2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

527 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:27:42.47 ID:JigDkZuWg
新町支石墓群
 24号支石墓
  木棺墓・低身長抜歯屈葬・突帯文土器壺
  左大腿骨頸部に柳葉形磨製石鏃が嵌入
  首級も埋葬

長野宮ノ前遺跡
 12号支石墓
 木棺墓
 遺体の胸部と思われる箇所から柳葉形磨製石器2とどめをさすように交差

志登支石墓群
 6号支石墓 打製石鏃6
 8号支石墓 柳葉形磨製石鏃4

三雲加賀石支石墓
 組み合わせ式木棺墓・翡翠管玉12
 柳葉形磨製石鏃6

井田用会支石墓
 隣接する石棺から柳葉形磨製石鏃1

528 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:29:17.32 ID:JigDkZuWg
支石墓には副葬品自体が稀なのに、
ごく一部に石鏃が入っていて、
埋葬状況がわかる2つは戦死に伴うものですから、

支石墓勢力、正確には糸島地方の支石墓勢力は、
柳葉形磨製石鏃勢力と交戦した可能性が高いということになりますね。

可能性だけならば、
朝鮮半島から渡って来た支石墓勢力が、元の朝鮮半島勢力と仲違いして、戦った。
とも考えられますが、

西北九州が九州支石墓の初発で、
壱岐対馬に支石墓が無いことからすれば、
まず西北九州に中国から直接渡来した集団が支石墓をもたらして、
在地の縄文勢力に次第に溶け込みながら、
ねずみ返しの普及による稲作再開と稲生産量の増加、
養蚕の開始、
などを普及させつつ北部九州を国家勢力として発展させ、
鉄資源と、中国へのルートを求めて、対馬海峡ごしにいわゆる異文化交流を開始した。
とも考えられますね。

またこの場合も、
九州西岸と朝鮮半島西南への、共に中国の同じ地域からの漂着渡来なので、
当然似通った部分が多くなる、ということにもなります。

529 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:31:15.94 ID:JigDkZuWg
>>489
太伯集団が、昭王の大規模東征南征に遭って、
台湾へ疎開、あるいは台湾からさらに南西諸島へ疎開中に、
台風などで遭難して、
その一部だけがなんとか島原半島などに漂着して、保護された。
とも考えられるわけですね。

であれば、集団の計画的一時疎開だったので、
蚕紙(休眠卵)や桑も持参していた、
可能性が高いことになります。

支石墓の主体が、当初の箱式石棺墓から、
木棺墓抜歯縄文人になっていって、
支石墓が消えて、
吉武高木遺跡には、木棺墓大王+甕棺墓近衛兵、の組み合わせになりますから、

支石墓+石棺墓=渡来直系勢力は、元々十数人や数十人の比較的少人数で、
重要人物が討ち死になどで死去したりして、

甕棺墓養蚕有力者の一部や、豊国系石棺墓の一部などとなって、
血縁者が吉武高木勢力や豊国ワニ勢力に溶け込む形で残ったのではないか、
と予想されますね。

530 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:00.48 ID:JigDkZuWg
>>476
大分県南部の内陸にも花崗岩の表層地質があるのですが、
ここにも豊後大野市の平石遺跡から甕棺墓が出土しているらしいですね。

甕棺墓の主要分布域からこれだけ離れた花崗岩の土地からも
甕棺墓が出る=養蚕していた、
ということは、
甕棺墓勢力=養蚕勢力というのは、九州縄文人が強く関与しており、
数千年の間、九州で暮らしていたので、九州の土壌を隅々まで知り尽くしていたということですね。

ただ、平石遺跡も対馬海峡から遠いので、輸送コストの問題で、
背振山系の甕棺墓密集地帯との競争に勝てず、甕棺墓がすぐに撤退したということでしょうか。

あとは九州の花崗岩土壌だと宮崎県の日向市ですかね。
甕棺墓があるとしたら。
対馬海峡からは最も遠いので、厳しいかもしれませんが。

ただ、甕棺墓養蚕とは関係なかったとしても、
やはり花崗岩の土壌だから、後の日向勢力が入植していったのでしょうかね。

531 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:44.71 ID:JigDkZuWg
甕棺墓も土器ですから、形式は似ていて、

刻目突帯文 ※原山支石墓群は刻目突帯文のみ、弥生なし

板付T

伯玄社

金海  ※吉武高木遺跡

と変遷していきますね。

<刻目突帯文〜伯玄社> 初期
<金海〜城ノ越〜汲田> 吉武高木王家
<須久〜立岩古式>   甕棺墓大型化・副葬品豪華に
<立岩新式〜桜馬場〜三津> 三雲井原大王時代

532 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:34:50.28 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代の甕棺墓分布域は、支石墓の分布域とほぼ同じですね。

糸島平野や糸島半島西側に分布していますし、
大友遺跡にも夜臼式のが入っていますが
高祖山を越えた東には、早良区にごくわずかに出土しているだけです。
また背振山系の南では、鳥栖市が東限です。

伯玄社時代になって、いわゆる後の「奴国領域」に入っていって、
背振山系を取り囲む甕棺墓密集地帯が早くも完成します。

新たに入っていった「奴国領域」が、
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡
ですね。

533 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:35:52.88 ID:JigDkZuWg
九州には、考古学的にも文献でも女性指導者が多いわけですね。

縄文時代については、
男性は、狩り、舟で漕ぎだす漁、畑の種まき前の掘り返し作業
女性は、採集、素潜り漁、畑の手入れ、土器製作
を主に分業していたはずですね。

そうなると、縄文時代の九州集落のほとんどは海に面していますから、
男性リーダーは、「舟で漕ぎだす漁」を指導する場面が多くなるので、
天候不順などで遭難する危険性が高かったわけですね。

ですので、集落周辺に留まっている女性を村長にしたほうが、
村長に不測の事態が起きる危険性が低くて、組織の動揺が少なくて済むので、
女系指導者社会となっていったわけでしょうね。

その流れのまま、弥生時代が始まって、
甕棺墓養蚕時代に突入したので、
今度は女性が養蚕機織りをすることになって、これまた女性が外貨獲得の稼ぎ頭になって、
女王制度が続く下地になったのでしょうね。

534 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:36:42.87 ID:JigDkZuWg
>>179
難升米が司馬懿に自らの故郷について話したことから、
伊邪國(伊耶國)が今の長崎県。


倭国の官の頂点が爾支(ニギ)、その下の地方官が卑狗(ヒコ)
倭国周囲の倭国領外の官が彌彌(ミミ)

その原型は、
伊邪國(伊耶國)の複数部族を束ねていた大首長が(爾)支

伊邪(伊耶) ノ (爾)支

伊邪國(伊耶國)と血縁同盟することで、
伊邪國(伊耶國)から見ると領外の女大首領が、

伊邪(伊耶) ノ (彌)彌

535 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:37:26.75 ID:JigDkZuWg
>>427
古代豊國に、西の古代出雲國と東の古代伯伎國があって、
八雷神がいて、
山鹿貝塚女王を共立していた。

それと同様に、
古代伊邪國があって、長崎県〜佐賀県福岡県西部〜熊本県北西部の範囲で、
複数部族がいて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支 を戴いていた。

おそらく男王だった、
「<伊邪(伊耶) ノ (爾)支> 之所都」 = 「伊都」

536 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:38:58.95 ID:JigDkZuWg
太伯集団は伊邪國の島原半島に漂着して、現地縄文人に保護された。

伊邪國縄文人は、伊都へ使いを出して、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に報告した。

文字が無いので詳細は伝わらず、数十年おきにあるいつもの単身漂着者と思われて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
からは、親切にしてやれ、とだけ命がきた。

一命をとりとめた太伯一行は、未知の島国で何の地理的状況もわからず、
とりあえずは生きていかなければならないので、
島原の縄文集落に混じって、生活を始めた。

島原の集落民が、ハツカネズミに苦しめられているのを見て、
ねずみ返しを作って倉庫につけてあげて感謝された。
稲は島原集落の畑にあったので、持参金属器を使って水田を作って増やした。

持参した桑枝を刺し枝して茂らせ、(桑は成長力が旺盛)
翌年に四眠蚕の休眠卵を孵化させて、養蚕を開始した。

養蚕の維持と、
助けてくれた島原縄文人に迷惑をかけないように、自分たちが食べる分の稲を育てるのとで年月が経過した。

537 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:39:48.33 ID:JigDkZuWg
年月が経過してようやく、
島原に漂着した太伯集団が何やら凄いらしいという噂が、
伊都の
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の耳に入り、
太伯集団のリーダーが召喚された。

ねずみ返し、養蚕、水田、金属器、が
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に伝えられた。

ここに伊邪國・伊都の弥生繁栄がスタートした。
菜畑遺跡。


刻目突帯文の出現については、
必ずしも水稲の開始と同期する必要はありませんよね。

もちろん水稲の開始と一緒に伊邪國で開始されたのかもしれませんし、
ねずみ返しの方が先に東方へ広まってから、
刻目突帯文は東方のどこかで誰かが始めて、それが西でも取り入れられた、
でもいいわけです。

538 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:40:45.20 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代に、
伊邪國の、伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の、山鹿貝塚女王系と、
が婚姻同盟して、

能古島に水軍を集結させてから、

>>479
>>532
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡にいたであろう、
「中間の縄文勢力」を挟撃したことになりますね。


能古島に水軍を集結させたということは、
「中間の縄文勢力」もまた、複数部族の寄り合いだったでしょうが、
その大首領が、
おそらくは那珂川流域の春日市の伯玄社遺跡にいたのでしょうね。

539 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:41:24.37 ID:JigDkZuWg
伯玄社時代になって、
北部九州は、
伊邪國の男王 伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の女王 伊邪(伊耶) ノ (彌)彌 によって治められていた。

伊都の範囲は東に広がり、
高祖山を挟んで、
東に、ひのもと(>>291
西に、ひむかい

540 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:05.22 ID:JigDkZuWg
数千年暮らしてきた九州の土地を知り尽くしていた
伊都上層から、
九州では銅や鉄を入手できない
だが半島南東部には鉄産地があるらしい、
と知った太伯集団が、侵攻を献策。

海峡を渡海しての侵攻が始まる。

541 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:46.43 ID:JigDkZuWg
投馬國を支配下に加えたことで、
旧来の縄文系寄り合い所帯から進化して、
より中央集権を高めた、
吉武高木大王が誕生。

ただし、吉武高木大王は、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
のみから産まれているので、

吉武高木遺跡には、木棺墓大王と、甕棺墓近衛兵。
石棺墓ワニは、対馬海峡管理など海上検閲を担当(大率の前身)

542 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:44:36.88 ID:JigDkZuWg
吉武高木大王の王族将軍が、
半島の鉄産地の占領を目指して出征したが、
鉄器の上流を完全占領するのはさすがに難航したため、

鉄資源の入手ルートだけは確立してから、
日本海沿岸統一へ変更。

金属製武器の優位性によって、中ノ浜遺跡などの日本海沿岸縄文勢力を制圧し、
丹後半島に花崗岩の真砂土地域を見つけて、
扇谷遺跡を建設運営。

吉武高木大王に至高の鉄剣を献上。

543 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:45:44.77 ID:JigDkZuWg
オー月ヒメの話は、つまり、

吉武高木大王としては、
国家として、租庸調を徴収したい。

しかし縄文時代からのしきたりは、複数部族の共存共生であり、
新たな中央集権に反対する、地方女性領主を、粛清したイベントがあったのですね。
おそらくは伊邪國の有力女性領主。

で、その土地を接収して、
養蚕して、稲作して、粟小豆麦大豆も育てて、
それらを国家として徴収したうえで、

>>482
神a派に渡して、燕国あるいは衛氏朝鮮と交易したわけですね。
青銅器を入手するために。

544 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 06:24:05.90 ID:EoVxFA56k
仮説としては、
縄文時代に文字は無いので、
北部九州の縄文人が、北部九州全体を呼んでいた地名がやまと。
やまとの中に、勢力名あるいは地名として、いざ、いずも、ほうき、などなど。
自分たちが何人かと聞かれたら、やまとびとであり、いざの人やいずもの人がいた。

そこに、倭(ワ)の倭人(ワじん)が渡来。
やまとびとに帰化同化して溶け込んでいく。

漢字も知っていたので、やまとの言葉や地名に宛てていく。
やまと に宛てたのが、倭。

だから「倭」に音読み訓読みそれぞれの意味ができて、
倭 ワ 中国にいた倭ワの末裔
倭 やまと 北部九州の縄文以来の地元自称名。

中国人からしたら、倭=ワで、太伯の末裔を連想させる。
倭人からしたら、倭=やまと。

史上初めて中国で「やまと」と発音したのが、師升で、
居合わせた後漢書記がそれを聞いて宛てたのが「倭面土」。
逆に、魏人張政が倭国に出張してきて、現地人が「やまと」と発音するのを聞いて、
宛てたのが「邪馬台」。

545 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 13:39:52.74 ID:EoVxFA56k
>>428
ワニが、伊都男系はもちろんですが、
太伯集団の男系も受け入れたことで、
弥生開始時に大きくリードしたわけですね。

その大成功先例があったので、ライバルのカモも負けじと
神b派や、甲羅派などを積極的に受け入れた、ということですね。
古浦遺跡&田〇山遺跡などはその代表的な例だったと。

八雷神はもとは豊國共立女王を立てて横並びだったのに、
渡来人を受け入れた=革新改革を行った、かどうかで、
主力2派と残り6派では、勢力の繁栄度が大きく変わったわけですね。

楽浪郡と組んだ奴族・奴国王はたまたまその狭間でバッティングして、
カモとワニで取り合いになり、
結果的にはワニ代表になったけれども、両勢力に大量に子孫を残したと。

また伊邪國の複数部族についても、
元々は共立王を立てていたのでしょうけれども、
リーダーの爾支部族(本来は末蘆國〜伊都西部)だけがどんどん偉くなって、広域大王になった。

もはや豊國や神a派や各地の有力部族が外戚を狙っている状態で、
伊邪國の爾支系以外の他部族は、取り入る隙すら無くなって、
単なる地方の辺境集団群になったということでしょうね。

546 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:34:33.12 ID:EoVxFA56k
>>498
抜歯についてです。

歯医者さん、というのはもちろん比喩表現で、
集落ごとの「抜歯方式の伝統」とか「歯列矯正知識」とかの意味ですが、
外科手術ではありますので、
抜歯担当者は、一人あるいは少数の「熟練者」に行ってもらいますよね。
おそらくシャーマンが、祭祀やら祈祷やら薬草処方やら何やらの多数業務の一つとして、
抜歯も担当していたのでしょう。

平安時代には巫女が抜歯を行っていたとの記録があります。
僧医が抜歯した記録は無い事から、
抜歯というのは、神社管轄、
つまり弥生時代(あるいは縄文時代からの知識も引き継いで)からの伝統的治療法であったということでしょう。

女性が行っていたということは、意外と筋力の問題ではなかったのですね。

縄文時代であれば、
患者を寝かせて頭を固定した上で、狙いの歯に木の棒の先端を当て、
大きな石でコツンと叩いて脱臼させる、角度などのコツがあったのかもしれませんね。

547 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:35:23.01 ID:EoVxFA56k
天皇や藤原氏も、民間の女性歯科医に抜歯してもらっているのは、
抜歯経験人数の差でしょうね。

内科(薬の処方など)は、知識人である僧医が良かったのでしょうけれども、
外科(抜歯)は、一般庶民の歯をいつも抜歯している巫女歯医者さんの腕が良かったのですね。

そういう目で見ると、江戸時代までずっと抜歯痕が認められますので、
「風習的抜歯」は無くなったけれども、
親知らずが大きかったり斜めに生えて痛い時とか、虫歯などの時には、
「治療的抜歯」というのは長らく続いていた、ということでしょうね。

548 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:36:10.02 ID:EoVxFA56k
時代を縄文弥生に戻すと、
抜歯の基本は、
まずは、歯が大きい上顎の、臼歯群の歯列を整える、
ことだったでしょうから、

縄文時代は、上顎の両犬歯(11-12歳)
弥生時代は、上顎の側切歯(8-9歳)
が生えた時点で、必要に応じて抜歯することになります。

抜歯することで、歯槽骨のスペースを空けて、臼歯群が綺麗に生えそろうのを促したのですね。

下顎の抜歯については、その後の咬合に対応して決めていく。
上顎では、たまに第三大臼歯(親知らず)がトラブルを起こしたときには、
抜歯を追加したのでしょう。

549 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:37:48.60 ID:EoVxFA56k
台与の女王共立が16歳。
武士の元服が12〜16歳。
ですし、
精通や初潮の年齢からしても、

12歳で上顎の抜歯、をして、その後に大人の仲間入りですね。

と、いうことは、
縄文系上顎犬歯抜歯なのか、弥生系上顎側切歯抜歯なのか、は、
12歳までに所属していた集落、
つまりは産まれた故郷の集落によって決まる、ということになりますね。

例えば土井ヶ浜遺跡だと、
基本は上顎側切歯の抜歯なわけですが、
少数の、上顎犬歯抜歯の人がいます。

上顎側切歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡の地元民か、もしくは同じ弥生系抜歯集落出身の人。
上顎犬歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡以外の、縄文系の歯医者さんがいた集落、から嫁入り婿入りしてきた人、ということになります。

同様に、
勒島遺跡で確認された男5女6の頭蓋骨のうち、
女性2体に上顎両犬歯の抜歯が認められた、とのことですが、
これもつまり、
北部九州から燕系神a派の所に嫁入りした、おそらくワニ(もしくはカモ)の女性でしょうね。

550 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:38:54.19 ID:EoVxFA56k
土井ヶ浜遺跡の上顎抜歯を詰めて考えると、

犬歯抜歯は女性が多いので、
外部の縄文系抜歯集落からは、
婿入りしてくる人数よりは、嫁入りしてくる人数が多かった。

側切歯の片側のみ抜歯は、
毎回両側抜歯しなくても、片側だけの抜歯でそれなりにスペースが空くので、
それで両側の第三大臼歯が生えてくることが多いのだ、
という、渡来系の新知識と思われるのですが、

縄文系の犬歯抜歯についても片側抜歯があるので、
土井ヶ浜遺跡と、婚姻を結んでいた先の縄文系集落の歯医者さんにも、
片側だけでも大丈夫な場合が多い、という知識が伝わって、
犬歯で片側抜歯、という選択肢が増えたのだろう、
と考えられるわけですね。

551 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:41:21.18 ID:EoVxFA56k
>>493
日本で江戸時代まで治療的抜歯が続いていたのと同様に、
中国でも治療的抜歯は重要な治療方法として続いていたはずですね。

ただし、社会が発展して分業制が進むと、
歯医者さん、でないと、抜歯の細かいノウハウがわからなかった、
可能性が高いですね。

よって、これまで推測された各派の渡来集団であっても、
歯医者さん(シャーマンだったり医師だったり)が、必ずしも同行していたとは限らなかったわけですね。

そう考えると、歯医者さんが同行したのは、
太伯集団 →支石墓みんな上顎犬歯抜歯だから?
神a派 →勒島遺跡に側切歯抜歯が無いから?
甲羅派 →古浦遺跡は上顎犬歯抜歯だから?
徐福集団 →土井ヶ浜遺跡で側切歯抜歯〇

552 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:43:59.66 ID:EoVxFA56k
渡来一世は故郷中国での思春期に上顎側切歯抜歯をされていたかもしれませんが、
歯医者さんが同行していなかったのですね。

例えば太伯集団だと、島原の縄文集落に同居して、
周りの島原縄文人達が、縄文歯医者さんの抜歯で平穏に過ごしているのを見て、
二世以降は郷に入りては郷に従って、島原縄文歯医者さんに抜歯してもらったわけですね。

古浦遺跡の場合はもっとわかりやすくて、
母系は田〇山遺跡のカモ女性達であって、子供を育てるのは母親ですから、
母親がカモ系なら、当然カモ系の縄文歯医者さんに抜歯してもらった、わけですね。

553 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:47:24.89 ID:EoVxFA56k
徐福集団には、徐福百工が同行してきましたから、
歯医者さんもいて、
上顎側切歯抜歯や、片側のみ抜歯、という歯列矯正新知識をもたらしたのでしょう。

よって、上顎側切歯抜歯のルート=徐福集団の軌跡、とも仮定されますね。

広田遺跡は体格の違いからして、おそらく福建省か台湾で雇った水夫集団が一緒に渡来したのでしょうが、
歯医者さんは必要なので、
広田遺跡からの求めに応じて、徐福集団の歯医者さんが弟子を指導して、
上顎側切歯抜歯を伝授したのでしょうね。

ちなみに、
「山」の文字が刻まれた貝符が出土しており、
後漢代の隷書とのことですから、
>>389
奴国王から贈られたものでしょうね。

宮の本遺跡も上顎側切歯抜歯。

こう考えると、土井ヶ浜遺跡は、ゴホウラ貝釧の製作販売だけでなく、
歯列矯正医術も売りだった可能性が出てきますね。
歯医者さん集団だったかも。

554 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 22:00:02.78 ID:EoVxFA56k
伊都説で検討しただけでも、大陸の戦乱のたびに、
呉、斉、燕、奴、の貴種・技術者・知識層、が渡来してきているわけですね。
日本列島まで逃れてくるにはある程度の財産や技術能力がないと辿り着けない。
東アジア各地の国家における優秀な上層集団が集まるまさに理想郷ですね。

要するに、
戦時だと、男が強いけれども
平時だと、女には頭が上がらない。

ワニやカモといった縄文女性は強くて、
次々逃げてくる東アジアの男たちを受け入れて、尻に敷いてきたわけですね。

一万年熟成した縄文社会を受け皿として、
東アジアの優秀な人材が流れ込んできた。

ノーベル賞受賞者を多数輩出、
ものづくりニッポン、
日出づる国、
というのは、
こうした優秀な男系女系が濃縮されたことで産まれた蓬莱であり黄金の国ジパングなのですね。

555 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 07:57:50.11 ID:H+4GMAtJM
>>549
台与は13歳でしたね。
文意は同じですが。

13歳で女王就任できるのであれば、
基本的には13歳で大人になるということですから、

上顎の抜歯は、ほぼ100%出身集落の歯医者さんによるもの。

下顎の抜歯は、その年齢時に所属している集落の歯医者さん次第、
ということになりますね。

人の動きを見るには、上顎抜歯が非常に重要ということになります。

556 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 08:12:05.57 ID:H+4GMAtJM
土井ヶ浜遺跡には、四隅配石墓がありますね。

三次市に逃げ込んだ奴国王の兄一族が開始した、四隅突出型墳丘墓とルーツは同じで、
同じ奴族ですから、
土井ヶ浜遺跡のは、幼くして亡くなった奴族のものであり、
つまりは、
英雄の兄弟=奴国王と土井ヶ浜女王の子、
もしくは、
英雄の子供=奴国王の孫
である可能性が高いですね。

ミトコンドリアDNAが英雄と同じなら、前者の可能性が高くなり、
異なれば、後者の可能性が高いことになります。

557 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 08:12:48.70 ID:H+4GMAtJM
奴国王本人の墓は、晩年に失脚していますから、無いわけですね。
天寿を全うしていたなら、やはり四隅突出だったでしょうけれども。

楽浪郡と提携した奴族が渡来してきて、まずは須玖遺跡に入ったと思われるわけで、
少なくとも奴国王の父は、墓を残したはずですが、
須玖遺跡に四隅突出墓が残っていません。

奴国王失脚時に破却されたものと思われます。

おそらくですが、日本列島においては、
奴国王の父、一人から、
奴国王の兄達→日本海沿岸の四隅突出型墳丘墓国家=後漢書「東の拘奴國」
奴国王とその大勢の子孫達(ゴホウラ貝釧多数副葬者)
が分岐していった可能性が考えられますね。

558 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:39:19.58 ID:H+4GMAtJM
虫歯の発生率は、
縄文時代 アメリカ先住民 約1%
現代   イヌイット 約2%

縄文人 約10%
弥生人 約20%
現代人 約30%


同時代のアメリカ先住民や、現代イヌイットと比較するとわかりますが、
>>502
縄文人は、イネ科雑穀を栽培して主食にしていたから、狩猟採集民に比べると虫歯が多かった。
つまり縄文人は農耕民だった。

>>503
しかし、縄文人の食事方法は、籾ごと咀嚼していたので、
でんぷん質を練り出した最後の方は、籾だけを咀嚼することになり、
それが歯みがき代わりとなって、農耕民にしては虫歯の発生率が抑えられていた。

土井ヶ浜遺跡の虫歯の発生率は約2割。
上顎側切歯の片側あるいは両側抜歯が主流で、抜歯していない人もそれなりにいますので、
脱穀・籾摺りをして、玄米あるいは白米の状態で食事していたのですね。

籾咀嚼歯みがきをしなくなって、虫歯が増えたということですね。
歯の摩耗速度は遅くなって長持ちするようにはなったでしょうけれども。

559 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:40:03.76 ID:H+4GMAtJM
土井ヶ浜遺跡においては、
女性巫女領主(1号人骨)も、
英雄(124号人骨)も、
上顎両側切歯を抜歯されています。
(英雄は上顎も半分破壊されていますが、歯並びからそう推測されています)

>>549
上顎の抜歯は、生まれ故郷の歯医者さんによって決まりますので、
英雄の弟である軍神もまた、上顎両側切歯を抜歯されていた、ことになります。

だいたいの容姿が想像できるわけで、
母系が土井ヶ浜女王で、徐福集団・臨錙遺跡白人ルーツ
父親は奴族で、美男子だったと伝わっている。

となると、
土井ヶ浜遺跡男性の平均身長は163センチ。
英雄と同じく体格はいい。

現代のハーフ芸能人のような顔立ちで、
両側切歯を抜歯しているので、歯並びが美しいイケメン。
だったのだろうと予測されますね。

560 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:42:27.85 ID:H+4GMAtJM
軍神は、軍略の才があって、数々の武功を挙げている。

奴国王も取り巻きから、
「軍神殿の凛々しいところは、奴国王さまのお若い頃にそっくりですな。」
など持ち上げられると、まんざらでもなく、目を細めていたのでしょう。

颯爽として女性にもてる軍神の姿に、
若き頃の自らの姿を重ね合わせていたのかもしれませんね。

いわゆる「覇王色の覇気」をまとっていたので、
ワニ女王筋の女性を娶らせて、
金印を任せたのでしょう。

561 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:44:17.49 ID:H+4GMAtJM
なぜに容姿を解析しているかというと、
>>441
Aタカヒコが主力なのに、
英雄の顔面を破壊するほど敵意を持っていることの解明ですね。

英雄は、金印のとばっちりで、石鏃で拷問され、最期は銅剣でとどめをさされていますね。
その後に顔面を破壊されています。
腕の良い歯医者さんが拷問処刑されるという戦慄の事件だったわけですが、
田舎暮らしの英雄の、どの部分に敵意を抱いたのか。

例えば伊都国系の隊長が、奴族に憎悪を抱いていて、
Aタカヒコ兵もいる目の前で、「この賤奴め!」と叫んで顔面破壊したら、
その時点で別の戦争が勃発しそうですよね。

562 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:46:31.05 ID:H+4GMAtJM
その答えの一つが、母系の違いによる形質の違い。
父親が同じ奴国王でも、
母親が、縄文カモ系と、徐福集団渡来白人系と、では、
身長や顔つきが大きくちがった可能性。

もう一つが、抜歯の有無による面貌の違い。
抜歯をして歯並びがいいと、口周りがすっきりしますから、
見た目で顔つきの系統が違ったのですね。

甕棺墓有力者は抜歯していない人が多いので、歯並びが悪く、
出っ歯なども多かった。

一方で、軍神は、縄文時代としては背の高い美男子で、
前歯の並びが綺麗だった。

辺境出身の軍神が、奴国王のお気に入りとして出世して、
しかもワニグループに入った。
イケメンで周囲の女官たちも軍神推しばかりで、
カモ系としては目の敵にしていたわけですね。

英雄を縛り上げて金印の在りかを詰問して拷問をしている間、
対話をするたびに、英雄の綺麗な歯並びが見えますから、
話をしているだけで軍神を連想して怒りが沸騰していった、
のでしょうかね。

563 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:26:07.78 ID:H+4GMAtJM
>>444
70年当時の軍神の動きを考えると、
・宮の本遺跡女王との長男に金印を渡して、丸太舟ただ一艘で伊邪國へ逃した。
・準構造船団にて、ワニ女王筋の妻と子供たちを連れて、諏訪へ逃れた。

銅戈軍8尋は、諏訪へ追撃していきますね。

>>174
・各種計略にて、銅戈軍を分散させて各個撃破した。(銅戈型石戈が分散出土)
・金印を餌に、銅戈軍を関東方向へと深入りさせて大将を討ち取った。(前中西遺跡石戈)

この戦い方はまさに、孫氏の兵法。

『兵は詭道なり』

そのものですね。

564 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:28:27.64 ID:H+4GMAtJM
<孫氏> 計篇 前500年頃

『兵者詭道也

 故能而示之不能 用而示之不用
 近而示之遠 遠而示之近

 利而誘之 亂而取之
 實而備之 強而避之
 怒而撓之 卑而驕之
 佚而勞之、親而離之

 攻其無備、出其不意
 此兵家之勝、不可先傳也』

戦争とは騙し合いである。
よって、
本当は出来ることを出来ないように見せかけたり、
必要なものを必要ではないように見せかけたりする。
本当は近くにあるものを遠くにあるように見せかけたり、
遠くにあるものを近くにあるように見せかけたりする。

利益になるものを見せて敵を誘い込み、
敵を混乱させて略奪する。
敵の戦力が充実しているならこれに備えて防御し、
敵の戦力が強大ならば戦いを避ける。
敵を怒らせて攪乱し、逆にへりくだって敵を驕り高ぶらせる。
敵が休養十分ならこれを疲れさせ、敵のまとまりがよければ離間の計をかける。

防備の薄い部分を攻めて、敵の予想外の場所に出撃する。
戦争に勝つには以上のような臨機応変な戦い方が必要であり、戦争前にあらかじめ伝え決めておくことはできないのである。

565 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:32:04.41 ID:H+4GMAtJM
軍神は、雀居遺跡の奴国王居館にて、孫氏を熟読していたものと思われますね。

現在の我々にとっての孫氏は、使用する武器や戦いの様相など科学水準が違いますので、
実用書としては使えず、
争いごとに対処する心構えの参考書くらいにしかなりませんが、

弥生時代の軍神にとっては、軍隊の運用法や、実際の陣の張り方など、
戦陣での生死に関わる実用的情報がてんこ盛りの、超重要軍事情報だったわけですね。

>>171
他の弥生将軍達は、矢を斉射してからの、一斉突撃、といった単調な戦い方しか知らなかった。

鉄製武器を揃えていたので、
金属ルート下流の銅剣女王國相手に戦っていた間は、連戦連勝だったけれども、
半島出兵して、相手も鉄製武器を持っているとなると、苦戦したわけですね。

なので、
孫氏を身に着けた軍神の「軍略」が非常に役立ち、大活躍したのでしょう。

566 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:35:08.34 ID:H+4GMAtJM
70年以降の軍神は、東国をまとめて、(S字甕、多孔銅鏃)
銅戈勢力と対峙するわけですが、
(最前線で近畿式銅鐸vs三遠式銅鐸が睨み合い)

東国の武将を集めては、孫氏の兵法を講義したのですね。

軍学者孫氏の兵法に、異民族戦をも戦い抜いてきた軍神の応用編が盛り付けされた、
そんな軍学としてのバックボーンが受け継がれ、
だから、
後世の東国武士軍団は、個の力だけでなく、軍団の運用として強かった。
そして軍学の祖である軍神が崇敬された。


1575年長篠の戦では、
孫氏も軍神も知らない新兵器「鉄砲」と、
16世紀の天才が考案した新戦法「三段撃ち」とで、
ようやく軍神に勝利したのですね。

567 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:59:07.87 ID:4dttQUj05
>>558
稲穂を口に含んで歯で籾をこいたとすれば、口は傷だらけ血まみれになるし、第一籾は苦くありませんか。

568 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 15:56:48.38 ID:H+4GMAtJM
>>567
そりゃまともにバリバリ咀嚼したらそうでしょうね。

籾殻が裂ける程度の力加減で水平咀嚼をして、籾殻に亀裂が入ったら、
しばらく顎を動かさずに唾液で浸しておく。
唾液が米に浸透して米が柔らかくなったら、チューインガムみたく噛んで
米を練り出す。

味が気になるなら、ある程度米を練り出した段階で、
口の中で籾殻をよりわけて吐き出したらいいですが、
栄養接収を主目的にするなら、米が無くなるまでとことん噛み噛みして、
最後の最後に籾殻を吐き出した方がいいですよね。
縄文人が生き残ろうと思うなら後者でしょう。

苦味はどうでしょうね。
お店で白米を買える我々現代人なら耐えられないかもしれませんが、
縄文時代ですから、
ドングリのパンとかよりはマシなのではないでしょうか。
ドングリもアク抜きを何度もしないと食べられませんし。

縄文人の歯の擦り減り方について諸説あるようなので、
一つの思考法として提案しているだけですが、どうでしょうかね。

569 :日本@名無史さん:2023/01/10(火) 17:26:47.42 ID:0lmsGoQdE
歯の摩耗の一番理由は皮なめしではないか、とする意見がありますね。
また、固い食べ物ものを噛み砕いたのも、大きな原因とされています。
縄文抜歯は、咀嚼に不都合な切り歯を除去したものとする考えが歯科医界ではごく普通に語られているようです。
成人儀式とする考えがありますが、儀式の裏にはそうした咀嚼の滑らかさの追求という現実的な理由があったと見るようです。

まあ、朝起きて食事をつくるのが主婦だったことは人類の普遍的な習慣でしょうから、
部族の集落では朝、全員の食べものを広場で一括料理して、男や子供たちがそれを取ってきて家で三々五々と食べたでしょう。
やはり、味の問題がありますから、籾は他の食材と一緒に炊くことはなかったのではないでしょうか。
また、粥にする場合でも、籾味は避けたのではないでしょうか。
大人や子供たちが、間食として籾粒を取って口にし、ぽりぽりと食べたことはあったかも知れませんね。

570 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:20:12.78 ID:+8i1rGFMi
イメージが先行しているようですが、理論的に考えてみると妙ですね。

>また、固い食べ物ものを噛み砕いたのも、大きな原因とされています。
であれば、粥ではなく、硬い状態で食べたのでは?
>まあ、朝起きて食事をつくるのが主婦だったことは人類の普遍的な習慣でしょうから、
考古学的文献的に根拠があるなら教えてほしいです。

理論的に考えると、縄文時代は冷蔵庫が無いのですから、
魚も肉もとりたてで食べるのが一番安全で、
朝は起床してすぐ作業に出かけ、明るいうちに魚や肉を入手して、午後に塩焼きして食べる。
夕方に皆で食べるのが最も合理的でしょう。

余った食材は、干物か塩漬けにして貯蔵しておいて、冬に取っておく。

炭水化物に関しては、クルミドングリは石器で割って食べる。
ドングリを食べる以上、味は度外視でしょうね。
魏志倭人伝の時代ですら薬味を使ってなかったのですから。

問題はイネ科雑穀で、臼と杵がありませんから、
脱穀はまだ石器などでできるとして、籾摺りがとてつもなく時間と労力を要します。
この点についてはどう考えているのでしょうか?

現代から振り返って考えるのではなく、
最初は石器時代から始まるのですから、噛み砕いて食べ始めたところから次第に進化する筈です。

571 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:26:40.81 ID:+8i1rGFMi
調理前のβデンプンのままだと、加熱調理したαデンプンに比べて消化しにくくなりますが、
唾液で時間をかけて溶かし、よく咀嚼しながら、
口の中でどろどろの粥状にしたものだけ胃に送るようにすれば、
調理時の消化吸収率に近づくと思います。

以上のように考えると、籾摺りがネックですね。
臼と杵さえあれば籾摺りの効率が上がって、あとは煮ればいいですから。

籾摺りができないのなら、ドングリの方が逆に効率がいいのかもしれませんね。
乾燥させれば保存もできますし。

>>520
貝塚はむしろ残飯を狙って集まる鳥やイノシシの狩場だったのが、
ハツカネズミがやって来て、ハツカネズミの繁殖場になってしまったので、
終了したのですね。

572 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:48:19.18 ID:+8i1rGFMi
石狩紅葉山49号遺跡では、スプーンやヘラ状の木製食器は出土しているようですが。
縄文時代とはいえ北海道ですね。

弥生時代の倭人が手づかみで食事していたとありますから、
九州であれば、縄文時代も手づかみだったと考えていいでしょうかね。

手づかみであれば、粥状・雑炊系の食事は逆に食べにくくて作らないでしょうから、
ドングリパンあるいはもち米おこわなどの系統になってくると思われますね。
「稲穂から直接食べていた説」もまあ残りますね。

スレから脱線していますので、戻していくと、
例えば青谷上寺地遺跡は、木製スプーンが出土していますから、
倭人ではありませんね。

よって、北部九州説以外の日本海ルートはここでぶっつり途切れることになります。

伊都説で検討すると、
日本海沿岸は東の倭種地域であり、
青谷上寺地遺跡は、勒島遺跡から避難してきた燕系の神a派の集落ですから、
食器を使う習慣があった、ということで綺麗に説明がつきますね。

573 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 07:03:44.02 ID:+8i1rGFMi
>>312
卜占から想定される神b派については、
唐〇カ〇遺跡から、木製匙や縦杓子が多数出土していますね。
共伴土器も、大和第T様式から大和第X様式まで全時代に渡っています。

言わんこっちゃない・・ですね。

伊都説としては補強されますね。
韓を通過した時点で倭地。
魏志倭人伝に詳記される対馬〜北部九州は倭人。
でありますので、北部九州が倭人であることは確定しています。

あとは東にどれだけ広がっているか、の問題ですが、
燕さんたちいい仕事を残してくれてますね。

574 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 00:16:55.76 ID:c7BhE/QQB
>>531
なるほど。
考古学的に、甕棺墓の分布拡大を追うことで、北部九州の統一過程を追えますね。

よくよく見ると、伯玄社時代に入った「奴国領域」は、いわゆる「狭義の奴国」までですね。

「広義の奴国」の南部、つまり久留米など筑後地方に入ったのは、金海式時代からになります。

甕棺墓が拡大した部分で考えていくと、

伊邪國の、伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の、山鹿貝塚女王系と、
が婚姻同盟して、
能古島に水軍を集結させてから、

伯玄社遺跡に首領がいた現在の福岡市に当たる部分の縄文勢力を征服して、
北部九州の日本海沿岸地域を統一した。

神a派との絹交易が開始され、
彼らと連携して、投馬國を拡張。

新規獲得して整備した早良区=ひのもと(>>291)、に、吉武高木大王を擁立。

575 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 00:20:20.51 ID:c7BhE/QQB
>>543
そう考えていくと、オー月ヒメは金海式で新規獲得した地域ということになりますから、
投馬國もしくは筑後。
前者は記紀では除外されていますので、
まずまず久留米など筑後地域の縄文旧支配勢力だった可能性が高くなります。

意外ですが、
長崎伊邪國と豊國勢とが、筑前→筑後(+肥国)と統一していったことになりますね。


>>569
そう考えるとですね、縄文時代の食生活の貴重な記録かもしれませんよ。

「口から食物を出す」
健康な歯並びの料理人が、
籾ごと口に入れて、歯で脱穀籾摺りをして、実の部分(白米など)だけ出して、
客人、小児老人、身体障害者、などに振るまっていた。

「口や鼻から食物」
健康な料理人が、
籾ごと口に入れて、歯で脱穀籾摺りをして、飲み込んでしばらく胃で消化してから、
嘔吐して、あと同じ。

「尻から食物」
健康な料理人が、
籾ごと飲み込んで、翌日に排便したものを洗浄すると、
未消化のものの中に、調度食べ頃の状態になったものが・・・あと同じ。

我々現代人からすると、いや弥生人にとっても、
もちろん穢汚いですが、
縄文時代は石器時代ですから、あらゆる物事が今とは違ったわけで、検討はしてみるべきでしょうね。

576 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:54:25.83 ID:1r1kW2uyY
>>575
>長崎伊邪國と豊國勢とが、筑前→筑後(+肥国)と統一していったことになりますね。

弥生時代の九州における、
・豊国が独自性を保っていた
・西北九州(伊邪國)が縄文形質を強く残していた
という特色について、説明がつきますね。

外来の渡来勢力ではなく、
九州在地の縄文勢力が北部九州を統一していった。
そしてその原動力は、長崎伊邪國と豊國勢であった。

豊國の八雷神は骨取り神事で共立女王を立てていた。
伊邪國でも複数部族が共立縄文王を立てていた。
そして彼らは支配勢力となったので、「軍事征服」を受けなかった。

ので、当然のことながら、伊邪國と豊國の縄文勢力は、弥生国家形成後もプレゼンスを維持できたのですね。


>「口や鼻から食物」
一度胃に入れてから嘔吐したものを食べさせるというのは、
乳幼児や病人への食事として優れた点がありますね。

・胃酸で「消毒」されている
・咀嚼と胃酸である程度「消化」されている
・煮込む手間を省くことで「燃料」となる木材が不要
・胃までで戻すので、「栄養素」が残っている

縄文時代であれば、理想的な離乳食・病院食ですね。

577 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:55:24.10 ID:1r1kW2uyY
>>479
伊邪國とは本来、長崎県から糸島平野までの範囲であり、
豊國八雷神や越八岐大蛇と同様に、縄文複数部族の集合体だったわけですね。

豊國八雷神の西の雄が、古代出雲國=遠賀川以西のワニであったのと同様に、
伊邪國の筆頭が、唐津〜糸島の「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」だった。

西北九州=伊邪國が、縄文色を濃く残していた説明としては、

@縄文時代数千年来のご近所付き合いがあった

太伯集団の渡来=ねずみ返し&養蚕絹織の伝来によって、
縄文古来の有力集団であった、唐津〜糸島の「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が、
弥生進化を遂げて、
北部九州の盟主へと出世していったのだが、

伊邪國の他部族たちは、
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の数千年に渡るご近所さんだったので、
一目置かれていた。

A弥生時代の長崎県は辺境

多島(多数の小国)で平野が無く、資源も無く、人口も少ない。
熊本有明海にアクセスするなら、沿岸航海とはいえ外海回りで長崎を経由するよりも、
佐賀や筑後に背振山系越えする方がはるかに安全で速い。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の縁者として従ってくれて、
それなりの租庸調を納めてくれていれば、
それでいい存在だったわけですね。

578 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:57:15.34 ID:1r1kW2uyY
北部九州倭国は、東へ日本列島開発、北へ投馬國開発、と資本投下していきますから、
西の伊邪國は良くも悪くも放置されたわけですね。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が弥生大王になったので、
末蘆國伊都國そして巳百支國が倭国側に所属して、
伊邪國は長崎県だけになったのでしょう。


伊都説で伊邪國を考えていくと、(本来は伊邪國の首都が伊都なのでしょうけれども)
西の伊邪國は九州縄文部族集団の中では、漂着する中国人を受け入れることで先進的な立場にあった。

太伯集団が島原に漂着(原山支石墓)して、ねずみ返し&養蚕絹織が伝わり、
弥生時代の幕開けとなった。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が大王になって、オラがムラ出身の有名人は輩出した。
けれども、伊邪國の他部族としては、本来は縄文共立なので横並びだったのだが、
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」は手の届かない偉い人になってしまった、
ということでしょうね。

>>356
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の外戚として権勢をふるっていたワニ。

徐福集団は、そのワニと疎遠な渡来集団ですから、
同じく豊國ワニとは縁もゆかりもない伊邪國縄文系部族集団としては、
ウェルカムだったわけですね。

579 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:37:48.35 ID:sU+Zf6pOS
>>443
軍神の策略に弥生世界が嵌ったわけですね。

伊邪分國・宮の本遺跡女王との長男一人(NSM男)に金印を渡して逃れさせた。

自らは準構造船団を率いて、
ワニ女王筋の妻子、そして宮の本遺跡女王との他の息子達も全て連れて、
東へ逃走した。

弥生世界で金印の在りかを知っているのは、軍神とNSM男のみ。
その他の全ての人々は、軍神が肌身離さず首にぶら下げている絹袋に入っている金属塊が金印だと思っていたわけですね。


>>328
故郷の皆には逃げるよう知らせた。
>>329
まさか畿内からの甲羅派銅戈軍とは思いもしなかったので、
Aタカヒコとの関係性と、Aタカヒコの性格を考えると、
神a派からは縁者や有志兵を集めただけで、あとの人々はむしろAタカヒコに託して残していった。
>>391
血統を残す確率を上げるために、北海道有珠モシリ遺跡に宮の本遺跡女王との息子の一人を逃れさせた。

さらにもう一人を青森に逃れさせた可能性もありますね。

580 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:41:57.08 ID:sU+Zf6pOS
軍神とNSM男の二人以外は、軍神が金印(蛇紐)を持って諏訪に逃げ込んだと思ったわけですね。

軍神の計算としては、
洪水で被害を受けた奴国では、北部九州東部〜大倭領域のカモ勢力Aタカヒコには勝てない。
しかし、東国で防備を固めれば、はるばる遠征してくるカモ軍と勝負できる。

倭国軍(カモ軍)が総力で伊邪國を攻略すればもちろん一たまりもないが、
倭国軍は金印が諏訪にあると思っているので、伊邪國への大規模攻略は無いだろう。

NSM男を伊邪分國に潜伏させておけば、プロ漕ぎ手水軍首領なのだから、
勝てはしないが、捕まることは無い。

伊都國奴國は洪水で大被害を受けて復興は始まったばかりであり、
Aタカヒコが権力を握っても前途多難。
そのうちワニ勢力が盛り返した時に、連携して捲土重来を果たす勝算はある。

万が一自らが東国で散ることになっても、
NSM男は金印を持っているから、上手く立ち回れる可能性があるし、
敗れても、極南界の奴国王南方ルートで金印を持ったまま中国南方へ逃れれば、
取り立ててもらえる目はあるだろう。


と、思っていたけれども、
金属器入手ルートが無いのは想像以上に厳しく、
>>447
またAタカヒコの生口カンフル剤政策が移民一世代の期間は有効だったので、
軍神は東国で天寿を全うしたのですね。

581 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:42:50.40 ID:sU+Zf6pOS
有珠モシリ遺跡では11人の合葬遺骨が出土しており、
上顎切歯の片側のみ抜歯がなされていますね。

つまり徐福系、軍神の母集団です。
彼らの全部あるいは一部は、幼少期に、英雄に抜歯された可能性も高いですね。

軍神の指示で北海道に逃げ込んで、拠点構築していた。

頭部外傷などありますので、戦闘の結果として亡くなっているわけですが、
追跡して来た銅戈軍に敗北した遺骨を、生き残った仲間や現地の人々が集めて埋葬した可能性と、
現地の人々と争いになって亡くなり、生き残った仲間が集めて埋葬した可能性と、
がありますね。

遺骨に刺さった黒曜石の石鏃の産地分析をすればわかりますね。
まあ前者の可能性が高いですが。

582 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:44:59.18 ID:sU+Zf6pOS
一方で、NSM男が逃げ込んだ西の伊邪國です。

縄文時代数千年に渡る伊邪國大首領である爾支が、北部九州の盟主に出世しているのが誇りですね。

養蚕を開始したのは伊邪國。
豊國と一緒に北部九州を統一したところ、
背振山系の真砂土花崗岩土壌が一大養蚕地域=甕棺墓高度経済成長地域になって、
伊邪國の養蚕は廃れてしまった。

爾支の外戚は豊國ワニががっちりキープして、面白くなかったわけですね。

爾支配下の東征将軍職に就いた奴国王が権勢を振るっていたのも微妙だったのですが、
奴国王が失脚したと思ったら、
伊邪國にとっては、豊國西部ワニよりさらに疎遠な、豊國東部カモ系のしかも奴族Aタカヒコが仕切り始めたわけですね。


微妙な話になりますが、

伊邪國古来の大首領である爾支が官扱いにされて、(ひのもと)
Aタカヒコが擁立した共立王である倭国王が誕生します。(ひむか)

583 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:46:29.70 ID:sU+Zf6pOS
巳百支國から祭祀型銅戈が出土しています。
新伊都倭国軍は一応西にも軍を派遣していたわけですね。

伊邪國捜索を担当させられた銅戈隊長は苛ついていたのですね。

今は東の大倭地域からの生口が熱い。
金印はそのまた東の軍神が持ってる。そのうち大規模戦役があるなら戦ってみたい。
北の投馬國も鉄やらなんやらホット。

なんで俺が西担当なんだよ。
島ばかりだし、何も無いし、未だに縄文集落とかマジかこいつら。

怖えぇ。

NSM男の伊邪分國は斉の徐福末裔でなんか弩とかいう最新兵器も持ってんだろ。
漕ぎ手が凄くて通常の3倍の速度で動き回って、遥か南の極南界すら超えて活動してるらしい。

遭遇したらどうしよう。
俺の舟の周りをしっかり船団で円陣組んで移動しなくちゃな。

とりあえずあの島を捜索して報告書を提出しよう。

584 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:47:15.44 ID:sU+Zf6pOS
銅戈隊長「おい、このムラの頭を出せ」

老巫女「なんか用かの?」

銅戈隊長「なんだこのババァは?」

老巫女「伊邪の地に何の用じゃ?」

銅戈隊長「お前らNSM男って知ってんだろ?案内してくれ。報酬ははずむぞ。」

老巫女「知らん。」

銅戈隊長「あ?知ってんだろ。案内しろよ。」

老巫女「知らん。出ていけ。」

村人たち「出ていけ!出ていけ!」

銅戈隊長「お前ら!!素直に協力しないとためにならんぞ!?」

老巫女「儂らの首領は爾支様だけじゃ。お主のような豊國奴國の輩ではない。出ていけ。」

銅戈隊長「こ、こんの、クソババア!!!」

585 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:49:59.52 ID:sU+Zf6pOS
伊邪國平戸島、根獅子遺跡の縄文集落。

上顎両犬歯抜歯の縄文女シャーマンに邪険に扱われた銅戈隊長は、
ついカッとなってやってしまったのですね。

これもまた金印のとばっちりではありますが、
NSM男としては、
銅戈軍が来たら逃げろというアナウンスはしていたでしょうが、
金印のことは言えませんから、

伊邪國の縄文集落としては、まさか銅戈軍がそこまで本気だとは思ってもいなかったのですね。

伊邪國にとっては、縄文時代数千年を経て、
史上初めての軍事侵攻を受けたことになり、
銅戈軍の蛮行が瞬く間に伊邪國全土に広まって、反・新伊都、爾支復活待望、になってしまったのでしょうね。

586 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:33:21.03 ID:1V32gJg9k
南方浦山古墳 (北九州市小倉南区) 未盗掘
 円墳、箱式石棺
 40代男性
 庄内式土器、二重口縁壺
 蛇行剣(345mm)
 キ龍紋鏡(45mm)  ※平原遺跡1号女王墓165mm
 鉄剣、鉄斧、槍鉋、刀子

587 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:34:43.93 ID:1V32gJg9k
巨大な蛇行剣が見つかったようですが、
最大例はいいですが、
最古例は南方浦山古墳ではないでしょうかね?

妙ですね。
まだ公表されていないデータでもあるのでしょうかね?


南方浦山古墳を伊都説で解析すると、
キ龍紋鏡が出土しているので、女系市杵島姫命もしくは男系アジスキタカヒコネの一族。

前者は新伊都2代目の外戚がワニ(アズミ)系になった時に一旦失脚して、
琵琶湖沿岸へ移動し、
卑弥呼の母の代に北部九州倭国へ戻って来たので、
平原1号は方形周溝墓。

と、いうことは、
南方浦山古墳の円墳は、男系アジスキタカヒコネ系の可能性が高くなりますね。

588 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:36:21.34 ID:1V32gJg9k
記紀に記されているように、
崇神天皇の御代に疫病が流行しますね。

崇神天皇は、宮中で祭っていた天照大神と倭大国魂神を外に出すことにして、
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ、
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬へ。
その結果、渟名城入媛命は病気になりますね。

さらに亀卜を行ったところ、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑いて、
伊香色雄に八十平瓮作祭~之物を準備させて、
大田田根子(大物主神子孫)に大物主神を、
市磯長尾市(椎根津彦子孫)に倭大国魂神を、
それぞれ祭らせると、漸く疫病が終息します。

崇神五年に疫病が流行り始めて、七年十一月に終息ですから、
約3年間の流行があったわけですね。


一方で、三国志において、
青龍二年(234年) 夏四月大疫
青龍三年(235年) 春正月京都大疫
の記録があり、
司馬懿の大軍が遼東まで移動してきて、難升米達が接触しています。
さらに難升米達は洛陽まで訪問して、貢物を貰って帰ってきます。
青龍三年銘の方格規矩四神鏡も日本で出土していますね。

589 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:37:36.30 ID:1V32gJg9k
大きな流れは前スレで検討した通りで、
現代の我々は、新型コロナが流行したら、原因ウイルスを突き止めようとしますが、
弥生時代だと、疫病が流行したら、原因となる祟りを突き止めようとしたわけですね。

<診断>
非常に科学的な対処をしており、
まず、原因となる祟りを突き止めにかかります。

親魏倭王の金印を貰った直後に疫病が流行している。
一方で、難升米が公開した漢委奴國王の金印も58年に疫病をもたらした既往がある。
この2つのうちどちらかが原因であることは(当時の人にとっては)明らかで、
2つのうちどちらが原因であるかを突き止めたかったのですね。

台与を責任者として、伊都國関係者を隔離。
渟名城を責任者として、奴國関係者を隔離。

で、後者が病気になったので、明らかに漢委奴國王の金印が原因。

<治療>
漢委奴國王の金印への対処として、
ワニ彦国葺に命じて不彌國の志賀島に封印させたのと、
奴国王の子孫二人に祭らせた。

590 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:40:24.91 ID:1V32gJg9k
要するに、蛇行剣とは、
疫病=蛇紐金印の祟り、に対しての、ワクチンや治療薬ですね。

第10代と同盟して以来、有力勢力となった狗奴国系の貞人(Aタカヒコ系)が、
日頃から疫病退散の祭祀を行いながら、

<ワクチン>
定期的に卜占して、疫病を予防するために最適な、氏族あるいは人物(主に奴族)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

<治療薬>
疫病が流行したら、同じく卜占して、
祟りの原因を鎮めるのに最適な者(主に奴族の)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

病原ウイルスなどの知識もない時代ですから、
蛇行剣祭祀は立派なワクチンや治療薬だったわけですね。

特に治療については、
疫病が流行し始める
→蛇行剣の製作に入る
→皆が一心不乱に蛇行剣の完成を祈る
→蛇行剣が完成して対象者に授与する
(→その頃には自然免疫が獲得されて疫病が終息する)
→蛇行剣の治療効果に皆が感謝する

と、いうことだったのでしょうね。

591 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:43:02.09 ID:1V32gJg9k
そう考えると、南方浦山古墳は、大田田根子か市磯長尾市が候補になりますね。

後者は亀さんの子孫ですから卜占が絡んでおり、
T姫からのAタカヒコ系統の可能性が高くなります。
キ龍紋鏡を重視するならこちらですね。
まだ確定はできませんが。


蛇行剣祭祀にすがったご先祖様たちの気持ちは、
新型コロナの脅威に晒されている現代の我々にはよくわかりますね。

長大な蛇行剣を作ったということは、
当時大規模な疫病の流行があって、それを鎮めるために必死で作ったのでしょうし、

新型コロナに怯えてワクチンを何度も打つ我々に、
ご先祖様たちが安心するようにと、蛇行剣を差し伸べて光明を見せてくれているのかもしれませんね。
5月から引き下げられるそうですし。
崇神天皇に感謝ですね。

592 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 01:14:48.36 ID:TAQl7w55Y
いや、現代感覚で見つけて浮かれてる場合じゃないのかもしれませんね。

当時の国家最高権威の数名が同じ啓示を受けて実行した封印が、
75%から100%開封されてしまった。
特に今回の物が最大ですから。

原子力とか大丈夫でしょうか。
安倍晴明がこの世に生きていれば適切な対処法を示してくれたのでしょうけれども。

593 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 09:49:18.83 .net
>>341
わかるけど、それだと邪馬台国が少なくとも畿内から中国地方、北部九州まで支配している事になるような気がするけど可能なのか?
250年前後の事はよくわからないけど日本は統一されているとは思わないので中国地方、四国、九州のいずれかは敵対勢力だと思う。たくさんの宝物を乗せた使節の船は畿内に着く前に海賊やら盗賊、敵対勢力に奪われたり攻撃されたりして無事に畿内に辿り着くとは思えない。
魏志倭人伝を読む限り少なくとも対馬と壱岐と末盧国と伊都国民は邪馬台国とは友好な関係か従属国である。そうなると畿内から北部九州までは邪馬台国の勢力圏でないと安全な渡航が出来ない。
豊臣秀吉でも全国統一にかなり苦心したのに、それより文明が遥かに劣った250年前後に畿内から北部九州までが統一国家とは思えない。
しかし、九州説に矛盾があるのも事実。畿内説にも矛盾があるのも事実。

594 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 18:42:13.75 .net
>>593
矛盾がないのは、「阿波」だけ。   @阿波

595 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 06:36:10.82 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

596 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:02:57.11 .net
>>595
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

597 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:03:05.56 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

598 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 23:22:36.83 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

599 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 00:00:03.15 .net
>>598
そういう非科学的な願望を並べることしかできないから畿内説は敗れ去ったんだよ

600 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 14:02:04.01 .net
>>598

大和盆地南東部に七万戸もあったのか!
驚き桃の木山椒の木

601 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 07:05:32.21 .net
>>599
論文書こうね

602 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:10:27.73 ID:A+J+vh5mG
家船(えぶね・いえぶね)

もともと日本列島各地には水上生活者(船を家として、年間を通して水上・海上で過ごす人々)が多数いた。
彼らを蜑人(アマ・延の下に虫+人)と呼んだ。
中国大陸沿岸にも広く蛋民と呼ばれる漢族の水上生活民がいた。
文献で明らかに遡れるのは13世紀まで。
動力船の普及と高度経済成長に伴って、工場勤務や運送業など陸上生活に移行する人が増えて、1960年代にほぼ絶えた。
ということですね。

北部九州だと、
五島列島(伊邪國)など長崎県を中心とした北西部、
鐘崎(稲羽)などを中心とした北東部、
大分県臼杵などを中心とする豊後シャア、
の三大圏があったようですね。
対馬海峡を抜けて朝鮮半島にも出張していたようです。

603 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:12:15.29 ID:A+J+vh5mG
家船で生活するアマ達が、そもそも縄文時代から存在していた、
と考えると、
数々の謎が説明できますね。

丸木舟に萱でも板でも葉でも屋根をつければ家船になりますから、
縄文時代でも作れます。

家船であれば基本的には手漕ぎ船ですから、
移動能力は縄文時代から変わらず、
縄文時代の北部九州アマの文化圏も、
長崎伊邪國、筑前豊前、豊後、の3つに大別できた可能性が高い。

水上であれば、蚊などの害虫がいませんし、
洪水や森林火災などの災害があってもすぐ移動できる。
子供が成人しても新たに土地を開墾する必要が無く、(田分け者の回避)
丸木舟の家船を作ればそれで新たな一家が形成される。

604 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:13:36.19 ID:A+J+vh5mG
縄文時代であれば、そもそもの水田が無いわけですから、
陸上生活にこだわる必要がありませんね。

各地に貝塚があるくらいですから、陸上生活であっても海産物に頼っていたわけで、
それならいっそ家船で海上生活をした方が便利です。

縄文時代は東日本が栄えて、西日本は栄えていなかった。
と言われますが、
西日本にも貝塚はありますし、
そもそも似たような人々が暮らすのなら、温暖な西日本の方が暮らしやすい筈ですね。

考古学ベースで考えると、出土した物だけを根拠に議論するので、
東日本が栄えていたことになりますが、

発想を転換してみると、
「縄文時代には、家船での水上生活の方が便利だった」
「西日本の人々は温暖な縄文時代に水上生活を満喫していた」
「東日本の人々も水上生活をしたかったが、冬は寒いので、陸上に居を構えざるをえなかった」
のではないか。

605 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:14:52.55 ID:A+J+vh5mG
縄文時代の推定人口は、最盛期で26万人とされていますが、
アマがいたならその数倍はいたことになりますね。

例えば青森県であれば、冬は間違いなく陸上生活していたでしょうから、
縄文時代の青森県における竪穴住居からの推定人口と、
海産資源をベースにするなら、
同等の人口密度で西日本にも縄文人が暮らしていた筈ですね。

さらに、
西日本、九州の方が温暖であることを加味するなら、より多かったはずだ、
と推察されることになります。

また、家船集団であっても、
所属港の管理や、燃料や水などの確保のために、陸上生活担当者がいたわけですが、
近代の家船集団の、湾内における海対陸の居住比率が、
最大では9対1の集団もあったとのことですから、
現在九州で推定されている縄文人口は、
実は最大でその10倍いた可能性がある、ということにもなりますね。

606 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:20:49.46 ID:A+J+vh5mG
縄文海進においてシミュレートしてみます。

共通事項として、
平野は次々と海に飲み込まれて、高地へと追いやられますね。
>>516
4000年前にハツカネズミが一斉放散して、大陸では長江文明を滅ぼし、
南西諸島経由で日本列島にも押し寄せて蹂躙します。

<西日本>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。
温暖なので、大多数は家船を作って水上生活者として海産物で生計を立てた。

陸上生活者もいたのだが、4000年前にハツカネズミが出現して文化崩壊し、
家船に転居したか、一部は半島へ疎開した。

<東日本>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。
冬は寒いので、
家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者と、
竪穴住居で定住して貝塚文化を営む陸上生活者とがいた。

4000年前にハツカネズミが出現して文化崩壊した。

607 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:21:30.64 ID:A+J+vh5mG
<半島>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。

冬は寒いので、
家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者がいた。

陸上生活者が追いたてられた山地には、熊、狼だけでなく、
虎、豹などの猛獣がうようよしており、
新規入植は極めて困難であった。

>>518
そのため、4000年前のハツカネズミは、陸上生活者がわずかな半島陸地には入っていけなかった。
ハツカネズミの代わりに、
列島から、ハツカネズミに追われた陸上生活者が入植してきた。

608 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:25:45.38 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在によって説明できる次の謎が、
弥生時代の山口県沿岸における居住集落ですね。

山口県沿岸には、中ノ浜遺跡、梶栗浜遺跡、綾羅木郷遺跡、土井ヶ浜遺跡など、
大規模な墓地・貯蔵地遺跡が見つかっているにも関わらず、
目ぼしい弥生集落跡が全く無いわけですね。

これもつまりは、水上生活者のアマ勢力だったと考えれば辻褄が合います。

伊都説で考えると、
>>602
鐘崎を中心とする地域にいたのが、古代ワニではなかろうか。
そしてその東にいたアマ勢力こそが、
>>82
古代越=山口県を中心とする、「八岐大蛇」だったのではなかろうか。

九州側の行橋市にある、下稗田遺跡とは、豊後アマの勢力圏にあって、
環濠で防御していないことから、
実は越の「八岐大蛇」の、九州側の主要港だったのではないか。

であるから、考古学的に判明しているように、吉武高木勢力+古代ワニ勢力に一度滅ぼされたのではないか。
と考えられるわけですね。

609 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:28:14.23 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在によって説明できる次の謎は、
一大國三千許家と、不彌國千餘家ですね。

この2国だけが、戸ではなく家なのは、
アマの家船を足しているから、と考えられますね。

倭人伝と一続きの記載である乾伝との整合性を取ると、
しっかりとした住居を構えて戸籍調査に登録されたのが「戸」
家船のような水上生活者、あるいは遊牧民・漂流民や野宿者も含めるのが「家」
と考えられます。

倭地で考えると、全ての国の津々浦々にアマの家船が漂泊していたのでしょうが、
その所属する母港、が、壱岐(ツクヨミ)や志賀島(ワダツミ・アズミ)だった、ということですね。

他にも伊邪國(ヒラフガイ?)や、岡田(ワニ)や、越(八岐大蛇→ヌナカワ?)や、
東方にも日本列島全域でアマが活動していたわけですね。

610 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:30:34.07 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在を加味して、魏志倭人伝を読み直してみます。

『始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居?島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘? 無良田食海物自活 乖船南北?糴』

狗邪韓國から初めて渡海して、東夷伝里の千余里で対馬國に入国する。
対馬國の大官は彦で、副官は夷守である。
対馬國がある対馬島は絶海の孤島である。(対馬島には対馬國と対海國がある)
対馬國は東夷伝里で四百余里四方である。
山が険しく、深い林が多く、道は獣道のようである。
(アマが主体であり、道が発達していない)
陸上居住者は千余戸である。
良田は無く、海産物で自活している。
船に乗って南北に渡海して商売取引している。

アマの暮らし方そのままですね。

壱岐に比べて対馬の方が停泊する浦が多いですから、
陸上作業組が千戸。木材や炭、真水の補給担当ですね。
とすると、対馬には、数千〜万の家船が停泊していて、漁をしたり、
南北に行ったり来たりして様々な物品を輸送していたということですね。

縄文時代は家船単位で商売していたのでしょうが、
少なくとも魏志倭人伝の時代には、「大率」がそれを締めていたということになります。
壱岐の一大國に登録した家船だけが、大率の検察下に、対馬海峡を渡海できたのでしょう。

611 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:32:42.72 ID:A+J+vh5mG
『至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北?糴』

対馬國からまた南に渡海して、東夷伝里の千余里で一大(一岐)國に入国する。
一大國の官もまた彦であり、副官は夷守である。
一大國は東夷伝里で三百里四方である。竹や木や草むらの林が多い。
海上生活者を合わせて三千余家が所在している。
幾ばくかの田はあるが、食べていくには足りないので、対馬と同じく南北に渡海して商売取引している。

対馬と同じく、アマの生活感ですね。
三千という数字があるので、考古学的に判明している、原の辻遺跡とカラカミ遺跡の戸数を引けば、
壱岐を母港として大率に登録していた家船数
あるいは、
壱岐に滞在していた家船数の平均数
がわかりますね。


『又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘? 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅皆沈沒取之』

一大國からまた東夷伝里で千余里を渡海すると、末蘆國に入国する。
末蘆國の陸上生活者は四千余戸である。
(古くから開けている柏崎遺跡〜桜馬場遺跡など)
山や海に沿って暮らしている。(陸上生活者と水上生活者が暮らしている)
草木が生い茂っており、道を行く時に前の人が見えないほどである。
魚やアワビを好んで獲り、水深が深かろうが浅かろうが皆、潜水してこれを獲っている。

末蘆國もアマが主体なので、移動は舟であり、道は開けていない。
そうなると、唐津湾にたむろしている家船は、五千〜五万の可能性が出てきますね。

612 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:47:38.09 ID:A+J+vh5mG
>>412
軍神が一緒に連れて行った奥さんにしても、
蜑人・海女・住ミ美・墨
ということかもしれませんね。

美保関辺りの当時の軍神所領に住んでいて、奥さん本人はともかく、
その一族家来が家船の水上生活者だったので、

軍神が、
古代出雲=宗像
→故郷土井ヶ浜遺跡で兄達に警告・その一部は一緒に逃走開始(→>>581
→所領で蜑人墨の妻子がすぐに合流逃走開始
→諏訪
と突然の逃走劇にも関わらず、
財産の多くを持って逃げることが出来たのですね。<家船に家財一切を積んでいるから>

それが後の、東海式銅鐸や、多孔銅鏃、
そして東方の前方後方墳の前漢鏡などの存在説明になりえますね。

613 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:58:39.06 ID:A+J+vh5mG
>>272
軍神の東方逃走集団は、丹後を通過しているので、
爾支お兄さんを通過していますね。

と、いうことは、やはりAタカヒコは、伊都国勢にはあまり伝えずに挙兵した可能性が高いですし、
軍神は上手いこと爾支お兄さんを言いくるめて丹後を通過したことになりますね。

「奴国での合議にて、我らは東国を開拓することになった」
「奴国での合議にて、東国開拓して木材など物資を送る使命を受けた」
あるいは、上官の将軍として、丹後若狭湾水軍長官に、通過させるよう高圧的に接した、などですね。

軍神を通過させたことが、問題となって、
新伊都=三雲大王には、爾支弟さんの方が擁立されて、
お兄さんは、爾支になって、旧奴国領域の鎮圧の役目を与えられた、ということでしょうかね。

614 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:07:30.51 ID:MA4AFpQjw
縄文土器のうち、丸底のものや、
深鉢などで、底があるけれども非常に小さい底で、
縄文時代の竪穴住居の土間ではたして直立していられたのかどうか、
というものは、
水上生活者アマが舟の上で使うのが主目的だったのかもしれませんね。

後の庄内式や布留式と同じで、
揺れる舟の上で固定するなら、底は意味がなく、
木枠に嵌めて固定することになりますからね。

>>606
>家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者と、

三内丸山遺跡でヒスイが出土したり、
各地の黒曜石が遠距離移動したり、
というのも、
そもそもの住人が水上生活者で漂って生活していたのですから、
交易とも言えますし、広域経済活動とも言えますね。

615 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:09:53.55 ID:MA4AFpQjw
>>609
一大國の有三千「許」家
については、
余の誤写として三千家余りと訳すことが多いですが、

壱岐島一大國での滞在を「大率に許可されている」家船水上生活者並びに陸上生活者が三千家

と訳した方が、
倭人伝全体での意味が通りますね。

許と余では誤写するにも字体が違いすぎますし。


縄文時代の丸木舟が出土したのは関東千葉県が圧倒的に多いそうですが、
大半がハツカネズミ来襲直後の3000-4000年前のようです。

古代の木材は、現代の石油に匹敵する貴重な材料兼燃料ですので、
全国の古代全時代において、建物もそうですし、舟もそうですし、
木材は大事にリサイクルされ、最後は処断して薪としても有効利用されたわけですね。

それが千葉県から丸木舟が大量に出土するということは、
アマといえども陸上母港はあるわけですから、
ハツカネズミによって蹂躙された九州〜四国本州の人々が、
大混乱の中、必死に東へ東へと逃げて、
本州東の千葉県に追いつめられた。

千葉県から先は、寒冷な東北地方へ北上するしかなく、
しかもハツカネズミは彼らを追い越して行く先にも満ち溢れたので、
ハツカネズミ避難民が千葉県に短期間吹き溜まって、
再利用しきれない破損丸木舟が朽ち果てた、ということでしょうかね。

616 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:11:32.40 ID:MA4AFpQjw
『天地初發之時 於高天原成~ 名 天之御中主~
 (訓高下天 云阿麻 下效此)
 次高御??日~ 次~??日~
 此三柱~者 並獨~成坐而、隱身也

 次 國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時
 (流字以上十字以音)
 如葦牙 因萌騰之物而成~』

天地開闢の時、高天原に神様が現れました。
天之御中主、高御??日~、~??日~、と名づけられました。
(「高」の下に記載した「天」は訓読みで「アマ」と読みます、以下の文中でも同様です)

この三柱の神様たちは、いずれも一人神でしたので、姿を隠されてしまいました。

その次に、國がまだ幼く、あぶらのように、クラゲのように、漂っていた時、
葦の芽のように萌えあがってきたものによって神様が誕生しました。

617 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:20:12.79 ID:MA4AFpQjw
弥生時代の開始時期に、早良平野に有力勢力が上陸したことがありました。

伊邪國アマの大頭領と、太伯集団の有力者と、燕系東方集団の有力者です。

この三者はこの当時はそれぞれ別々に行動していたので定着できず、
早良平野からは一旦手を引きました。

その次に、当時まだ縄文時代の延長で、
北部九州の国民の大半が家船アマとして、
あぶらのように、クラゲのように、漂うように水上生活をしていた時に、

618 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:04:20.98 ID:JCsm4OK6n
縄文日本列島に水上生活者がいたように、
古代大陸沿岸にも水上生活者がいたのでしょう。

古代に東シナ海を渡ってくるのであれば、
意図的な渡海ではなく、戦災や天災による不慮の漂流なわけで、
確率論からすると、
漂流に生きのびて渡来してくるには水上生活者の確率が高くなります。

>>263
倭人については、縄文時代に相当する記録も残っていることから、
日本だけにいたのではなく、環東シナ海一帯に居たのではないか、
とか、
元々大陸側にいたのが、日本にやって来たのではないのか、
と考える識者も多いですね。

619 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:05:28.47 ID:JCsm4OK6n
魏志倭人伝
『男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
 夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害
 今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後 稍以爲飾
 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
 計其道里 當在會稽東冶之東』

魏略逸文
『其俗男子皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後
 昔夏后少康之子封於会稽 断髪文身以避蛟龍之害
 今倭人又文身以厭水害也』

大陸側の沿岸部にあった国家は、呉越や斉燕であり、倭国はありませんよね。

のであれば、
古代中国において、倭人とは特定の部族や国民を示すのではなく、
沿岸の水上生活者全般のことを倭人と呼んでいたのではないか。
つまり蛋民の古語が倭人であった、可能性がありますね。

日本は国が続いているので、アマという言葉が残ったが、
大陸側は入れ替わりが激しいので、倭人という言葉は日本関連でのみ残って、
蛋民に変わったと。

そう考えると、用語の問題であって、
古代中国側にいた水上生活者も倭人。
古代日本側にいた水上生活者も倭人。

後に九州のアマが自分たちを倭人倭国と自称し始めたからややこしくなった。

倭寇も、日本の倭の意味も入ってはいるが、
日本とは関係なく、主に海で暮らす海賊という意味も含んでいることになって、
日本人以外の人々がむしろ多かったという実態と合ってきますね。

620 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:06:39.14 ID:JCsm4OK6n
古代の大陸側では、倭人=水上生活者が、「斷髮文身以避蛟龍之害」をしていた。
少康之子が会稽に封じられたり、
太伯が会稽に移動したり、
した際には、沿岸地方では一大勢力だった水上生活者集団の風習を取り入れることで、
それを配下においてコントロールした、ということになりますね。

ですから、陸上国家としては、呉越ですが、
呉越沿岸部の水上生活者として、呉の倭人や越の倭人がいた、のではないか。

家船で暮らす倭人であれば、東シナ海を漂流したとしても、
生きて日本列島や半島に漂着する可能性が上がりますし、
家財道具生活道具一式を運んできてくれます。

ただ、倭人は水上生活者ですから、稲作や養蚕(桑)とは相性が悪いはずですね。
中国倭人だけの家船が漂着した場合は、日本側のアマにとっては、
あまり目新しい進展はなかったかもしれません。

そこで、
>>511
陸上生活者である太伯集団が、戦災によって、倭人の家船に乗せてもらって避難した。
台湾あるいは南西諸島に避難移動中に、台風などに遭遇して漂流した。
ごく一部が九州や半島の西岸に漂着し、
長崎伊邪國に、ねずみ返し、養蚕、青銅器、をもたらしたのではなかろうか。

621 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:07:53.39 ID:JCsm4OK6n
伊都説で考えた場合に想定される渡来勢力について、
家船倭人の要素を検討してみます。

>>113
斉の土笛難民については、
北部九州に居つけなかった=王族や技能者のいない一般人集団だった、
可能性が高いので、
一般人集団が対馬海峡までたどり着いたことから、
まずまず「水上生活者」の家船集団だったことになりますね。

>>355
徐福の場合は逆に、1回目の来倭時に神薬入手に失敗して、
一族郎党ですぐにでも逃げだしたいのに、
2回目の来倭のために時間をかけて準備をしていることから、
まずまず「陸上生活者」の集団亡命だったことになります。

>>312
一番重要な燕さんたちは、半島への影響力が強く、
衛氏朝鮮時代も経ていますから、
陸上生活者も水上生活者もどちらも来ることが出来ますね。

特に、陸地伝いの陸上生活者については一番濃厚に渡来していたことになります。
神a派や神b派など、大規模集落遺跡を成しているのもそのためですね。

>>557
奴族だけが中国側からではなく、沿海州からで、
しかも乗馬の風習があった、ということですね。

622 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:08:33.51 ID:JCsm4OK6n
2万年以上前にO1B1とO1B2が分かれた場所が中国だと、
出発点が近すぎて、その後中国で混ざり合ったはずですから、

遥か西方の中央アジアで分かれて、東へ押し出され、
O1B1はヒマラヤ山脈の南側ルートを東進して、自生稲地帯に至って稲作開始。
O1B2はヒマラヤ山脈の北側ルート、つまりシルクロードを東進して、沿海州へ。

2万年ぶりに中国北部や日本列島で再会したのではないでしょうかね。

623 :日本@名無史さん:2023/06/11(日) 19:29:56.71 ID:ulR2Z6xNh
棺に対して蓋が巨大とのことですから、
X印は荒神谷や加茂岩倉と同じ意味合いの卜占貞人による封じでしょうかね。

幅が小さく小柄な女性か子供とのことですね。

石棺なので女系はアマ勢力。かつ太伯系の親族あり。

釧ならワニ系で、貝輪なら70年以前。銅釧なら70年以降。

蛇行剣が出ればぬなき入ヒメと地名が一つ確定するのですがね。

624 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:01:13.86 ID:r40R1t5mJ
>>619
言葉で考えると、水上生活者を示す言葉が、

周代の中国「倭人」
縄文時代の日本「阿麻」アマ

現代の中国「蛋民」
現代の日本「蜑人」アマ

という、可能性がありますね。

太伯集団のアイデンティティについて検討すると、
周王家の直系である太伯系が、倭人と自称していたわけですね。

ということはつまり、
伊邪國に漂着渡来してきた太伯集団の末裔の主流は、
自分たちを倭人=水上生活者と認識していたことになり、
九州側で言うところのアマ集団の一部になっていたことを示唆します。

625 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:02:59.88 ID:r40R1t5mJ
縄文時代の地理を考えると、
そもそもの伊邪國=長崎県には、現代ですら広い平野が無い。
ましてや縄文時代なら尚更だったでしょう。

支石墓(石棚墓)が太伯集団の足跡だとして、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の勢力範囲内で東に住む許可をもらっても、

背振山系の南は阿邪訶(あ・ざか)で、当時まだ佐賀平野は無く、干潟と山坂だけ。
背振山系の北で末蘆國や筑紫日向まで出るとようやく平地があるけれども、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の本拠地ですから、
すぐには入居させてはもらえなかったのですね。

626 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:04:12.50 ID:r40R1t5mJ
石棺墓は縄文時代には無く、弥生時代になってからで、
支石墓の下部構造として出現しますから、
太伯集団がもたらした可能性が高いですね。

これら石棺墓が基本的には海岸沿いに分布しているのも、
太伯集団が周語「倭人」=倭語「阿麻アマ」として渡来初期を過ごしたことを示唆しています。

太伯集団が漂着渡来してきて、ねずみ返し、養蚕(四眠蚕)、青銅器、支石墓(石棚墓)、石棺墓をもたらした。
けれども、
伊邪國には、広大な平野や、広大な真砂土地域がなかったために、
渡来初期を水上生活者として過ごすことになり、
その時期が数世代続いた。

ねずみ返し(稲作の再開)や養蚕(絹生産)など目玉商品は縄文人に伝わったけれども、

太伯集団の細かい陸上生活風習(鼎や中国式農工具など)は伝わらなかった、
と説明できますね。

627 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:20:19.51 ID:r40R1t5mJ
太伯集団は家船生活を続けるうちに、中国にいた頃の風習をだいぶ喪失して、
抜歯をはじめ九州縄文アマ文化への同化が進んだわけですね。
>>527
投馬國出兵時には、石棺墓は既に少数派となり、
出土人骨も縄文系となっています。

支石墓は壱岐対馬に到達することなく消滅しますので、
この戦役で太伯系純度の高い人物が多数亡くなったのかもしれませんね。

だから吉武高木大王は木棺墓で、縄文系。
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の系統でしょうね。

ただ、文身の風習があるので、
太伯系貴種の血筋自体は、残っていた可能性があります。
残っていたとしたら、石棺墓か甕棺墓、(+標石)の可能性が高いですね。

少しでも太伯系の血筋が入っている人、あるいは血筋の繋がらない親戚とかであっても
太伯の末裔を名乗る利点があるとしたら、
中国勢力との外交・交易ですね。
なんといっても周王族の血筋ですから、
例えば燕商人相手に、絹と青銅器の交換取引をする時に、
舐められずにすみます。

総レス数 719
533 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200