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漢委奴国王いわゆる金印part4と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

1 :東京:2020/10/18(日) 20:26:54.98 .net
有意義なスレと思うので継続して立てました。
今回は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡もタイトルに入れました
謎だらけの金印と鉄鏡・・・
 

2 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 20:30:42.34 .net
2012年いわゆる金印part1
http://n2ch.net/r/-/history/1338710507/1-?guid=ON

3 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 20:32:50.84 .net
2018年いわゆる金印part2
http://n2ch.net/r/-/history/1537107301/?guid=ON&rc=1002

4 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 20:35:41.54 .net
いわゆる金印part3
http://n2ch.net/r/-/history/1557131847/20-?guid=ON&rc=1002

5 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 20:40:01.34 .net
2012/06/03(日)17:01 AAS
天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。

・「漢委奴國王」を何と読むのか?
 →かんのわのなのこくおう
 →かんのいとのこくおう
 文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
 「その訓みについてはなお定説をみない」

・後漢書の印綬と同一か?
 後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

・そもそも真物か?
 出土地も確定できない問題がある

すべてはこの書き込みから
当時のスレ立て人は健在なのかな? 

6 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 20:51:11.94 .net
佐賀新聞より
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。
鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。
手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。
九州国立博物館が管理している。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。
この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。
そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
潘氏は、九州国立博物館で開催中の特別展「三国志」のために来日し、九州大学、東京国立博物館、九州国立博物館の研究者らとともに、ダンワラ古墳出土鉄鏡と、曹操墓出土鉄鏡の共通点などを議論した。
二つの鉄鏡も直径が21センチと同一で、曹操墓の鉄鏡もX線調査の結果、金錯が確認できた。
研究者らは「いずれも2〜3世紀の中国において『御物』など最高級に位置付けられる貴重な鏡である」という見方で一致した

    

7 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 21:03:01.25 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.

8 :日本@名無史さん:2020/10/18(日) 21:04:46.42 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

9 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 07:29:55.69 .net
現時点で発見に関して判明していること

黒田藩奉行所記録によれば天明4年3月16日(AD1784/04/05)に那珂郡奉行所に届け出られた。とある
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上口上之覚
私抱田地叶ノ崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申畦岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。
之鉄手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候物有。 之二付取上水にて濯ぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。
志賀島村百姓甚兵衛 天明四年三月十六日 津田源次郎殿
(私が抱える田が叶ノ崎にあり、田の境の溝に水の流れが悪い敷が2つあったため先月23日に右の溝形を直して畦畔を切り落としたところ、段積みとなった小さな石が出て、二人でないと持ち上げられない石があった。
これを鉄梃子で掘り除くと石の間に光る物があった。 石を2つ取り上げて取り出し水で濯いで見たところ、金の印刻がされた物であった。)

志賀島吉祥寺(元志賀海神社別当の禅宗寺。明治初年の神仏分離により廃寺)の記録では
天明四年二月二三日小路町の秀治と喜平、田を耕し大石の下より金印を掘り出す。とある

また博多の臨済宗妙心寺派 聖福寺の住職だった仙豪`梵の志賀島小幅にも叶ノ浜で秀治と喜平が掘り出した。とある

同じような記録として亀井家の万暦家内年鑑がある

真偽不明な情報としては志賀島勝馬の住人蔵書に
天明四年丙辰 志賀島の農民である秀治と喜平が叶崎より掘り出す。
とある

現場を検分した梶原景熙、青柳種信や亀井昭陽は箱のように三枚の石が並べられていたとしている

総合すると
叶ノ崎(現在の叶浜)に田を持っていた百姓甚兵衛の小作人であった秀治と喜平が用水路の水捌けを改善しようと天明4年2月23日に畦畔を切り崩すと小さい石のドルメンが出てきた
ドルメンの頂部には二人がかりでないと持ち上げられない石があったため、鉄梃子で取り除くと石と石の間に光る物があったので、箱型に組まれた石の一枚を除いて取り出し水で濯ぐと金の印刻であった
となる

10 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 07:40:45.59 .net
ダンワラ古墳が台与か卑弥呼の墓?

11 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 07:43:11.43 .net
>>9ですが誤爆しました
類似する重複スレは不要ですので運営に削除依頼を出しました
>>9は本スレにも投稿してあります

移動先の本スレ

漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

12 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 13:04:38.22 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

13 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:03:20.98 .net
>>11もめるつもりは毛頭ありませんが
こちらはpart4、
過去に金印前スレpart3を立てたときに後から重複してきたのが>>11ですよ
過去スレ検索すればわかりますけど
いわゆる金印part3は既に終了しています
もう一度part3を使うかどうかの判断は皆さんに任せますけどね   

14 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:06:20.62 .net
>>13
重複させるメリットはないからなぁ
2つ目のPart3が終わってからPart5を建てるのがベストだと思う

15 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:20:40.07 .net
ここはどうなるの?

16 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:24:40.29 .net
>>15
11が削除依頼出したみたいだから破棄でしょ

17 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:49:41.01 .net
>>13
が正統なんだろうけど、
スレタイのセンスで損してるなあ。

余計なことつけずにシンプルなままでいいのに。

18 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 21:52:14.59 .net
漢委奴国王 金印 part3が終わったらシンプルなPart5を立てよー

19 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 22:16:47.09 .net
2019/05/06(月)17:55 AAS
Part 1から>899日本@名無史さん2018/05/08(火) 14:42:33.01
金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
 で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
 中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。

949日本@名無史さん2018/07/15(日) 09:45:01.71
1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
外部リンク[aspx]:www.whmuseum.com.cn
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。  滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない

950日本@名無史さん2018/07/16(月) 08:55:10.33
蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。

20 :日本@名無史さん:2020/10/19(月) 22:25:06.03 .net
移動先

漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

21 :日本@名無史さん:2020/11/19(木) 19:47:21.65 .net
コロナ五輪でトンキン土人ヒーハー

22 :日本@名無史さん:2020/11/19(木) 21:26:43.32 .net
.




(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html



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23 :日本@名無史さん:2020/11/19(木) 21:28:12.14 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



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24 :日本@名無史さん:2020/11/20(金) 02:25:30.81 .net
移動先

漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

25 :日本@名無史さん:2021/02/12(金) 12:51:04.39 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





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26 :日本@名無史さん:2021/02/12(金) 13:16:35.55 .net
移動先

漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

27 :日本@名無史さん:2021/03/18(木) 21:21:02.65 .net
>>1
SD-1009は海水生簀。

SM-1001はその排水溝で、
魚が逃げないよう下流にスクリーンが張られており、
スクリーン手前には、ゴミ沈殿堆積への対策として大型土坑が掘られていた。

サバ、アジ、マダイ、などの海水魚を、海水ごと輸送してきて、
海水生簀SD-1009で養殖。
運んできた海水並びに、周囲の河川水+塩添加で塩水を維持。
輸送で疲労した魚に、
桃や人糞などを餌として与えて、栄養をつけることで魚の品質を向上させていた。

桃の種や、人糞中の蛙の骨などは、魚が食べないため、下流へ流れて、
スクリーン手前の土坑に沈殿。
海水はアルカリ性なので、スクリーン手前の土坑に沈殿した骨は溶けずに残った。

SD-1009とSM-1001は、庄内3式期〜布留0式期であり、
布留0式が副葬されていたホケノ山古墳被葬者の生前活動時期に一致する。

内行花文鏡片、大量の鉄器、そして海水魚への熱烈なこだわり。
ホケノ山古墳被葬者は、北部九州からやってきた海人族であった。

今や世界中に普及した倭食の歴史を物語る貴重な遺蹟である。


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28 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 02:15:48.90 .net
移動先

漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

29 :日本@名無史さん:2021/10/27(水) 11:48:52.89 .net
ジャップが中国の属国だった証左
皇歴3000年(爆笑)

30 :日本@名無史さん:2021/10/27(水) 20:49:19.07 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

31 :日本@名無史さん:2021/10/29(金) 19:11:57.64 .net
普通、金印は王が死ぬと返すのが本筋。
なので、奴国の王が死んだあと保管されていたが、
次の王が返すのをやめて、埋めて隠したのだろう。
それが江戸時代になって、掘り出されたということだな。

一方、卑弥呼の金印は、張政が持って帰ったので、掘り出されることはないだろう。

32 :太国 :2021/10/29(金) 19:39:42.77 .net
>>29
東天皇が西皇帝より格上だ。
オマエ達の中国は過去に義経に全領土をぶん取られて土下座したのさ。w

33 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 08:14:33.65 .net
>>31

国王印(国璽)はいちいち返さないだろう。
次の王となるべき人物が、そのことを報告するために必要だから。

34 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 12:48:35.32 .net
>>33
魏皇帝から卑弥呼に渡された金印について、倭人伝は「假金印紫綬(金印紫綬を仮す)」と書いていて、この文の「假(仮)」の字は動詞として用いられている。
この「假」の字は、動詞として用いられるときは「一時だけ貸し与える」の意味になる。

魏は後漢皇帝の禅譲によって成立した国なので、金印の扱いは後漢の扱いと同じだったとするのがよい。
だから、後漢皇帝から奴国王に渡された金印は一時的に貸し与えられたものだったということになり、王が亡くなれば当然金印は皇帝に返すことになる。

35 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 17:18:42.47 .net
事実として福岡にあったのだから、君の詭弁は通用しない。

36 :日本@名無史さん:2021/10/30(土) 19:30:40.83 .net
だから、奴国の次の王は、後漢皇帝に返すべき金印を返さずに志賀島に埋めて隠したということ。

37 :日本@名無史さん:2021/11/01(月) 03:47:28.46 .net
卑弥呼の金印は、張政が持ち帰ったと考えるのが良い。

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