなかった地域が、
大土木工事を行い生産力を高めて、西日本一帯の強国になった事に、
驚きを以って書かれたんだよ。
>>345 > 大規模古墳を牛馬で造ったと考えてる学者はいない//
だったらさ、突然の巨大古墳の発生を説明できる学者さんはいない、
って事になるね。そりゃそうだろう。それゆえ巨大古墳の先駆墳、
なんて無意味な議論に拘泥せざるをえないんだしさ。
>>346
> 無理、というほどでもない。生口や守墓人を獲得できれば、可能//
だったら巨大古墳は、もっと前から発生してるだろ、莫迦。
その突然の発生は、牛馬の存在そのものを肯定する。
> 346 > 邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘吐き騙し文言であり//
ありもしないのは吸収王朝国だ。
何でもかんでもヤスの仕業なんてオカルト脳には、全てが無理なんだよ。
莫迦は身の程を弁えろ。
- 352 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 00:39:44.07 .net
- 梯儁は淡々と文体を変えずに書いてるのに対して
張政はちょっと文体を変えてる
>東南陸行 五百里 到伊都國
>東南至奴国 百里
>東行至不彌國 百里
>南至投馬國 水行二十日
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
九州説は「行」とかの動詞に意味があるとか深読みしてるけど
ただ単に張政が面白く読ませようと文体を工夫しただけ
その前提でここは張政の脚色だろう
>國中遂定 国中遂に定まる
「遂に」とか大げさな感じを張政は書く
>卑弥呼以死 大作冢
このあたりも同様
そんな張政なので狗奴国を平定したならそれを書く
なぜなら張政だから
自己アピールを欠かすわけがない
張政帰国時までには狗奴国は平定されてないと思われる
魏志倭人伝を読むにあたりこういうとこも考慮して欲しいのよ
- 353 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 00:43:54.91 .net
- 今日はようやく投馬国の謎が解けてホクホク
ずーっとモヤモヤしていた頭の中の霧が晴れて気分爽快
霊感は投馬国は岡山の玉の事だとずーっと言ってくる
しかし、今の岡山の玉にはそれに見合った遺跡や古墳がないから
長い間ずーっとモヤモヤしていたのだ
それもそのはず、今と当時の海岸線が違いすぎたのだ
今日それがようやく分かった
ぜんぶ霊感に導かれて辿り着き、もう何もかも分かった
- 354 :uz :2020/10/04(日) 00:49:27.42 .net
- >>348
> 台与は張政に直接あえばいいのに檄で告げて諭してるのはなぜ//
彼が任地に赴きもせずソウルのスパで日和ってた、ってなら、
そりゃ違うぞ。
> ここでいう「國中」は30ヶ国連合の国内の混乱はおさまったけど
狗奴国を平定したわけではないと思われ//
元より女王国に属してなかった狗奴国は、別段平定される必要はない。
コマッタチャンな狗奴国が奴国の南にいても、景初弐年に遣使がなされ、
相変わらずコマッタチャンな狗奴国がいたが、正始8年にも遣使がなされ、
張政はソウルをすっ飛ばして都(台)に送還された、ということ。
狗奴国が服属したのはもう少し後、というだけですよ。
結局、女王国に属さない理由がなくなったから。
狗奴国の立ち位置は、筑紫君磐井に似てそうだな。
> 危険でなくなって邪馬台国が九州だと言うなら//
やはり大和でしょ、っていうのなら、クイズ番組じゃないんだから、
当たってりゃいいというもんではないよ。
- 355 :uz :2020/10/04(日) 01:00:45.90 .net
- >>352
> 大げさな感じを張政は書く (卑弥呼以死 大作冢) このあたりも同様//
牛馬もなかった大和の小国が、灌漑進めて国力貯めて、デカイ墳墓を作ってる、
と、驚いたからなんですよ。
> そんな張政なので狗奴国を平定したならそれを書く
なぜなら張政だから 自己アピールを欠かすわけがない//
書かなかったんだから、狗奴国は女王国には属さないまま、でいいでしょ。
狗奴国はコマッタチャンなままで、景初弐年も正始8年も、遣使がされてるんだからさ。
> 魏志倭人伝を読むにあたりこういうとこも考慮して欲しいのよ//
済まんがね、考慮に欠けてるのは、ご自身ですよ。
- 356 :コテ略:2020/10/04(日) 01:07:26.58 .net
- >>353 > 霊感に導かれて辿り着き、もう何もかも分かった//
事鬼道能惑衆わけですね。でもさ、惑わされてるのはご自身でしょうね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/94
- 357 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 01:19:31.74 .net
- >>356
おまえも霊感を使えばイイじゃん
あるならなw
- 358 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 01:27:23.09 .net
- >>351
箸墓古墳は人力で運ぶのが困難な巨石を使ってるわけでもなく、
周溝のすぐ外側から土取りして盛ってるので
牛馬がいてもいなくてもあまり変わらない
土木工事に牛馬の使用を想定するのであれば
弥生前期の43000u(10万uの可能性がある)の水田の耕作に
そのころから牛馬を使ったのかという話になってくる
- 359 :コテ略:2020/10/04(日) 01:28:22.21 .net
- >>357
ンなモンと共依存してるからオ〆はダメなんですよ。
- 360 :コテ略:2020/10/04(日) 01:37:05.46 .net
- >>358
> 弥生前期の43000u(10万uの可能性がある)の水田の耕作に
そのころから牛馬を使ったのかという話になってくる//
ならないよ。それって高が2から300m四方のレベルでしょ。
古大和湖の灌漑とか、それによる生産力の増大なんかとは比ぶべくもない。
> 土木工事に牛馬の使用を想定するのであれば//
巨大古墳は3世紀半葉に忽然と現れるんだよ。牛馬なくして説明は付かない。
何だかデカそうに見える二乗値何ぞ並べたって、ムダなんですよ、お莫迦さん。
- 361 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 01:43:21.71 .net
- >>359
霊感があるから俺も正しい解が得られる
その解をみんなに提供してやる事ができる
たまに今回の投馬国のように言ってくる答えが理解不能で苦しむときもあるが
- 362 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 01:43:37.32 .net
- >>360
古大和湖の灌漑のソースは?
古墳の土盛には牛馬よりも測量技術や土木技術のほうが必要
- 363 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 03:08:45.81 .net
- >>353
モヤモヤが晴れてスッキリしているところを横槍で突いて申し訳ないけど、
3世紀より前に、楯築遺跡の双方中円墳が造られて、ちゃんと現代まで残ってます。
勾玉などは、その棺の中でしょう。
宮山古墳も残ってます。玉は棺の中でしょう。
海の中じゃあ〜りません。
- 364 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 03:11:13.08 .net
- ヤマトが畿内にあったかどうかと、九州に王朝があったかどうかなんて本質的に関わりはねぇだろ。
余計なお世話だわなw
- 365 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 03:20:26.78 .net
- >>291
そんなことより、大国主は、出雲に立派な社を作り、我を祀るのなら、黄泉の国を担当するわ〜とか神話に出てるけど、その実、被害者が金を出して加害者と同じ神社にいたんだよね〜事に驚かんのかよww
- 366 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 04:16:09.02 .net
- >>336
>3世紀末に自前の庄内を造り始めたの。
返す返すもざんね〜ん。
庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
UA期(260年〜)になると、筑前型布留甕が現われてくる。
庄内甕の出現は、ちょうど卑弥呼の死去と重なる時期。
- 367 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 04:21:14.93 .net
- 物部十千根は、先代旧事本紀によれば、物部守屋の直接の祖で、六世の子孫の弟の家系。現在の秋上氏。物部守屋は本家筋の家系ではない様だ。
十種神宝に因む、魂を操るイメージの能力持ちを窺わせる節がある。
謎の出雲帝国においては、大神との対話の秘術は千家には伝えてないと言う言葉が出てくる。
- 368 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:06:16.18 .net
- >>347
>牛は5世紀の牛骨(奈良県御所市)、
馬は4世紀後半の馬歯(山梨県甲府市)の出土が最古資料
ふーん、成程。
- 369 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:22:37.00 .net
- >>348
>>壹與の時からは「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」であるから、
危険は無くなっていた事になる。
>そのあとに続くのも書こうね 政等以檄告喩壹與
危険でなくなって邪馬台国が九州だと言うなら
台与は張政に直接あえばいいのに檄で告げて諭してるのはなぜ
國中遂定の後に政等以檄告喩壹與があったのだから、
張政は、年若い壹與を励まし忠告している事になる。
>ここでいう「國中」は30ヶ国連合の国内の混乱はおさまったけど
狗奴国を平定したわけではないと思われ
國中遂定である限り、狗奴國の不和や抵抗は消失していた。
- 370 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:43:47.59 .net
- >>349
>>大和が牛馬を導入出来たのは、
卑弥呼の倭國の「其地無牛馬虎豹羊鵲」の後になり
>重機たる牛馬の存在なくして、
3世紀中葉の巨大古墳の突然の発生は説明が付かない。
倭國の別種の旧小国の大和の巨大古墳は、3世紀末の石塚などからであるから、
この大和説男の脳が、×。
>また、重機の存在を以ってして、古大和湖の灌漑が進んだ事により、
他地域を凌いだ大和たる、邪馬台国の突出が説明しうる。
大和成立以前の奈良盆地でも、開墾を牛馬無しに頑張っていた事になるだけ。
>逆なんだよ。牛馬もなかった地域がさ、
巨大古墳も築造でき、倭の中でも抜きんでた勢力に成り上がった事に、
驚きを以って記載されたんだよ、牛馬無しってのはね。
魏使らは、「南≠東」や「參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里」などに拠って、大和には来ていない。
- 371 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:46:32.44 .net
- 牛なんてな南の方に行かなきゃいねえよ
- 372 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:49:54.88 .net
- 370
日本は山地多く平地が少ないだぞ
稲作が盛んに行われたのが築紫平野
その次が豊平平野でその次が福井平野なんだとよ
つまり山陰沖に移動してんの
その途中にあるのが出雲な
- 373 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 05:58:03.84 .net
- >>350
>この状況で安全だったの思うの?
思うのなら手漕ぎの船で海を五千余里渡ってみようか
参問倭地 絶在海中洲?之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭地を考えてみると 遠く離れた海中の島々の上にあり 離れたり連なったり
巡り巡って五千余里ほどである
おそらく陳寿は、魏使らの記録から「記載された陸行部分の里数」を合計して、
400余×2+300×2+500+100+(4000余−1000余)=5000余(里)、
という計算で、五千余里と記載した。
但し「4000余ー1000余」は、
「女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里」
の陸路部分の計算分。
- 374 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:04:30.06 .net
- >>351
>> 無理、というほどでもない。生口や守墓人を獲得できれば、可能
>だったら巨大古墳は、もっと前から発生してるだろ、莫迦。
その突然の発生は、牛馬の存在そのものを肯定する。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」なんだから、卑弥呼がいた倭地には牛馬はいなかった。
- 375 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:12:28.98 .net
- >>352
>魏志倭人伝を読むにあたりこういうとこも考慮して欲しいのよ
関心がない。
魏の役人らは、原則は、ありのままの事実を記録報告するだけ。
どこかの国の役人のように、抹消改竄をさせられて、自殺させられる事はない。
- 376 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:14:56.78 .net
- >>373
>おそらく陳寿は、魏使らの記録から「記載された陸行部分の里数」を合計して
そもそもこれが、トンデモたる由縁。 @阿波
- 377 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:17:03.77 .net
- >>353
>今日はようやく投馬国の謎が解けてホクホク
ずーっとモヤモヤしていた頭の中の霧が晴れて気分爽快
霊感は投馬国は岡山の玉の事だとずーっと言ってくる
しかし、今の岡山の玉にはそれに見合った遺跡や古墳がないから
長い間ずーっとモヤモヤしていたのだ
それもそのはず、今と当時の海岸線が違いすぎたのだ
「投馬国は岡山の玉の事だ」は、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
始めから×であり、成立しない。
- 378 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:24:20.33 .net
- >>354
>狗奴国が服属したのはもう少し後、というだけですよ。
ダメだ。
「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與」
であるから、
壹與が王に立てられて、それで「國中遂定」したのであり、
それで、張政らは「幼い壹與」を励ますために、「以檄告喻壹與」をしたの。
- 379 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:27:23.11 .net
- だからどおしたんだって話
- 380 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:30:14.39 .net
- >>355
>>そんな張政なので狗奴国を平定したならそれを書く
なぜなら張政だから 自己アピールを欠かすわけがない
>書かなかったんだから、狗奴国は女王国には属さないまま、でいいでしょ。
いや「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」だから、
狗奴國も、壹與が「王に為す」事に承服同意した、という事になる。
- 381 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:45:36.96 .net
- >>364
>ヤマトが畿内にあったかどうかと、九州に王朝があったかどうかなんて本質的に関わりはねぇだろ。
余計なお世話だわなw
ダメだ。
大和日本國は、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族らの地域であったが、
九州の倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠って征服された地であり、
九州倭國から別れた別種の旧小国の附庸國になっていたのであり、
地方の市を監督する「大倭」職の国であったのであり、
白村江の後で母国の九州倭國を併合吸収継承して、列島の盟主國になった、
という事が史料事実であり、史料実態だ。
- 382 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 06:58:19.33 .net
- >>366
>(大和は)3世紀末に自前の庄内1を造り始めたの。
>返す返すもざんね〜ん。
庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
UA期(260年〜)になると、筑前型布留甕が現われてくる。
庄内甕の出現は、ちょうど卑弥呼の死去と重なる時期。
久住の筑紫の土器編年には、久留米祇園山の庄内の根拠になり、
大きな反論はないが、
大和の庄内を「230年〜260年」としたのは、
庄内1の石塚が3世紀末になるので、×。
久住も、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者である限り、
アホのままだね。
- 383 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 07:13:59.60 .net
- >>382
>庄内1の石塚が3世紀末になるので、×。
なって何故悪い?
- 384 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 07:33:17.60 .net
- >庄内式は畿内から九州に伝播したので畿内の方が古い
テンプレにしきりに取り上げているが、
言っとくけど、庄内式=畿内第X様式弥生土器 じゃないよ!奥山君。 わははははは @阿波
- 385 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 07:37:37.81 .net
- テンプレにしきりに取り上げているが、勘違いをしてはいけない。
畿内説の云う畿内第V様式土器とは、あくまで旧式の厚型重量弥生土器を指すのであって、
庄内式や布留式などの「軽量薄型丸底土器」ではない。 @阿波
- 386 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 07:48:43.54 .net
- 「黒谷川郡頭遺跡」:「東阿波型土器(弥生時代後期」」の土器編年の標識遺跡 @阿波
- 387 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 08:06:29.77 .net
- >>353
>今日はようやく投馬国の謎が解けてホクホク、、、
>霊感は投馬国は岡山の玉の事だとずーっと言ってくる
おい、玉の話しはやめろ、その玉島国の隣には金光町というのがあってだな
両国を結ぶ街道は、俗に「金投馬街道」という。
- 388 :uz :2020/10/04(日) 08:58:37.79 .net
- >>380
> いや「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」だから、
狗奴國も、壹與が「王に為す」事に承服同意した、という事になる//
ならねぇよ。狗奴國は服してなかったって書いてあるんだし、
服したってんなら、当然それも書く。
序に云えば、告諭ってのは、狗奴國との対立に対してのそれだろ。
>>369 > 張政は、年若い壹與を励まし忠告している事になる//
なんねえよ。張政は外交してるんであって、物見遊山じゃない。
所詮、吸収王朝国なんてヨタに耽る脳味噌レベルだよ、オ〆はな。
何でもかんでもフリーメーソンの仕業、なんて莫迦話を信じるノータリン
まぁ、中にはネタとしては秀逸なオカルトがあったとしても、
それはチャンと、ネタ、戯言として鑑賞する視点があってこそのはなしなんだよ、莫迦。
- 389 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 09:00:50.29 .net
- >>366
>庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
比恵36次周溝墓TB期古層が、在来系と伝統的X様式系・庄内系の割合が半々
- 390 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 09:13:37.10 .net
- >>382
大和の庄内0〜1は北部九州IA期と並行 >>11
TB期新相の那珂八幡古墳の前
- 391 :uz :2020/10/04(日) 09:23:23.81 .net
- >>374
> 「其地無牛馬虎豹羊鵲」なんだから、卑弥呼がいた倭地には牛馬はいなかった//
粘着に何度糞レス付けてもな、無いのにあった、流石だね、の意味だ。
実際に、親魏倭王に叙せられてるんだしな。
むろん、突然の巨大古墳の登場、及びその基礎となった灌漑工事の進展、
という事実について、何も矛盾しない。
オ〆みたいな莫迦なんぞが覆えせる仮説なんかじゃないんだよ。
>>362 > 古大和湖の灌漑のソースは?//
それが無い、ってのは矛盾ではないだろ。
アンタが探せばええだろ。矛盾の無い仮説には、それに見合う物件がどこぞに埋まってるよ。
> 古墳の土盛には牛馬よりも測量技術や土木技術のほうが必要//
当然、そういう物も付随しての導入だよ、アホ。
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんではなかろう。
いつまでもC^14だの、纏向箸墓だの、頓珍漢で取って付けた様な史料解釈でもあるまい。
掘るのが仕事ってなら、サッサと新たなネタでも掘り当てろ。
- 392 :uz :2020/10/04(日) 09:26:08.53 .net
- >>347
> 牛は5世紀の牛骨(奈良県御所市)、馬は4世紀後半の馬歯(山梨県甲府市)の出土が最古資料//
それを下る事はない、ってだけのハナシだよ。
どういう状況での出土例なのかは知らんがね。
- 393 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 09:45:28.62 .net
- >>369 >>380
>いや「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」だから、
>狗奴國も、壹與が「王に為す」事に承服同意した、という事になる。
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
更に男王立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。
復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。
原文を文章として続けて読むと男王が立って殺し合いになったけど
台与が王になったら国中遂に定まるとなる
そうなると定まったのは内乱であり
魏志倭人伝の文中から狗奴国を定めたということは書いてないことになる
- 394 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 09:53:03.74 .net
- >>391
それが無い、ってのは、弥生前期の43000u(10万uの可能性)の水田との比較対象にはならない
測量技術や土木技術が牛馬に付随して導入されたソースは?
- 395 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 09:56:35.35 .net
- これだと男王は狗奴国の男王のことだとか言いそうだな
反論の余地を残さないところまで書こう
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。
復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。
原文を文章として流れで読むと
男王は30ヶ国連合に属する誰かで狗奴国王ではない
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素より和せず
卑弥弓呼とはすでに交戦中なので
卑弥呼の死をきっかけに戦いをした男王と卑弥弓呼は別の人物
- 396 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:00:02.50 .net
- >>393
その通りだ。以下で「国」とは「卑弥呼を共立した倭30国」の事
更立男王 國中(倭国中)不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中(倭国中)遂定
- 397 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:01:18.79 .net
- >>387
>その玉島国の隣には金光町というのがあってだな
両国を結ぶ街道は、俗に「金投馬街道」という。
例えば、
「馬韓」という呼称は、その住民が「馬」という動物を知っていたり、
存在していたから名付けるものであり、
倭地においても、投馬國や、邪馬壹國や、斯馬國や、邪馬國や、奴國の官の兕馬觚など、
「馬」の文字使用が存在し、
魏使らの目には止まらなかったかも知れないが、
少数の馬を使用出来た国があった可能性はある。
しかし、吉備での「金投馬街道」という情報の、信頼性や、
「投馬」や「馬」の文字使用の意味は、不明である。
投馬國からの東征軍?が「金を投げた?街道」という伝承があったかもしれない。
- 398 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:08:57.53 .net
- >>388
> いや「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」だから、
狗奴國も、壹與が「王に為す」事に承服同意した、という事になる
>ならねぇよ。狗奴國は服してなかったって書いてあるんだし、
始めは「不屬女王」や「素不和」だとはっきり書かれていて、
それが「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」となったという事は、
「不屬や不和ではなくなった」という事だ。
服したってんなら、当然それも書く。
- 399 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:17:28.08 .net
- >>391
>オ〆みたいな莫迦なんぞが覆えせる仮説なんかじゃないんだよ。
云い貼るだけじゃどうしようのないだろ。オ〆は随分とアタマ割るそうだな。 わははははは @阿波
- 400 :コテ略:2020/10/04(日) 10:17:52.82 .net
- >>394
だからさ、高々300m四方の、人力でも出来そうな田んぼがあったからって何なんだよ。
>>398 > 國中遂定」服したってんなら、当然それも書く//
「國中遂定」がそれ、ってのかね。クナと和なんてかいてねぇよ。
それゆえ、不和ゆえのの告諭だろアホ。
オ〆如き莫迦が覆すことなぞ不可能な仮説なんだよ、ノータリン
- 401 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:19:15.32 .net
- >>378
>「張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之」
>「政等 以檄 告喩壹與」
後世の日本の例でいえば、檄・黄幢は「錦の御旗」のようなものだったのだろう。
- 402 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:19:24.61 .net
- >>389
>>庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
>比恵36次周溝墓TB期古層が、在来系と伝統的X様式系・庄内系の割合が半々
ふーん。
しかし、相変わらず、「庄内甕の出現と筑前型庄内甕」のように、
「庄内甕」とはどこの庄内甕なのか?、をはっきりさせていないし、
「伝統的X様式系・庄内系」とはどこのものか?、もはっきりさせていないですね。
- 403 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:22:52.71 .net
- >>391
>クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんではなかろう。
当たってるわけないだろ!
オ〆みたいな莫迦にはな、何もかもが無理なんだよ。
身の程を弁えろ、虫ケラ。 わははははは @阿波
- 404 :コテ略:2020/10/04(日) 10:24:02.67 .net
- >>399 > わははははは @阿呆//
莫迦は渦潮の応援でもしてりゃエエんだよ、>>253 で書いただろ。
(忌部 渦潮 邪馬台国 とかでググる)
- 405 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:25:15.86 .net
- >>395
>これだと男王は狗奴国の男王のことだとか言いそうだな
その通り。
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
- 406 :コテ略:2020/10/04(日) 10:27:04.07 .net
- >>403 > 当たってるわけないだろ。 わははははは @阿呆//
むろん、その通りだ莫迦。
- 407 :コテ略:2020/10/04(日) 10:28:38.96 .net
- >>405 > これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿呆//
オ〆はオ〆で妄想塗れの虫けらだよ。
- 408 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:28:45.92 .net
- >>395
>卑弥呼の死をきっかけに戦いをした男王と卑弥弓呼は別の人物
卑弥呼の死をきっかけに、これ幸いと卑弥弓呼が王位に就いたのさ。 @阿波
- 409 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:30:53.31 .net
- >>390
>大和の庄内0〜1は北部九州IA期と並行 >>11
TB期新相の那珂八幡古墳の前
ダメだよ。
私は、大和の庄内1の石塚が3世紀末になる、と言っているんだから、
「大和の庄内0〜1」とは、
どこの胎土であって、どこの出土土器であったのか?や、
その根拠を書かなくっちゃダメだし、
那珂八幡自体も、3世紀後半半ば過ぎ頃にしかならない。
- 410 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:31:15.22 .net
- >>397
>倭地においても、投馬國や、邪馬壹國や、斯馬國や、邪馬國や、奴國の官の兕馬觚など、
>「馬」の文字使用が存在し
これは、帯方郡下の有力種族であった馬韓族の流れであることを意味しているのだろう。
なおついでに、
「金投馬街道」に玉を代入してみろ(金○街道)、どうなるかな
それに気がつかぬとは、オメが日本人でないのは良くわかったwww
- 411 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:33:13.12 .net
- 卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
出雲狗奴国王「須佐之男命」 の息子「大国主命」は、卑彌呼宗女「壹與」と同世代である。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
- 412 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:33:51.49 .net
- >>408日本@名無史さん2020/10/04(日) 10:28:45.92
>>395
>卑弥呼の死をきっかけに戦いをした男王と卑弥弓呼は別の人物
卑弥呼の死をきっかけに、これ幸いと卑弥弓呼が王位に就いたのさ。 @阿呆
- 413 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:34:16.51 .net
- >>395
>卑弥呼の死をきっかけに戦いをした男王と卑弥弓呼は別の人物
卑弥呼の死をきっかけに、これ幸いと卑弥弓呼が王位に就いたのさ。 @阿波
- 414 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:38:34.12 .net
- >>393
>更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
原文を文章として続けて読むと男王が立って殺し合いになったけど
台与が王になったら国中遂に定まるとなる
そうなると定まったのは内乱であり
いや「国中」だと書いてある。
>魏志倭人伝の文中から狗奴国を定めたということは書いてないことになる
当然、狗奴國は、卑弥呼の頃には「不属女王」であったが、
倭國の中には含まれていた国であるから、「国中」の中に含まれる。
- 415 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:42:01.42 .net
- 「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
- 416 :コテ略:2020/10/04(日) 10:42:36.62 .net
- >>408
> 卑弥呼の死をきっかけに、これ幸いと卑弥弓呼が王位に就いたのさ。 @阿呆//
ヒミクコは素不和なんだから、卑弥呼生前よりヒミクコなんだよ。
自分こそは卑弥呼だ、ただ、俺は男だから卑弥彦だ、って事だ。
オ〆の史料漁りなぞ、お遊びでしかない。
今でも関係者なのかは知らんがね、渦潮の応援でもしてりゃエエんだよ。
公立なんだし、県大会で決勝にでも行けば、21世紀枠ぐらいだろ。
それとな、国産み説話が四国島嶼優先なのは、元が渦潮発生譚だったからなんだよ。
毎日見てたんだろ、鳴門の渦潮は。ああ、>>412 は、書き込み中の誤送信だ。
- 417 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:43:01.93 .net
- >>395
>これだと男王は狗奴国の男王のことだとか言いそうだな
そんな書いてもいないアホな事は、言わない。
魏志倭人伝では、「男王」と「狗奴國王」とははっきり区別した書き方をしている。
- 418 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:46:11.76 .net
- >>414
倭国の中に狗奴国は含まれていない、倭人伝を読むならこれ初歩の解読だ。
- 419 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:46:38.90 .net
- >>398
>>388
>> いや「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」だから、
狗奴國も、壹與が「王に為す」事に承服同意した、という事になる
>ならねぇよ。狗奴國は服してなかったって書いてあるんだし、
服したってんなら、当然それも書く。
始めは「不屬女王」や「素不和」だとはっきり書かれていて、
それが「復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」となったという事は、
「不屬や不和ではなくなった」という事だ。
- 420 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:47:31.48 .net
- >>416
>ヒミクコは素不和なんだから、卑弥呼生前よりヒミクコなんだよ。
そんなことを妄想捏造してるのはオ〆だろ、虫けら。 わははははは @阿波
- 421 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:47:47.24 .net
- >>409
我国のどの学者の研究か示されているテンプレにアンカを付けているので不要
学問の場では素人の年代観は採用しない
- 422 :コテ略:2020/10/04(日) 10:49:26.46 .net
- >>419
同じことを云い貼るだけのノータリン。オ〆の膿味噌では、何もかもが無理なんだよ、
莫迦は身の程を弁えな。
- 423 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:50:15.28 .net
- >>418
>倭国の中に狗奴国は含まれていない
卑彌呼の時代はね。
壹與の時代に「出雲の国譲り」により、狗奴国も倭国に併合された。 @阿波
- 424 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:56:38.85 .net
- 壹與の後の >其後復立男王
その男王とは「神武天皇」だ。 @阿波
- 425 :コテ略:2020/10/04(日) 10:57:49.16 .net
- >>421 > 学問の場では素人の年代観は採用しない//
年代測定が当たっていても、それを事実や史料と適切合理的に関連付けられねば、
それは素人が学問の場で粋がってるだけにしか過ぎないんだよ。
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんではない。
- 426 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 10:59:47.51 .net
- 狗奴国じゃねえもん
一番東が毛野国だもんよ😃
御諸別王ってのが毛野国の王だよ
蝦夷とも戦ったが東国十二国を平定して勢力を広げたって伝承があるだよ
- 427 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:00:17.50 .net
- >>414
カッコ「 」の中をきっちり読め、オメは文章の最後の方をスッ飛ばして読む癖があるようだな。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使「倭國」 皆臨津捜露 傳送文書 賜遺之物「詣女王」、、
(韓の諸國及び郡使が「倭國」に参った時は、文書下賜の物は女王に伝送する)
其國本亦 以男子為王 住七八十年「倭國亂」、相攻伐歴年「乃共立一女子為王」、、、
(「倭国」が乱れたが、共立の「一女子を以て王」と為した)
- 428 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:03:28.75 .net
- その子孫の中に毛野荒田別ってのがいて神功皇后の子供が死んだんで荒田別の子供を神功皇后の子供として後の応神天皇になったって話だろ
宇佐と荒田別はもともと同じ一族だからほの話を聞いたら宇佐の連中ら喜んだんだとよ
そんで応神天皇や神功皇后も祀るよ〜になったらしい
宇佐
- 429 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:06:42.23 .net
- >>418
>倭国の中に狗奴国は含まれていない、倭人伝を読むならこれ初歩の解読だ。
狗奴國は、「不屬女王」であるから「女王國」には含まれなかったが、
「倭地」の国の中に書かれており、だから「倭國」には含まれる。
だから、私はこれまでそのように書き分けて来た。
- 430 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:08:48.85 .net
- あれ?クナトってのなかったか?
- 431 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:10:56.58 .net
- クナト神を祀ってるの出雲やなかったか?
- 432 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:11:00.75 .net
- >>429
>倭国の中に狗奴国は含まれていない
卑彌呼の時代はね。
壹與の時代に「出雲の国譲り」により、狗奴国も倭国に併合された。 @阿波
- 433 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:22:35.55 .net
- >>429
共立後の女王国が、イコール=倭国であり、
倭国(共立女王国)に反抗的な狗奴国は、陳寿の定義では倭国の中には入れてもらえてなかったのだ。
つまり、不服の狗奴国が倭国の外であったため、説明上この狗奴国を含めて「倭国+狗奴国」を指す場合を「倭地」と書いているのだ。
此の理解で、最初から倭人伝を読み直してみろ。スンナリ読める・・。
- 434 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:33:31.12 .net
- >>425
年代推定が正しければ古墳の築造新旧関係は決まる
那珂八幡と纏向石塚の話しかしていないので
ここでは史料は関係ない
- 435 :uz :2020/10/04(日) 11:34:34.97 .net
- >>427 > 其國本亦 以男子為王 住七八十年「倭國亂」、相攻伐歴年「乃共立一女子為王」//
その魏志の記載では、卑弥呼が王として立ったのが何時であるのか不明ですが、
後漢書の記載で、桓霊の間と限定されています。
それは同時に、男王が立った時代もまた、その七八十年前に限定された、という事です。
その頃何があったかについても、留意してください。
倭の奴国王への金印紫綬は、奴国は登場するにも拘らず、魏志には記載がありません。
それは、魏志の時には、この金印紫綬が全く知られていなかったからです。
後漢書編者の范曄は、何故それを知りえたかについても考えるべきです。
書庫の棚卸で、なんて事ではなく、彼は同時代人から情報を得たのです。
>>(前スレ)297 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/297
> 同時代の金印の記載の「委奴國」の方が//
倭 = 委 なんだよ。これは、史料にて説明されている。
「委奴國」なぞ存在せず、「委奴國」は伊都国でもない。むろん、吸収王朝国なんぞも存在しない、
何もかもが吸収王朝なんてオカルト脳では、何もかもが無理なんだよ、莫迦。
> 「後代の自己解釈に拠る書き換え」の多い范暢(ママ)//
それはオ〆に他ならん、てか、解釈どころか、オ〆はオカルト脳の莫迦にしか過ぎん。
- 436 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:37:19.19 .net
- 「女王国」=鮎喰川下流域
「邪馬臺国」=吉野川流域+鮎喰川下流域
卑彌呼時代の倭国=「邪馬臺国」=吉野川流域+鮎喰川下流域
臺與時代の倭国=「邪馬臺国」+「狗奴国」 @阿波
- 437 :コテ略:2020/10/04(日) 11:38:06.74 .net
- >>434 > 年代推定が正しければ古墳の築造新旧関係は決まる//
穴掘り屋乙
> ここでは史料は関係ない//
学会の場でイキがる素人乙
- 438 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:42:41.88 .net
- >>421
>我国のどの学者の研究か示されているテンプレにアンカを付けているので不要
学問の場では素人の年代観は採用しない
テンプレのスレ主は、
「邪馬台国」や「畿内」などという史料事実に存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う詐欺をしており、
また「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
基本的な史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをしており、
曲解や否定の嘘つき騙しをしており、
とても正常な人間や学者とは思えず、・・・・アホ詐欺師にしかならず、
このスレに参加した当初に2回以上「全テンプレへの反論否定」をしたが、反応反論は全くなく、
その後は相手にしていない。
また、学問の場では、
自然や歴史の観察や実験や計測の事実や実態に対する曲解や否定の嘘つき騙しは、
通用しない。
必要な部分がある、と思えば、転写しな。
- 439 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:43:40.47 .net
- >>437
学会の場とは一言も書いていない
- 440 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:51:23.73 .net
- >>438
つまり反日朝鮮人の主観だけを根拠にしたレスは相手にされていない
- 441 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 11:59:40.76 .net
- >>418
>倭国の中に狗奴国は含まれていない、倭人伝を読むならこれ初歩の解読だ。
いや、狗奴國は、卑弥呼女王國には属していないが、
「親魏倭王」とされた「倭地の国王」の範囲には含まれるから、
倭國に含まれる。
卑弥呼女王國と狗奴國は、倭國内の内紛、という捉え方だ。
倭人伝を読むならこれ初歩の解読だ。
- 442 :コテ略:2020/10/04(日) 12:01:22.07 .net
- >>438
> このスレに参加した当初に2回以上「全テンプレへの反論否定」をしたが//
藁。どうせさ、何もかもがフリーメーソンの仕業、
なんてアホレス書いただけなんだろ、ありもしない吸収王朝国なんて名前つけてさ。
寿男てのは、オメデタイ脳味噌になる様にと親御さんが願いを込めて漬けた名前ではなかろうに、
恥ずかしい香具師だな、オ〆はさ。
これはお〆ではなく古賀という香具師が入れ揚げてる様だが、二中歴も笑えるな。
暦的な文書なんだが、こういうのにさ、超古代史とか未来記が書かれている、
なんてのは、オカルト脳の定番だ。
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。
- 443 :コテ略:2020/10/04(日) 12:02:52.31 .net
- >>439 > 学会の場とは一言も書いていない//
直接話法で書かれてないのを読み取るのが史料解釈だ莫迦。
- 444 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:04:18.38 .net
- >>441
>「親魏倭王」とされた「倭地の国王」の範囲には含まれるから
倭国の範囲は、時代と共に広がっていく。 @阿波
- 445 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:05:56.63 .net
- 倭人伝の国名に使われている漢字の字義と国の特徴が関連しているなら
奴国は奴隷の国になる
- 446 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:06:15.62 .net
- >>443
史料ではなく5chのレス
- 447 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:17:48.05 .net
- >>441
>「親魏倭王」とされた「倭地の国王」の範囲には含まれるから
「忌部一族」の全国進出にともない、倭国の範囲は、時代と共に広がっていく。 @阿波
- 448 :コテ略:2020/10/04(日) 12:19:17.43 .net
- >>446 > 史料ではなく5chのレス//
仮託、だな、5chってのは。
史料を読み取って真実を見極めるのは、中々に難しいのだが、
アンタのツマラン書き込みを読み解くくらいは、何でもないんだよ。
- 449 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:20:25.97 .net
- >>441
>「親魏倭王」とされた「倭地の国王」の範囲には含まれるから、
>倭國に含まれる。
「親魏倭王」の意味は「倭地の国王」でなく、ただの「倭の王」(倭地の中の一人の王)である。
それは他方にもう一人の王の狗奴国王がいたからである。
つまり卑弥呼は狗奴国を制していなかったので、「親魏倭国王」でもなく「親魏倭地之王」でもなくて、
一段格下の「親魏倭王」の金印紫綬にとどまったのである。
- 450 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:23:51.88 .net
- >>448
読み解いているのではなくて不正確なだけ
- 451 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:40:40.79 .net
- 滇王之印、濊王之印、親魏大月氏王
「〇〇国王」にはなっていない
- 452 :コテ略:2020/10/04(日) 12:41:59.96 .net
- >>448
ガナー案件だよ。ダラダラと糞レス垂れ流すな、莫迦。
>>1 > 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです//
クイズ番組じゃないんだからさ、当たってりゃエエってもんではないし、
ダラダラと頓珍漢な糞天麩羅垂れ流すな、莫迦。
- 453 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 12:42:24.06 .net
- >>414 国中の中に狗奴国が含まれると断定してるところがおかしい
可能性は否定しないけど断定するには理由の提示が必要で
ただ単に含まれるの連呼では説明になってない
- 454 :uz :2020/10/04(日) 13:00:43.64 .net
- >>451
> 滇王之印、濊王之印、親魏大月氏王 「〇〇国王」にはなっていない//
それはヒミたんも同じで、奴国王は違った、という事だね。
大月氏の首長や卑弥呼は王、奴国の首長は国王だった、という事だ。
なお、宋書倭国伝、倭武王上表に係わるこのクダリなんだが・・・
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事
安東大將軍倭國王・・・
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
安東大將軍倭王
雄略自らは倭國王と称するも、叙任されてるのは、倭王だね。
これは、宋王朝の、いわば戯言なのであって、単なる「國」の脱落ではない。
中国は、王と国王を、別のものと認識していた、という事です。
- 455 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:05:38.38 .net
- >>438
>「邪馬台国」や「畿内」などという史料事実に存在もしなかった嘘つき騙し文言を使う詐欺をしており、
「邪馬台国」も「畿内」も史料事実が存在するって
認めない時点でもう話にならないでしょ
世間に決して通用しないたわごと
だいたい世間常識に反することを主張するのに
何も論証をする気がないのだから
九州論でも説は、世間に爪弾きにしろと自分でお願いしてるようなもんだ
- 456 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:09:31.67 .net
- >>430
>>431
クナ国は、第一次物部東征で敗れた大彦(この時すでに安倍氏に変わっている)が琵琶湖東岸の最後の戦いを境に日本海側に敗走し、北陸方面に向かう事になるのだが、これ以降、大彦の勢力は大和の磯城王朝とは分離し、クナ王国と見做される様になる。蝦夷扱いですね。
物部嫌いであった彼らは銅鐸祭祀を続けたとされる。
故に2世紀近辺の東海北陸ではクナ国時代の古墳からは鏡が殆どでない。
大彦は出雲の血が濃く受け継がれる磯城家を誇りに思っており、出雲王家の字を取り、登美の長髄彦と名乗ったこともある。
クナ国では出雲の大神、クナト神、幸神を信仰した。
若狭や加賀方面に出雲系の国造家が出来たというのは大彦系の事。
息子は事代主奥方のヌナガワ姫に因んだ名前で、ヌナカワワケ。彼は東海方面に向かう。途中では伊賀国造家になる。
狗奴国の勢力は大彦とその息子の二つの勢力を指している。
息子の勢力は伊豆から駿河まで追われるが、安倍川の地名が残る。最終的には北上川方面に日高見国を作る。
記紀では父親の勢力と息子の勢力が合流した事にして会津と呼ばれる様になったと書いているが、大彦は既に亡くなっており、二人は出会っていない。
- 457 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:12:23.23 .net
- >>456
なにをどう勘違いしたらそんな自分勝手読みができるんだい?
最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。 わははははは @阿波
- 458 :コテ略:2020/10/04(日) 13:13:59.41 .net
- >>456 > 物部東征//
物部王朝も大和王権の東遷も無いんだよ、後者はあったが如くに書かれていてもな。
- 459 :コテ略:2020/10/04(日) 13:17:11.72 .net
- >>457
それはお〆も同じだよ莫迦。オツムの中に渦潮でも涌いてるのかよ。
- 460 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:19:42.99 .net
- >>459
馴れ馴れしいため口叩いて対等のツモリかね。
オ〆は寝るとき以外はマスクしてればいいんだよ。
莫迦が伝染ると迷惑だ。飯も喰うには及ばんよ。
どうせウンコの製造原料にしかならんのだシネ。 わははははは @阿波
- 461 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:22:25.24 .net
- >>456
阿部一族にはクヌ国の久努臣があり久努朝臣になる。静岡あたり。
魏書に出てくるククチヒコは大彦系。新撰姓氏録にもその様に書かれている。
後漢書に出てくる東方千里のクナ国は、分家のクヌ国のことではないかという話がある。
- 462 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:32:14.17 .net
- 大彦は記紀では何とか将軍と書かれる様になるが、所謂朝敵であったので政権には協力はしていない。
彼の死の詳細は出雲王家には伝わっておらず、先代伝承者(この人の台で向家は出雲大社上官職から離れる)の正雄氏は後に調査結果を纏めている。
長野県の犀川流域に居た布施氏と協力して住んでいたが、現在の将軍塚古墳に埋葬される。
そこに布施神社が建てられ、祭神は大彦と、冬衣命、
後者は第7代の出雲の大国主。古事記にも出ているよ。
- 463 :uz :2020/10/04(日) 13:32:28.74 .net
- >>449
> 卑弥呼は狗奴国を制していなかったので、「親魏倭国王」でもなく「親魏倭地之王」でもなくて、
一段格下の「親魏倭王」の金印紫綬にとどまったのである//
北九州の地方政権でしかなかった倭の奴の国王は、何故格上なのかね。
薩摩あたりの田舎もん、なんて小莫迦にされた秀吉も、日本国王なんて格上なのはなぜ。
>>454 でも書いたが、国王と王は別、というのは構わんのだが、そういう解釈は違うんだよ。
むろん、単なる脱落なんてのも違うし、時代が異なる、なんてのも関係はない。
明史日本伝は、過去の倭伝等と同じ書出しなんだから、
過去の記載をちゃんと意識して、国王としてるんだしさ。
- 464 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:34:28.78 .net
- 近畿から以北の犀川の地名は大彦系で、幸神三神のうちのサビ姫から来ているとされる。
- 465 :コテ略:2020/10/04(日) 13:35:44.23 .net
- >>460
それは全部オ〆だよ、渦潮脳で妄想塗れの虫けらよ。
- 466 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:37:47.35 .net
- >>458
ヤマト王権は東征していない。
文句を言うにしても日本語は正しく理解してから言えよw
物部王朝と言っても後天的に大和を占領したからであって、天皇という概念すらなかった当時は単に地方の小国の王様の事だろうさ。
- 467 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:39:51.49 .net
- >>433
>共立後の女王国が、イコール=倭国であり
いや、倭人伝の当初の記述に>>433
>共立後の女王国が、イコール=倭国であり
いや、倭人伝の当初の記述に、
「・・・此女王境界所盡。其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王」
と書かれた限り、
狗奴國は、女王國の境界の外にあり、「不屬女王」と書かれているから、
「女王國ではない」とはっきり定義付けられており、
しかし「倭人伝」の冒頭の中に書かれた限り、倭地倭人の国であり、
親魏倭王印の倭國の中には含まれる。
要するに、卑弥呼と狗奴國の争いは、倭國の中の内輪もめ。
- 468 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:45:44.15 .net
- 所謂忍者組織ってのは大彦系が多く、全国に散らばった出雲系の集団を出雲散家と呼んだ。
サンカの語源。
だからサンカの刀はウメガイになってる。
物部の血も入ってるからスサノオも信仰してた。
忍者を使ってた真田氏の神社は、サンカに近い名前になっており、百名山の四阿山に奥社があるよ。
東出雲王家は全国の情報を束ねる家だったので、尼子氏や毛利氏が情報を欲しがった。
イズモオクニも要はスパイ。
黒田家が神社を通して情報収集してたのと同じ。
- 469 :コテ略:2020/10/04(日) 13:49:16.66 .net
- >>466 > ヤマト王権は東征していない。
文句を言うにしても日本語は正しく理解してから言えよw//
はァ? それを物部に置き換えてるだけだろ。
物部王朝と神武東遷を掻き混ぜてるだけなんだよ、アンタはさ。
自分の云い草が斬新独自だなんて妄想に耽る阿呆にしか過ぎんのだ、オ〆はさ。
- 470 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:50:11.17 .net
- >>435
>その魏志の記載では、卑弥呼が王として立ったのが何時であるのか不明ですが、・・・
魏使らが卑弥呼と会った240年頃に、「年已長大」と判断しており、
「長大」は、中国では30〜35歳位の使用例がありますから、
卑弥呼が生まれたのは、205〜210年頃だ、と判ります。
そして、20歳位の頃に女王になった、とすれば、
女王になったのは、225〜230年頃です。
- 471 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:50:46.00 .net
- >>457
あまり阿波阿波言ってると、日本の様に歴史がないから、後出しで兄の国とか言い出す朝鮮人とか言われますよ?ww
- 472 :コテ略:2020/10/04(日) 13:52:15.00 .net
- >>464 > 近畿から以北の犀川の地名は大彦系で//
鉄剣銘がこびり付いてるだけだね。大彦なんて普通名詞だよ。
- 473 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:52:23.69 .net
- >>469
だからちゃんと本になってる程度の話だと何度言ったらww
まだ日本語が読めないのか?w言ったそばからそれかよw
- 474 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:55:28.30 .net
- >>471
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など語る資格などない。
頭が高い! @阿波
- 475 :コテ略:2020/10/04(日) 13:57:15.63 .net
- >>470 > 女王になったのは、225〜230年頃です//
後漢書を全く理解できてないだけだよ。むろん、魏志の方の、七八十年も、マルで分かってないね。
> 魏使らが卑弥呼と会った240年頃に、「年已長大」と判断しており、
「長大」は、中国では30〜35歳位の使用例がありますから//
トヨたんみたいな少女ではなかった、というだけだ。
- 476 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:58:30.73 .net
- >>474 > 頭が高い! @阿呆//
- 477 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 13:59:00.38 .net
- >>453
>国中の中に狗奴国が含まれると断定してるところがおかしい
可能性は否定しないけど断定するには理由の提示が必要で
ただ単に含まれるの連呼では説明になってない
冒頭の30国位の国名列挙は、倭地倭國の中の「国名」になる形だよ。
- 478 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:00:21.34 .net
- >>474 > 頭が高い! @阿呆//
高くて中では渦潮が回ってるな、妄想糞塗れの虫けら。
>>476
- 479 :コテ略:2020/10/04(日) 14:03:38.45 .net
- >>473 > だからちゃんと本になってる程度の話だと何度言ったらww//
読み齧った本を混ぜ合わせてるだけの妄想莫迦だね。
- 480 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:04:05.34 .net
- >>478
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「邪馬臺国」など語る資格などない。
頭が高い!
オ〆なんかの膿味噌なんかではな、何もかもが無理なんだよ、莫迦は身の程を弁えな。 @阿波
- 481 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:07:43.60 .net
- >>479
お前の妄想の話と、氏素性の、出自がしっかりしてる人の話、どっちが信憑性あると思ってるんだよw
それも複数の旧家の伝承だぞ?ww
お前は天皇陛下様なのか?ww
- 482 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:21:13.25 .net
- >>480
なにコイツきんもー
- 483 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:23:14.85 .net
- >>482
阿波さまは天然記念物だからあれでいいの。
- 484 :コテ略:2020/10/04(日) 14:41:55.51 .net
- >>481
> 氏素性の、出自がしっかりしてる人の話、どっちが信憑性あると思ってるんだよw//
オ〆の氏素性が確かでも、家柄が泣いてるねと小莫迦にするだけだよ。
> それも複数の旧家の伝承だぞ?ww//
そういう単純多数決は採用しない。
> お前は天皇陛下様なのか?ww//
勅命を盾にする積りはないね。
- 485 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:46:26.34 .net
- >>484
よっ、後ちゃん天皇陛下
- 486 :コテ略:2020/10/04(日) 14:48:45.98 .net
- >>482 > なにコイツ(@阿呆)きんもー//
忌部 "渦潮" 邪馬台国 なんかでググる。
人名がヒットすれば、それなんかでも。
- 487 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:50:02.59 .net
- >>486
よっ、後ちゃん天皇陛下ww
- 488 :コテ略:2020/10/04(日) 14:53:52.04 .net
- >>485 > よっ、//
アンタはダメ杉晋作かね。
まぁ、叙任された別のヒトに、よっ、なんて呼ばわったんだがね。
- 489 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:55:38.80 .net
- >>488
つまらん、やり直し。
よっ、後ちゃん天皇陛下www
- 490 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 14:57:54.60 .net
- >>402
この場合の庄内甕は、大和と河内です。
- 491 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:00:03.28 .net
- >>401
檄は旗ではないですね。
- 492 :コテ略:2020/10/04(日) 15:02:15.11 .net
- >>489 > つまらん//
知らんかったのか。
まぁ、混ぜる材料じゃないんだしな、時代的にさ。
- 493 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:09:03.58 .net
- >>449
これは勉強になるな。私、漢文はからっきしだから
出雲王家ほんは、大元出版という会社から出てるんだけど、別の人が邪馬台国関連の本を出してる。
それが一度廃盤になって、タイトルを変えて再販になってるんですよ。
親魏倭王の都→親魏倭国の都。
タイトル変更にも意味があるのかもと思わされます。
〈〉つまり卑弥呼は狗奴国を制していなかったので、「親魏倭国王」でもなく「親魏倭地之王」でもなくて、
一段格下の「親魏倭王」の金印紫綬にとどまったのである。
- 494 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:12:31.82 .net
- >>389
>伝統的V様式・庄内系の割合が半々
その庄内系というのは吉備甕ではないか。
- 495 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:38:15.54 .net
- .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
- 496 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:48:23.75 .net
- >>389
庄内系甕の拡散については、
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」(角南聡一郎)
に詳しい。
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」で検索し、画面の上から二番目のサイトを開く。
- 497 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:52:43.62 .net
- >>496
結論だけをみる場合は、この論文の26pを参照のこと。
- 498 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:54:10.00 .net
- >>496
>庄内系甕の拡散については、
全国展開していった「忌部はん」 による「東阿波型土器」の拡散だよ。
まっとうな考古学者なら、心のなかでそう思っている。 @阿波
- 499 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 15:56:57.81 .net
- >>498
野生の阿波さんが現れた。
- 500 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:03:53.41 .net
- >>498
阿波のクレジットでは、前方後円墳のルーツも萩原だからな。
- 501 :コテ略:2020/10/04(日) 16:04:07.00 .net
- >>493 > 一度廃盤になって、タイトルを変えて再販になってるんですよ。
親魏倭王の都→親魏倭国の都。
タイトル変更にも意味があるのかもと思わされます//
そりゃ単に、打ち間違えとちゃうんか。
最後まで誰も気が付かず、最終版でありゃ、もう間に合わん。
どうせ大した出版数じゃないんだから、テープでも貼ればええのにさ。
> これは勉強になるな//
藁
- 502 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:06:24.49 .net
- >>501
聴こうと思えば聞けるので、やってみますかね、陛下w
- 503 :コテ略:2020/10/04(日) 16:21:54.48 .net
- >>502 > 聴こうと思えば聞けるので//
幻聴かい? 書くことがイチイチ糖質っぽいんだね。
> やってみますかね、陛下w//
ニュータイプの糖質なのかな。どこの御花畑の園遊会なんだい?
あ、ダメ杉新作のエピソード周りも、何だか宮中の御花畑が関係してた気もするな。
- 504 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:23:52.37 .net
- >>503
効いてる効いてるww
- 505 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:28:08.80 .net
- >>500
前方後円墳のルーツも萩原。
まっとうな考古学者なら、心のなかでそう思っている。 @阿波
- 506 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:29:16.10 .net
- >>505
こうかはばつぐんだ。
- 507 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:36:54.46 .net
- >>490
>>>庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
比恵36次周溝墓TB期古層が、在来系と伝統的X様式系・庄内系の割合が半々
>>ふーん。
しかし、相変わらず、「庄内甕の出現と筑前型庄内甕」のように、
「庄内甕」とはどこの庄内甕なのか?、をはっきりさせていないし、
「伝統的X様式系・庄内系」とはどこのものか?、もはっきりさせていないですね。
>この場合の庄内甕は、大和と河内です。
では、その久住の「230年〜260年」の根拠は、何だったの?。
- 508 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:47:34.15 .net
- ここに居るほぼ全員が40歳以上。
阿波さんは子供がいないか、下手すると独身w
- 509 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 16:52:50.93 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 510 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:15:03.10 .net
- >>509
まーだやってらっしゃるのか
「大和忌部」陵 ← 黒塚古墳(天理市)
「東海忌部」陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 511 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:25:48.11 .net
- >>507
久住編年では、その庄内甕(TB期新相、230年〜260年)は大和、河内の甕でしょう。
このスレで解釈しているTB期古相の庄内系甕とは、吉備系庄内甕なのではないでしょうか。
弥生V様式と共伴するとしているのですから、その吉備系庄内甕の時期は210年〜230年頃でしょう。
- 512 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:27:53.04 .net
- >>505
表に出せないというところが、味噌。
- 513 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:36:10.81 .net
- 「前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料」
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
- 514 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:42:33.42 .net
- >>513
ホケノ山古墳は現在ではもう少し新しい時期の古墳として2018年に結論つけられたはずだが?
- 515 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:46:42.82 .net
- >>514
>ホケノ山古墳は現在ではもう少し新しい時期の古墳として2018年に結論つけられたはずだが?
もっと新しくても別に構わないんだよ。 卑彌呼のお墓は「前方後円墳」じゃないんだから。 @阿波
- 516 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 17:54:27.65 .net
- >>483
天然記念物級のガイジってことですか?
- 517 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:02:10.79 .net
- 日本書紀では、最初の具体的な国の記述はイザナギが禊して日神などを生んだ日向(南九州)となっている。
そして、その次の具体的な国はスサノオが降りた出雲。
このことからすると、日本列島で最初にできた文化世界を九州とし、そのつぎに成立した文化世界を山陰と認知していることになる。
山陰に後発の文化世界が成立したときには、大和を基軸とした文化世界はまだ存在していなかったということになる。
つまり、大和を基軸とする文化世界はごく新しいものだと日本書紀の編纂者は認識していたことになるわけだ。
この認識は、考古学の知見と一致するものであり、縄文・弥生前半は九州を基軸とする文化世界であり、その後の弥生後半に日本海側の山陰に新たな鉄器などの貴重財の流通を基軸とする文化世界が現われたことと一致する。
そして、そのあとに現れたのが大和の古墳を基軸とする文化世界であるという認識なのである。
このことからすると、日本書紀の編纂者は、日本の縄文から弥生、そして古墳時代までの文化世界の時系列の変遷過程をちゃんと知っていたということになり、
大和の自分たちの文化世界が、ある時点以前には存在していなかったということが認識されていたということになるのだ。
日本書紀の内容は、実に素晴らしいものだということができる。
- 518 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:16:51.68 .net
- >>517
百済ない
- 519 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:18:08.16 .net
- >>515
いや、構うだろそれ
時代が合わないんだから
- 520 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:20:09.96 .net
- >>511
訂正
吉備系庄内甕のTB期古相の時期はは200年〜230年が正しい。
- 521 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:26:03.19 .net
- >>518
邪馬台国大和説にとっては、不都合な真実だからな。
- 522 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:35:26.70 .net
- >>494
>>庄内甕の出現と筑前型庄内甕は、久住編年のTB期新相(230年〜260年)。
比恵36次周溝墓TB期古層が、在来系と伝統的X様式系・庄内系の割合が半々
>その庄内系というのは吉備甕ではないか。
ふーん。
- 523 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:36:03.67 .net
- 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡
当時はヤマトに奈良という呼び方がまだなかったように吉備という呼び方もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼び方の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、海岸線が今よりもはるかに内陸にあったために都がかなり内陸に
あったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
- 524 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:43:30.34 .net
- >>496
>庄内系甕の拡散については、
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」(角南聡一郎)
に詳しい。
角南は「畿内」という「宗教的な結論先にありきのインチキ文言」を使っており、
そうすると、その論考も、始めから「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州であった」の否定などの、
基本的な史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの論を使っている可能性が高く、
読む価値もない可能性が高く、
暇もないから、読まない。
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」で検索し、画面の上から二番目のサイトを開く。
- 525 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:43:46.36 .net
- 郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
↑ここがミソ
- 526 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:49:05.88 .net
- >>519
>時代が合わないんだから
なんの時代に? 卑彌呼は「前方後円墳」の時代以前なんだから。 @阿波
- 527 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:52:18.39 .net
- >>511
>久住編年では、その庄内甕(TB期新相、230年〜260年)は大和、河内の甕でしょう。
このスレで解釈しているTB期古相の庄内系甕とは、吉備系庄内甕なのではないでしょうか。
弥生V様式と共伴するとしているのですから、その吉備系庄内甕の時期は210年〜230年頃でしょう。
それで、久住は、
石塚の庄内1(庄内0〜庄内1という大和説学者もいるようだが)を、
何年位に比定しているの?。
そしてその比定の根拠はなにだったの?。
- 528 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:54:48.78 .net
- おい、タマタマの話しはやめろちゅうに。
その玉島の隣には金光町というのがあってだな、両地を結ぶ街道は、俗に「金○街道」という。
- 529 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 18:57:02.74 .net
- >俗に「金○街道」という。
えっ? 俗に「〇玉街道」だって?! @阿波
- 530 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 19:03:46.81 .net
- >>520
>吉備系庄内甕のTB期古相の時期はは200年〜230年が正しい。
吉備なら、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の征服軍が、
(大和よりも)かなり早く到達していて、市の開設も早くて、
筑前の3世紀前半の庄内が搬入伝搬されて、模倣されていた可能性はあるが、
「TB期古相」では、「200年〜230年」というのが合わないなあ。
- 531 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 19:18:13.97 .net
- >>530
まあ、畿内V様式の土器と一緒に出るとすると、吉備系庄内甕の年代はそんなもんじゃないでしょうかね。
- 532 :コテ略:2020/10/04(日) 19:25:10.28 .net
- >>504 > 効いてる効いてるww//
死沼で治らんオ〆に効く薬なぞないだろ、エテ公。
- 533 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 19:32:33.58 .net
- 霊感を使っても投馬国の解明が一番難しかったわ
霊感は岡山の玉だ玉だと言ってくる
でも岡山の玉には五万戸もあるような遺構はない
やっぱ出雲でしょと出雲を眺めると霊感が違う違うと言ってくる
で、岡山の玉に戻されてしまうのだが、岡山の玉にはやはりそれらしき遺構はない
やっぱ出雲でしょと出雲を眺めると、また霊感が違う違うと言ってくる
この繰り返しの葛藤が半年くらい続いてイライラしていたが、
先日、その貼ってある当時の海岸線の地図を見つけて、ようやく謎が解けたという訳
- 534 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 19:38:44.55 .net
- >>527
久住猛雄の石塚古墳の評価をあちこち探していますが、
そうした中、那珂八幡古墳の新しい知見が出ていました。
下に挙げますね。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/
- 535 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:18:50.16 .net
- >>523
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部球種」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。
- 536 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:21:48.22 .net
- >>524の訂正
>>496
>庄内系甕の拡散については、
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」(角南聡一郎)に詳しい。
「西日本における畿内系甕製作技術の展開」で検索し、画面の上から二番目のサイトを開く。
角南は「畿内」という「宗教的な結論先にありきのインチキ文言」を使っており、
そうすると、その論考も、始めから「南→東」や「冢→前方後円墳」や、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州であった」の否定などの、
基本的な史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの論を使っている可能性が高く、
読む価値もない可能性が高く、
暇もないから、読まない。
- 537 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:24:26.77 .net
- >>525
>郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
↑ここがミソ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
×。
- 538 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:30:35.84 .net
- >>527
久住氏は、纏向石塚古墳の編年を庄内2式期としているようです。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12340148660.html
- 539 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:38:29.84 .net
- >>530
そういうトンデモを言えないうほど
九州説の地位は落ちていく
- 540 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:40:46.77 .net
- >>531
>吉備系庄内甕のTB期古相の時期はは200年〜230年が正しい。
>まあ、畿内V様式の土器と一緒に出るとすると、吉備系庄内甕の年代はそんなもんじゃないでしょうかね。
大和の庄内1の石塚が3世紀末になるんだから、
大和の第X様式は始めから、最低3世紀末頃まで続いていた事になる筈であり、
また、筑紫側のTB期古相の時期は、大体3世紀中頃であるから、
それが吉備に伝搬したとしても3世紀中頃以後であるから、
どっちから「吉備へ伝搬した」としても、200年〜230年は、数十年位古過ぎる。
- 541 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 20:53:42.16 .net
- >>534
>久住猛雄の石塚古墳の評価をあちこち探していますが、
そうした中、那珂八幡古墳の新しい知見が出ていました。
下に挙げますね。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/
ご紹介有難う御座います。
2:1は前から知っていましたが、後方部が端広がりが少なかった?などというのは、
新しい情報です。
しかし、久住は福岡市埋蔵文化財課なんですね。
道理で、彼は大和の事は大和の学者の意見の受け売りであったようだ、
という事も判りました。
- 542 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:07:12.15 .net
- まあ、あらゆる学問を完全否定しないと九州説は存在し得ないからな
- 543 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:18:09.09 .net
- >>534
那珂八幡古墳の墳形が宇佐の赤塚古墳に似ているとすると、宇佐赤塚古墳は3世紀末とされているので、八幡古墳が従来3世紀末〜4世紀初頭とされていたのと重なるし、
実際そんなものじゃないの。
http://www.fuwaiin.com/kofun/kofun-soremici/kyuusyuu/ooita/fudokinomori-akatuka-kofun/akatuka-kofun.html
- 544 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:39:08.27 .net
- .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
- 545 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:42:33.70 .net
- 畿内説のは、学会といっても天理学会、創価学会、心霊学会、UFO学会なんかだろ
よく当たるらしいが、、、
- 546 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:53:39.96 .net
- >>545
九州説のひとは能力的にいって「批判」という行為が出来ないようだ
だからといって代わりに「誹謗」をしていると
永遠に畿内説には歯が立たない
- 547 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 21:55:48.10 .net
- 久住は、
纏向石塚 大和庄内2式 北部九州TB期古相
那珂八幡 大和庄内3式 北部九州TB期新相
- 548 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:08:58.48 .net
- >>538
>久住氏は、纏向石塚古墳の編年を庄内2式期としているようです。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12340148660.html
ご紹介、有難う御座います。
しかし、そのプログをかいた「気まぐれな梟」氏という人物は、
大和の前方後円墳の年代を、それまでの説から50年〜100年位遅らせていますが、
誰でどんな人なんですか?。
- 549 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:15:07.92 .net
- >>539
そういうように、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しには触れず、
「口先でのトンデモ誹謗」しか言えなくなればなるほど
大和説の地位は落ちていく
- 550 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:21:38.20 .net
- >>542
まあ、あらゆる「都合の悪い史料事実や史料実態」を完全否定しないと、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態で、
大和説は存在し得ないからな
- 551 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:27:01.65 .net
- 福岡市博物館のアーカイブスには、八幡古墳は3世紀末〜4世紀初頭の古墳だとかかれているけどね。
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/011/index.html
- 552 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:32:22.05 .net
- >>543
>那珂八幡古墳の墳形が宇佐の赤塚古墳に似ているとすると、
宇佐赤塚古墳は3世紀末とされているので、
八幡古墳が従来3世紀末〜4世紀初頭とされていたのと重なるし、
実際そんなものじゃないの。
那珂八幡を300年前後にすれば、
那珂八幡の進化型である大和の石塚や箸墓も連動して、
300年以後の4世紀になってしまうだけだよ。
- 553 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:37:37.93 .net
- >>546
「南→東」や「冢→前方公園墳」や「正北抵新羅の倭國じゃ北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説のひとは、
思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師ばかりだから、
能力的にいって「批判」という行為が出来ないようだ
だからといって代わりに「誹謗」をしていると
永遠に九州説には歯が立たない
- 554 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:52:08.80 .net
- >>551
30年前の企画展示
- 555 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 22:56:35.37 .net
- >>547
>久住は、
纏向石塚 大和庄内2式 北部九州TB期古相
那珂八幡 大和庄内3式 北部九州TB期新相
久住が、例えば、
纏向の石塚を、纏向の古墳の土器で編年したりする事などは判るけど、
なんで、北部九州の古墳の土器編年にも、編年する事が出来たの?。
年次的ににも、関係がないかも知れないではないか。
那珂八幡の場合も、逆ではあるが、同じことが言えるんだが。
- 556 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:05:15.18 .net
- >>555
なにを間抜けたことを
九州の土器と畿内の土器が一緒に出てるからに決まってるだろ
- 557 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:06:38.05 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 558 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:07:08.19 .net
- >>551
>福岡市博物館のアーカイブスには、八幡古墳は3世紀末〜4世紀初頭の古墳だとかかれているけどね。
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/011/index.html
そのサイトには、
「八幡古墳は3世紀末〜4世紀初頭の古墳だ」とは、書かれていなかったよ。
- 559 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:11:45.30 .net
- >>555
例えば江戸時代の長崎で古伊万里が出る
長崎ではいつごろのものかわからないが
伊万里ではいつごろ作られていたものかわかる
- 560 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:14:09.91 .net
- >>556
>なにを間抜けたことを
九州の土器と畿内の土器が一緒に出てるからに決まってるだろ
その大和の土器が、大和の胎土で造ってあるんなら解るけど、
筑紫の胎土で造ってあるらしいから、
そりゃ筑紫の人間が造った土器になってしまうんだよ。
- 561 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:31:12.82 .net
- 論文を読まないと断言してる反日ジジイが
聞きかじりで都合がいいように解釈するから
根拠を聞かれるとYahooでのマンガみたいなHNが言ってたというような
呆れた答えが返ってくる
- 562 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:31:52.96 .net
- 長崎は大村湾周辺が怪しいな
このあたりが投馬国かもしれない
戦時中に軍の施設を建てるためほとんど整地されてしまったらしいが
■帯取遺跡/長崎県大村市
1700年前の鍛冶工房跡、大村・帯取遺跡から 鉄器を再加工?
https://mainichi.jp/articles/20200208/ddl/k42/040/248000c
■富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
- 563 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:39:31.02 .net
- >>558
「3世紀末〜4世紀初め」の項目のもとに4基の古墳が挙げられていて、その中に八幡古墳が載せてあるのだから、八幡古墳はこの時期の古墳だというてるわけよ。
で、その後いつのまにか3世紀中頃といわれるようになって、それだけの大きな発見があったのかというと、それほどの発見はなかったみたいだから、
なんかへんだな〜と首を傾げることになるのよ。
- 564 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:45:21.34 .net
- >>563
30年前の企画展示の紹介に
第2主体から出た三角縁の写真が貼ってあるだろ
- 565 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:49:50.45 .net
- >>563
学問の進歩を否定しないと
九州説が死ぬからね
- 566 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:52:50.74 .net
- >>560
>そりゃ筑紫の人間が造った土器になってしまうんだよ。
なったって時代は変わらない
- 567 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:53:10.86 .net
- >>548
いや、古代史ファンなんじゃないですか?
- 568 :日本@名無史さん:2020/10/04(日) 23:58:12.56 .net
- そもそも土器作りなんてのは縄文人らお手のもんやからな〜
- 569 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 00:03:08.94 .net
- 562
日本ではそんな金属含有率の質のいいのでてくるのもっと後の時代だからな
- 570 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 00:16:11.45 .net
- 九州説が100%あり得ないという結論は
昔からの古代史ファンには受け入れがたい物だろう
- 571 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 00:52:55.10 .net
- 郡使が寄港した投馬国の港が今の海岸線よりも20qも内陸にあったなんて
誰が想像できたであろうか?
吉備が3Cの世界では「たま」と呼ばれていたなんて誰が想像できたであろうか?
出版物にもネットにもどこにも出てこない事なのだ
霊感は時として信じられない事実を教えてくれる
- 572 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 02:45:55.94 .net
- >>564
三角縁は3世紀後半になってから出始める鏡だし。
八幡の第二主体から三角縁が出て、その第二主体が第一主体の妻だとしたら、第一主体の埋葬は第二主体とそう時期的にはなれてないだろう。
八幡の築造時期が3世紀末というのは妥当じゃないの。
- 573 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 02:47:48.39 .net
- >>565
八幡が3世紀中頃の築造だと判断した根拠を挙げてみてちょ。
- 574 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 03:01:06.42 .net
- 大陸では大和の位置を後漢時代までは正確に知っていた。
だから、後漢書には、大和は韓国の東南大海の中にあるとはっきり書いている。
しかしあの時代の地図は、韓国の南方に日本列島が、九州から南の方角に伸びて描かれている。
故に、魏国そのものが大和の位置を勘違いしていた。
魏の役人は、大和の出先機関である伊都国で豊玉姫に騙される結果となった。
これは葛城国がオオヒビ(開化天皇)の後に分裂状態になっていたから可能な事であった。
- 575 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 04:38:52.40 .net
- 舩で何日も移動するのに方角間違えたら二度と帰れません
つか、朝と夕方、太陽の方角がはっきりわかるのに90度も方角間違える人はいません
- 576 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 04:48:15.33 .net
- >>565
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の否定」や、
「存在もしなかった畿内や邪馬台国なんて騙し文言」を使い、
「大和の考古を北部九州よりも古くするインチキ」などの、
学問の進歩を否定しないと
大和説が死ぬからね
- 577 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:07:43.75 .net
- >>566
>>そりゃ筑紫の人間が造った土器になってしまうんだよ。
>なったって時代は変わらない
いや、筑紫と大和での、それぞれの編年を別個に独自にするだけなら構わんが、
土器や考古文物には、伝搬に要する年数の差異が起こり得、
だから、それぞれの絶対年次を同じだと、断定する事は出来ないもの。
- 578 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:13:58.82 .net
- >>570
大和説が100%あり得ないという結論は
昔からの、皇国史観学者や、国粋国家主義の右翼思想の・・・・古代史ファンには、
受け入れがたい物だろう
- 579 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:23:53.17 .net
- >>571
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をして、
郡使が寄港もしなかった投馬国の港が吉備にあったなんて
誰が想像できるであろうか?
普通の成人人類が「南を東に間違える」なんて誰が想像できたであろうか?
出版物にもネットにもどこにも出てこない事なのだ
思想宗教に狂った大和説者の「霊感」とやらは、
時として信じられないような「恐怖の実態」を教えてくれる
- 580 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:32:38.40 .net
- >>572
>三角縁は3世紀後半になってから出始める鏡だし。
列島の最古の△は、魏の楽浪帯方攻撃戦争の頃の、糸島の志登の3世紀前半末頃だし、
卑弥呼の墓の可能性が高い3世紀中頃の祇園山からも△が出ているし、
その後も藤崎西新町などからも出土して、その後が那珂八幡など。
大和の△は4世紀。
- 581 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:37:02.76 .net
- >>580
だという理由がない
また九州説さん、思想宗教に狂って御託宣してるのかな
- 582 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:40:01.66 .net
- >>577
>だから、それぞれの絶対年次を同じだと、断定する事は出来ないもの。
そうやって考古学を完全否定するから
九州説は学問の世界から消えた
- 583 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:42:53.69 .net
- >>574
>大陸では大和の位置を後漢時代までは正確に知っていた。
いや、殆ど知っておらず、
知っていたとしても倭種の存在や、出雲や越程度であり、
大和の事など殆ど知らず、
魏使らも、北部九州や足摺付近の侏儒國や、
南アメリカ大陸付近の裸國や黒歯國の伝聞程度であった。
>だから、後漢書には、大和は韓国の東南大海の中にあるとはっきり書いている。
後漢書もも、大和の事は殆ど知らず、
知っていたとしても、九州倭国の「東征毛人五十五國」の附庸國があった、という程度にあった。
- 584 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 05:58:18.86 .net
- >>573
>八幡が3世紀中頃の築造だと判断した根拠を挙げてみてちょ
三角縁が出ているからI IAだとされていたが土器相からI Bというのが現場調査した人の判断なので
- 585 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 06:00:16.45 .net
- >>583
>いや、殆ど知っておらず、
>知っていたとしても倭種の存在や、出雲や越程度であり、
理由もなく断定するのは
思想宗教に狂って御託宣してるってことだ
- 586 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 06:03:01.13 .net
- >>580
ウィキの「三角縁神獣鏡」では、各地の古墳から出土した主なものを県別にまとめている(ウィキのそのサイトの一番下)が、
その古墳の年代が3世紀中頃であるのは那珂八幡古墳だけ。
その他はほとんどこれよりも新しい3世紀末以降の年代となっている。
那珂八幡古墳の築造年代に疑問符がつくのではないだろうか。
同古墳は以前には3世紀末〜4世紀初め頃の築造とされていたので、その年代だとおおかたの三角縁を出土した古墳と年代が合う。
- 587 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 07:25:03.03 .net
- >>586
>その古墳の年代が3世紀中頃であるのは那珂八幡古墳だけ。
いくらあーだこーだ言ったところで、
「那珂八幡古墳」の水銀朱は、筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波
- 588 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 07:53:14.16 .net
- >>579
朝も早よからインチキ宗教家呼ばわりかw
インチキなら、鞆とか出雲とか、もっとメジャーな場所をでっち上げるんじゃないだろうか?
霊感はそれらには目もくれず、ダイレクトに岡山の玉だと言ってくるんだよ
投馬国が岡山の玉なんて畿内説でも極めてマイナーな説のはずだよ
もちろん今の岡山の玉ではないんだが
でも「恐怖の実態」というのは事実
投馬国が岡山の玉なんてオレだって恐怖ですよw
オレだって投馬国は最初は鞆か出雲だと思っていたのだから
- 589 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:01:19.39 .net
- >>586
あんた確実にヴァカだろ
那珂八幡の三角縁が第二主体だって今だに理解できてない
- 590 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:08:44.56 .net
- >>584
>>八幡が3世紀中頃の築造だと判断した根拠を挙げてみてちょ
>三角縁が出ているからI IAだとされていたが土器相からI Bというのが現場調査した人の判断なので
何だ?、どちらも「絶対年代的な根拠」にならんではないか。
筑紫の△も、
渡来の呉系楽浪鏡らの国内生存期間に拠って、数十年の製作時幅があり、
更に、その弟子たちの製作期間を考えると、更に製作期間幅が広がり、
更に、依頼者の購入後から副葬年次までの年数も考えると、百年近い年が簡単に経ってしまうし、
土器も、祭祀のために新しく作った土器以外は、何十年かの生存期使用期間があり、
鏡も土器も、那珂八幡などの墓の年次の絶対的な根拠にはならないよ。
- 591 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:10:08.76 .net
- >>586
多分その「まとめ」がゴミ
- 592 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:12:11.45 .net
- 15代・応神天皇元年を考古学的にも文献史的にも最有力の390年として、20人後、30人後の平均在位を計算してみる。
重祚が絡んでくるので、大変ややこしいが頑張って計算してみた。
言っておくけどやってない人間がやってる人間に文句を言うな。
文句があるのなら自分で計算すればいい。
⓵ 15代応神から20人後は34代舒明天皇で641年まで在位。
641から応神元年390を引くと251年
251を20人で割ると12.55
応神天皇以降20人の平均在位は12.55年。
そしてお母さんの神功皇后を確実な1代とみなし神武まで15代を遡る。
12.55×15=188.25
四捨五入して188年とし、応神元年390年から188年を引き神武のおおよその即位年を割り出す。
390-188=202
神武即位はおおよそ202年
A 15代応神から重祚を考慮した30人後は45代聖武天皇で749年まで在位。
749-390=359
359を30人で割ると11.9666…・
応神から30人後の平均在位は11.966
上記、神功皇后を確実な1代とみなし15代遡る。
11.966×15=179.49 四捨五入して179年
応神元年390年から179年を引くと211年
神武即位はおおよそ211年。
どっちにしても神武は卑弥呼の時代だ。
- 593 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:17:58.41 .net
- >>592
だから神武は狗奴国の男王だって
- 594 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:22:06.43 .net
- >>586
>ウィキの「三角縁神獣鏡」では、各地の古墳から出土した主なものを県別にまとめている(ウィキのそのサイトの一番下)が、
その古墳の年代が3世紀中頃であるのは那珂八幡古墳だけ。
その他はほとんどこれよりも新しい3世紀末以降の年代となっている。
那珂八幡古墳の築造年代に疑問符がつくのではないだろうか。
同古墳は以前には3世紀末〜4世紀初め頃の築造とされていたので、その年代だとおおかたの三角縁を出土した古墳と年代が合う。
古墳自体の築造(開始?)年次は、前方後円墳が、
勿論「冢≠前方後円墳」であって、
それまでには見た事も存在した事もなかった特異な形態が、発生したものであるから、
やはり、266年の西晋武帝の天円地方思想の伝授の影響を想定する事が避けられず、
モンゴルや高句麗の「前方後円墳」型の伝来も十分可能性があり、
それを考慮して、那珂八幡は3世紀後半半ば過ぎという推定が出来、
そして、その他の前方後円墳は、那珂八幡の「どの程度の進化型であるのか?」で、
築造年次順の推定が可能である事になる。
- 595 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:31:35.40 .net
- >>587
>朝も早よからインチキ宗教家呼ばわりかw
当然「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定をする大和説者は、
スレ主や全員に「インチキ宗教」呼ばわりをしなければならないもの。
しかし、東大理系博士号自称男や貼り付け魔らは、もう国民にも殆ど、
国家国粋人種差別に狂った・・・・アホ詐欺師である事が殆ど周知になっている、
と思うから、現在は、殆ど放置している。
- 596 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:39:26.92 .net
- >>589
>あんた確実にヴァカだろ
那珂八幡の三角縁が第二主体だって今だに理解できてない
第二主体がある、というのは、通常は、
非常に近縁者や近親者の、ほぼ同時期死亡があった場合の、陪葬的な墓であり、
築造年代差は、非常に短いもの。
- 597 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:40:12.37 .net
- >>595
あんたが一番インチキ宗教の狂信者っぽいぞ
- 598 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:41:55.48 .net
- >>596
>第二主体がある、というのは、通常は、
>非常に近縁者や近親者の、ほぼ同時期死亡があった場合の、陪葬的な墓であり、
>築造年代差は、非常に短いもの。
そんなこと誰が決めたの?
また、あんたの神様のお告げ?
- 599 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 08:41:55.68 .net
- >>596
>第二主体がある、というのは、通常は、
>非常に近縁者や近親者の、ほぼ同時期死亡があった場合の、陪葬的な墓であり、
>築造年代差は、非常に短いもの。
そんなこと誰が決めたの?
また、あんたの神様のお告げ?
- 600 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:02:49.65 .net
- >>592
>神武即位はおおよそ211年。
どっちにしても神武は卑弥呼の時代だ。
ダメだ。
年代計算をした書紀も古事記も、それ自体が、
倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であり、
当然忘失された大和王や、加筆追加された王や、二倍年歴計算された王など存在し、
単純な平均では不正確極まりがない。
実際、平安期の二中歴の年代暦の説明では、
神武即位元年は、紀元前91年頃になる。
- 601 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:21:35.99 .net
- >>575
伊都で足止めで、都万国にも入ってないから問題なし
- 602 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:28:55.81 .net
- 600
せめて起源前200〜300年ころにならないとやばいぜ
日本の青銅銅鐸がそのころだからよ
- 603 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:29:31.18 .net
- 起源前90年ころに即位したとされるのが崇神天皇
- 604 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:33:57.80 .net
- >>590
三角縁神獣鏡は、時代的には合いますよ?
ただ、東軍=大和が配った国産の鏡で、所謂魏書に出ている邪馬台国の鏡ではないということです。
- 605 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:40:14.70 .net
- >>601
正始八年(247) 狗奴国との戦争に塞曹掾史、張政等を遣わして
卑弥呼の死から内乱を経て十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し
国中が遂に安定した後に帰国を果たしてるんだが?
- 606 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:41:24.08 .net
- >>592
時系列だけは、作為のある記紀からは復元することは不可能
開化天皇の次の大和の大王はヒコイマス大王との事。
記紀には載ってない。
息子どうして揉めて、サホ彦ともう一人で争い、国が分裂状態になった
- 607 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:46:24.01 .net
- そいから西暦399年に倭が新羅に攻め込んだってあるだろ
倭地=任那(旧三韓=馬韓、辰韓、弁韓)は日本の支配圏だぞ😃
任那の北側に百済、新羅があったんだからな
旧辰韓領にいた倭軍が任那領を超えて新羅に攻め込んだって意味だよ
- 608 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:47:18.97 .net
- 別に海を渡り新羅に攻め込んだじゃないぞ
- 609 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:48:28.46 .net
- 旧任那領が新羅あたりの勢力圏になるのは西暦500年〜600年ころの話なんだよ😃
- 610 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:55:19.10 .net
- だから書いたべ😃
西暦530年ころに半島の支配権は放棄したと
百済は高句麗に攻められて北部の領地を失ったから任那四郡を日本から百済に割譲したろ
新羅が任那の旧辰韓領を攻めたときも日本の朝廷がそれを認めてる文書を発行してんだよ
日本内の政権が変わった影響でしかないだろこれ
- 611 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 09:57:19.81 .net
- >>608
>別に海を渡り新羅に攻め込んだじゃないぞ
任那忌部だな。 @阿波
- 612 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:08:54.21 .net
- 倭が高句麗の旧帯方郡あたりまで攻め込んで背後を脅かしたって広開土王碑にも書かれてるだろ
倭軍てのは倭・伽耶連合軍のことを指すの
- 613 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:10:25.29 .net
- だいたい西暦500年ころまでは半島の支配権をかけて倭と高句麗の間で戦争やってるからな
- 614 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:10:38.10 .net
- >>605
朝貢した時の話です。
そういや死んだ後、張政ってどこにいてどこから指示を出したんでしょうなw
- 615 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:12:29.44 .net
- だから陳寿はわざとわからないように書いたんだよ、山泰とか河内とか桃魔とか弟の名すら出せないんだよ、書いたら五斗米道ってバレるからだよ。魏が方士を集めた辺りから移住させ南から攻めさせるとでも考えてたんだろ。
- 616 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:12:29.73 .net
- >>604
>ただ、東軍=大和が配った国産の鏡で、所謂魏書に出ている邪馬台国の鏡ではないということです。
なんで理由を言わないの?
- 617 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:13:56.26 .net
- 広開土王と戦ったのは、全国へ進出できる航行術を持つ、「阿波の海人族」である。
一方、今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「忌部一族(海人族)」だけなのである。
全国へ散らばって、開拓しまくったのは忌部一族だけ。 朝鮮半島もね。 @阿波
- 618 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:14:11.58 .net
- 最終的には百済と高句麗が滅んで新羅が支配権握っちまったろ
高句麗とは最後は同盟を結んだから滅んだときは亡命者らは日本側で受け入れた
そんだけの話
この滅んだ高句麗の連中らが沿海州に逃げ込んで建てたのが渤海国
日本と渤海との間で交易ルートはあったぞ
- 619 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:16:28.25 .net
- >>614
>そういや死んだ後、張政ってどこにいてどこから指示を出したんでしょうなw
そりゃ、鮎喰川下流の矢野遺跡周辺に決まってるだろ。 @阿波
- 620 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:17:49.40 .net
- 3世紀の奈良盆地は狗奴国
- 621 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:19:34.36 .net
- 陳寿とやらそんな力あったんか?
- 622 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:20:36.43 .net
- 畿内は狗奴国は考えられなくは無いけど、投馬は桃だよ、それに邪馬台は山泰か山東だよ
- 623 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:20:37.61 .net
- >>620
>3世紀の奈良盆地は狗奴国
なにを寝ぼけたことを! 最悪の地、奈良盆地に強大国「狗奴国」など興る訳がない。
@阿波
- 624 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:25:55.58 .net
- >>623
中身は東海政権だったんだよ
- 625 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:27:19.25 .net
- >>622
桃はタオと発音する
- 626 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:30:59.55 .net
- >>620
>3世紀の奈良盆地は狗奴国
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、×。
- 627 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:33:01.08 .net
- >>624
>中身は東海政権だったんだよ
中身がどうこうではない。 最悪の地、奈良盆地に強大国「狗奴国」など興る訳がない。 @阿波
- 628 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 10:35:34.15 .net
- >>622
>畿内は狗奴国は考えられなくは無いけど、
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠っても、×。
>投馬は桃だよ、
吉備説も、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠っても、×。
>それに邪馬台は山泰か山東だよ
「邪馬台」なんても、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
- 629 :コテ略:2020/10/05(月) 11:34:08.65 .net
- >>327
> 西日本の小さな国々の内、牛馬使って古大和湖を灌漑し巨大古墳を作ったんなら、
それは4世紀頃であり、・・・で構わんでしょ//
全然ダメだろ。
巨大古墳であり、卑弥呼墓である箸墓の突然の発生は、
3世紀半葉でないと説明が付かんだろ、莫迦。
むろん、九州倭國だの吸収王朝国なぞ存在しない。
何もかもが九州王朝国の仕業なんてのは、フリーメーソン陰謀ネタの焼直しでしかない。
> 別種分家の旧小国の附庸國の//
かつて小国だった大和の邪馬台国は、かつて小国だった奴国等九州諸国を併せて、
大きな国になったという事だ。
- 630 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 11:45:09.57 .net
- 628
北抵新羅の倭国=任那(旧辰韓)領ですよ
辰韓は日本領です
- 631 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 11:45:20.63 .net
- 628
北抵新羅の倭国=任那(旧辰韓)領ですよ
辰韓は日本領です
- 632 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 11:56:17.85 .net
- 神功皇后のときに日本から遠征軍が送られたろ
神功皇后自体が辰韓の王家の血を引く末裔だから新羅は戦わずに降伏したんだよ
そんときに新羅に対して朝貢しろって言ったが新羅が嫌がって日本から直に乗り込んで官を設置したの
このときに神功皇后が引き継いだのが辰韓領で新羅が支配したのは辰韓の北側の土地だったんだよ
- 633 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:02:59.75 .net
- 200年代ころなら新羅、百済より任那の支配した領土の範囲のが広いぞ
だいたいみなが知ってる朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の領域は西暦500年代以降のもんなの
- 634 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:04:14.72 .net
- だいたい韓国ドラマだの見ても西暦600年代あたりが主流やけな
- 635 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:08:21.18 .net
- 当然その時代あたりの話なら日本史に組み込まれますから日本ねも伝承で伝わっております
日本史の一部ですからな
新羅、百済は日本史とは関係ないです😃
だから知りません
- 636 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:29:54.23 .net
- 反乱軍に手を妬き三國からも一目置かれてた五斗米太平連合軍は強いよ、狗奴国は仲間割れ、オラオラ系の馬鹿息子に代替えしてたんだろ
- 637 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:37:01.49 .net
- 狗奴国の男王は卑弥弓呼素だぞおんなじ仲間
- 638 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:39:56.01 .net
- 三連で悪いけど、卑弥呼の名の第一候補は張某
- 639 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 12:43:33.40 .net
- >>629
>巨大古墳であり、卑弥呼墓である箸墓の突然の発生は
嘘吐き騙しのオ〆の膿味噌は、
未来永劫ペケなんだよ。
莫迦は身の程を弁えな。 わははははは @阿波
- 640 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:12:29.51 .net
- >>590
>何だ?、どちらも「絶対年代的な根拠」にならんではないか。
IBやIIAの「絶対年代的な根拠」なら
学術的研究の場でちゃんと明らかにされてて多くの人が知ってるから
勉強嫌いの素人じいさんが知らなくても体制に影響ない
- 641 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:44:43.45 .net
- >>627
狗奴国は、物部に敗れた大彦系の国なんだから当然奈良にはないだろ
- 642 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:46:32.69 .net
- >>629
あるぇ?
箸墓古墳は魏の卑弥呼の時代より古くて2世紀ではなかったかしら、
- 643 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:49:47.25 .net
- >>642
確か、ホケノ山古墳とか一緒でやり直したら推定年数が変わって、50-100年古いってなったはずだよ
- 644 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:54:28.30 .net
- >>643
なにを、やり直したの?
- 645 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:55:59.78 .net
- >>592
神武は山幸彦だからもっと古い
- 646 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:57:01.29 .net
- >>593
神武系の国であることは間違いない。
大彦はその家系
- 647 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 13:59:58.89 .net
- >>594
鏡が配られてから貰った人が死んて埋葬されるまでには時間差があるんじゃ?
ちょうどいい感じだと思うんですが。
- 648 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:09:15.28 .net
- ホケノ山古墳内から出土した小枝で年代測定した結果→4世紀濃厚
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
- 649 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:18:33.39 .net
- >>648
だと、学者が誰も言わないのは何故?
馬鹿話だからだよ
- 650 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:19:21.26 .net
- >>649
学者がバカだからね
- 651 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:29:43.34 .net
- .
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
- 652 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:41:46.67 .net
- そういえば徐福ってその後が出てた様な?
とあるページのコピペ
後漢書〈倭〉でも徐福が澶洲で数万家になったとし、そこからの人々が時折り会稽(浙江省)の市へ来るとあります。また会稽の人が海で暴風にあい漂流して澶洲まで行ったことも記されています。この澶洲が日本だという確証はありませんが、行き来する人の話から倭国であると考えたからこそ〈倭〉の項に記したのでしょう。
居る事は居るが、どこなんだろうとw
- 653 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:47:48.98 .net
- >>641
>狗奴国は、物部に敗れた大彦系の国なんだから当然奈良にはないだろ
「阿波」の長国だ。 @阿波
- 654 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:48:43.26 .net
- >>653
嘘つけwww
- 655 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:50:30.71 .net
- >>644
放射性炭素分析てす
- 656 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:54:11.49 .net
- >>629
>巨大古墳であり、卑弥呼墓である箸墓の突然の発生は、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、×。
>3世紀半葉でないと説明が付かんだろ、莫迦。
4世紀でないと、説明が付かんだろ、・・・・アホの大和説詐欺師。
>> 別種分家の旧小国の附庸國の
>かつて小国だった大和の邪馬台国は、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙しの文言であるから、×。
>かつて小国だった奴国等九州諸国を併せて、大きな国になったという事だ。
大和日本国が九州倭國から別れた別種の旧小国の附庸國であったから、×。
- 657 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 14:59:44.71 .net
- >>654
狗奴国に成り得るところは、「阿波」の長国以外には無い! @阿波
「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。
(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊
https://www.topics.or.jp/articles/-/69979
- 658 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:01:44.48 .net
- >>642
>あるぇ?箸墓古墳は魏の卑弥呼の時代より古くて2世紀ではなかったかしら、
前方後円墳は冢よりも新しいから、×。
- 659 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:02:04.56 .net
- >>654
狗奴国に成り得るところは、「阿波」の長国以外には無い! @阿波
「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、
全ての円形配石遺構が同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。
(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊
- 660 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:02:37.83 .net
- >>658
wikiにも補足が出てるよ
- 661 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:04:56.02 .net
- >>643
>確か、ホケノ山古墳とか一緒でやり直したら推定年数が変わって、
50-100年古いってなったはずだよ
確か、「前方後円墳は冢よりも新しい」と判って、
石塚とかホケノとか箸墓とかを一緒でやり直したら推定年数が変わって、
50-100年新しい、ってなったはずだよ
- 662 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:12:55.21 .net
- >>655
>放射性炭素分析てす
放射性炭素分析は、AMS法のプラズマ化の失敗に拠り、
50〜100年位古い年次が計測されてしまうので、×です。
- 663 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:13:13.12 .net
- 箸墓は卑弥呼陵じゃなくて台与陵なんだがな
- 664 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:19:16.28 .net
- >>663
>箸墓は卑弥呼陵じゃなくて台与陵なんだがな
「台与」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから×であるし、
卑弥呼の宗女の壹與の事なら、
「南≠東」や「前方後円墳≠冢」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などに拠って、
×です。
- 665 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:28:30.45 .net
- >>662
だからそれでやり直したって話でしょ
ホケノ山も2018年にやり直した
- 666 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:29:06.12 .net
- 桃の国は1年や2年では造れない、朝貢前には存在する事になり 天地水、燔桃会も行われていたことになり、その教団の最初の王であり最初の墓は前方後円墳であり渡来教団集団が邪馬台を造ったんだよ。意外だけど曹操が創ったんじゃないのかなこの国を。
- 667 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:36:52.07 .net
- >>665
そしたら、箸墓は思ったより古く、ホケノ山は思ったより新しくなってしまった。後者は4世紀になってしまった
- 668 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 15:45:17.24 .net
- >>656
だれだ、阿波を野放しにしたのは。
- 669 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 16:01:21.66 .net
- >>594
九州の前方後円墳の年代の基準墓としては宇美の光正寺古墳があるだろう。
これを基準墓として、八幡古墳がどう変容しているかみればよい。
九州最古の前方後円墳は光正寺古墳なんだから。
- 670 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 16:21:01.79 .net
- >>638
>卑弥呼の名の第一候補は張某
いい線じゃないかな
なんせ、伊都国の王の伊都之尾羽張とは「伊都国の張さん」。
其の一統一族の卑弥呼だから「張 日弥子ばあさん」
- 671 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 16:22:54.15 .net
- >>669
>九州の前方後円墳の年代の基準墓としては宇美の光正寺古墳があるだろう。
これを基準墓として、八幡古墳がどう変容しているかみればよい。
九州最古の前方後円墳は光正寺古墳なんだから。
それなら、光正寺古墳が、266年の後の墓だ、という事になるだけであり、
だから、これまで、
出来るだけ「那珂八幡など」と「など」を付けて、
那珂八幡に断定しないようにして来たんだよ。
- 672 :日本@名無史さん:2020/10/05(月) 16:30:37.36 .net
- 投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
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