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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2021/03/11(木) 19:22:18.00 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

2 :卑弥呼は伊都國で治す:2021/03/11(木) 19:22:41.69 .net
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。

うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

3 :卑弥呼は伊都國で治す:2021/03/11(木) 19:23:01.35 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

4 :卑弥呼は伊都國で治す:2021/03/11(木) 19:24:16.85 .net
以上テンプレです。

コピペを繰り返すだけの方は、伊都説に対する敗北宣言とみなします。
下品なヘイトスピーチまがいも、同様です。

文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。


邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/l50

5 :日本@名無史さん:2021/03/11(木) 20:04:00.04 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

6 :日本@名無史さん:2021/03/11(木) 20:05:10.97 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

7 :日本@名無史さん:2021/03/12(金) 07:10:05.81 .net
>>5
偽スレで荒らすなよ、キナイコシ

8 :日本@名無史さん:2021/03/12(金) 11:07:11.51 .net
>>7
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9 :日本@名無史さん:2021/03/12(金) 11:07:24.72 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

10 :日本@名無史さん:2021/03/12(金) 12:11:35.17 .net
>>8
荒らしているのがキナイコシだとバレた瞬間w

11 :日本@名無史さん:2021/03/12(金) 22:55:32.36 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

12 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 17:25:59.61 .net
曹操の墓に銅鏡が副葬されていなかったのだから、魏は銅鏡など重視しておらず、文献(曹操集譯注)からも出土物(金銀錯嵌鉄鏡)からも、魏は鉄鏡こそを威信材として認識していたことが明らかである。よって、卑弥呼に贈られた銅鏡百枚は、百枚という数の多さから考えても、威信材ではなく、当時貴重な青銅原材料として贈られたものである可能性が高いことになる。

13 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 17:30:14.51 .net
そうだね。
その原材料を溶かして作られたことが鉛同位体の研究によって明らかに。

平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535797407/l50

14 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 17:49:13.06 .net
玄界灘の制海権を掌握していた伊都が倭国女王卑弥呼の王都だった。
邪馬台国とは、伊都を含む九州北部の連合王国である。
倭国大乱に明け暮れていたこれらの国々が、和平のために女王を共立した。

15 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 18:54:32.35 .net
神功皇后記に誘われて、末盧国から北東の糸島方面へむかうのが果たして正しかったのかどうか・・?
つまり、中国三大史書の、魏志、魏略、廣志、は、「倭国に上陸したら東南へ進め」といっている。
その通り進めば、邪馬台国へのメインルートは佐賀平野の吉野ヶ里を通る。そしてその後の方角里数からして、邪馬台国は熊本〜阿蘇方面にあったことになる。

16 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 19:10:36.37 .net
>>15
その東南は弥生時代にどうやって東南とわかったのかな。

17 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 20:07:18.93 .net
>>16
中国では、天子は北辰(北極)に有りとされており、北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。
帯方郡の使いは、何度も往復している、
南であれ、東であれ、東南であれ、方角を間違えるような者は、そのような大事な役目を仰せつかることはなかったであろう。、

18 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 20:09:49.82 .net
.






中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!





.

19 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 21:06:59.49 .net
東南とわからなければ東南と記録しない。

20 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 21:14:11.79 .net
>>17
>中国では、天子は北辰(北極)に有りとされており、北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。

ほう。

>天子は北辰(北極)に有りとされており
魏代以前の出典はあるかな?

>北極星がおおむね北を差すことは良く知られていた。
魏代以前の出典はあるかな?

21 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 21:51:53.14 .net
>>19
そうだ。
人々が海に潜って漁をする風景。
真夏の太陽を見て、これから進む方角を決めたのだ。

22 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 22:59:32.94 .net
太陽が昇る方を単純に東と覚えていて、夏の朝に方角を取ると誤認するかもね。
夕方の到着時はわざわざ方角なんて見ないから。

23 :日本@名無史さん:2021/03/13(土) 23:23:45.12 .net
方位磁針はまだ無い。

A)夜に星を見て真北を認識した可能性
B)出発時に夏の太陽を見て東を認識した可能性

このどちらもありうる。
よって、どちらで持論を展開することもできる。

基本的には、
伊都國は糸島の三雲遺跡を中心とする領域。
奴國は那珂遺跡を中心とする領域。
とするのが一般的。

24 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 01:41:40.72 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

25 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 08:17:05.25 .net
>>20
「史記」
前漢武帝(前156-87)の時代の書(史記)に、北斗七星は「北辰」を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、
国家安寧を保証するとある。
なお、すでに紀元前1100年頃には、北極を指し示す星についての知識・信仰があった。

26 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 08:27:35.77 .net
>>25
なるほど。

では、君は夜の北極星を見上げて、吉野ヶ里遺跡へ進みなさい。

私は早朝の太陽を見て、平原遺跡へ進むとしよう。

27 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 12:44:10.65 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

28 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 13:50:40.70 .net
>>1 お前アホだろ
魏志倭人伝の原文はこうなってる

>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

南に船で10日行って陸を一月歩いたところが女王のいる都や
とりあえず九州北部に邪馬台国はない

29 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 13:54:37.62 .net
×女王之所都=伊都國
○女王之所都=邪馬壹國

30 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 13:59:29.34 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

31 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 14:38:10.08 .net
>>28
古代の墨書による、日から月への転写間違い

・文脈上、二十日→十日→一日、と単位は統一されているべき
・海運国家の島国倭国に対して、大陸国家の中国人は陸行なら一月だろうと勝手に誤認
・この程度の転写間違いは三国志原文の各所に一定確率で認められる
などが理由として挙げられる。

32 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 14:42:16.47 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

33 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 15:13:56.68 .net
里程と日程は並列。
北部九州邪馬台国内の里程説明は不彌國まででいったん終了。

『南至投馬國 水行二十日』
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(←日)』

帯方郡から、南に進むと投馬國に至る。
(「東南でなく南」=『韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里』)
投馬國までは、水行で二十日かかる。

投馬國から、南に進むと邪馬壹國に至る。
邪馬壹國の中の、女王が都としている場所までは、投馬國から、水行で十日と陸行で一日かかる。

34 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 15:22:39.11 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

35 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 16:23:30.22 .net
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

36 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 20:04:18.65 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.

37 :日本@名無史さん:2021/03/14(日) 21:19:10.65 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

38 :日本@名無史さん:2021/03/16(火) 22:34:39.98 .net
一戸5人として、吉野ヶ里遺跡とその周囲で5000人だから千戸。
佐賀平野や筑後平野には集落が目白押しだから、それぞれ1万戸とか数万戸とかありそう。

福岡平野側はもっと住居が密集してるし、奴国から筑紫野市へ抜ける辺りはヤバいくらい人口密度高いだろ。

伊都唐津で五千戸、その西の長崎もあわせたら1万戸はいきそう。

その上、まだ東には豊前豊後があるんだから、
余裕で7万戸以上ありそうに思える。

39 :日本@名無史さん:2021/03/16(火) 23:41:57.31 .net
>>28
いつまでその周回遅れの誤読を続ける気だよw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

40 :日本@名無史さん:2021/03/16(火) 23:44:35.81 .net
>>23
針の中央を固定した羅針盤はまだないが、永久磁石を使用した指南魚という方位磁石は当時もう存在する

114 :日本@名無史さん :2021/03/05(金) 00:31:04.70
>>75
魏の使者は磁石(指南魚)を使って方位を測ったはずだから、磁北基準での東南だよ

当時の磁北は地軸から約15°ほど西にずれていた
このため磁石で方位を測ると真北(地軸方向)は東北東15°となり、方位は東寄りにずれが生じる
魏の使者は磁石で方位を測ったため、方位の表記は全体的に東寄りにずれている
これを補正すれば上陸地の呼子から東南で方位は合致する

古代の方位測定法
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2013/06/20130601-1.html
>いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。
>奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6〜8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10〜15度も西へずれていました。
>したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。
>
>ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。
>午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。
>この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。

この周礼の方法は高精度だが午前と午後の2回、同地点での測定を行わなければならないので、魏の使者のように旅をして移動している人間には使用できない
都市計画などには良いが、移動する人間は磁石を使うしかなかった
当時まだ羅針盤は無いが、指南魚という永久磁石を用いて方位を知る道具が既に存在している

ちなみにこの15°補正により別の方位問題も解決する
会稽東治(江蘇省蘇州市)からの方位に15°の補正を加えると筑後山門はほぼ真東となる
https://i.imgur.com/IOyJ05p.jpg

41 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:11:15.78 .net
>>40
指南魚の最古のものは11世紀とある。
3世紀以前に指南魚が使われた文献記録、
あるいは
3世紀以前の指南魚の出土物を提示できなければ夢物語。

42 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:11:20.74 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

43 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:22:42.36 .net
持衰のこと詳しく書いてあるし、
張政も倭人が送ってるし、
魏使は倭船に乗って、だいたいの方角と距離を測ってるだけで伊都に到着したんだよ。

真夏の太陽を基準にしてね。

44 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:29:40.53 .net
伊都國とは、
『郡使往來常所駐』 三雲遺跡から楽浪土器が集中出土。硯も。
『特置一大率檢察』『皆臨津捜露』 北方の諸国を検察する、港に近接した検察官がいる。海上保安庁。

糸島市で決着がついている。

>>23
は、控えめな表現。

45 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:53:34.40 .net
>>38糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re

46 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:53:53.61 .net
>>39
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/puurb8v

47 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:54:08.04 .net
>>40
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/faTpmpq

48 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:54:25.48 .net
>>41
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3

49 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:54:45.26 .net
>>43糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf

50 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:55:03.71 .net
>>44
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/puurb8v

51 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:55:20.33 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国覧吹A国譲りの開試n)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼

52 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:55:31.86 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている

53 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:55:43.37 .net
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

54 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:57:00.66 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>38-41,43-44のような連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、>>38-41,43-44のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3

55 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:57:16.73 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ

"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/

"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/

何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ

中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居

声闘

https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

56 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:57:31.01 .net
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

57 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 00:59:00.19 .net
おやおや
>>45-56
を各スレに貼っているのは、吉野ヶ里説の方だ、と理解していいのかな?

58 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:01:57.41 .net
吉野ヶ里説じゃないだろw
キナイコシが伊都説を吉野ヶ里に誘導して煙幕はろうとしてるだけだw

59 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:04:34.82 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>57-58のようなサル芝居連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、負け惜しみを>>57-58のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

60 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:10:32.69 .net
持衰のいる倭船で来倭した魏使が、
朝の出発時に、真夏の太陽を見て、その日に進行する方角を確認した。
以上。

61 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:19:06.72 .net
奴國の西は伊都國
奴國の東は不彌國
奴國の北は海

となると、烏奴國は奴國の南しかありえないのだが、
さらにそうなると、三方を國に囲まれた奴國が此女王境界所盡とはおかしな話になる。

次有奴國とは、次有有奴國だったのではなかろうか。

62 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:25:29.71 .net
>>61
違う。
以上。

63 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 01:36:57.88 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

64 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 19:27:23.83 .net
北辰を持ち出したり
指南魚を持ち出したり

北へ南へ
キナイコシは節操が無いなあ

65 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 20:06:04.45 .net
.






◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





.

66 :日本@名無史さん:2021/03/17(水) 21:15:29.56 .net
>>51
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

67 :日本@名無史さん:2021/03/18(木) 02:01:03.63 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

68 :日本@名無史さん:2021/03/18(木) 20:00:23.45 .net
>>1
>魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
>魏使は伊都國までしか来ていません。
>魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
>首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

なーるほど。
壱岐対馬〜末蘆〜伊都と海沿いの生活だけ見たんだな。
みんな漁をしている風景が記録されている。

海沿いの集落であれば、
長距離移動は舟だから、むしろ裸足のほうが便利。
冬でも裸足で過ごしたというのはそういうことだろう。

逆に言うと、
『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』
というのは、
魏使は「温暖な九州の、しかも島嶼沿岸部だけ訪れた」ことの証左になるわけだな。

69 :日本@名無史さん:2021/03/18(木) 21:45:09.98 .net
北部九州は古くから開発されてるからね。
集落内の主要な道は掃いてあって、裸足で歩けただろう。

田んぼでの農作業

手漕ぎ舟での移動
この辺りはむしろ裸足のほうが便利だね。

70 :日本@名無史さん:2021/03/18(木) 21:50:23.12 .net
末蘆國から伊都國までの道は草ぼうぼうだったとある。
離れた集落間の移動では、普段は舟で移動していたから道が荒れていたということだろう。

魏使は船酔いとか天候とか何か理由があって、伊都國の手前で上陸して歩く羽目になったか、
海外からの客は伊都國の港の全容を見せないためにわざと視界の悪い場所で降ろして少し歩かせたか。

71 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 01:01:43.57 .net
船釣りならゴム製の長靴があればなw

72 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 01:12:41.84 .net
伊都國→奴國→不彌國

奴國の西は伊都國
奴國の東は不彌國
奴國の北は海

となると余傍國の、烏奴國→奴國の烏奴國は、奴國の南に接するしかない。
そうなると、三方を國に囲まれた奴國が此女王境界所盡とはおかしな話になる。

次有奴國とは、次有有奴國の転写間違いだった。
此女王境界所盡=『有奴國』

73 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 02:09:54.01 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

74 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 06:37:25.34 .net
>>72
奴国二万戸だから南北に長細いという可能性もある
南北に細長い奴国の北西に伊都、北東に不弥がくっつき、
奴国の南西に烏奴國
奴国の東南面や南面がフリー

75 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 10:52:46.49 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

76 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 20:27:23.50 .net
>>72
ほほう。畿内説にも賢い奴がおるんだな。
そう。此女王境界所盡=『奴國』であれば、対馬海峡や伊都はもちろん勢力圏だから、
奴國が東の境界線となって九州内で完結してしまう。
未知の有奴國を設定することで、九州外に出る道を切り開こうという魂胆だな。

だが道は険しい。
【自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳】
餘旁國は女王國の南にあるのだな。
概観としては、女王國の南に餘旁國達。
さらにその南に狗奴國。
となるのだ。

例えば伊都説なら、女王國≒伊都國=首都を中心として、
その南の餘旁國達も併せた連合国家群が北部九州邪馬台国。
さらにその南に狗奴國。となる。

例えば邪馬台国=朝倉説なら、女王國=邪馬台国=朝倉市で、
北の対馬海峡や伊都國奴國などはその傘下。
女王國=邪馬台国=朝倉市より南に餘旁國達があってその傘下。
さらにその南に狗奴国。となる。

九州外他説だと、女王國=邪馬台国より南に餘旁國達を設定できるかどうか、いばらの道。

77 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:11:05.59 .net
>>51
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

78 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:37:27.06 .net
>>41
どこでそんな間違った知識を仕入れてきたんだ?
11世紀は方位磁針の発明だぞ

方位磁針
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
> 歴史
> 11世紀の中国の沈括の『夢渓筆談』にその記述が現れるのが最初だとされる。沈括の記述した方位磁針は24方位であったが、後に現在と同じ32方位に改められた。
> 原型となるものとしては、方位磁針相当の磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた[14][15]。
> 指南魚を水に浮かべることで、現代の方位磁針とほぼ同様の機能を実現する。名前に「魚」とつくのは、多くの場合木片を魚の形に仕上げ、
> 魚の口の部分が南を向くようにしたもの(文字通り「南を指す魚」=「指南魚」)が使われていたため[15]。

79 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:38:53.41 .net
>>46
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

80 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:40:16.51 .net
>>48

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

81 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:41:08.45 .net
>>49

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/Uno9rXi.jpeg

82 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:41:40.51 .net
>>50

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

83 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:42:20.27 .net
>>51
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

84 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:42:55.71 .net
>>52

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

85 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:44:37.79 .net
>>78
>「指南魚」が3世紀頃から中国国内で使われていた

だからその根拠を示してよw
[14][15]とやらのリンク先も無くなってるし

86 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 22:57:44.59 .net
>>85
https://www.jasnaoe.or.jp/mecc/fushigi/report/report028.html
鉄を吸い付けるふしぎな石=磁石の存在は古くから知られていましたが、磁石にN極とS極があることに気づいたのは、約2千年前の中国人だったと言われています。
方角を知るのに欠かせない「コンパス」は、この磁石の原理から生まれました。
3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)でした。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、
水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みです。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。

87 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:00:44.41 .net
>>86
いやいやwそれ根拠じゃないよね
文献とか、出土した指南魚とか、そういうのが根拠

88 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:01:32.55 .net
さて、キナイコシくんを完全論破したところで、事実を貼っておくか

425 :日本@名無史さん :2021/01/16(土) 03:22:48.20
魏志倭人伝スレより
せっかく作ったからこっちにも貼っておこう
https://i.imgur.com/d2g3guu.jpg

読み解くための前提知識として、神代は人代の実在の人物を遠い過去に投影した影絵のようなものだということを知っておく必要がある
例えば、本来は神代の存在であるはずの五十猛(スサノオの子、天照大神の甥)が実際には人代の五十迹手と同一人物である
https://i.imgur.com/UkCWhZF.jpeg

89 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:02:54.46 .net
>>87
日本船舶海洋工学会による完璧な根拠だが
詳細が知りたければ君が問い合わせれば済むだけ
君のはただのイチャモンに過ぎない

90 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:09:30.72 .net
>>89
いやいやいやw
根拠の意味わかってる?

3世紀から指南魚が使われていた、「一次資料」を示してってこと

なにもイチャモンでもなんでもないぞ
普通の質問

91 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:13:27.32 .net
>日本船舶海洋工学会による完璧な根拠

こりゃまた畿内説が喜びそうなカモネギw

92 :日本@名無史さん:2021/03/19(金) 23:50:20.70 .net
特に呈示史料がなければ、指南魚はせいぜい11世紀のものとなるが、
いいかね。

93 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 00:43:48.13 .net
いいよ

94 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:31:28.98 .net
>>79
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/puurb8v


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

95 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:31:48.91 .net
>>80
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

96 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:32:06.75 .net
>>81
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf

97 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:32:18.32 .net
>>82
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/puurb8v

98 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:32:37.65 .net
>>83
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

99 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:33:18.04 .net
>>84
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

100 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:34:06.05 .net
>>86
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

101 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:34:30.68 .net
>>88
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ

"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/

"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/

何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ

中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居

声闘

https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

102 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:35:00.28 .net
>>89
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/faTpmpq


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

103 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:36:50.23 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>78-93のような連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、>>78-93のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3

104 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 01:37:03.37 .net
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

105 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 08:57:23.25 .net
指南魚が3世紀に存在した一次資料を示せなくて一度ならず二度までも発狂して荒らしカキコでお茶を濁してさらに他スレもageまくって敗北を誤魔化して逆に自分一人悦に入ってるお笑いの荒らしカキコも根拠が全くないことがより一層際立って完全に敗北して深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のないキナイコシは恥ずかしくないのか?

106 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 09:25:24.38 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

107 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 09:31:06.53 .net
>>76
たしかにそうだが、女王国の東西くらいは余傍国に入れてもいいのでは

108 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 09:50:44.11 .net
>>68
各地で出土する弥生時代の足あとはどれも裸足だね。

109 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 10:18:54.16 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

110 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 10:59:30.44 .net
>>108
なるほどね。わかってきた。

木沓が出土しているのは、
那珂遺跡(奴國)
雀居遺跡(不彌國)
吉野ケ里遺跡(餘旁國)
青谷上寺地遺跡(女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種)

魏使は対馬〜原の辻遺跡(一大國)〜末蘆國の東端に上陸〜三雲遺跡(伊都國)
までしか来ていないから、
木沓を見なかったんだ。

海人族だね。

海上活動がメインだから沓は逆に邪魔だったのだな。

111 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:07:29.36 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

112 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:11:45.32 .net
拾六町ツイジ遺跡(福岡市西区拾六町)からも出土している。
>木沓

伊都國では沓は見つかっていないのかな?
楽浪土器が多いから、楽浪人が持ってきてそうだけど。

113 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:12:15.40 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

114 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:19:13.56 .net
ふむう。
舟を使う海人族が裸足。

倭人伝から卑弥呼の姿を想定すると、
貫頭衣に、平原遺跡出土のガラス製勾玉管玉のネックレスや頭飾りをつけて、
耳には耳璫。
上半身は豪華だったが、下半身は裸足だったのかw
腰に素環頭大刀つけてたらバランス取れるかな。

115 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:20:09.99 .net
てことは、木沓を使ってるのは、海人族に敗北した国津神では?
大国主系列とかの。

116 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 11:21:13.74 .net
>>114
腰にもガラス装飾品の腰飾りでもつけてたんじゃないの

117 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 12:29:11.11 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

118 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 12:55:16.91 .net
.




(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html



.

119 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:00:29.64 .net
.




7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



.

120 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:12:16.16 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

121 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:16:31.34 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg

122 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:17:06.27 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/puurb8v.jpeg

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

123 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:18:47.98 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/faTpmpq.jpeg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

124 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:20:42.04 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

125 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:21:39.57 .net
>>110
>>112
三雲遺跡は中国人が滞在していたと記録されているから、除外するとして、
対馬海峡〜伊都で木沓が見つからなければ、伊都説で確定。

見つかれば、倭人伝の記載『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』について再考。

126 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:23:17.06 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/GRKi4Wo.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png

127 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:23:27.16 .net
>>110
吉野ケ里は意外なところで除外だな。
もともと考古学者は吉野ケ里には王がいないから邪馬台国ではないと結論してたけど。

ただし伊都説だと邪馬台国の一部ではある。

128 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:24:44.82 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

129 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:25:08.00 .net
>>115
>てことは、木沓を使ってるのは、海人族に敗北した国津神では?

この観点もおもしろい
普段船に乗ることがなかった、ということか

130 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:25:11.68 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

131 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:25:37.94 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

132 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:25:52.19 .net
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

133 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:26:20.00 .net
北辰信仰で敗れ

指南魚で敗れ

逆に吉野ケ里遺跡への誤誘導を論破されたキナイコシが必死のスレ流しw

134 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:27:22.34 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば、>>78-93のような連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、>>78-93のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

135 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:27:39.11 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの泡チョン、糸チョン、キナチョン、在日ヒトモドキ

"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む泡チョンは巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/

"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸チョンも巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/

何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ

中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居

声闘

https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

136 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:28:33.03 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

137 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 13:45:14.58 .net
>>1
>魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
>魏使は伊都國までしか来ていません。
>魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。

>>125
木沓が出土しているのは、
拾六町ツイジ遺跡(奴国西部or伊都東部)
那珂遺跡(奴國)
雀居遺跡(不彌國)
吉野ケ里遺跡(餘旁國)
青谷上寺地遺跡(女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種)

『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣』
魏使は木沓を見ていない=対馬海峡〜伊都の「海人族」の生活しか見ていない


>首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。
ということね。

138 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 14:15:05.97 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg

139 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 14:15:20.27 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

140 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 15:31:56.75 .net
「早良区も伊都国」というよりは、早良にあった王権が伊都国がわに移動したのだろう。
あまり高祖山の東西に広がる地域が倭国の王都。
記紀では筑紫の日向と呼称される。

141 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 15:34:35.80 .net
その倭国の王族が海神族、すなわちアマツカミ(海の王)。
その中でも後の天皇家につながるのが天孫族であり、その祖である邇邇芸は筑紫の日向のクシフル嶺に高千穂宮を営んだという。

142 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 17:19:52.27 .net
>「早良区も伊都国」というよりは、早良にあった王権が伊都国がわに移動したのだろう。

考古学的にはそうとも考えられるね。

早良王権に比べると糸島王権は中央集権が進んでいる。
前者が木棺墓と甕棺墓が混在しているのに対して、
後者は甕棺墓大王が続いて、平原木棺墓女王となっているのが興味深い。

143 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 17:23:38.47 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

144 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 19:03:30.03 .net
>>137
驚いたな。これまで出土した木製履物はたしかに対馬海峡〜伊都國では見つかっていないのだな。
文化的に弥生時代最上流のはずの地域で使われていないのは、やはり船を中心として暮らしていたからだらう。

それと政治的にも中枢つまり首都圏なので、あれこれ活動せずとも、各種物品が各地から上納されてきた。

また伊都國には一大率があり、弥生水軍として各地を巡って検察支配していた。

木製履物がむしろ邪魔ということで理に適っている。

というわけで、参考文献を見つけてまとめてみた。

145 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 19:03:47.59 .net
>「弥生時代〜古墳時代の木製履物について」考古学論攷 2018

北部九州邪馬台国

【奴國東部or伊都國西部】
今宿五郎江遺跡     福岡市西区今宿五郎江
拾六町ツイジ遺跡    福岡市西区拾六町5丁目27
【奴國】
那珂久平遺跡     福岡市博多区那珂4丁目
那珂君休遺跡     福岡市博多区那珂4丁目23番地
【不彌國】
雀居遺跡      福岡市博多区雀居(福岡空港西側地区)
下月隈C遺跡    福岡市博多区月隈4丁目

【餘旁國】
吉野ヶ里遺跡
土生遺跡    佐賀県小城市三日月町久米字土生
雛川遺跡    太宰府市大字大佐野字雛川
惣利遺跡    福岡県朝倉郡筑前町大字砥上
【豊國】
辻田遺跡    北九州市八幡西区大字馬場山360-1外

146 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 19:04:02.55 .net
東方諸国

【女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種】
姫原西遺跡     島根県出雲市姫原町
青谷上寺地遺跡   鳥取市青谷町青谷
桂見遺跡      鳥取市桂見字八ツ割・字堤谷
湖南遺跡(能登川高校所蔵品)滋賀県蒲生郡安土町下豊浦・大中
八日市地方遺跡    石川県小松市八日市町地方
大友西遺跡     石川県金沢市大友町
直江ボンノシロ遺跡 石川県金沢市直江町
梅田B遺跡     石川県金沢市梅田町
下佐野遺跡     富山県高岡市佐野

【黒齒國】
瓜生堂遺跡     東大阪市若江西新町4丁目

【倭人伝圏外】
角江遺跡      静岡県浜松市入江町字角江
豊島馬場遺跡    東京都北区豊島8-27
国府関遺跡     千葉県茂原市国府関字中橋971

147 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 19:08:55.52 .net
>>145
>>146
これらが弥生時代に見つかった木製履物の全出土リストらしい。

壱岐対馬〜伊都國からは出土していない。

伊都國から進んだ場合、
東は高祖山を越えてすぐの今宿五郎江遺跡などで木製履物にぶつかる。
南は小城市の土生遺跡で木製履物にぶつかる。その先の吉野ケ里遺跡も木製履物出土。

雪深い日本海沿岸はやはり木製履物が多数出土。
東大阪市からも出土しているから、木製履物に出会わずに奈良説に辿り着くのは厳しいね。

148 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 20:21:13.02 .net
.




(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html



.

149 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 20:25:41.60 .net
.




7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html



.

150 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 22:00:54.88 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

151 :日本@名無史さん:2021/03/20(土) 22:49:58.48 .net
>>140,142
現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!

徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。


少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、

なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。


何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、

稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。


常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

152 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 08:37:50.01 .net
>>146
>>147
日本海沿岸の木製履物出土地域は、そのまま四隅突出型墳丘墓の分布域と一致するね。
後漢書に記載され、三国志のうちに消滅した、東の拘奴國の領域だ。
『自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王』

これだけ広範囲に木製履物が分布するのに、肝心の丹後地域に出土しない。

これはつまり、紀元前の扇谷遺跡に始まり、
大風呂南一号墓の将軍(卑弥呼の父)
赤坂今井墳墓(拘奴國女王)
太田南古墳群(5号古墳から、青龍三年銘 方格規矩四神鏡)
などの鉄器やガラス製品を伊都國と密に融通している丹後地域が、
海人族の日本海沿岸支配拠点だった、ということだろう。

彼らもまた、水軍で日本海沿岸を検察支配していたので、
木製履物はむしろ邪魔だった。

153 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 14:12:21.07 .net
.






中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!





.

154 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 15:44:29.76 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

155 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 16:42:30.47 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

156 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 16:58:41.38 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

157 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:10:12.29 .net
>>152
>などの鉄器やガラス製品を伊都國と密に融通している丹後地域が、
>海人族の日本海沿岸支配拠点だった、ということだろう。

丹後が出てくるなら、やはり丹後国一宮である、
籠神社は外せませんね。

国宝の海部氏系図を初め、
北部九州倭国王の象徴である内行花文鏡・息津鏡と邊津鏡が伝世されていたことであまりにも有名です。

豊受大神=台与
天照大神=伊都国王
海神=豊国オオワダツミ
と考えれば、まさに邪馬台国の中枢とリンクしているわけです。

そして主祭神が彦火明命。
饒速日ですね。

158 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:10:37.07 .net
日本海沿岸世界の主要地点である丹後国の一宮に、
彦火明命が主祭神として残っている。

ということは、
彦火明命の近しい子孫が丹後の支配者であった頃に、
政治経済軍事の中心は日本海側から瀬戸内へと軸足を移し、
ある意味権力争いから外れた、ということですね。

要するに、権力者が欲しがるのは大倭=瀬戸内経済圏となり、
中央での権力争いの場はそちらへ移り、
丹後国は彦火明命の子孫が担当し続けることができた、ということでしょう。

159 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:11:25.64 .net
魏志倭人伝に記録された、伊都国の都知事=爾支をニギと考えるなら、
官ですから、職名となります。

弟のニニギは、伊都国都知事というキャリアを経由して、
大王=倭国王になった、大王。
と解釈することができます。

そうなると、
伊都国と密接にリンクする丹後将軍家の職名がニギハヤヒだった、
と考えたいところですが、
そうであるなら、
籠神社の主祭神の名は饒速日として残っているはずですね。

160 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:13:37.66 .net
となると、
ニギハヤヒというのは丹後とは関係なく
やはり伊都国と関係があり、伊都国軍を率いる将軍の職名。
彦火明命は個人名だろうということになります。

彦火明命は、キャリアの初期に、まず丹後国の水軍長官になった。
次いで伊都国王になった。
伊都国都知事には弟のニニギが着任。

大国主が失脚して、
彦火明命は伊都国軍を率いる将軍ニギハヤヒとして出征。奴国を制圧。次いで大阪湾攻略。
ニニギは全体の大王として新設された、倭国王に就任。
これまでの吉武遺跡→三雲遺跡側へ新首都建設。

161 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:14:53.12 .net
対馬海峡〜早良平野が、海人族の最強勢力である天神族の支配する、
天津国。
それを支配するのが天照=伊都国王=大日孁貴神。

それ以外が、国津神の支配する国々で、
例えば奴国=葦原那珂津国の大己貴神=奴国王=大国主。
豊国の道主貴。
などなど。

伊都国王は伊都国王で、倭国王とは別に、ある時期までずっと存在した。
これは記紀でも倭人伝でもそうですね。

倭地の全体を支配する皇帝こそが、倭国王であり、
その初代に任命されたのが、伊都国都知事をやっていた、
伊都国王家筋のニニギだった、と考えれば辻褄が合います。

162 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:16:59.00 .net
以上から、彦火明命の経歴を名前から解析して見ると、

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

最初は丹後国水軍長官 櫛玉(丹後半島に多数ある玉造工房)
伊都国都知事に就任 天照、彦
伊都国軍を率いて出征 饒速日
奴国など国津神の国々を制圧 国照
となりますね。

自らは軍を率いて出征し、
弟のニニギを倭国王として擁立した、という形でしょうか。
本当はニニギは傀儡で、自らが大王になるつもりだったのが、
ニギハヤヒの方が先に出征先で亡くなったため、
ニニギが実権を握った、可能性もあります。

163 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 19:21:01.38 .net
赤坂今井墳墓(拘奴國女王)と平原遺跡(邪馬台国女王卑弥呼)とは、
同盟国だったのが明らかですから、
卑弥呼の男系は饒速日だった可能性が高いですね。

7世紀の記紀から無視されているのは、
その辺りならびに、
新羅とも絡んでいるのでしょう。

164 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:00:05.82 .net
籠神社の絵馬では、
彦火明命と伊都岐島媛が夫婦となっているそうです。

これをそのまま受け入れるなら、
彦火明命が天照=伊都国王=大日孁貴神で、ニギハヤヒとなって、
伊都国軍を率いて、奴国勢を軍事的に制圧。

豊国女王となった伊都岐島媛と婚姻して、豊国支配も強化。

ということで、北部九州の主要三か国の統一支配を強化する上では、理に適っています。

165 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:22:55.84 .net
倭国乱とはつまり、天孫族内での大倭の争奪戦ですね。

戦乱で瀬戸内が荒廃して国力低下し、
奴族オオクニヌシ系による狗奴国の勃興を許してしまった。

狗奴国に滅ぼされては洒落にならないので、
旧勢力である日本海沿岸勢力の力を借りることにした。

丹後若狭湾水軍の長官である、大風呂南一号墓の将軍(卑弥呼の父)の娘である、
卑弥呼を共立した、ということですね。

166 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:30:44.67 .net
>赤坂今井墳墓(拘奴國女王)と平原遺跡(邪馬台国女王卑弥呼)とは、
>同盟国だったのが明らかですから、
>卑弥呼の男系は饒速日だった可能性が高いですね。

すみません。
これは説明として不適切ですね。

赤坂今井墳墓女王は、拘奴國女王ですから、男系は奴国王オオクニヌシ系ですね。

平原遺跡女王は、丹後半島と親しいが、
積石墓ではないから、赤坂今井墳墓女王と男系は異なり、
そうなると、男系は饒速日の可能性が高い、というべきですね。

次の男王が、出・伊都国した伊都国王の筋で、大倭=瀬戸内を重視。
卑弥呼勢力=日本海沿岸勢力のバックである拘奴國を滅ぼした。
内乱ですね。

内乱で邪馬台国の国力が低下して狗奴国が盛り返し、
台与を擁立して狗奴国と対決。

167 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:36:26.05 .net
保元・平治の乱のごとく、
饒速日末裔も、奴国王末裔も、そしておそらくニニギ系も、
それぞれの内部対立を抱えて、敵味方に分かれて戦ったのだろう、ということになります。

ちなみにタケミナカタ系が金印を持ってかき回していますね。
最初は狗奴国側について、例の鉄鏡入手に協力。
次いで邪馬台国側に寝返って、金印入手に協力。
その名残りとして、平原遺跡の横に御柱。

タケミナカタは各地の主祭神として残っているので、
最終勝者であろう男王と戦わなかった。

つまり卑弥呼時代のうちに失脚して、
男王と戦わずにすんだ、ということになります。

奴族なので難升米ではないかと。
一族を代表して晴れの出陣をして、次の男王時代直前に狗奴国に大敗し、
中央政界の競争から運良く脱落=離脱できたのではないでしょうかね。

168 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:46:50.69 .net
男系がバラバラということは、
平原女王卑弥呼、赤坂今井墳墓(拘奴國女王)、そして台与(那珂八幡古墳?)は、
女系は確実に同じ系統、ということになります。

あと、男王は大倭系ですから、筑後がホームグラウンドで、
祇園山古墳である可能性が非常に高くなります。

169 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 20:48:50.99 .net
.






中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!





.

170 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:05:40.11 .net
記紀において、高天原から本州に降臨したニギハヤヒと筑紫に降臨したニニギは兄弟とされている。
無理にニギハヤヒを九州に結びつける必要はない。
ニギハヤヒは記紀では神武が大和入りするときに登場するし、その末裔は後にヤマト王権の祭祀を司った物部氏となる。
両者とも高天原から降臨したが、そもそも高天原の天照は筑紫の生まれとされている。
その一方で、筑紫には天照と同じく筑紫の生まれの大山祇が君臨していたことが書かれてもいる。
つまり分家が政権の中枢に返り咲いて筑紫を征服した歴史があったということ。
早良から三雲への変化なども、それと関係しているかもしれない。
大山祇は綿津見と兄弟であり、いずれも早良から志賀島にかけて君臨した倭王のことだろう。
その三雲の天孫族が伊都を離れたきっかけが倭国大乱であり、その後に即位した木棺墓の女王が卑弥呼であったことになる。
ニニギから始まる伊都天孫族の生き残りが、魏志倭人伝登場するニギであり、彼らが祖先である天孫族と天照を祭り続けたので、神道の祭祀役は禰宜ということになった。

171 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:11:17.85 .net
>>161
>伊都国王は伊都国王で、倭国王とは別に、ある時期までずっと存在した。
>これは記紀でも倭人伝でもそうですね。

そうじゃない。
伊都国王というものはない。
魏志倭人伝は伊都に代々王がいたとあるが、それは倭王のことだ。
倭王である天孫族が代々筑紫にいたということだ。
それは記紀の神代の巻の話そのままであり、深読みをする必要はない。
ただし一代において王はひとりきりなので、卑弥呼の時代にあっては伊都の天孫族の末裔は伊都の官としか書けなかったのだ。

172 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:23:09.45 .net
>>162
>ニギハヤヒの方が先に出征先で亡くなったため、

記紀によると、東方で王国を築き上げて繁栄したとあるから、筑紫に戻る気がなかったのだろう。

>>164
>彦火明命と伊都岐島媛が夫婦となっているそうです。
>豊国女王となった伊都岐島媛と婚姻して、豊国支配も強化。

ここはおそらく複数の人物が混同された可能性が高いです。
伊都岐島媛は宗像の海神姫でしょうが、同時に大山祇・綿津見の志賀島の豊国王族の姫でもあったでしょう。
それは早良の倭王の姫であるということと同義です。
それが伊都の名を持ち天孫族のホアカリと婚姻したのであれば、大枠としては、記紀において筑紫の天孫族が志賀島の豊国王家から代々姫を娶ったことと一致します。
ただしホアカリが天孫族の男子の一般名だった可能性があります。
同様に、ニギハヤヒもニニギの兄弟とされながらも、ニニギの曽孫である神武と面会しているので、継承される称号だったのでしょう。
そもそも神武も、天孫族の日向王家2代目と同じヒコホホデミの名も諡として持っていますので、天孫族は同じ称号を一族で使いまわしていたわけです。
記紀の記述からは、筑紫と大和は情報はある程度やり取りしても、実際には神武が大和に辿り着くまで何年もかかっています。
やはり支配圏としては筑紫と大和は別と考える他ない。

173 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:26:49.07 .net
>そもそも神武も、天孫族の日向王家2代目と同じヒコホホデミの名も諡として持っていますので、

なるほどですね。

>やはり支配圏としては筑紫と大和は別と考える他ない。

筑紫=筑前=大率 卑弥呼ら
大和=筑後=大倭 男王・台与ら→勝者

174 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:30:41.44 .net
>>165
>丹後若狭湾水軍の長官である、大風呂南一号墓の将軍(卑弥呼の父)の娘である、
>卑弥呼を共立した、ということですね。

ここも、畿内にいたニギハヤヒとに関係は想定されても、卑弥呼と結びつける根拠はない。
想像で決めつけてはいけない。
むしろ卑弥呼は邪馬台国(筑紫)の南にあった狗奴国(肥後)との関係を重視するべきだ。
伊都の天孫族は畿内と関係が深かったかもしれないが、その上に君臨した卑弥呼はそうである必要はない。

175 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:38:06.17 .net
>>167
>それぞれの内部対立を抱えて、敵味方に分かれて戦ったのだろう、ということになります。

このレスは想像が先走っていてほとんそ読む価値もないですが、内部対立ということであれば、肥国王家の中の対立が卑弥呼と卑弥弓呼の対立として記録された可能性はあります。
王権を手放した天孫族は蚊帳の外だったわけです。

>>168
>あと、男王は大倭系ですから、筑後がホームグラウンドで、
>祇園山古墳である可能性が非常に高くなります。

筑紫の天孫族は男系、志賀島の豊国は女系、有明海の肥国は女王と男王に分裂していたのでしょう。
祇園山は有明海沿岸の肥国の領土の一部であり、卑弥呼と関係があった女王の一人でしょう。
壹與かもしれません。
壹與は、筑後川の支流の川上にあった川上神社の淀姫様でしょう。
それが魏志倭人伝では卑弥呼の係累とされているのだから、卑弥呼も肥国の王家に連なる人物だったわけです。

176 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:40:04.32 .net
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが知られている。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割された。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前川上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見た呼称であったと考えることができる。

177 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:41:18.37 .net
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。

178 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:44:11.65 .net
つまり、

>>173
>大和=筑後=大倭 男王・台与ら→勝者

は間違い。
筑後・肥前・肥後すなわち有明海沿岸にあった肥国は、最終的には博多湾沿岸の筑紫倭国によって滅ぼされてしまう。
まして、筑紫倭国の分家であった大和とは関係がない。

179 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:49:22.01 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=筑紫の日向=天皇家の祖である山幸彦(彦火火出見)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である饒速日の国

>>170
>ニギハヤヒは記紀では神武が大和入りするときに登場するし、その末裔は後にヤマト王権の祭祀を司った物部氏となる。

畿内において祭り事(王権)を担っていたのが、天孫ニギハヤヒとその末裔で、筑紫において祭り事(王権)を担っていたのが天孫ニニギであった。
両者の伝記に共通して登場する人物が、海神族の姫であった宗像の市杵島姫ということになる。

180 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:50:34.10 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/puurb8v

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

181 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 21:50:54.40 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

182 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 22:14:46.32 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

183 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 22:31:29.88 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

184 :日本@名無史さん:2021/03/21(日) 22:31:37.02 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

185 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 02:58:58.45 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

186 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 02:59:08.91 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

187 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 18:38:56.61 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

188 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 20:01:16.76 .net
『有屋室 父母兄弟臥息異處』
(倭人の住居には)屋根と部屋があって、父母と兄弟は寝室や私室を別々にしている。

『収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之』
年貢や労役を徴収する。
(徴収した年貢を保管する)食料倉庫がある。
各國に市がある。
各國の産物を交易し、大倭に交易を監督させている。


邸閣というのは食料倉庫。
三国志ではよく軍事に絡んで出てくる。兵糧保管庫のような意味。

邪馬台国は狗奴国と戦争中だし、
魏としてはいざとなれば邪馬台国からの援軍も期待したいし、
兵糧のストックは気になる処。

邸閣の漢字から、高床式倉庫と訳す向きもあるが、
当時の中国でも、土間の屋敷は多かったので、高床式とは限らない。
ただ、邸閣は竪穴建物ではなく、掘立柱建物であったのは確実だろう。

各國に市があるということは、
各國に、邸閣=掘立柱建物の食料倉庫があった、ということになる。

大倭はその監督者なので、農林水産省であると同時に大蔵省でもある。

大倭所有の邸閣=大型掘立柱建物の食料倉庫。

189 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 20:17:40.30 .net
.


日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》


クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!

耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!


伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

.

190 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 20:24:15.76 .net
>>188
>邸閣というのは食料倉庫。
>三国志ではよく軍事に絡んで出てくる。兵糧保管庫のような意味。

いや本来は単なる食料倉庫だろう。

三国志は基本的に戦乱時代の歴史書なので、
食料倉庫が出てくるシーンは、その食料を兵糧として戦う云々の話が絡んでくるだけ。

191 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 21:57:07.62 .net
何を言いたいのか知らんが、
伊勢遺跡では独立棟持柱の掘立柱建物の跡地に竪穴住居が作られてるから、
基本的には住居は竪穴住居。
掘立柱建物は倉庫。

192 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 22:20:07.47 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

193 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 23:33:42.35 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png

194 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 23:33:59.70 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

195 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 23:40:01.08 .net
其國本亦以男子爲王 住七八十年
倭國亂 相攻伐歷年 
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室 樓觀城柵嚴設
常有人持兵守衞

『以婢千人自侍』て文法的に難しい。

196 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 23:43:48.12 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

197 :日本@名無史さん:2021/03/22(月) 23:43:57.33 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

198 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 15:29:32.17 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

199 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 19:10:15.86 .net
.





日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!




.

200 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 19:11:59.64 .net
.





日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!




.

201 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 19:37:42.08 .net
>>195
『以婢千人自侍』では意味が通らんね。
『奴婢千人自侍』の転写違いだな。

『奴婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處』
男女の召使が千人、自ずから仕えている。
うちただ男性召使の一人だけが、
女王に食事を給仕したり、連絡を伝えたり、女王の居室に出入りすることが出来る。

202 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 20:41:41.46 .net
『宮室 樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衞』
卑弥呼の宮殿は、物見櫓と城柵が厳重に設営されたものである。
常に人がいて、武器を持って守衛している。


宮室と書いてあるのだから、魏使が宮室の実物を見たのなら、
竪穴住居ではなく掘立柱建物。
だが卑弥呼は人に会わず、樓觀城柵嚴設の奥にいるのだから、
魏使が宮殿そのものを直接見たわけではないかもしれない。
だとすれば竪穴住居の可能性も否定はできない。
また宮室は卑弥呼達の勤める宮殿であって、居室はまた別にあるとも考えられる。
などなど、掘立柱建物か竪穴住居かという論点ではいくらでも言いようがある。

物見櫓と城柵で厳重に守られていると書かれているのだから、
城柵の列には物見櫓が必須。
日本の環濠であっても、吉野ヶ里遺跡のような空掘であれば、城柵と呼べるのではないか。
また伊都説の言う高祖山のような山城であれば、ぐるりを囲まなくても、登山道の要所だけ城柵と物見櫓で防備していれば嚴設の条件は満たす。

203 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 21:24:03.80 .net
>>188
掘立柱建物といっても、
出土するのは柱穴と、たまに残っている柱の根っこだけ。

残っていない地上部分について復元案の根拠の一つとなるのが、
弥生時代当時の人が書いた絵。絵画土器や、銅鐸の絵。

その絵のほとんどは、「柱の上に屋根が乗っているだけ」のもの。

屋根の下に壁の部分が書かれているのは、
伝香川出土銅鐸
岡山県南方遺跡の絵画土器
くらい。
あと唐古鍵遺跡の絵画土器に壁のような部分があるが、線の配置からは、横に柱が組まれているだけのように見える。

あとはほぼ、「柱の上に屋根が乗っているだけ」のものであり、
いわゆる正倉院の高床式倉庫のような絵は見当たらない。

204 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 21:26:26.50 .net
>>130
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

205 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 21:38:19.52 .net
>>203
唐古鍵遺跡の絵画土器に、屋根の端に「渦巻き状の飾り」=蕨手(わらびて)がついているものがある。

これを楼観としている。
楼観の屋根に蕨手がついており、蕨手の形から御神輿の起源とも考えているようだが、これも妙だ。

楼観の屋根に「明らかな蕨手」がついたもので、
尚且つ、その下に柱が立っている、
「明らかな蕨手」がついた屋根+「明らかな掘立柱建物」
の絵画は無いのだ。

ということは、蕨手がついた屋根の絵は、そのまんま弥生の御神輿の絵画であり、
楼観などではない、とも考えられる。

206 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 21:41:49.53 .net
>>205
@
考古学的には柱穴と柱根しかわからない、掘立柱建物の上部構造の決め手となる、
弥生時代の絵画土器や銅鐸絵画では、
「柱の上に屋根が乗っているだけ」のものがほとんどである。

A
「明らかな蕨手」がついた屋根の絵で、
尚且つ「明らかに下に柱がついている」絵は無い。


時間がある時には調べてみてほしい。
そして反証が見つかったら、教えてほしい。

207 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 22:00:13.22 .net
>>206
「明らかな蕨手」がついた屋根の絵、をなぜ並べるかというと、
「明らかな蕨手」がついた屋根の絵、だけが、壁の部分を書かれているからだな。

唐古鍵の楼観のような二階建て部分。

逆に言うと、
「明らかな蕨手」がついていなければ、ほぼ全て、柱の上に屋根だけ。

「明らかな蕨手」がついていると、壁の部分があるのだが、
下の柱部分まで同一絵画で書きこまれたものが無いため、
特殊×2となり、
建物ではなく、御神輿なのではないか、との推測をしているのだな。

208 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 22:48:05.78 .net
お神輿の蕨手は、あれでしょ。
担いで移動する時に、周囲の建物や人に当たっても、傷つけないよう、
角を丸めて緩衝材の役割を持たせてあるんでしょ。

209 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 22:52:55.78 .net
御輿そのものが、神の坐す建物だと思うけど

210 :日本@名無史さん:2021/03/23(火) 23:31:57.16 .net
唐古・鍵73次出土 切妻高床建物

211 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 00:51:07.76 .net
>>210
・渦巻きが足りないから「明らかな蕨手」ではない
・「明らかな蕨手」の屋根は下辺が大きい台形だが、逆
・鹿より小さいので、餌籠かなにかかもしれない

212 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 01:06:56.48 .net
47次のは屋根と柱が本当に一つの絵だったか保証できない

59次のは屋根の上に向かっていろいろついてるし、
3次のは下の柱に斜めのがいっぱいあるから考古学的な柱穴とそぐわず、
これらは建物ではなく、籠とかではないのか?
籠の絵がありうるのなら73次のも籠ではなかろうか。

213 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 01:19:47.12 .net
唐古鍵の出土品内ですら、「明らかな蕨手」が無い建物は全て、柱の上に屋根だけだね。
これらは昇降用の階段も書きこまれてるから建物とわかるし。

214 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 01:34:35.86 .net
渦巻きが足りないとか結局恣意的

215 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 02:09:46.95 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

216 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 02:09:59.94 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

217 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 06:38:52.71 .net
渦巻き分ける必要なくない?
唐古鍵でしか採用されてないし。

218 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 12:28:35.76 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

219 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 12:28:45.29 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

220 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 16:32:30.27 .net
>>202
>日本の環濠であっても、吉野ヶ里遺跡のような空掘であれば、城柵と呼べるのではないか。

吉野ヶ里などの環濠は、逆茂木などにより柵や垣を形成していたはず。
城柵と表現しても構わないと思う。
スサノオの八重垣の和歌も、環濠集落を歌い上げたのだろう。

>>203
>あと唐古鍵遺跡の絵画土器に壁のような部分があるが、線の配置からは、横に柱が組まれているだけのように見える。

建物を線描するとき、壁は書きようがない。
子供が家を描くときも必ずこうなる。

>>205
>ということは、蕨手がついた屋根の絵は、そのまんま弥生の御神輿の絵画であり、
>楼観などではない、とも考えられる。

下段の張り出しにも蕨手があることになってしまい、神輿としてはおかしい。

>>209
>御輿そのものが、神の坐す建物だと思うけど

つまり後世の神輿も、弥生時代の宮室の形状を再現しているわけだね。

221 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 17:17:39.68 .net
>>220
>建物を線描するとき、壁は書きようがない。
伝香川出土銅鐸のように、屋根の下で、柱列に横線を書くだけのこと。

「子供の絵 家」で画像検索したら、違いが一目瞭然。
子供でも、壁であれば四方はくっきり区切る。
比較してみるとやはり、唐古鍵遺跡の柱列の横線は柱から飛び出しており、
横に渡した補強材であって、壁ではないのだろう。

対して伝香川出土銅鐸の壁は綺麗に長方形が区切られており、
しかも梯子が長方形=壁の床面に設置されており、屋根の下に部屋があるのだとわかる。


>下段の張り出しにも蕨手があることになってしまい、神輿としてはおかしい。
神輿では下段の張り出しに蕨手があるのが普通。
上段の張り出しに蕨手があるのがおかしい、のまちがいかな?

だとしても、古代の神輿は張り出しの全てに蕨手がついていただけのことかもしれず、
神輿の否定材料にはならない。
(自分としては建物だと思うが。神輿も否定はできない。)

222 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 18:16:27.28 .net
まさかと思うが、掘立柱の高床建物に「住んでいた」とか考えてないよな?

床面1メートルでも、万一床板はずれて落下したら下手したら死
トイレに行くだけでも絵画に書かれてる梯子を上り下りする苦行
ましてや高齢の卑弥呼が住む場所じゃないよな

223 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 18:52:24.88 .net
考えてるんじゃねーのw

糞共だとまたぞろ
床板なんかはずれない
トイレは高床の一画にぼっとんトイレ
卑弥呼は引きこもりで外出しなかった
とかで非人道的に卑弥呼を空想カンキンしてそうw

224 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 20:31:46.33 .net
.






今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません

遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表であるので悪しからず





.

225 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 20:33:29.96 .net
>>222
住んでいなかったのなら、掘立柱建物は宮殿であって、住居は別にあったことになるね。
竪穴住居が近くに。

226 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 21:30:00.14 .net
>>215
>百越系文化を有する阿曇氏
>秦”系の一族の侵略
>奴国(百越系阿曇)






で、百越や秦から渡来定着した証拠の痕跡遺構は?




で、百越や秦から渡来定着したなんて中卒ギャグ飛ばしてる頭の中が
ファンキーすぎる考古学者の論文は?






早く出せよクッサイ汚らしい醜すぎる華南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇半ニグロ

227 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:44:22.89 .net
>>94
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

228 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:44:54.00 .net
>>95

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

229 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:45:20.30 .net
>>96

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg

230 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:46:06.24 .net
>>97

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

231 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:46:25.30 .net
>>98
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

232 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:46:45.83 .net
>>99

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

233 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:48:44.45 .net
結局、今日も>>88の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

234 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:51:12.73 .net
>>90
分かってないのは君だよ
既に>>78,86とソースは示されているのだから、ソースのソースまで提示する義務は無い
知りたければ君が問い合わせりゃいいだけの話

それをしないのは君の負けが確定してしまうのを恐れてのことだろw
君はもう自分の負けを自覚しているんだよ

235 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 22:54:05.53 .net
>>140
いや、それだと魏志倭人伝の記述と合わない
伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、奴国の都である春日丘陵からの距離を考えると
西新町遺跡あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない

当然早良も伊都国ということになる

236 :日本@名無史さん:2021/03/24(水) 23:15:02.74 .net
>>225
神社の建築が、2棟の高床建物を本殿(住居)と拝殿(応接間)として使っているが参考になると思う。
高床から落ちるのを恐れて神主や巫女は神社の建物に入るのを躊躇するのか?
そもそも神社や神宮は、そこに神様(王族)が座すということを前提としている。

237 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 08:58:43.50 .net
>>235
博多や糸島などの、せまっこいところに詰め込んで、こまっちいことをいくら考えてもラチはあかないぜ
筑紫野を超えた先の、筑前・筑後・佐賀の大平野を見てみ。一挙に目が覚める・・。

238 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:57:54.35 .net
>>224の在日ヒトモドキは執拗に玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを流布して回っていますが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻された程度の価値しかありません。

1999年に学術論文「ウルサンムゴドン オクヒョン遺跡」(イ・サンギル、イ・ヒョンソク、ガク・ジョンチョル共著)が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文に在日ヒトモドキが言うような紀元前15世紀や紀元前11世紀などという記述は皆無な上、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。

加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。

本国ですら正確な位置を把握していないという無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。

そもそも玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡のウソを始めたのは元国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。

よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。

にも関わらず、在日ヒトモドキは学術論文や行政の発表という現実から逃げ回り、グーグル地図うんぬんやら国の研究機関の公表だとホラを吹き、中国共産党への被害妄想に嵌まり込むという醜態を繰り返すしか能のない卑しくも憐れな無能生物なのです。

グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 き 、
中 国 共 産 党 へ の 被 害 妄 想 に
嵌 まり 込 む と い う 醜 態 を
繰 り 返 す し か 能 の な い
卑 し く も 憐 れ な 無 能 生 物な の で す。

グ ー グ ル 地 図 う ん ぬ ん や ら
国 の 研 究 機 関 の 公 表 だ と
ホ ラ を 吹 く こ と で 精 神 勝 利 を 画 策 す る
惨 め な 無 能 生 物 が >>224 で す。

239 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:58:13.89 .net
>>227
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/puurb8v


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

240 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:58:25.23 .net
>>228
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/LZ2BRD3


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

241 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:58:41.43 .net
>>229
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2
現実はコチラ
https://i.imgur.com/oBTovjf

242 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:59:09.31 .net
>>230
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

243 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:59:23.00 .net
>>231
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

244 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:59:34.65 .net
>>232
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

245 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 09:59:55.29 .net
>>233
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

246 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 10:00:22.98 .net
>>234
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg

247 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 10:00:40.27 .net
>>235
【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

248 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 10:02:27.03 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>224,226-235のような連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、>>224,226-235のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

249 :日本@名無史さん:2021/03/25(木) 10:02:53.43 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

250 :日本@名無史さん:2021/03/27(土) 23:50:37.37 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ

"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/

"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/

何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ

中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居

声闘

https://i.imgur.com/faTpmpq
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

251 :日本@名無史さん:2021/03/27(土) 23:50:46.90 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

252 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:56:16.58 .net
>>239
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

253 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:56:35.86 .net
>>240

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

254 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:56:50.16 .net
>>241

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg

255 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:57:08.06 .net
>>242

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

256 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:57:19.82 .net
>>243
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

257 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:57:35.44 .net
>>244

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

258 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:57:55.23 .net
結局、今日も>>88の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

259 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 21:59:27.25 .net
>>237
邪馬台国の話なら確かにそうだね
>>235は女王国連合内における伊都国の位置付けの話だから


5 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:55.57
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう

260 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:10:15.46 .net
>>252
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

https://i.imgur.com/7Fqjoly.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

261 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:10:52.67 .net
>>253
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

262 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:12:08.06 .net
>>254糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/XygXIv6.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/dDySnL2.png

263 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:12:24.96 .net
>>255
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

264 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:12:42.76 .net
>>256
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

265 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:12:57.33 .net
>>257
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

266 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:13:12.72 .net
>>258
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

267 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:13:47.60 .net
>>259
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

268 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:14:33.18 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

269 :日本@名無史さん:2021/03/28(日) 23:14:42.67 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

270 :日本@名無史さん:2021/03/30(火) 01:56:22.46 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!

徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。


少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、

なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。


何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、

稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。


常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定。

https://i.imgur.com/puurb8v.jpeg

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

271 :日本@名無史さん:2021/03/30(火) 01:59:01.38 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

272 :日本@名無史さん:2021/03/30(火) 11:21:45.64 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

273 :日本@名無史さん:2021/03/30(火) 11:21:56.19 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

274 :日本@名無史さん:2021/03/31(水) 03:45:36.81 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

275 :日本@名無史さん:2021/03/31(水) 03:45:46.68 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

276 :日本@名無史さん:2021/04/02(金) 10:39:24.28 .net
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島工作員の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島工作員の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png

277 :日本@名無史さん:2021/04/02(金) 10:39:35.05 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

278 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 01:22:23.60 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

279 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 01:22:32.26 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

280 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:45:00.28 .net
>>260
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

281 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:45:27.08 .net
>>261

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

282 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:45:44.09 .net
>>262

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg

283 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:46:03.23 .net
>>263

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

284 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:46:19.25 .net
>>264
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

285 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:46:35.53 .net
>>265

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

286 :日本@名無史さん:2021/04/04(日) 21:47:14.48 .net
結局、今日も>>88の圧倒的事実には何一つ反論ができないみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

287 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:33:10.67 .net
>>280
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!

徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。

少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、

なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。

何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、

稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、

志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、

稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、

沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

288 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:33:30.15 .net
>>281
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

289 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:33:51.46 .net
>>282糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/XygXIv6.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/dDySnL2.png

290 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:34:08.42 .net
>>283
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

291 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:34:20.85 .net
>>284
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

292 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:34:36.71 .net
>>285
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

293 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:34:50.14 .net
>>286
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

294 :日本@名無史さん:2021/04/05(月) 08:35:05.09 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

295 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 00:47:26.75 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒

糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

296 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 00:47:36.23 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

297 :日本@名無史さん:2021/04/06(火) 08:14:09.45 .net
キナイコシによる捏造スレへの誘導作戦が失敗に終わっていてワラタ

298 :日本@名無史さん:2021/04/07(水) 03:06:15.00 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 このスレで言えば>>280-286のような連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。

相手が論理的に反論しても、聞こえないふりをするか同族のキナチョンのせいだと被害妄想を抱き、執拗に意味不明なコピペを威圧的に繰り返し、特に複数人を装うサル芝居を繰り返す。

そして得意の思い込みで相手をキナイコシや出雲信者だと錯覚し、被害妄想に陥る。

自分に非があっても決して認めず、>>280-286のように大声で持論や長文コピペの連投を繰り返し、相手が疲れ呆れて黙り込んだら自明ニダ〜!確定ニダ〜!と独り精神勝利で大喜びをするのだ。

https://i.imgur.com/C4BUClz.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

299 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 04:07:19.18 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの徳島朝鮮人、糸島朝鮮人、キナチョン、在日ヒトモドキ

"ア"が付いたら何でも強引に阿波に引き込む徳島朝鮮人は巣に帰れ
「邪馬臺国」は阿波(笑)だった Part.8(笑)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601267699/

"イ"が付いたら何でも強引に伊都にこじつける糸島朝鮮人も巣に帰れ
伊都は邪馬台国で海人族の首都ニダァァァ
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1601842277/

何もなくても邪馬台国関連は畿内に巻き込むキナチョンは首を吊れ

中国共産党に狙われてるとかいう被害妄想で戦い続けてる在日ヒトモドキはドブ川に身投げしろ
  
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
古代史関連スレの四大迷惑チョンの得意技

こじつけ

思い込み

盲信

猿芝居

声闘

https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

300 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:51:25.41 .net
>>287
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

301 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:51:40.44 .net
>>288

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

302 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:51:53.45 .net
>>289

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg

303 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:52:09.65 .net
>>290

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

304 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:52:24.39 .net
>>291
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

305 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:52:38.01 .net
>>292

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

306 :日本@名無史さん:2021/04/10(土) 17:53:17.89 .net
結局、今日も>>88の圧倒的事実には何一つ反論ができず逃げ惑うだけのみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

307 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:26:07.15 .net
>>300
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!

徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。

少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、

なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。

何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、

稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、

志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、

稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、

沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

308 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:26:20.92 .net
>>301
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

309 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:26:37.83 .net
>>302糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/XygXIv6.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/dDySnL2.png

310 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:26:50.74 .net
>>303
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/aLfGtZl.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

311 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:27:03.60 .net
>>304
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

312 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:27:14.45 .net
>>305
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

313 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:27:28.30 .net
>>306
結局、また今夜もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
深夜にコソコソとしつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww

314 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:27:53.92 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

https://i.imgur.com/Km8Z0re.jpeg

315 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 03:46:42.49 .net
本スレ


女王國=伊都國(笑)=邪馬台国の首都 Part.2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1598892939/

316 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 09:14:31.59 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!

徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。

少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、

なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。

何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、

稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

何 の 理 由 も な く 伊 都 国 だ っ た 地 域 が 松 浦 郡 (末 廬 国) に 取 り 込 ま れ た り、

志 摩 半 島 だ け 独 立 し た 郡 に 切 り 分 け ら れ た り す る は ず も な く、

稜 線 で 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 早 良 郡、

沖 と い う 生 活 空 間 の 隔 た り の あ る 志 賀 島 が 伊 都 国 だ っ た な ど 世 迷 い 言 で し か な い。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度で確定している。

https://i.imgur.com/7Fqjoly.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

317 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 09:15:43.09 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


〜糸島朝鮮人特有の三種の珍技〜

∧,_∧
< `∀´>
記憶喪失
(論破されても半日で忘れる)

∧_,,∧             
<♯`Д´>
文盲病
(前後の文脈や論の大局を読めない)

∧_,,∧
<;l|l;`田´>
チヨンコロ目
(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)


https://i.imgur.com/6j9Vxm9.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

318 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 09:16:50.27 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/d23zGjw.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

319 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 09:18:39.23 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


朝鮮起源説に結びつけようと画策する糸島朝鮮人の妄想やこじつけを取り除けば五十猛命はイタケルが正式名称なのは明白

五十を「イソ」と読むのは島根くらいで、三重の五十鈴川や五十鈴は「イ」スズ、糸島朝鮮人が愛してやまない福岡の五十迹手も「イ」トテ
五十嵐や五十畑、五十浦、五十海、五十原、五十子、五十谷、五十土、五十里、五十崎、五十沢、五十島は「イカ」だが、これは後述の五十日からの転用(誤読)だろう

五日=イツカ、十日=トオカ、二十日=ハツカ、三十日=ミソカ、四十日=ヨソカ、五十日=イカ、八十日=ヤソカ、百日=モモカが正式な大和読みである
正式な大和読みで30日を「ミ」ソ+日「カ」、40日を「ヨ」ソ+日「カ」、80日を「ヤ」ソ+日「カ」と読むにも関わらず、50日はソと読ませず「イ」+日「カ」としている点が重要
大和読みで五十は「イソ」とは読めず、「イ」と読むのが唯一正しいというのは火を見るより明らか。

にもかかわらず糸島朝鮮人は必死に曽根崎神社や霹靂神社神社の社伝を声闘し続けて誤魔化そうと画策しているが、
五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は『書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。』と明言している

五十猛命の読み方に触れている唯一の神社である伊太祁曽神社は 「イソタケルノミコト」 は誤りだと断言している

五 十 猛 命 の 読 み 方 に 触 れ て い る 唯 一 の 神 社 は 「イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る

「 イ ソ タ ケ ル ノ ミ コ ト 」 は 誤 り だ と 断 言 し て い る


声闘連投で精神勝利するしか能のない糸島鮮人にも理解できるように三回連呼してやったから心置きなく首を吊れw

https://i.imgur.com/udQjfnU.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

320 :日本@名無史さん:2021/04/11(日) 09:19:04.38 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww
歴史の真実は一つだけ!日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

〜仲哀天皇八年一月〜
   イトテ
<丶`∀´> ウリは仲哀様に曲妙に天下を治め
       分明に山川海原を看て
        十握剣をひっさげて天下を
        平定していただきたいと
         願っておりまするニダ
         あ、ウリは高麗意呂山に降りた
          日拝の苗裔ニダよ〜
  仲哀
( ゚^∀^゚) うん、エラしエラし!
      じゃっ!

〜現代〜
  糸チョン
<丶`∀´> エラし・・・ エラし?!       
        これはきっとスサノオと新羅に降りた
        エラ猛神ニダ!そうに違いないニダ!
         異論は認めないニダ!
  糸チョン
<丶*∀*> そしてエラ武良も同一人物ニダ!       
        つまり海人族も伊都国王ニダ!
         んで伊都は邪馬台国の首都ニダ!
         異論は認めないニダ!

糸島朝鮮人の妄想がコチラ
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
現実はコチラ
https://i.imgur.com/e7fbldM.png

321 :日本@名無史さん:2021/04/14(水) 09:41:01.80 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南

そして民俗学や系譜学に基づいた研究では、山祇族に手を貸したのが天孫族→(天皇家、物部氏など)[※天孫族の北進に手を貸したのが山祇族かもしれない]で、
筑前平野奪還のために共闘(仮に天山連合とする)

筑後川以南(高天原)から北進し、筑前平野(葦原中津国)を攻め落とした(倭国乱、国譲りの開始)

天山連合に帰順した海人族が住吉、融和した海人族が阿曇氏、帰順も融和せず沿岸航行で全国に広がったのが安曇

山祇族の一派である水間君(水沼縣主)が海人族の島信仰と三神信仰を継承(※または海人族に奪われた山祇族の信仰対象を奪還したのかもしれない)

出雲より下った支族(タケミナカタ一族)と水間君一族が融合して和ったのが胸形君

葦原中津国平定後に天山連合が怡土地区に支分国の伊都国を創設(国譲りの終了と天孫降臨)

そして支分国の伊都国から田舎娘を一人連れてきて天・山・海の連合国の神輿に担いだのが卑弥呼である

https://i.imgur.com/DGqAyyB.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

322 :日本@名無史さん:2021/04/15(木) 02:32:32.20 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば
奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる。

となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは
名島神社のみであり、先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている。

阿曇氏いわく名島の「ナ」は「浦」と同義であり、壱岐・対馬では今でも「浦」を「ナ」と読む習慣があるという(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)。

つまり「ナ」島は阿曇読みで、大和読みでは「ウラ」島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている。

一方で、風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で、儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は
那珂川市の現人神社だとしている。

また住吉大社に伝わる住吉神代記や筑前住吉神社の社殿では現人神社こそ檍原(阿波岐原)だとしている。

https://i.imgur.com/5HQ0c5o.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

323 :日本@名無史さん:2021/04/15(木) 08:52:09.98 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


【捏造中】 糸島トンスル妄想ファンタジー 【創作中】
          __
        /  ../)
        三三)/) 声闘でゴリ押しし続けるニダよ〜
  __    三三)/           __
/  ../) ウリたちが安曇ニダ♪   /  ../)
三三)/)   ∧_,,∧   ∧_,,∧   三三)/)
三三)/   < `∀´>  <`∀´ ;>  三三)/ 卑弥呼もウリナラ
ニダ ∧_,,∧ と  φ)  (つ φ)  ∧_,,∧ 邪馬台国もウリナラ
  < #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#>  /  ../)
  / _∧_,,∧口  ∧_,,∧ ⌒   φと_   ヽ  三三)/)
  (/<   `>口 <   #>φ/⌒//(__ム  三三)/)
 ‖ ̄(l    ノ  ̄(   ノ ̄ ̄ ̄||       三三)/
  __`ー‐' ニダ `ー‐' 漁村という真実は感情的に
/  ../)       __    受け入れられないニダ!
三三)/)     /  ../)
三三)/)     三三)/) 〃∩ ∧_∧良い感じニダ♪
三三)/      三三)/  ⊂⌒< `∀´>
                  `ヽ_っ⌒/⌒c
                     ⌒⌒
https://i.imgur.com/Pb9kNXB.jpeg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

324 :日本@名無史さん:2021/04/16(金) 01:55:08.98 .net
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww


イソタケラなんて江戸時代以前には遡れない呼称
ウガヤフキアエズと同一視したいがための捏造

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
江戸時代より以前の史料にはない呼称。 
> 筑前国続風土記の編纂作業に加わった貝原好古が波瀲武(ナギサタケ)??草葺不合(ウガヤフキアエズ)から着想を得て命名し、
> 多くの神社史に採用されたとする説が有力である。

糸島朝鮮人は霹靂神社を根拠にしようと画策しているが、貝原好古の業績であることは明白である。

https://i.imgur.com/5HQ0c5o.jpg


糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

325 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:06:34.32 .net
>>307
後世の行政区分を根拠に古代の勢力図を否定するのは君が愚かなだけだよキナイコシ君
4世紀以降に大和朝廷が全国を支配するようになったからといって全国にヤマト地名が湧いたりしてないだろう
ある勢力が拡大したからっていちいち地名が変わったりしないのが日本の歴史だが何も知らないんだなw

日本で一番先に海外から鉄器を手に入れたのが糸島なんだから伊都国の発祥地はここと考えるのが順当だが
それ以降の勢力拡大で伊都国の領域が広がったって何も矛盾は存在しない
考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html

君のタワゴトのように雷山系で区切れていたとすると国境となる今宿周辺からカウントしても奴国王都の須玖までは直線距離でさえ18kmもある
山を避けて移動すれば300里を超えてしまうので魏志倭人伝の記述と一致しない
伊都国から奴国まで100里という魏志倭人伝を正しく読めば最低でも西新町遺跡くらいまでは伊都国でなければならない

326 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:06:55.94 .net
>>308

> 693 :日本@名無史さん :2020/12/19(土) 14:33:27.15
> >>687
> それは別スレで論破されてるでしょ
>
> 対馬の式内社が磯武良と表記してるんだから貝原好古なんてまるで関係ないよ
> 福岡藩の貝原好古が対馬藩の神社に影響するわけないでしょ

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

327 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:07:14.74 .net
>>309

考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/ytHyOsA.jpg

328 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:07:39.53 .net
>>310

http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
>  同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
>  「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
>  新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
>  各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。

安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです

関係ない例をいくつ持ってきたところで一番肝心のイソタケルに直結する五十猛町がイソタケだからイソタケルが正しいのは自明
そして対馬の安曇磯武良が上陸した土地に神社を作ったと伝わっている場所にイソタケルを祀る神社が現存するんだから
安曇磯武良=五十猛はもう確定したんだよ
負け犬は潔く去れ
トランプかお前はw

とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

329 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:07:56.37 .net
>>311
何一つソースが無いw
妄想を並べることしかできなくなったキナイコシw

330 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:08:12.78 .net
>>312

41 :日本@名無史さん :2020/12/13(日) 11:52:07.51
>>36
>壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
「"郷ノ浦" "ごうな"」でググっても1件もそんな話はヒットしないぞ
嘘つくなクズ


とっくの昔に論破されたことを繰り返すだけの壊れたレコードキナイコシw

331 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:08:41.60 .net
>>316

いや、それだと魏志倭人伝の記述と合わない
伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、奴国の都である春日丘陵からの距離を考えると
西新町遺跡あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない

当然早良も伊都国ということになる

332 :日本@名無史さん:2021/04/18(日) 23:09:02.46 .net
結局、今日も>>88の圧倒的事実には何一つ反論ができず、ただ逃げ惑うだけのみじめな負け犬キナイコシくんでしたw

333 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 22:39:53.23 .net
>>331
伊都の人口が一万から千になってるから、
何らかの行政改革が間になされたんだろうね。

334 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 22:49:19.31 .net
伊都の読みは、「イツ」

本来は特定の場所を指す言葉ではなく、
海神族の最強勢力であり、
対馬海峡、つまり壱岐対馬を最大の根拠とする、
伊族=天神族、の、大王が都とする所が、伊都=イツ、であった。

335 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 22:53:20.55 .net
対して、東の出雲=弥生時代は宗像
にいたのが、
縄文時代から共立女王を立てていた、土蜘蛛。

豊國 邪馬國(山ヤマツミ)不彌國(海ワダツミ)

336 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 22:56:16.69 .net
その間に位置する、奴国=那珂川流域=弥生銀座
一代の王=奴国王

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀 倭の奴国が朝貢してきた
漢委奴国王 漢は奴国王に委ねる

弥生時代における新興勢力、大国主、国津神である。

337 :日本@名無史さん:2021/04/23(金) 23:16:43.74 .net
>伊都の読みは、「イツ」

そもそも「都(みやこ)」という概念が存在したかどうか怪しい。
海神族の大王は船団を率いてあちこち移動していたのではなかろうか。
ツとは津であり
伊弉諾族が用いる港のことを指す言葉であったのではないか。
伊都イツの一大率も港に出向くとある。
陸地におけるどこかの宮殿などが「都(みやこ)」として重要なのではなく、
沿岸の「都・津(ツ)」が重要だったのだろう。
原の辻遺跡や潤地頭給遺跡といった遺跡からも当時の海上交通の重要性が認識される。

338 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 01:13:31.07 .net
言いたいことは、国難の時代。

>>334-336
が、一心で対応すべき。

倭国のごとく、国が消滅しては、利権もなにもないのですから。。

339 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 01:21:54.49 .net
伊都岐島媛

340 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 09:59:24.58 .net
弥生時代に佐賀平野はまだ存在しない。
吉野ヶ里遺跡が海辺の集落だったのは常識。

多少の海岸線後退があったとはいえ、佐賀県南部はまだ有明海。

まとまった平野があったのは、弥生遺跡の分布を見れば明らかな通り、
久留米以東。
久留米以東の平野部こそが「大倭」。

341 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 10:06:22.98 .net
久留米 黒田

高良 孝霊

342 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 10:20:04.48 .net
壱岐対馬
末蘆〜糸島平野 伊族系の吾族
糸島平野+早良平野 伊都

福岡平野 奴国 葦原那珂津国 奴族

宗像〜北九州市 豊国 邪馬國(山ヤマツミ)不彌國(海ワダツミ)


南北を繋ぐ要衝:阿志岐山城神籠石 磯城


久留米〜筑前町(旧三輪町)朝倉三奈木 大倭

343 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 17:28:29.20 .net
天津神(海の神)の王であった天照は高天原と呼ばれる島にいたのだろうが、それとは別に都はあったろう。
それは弥生時代の最大国邑であった奴国しかない。
天照の孫の天孫は、豊葦原中国の王となるために筑紫の日向、すなわち伊都に下向した。
高天原がどこだったのかと言えば、天孫を守護した宗像三女神を祭る宗像大社の沖津宮だろう。
そして沖ノ島の祭祀こそ、天照を祀る国家的祭祀だったと考えられる。
後漢書において、倭国とは玄界灘のことであり、魏志倭人伝において倭国の最大の国邑は奴国である。
記紀の神代の記事とぴったりと一致するのである。

344 :日本@名無史さん:2021/04/24(土) 23:19:27.06 .net
「兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃」
「短弓矢」
弓(きゅう)

「太守弓遵」
弓遵(きゅうじゅん)


「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
倭女王の卑彌呼(ひみこ)と狗奴國男王の〜

卑彌弓呼(ひみきゅうこ)は、素より和せず
卑彌弓呼素(ひみきゅうこす)は、和せず

345 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 08:03:47.18 .net
>>342
>宗像〜北九州市 豊国 邪馬國(山ヤマツミ)不彌國(海ワダツミ)

豊国は志賀島ワダツミが制圧したから、
それと不仲の勢力が倭国実権を握った際には、
大倭〜日田〜大分の経路で瀬戸内海と交易したのだな。

346 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 08:23:43.80 .net
そう考えると、
平原遺跡(倭女王卑弥呼)の邪馬台国と、
赤坂今井墳墓の四隅突出型墳丘墓国家(東の拘奴國)とは、
鉄器やガラス製品を共有する同盟国。

大倭の平塚川添遺跡〜瀬戸内畿内に鉄器が無くて、
双方の境界に神籠石。

347 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 08:41:27.82 .net
しかし倭人伝では、大倭については仲間ということになっている。
そうなると、
倭国の中で、邪馬台国と大倭の争いが最初にあって(倭国乱)、
それぞれのトップが邪馬台国女王卑弥呼と伊都国男王。

卑弥呼が亡くなって、
正始八年(247)に伊都国男王が倭国王になって、
倭国内の敵対勢力である、東の拘奴國を滅ぼしたわけだな。
千余人が亡くなった内乱。

その隙に南の狗奴国が勢いを増してきたので、
内乱を鎮めるために、台与を立てた、ということか。

348 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 08:53:24.86 .net
もともと
>>334-336
がいたのだが、金印奴国王が失脚して、
広域国家倭国の倭国王を新たに伊都国王系から立てたわけだな。

伊都国王傍系を中心とする銅戈勢力が瀬戸内畿内を開発して発展したので、
旧日本海勢力と、新興の瀬戸内畿内勢力との間で利権争いが生じ、
東征。
瀬戸内東征と、伊都→奴国の再東征だな。

伊都国王は伊都から出て、大倭利権を争って、
旧奴国領内で南進北退を繰り返して、最終的には、久留米入りした。
>>342

倭国乱が一段落したと思ったら、狗奴国が反乱を起こして、
倭国邪馬台国の中で争っている場合でなくなり、
卑弥呼を立てて国力をまとめて、狗奴国と相対した、ということか。

魏志倭人伝の時代には、
伊都国王がアマテラス→男王の系譜
奴国王は滅亡→狗奴国王として再興
豊国共立女王→卑弥呼や拘奴國女王など

349 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 09:01:23.96 .net
日本国内で奈良京都東京と遷都するのと同じことで、
広域国家倭国が成立しているのだから、
伊都国王は旧奴国領に、
豊国女王が伊都に、
いる時期があっても問題ないわけだ。

信長や秀吉や家康だって、生涯で何度も拠点を変えているのと同じ。

350 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 12:03:18.90 .net
奴国王は記紀の大山祇だろう。
志賀島の綿津見と同じ豊国王家。
豊葦原中国(福岡)に高天原(沖ノ島)から婿入りしたのが伊都の天孫族で、クシフル峰(高祖山)に高千穂宮を置いた。
天孫族が伊都を去った後に卑弥呼が筑紫倭国の王に共立された。
伊都の官のニギは邇邇芸の末裔で、神武らについて行かなかった一派。
伊都国と奴国をあわせて記紀では筑紫の日向と呼び、倭国の王都、後漢書にある倭の極南界の倭奴国。

351 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 12:12:35.60 .net
伊都
 糸島平野 筑紫の日向
 早良平野 高天原

奴国 福岡平野 葦原那珂津国

豊国 宗像周囲 出雲

352 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 12:35:08.63 .net
>>350
豊国王家が女王系であることを失念している。

豊国女王とは、八雷神の持ち回り共立女王。

文献的には、八雷神は神産みとは別に元から存在し、
考古学的には、山鹿貝塚の女性指導者がその祖に近く、
宗像三女神や宮地嶽神功皇后などの女神祭祀が残っている。

沖ノ島は豊国女王祭祀の原点であり、アマテラスと混同してはならない。

イザナミの時代に、壱岐対馬〜菜畑遺跡を本貫とするイザナギ男系と婚姻したことで、
吉武高木遺跡のアマテラス=伊都国王が誕生し、
それに伴う政治変革で、
八雷神から8山津見へと名称が変わった。

その中でも有力だったのが、
北九州市を本貫とする東の火雷→カモと、
香椎〜宗像市を本貫とする西のワニ。

353 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 12:53:12.70 .net
カモが豊国女王についたのは市杵島ヒメが最後で、
あとはワニの支配が続く。
山幸彦の時に豊国支配層はワニで盤石となる。

ワニは豊国女系支配だから、
男系もワニの純血のワニ族と、
女系はワニだが男系は違う、安曇やワダツミなどは、親族ではあるが、
別種でもある。

カモ上流階級は豊国から追い出され、
大倭(吉野ヶ里〜久留米〜筑前町の平野部)と土佐にアヂスキタカヒコネ、
瀬戸内に大山祇、
琵琶湖沿岸に大山昨、
など東へ東へと発展していくが、
発展して栄えるたびに、
上流である北部九州倭国に東征を受けた、という流れ。

アヂスキタカヒコネは広型銅矛=倭国山幸彦+豊国ワダツミに滅ぼされているし、
大山祇も神武東征で粛清され、淡路島舟木遺跡を破壊されている。

354 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 14:00:40.22 .net
>>351
> 早良平野 高天原

早良は志賀島と同じ王権だから、天孫族より前の倭国王権。
高天原は海上の城という意味なので、島だろう。

>>352
>イザナミの時代に、壱岐対馬〜菜畑遺跡を本貫とするイザナギ男系と婚姻したことで、
>吉武高木遺跡のアマテラス=伊都国王が誕生し、

いろいろ面白い考察だが、早良が伊都天孫より考古学的にかなり古いのだから、それでは年代に矛盾がある。

>>353
>女系はワニだが男系は違う、安曇やワダツミなどは、親族ではあるが、
>別種でもある。

女系相続の豊国ワニと男系相続の筑紫天孫族の連立王国が倭国の正体だろう。
豊玉姫の実家が志賀島なのだから、安曇や海神とは極めて近い関係だね。
ワニは現代語のサメのことで、海の支配者の象徴であり、海洋国家倭国の王を意味している。

355 :日本@名無史さん:2021/04/25(日) 14:42:21.86 .net
>>354
>早良は志賀島と同じ王権だから、
考古学的にそんな根拠はないよ。

>早良が伊都天孫より考古学的にかなり古いのだから、
だから矛盾なく繋がるだろう。

早良王家=天神族の大王家
三雲井原王家=天孫族の大王家
と考えれば辻褄が合う。

でないと、前者は滅亡しているし、
後者は突然出現してしまう。


高天原とは、福岡平野に比べて標高の高い、早良平野のこと。
日本最古の三種の神器を持つ吉武高木王がその証だよ。

吉武高木遺跡の標高が23メートル。
対して、奴国の博多駅周辺が3メートル。
福岡空港で5.5メートル。

葦原那珂津国を見下ろすようにして、
吉武高木遺跡の殿上人=高木神たちが暮らしていた。
それが高天原。

356 :日本@名無史さん:2021/04/26(月) 19:15:52.95 .net
高 高貴な
天 海(アマ)の
原 集落、城(バル)

タカマガハラは後世の畿内訛り。

357 :日本@名無史さん:2021/04/26(月) 19:18:50.01 .net
まあ、高天原(沖ノ島)の天照(海を統べる王)も、早良の高木神も、志賀島の綿津見も、伊都の天孫族も、みんな親戚だけどな。

358 :日本@名無史さん:2021/04/27(火) 02:00:40.00 .net
>>331
>須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない
この視点は無かった
距離で考えれば伊都国は博多湾のかなりのところまで続いてなきゃおかしいのか

359 :日本@名無史さん:2021/04/29(木) 09:29:45.53 .net
>>358
そう。
里程と日程は並列なのだが、それぞれが示す、伊都國内での目標ポイントが別ポイント。
だから陳寿は日程では【女王之所都】という別記載にした。

【里程】
末蘆國の東部に至る(入国)→五百里で伊都國内の目標ポイントへ到着
伊都國内の目標ポイント→百里で奴國に至る(入国)

・末蘆國に上陸後に荒れた道しか通っていない
・弥生遺跡から判明している、唐津の集落群を通っていない
だから末蘆國の東部に上陸したとわかる。

伊都國→末蘆國の五百里は、末蘆國から伊都國までと、伊都國内の移動の合算。
唐津の弥生集落より東に上陸したのだから、筑肥線の駅で言うと、
鹿家〜筑前深江の間に限定されることになり、
末蘆國内の移動部分は二百里〜百里ということになる。

そうなると伊都國内の移動部分は三百〜四百里。

里程での伊都國内の目標ポイントは、奴國側へ近く、日向峠は越えており、
早良側の吉武遺跡が有力候補。

360 :日本@名無史さん:2021/04/29(木) 09:33:04.98 .net
三国志東夷伝では、倭地だけでなく、
東夷伝世界全体について短里(東夷伝里)で統一された里程測定がなされているが、
東夷で戦争続きだった魏に、そのような広範囲の測定をできた時期は無い。

また魏代は倭国側も戦乱続きだし、倭人は里を用いないので、
魏使が北部九州だけでなく、遥か侏儒國までの里程を測定する余裕などない。

そう考えると、短里(東夷伝里)で日本列島だけでなく、東夷世界を広く探索できたのは、
三国志時代よりも前の後漢代。
後漢の楽浪郡が平和に存在していた時期に、年月をかけて測定されたのだろう、ということになる。

楽浪郡使が倭地の里程測定をできた、考古学的物証としては、
伊都國の楽浪土器など海外物品、硯、漢委奴國王金印、などが存在している。

魏志倭人伝に収載された里程とは、
伊都國に滞在していた楽浪郡外交官が測定した短里(東夷伝里)の里程であり、
57年金印を持ってくる後漢外交官が夏に来倭してくる時の夏の太陽を基準にしたロードマップ。

末蘆國の上陸地点は、筑前深江駅。
県道49号線は漢委奴國王金印の後漢使が通った道であり、
里程での伊都國内の目標ポイントは、吉武高木遺跡の宮殿、であろう。

魏が楽浪郡を接収したので、楽浪郡の役所に保管されていた、
後漢代に短里(東夷伝里)で測定された地理誌が洛陽へもたらされ、
魏志倭人伝などに収載されたのだろう。

361 :日本@名無史さん:2021/04/29(木) 09:35:58.06 .net
【日程】
日程の投馬國や邪馬壹國は戸数でわかるように広域国家であり、
帯方郡から、半島南部の投馬國までは舟で二十日で至る(入国)。

投馬國は狗邪韓國を中心とする倭人支配国家であり、
十万戸の馬韓が50余国の連合国だから(馬韓〜 凡五十餘國 大國萬餘家 小國數千家 總十餘萬戶 辰王治月支國)、
五万戸の投馬國は25国前後で構成されていたことになる。

投馬國から南へ向かうと邪馬壹國(やまと國=卑弥呼時代の倭国)に至る(入国)。

投馬國から、邪馬壹國の中の女王之所都=伊都國までが、水行十日+陸行一日。

古代は木簡に墨書なので、日→月の転写間違いは起こりうる。
大陸の官吏が転写する際には、国と国の間の移動は月単位が常識なので、陸行は月に間違いやすい。
魏志倭人伝の文脈では、日程は二十日→十日→ときており、一月と書くなら、「三十日」と書いたはず。
などの理由から、陸行一月は、陸行一日の転写間違いであったのだろう。

対馬海峡渡海と、末蘆國に上陸してから三雲遺跡までの陸上移動。

卑弥呼が宮を構えて(高祖宮)、都としていた場所(三雲遺跡を中心とする地域)が、
里程の目標ポイント=吉武高木遺跡と異なる。
しかし魏使は里程測定の余裕など無かったので、卑弥呼の都までの里程はわからない。

よって、
【女王之所都=伊都國内の日程での目標ポイント】
と、わざわざ別表記をしたのである。

362 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 07:10:46.53 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明、戦前は鞆の浦が有力だった?)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ

363 :九州王:2021/04/30(金) 10:23:17.78 .net
「女王之所都」これは朝鮮半島南部に在った投馬國に対して北部九州に在った邪馬壹國が女王の都が在る所だと説明してる文章ですね。
投馬國と邪馬壹國に付いての記載は里行程の途中に追加挿入された独立した文ですね。

364 :九州王:2021/04/30(金) 10:27:26.26 .net
>>359
魏志倭人伝の記載方法では国の端に着くと到や至とされ
帯方郡を出る際も帯方郡の南端の海岸が出発しています
壱岐や対馬に着くのも北岸に着いていますので
末盧国へも末盧国の北の端の呼子付近に上陸したものと考えられます。

365 :九州王:2021/04/30(金) 10:35:22.45 .net
呼子付近に上陸し東南へ500里(40km)で伊都GC付近
伊都GC付近までが末盧国で先が伊都国
更に100里(8km)で日向峠や糸島峠
日向峠や糸島峠までが伊都国で先が奴国。

東松浦半島から糸島市二丈付近が「末盧国」
糸島市南東部が「伊都国」
福岡市周辺が「奴国」
那珂川市付近が「不弥国」
伊都国が女王の王都で魏使の目的地。

366 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 10:41:14.28 .net
>>359
魏志倭人伝の記載方法では国の端に着くと到や至とされています
魏使が帯方郡を出る際も帯方郡の郡治からではなく、南端の海岸が出発しています
壱岐や対馬に着くのも北岸に着いてから、南端の海岸へ回っていますのでいます
(方可○○里も行程の距離に含まないと12000里にはなりませんから、壱岐、対馬も北端に着くと一大国や対馬国へ到着ですね。)
末盧国へも末盧国の北の端の呼子付近に上陸したものと考えられます

367 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 14:05:46.05 .net
>>362
倭人伝スレのテンプレでとっくに論破されてるぞ
テンプレで論破されてることを何回繰り返す気だこの馬鹿w

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

368 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 14:14:32.72 .net
>>365
それは考古学的にも文献的にもあり得ない
奴国の都は春日市の春日丘陵一帯だからね
その春日丘陵と福岡市西部はこのとおり文化が違う別の国

12 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:27:27.31
考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg

> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない

369 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 14:15:04.74 .net
>>368続き
570 :日本@名無史さん :2020/11/28(土) 01:54:13.64
>>550
そう考えたい気持ちも分からないではないけど、それだと魏志倭人伝を無視しすぎになってしまうと思う
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう

では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif

博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区〜南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう

春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる

奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう

370 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 17:29:21.90 .net
>>368
>奴国の都は春日市の春日丘陵一帯だからね

奴国の表札でも出土したのかよw
伊都国は糸島市南東部
奴国は福岡市とその周辺
春日市付近は那珂川市から続く不弥国の一部の可能性が高いと思う。

371 :日本@名無史さん:2021/04/30(金) 21:39:46.93 .net
糸島市東部と福岡市西部だから高祖山の周辺だろ。
高祖山の古名がクシフル峰なのだから、あわせて記紀の筑紫の日向の高千穂なんだよ。
つまり伊都国と奴国を合わせた領域が倭国女王の都するところ、邪馬台国だ。

372 :九州王:2021/05/01(土) 00:36:42.93 .net
>>371
伊都国と奴国を合わせた領域は女王国だね
邪馬台国は北部九州地域全域だよ
女王に属してる地域すべてが邪馬台国。

373 :九州王:2021/05/01(土) 08:38:52.17 .net
魏志倭人伝の最初に書かれている里数行程文のポイントは国の端から出発して次の国の端に着いたら至や到とされていること
国の中心地から次の国中心地ではないことだ
旅の最初が海だから国と国の間の海上の距離を示したんで、陸上でも続けて同じ様に書かれている。
ここに誰も気付いていないな。

374 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 10:23:34.15 .net
>>369
その製鉄遺跡分布図の出典は?
なにをもって製鉄遺跡としているのかがよくわからない。
製鉄炉じゃないよね?そんなに見つかってないし。
鉄滓の出土分布かかなにかかかな?

375 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 12:28:37.72 .net
>>370
おいおいそれはレベル低すぎるだろ
春日丘陵こそ弥生遺跡がビッチリ分布してて弥生銀座と呼ばれる場所なのに
奴国王墓もあるここが都じゃないわけがないだろう

https://www.jalan.net/kankou/spt_guide000000165632/
> 春日市奴国の丘歴史公園について
> この公園は「弥生銀座」と呼ばれるほど弥生時代の遺跡が多い春日市にあり、国指定遺跡・須玖岡本遺跡の一部が芝生でおおわれた美しい公園として整備されたもの。
> 公園内には、奴国王のかめ棺をおおっていた大石や弥生時代のかめ棺墓を保存したドームがあり、敷地内には「春日市奴国の丘歴史資料館」もある。

376 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 13:10:11.67 .net
やはり奴国と伊都国が倭国の王都。
考古学的にも史学的にも、それ以外にない。
もちろん、倭王卑弥呼がいたのもそのあたり。

377 :九州王:2021/05/01(土) 13:21:33.34 .net
>>375
>奴国王墓もあるここが都じゃないわけがないだろう

表札でも出土したの?
勝手に決めつけるなよなw

378 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 13:40:19.66 .net
>>377
女王連合北部最大の国である奴国の首都以外に弥生銀座の規模を説明できない
ハイ論破

379 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 13:42:52.43 .net
川下の竪穴住居が雑多に密集している一般民衆居住域から、
川上の春日丘陵須久遺跡の大型建物など支配者居住域まで、
川沿いに連綿と遺跡が出土している。
奴国といえば南北に縦長で、春日に王や為政者が住んでいたと考えるのが普通だろうね。
取水管理や河川交通・運搬など、
政治区分としても河川の水系ごとに分けるのが理に適っているし。

西の早良を奴国に含めるかどうか、という議論はできるだろうけども。

奴国と伊都国が王都、というより、
奴国や伊都国のどこかに王都があった。
環濠集落がない、つまり攻められる心配のない、支配する側の弥生大都会だったからね。

380 :九州王:2021/05/01(土) 13:51:43.45 .net
>>378
アホw

>>379
伊都国(糸島市南東部)に卑弥呼の居住地があり
奴国(早良区から博多湾一帯)が邪馬台国中最大の都市国家
アメリカに例えるなら伊都国はワシントン、奴国はニュ−ヨーク
フランスなら伊都国はヴェルサイユ、奴国はパリ

381 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 14:24:23.57 .net
>>380
反論ができなくなった負け犬w

382 :九州王:2021/05/01(土) 15:48:51.33 .net
>>381
> 女王連合北部最大の国である奴国の首都以外に弥生銀座の規模を説明できない

アメリカに例えるなら伊都国はワシントン、奴国はニュ−ヨーク
フランスなら伊都国はヴェルサイユ、奴国はパリ

ハイ論破w

383 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 16:07:56.80 .net
>>382
伊都が首都で、奴国が経済都市。そうだね。
そんなことは、百も承知であって、
反論になってない。

春日丘陵が奴国の県庁所在地である、という論点から
論点ずらしで逃げているだけじゃないか。

384 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 17:28:03.40 .net
奴国の王墓と伊都国の王墓は年代が違うだろ。
奴国にあった王家が、伊都国に王宮を移したんだよ。
卑弥呼の宮は、両者を見下ろすことができる高祖宮だよ。

385 :日本@名無史さん:2021/05/01(土) 17:43:28.17 .net
結論ありきで断言ばかり繰り返しているようだが。
その奴国の王墓というのは、一般的には須久岡本遺跡のことだな。
早良王家が奴国王家だと主張するなら、
じゃあ須久岡本遺跡の王家はなんだったのか、ということになる。

386 :日本@名無史さん:2021/05/02(日) 08:12:05.96 .net
早良王家こそ奴国王家だろ?

387 :日本@名無史さん:2021/05/08(土) 11:47:39.28 .net
>>386
須玖岡本遺跡周辺の方が人口が多いからそっちが奴国

388 :日本@名無史さん:2021/05/08(土) 17:46:28.38 .net
年代が違うだろ。
全部奴国だ。

389 :日本@名無史さん:2021/05/10(月) 08:39:43.42 .net
>>388
いや、それだと魏志倭人伝の記述と合わない
伊都国から奴国まで東南に短里で百里(約7.5km)しかないのだから、奴国の都である春日丘陵からの距離を考えると
西新町遺跡あたりまでは伊都国でなければならない
春日丘陵の須玖岡本遺跡から西新町遺跡まで直線距離でさえ10kmあるからね
間に山があるから実際にはもっと遠い
須玖岡本遺跡から北西方向に7.5kmだと天神までしか届かない

当然早良も伊都国ということになる

390 :日本@名無史さん:2021/05/13(木) 13:44:07.42 .net
>>344
当時の日本語に「ん」という発音は無かった。
この事は万葉仮名の一覧表をググればわかること。
この傾向は源の順(したごう)が勤子内親王の為に
西暦930年代に著わした「和名抄」を見ればその当時
「りんご」を「利宇古宇(=リウコウ)」、「コンニャク」を「古迩夜久(=こにやく)」
櫺子 =れんじ(連子)を「礼邇之(=レニジ)]
と書いていることからわかること。

391 :日本@名無史さん:2021/05/14(金) 09:19:05.13 .net
んと言う表記がなかっただろ。日本語では書き分けてないだけで現代でもn.m.ngを使い分けている。

392 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 22:14:58.46 .net
硯工房があったからには、斯馬國も重要地点だったようだね。
(御床松原遺跡)

紀元前は糸島半島の根元に東西から海が入りこんでいて、
川と合わせると、糸島平野とは隔てられていて、島だった。
それが斯馬國。

末蘆國は、東松浦半島。

>>389
伊都國は本来は早良。

早良の吉武遺跡群が栄えている紀元前は、
糸島平野側はあまり栄えておらず、
おそらく伊津(イツ)だったのではないか。
早良伊都國が使う主要港、という意味の。

393 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 22:18:25.73 .net
早良の時代はまだ伊都国そのものが文献に登場しない。
倭奴国の名前だったのだろう。
その後に王都が伊都国(糸島平野)に移動したと思われる。

394 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 22:50:10.18 .net
後漢書のことを言ってるのかな。

諸国名が列挙された魏志倭人伝とは異なり、
後漢書には国名の列挙は無く、
伊都國が出てこないからと言って、伊都國が無かったことの証明にはならない。

395 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 23:04:50.87 .net
同じく後漢書にて、

全く同じ段落の中で、
建武中元二年に、倭の奴国が光武帝へ朝貢し、「大夫」と自称した。
永初元年に、「倭國王」帥升らが安帝へ謁見を請うた。
と並べてある。

その前の、初めの方の段落では、
倭はもともと百余国あったが、
武帝以降に漢と連絡しているのは、三十国。
しかもそれぞれが「王」を自称していて、代々王位を継いでいる、とある。

范曄がまともな学者であるなら、
三十国がそれぞれ「王」を立てて、しかも代々王位を継承していたのに対して、
倭奴国あるいは倭の奴国、は、朝貢して来た時には「大夫」と自称して朝貢してきたわけだから、
倭奴国あるいは倭の奴国、は、三十国ではなかった、ことになる。

396 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 23:10:15.13 .net
後漢書に、
光武帝は印綬を賜ったとあるから、
「漢委奴國王」の金印は、
倭奴国あるいは倭の奴国、の「大夫」に与えられたことになる。

倭奴国あるいは倭の奴国、から、光武帝に朝貢してきた「大夫」とは、
一代で成り上がった人物であり、
後漢光武帝に認められて初めて、「王」となったわけだ。

日本側の史書と突き合わせると、
これに最も符合するのは、
大己貴命から身を起こして、大国主となった人物であろう。

397 :日本@名無史さん:2021/05/30(日) 23:13:33.81 .net
よって、
早良王家=伊都國王家=天神族王家
奴国王=一代限りの大国主
三雲井原王家=倭国王家=天孫族王家
と考えれば、
中国側の史書とも、日本側の史書とも、考古学遺跡の時系列とも、
符合する可能性が最も高くなる。

398 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 08:22:55.31 .net
単に中国側が正統性を認めていなかっただけで、倭国側では王統が続いていた可能性が高い。
奴国王は博多湾の王である海神族のワダツミや大山祇らであろう。
もしくは奴国から伊都国に遷都した天孫族であろうが、その場合は倭奴国=伊都国となる。
早良は全然時代が違う。
ただし早良と三雲が同じ三種の神器であることから、奴国側と伊都国側は時代は違うが同じ王統であることがわかり、一代限りの成り上がり説は否定される。

399 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 21:17:24.62 .net
倭奴国 倭=ワ 奴=ナ

伊都国 伊=イ 都=トorツ

400 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 21:21:05.19 .net
>ただし早良と三雲が同じ三種の神器であることから、奴国側と伊都国側は時代は違うが同じ王統であることがわかり、一代限りの成り上がり説は否定される。

それは早良王家が奴国王家という前提の場合だろ。

早良王家は伊都王家、
奴国王は須久王と考えた場合、
逆に奴国王は一代限りの成り上がりとなる。

401 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 21:23:21.33 .net
金印に漢委奴國王と記されているのだから、
倭奴国ではなく、倭の奴国しかありえないね。

後漢書には倭奴国、
金印には漢委奴國王、
なのだから、
後漢書によって、委奴國は否定されるし、
金印によって、倭奴国は否定される。

後漢書で朝貢してきたのは、倭の奴国だし、
金印は、漢は倭地を奴国王に委ねる、だ。

402 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 22:26:15.70 .net
ちなみに、
倭には、もともと百余国あった。

そのうち、
漢の武帝の後、つまり武帝が楽浪郡を設置した後に、
楽浪郡を通して
漢と交流するようになったのが三十余国。

ということは、
三十余国というのは、
楽浪郡と交流できて、
しかも代々の王位継承をしている国、
ということになる。

なれば、
伊都国と誼を通じていなければ楽浪郡とも交流できないのだから、
三十余国とは、
伊都国と比較的密な交流をしていた地域にあった国々ということになり、

考古学的見地から、
魏志倭人伝に記載された諸国とは、
ほぼほぼ九州を中心とした地域にあった国々なのであろう、ということになる。

403 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 23:33:36.30 .net
>>400

時代が違うものをごちゃ混ぜにするなよ。
その上、場所もごちゃ混ぜだ。

404 :日本@名無史さん:2021/05/31(月) 23:35:31.61 .net
>>401
>金印は、漢は倭地を奴国王に委ねる、だ。

一つの字を2度も読んだらダメだろ

405 :日本@名無史さん:2021/06/01(火) 06:50:39.02 .net
>>403
時系列

早良王家(紀元前)
→三雲井原王家(紀元後):遷都

須久の奴国王(57年前後):一代のみ栄えた

>>404
漢は(倭地を)奴国王に委ねる


で、倭奴国(ワナ)と伊都国(イト)を同一とする根拠は?

406 :日本@名無史さん:2021/06/01(火) 17:26:31.16 .net
早良王家はイザナギ、三雲王家は天孫族。
一代限りの王家は記紀ではスサノオくらいしかない。
須玖の王墓は武具が多く、被葬者は武人であった可能性が高かったはず。

407 :日本@名無史さん:2021/06/01(火) 17:28:12.85 .net
>>405
>で、倭奴国(ワナ)と伊都国(イト)を同一とする根拠は?

伊都の三雲王墓は倭奴国が金印をもらった時代のものだから、後漢代の倭奴国は、実は魏志倭人伝の伊都国だったと考えられる。

408 :日本@名無史さん:2021/06/02(水) 15:25:05.24 .net
>>398
もとは早良にあった王権が東西に分裂して伊都国と奴国になったんじゃね

409 :日本@名無史さん:2021/06/02(水) 15:56:17.64 .net
魏志倭人伝では奴国に王はない。

410 :日本@名無史さん:2021/06/03(木) 01:02:23.78 .net
>>409
奴国のほうは須玖岡本遺跡の後で絶えて伊都の王家だけが残ったんだろうね

411 :日本@名無史さん:2021/06/03(木) 07:13:43.35 .net
おいおい、奴国の王家が奴国だけを支配したとでも思っているのか?
王家は宮を移動できる。
奴国の王家は博多湾を中心に玄界灘を支配した(後漢書)王家だから、いわゆる海神族のこと。
その聖地は志賀島であり、奴国の王家とは倭国側では綿津見のこと。
鰐をシンボルとする豊玉姫の実家だ。
すなわち豊国王家であり、後には遠賀川流域に拠点を構えた一族だろう。
仲哀天皇紀で登場する熊鰐がそれだ。
つまり消滅などしていない。
分家は関西関東に広く分布し、志賀島に因む名を持つ鹿島香取の神も同じ海神族で、中臣鎌足を輩出している。
実は藤原氏がその末裔なので、神代から中世まで、天皇家の外戚として国の中枢に存続していたと考えられる。

412 :日本@名無史さん:2021/06/03(木) 08:05:13.16 .net
藤原氏は奴国王家の末裔ということになってしまったが、キーワード志賀島=鹿島に着目すればあり得ぬことではない。

413 :日本@名無史さん:2021/06/03(木) 08:25:26.11 .net
倭奴国王である志賀島の海神と天孫族がどこで別れたのかと考えると、共通の祖先はイザナギ大神になる。
両者とも筑紫の日向の小戸における禊で生まれた氏族だ。
出雲の大国主を含め、その他のほとんどの氏族も、筑紫の日向に辿り着く。
すべては稲作文化とともに博多湾に上陸した弥生人の末裔だ。
そもそも稲作は暦法や灌漑など、王の専権事項がなければ成立しない。
それらは一時期に江南からもたらされた。
肥国、豊国、そして西日本から東日本へ、稲作を中心とする筑紫倭国の生産構造と支配が拡大した時代が弥生時代だと言える。

414 :日本@名無史さん:2021/06/04(金) 19:36:26.30 .net
>>407
逃げたな。

倭奴国(ワナ)と伊都国(イト)は全く音韻が異なる別物だ。
読みが別物である以上、
後漢書に記された倭奴国は、伊都国とは全く別の国。

並記された倭奴国と倭国も別の国だから、
(倭)奴国、倭国、伊都国、というのは全て別の王家の国。

415 :日本@名無史さん:2021/06/04(金) 20:22:10.81 .net
結局は、金印の漢委奴國王の「委」を「倭」の略字であるとした誤認識に端を発している誤解だ。

漢魏から異民族に贈られた印に略字などない。
外交文書に押す封泥の印に、その国の略字を使うことなどありえないのは、
考えれば当たり前だとわかる。

日本国を日木国とするようなもの。
倭国を委国とはしないだろう。
字も異なるし、読みも変わってしまう。

結局のところ、
倭奴国(ワナ)と伊都国(イト)と同じにしたいなら、
金印の委奴國が正しくて、後漢書の倭奴國が間違いとするしかない。

416 :日本@名無史さん:2021/06/04(金) 20:28:17.89 .net
だが、倭奴國が間違いで、委奴國が正しいとしても、
まだ問題はある。

奴は「ナ」であり、「ド」ではないのだ。
ちがう読み方と言っても、せいぜい「ヌ」くらいであろう。

音韻で言えば、
同じ魏志倭人伝の卑奴母離は、ヒ「ナ」モリであろうし、
狗奴國はク「ナ」国あるいはク「ヌ」国。

匈奴は、日本ではキョウド、と読むことが多いが、
本来は、ション「ヌ」である。

よって、倭奴國と伊都國は、
ワだけでなく、ナですらも別物であり、
漢字、読みのいずれも別物の、全く別の国である。

これを説明できないから、
>>407のように逃げるしかない。

417 :日本@名無史さん:2021/06/04(金) 20:52:25.23 .net
さらに問題はある。

異民族に贈られる印、特に金印については、
後漢代以降においては、ほぼ全て、
漢魏晋と、異民族名と、「+アルファ」、の形である。
漢+委奴國王、のように、お互いの名が剥き出しで並べられたものは無い。

実際に出土した例では、金印であれば、
「漢+帰義+賓邑侯」
「晋+帰義+胡王」「晋+帰義+氐王」「晋+帰義+羌王」
「晋+匈奴+帰義+王」「晋+烏丸+帰義+王」「晋+鮮卑+帰義+王」
「親+晋+胡王」「親+晋+羌王」
など、いずれも漢魏晋+異民族名+アルファ、の形である。

前漢の金印に、「滇王之印」というのがあるが、
これは紀元前のものであり、「漢」の字が入っていない。
同じく、「匈奴単于璽」も「漢」の字が入っておらず、
これは強大な軍事力を持った匈奴の単于(皇帝)を、漢皇帝とほぼ同格の異民族皇帝としてもてなした例外とされている。

文献では、親+魏+倭王、親+魏+大月氏王、なども挙げられよう。

よって、「漢委奴國王」金印もまた、漢+委+奴國王=漢は(倭地の支配を)奴国王に委ねる、
と解するのが妥当なのである。

418 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 01:13:08.15 .net
>>411
残念だけど間違いだね
須玖岡本遺跡周辺からの弥生期の出土物に海洋民を思わせるようなものは無いよ
海洋民だったのは隣の伊都国で、準構造船の部材などが出てきている

419 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 01:33:53.82 .net
伊都国と奴国は国邑でわけているだけで、同じ地域の同じ部族だ。
伊都国の民が海洋民なら奴国の民も海洋民だ。
ただし地域によって職能の違いなどが分化していただろうね。
稲作に従事するもの、養蚕に従事するもの、漁業に従事するものなど。
奴国の王は志賀島の海神族なのだから、もちろん海洋民族であるが、同時に稲作の最も盛んな地域でもある。
大人口圏となった奴国が均一なわけがない。
君の主張はナンセンスだ。

420 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 02:28:23.56 .net
>>419
王墓の副葬品が農具とか内陸のものなんだからその主張は無理だよ
奴国は普通の内陸国

421 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 06:51:45.02 .net
ナンセンスもなにも、
朝貢してきた、倭の奴国
漢が委ねたのは奴国王

魏志倭人伝に記された、女王に統属された伊都国王

早良吉武遺跡の伊都国王と全く別の、須玖遺跡の奴国王が存在したことが、
文献から明らか。

倭の三十國それぞれに王がいて、それが伊都国王や奴国王。

紀元前から続く吉武遺跡の伊都国王が最大勢力で、
それに対抗しようとして奴国王が朝貢して成功したんだろ。

奴国王の天下が一代で終わって、
伊都国王系の大倭王=三雲井原→平原を樹立した。
と考えれば、全てが符合する。

422 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 06:59:59.76 .net
倭奴国=伊都国なんてのは、誤読に誤読を重ねた蜃気楼のようなものだからな。

金印「漢委奴國王」が、倭奴國の略字。としたのが第一の誤読。

それを逆に持ち込んで、後漢書の倭奴國を、イド国と読んだのが、第二の誤読。

国家観の外交に使う印で読みも意味も異なる略字を用いることがナンセンス。
後漢書が誤記載かどうかを論じずに、倭奴国を堂々とイド国と読むのもナンセンス。
漢魏で奴をド、ましてやト、と読むことがありうるのか、検討しないのもナンセンス。

倭奴国=伊都国というのは、略字と考えた誤解から全てが始まっていて、根拠がない。

倭奴国と伊都国は漢字も音韻も全く異なるのだから、
逆に、全く異なる別の国である、根拠なのである。

423 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:11:48.87 .net
同じ一族の中で農業が担当だったんだろ。
そして生前の役割にゆかりのある品を副葬したんだよ。
記紀では海幸彦と山幸彦の兄弟が出てくる(おそらく古代王家の兄弟相続か末子相続だったものを、奈良時代の価値観によって親子相続にまとめてしまった)。
伊都国だって平原遺跡には漁業も農業も関係ない。
日本人の心情や伝統、伝承を無視して、無理やり何とか部族に結びつけるなよ。

424 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:15:02.08 .net
後漢書で武帝以降は倭の三十国が漢と交流したというのは、
要するに楽浪郡と連絡していたということだから。

前漢の武帝が楽浪郡を設置したのが前108年。

その楽浪郡と交流していた倭の国が、三十国で、
それぞれに王がいる。

考古学的に、楽浪郡と交流していた範囲=舶載楽浪鏡の分布範囲で、
しかも三十もの国邑を想定するなら、
早良と那珂川流域は別国家じゃないと数が入りきらないし、
なんなら奴国すらもいくつかに分割しないと三十にならないだろう。

425 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:15:20.06 .net
名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている
そんなわけで、奴国は海神族の王都

426 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:18:41.02 .net
>>424
国というのは国邑のこと。
同じ倭人つまり天津神(アマツカミ=海の一族)または海神族であり、航海術に長けた彼らしか楽浪郡まで辿り着けない。
30の氏族という程度であり、別の国家というわけではない。

427 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:21:28.52 .net
>>423
何言ってんの?

考古学的にも、
糸島平野〜早良平野は海神族の色が濃いけど、
早良平野の海沿い〜奴国なんてのは、渡来系の集落が多数ある。
集落によっては、住居とかが全然違ってて、部族どころか民族すら違う雑多な人々が住んでいた。

支配層でも、先に出ていた木靴とかでも文化の違いが明らか。
雀居遺跡なんてのは沿海州系のお偉いさんが住んでいたことがわかってるんだし。

委が倭の略字と誤読したことから始まってるから、
あんたは考古学の実情とも乖離して無茶苦茶。

428 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 07:22:44.50 .net
>>426
王と自称していたとあるから、別国家だな。

それらを束ねたのが大倭王だ。

429 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 08:43:26.04 .net
>>428

王ではなく大夫では?

430 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 17:01:34.16 .net
>>426
だから資料というのは活用しないと。

三十国の王が楽浪郡と交流できたんだから、
対馬海峡の通行を三十国が共有していた。

政治形態としては、
紀元前2世紀には、倭に百国が存在していたのが、
前108年に楽浪郡が設置されてからは、
うち三十国が連合して、それぞれ楽浪郡と交流していた。
これを前・北部九州倭国、と仮称してみる。

・他の七十国は存在していたが、前・北部九州倭国に参加できていなかったか、
・他の七十国は滅ぼされていたのか。
魏志倭人伝の国数からは、前者の可能性が高い。

吉武高木遺跡の宮殿にいた殿上人とは、三十国の王たち。
吉武高木王=伊都国王が大王であっただろうが、
常にリードして自身が親政していたわけではなかったのだろう。
前・北部九州倭国は連合国家で、合議制だったと想定される。

経済都市・奴国が栄えて奴国王が権力者となった時期があり、
大王の地位を狙って金印を求めたが、一代で失脚したのだろう。

日本側の史書だと、高木神、天照、大国主、などが符合するか。

431 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 17:51:28.10 .net
吉武高木王が奴国王または大山祇なら概ねその通りだと思う。
なので、奴国に海洋生活の痕跡が云々はナンセンス。
せめて玄界灘沿岸全体で考えないと。

432 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 18:23:14.23 .net
>>431
残念。
倭の奴国王と、伊都国王は、別ものだから。

433 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 18:56:04.59 .net
吉武高木は古すぎるんだよ。
伊都国にはならない。

434 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 19:09:34.60 .net
>>433
倭の奴国があった証拠は57年だけ。

伊都国が紀元前にあった証拠もなかった証拠も無いのと同様、
紀元前に奴国があった証拠もなかった証拠もない。

いい加減あきらめたら?

倭の奴国、と、伊都国、という別々の国家があって、
倭には三十国の王国があった。

でもって、1世紀には、倭国、という、倭奴国とは別の国家もあった。

倭国王家=三雲井原王家

吉武王家=伊都国王家

須久王家=奴国王家

ですね!

435 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 19:35:44.61 .net
後漢書から得られる情報。

・紀元前2世紀以前、倭には百国あった
・武帝が前108年に楽浪郡を設置して以降、倭の三十国が漢と交流していた
・倭の三十国はそれぞれが、王を自称していた
・倭の三十国はそれぞれ、王位を代々継承していた

・57年に倭の奴国王が漢に朝貢して、印綬を賜った
・107年に倭国王が後漢皇帝に謁見を願った

魏志倭人伝から得られる情報。

・魏が連絡を取ることが出来る倭の国は、三十国
・三十国の中には、伊都国も奴国も記載されている
・倭女王は卑弥呼
・伊都国王は倭女王に統属している


三十国には、伊都国も奴国も含まれる。
王位を代々継承していた王国には、伊都国も奴国も含まれる。

 伊都国王は少なくとも前108年から存在した!!!

 魏志倭人伝に記載された諸国は、少なくとも前108年前から存在し、
 倭国に統合されるまでは、それぞれが王国だった!!!

紀元前の主要王墓・支配者の痕跡、を当てはめるなら、
吉武高木の早良王家が、伊都国王家
須玖岡本の奴国王家が、奴国王家

以上、論理的に解析された。

436 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 21:09:06.26 .net
>>434
>倭の奴国、と、伊都国、という別々の国家があって、
>でもって、1世紀には、倭国、という、倭奴国とは別の国家もあった。

いい加減に妄想はやめろ。
倭国と別に倭奴国があったなどとどこにも書かれていない。
倭人がごちゃっと住んでいて、そのうち30の国邑(国家ではない)と交流があり、倭奴国が代表権を獲得して金印をもらった。

437 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 21:15:01.78 .net
後漢書に伊都国は登場しない。
魏志倭人伝には伊都国が最重要な国邑として登場する。
これを解釈するには、伊都国が後漢より後に成立したか、後漢の時代には別の名前だったか、いずれかの可能性しかない。
後漢の時代にすでに三雲に王墓が成立しているので、後漢の頃には別の名前であったと考えなくてはいけない。
つまり倭奴国は、魏志倭人伝の奴国ではなく、伊都国に相当する。
なお、吉武高木は前漢の時代なので、古き奴国。

438 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 21:22:45.20 .net
記紀に当てはめるなら、伊都国が天孫族の日向王家の王都。
それよりずっと古い吉武高木の奴国はイザナギから大山祇までの、本来の倭国の正統だろう。
わざわざ筑紫の日向の高千穂(伊都国の高祖山)への天孫降臨が記録されているのは、そこから王都が高祖山の西側に移動しましたよということ。
後漢のはじめに、倭国の王統は吉武高木の奴国の大山祇綿津見らのいわゆる国津神から、伊都国の天孫族に変化した。
ただし奴国王統は滅んだのではなく、志賀島から列島各地に海神族として分散したのだ。

439 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 21:26:12.23 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 出雲の国譲りで大国主が失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫倭王であった応神による統一王朝へ

440 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 22:40:34.80 .net
>>437
>後漢書に伊都国は登場しない。
>魏志倭人伝には伊都国が最重要な国邑として登場する。

登場しないからといって、存在しなかったことにはならない。

王権国家の名前が変わるなどありえないが、
<漢金印奴国>(超重要国家)→伊都国なのであれば、
その旨の記載が必ずなされるはず。

441 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 22:41:47.96 .net
>>439
文献あるいは考古学の裏付けが全く無い空論。

なんでそうなるのか、根拠を示してごらん。

442 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 22:44:45.49 .net
>>437
後漢書に三十国の王国があったと記されている。
魏志倭人伝には伊都国が最重要な国邑として登場する。

であれば、三十国の王国の一つに、伊都国があったことが確実。

奴国と伊都国は全く別の漢字、音韻なのだから、別物。
紀元前には併存。

残念ながら、以上の根拠を持って、
伊都国は早良王家。
奴国は須久岡本王家。

443 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 22:59:06.43 .net
>>437
>伊都国が後漢より後に成立したか、

じゃあ、もともとあった三十国は、奴国以外にどんな国があったの?
まさか紀元前から奴国だけが統一王家だったなんて言わないよな?

末蘆國王家だってあるし、立岩遺跡にも王がいた。
二塚山遺跡なんてのも吉野ヶ里を領有する王だったんじゃないか?

伊都国なんてのは紀元前からあった最有力候補

444 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:09:29.82 .net
紀元前3世紀から、伊都国=早良王家が倭のリーダーだった。

対する那珂川流域の奴国には、渡来系の流民が住み着いていった。

各地に王が成立して、伊都国=早良王家を中心とする連合国家群=倭を形成し、
紀元前1世紀に楽浪郡と交流できたのが、三十国であった。
三十国はそれぞれが王を擁し、代々王位継承していた。

1世紀に入り、考古学的物証そのままに、渡来系の技術をベースにして、
那珂川流域の奴国が栄えた。

須久岡本の奴国王が、伊都国=早良王家に代わって、倭のリーダーになりたいと考え、
倭の奴国から漢本国へ朝貢して、金印の取得に成功した。

後漢書 倭の奴国が朝貢して、印綬を賜った
金印  漢は(倭地の支配を)奴國王に委ねるぞよ

しかし奴国王は伊都国王家との争いに敗北して一代で失脚

伊都国王家は権力を強めるため、
皇帝としての倭国王を新たに樹立し、
三雲井原王家として大王家を新設して中央集権を進めた。


以上で、文献とも考古学的物証とも整合性が取れる。

445 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:15:04.77 .net
>>443
二塚山遺跡の王は、好古都國の王だよ。

伊都にも奴国にも無い鏡も多く、
独自に海外交易していたことがわかっている。

免田式土器も出土しているから、
狗奴国王家の縁戚だろうね。そのものかもしれない。

446 :日本@名無史さん:2021/06/05(土) 23:27:59.24 .net
魏志倭人伝に〇奴国がてんこ盛りだろ。
奴国関係の国がわんさかあったわけだ。
それが伊都国に改名するなら、伊奴国になっただろうな。


それと、〇奴国に対して、伊〇(国)って地名も多いんだよね。

全国各地に伊都という地名があるし、
伊丹、伊勢、伊田、伊賀、伊藤、
枚挙にいとまがない。

伊国と奴国は永遠のライバルなんだよ。
それが東遷して、絡み合い続けた。

447 :日本@名無史さん:2021/06/06(日) 00:02:52.39 .net
>>443
>伊都国なんてのは紀元前からあった最有力候補

根拠なし。

448 :日本@名無史さん:2021/06/06(日) 00:11:53.38 .net
>>447
「後漢書」 紀元前に三十国の王国があったと記されている。
「魏志倭人伝」 列記された国の中で伊都国が最重要な国邑として登場する。

伊都国は紀元前からあった国の最有力候補。

根拠は文献。

449 :日本@名無史さん:2021/06/06(日) 00:24:22.18 .net
後漢書では、三十国の王国は滅亡したともなんとも書かれてない。
王位を代々伝統していた。

57年に倭の奴国王が印綬を受けたと思ったら、
107年には倭国王が謁見を求めて、
倭国乱があって、
卑弥呼共立。

卑弥呼は後漢代に共立されたことが確定だな。

対して、三国志の魏志倭人伝では、三十国と連絡は取れるが、
それぞれ王がいるとは書かれておらず、
官がいると書かれている。
卑弥呼以外で王がいるのは伊都国王と狗奴国王のみ。

ということは、
三十国に代々の王がいた。
そのなかの一つである、奴国王が金印をもらった。
奴国王が失脚して、倭国王が登場した。
その頃に、三十国の王は、伊都国王と狗奴国王以外、全て消滅した。

伊都国王もまた、倭王卑弥呼に統属されているのだから、
倭国王=皇帝で、三十国あるいは百国を統属していた。(甕棺墓の消滅)

倭国王の支配に対して反乱がおきて、(倭国乱)
倭国王側(伊都国王系)と、狗奴国王側(奴国王系)に分かれて、
相争った。

こんなところだろう。

450 :日本@名無史さん:2021/06/06(日) 08:15:00.93 .net
委奴国だか奴国だかが、57年に金印を貰っておきながら、
別名の倭国が107年に皇帝に会いに来たら
そりゃ別モンでしょ。
せっかく金印を授与して国家認定したのに、
たかだか50年そこらで自ら国名変更しやがったら、後漢皇帝が怒るw

だから、委奴国の漢字を伊都国に変更するってのも無いね。
金印を自ら無効にする行為だし。

451 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 00:45:36.03 .net
逆だよ。
倭王と認定したからこそ史書にそのように記録された。
自称倭王なだけなら、そもそも記録されなかった。
倭奴国王が毎年のように朝貢を続けた結果、正式に倭王に昇格したんだよ。
そして卑弥呼もそれに連なる倭王に認められて。
王を任命するのは皇帝の権限だからね。
そして倭奴国から邪馬台国まで、一貫して同じ倭国と遡って認定して書かれたのが後漢書。

452 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 01:52:09.61 .net
倭国には統一政権がなくて色んな国々に分かれているなんて中国側は常識で知っていたよね。

453 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 07:01:20.11 .net
そうだよ。
それに対して倭王を叙任できるのが皇帝の権威だったんだ。
その証が金印だよ。

454 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 08:30:27.78 .net
過去の地名に無理やりあてはめるのはダメだろ素直に魏の南方ていうたら
沖縄しか該当しないwだいたい沖縄も原始採集時代が長すぎの歴史認識
これに疑問抱かないのは馬鹿すぎw

455 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 18:37:06.33 .net
帯方郡から南なだけ。
短里の報告書を長里で解釈するとすごく南に思えてしまったのだろう。
福岡は帯方郡から概ね南南東の認識でよい。
畿内には辿り着かない。

456 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 20:12:06.85 .net
筑紫平野は 九州最大の平野で
北九州の交通の中心
ここに邪馬台国があった と考えるのが普通だ
北九州の首都だった

457 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 23:51:34.64 .net
邪馬台国七万戸が奴国二万戸を含むなら、列島最大の倭人世界最大の国家だよ。
後の大宰府の威容を見てもわかる。

458 :日本@名無史さん:2021/06/07(月) 23:54:08.18 .net
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。

459 :日本@名無史さん:2021/06/11(金) 02:30:26.39 .net
>>458
南九州の薩摩、大隅はともかく平野が広いはずの日向も米の生産量は少ないんだよなぁ。

460 :日本@名無史さん:2021/06/12(土) 20:01:55.67 .net
>>451
>倭奴国王が毎年のように朝貢を続けた結果、正式に倭王に昇格したんだよ。

ダウト(根拠なし

461 :日本@名無史さん:2021/06/12(土) 22:00:14.81 .net
倭人は時期を間違えずに朝貢したと記録されていたを知らんのか?

楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
(漢書)

462 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 02:54:57.55 .net
倭奴國は倭國之極南界と記され、続けて倭國王師升等が登場している。

よって、倭奴国は倭国とは別物であり、
倭国の中に内包される国の一つである、ということ。
つまりは倭の奴国。

あんたは、こうした根本的な部分を無視して、
チェリーピックしているだけ。
まるで畿内説みたく巧みに論点ずらしして誤魔化してるようだが。

463 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 03:03:10.63 .net
そして金印に刻まれた文字は、漢委奴國王。

倭と委は読みも意味も別の文字であり、
外交文書に用いる、しかも国名を、略字で別の文字にするなどありえない。

よって、
・金印を、漢は(倭地を)奴国王に委ねる、と解するか、
・金印を、委奴國と解して、後漢書が、委奴國の転記間違い、と解するか、
のどちらかとなる。

この点も無視しているな。

堂々と倭奴国などと発言するのなら、後漢書は転記間違いがないということになり、
後漢書 倭の奴国
金印 漢は(倭地を)奴国王に委ねる
が正解ということになる。

464 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 03:09:10.39 .net
>正式に倭王に昇格

これも畿内説と一緒だな。
>藤原京平城京が奈良にあったんだから、逆算して邪馬台国も奈良にあった。

後に倭国王師升が登場し、
後の卑弥呼が親魏倭王となり、
倭の五王がいる、
だから逆算して、倭王に「昇格」した、と言っている。

だが、金印に刻まれたのは漢委奴國王なのだから、
漢委奴國王が大王として各地を征服していったのなら、
倭地はそのまま委奴国あるいは奴国、として統一されたはず。

107年に倭国王がやって来た時点で、委奴国王は失脚しているんだよ。

根拠は、57年金印と「異なる国名」の王がやってきたから。

465 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 03:43:23.25 .net
ふむ。なるほどね。
倭人の国なれば、最初から倭国でないとおかしいな。

最初から、伊都国王=倭国王なのか。

吉武高木王家からして倭人の倭国の倭国王だったのだな。

那珂川流域は考古学的に渡来人が多く住み着いていたから、
奴国王は倭人ではなく、倭国王になれなかった。だから、
後漢に朝貢して金印を貰った。
奴国王はじきに失脚して、

主導権を取り戻した倭国王は三雲井原王家へ遷都。
三代70-80年で、東征(九州倭国内だが)に出たわけだ。

倭国乱となって、奴国王系の狗奴国が南に勃興して、
混乱の中で、
倭国王=伊都国王はいるけれども、幼若その他で、
平原卑弥呼が摂政のような形で長期政権を任されたのだな。
だから親魏倭国王でなく親魏倭王。

前の師升も、後の倭の五王も、倭国王なのに。

466 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 07:22:13.80 .net
>倭奴国王が毎年のように朝貢を続けた結果、正式に倭王に昇格したんだよ。
アホかw

>>417
金印を授与する時点で、東アジアにおける強大な異民族王なんだよ。
そこからさらに成り上がるとかないからw

467 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 08:48:23.09 .net
>奴国王は倭人ではなく、倭国王になれなかった。

いや奴国王が倭人でも倭国王家筋じゃなかったら倭国王になれなかったんじゃないの?入れ墨とかで身分管理してたらしし

468 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 09:33:34.01 .net
>>465
>吉武高木王家からして倭人の倭国の倭国王だったのだな。

吉武高木は年代が古すぎるというのがまだわからんか。
もし政権交代があったなら、福岡平野の奴国王から、倭王を自称する糸島平野の伊都国王へだ。
記紀では大山祇から天孫族への国譲りだ。

469 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 09:37:23.44 .net
>>465
>倭国王=伊都国王はいるけれども、幼若その他で、
>平原卑弥呼が摂政のような形で長期政権を任されたのだな。

卑弥呼即位により、伊都国王統は官に格下げされた。
魏志倭人伝は明確に卑弥呼を倭王としている。
あと、三国志では◯国王という表記ではなく、◯王という表記を使うが、意味に違いはない。
魏王、漢王などと同じ。

470 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 09:49:09.33 .net
>>465
>三国志では◯国王という表記ではなく、◯王という表記を使うが、意味に違いはない。

また嘘をついている。
あんたは根拠にしても論理構成にしてもいい加減すぎて、デマを撒き散らしているのと同じ。

三国志に、魏王は7件、漢王は5件あるが、
魏國王や漢國王という表記は無い。

471 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 09:49:57.21 .net
レス間違い

>>469
>三国志では◯国王という表記ではなく、◯王という表記を使うが、意味に違いはない。

また嘘をついている。
あんたは根拠にしても論理構成にしてもいい加減すぎて、デマを撒き散らしているのと同じ。

三国志に、魏王は7件、漢王は5件あるが、
魏國王や漢國王という表記は無い。

472 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:00:57.13 .net
>>468
吉武高木が古すぎるから云々の前提条件が、
自説の結論である奴国王=吉武高木なんだから、指摘になっていない。

>>468>>469
言葉の扱いがぞんざいすぎ。
☓倭王を自称する糸島平野の伊都国王
〇「倭國王」を自称する糸島平野の伊都国王

1)吉武高木王家=奴国王家、の場合
 吉武高木王家が勃興して、数百年経ってからようやく、後漢に朝貢した。
 ことになる。
 奴国王は金印を貰うが、次に朝貢したのは倭国王で国名が変わっている。
 ということは、三雲井原王家は新規に登場した新参王家、ということになる。

2)吉武高木王家=伊都国王家、の場合
 吉武高木王家が倭王として数百年の支配を続けていたが、
 新規に勢力拡大した奴国王が、倭地の指導権を得ようとして、後漢に金印を求めた。
 奴国王は失脚し、
 吉武高木王家は中央集権を進めて、倭地の皇帝としての倭国王として、
 三雲井原王家へ遷都して続行した。

どう考えても2)の方が筋が通っている。

473 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:11:57.98 .net
記紀の構成も、まず皇祖アマテラス。

ずっと後に、オオクニヌシが登場。
国造りをするが、一代で失脚。

でもって、アマテラスの一族である、
ニニギが天孫降臨。


それぞれ吉武高木王家(三種の神器)
須玖岡本奴国王
吉武高木→三雲井原王家(三種の神器)
と考えれば符合する。

474 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:31:05.58 .net
>>471
>三国志に、魏王は7件、漢王は5件あるが、
>魏國王や漢國王という表記は無い。


いいんだろ?
倭国王を倭王と表記するのは三国志の流儀なんだよ。
なにが言いたいんだ?

475 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:39:29.35 .net
>>472

ぞんざいなのはあなたの方。
奴国王は前漢からある吉武高木の王。
これが伝統的な博多沿岸のイザナギから大山祇の王統。
それに対して出戻りの伊都国王が倭王として朝貢したのが三雲の王。
記紀では天孫族という。
天孫族は大山祇の娘を娶り、両王家は存続しているが、対外的に倭王として振る舞ったのは伊都国王。
ちなみに三雲南小路遺跡の男女のうち女性は細石神社の木花咲耶姫(大山祇の娘)だね。

476 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:40:09.69 .net
オオクニヌシは八千矛の神でもあり、
考古学で当てはめるなら祭祀型銅矛が候補となる。

そうなると、海の向こうからやってきたスクナヒコナとは、
祭祀型銅矛の勢力の東向こう、淡路島あるいは阿波の人物。
つまり朱儒國の人。阿波の水銀朱鉱山の技術者知識人。

で、オオクニヌシの治世後期に、海の向こうから光りながらやってきた、
大物主とは、金印、あるいは金印を管理するのが職務の一つの新設官。
おそらく自分が倭国王になれないから、あてつけで大倭と名付けたのだろう。
九州説だと倭国の山並みの東だから旧三輪町。
硯も出土している現筑前町。
大物主の小さな蛇とは金印の蛇紐であり、夜な夜な狗奴国関連の謀議をしていたのだろうか。

オオクニヌシは一代で失脚したが、
大倭という機構自体は瀬戸内畿内の発展に伴い重要職となり、
大倭の奪い合い=日本列島の支配権の争奪戦となっていく

477 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:43:53.83 .net
>>475
>これが伝統的な博多沿岸のイザナギから大山祇の王統。
その根拠は?
文献ではありえないから、考古学?
なにが博多沿岸のザナギの根拠?
なにが博多沿岸の大山祇の根拠?

>出戻りの伊都国王が
どこから出戻ったの?
三雲南小路遺跡の件は九州説ならほぼ共通認識になってるけど。

妄想の部分が多すぎて、議論ができない。

478 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:47:57.06 .net
>>473
>吉武高木→三雲井原王家(三種の神器)

だからさ、三雲の王家が天孫族なら、ニニギより前は博多湾沿岸にいないのさ。
吉武高木は古すぎる。
無理やりこじつければイザナギあたりか。
ニニギの祖先だろうけど、その後で奴国王統と伊都国王統が分かれたのだろう。
だとすれば吉武高木をどちらと言い切るのはおかしい。

479 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:51:03.81 .net
>>478
つまり、朝鮮半島からやって来た、という結論にしたいわけか!!!
なるほどあんたの立場がわかって理解しやすくなったわ。

>三雲の王家が天孫族なら、ニニギより前は博多湾沿岸にいないのさ。
>吉武高木は古すぎる。

意味不明。
三雲の王家が天孫族なら、ニニギより前は「糸島平野」にいないのだな。
吉武高木は三雲の前として丁度良い古さ。

自然な流れて、吉武高木を中心とする早良が高天ヶ原に想定されてくる。

480 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:52:52.42 .net
>>477
>どこから出戻ったの?

そりゃ伊都国王が天孫族なら、高天原からだよ。
玄界灘一円に一族がたくさんいて、その中の一家系が伊都国王統になったのだろう。
月読は対馬だろうし、天照は沖ノ島だろう。
天孫族は天照の孫の一族だから、博多湾の宗家ではない。

481 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:55:12.64 .net
>>479
>つまり、朝鮮半島からやって来た、という結論にしたいわけか!!!

違う。
対馬の月読が「海の向こうに行って帰ってこなかった」と書かれるくらいだから、高天原はもっと九州に近くなければいけない。

>三雲の王家が天孫族なら、ニニギより前は「糸島平野」にいないのだな。

正解。

>吉武高木は三雲の前として丁度良い古さ。

いやいや、それにしても古すぎる。

482 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 10:59:06.01 .net
>>479
>自然な流れて、吉武高木を中心とする早良が高天ヶ原に想定されてくる。

高天原は海上にある、つまり島だろう。
アマの原(集落のこと)だからね。
沖ノ島の国家的祭祀は、天皇家の祖先を祀るものだと考えれば符合する。
祭りとは本来は祖先を祭るのだからね。
航海の要所云々なら、関門海峡も祭らないとおかしいだろ?

483 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:02:30.62 .net
>>480
天照のいる所=高天原=沖ノ島、と言いたいようだが、無理だ。

なぜなら、
沖ノ島の対岸になる田熊石畑遺跡が、
吉武高木王の配下の将軍基地であることが明らかだから。

>天孫族は天照の孫の一族だから、博多湾の宗家ではない。
これも結果を理由に使っていて議論が破綻している。
吉武高木が天照であれば、博多湾の宗家とはすなわち天照となる。

484 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:08:02.69 .net
>>481
古すぎる。の根拠が不明。

吉武高木と三雲井原の間に、
奴国王一代の長期支配が挟まるんだから、
>>473でむしろ丁度符合する。

>高天原は海上にある、つまり島だろう。
九州島だ。

485 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:14:18.67 .net
記紀を文章通り読むと、実は天照は宗家ではない。
一度博多湾を離れているからね。
大山祇綿津見らの一族が博多湾に居続けている。

>>483
>沖ノ島の対岸になる田熊石畑遺跡が、
>吉武高木王の配下の将軍基地であることが明らかだから。

それがどうしたの?
吉武高木は沖ノ島の祖先でもあり、沖ノ島の天照は全権を掌握していなかったのだから、問題ないよ?
沖ノ島の高天原は倭王ではないのだよ。
天照の孫のニニギが豊葦原中国の王すなわち博多湾沿岸の倭王となるために筑紫の日向(博多湾沿岸)に降臨した。
そこから伊都国王統つまり日向三代が始まる。
ただし記紀としては、皇祖が志賀島の倭奴国の直系ではなくなるので、ぼかして書いてある(でも嘘は書けない)。

486 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:16:52.63 .net
>>485
>記紀を文章通り読むと、実は天照は宗家ではない。
>一度博多湾を離れているからね。

また結論だけ。
記紀のどこをどう読んだら、そう解釈できるのか説明してみて。

487 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:17:30.51 .net
>>484
>奴国王一代の長期支配が挟まるんだから、

記紀では大山祇綿津見らが何世代かは明記していない。

>九州島だ。

そのような表記は用いられていない。

488 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:21:10.50 .net
>>485
沖ノ島の対岸になる田熊石畑遺跡が、
吉武高木王の配下の将軍基地であることは明らかだね。

田熊石畑遺跡は多重環濠遺跡であり、
吉武高木王の早良平野が本拠、田熊石畑遺跡の宗像は被征服地であることも明らか。

>>485>>487
ほらね。
議論を深めると、妄想や結論を土台に話をしているのが明らか。

489 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:22:30.21 .net
>>486

はあ?
イザナギは筑紫にいたわけだから九州本土だろ。
でも天照は島にいた(九州は本土の扱いだから島ではない)。
そして天照の孫が宗像氏族の守護のもとに筑紫(九州本土)に戻ってくるんだよ。
沖ノ島と九州本土の間を取り持つのが宗像だから、地理的にもちょうど合う。
沖ノ島が九州本土にあったら、宗像が関わる必要はない。
吉武高木から三雲への移動に宗像は関係ない。
沖ノ島から三雲への移動だからこそ、宗像が重要になる。

490 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:25:32.81 .net
>>488
>吉武高木王の早良平野が本拠、田熊石畑遺跡の宗像は被征服地であることも明らか。

それは別に構わないのだよ。
吉武高木が宗家であり、沖ノ島は本土に足掛かりがなかったのだろう。
何も矛盾はない。

>議論を深めると、妄想や結論を土台に話をしているのが明らか。

記紀が根拠だよ。
あなたこそ、根拠なく吉武高木を高天原と同一視しようとしている。

491 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:28:40.96 .net
天照を倭王と考えてはいけない。
天照は弱小分家の一つ。
それが国譲りで倭国の代表権を手に入れて博多湾沿岸に迎えられたというのが記紀の天孫族にまつわるストーリーの根幹。

492 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:36:01.50 .net
ダメだこりゃ。
>>482
高天原が島というのも言葉遊びが根拠だし、

>>487
>記紀では大山祇綿津見らが何世代かは明記していない。
奴国王が大山祇綿津見らであることを証明もせずに議論に使ってるし、

>>490
>吉武高木が宗家であり、沖ノ島は本土に足掛かりがなかったのだろう。

じゃあ、やっぱり吉武高木王が全ての始まりじゃないか。
宗像地域を征服して、そのまま日本海沿岸を征服。考古学そのまんま。

493 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:49:21.64 .net
記紀が根拠で、三雲南小路王がニニギと想定するなら、
高天原から道を通って降臨していらっしゃるのだが。
神代おなじみの舟も出てこないが。さて。

494 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:49:26.80 .net
>>492
>じゃあ、やっぱり吉武高木王が全ての始まりじゃないか。
>宗像地域を征服して、そのまま日本海沿岸を征服。考古学そのまんま。

だからそれは否定してないだろ。
だけど吉武高木が伊都国だとか、吉武高木が伊都国に遷都したと書かれると、そうじゃないだろと思うわけ。

495 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:50:59.14 .net
弥生時代に道を使うなら短距離だな。
遠距離ならたとえ同じ九州内でも舟移動。
イザナギは出雲から筑紫へ走って逃げ、大国主も出雲から倭国へ馬で移動。
はてさて。

496 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:52:22.58 .net
宗像は海北道中(玄界灘)の守護者。

497 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:55:41.92 .net
>>494
金印に委奴國と刻まれているから、
奴国王が失脚して、別系統の倭国王が大王になったのは確実。

記紀と無関係と考えるなら、
吉武高木→奴国王を最後に衰退
伊都国王=倭国王=三雲井原王は成り立つ。

もちろん、吉武高木=伊都国王→三雲井原=倭国王も成り立つ。

記紀を絡めるなら、連続性が問題になるので、
吉武高木=天神族王家
↓      須玖岡本=奴国王一代
三雲井原=天孫族王家
となる。

498 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 11:57:43.34 .net
イザナギは黄泉比良坂を通過したから陸路だろうね。
つまり黄泉の国は九州北部のどこか。
古語でヒラは上り坂、サカは下り坂。
つまり平坂とは峠のこと。
福岡平野から峠をいくつか越えたところに黄泉の国がある。

499 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 12:02:31.67 .net
>>497
>記紀を絡めるなら、連続性が問題になるので、

記紀も、同じイザナギの末裔でも、天照らと大山祇らで別系統としている。
連続していなくていい。
奴国王が大山祇で構わないだろ。
志賀島の綿津見は大山祇の兄弟だし。

500 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 12:05:38.10 .net
畿内にいた記紀の編纂者は、九州の地理を理解していなかった。
だから陸路と海路を区別して書けなかった。
一方、原典を書き残していた九州の人たちにとっては、宗像やアマ原へは海路でヒラ坂(峠)は陸路なのは当然なので、それは明記しなかった。

501 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 12:08:46.77 .net
>>499
なんならスサノオと大国主も別系統だし、対馬の月読も別系統。
住吉三神も別系統か?
玄界灘から日本海沿岸にかけて王室が乱立し、「倭人はそれぞれが大夫を自称した」とある通り。

502 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 13:16:42.61 .net
王室が乱立したからといって、
最終勝者の三雲井原王家の祖はあったはず。

三雲井原王家が卑弥呼と同じ邪馬台国=北部九州倭国の70−80年の男王なのだから、
その邪馬台国で最重要の伊都国王家こそがその祖であった第一候補となる。

紀元前に乱立していた王家の中で、最強のものが、
吉武高木王家であり、倭国王の祖たる伊都国王家であろう。

503 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 14:18:13.42 .net
年代をごちゃ混ぜにしたらダメだということ。
倭国で最古の王家が吉武高木。
伊都国王家は百年単位で後の世代だ。
卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代と一致し、伊都国の王たちのこと。
天孫族であるならば、確かに最終勝者だが、吉武高木の直系ではない。
傍系だった高天原沖ノ島の支族が戻って来て政権の座についたのが伊都の天孫族。

504 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 14:57:03.10 .net
>>503
>倭国で最古の王家が吉武高木。
だな。

>伊都国王家は百年単位で後の世代だ。
だな。
107年倭国王師升だから、100年位の間隔がある。

金印に刻まれた奴國王は失脚して、
大王になったのが伊都国王家の倭国王。

紀元前に100あるいは30あった王家のうち、
最も強大だったのが吉武高木王家。
その系譜が最終勝者となったと考えるのは自然な考え方だ。


>傍系だった高天原沖ノ島の支族が戻って来て政権の座についたのが伊都の天孫族。

その根拠は?

505 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 14:58:31.01 .net
宗像地域は甕棺墓が無い事で有名。

三雲井原王家は甕棺墓王家なんだから、
>高天原沖ノ島の支族が戻って来て
ってのは無理筋。

506 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 15:19:53.01 .net
宗像は天孫族ではないから問題なし。

507 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 15:24:32.57 .net
>>504
>金印に刻まれた奴國王は失脚して、

記紀によると、大山祇の娘が天孫族に嫁いだ。
失脚したわけではない。
二人の娘のうち、片方は追い返されたそうだ。
こういう話は、考古学だけではさすがにわからない。
女系相続なら、大山祇の家も残っていることになる。
それどころか、甕棺は女系の方の墓制を継承したのかもしれない。
沖ノ島で甕棺が見つかったという話は聞かないからね。

508 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 16:16:33.10 .net
>>506
は?
もうあんたの妄想は無茶苦茶だな。

天孫族が絶海の孤島である沖ノ島だけに籠っていて、
対岸の宗像が別勢力だったと?
でもって、宗像にすら影響を及ぼせない天孫族が、
いきなり伊都で大王になったと?

暇だから付き合ってるけど、完全に破綻してるじゃないか。

>>507
>記紀によると、大山祇の娘が天孫族に嫁いだ。
>失脚したわけではない。

論理的に意味不明。

大山祇が奴国王家である根拠は?
志賀島で金印が見つかったとして、ワダツミの島だが。

509 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 18:41:53.78 .net
墓制はあくまでも氏族に固有のものなのだから、高天原が沖ノ島より上位でも墓制は違っていて当然。
影響を墓や土器でしか評価できないなら分からなくても当然だが、文献があるのだから参考にしてもいいだろう。
その一方で、天照の神勅では宗像三女神への最大の敬意も感じられる。
天孫の降臨を守護したとは言っても、宗像抜きではなし得なかったのだろう。
傍系だった高天原が王位を継ぐ経緯については出雲国譲りとしてちゃんと記録されている。

>>508
>大山祇が奴国王家である根拠は?

それそれ。
そもそも大山祇とは何者ぞ。
イザナギイザナミから生み出され、天孫が筑紫の日向に降臨した時に再登場する。
これが筑紫の日向に居続けた倭王家と考えるのは不思議なことではない。
後からやって来た天孫族が少ない摩擦で倭王になるためには、先代王家の姫を娶るのが最上の策だったのだろう。
スサノオさえも、大山祇の孫娘を娶っている。
世代数がおかしいのは、大山祇が世襲された位だったからだろう。

大山祇と綿津見は同時に生まれている。
大山祇が博多湾沿岸の王で、綿津見が志賀島の王なら、実質的に同じ一族だったのだろう。
そう考えると、天孫族の二代目と三代目も同じ博多湾沿岸の一族(先代倭国王家=奴国)から娘を娶っていて、整合性があることになる。
二代目が娶った姫が豊玉姫なので、この鰐の一族の又の名が豊国王家であることもわかる。

記紀が隠そうとして隠しきれないもう一つの王家の存在が明らかになった。
それが対外的に倭奴国王を名乗り、国内では大山祇や綿津見として知られる博多湾沿岸の王たちだ。
その祖先は、もちろん天照らと同じ吉武高木の王だろう。
大山祇らは、遠縁の親類である天孫族の里帰りを受け入れたということだ。
たまたま大山祇に息子がいなかったなどの幸運もあったのかもしれない。

510 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 18:55:05.10 .net
>>509
全部妄想だな。

>そもそも大山祇とは何者ぞ。
>これが筑紫の日向に居続けた倭王家と考えるのは不思議なことではない。
>後からやって来た天孫族が少ない摩擦で倭王になるためには、先代王家の姫を娶るのが最上の策だったのだろう。

>それが対外的に倭奴国王を名乗り、国内では大山祇や綿津見として知られる博多湾沿岸の王たちだ。

なんなんだあんたは?

大山祇が日向に居続けた倭王家と言ってみたり、
博多湾岸の王で倭奴国王と言ってみたり。


>大山祇が博多湾沿岸の王で、綿津見が志賀島の王なら、実質的に同じ一族だったのだろう。

大山祇が博多湾沿岸の王だという根拠がないし、
そもそもニニギが糸島に遷都して出会ったのなら、
糸島側の勢力だったことになるし。

綿津見が志賀島の王だとして、
じゃあなんで大山祇も志賀島の王になるんだ?
30も王がいたのなら、大山祇は志賀島じゃない王だろう。

まあ無茶苦茶だな。
所詮は委を倭の略字をしたところから出発した誤読説か。

511 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 19:28:26.63 .net
いろいろ言い換えてお茶を濁しているのは記紀の編纂者なんだよ。
筑紫の日向は高祖山の周辺で糸島も博多も含むのだろうね。
高祖山の北に筑紫の日向の小戸、東に日向川(室見川の支流)、南に日向峠がある。
吉武高木もそのエリアに含まれる。
奴国と言い換えても同じこと。
要するに博多湾が倭国の王都であったことを認めたくないけど、
天皇家がそこの血筋を引いた正統であるとも主張しなくてはいけない。
そして大山祇ら宗家の存在も隠すわけにはいかないけど、詳しく書きたくもない。

512 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 19:47:31.94 .net
高祖山を中心として
西が筑紫の日向ならば、
東は筑紫の日本だったのではなかろうか。

倭国王家が日向王家ならば、
世有王の伊都国王家は日本王家。

三十余国の王家のうち、
倭国大王を輩出した宗家の伊都国日本王家だけが残り、
倭国滅亡の際に宗家に大政奉還した。

513 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 19:49:05.20 .net
>>510
倭国の王族は一人づつ宮を持つのが伝統。
たとえ兄弟でも宮は別。
ちなみに建物の名前でその主人を指すのも伝統。
志賀島と博多で兄弟が別々に住んでいてもいいだろう。
それでも王家としては一つと数えるだろうね。
現在の天皇家も宮家はいくつかあっても王家としては一つだ。

以下は転載

名島神社や志賀海神社、風浪宮など代々の神職に阿曇氏が名を連ねる神社に残された社伝や神楽歌によれば奴国王は志賀島という聖地に渡って祭祀を行っていたことが分かる
となれば奴国王は志賀島ではないどこかに居を構えていたことになるのだが、そういった伝承が唯一残っているのは名島神社
先代の宮司であった阿曇氏は名島こそが龍宮で奴国王安曇の宮だったと伝えている
阿曇氏いわく名島のナは浦と同義で壱岐対馬では今でも浦をナと読む習慣がある(ex.辻の浦→ツジノナ、郷ノ浦→ゴウナなど)
つまりナ島は阿曇読みで大和読みではウラ島となり、龍宮伝説発祥の地だとしている
一方で風浪宮で百年の杜事業を推進する津村氏の本姓は津守氏で儺県主(阿曇氏や津守氏は儺県主=奴国王と考えている)安曇の宮は那珂川市の現人神社だとしている

全面的に支持するわけではないが、倭国の王家の形態を考えるとそれほど的外れではないようにも思える。
そして倭人の国々30カ国は九州北部と日本海沿岸の一部などもう少し広い範囲にあったのだろう。

514 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 19:50:43.83 .net
>>512

日本という国号ははるか後世に白村江で倭国が大敗するまで出てこない。

515 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 19:57:08.53 .net
気になるのは室見川の銅版
『高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五』

延光四年とは125年であり、
九州説ならば井原鑓溝遺跡甕棺墓大王の時代。

井原鑓溝王に贈られた銅版の一部が、倭国乱の時に奪われ、
一部が室見川にて廃棄や紛失されたとも考えられるが、
世有王の伊都国王家が残存して、
室見川側の吉武遺跡周辺を領有していたと考えることもできる。

>>514
単なる空想実験だよ。
西に日向なら、東に日本。
国号でなくても、伊都国の中の地区名としてなら存在しうる。

516 :日本@名無史さん:2021/06/13(日) 20:00:38.68 .net
卑弥呼だって、日の巫女と考える識者もいる。

ニニギが日向に降臨した時も日の方角を気にしており、
だとすれば、かの一族は、
日を冠する地名を重視していた可能性が高い。

西に日向、東に日本、禰宜神主に日巫女でヒメヒコ。

517 :日本@名無史さん:2021/06/14(月) 15:00:39.49 .net
伊都国は倭国の守衛所
邪馬台国はその南と書いてある

翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。

https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png

邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国,又南、至る邪馬嘉(臺)国。

※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている

518 :日本@名無史さん:2021/06/14(月) 17:34:13.35 .net
つまり邪馬台国の中心は大宰府

519 :日本@名無史さん:2021/06/14(月) 20:39:39.70 .net
>>517
翰苑
『邪届伊都傍連斯馬』
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

>邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる
邪が邪馬台国の略なのか、
前に文字があって「〇〇邪」という固有名詞だったのが途切れているのか、
がわからない。

地理説明と思われるので、邪は邪馬台国の略と考えると、
邪馬台国の勢力範囲は
(北部九州倭国中枢の)伊都に届き(伊都国を含み)、
伊都の傍らの斯馬國にも連なるものである、
と読める。

520 :日本@名無史さん:2021/06/14(月) 20:42:11.18 .net
広志逸文については、誤字疑いが7か所はあるので、
解釈には慎重を要する。

『倭國東南陸行五百里到伊都國』
これを素直に読めば、
「倭国から、東南に陸行五百里で、伊都国に到達する。」
となる。

我々は、魏志倭人伝あるいは魏略によって、前後の情報を保管することが出来るから、
この部分は、里程のごく一部を抜粋していることが明らかだと分かり、
「倭国においては、(末蘆国に上陸後に)東南に陸行五百里で、伊都国に到達する。」
と正しい理解ができる。


『又南至邪馬嘉國』
これも同じで、この文章だけだと、
「伊都国から南に行くと「邪馬嘉國」に至る。」
という意味になる。
(伊都国の南でなぜ大宰府になるのか?吉野ヶ里など佐賀では?)

我々は、魏志倭人伝を知っているから、「邪馬嘉國」は邪馬台(一)国の間違いでは?と思うし、

もし「邪馬嘉國」が邪馬台国のことを意味しているのだとしたら、
上の伊都国の里程抜粋表記と連なっているのだから、
今度は日程における無責任な抜粋であることが明らかであり、
投馬国から南に至ると、の部分が欠けていることになる。

魏志倭人伝の記載を覆すものではない。

521 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 13:20:45.24 .net
〜 猿には読み解けない魏志倭人伝 〜

■水行○○日の行程は、魏に朝貢した倭人からの説明を引用したものである

水行の起点は帯方郡
https://i.imgur.com/X5UppCx.png

朝貢に来た倭人曰く
・(郡を出て)南に船で20日ほど行くと投馬国に至ります。
・さらに投馬国から南に海を渡れば邪馬台国です。
・そこに女王の都があります。
・郡から計1か月ほどの道のりとなります。

この記録を陳寿なりに解釈して倭人伝に記載したが、出発点や里数の表記が無く、
位置関係がわからないので、とりあえず不彌国の後ろに追記しておいた。

■参考
魏志倭人伝より以前に書かれた魏略や廣志には「女王国」としか
記載されておらず、その位置は伊都国の又南と記載されている。
そして投馬国や邪馬台国といった国名は出てこない。
この国名は倭人独自の呼び名であったと考えられる。

522 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 17:28:58.75 .net
卑弥呼が居たのは、やはり福岡のどこかだよな

523 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 18:47:12.29 .net
>>520
>(伊都国の南でなぜ大宰府になるのか?吉野ヶ里など佐賀では?)

角度がなぜか45度くらいズレているから。
それに、険しい山道をわざわざ越えるとは思えない。

524 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 19:21:57.50 .net
>>521
>魏志倭人伝より以前に書かれた魏略や廣志には「女王国」としか
>記載されておらず、その位置は伊都国の又南と記載されている。
よくもまあ大嘘を書けるものだな。

魏略には女王国の位置など書かれていない。
魏略には里程だけが記載されており、伊都国が終着点。
そして女王国から渡海千里で倭種の国、と書かれており、
魏略の女王国もまた伊都国など海に面した地域であることになる。

廣志には女王国そのものが書かれていない。
廣志に戸数も里程も書かれていないのに、
「百(自)女國以北其戸數道里可得略載」
と書かれていることから、
魏志倭人伝もしくは魏志倭人伝と同じ出典からの、
切り抜きに過ぎないことが明らか。

525 :日本@名無史さん:2021/06/15(火) 19:44:15.05 .net
魏志倭人伝の記述
「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市糴」

対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されています
https://i.imgur.com/Ixx2XXX.png

そしてこの景色の南の方に邪馬台国があると書かれているわけです
https://i.imgur.com/t1La2wr.png

526 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 01:07:09.24 .net
魏志倭人伝のことを言ってるなら、對馬國だろ
そして對馬國もまた邪馬台国七万戸の一部だ
卑奴母離という邪馬台国連合に共通の副官がいる

527 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 01:07:42.46 .net
魏志倭人伝のことを言ってるなら、對海國だろ
そして對海國もまた邪馬台国七万戸の一部だ
卑奴母離という邪馬台国連合に共通の副官がいる

528 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 01:16:37.36 .net
魏志倭人伝に對海國 方可四百餘里 千餘戸
魏略には對馬國 大きさと戸数は不明

對海國 大官:卑狗 副官:卑奴母離
對馬國 大官:卑狗 副官:卑奴(母離?)

対馬という細長い島の中に、
約四百里四方の對海國と對馬國という2つの國
梯儁は對馬國に、張政は對海國に停泊

壱岐という丸い島の中には、
約三百里四方の一大國(一支國?)という1つの國

529 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 07:46:55.20 .net
>>528
>約四百里四方の對海國と對馬國という2つの國

音に出してみれば、同じ国邑のことだとわかる。

530 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 10:27:37.45 .net
>>520
>「伊都国から南に行くと「邪馬嘉國」に至る。」
そこは陸行だとは書いてないだろ
つまりこの配置で魏志倭人伝の記述も廣志逸文の記述も成立する

5 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:55.57
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな

309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg


当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう

531 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 10:28:30.18 .net
>>524
廣志逸文で本当に注目するべきは
西南海行一日有伊邪分國、の部分

魏志も魏略も邪馬台国へのルート記述は帯方郡からひたすら東南方向で西という方位は一度も出てこない
つまり廣志は魏志や魏略の単なる引き写しではなく、別の情報源を持っていたということ
そしてそれによれば邪馬台国の西南方向には海があり、一日で渡れる程度の距離に伊邪分國がある
これは邪馬台国の位置を特定するのに大きなヒントになる

>>530の配置であれば、邪馬台国の西南には有明海が広がり、南西に一日程度で諫早に着く
ここが伊邪分國だろう

532 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 10:32:47.06 .net
>>531
その頃の諫早はおそらく水道かと
お船越という地名も残っているから航路の一部だったと思われる

533 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 12:46:27.65 .net
数千枚が流通していたであろう△縁は国産品で間違いないね

『福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。
これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。
専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。2015/05/27』

物事の伝搬速度、発展速度を全く考慮しない考古学者の偏差値は30台間違いなし

534 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 14:03:44.08 .net
>>532
面白い説だけど、地理院地図で標高を調べると諫早市の中央付近(諫早駅あたり)は小高くなっていてちょっとそれは無理かな
九州の弥生遺跡を見ると現在の標高で3mくらいの場所もあるから海面がそれほど高かったとは考えにくいし
https://maps.gsi.go.jp/#13/32.838996/130.037441/&base=std&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

ただ外海側から西彼杵半島や島原半島を迂回するよりは大村湾から諫早西部に上陸して徒歩で諫早東部まで行き
そこから有明海に出港したほうが早そうではあるから、交通の要衝だったかもしれない
もっとも大村湾の入り口である針尾瀬戸(西海橋付近)は日本で2番目に大きい渦潮が発生する難所だから
当時行き来がどの程度できたのかは未知数だけど

535 :日本@名無史さん:2021/06/16(水) 14:10:45.27 .net
大村湾周辺にも貴重な弥生遺跡は多数ある
しかし、戦時中軍用地確保のため、その多くが壊されてしまったとのこと

富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された

536 :日本@名無史さん:2021/06/17(木) 17:57:02.34 .net
『奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、
邪馬台国は本来「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し
「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」との見解を示した。』

537 :日本@名無史さん:2021/06/17(木) 21:23:48.77 .net
畿内説スレから来ました
邪馬台国は畿内の大和国の事です

538 :日本@名無史さん:2021/06/18(金) 17:38:22.63 .net
>>537
荒らし行為ですね
通報しました

539 :日本@名無史さん:2021/07/10(土) 20:52:19.01 .net
佐賀の大和町から破鏡が複数出土。
でもって、ご丁寧に、内行花文鏡と方格規矩鏡のようだね。

>>445
二塚山遺跡が好古都國だから、大和町は都支國だな。
一大國=一支國=壱岐國の流れだろうな。
近くからは祭祀型銅戈も出土していて、饒速日系統だろう。
女系はワニ。
その中でも佐賀に多い恵比寿さん=事代主の縁戚でもあるな。

「故人が蘇らないように」とは失笑もの。
だったら屈葬+破鏡になるだろう。
伸展葬+破鏡なんだから、矛盾している。

破鏡というのは、貴重な王家の鏡を、どこぞの盗賊が盗掘して、
王家の血筋を偽証されないための防止策だよ。
文身と破鏡の二段構え。

540 :日本@名無史さん:2021/07/10(土) 23:31:19.68 .net
大和町(やまと)だから邪馬台国!って輩が必ず現れるだろうが、
ちがうからな。

倭=やまと
大倭=大和=おおやまと
だからな。

すなわち、
伊都はニニギ。
祭祀型銅戈で東征したのがニギハヤヒ。

祭祀型銅戈は庄内式土器の流れそのままに、東征占領地からの物流でボロ儲けして、
ニニギ日向王朝に睨まれて粛清されたのが、かの東征。

ということは、大和町の破鏡のはウマシマジの一族か。

541 :日本@名無史さん:2021/07/10(土) 23:41:03.58 .net
卑弥呼邪馬台国の時代には、大倭は伊都国王の男王の管轄となっている。
すなわち大和町の與止日女神社とは、壹與=與止日女なわけだ。
大倭の東方権益は淀川流域の権益でもあったわけだな。

大倭=筑後平野〜大分〜瀬戸内〜畿内の経済圏の権益=日本列島の支配権

その長官の官名が大物主であり、
阿遅鉏高日子根→宇摩志麻遅→大倭系伊都国王(⇔狗奴国王)と争奪されていった。

542 :日本@名無史さん:2021/07/11(日) 00:12:49.34 .net
一大國=一支國=壱岐國(イキ)
伊都(イツ)
ということは、都支國(ツキ)。
本来は壱岐の一大國系、今は失われた月読の勢力圏だったのかな。

不彌國(フミ・ウミ)が、雀居遺跡からの阿毎。
邪馬國(ヤマ)は、山津見の国々で、宗像や遠賀川以東の万余戸。

543 :日本@名無史さん:2021/07/12(月) 20:08:13.75 .net
>>512
ふむ。

日本(ひのもと)王家の権威の象徴が、太陽を象った内行花文鏡。
日向(ひむかい)王家のが、方格規矩四神鏡。
というのはどうだろう?

日本宗家が残ったので、内行花文鏡が残っていると。

544 :日本@名無史さん:2021/07/13(火) 07:17:06.29 .net
内行花文鏡の文化の中心地は筑紫の日向、すなわち福岡県。
最大の内行花文鏡は伊都の平原遺跡の八咫の鏡。

545 :日本@名無史さん:2021/07/14(水) 19:20:29.14 .net
今回の七ヶ瀬遺跡にせよ、
唐津王家にせよ、なんにせよ、
そして伊都の三雲南小路遺跡や井原の甕棺ですら、
どれもこれもが、1〜2世紀に代々栄えて、
ぷっつりと途絶えて、
平原遺跡の女王墓に集権されるのだから、
そりゃ卑弥呼しかいないだろう。

546 :日本@名無史さん:2021/07/15(木) 17:36:32.89 .net
完全に同意

547 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 14:21:38.21 .net
水行20日陸行1月は、そのどちらかの経路であり
この文章はおそらく後代の加筆
山陽道が整備された後の、その所要時間だろう
ただ山陽道を全部陸行なんて正気の沙汰ではないし
この加筆が示しているのは奈良盆地の国だし

548 :日本@名無史さん:2021/07/16(金) 14:27:18.83 .net
山陽道を歩くなんてありえない。
この時代の長距離移動は水行が基本。
日本列島に陸行一月かかる土地はない。
おそらく1日の誤り。
そして水行十日のうち、七日は朝鮮半島沿岸の七千里。
三日は、対馬海峡の3区間。
一日千里という計算が綺麗に成り立つ。
上陸して陸行一日で福岡県西部が邪馬台国。
帯方郡から合計一万二千里。

549 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 07:42:06.37 .net
後漢書や魏志倭人伝の卑弥呼前の百余国が王国なのであれば、
倭国乱前だから1-2世紀の王家。
「代々の王家」の条件を「1-2世紀における代々の銅鏡副葬」とするならば、
福岡県佐賀県に壱岐、この範囲に限定される。
周旋可五千餘里=(東夷伝里の)約五千余里で到達できる範囲
がこの範囲であり、鉄器を特に濃密に出土する地域であり、
卑弥呼を共立した1-2世紀からの王達が存在した範囲でもある。

550 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 08:20:51.43 .net
【質問】
以下の選択肢から一つ選べ。

九州島の位置は、以下のいずれに当てはまるか?
A)會稽東治之東北
B)會稽東治之東
C)會稽東治之東南

551 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 08:40:24.96 .net
【質問】
以下の選択肢から一つ選べ。

九州島の位置は、以下のいずれに当てはまるか?
A)會稽東治之北東
B)會稽東治之東
C)會稽東治之南東









【解答】
A)會稽東治之北東(朝鮮半島)☓
B)會稽東治之東 (九州)〇
C)會稽東治之南東(沖縄)☓
 (會稽東治之南 (台湾))

552 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 19:34:28.25 .net
『男子、無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
 夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後、稍以爲飾。
 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
 計其道里、當在會稽東冶之東。』

倭国の男性は入れ墨している。
中国の故事では、夏王の少康の子は会稽に封ぜられた時に、蛟龍の害を避けるために入れ墨した。
倭人も大魚水禽の害を避けるため入れ墨していた。

ちなみに、風俗が似ている会稽から見て、倭国は東だよ。


九州説というか、日本列島全域を含む表現であるだけ。
細かい部分を煮詰めると、東夷伝里程+日程で、北部九州になる。

553 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 22:16:08.81 .net
>>512
>>543
>高祖山を中心として
>西が筑紫の日向ならば、
>東は筑紫の日本だった

日本国の中心に高天原=早良平野があって、
その高木宮殿=吉武高木宮殿が、日本国権威の発祥の地。

翡翠勾玉 糸魚川産地から東アジア全域への流通網
鉄剣   丹後鉄工房遺跡への日本海沿岸支配権
銅鏡   朝鮮半島への対馬海峡以北支配権

記紀天皇家も三度の幕府時代を経ながら続いているように、
その前も、二度の金印幕府時代を経験していたわけだな。

554 :日本@名無史さん:2021/07/17(土) 22:27:05.14 .net
倭国軍の国旗があったとしたら、
やっぱ巴型銅器かな
水軍だよね

555 :日本@名無史さん:2021/07/18(日) 08:38:06.67 .net
倭の五王ってのは将軍だね。あれは金印なの?
ペリーが江戸幕府と交渉したような感じ?

556 :日本@名無史さん:2021/07/18(日) 19:22:26.37 .net
統一王朝の後漢から貰う金印ならまだわかる。
だが魏なんて短期間で滅亡した国だし、親魏倭王金印の時なんてまだ三国の一つに過ぎんのだぞ。
これが例えば呉から金印もらってて場合と比べてどうなのよ。

557 :日本@名無史さん:2021/07/18(日) 22:09:17.46 .net
魏は漢から禅譲を受けた継承国家であり蜀漢や呉の存在は認めてない
魏にとってはあくまで漢の旧領は全て魏のものだけど賊に武力占拠されてるという認識だから

558 :日本@名無史さん:2021/07/19(月) 00:24:04.18 .net
>>555
王と将軍の区別がつかない阿呆には歴史は理解できない。

559 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 08:26:25.78 .net
>大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

一大率を使い伊都國で治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

560 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 09:53:30.59 .net
九州説=デタラメ

561 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 12:46:15.75 .net
三国志正史=司馬仲達英雄伝

漢の後継王朝を魏とせず三国分立という異例の史書構成としたのは
三国志正史を陳壽に書かせた司馬仲達の孫である司馬炎の晋こそが
正統な後継王朝だという強い主張のため

司馬炎当時現存する敵だった呉を分立の引き立て役として
使うわけにはいかないから最弱の蜀がその役回りになった

「辺境の弱小勢力しかいなかった」じゃ
「三国志」として史書を記すこと自体の正統性がなくなってしまうから

562 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 13:17:08.01 .net
>延喜式の怡土郡内の式内社は志登支石墓遺跡近くの志登神社だけですが、
>三代実録、元慶元年(877)に、正六位、高磯比盗_に従五位下を授けるという記述があります。

かっては伊都国だったというもっぱらの見立てだが、ささやかな扱いじゃのう、
その後、戦国時代には、原田大六の先祖の原田家の領地だったらしいが・・・

563 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 13:45:09.12 .net
王都としての機能は大宰府に移転したからだろうね。

564 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 14:07:39.75 .net
大宰府の前身が怡土府だったというか、そりゃまた辺鄙ド田舎なところに王都が有ったものだ、
(ホンマかいな、仲哀/神功皇后記の受け売りなんじゃないだろうな)??

565 :日本@名無史さん:2021/07/24(土) 20:22:30.56 .net
>>564
漢代あたりの舶載品は奴国のあった春日市周辺よりも糸島側に多いのじゃ
https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg

566 :日本@名無史さん:2021/07/25(日) 08:37:42.09 .net
伊都の大率が玄界灘の制海権を持っていたことが魏志倭人伝に書かれているな。

567 :日本@名無史さん:2021/08/06(金) 15:16:53.23 .net
当時の準構造船の巡航速度は、沿岸航海で1.5ノット、渡海で2ノット、と考えていいのかな?

最高速度だと3ノット、一人乗りマッチョマンならもっと速度出るだろうけど、
百里千里だと平均速度で考えないといけないよね。

568 :日本@名無史さん:2021/08/06(金) 16:30:52.18 .net
福岡県の日の出日の入りが、夏至で5時9分〜17時33分、冬至で7時19分〜17時15分。

1ノット=時速1.8kmだから、2ノット=時速3.6km
明るい時間が夏至で12時間半だとして、
進める渡海距離が、3.6×12.5=45km

朝鮮半島〜対馬が最短でも60km
対馬〜壱岐が最短で50km
だから、たとえ夏至であっても、明るいうちに渡海しきることは不可能。

569 :日本@名無史さん:2021/08/06(金) 16:37:39.88 .net
日が沈んでから到着しようとすると、たとえ岬など要所に火を灯しても、
島岸や暗礁に激突して沈没する危険性が高い。
だから逆に、暗いうちに出発して、明るいうちに到着する、ことが必須だな。
出発であれば、安全な方向へ漕ぎ出して、外洋に出てしまえばいいのだから、暗くても安全。

となると、出発後の数時間は暗闇の中での航海となる。

目印となるのは当然夜空の天体しかなく、
多少の曇りなどでも所在がわかる、「月」を目印にするのが最も実用的。

月から方角を読んで、対馬海峡を渡海する。
月読とはそういうこと。

570 :日本@名無史さん:2021/08/06(金) 18:13:15.30 .net
これは見事

571 :日本@名無史さん:2021/08/06(金) 19:56:44.91 .net
女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、K齒國復在其東南、船行一年可至。
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里。

倭の領土を参問するに、中国大陸や朝鮮半島とは隔てた海中の、列島の上にあり、
ある方向では、五島列島のように行き詰まりであり、
ある方向では、対馬海峡列島のように連なっていて渡海可能であり、
約五千里で届く範囲内にある。
(○端から端までがだいたい五千里、×境界の全周が五千里)

倭の土地についてだから、対馬が起点となっての五千里でいける範囲。
郡から対馬までが八千里で倭地の端に上陸。
対馬から女王国までが四千里。
女王国から東に千里進んでしまうと倭種の国。

陳寿の認識する倭地とは、対馬から五千里までで、
北部九州のみ。

女王国から東に渡海千里の先は倭地ではない。
倭種の本州、女王国からさらに五千里先の侏儒國、ましてや一年かかる裸國K齒國、
などは倭地ではない。

572 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:05:25.87 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





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573 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:01:15.45 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。





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574 :日本@名無史さん:2021/09/25(土) 17:34:51.36 .net
平原遺跡はローマ帝国とも繋がっとったんか

575 :日本@名無史さん:2021/10/11(月) 22:24:54.56 .net
ttps://creators.yahoo.co.jp/uchuyabaichkyabechi/0100143280

ヤバイな。

ダイソン球を作るとしても、恒星を取り囲んで公転するわけだから、
重力の影響を考えると、物理的に考えて、
球形に完全に覆いつくすよりは、
可動性のあるラインの集合体、恒星を包む籠のような形、のほうが安定する。

エネルギー量について考えると、
恒星を完全に覆って恒星の発するエネルギーを全部使用するというのは逆に無理だろう。
恒星系の全惑星が沸騰する。
籠状に囲むだけでも充分量のエネルギーが得られるだろう。

ダイソン球が完全な球形の覆いではなく、
間が疎な籠型の覆いであれば、当然、
地球から見て、
光量が減ることはあっても、
恒星が消失することはない。

576 :日本@名無史さん:2021/10/11(月) 22:25:00.09 .net
70年のうちに800個、ということは、
確率論的に考えて、
別々の800の文明がダイソン球を作ったのではなく、
突出した一つの高度文明が800の恒星系にて同じ作業を行った、ということを意味する。

ということは、その一つの高度文明が、800の恒星系を移動する手段を持っている、
ということも意味する。

577 :日本@名無史さん:2021/10/11(月) 22:25:06.46 .net
恒星の周囲にダイソン球を設置して、自在にエネルギーを取得できる高度文明が、
恒星間移動する方法、については、
現在の我々人類が想定できない科学技術を使用している可能性もあるが、

一つの可能性としては、
ダイソン球からの収束エネルギー放出、が考えられる。

SWのデス☆のような、地球サイズの巨大人工惑星の、
後ろにエネルギー受信装置。
前方に障害物破壊衝撃パルス発生装置。

例えば、A恒星からB恒星に移動する際には、
B恒星に向けて出航した巨大人工惑星(A恒星で採取した資源満載)に向けて、
A恒星に設置したダイソン球からの莫大なエネルギーを収束エネルギーとして照射し続ける。

巨大人工惑星はその収束エネルギーを受け取り続けて、
加速し、活動を維持し、続ける。

例えば、収束エネルギー照射を9.5時間、
0.5時間休止して、その間に、位置測定信号や交信信号をA恒星に送る。

これならば、
巨大人工惑星は母港のA恒星から莫大なエネルギーを受け取りつつ、密に連絡を取れているにも関わらず、
行く先のB恒星から見ると、A恒星は消えたように見える。

578 :日本@名無史さん:2021/10/11(月) 22:36:38.05 .net
地球から見て、人類が気付くことができるだけで、800もの恒星が見えなくなっている、ということは、
ヤバイ。

ここ70年のうちに、少なくとも800の恒星系から、
いっせいに恒星間移動できる巨大人工惑星が出航している。

チェスと同じ。

様子見なら、一駒ずつしか動かさない。
それが一斉に動かすということは、本気。
チェックメイトしにきている。

579 :日本@名無史さん:2021/10/11(月) 22:53:49.61 .net
これまでの各種UFO報告。
米国の発表。
などの我々人類が得ている情報。

一方で、最低でも800以上の恒星系を自由に渡り歩いてダイソン球など設置する
超文明の存在可能性。

から考えると、かなり以前から、とっくの昔に、
超文明は天の川銀河の隅々、我らが太陽系をも調査していたことになる。

逆の立場で考えてみよう。

我々がSFよろしく宇宙で恒星間を移動して開発しているとする。
原始的な生物が存在する惑星もいくつか見つかる。

まあ他の恒星系など開発しつつ、
原始的な生物がいる恒星系は後回しにして、発展の様子を見守って猶予を与えるとする。

で、原始的な生物が科学的に発展していったとして、
将来自分たちが入植予定の惑星について、おいお前らちょっと待てやコラ!
となるのはどのポイントか?

核技術。核汚染。ですな。

580 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 14:08:53.51 .net
>恒星を完全に覆って恒星の発するエネルギーを全部使用するというのは逆に無理だろう。

異星人文明が平和に統一運営されていれば、だな。
太陽の全エネルギーのうち、地球は50憶分の一しか受け取っていないそうだから、
そりゃ恒星の発する全エネルギーを受け取れば惑星全てが沸騰どころか蒸発するだろう。

地球人類が、暮らす大地や住居はありながら、石油石炭天然ガスなどエネルギーを争奪しているのに対して、
ダイソン球を使用できる異星人は、逆にエネルギーは有り余っていて、
ダイソン球やスペースコロニーなどを作る物資資源を争奪することになる。
一つの恒星系にある惑星だけではぜんぜん足りないから、他の恒星系の惑星などをかき集めて持ってこないといけない。

581 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 14:09:45.25 .net
弥生時代開始とともに稲作集団が全国へ入植していって、
間を置いてから、
各地で稲作集落の人口が増え、
水系や耕作可能土地を求めて奪い合いの戦争が起きて、
環濠集落が各地に発達した。

同じことで、恒星間移動する異星人文明も、
各地の恒星系へ入植していく段階では、
お互い助け合って、新規入植者をバックアップしたりして勢力拡大していくが、
例えば天の川銀河の中でだいたいの目ぼしい恒星系に到達し終えて、
各恒星系が発展した段階では、
今度はダイソン球やコロニーなど諸施設を作るための材料資源の取り合いが始まる。

環濠集落同士の戦いと同じく、
恒星系間での戦いが始まるわけだな。
SFによくあるべたな話。

582 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 14:11:26.17 .net
平和下の民生用だけなら、ダイソン球は隙間だらけの籠型で充分だが、
恒星間戦争が始まって、軍事用となると、話がちがってくる。
ダイソン球からなるべく多くの恒星エネルギーを集めて、
圧倒的兵器であるソーラレイ砲として使用する必要がある。

侵略者の宇宙艦隊やミサイルあるいは移動惑星兵器などでも、
物理兵器については、はるか彼方に迫ってきている段階で補足さえすれば、
光速兵器であるソーラレイ砲で迎撃壊滅できる。

ソーラレイ砲の出力をなるべく長射程にするために、
ダイソン球は恒星を完全に包みこんで、恒星のエネルギーをMAXで使用するのだな。

恒星間戦争。

583 :日本@名無史さん:2021/10/16(土) 14:12:31.92 .net
地球で言うと民主主義先進国のような理性的寛容な勢力で、しかも優勢側であれば、動物保護や環境保護をしてくれるが、
帝国主義あるいは劣勢側であれば、資源乱開発も辞さないだろう。

太陽系を管轄する勢力が優勢側ならよいが、
劣勢側になったら、太陽系の惑星群も徴用の対象となってしまうことがありうる。

また優勢側が管轄保護してくれていても、太陽にはダイソン球が無いから、
劣勢側が手薄な太陽系を狙って大規模侵攻してきたら、
優勢側の太陽系防衛隊がいるとしても、普通に宇宙艦隊戦で撃退しなければならない。

オウムアムアなどはその残骸か。

584 :日本@名無史さん:2021/10/19(火) 20:08:40.41 .net
イカガシコオって伊聲耆掖邪狗だと思うけど。

585 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 00:08:46.13 .net
『從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。』
『自郡至女王國、萬二千餘里。』

倭國には七千餘里で至る。
女王國には萬二千餘里で至る。
とうことは、女王國は倭國に含まれるのだな。

『其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。』
『到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。』

狗奴國には男王がいて、官も別にいる。
伊都國にも王がいて、官が別にいる。

こう考えると、倭國は朝鮮半島南部から九州島。
九州島に邪馬壹國と狗奴國があって争っている。

邪馬壹國の中に、伊都國など約30国があって、女王國に統屬される。可七萬餘戶。
女王國は30国の中のどれか、あるいは数國であって、
萬二千餘里で至るのだから、女王國=奴國+α。
卑彌呼は、元々は奴國の官である兕馬觚を勤めていたのが、
倭國亂の最中に邪馬壹國の女王として共立されたことになる。

586 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 00:09:02.28 .net
『伊都國〜〜〜郡使往來常所駐。』
『自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。』
『南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月(日)。』

来倭した郡使は伊都國に滞在するのが常であり、
その郡使が交渉した卑彌呼は、王になってこのかた厳重警備の宮室に引きこもっているのだから、
卑彌呼がいたのは伊都國。

投馬國から南の邪馬壹國の中で、
女王卑彌呼が都としている場所は、水行10日して、上陸したその日=陸行一日で着く伊都國内。

『舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。』
『其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。』

倭國は多数國による連合国で、
倭國王は多数國の王家による共立王だったよう。

587 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 00:22:57.17 .net
邪馬壹國には、女王卑彌呼以外は伊都國王しかいない。

住七八十年男王は伊都國王家の出自であり、
倭國全体の中央集権を進める過程で各国の王家を官となす改革を行った。
(廃藩置県・甕棺墓の廃止=廃刀令)

改革による改易に続いての、
倭國亂中の粛清で、
伊都國以外の王家の多くが滅亡したのだろう。

兕馬觚だった卑彌呼は、当然伊都國王家からの派遣であった可能性が高く、
伊都説であれば、奴國=葦原那珂津国の支配を、倭國亂の時に担当していた勢力や人物を検討すればよいことになる。

588 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 00:37:40.40 .net
『東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。』

奴國の東隣りの不彌國までわざわざ記載されている。
卑彌呼は卑彌・呼=不彌・呼、であった可能性があるな。
であれば、卑彌呼の前職は多模となり、
兕馬觚あるいはそれに準ずる奴國有力者と夫であった可能性があるな。
多模をたも、と読むか、とも、とも読むか。

589 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 07:43:41.52 .net
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、畿内の交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。

590 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 07:44:21.40 .net
【伊都国】

伊都には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国式山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にあり彦火々出見を祭る高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った彦火々出見ら日向王家の王墓であると考えられる。
倭国の王と王妃の墓である三雲南小路遺跡の拝殿である細石(さざれいし)神社は木花佐久夜毘売を祭神とし、墓は天孫ニニギと木花咲耶姫の墓と考えられる。
平原遺跡や三雲南小路遺跡などの特徴は三種の神器に相当する副葬品があることであり、筑紫の伊都が記紀にあるように倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

魏志倭人伝では伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武が天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
高祖宮は伊都から日の出の方にあり、倭王は太陽を背にして君臨していて、この様式は大和の三輪山などと同じ配置である。
伊都は神道の基本である太陽信仰の都だったのだろう。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

591 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 07:52:22.51 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

592 :日本@名無史さん:2021/10/20(水) 08:08:59.88 .net
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく

593 :日本@名無史さん:2021/10/22(金) 00:07:21.60 .net
女王になる前の卑彌呼がただの官であったなら、
いくら倭国王になっても、
卑彌呼が倭国王になる前の任官地が女王國と呼ばれることは無いだろう。

もともと女王國だったから、
卑彌呼が倭国王に昇格して伊都國に都するようになっても、
旧領の奴國+αが女王國と呼ばれ続けたのだろう。

『乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。
 年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。』

もともと奴國+α=女王國の女王であった卑彌呼。
共立女王になった時には(後述の壹與とは異なり)既に成人していたが、夫や婿はいない。
ということだな。

女王國メインの奴國二萬餘戶の官が兕馬「觚」。
一方で、伊都國の官は爾支で、泄謨「觚」・柄渠「觚」が副である。
このことから、倭國女王卑彌呼の施政下においても、伊都國の爾支を頂点としたヒエラルキーであったことになり、
卑彌呼の男系は伊都國王系であったことが強く示唆される。

卑彌呼の前職はわかりやすく奴國王(傀儡政権としての)であったと安直に考えてもいいのだが、
あえて記載された不彌國千餘家が王都であったと敢えて推したい。
ごったがえす密な奴國ではなく、
支配官は清浄な高級住宅地に住む。

奴國不彌國(+α)の女王國女王時代の若き卑彌呼は、不彌國千餘家で執務していた。
頭の回転の速い、美しい「博多っ娘」だった。

倭國亂の動乱期、次いで狗奴國によって攻め滅ぼされようという危機に、
女王國を運営してきた政治手腕を買われて、
不彌國千餘家から、伊都國千餘戶へとスカウトされたのだな。

594 :日本@名無史さん:2021/10/22(金) 00:16:33.96 .net
多模 タモ トモ

多レ模 モが多い モモ

595 :日本@名無史さん:2021/10/22(金) 18:19:40.06 .net
>>593
>このことから、倭國女王卑彌呼の施政下においても、伊都國の爾支を頂点としたヒエラルキーであったことになり、

同意。
伊都国の官であるネキは天孫族の一員だろう。

>>593
>奴國不彌國(+α)の女王國女王時代の若き卑彌呼は、不彌國千餘家で執務していた。

位置的には香椎宮あたりなのだろう。
神功皇后の章でわざわざ香椎宮が登場するのも、卑弥呼とダブらせたかったからかもしれない。

596 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 01:41:43.63 .net
なるほど深いな。

女王國=奴國不彌國(+α)で、若き日の卑彌呼は不彌國で執務していた。

不彌國は1世紀であれば雀居遺跡に比定されるかと思うが、
3世紀卑彌呼だと、
4世紀の神夏磯媛が香椎宮で八咫鏡を保有する時代の方が近いので、
香椎宮に居たのかもしれないな。

奴國の高級住宅地は本来須玖遺跡(春日市)である。
ただ、須玖遺跡はさらに上流の大宰府や筑紫野市からいつでも攻め落とされる地勢にあり、
「王」が居住するのにはあまりふさわしい地といえない。

筑紫野市には古代山城の阿志岐山城神籠石や、
実際に戦闘行為を行った跡の残る多数の甕棺墓戦士が見つかっており、
古代史を九州説で完結しようとするならば、磯城、に比定されうる。

よって、卑彌呼が女王國=奴國不彌國(+α)を運営するにあたって、
奴國の高級住宅地である須玖遺跡でなく、
不彌國に都したということは、
卑彌呼は磯城の一族とはさほど親しくはなく、
安曇と親しい、あるいはその一族であった、ということになる。

597 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 01:46:13.06 .net
この頃には安曇が支配していたであろう豊國も、
卑彌呼の同盟国、後援国、であったことになるな。

豊國には女王支配の流れが濃密に残っており、
伊邪那美(山鹿貝塚)、八上比売(超大型平形銅剣)、宗像三女神(宗像大社)、豊玉姫(城野遺跡)、神功皇后(宮地嶽神社)、などが検討対象となろう。

伊邪那美神話に残る八雷神が豊國女王の祖流であり、
豊國全体の共立女王の座を、有力部族である熊鰐と蒲生が古来争っていた。

豊國共立女王に蒲生系女王がついたのは伊都伎島姫までで、
以降は熊鰐系女王の支配国となる。

安曇族は女系が熊鰐であり、博多湾の出入りを管制できる志賀島を本拠に、
安曇系女王を立てて豊國を安定支配しながら、
伊都國王家にも王妃を送りこみ、後の藤原氏のように背後から操っていたのだろう。

598 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 14:41:04.99 .net
そのあたりはどうせみんな親族でしょ。
博多も宗像も糸島も。
いだそ熊襲も。
福岡県の彦火火出見こと山幸彦と、宮崎県の海幸彦が兄弟なくらいだからね。

高天原が沖ノ島で高千穂が高祖山なら、沖ノ島から糸島への天孫降臨を宗像が支援したことになる。
笠狭岬こと志賀島から天架け橋たる海の中道を通り、魏志倭人伝において王がいない大国であった空国こと博多を猿田彦の案内で通過したんだよ。
これが機器の神代のスケール。

のちの筑後あたりも肥国つまり有明海沿岸だか、そのあたりから火の国女王であった卑弥呼を宗像や安曇が糸島か香椎に迎えたのかもしれない。

599 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 15:36:01.34 .net
高天原は、海(あま)の原(ばる、集落)と読める。
アマテラスは海を照らす(支配する)と読める。
本質的にアマテラスはどこかの島にいた海神でうる。
しかも、同時に生まれた月読が海の向こうに行ったきり戻らなかったのに、対馬に祭られている。
つまり高天原は対馬より九州に近い島でなければならない。
アマテラスの孫は、宗像に守られて、アマテラスの生まれ故郷である筑紫の日向つまり福岡に戻ってくる。
これはつまり高天原は宗像の制海権に置かれていたということ。
アマテラスは磐座に坐したとあるが、玄界灘で磐座信仰といえば沖ノ島。
しかも沖ノ島の祭司には後の畿内政権も関わってくる。
神道における祭司とは、基本的には祖先を神と呼び祭るものであり、アマテラスはその対象となりうる。
沖ノ島の祭祀は4世紀からだという指摘もあるだろうが、それ以前はもう弥生時代だから、祭司と言ってもせいぜい岩の上に稲穂や昆布、鯛などを捧げる程度だったろう。
たった一つの台風で痕跡など消えてしまう。
また、3世紀において沖ノ島の祭祀が大々的に行われなかった理由についてはもう一つの仮説を立てることができる。
それは卑弥呼がアマテラスを祖先と仰ぐ立場ではなかった、つまり天孫族ではなかったということ。
筑紫の日向に生まれて、沖ノ島に関わらなかった他の氏族としては綿津見ら安曇族や、素戔嗚などいくらでもある。
卑弥呼もそうした天孫族ではない国津神だったのかもしれない。
卑弥呼に仕えていた伊都国の禰宜とやらが邇邇芸ら天孫族の一員であったのなら、天孫族の歴史書である記紀が卑弥呼に触れたがらない理由も説明がつく。
その一方で、安曇や宗像は卑弥呼を共立しうる立場にあっただろう。
景行天皇や神功皇后により天孫族の末裔が九州北部の実権を掌握することで、彼らの祖先たる沖ノ島の祭祀が興隆することになったのだろう。
彼らが滅した田油津姫らこそが、邪馬台国の女王の系譜だったはず。
ちなみに田油津姫の祖が、筑紫で八咫の鏡を保有していた神夏磯姫である。
また、沖ノ島辺津宮の神器も八咫の鏡である。
そして3世紀の女王墓である平原遺跡からも八咫の鏡が出土している。
卑弥呼は香椎宮に住み、倭国の王家の谷である伊都国に葬られたのであろう。

600 :日本@名無史さん:2021/10/23(土) 17:07:12.67 .net
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく

601 :太国 :2021/10/23(土) 17:38:53.02 .net
九州の国生みでは四面全部に『別』の字をつけて半島大陸と別もの
だとはっきり古事記に記述がある。

 筑紫國 白日別
 豐國  豐日別
 肥國  建日向日豐久士比泥別
 熊曾國 建日別

日本は大陸半島とは『別』ものの国なのだ。

神国日本は全世界の別格の国である。
黄金の国神国日本と半島の世界第参位の人参民族とは同等ではない。
半島は参位の銅メダル国家であって、黄金の国ジパングの金メダル国家
とは完全に別ものなのだ。それゆえ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。
半島は銅級国家だからあのブスの銅像を各地に設置して銅だと
自認してる。w
 ハーフは純金の近族から程遠いから天皇にはなれない。タトーは外国行きと
なる民族。タとトで外国の『外』となるのはそのため。

金メダル国家がこの神州であるからして、天意は日本に邪馬1国の
世界第1位の国家を置いてるのである。
したがって太古の日本人が半島から来たのではない。こちらの神国日本が半島の
ご本家だ。ご本家だから日本の国号に『本』の字がつくのだ。

天皇は萬世一系である。そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。

602 :日本@名無史さん:2021/10/24(日) 08:25:58.69 .net
画紋帯神獣鏡は公孫氏からだな。
呉=公孫氏=狗奴国が繋がっていたのだな。

603 :日本@名無史さん:2021/10/24(日) 18:41:56.35 .net
『乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。
 年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。』

社会人ならわかると思うが、
トップが一人としか会わないのなら、実務はしていない。できない。
卑彌呼は象徴か傀儡で、男弟が実質的な権力者だな。

王となって以来、閉じこもっていたということは、
卑彌呼は最初からお飾りだったということ。
なので、卑彌呼が邪馬壹國女王に共立されたのは、
その能力が買われたのではなく、血筋が買われたことになる。

604 :日本@名無史さん:2021/10/25(月) 20:07:30.87 .net
中国王朝が朝鮮半島に領土を持っていたのは晋初期まで。
あとはむしろ金などに押されまくって南に押し込められている。
そして中国王朝と行き来する(朝貢する)のは当然倭人のほうだから、
中国官吏が倭国にわざわざ来る機会は無い。

中国人が東夷の里程を測定する機会は後漢や魏代が最後で、
万二千里を更新する機会は無かった。
だから中国の知識人の中では、東夷用の短里であることが前提の上で、
慣用句のように記載していたのだろう。

605 :日本@名無史さん:2021/10/27(水) 20:46:45.08 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

606 :日本@名無史さん:2021/11/15(月) 22:47:12.19 .net
>よって、卑彌呼が女王國=奴國不彌國(+α)を運営するにあたって、

北部九州における女王國といえば、豊国。
宗像大社や宮地嶽神社など錚々たる女王の国。

また、『女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種』の拘奴國もまた、
赤坂今井墳墓の発掘から、考古学的に卑彌呼時代は
四隅突出型墳丘墓の領域を従える女王國であったことが確実。

卑彌呼の前任地が女王國=奴國不彌國(+α)として、
その西にいくつの女王国を想定しうるか。

多模=タマ、とするならば、
卑彌呼は城野遺跡を擁する豊国女王であったことになる。
豊国女王の所都が不彌國(福岡空港雀居遺跡〜香椎宮)であり、
そこから奴國をも監督していた、と考えるか。

この場合、卑彌呼は豐玉毘賣や玉依毘賣の直系子孫となり、
八尋和邇の同族。
阿毎の女性であり、神功皇后にも繋がってくる。
その卑彌呼を記紀が無視するということは、逆に、、、国津神なのか。

もしくは、
卑彌呼の女王國=奴國不彌國(+α)
豊國(おそらく女王國)
拘奴國(四隅突出型墳丘墓の領域を従える赤坂今井墳墓の女王國)
と、女王國を並べて考えるか。

607 :日本@名無史さん:2021/11/16(火) 13:22:22.42 .net
個人的には豊国は含まないと思う。
女王国は筑前筑後肥前。
肥後は反旗を翻した狗奴国。

608 :日本@名無史さん:2021/11/16(火) 17:34:42.10 .net
委奴=伊都 なんて言う馬鹿げたことを言うのは、漢字の読みを現代日本の漢字音だけしか知らない人。

奴 の発音は、古代の中国語、昔の中国語発音をよく保存している客家、福建、広東語を含めて全て “ヌ” 、“ノ” 及び”ナ”であり、”ト” と言う発音は日本にしかない発音。

古代中国語の発音は”ナ”であって、(wiktionary参照)、那津(なのつ)との名前も残る奴国、博多エリアとも整合するが、伊都の発音とは全く異なる。

委奴= ウェナ(当時の中国語発音)
伊都= イトゥオ(当時の中国語発音)

魏志倭人伝にも、伊都国は”伊都”つまり、イトゥオと書かれているので、わざわざそれを委奴(ウェナ)と書くのは全く考えられない。

https://i.imgur.com/FWBWrai.jpg

https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4

609 :日本@名無史さん:2021/11/16(火) 17:42:30.86 .net
ちなみに委の発音は、日本語でも本来はゐ(ウィ)であり、伊(イ)とは区別されている。

現代中国語では委はウェイ、韓国語、ベトナム語ではウィの発音でやはり伊(それなの国でもイノ発音)とは異なる。

610 :日本@名無史さん:2021/11/17(水) 23:53:07.50 .net
>>608
なるほど。
伊都國の伊族と、奴國の奴族と、がいたわけだな。

魏志倭人伝において、広義の倭國=九州島にいる王は、
・邪馬壹國女王卑彌呼=前任地が奴國不彌國(+α)
・伊都國王
・狗奴國

東に渡海した先には、
後漢書に記載されて、魏志倭人伝では途中で滅亡して記載されていない、
・拘奴國 邪馬壹國の同盟国である女王國

小高い早良平野の吉武王家と、
西の糸島平野の三雲井原王家とは、連続性が認められることから、
伊族王家が遷都したものと考えられる。

となると、
紀元前吉武王家→57年金印奴國王→紀元後三雲井原王家(『其國本亦以男子爲王。住七八十年』)
→女王國=奴國不彌國(+α)出身の卑彌呼
と権力が移っている。

『倭國亂、相攻伐歷年』が、紀元後三雲井原王家を中心とした伊族内の内乱で、
その内乱によって、伊族の支配体制が揺らいで=甕棺墓の消失、
奴族が復活勢いづいて、
女王國=奴國不彌國(+α)出身の卑彌呼
南の狗奴國
東の拘奴國
などが勃興したのではないだろうか。

丁度奴族の権力掌握時期のみが記紀から省かれている、ということは。
それ以降についても同様の法則があてはまるのか。

611 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 15:35:03.54 .net
奴国から伊都国への遷都が、天孫降臨の時だと思う。
伊都国の細石神社は日向王家初代の木花佐久夜姫、高祖神社は日向王家二代目彦火火出見を祭る。
祀ると言っても、それは死後だからそのように表現しているだけで、高祖神社は彦火火出見がいた宮、つまり筑紫の日向の高千穂宮なのではないか。
周囲に筑紫の日向の小戸、日向川、日向峠などの地名が散財する。
もしそうならば、王権が奴国の大山祇から伊都国の天孫族に移動したということで説明がつく。
しかも卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代に比定できる。
神武が筑紫を出て東征したのは、倭国大乱があったからということになり、神武はほぼ卑弥呼と同年代になる。

612 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 19:51:50.29 .net
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく

613 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 22:11:36.02 .net
磐余彦本人だって刺青があったのだろうなあ。

614 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 23:16:07.67 .net
卑彌呼の前任地が、女王國=奴國不彌國(+α)だったとして、
魏志倭人伝の5箇所の『女王國』について検討してみる。

『到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。』
伊都國には、官・副官・千余戸の都民・そして同時代に伊都國王がいて、
その皆は、元女王國女王である卑彌呼の倭国王共立に参加したので、
成り行きとしては、女王國=奴國不彌國(+α)に統属される形で、邪馬壹國=卑彌呼時代の北部九州倭国の一員となっている。

『自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。』
魏志倭人伝で戸数道里が示されているのは、女王國=奴國不彌國(+α)より北の部分だけ。
後漢所の『倭國之極南界也』とも対応。

『自郡至女王國、萬二千餘里。』
至は國の境界まで、到は國の中心地点まで、
方可は正方形で、通過するにはその二辺を通る必要がある、とすれば、
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000里で、
女王國=奴國不彌國(+α)に至る。
(逆に、こう考えなければ、女王國まで12000里の情報が根拠不明となってしまう)

『自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。』
女王國=奴國不彌國(+α)より北については、
特に一人の大率を設置して、諸国を検察している。
諸国は大率を畏れ憚っている。
女王卑彌呼が倭国王に昇格して、女王之所都=伊都國になったので、
大率も普段は伊都國で執務している。(必要に応じて出張して検察)

『女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。』
女王國=奴國不彌國(+α)から出港して=博多湾志賀島から出港して、
東に渡海千余里=豊國を飛び越えて本州日本海沿岸まで行くと、
また倭種の國がある。
(後漢時代にあった拘奴國は、考古学的に平原卑彌呼女王の同盟国であったが、
 次代の男王によって攻め滅ぼされた。)

615 :日本@名無史さん:2021/11/18(木) 23:35:53.27 .net
『自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。』
この一文から考えると、
女王國=奴國不彌國(+α)時代の、若き博多美人の女王卑彌呼が、
既に大率を設置していたように見える。

『倭國亂、相攻伐歷年。』で既に伊都國の三雲井原王家の求心力が低下して戦国時代に突入しており、
そのさ中に女王國=奴國不彌國(+α)の女王卑彌呼が頭角を現していたのではなかろうか。

卑彌呼は伊都國王支配のヒエラルキーを重んじているから、
新規に国を作るようなことはしなかった。
一方で、自らが王になりたい有力者もいて、
その一人が南に狗奴國を勃興させた狗奴國王。
狗奴國の成立によって、北の諸国は力を合わせなければ各個撃破される危険性が高くなり、
邪馬壹國=卑彌呼時代の北部九州倭国としてまとまる必要性が生じたのだろう。
『皆統屬女王國。』

女王國=奴國不彌國(+α)時代の、若き博多美人の女王卑彌呼が、
既に設置していた大率が、
女王卑彌呼が倭国王に昇格して、女王之所都=伊都國になったので、
大率も執務室を伊都國に移した。

もとは女王國=奴國不彌國(+α)ということは、率善=〇吉?

616 :日本@名無史さん:2021/11/19(金) 06:50:24.75 .net
>>614
>伊都國には、官・副官・千余戸の都民・そして同時代に伊都國王がいて、

ここは異論があるね。
「王は代々伊都にいた」という解釈があり、その代の王は卑弥呼である。
卑弥呼と同時代の王は他には狗奴国王しかいない。
伊都国の王家は卑弥呼の時代には官として存続していたニギだろう。
ニニギやニギハヤヒと同じ天孫族の名に思える。

617 :日本@名無史さん:2021/11/22(月) 22:01:47.21 .net
『乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
 事鬼道 能惑衆 年已長大、無夫壻。

 有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。
 以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入居處
 
 宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。』


<卑彌呼について>
そこで一人の女性を共立して王とした。名前は卑彌呼といった。
蛮族の宗教を行い、人々をうまく煽動した。
既に成人していたが、独身であった。

<卑彌呼の弟について>
卑彌呼には弟がいて、国を治めるのを補佐した。
卑彌呼を王となして以来、卑彌呼の弟に会った者は少ない。
女官千人を従えて弟自ら卑彌呼に仕え、
女官千人の中に有るただ一人の男として、
卑彌呼に飲み物や食べ物を給仕したり、伝言を伝えたりして、
卑彌呼の居室に出入りしていた。

<不思議な姉弟について>
彼らの住む居館や楼観は、城柵で厳重に囲まれており、
常に武器を持った人がいて、守衞していた。


卑彌呼の弟・・・羨まし・・・。

618 :日本@名無史さん:2021/11/22(月) 23:09:31.74 .net
卑彌呼の弟の能力がどれくらいかはわからんが、
卑彌呼の前任地が、女王國=奴國不彌國(+α)であって、その県庁所在地が不彌國なのであれば、

卑彌呼の弟もそれに連動するので、
卑彌呼の弟の前任地は奴國であり、前職は兕馬觚の可能性が高い。
卑彌呼の弟が邪馬壹國の高官として女王卑彌呼を補佐するその立場は、奴佳鞮。


吾田 桜番場など末盧國(卑彌呼の弟の嫁)
奴國 卑彌呼の弟(奴佳鞮)
越 東に渡海千里 卑彌呼の同盟国=倭種の拘奴國

彌馬獲支 朝倉市三奈木

吾田(末盧國)→邪馬嘉國(サマガ・佐賀平野)→西から彌馬獲支へ進軍
奴國(奴佳鞮)→やましろ(大宰府or筑紫野)→北から彌馬獲支へ進軍

絶体絶命の挟撃に対して、
南にいる狗奴国王と会談して、その一族のカモ系を大倭に据える密約を交わし、
後顧の憂いをなくしてから、
将軍達を進軍させて夫婦を撃破し、
さらに進軍して、三国志から越の拘奴國を消滅させた彌馬獲支=次の男王こそ、
日本史を中国支配から救った英雄か。

619 :日本@名無史さん:2021/11/23(火) 07:14:02.14 .net
弟は単に身の回りの世話だけで、政治的権力は皆無だろ。

620 :日本@名無史さん:2021/11/23(火) 08:15:50.61 .net
有男弟佐治國
とあるから、政治的権力はある。
そして女王に面会できる唯一の男なら、その権限は絶大。

621 :日本@名無史さん:2021/11/23(火) 08:54:24.02 .net
全て主語が卑彌呼だとすると、同じ段落において、
乃共立一女子爲王 他者が卑彌呼を共立して王にした
自爲王以來    卑彌呼自らが自らを王にした
と、明らかな矛盾が生じる。

また、以婢千人自侍、についても、
卑彌呼が主語だと、自侍、が卑彌呼にかかってしまうので、
女王が自ら侍っていた、となってしまう。

そうなると、以下のような段落割りなのではなかろうか。
<卑彌呼>
『『乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
 事鬼道 能惑衆 年已長大、無夫壻。』

<卑彌呼の弟>
『有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。
 以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食傳辭出入居處
 宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。』

卑彌呼女王は、能惑衆、とあるから、
大衆=人前にもよく姿を見せていた巫女女王。

自爲王以來、を普通に訳すと、自らを王になして以来、だから、
卑彌呼の弟も王であったことになる。
女王國=奴國不彌國(+α)だったのだから、
卑彌呼が広域連合国家倭國の共立女王となったのをいいことに、
奴國王、と自ら宣言して、卑彌呼にくっついて伊都國にハーレムを作って暮らしていた。

よく読んでみると、
倭國には、女王卑彌呼、伊都國王、卑彌呼の弟王(奴國王か)、狗奴國王、
少なくとも4人の王がいたことになる。

622 :日本@名無史さん:2021/11/24(水) 00:22:42.09 .net
自爲王以來 少有見者
王と為ってより以来、まみえたことのある者は少ない
だから、卑弥呼でいい。
副詞の自ら(みずから)、じゃなくて、前置詞の自り(より)ね。

以婢千人自侍はたしかに解釈が難しいが、
こちらは動詞の侍の前だから、副詞の自ら(みずから、おのずから)になるので、
千人の侍女を、自発的に侍らせている
で、卑弥呼のことでも意味は通る。
鬼道によって、衆を惑わしているから、自発的に侍って仕事や身の回りの世話をしてくれる女性が千人もいる。
ということかな。

唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處は、
卑弥呼の世話をする人の説明であって、(女性千人と男性一人)
卑弥呼に会える男性が一人だけという意味ではない。
少有見者だから、逆に言うとごく少数の者は会えた。

623 :日本@名無史さん:2021/11/24(水) 02:07:20.55 .net
>>591
>>611
なれば、
伊都國の吉武高木遺跡の辺りが高天ヶ原
奴國は那珂比恵遺跡〜須玖遺跡群で葦原中国
豊国が遠賀式土器や鐘崎式土器で出雲
と仮定できるな。

奴國の奴国王が57年金印を貰ったが、失脚して、
伊都國に主権が戻り、三雲井原遺跡側へ遷都した。
糸島平野が筑紫の日向で、卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代。
自然と、神武東征あたりから倭國亂に突入していく。

葦原中国には、奴国王が失脚して、まず饒速日が進駐。
高天ヶ原=早良平野の支配者が、天照
葦原中国=那珂川流域の支配者が、国照
ということになり、肩書の説明がつく。

考古学的には、三雲井原遺跡が大王墓として突出しているから、
饒速日の現福岡市以外にも、対馬海峡〜唐津の末盧國、佐賀の邪馬嘉國(さまが)、
筑後の大倭國、あるいは豊國など、複数王によって共立されての、
広域連合国家としての倭國であり、倭國王だったのだろうな。

624 :日本@名無史さん:2021/11/24(水) 02:08:06.01 .net
葦原中国にいた長髄彦(那賀須泥毘古)は奴国王の一族で、
天照国照である饒速日の配下。
饒速日が亡くなった後は、
饒速日と、長髄彦の妹である三炊屋媛(登美夜毘売)との間にできた、
宇摩志麻遅命(可美真手命・味間見命)に仕えていた。

うましまじ、うましまみ

「うま」は、大倭の長官であったことを意味し、
「しま」は、奴國の府知事である、兕馬觚(しまこ)のことだな。

味間見命は、神武に降伏して十種神宝を献上した。
配下となって、身柄は保証されたと記録されている。

625 :日本@名無史さん:2021/11/24(水) 02:14:13.96 .net
>>618
>卑彌呼の前任地が、女王國=奴國不彌國(+α)であって、その県庁所在地が不彌國なのであれば、
>卑彌呼の弟もそれに連動するので、
>卑彌呼の弟の前任地は奴國であり、前職は兕馬觚の可能性が高い。

『有男弟 佐治國』をそのまま訳すと、
(卑彌呼には)弟がいて、(卑彌呼を)補佐して国を治めていた。

ということは、卑彌呼が倭國王(邪馬壹國王)となった後は、
女王國=奴國不彌國(+α)を弟が治めて、卑彌呼を後援していた。

卑彌呼の次の男王時代の内乱が、
>>618の乱と仮定した場合であるが、
弟は武埴安彦命(建波邇夜須毘古命)ということになる。

武埴安彦命は、第8代孝元の皇子であり、
母の埴安媛の父、つまり祖父は、河内青玉繋。
この人物はおそらく、大量の鉄剣とコバルトブルーのガラス釧が出土した、
大風呂南1号墳の被葬者ではなかろうか。

武埴安彦命の姉であるが、同腹の姉は記録にない。
味間見命の五世孫である欝色謎命が孝元の皇后となって、
大彦命、開化、そして倭迹迹姫命を産んでおり、
倭迹迹姫命は武埴安彦命とは別腹の姉となりうる。

女王國=奴國不彌國(+α)〜兕馬觚・多模(トモ)
〜卑彌呼と弟〜日本海沿岸の拘奴國
といった、繋がりが浮かんでくるが、どうだろうか。

626 :日本@名無史さん:2021/11/24(水) 08:50:23.68 .net
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく

627 :日本@名無史さん:2021/11/27(土) 19:00:28.11 .net
238年 卑弥呼「親魏倭王」金印
    難升米「率善中郎將」銀印 都市牛利「率善校尉」銀印
243年 伊聲耆掖邪拘「率善中郎將」銀印

245年 
濊が高句麗に属したため、楽浪太守・劉茂と、帯方太守・弓遵がこれを討ち、
濊は魏に降伏した。

次いで韓が反乱したため、
同じく、楽浪太守・劉茂と、帯方太守・弓遵が、これを討ったが、
弓遵は戦死した。

245年6月 難升米に黄幢を賜う。

246年6月 韓滅亡

>馬韓の官には、魏率善、邑君、などなどがあるが、
>韓の臣智に与えられたのは、邑君であり、次が邑長とある。

苦戦した魏が、黄幢をあげるからと難升米に援軍を要請して、
伊聲耆掖邪拘が出陣して魏の勝利に貢献し、
魏率善として、馬韓に領土を得た。

後の百済であり、キナイコシが全力で九州説を妨害する核心的理由である。

628 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 00:36:15.58 .net
大風呂南1号墳の被葬者は卑弥呼の父親と思っていましたが、
卑弥呼の弟の祖父、という可能性が出てきたわけですね。

考古学的に丹後王国は鉄器やガラス製品など
伊都と密接に関わっており、
また四隅突出型墳丘墓の分布域の中枢である丹後に、
赤坂今井墳墓があることから、
文献(後漢書)における倭種・拘奴國は、
丹後の赤坂今井墳墓女王を戴く女王国であり、
卑弥呼の同盟国であり、
日本海沿岸の島根〜富山にあったことが明らかですね。

629 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 00:36:23.40 .net
魏志倭人伝によると、時系列としては、正始八年(247年)のうちに、
@卑弥呼邪馬台国と、卑弥弓呼狗奴国が戦争状態
 難升米に黄幢と檄告喩

A卑弥呼死去、その年のうちに卑弥呼墓を急造

B次の男王が立ったが、邪馬台国で内乱

C台与を立てて、伊聲耆掖邪拘が張政を魏へ送った

という順ですね。

繰り返しになるので省きますが、
難升米はタケミナカタの子孫と考えられ、それが後世も祭られていいることから、
難升米の一族は勝ち馬に乗ることが出来たことが確実であり、
次の男王の内乱において、男王と戦ったのは難升米ではなかった。
難升米は卑弥呼時代最期に出陣して、狗奴国相手に派手に討ち死にしていた、
ことが確実である、ということになります。

難升米 奴の升米
長崎  奴が崎
長野  奴が野

630 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 00:43:23.05 .net
後漢書に記された、倭種・拘奴國が、
魏志倭人伝では消滅していることから、
後漢時代にあった倭種・拘奴國は、魏代に滅亡したことになります。

(四隅突出型墳丘墓が短期間で消滅していることも、
 考古学的にこれを裏付けますね。)

よって、
中国文献から、
・難升米は卑弥呼時代のうちに討ち死にした
・男王は、「難升米以外の勢力」と内乱を起こした
・男王は、倭種・拘奴國を滅ぼした
ことがほぼ確定します。

631 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 00:56:55.49 .net
また、
九州説のうち、伊都説を吟味していくと、
各地の比定において、

「吾田」
吾田の長屋の笠狹之碕 末蘆國の柏崎遺跡
吾田鹿葦津姬     末蘆國の柏崎遺跡のコノハナサクヤヒメ
吾田邑吾平津媛    末蘆國出身の潤地頭給遺跡のヒメ

「大阪」
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ
・北部九州に紀元前から硯・刀子があった=文字があった
伊耶=伊邪→伊佐→諫早
邪馬嘉→佐嘉(栄)→佐賀
大阪=大佐嘉

あるいは、弥生時代の佐賀=甕棺墓の出土分布の通り、現在の平野部は無く、
山脈にへばりつくような丘陵地と、広大な干潟のみだった
坂だらけの土地だったから、坂が多い=多坂=大阪

632 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 01:00:01.64 .net
「大倭」
彌馬獲支 朝倉市三奈木
三輪   旧三輪町(現・筑前町)
孝霊・黒田 高良

「山城」
阿志岐山城の神籠石
太宰府

などに比定されます。

633 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 01:05:09.70 .net
崇神の本拠がどこかはぼかすとしても、
越=倭種・拘奴國=赤坂今井墳墓女王の四隅突出型墳丘墓国家
を、3世紀近辺で滅ぼしていることから、
次の男王の有力候補であることは各説で共通するところですね。

そうなると、コアな九州説においては、
男王が内乱で戦った相手というのは、
彌馬獲支 朝倉市三奈木
に対して、
吾田媛=末蘆國の姫が、末蘆國→大阪(佐賀市)→西から
(奴国の夫)→山城(筑紫野)→北から
挟撃を狙って攻め込んだ、ということになります。

吾田媛の側としては軍事的に理に適っていますね。

634 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 01:10:07.96 .net
(奴国の夫)については、
奴国から高地の筑紫野を攻め上がって落とすのは地理的に困難ですから、
コアな九州説における、神武や倭猛のように、
まずは遠賀川を遡上して、東から太陽を背にして、
阿志岐山城の神籠石の唯一の弱点から攻め落とし、
それから筑後平野に攻め下った可能性が高いですね。

ということは、豊国を味方につけていたことになります。

考古学的な情報がない時点では、
吾田→大阪→は特定される可能性が低いので書けますが、
奴国(葦原中国)→山城→は葦原中国が問題となるので書けませんね。

635 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 01:16:05.97 .net
よって、
これまでの時点でも、
難升米以外の、親卑弥呼側の夫婦&親卑弥呼の倭種・拘奴國が、
次の男王(おそらく崇神)に、滅ぼされたのだろう、
ということは推測されていたのですが、

・卑彌呼の前任地が、女王國=奴國不彌國(+α)
・卑弥呼の弟が卑弥呼の国政を補佐していた
という情報が加えられたことによって、
卑弥呼の弟と、その出身国が、崇神に滅ぼされたのだろう、
という可能性が高まって、

武埴安彦命が、卑弥呼の弟
倭迹迹姫命が、卑弥呼なのではなかろうか。

倭迹迹日百襲姫命は、「当時の」大物主の妻で、
夫が狗奴国王。
むしろ卑弥呼とは対立した男王側の巫女女性だったのであろう。
ということになりますね。

636 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 01:22:33.54 .net
倭迹迹姫命の父は天孫族として、
母方は、男系はウマシマジですが、
女系を辿っていくと、欝色謎命〜川枯彦命など、三代に渡って近江の三上氏から、
物部氏に嫁いでいたそうですから、
稲部遺跡などにも繋がってきます。

どちらかというと、日本海側に縁が深く、
青龍三年銘の方格規矩鏡〜方形墓などが繋がっていく感じでしょうか。

637 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 08:32:02.67 .net
もう無茶苦茶で突っ込む気すら起こらない。

638 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 08:56:22.49 .net
大王 アマテラス 筑紫の日本=高天原=早良平野(吉武高木遺跡)

倭王=将軍=幕府 倭の奴國王、筑紫の日向、卑弥呼、など
半島権益重視派 北征将軍 ツクヨミ 大率(率善)
列島開発重視派 東征将軍 スサノオ 大倭

半島側にも大王の血筋が直接支配者あるいは王家同士の縁組で渡っていた。
倭が優勢の間はよかったが、
新羅が唐と組んで力関係が逆転してしまった。

よって、「7世紀の時点」では新羅が北部九州を制圧すると、
倭王を宣言される危険性があり、
神器と共に東遷して、大率系の由緒を消去する必要があった。

「10世紀に新羅が滅亡」したので、危険性は無くなったが。

639 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 09:02:26.42 .net
日本列島を開発する分には、倭が文化的にも軍事的にも圧倒的なので
アマテラスを頂点とする権力機構が絶対的だったが、

半島側に進出するには、それなりに発展した異民族が相手だし、
どうしても楽浪郡を介した中国帝国との外交関係も必要だから、
金印銀印を入手せざるを得なかったのだな。

鉄器をもたない相手と、
鉄器を持つ相手、との差だな。

640 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 13:39:36.84 .net
>>638
>よって、「7世紀の時点」では新羅が北部九州を制圧すると、
>倭王を宣言される危険性があり、

この視点は新鮮だな。
筑紫倭国の後嗣候補は半島勢力でも畿内(近江)勢力でも対等だったかもな。

641 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 13:43:46.35 .net
吉武遺跡の調査結果を受けて、何度も言われていることだが、
大王は木棺墓。
甕棺墓は戦士階級。

だから三雲井原遺跡の甕棺墓倭王は、戦士階級であり、
丁度後世における将軍が、幕府を開いたのと同じだったと考えれば説明がつく。
実権は甕棺墓倭王が持っているが、
権威上の頂点は、伊都国王=日本国王のままであり、木棺墓だったのだろう。

甕棺墓の戦士階級が存在しえたのは、
青銅製武器が主体=錫がネックで大量生産できない=限られた戦士のみが戦力となる
時代だったからであり、

朝鮮半島からの鉄原料入手ルートが安定して、
鉄製武器を大量生産できるようになると、人数=戦力となり、
甕棺墓の戦士階級の存在意義が無くなっていった。

北部九州における鉄器の増加に続いて、甕棺墓が消えていくことになる。

642 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 13:43:49.95 .net
甕棺墓消失の契機になったのが、倭国乱。

各地の有力者(各地方国の王)が、争った場合、
単純に軍事力の勝負になる。
強ければ勝ち。
弱ければ負けて「滅亡」。

となると、人数を揃えて鉄製武器を持たせることが勝利への必須条件。
逆に言えば、伝統的な甕棺墓戦士階級に忖度して、少数部隊しか持たないと敗北して滅亡してしまう。

だから、倭国乱の間に、九州各地の王は争って軍備改革をして、
甕棺墓戦士制度を廃止して、
鉄製武器装備の大人数軍隊へと切り替えていったことになる。

戦国時代の戦国大名と同じだし、
鎖国が終了して世界を相手にしなければならなくなった明治維新時の日本における、
武士階級の廃止(断髪廃刀令)と、近代型軍隊の整備、とも同じこと。

643 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 13:51:12.94 .net
金印は半島に対してというより、同じ倭人同士の勢力争いに勝ち抜くためだろう。
半島は魏が直接経営に乗り出していたし。
狗奴国との争いで有利に立つには、倭国王家の正統であることを内外に認めさせる必要があった、
狗奴国の卑弥弓呼と邪馬壹国の卑弥呼の名が似ていることからも、本来は同族なのだろう。
肥後狗奴国と同族なら卑弥呼も肥国出身の女王と推察される。
肥前川上の與止日女、筑紫の梟師神夏磯姫、筑後(高良)筑豊(香春)の田油津姫まで続く女王國の系譜も見えてくる。
邪馬壹国とは、筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた領域だ。
後漢代の筑前と対馬海峡だけの倭国と比べるとこれでもかなり領域は拡大している。

644 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 13:59:47.82 .net
>>641
>実権は甕棺墓倭王が持っているが、
>権威上の頂点は、伊都国王=日本国王のままであり、木棺墓だったのだろう。

三雲井原の王たちが真に王であったことは三種の神器で明らかだし、そこは伊都國そのものだ。
ただしその他に九州北部に王家がなかったのかといえば、早良から志賀島に繋がる王家があったはず。
これが記紀などでしばしば登場する大山祇と綿津見の王家だろう。
豊国王家と呼んでも良い。
記紀でも天孫族と婚姻を結ぶ氏族として知られるから、女系相続も強かった古代においては有力な家系であったはず。
記紀は天孫族の歴史だが、ある時期において大山祇一族が倭国の代表だったのだろう。
ただ、三雲に邇邇芸が降臨すると、その伊都国王統が実権を掌握したのだろう。
アマテラスは記紀によると武力で政権をもぎ取っているので、戦士階級だったのかもしれないけとね。

645 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 14:20:24.07 .net
>>644
そうですな。
現代で例えると、
紀元前の吉武遺跡の頃は、EUのようなもので、
各国に王がいて、その最有力者である吉武高木王をトップとする、寄り合い所帯。

紀元後に三雲井原遺跡の頃は、アメリカ合衆国のようなもので、
各国に王がいて、それぞれの国を保有しているが、
最高権力者が、三雲井原遺跡の倭王で、倭王は北部九州倭国全体の王ではあるが、
自らの固有の国というものは持たない、あるいは首都である糸島平野の伊都千戸のみ。

646 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 14:52:27.06 .net
>>627
となると、246年に馬韓での戦争が終了して、
247年(正始八年)に、難升米がまだ生きていますから、
246年の倭国の率善中郎將・伊聲耆掖邪狗による馬韓での軍事活動は勝利で終わり、
馬韓での軍事活動終了時点では、難升米はまだ健在だったわけですね。

北へ軍隊を向けたので、北部九州本国の防備が手薄になり、
南の狗奴國が軍事活動を活発化させてきた。

『倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
 遣倭載斯烏越等詣郡 說相攻擊狀』

難升米からすれば、馬韓戦で協力してあげたんだから、
今度は狗奴國戦に魏の援軍を送ってくれよ、ということでしょう。

『遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黃幢』
しかし魏がよこした援軍は、張政ら数人と、黃幢、詔書、で檄を飛ばされただけだった。

>>629
難升米は狗奴國との戦いに黃幢を立てて出陣し、討ち死にした、ということになります。

647 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 14:52:47.87 .net
247年に張政らが来倭してみると、
『卑彌呼以死』
卑彌呼は既に死去していました。

狗奴國と戦争中だというのに、
難升米は討ち死にするし、卑彌呼は死去するし、
邪馬壹國は滅亡の危機の筈ですね。

『更立男王 國中不服 更相誅殺當時殺千餘人』
その危機のさ中に、次の男王が立ったのに、内乱が発生しています。

ここが妙な点です。
狗奴國との戦争はどうなったのか?

648 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 14:53:41.62 .net
狗奴國との顛末が出てこないまま記述は進んでいきます。

『復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
 政等 以檄告喻壹與
 壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺
 獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹』

13歳の壹與が女性として擁立され、邪馬壹國の国内が落ち着きます。
狗奴國と戦争しているのなら、男王を中心にまとまるべきだし、まとまる筈であって、
13歳の少女をトップに担ぐなんてありえない選択ですよね?

国内が落ち着いた後に、張政は壹與に檄を飛ばします。
狗奴國と戦うんでしょうか?
檄を飛ばしたのに、張政は伊聲耆掖邪狗に送られて帰国していますね。

ちなみに伊聲耆掖邪狗が馬韓の魏率善でしょうから、
月支國あるいは不彌國などを拠点として帯方郡に近接した活動領域を持っていたことになりますね。

649 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:30:02.16 .net
一方で、次の男王を崇神と仮定した場合です。

>>635
から、卑彌呼の候補は倭迹迹姫命となり、弟と共に、
卑彌呼の前任地である、女王國=奴國不彌國(+α)を主要拠点として、
東の日本海沿岸の倭種・拘奴國や近江を同盟国として、
伊都から全体を支配する、政権だったことになります。

一方の男王は、彌馬獲支で、
筑前町(旧三輪町)〜筑後高良を拠点としていたことになりますね。

大きく分けると、
卑弥呼派は、大率(率善)で、日本海沿岸に影響力がある。
男王派は、大倭で、筑後〜瀬戸内に影響力がある。

大物主というのは、大倭の長官の官名と考えられ、
その妻が倭迹迹日百襲姫命。
彼女が見た小さい蛇とは漢委奴國王金印の蛇鈕であり、
夫の大物主が、奴国王の子孫で、狗奴國を立ち上げたことになります。

650 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:31:02.02 .net
過去スレで検討しましたが、
魏志倭人伝に記載されていない金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の存在から、
狗奴國王が、一時期は対馬海峡を制圧して中国と独自に外交していたことになります。

難升米の父(伊邪國を中心とする奴族系長崎水軍)と同盟して、
筑後(大倭)→佐賀(大坂=邪馬嘉國)→唐津(末蘆國)→対馬海峡と占領したのですね。

216年頃に魏王曹操から鉄鏡を貰って、
220年頃から狗奴國王と難升米との仲が悪くなり、その後難升米は卑彌呼側に寝返ります。

狗奴國王の動きに妻も同行します。
筑後→肥前川上(狗奴國の最盛期)→(卑彌呼女王共立でまとまった邪馬壹國に押され始める)
→筑後→肥後
となりますね。

651 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:31:58.98 .net
ここで、男王・彌馬獲支の立場にたって、
>>647を考えます。

247年に難升米も卑彌呼も死去して、卑彌呼の後継者争いとなった。

>>633
卑彌呼の弟夫婦が、西と北から挟撃してくる。
南の狗奴國とは戦争中。
絶体絶命ですね。

しかし、起死回生の一手があったのですね。
叔母である倭迹迹日百襲姫命に頼み込んで仲介してもらい、
大物主=狗奴國王と、同盟を結んだのですね。

夢の中でのやり取りが、外交交渉で、
勝利後の利権の割合を交渉した、ということですね。

狗奴國との同盟軍によって、後顧の憂いなく弟夫婦を破り、
そのまま進軍して親卑弥呼の拘奴國も滅ぼした。

これまで上手く独立してきた豊國も、情勢に恐れをなして男王の元に恭順した、ということでしょう。

652 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:32:51.44 .net
これにて九州全土が男王の支配下に入ったことになり、
九州倭國全土を史上初めて統治下においた日本国=伊都國王直系の大王、
ということになりますね。

壹與についてはまだ考察する必要がありますが、
伊聲耆掖邪狗など率善系の有力者がまだ多数おり、
彼らと戦うよりも交渉によって、形式上の女王を置く妥協案を結んだのでしょう。

濊を従え、韓を滅ぼした魏は、高句麗との戦いを開始しています。
狗奴國と同盟して、後顧の憂いなく九州を統一した男王勢力に、
厚かましくも対高句麗戦の出兵を促したのが、壹與への檄だったのでしょう。

やんわりと拒否して、張政さんは丁重にお帰りいただいた、
のですね。

653 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:36:47.86 .net
この場合、祇園山古墳というのが、
伊都國の地を出て大倭を支配下に治めた時期の、
伊都國王家の王墓ですね。

狗奴國王との仲介をした妻は、
彌馬獲支を救った救世主であり、
だから東に大きなメモリアル古墳を後に造って称えて感謝した。

654 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 15:47:33.71 .net
倭迹迹日百襲姫命は、
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡を直接その手に取って触れたでしょうし、
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の鏡面には、倭迹迹日百襲姫命のお顔が映ったことがある、
ということにもなりますね。

655 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 18:47:13.24 .net
>>653
>この場合、祇園山古墳というのが、
>伊都國王家の王墓ですね。

違うと思います。
伊都国王家は甕棺だからです。
倭国=筑紫と肥国、さらには志賀島を中心とする豊国
ならば、卑弥呼の死去により狗奴国の分離騒動が解消した倭国の中心となるべきはどこか。
祇園山なら申し分ない。
おそらくは壹與(またはその後継)の墓でしょうね。
伊都国の天孫族系が筑紫を奪還するのは神功皇后を待たなければいけないのかもしれません。

656 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 18:51:26.93 .net
>>654

モモソ姫は畿内の姫なので、この時点では九州に関わることはできなかった。
継体天皇の時代ですら、畿内政権と筑紫倭国は実力が伯仲していて、継体天皇は屯倉一つしか手に入れることはできませんでした。
鏡の持ち主は、邪馬台国系の九州の女王の誰かでしょう。
ただ、内乱に明け暮れた倭国にとって、漢滅亡後の大陸国家の影響は小さかったのでしょう。
神夏磯姫は八咫の鏡を持っていたそうなので、正統の証にはそれで十分ですからね。

657 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 19:39:29.86 .net
>>655
本来の伊都國王家、つまり糸島平野に遷都する前の、
早良平野の吉武高木遺跡王家の大王は、木棺墓ですよ。
そこから考察を始めるべきです。

木棺墓石棺墓、というのがもともとあったところに、
甕棺墓という特異な戦士階級が数百年だけ存在した。

限られた青銅器戦士階級が武力で支配して、幕府を開いた時期は甕棺墓を続けていたが、
鉄器の普及によって戦士階級が消滅したので、木棺墓石棺墓の王に「戻って」王墓を形成した。

つまり、
武家の頂点である将軍、=戦士階級=甕棺墓、から元に戻って、
権威の頂点である、大王、=高木の神=殿上人=木棺墓石棺墓、になったわけです。


>>656
嘘は大きいほど信じられやすい。

そもそも、天孫族が移住したとしたら、
どれくらいの生活レベルが維持されるべきかを考えてみてください。
それが畿内にあったかどうか。

九州説のあなたなら実感としてわかりますよね?

658 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 19:46:01.15 .net
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

659 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 20:41:39.36 .net
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

660 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 21:05:50.03 .net
>>657
>早良平野の吉武高木遺跡王家の大王は、木棺墓ですよ。

ふむふむ
だったらなおさら、祇園山を甕棺の伊都国王統にはできないはず

>鉄器の普及によって戦士階級が消滅したので、木棺墓石棺墓の王に「戻って」王墓を形成した。

記紀でも天孫族の支配は三代で終わってしまうし、矛盾しないですね

>そもそも、天孫族が移住したとしたら、
>どれくらいの生活レベルが維持されるべきかを考えてみてください。

多分、維持できない
だから神武は都落ちだったんでしょう
欠史九代に事績がないのは、架空だったからではなく落武者が隠れ住んでいるようなものだったからでしょう。

661 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 21:14:23.40 .net
落ち武者のほうが規模がでかい場合はどうなるんだろうか。
あと昔の人はあんまり自分の本拠地とか所属名を他人に明らかにしない文化があった可能性もあるな。

662 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 21:23:26.08 .net
繁栄した博多を捨てて逃げ出した一族が豊かなわけがない。
考古学的にも大和は貧しく、鉄器を持てない貧しい地域だった。
しかし貧しくても我こそは天神の子である(天照の末裔)と名乗り、それを畿内の支配者であった同じ天孫族の饒速日に認められ、大和に住めることになった、と記紀にある。

663 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 21:28:43.11 .net
畝傍山方面に辰砂・水銀・銅鉱床の露頭があったような
中央構造線の延長で

664 :日本@名無史さん:2021/12/04(土) 21:30:11.68 .net
饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」
神武「ありがたい」

饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制だと考えられている。

665 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 08:44:26.90 .net
東の拘奴國は、
考古学的に見ても鉄器やガラス装飾品など豊富な出土物を誇っていますし、
卑彌呼の重要な同盟国であったにも関わらず、
次の男王によって魏代に滅ぼされたので、
後漢書には載っているのに、魏志倭人伝には記載されなかった。

南の狗奴國は、所詮ははるか辺境の島国の、しかも邪馬壹國と敵対する国に過ぎないのに、
後漢書には載っておらず、魏志倭人伝に記載されている。

ということは、
@狗奴國が成立したのは216年からそう遡らない時期であって、
倭国乱で伊都系の王達の領土が荒廃したのを見計らって、奴族の大倭長官が建国したのでしょう。
A狗奴国は魏代に滅亡しなかった。
ということになりますね。

男王の支配下に入ったか、あるいは独立性を保ったか。
最終的には景行によって滅ぼされたことになります。

666 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 08:45:52.43 .net
画紋帯神獣鏡は呉系の鏡ですから、
216年から220年頃に、狗奴國王が公孫氏とも外交して、
公孫氏経由で手に入れたのでしょうね。(是後倭韓遂屬帶方)
九州では狗奴國があった南部から多く出土します。

そうなると、中国朱が副葬されていた萩原墳墓群の謎が解けます。
狗奴國系の支配官だったのですね。
もともと大倭の長官だから、瀬戸内に強く、
狗奴國の絶頂期に、
公孫氏→対馬海峡→末蘆國→大坂(佐賀)→筑後→瀬戸内
という経路で、画紋帯神獣鏡と中国朱を運べたわけです。

奴族系なので、四隅突出と同じ積み石墓ですが、母系集団が違うので微妙な差がある、ということですね。

667 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 08:50:56.20 .net
一方の△さんは、
古いものは島根の神原神社古墳から出ていますから、
司馬懿が遼東を占領した後に、遼東にいた鏡師を、
盟友の難升米へ贈ったことから発祥したのでしょうね。

難升米が卑彌呼と同時期に死去したことから、
難升米の一族は、卑彌呼後の後継者争いの蚊帳の外にあり、
勝者である男王の配下にすんなり収まった。
もともと翡翠勾玉や腕輪などアクセサリー系に強かった八岐大蛇の末裔ですから、
収入を稼ぐ一つの手段として、意匠を凝らした銅鏡を作ったのでしょう。

668 :日本@名無史さん:2021/12/05(日) 09:07:08.40 .net
画紋帯神獣鏡については、
247年(正始八年)までは、邪馬壹國と敵対する狗奴國のものとして動き、
247年以降は、邪馬壹國の男王の味方のものとして動くことになりますね。

あとは景行遠征の時期も敵対するものですね。
その後はよくわかりません。

669 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 08:45:36.21 .net
狗奴国が邪馬台国に滅ぼされたのなら、狗奴国所有の紀年銘鏡が残るわけがない
紀年銘鏡が出土した土地はすべて邪馬台国の支配下

670 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 09:19:38.53 .net
【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ) NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』

www.youtube.com/watch?v=nUY92z3p5Es

671 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 11:21:14.29 .net
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ

672 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 23:00:43.59 .net
>>650
彌馬獲支は最初は磯城(コアな九州説だと阿志岐山城の神籠石)から
伊都国王(筑紫の日ノ本=吉武高木大王の系譜)のキャリアをスタートします。

戦乱の末に当時の大物主→狗奴国王が筑後を占拠していたからですね。

216年の光景としては、
対馬海峡〜末蘆國〜佐賀(大坂)〜筑後(大倭)〜瀬戸内
を狗奴国に占領されており、
邪馬壹國にとっては、背振山地を挟んで、
西はまさに伊都高祖宮が最前線。
東は磯城=阿志岐山城の神籠石が最前線で、緊迫した睨み合いをしていたわけですね。

糸島に免田式土器が出土していますから、
高祖宮に詰めた邪馬壹國兵が高所から見下ろす糸島平野には、
狗奴國兵が行き来していた時期もあったわけですね。

この状況だと、女王國=奴國不彌國(+α)が、北部九州における邪馬壹國の最大国邑であり、
最期の拠点となりますね。

そのままずるずると狗奴国に統一されるわけにはいきませんから、
彌馬獲支も同族の卑彌呼を支持して、幕府の設立を容認したわけですね。

673 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 23:02:21.30 .net
>>634
>ということは、豊国を味方につけていたことになります。

文献を精読すると、
・卑彌呼弟を迎撃したのはワニ
 →ワニ豊国は100%卑彌呼弟を支持していない
・卑彌呼弟が交戦したのは、山城国を越えての纏向三輪(旧三輪町)や彌馬獲支(朝倉市三奈木)ではなく、
 山城国で戦ったようだ
 →無謀にも、阿志岐山城の神籠石(高所)を奴國(低所)からまともに攻め落とそうとした

卑彌呼弟夫婦が出陣したけれども、
警戒網に探知されて、早期迎撃されたわけですね。

また、卑彌呼弟にとって可哀想なことではありますが、
卑彌呼の次の指導者は彌馬獲支だなと皆が思っていて、
豊国のワニ族も阿志岐山城の神籠石へ軍を移動させたことになります。

卑彌呼弟は、奴國から出陣して、筑紫野市への坂道を進軍している間に、
彌馬獲支側の軍と交戦に入った。

低所から弓を射かけても届かず、
高所から弓を射られて討ち取られ、
あとは地勢のままに散々に打ち破られた、ということですね。

674 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 23:03:17.12 .net
魏と邪馬壹國の損得勘定をしてみます。

最初は、
魏が兵糧切れで撤退して下手すると滅亡しかねない絶体絶命の危機に、倭の難升米が兵糧を届けた、ですね。
その見返りが、東夷世界唯一の親魏倭王「金印」授与。「銀印」も複数授与。

次が、
魏が濊を降伏させ、次の韓に対して劣勢になって半島権益を失いそうな危機に、
倭の大夫であり魏の率善中郎將である、伊聲耆掖邪狗が出陣して、韓を滅亡させた。
その見返りが、伊聲耆掖邪狗の馬韓領土を「魏の率善」として公認する。

一見すると、お互いに利用し合って、それなりに得をしているように見えます。

675 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 23:05:46.37 .net
では、司馬懿(勝利を重ねて晋建国の祖となった)と、難升米(漢委奴國王の子孫)ではどうでしょうか。

最初は、
魏が兵糧切れで撤退して下手すると滅亡しかねない絶体絶命の危機に、倭の難升米が兵糧を届けた。
連夜親しく語らい、広志逸文にその痕跡が残っている。
漢と漢の交わり。
その見返りが、銀印授与。

次に、
魏が濊を降伏させ、次の韓に対して劣勢になって半島権益を失いそうな危機に、
邪馬壹國も狗奴國相手に情勢が厳しい中、
伊聲耆掖邪狗を出陣させて、韓を滅亡させた。

お返しは、狗奴國相手の難升米一世一代の晴れ舞台の大決戦に、
魏は張政ら数人しか送らず、
難升米は討ち死に。

さらに、彌馬獲支と狗奴國が同盟して、
親魏の卑彌呼弟夫婦も討ち死に。

わずかに残った、率善中郎將・伊聲耆掖邪狗に見送ってもらって、
張政らは帰国。

最低ですよね。

676 :日本@名無史さん:2021/12/06(月) 23:07:43.62 .net
司馬懿は有能な将軍でしたが、近しい時代の史家からの批判も多く、
公孫氏の遼東攻略戦では、勝利後に15歳以上の男子を皆殺しにしたことから、
そのような人倫にもとる行いをしていては、
司馬懿の一族が建国した晋は報いを受けるだろうと言われ、その通りになりました。

同じように、
窮地を救ってくれた難升米。
しかも韓との戦いで友誼に応えて援軍を送ってくれた難升米。
に対して、
狗奴國との戦いで援軍を送らず見殺しにし、
親魏倭王の卑彌呼弟夫婦も失ってしまった。

ということの詳細を、
司馬懿一族の「晋」の陳寿さんが詳述できるわけもなく、
いろいろ忖度しながら記載したのが、魏志倭人伝ということですね。

張政が全力で煽りまくってわずか13歳で擁立させた壹與の立場については、
日本側の記述のほうが信頼性がありそうですね。

677 :日本@名無史さん:2021/12/13(月) 02:09:45.30 .net
『狥葬者奴婢百餘人』
妙な話ですね。
卑彌呼に仕えていたのは、婢千人と男子一人のはず。
あの世で卑彌呼にお仕えするのが目的なら、『婢百餘人』のはずですね。

奴婢百餘人が、奴一人+婢百餘人なのかもしれませんが。
その場合は、卑彌呼に仕えていた者の説明も、婢千人と奴一人という記載になっていたはずですね。

あと、奴婢とあるので、重臣や卑彌呼弟の殉死は無かったことになります。

『卑彌呼以死 大作冢徑百餘步 狥葬者奴婢百餘人』
の奴婢、特に奴については、大作冢徑百餘步を作るのに従事した人夫であり、
卑彌呼の死亡情報をしばらく秘匿しておく(狗奴國と戦争中にて)、
あるいは
墓の位置や棺の埋葬位置、副葬品などについての情報を口封じするために、
狥葬させられたのではないか、ということになりますね。

となると、卑彌呼の冢というものは、せいぜい数十人の人夫で作れる程度の大きさ、
ということになります。

678 :日本@名無史さん:2021/12/13(月) 19:35:50.52 .net
たしかに。
卑弥呼の言葉を伝える男子一人が奴婢ということはなかろう。
守衛についても女王の守衛だから近衛兵であり、卑弥呼を護るしかるべき家柄のサムライ。

墓作り労働者の口封じが目的なら一部だけを抹殺しても意味がなく、
全員殉死させることになるから、必然的に卑弥呼の冢を作った労働者はMAX百人となる。
婢は死後の卑弥呼のお世話役であろうから、それなりの数はいたろう。
実質的には奴は数十人だな。
平原遺跡でよかろう。

679 :日本@名無史さん:2021/12/16(木) 22:42:07.84 .net
1.平原遺跡の1号墓の周濠から出土した土器が2世紀
2.平原遺跡の1号墓の周濠の土壙墓から出土した土器が3世紀
3.平原遺跡の2号墓の南から出土した土器が3世紀(庄内移行期)

科学的考察
1. 平原遺跡1号墓は、2世紀以降の築造
2. 土壙墓を殉葬墓とするなら、平原遺跡1号墓は3世紀以降の築造
3. 平原遺跡1号墓と2号墓は周濠を共有しており、同時代と考えられることから、2号墓も1号墓も3世紀以降の築造

反対説の意味不明な反論
2. 土壙墓だから殉葬じゃない ?奴婢の殉葬なら土壙墓が妥当なのでは?
3. 2号墓の南の土器はコンタミ ?都合が悪いとなんでもコンタミ?
1. 周濠から2世紀の土器が出たから1号墓は2世紀 ?ちゃんと考古学やってますか?

<卑弥呼の墓として矛盾しない>
平原遺跡は最古の2世紀5号墓以来の卑弥呼親族の墓域であり、
特に2世紀卑弥呼が女王となってからは、人払いがなされ、清められて、
生活土器などが持ち込まれることはなくなった。
奴婢の殉葬なら土壙墓が妥当であり、3世紀に1号墓卑弥呼が埋葬された直後に、
土壙墓に死後の卑弥呼の世話役として侍る婢、
そして未検出のもう少し離れた土壙墓に口封じのため殉葬させられた奴、
が埋葬された。
2号墓は卑弥呼死去の数年後に死去した男子一人が埋葬された。

680 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 19:54:11.19 .net
【平原遺跡の年代について】

・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。

結論
平原遺跡は倭国大乱より後の3世紀中頃、卑弥呼の没年の前後に作られた王墓であろう。
副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
副葬品は宝飾品に五尺刀を一振りだけ加えて三種の神器の様式を整えてあったことから倭王であったと考えられ、年代も合わせて考えると倭王卑弥呼の墓である可能性が高い。

681 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 20:52:12.88 .net
【HTLV-1(ヒトT細胞白血病ウイルス-I型)】

感染経路
母子感染:母乳を介した感染:母→子 これがほとんど
性交渉:ほぼ夫→妻 ごく稀に

ATL(成人T細胞白血病):発症率4%、発症は40歳以上
HAM(HTLV-1関連脊髄症)
HU(HTLV-1関連ぶどう膜炎)

HAM
発症率0.3%、発症平均年齢40歳だが、若年発症もあり
下半身不随
排尿排便障害

HU
発症率HAMと同等、発症平均年齢50歳だが、若年発症もあり
視力低下


感染力の低いウイルス
母系感染(母→子)
弥生時代だと、低確率で中年期に白血病を発症して死去
ごく低確率で、下半身不随、あるいは視力低下

682 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 20:52:37.72 .net
【HTLV-1の世界分布】
・南西諸島〜九州 縄文人
・アフリカ→カリブ海地域(大航海時代の黒人貿易)
・イラン
・アボリジニ〜ニューギニア
・南米 (←縄文人?)

遺伝子解析によって、大陸のHTLV-1から、HTLV-1が日本列島にやってきたのが、
1万数千年前。
南方あるいは中国南部から縄文人がHTLV-1と共にやってきて日本列島全域に分布。

南米のHTLV-1は九州のものと同系。
エクアドルにて縄文土器の発展途中からの系列のものが出土しており、
7500年前の鬼界島カルデラ破局噴火にて命からがら逃げだした南部九州集団が漂流し、
奇跡的に南米に辿り着いた。

683 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 20:54:43.45 .net
【HTLV-1の日本分布】
<明治維新以前>
九州 僻地に多い傾向

琵琶湖 〇〇島にクラスター
紀伊 クラスター
土佐 クラスター

北海道東北

<明治維新以降>
廃藩置県による人口の都市圏移動にて大都市圏に認められるようになるが、
もともと感染力が弱いのと、
妊娠時検査と陽性者の授乳制限にて、
いずれ日本からは消滅するものと思われる。

684 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 22:30:23.07 .net
考古学的成果と、文献との照合からの、あくまでも仮説。
以下は全て、仮想世界の話として考察しますね。

北部九州説の伊都説では、
三雲南小路1号2号墓=ニニギとコノハナサクヤ
平原1号墓=卑弥呼
という定点があるわけですね。
そこから過去スレにて考察していくと、以下のようになりました。

吾田 末蘆國
 笠沙岬 柏崎遺跡

筑紫の日向 糸島平野(新伊都=日程の伊都)
 吾平坂 井原遺跡
 吾平津 潤地頭給遺跡

筑紫の日本 早良平野
 高天原 吉武高木遺跡(旧伊都=里程の伊都)
 天安川 室見川

葦原那珂津国 那珂比恵遺跡〜須玖遺跡群(弥生銀座)

古代出雲 宗像市〜遠賀川
古代伯耆 遠賀川〜北九州市
 比婆山 山鹿貝塚
 稲場 鐘崎

越 関門海峡を越えた、弥生時代の本州日本海沿岸
 沼河 土井ケ浜遺跡

685 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 22:31:16.37 .net
その後の経緯とHTLV-1の感染状況とを比較検討してみましょう。

基本的なルールとしては、HTLV-1は母系感染ですから、
九州のHTLV-1集団がいたとして、
男のみ、つまり軍人のみが九州外に侵略した場合は、侵略先にHTLV-1はほぼ残りませんね。

九州のHTLV-1集団がいたとして、
女性も含めた多集団の一族で移住した場合のみ、HTLV-1が残る。

九州にHTLV-1を持たない集団がいたとして、
それが九州外に侵略や移住した場合も、HTLV-1は残りません。

686 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 22:31:42.36 .net
弥生時代の開始時期に、遠賀式土器が全国に拡散して、
それと同期して、稲作も全国に伝播していきます。
ここでいきなりHTLV-1の分布がはっきりと関係してきますね。

稲作は、北部九州から、東北より南に普及した。
HTLV-1は、本州では東北より北のみに残った。

つまり、北部九州から稲作技術を持って植民していった遠賀式土器集団は、
縄文人が使っていなかった稲作適地を見つけては植民しつつ北上し、
稲の育たない東北の手前まで制圧した。

HTLV-1が九州のみに残ったのであればまだしも、
東北以北に残ってしまっているので、
もともと日本列島全域にあったHTLV-1が、本州から駆逐された可能性が高くなります。

ということはすなわち、男性だけでなく、女性すらも、
本州の縄文人は、縄文土器の消滅と同じく、
東北を除いて、徹底的に駆逐されたことになります。

687 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 22:32:18.18 .net
我々日本人には、縄文人のDNAが半分は残っているそうですが、
HTLV-1が九州と東北以北に分断されて残っているということは、
その残っている縄文人のDNAというのは、
北部九州にいた、HTLV-1に感染していない集団。

つまり高確率で、HTLV-1に感染していない、渡来系の稲作集団が、
まずは北部九州で稲作を元に勢力を増やし、
次いで、遠賀川流域から、日本列島全域の、東北より南の、稲作可能地域へ拡散して、
在地のHTLV-1縄文集団を根絶やしにして置き換わっていったのだろう、
という可能性が高くなります。

688 :日本@名無史さん:2021/12/17(金) 23:29:15.99 .net
古代豊国の八雷神のうち、2代勢力が、
古代出雲 宗像市〜遠賀川 西のワニ
古代伯耆 遠賀川〜北九州市 東の火雷=カモ

ワニ女王の伊邪那美(伊耶那美)は、
対馬海峡〜末蘆國の王である、伊邪那岐(伊耶那岐)と婚姻を結んで、
能古島に軍勢を集結させ、北部九州を統一します。

先に亡くなった伊邪那美を忘れられずに、
伊邪那美の故郷の豊国を訪ねた
伊邪那岐は、骨取り神事を目撃します。

八雷神がそれぞれ受け持ちの部位を決めておき、
共立女王の墓を掘り返す。

最も腐敗が進んでいる部位=最も早く来世へ転生している部位
=次代の共立女王がその部族の女性に転生する

縄文人と祖を同じくする、チベット族のラマ決定の神事にも通じる神事ですね。
山鹿貝塚女王の骨取りにその考古学的傍証が残っています。

689 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:02:50.81 .net
日本人としては、縄文人を応援したいところですが、
やはり、HTLV-1がネックになり、
渡来系の「王」一族が、遠賀式土器集団となった可能性が高いと思わざるを得ませんね。

縄文土器、土偶、全て消失して、
稲作が普及していますから。

鬼界カルデラによる破局噴火の破壊力はそれだけ凄まじく、
九州一帯は火山灰に厚く覆われ、
数千年に渡って、毎年梅雨〜台風シーズンには大規模な土石流が発生する世界と化し、
その後に、植生が次第に復活して、肥沃な大地として蘇っていった。

稲作文化を携えてその土地を再開発し、
さらに東方へと展開したのは、HTLV-1保有の縄文集団ではなかった、
ということになります。

また、紀元前の丹後半島扇谷遺跡についても、
朝鮮半島から鉄原料を輸入し、
九州から離れた丹後半島に鉄工房を建設して、現地の木材を燃料とし、
完成品の鉄器を九州へと輸送する、(九州本国の森林環境を保全する)
というのは、既に鉄器生産を熟知した指導層のなせる国家経営戦略であり、
同時期の史書における、徐福集団、の渡来も一つのキッカケとなったのではないか。

690 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:12:41.83 .net
>ワニ女王の伊邪那美(伊耶那美)は、
>対馬海峡〜末蘆國の王である、伊邪那岐(伊耶那岐)と婚姻を結んで、
>能古島に軍勢を集結させ、北部九州を統一します。
吉武高木大王=筑紫の日本の国王=アマテラスが誕生します。

東征将軍のスサノオ=宗像の田熊石畑遺跡将軍が、
越=日本海沿岸の先行覇者であった、沼河=土井ケ浜遺跡のヤマタノオロチ一族を制圧して、
丹後扇谷遺跡を建設します。
ヤマタノオロチの尾にあたる扇谷遺跡で製作された鉄剣が、草薙の剣ですね。

土井ケ浜遺跡の被葬者集団は渡来系であり、
中国山東省で出土した人骨と形質が似ており、
埋葬された頭蓋骨もその方角を向いている。

HTLV-1陰性の集団。

691 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:23:28.67 .net
その流れの中で、HTLV-1集団が登場します。
「鐘崎式土器」ですね。
古代伯耆 遠賀川〜北九州市 東の火雷=カモ、です。

吉武高木大王&田熊石畑遺跡将軍が日本海沿岸を支配下に収めた時代に、
「鉄器なし」で各地に入植した集団。

琵琶湖の多重環濠集落である下之郷遺跡
 現地人と激しく戦った跡が出土しており、銅剣も出土
紀伊の太田黒田遺跡
 鐘崎式土器 銅鐸
土佐の田村遺跡
 鐘崎式土器 銅鐸 銅剣

北部九州の中で、HTLV-1陰性の渡来集団に押されて、
九州の北東に押しやられていた集団。
対岸の越の渡来系ヤマタノオロチ集団に童女を差し出していた縄文集団。

三国志東夷伝東沃沮条
『國人嘗乘船捕魚 遭風見吹數十日 東得一島 上有人 言語不相曉 
 其俗常以七月取童女沈海』

しぶとく生きのびて、
紀元前1世紀頃にようやく頭角を現してきたわけですね。

692 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:34:07.77 .net
>>683
HTLV-1が九州と東北以北に押しやられた状況下で、
本州に点在するクラスター地域が、
カモ入植予想地域と一致します。

女性を伴って入植した。

過去スレで検討した、八上ヒメ=カモ平形銅剣女王の史実とも対応します。

八上ヒメは豊国の八雷神→8山津見のカモ系共立女王であり、
瀬戸内沿岸に高地性集落を整備して、木材と炭を大量生産して、
稲場=鐘崎に集荷し、伊都や奴国と取引して財をなした。

奴国弥生銀座の御曹司たちが、八上ヒメの資源に目をつけて求婚しに行った。
八上ヒメは末弟のオオナムチ=大・奴・貴=奴国奴族の貴族の末弟、に目をつけて、
将来は奴国を逆に支配しようと、結婚した。

渡来系のワニとは仲が悪く、沖ノ島祭祀をめぐって争っていた。
ウサギ=宇佐・爾支、は沖ノ島祭祀を司る古代神官or巫女であり、
岡垣町の世界最大の祭祀型銅剣の埋納儀式に立ち会った。

693 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:38:48.56 .net
カモ八上ヒメと婚姻したことで、兄達から目をつけられたオオナムチを、
カモ鐘崎式土器の、紀伊の太田黒田遺跡へ匿います。

それを探知した兄達が紀伊へ押しかけると、
木の俣=瀬戸内沿岸の高地性集落群を通して、
再度北部九州へ送り返し、
田熊石畑遺跡将軍スサノオの元へ預けますね。

そこで、若いオオナムチはワニ系の須勢理ヒメとできてしまい、
スサノオが義父となって、
最終的には東征将軍スサノオに就任して、幕府を開きます。

694 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:42:36.68 .net
オオナムチはワニ族に取り込まれ、
中広型銅矛を旗印として、
広形銅剣女王の八上ヒメと瀬戸内で戦争を起こし、
これを征服します。

降伏調印式が行われたのが、
荒神谷遺跡であり、加茂岩倉遺跡ですね。

カモ系の女性が、雀居遺跡の奴国王の元へ集められ、
その子孫が各地へ送り返され、優秀な混血系として、
各地の指導者となった。

695 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:50:37.73 .net
奴国王は、天神族ではないので、
アマテラスにはなれず、
権威の源泉を中国に求めて朝貢し、
女系ヤマタノオロチのタケミナカタが大夫として訪漢し、
「倭の奴國王」として、「漢委奴國王」金印の入手に成功します。

この時に、楽浪郡使によって金印にふさわしいか査定されたのが、
魏志倭人伝にも残る里程ですね。

倭人は里程を知らないはずなのに、
北部九州を越えて、四千餘里かなたの侏儒國まで測定されています。

元は八上ヒメが整備した瀬戸内木の俣の高地性集落群や、
淡路島の五斗長垣内遺跡、
そして人長三四尺=坑道の高さがまさに高さ0.7〜1.2メートル、の若杉山遺跡
(儒=背を低くして、侏=水銀朱を坑道掘りしている、侏儒國)
を査定して、
東夷ダントツの国家として、認定されたわけですね。

696 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 00:56:39.87 .net
57年金印が58年頃に来倭しますが、同時に疫病も持ち込まれます。
また、奴国王は金印を貰うために、自領である奴国の森林を乱伐採し、
洪水が頻発します。

59年頃から国譲りイベント開始。使者で+11年。
70年に奴国王失脚。

奴国王は、洪水被害の雀居遺跡から、
妻の実家の古代出雲=宗像に避難した先で、捕縛されます。

金印を管理するタケミナカタは、諏訪に逃げますが、
金印そのものは息子に持たせて長崎に秘匿。

それが巡り巡って、子孫の難升米父によって、
倭国乱時の大物主を擁立して狗奴国勃興へと繋がっていくわけですね。

697 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:05:00.98 .net
ワニと結んでいた大国主が失脚し、
カモが復権します。

カモ系女性の子が、
筑紫の日向倭王
筑紫の日本王&奴国王
豊国に、カモ系伊都岐島ヒメ

筑紫の日向倭王に、コノハナサクヤヒメ。
筑紫の日本王&奴国王に、伊都岐島ヒメ

大倭長官=大物主に、カモ系アジスキタカヒコネ

要職を占拠します。

698 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:10:16.41 .net
アジスキタカヒコネに縁があるのは、
土佐田村遺跡 鐘崎式土器
岐阜 銅鐸

カモが岐阜に至る経路は、日本海沿岸→琵琶湖→岐阜であり、
土佐も琵琶湖もカモの関係地。

また、同じカモ系のコノハナサクヤヒメも、
柏崎遺跡〜下関〜高島市に出土する、オルドス式銅剣で琵琶湖にかかわりがあります。

699 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:13:30.56 .net
よって、カモというのは、
九州においてなんとか持ちこたえたHTLV-1キャリアの縄文系集団であり、
それが家族ぐるみで入植した先が、
>>683
だったのではないか。

縄文系のカモは武力に劣り、
先に拡散した遠賀式土器集団を駆逐するほどの勢いはなく、
各地で先住稲作集団と交流していったので、それ以上はHTLV-1は拡散しなかったのではないか。

700 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:21:04.01 .net
>>697
祭祀型銅戈というのは、この時期のカモの旗印ですね。

祭祀型銅剣→祭祀型銅戈で、彼らは東征、
日本列島を指向していた。

一方の、ワニは祭祀型銅矛で、どちらかというと、
東にはカモがいますから、
北へ朝鮮半島を指向していた。

701 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:22:04.73 .net
トカラ列島の鬼界カルデラ破局噴火が出ましたが、
南海トラフ地震の津波はもっと頻度が高く、100〜150年おきに発生しますね。

田村遺跡。

カモの天下だったが、
豊国においてはワニ系ワダツミ(≒ワニ事代主)が失地回復していた。
海幸彦&ワニアジスキタカヒコネに一旦敗北した山幸彦は失脚して、
豊国へ逃れ、ワニと結んだ。

南海トラフ地震によって、アジスキタカヒコネ本拠の田村遺跡が甚大な被害を受けた。
(引き潮からの、大津波)

山幸彦&ワニが復権して、広型銅矛として、田村遺跡などを制圧します。

702 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 01:29:08.21 .net
続く倭国乱にての、
青銅器時代から、鉄器時代への移行。
それに伴う甕棺墓の消失については、上に書かれている通りでしょう。

倭国乱を経て、卑弥呼が共立されます。

文献を検討しましょう。

後漢書にて、卑彌呼は既に擁立され、
婢千人を侍らせて、男子一人が身の回りの世話をして、辭語を伝えています。

魏略にはその情報はありません。
書かれていないからといって、無かったとは断言できませんが。

703 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:16:12.42 .net
冗長になりましたが、
要するに、過去スレにおいて、神話と考古学出土物を対応させていった際の、
同范銅鐸や同時出土銅鐸の分布や、
鐘崎式土器の九州外からの出土や、
オルドス式短剣の分布、
から推測された、
八上ヒメやアジスキタカヒコの時代〜もう少し以前における、カモの進出地点、
に、HTLV-1の孤発域がありますね、
という話です。

704 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:18:57.01 .net
逆に言うと、祭祀型銅戈や銅矛、そしてその後、
九州勢の東遷東征が想定される場面で、
HTLV-1は全く拡散していないので、
少なくとも、HTLV-1キャリアの九州縄文系は、そういった東方移動には関わっていなかった、
ということもわかりますね。

705 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:34:10.11 .net
>>635-636
あくまでも仮定の話ですが、
倭迹迹姫命が卑弥呼で、平原1号墓の被葬者だと仮定して、
平原2号墓の被葬者が誰なのか、を考えてみます。

卑弥呼は独身ですから、当時の妻問婚制度などからして、母方の墓域に入る可能性が考えられ、
そうなると、平原遺跡は曽根遺跡群。
池上曽根遺跡など物部系統の遺跡となり、
平原遺跡はウマシマジの家系の者で、魏代伊都に勤めた者、
伊都説だと兕馬觚や女王國=奴國不彌國(+α)に縁が深いから、奴佳鞮の墓域なのだろう、
となります。

卑弥呼は独身の女王で、家族構成も判明していますから、
一族の墓域に入る者は限定されます。

一つの候補は母の欝色謎命ですが、
2号墓は3世紀以降の築造と考えられますから、卑弥呼ですら長寿の可能性が高いのに、
母は相当な長寿だったことになります。
また、欝色謎命は皇太后ですから、そちらの墓域に入ったはずですね。

ですから、あとは卑弥呼の兄弟が候補となり、
お二方は超大物ですし、
倭迹迹姫命が卑弥呼であれば、卑弥呼死去後は、
朝倉市三奈木の彌馬獲支側として戦っているので、
1号墓に付属したような2号墓に入るということはないでしょう。

706 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:45:34.60 .net
・平原遺跡は代々の墓域なので、2号墓にも卑弥呼の親族が入った可能性が高い
・2号墓が3世紀のものなので、母ではなかろう

倭迹迹姫命が卑弥呼と仮定したら、消去法で、
少名日子建猪心命(少彥男心命)が挙がってきます。

武埴安彦命は母方がちがいますし、討ち死にしています。
卑弥呼死去後の勢力争いは熾烈だったわけですね。

親魏倭王の1号墓に付属した2号墓に埋葬される
=その一族なり勢力は、卑弥呼の後継者として大きな影響力を持つ
ことになりますから、卑弥呼の弟が通常の人物であれば、
彌馬獲支から待ったがかかるはずです。

707 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:50:40.28 .net
卑弥呼に殉葬したのが、奴婢百余人だった、ことから、
親族の殉死は無かったことになります。

ということは、2号墓というのは、
女王卑弥呼の生前の指示で、
自らの墓を作る際に、不属して2号墓を作り、その2号墓に、
弟がいずれ亡くなったら入れるように、
と予定していたことになります。

卑弥呼死去後に後継者争いが起きることはある程度予想がつく中で、
2号墓に弟が入れると考えていた。

ということは、弟というのは、2号墓に入っても政争に影響が無い人物だった。

つまり、なんらかの身体障碍者であり、卑弥呼の後継者になりえない。
しかも子孫もいなかった、
可能性が考えられますね。

708 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 05:57:43.82 .net
卑弥呼自身の母方を辿ると、近江に縁がありますね。

〇〇島に昔はHTLV-1のクラスターがあった。
伊都岐島ヒメが祀られており、カモ系。
>>681
発症した人の療養所だった可能性があります。

紀元前当時は環濠集落&Jアラート銅鐸の時代で、
敵襲があると銅鐸が鳴り、環濠集落内へ逃げ込まなければならなかった。
発症した人は動けない。かといって、環濠集落内に常においておくにはスペースが足りない。
だとすると、湖の島であれば、制海権はカモ側にあるので、
安全に療養できたのでしょう。

709 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 06:13:26.78 .net
『自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入』

仮想世界の話に過ぎません。

卑弥呼の母方は、近江に入植したカモ系の一族で、
九州縄文人の血を引いており、卑弥呼の母はHTLV-1のキャリアだった。
卑弥呼や弟もHTLV-1を継いだ。

若い頃の卑弥呼は博多娘で、才能と霊力に溢れた巫女指導者として、
女王國=奴國不彌國(+α)の女王として不彌國に住んで活躍していた。
腹違いの弟は奴国兕馬觚として卑弥呼を補佐した。
また、同母の弟の一人は、若くしてHUを発症し、視力の弱い身体障害者となってしまった。
硯の出土から、当時の官は文字の読み書きができないと仕事にならなかった。
そんな弟を卑弥呼はそばに置いて面倒を見ていた。

実績を積んだ頃に、今度は卑弥呼自身がHAMを発症し、下半身不随となった。
長らく面倒を見ていた弟に、今度は身の回りの世話をしてもらいながら、
執務は続けた。
卑弥呼は移動できないだけで、政務はバリバリとこなしていた。

倭国乱の中、十分な実績を積んできた女王國の女王卑弥呼は、
邪馬壹國=卑弥呼時代の倭国、の倭王として共立され、
魏代伊都=女王之所都へと、移動した。

710 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 06:20:25.10 .net
卑弥呼は九州縄文系の血を引く女王で、HTLV-1キャリアであり、
自身はHAMで下半身不随、弟はHUで視覚障害、という身体障害者同士が
お互いを助け合って、女王職をこなし、
女王國=奴國不彌國(+α)
そして、出世してからは、邪馬壹國を指導していた。

自身が亡くなった後の弟の身を案じ、2号墓も建造しておいた。
卑弥呼死去後の後継者争いにて、視覚障害があるゆえに弟は巻き込まれることなく、
天寿を全うして、皆も異論なく、生前の二人と同じように、
姉の傍らへと埋葬された。

711 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 08:52:37.48 .net
>>686
>ということはすなわち、男性だけでなく、女性すらも、
>本州の縄文人は、縄文土器の消滅と同じく、
>東北を除いて、徹底的に駆逐されたことになります。

たぶんそれらは同時ではない。
もっと波状に置き換えがあった。
おそらくは、弥生人はHTLV-1とともに北上したが、縄文を駆逐せず支配階級として階級社会を形成した。
いわゆる「渡来人」はさらにその後でおそらくは古墳時代に弥生人を駆逐する形で勢力を伸ばし、支配階級を置換した。
下層階級であった縄文系の遺伝子は残った。

712 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 08:58:21.66 .net
>>695

もう少し記紀に忠実であって欲しい。
これでは固有名詞だけ借りてきて好き勝手に妄想しているだけだ。
惜しい。
伊都の天孫族日向三代=魏志倭人伝の男王
は記紀のストーリーを全く改変せずに当てはめることができている。
年代の誤魔化し、話者の思い違いなどはあろうが、特に古事記の方はある程度までその時点の伝承を忠実に記録しただけなのだろうと思う。

713 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:03:14.20 .net
鴨を縄文と呼ぶのも違和感がある。
関西を開拓して稲作を広めたのが三島溝杭なら、バリバリの弥生系だ。
弥生系にも複数の系統があることを考えないと、古いものはなんでも縄文としてしまい、誤った結論に至るのだろう。

714 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:19:17.68 .net
>>705
>卑弥呼は独身ですから、当時の妻問婚制度などからして、母方の墓域に入る可能性が考えられ、

常識的にはそうだが、卑弥呼は例外だろう。
肥国から倭国女王に共立されたのなら、伊都には糸島には家族の墓はないだろう。
唯一の例外の可能性が弟なので、2号墓の主は他にない。

>平原遺跡はウマシマジの家系の者で、魏代伊都に勤めた者、

ウマシマジは明確に畿内の人物なので、九州に関わることはない。
基本的に、九州の人物が各地に広がって影響することはあっても、逆はない。
圧倒的な西高東低の格差があったはず。

715 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:22:52.32 .net
>>708
>伊都岐島ヒメが祀られており、カモ系。

市杵島姫を祭る神社は各地にある。
琵琶湖だけでなく、広島にも神奈川にも東京にもある。
それらまで卑弥呼と関係するというのか。
ナンセンス。
後世に広まっただけに過ぎない。

716 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:41:12.51 .net
内容をよくご理解されずにコメントされているようですね。

717 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:47:22.61 .net
『其死 有棺無槨 封土作冢 
 始死 停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 
 已葬 舉家詣水中澡浴 以如練沐』

倭人の葬儀に関するこの部分も、卑弥呼の死についての部分との整合性が取れず、
妙な部分ですね。

殉葬についての記載がありません。

ということは、殉葬というのは倭人の一般的風習では無かった、ことになります。
卑弥呼の時だけ特別だった、のでしょうか。


ちなみに、この部分にも「冢」が使われており、
倭人の埋葬時における「冢」というのは、有棺無槨であることになります。

718 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 09:56:39.41 .net
殉葬という風習については、
日本においては考古学的には確認されていないことになっていますね。

記紀についても、崇神記における、倭彦命が亡くなった時の殉葬が、
唯一の記事ですね。
それ以前や以降の大王などの陵墓についての記録に、殉葬についての記録は一切ありません。

大陸における古代の殉葬には、
・あの世でもお仕えするため、という宗教的な面だけでなく、
・有力者が死去した際に、その取り巻きも殉葬させることで、後の政治的抗争を予防する
・主君を暗殺しても自分も殉葬させられるので、下克上の暗殺を予防する
などの面もあったと考えられますが、
倭彦命の時などは、ある意味ライバルが減って得したはずの
垂仁も、殉葬者のむごさに生理的嫌悪感を表していますね。

そう考えると、日本列島には、本来殉葬の風習は無かった。
古代歴史上ごくわずかな例外が、卑弥呼と倭彦命の殉葬記事であった。
のではないでしょうか。

719 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 14:29:21.66 .net
【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ)NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』

www.youtube.com/watch?v=nUY92z3p5Es

720 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 16:58:35.17 .net
>>711
>おそらくは、弥生人はHTLV-1とともに北上したが、
縄文人がすでにHTLV-1を持っていたんですよね。
HTLV-1は台湾など南方に分布しているので、南方から持ち込まれた可能性が高い。
なのに、飛び地的に東北などに多いので、
HTLV-1=縄文人の世界に、
弥生人が割り込んできた、図式が有力視される。

>>712
行間を考古学出土物で補完しているだけで、
年代以外は大きな齟齬はないはずですよ。

>>713
カモの本貫は遠賀川〜北九州市の縄文女系でしょうね。
その集団に、その時々の北部九州男系支配者がY遺伝子を持ち込んだ。
その時点で、カモにも各派が生じ、
それらが環濠集落&銅鐸で東方開発していった。
で、それらが先行の稲作集落の女性たちと婚姻を重ねると、
カモはカモでも、元から考えると女系も男系も異なる集団が誕生していった、ということだと思われます。
HTLV-1を保有しているのは、縄文女系の血を引いているから、
少なくとも女系に関しては、古来からの縄文カモだった、ということになります。

721 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 17:03:35.73 .net
>>714
その指摘は、比定地の相違に端を発していますね。
>>684
については過去スレで検討してきましたので、
反論があるのでしたら、文献や考古学的な根拠を基に指摘してみてください。

>>715
よく読めば、わかってもらえるかと思いますが、
市杵島姫の祭祀については、
卑弥呼かどうか、を判定しているのではなく、
カモかワニか、を判定しています。

後の平氏と源氏、にも繋がってきますね。

722 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 18:43:26.14 .net
>>720
>HTLV-1は台湾など南方に分布しているので、南方から持ち込まれた可能性が高い。

弥生人が稲作とともに持ち込んだんですね。
わかります。

723 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 18:44:40.87 .net
>>721
>市杵島姫の祭祀については、

琵琶湖に伝わったのは後世でしょ、ということ。

724 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 18:47:19.49 .net
>>718
>垂仁も、殉葬者のむごさに生理的嫌悪感を表していますね。

古来の伝統に対する嫌悪感かもしれません。
可能性としてはあり得なくはない。
まあ、個人的には卑弥呼の時の殉葬はやはり例外的事象だったとは思いますけどね。
問題なのはあなたの論理の組み立て方。
なんでそこがそういう結論になるの?という点がしばしば。

725 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 19:28:18.74 .net
>>722
いや、ユーラシア大陸と日本列島それぞれのHTLV-1株の遺伝子解析によって、1万数千年前に分岐した=日本列島に持ち込まれたことがわかっていますから、縄文時代です。

>>723
>>724
すみませんね。
文献と考古学のデータを基にして、矛盾しない条件を導き出す、という手法を取っているので。

例えば、
・弥生時代の鉄材料は全て朝鮮半島から対馬海峡経由で輸入
・扇谷遺跡が百年以上運営された
・吉武高木遺跡に大王がいる
・北部九州に鉄器が出土
の確定条件から、
吉武高木王が、対馬海峡から扇谷遺跡までの日本海沿岸を長期にわたって統一支配していたことは確定。

伊都説で三雲井原遺跡=日向三代であれば、
記紀で対応するのは、アマテラス。
越のヤマタノオロチの尾は丹後半島なのだろう、
といった具合ですね。

726 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 21:29:00.78 .net
>>725

なんだよー
先に遺伝子の話をしろよー
それなら理解できる

727 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 21:30:22.61 .net
なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか、理由を教えて進ぜよう。
大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なる。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。 
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。  
その伊都国は千戸程度だから、「感田上原遺跡」や「感田野添西遺跡」「平原池の上遺跡」だろう。   @阿波 

728 :日本@名無史さん:2021/12/18(土) 21:48:26.38 .net
酷い番組だな
フミヤ

729 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 05:14:14.76 .net
>>710
『名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆』
九州の女王で鏡祭祀、お上に道の中央を譲ったり、拍手したり、の風習もあり、
鬼道は原始神道と考えられますね。

卑彌呼の女系が、九州島の北東に追いやられた縄文系の血筋だとすれば、
沖ノ島祭祀に端を発しているわけであり、
神道の起源が自動的に縄文時代まで繋がってきますね。

宗像地域の、山鹿貝塚女王(イザナミ)〜超大型祭祀型銅剣(八上ヒメ)〜卑彌呼〜
と女系で伝えられていますし。
それぞれ遠賀式土器、鐘崎式土器、庄内式土器、などの分布地域と神道普及とも対応していくはずですね。

卑彌呼の女系はカモですが、男系はウマシマジ系物部となり、
後の物部氏が神道のために戦争をした背景でもあるのでしょう。

730 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 05:40:28.43 .net
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。

また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。

大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。

大麻といえば、阿波忌部。 

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波

731 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 08:29:35.12 .net
>>726
たしかに考えてみると、日本全体の縄文人=HTLV-1保有では無いかもしれませんね。
東北のは平家の落ち人など、後世の移住者の可能性がありますね。

日本列島に分布していた縄文人自体はもともとはHTLV-1は持っていなかった。
という前提でトレースしてみると、

1万数千年前に南方からHTLV-1保有集団が九州にやってきて、
在地の縄文人と混血することで九州縄文人にHTLV-1が伝播した。
感染力は非常に低いので、数千年かけて九州に広がったところで、
7300年前の鬼界カルデラ破局噴火で一旦壊滅的に減少。
一部はエクアドルへ漂着。

そこから数百年から千年が経過して、
九州が火山灰後の肥沃な土地に復活したところで、
九州外からの流入者を加えつつ、HTLV-1保有九州縄文人が再度増加。

水田稲作の開始まではそれでも4000-5000年はありますから、
水田稲作の開始までには、
HTLV-1保有者は九州ではある程度全体に拡散していたはずですね。

しかし、遠賀式土器を伴って、日本全国に拡散した稲作集団は、
HTLV-1を保有していなかったわけですから、
渡来系だった可能性が非常に強くなりますね。
渡来して稲作で人数を増やし、在地の九州縄文人と完全に混じる前に、
さらに東へ東へと入植していった。

732 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 08:55:34.05 .net
日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。   

根拠:弥生時代前期「国内最古級の畝跡」「庄・蔵本遺跡」、「南蔵本遺跡」の灌漑稲作跡遺跡。    

日本のイネは、日本固有種。   

倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。   @阿波

733 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 08:58:10.47 .net
記紀を読んでいて気になるのが、
八上比売は息子の木俣神を置いていってしまうし、
豊玉毘売も産後すぐの火遠理命を置いて自国に帰ってしまうし、
どういうこと?ですよね。

乳母という制度がありましたね。

古代人の知恵で、HTLV-1が母乳感染することに何となくきづいていたのではないでしょうか。
文身で身分や出自が管理されていたわけですから、
母系にATLやHAM、HUを発症した人がいない家系、というのが社会の中でリストアップされていて、
赤ん坊、特に高貴な家柄の子は、
発症者のいない家系の女性、を乳母として母乳を与える、というシステムがあったのかもしれませんね。

734 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 09:41:40.04 .net
飛躍し過ぎ

735 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 09:55:40.98 .net
倭人は縄文人の出戻りとする説がありますが、
鬼界カルデラ破局噴火で中国大陸を含む周辺地域に散り散りに逃げ散った可能性はありますね。

一方で、HTLV-1が周辺に伝播していないので、出戻り説を採るならば、
その前提条件として、九州縄文人のHTLV-1分布に偏りがあった必要があります。
例えば当時のHTLV-1は南部九州がほとんどで、北部九州には伝播しておらず、
その北部九州人が火山灰に覆われた地から脱出した。

南部九州人は舟で逃げようとしたが軽石や火山灰で航海できず漂流。
ごく一部が奇跡的に南米到達。
内陸にごくわずかに生き残りがいて、それがなんとか食いつないで生きのびた。
その中のさらにわずかなHTLV-1も生きのびた。

736 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 10:04:34.05 .net
>>729
>後の物部氏が神道のために戦争をした背景でもあるのでしょう。

物部氏の祖である饒速日はアマテラス直系の孫、いわゆる天孫なので、神道とはまさに物部氏が自らの出自である祖先を祀る祭祀のこと。
それは天皇家を凌ぐ権勢を誇った物部氏の権力の根本。
仏教への傾倒はその権力が揺らぐことになるし、古墳時代に流入した仏教を武器とする渡来系氏族の存在も考慮するべきです。
仏教を強く勧めてきたのは百済ですよね。
記紀が明示していないけれど、古墳時代に大量の渡来人が半島から流入し、支配層の置き換えがあったのではないでしょうか。

737 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 10:36:41.85 .net
物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。   @阿波

738 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 12:34:28.29 .net
>>736
前方後円墳にくっついているのは神社であって、お寺では無いのはそういうことでしょうね。
物部氏の衰退と前方後円墳が廃れたことも関係あるかもしれませんね。

739 :日本@名無史さん:2021/12/19(日) 18:14:59.19 .net
>>736
>仏教への傾倒はその権力が揺らぐことになるし

当時の東アジアでは仏教が基礎教養になっていたので、統一中国の隋ができた以上避けられない道だったんでしょう。
隋の皇帝は菩薩天子を名乗っていたし、既に5世紀の倭王武の頃から他国の上表文の半分は儒教的教養ではなく仏教的教養で書かれていたそうです。
仏教派と国教派で、形上は派閥争いをしたようですけど。

740 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 09:40:07.98 .net
魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。
良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。



千余戸の国が詳細で5万戸の国について土地の様子が無記載なのは行ってないからですね

741 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 10:52:04.02 .net
>>740
「魏志倭人伝」の見聞録は、考古学的に判明している、「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」なので、「阿波」に決定済み。   @阿波

742 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 14:58:48.89 .net
>>740
>魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
>魏使は伊都國までしか来ていません。

奴国までは里程が書いてあるから来ている。
ただし庶民がひしめき合って暮らしていただけなので、郡使としては特に興味を引かなかったのだろう。

投馬国にはその通りたどり着いていない。
あと、日本書紀には耳垂の名が登場する。
MとBの発音は交換可能。

743 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 22:35:35.86 .net
ユーチューブにトンカラリンさんが
ゆっくり動画で詳しく解説してるな。

744 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 23:12:38.28 .net
https://www.asahi.com/amp/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html

古墳人サンプルが金沢の3体
弥生人サンプルが長崎の2体

古墳人サンプルの炭素年代中央値と、ミトコンドリアDNA、Y染色体それぞれが、
・572年 男B5a2a1b O3a2c
・610年 女D5c1a
・625年 女M7b1a1a1

弥生人サンプルは
・不明 女M7a1a4
・前16年 男D4a1 不明

古墳人サンプルのDNAが、現代人のものとほぼ一致。
古墳人≒現代人のDNAに、弥生人には無い東アジア人の特徴が認められた。
弥生人サンプルには、遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴。
弥生人サンプルは、縄文人と混血していた。

745 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 23:26:03.95 .net
しかしまあ、この記事も偏向してるねえ。
弥生人のサンプルが長崎であることを記載してないし、
北西九州の弥生人は、墓制も人骨系統も特殊なので、評価は慎重でなければ。

また、古墳にかこつけて、箸墓古墳についてのいつものフレーズをさりげなく盛り込んでるし。

746 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 23:51:29.11 .net
>>744
なるほど。
長崎の弥生人は、邪馬台国の主な倭人=伊都國や奴國の弥生人、とは
明らかに系統が異なりますし、
サンプル数も少なすぎて、なんとも難しいところですね。

素直に受け止めて検討してみましょう。
この発表において、古墳人と現代人が新しく獲得した、弥生人の持たない特徴を、
「特徴K」としてみます。

・前16年の長崎には「特徴K」は伝わっていなかった。
・前16年から572年までの間に、遼河流域など北東アジアから、「特徴K」を持つ「集団K」がやってきた
・「集団K」は、現代人にも痕跡を残すほどの人数がいたあるいは子孫を残した。
というデータですね。

「集団K」は、遼河流域など北東アジアから渡来したのであれば、
朝鮮半島→対馬海峡→北部九州の経路で渡来してきた。
ことになりますね。

前16年の弥生人は西端の長崎ですから、
「集団K」が対馬海峡を渡って来たのは、前1世以降、くらいですね。

747 :日本@名無史さん:2021/12/21(火) 23:53:08.01 .net
伊都説で検討すると、
>>694
痕跡を残すほど子孫を増やした候補の一人は、奴國王ですね。

夫餘や高句麗の流れかもしくは祖が同じ同系なのでしょう。
高句麗には〇奴部がいますし、積石墓その他が伝わっています。
夫餘は馬牛豬狗など六畜の名を官名につけています。
雀居遺跡では家畜を飼っていたようですね。
「狗」「奴」國などもありましたね。

前1世紀に奴族が渡来してきて、各種渡来人の集落がある奴國に住み着いた。
住みよい末蘆國〜伊都國は伊族の土地ですから、
新参の渡来人には、まだ未開発の低地だった奴國しか住める場所が無かったからですね。

奴族が輩出した奴國王がのし上がったのが、1世紀中旬。
奴國王は晩年に失脚しましたが、
奴族は権力を持つたび女性を多数集めてどんどん増えたのでしょうかね。

748 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 00:02:24.39 .net
邪馬台国七万戸
一戸=5人として、七万戸×5人=35万人

仮に1世紀に一人で180人の子をなした王がいたとすれば、
そのインパクトは、現代日本1億2千万人に換算すると、61,714人。

各地の有力者の女性に、
たった一人の権力者が、
約6万人以上の子供を産ませたようなインパクト。

749 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 01:28:34.08 .net
すぐ途切れる系統も多いから

750 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:28:10.44 .net
DNA解析で前1世紀の弥生人が持っていない遺伝子を古墳時代には持っていて現代人まで続いてるんだろ。
その間に誰かがやって来た。それが文献上は誰が候補になりうるのか。
まさか天孫族とか言わないよな?w

751 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:34:10.42 .net
その古墳人とは、日本全国へ出張った「倭人(阿波勢力)」のこと。   @阿波   

752 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:37:04.93 .net
まあ大国主さんは馬には乗っていたな

753 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:46:53.70 .net
3世紀前半の構造船の稼働状況については、
通説は「フル稼働」もしくは「そんなものない」

754 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:56:10.95 .net
天野馬渡馬とか1トンもあるものはどうやって運んできたんだ
模様的にアラブ原産だろうけど

755 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 06:57:55.14 .net
チンパンの知能実験か?
子馬のうちに連れてくればいいじゃん

756 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 07:04:07.39 .net
餌とかトイレはどうすんの
移民はどうするんだ枯野だってタダじゃねーんだぞ
流民が一家に一台マイボートを持ってたとかどんなユートピア想像してんの

757 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 07:05:55.11 .net
奴国を中心とする地域に渡来系の弥生集落が多いのは事実
渡来人の第一波が集落を形成し、そこに親族が子馬を釣れてくればいいだけ

758 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 07:09:27.49 .net
>>757
>奴国を中心とする地域に渡来系の弥生集落が多いのは事実

そんな事実はない。   @阿波

759 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 16:12:27.24 .net
弥生末期の邪馬台国にはまだ牛馬がなかったと言うのだから、稲作を持ち込んだのと馬を持ち込んだのは別の年代の別の集団だよ。

760 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 18:47:02.40 .net
>>750

> DNA解析で前1世紀の弥生人が持っていない遺伝子を古墳時代には持っていて現代人まで続いてるんだろ。
> その間に誰かがやって来た。それが文献上は誰が候補になりうるのか。
> まさか天孫族とか言わないよな?w


隋書に中国人みたいのいたー、とは書いてる
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也

761 :日本@名無史さん:2021/12/22(水) 18:53:49.86 .net
>>742
東南陸行 五百里 到伊都國

これ以後の国は 至 の字を使ってるので来たのはここまで、ここには渡来人の為の宿泊施設も用意されているはず

里 は報告書として使わければいけない単位なので分かる範囲までは使う

762 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 09:13:54.67 .net
伊都が最終目的地であるのはその通りだと思う。
しかし、そこから博多、香椎くらいまでは足を伸ばすこともあったのではないか。
だからこそ、里程が記録されていたのだと思う。

763 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 14:28:52.06 .net
>>762
当時の華人にとって伊都國の外は危険な蛮地、倭人に距離を問えば時間で返してくれるから陸の近場なら里を測ることが出来る

764 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 14:31:03.99 .net
そもそもその国の官と副官しか記録しないのだから足を運ぶ理由がない

765 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 15:51:21.75 .net
糸島から博多なんて目と鼻の先だろうに。
日数から里程の換算は、魏志倭人伝では暗黙に使ってはいるけれども明確には使わない。
里程があるのば実際に行ったところ。

766 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 22:35:17.56 .net
>>765
金印他を渡すのがお仕事なので余計なことはしない

767 :日本@名無史さん:2021/12/23(木) 22:40:45.16 .net
>>755
そうだな赤ちゃん馬連れて来たんだな、馬は大きくて運ぶの大変とか思った俺チンパンサイドだわ

768 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:09:05.14 .net
何ヶ月も滞在したんだぞ。
日帰りの物見遊山くらいするだろ。

769 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:47:01.09 .net
>>768
中国視点ではウホウホ土人の蛮地

770 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:51:24.05 .net
>>746
弥生時代の日本列島に、馬が駆ける場所なんてありませんね。
湿地帯、未開の丘や山岳。
ギャロップなんてしようものなら、すぐに転倒して、大怪我or死亡ですね。

識者によれば、鎌倉時代の元寇ですら、仮に上陸に成功していたとしても、
騎馬軍団は全く機能せず、日本制圧などできなかっただろう。
騎馬民族征服王朝なんぞも、てんでありえない妄想話、ということになります。

771 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:51:30.85 .net
>>747
三国志東夷伝夫餘条
『出名馬』
夫餘では名馬を産出する。

三国志東夷伝高句麗条
『其馬皆小 便登山』
高句麗の馬は皆小さくて、山を登るのに便利。

馬を扱った民族ですね。

772 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:52:48.80 .net
>>770
では、そのような馬を、弥生時代の北部九州倭国にわざわざ持ち込む動機とはなにか?

>>769
最も重要な、軍事、はありえませんね。

移動時に便利だから、も微妙なところです。
せめて利便性を見出すなら、弥生人が通る細道を、
自分の足ではなく、馬に乗ってポクポクと移動する、
楽ができて、荷物も馬に運ばせることができる、ということくらいでしょうか。

773 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:53:10.17 .net
そう考えると、奴国王が馬に乗っていた理由とは、
馬に乗ることが、一族の男性の嗜み(たしなみ)だったから、ですね。

男子たるもの、馬に乗れるべし。

だから、弥生時代の日本列島ではなんの役にも立たない、
むしろ落馬などで大怪我や落命の危険性も高い。
そんな騎乗を習得するべしという家風があったわけです。

と、いうことは、
奴国王の父親もしくは祖父、が、北方から渡来してきた渡来一世だった、ということですね。

774 :日本@名無史さん:2021/12/24(金) 21:53:16.58 .net
奴国王は多兄弟の末弟ですから、
父親はかなり高齢であり、
祖父ではなく、父親が、故地にて騎乗を体得していて、
その騎乗を息子たちに伝授した、ということですね。

となると、奴国王は渡来二世ということですね。

親族の中では漢語を話し、
倭地で得た女性たちとは倭語を話す。
バイリンガル。

775 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 03:54:30.03 .net
魏志倭人伝に出てくる倭の固有名詞には、
倭語に漢字を宛てた表音系の名詞と、
漢語から成る表意系の名詞がありますね。

おそらく表音系の名詞については、伊族が古来使っていた名詞でしょうけれども、
表意系の名詞のいくつかは、奴国王がつけたのでしょうね。
(侏儒國、裸國、K齒國など)

776 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 07:04:06.18 .net
扶余には馬があり、倭には馬はない。
この時点では、付与と倭は全く別の民族。
古墳時代になり、扶余から出た百済と倭は急接近して、縁戚関係を結び、言葉も近くなった。
百済は明確に扶余の末裔なので、倭の方に支配層の入れ替えがあった。
そしてそれは卑弥呼の時代より後のことであり、おそらく4世紀から5世紀にかけてだろう。

777 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 08:43:12.83 .net
>>769
伊都国に長期間滞在して100里〜200里(8〜16km)くらいの範囲なら日帰りの物見遊山行くのが普通だろ
伊都国に閉じ込められて訳ではない
土人の国の偵察の役目もあっただろう

778 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 09:29:55.98 .net
夫餘については、興味深い風習が記録されています。
『其死 夏月皆用冰 殺人徇葬 多者百數 厚葬 有槨無棺』
夫餘で人が亡くなった時は、夏であれば皆氷を用いる。
人を殺して殉葬させるが、多い時には百人である。

>>717
>>718
考古学的にも文献的にも、日本列島における多数の殉葬というのは、
もともとの風習でなく、短期間だけ行われた例外的事象であった、
可能性が高いわけですね。

正始元年(240年)には梯儁が、
そして正始八年(247年)の卑弥呼死去時には張政が、来倭していますから、
魏使による殉葬指示の可能性が一つ考えられますが、
三国志において殉葬は一般的風習ではないんですよね。

状況としても、国家戦の最中ですから、
殉葬させて人員を失うのは得策ではありませんし。

779 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 09:30:30.19 .net
奴國王ら奴族が、夫餘と近い族であるならば、
殉葬は奴族の風習とすれば説明がつきますね。

>>696
70年の奴國王失脚時に、金印を秘匿して長崎へ逃れた奴族末裔が、
難升米と考えられますので、
奴族が政治的権力を持っている時期には殉葬をしていたわけですね。

遼東戦での司馬懿救援、そして金印銀印外交と活躍した、
大率長官の難升米が、邪馬壹國の有力者としてふるまっていた、
正始元年(240年)から正始八年(247年)までの8年間。
この間に、彌馬獲支の息子が亡くなり、難升米のススメによって、殉葬が行われた。

殉葬は奴族の風習であって、
伊族からしてみれば、残虐と感じてカルチャーショックを感じたわけですね。

780 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 09:31:07.70 .net
平原遺跡には御柱が立っていますから、難升米が葬儀に加わっていたわけで、
最高有力者の一人でもありますから、
この時も、奴族の風習である殉葬を採用したのでしょう。
土壙墓ですね。

>>679
狗奴國と戦争中ですから、女王墓の建設に関わった人夫を口封じして、
狗奴國に攻勢をかけた。
混乱した情勢で、勝てば大王の目があったかもしれませんが、
討ち死にしてしまったわけですね。

781 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 09:31:56.95 .net
彌馬獲支の次代の時に、「強制的殉葬」は早くも中止されます。

わざわざ中止したということは、
逆に言えば殉葬をすべしという風潮あるいは勢力がいたわけで、
>>668
狗奴國王も奴族でしょうから、殉葬の風習を持っていたのでしょう。

247年(正始八年)以降は、狗奴國王は彌馬獲支サイドになりますね。
大倭には狗奴國王系の奴族が就任していますし。
それなりの発言力があったのでしょう。

782 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 09:32:24.30 .net
(強制的)殉葬というのは、奴族の持ち込んだ風習であり、
奴族が政治的に有力である状況でのみ行われた。
そして第11代によって、強制的殉葬は中止された。

奴族が有力であった状況について考えると、以下の時代や場所で、
有力者の墓の傍に土壙墓があれば、殉葬だった可能性が高いことになりますね。

奴國王:30年頃〜70年の北部九州
金印息子:1世紀後半〜3世紀末の長崎・長野
拘奴國:2世紀後半〜247年の赤坂今井墳墓&四隅突出型墳丘墓
狗奴國:2世紀末〜3世紀末の筑後〜肥後

783 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 10:59:25.13 .net
>>774
奴国に馬はいないよ

784 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 11:19:10.81 .net
>>777
陳寿は倭国に調査員なんか派遣してないぞ

785 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 11:20:51.89 .net
>>774

> 奴国王は多兄弟の末弟ですから、
> 父親はかなり高齢であり、
> 祖父ではなく、父親が、故地にて騎乗を体得していて、
> その騎乗を息子たちに伝授した、ということですね。
>
これ全部想像ですよね

786 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 13:40:51.22 .net
>>774
もちろん奴国に馬は生息していないし、常時という意味での保有もしていません。
1世紀の奴国王、しかもごく短期間の話です。

>>785
馬がいない弥生時代倭国
馬が使えない弥生時代倭国
において、わざわざ馬を取り寄せて騎乗する理由としては、
家系において騎乗する習わしがあった、
のではないか、という話ですね。

他にも馬に乗る理由の候補があるならどうぞ。

787 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 13:59:57.37 .net
>>786
馬を取り寄せた記録がない
というか記録は何もないのでは?

788 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:09:42.44 .net
>>787
馬に乗っていた、という確かな記録がありますね。

789 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:14:53.92 .net
>>740
魏志倭人伝だけでなく、三国志全体を俯瞰してみると、
東夷伝についての各条は、
「鮮卑」「夫餘」「高句麗」「東沃沮」「挹婁」「濊」「韓」と、
国名の見出しがついている中で、
倭だけが「倭人」の見出しになっていますね。

いわゆる倭人伝に詳しく記載されるべき部分は、
「倭人」が住んでいる地域。
つまり壱岐対馬と北部九州、ということになります。

790 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:15:25.35 .net
先のHTLV-1ですが、朝鮮半島には分布していません。
ということは、北部九州の倭人のうち、
対馬海峡を渡ったのは、男性だけであって、女性は移動することはなかったわけですね。

三国史記に記載されているように、倭人の男性は、軍の兵士として
たびたび朝鮮半島に侵入し、支配者として定着した者がいた。

ですから、
倭(支配勢力)としては、半島南部の投馬國+北部九州邪馬壹國
倭国(国家)としては、半島南部の倭人支配投馬國と、北部九州倭国(邪馬壹國)
倭人の生息域(男も女も倭人)としては、北部九州倭地
ということになりますね。

ちなみに、HTLV-1は日本海沿岸にも薄く分布しており、
『女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種』
と見事に一致しています。

日本海沿岸は扇谷遺跡の時以来、早くに統一支配されていたのと、
鉄器を持つ相手がいる半島南部に比べて、
鉄器を持たない相手しかいない日本海沿岸は、安全で、
倭人女性も移住しやすかった、ということですね。

791 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:16:15.53 .net
よって、「倭人」条に記載された記事としては、

半島南部:投馬國や狗邪韓國
 倭人男性が支配しているが、住んでいる人、特に女性は倭人以外
 倭の中には含まれるが、倭人居住地域ではないので詳しく書く必要はない

壱岐対馬〜末蘆國伊都國
 倭人の住む地域で、魏使が訪れたので詳しく書かれた

奴國その他
 倭人の住む地域だが、魏使が訪れなかったので見聞録なし

結論として、卑彌呼は伊都にいたので、魏使は伊都で卑彌呼に会って帰った。
魏略などもそれを補強していますね。

792 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:52:20.49 .net
>>788

どこにそんな記録があるの?

793 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 14:59:29.77 .net
>>792
伊都説(三雲南小路=日向初代)から逆算した場合、奴国王=オオクニヌシとすれば、
文献や考古学出土物(祭祀型銅矛など)の説明がつきますね、
という前提からの推論です。

ですから、この場合の返事は、記紀にある、となります。
高天原にも馬がいたのですから、時々贈答品などで馬が贈られてきた可能性は高いでしょう。
ただ騎乗するとなると話はさらに踏み込んでいきますよね。

794 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:04:11.99 .net
<後漢書韓伝>の一部
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰 
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接 
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國

伯濟是其一國焉 大者萬餘戶 小者數千家 各在山海閨@
地合方四千餘里 東西以海為限 皆古之辰國也 

馬韓最大 共立其種為辰王 都目支國 盡王三韓之地 其諸國王先皆是馬韓種人焉

795 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:05:05.62 .net
>>793

邪馬台国、少なくとも郡使が見て回ったであろう奴国には馬はいなかったと書いてあるのだから、仮定の方に誤りがあることになる。
伊都は日向だが、出雲は九州ではない。
奴国王は大山祇や綿津見だろう。

796 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:10:11.88 .net
>>795
倭国に馬はいないが、
奴国王は一時的に馬を入手していただけ、と繰り返しているのに、
それを無視して結論づけないでくださいね。

797 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:17:06.05 .net
>>790
HTLV-1の分布からも、対馬海峡を渡海したのは男性だけで、
倭人女性は対馬海峡を渡海することは無かった。
例外は神功皇后くらいでしょうか。

三国志東夷伝と後漢書東夷列伝を参照してみます。
魏志倭人伝『男子無大小皆黥面文身』
後漢書倭伝『男子皆黥面文身 以其文左右大小別尊卑之差 其男衣皆幅結束相連
      女人被髮屈紒 衣如單被 貫頭而著之 並以丹朱坋身 如中國之用粉也』

倭人の男性は皆入れ墨をしていて、
そして東夷伝で文身の風習があると書かれているのは倭人男性だけです。

後漢書韓伝 馬韓『其南界近倭 亦有文身者』
後漢書韓伝 弁辰辰韓『其國近倭 故頗有文身者』
魏志韓伝 馬韓『其男子時時有文身』
魏志韓伝 辰韓『男女近倭 亦文身』

入れ墨をしているのは倭人男性であり、
韓の地であっても、倭人男性が雑居していたということですね。
後漢書では、倭に近い南部に倭人男性がいるのに対して、
三国志では、全域に倭人男性が入りこんでいるようです。
そして、東部の辰韓の方に倭人男性の密度が高そうですね。

798 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:22:45.91 .net
となると、
西部の馬韓、後の百済(伯濟國)に対しては、夫餘系の奴族が縁が深く、
奴国王や、奴族の難升米が外交するのに協力的であった。

馬韓については卑彌呼の時代に魏と韓の戦いに参戦して、
伊聲耆掖邪狗が不彌國などを占領して、率善として魏に承認された。

卑彌呼の前任地は女王國=奴國不彌國(+α)であり、
狗奴国王の卑彌弓呼も奴族であるから、
卑彌國というのは奴國王系の国だった可能性が高い。

東部の弁辰辰韓、後の新羅(斯盧國)に対しては、文身を入れた倭人が縁が深く、
鉄の入手ルートを確立して優位を維持した、
のではないか。

799 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 15:51:41.23 .net
>>796
馬具が見つかってませんし、記述もないので馬は居なかった(記紀の年代はアテにならない)、と当方は考えます
別にあなたを説得するつもりはありませんが

>>795
陳寿の命を受けた群使などいなかった可能性はありませんか?

魏志倭人伝の記述内容であれば倭国に出入りしている人間からの聴き取りで書けます

800 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 16:27:28.68 .net
里程とは、金印後漢使のためのロードマップ。
55年頃に後漢の楽浪郡史(伊都三雲楽浪土器)によって、
平時下に奴国王の庇護のもとで測定された。

金印後漢使が伊都の吉武高木宮殿に到着するのが主目的。
吉武高木宮殿で金印授与式が行われたため。

往路のロードマップだから、早朝出発時の真夏の太陽を基準に方角記載されている。
目的の倭国奴国にきちんと辿り着いているか確認するためのロードマップ。
復路は自国に戻るわけだから確認の必要が無い。

末蘆國の港は深江。
県道49号線が金印後漢使のルート。
後漢の大使館は伊都(三雲楽浪土器)にあるから、まず伊都三雲に入る。
伊都三雲の大使館をベースにして、東夷伝里五百里で吉武高木宮殿で金印授与式。
さらに進んで不彌國の雀居遺跡の奴国王居館に表敬宿泊した(木靴)。

801 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 16:33:18.33 .net
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7

速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
水行20日は妥当ですね

よって、帯方郡から狗邪韓國まではどうあがいても17日以上はかかる。
帯方郡→水行20日→投馬國 →水行10日陸行1日→北部九州倭国(卑彌呼邪馬壹國)

802 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 18:18:50.75 .net
>>801
魏は4本マスト数百人乗れる船までは持ってたでしょう

倭は準構造船で大型の丸木船レベル、漕ぐというより海流上を漂っている水準

803 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 18:38:22.48 .net
>>802
ジャンク船については、話だけが一人歩きしていて、
文献や考古学的な根拠がないんですよね。
なにかありますか?

804 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 18:59:58.38 .net
>>803

中国
http://sangokk.doorblog.jp/archives/1073361.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
当時の船の記録では、呉の船が4本マストで700-800人の人員を乗せ、ベトナムまで外洋を航行していたとの事。
 呉と敵対し、この後、呉を滅ぼした魏の海軍:帆船の能力は、互角、少なくとも、対抗できる能力を持っていたものと推定する。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/23norimono.html

日本
http://inoues.net/science/war.html

805 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:03:54.30 .net
>>804
だからその程度なわけでしょう?
また聞きのまた聞きであって、何の証拠にもなっていません。
一次資料を出してください。

806 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:04:32.54 .net
>>804
>ベトナムまで外洋を航行していたとの事。 

うそ言うな。 河川航行だ。   @阿波

807 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:05:12.56 .net
景初二年六月 倭の難升米が帯方郡へ(倭船)

『太守劉夏遣吏 將送詣京都』
將=率いて、なので、帯方郡→洛陽は、魏吏が連れて行ったかもしれないし、
倭船に魏吏が同乗して引率したのかもしれない。

『皆裝封 付難升米牛利還』
(金印と品々は)難升米と都巿牛利に付して還す。(魏吏ではない)

正始元年 魏の梯儁等が金印と品々を倭国へもたらした。
     難升米と都巿牛利に付したので、当然難升米と都巿牛利と同行。

正始四年 倭の伊聲耆掖邪狗等八人が、洛陽へ。(倭船)

正始六年 難升米に黃幢を假授のみ。魏吏は独力では倭に行けず。

正始八年 倭の載斯烏越等が帯方郡へ。(倭船)

載斯烏越等の帰路に、張政等が一緒に倭へ。

『壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺』
倭の伊聲耆掖邪狗等が、張政さんを送り届けて、さらに洛陽まで詣でた。(倭船)

まあ、明らかですね。
帯方郡まで、さらに洛陽まで、倭船で行き来しています。

808 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:05:54.26 .net
>>802
>倭は準構造船で大型の丸木船レベル、漕ぐというより海流上を漂っている水準
海人族を過小評価しすぎではないですか?
あまりに我田引水が過ぎると、あなたの論全ての信用が無くなりますよ。


倭は対馬海峡を支配『從郡至倭〜到其北岸狗邪韓國、七千餘里』
對馬國『乖船南北巿糴』
一大國『亦南北巿糴』
持衰『其行來渡海詣「中國」、恆使一人〜』持衰の乗った倭船が中国へ


倭人は中国まで自在に行き来できていますね。

809 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:20:50.94 .net
240 梯儁
247 張政

290頃 魏志倭人伝

年代が離れてるので先の2人からは話は聞けないでしょう

810 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:23:57.07 .net
>>809
文字、というものをしってるかい?

811 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:32:55.85 .net
>>805
下は東京国立博物館の再現船

https://tabiris.com/wp1/images/2019/07/sangokushi12.jpg

違うと考えるならそちらこそなにか資料出してくれ

812 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:33:42.86 .net
>>810
消えろゴミ

813 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:36:10.22 .net
>>811
で、その再現の一次資料はありますか?
こちらとしては、資料が無いので、無かった、というしか無いですね。

>>807
>>808
のように、倭船で行き来した文献資料はありますし、
考古学資料の全てが、倭船で対馬海峡を行き来していたことを示していますが。

814 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:41:38.97 .net
>>808
行った 記録だけなら縄文時代でもウラジオストクに行ってる

行った記録だけでは船の性能はわからない

ジサイ 知ってますよね

815 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:45:54.00 .net
>>813
はは、博物館員の再現を出鱈目だと思うのはあなたの自由です

816 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:51:18.24 .net
>>815
そもそも、東京国立博物館は、どの時代の再現船として展示しているのですか?
なんの解説もないので、あなたが適当な画像を引用して詐称している可能性もありますので。

817 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 19:58:26.21 .net
河川に漂っていた楼船を持ち出すアホ

その巨体に小さな帆で対馬海峡を渡れるかいなw

818 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:05:10.22 .net
>>808

古代船の再現(「古代研究」第9号:1999年5・6月号)

大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、実際に木造船として作ってみました。
現在の船の構造設計者によると、

【とても構造的に船にならない】

ということでした(略)
この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みません。
50cmの高さの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうです。1mもの波がこようものなら漕ぎ出すのは到底無理なことです。また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。

819 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:07:37.12 .net
>>818
また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した
土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。
結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部の学生に、古代の人が渡ったであろう
と思われるコースで、玄界灘を越えて韓国に向けて漕いでもらったわけですが、

【 これが殆ど進みません。】

そのまま漕
いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当がつかないほど進みません。10年たった今だから言えるの
ですが、韓国の港では、学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞っ
てもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。
【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】

820 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:11:01.58 .net
それはデフォルメされた埴輪をそのまんま大きくしたからであって、
弥生の海人族が使った構造船の性能とは無関係の話ですね。

あなたの話は自説に都合のよいうわさ話をかき集めているだけで、
信頼性というものが吟味されていませんね。

821 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:12:46.08 .net
>>816

> そもそも、東京国立博物館は、どの時代の再現船として展示しているのですか?

後漢末の「楼船」で戦闘用、用途は違いますが当時の造船技術の違いはみて取れるでしょう

https://tabiris.com/archives/sangokushi201907/

822 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:15:40.28 .net
>>821
なるほど。
用途が全くちがいますね。

倭船は対馬海峡を行き来していた。
魏船は大型で河川を漂う水上基地のようなものであり、外洋航海は不可能。

と思われますね。

823 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:17:04.06 .net
>>820
当時どのような形態の船だったのか1次史料で教えて下さい

リンク先みればわかるけど現物(遺跡)も参考にしてる

824 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:32:10.56 .net
遣唐使船の遭難率40パーセント

https://blotabi.net/japanese-history-kentoushi3/

でも弥生時代の船は危険じゃないって?

825 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:37:08.15 .net
見苦しい攪乱戦法ですか?

遣唐使は、朝鮮半島支配権を喪失した時代に、
無謀な東シナ海横断を試みたもの。
対馬海峡渡海については、島伝いなので、遥かに安全性が高い。

けれども、夏は手漕ぎの倭船で渡れたでしょうが、
冬の日本海の荒波は、よほどの穏やかな凪の日でもない限り、
倭船だろうが魏船だろうが、木っ端微塵になっただろう、
ということはわかります。

826 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:43:31.47 .net
>>825
相変わらず自説を裏付けるなんの典拠も出せない

ネットによくいるただのだめ出しだけしか出来ないヤツ

おまえ、レベル低いよ

827 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:48:27.67 .net
>>826
倭人が対馬海峡を行き来していたのは考古学的事実です。
そして対馬海峡は、世界で一番航海の難しい海域でもあります。

>>807
>>808
のように、文献の根拠もあります。

以上をもとに、下記が成り立つわけです。

手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7

速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
水行20日は妥当ですね

よって、帯方郡から狗邪韓國まではどうあがいても17日以上はかかる。
帯方郡→水行20日→投馬國 →水行10日陸行1日→北部九州倭国(卑彌呼邪馬壹國)

828 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:57:46.40 .net
>>825

> 遣唐使は、朝鮮半島支配権を喪失した時代に、
> 無謀な東シナ海横断を試みたもの。

東シナ海しか横断出来なかったソースだしてね

829 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 20:58:50.19 .net
>>684 北部九州倭国沿岸部
>>631 北部九州倭国内陸部
>>632
>>625 卑弥呼のすり合わせ
>>633 男王彌馬獲支のすり合わせ

架空世界の話として、以下でトレースしてみます。

830 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:00:32.63 .net
>>827
陸行1月だし到着地がどこなのかわからない

831 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:00:51.12 .net
彌馬獲支
叔母が卑弥呼
師木 磯城 阿志岐山城の神籠石 にて伊都国王=筑紫の日本国王に就任
(狗奴国が筑後平野=大倭平野を占拠していたため)

卑彌呼女王にて一体化した邪馬壹國が攻勢に出て、狗奴國を肥後へ押し込める。
旧三輪町に進出。
筑後と佐賀(邪馬嘉)を支配下に。

青龍二年(234年) 夏四月大疫
青龍三年(235年) 春正月京都大疫

>>605
景初二年(238年) 正月 司馬懿が四万の大軍で洛陽から遼東へ向けて出陣
到着時と、襄平での籠城攻略戦に、長雨にたたられて、兵糧不足に

景初二年六月 倭の難升米が帯方郡へやって来て、兵糧補給と金印授与の契約成立

大率所属の大量の倭船と船員が北部九州と遼東半島を往復。

青龍年間の洛陽疫病が、倭地へもたらされた。

832 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:02:21.69 .net
旧三輪町にいて、南の肥後狗奴國と対峙しながら、
阿志岐山城の神籠石(山城国)〜筑後(大倭)〜佐賀(邪馬嘉)
を主に領有している彌馬獲支。

洛陽直輸入の疫病は、まず伊都。
そして人口密集地の奴國。
に蔓延。

伊都で暮らしていた、彌馬獲支の息子が感染して死去。
>>779
難升米の指導によって殉葬を行う。次男は眉をひそめる。

疫病の発生を聞いて、
彌馬獲支は迅速に<マンボウ(まん延防止等重点措置)>を行ったわけですね。

宮中=旧三輪町の宮殿から、伊都国関係者と、奴国関係者を、退去させ、
それぞれを笠縫邑と長岡岬の臨時療養所に集めて隔離したわけです。

天照大神=伊都国関係者
倭大国魂神=倭奴国王関係者

しかしながら、渟名城入媛は疫病に感染してしまい、痩せ細って倒れた。

833 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:03:29.23 .net
正始八年(247年)
伊都國奴國に疫病が発生していることを知り、
狗奴國が攻勢をかけてきた。

載斯烏越らが帯方郡へ援軍要請したが、魏に余裕は無く、
やって来たのは張政ら数人の武官と、黃幢だけだった。

折悪しく、高齢の卑弥呼も死去。疫病による可能性もあり。
難升米が仕切って、平原遺跡に埋葬。御柱と殉葬百人。

難升米が手勢を率いて出陣するも、
筑後肥後の国境で衆目の中、ド派手に討ち死に。

(馬に乗っていて、倭地では逆に動けず、弓矢の一斉射撃をうけたか)

834 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:04:32.79 .net
卑弥呼の後継者争い。
難升米は誰がどう見てもわかる死去。長崎と長野の親族は喪中。
彌馬獲支と、卑弥呼の弟との争い。

>>651
南の狗奴國と敵対していると、挟撃されてしまう。
だから、大叔母に頼んで、狗奴国王との仲を取り持ってもらい、同盟に持ち込んだ。

この時の狗奴国王も大物主のままなので、大叔母の夫の大物主のまま。長寿。
アジスキタカヒコ以来の、男系奴族+女系カモ。
カモ系の大田田根子を大倭長官にする、という密談成立の上で、
彌馬獲支と狗奴國は同盟。

835 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:05:41.26 .net
彌馬獲支は、
伊都の卑弥呼ハニ弟と臨戦態勢に入り、
西の大阪=大佐嘉=大(邪馬嘉)=佐賀と、
東の墨坂=住吉の坂=奴国の那珂川沿いの坂、に兵を集めて軍事封鎖。

豊国ワニとも交渉して、同盟を確約。
ワニ族の者が軍勢を率いて秘かに阿志岐山城の神籠石へ布陣。

現代社会と同じで、先制攻撃をした側には世論は集まりにくい。
よって、伊都の卑弥呼ハニ弟に先制攻撃をさせる必要がある。

これも卑弥呼弟である叔父に一肌脱いでもらい、
北部九州倭国の人々からすると、域外の勝手に独立した国である、
卑弥呼ハニ弟の出身国である拘奴國に、「教化目的」の親善軍を出発させた。

当然奴国を通過予定であり、これを察知した卑弥呼ハニ弟は出兵せざるを得ない。
阿志岐山城の神籠石にて待ち構えた彌馬獲支勢に散々に打ち破られた。

836 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:06:57.05 .net
要するに、洛陽で流行した疫病が、四万の大軍で運ばれてきたところに、
難升米らの倭大率船団が接触して、
倭国に疫病が持ち込まれた。
それに対して、筑後の彌馬獲支が発令したマンボウだった、ということですね。
祖神を追い出すなんてありえませんから。

奴国→山城(筑紫野市)での戦いは、後継者争い。
『更相誅殺 當時殺千餘人』

壹與はすぐには敵地伊都に入れませんから、
しばらくは肥前川上にて祭祀する。(與止日女神社)

彌馬獲支&狗奴國王のペアは、大倭=東方開発重視ですから、
いずれは北部九州倭国の東部、香椎あるいは大分に拠点を移したことでしょう。
中国との接触も激減して、中国の文献記録から遠ざかります。

彌馬獲支の元に、投馬國から遣わされたのが、蘇那曷叱知。
奴族ですね。
トップはミミだとしても、実権は難升米と連携した奴族が握っていたとしたら、
>>791
「倭人」条に詳述すべきかどうか微妙なところだったのでしょうね。

837 :日本@名無史さん:2021/12/25(土) 21:26:34.72 .net
>>836
とりあえずややこしい名前もみんな頭入ってそうなとこスゴイ

838 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:01:07.52 .net
>>796
>奴国王は一時的に馬を入手していただけ、と繰り返しているのに、

根拠なし。
奴国は志賀島と同じ王権。
つまり海神による倭王政権。

839 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:03:13.20 .net
>>799
>魏志倭人伝の記述内容であれば倭国に出入りしている人間からの聴き取りで書けます

魏志倭人伝そのものを否定するなら邪馬台国論争そのものが成り立たなくなります。
魏志倭人伝は郡使の報告に基づく記録です。

840 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:10:50.11 .net
>>800
>平時下に奴国王の庇護のもとで測定された。

倭人は里を知らないそうです。
郡使の測定によるものです。

>金印後漢使が伊都の吉武高木宮殿に到着するのが主目的。
>伊都三雲の大使館をベースにして、東夷伝里五百里で吉武高木宮殿で金印授与式。

矛盾してませんか?
伊都の公館から移動したのだから、吉武高木を含めた福岡平野全体が奴国でしょう。
それに卑弥呼の時代にはすでに吉武高木の王宮はなかったと思います。
遺跡の年代が違います。
吉武高木宮は伊都国への天孫降臨より前の大山祇や、それこそ高木神の時代のものでしょう。
1世紀頃の天孫降臨により、福岡平野側の大山祇から糸島平野側の邇邇芸に政権交代と遷都があったと考えます。
後漢に朝貢したのは伊都の天孫族ですね。
卑弥呼の時代もそのまま糸島平野側が王都であり、おそらく王宮は高祖宮、またの名を高千穂宮でしょう。

841 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:11:51.19 .net
>>835
>西の大阪=大佐嘉=大(邪馬嘉)=佐賀と、
>東の墨坂=住吉の坂=奴国の那珂川沿いの坂、に兵を集めて軍事封鎖。

日本書紀
『以赤盾八枚赤矛八竿 祠墨坂~ 亦以K盾八枚K矛八竿 祠大坂~」

三国志東夷伝倭人条
『兵用矛楯木弓』

842 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:14:16.68 .net
>>802

準構造船と丸木舟ではかなり格差がありませんか?
漂っているだけでは対馬海峡は渡れません。
むしろ魏志倭人伝からは、倭人の船だけが(操船能力や航海術も含め)対馬海峡の渡海能力を持っていたように読めます。
それでも倭人でさえも呪いのようなことをする必要があるくらい、渡海は一大事だったのです。

843 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:28:25.39 .net
>>827
>手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット

もっと出たはずです。
対馬海峡を3日で渡るためにはもっと速くなければいけない。
渡っていたと言う事実から、8時間程度で80キロほどを進めたと考えるほかない。
これは約5ノットに相当するようですね。

844 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:31:47.44 .net
そうすることで、帯方郡から末盧国まで、水行10000里を10日でピッタリです。
対馬海峡は3000里を3日ですからね。
さらに末盧国から西回り(長崎、鹿児島経由)で宮崎県の投馬国(都万神社)までさらに10日。

845 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:36:07.13 .net
>>843
手漕ぎ船で8時間5ノットは無理。
そんなに速度が出ないし、そもそも体力がもたない。

>>844
なにがピッタリなのか?
1日1000里渡海は「物理的に無理」

間違った暴論をかざしているから、そのような無茶を主張しなければならなくなる。

846 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:36:07.58 .net
対馬、壱岐に滞在することは可能ですが、対馬海峡の海上に停泊して夜を明かすことは不可能です。
3,000里を4日とか5日とかかけることはできません。
魏志倭人伝における1000里は1日で移動しなくてはいけない。
これは魏志倭人伝における絶対的な地理的制約なのです。

847 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:38:14.29 .net
>>845
>手漕ぎ船で8時間5ノットは無理。

これが無理なら対馬海峡は渡れません。
しかし実際には渡っていた。
あなたの方が事実を無視した主張です。
ただし、おそらく魏の船には無理で、倭人の船のみが何らかの無茶な方法で実現していたのでしょう。

848 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:39:12.30 .net
>>846
>1000里は1日で移動しなくてはいけない。

>>827
帯方郡から狗邪韓國まではどうあがいても17日以上はかかる。

>>569
のようにすれば、対馬海峡を渡海可能。

849 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:40:24.13 .net
一見数字が綺麗に揃いそうな1日1000里の法が物理的に不可能と判明して、
発狂した論者が乱闘中

850 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:43:37.79 .net
>>845
>なにがピッタリなのか?

朝鮮半島沿岸航行が7000里、対馬海峡渡海が3000里。
帯方郡からの水行10日の内訳になっています。
魏志倭人伝は水行1日が1000里であるという計算で成り立っています。

対馬海峡は、朝の日の出と同時に水平線の彼方に僅かに見える次の島に向かって漕ぎ出して、火が沈むまでに辿り着くのです。
万が一、日没までにたどり着けなくても、篝火などを頼りにその日のうちに辿り着く必要があります。
海上に停泊したら流されて遭難します。

851 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:44:38.76 .net
>>569
>出発であれば、安全な方向へ漕ぎ出して、外洋に出てしまえばいいのだから、暗くても安全。
>目印となるのは当然夜空の天体しかなく、
>多少の曇りなどでも所在がわかる、「月」を目印にするのが最も実用的。
>月から方角を読んで、対馬海峡を渡海する。
>月読とはそういうこと。

なるほど。

852 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:44:49.73 .net
>>842
個人の感想文


>>843

> >>827
> >手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
>
> もっと出たはずです。
> 対馬海峡を3日で渡るためにはもっと速くなければいけない。

九州まで倭人の古代船で行ったのか?

853 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:50:14.50 .net
公園の手漕ぎボートでも5ノットは出るそうです。
これが対馬海峡を3日で渡るため必要な速度。
物理的にも可能なように見えますね。
準構造船にたくさんの漕ぎ手を乗せて、この速度を実現していたのでしょう。
それこそが志賀島の海神族が支配する倭国が対馬海峡貿易を独占できた理由です。

854 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:53:11.05 .net
>>852
>九州まで倭人の古代船で行ったのか?

>>807
>>808
倭人の船で行き来している。

>>850
だからそれは机上の空論でしたよと。
夏至でも1日45km
年平均だと1日30km
1日1000里水行は物理的に不可能。

壱岐対馬なら、固定の2島間渡海なので、
島影が見えなくても、月から方向を決めて漕ぎ出せる。
だから月読。

855 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:54:33.29 .net
>>852
>九州まで倭人の古代船で行ったのか?

少なくとも対馬海峡の渡海の部分は倭人の船でしょう。
倭人は自由に対馬海峡を南北に移動して交易していると魏志倭人伝に明記してあります。
また、大率が伊都から北、つまり対馬海峡の制海権を掌握していたようです。
このため、朝鮮半島南岸の狗邪韓国も倭人が住む領域だったわけです(狗邪韓国は韓伝ではなく倭人伝に書かれている)。

856 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:56:51.91 .net
>>853
そりゃ公園の手漕ぎボートだから速いだろうさ
自重だけだし

海で人物を積んだ準構造船だと1日1000里は_

857 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 08:57:06.94 .net
>>854
>だからそれは机上の空論でしたよと。
>夏至でも1日45km
>年平均だと1日30km

月読で日の出前に出港しても構いませんが、1日80キロ進めないと対馬海峡は渡れません。
そして現実に倭人は渡っていた。
いくら無理と主張しても、渡っていた事実があります。

858 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:01:00.32 .net
>>857
>1日80キロ進めないと対馬海峡は渡れません。
ほらね嘘をつける人だから、1日1000里なんて無理をゴリ押しし続ける。

>>568
>朝鮮半島〜対馬が最短でも60km
>対馬〜壱岐が最短で50km

859 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:01:14.32 .net
>>854


> >>807
> >>808
> 倭人の船で行き来している。


推論の仕方がいい加減すぎる、倭人が渡海した記録を持って来ただけじゃん

860 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:05:43.37 .net
対馬海峡渡海は、渡海だから、夜明け前に出航することで距離を稼げる。

沿岸航海では、夜間航行は不可能だから、平均1日30kmしか進めない。夏至で45km。

「1日1000里の法」は物理的に無理。

861 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:06:22.94 .net
3交代で漕げば1日24時間進める

862 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:06:55.35 .net
>>859
倭人の住む壱岐対馬で、倭人が行き来するのに、倭船じゃなければなにで渡海したの?
飛行機?

863 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:08:17.00 .net
>>861
日照時間の制限があるから無理。
3交代制だと速度がさらに落ちるだけ。

対馬海峡渡海は、渡海だから、夜明け前に出航することで距離を稼げる。
沿岸航海では、夜間航行は不可能だから、平均1日30kmしか進めない。夏至で45km。
「1日1000里の法」は物理的に無理。

864 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:18:20.77 .net
とりあえず何でも「無理」と言うことで存在感を出す戦法?

865 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:19:09.46 .net
>>858
最短距離ではなく、港から港でしょ。

866 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:23:35.50 .net
>>863
魏船

> >>861
> 日照時間の制限があるから無理。
> 3交代制だと速度がさらに落ちるだけ。
>

ネットに良くいるただの言い張り君(笑

867 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:27:51.27 .net
>>866
魏船が速かった一次資料は?

868 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:30:33.26 .net
>>865
到着の時だけ太陽があればよくて、
夜間進めるのなら、日照時間が関係なくなるから、80kmでもなんでもいいな。

869 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:31:48.31 .net
>>867
俺の要求した資料をなにひとつ出せなかった無能にさく時間はない、まず自分が1次史料だせ、無能

870 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:33:18.21 .net
>>868
古代の夜は明るいしね

871 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:39:44.19 .net
>>867
下は東京国立博物館の再現船
https://tabiris.com/wp1/images/2019/07/sangokushi12.jpg

倭船のほうが遥かに速かったと想定される。

872 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:46:02.86 .net
>>870
謎な主張。
現代の方が夜は明るいと思うが?

873 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:47:41.84 .net
>>868
夜間と言っても、夜明け夜少し前からという程度だろう。
夜通し漕ぎつづけるだろうか?
3交代は運ぶ人員が増えてしまうから効率的ではない。

874 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 09:53:57.92 .net
>>873
3交代でなく2交代でも1日でいける
そもそも漕ぐ人数分だけ乗ってるわけじゃないぞ

875 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 10:08:37.30 .net
>>872
標高が高い山とか、海外で車走ってないところいけば分るけど、空気がきれいで近辺になん照明もないから星がとても明るく見える

876 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 11:37:21.56 .net
>>873
なんかの長距離大会で、4人の2交代制で一人が12時間連続で漕ぎ続けてたから、
1日だけなら2交代制で長時間航海できそう。
連日は当然無理だけど。

朝鮮半島の沿岸航海だと、同じ漕ぎ手で7千里だろうから、1日30kmでもきついんじゃないかな。
倭船で対馬海峡渡海だと、壱岐や対馬で倭人漕ぎ手を交替や補充できるだろうから、条件が違うね。

安全を見越して、昼の15時に到着するように出発するなら、
2ノット=時速3.6kmだと、
80kmで22時間 前日の17時に出発
70kmで19時間 前日の20時に出発

夏だと日の入りが19時半だから、夕方17時に到着するでよくなり、
2ノット=時速3.6kmだと、
80kmで22時間 前日の19時に出発
70kmで19時間 前日の22時に出発

夜間航海の途中で曇ったら途端に遭難の危機だから、
目印は「月」が必須。
島影が見えるのが一番だから、夏至に近ければ近いほど安全。

877 :日本@名無史さん:2021/12/26(日) 22:29:49.71 .net
何故だ

878 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 03:39:50.05 .net
>>836
>彌馬獲支&狗奴國王のペアは、大倭=東方開発重視ですから、
なるほど。
正始八年(247年)に卑彌呼と難升米が相次いで亡くなり、弟夫婦も敗北したことで、
伊都大率系=北方重視派から政策転換がなされたわけですね。
ならびに狗奴國と終戦したので、九州外の開発をする余裕が出来た。

>>625
大彦命は倭迹迹姫命と兄妹なので、倭迹迹姫命の母は大彦命の母でもある。
三代に渡って物部氏に嫁いだ母方の実家である近江に、
大倭系の彌馬獲支大王の東方重視政策に従い、稲部遺跡を建設した。
何故近江かというと、さすがについ最近まで戦っていた狗奴國系の大倭担当地域に、
鉄器製造拠点を作るのはまだ危険だという判断だったのでしょうね。

琵琶湖畔に稲部遺跡を作ったということは、
丹後扇谷遺跡や淡路島舟木遺跡のように、北部九州に鉄器を輸送するのが目的ではなく、
本腰を据えて近畿開発を開始した、ということですね。

879 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 03:48:05.04 .net
大率系のハニ弟夫婦や東の拘奴國は軍事的に滅ぼした。

狗奴國との戦いで、彌馬獲支友軍の将として討ち死にした難升米の親族である、
長崎伊邪國や長野〜東日本のタケミナカタ系=前方後方墳の一族は、
難升米の喪中だったので卑彌呼の後継者争いとは無縁で、
勝者である彌馬獲支に、地方豪族としてすんなりと召し抱えられた。

大彦命は、拘奴國を滅ぼした後、配下となった長野から東日本へと進軍し、
恭順する地方豪族多数、たまに抵抗する者は制圧し、占領政策をこなしてから、
彌馬獲支大王の下へ帰ってきたのでしょう。

そして稲部遺跡を建設して近畿開発ですね。

880 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 03:54:06.47 .net
青龍三年銘の方格規矩四神鏡が副葬された大田南5号墳や安満宮山古墳などは、
倭迹迹姫命の親族であると同時に、大彦命の親族でもある、ということですね。
もう1枚の茨城県那珂郡のものも、大彦命の東日本東征と縁があるのでしょう。

>>831
大風呂南1号墳の被葬者が河内青玉繋で、ハニ弟の母方の祖父。
であれば、
大田南の方は大彦命一族であると同時に倭迹迹姫命一族でもあり、
大風呂南のハニ弟一族を倒した側となりますね。

881 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 06:22:09.59 .net
>>878
>本腰を据えて近畿開発を開始した、ということですね。

「倭人(阿波勢力)」がね。   @阿波

882 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 06:22:59.65 .net
>>879
>そして稲部遺跡を建設して近畿開発ですね。

「倭人(阿波勢力)」がね。   @阿波

883 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 06:26:31.53 .net
>>880
>もう1枚の茨城県那珂郡のものも、大彦命の東日本東征と縁があるのでしょう。

「阿波」の「那賀」地方出身だね。 旧狗奴国だ。 いわゆる関東忌部の進出痕跡。   @阿波

884 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:04:53.31 .net
祟り、ですね。

現代の我々は、感染症が流行した場合、
ウイルスなどの病原体が原因、とわかっていますから、
原因となる病原体を突き止めて、マンボウやワクチンで対処しようとしますね。

弥生時代の人々は、疫病が流行した場合、
何らかの祟りが原因ではないか、と考えて、
原因となる神なり呪物なりを突き止めて、対処しようとしたわけですね。

もちろん経験的に、人流が良くないとか、
手洗い、火を通して滅菌する、などの基本知識はあったでしょうけども。

885 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:06:58.59 .net
>>831
青龍三年(235年)に洛陽で大流行した疫病が、
倭地に持ち込まれて、まずは伊都や奴國から猛威をふるい、人口の半分が亡くなっていった。

現代の我々は、はしかなり天然痘なりのウイルスが云々と科学的に考えますが、
当時の人々にとっては、何かわからない強大な力が働いて、無作為に周囲の人々が亡くなっていく。
まさに祟りそのものが現実に目の前に出現していたわけです。

現代人も、COVIDが流行した当初は、
ウイルスに感染して死んでしまう恐怖を、誰しも感じたはずです。

倭人伝時代の倭の人々は、強大な力によって死んでしまう、
それ以上の恐怖を味わっていたわけですね。

>>832
>宮中=旧三輪町の宮殿から、伊都国関係者と、奴国関係者を、退去させ、
>それぞれを笠縫邑と長岡岬の臨時療養所に集めて隔離したわけです。
>天照大神=伊都国関係者
>倭大国魂神=倭奴国王関係者
>しかしながら、渟名城入媛は疫病に感染してしまい、痩せ細って倒れた。
疫病という祟りに対する、彌馬獲支の対処は、非常に理に適っていたわけですね。

祟りの震源地である、伊都と奴国からの人流を止める。(マンボウ)

伊都国関係者は笠縫邑へ、奴国関係者は長岡岬へ、別々に隔離することで、
伊都国と奴国のどちらが祟りの原因であるかを見極める。(感染経路・感染源の特定)

で、倭大国魂神が原因である、と特定したわけですね。

大国主=奴国王
倭大国魂神=倭奴国王金印
が、原因だったと判明したわけです。

886 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:07:23.45 .net
魏志倭人伝の時代は3世紀ですから、1世紀の奴国王失脚からまだ200年しか経っていません。
だから、1世紀の記録もまだふんだんに残っていた。

21世紀の我々とは全く異なり、
「7世紀の壁」
の向こう側の常識の中で生きていたわけですね。

ですから、金印外交とそれに続く疫病流行の組み合わせで、
思い出したのですね。

>>696
奴国王=大国主、が後漢の権威を利用しようとして、『漢委奴國王』の金印を入手した。

大夫タケミナカタの渡漢や、金印後漢使の来倭など、金印外交によって、
大陸から疫病がもたらされた。

繁栄する奴国への人口集中、金印後漢使の歓待、などのため奴国の森林を乱伐採して、
大洪水発生。

奴国王は失脚した。

887 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:08:35.03 .net
正始元年に『親魏倭王』金印がもたらされたまでは良かったが、
疫病が大流行し、
邪馬壹國の人々は、迫りくる祟り=疫病で死亡率50%という現実の恐怖
に懼れ慄いていた。

『漢委奴國王』金印の祟りは恐るべきもので、
倭国史上最高位のシャーマンである、卑彌呼女王も死去してしまった。
もはや打つ手の無い絶望的状況だったわけですね。

『漢委奴國王』金印が、倭国歴史の表舞台に立つたびに、
・1世紀と3世紀の二度に渡って、全国民の半数の命を奪っていった
・絶頂期だった奴国王は大洪水で失脚した
・絶頂期だった難升米も討ち死にした
・彌馬獲支の息子も伊都にいてやられた
・卑彌呼女王も死去してしまった
・渟名城入媛命が鎮めようとしたがダメだった
・よくよく考えたら、奴国王が投降する時に、吉武高木宮殿と同じ高さの社殿を立てて弔うと約束したのに、倭国乱の混乱でやってなかったよヤバイ

などなど、3世紀邪馬壹國の人々にとっては、
現実的な生死にかかわる、洒落にならない祟りだったわけですね。

888 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:09:49.14 .net
>>834
卑彌呼死去後の後継者争いが発生し、
挟撃による滅亡を回避するため、
彌馬獲支は狗奴國と同盟します。

で、大叔母の倭迹迹日百襲姫命=狗奴國最高位のシャーマンに、祟りの対処法を相談したわけですね。

倭迹迹日百襲姫命と夫の狗奴國王=(元)大物主も、
感染源の『漢委奴國王』金印なんて押しつけられたらたまりませんから、

現実的な大物主=大倭長官は、同族アジスキタカヒコネ系カモ族の大田田根子に、
洒落にならない祟りの倭大国魂神=『漢委奴國王』金印は、ライバルワニ族の市磯長尾市に、
それぞれ割り当てたわけですね。

889 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:15:05.17 .net
現実として、致死率50%の洒落にならない猛烈な祟りに、
各部族が逃げ回る状況。

彌馬獲支の対応によって、祟りの原因は、
『漢委奴國王』金印と判明した。

卑彌呼女王すら死去し、渟名城入媛命も失敗し、
倭迹迹日百襲姫命もドン引きしている今となっては、
もはや祭祀で鎮めることは不可能で、封印するしかない。

一番の候補は、そもそも『漢委奴國王』金印を200年秘匿していた難升米一族だが、
長崎や長野なんて辺境に任せても、
現実的にはまたどこぞの勢力が金印を使って独立宣言したり、
霊的には制御不能なさらなる祟りが発生するかもしれない。

ということで、ワニ族の市磯長尾市、君に任せた。

そもそも奴国王=八千矛の神は、中広型銅矛を奉じて、
男系奴国王&女系ワニ、の組み合わせで天下を取って、『漢委奴國王』金印を入手した。
難升米のタケミナカタにしても、女系の祖は安曇族の八坂刀売神だから、ワニ。
奴国王居館の不彌國雀居遺跡と近い、志賀島。
そこならワニ族の管理下にあるし、余人は入りこめないし、
『漢委奴國王』金印を封印するのに最適だ。

ということで、ワニ族に託されて、
彌馬獲支重臣とワニ族(安曇族)市磯長尾市らごく少数の者が相談して、秘密の場所に厳重に封印して、
1400年間封印されたわけですね。

890 :日本@名無史さん:2021/12/27(月) 23:24:50.57 .net
>>880
現代人の我々からすれば、
長年長崎に秘匿されていた『漢委奴國王』金印よりも、
洛陽から贈られた銅鏡百枚の一部である、青龍三年銘の方格規矩四神鏡のほうが、
病原体が付着していそうと感じますよね。

しかし、3世紀の人々は病原体の存在を知りませんから、
祟りとして原因追及して、
『漢委奴國王』金印が原因と突き止めたわけですね。

その霊的な意味では、
『漢委奴國王』金印の封印が1784年に解かれた。

国宝指定されて、まあいいかと穏やかに過ごしていたら、
金印偽造説などというふざけたことを言う輩が出現して、
ふざけるなと久しぶりに祟りをなした。

のがCOVIDだったりするかもしれませんね。

891 :日本@名無史さん:2021/12/28(火) 00:02:17.93 .net
卑彌呼が宮室に籠っていて、ごくわずかな人しか面会できない、というのは
後漢書にも記載されていますから、
卑彌呼が倭国(邪馬壹國)女王に共立されたのは、後漢代だということになります。
つまりは後漢滅亡の220年より前ですね。

>>650
216年に狗奴國王が魏王曹操から鉄鏡を貰ったということは、
狗奴國王が難升米父と結託して、筑後大倭→佐賀大坂→末蘆國吾田→対馬海峡を占領したのは、
卑彌呼が邪馬壹國女王に共立された後、ということになります。

公孫氏が独立したのが189年、帯方郡の設置が204年ですから、
189年以降、
おそらく204年〜216年の間に、狗奴国によって占領される前の対馬海峡を保有していた、
共立女王卑彌呼が、公孫氏と外交して、その記録が楽浪郡に残っていたのを、
後の魏が接収して、陳寿の元に渡った、と考えられますね。

なにが言いたいかというと、
卑彌呼が邪馬壹國になってからの領土の順序として、
@(?〜215年頃)壱岐対馬を領有していた
A(215年頃〜220年代中旬くらい)壱岐対馬を狗奴國に占領されていた
B(220年代中旬くらい以降〜)壱岐対馬を領有していた
という順番になるわけですね。

Aの時期は、糸島平野は危険地帯になりますから、
卑彌呼は山城でもある高祖宮、もしくは旧領の女王國=奴國不彌國(+α)、
にいたことになります。

@Bの時期は、治世するなら山の上よりも平地の方が便利でしょうから、
大率だけでなく、
卑彌呼もまた、細石神社を中心とする地域で執務していたのではないか、
ということですね。

892 :日本@名無史さん:2021/12/28(火) 00:08:30.03 .net
卑彌呼の母系は近江ですから、
上で検討したように、オルドス式短剣の渡来系工人を抱えていた、
カモ系コノハナサクヤヒメの子孫である可能性が非常に高いですね。
(さらに丹後の籠神社や、琵琶湖で祀られている女神からは、
 饒速日と市杵島姫命の血筋も引いている可能性が高いです)

卑彌呼の母系はコノハナサクヤヒメ
男系は天孫族ニニギ

となると、卑彌呼にとって細石神社は、
男系女系ともに祖先である大王夫婦の宮であったことになります。

ただ、卑彌呼は独身でしたから、
母方のウマシマジ系の曽根遺跡群の平原遺跡に入ったことになるのでしょう。

893 :日本@名無史さん:2021/12/28(火) 00:18:48.44 .net
九州説の方たちが、面白い伝承を伝えていますね。

伊都説だと、ニニギやコノハナサクヤヒメに比定される、三雲南小路遺跡。
元々は三雲南小路遺跡を社領に収めていた細石(さざれいし)神社に、
金印が保管されていた、という伝承です。

これはおそらく、細石神社に江戸時代まで金印が保管されていた、ではなく、
卑彌呼時代の記録、ではないでしょうか。

>>2
大率長官=難升米は、普段は伊都で執務していた、のですから。
その執務室が、細石神社だった可能性が高いですね。

卑彌呼にしても、
>>891の@Bの、壱岐対馬を領有していた時代には、
細石神社社領に宮室を構えていた可能性がありますね。

894 :日本@名無史さん:2021/12/28(火) 00:18:56.14 .net
216年に曹操=魏によって保障される鉄鏡を得た狗奴國王が、
220年に後漢が滅亡して『漢委奴國王』金印が失効したのをきっかけに、
難升米一族を軽視し始めた。
それによって、難升米は狗奴國王を見限って、
『漢委奴國王』金印と対馬海峡保有権を手土産に、
卑彌呼サイドに寝返った。

よって、難升米が卑彌呼側になった220年代中旬以降に、
『漢委奴國王』金印は細石神社=当時は三雲南小路遺跡横の由緒ある宮
にあった。

『親魏倭王』金印を取得する時には、
政権の正統性を証明するために、『漢委奴國王』金印が役に立った。

特に、正始元年(240年)から、正始八年(247年)までは、
『漢委奴國王』金印だけでなく、『親魏倭王』金印までもが、
細石神社にあった。

東夷世界では稀な金印が、二つもあるという、
後の日本国国家に歌われるにふさわしい状況であった。
とも想定されますね。

895 :日本@名無史さん:2021/12/28(火) 00:26:50.92 .net
『漢委奴國王』金印

洛陽
→58年雀居遺跡
→70年長崎西部
→210年代狗奴國勃興に使われる
→220年代中旬 細石神社
→247年 志賀島
→1784年 福岡藩
→19世紀以降 東京国立博物館


『親魏倭王』金印
洛陽
→240年細石神社
→247年與止日女神社

→あそこ

896 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 20:32:02.37 .net
>>891
>卑彌呼が邪馬壹國になってからの領土の順序として、
>@(?〜215年頃)壱岐対馬を領有していた
>A(215年頃〜220年代中旬くらい)壱岐対馬を狗奴國に占領されていた
>B(220年代中旬くらい以降〜)壱岐対馬を領有していた

狗奴國影響下の瀬戸内侏儒國に絡めて考えると、
>>666
萩原墳墓群のうち、
2号墓が先で、中国朱(魏の陝西省)
1号墓が後で、日本朱+画紋帯神獣鏡(楽浪鏡と同范)
どちらも積石の円墳。

楯築墳丘墓が、中国朱と日本朱を混合
双方中円墳。特殊器台。

積石の萩原墳墓群は男系は奴族で、円墳だから瀬戸内派生カモ系。
海外との貴重な交流品が副葬されているから、対馬海峡を経由する外交に密接に関わった家臣。

楯築墳丘墓も基本的に円墳なのでカモ系。
特殊器台は殉葬文化で奴族の可能性が高い。
うきは市の西ノ城古墳も双方中円墳だったので、狗奴国王族かも。

897 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 20:34:50.06 .net
時系列では、
萩原2号墓は中国朱なので、
Aの時期に狗奴国王が狗古智卑狗を使者として後漢の有力者曹操に朝貢した時に貰った中国朱。
Bの時期になると中国朱が入手できなくなりますから、
枯渇するか、あったとしても節約するでしょうから、
萩原2号墓は216年〜220年と考えていいでしょう。

楯築墳丘墓は中国朱と日本朱を混合しているそうです。
Bの時期に副葬されたので、中国朱が入手できないことが確定して、
中国朱と阿波朱を混ぜた、可能性と、
Aの時期に副葬されたが、外交で得た中国朱と、自領で採れた阿波朱を、混ぜた可能性、とがあります。
216年以降であることは確実ですが、どこまで新しいかは朱からはわかりませんね。
狗奴国王の治世に亡くなった、狗奴国王の父でしょうか。

萩原1号墓は日本朱なのと、楽浪鏡を貰っているので、
魏志韓伝
『建安中、公孫康〜爲帶方郡〜興兵伐韓濊〜是後倭韓遂屬帶方』
公孫康が韓と濊を討って、倭や韓が公孫氏に朝貢するようになった、220年以降でかつ、
狗奴国が対馬海峡を保有していた期間ですから、
220年〜220年代中旬と考えられます。

898 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 20:35:39.38 .net
親卑弥呼の東の日本海沿岸倭種・拘奴國について考えると、
丹後の、大風呂南1号墓が中国朱
島根の、西谷2号墓3号墓も中国朱
丹後の、赤坂今井墳丘墓第4埋葬女王墓が、伊勢の丹生鉱山朱

>>625
大風呂南1号墓は卑彌呼のハニ弟の父で、女王國の有力な後援者。
丹後若狭湾水軍将軍。
@の時期。

四隅突出型墳丘墓である西谷2号墓3号墓は、
親卑彌呼である拘奴國の支配官であり、中国朱や鉄器がふんだんにある。
@かB。

赤坂今井墳丘墓の女王は、鉄器やガラス製品は大量にあるのに、
朱だけ日本朱。
なので、Aの時期の、なるべく遅い時期に亡くなったことになりますね。
225年前後。

899 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 20:37:46.65 .net
赤坂今井墳丘墓の女王が、丹生鉱山の水銀朱を副葬していることから、
平原女王卑彌呼〜日本海沿岸拘奴國〜卑彌呼の故郷である琵琶湖域(旧伊勢?)〜現伊勢、と同盟が繋がっていたことがわかります。

>>696
現伊勢から東方は諏訪に逃げ込んだタケミナカタがまとめ上げた領域(前方後方墳やS字甕)なので、
難升米が卑彌呼側に寝返ったB以降は、難升米によって仲介されて、
伊勢経由で繋がっていきますね。
平原遺跡に御柱が立ったわけです。

赤坂今井墳丘墓の女王は225年に亡くなったので、
240年に卑彌呼が入手した銅鏡百枚の一部である、方格規矩四神鏡もまた無いわけですね。

900 :日本@名無史さん:2022/01/23(日) 23:10:30.66 .net
>>897
楽浪鏡を貰いさえすれば、副葬するのは後日のいつでもいいので、
萩原1号墓は220年以降ではあるものの、どこまで新しいかは決まりませんね。
新しい方は土器での制約になってきます。

>>898
228年から公孫淵の時代になりますから、
いくら対馬海峡を保有していても、
Bの時期のうち、238年に公孫氏が滅亡するまでは、魏と外交することはできませんね。

西谷2号墓3号墓が中国朱を入手できたのは、
@か、Bとすれば240年以降(中国朱を携えて梯儁が来倭)

赤坂今井墳丘墓の女王も、邪馬台国勢力に中国朱が枯渇してくるAの後半以降であることは確実でしょうが、
Bになっても240年までは中国朱が入ってこないので、
225〜239年、の埋葬ということになりますね。

>>899
>卑彌呼の故郷である琵琶湖域
正しくは、
卑彌呼の母方の実家である琵琶湖域、でしたね。

卑彌呼自身の生まれは、福岡県の、福岡市〜筑後川北岸、の範囲のどこか、ですね。

901 :日本@名無史さん:2022/01/24(月) 04:09:16.58 .net
博多湾の玄海島の西隣りに、大机島と小机島がありますね。

弥生時代の博多湾沿岸からは「案」(文机)が出土しています。
雀居遺跡からも大小2つの案が出土しており、大きい方には細かい傷がついていますね。

外交文書などの長文を作成する際には、文章全体を推敲する必要がありますから、
大机に、木簡をずらりと並べて俯瞰し、
一本ずつ小机に取り出しては墨書して、また大机に戻す。
書き損じなどあれば、大机の上で、刀子(消しゴム)で木簡を削ったので、
大机には細かいキズがいっぱい残ったわけですね。

そこで大机島と小机島ですが、
吉武遺跡(漢代の旧伊都)からは糸島半島の出っ張りで見えないんですね。
ところが雀居遺跡(不彌國)からは、
能古島(オノコロ島)と、志賀島&海の中道(天の浮橋)の間から遠望できます。

と、いうことは、雀居遺跡に居た奴國王が、大机島と小机島を名付けた可能性が高くなりますね。

ということは、奴國王の書斎には、右に大机を、左に小机を、それぞれ置いてあった。

ということは、奴國王は左手に筆を持って、右手で大机の木簡を取り出したり戻したりしていたことになりますね。

奴國王は左利きだった。

902 :日本@名無史さん:2022/01/24(月) 09:38:39.66 .net
邪馬台国=福岡説 PART5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1642983858/

903 :日本@名無史さん:2022/04/24(日) 02:52:02.85 ID:1u4Z06iO/
魚売りの美女・・・ 魚籃観音菩薩
http://shinshizo.com/2012/11/%E9%AD%9A%E5%A3%B2%E3%82%8A%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%A5%B3-%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E9%AD%9A%E7%B1%83%E8%A6%B3%E9%9F%B3/

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