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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

2 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:48:45.67 .net
まず崇神天皇

物部一族を外戚とした畿内「ヤマト」の実質初代王
その物部とは九州の邪馬台国を裏切った狗邪韓国を治めた一族が祖ではないかと考えてみる

倭への交易拠点として重要であり後の百済や新羅とも関係が深く軍事的にも先進していたはず
その一族は元々「邪馬台国」の1部であり王族なのかもしれない

一方当時の畿内
神武天皇から開化天皇までは実在したとしてもせいぜい出雲王権の地方長官レベルではなかったのではないだろうか?

3世紀に突如起こった纒向遺跡に見られる畿内の文化的変革
これは物部が畿内に持ち込んだ「元邪馬台国」文明である可能性がある

卑弥呼亡き後、混乱する北九州地域を放棄し、畿内に移住
新たに「ヤマト」の名を持ち込み邪馬台国の祭祀を受け継ぐ

この一族と天皇家が結びついた結果誕生したのが崇神天皇ではなかろうか

3 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:59:48.72 .net
そして何故畿内に「ヤマト」の名が付いているのか?

憶測でしかないのだが、この時期に特筆されるのは「倭彦命」「倭姫命」の存在
わざわざ「ヤマト」の名をこの2人だけ記念のように付いているのか
それぞれ崇神の御子と孫である
その名は「倭」と書いてヤマトであり、ヤマトと呼ばれる初期段階

そして特筆すべきは倭姫命は初代斎王だということ
天照の御魂を崇神の御所から移動し伊勢まで遷宮したその人
この行動も不可解なのだが記紀では崇神天皇の時代に疫病が流行ったためと考え大物主と別けた、とある
なぜそのようなことをする必要があるのか?

4 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:07:51.73 .net
これは、天照祭祀が「他の場所から移入した祭祀」だったと考えざるを得ない

ではわざわざ祭祀を移入した意味
これはどこにあるのだろう?
それはズバリ「王権の委譲のために一時的に必要だった」と考えるのがもっとも自然だと思う

伊勢神宮は皇祖神であるにもかかわらず明治まで天皇が訪れなかった
なのに存続している謎
これは天照祭祀が「邪馬台国」由来であり、北九州を初めとした中華に認められた権威と交易権を得るために必要な措置であったと考えられないだろうか

ヤマトトモモソノヒメはそのような権威と由来を受け継ぎながらも大物主と結婚することで、無事に王権祭祀が畿内「ヤマト」に移ったことを示しているのかも知れない
そのため「ヤマト」では祭祀的始祖の地位に立ったことで箸墓古墳が造られたと考えると、時代考証的にも辻褄が合うように思う

5 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:27:58.74 .net
崇神天皇は四道将軍を派遣して本州各地を制圧する
その際の名目、権威、祭祀の理由付けとして必要だったのは「ヤマト」の名だったのではないだろうか

これまでも各地では海人族による交易が盛んに行われた事である程度の情報はもたらされていたし王権の存在も認識されていた

出雲では10月は「神在月」と呼ばれるが他の地方では「神無月」と呼ばれる
これは収穫後の産物を大国主に捧げるために各地の首長が出雲に集まった名残と思われるが、そのような権威の情報は既にもたらされていた
畿内「ヤマト」はこの出雲王権を凌ぐために各地を制圧する必要があったのだろう

6 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:50:39.57 .net
邪馬台国論争が畿内ヤマトに飛び火した理由として挙げられる理由としてはやはり「邪馬台国」が「ヤマト」であることが大きいだろう
これは文献のない考古学的資料では解明不可能だ
記紀の中でもヤマトが機内であることを前提条件としているためこれも解明不可能
だが謎は残る
ここで出てくるのが畿内説、東遷説なのだがこれらも的を得ない
九州の文化が初期の畿内に皆無だから

纒向遺跡の頃の畿内ヤマトの文明は出雲北陸、関東東海、吉備と密接に関わっていて、そこにさらに大陸からもたらされた技術が入り交じる

これは元々畿内にいた海人族由来の関東東海圏の人々が大量に移住した後に出雲勢力内に入り、その後天孫族の流入を経た後に吉備経由の大陸文明を取り入れた結果だと考える
そのため九州の文明は渡らなかった
とても自然な流れだ

畿内「ヤマト」はそうやって各地の文明を取り入れ発展した人々の新天地だったように感じる
卑弥呼の「邪馬台国」ではない
でも「ヤマト」なのだ
この隙間に残る謎のキーパーソンが物部一族ではないだろうか

7 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:31:07.78 .net
「ヤマト」の名を継承する、または奪うためにはなにが必要だろうか
「ヤマト」とはすなわち権威だ

「ミヤケ」を設置して土地の貢物を管理し、その代わりに威信財を配布する
威信財とは神器であるから剣、宝玉、銅鏡の類だ

この威信財の効果を担保するのが祭祀と軍事的制圧
この両輪を備える存在であり出雲王権を凌ぐ権威を有していたのが「ヤマト」の権威であっただろう

出雲からの影響力を脱したい機内の天孫族にとっては自らの出身由来でもある「ヤマト」を持ち込める可能性があったのが、半島南部にあった狗邪韓国の物部一族だったのでは無いだろうか

これは完全に憶測、仮説であることをお断りしておく
だが方法論と結果観測としては適切だ
少なくとも畿内説よりも

物部(と思われる一族)は崇神の時代から5世紀にかけて畿内纒向遺跡から石上神宮にかけての山辺道近辺を本拠としており、これは纒向遺跡や三輪山と密接に関連する

だから三輪山に祀られる大物主も大国主由来ではなく物部の祖神と考えられる
ただしそれを公にせず大国主の御魂と表現しているところにゴマカシを感じる

だがその大物主単体では権威の象徴たり得なかった
ここで出雲を凌ぐ邪馬台国の権威を利用するために必要なのが「ヤマト」の名と祭祀である
これは当時、言霊を重視する世界観においてワンセットであった

8 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:56:27.93 .net
崇神天皇と当時の物部一族との関連とはなんだろうか?
記紀の系譜をみてもそれは判然としない

だが崇神天皇が派遣した大彦命や吉備津彦命の四道将軍
これらを輩出する前世代の孝元天皇あたりは事績が無いにも関わらず、その将軍たちは実在性を確信できるほどの実績と逸話が残されている

そして各地に散らばった氏名は殆どがこの四道将軍由来である
この四道将軍の存在と、崇神の頃に始まった大物主祭祀
物部エリアでの古墳の増加
これらを鑑みると外戚としての物部氏の存在が炙り出されてくる

軍事とは武器の強さ(鉄製武具)
そして機動力の革新(騎馬)
経済力(兵糧確保)である
これらを得るには大陸からの技術移入が不可欠
だが邪馬台国健在の頃はこれらは全て北九州にもたらされていたと考えるべきだ

ではなぜ崇神天皇の頃に出雲大国主の支配力を凌ぐ軍事を畿内ヤマトが手に入れられたか?
それは大陸由来の一族が九州王権を裏切り、権威を簒奪し畿内に持ち込んだ結果ブレークスルーが起こった、と推測するのだ

9 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 11:37:35.74 .net
物部とは何者か

五十瓊敷入彦命は崇神の孫であり垂仁天皇の子(倭姫命の兄妹)
そして石上神宮を創建した始祖であり武具を管理した

その石上神宮は物部氏の総氏神であり物部はこれ以降隆盛する
これらの物事の拡がりに潜むのはやはり崇神天皇を始祖とした畿内物部王朝とも言うべき王権の拡張
である

ここでひとつ興味深い伝承がある
九州みやま市のこうやの宮に伝わる神剣の話
みやま市と言えば邪馬台国の都があった最有力地

こうやの宮に伝わる伝承に、「ここにあった神剣は崇神天皇の頃に吉備美作を経て大和に遷された」との伝承があり、その傍らになんと七支刀を持った人形が祀られているのだ

これはこの地(邪馬台国)に贈られた権威の象徴(神器)である七支刀が物部一族とともに畿内へと渡った伝承そのものではないだろうか?

それも応神期ではなくわざわざ崇神の頃と指していことが興味深い

応神期では無いということは百済からの七支刀ではないことにもなりこの表現には矛盾が生まれるのだが、邪馬台国に所属していた物部氏が畿内ヤマトに移住した痕跡というのはこれで確認できる

10 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:26:32.82 .net
石上神社のある一帯は、5世紀後半に始まった鉄器を造る鍛冶工房跡が有名だ。
古墳などもその頃から造られる。
この地から北西に進むと交野の鍛冶工房跡があり、この工房は山越えの街道でつながっている。
この両者は、いずれも物部氏に関わるそうだ。
日本海を経由した鉄素材が運び込まれたということだろう。

このことからして、物部氏は鍛冶一族で、それも和鍛冶系とする説が見られる。
5世紀後半に突然大規模な鍛冶工房が石上の地に現れることから、王権と密接な関係があったことが推測されている。
ただ、その5世紀後半以前にその物部氏がどこにいたのかという系譜については、まったく不明らしい。

11 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 19:03:35.60 .net
>>10
吉備由来ならかなり面白いのだがそう簡単には行かないかな

みやま市の伝承に加え石上神宮では「布都御魂十握剣は元々吉備にあった」との伝承を残していて、吉備にも製鉄に関わる物部が存在していたのは確実

物部と吉備、そして箸墓古墳の円筒埴輪文化この辺りが同時代なのは凄い事だ
さらに吉備は温羅伝説も製鉄に関わるとされ、先述の四道将軍吉備津彦が討伐した対象となる

吉備はまことに怪しい
だが未だパズルのピースは散らばっているままだ

12 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 12:50:58.51 .net
とにかくですね、このスレでは

・九州邪馬台国崩壊とともに畿内「ヤマト」纒向遺跡が勃興
・原因は加羅、伽耶の物部一族によるクーデター
・物部は出雲から逃れるように吉備に潜伏
・物部は崇神天皇のもとに神器を持ち込み崇神は「ヤマト」の名と共に権威、祭祀を吸収
・王権獲得後、四道将軍を派遣しまつろわせ、土器製鉄等の職能集団としての物部を保護
・天照祭祀は不必要になり倭姫命に委譲、伊勢へ遷移
・新たなる王権祭祀として前方後円墳、埴輪等の文化が起こる

この辺りをストーリーとして伝承や発掘成果を照らし合わせて行きたいと思います

13 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 15:02:53.23 .net
奈良の考古学調査によると纒向遺跡に立ち並ぶ建築物の柱構造は出雲と伊勢二つの構造の始祖となるらしい
伊勢と出雲の建立成立年代は5世紀以降と言われているけど形式が3世紀にあるということは、この時期まだ出雲王権とヤマト王権は併存していた、または新しい祭祀を開始するにあたり格式表現を演出した可能性があると思う

ナガスネヒコとニギハヤヒの存在感も同時に匂う
特にニギハヤヒは交野を本拠地とした物部の始祖と言われているがその後没落してると描かれている
どうにもしっくり来ない

14 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 20:46:30.13 .net
大物主は大国主の和魂といわれる
和魂、荒魂というのは古代神道によく見られる概念なのだが、布都御魂のように魂は神宝に宿ると云われてきた

そこで思い当たるのは邪馬台国の天照の御魂なのだがこれはまごう事無く八咫鏡
では八咫鏡の由来は何処か?となるとそれは九州に行き着く
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡」、または日田のダンワラ古墳でで出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がかなり類似していると言われている
いずれも後漢~2世紀にかけての製作で八咫鏡もこの辺りと同種になるだろう
神話を一旦忘れるとしたら、この頃の畿内にどうやってその神宝が渡ってきたのか?と考えを巡らせずにはいられない

八咫鏡の神話での起源は天照がニニギに手渡し「私の代わりにこれを祀りなさい」と手渡したことから始まる
ニニギといえばそう、後のニギハヤヒの祖であり物部の祖でもある

15 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:03:52.11 .net
はっきりいうと、
天照大御神=卑弥呼=邪馬台国なのだと考えています
いろんな状況や時代測定からこう考えるのが最も自然

九州の諸国をまとめあげ祭祀の女王となり大陸に認められた存在
大国主率いる出雲王国の支配国として甘んじていた畿内豪族にっては夢のような権威であったことでしょう
それを奪い継承することで出雲を凌ぐ権威を得られる

この権威の祭祀としての八咫鏡を引き継ぎ、権威の言霊「ヤマト」を名乗ることで物部の民はかしずき出雲の支配を脱することができる
崇神天皇にはこんな思いががあったのかもしれません

16 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 01:09:06.32 .net
話は戻るが
崇神天皇が豊鍬入姫命に命じた天照と倭大国魂の遷移
これはまさに王権祭祀を統一するための前段階と解くことが出来る

天照は九州の邪馬台国由来の王権祭祀
倭大国魂は出雲王権の王権祭祀
このように考えれば倭国全体の権威と祭祀を手中に収めた上でその中の権威を抽出した
その上で天照、倭大国祭祀を遷移することで分断し権威の独占を図る

抽出した仕上げとして新たな三輪山祭祀=物部系祭祀をモモソヒメに託すことで崇神王権祭祀は完成することになる

モモソヒメの神格化のために最も格式の高い箸墓古墳を造営
以後古墳祭祀として崇神王朝を世に広める

これらの儀式を行った痕跡が纒向遺跡とするならば、全ての辻褄が合うことになる

17 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 02:06:28.35 .net
何故ここまでして権威と祭祀を分ける必要があったのか?

簡単に言うと女王が君臨するという図式を打破しつつ祭祀をコントロールする立場を欲したからだと考える

邪馬台国が連合国家の象徴として成立した要因は卑弥呼という祭祀の「女王」を擁立したことだ
結果としては軍事的権威に負け卑弥呼死後は分裂し混乱した(物部に裏切られ狗奴国に敗れた?)

出雲王権は威信財に頼った国家運営であったと思われる
また、大国主の個人的カリスマ性でもあっただろう
基本的には威信財、貢物を交易ベースでもたらす連合であって、丹波、近江、北陸、東北などの出雲の根拠地はいずれも大穀倉地帯か鉱物資源豊富な土地であることが特徴的だ

これらを考えた時、崇神は世襲して大王に君臨するための方法論を模索しただろう

祭祀が権威に勝れば祭祀の女王が必要となり王は格下となる
すなわち権威が祭祀に勝る「男王」が君臨する形式を構築する必要があったということだ

そこで、まるでロンダリングするかのように祭祀のゆくえをコントロールすることで集まった権威を抽出しようとしたのだと考えることが出来る
とても優秀な考えだと思う

18 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:41:26.95 .net
これまでの考察の中でまとまったこととして、纒向遺跡は継続的施設ではなく王権祭祀の委譲を演出するための「装置」であったと考える
三輪山祭祀の開始時期が丁度3世紀後半
記紀に記される天照遷移、大国魂祭祀の開始時期も同時期
おそらく箸墓古墳の築造も重なる
これらを取りまとめたのは崇神天皇で即位5年の出来事

この時をもって出雲王権への独立を示すために「ヤマト」を名乗ったのではないかと推測する

ヤマトの名が皇族に続出するのもこの時期からだし初期の倭姫命などは「倭」を使い、その後は「大和」、「日本」を使っていることも恣意的なことだろう

その後即位7年にこの王権祭祀の形を知らしめすために四道将軍を派遣
九州への出征が後の景行天皇の代に行われたのはヤマトの名を実質的なものにするための期間が必要だったと考えておく

19 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:52:31.00 .net
あとは銅鐸が消え銅鏡が副葬されたのもこの時代のこと
これは完全に支配層の入れ替わりを示している
また、庄内式、布留式土器の成立においてはヤマト成立時に関わった物部の移民が急増した結果発生した文化だろう

崇神天皇即位後のヤマト王権の推移はひたすら物部系祭祀の邁進と各地の影響力浸透に注がれる
これは軍事的支配というよりも農耕技術と祭祀を複合させた技術浸透にあると考える
なのでその技術の基礎となる物部を重用したことは当然のことだ

20 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 23:37:15.25 .net
よく言われる畿内「ヤマト」と筑紫平野一帯の地名の類似について

九州由来の土器や埋葬方法が畿内に伝わらなかったのに鏡祭祀や地名が類似しているというのは、すなわちこの時期においては九州からの民衆の移動は行われなかったと見るべきだろう

むしろ近畿、東海の土器出土が多いことから初期畿内ヤマトは元来完全なる「本州倭人」による国家であったことを示している

その上で、祭祀や地名を変えることの出来る権威を持った少数の「高等移民」が平和裏に移住したことを物語っておりその存在とは、他ならぬ物部系一族であろう

天皇家はこの時期より以前に移住し、畿内を取りまとめていた登美一族を追い落とし有力者と結ぶことで割拠していた存在と考えていいと思う。

正直、神武からの欠史八代は本当に謎でしかないが、開化天皇あたりから後の崇神期に活躍する人材が増えるということは、後の戦国期において譜代の家臣が出世することと似た現象なのだろう

21 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 20:31:37.95 .net
考え方によっては畿内ヤマトは邪馬台国の後継国家
それまでは出雲王権の管理下にあり、長髄彦、ニギハヤヒ、神武以来の系統豪族による半独立を保ちながらも移民受け入れによる富国政策を取り続けてきた。
ちなみに当時の畿内はそう豊かでも無かっただろう
これは敵に備える環濠がゆるかったり農耕関連以外に出土しない状況からも確認できることだ

3世紀後半になり、そこにやってきたのが邪馬台国からの亡命者

九州出身ではあるが対馬、伽耶、狗邪韓国を統括していた軍事的一族である物部の民とみる
多分同族であり機内で銅生産で栄えていたニギハヤヒ系一族を頼って来たのだと思う

なぜそう考えるかというと、崇神以来の天皇は不自然な程に大陸情勢に敏感となり牛馬、武具を移入し発展することから
このように国際感覚が覚醒的に発展するのは他の理由が考えられない。あるいは武内宿禰の始祖的存在かもしれない

当時は関門海峡が塞がっていたという説があるから北陸丹波経由か一旦吉備に潜伏した者が畿内を目指したものだと思う
吉備における吉備津彦派遣は、これらの情勢を見極めた上で敵方である温羅を征伐するためだったのではないだろうか

22 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 20:46:14.23 .net
とにかく、その物部系移住民が持ち込んだのが天照の形代と呼ばれる「八咫鏡」だろう
これを得る最大のメリットは邪馬台国の女王を継続することで倭国王権の大義名分が得られることだ

ちなみに三種の神器はこの頃存在せず、崇神以降のワカタケル大王(雄略天皇)のころに成立したものだろう

各地を支配する王の印を得てその土地の王になるという図式を考案したその人こそ崇神天皇なのではないだろうか?
だからこそ後世に崇められ天皇の地位を確立した
その事績の始祖こそ邪馬台国王権の奪取とみる

ちなみに記紀ではそんなことは一切書かれていない。
崇神天皇が大王になってからの偉大な事績には溢れてはいるが、なぜそうなったのかは判然としないのだ

なぜならこの事績を公開するのはあまりにもリスクが高いからだ
もしくはこの戦略は民に語り継がれるべき話でないから
おぼろげに祭祀の移動や前後の出来事を状況証拠として推測するしかない。

23 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 00:44:02.62 .net
何だ、トンデモ論者のチラ裏スレかよ。
マトモなスレかと思って開いて損した。

24 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 03:14:13.83 .net
>>23
トンデモなのは全く否定しないよ
チラ裏にチラ裏スレを立てただけだしね
しかし実証しきれない謎の隙間を埋めるというのはどうしても考察を入れる余地があってそれを咀嚼するのには良い塩梅なんですよ

25 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 03:40:21.32 .net
で、この時代の経済活動も考察を入れる必要がある
当時の畿内ヤマトが外国から大量の威信財や武具などを手に入れるために必要な対価をどう融通したかという問題だ

弥生らしくコメじゃないの?と考えがちだが国内ならば米は兵糧の意味でも価値基準として通用するだろうが遠方への交易の場合は米や食物は不適だと思われる
そもそも中華は大生産地帯だ

金銀はこの頃産出していない
糸魚川の翡翠は出雲王権管理で手が出せなかったと思われる

鉄は当時北陸、備前、関東の特産なので四道将軍派遣前は仕入れる側の対象であった
絹製品は魏志などに出てくるが、畿内で流通させるレベルで生産出来ていたかは疑問だ

縄文由来の貝輪や黒曜石は国内の東海から東北にかけては流通されていたが九州から中華にかけては価値基準としては低かったと思われる

銅は採掘されていた痕跡があるがこれも国内需要がメインだったと思われる

じゃあなに?
という話になるのだが、唯一縄文時代からこの畿内地域で多く産出される物質がある
それは「辰砂」だ

26 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 04:21:03.44 .net
「辰砂」
これがまた古代においては最大の謎の物質と言っても良い
別名「賢者の石」

中華ではご存知、始皇帝の不老不死のための妙薬として珍重され、アマルガム鍍金の素材としても使用されている
防腐剤、白粉の用途に加え古墳では朱塗り木棺の塗装に大量に使われ祭祀においても珍重される
神社の朱塗りもベンガラと並んで大量に使用されたし奈良の大仏は辰砂水銀によるアマルガム金メッキが施されている

なんといっても辰砂は金銀並みに少量で高額に取引されるため、遠方への交易には最も適しているし腐らず長期保存による化学変化もない
このような用途や価値があるにもかかわらずその記録は殆ど残っていないことがまた怪しい

そしてこの弥生末期から奈良時代にかけては宇陀、多気、和歌山などのヤマト勢力圏において貪欲に、大量に採掘されたらしい痕跡が点在している

後の空海も高野山を拠点とした根拠も辰砂採掘の拠点として丹生都姫から譲り受けたという伝説があり、深堀りするほどに空海の採掘に対する秘めた熱意が注がれていたのではないか?という思いにとらわれるほどだ

まさに畿内ヤマト王権が既得権益である出雲王権や各地を治めるためには最適の物質であることが想像出来る

おそらく辰砂はかなり重要視されつつも完璧に秘匿された、ヤマト王権の維持に欠かせない重要物質だったのではないだろうか

27 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 07:28:14.63 .net
崇神の時代に

軍事、警備、役人への兵糧確保
神殿や宮都の建設(纒向遺跡等)
威信財の確保
古墳の造営費用
鉄素材の輸入費用
中華への献上品
四道将軍の遠征費用

これらを畿内で生産される米で賄うことは出来るはずがない
だからこそそれまでは一生産地に過ぎなかったわけだ
この爆発的発展を支える交易品の「発見」がなされたからこそ王権を立てることが出来たと断言出来る

その候補である辰砂が三輪山の裏を超えたあちこちで取れたことは偶然では無い
むしろ辰砂ありきでヤマト王権の中心地が決められた可能性すらある

28 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 23:38:30.02 .net
ちなみに辰砂は縄文時代から珍重されてきた鉱物で朱塗りや刺青に使われた
一説だと海人族の朱塗りの刺青が赤鬼、炭塗りの刺青が青鬼と言われてる
確かに言い得て妙だ
辰砂は奈良時代まで露天採取が可能だった
また重金属のため川床に溜まってるものを採取できたらしい

このように初期の辰砂採掘は比較的単純に集められることで大陸への交易品として珍重されてきたが、露天採取が出きなくなり掘削が必要になると技術的問題から一気にその生産が落ち、辰砂採掘の技術は廃れるようになった

丹生の名が着く産地はその全てが辰砂採掘の痕跡だと言われていてそれだけの需要と技術が一族相伝の技術だったことが推測される

だから歴史にその重要性が残らなかった、または国家機密的に意図的に隠されたのだろう

29 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 00:18:57.60 .net
>>24
> 実証しきれない謎の隙間を埋める
 
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が最後に辿り着いた結論を読んでみるといい。
 

30 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 12:40:49.48 .net
このスレの趣旨は崇神の時代を題材に、謎や不明点を既知の事実をヒントにして論理的予測する楽しさを求めています

そこに、知らなかった新たな事実が符合したら考えは証明され、符合しなかったら修正をするという方法論です

なので推測ばかりになってしまうことは申し訳ないんだけど、考えることはやめたくないのでこの路線で行こうかと思ってます

事実や結果の考古学をお望みの方には合わないスレですよね

31 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 23:53:19.22 .net
崇神天皇(ミマキイリヒコ)でよく議論されるのが名の中にある「ミマキ」「イリ」の意味
崇神の皇后がミマキヒメだから崇神は入婿婚を行っており、垂仁天皇以降にはイリは名付けられないからここから男系相続が始まったというものだ

名前だけで解釈するのだから少々弱々しい説なんだけどこの説もヤマト王権成立に関しては符号する点がある

仮説として四道将軍は狗邪韓国からの元邪馬台国由来の物部一族とみているから、ミマキヒメの父であるオオヒコはその筆頭であり大王家との入婿婚によって天皇家の外戚となることで権威を増した構図が浮かんでくる

さらにミマキ姫のミマキが後の任那になったと古志にもあるから
状況的にも合点する
さらにオオヒコを中心とする四道将軍たちが遠征した丹波、北陸、山城、吉備、関東はいずれも初期前方後円墳の地でもある

そして何故オオヒコは天皇ではなかったかという点
当然外戚であるからなのだが、
それならば逆に入婿を続けても打倒されずに存続する天皇家の血筋とは思っている以上に尊ばれていたものの可能性を感じる
(これは天皇礼讃を言いたいわけじゃない)

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