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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

2 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:48:45.67 .net
まず崇神天皇

物部一族を外戚とした畿内「ヤマト」の実質初代王
その物部とは九州の邪馬台国を裏切った狗邪韓国を治めた一族が祖ではないかと考えてみる

倭への交易拠点として重要であり後の百済や新羅とも関係が深く軍事的にも先進していたはず
その一族は元々「邪馬台国」の1部であり王族なのかもしれない

一方当時の畿内
神武天皇から開化天皇までは実在したとしてもせいぜい出雲王権の地方長官レベルではなかったのではないだろうか?

3世紀に突如起こった纒向遺跡に見られる畿内の文化的変革
これは物部が畿内に持ち込んだ「元邪馬台国」文明である可能性がある

卑弥呼亡き後、混乱する北九州地域を放棄し、畿内に移住
新たに「ヤマト」の名を持ち込み邪馬台国の祭祀を受け継ぐ

この一族と天皇家が結びついた結果誕生したのが崇神天皇ではなかろうか

3 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:59:48.72 .net
そして何故畿内に「ヤマト」の名が付いているのか?

憶測でしかないのだが、この時期に特筆されるのは「倭彦命」「倭姫命」の存在
わざわざ「ヤマト」の名をこの2人だけ記念のように付いているのか
それぞれ崇神の御子と孫である
その名は「倭」と書いてヤマトであり、ヤマトと呼ばれる初期段階

そして特筆すべきは倭姫命は初代斎王だということ
天照の御魂を崇神の御所から移動し伊勢まで遷宮したその人
この行動も不可解なのだが記紀では崇神天皇の時代に疫病が流行ったためと考え大物主と別けた、とある
なぜそのようなことをする必要があるのか?

4 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:07:51.73 .net
これは、天照祭祀が「他の場所から移入した祭祀」だったと考えざるを得ない

ではわざわざ祭祀を移入した意味
これはどこにあるのだろう?
それはズバリ「王権の委譲のために一時的に必要だった」と考えるのがもっとも自然だと思う

伊勢神宮は皇祖神であるにもかかわらず明治まで天皇が訪れなかった
なのに存続している謎
これは天照祭祀が「邪馬台国」由来であり、北九州を初めとした中華に認められた権威と交易権を得るために必要な措置であったと考えられないだろうか

ヤマトトモモソノヒメはそのような権威と由来を受け継ぎながらも大物主と結婚することで、無事に王権祭祀が畿内「ヤマト」に移ったことを示しているのかも知れない
そのため「ヤマト」では祭祀的始祖の地位に立ったことで箸墓古墳が造られたと考えると、時代考証的にも辻褄が合うように思う

5 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:27:58.74 .net
崇神天皇は四道将軍を派遣して本州各地を制圧する
その際の名目、権威、祭祀の理由付けとして必要だったのは「ヤマト」の名だったのではないだろうか

これまでも各地では海人族による交易が盛んに行われた事である程度の情報はもたらされていたし王権の存在も認識されていた

出雲では10月は「神在月」と呼ばれるが他の地方では「神無月」と呼ばれる
これは収穫後の産物を大国主に捧げるために各地の首長が出雲に集まった名残と思われるが、そのような権威の情報は既にもたらされていた
畿内「ヤマト」はこの出雲王権を凌ぐために各地を制圧する必要があったのだろう

6 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:50:39.57 .net
邪馬台国論争が畿内ヤマトに飛び火した理由として挙げられる理由としてはやはり「邪馬台国」が「ヤマト」であることが大きいだろう
これは文献のない考古学的資料では解明不可能だ
記紀の中でもヤマトが機内であることを前提条件としているためこれも解明不可能
だが謎は残る
ここで出てくるのが畿内説、東遷説なのだがこれらも的を得ない
九州の文化が初期の畿内に皆無だから

纒向遺跡の頃の畿内ヤマトの文明は出雲北陸、関東東海、吉備と密接に関わっていて、そこにさらに大陸からもたらされた技術が入り交じる

これは元々畿内にいた海人族由来の関東東海圏の人々が大量に移住した後に出雲勢力内に入り、その後天孫族の流入を経た後に吉備経由の大陸文明を取り入れた結果だと考える
そのため九州の文明は渡らなかった
とても自然な流れだ

畿内「ヤマト」はそうやって各地の文明を取り入れ発展した人々の新天地だったように感じる
卑弥呼の「邪馬台国」ではない
でも「ヤマト」なのだ
この隙間に残る謎のキーパーソンが物部一族ではないだろうか

7 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:31:07.78 .net
「ヤマト」の名を継承する、または奪うためにはなにが必要だろうか
「ヤマト」とはすなわち権威だ

「ミヤケ」を設置して土地の貢物を管理し、その代わりに威信財を配布する
威信財とは神器であるから剣、宝玉、銅鏡の類だ

この威信財の効果を担保するのが祭祀と軍事的制圧
この両輪を備える存在であり出雲王権を凌ぐ権威を有していたのが「ヤマト」の権威であっただろう

出雲からの影響力を脱したい機内の天孫族にとっては自らの出身由来でもある「ヤマト」を持ち込める可能性があったのが、半島南部にあった狗邪韓国の物部一族だったのでは無いだろうか

これは完全に憶測、仮説であることをお断りしておく
だが方法論と結果観測としては適切だ
少なくとも畿内説よりも

物部(と思われる一族)は崇神の時代から5世紀にかけて畿内纒向遺跡から石上神宮にかけての山辺道近辺を本拠としており、これは纒向遺跡や三輪山と密接に関連する

だから三輪山に祀られる大物主も大国主由来ではなく物部の祖神と考えられる
ただしそれを公にせず大国主の御魂と表現しているところにゴマカシを感じる

だがその大物主単体では権威の象徴たり得なかった
ここで出雲を凌ぐ邪馬台国の権威を利用するために必要なのが「ヤマト」の名と祭祀である
これは当時、言霊を重視する世界観においてワンセットであった

8 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:56:27.93 .net
崇神天皇と当時の物部一族との関連とはなんだろうか?
記紀の系譜をみてもそれは判然としない

だが崇神天皇が派遣した大彦命や吉備津彦命の四道将軍
これらを輩出する前世代の孝元天皇あたりは事績が無いにも関わらず、その将軍たちは実在性を確信できるほどの実績と逸話が残されている

そして各地に散らばった氏名は殆どがこの四道将軍由来である
この四道将軍の存在と、崇神の頃に始まった大物主祭祀
物部エリアでの古墳の増加
これらを鑑みると外戚としての物部氏の存在が炙り出されてくる

軍事とは武器の強さ(鉄製武具)
そして機動力の革新(騎馬)
経済力(兵糧確保)である
これらを得るには大陸からの技術移入が不可欠
だが邪馬台国健在の頃はこれらは全て北九州にもたらされていたと考えるべきだ

ではなぜ崇神天皇の頃に出雲大国主の支配力を凌ぐ軍事を畿内ヤマトが手に入れられたか?
それは大陸由来の一族が九州王権を裏切り、権威を簒奪し畿内に持ち込んだ結果ブレークスルーが起こった、と推測するのだ

9 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 11:37:35.74 .net
物部とは何者か

五十瓊敷入彦命は崇神の孫であり垂仁天皇の子(倭姫命の兄妹)
そして石上神宮を創建した始祖であり武具を管理した

その石上神宮は物部氏の総氏神であり物部はこれ以降隆盛する
これらの物事の拡がりに潜むのはやはり崇神天皇を始祖とした畿内物部王朝とも言うべき王権の拡張
である

ここでひとつ興味深い伝承がある
九州みやま市のこうやの宮に伝わる神剣の話
みやま市と言えば邪馬台国の都があった最有力地

こうやの宮に伝わる伝承に、「ここにあった神剣は崇神天皇の頃に吉備美作を経て大和に遷された」との伝承があり、その傍らになんと七支刀を持った人形が祀られているのだ

これはこの地(邪馬台国)に贈られた権威の象徴(神器)である七支刀が物部一族とともに畿内へと渡った伝承そのものではないだろうか?

それも応神期ではなくわざわざ崇神の頃と指していことが興味深い

応神期では無いということは百済からの七支刀ではないことにもなりこの表現には矛盾が生まれるのだが、邪馬台国に所属していた物部氏が畿内ヤマトに移住した痕跡というのはこれで確認できる

10 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 17:26:32.82 .net
石上神社のある一帯は、5世紀後半に始まった鉄器を造る鍛冶工房跡が有名だ。
古墳などもその頃から造られる。
この地から北西に進むと交野の鍛冶工房跡があり、この工房は山越えの街道でつながっている。
この両者は、いずれも物部氏に関わるそうだ。
日本海を経由した鉄素材が運び込まれたということだろう。

このことからして、物部氏は鍛冶一族で、それも和鍛冶系とする説が見られる。
5世紀後半に突然大規模な鍛冶工房が石上の地に現れることから、王権と密接な関係があったことが推測されている。
ただ、その5世紀後半以前にその物部氏がどこにいたのかという系譜については、まったく不明らしい。

11 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 19:03:35.60 .net
>>10
吉備由来ならかなり面白いのだがそう簡単には行かないかな

みやま市の伝承に加え石上神宮では「布都御魂十握剣は元々吉備にあった」との伝承を残していて、吉備にも製鉄に関わる物部が存在していたのは確実

物部と吉備、そして箸墓古墳の円筒埴輪文化この辺りが同時代なのは凄い事だ
さらに吉備は温羅伝説も製鉄に関わるとされ、先述の四道将軍吉備津彦が討伐した対象となる

吉備はまことに怪しい
だが未だパズルのピースは散らばっているままだ

12 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 12:50:58.51 .net
とにかくですね、このスレでは

・九州邪馬台国崩壊とともに畿内「ヤマト」纒向遺跡が勃興
・原因は加羅、伽耶の物部一族によるクーデター
・物部は出雲から逃れるように吉備に潜伏
・物部は崇神天皇のもとに神器を持ち込み崇神は「ヤマト」の名と共に権威、祭祀を吸収
・王権獲得後、四道将軍を派遣しまつろわせ、土器製鉄等の職能集団としての物部を保護
・天照祭祀は不必要になり倭姫命に委譲、伊勢へ遷移
・新たなる王権祭祀として前方後円墳、埴輪等の文化が起こる

この辺りをストーリーとして伝承や発掘成果を照らし合わせて行きたいと思います

13 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 15:02:53.23 .net
奈良の考古学調査によると纒向遺跡に立ち並ぶ建築物の柱構造は出雲と伊勢二つの構造の始祖となるらしい
伊勢と出雲の建立成立年代は5世紀以降と言われているけど形式が3世紀にあるということは、この時期まだ出雲王権とヤマト王権は併存していた、または新しい祭祀を開始するにあたり格式表現を演出した可能性があると思う

ナガスネヒコとニギハヤヒの存在感も同時に匂う
特にニギハヤヒは交野を本拠地とした物部の始祖と言われているがその後没落してると描かれている
どうにもしっくり来ない

14 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 20:46:30.13 .net
大物主は大国主の和魂といわれる
和魂、荒魂というのは古代神道によく見られる概念なのだが、布都御魂のように魂は神宝に宿ると云われてきた

そこで思い当たるのは邪馬台国の天照の御魂なのだがこれはまごう事無く八咫鏡
では八咫鏡の由来は何処か?となるとそれは九州に行き着く
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡」、または日田のダンワラ古墳でで出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がかなり類似していると言われている
いずれも後漢~2世紀にかけての製作で八咫鏡もこの辺りと同種になるだろう
神話を一旦忘れるとしたら、この頃の畿内にどうやってその神宝が渡ってきたのか?と考えを巡らせずにはいられない

八咫鏡の神話での起源は天照がニニギに手渡し「私の代わりにこれを祀りなさい」と手渡したことから始まる
ニニギといえばそう、後のニギハヤヒの祖であり物部の祖でもある

15 :日本@名無史さん:2023/02/15(水) 21:03:52.11 .net
はっきりいうと、
天照大御神=卑弥呼=邪馬台国なのだと考えています
いろんな状況や時代測定からこう考えるのが最も自然

九州の諸国をまとめあげ祭祀の女王となり大陸に認められた存在
大国主率いる出雲王国の支配国として甘んじていた畿内豪族にっては夢のような権威であったことでしょう
それを奪い継承することで出雲を凌ぐ権威を得られる

この権威の祭祀としての八咫鏡を引き継ぎ、権威の言霊「ヤマト」を名乗ることで物部の民はかしずき出雲の支配を脱することができる
崇神天皇にはこんな思いががあったのかもしれません

16 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 01:09:06.32 .net
話は戻るが
崇神天皇が豊鍬入姫命に命じた天照と倭大国魂の遷移
これはまさに王権祭祀を統一するための前段階と解くことが出来る

天照は九州の邪馬台国由来の王権祭祀
倭大国魂は出雲王権の王権祭祀
このように考えれば倭国全体の権威と祭祀を手中に収めた上でその中の権威を抽出した
その上で天照、倭大国祭祀を遷移することで分断し権威の独占を図る

抽出した仕上げとして新たな三輪山祭祀=物部系祭祀をモモソヒメに託すことで崇神王権祭祀は完成することになる

モモソヒメの神格化のために最も格式の高い箸墓古墳を造営
以後古墳祭祀として崇神王朝を世に広める

これらの儀式を行った痕跡が纒向遺跡とするならば、全ての辻褄が合うことになる

17 :日本@名無史さん:2023/02/16(木) 02:06:28.35 .net
何故ここまでして権威と祭祀を分ける必要があったのか?

簡単に言うと女王が君臨するという図式を打破しつつ祭祀をコントロールする立場を欲したからだと考える

邪馬台国が連合国家の象徴として成立した要因は卑弥呼という祭祀の「女王」を擁立したことだ
結果としては軍事的権威に負け卑弥呼死後は分裂し混乱した(物部に裏切られ狗奴国に敗れた?)

出雲王権は威信財に頼った国家運営であったと思われる
また、大国主の個人的カリスマ性でもあっただろう
基本的には威信財、貢物を交易ベースでもたらす連合であって、丹波、近江、北陸、東北などの出雲の根拠地はいずれも大穀倉地帯か鉱物資源豊富な土地であることが特徴的だ

これらを考えた時、崇神は世襲して大王に君臨するための方法論を模索しただろう

祭祀が権威に勝れば祭祀の女王が必要となり王は格下となる
すなわち権威が祭祀に勝る「男王」が君臨する形式を構築する必要があったということだ

そこで、まるでロンダリングするかのように祭祀のゆくえをコントロールすることで集まった権威を抽出しようとしたのだと考えることが出来る
とても優秀な考えだと思う

18 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:41:26.95 .net
これまでの考察の中でまとまったこととして、纒向遺跡は継続的施設ではなく王権祭祀の委譲を演出するための「装置」であったと考える
三輪山祭祀の開始時期が丁度3世紀後半
記紀に記される天照遷移、大国魂祭祀の開始時期も同時期
おそらく箸墓古墳の築造も重なる
これらを取りまとめたのは崇神天皇で即位5年の出来事

この時をもって出雲王権への独立を示すために「ヤマト」を名乗ったのではないかと推測する

ヤマトの名が皇族に続出するのもこの時期からだし初期の倭姫命などは「倭」を使い、その後は「大和」、「日本」を使っていることも恣意的なことだろう

その後即位7年にこの王権祭祀の形を知らしめすために四道将軍を派遣
九州への出征が後の景行天皇の代に行われたのはヤマトの名を実質的なものにするための期間が必要だったと考えておく

19 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:52:31.00 .net
あとは銅鐸が消え銅鏡が副葬されたのもこの時代のこと
これは完全に支配層の入れ替わりを示している
また、庄内式、布留式土器の成立においてはヤマト成立時に関わった物部の移民が急増した結果発生した文化だろう

崇神天皇即位後のヤマト王権の推移はひたすら物部系祭祀の邁進と各地の影響力浸透に注がれる
これは軍事的支配というよりも農耕技術と祭祀を複合させた技術浸透にあると考える
なのでその技術の基礎となる物部を重用したことは当然のことだ

20 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 23:37:15.25 .net
よく言われる畿内「ヤマト」と筑紫平野一帯の地名の類似について

九州由来の土器や埋葬方法が畿内に伝わらなかったのに鏡祭祀や地名が類似しているというのは、すなわちこの時期においては九州からの民衆の移動は行われなかったと見るべきだろう

むしろ近畿、東海の土器出土が多いことから初期畿内ヤマトは元来完全なる「本州倭人」による国家であったことを示している

その上で、祭祀や地名を変えることの出来る権威を持った少数の「高等移民」が平和裏に移住したことを物語っておりその存在とは、他ならぬ物部系一族であろう

天皇家はこの時期より以前に移住し、畿内を取りまとめていた登美一族を追い落とし有力者と結ぶことで割拠していた存在と考えていいと思う。

正直、神武からの欠史八代は本当に謎でしかないが、開化天皇あたりから後の崇神期に活躍する人材が増えるということは、後の戦国期において譜代の家臣が出世することと似た現象なのだろう

21 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 20:31:37.95 .net
考え方によっては畿内ヤマトは邪馬台国の後継国家
それまでは出雲王権の管理下にあり、長髄彦、ニギハヤヒ、神武以来の系統豪族による半独立を保ちながらも移民受け入れによる富国政策を取り続けてきた。
ちなみに当時の畿内はそう豊かでも無かっただろう
これは敵に備える環濠がゆるかったり農耕関連以外に出土しない状況からも確認できることだ

3世紀後半になり、そこにやってきたのが邪馬台国からの亡命者

九州出身ではあるが対馬、伽耶、狗邪韓国を統括していた軍事的一族である物部の民とみる
多分同族であり機内で銅生産で栄えていたニギハヤヒ系一族を頼って来たのだと思う

なぜそう考えるかというと、崇神以来の天皇は不自然な程に大陸情勢に敏感となり牛馬、武具を移入し発展することから
このように国際感覚が覚醒的に発展するのは他の理由が考えられない。あるいは武内宿禰の始祖的存在かもしれない

当時は関門海峡が塞がっていたという説があるから北陸丹波経由か一旦吉備に潜伏した者が畿内を目指したものだと思う
吉備における吉備津彦派遣は、これらの情勢を見極めた上で敵方である温羅を征伐するためだったのではないだろうか

22 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 20:46:14.23 .net
とにかく、その物部系移住民が持ち込んだのが天照の形代と呼ばれる「八咫鏡」だろう
これを得る最大のメリットは邪馬台国の女王を継続することで倭国王権の大義名分が得られることだ

ちなみに三種の神器はこの頃存在せず、崇神以降のワカタケル大王(雄略天皇)のころに成立したものだろう

各地を支配する王の印を得てその土地の王になるという図式を考案したその人こそ崇神天皇なのではないだろうか?
だからこそ後世に崇められ天皇の地位を確立した
その事績の始祖こそ邪馬台国王権の奪取とみる

ちなみに記紀ではそんなことは一切書かれていない。
崇神天皇が大王になってからの偉大な事績には溢れてはいるが、なぜそうなったのかは判然としないのだ

なぜならこの事績を公開するのはあまりにもリスクが高いからだ
もしくはこの戦略は民に語り継がれるべき話でないから
おぼろげに祭祀の移動や前後の出来事を状況証拠として推測するしかない。

23 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 00:44:02.62 .net
何だ、トンデモ論者のチラ裏スレかよ。
マトモなスレかと思って開いて損した。

24 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 03:14:13.83 .net
>>23
トンデモなのは全く否定しないよ
チラ裏にチラ裏スレを立てただけだしね
しかし実証しきれない謎の隙間を埋めるというのはどうしても考察を入れる余地があってそれを咀嚼するのには良い塩梅なんですよ

25 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 03:40:21.32 .net
で、この時代の経済活動も考察を入れる必要がある
当時の畿内ヤマトが外国から大量の威信財や武具などを手に入れるために必要な対価をどう融通したかという問題だ

弥生らしくコメじゃないの?と考えがちだが国内ならば米は兵糧の意味でも価値基準として通用するだろうが遠方への交易の場合は米や食物は不適だと思われる
そもそも中華は大生産地帯だ

金銀はこの頃産出していない
糸魚川の翡翠は出雲王権管理で手が出せなかったと思われる

鉄は当時北陸、備前、関東の特産なので四道将軍派遣前は仕入れる側の対象であった
絹製品は魏志などに出てくるが、畿内で流通させるレベルで生産出来ていたかは疑問だ

縄文由来の貝輪や黒曜石は国内の東海から東北にかけては流通されていたが九州から中華にかけては価値基準としては低かったと思われる

銅は採掘されていた痕跡があるがこれも国内需要がメインだったと思われる

じゃあなに?
という話になるのだが、唯一縄文時代からこの畿内地域で多く産出される物質がある
それは「辰砂」だ

26 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 04:21:03.44 .net
「辰砂」
これがまた古代においては最大の謎の物質と言っても良い
別名「賢者の石」

中華ではご存知、始皇帝の不老不死のための妙薬として珍重され、アマルガム鍍金の素材としても使用されている
防腐剤、白粉の用途に加え古墳では朱塗り木棺の塗装に大量に使われ祭祀においても珍重される
神社の朱塗りもベンガラと並んで大量に使用されたし奈良の大仏は辰砂水銀によるアマルガム金メッキが施されている

なんといっても辰砂は金銀並みに少量で高額に取引されるため、遠方への交易には最も適しているし腐らず長期保存による化学変化もない
このような用途や価値があるにもかかわらずその記録は殆ど残っていないことがまた怪しい

そしてこの弥生末期から奈良時代にかけては宇陀、多気、和歌山などのヤマト勢力圏において貪欲に、大量に採掘されたらしい痕跡が点在している

後の空海も高野山を拠点とした根拠も辰砂採掘の拠点として丹生都姫から譲り受けたという伝説があり、深堀りするほどに空海の採掘に対する秘めた熱意が注がれていたのではないか?という思いにとらわれるほどだ

まさに畿内ヤマト王権が既得権益である出雲王権や各地を治めるためには最適の物質であることが想像出来る

おそらく辰砂はかなり重要視されつつも完璧に秘匿された、ヤマト王権の維持に欠かせない重要物質だったのではないだろうか

27 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 07:28:14.63 .net
崇神の時代に

軍事、警備、役人への兵糧確保
神殿や宮都の建設(纒向遺跡等)
威信財の確保
古墳の造営費用
鉄素材の輸入費用
中華への献上品
四道将軍の遠征費用

これらを畿内で生産される米で賄うことは出来るはずがない
だからこそそれまでは一生産地に過ぎなかったわけだ
この爆発的発展を支える交易品の「発見」がなされたからこそ王権を立てることが出来たと断言出来る

その候補である辰砂が三輪山の裏を超えたあちこちで取れたことは偶然では無い
むしろ辰砂ありきでヤマト王権の中心地が決められた可能性すらある

28 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 23:38:30.02 .net
ちなみに辰砂は縄文時代から珍重されてきた鉱物で朱塗りや刺青に使われた
一説だと海人族の朱塗りの刺青が赤鬼、炭塗りの刺青が青鬼と言われてる
確かに言い得て妙だ
辰砂は奈良時代まで露天採取が可能だった
また重金属のため川床に溜まってるものを採取できたらしい

このように初期の辰砂採掘は比較的単純に集められることで大陸への交易品として珍重されてきたが、露天採取が出きなくなり掘削が必要になると技術的問題から一気にその生産が落ち、辰砂採掘の技術は廃れるようになった

丹生の名が着く産地はその全てが辰砂採掘の痕跡だと言われていてそれだけの需要と技術が一族相伝の技術だったことが推測される

だから歴史にその重要性が残らなかった、または国家機密的に意図的に隠されたのだろう

29 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 00:18:57.60 .net
>>24
> 実証しきれない謎の隙間を埋める
 
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が最後に辿り着いた結論を読んでみるといい。
 

30 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 12:40:49.48 .net
このスレの趣旨は崇神の時代を題材に、謎や不明点を既知の事実をヒントにして論理的予測する楽しさを求めています

そこに、知らなかった新たな事実が符合したら考えは証明され、符合しなかったら修正をするという方法論です

なので推測ばかりになってしまうことは申し訳ないんだけど、考えることはやめたくないのでこの路線で行こうかと思ってます

事実や結果の考古学をお望みの方には合わないスレですよね

31 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 23:53:19.22 .net
崇神天皇(ミマキイリヒコ)でよく議論されるのが名の中にある「ミマキ」「イリ」の意味
崇神の皇后がミマキヒメだから崇神は入婿婚を行っており、垂仁天皇以降にはイリは名付けられないからここから男系相続が始まったというものだ

名前だけで解釈するのだから少々弱々しい説なんだけどこの説もヤマト王権成立に関しては符号する点がある

仮説として四道将軍は狗邪韓国からの元邪馬台国由来の物部一族とみているから、ミマキヒメの父であるオオヒコはその筆頭であり大王家との入婿婚によって天皇家の外戚となることで権威を増した構図が浮かんでくる

さらにミマキ姫のミマキが後の任那になったと古志にもあるから
状況的にも合点する
さらにオオヒコを中心とする四道将軍たちが遠征した丹波、北陸、山城、吉備、関東はいずれも初期前方後円墳の地でもある

そして何故オオヒコは天皇ではなかったかという点
当然外戚であるからなのだが、
それならば逆に入婿を続けても打倒されずに存続する天皇家の血筋とは思っている以上に尊ばれていたものの可能性を感じる
(これは天皇礼讃を言いたいわけじゃない)

32 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 01:59:55.46 .net
>>31
> 垂仁天皇以降にはイリは名付けられない 
 
イクメイリヒコイサチ「」
 

33 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 05:37:00.64 .net
>>32
これは失礼しました
「以後」の間違いでした
意識して垂仁としたのですが勘違いでしたね
ここの「イリ」の推測も今後掘り下げてみたいですね

34 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 06:35:23.23 .net
四道将軍の各系譜の信憑性は非常に怪しいと言わざるを得ない

吉備津彦や百襲媛命は祖父の世代だし、親世代の開化天皇の事績に比べて大彦の活躍が大きすぎてそれでも反逆が起こらないし
丹波道主命は甥っ子なのにさらにその娘の日葉酢媛と垂仁が結婚するというのは外戚関係を得るという意味でも不可解だ
この時代の記紀の系譜は全く当てにならないと思う

この辺りの不明さと比較して四道将軍の事績はあまりに輝いていてその後の一族も活躍するし考古学的にも派遣地と発掘品が一致する

更に言うと四道将軍は牛馬持ち込みの始祖であった可能性もある
これは結構なトンデモになるが

崇神であるミマキイリヒコが入婿を指してないとしたらミマキは牛馬導入を指しているかもしれない
マキを「牧」とするとそういう連想も浮かぶ

四道将軍が牛馬をもたらしそれを利用して各地を平定したとしたらそれこそ彼らの存在とは大陸から来た一族である可能性を増す
ただしそうだとすると3世紀の古墳内部に必ず馬関連の遺物があったと思うのだが未だそこに確信を得る成果がないのがもどかしいところだ

35 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/02/26(日) 20:49:24.54 ID:Cw9iAlJZf
記紀は探偵小説ではない。

36 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 07:46:41.10 .net
文献や出土品から見えるスキマの謎を推測するこのスレ的には、富雄丸山古墳の出土品は大変興味深いものだ
時代背景も場所もドンピシャ
あの出土物と意味について考えてみたい

37 :日本@名無史さん:2023/03/02(木) 20:13:52.10 .net
( ´,_ゝ`)イヒ

38 :日本@名無史さん:2023/03/03(金) 00:19:33.96 .net
富雄丸山古墳
生駒のふもと、奈良盆地の北西
この古墳の東3キロ程に同時代の垂仁天皇陵があることに関連しているかもしれない

大型円墳の造り出しから出土した蛇行剣と縦型鏡
どちらも隼人系の武具と類似しているが、ここまで立派なものは唯一無二だ
そのため九州由来の武人でかなり財を成した人物であることが想定される

このあたりは南の生駒西麓や纒向遺跡などから出土する庄内式、布留式土器の発掘が少ない地域
これは移住民定住による技術伝播の土地ではなく天孫や出雲系貴族による直轄地を表しているのではないだろうか

土地名である「トミ」からしても、元はトミナガスネヒコの直轄地であり奈良盆地を俯瞰する好立地でヤマト王権成立期に皇族の土地として確立されていた可能性がある

総合して推察すると
皇族などの高位な人物が円墳に葬られ、それを守護しつつ自らの存在を誇示するような、婿入した九州隼人をルーツに持つ将軍クラスの男性
このようなイメージ

これに当てはまる人物像が3世紀から4世紀の記紀にいるのかと考えるとかなり難しいのだが、
九州征伐を行った垂仁の息子の景行天皇が九州行幸で得た女王が円墳に葬られ、その側近又は息子であった隼人由来の将軍クラス(ヤマトタケルのモデルなど)が造り出しに葬られた可能性などを感じる

39 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/03(金) 08:59:59.34 ID:a59XQNYf2
>九州行幸で得た女王が円墳に葬られ

????

40 :日本@名無史さん:2023/03/06(月) 23:45:54.83 .net
ミマキイリヒコについての一説
魏志の邪馬台国の副官に「彌馬獲支」がいる
さらに垂仁天皇ことイクメイリヒコに対応するような「伊支馬」も見受けられる
この邪馬台国の副官と呼ばれる人々がどのような由来なのかは全く分析もされていないが、地名や国名では無いことは確か
このスレ的に考えるなら彼らは物部の一族、というか邪馬台国由来の官人が物部と呼ばれた可能性がある

景行天皇はオオタラシヒコオシロワケと、ワケ名に変わっている
では、イリとワケの違いはなんだろうかということになるのだが、
ワケは軍事的統合、イリは婚姻や祭祀的統合
この違いがあるのではないだろうか

垂仁のイクメイリは、宮崎の生目の可能性はないだろうか
西都原の南二十キロにあるここは
隼人の本拠地であり国産み神話の多い土地

崇神と垂仁は共に王族祭祀の本拠地でありルーツでもある邪馬台国と日向国を物部を介して手中とし、その後景行天皇以後は土蜘蛛熊襲征伐から見られるように九州物部と結託して軍事侵攻したとすると、「イリ」と「ワケ」の意味合いが理解できるような気がする

こう考えると、富雄丸山古墳が垂仁天皇、景行天皇の事績を祈念し隼人由来の副葬がなされたことは筋が通ってくるように感じる

41 :日本@名無史さん:2023/03/07(火) 23:41:14.72 .net
崇神が畿内ヤマト王権を確立したと同時に行われたのが伊勢遷移だ

初代斎宮である豊鍬入姫命は大和の笠縫村で天照を祀ったとされておりその後垂仁天皇の時代に倭姫により伊勢に遷移された

これがヤマトにおける王権祭祀のロンダリングと考えうる根拠なのだけど、斎宮は別名「いわいの宮」「いつきの宮」とも称される

いつきは斎の和読み、いわいは祝の和読みとされているが、ここで違和感あるのが「いわい」の方である

祝の起源は男が神を祀ることであって女性である斎王は斎の字が相応しいのだそうだ
そうするとこの「いわい」とは何か、ということになる

鋭い方ならピンとくると思うが、これは筑紫の磐井が関係している気がしてならない
磐井といえば「磐井の乱」
6世紀の継体天皇期において九州で反乱を起こし物部麁鹿火によって滅ぼされた戦乱だが、葬られた岩戸山古墳は八女にあり、これこそ邪馬台国の後裔ではなかったかとも推測される
恐らく彼らも物部一族だったのだろう、だから物部麁鹿火によって討たれたことにもストーリーを感じてしまう

ということで、「いわい」とは磐井であり天照と比定された邪馬台国卑弥呼を祀っていた可能性を感じる
というか、女王を祀った一族が「祝い」の氏名を名付けられたのが磐井の語源でなかろうか

6世紀の磐井はすでに祭祀権を失っており名だけが残った
彼らの一族が行った祭祀を引き継いだ名残が伊勢斎宮の「いわい」に現れているというのは果たして邪推であろうか

42 :日本@名無史さん:2023/03/08(水) 00:45:33.14 .net
このように崇神の時代はとにかく伊勢、三輪山祭祀、大国魂命、と祭祀のありかたを最重要に位置づけつつ、並行して現実的で発展的な国家運営が創始された時期と言える
その後これらを統合継承するように新たな祭祀である巨大古墳が作られ、その中には豪華な副葬品が納められた

単純に考えてこの3世紀後半は
神宮、自然崇拝、祖先崇拝(古墳造営)とまだ統一された形式がなされないことに注目するべきだと思う

これは後の八幡宮や神社建立のような天皇を基本とした継続的な祭祀形態がまだ作られてないということでありそもそも天皇という地位が祀られる対象にはなっていなかったことを物語るものだ

すなわち3世紀後半時点では天皇家は始まったばかりで他の権威を尊重しつつも大王家世襲の確立をめざして徐々に祭祀形態を統合する必要があったということだろう

そこでこの王権祭祀が確立される前段階として、各地において四道将軍などの派遣によって「古墳祭祀」が重要視された

天皇家(ヤマト物部王権)崇拝をより確立してゆくためには箸墓を目安として前方部を豪華にしたり、巨大化したりして「しらしめす」必要があっただろう

王権祭祀の変遷とは、文字のない時代にいかに権威、先祖、伝統、文化、技術を継続させるかといった一種の情報伝達手段だったし、その形式を模索していた時期だったと言える

43 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 10:34:47.41 .net
天皇という称号が出来たのは7世紀末

44 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 12:43:24.68 .net
>>43
この時代、天皇制が確立してなかったからこそ崇神は目に見える形での直系相続による権威にこだわったのでしょうね

文字が浸透していない、文字による権威演出が確立されてないため直系相続による王権をどう示威するかというのは現代ではなかなか想像できない部分がこの辺りにあります
後の飛鳥奈良時代に古墳や祭祀によるアピールの必要がなく天皇王権を維持できたのは文字と制度導入による部分が大きいからでしょう

45 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 12:52:31.57 .net
崇神自体は東遷や征服王朝では無く畿内周辺の在来勢力だったと考えてます

天照祭祀が畿内に入り込んだ際に戦乱を伴ったという考古学的証拠がないこと
しかし銅鐸祭祀を突然終わらせ、大国主の権威を大物主の三輪山祭祀へと変遷させたこと

これはある種の傀儡王権(鏡祭祀)をクーデター的に自主的王権へと転換させる施策
このようなことを征服王朝が行う必要性がないんですよね

そしてこの傀儡を一時的に成立させるために必要なのが外来勢力の導入
これこそが物部一族でありその後の物部石上勢力の躍進に繋がってる

九州邪馬台国の権益と祭祀文化を導入したからこそ崇神は勢力を拡大し、突如三韓に介入する情報力を得たのだと解釈できます
だから物部によって畿内は征服されなかった
結果崇神は偉大な大王として君臨できたのではないでしょうか

46 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 13:09:53.48 .net
崇神時代の疫病による災厄もこの事象によって説明できますね

のちの梅毒やコロナと同じく移民の持ち込んだ病原体による免疫が無かった
また免疫獲得する暇もなく人的流入が起こったと見るのが自然
あとは食習慣の変化も関係ありそうですね
これらの病原に対する防疫策がそのまま現代の神宮などの結界や禊の風習としてのこってるとしたらとても理にかなってると言えます
このことはとても興味深いですね

47 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/18(土) 08:58:01.74 ID:1Z5y5UIQ7
記紀は文証だ。

48 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/18(土) 09:50:29.88 ID:sE4bh+mPK
記紀は文証だ。

49 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 15:41:05.43 ID:H1ZtbB6lz
徳川慶喜に期待をしていた孝明天皇が突然崩御

岩倉具視か薩摩の連中に毒を盛られただろうな

そして大室寅之助が…

50 :日本@名無史さん:2023/03/15(水) 00:42:10.33 .net
主に北部九州で見られる弥生期においての銅鏡副葬の変遷はとても興味深い

まず漢鏡は初期に奴国伊都国周辺に分布し、末期に突出して肥前(吉野ヶ里周辺)に集結したあと豊前に流れてゆく

それに対し破鏡は初期において肥後(八女、みやま)に始まり肥前を経て中期後期には北部九州に拡散する

また九州生産の仿製鏡副葬は初期に阿蘇から肥前、肥後と変遷

これらをどう捉えるか
まずそれぞれの初期の分布が違うことが注目点
漢鏡の出土に関しては交易を掌握した一族の権威として理解できる

仿製鏡に関しては祭祀が固定化し九州全土、また畿内方面へと広まったことが想定される
神武、ニニギ、ニギハヤヒによってもたらされた畿内の三角縁神獣鏡のルーツを感じる

残りの破鏡、ここが問題だ
破鏡はその本来の意味は謎に包まれている。だからこそ想像を巡らせる余地がある

破鏡は初期においてみやまにのみ見られるが、これを別れの祝(いわい)の儀式として捉えると、その後肥前、九州北部全域と物部が邪馬台国、九州から離脱する様が見えてくるかのようだ。

現代でも正月後に行われる「鏡割り」の儀式
これは祝いと別れを指す起源として破鏡が存在していた可能性を示している気がする

51 :日本@名無史さん:2023/03/15(水) 17:44:00.56 .net
地政学的観点からこれらの北九州の興亡などを推察するとこのスレとしては以下ようなストーリーが思い浮かぶ

初期の奴国伊都国の隆盛は列島各地に衛星拠点を持つ海人族である安曇、住吉により栄えた

海人族は韓半島南部の鉄生産グループと融合し出雲大国主が従える
北陸グループとも結びつく
(神武、天孫の系譜)
その後コメ生産により筑紫平野が隆盛し集約拠点となった肥前吉野ヶ里が繁栄

この頃から半島への交易利権が勃発し狗邪韓国や公孫氏の動きも重なりそれぞれの国々が交易権を奪い合う「倭国大乱」へ

邪馬台国の卑弥呼はこの戦乱を納めるために供給拠点の筑紫一帯を管理し、安曇、物部、出雲と一時的共存状態になる

この時祭祀の一体化が促進されるが、それは同時に王権奪取、交易利権獲得の最適手段を提示することにも繋がった

卑弥呼死去後、混乱の九州を出て祭祀を簒奪した物部一族は出雲への接触を図るために海人族の拠点であった瀬戸内への移民を開始し吉備を開発するが大国主とは決裂(温羅と吉備津彦伝説)
四道将軍とは奈良発ではなく九州発の物部氏が本州へ進軍した物語の可能性もある

物部により産物集積地として適した畿内が発見され、そこの首長であった崇神と繋がり「ヤマト」が引き継がれる
その記念が箸墓のモモソヒメ

九州筑紫は戦乱と生産力低下により没落し、各名族の血を受け継ぐ崇神と物部一族によるヤマト王権が開始される

52 :日本@名無史さん:2023/03/15(水) 21:52:45.40 .net
もう一度ヤマトの由来について考えてみる

ヤマトとは間違いなく「邪馬台国」から来るものだろう
では畿内ヤマトは邪馬台国なのかというとそれは違うだろう
まず祭祀形態が時代に合わず、出土品も合わない

3世紀初頭の畿内は纒向遺跡も無く唐古・鍵遺跡の集落が目立つ程度
畿内ヤマトが隆盛するのは庄内型、布留型土器の生産時期と纒向遺跡が建造された瞬間から始まる
だからこそこの時代を生きたと思われる崇神の存在が輝く

前のレスでもあったように鏡祭祀の変遷という歴史を積み重ねていないと邪馬台国と卑弥呼の成立はありえない
だから畿内ヤマトは邪馬台国の簒奪だと考える根拠になる

次に地名、国名について
記紀では畿内においてヤマトの名が初出するのは倭国香姫から
これはモモソヒメの母である
別名として、
別名意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)
絙某姉(はえいろね)
蠅伊呂泥(はえいろね)
とある
「はえ」は淡路島出身の豪族と伝えられるので、淡路島出身の倭国香姫がヤマトを名乗ったということになる
それを引き継いだのが娘であるヤマトトビモモソヒメ
ヤマトの名はここから初代斎王である倭姫に引き継がれる

畿内ヤマトは地名ではなく王権祭祀を引き継いだ権威名と言うべきだろう
もしも畿内王権がヤマト以外の国名を名乗るとしたら王宮のあった「シキ国」ではなかっただろうか

畿内ヤマトがヤマトを名乗ったのは王権祭祀を引き継いだことによる名称だという考えはこの辺りにある

53 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:26:14.53 .net
>>34

3世紀だと思うからいけない。
4世紀はじめだと思えばよろしい。

54 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:28:09.76 .net
>>38

登美家は出雲の事代主の末裔だとさ。

55 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:34:55.84 .net
>>45

崇神天皇の母親は物部氏。
だから崇神天皇はその拠点である石上神宮に近いところに宮を営んだ。
磯城瑞垣宮、のちの纒向遺跡だよ。

56 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 17:44:16.73 .net
>>55
崇神の母は物部の祖、大綜麻杵命の娘伊香色謎命ですね

物部は崇神の時代にはすでに勢力を確立していて四道将軍が遠征できる力も持っていたのはまさにここが外戚としてのバックボーンとなる

物部と言ってしまうからイメージが固定してしまうけど、当時の感覚で言えば垢抜けた外来貴族のような立ち位置でしょうね

対出雲大国主
物部はこの観念を持っていたように思われます
四道将軍の行き先は常に出雲の主要拠点を牽制している
これは倭国大乱の際にできた半島資源に関わる交易利権の争いが要因では無いでしょうか

この頃から出雲は衰退するし鉄の輸入生産もヤマトに移行しつつあるがその原動力として挙げられるのはやはり物部の持つ海人族との繋がりと畿内で産出される辰砂だったように思います

57 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:26:52.10 .net
>>56

というか、当時は母系の影響力が大きく、崇神天皇も物部氏の王の一人として権力を手に入れたのでは?
系図的に男系では天皇家だったので、後世に天皇号を追号しただけで。

58 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:31:19.17 .net
畿内において、物部氏の祖である饒速日に仕えていたという長髄彦は、出雲の事代主の末裔、つまり大国主の末裔である登美家の頭領であった。
筑紫が出雲を下したことにより両者の関係は固定化され、子々孫々の代になって畿内においても主従関係は維持されていたということになる。
四道将軍をわざわざ派遣する理由にはならないだろう。
まして陸奥は出雲との縁も深いとは言えないし。

59 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:24:02.78 .net
>>57
崇神を含んだ畿内支配が物部による王朝とするなら、よく言われる物部=初期天皇家という構図がやはり思い浮かんでしまいますね

ただこのスレ的には物部は外から来た一族として考えてるのでこれだと崇神東征説ということになりますかね

邪馬台国=物部の関係性として可能性があって面白いのですが、纒向遺跡では九州の生活文化の出土が少なくどちらかと言うと任那や三韓文化の流入と東海、吉備の文化が入り乱れていることを考えるとどうしても取りまとめるべき在来勢力としての男系天皇家はいたのではないか?と推測してしまいます

60 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:39:15.03 .net
>>58
なるほど、畿内成立の前段階
ニニギあたりから筑紫の出雲に対する優位性が存在していたということですかね
それとも神武東征からか交易権から来るものか
自分の知識見識が絶対とは全く思ってませんので詳しくご教授お願いしたいです
出雲の荒神谷遺跡などの発掘から想起されているのでしょうか

邪馬台国由来である物部がいかに祭祀を伴って畿内にやってきたか、いうのが大きな推測テーマですので四道将軍を絡めて考えてますが出雲が既に衰退しているとなれば別の要因や行動原理を考えないとならないですね

移動や征服などの活動に関しては必ず人間的の欲みたいな原理的な要因が潜んでいると考えています

61 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 00:13:17.74 .net
出雲文化の特徴と言えば青銅器祭祀と翡翠、それに鉄器生産

ヤマト成立直前まで畿内も青銅器祭祀を続けておりむしろ大型銅鐸生産の本場
これが3世紀に突如この技術を用いて銅鏡(仿製鏡)生産に変遷した
(その仿製鏡が北部九州が始祖なことも興味深い)

吉備が発展した要因としてはこのうちの鉄器生産が挙げられる

北陸、東北に関しては翡翠採取による資源を入手する拠点であり出雲で碧玉や勾玉に加工されていた事が知られている

いずれも水運拠点でもあり総体的には海人族全盛より次世代の資源確保の側面が強いように感じられる

面白いのはその後のツヌガアラシトが崇神を慕って半島から出雲圏内を割って敦賀を拠点にするのだが、それはまた別の話ということで

62 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 10:24:27.40 .net
>>54
長髄彦については神武と饒速日命にまつわる逸話の中で登場するのに、妙にこの3世紀あたりと関係性を感じてしまうね

饒速日命が物部一族とするなら逆に神武より前に物部がヤマトに勢力を定着させていたことになる

そうなると崇神は物部が畿内豪族と婚姻を重ねた結果の畿内ヤマトの大王となるが、これは天皇一統としたい記紀の表現とは解釈が違ってくるんだよね
だから神武を設定したのかもしれない

63 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 20:31:07.73 .net
>>60

そうですね。
荒神谷は出雲の国譲りの物証でしょう。
でも、登美家が出雲王家の末裔というのは、他のスレで既出なのですよ。
確かに記紀における長髄彦の天神に対する服従も説明がつく。

64 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 20:34:54.88 .net
>>62

いやいや、当時は登美家の女系が重要で、記紀編纂時は男系を重視して天皇家を中心にまとめなおしたと考えれば、記紀の表現も矛盾はないのです。
神武の妃のイスケヨリヒメも登美家らしいですよ。

65 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 21:31:00.73 .net
>>64
出雲王家、登美家、長髄彦、大国御魂祭祀
この辺りからの脱却が天照祭祀によって図られたと考えてますが、確かに女系で考えると崇神以前の天皇の存在よりモモソヒメが女系存続の権威発揚として重要視されたりしたこととも繋がりますね

纒向遺跡が出雲大社と伊勢神宮の柱配列の始祖と見られるとの学説を読みものすごく感銘を受けたのですが、まさにこの時期にダイナミックな変革があったことは確か
女系=祭祀中心の支配構造を現実的な王権支配に変革したかった意志を感じますね

しかし今の所出雲は女系のイメージは無いので、その構造や原理を知るためもう少し考えを深める必要がありそうです

66 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 21:43:32.32 .net
>>65

時系列で言えば、出雲の方が早いでしょう。
イスケヨリヒメを通じて出雲の血もすでに入っていたのなら当然ですね。

67 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 09:07:27.82 .net
>>66
国譲りは確定的な事実でしょうね
考古学的にも三世紀初頭の祭祀変革は認められてる
ただ記紀通りの表現や時代は盲信できない
恐らく畿内では開化天皇辺りで始まり垂仁あたりで始末がついたのでしょう

纒向遺跡が素晴らしいのは邪馬台国かどうかの議論ではなく、大国主と天照と古墳祭祀を結節する交点だと言えることですね

68 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 14:21:37.95 ID:PgleL/Tog
盲信の選択可否は第三者たる古史古伝の内容と一致するか否かでその採否
ができる。

69 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 14:55:38.41 .net
纒向遺跡はまず間違いなく崇神の宮でしょう。
問題は年代で、記紀はおそらく著しい前倒しをしている。
平均在位年代がら推定すると神武は200年頃になるのだとか。
崇神は3世紀末くらいかと。
それで一代も飛ばす必要はないはず。

70 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 22:02:30.18 ID:prk+JwDwL
×神武は200年頃

神武即位は西暦元年だ。

71 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/03/21(火) 22:04:05.54 ID:prk+JwDwL
巻向は景行の宮。

72 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 18:41:16.04 .net
>>69
全くその通りだと思いますね

神武からの欠史八代を時代考証的に読み解くのはとても難しいですね
ここに大国主の影響と物部が関わってることは確信してるのですが

主軸を纒向遺跡と崇神に置くことでわかるのは、祭祀をいかに利用し権威を統合するかの模索と、交易や半島に影響力を及ぼさせるためにいかに各地を利用するか、みたいな点ですね

これは畿内の成立が北陸出雲文化に対抗する東海、近畿の物産集積地として選定されたからのような気がしています
吉備を経由した瀬戸内航路を活用した新交易ルートがヤマトの生命線だったでしょうね

73 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 22:44:36.72 .net
東海はむしろ積極的に北陸と通商していたように思われるので、なんでも対立で考えるのはいかがなものかと。
後に天皇家の遠縁として継体天皇を迎えるくらいだし。
神功皇后もそちらの縁ですよね。
そもそも大和は山に囲まれていて通商には不向きなんですよ。
畿内なら淀川水系の方が基軸であるべき。

74 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 09:10:59.15 .net
交易に関しては3世紀以前に既に海人族による本州沿岸部への進出がなされていて交易拠点が各地にあった
安曇、宗像、和邇、尾張などがヤマトと関係性を深めていたのは確実でヤマトと九州物部の接点はここにあるでしょうね

>>73
纒向遺跡の地勢として三輪山を起点として東海方面へ行く初瀬街道や本伊勢街道方面に宇陀や名張がありここは当時の辰砂採掘の拠点
ここを押さえる必要性が高かったことと、沿岸部では守勢が不利なので山麓に本拠地を築く必要があつたことなどが考えられますね

その後交易と遠征の重要度が増すにつれ西へ発展し5世紀には生駒を超えて沿岸部に移動したのでしょう

75 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 09:22:40.98 .net
饒速日の拠点である交野辺りは淀川水系(近江、山城の物産)を牽制する絶好の位置
九州でいうところの伊都国のような窓口的役割があったかもしれない
ここと羽曳野近辺は庄内型土器の集約地なので物部の影響力というのが見えてくる気がする

76 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 20:12:05.02 .net
まず北九州の邪馬台国が三世紀後半に台与と饒速日をリーダーに畿内に東遷して大和朝廷を作る
饒速日の弟のニニギは 豊葦原の中つ国今の大分県中津に残った
数代後ニニギの子孫のイワレ彦がまた東遷して大和朝廷を簒奪する
饒速日とイワレ彦をモデルに事績を混合して神武天皇と崇神天皇を記紀で創作した

77 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 08:51:53.15 .net
登美長髄彦や饒速日は出雲大国主に認められた側の権力
神武や崇神はそこから独立権を勝ち取った英雄
こういう見方は確かにできるな
アメリカで言うワシントンか

78 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 15:10:16.05 .net
>>76
そうだとして、この説を深堀りした論拠や考察を聞いてみたいです

私は九州邪馬台国の中心勢力が祭祀を司る「天孫族」として畿内に来たと思っています
それまでの畿内は大国主と海人族の地域だった
なので天照大神は卑弥呼、帥升がスサノオなのかなと
登与は豊の国か豊受大神か
バックは大国主の勢力圏に割って入った物部こと「天孫族」
このような見方です

79 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 21:06:39.56 .net
>>77

饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」
神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」
饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」
長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解するなんてことはないでしょうね」
饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」
長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」
饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」
神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、ここにいさせてください」
饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」

饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。
物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て)を司っていたとされる。
そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。

80 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 21:14:07.01 .net
>>78

思ってますも何も、記紀は九州筑紫の天孫族が畿内の支配者として東征したと書いてあるじゃん。
あと、饒速日や邇邇芸、その末裔の神武ら天津神は海人族の代表だからな。
みんな志賀島を含む博多湾沿岸の倭王の一族だ。
そしてその王都が伊都。
筑紫の日向の小戸は、伊都の港のこと。

81 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 00:19:05.62 .net
弥馬獲支=ミマキ=崇神
皇女豊鍬入姫=臺与=豊受大神
モモソヒメ=倭迹迹姫命=卑弥呼=天照大神
この仮定はとても面白い

現状では天照とモモソヒメの接点は無い、が別名の倭迹迹姫命は邪馬台国卑弥呼ととてもリンクする

豊鍬入姫は天照大神を倭の「笠縫邑」に宮外奉斎した
九州邪馬台国にて君臨していたモモソヒメ=卑弥呼=天照大神を死後畿内にヤマトの名と共に遷移した逸話がこれだとすると、
その立役者は弥馬獲支=崇神!
畿内において卑弥呼はモモソヒメであり倭迹迹姫命であるから大物主という神に嫁ぐ形で箸墓に葬られた
この時纒向遺跡は建設された

邪馬台国は豪族連合だから各豪族が合同で(吉備を中心として)陵墓を建造する→昼は人が作り夜は神が(地方からの豪族)造る逸話となる

これが畿内ヤマトで始まった天照祭祀の創始であり邪馬台国の名はここにヤマトとして引き継がれる

みたいな邪馬台国東遷説はありだと思うね

82 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 19:44:53.67 .net
崇神の宮を確定させるための要素として挙げられる条件は天照と大國魂を合同祭祀した宮であることなんだけど、纒向遺跡の調査報告にはそれぞれの宮殿跡の柱配列の相違が見事に残ってると言われている

ここで大事なのは伝承通り大国魂と天照が実際に同列として祀られていたということだ

これは大物主がスクナビコナ(出雲王権と連携していた海人族?)を継いだ物部であること、
大国主が大國魂として出雲に、また天照が伊勢神宮に遷るまで一時的に同列祭祀として存在していたことの証拠となる
まずこの「同列祭祀」が違和感があり事情を感じる

成立年代の3世紀半ばの時点で纒向遺跡において天照(卑弥呼)は九州からすでに移動していた
大物主(物部)がそれを持ち込み畿内で大国主と同列に祀られたとすると、開化-崇神の辺りでそれを行われざるを経ない事情があったのだと推察されるだろう
そしてこの時代は青銅器祭祀と鏡祭祀が併存し入れ替わった特異な時期だと言える

ちなみにここでは箸墓の主モモソヒメと天照は連動しなく、従って卑弥呼とも連動しないと考えている(纒向遺跡成立は卑弥呼死後直後の出来事と推察している)

83 :太国 ◆HgjrR.2hKU:2023/04/09(日) 08:10:50.29 ID:SaJeTirIy
天照大御神≠卑弥呼

天照大御神は3世紀半ばではなく、もっともっと古い。

84 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 09:18:50.10 .net
ミマキは字数があってない。
モモソと天照なんて世代が全然違う。
似ているから同じだなどと、暴論だな。

85 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 21:11:48.23 .net
畿内において鏡祭祀は明らかに持ち込まれたもので発祥ではない
持ち込まれた祭祀=王権がヤマトでありヤマトは同時に半島交易の権益でもあるだろう

では何故畿内に交易の権益がもたらされたかというと、半島対岸の狗邪韓国、後の任那および対馬や隠岐島の交易権を支配できたから
その支配した一族は職能である海人族ではなく、技術者集団として交易資源を確保した物部だと見ている

倭国大乱を経て邪馬台国の有力者
となった物部の一族
恐らく瓊瓊杵尊だと思うのだが
大国主へは少彦名命が派遣され、畿内には饒速日が派遣され交易権益を握ったと思われる

これは根拠地が交野など淀川水系の要地に築かれたことからも推察できる
今後は推察過ぎないこの物部の存在感をどうやって炙り出すかが課題でもある

86 :日本@名無史さん:2023/04/12(水) 21:50:59.69 .net
弥生末期は海人族の沿岸拠点に続き、渡来人と言われる物部一族の技術集団による地域拠点構築が進んだ

在地の民衆はそれに従ったり交易品を農産物と交換したりして利益を得ることができた
その物部が持ち込んだ最大の権益が「祭祀」であるとするなら、それは思想と実益がリンクした魅力的なものに写っただろう

さらに鉱物資源などは加工する技術が必要なため、在地の人が住まない地域が海人族や物部にとって「宝の山」となっただろう
例えば辰砂採掘技術を担う丹生一族が険しい山の中に拠点を持ったように

こうして各地の渡来一族の定住化が進んだのだろう

87 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 20:15:21.83 .net
>>85

倭国乱で邇邇芸ではその後が詰まりすぎる。
神武が卑弥呼と同じ世代がギリギリ。
それなら伊都の甕棺墓が邇邇芸ら天孫族だろ。
三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社は、邇邇芸の妃である木花佐久夜姫を祭る。
三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花佐久夜姫の王墓だろう。
そして畿内には交野から生駒にかけて饒速日の王国。

88 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 21:47:44.70 .net
>>87
なるほどおっしゃる通りかも
3世紀中頃の世代感がまことに掴みづらいんだよな
墓制も全然違うし

89 :日本@名無史さん:2023/04/14(金) 22:04:53.74 .net
伊都の高祖神社の祭神は彦火火出見。
母宮となる細石神社には御神渡り神事があったとか。
つまり伊都国こそ天孫族の王都、筑紫の日向の高千穂。
倭の王都。
甕棺墓の天孫族は神武を最後に東征してしまうので、その後に成立したのが木棺墓の平原遺跡の卑弥呼王権。
だから卑弥呼は記紀に登場しない。

90 :日本@名無史さん:2023/04/15(土) 05:38:48.75 .net
卑弥呼または後継者トヨ = 卑弥呼

という説は昔からあるが…。

91 :日本@名無史さん:2023/04/17(月) 23:42:35.66 .net
天照=大日女命
天照も卑弥呼

92 :日本@名無史さん:2023/04/18(火) 00:12:02.60 .net
じゃあ八咫の鏡を作らせた平原遺跡の女王が卑弥呼でいいじゃん。

93 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 17:13:20.38 .net
なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2913

中川八洋、筑波大学名誉教授

那珂は、1888年に「日本上古年代考」、1897年に「上世年紀考」を世に発表した。
日本書紀の神武天皇“即位”が660年遡り過ぎなのを明らかにした著名な論文。
神武天皇のご即位の時期は、ほぼ西暦紀元頃と、那珂は推定した(注5)。これは学術的に最も歴史事実に迫っている
学界はこれを黙殺し、文部省も徹底無視。

学界も文部省も、天皇制廃止に直結する嘘歴史「神武天皇が存在しない」を推進しているのである。
どうやら、1910年代に、この“逆走”推進が始まったようだ。
方法は二正面作戦。正面攻撃は、津田左右吉に露骨な
「神武天皇は実在しない/皇室がでっちあげた小説よろしい物語だ」の大プロパガンダをさせた。
これは、1919年以降、燎原の火のごとく学校や大学で広まった。

背面攻撃は、GRUロスケが支配していた文部省が音頭を取って1940年に
「二千六百年祭」を全国規模で開催し、神武天皇の即位を紀元前660年に戻した(注6)。
那珂通世の学問を全否定したのである。

さらに、伊勢神宮だけでなく、皇室の祖先の高天原も日向三代も真赤な捏造嘘歴史になってしまう。
そこは、前漢鏡だらけの地だからだ。前漢が存在しない時代なら、前漢鏡も存在しない。

三種の神器のトップ神器“前漢鏡(国産)”を初代神武天皇は
神宮に奉戴していたと記述する記紀を編纂したのは現皇室。
が、前漢が存在する前に神武天皇が即位したとすれば、この記紀の記述は真赤な嘘の垂れ流しになる。

仮にも「紀元前660年に神武天皇が即位」とすれば、
この時には前漢も後漢もまだ支那には存在しないから、神武天皇自体も実在しないということが、
瞬時に確定する。
特に、皇室のレーゾンデートルは、前漢鏡を国産化した天照大神の八咫鏡だから、
「神武天皇は即位時に八咫鏡を奉戴した」が、瞬時に真赤な嘘となるからだ。

94 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 17:14:23.23 .net
もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。
「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。
なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、
「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。
だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。
天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。

一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が
『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、
ヒミコと訓むことはできない。

これはまた、大和朝廷が魏帝国(220~65年)と外交関係を持っていたことになり、
大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。
が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。

なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、
事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。
「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか
「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、
皇室の祖先である「神武天皇~開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。

これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。
現在は、共産党が組織的に指揮し、
暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、
学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、
共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。
今もその悪影響は衰えていない。

95 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 00:31:46.53 .net
発掘成果が皆無な神武の時代の考証は難しすぎるだろ
例えば雄略天皇のワカタケル鉄剣のように伝承ベースと考古的成果を照らし合わせてこそ個人名が特定でき、その前後の時代考証もできる
そこに新たに介入するのが纒向遺跡の発掘成果分析と崇神天皇の記述の整合性
それがこのスレのテーマだとすると、考察する時代区分が3世紀半ばまで遡りそこでやっと卑弥呼の存在まで到達し想定できてきた、ということだろう

天皇はその時代の代表的存在であるから指標となるのであって、皇統ベースで考察するべきではない
従ってそこに神武天皇が実在したかの論議みたいな右翼的発想が介入する余地は無い

96 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 01:00:00.08 .net
神武に関しては徐福の移民の子孫である可能性はあるよな

地元民と立場が違うという「天孫」を自称する点
蓬莱山を高天原とした点
始皇帝が求めた神仙の妙薬とする水銀(辰砂)を得るために移動した点
操船技術を持ち定住ではなく拠点を移動する一族な点
海人族とは違い刺青を施す習慣が無い点
後の天皇も即位後皇宮を移動する点

などは根拠となり得るかもね
ただし文字を使わなかったことと中国語が日本語の原点ではなく祭祀が倭国特有である点だけは腑に落ちない

97 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 05:26:00.16 .net
>>96

> ただし文字を使わなかったことと中国語が日本語の原点ではなく祭祀が倭国特有である点だけは腑に落ちない


中国流の兵法を知らなかった点も

98 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 08:29:58.03 .net
>>96

事実でないことを論拠にするなよ。
神武ら一行は刺青をしていた。大和の姫が驚いている話がある。
そして神武ら天津神つまり海の神は海人族の代表。

99 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 08:31:06.41 .net
>>96

蓬莱山や水銀朱を求めてとかもお前の勝手な妄想だろ。
妄想を根拠に妄想を重ねても、あたまがおかしいと思われるだけだぞ。

100 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 14:56:29.17 .net
>>98

> 神武ら一行は刺青をしていた。大和の姫が驚いている話がある。


厳密に言うと神武の側近で目の周りにまで入れ墨している人がいたと書いてあるが
神武本人がタトゥーしていたとの記録がない。

101 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 18:37:41.59 .net
>>99
徐福伝説と神武の工程神話知らんのか
それなら議論しても無駄だし推測を楽しむ余地もないか

102 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 23:13:27.34 .net
>>94
皇紀が正しいって言うの?当のヤマト王権の史書が始祖が九州から来たと言っているのに邪馬台国九州(東遷)説と天皇制廃止勢力を結びつけるとか完全に基地外です。どちらかと言えば畿内説が記紀を嘘っぱちにする反日勢力。歴博は代表的な反日勢力だよね?

103 :日本@名無史さん:2023/04/22(土) 21:40:58.05 .net
スレ主としては神武天皇の話で盛り上がるより3世紀のヤマトの成り立ちについて議論したいのだが

ただ神武天皇の事績が3世紀の状況に深く影響している可能性はある
その鍵はヤマトの国力がどの時代に、どのように増大したかの考古学的検証だと思う

現時点では3世紀以前は大国主影響圏といえる状態でこれは国譲り神話ともリンクしてきますよね
やはり鏡祭祀と纒向遺跡、箸墓古墳が大トピックすぎる

104 :日本@名無史さん:2023/04/23(日) 22:37:42.21 .net
>>103

神武の実年代が200年頃だという説があるので、直球の話題なんだよ。

105 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 06:07:44.22 .net
邪馬台国ではなく狗奴国が東遷して大和朝廷になったという説もあるな。

その場合、神武は狗奴国のトップだったのだろうな。

106 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:07:32.32 .net
>>105
その方が辻褄が合うよな

107 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:27:18.76 .net
漢の文化を取り込む前が邪馬台国、取り込んだ後が大和朝廷。

108 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 16:13:04.30 .net
>>107
つまりヤマト政権は7世紀以降発足したもの
渡来人に育てられたようなものだ

109 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 17:40:11.76 .net
異民族に漢文化を植え付けたのも、東アジア諸民族を自立させて中華思想をめちゃくちゃにしたのも、西晋が1番功績者だなw

110 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 19:15:00.59 .net
日本語(倭国語)の謎というものがある
朝鮮とも中国とも違う固有の文法
日本各地で少し違いかあるがそれは方言のレベルだ
三韓も任那の時代まで倭国語を話したと言われているし、地名や大まかな意味は現代でも理解出来る完成された言語体系

中華系の言葉を話したであろう渡来人が倭国を支配したとしたらこの日本語に染まった理由はなんだろうね
1つは物語などの口伝が関係してそうだが
この構造を説明出来ればどのように人々が渡ったのかを説明できるかもね

111 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 13:26:15.74 .net
3世紀時点のヤマトは倭種の国でした

邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png

112 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 18:56:54.05 .net
天孫族、物部一族が倭人であるかどうかで別れそう
大陸の倭人(海人族の中のエリート)が天孫族かなと思ってるが
結局それが物部なんじゃないか?

113 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 23:41:56.18 .net
>>112
当時は半島人も倭人だよ
倭種と表現されたのは言葉が違っていたという意味かもしれないが基本的に同じ倭人だよ

114 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 11:30:48.11 .net
みやま市こうやの宮の神像は4世紀当時の倭人の実情を伝える貴重なサンプルだろう

渡来人の様相の七支刀を持つ物部
着飾った天孫としての応神や神功皇后
朱塗り刺青に貝輪を嵌めた技術集団の海人族
これらが当時の倭人の構成だろう

記紀はこの人々を一族的に統括する為に神話を複合した
よって当時は統一された倭人ではなく利益共同体としての異民族集団という見方が出来る
4世紀から5世紀はこの人々が混じり合うことで統一的な倭人となった過程なのかもしれない

115 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 17:47:31.55 .net
物部は天神だし、天孫も天神の一部
天津国の元の意味は海の神なので、海人もも同系
貴人と工人などの身分の区別はあっただろうけど、基本的に同種

116 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 20:25:43.52 .net
>>115
文化は違えど言葉は同じだとしたらそれが倭種の構成と言えますね

文化や技術継承が口伝で伝わり家や一族単位で継続してゆく時代だからステージで大きく差が生まれるのでしょうね
気になるのは違うステージの婚姻による結びつき
天孫や豪族、大王家はこの効果を見抜いていたと感じますね

117 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 21:21:17.80 .net
>>116

> 気になるのは違うステージの婚姻による結びつき


古事記では神武一族と隼人が姻戚だったと記憶。

日本では織田信長と武田信玄が姻戚だったように、
潜在敵対勢力どうしが婚姻でくっついていることが珍しくない。

118 :日本@名無史さん:2023/04/27(木) 21:31:24.20 .net
>>117

隼人はもともとは敵対勢力ではない。
その祖である海幸彦は天孫邇邇芸の子であり、天照大神の三世孫、伊奘諾大神の4世孫だ。
魏志倭人伝の投馬国五万戸は日向国旧国府であった宮崎県妻の都万神社を中心とし、邪馬台国七万戸は筑紫の日向つまり伊都を中心とする。
この2カ国は兄弟国。
海幸彦は、山幸彦と釣り針を巡って争い、結果として筑紫を追われたとある。
山幸彦こと彦火火出見は、糸島の鎮守である高祖宮の祭神だ。
そして彦火火出見はその孫の神武天皇の本名でもある。
つまり神武がいたのも伊都。

119 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 05:37:10.74 .net
神武東征軍団の主力は隼人だったという説もあるな。

120 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 10:37:49.75 .net
>>119
隼人といえば盾
盾と言えば富雄丸山古墳の盾型銅鏡!
蛇行剣も南九州に多い
ヤマトの祖型にまつわるものの可能性がしてワクワクするね

121 :日本@名無史さん:2023/04/30(日) 10:52:28.60 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

122 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 10:27:26.19 .net
>>121
随分と古くさーい畿内説の霊感商法詐欺ですね
通報しておきます

123 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 12:25:20.88 .net
>>121
こんな恥ずかしい内容をあっちこっちにコピペするとかw

124 :日本@名無史さん:2023/05/04(木) 23:46:29.42 ID:2ECiAR+8n
ほんまやな。
いまどき、里程の話を本気で持ち出してくるなんて、いかにもカビ生えたような感じがするし。
邪馬台国大和説なんて、もうお蔵入りして何十年というよな古臭い説やな。

125 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 04:02:23.64 ID:ArkXjxUv8
今、面土国の帥升は吉野ケ里の南の米多(めた)の王だった説がとりざたされているな。
面土(めと)と米多(めた)は同じというわけや。

しかし、この説は、音がよく似ているというだけで、そのほかの傍証に乏しい。
面土はメンドだが、この面(メン)は和語の綿(わた)を漢音でメン(綿=面)と読んでいるものと考えることができ、面土(メンド)は和語の(ワタツチ=綿土)だったものを漢音で読んでメンドとしているもの。
なので、帥升の国は、元々は綿土(ワタツチ=綿津道)であり、綿(ワタ)=海なので、綿土国=面土国は「海の道国」の意味だとするのがよい。
そして、「海の道国」といえば、これは壱岐・対馬か宗像かということになる。
壱岐・対馬は楽浪郡にはよく知られていただろうから、「海の道国」の自称は無理だろう。
そうなると、「海の道国」は、宗像あたりの海人国だった可能性が高くなる。

しかしながら、面土(めと)=吉野ケ里の南の米多(めた)と同一とする説は、確かに捨てがたい。
面白いね。

126 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 14:47:36.87 ID:w2taATocE
面土国(めど)は吉野ケ里のすぐ南の米多(めた)と関連のある国名だとする説は、確かに面白い。
吉野ケ里には、目達原(めたばる)の地名もあり、この付近が「めた」と呼ばれる土地だったとするのは、合理的だ。
ただ、この「めた」の語義の説明がみられないのは、惜しい。
語義によっては、その「めた」は後代にできた地名だとする説も出てくるだろう。
この「めた」の語義を、はやく突き止めてほしいものだな。

127 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 03:25:07.69 ID:2FPwFjH/B
吉野ケ里の米多(めた)と目達原(めたばる)はごく近い距離にあるので、米多(めた)と目達原の目達(めた)は同じ語義の(めた)と考えることができる。
そこで、米多の漢字の意味は「米が多い」の意なので、これは収穫量が多い田を表しているとすると、これを漢字で書くと女田(めた)と置き換えることができる。
この女田の字を姓にした場合、女田(おなだ)と読むようで、石川県にこの姓がみられるそうだ。
実際に女田という単語があることが分かる。

そうなると、男田(おだ、おとこだ)もあることになるが、福岡県宮若市宮田には男田(おとこだ)神社があり、
このことから、男田も女田も単語として実際に存在することになる。

こうして、米多(めた)=女田(めた)とすれば、目達原(めたばる)とは「女田(収穫量が多い田、良田)がたくさん集まっている所」の意が推測されることになる。
では、面土国の面土(めと)は、女田(めた)に通じるのかということになるのだろうか。
帥升らが楽浪郡に詣でたとき、自分たちの国を(めた=女田)と言ったのを役人がその音を筆記して面土(めと)と書いたとした場合、果たして整合性がみられるだろうかということである。
当然、楽浪郡の役人たちは帥升らを倭の蛮族だとみなしているので、彼らが日焼けして顔の色が黒いことをあげつらって、
(めた=女田)の発音に合わせ「土のような顔色をしている者たちの国」という意味の「面土(めと)国」と字を付けたとすれば、これはかなり整合性が取れるのではないか。

さて、この推測は的を射ているかどうか。
まあ、よく考えてみるのがよいだろう。

128 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 00:44:59.76 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、何一つ実証的な証拠を提示していない。
今や、その論の失敗のガレキが無惨に散乱するさましか見られない。
亡霊の論と化しているのが、邪馬台国大和説なのだ。

このことに、はやく目覚めなければならない。
ヤマト王権にルーツはなく、各地の勢力によって突然大和に立ち上げられた連合王権だった。
そして、そのとき、卑弥呼を王に戴く倭国は北部九州に成立していて、半島との交易で活況を呈していたということなのだ。

129 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 09:38:46.64 ID:nD3iYHF/G
邪馬1国だ。九州にあったのだ。

130 :太国という人間の過ち:2023/05/10(水) 11:35:01.72 ID:clq3ei4ue
耶摩1国だ。信州にあったのだ。

131 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 12:52:02.36 ID:nD3iYHF/G
信州にはねえ。オマエの大過ち。
こんなことを書きこんでると、いずれ禍がオマエにやってくるだろう。
神社で拍手二礼するのは、いかれたなりふりを極めて天津神が嫌うからだ。
だから拝礼が重要だ。それをせず、いかれた書きこみに終始すると、
わすれたころにオマエにゴタゴタの暗雲が訪れてオマエ自身が困るだろう。それは天からの戒めだ。
オマエの書き込みはオマエの脳内思考の鏡。それを眺めてオマエ自身の醜い妖性を思い知れ。

132 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 14:54:15.83 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、そもそも最初から詰んでいるのだ。
魏略には「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依りて国を為す。海を渡ること千里にして復国有り。皆倭種なり」と書いており、魏志倭人伝では「女王国の東、海を渡ること千余里にして復国有り。皆倭種なり」と書いてある。
倭は半島の東南の方向の海の中に在るとし、これは九州を指している。
大和を卑弥呼のいる邪馬台国とすれば、その大和は半島からほとんど東の方向になり、魏略の記述に合わない。
このことは、倭人伝の記述でも同じだ。

そして、この倭国から海(瀬戸内海)を東に千里ほど行くと倭国とは別の国があるとし、倭国もその国も皆同じ倭人が住んでいると知見を述べている。
こうした記述などから、中国の歴史学者はことごとく倭国は九州にあったと指摘している。
魏略や倭人伝の記述を読めば、当然そうした結論になるのだ。

仮に、卑弥呼の都を大和とした場合、5世紀段階でも河内王権は中央アルプス以東には毛人が住んでいると認識していて、その地方の住人を倭人とは区別していることからしても、大和と東国の住人が「皆倭種なり」とはならないのだ。
つまり、邪馬台国大和説は、その邪馬台国が書かれている史書の記述に合致しない論であることは言を待たない。
このことは、南を東に読み替えると言った程度の解釈の問題ではない。
邪馬台国大和説は、根本的に誤った論だということなのだ。

もう、最近では、邪馬台国大和説はカビの生えたお蔵入りの説とみなされているのが実態ということになる。

133 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 20:41:06.45 .net
「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代」という矢田浩さんによって著されたレポートを見て感動した
ググったらPDFですぐに読める

沖ノ島祭祀の意味、物部や出雲、宗像3女神の関係、畿内ヤマトの成立の要因などが矛盾なくことごとく持論と重なり味方を得た気分だ

特に鉄や威信財の対価としてヤマトが辰砂を利用し権益を奪取した部分など直接語り合いたいほどだ

物部の発祥と天孫の経緯はこれで大きく掴める
ただし神武とニギハヤヒの関係性や崇神によるヤマト成立の経緯などは多く言及していないからここに推論の余地は残る

134 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 21:03:01.02 .net
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

135 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 11:01:22.45 .net
ヤマトにとっての最重要課題が交易権確保とすると合ってくるよね
鏡祭祀の隆盛やアマテラス祭祀の重要性
あと天孫の存在価値も
これを持ち込んだブレークスルーの画期が物部一族だというのも確証が深まった

136 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:51:59.63 .net
保守主義の哲学‐‐‐中川八洋 筑波大学名誉教授著『神武天皇実在論』を読んで、日本国の正しい歴史を取り戻すために立ち上がろう!
http://blog.livedoor.jp/edmund_burke/archives/19327465.html

筑紫ひむか三代---福岡県糸島市の「伊都国」こそ、“聖なる皇室の起源” ”(13頁)
支那語「邪馬台国」は、「やまとのくに」と訓む。これ以外の訓み方は不可能。
極左「反日」革命勢力は、共産党の“言葉殺しlogocide訓み”「ヤマタイコク」を、今なお、宣伝し続ける。学校教育もそうなっている。 ”(72頁)

内藤湖南の「邪馬台国は大和朝廷」、笠井新也の「卑弥呼は百襲姫」 ”(75頁)

邪や馬ま台との国くにとは、伊都国人の神武天皇が、紀元ゼロ年前後、
伊都国から大和に移動して建国した“大和朝廷の日本国”のこと。それ以外ではない。 ”(98頁)

実在の史実が明瞭な神功皇后を抹殺し神功皇后不在説を捏造宣伝する目的から、
津田左右吉は手練手管の嘘と詭弁を展開した。神功皇后を日本の歴史から抹殺すれば、
同時に仲哀天皇を抹殺できるばかりか、さらに応神天皇を由緒正しい天皇ではなく、
九州のどこかのいかがわしい豪族の出自に貶めることができる。

神武天皇から続く日本の輝く由緒正しき天皇の尊貴・尊厳を、
“日本の天皇の祖は、応神天皇という九州の素性定かではない豪族の出にすぎない”という真っ赤な嘘の皇統譜に摺り替えて貶めるべく
“赤い悪魔”津田左右吉は、“記紀は創作であって史料ではない”との、荒唐無稽な「記紀=小説」説を捏造したのである。 ”(207頁)

137 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:52:42.93 .net
大嘘「応神天皇が初代天皇だ!」をプロパガンダすれば、
神武天皇/邇邇にに芸ぎの命みこと/天照大神/「万世一系」をダイナマイトでぶっ飛ばす威力で抹殺できる。
この大嘘を吐くに、応神天皇をご出産された“母”を、事前に処刑しておく必要がある。
“狂信的な天皇制廃止”カルト宗教団体の日本共産党が神功皇后不在論を捏造・大宣伝する理由はこれ。 ”(210頁)

どの豪族かも比定せず、両親も不明な「九州の豪族が初代天皇」など、狂人の戯言 ”(212頁)

『隋書倭国伝』は、「邪馬台国」を「やまと(のくに)」と訓(よ)め、と明記している。
「倭国は、邪摩堆(やまと、大和)に都す。『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」。つまり、
倭国王とは、第五代・孝昭天皇のこと。 ”(299頁)

日本の古代史家は一丸となって、“狂った大義”天皇制廃止を目がけて、ライフル銃を無差別乱射する。
〔中略〕その行動様式は次の三分野で展開され、無法の刑法犯罪が日常の暴走族や暴力団と同じ。

第一。「神武~開化天皇の九天皇は不在」(津田左右吉)に始まる古代天皇“軒並み抹殺”。

第二。天皇の御陵ごりょう(みささぎ)を「遺跡の古墳」とし、御陵暴き/御陵潰しによる皇室ご祖先“抹殺”。

第三。「弥生時代は無かった→天照大神/日向ひむか三代/神武天皇は不在」で皇室ご祖先“抹殺”

”(342頁)

例えば、仁徳天皇陵=百舌鳥耳原中陵(もものみみはらのなかのみささぎ)という陵を、
共産党支配の古代史学界は平然と「堺市大仙町にある古墳にすぎない」を意味する、
地名を冠した「大仙陵古墳」と改竄した。
しかし宮内庁は、刑法第188条「礼拝所不敬罪」違反が明らかなこの“違法”呼称に対し、刑事告発の義務を果たそうとしない。 ”(344頁)

正語「天皇」「大和朝廷」復権! 共産党語「大王」「ヤマト王権」撲滅! ”(365頁)

138 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 18:14:11.17 .net
畿内が銅鐸銅矛祭祀から鏡祭祀に転換したのは3世紀以前から遡ることは出来ない
ここが大きな問題でありポイント
この環境で天照祭祀が育つわけが無い

まず神武天皇が1世紀に橿原で宮城を築いた痕跡がない
その代わりこの時代の畿内は近江系、大国主の文化圏が色濃く残る
当然国の都ではなかった、となる
ではなぜ3世紀に畿内が発展するのか?
それは新たに流入した、倭国(邪馬台国)を知る民族(物部)と海人族が九州倭国や中国に供給出来る資源確保をここで図ることが出来たから

それは銅鐸由来の銅器生産能力による品質の高い仿製鏡生産と辰砂
辰砂は飛鳥時代以前は金より価値が高かったと言われている

三輪山の裏の宇陀から伊勢までの間に拡がる辰砂の大産地
これを確保し瀬戸内を経て安全に九州に供給出来る航路を確保し、対価として鉄資源を手に入れ湿地の新田開発を進める
これが3世紀半ば、畿内ヤマトの勃興期と言える

この時代に神武天皇の事績を感じられるのは宇陀や熊野での伝説くらい
これは辰砂確保までの道のりと重なる
だから神武の東征は天孫と呼ばれる前の海人族勢力による畿内開発の起源譚と捉えた方が自然だ

139 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:19:38.48 .net
神武の実年代が倭国大乱の2世紀末なら問題ない。
実質的な畿内の銅鏡祭祀はその直前の饒速日物部の畿内入りに始まるのだろうけど。

140 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:22:12.36 .net
神武や饒速日の前に畿内にいた長髄彦ら登美の一族が出雲の事代主の末裔なら、出雲の大国主系の痕跡が強いのも説明がつく。
もはや呼称の問題に過ぎない。

141 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 15:44:07.90 .net
前にも書いた弥生末期の破鏡分布について

https://i.imgur.com/ZfsQJBA.jpg

これが示すことについての解釈として
①ノーマークだった大分近辺に集落出土が多数
②墓域埋葬に北部九州、とくに物部支配権である地域に集中

これらが特徴的だ
そして破鏡が持つ意味合いの謎

まず学識としては弥生末期の舶載鏡の不足による破鏡分配、というものがあるが、説明としては不十分に思える

図をよく見ると、集落出土地域は中央構造線沿いに展開されている

ということは、これは輸入が途絶え祭祀のための資源が枯渇した時期に資源確保のために物部一族や技術系渡来氏族がこの地域を採掘した痕跡ではないだろうか

この頃中央構造線沿いに四国を渡り、熊野、宇陀、伊勢と銅鉱床、辰砂採掘を進めて言ったとするとかなり合点がゆく

破鏡は勘合符の役割を担っていたり採掘者の身分保証のための一時的措置の可能性がある
さらに言えば農産資源が少ない九州南部の熊襲、隼人を従えたかった理由もこの採掘探査を行いたかったのではないだろうか

142 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 16:58:11.02 .net
>>139

神武は卑弥呼よりあとの世代だと思うなあ。

143 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 19:09:14.18 .net
>>142

年代が詰まりすぎる。
実在が確実な天皇から一代あたりの年代で逆算するんだ。
いろいろな試算はあるが、どうやっても卑弥呼より後にはならない。

144 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/11(木) 22:51:07.98 ID:OsjGOJAEN
卑弥呼は神武より後代。

145 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 00:38:42.53 ID:wdA1ujQCX
>>133
しかしなあ、沖ノ島と大島と宗像下高宮で同じ祭祀が行われるようになったのは、7世紀後半だとされている。
つまり、日本書紀で言うところの三女神を祀る祭祀は、この7世紀後半頃に成立したとみられているのよ。
沖ノ島の元々の祭神が女神であったことは認められるものの、その他の2女神が元からあったのかどうか極めて怪しい。
ということは、天照と素戔嗚の誓約は4世紀後半にあった伝承ではなく、7世紀後半に作られたごく新しい神話である可能性が高いのよ。
物部がこの神話に関わりがあるとは、なかなか信じにくいな。

146 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 08:48:09.81 ID:W/gcUhKSr
きわめて怪しいのはオマエの主張だ。7世紀になんかねえ。イカサマはオマエに造られたごく新しいフェイクだ。
女真が神武以前畿内にいたという話はオマエの脳内が成立させたものであり、これは完全なデタラメ小説だ。
三女伸は神武以前であって、神武以後の創作ではない。

147 :太国という人間の過ち:2023/05/12(金) 09:08:18.51 ID:dppeuAgLp
神武は卑弥呼より後代。

148 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 13:53:46.89 ID:CjZxrZLWV
神武即位元年=西暦元年

卑弥呼は239年ころだから、神武より卑弥呼んほうが後代。
>>147
オマエという人間の過ちこれが真だ。。

149 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 15:13:21.34 ID:wdA1ujQCX
>>146
5世紀中頃に四条畷にやってきた女真の長脛彦が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武は、日本書紀編纂室が書いた大河小説の主人公だ。
神武は、応神がモデルなんよ。
だから、神武は応神の時代である4世紀末〜5世紀初頭以前には存在し得ない主人公ということになる。

ワイの女真長脛彦説を信じたまえ。

150 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:49:30.67 ID:47OerqmJQ
小説ではねえ。この前も放送で古代史の陵墓の位置と数と、その場所の件で合ってるかどうか
日本書紀の記述を探したが、具体的に悉く一致していることが分かった。これは小説ではなく事実を
記載していた文証とその現鉦といえる。こういう陵墓があるのはイカサマではなく、おまけに小説ならば古史古伝もほぼ同じ記述内容であって記紀と独立
することから小説とはいえず、オマエの小説論は棄却される。記紀の編者と古史古伝の編者の供述は共犯の被疑者の各人を
別別として供述を聞くことが口裏合わせができないように捜査機関が行う方法であって、記紀と古史古伝の編者らに口裏合わせが
出来ないことは当時スマホもなく航空機新幹線ITもないことで編纂時代が異なり記紀にない情報が古史古伝のほうに
あることからで口裏合わせはできず、紀の小説化論は折伏される。ははは・・・・・
もともとこういう論が出たのは津田左右吉あたりであって、この男が紀がインチキだという旨の論を
言い出したからこれが増幅して、こういうアホ論を支持するイカレ者が各所に現れることになって、今日に小説だと
点検もしないで言い出した盲象なのだ。うっははは・・・・・・

151 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:58:11.34 ID:47OerqmJQ
神武が応神のモデルだという論は、口裏合わせのできない古史古伝と内容がほぼ同じであって、これは小説ではなく
モデルではない。双方の陵墓もあるし、モデルだと無信仰なクソ論述はもう結構月光。ww
本ものだから日本書紀に「本」の字があるのだ。但し日本から半島の記述は合ってるかどうかわからないあるいは
事実誤認があろう。朝鮮人銅族女よ、創作などとまだ頑張ってるところを考えると、やはりおめーは朝鮮人女工作員だな。
神社神道信仰のかけらもなく、おめーがうるさい銅の朝鮮人だと解る。wwwww
ぎゃあぎゃあ騒音の化学反応するんじゃねえ。

152 :太国という人間の過ち:2023/05/13(土) 12:42:14.06 ID:qhpXVdFSN
5世紀中頃に八丁畷にやってきた川崎の彦摩呂が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武寺は、京急の停車駅だ。
神武寺は、池子弾薬庫がモデルなんよ。

153 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 19:29:30.36 ID:twJeGc/YS
戦うわけがねえというより、真鍮女真のわけがねえからだぜ。
そっちがモデルだという資料根拠が薄弱であって、おめーの脳内の架空創作であるwww。

154 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/14(日) 13:58:52.12 ID:xiKL8QUEd
モデルという奴は、無神論者だということだな。神社神道の信仰のかけらもないいかれた奴が
朝鮮人という格下・銅工作員のズの高い脳内の武細工脳だ。
だからモデルとか言い出す無礼をやらかすわけだ。武論頭は雄弁の銀よりうるさく、化ける化学反応をやらかす
輩だ。沈黙の黄金は神ながら言上げせずだが、対馬金銅仏のごとく純金に、いかれた銅を混ぜようというのが
おめーという朝鮮アマ工作員の脳内だ。笑わせるな。ppppp

155 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 17:22:07.23 ID:qgfnwkGIS
弥生時代の部族社会で、なにが一系の統治者だよ。
血族による氏族社会が生まれてくるのは、5世紀になってからじゃ。
だから、皇統一系などという血族観による政治思想は、5世紀以降にできたもの。
つまり、皇統が始まったのは、応神王朝時代からということだ。
これが、実証主義による皇統の考え方だ。
おめーらの神武即位紀元元年説なんか、トンデモ説の見本みたいなもんじゃな。
わははははは。

156 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 03:10:42.14 .net
>>139
磐余彦伝説のコアは、考古学に謂う「弥生戦乱」(※その末期が「倭国大乱」として隣国の史書に記載された可能性がある)の生んだ武装難民だと考えている。
無論、伝説がそのまま史実であるわけもない。
時間的にも幅を持った複数系統の集団群の記憶を微分/再積分したものだろう。
管々しくは書かないが、記紀の磐余彦伝説と考古学成果(高地性遺跡所在、河内内湾、等々)の奇妙な符合は既に指摘されている。

従って、その概略時期が二世紀末であったとして妥当性を失わない。
 

157 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:02:45.71 .net
例えるとビュッフェのテーブルに盛られた沢山の料理
それは大王家を構成する外孫である各氏族の畿内までの道のり
これらを統合しひと皿に盛ることで天皇家の絆と各氏族の誇りを表現している

ヤマト入りに関しては神武天皇
各地征伐に関してはヤマトタケル
そういう使い分けがなされたというのは有るかもね

158 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:23:03.94 .net
>>156
例えば大田田根子は大物主の5世から7世孫との記述があるが、これを式年遷宮の世代年数の20年で考えるとおおよそ100年から140年

崇神天皇の纒向遺跡が3世紀後半とすると約2世紀の出来事とピタリ符号しますね

そしてこの時代の大物主とは誰か
これこそ物部と天孫の始祖である饒速日とすれば同時代の神武東征神話と符号することになるね
それと同時に長髄彦の存在背景も朧気に感じる

この考えで崇神と神武の関係性と大まかな畿内ヤマト成立の様相が見えてくる
そしていよいよ邪馬台国と卑弥呼との関係性も

159 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 19:05:31.04 .net
>>156

神武東征イコール倭国大乱

というのはありえるが…

160 :太国という人間の過ち:2023/05/15(月) 18:50:18.74 ID:iUF/ulKeR
明治維新に大義はない、徳川の天下に戻すべき。

161 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 12:49:52.76 ID:bDJ8dXtXy
>>157
2世紀代は、ヤマトは鉄器もない田舎。
先進地の北部九州から都落ちして、田舎ヤマトへ大挙移住する理由がない。
よほど大敗して、都落ちすることしか理由は考えられない。
北部九州の倭国大乱で、敗残の者らが辺境のヤマトへ都落ちしたとする根拠があるか。

162 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/16(火) 14:18:09.23 ID:F/zfR/Pqu
徳川再政権にはまだ千年以上の間がある。のんびり構えてればいい。
明治維新は天帝の勅からであって大義名分は後神武天皇の五か条のご誓文からもある。

163 :126:2023/05/11(木) 21:24:24.93 .net
>>159
イコールで結んでしまうのは磐余彦一統の存在の過大評価ではなかろうか。
記紀の記述に於いてさえ一統は東航した集団群の one of them でしかない。
また磐余彦伝説自体、高句麗の建国伝説と共有する枠組に諸要素を収納したものという構造が明らかになっている。
あくまでも弥生戦乱と云う時代の運動の一要素、
それも主流ではなくて後景に埋もれかねない出来事群の微分/再積分だったと見ておきたい。
 

164 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:29:24.90 .net
崇神朝は一瞬だった。
その後垂仁に乗っ取られたから。

165 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:40:27.04 .net
考昭考安考霊考元崇神が吉備から播磨阿波等を通じて物部氏と縁戚を結んで大和纏向に進出した。
大物主はモモソヒメと婚姻させて取り込んだ事が記紀に書かれている。

166 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:47:49.99 .net
それ以前には大国主と大物主の出雲大和同盟があって、
実際に銅鐸が出土する範囲で國造が行われていたのと、
饒速日命の進出による国譲りのようなことも実際にあった。

167 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:01:35.34 .net
高天原が博多湾周辺の出来事で、
天照大御神が伊都国辺り、
須佐之男命が吉野ケ里辺り、
饒速日命が糟屋辺り、
月読命が山門八女辺りに居たと考えられる。
で、この内の須佐之男命の勢力が、
出雲に進出したのが前2世紀の話し。

168 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:06:39.56 .net
で、この時、須佐之男命から手ほどきを受けて、
大国主が國造を始めた。
スクナビコナとの國造は、
北陸や紀の国などかなりの広範囲に渡っていた。
その後、大和大物主との國造が始まったのが後1世紀中期頃の話し。

169 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:12:09.41 .net
その頃、博多湾周辺では、
奴国が漢に朝貢して金印を授かった頃。
で、しばらくして饒速日命の河内進出が始まったと考えられる。
前後して吉備津彦の勢力も安芸や吉備に進出していたものと考えられる。

170 :126:2023/05/11(木) 22:13:44.66 .net
>>165
× 考
〇 孝
 
天皇諡号表記に限らずこの誤記に取り憑かれた残念な人々が跡を絶たない。
何故なのだろうか。
 

171 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:16:14.37 .net
この頃、神武は実際には高千穂に進出して、
日向生目氏の勢力の元になった。

172 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:19:58.66 .net
後1世紀後期に山門八女で彦坐王が台頭して、
奴国を制圧し、漢に朝貢したのが107年の話し。
この時、ヤマトの帥升と名乗ったのが
倭面土国王帥升。
コレがヤマトの原点。

173 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:25:02.96 .net
この後、ヤマトは狭穂彦王子が
2世紀中期後期に投馬国=妻、都間に進出しており、
ここで日向生目と争ったのが倭国大乱になる。
この時、狭穂彦王子が生目氏に破れてしまい、
彦坐王の娘たちが生目氏に人質に取られ、
その間に出来た姫が倭姫命=邪馬台国の卑弥呼になる。
コレが女王共立。

174 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:30.66 .net
>>167

> 高天原が博多湾周辺の出来事で、

高天原が日本国内にあったのか、それとも任那にあったのか?

175 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:34.45 .net
この時、生目氏=伊支馬は邪馬台国の長官になって、
宇佐あたりに陣を構えて、
吉備津彦の播磨姫と縁戚を結んで、
瀬戸内海から大和纏向へ進出していった。

176 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:31:44.08 .net
奴国が朝貢した57年頃、
朝鮮半島には狗邪韓国という倭国の領土があった。

177 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:24.64 .net
反問されても答えず、また論拠も示さずに連投でひたすら夢想を書き連ねるだけ。
これじゃ議論にもなりようがない。
所謂「アスペルガー症候群」というのはこういう病状のことなのだろうか。

178 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:28.49 .net
生目氏景行天皇と播磨姫の息子がヤマトタケルノミコトで、
景行が美濃に進出した際に、
ヤマトタケルノミコトは倭姫命に養子に出されてしまったと考えられる。
それで狗奴国=熊襲征伐やらして、
吉備津彦とも結んで、
出雲や丹後丹波に進出して、
更に伊勢尾張熱海関東遠征したのが
ヤマトタケルノミコトの東征になる。

179 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:44:56.52 .net
崇神朝はヤマトタケルノミコトの東征以前に、
四道将軍を派遣して、
大和を中心にした大和政権を設立していたが、
日向生目氏に乗っ取られ、
邪馬台国が丹後から東日本に進出してーので、
吉備の豪族に転落していたものと考えられる。

180 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:51:03.19 .net
四道将軍で日本を支配した直後、
ヤマトタケルノミコトが再び大規模東征した理由は、
やはり崇神垂仁景行で政権交代があったからと考えるのが合理的だ。

181 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:57:41.25 .net
ということで、今の天皇家は、
日向生目氏を出自とし、
邪馬台国の彦坐王の子孫を外戚とする王朝の末裔と言えるだろう。

182 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:04:48.66 .net
日本書紀
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている

崇神の時代に任那や筑紫が存在していたということは???

183 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:06:52.79 .net
後漢書東夷伝には、
狗邪韓国が倭国の領土と明記されており
また三国史記には新羅の王は倭国のタバ国出身と明記されているので、
朝鮮半島から日本ではなく、
日本から朝鮮半島への流れがあったのが、
前2世紀頃の話しで、
高天原から天孫降臨した部族達は、
実際に銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族なので、
高天原というのは朝鮮半島ではなく、
博多湾周辺ということになるだろう。

184 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:16:00.92 .net
崇神天皇の四道将軍は、
実際には吉備津彦は元々崇神天皇が出自した地域の部族、
丹波の彦坐王は邪馬台国から丹波に進出していた部族の1つを、後にヤマトタケルノミコトの縁を通じて同一勢力としたモノで、
大彦が大和の三輪一族や大物主の部族を関東に派遣したモノだろう。

185 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:25:53.23 .net
また、ヤマトタケルノミコトは、
実際には大若子命と乙若子命の実績を
合わせて作った創作上の人物で、
大若子が御間皇子の異名を持つ彌馬升、
乙若子が彌馬獲支で、卑弥呼の歳の離れた弟で、
卑弥呼の身の回りの世話をした人物と考えられる。

186 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:30:43.46 .net
ということで、大若子が大幡主命=大畑氏、
乙若子が天皇家の祖先であり、
福岡の大畑さんと天皇家はDNAはかなり近いのではないだろうか?

187 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:53:48.63 .net
一連の書き込み
壮大なストーリを一旦吐き出したくなる気持ちは解るが
決めつけ多くて偽書読まされてるかのような気持ち悪さ

もしも見識があるのなら考証すっ飛ばさず事績を絞り検証解説しないと面白くないし伝わらんよ
だが議論する気は無さそうだな

188 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 05:18:10.10 .net
>>186
中津市には大幡という地区がありそこには宇佐神宮の元宮の薦神社がありますが、大幡主と関わりがあるかもしれません

189 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 06:32:41.85 .net
宇佐=邪馬台国 説は昔からありますな

190 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:45:14.33 .net
>>158

そこで卑弥呼が絡むと嘘くさくなる。
記紀にはまったく姿が見えないのだから。
むしろ、神武が2世紀末に筑紫を去った後に筑紫で共立されたのが卑弥呼なら、記紀には登場しない理由が明確になる。

191 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:48:22.27 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。

192 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:49:06.78 .net
>>174

高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

193 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:50:20.99 .net
>>180

討伐というか、荒らして回っただけで、統治はしなかったのかも。
だから何年かごとに征伐という名の収奪を繰り返したのだろう。

194 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 17:57:25.37 .net
>>189
宇佐、日田は候補と言われるがどちらかというと亡命先のイメージ
吉野ヶ里遺跡が忽然と放棄された時の東方ラインにあたるからね

195 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 03:40:07.24 .net
>>194
宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

196 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 12:59:43.72 .net
>>195
そこに匿われた比売神(臺與)が拠点化したは有り得ますね
地理的、祭神的にも宗像氏と物部氏に匿われたのでしょう
それだと200年後から八幡神が尊ばれた理由にもなります

日田の鉄鏡はこのストーリーとして考えると逃避行の代償として匿ってくれる代償として地域豪族に与えたという見方も出来そう
あの鉄鏡はそれくらいに有り得ない品ですよね

197 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 14:36:32.59 .net
>>195

> 宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

宇佐とか日田は地形的に守りやすいよね

198 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 18:16:04.50 .net
宇佐神宮は桂川と寄藻川という天然の内堀と駅館川の外堀もあるから外敵は寄せ付けないね

199 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:00:55.99 .net
宇佐はもっと調査すべきだね

200 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 20:34:29.44 ID:jBL/w6ubd
何も出てこんよ。

201 :太国という人間の過ち:2023/05/17(水) 23:09:11.05 ID:W8Eg3S+xt
United
States
of
America

202 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 02:52:35.25 ID:Sy5+xQ853
おめーらは、考え違いしている。
宇佐神宮の比盗_と八幡の神は、元は別所の神だった。
八幡の神は、薦神社の内宮とされる三角池の水神の別称なのだ。
これが後に習合して宇佐神宮で祀られるようになっただけ。

薦神社内宮の三角池で祀られた神は灌漑池の水神であり、水分神(みくまりのかみ)と呼ばれる。
この神は、水を司り配分する神だとされる。
だから、特別な神ではなく、ごく普通の水神だったのだ。
そして、そうした水神のイメージには、中国の水神である龍神が当てられた。

龍神は強く雨を降らす神であるので、雨の元になる渦巻く雨雲と多数の稲光りと雷の轟音に包まれて大きな目を見開いて蛇龍の身体を波打たせる姿で描かれる。
この龍神が超絶的なエネルギーをみなぎらせた神であることが分かる。
それゆえに、この神を祭ることで、池に豊かな水を与えてくれるわけだ。

ここで、反乱を起こした南九州の隼人討伐のために派遣された朝廷軍が、なぜこの三角池に生える真菰を刈って枕状にして神輿に載せて隼人討伐軍の先頭に立つことになったのかと考えると、
池などに生える植物はその池の神が宿るものだと考えられたため、真菰の枕には三角池の水神が宿っているとみなされたからなのだ。
そして、こうした池の水神は膨大な激しいエネルギーを持つ龍神がイメージされたことから、
この激しいエネルギーを持つ龍神の力によって南九州で反乱した隼人を圧倒してくれるだろうと期待したわけだ。
これが、田舎の中津の灌漑池の水神が、朝廷軍の先陣として立った理由なのである。 続く

203 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 03:37:12.96 ID:Sy5+xQ853
では、なぜ、この三角池の水神が八幡の神と呼ばれるようになったのか、ということだ。
天皇が即位する時に、朝廷には朝廷軍が集まり、またその朝廷の周りには多数の役所があってそこに役人が集まっている。
そして、軍は部隊ごとに軍旗をはためかせ、多数の役所もそれぞれ役所の旗をはためかせる。
このさまが、八幡(やはた=たくさんの旗)なのである。
したがって、八幡(やはた)とは、天皇の威勢を象徴する言葉ということだ。
なので、中津にやってきた隼人討伐の朝廷軍は多数の旗をはためかせ、随行する役人もそれぞれ役所の旗をはためかせた。
つまり、この朝廷軍が、八幡(やはた)だったということになる。
そして、この八幡(やはた)の先頭に立ったのが、三角池の水神の宿った薦枕だったのだ。

このあと1年以上に渡る戦争の結果、朝廷軍はやっと勝利したのだが、当然、その戦勝は三角池の水神のおかげだと顕彰されたのは間違いない。
そこで、三角池の水神は、八幡の朝廷軍に勢いを与えてくれた神だとして「八幡の神(軍神)」の名が与えられたとするのが、最も合理的だ。
このように考えると、後になって、なぜ応神天皇が習合される流れとなるのかが分かってくる。
応神天皇は神功皇后とともに仲哀天皇の子と戦って勝利した天皇であり、河内王朝の始祖でもあり、
軍事に長けた天皇と位置付けられていたことは、ホムタの名があることからもそれが分かる。
そこで、宇佐神宮側が、三角池の水神の八幡の神(軍神)と応神天皇(軍事につよい天皇)の習合を図ったのが「八幡神=応神天皇(軍神)」であり、
このことが後代に武家から絶大な信仰を得た理由となったのだろう。

要するに、三角池の水神(龍神)が隼人討伐の軍功で「八幡の神」と呼ばれ、この神が比盗_を祭る宇佐神宮の祭神として取り込まれて、やがてそこに応神天皇も習合したということなのだ。
ということは、宇佐神宮の比盗_だけでは、ただの田舎神社にすぎないということ。
軍功があった「八幡の神」こそが、宇佐神宮のグローバルパワーの源泉なのである。
夢夢疑うことなかれ。

204 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 10:20:13.70 ID:g371BsAyy
八幡というのは八咫鏡からの数字だ。

205 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 15:01:48.71 ID:Sy5+xQ853
何かの妄想か。

206 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 18:57:00.75 ID:g371BsAyy
盲象ではない。天津金木において

半径3の円(三輪)考察すしたときに、八は数字の8だが、三輪(3.0)を反転03として半径3の代わりに
半径8の円を考えて、反転から小数点03を付加し、半径8.03の円を想起するならば r=8.03 で
それを球化すると、球の体積は天津金木として

V=2,168.87860739596 0711 473048626287 1/1 神功70年 応神天皇即位

が出る。だから応神を八咫の鏡に因んでか八幡様と呼称するのだ。

207 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 19:01:48.96 ID:g371BsAyy
03の付加は当時3倍暦をやってたからだ。

208 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 23:07:13.00 ID:Sy5+xQ853
>>206
神功70年は、ない。
0711は、応神元年一月一日ではあ〜りません。
応神元年なら、0111にならなければなりません。
ざんねーん。

209 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 10:00:40.45 ID:25OPdGUBm
天津神算木の数字は逆読みができるのだ。

上のとおり半径8.03の円の面積をsとすれば

s=202.572 721736 85809882998586173291 7/2 西暦1736年 荷田春満 没

国学の祖の没日があるのは2倍暦があったという示唆。

残念でした。神功70年は応神天皇即位元年だよ。紀から計算してみい。

この年は西暦270年で皇紀930年、神功摂政皇太后70年で応神即位元年だ、OK。間違いはない。

210 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 10:07:37.91 ID:25OPdGUBm
うんと残念でした。0111じゃあ神武即位元年の年月日と同数字だから天皇の特定ができない。
つまりこれだと年代の特定にならない。w
1/1神功70年に応神天皇が即位したのであり、これだと神武と見分けがつく。w

211 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:15:16.57 .net
箸墓古墳にて見られる吉備由来の円筒埴輪は鉄生産、銅器生産に用いられた土器由来の可能性あり

畿内は近江文化で銅生産加工が盛んだった地域でもあるから威信財が枯渇した北部九州に代わる新天地として選ばれ、文化や職掌のクロス集約地として隆盛した可能性が高まる
これは後の仿製鏡生産にも裏付けされるし、前方後円墳の発生根拠ともなりうるね

212 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:29:11.80 .net
何が言いたいかと言うと
畿内ヤマトと北九州とで決定的に違うのはここだということ
古墳の規模や美しさに加え埴輪によって技術や文化の顕彰を墳墓の在り方で表現しようとしたところ

大げさに言えば祭祀と並んで技術への意識の高さがありそのような人々が優遇されたり覇権を握った証とも言える
その代表格が言うまでもなく物部一族

213 :日本@名無史さん:2023/05/19(金) 14:09:45.89 ID:vShcRbglW
神功70年を勝手に作ってはダメダメの三助。
応神元年は、神功70年ではな〜い。
神功は、この応神元年にはもうこの世にいないのだ。
おめーが死んだあとに、あと1年生きていたということになるか?
都合よく話をでっち上げてはダメダメの五助。

214 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:02:03.60 ID:sJBzFW9u5
紀の計算から応神元年は神功70年だ。
この前天皇が退位したときも平成に上乗せして運面なんかは平成の記述があっても令和出有効だ。
70年目の元旦応神は即位した。
頑張っても天津神算木の答えは合っている。
頑張っても動かないぜ。ww

215 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:03:48.39 ID:sJBzFW9u5
八咫の鏡という円鏡は、円の半径が8.03だったのだよ。
よ。

216 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:05:11.89 ID:sJBzFW9u5
×運面
〇運免

217 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:09:34.03 ID:sJBzFW9u5
皇紀861年が神功元年であり、皇紀930年が応神即位元年だ。だから神功摂政皇太后から70年目が応神元年だ。
合ってるぜ。計算間違いをするなよ。ハイ、おわり。

218 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 00:29:18.11 ID:az0AsYIb5
神功が亡くなったのは神功69年4月17日(旧暦)だ。
その翌年の応神元年1月1日(旧暦)に応神が即位した。
その間はおよそ7か月もある。

応神元年を神功70年とするのは、無理無理の無理。
神功年は70年まで続かない、69年で終わり。
勝手な切り離しで0711を神功70年1月1日のことだとして、その年は応神元年1月1日と同じだとするのは、無茶苦茶三助だ。

算木に磁石が埋められていて、あっちにひっついたり、こっちにひっついたりと、切り替え次第でどっちにでもひっつくという仕組みなんだろ。
信じられん算木屋だ。

219 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 01:30:15.96 ID:az0AsYIb5
>>212
物部についての族性の説明は拝聴するが、3世紀後半とみられる崇神の時代に物部が大和にいたとする根拠が不明。
物部が大和に現れるのは、天理に鉄鍛冶工房が出現する5世紀後半。
天理の物部は交野にも工房を設けていたようなので、すでに規模の大きい鍛冶屋だったことが分かる。
天理と交野の物部は、倭鍛冶だったとされている。
しかし、それ以前には、鍛冶屋物部が大和にいたとする遺跡はみつかっていない。
5世紀後半の大和の物部がどこから来たのかについては、不明のようだ。

220 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 14:10:41.87 .net
物部氏は福岡の糟屋出身なんですが。。。

221 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 17:25:16.88 .net
>>220
ニギハヤヒの由来地だよ、という意味ですかね?
だからこそ畿内に技術をもたらした一族
いや一族というより支族と言った方が良いでしょうかね

考察はまだ途上ですが吉備ほか各地に点在し特に鏡、鉄生産、交易に関わってると見ています
3世紀頃には畿内において確固とした地位を確立していたでしょう
また、九州邪馬台国の候補地や三韓、任那にも拠点があったようですよ

222 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 21:57:20.03 .net
>>220

物部氏は九州北部に来る前にどこか他のところにいたのかも。

たとえば任那のどこか。

223 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 22:05:40.69 .net
九州物部氏の存在はこのスレの本題と直結すると見ている

彼らは東を目指し移住したはずなのだが応神期や継体期に故地へ戻っている形跡がある
その1つの証がこうやの宮の神像
七支刀を持ってるから

あと九州物部の拠点は筑紫、遠賀川流域に多くて奴国中枢部には少ないという特徴がある
ここに九州に存在したであろう邪馬台国との関係性を感じる
地理的に考えても軍事、技術や祭祀の大きな権限を有しながら本流では無い雰囲気

彼らにより鏡祭祀が畿内に持ち込まれたとすると、1つの推測として邪馬台国の高官であり鏡祭祀を知る物部の一族(饒速日?)が2世紀に邪馬台国を離れ新たな国を作ろうとした、と想定できる

この存在とその後の崇神の事績を絡めて考えてみると崇神はどうもその逆を行っているかのようだ
大国主の力と物部の持つ力を分割し新たに権力を創始したかった風に感じるのだが果たしてどうだろう
こう思うが故に畿内=邪馬台国ではないし、崇神=物部ではない気がするのだが

224 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 08:45:11.93 .net
>>221

つまり西日本は九州を含めて天照国照天孫饒速日の国。
畿内ヤマト王権の主は物部氏。

225 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 08:47:43.96 .net
>>223

物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇は、物部氏を代表する天皇だろう。
あなたの印象論には根拠が不足している。

226 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 20:02:46.94 .net
>>225
確かに根拠が不足してるから印象論になるのですが
まぁ論と言うほどでもないです
単なる感想ですよ
この辺はさらに検討を深めないといけないですね

227 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 21:55:52.54 .net
>>225

> 物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇


秀吉が血縁者ではない黒田如水の本拠地である姫路を本拠地にしたケースもあるからなあ。なんともいえない。

228 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 10:42:34.28 .net
纒向遺跡が物部の拠点なのか?

これは崇神が物部氏そのものなのかという課題に直結する
論点としては面白いな

229 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 08:00:04.72 ID:Cxg943uMp
>>218
無理ではねえ。
いいか。神功元年は西暦201年だ。
神功摂政から70年後は神功70年で西暦270年だ。つまり皇紀930年である。

この年応神天皇元年して

 西暦270年=神功70年 応神天皇即位

いかれたオメーの融通の利かない計算違いだ。

残念でした。いいか、昭和天皇崩御したとき、運免は昭和65年まで有効となってるが、崩御にて平成と年号が変わっても運転免許証のは平成64年で
終わるのではなく、この運免の昭和65年まで有効とは平成2年まで有効とみなすのだ。
だから応神元年は神功70年とみなすで、この数字は運免同様有効となる。うんと泣け!

230 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:05:05.36 ID:EqgFPrJgx
おめーも書いているように、神功元年から70年目が応神即位年だ。
しかし、その70年目を神功70年とするは、おめーの脳内スイッチ切り替えポイントがいかれた病状そのものを表しておる。
神功年は69年までしかねーの。
しかし、まあ、ちょっと間違えましたと謝れば、許してつかわす。

231 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:38:45.92 ID:EqgFPrJgx
>>223
「こうやの宮」の神像は、相当新しいね。
中央の神像には五七の桐紋が描かれている。
天皇が菊の紋を使い出すのは平安中期以降とされているので、この神像は平安中期以降に作られたものということになる。
これらの神像がセットで作られたのであれば、七支刀を持つ神像も「応神・継体期に物部が九州に戻った」ことを示す証拠になりにくいと思うけど。

232 :太国という人間の過ち:2023/05/20(土) 17:38:14.15 ID:Twa++/07i
明治維新と言う過ち

233 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 20:47:13.28 ID:Yp3L7Vrh6
いかれ武論頭アマ工作員よ
神功摂政皇太后元年の70年目の1/1を 1/1神功70年 というのだ。
69年までしかねえなどと文句をつけても、70年目が応神即位元年だ。
そこで70(07)の手前に近接して69数字があるだろ。これは69年で終わりだとか
ぐずつくオメーの主張ダメだとをうっちゃってるんだよ。うんと嘆け!

234 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 23:17:55.55 ID:mbMhE2TLf
古代史はロマンという過ち。

235 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 01:43:36.46 ID:xcehyiXE6
物部は、崇神紀で今の神主のような役割を担う職掌として描かれている。
しかし、一般に物部は軍事を扱う氏族とされていて、祭事に関わる氏族としての理解は少ない。
しかし、天皇の大嘗祭においては、その前日に、天皇は衣装を着る際に物部氏由来の呪文を受けることになっているという。
これを見ると、崇神紀で物部氏が神主のような役目をしていることと同列であり、物部氏が神事にも関わる氏族であることは間違いない。

では、物部氏の神事における役割は、どこから来たものなのか。
おそらく、古代においては、職人はそれぞれの職掌において独自の神事、祭事を行っており、
その神事において職人のその職掌独自の祭式があったことが考えられる。
物部氏は和鍛冶が本職であったことから、鍛冶に関する神事の祭式を持っていたと考えるのがよいだろう。
また、物部の鍛冶屋は、刀のほか鎧なども製作したはずで、その鎧を身に着けるときの祭式、つまり呪文もあったと考えられる。
この鎧を身に着けるときの物部の呪文が、天皇が大嘗祭の前日に衣服を着るときに受ける物部の呪文の起源だとみなすことが可能だ。

なぜ、軍事氏族の物部氏が独自の神事の祭式を持っていたのかというと、それは鍛冶職人の儀式、祭式が元になって発展したものがそのまま保持されていたからだろう。
また、軍事にも物部氏のその鍛冶由来の神事、祭式が用いられたと見るのがよいだろう。

236 :太国という人間の過ち:2023/05/22(月) 05:13:02.97 ID:i/V8fkccQ
古事記とか日本書紀とか皇紀は全部インチキ。

237 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 19:05:15.43 .net
>>228
いくら論点として面白くても長文ポエム垂れ流し君は「議論」をする気が無いからなあ。
論拠も論理展開も提示せずに譫言を書き連ねてるだけだから話にならない。

238 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:02:58.73 ID:pK7v7x2FW
>>236
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として

r=11.48494 2588111054424361684809286

239 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:14:31.68 ID:pK7v7x2FW
追加訂正
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として円の面積sは

s=11.48494 25881110 54424361684809286 皇紀2588年11/10 皇紀2588年11/10 昭和天皇即位

これは神武から連綿として皇紀年代が継続している理証文証である。

240 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 14:43:16.00 ID:xcehyiXE6
>>237
まあ、ワイ説をたたき台にして、ああれでもない、こうでもないと議論に入るのがよい。
そもそも、崇神紀に「物部の連の祖伊香色雄をして、神班物者とせむと占うに、吉し」と書かれているが、
なぜ物部が「神班物者」にふさわしかったのか考えねばならない。
きみらは物部に詳しいのだから、その答えを出せるはずだ。
議論は、そこからはじまるのだよ。
わははははは。

241 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 19:23:00.36 ID:cIsNFyX/K
ワは神国日本の0の時代、イは1の時代をいう。神武以前は1の時代であって、特別以外神州
に大陸人半島人は天帝の鎖国により入国できない。日神誕生からが1
の時代であって、イ人とやらも天帝の完全鎖国により渡海入国はできない。
このころ
金銅たる日韓の混血は水と油のごとく合金できない。混血は当時無い。純金であって純日本人だけだ。
混血許容はもっともっと後代のことである。大陸の真鍮と日本の黄金とはもともと「別」の近族である。

242 :日本@名無史さん:2023/05/23(火) 03:09:30.72 ID:Tc9+4X4j7
おめーのオジサンダジャレは、笑えねーよ。
今や、縄文+弥生人+古墳人の三重構造論の時代だからな。
どんだけの渡来者が来ているのか、計り知れんぞ。
実際、おめーの遺伝子は、大陸由来だったりしてな。
大笑いだ。
わははははは。

243 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/23(火) 09:32:13.98 ID:yQfkTHKSV
貴近族商に真鍮を黄金ですといって買ってくれと行っても、貴近族商は
このイカサマを完璧に見破る。銅アマ、これは黄金ではないですから買いませんと
これを拒否される。

朝鮮人女工作員よ
おめーは青銅の魔人の国(金兜山)の青牛怪の妖アマだ。

超太古の神国日本には天帝の天則にて大陸半島人は入国できない鎖国の
神策があって、百七十九年余前、宇宙船が九州クジフル嶽に天降り(着陸)
しての天孫降臨から悠久の時代の間天帝が純金を保持して来た。オマエの縁戚
の真鍮たる女真と、黄金の国ジパングたる 日本の黄金民族との合金(混血)
は天帝の外国人渡来鎖国天則のため、超太古の0(ワ人)の時代入国させない。
すなわち超太古のとき、純金たる天孫民族の日本人は銅という近族の
入国はできず、全く混血ができない。
だからこそ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。

真鍮(女真)と黄金(日本)とは根源からして別の近族であって、
半島から物理的に流入しやすい九州四面に、古事記は悉く『別』の字をつけて
入国は水と油の如く混入しない「別」の近族だと分かる字の記述があって、混血は当時不可能事
である。
朝鮮人女工作員よ
いくらほざいても貴近族商はおめーの主張を認めない。
入国可能はもっともっと後代のことであり、金銅佛のような合金はできない。

オマエの国はあのブスの銅像を世界各地にぶっ立てるからして、銅級民族だと
判別できるのである。

 神州ハ不滅ナリ

244 :太国という人間の過ち:2023/05/24(水) 18:36:27.70 ID:y2LnSbJPM
明治維新と言う過ち

245 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 02:38:47.41 ID:h9GhC9wb/
饒速日は物部の祖という過ち。

246 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 21:34:24.36 ID:FK1JsyoWv
饒速日が物部の祖、天火明が天皇家の祖

247 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 02:06:39.30 ID:Px6hwC235
丹後の海部氏、熱田の尾張氏の祖神が、天火明だよ。
天皇家の祖神は、火の二二ギ。
その火の二二ギの兄が天火明。

物部の系図が信用できんのは、天火明を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、別々の神を寄せ集めていること。
火明も饒速日も、物部の祖神ではあ〜りません。

248 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 10:33:23.90 ID:KpMV074S2
海部氏も尾張氏も神武天皇の子孫

249 :太国という人間の過ち:2023/05/26(金) 12:16:51.82 ID:WXfK3Lri5
明治維新と言う過ち

250 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 13:21:54.54 ID:xB4SrGdop
神武が実在したと言う過ち。

251 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 14:10:26.45 ID:KpMV074S2
神武=天村雲

252 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 17:11:10.97 ID:xB4SrGdop
神武は天村雲とフツノ御魂剣を担いで、熊野の山越えにさぞかし重かっただろうな。
まあ、大河小説だから、そのあたりは歴史考証しなくていいか。

253 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/26(金) 21:22:52.99 ID:Bn/cIonQ1
御陵があるんだから小説ではない。

254 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 23:24:06.25 ID:KpMV074S2
神武と天村雲の妃の名前は同一である(阿平津媛)

天叢雲剣を所持していたのは瓊瓊杵尊と崇神天皇であることが、
はっきりしているが、三種の神器として天皇即位式に使っている
ことからして神武天皇も所持していたはずだ。
天叢雲剣の名の由来は種々あるが天村雲が所持していたからという
ことも多いに考えられる。
これも神武と天村雲が同一とする根拠だ。

255 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 08:58:19.29 ID:odY0Pf1ot
明治維新と言う過ち

256 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 15:52:29.72 ID:Voe9q1ggC
物部は天火明命と饒速日命の二柱の神を取り込んで、自族の祖先神としたようだ。

天村雲命は海部氏の祖神の天火明命の孫神というのが、海部氏の系図が示すところ。
これを見ても、物部は海部氏の祖神を自族の祖神として取り込んだことが分かる。
だから、天村雲命は物部の系統の神ではないよ。
饒速日にしても、物部が四条畷の馬飼いの神を取り込んだものだ。

しかし、天村雲命の名から書紀編纂室がムラグモの名を引っ張って来て、スサノオが天照大神にそのムラグモ剣を手渡したという話を作った可能性はあるかもな。

257 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 18:52:32.99 ID:DtcoP61MR
1代神武から3代安寧の母の父は事代主
4代懿徳から7代孝霊の母の父は事代主の子
8代孝元の母の父は事代主の孫
9代開化から10代崇神の母の父は物部氏

事代主と饒速日はどちらも伊可古夜姫と道主日女を娶っていることから
同一人物。
ということは神武から崇神まで母はすべて饒速日系ということになる。

天皇家と饒速日は出雲の国譲りの同志であり天孫族ということで
硬い絆で結ばれていた。
神武が天村雲であるから饒速日は海部氏、尾張氏とも当然結び付きが
強かった。

当時は通い婚で安寧天皇は黒速(饒速日)の館で生まれたと言われている。
物部氏が天皇家つまり海部氏や尾張氏の祖伸を自族の祖神として
祀ったとしてもなんらおかしなことではない。

258 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 01:31:13.91 ID:26sPnyX8j
物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは、欽明天皇の頃以降とする研究がみられる。
安寧天皇が物部と関連するとされる弟磯黒速の館で生まれたとする系譜は、物部氏が磯城に拠点を持つようになる欽明以降につくられたものとするのが妥当。
欽明天皇の頃以前の物部氏は5世紀後半以来天理や交野を拠点としていて、この時期には天皇家とつながる立場ではなかったとみることができそうだ。
海部氏や尾張氏が始祖とする火明命を物部氏が自族の始祖に取り込んだのは、後代になってからだと考えることができるのではないか。

259 :太国という人間の過ち:2023/05/28(日) 11:49:35.95 ID:nkJMB09UE
明治維新と言う過ち

260 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 14:51:33.18 ID:7a+D4AnDw
先代旧事本紀では、物部氏の祖神は鍛冶神の天津麻良としているようだ。
このあたりが、物部氏が自認した自族の祖神ではないか。

261 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 15:18:09.61 ID:gr27uoPM1
>>258
>物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは、欽明天皇の頃以降とする
>研究

は誰の研究か教えてください。

その研究のなかでそう結論づけた根拠も教えてください。

交野を拠点とした物部は天村雲(神武天皇)の子天忍男と結びつき三島陶邑を
つくった。
そして崇神天皇を暗殺しようとした武埴安彦を生んだ埴安媛の父がその流れを
汲む河内青玉繁と聞いており物部氏は何度も天皇家と繋がっているのだが。

262 :日本@名無史さん:2023/05/28(日) 15:28:18.24 ID:gr27uoPM1
>>260
天津麻羅は饒速日だよ

263 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 01:45:58.95 ID:jJiLnvmpK
>>261
物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは欽明天皇の頃以降とする研究があるとしたのは、「欽明天皇の磯城嶋金刺宮について 前田晴人」の論文による。
この論文の12Pの上から19行目〜22行目にそのように書かれている。

「欽明天皇の磯城嶋金刺宮について 前田晴人」でググれば、開いた画面の一番上にあるよ。

264 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 03:24:28.39 ID:jJiLnvmpK
>>261
三島陶邑は聞かない名だ。
高槻の三島の近くに新池窯があり、今城塚古墳の埴輪はこの新池窯で造られたそうだ。
三島陶邑を新池窯とすれば、交野からは近い。
新池窯は5世紀中頃〜6世紀中頃まで操業した最古最大級の埴輪窯とされている。
交野物部氏の鍛冶工房は5世紀後半から始まったとされるので、何らかの関係があるかも知れない。
そうすると、天忍男命は5世紀頃の人物ということになるが、それでよいのだろうか。

それとも、三島陶邑は新池窯とは別の窯なのか。

265 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 03:52:54.64 ID:jJiLnvmpK
>>262
先代旧事本紀では、饒速日の天降りに随行した神々の内にこの天津麻羅がいたと書いているそうだ。
また、古事記では、天照大神が岩戸隠れしたときに鏡を造る神の一人として「鍛人天津麻羅を捜し」と書いている。
この「捜し」の記述からすると、鍛冶職人はあちこちを移動して仕事を受ける者であったことが分かる。
物部氏の先祖もこうした移動する鍛冶職人の一集団だったと考えることができそうだ。

まあ、先代旧事本紀からすると、天津麻羅は饒速日でないことは確かだね。

266 :太国という人間の過ち:2023/05/29(月) 07:27:56.57 ID:79za84TUU
古事記も日本書紀もインチキだよ。

267 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/29(月) 13:20:53.02 ID:7dzjfmMgA
インチキならば、その文を具体的に書き込め。いつも上っ面だけ。

268 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 18:00:36.70 ID:toraf8zF2
>>265
訂正
古事記に「鍛人天津麻羅を捜し」と書かれているとしたのは、「鍛人天津麻羅を求め」が正しい。

269 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 15:49:21.71 ID:lfPtNCgAn
鍛人天津麻羅は物部氏の祖神であるのは、ほぼ間違いない。
そうすると、先代旧事本紀が書いている饒速日は、物部氏の祖神ではないことになってくる。
このことは、ワイが主張しているように、饒速日は物部氏が取り込んだ神であり、物部氏の本来の祖神ではないということと整合性を持っている。
では、日本書紀が記す饒速日とは、いかなる神か。
饒速日を部族の祭祀者とした長脛彦とは、何者かということになる。

270 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/30(火) 16:17:56.04 ID:RM1I/bpT3
とにかくおめーのような朝鮮人ではねえ。

271 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 16:21:13.02 ID:lfPtNCgAn
前からワイが主張しているように、長脛彦(足が長い者=背が高い者)の表現と合う身体的特徴を持つ者は、
5世紀中頃に大阪の四条畷で馬飼いを始めた女真人に一致する。
女真人は現在の中国でも1、2を争う長身族であることから、
その四条畷からすぐ東の白庭台を拠点とした長脛彦とは、四条畷の馬飼い女真人の一派のあだ名であることを示していると言える。
そうすると、饒速日は女真人と関連する神である可能性が高くなる。

そこで、このニギハヤヒ(饒速日)の言葉を考えてみると、次のようになる。
ニギハヤヒ→二ギ(たくさん=和語)、ハヤ(速いのハヤ=和語)、ヒ(ヒヅメ=蹄のヒで、
女真語のヒタフン(爪)の語頭のヒと和語のツメを合わせてヒヅメ=蹄とした語。このヒヅメ(蹄)でもって馬を表した。
このことから、ヒは馬を表す語と理解することができる=女真語の語頭音)とみなして、ニギハヤヒ(饒速日)とは「たくさんの足の速い馬」の意味とすることができる。
このことから、ニギハヤヒ(たくさんの足の速い馬)とは女真人が四条畷で飼ったたくさんの馬を指す言葉で、白庭台に陣取った女真人の一派が祀った馬神であると結論することができる。

物部氏は、白庭台の要衝を掌握し、女真人からその神を奪って自らの神として祀ることで、白庭台が物部氏の縄張りであることを示したのだと考えることができる。
そして、その女真人との戦いの話が物部氏の武勇伝として伝えられ、その武勇伝を日本書紀編纂室が取り込んで、神武の武勇伝として仕立て上げたのが神武紀の生駒での饒速日と長脛彦のエピソードなのだ。

要するに、饒速日は元々は馬飼い女真人の神であり、物部氏がそれを取り込んで自らの祖神として加上した神ということになる。

272 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 16:22:24.13 ID:lfPtNCgAn
>>270
うるせーよ。

273 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:28:44.28 ID:lfPtNCgAn
>>270
おめーみたいに無意味に算木ばらまかんよ。
わははははは。

274 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:39:06.02 ID:qgCOGWu0u
>>263
論文をすべて読んだが
「物部氏が磯城や鳥見のエリアに拠点をつくったのは欽明天皇の頃
以降」
とする根拠は書かれていない。
この論文は随所に根拠を書かずに断言しているところがある。
あなたはこの論文を書いた前田晴人という人物を信じてこのように
断言して書いていたのですか。

275 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 18:53:54.77 ID:qgCOGWu0u
>>264
新池窯は高槻市の山間部、三島も高槻市ではあるが淀川河岸にある。
饒速日は三島と磯城で陶器を作っていたがこの2つが当時の2大陶器産地
と言われていた。
古墳に使われていた埴輪の多くを作っていたという。

大田田根子は堺市の陶邑出身といわれるように各地で陶器が作られて
いたということだろう。

276 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 19:26:55.71 ID:qgCOGWu0u
>>265
この饒速日の天降り随行リストは
船員、5部人、5部造、25部人に別れており、天津麻羅はこのうち
船員6人のなかの舵取りと5部人の一人に名が乗っている。
5部人は5部造と25部人を統括するものと思われる。
天津麻羅(饒速日)は全体の責任者であり、ある部の責任者でもあると
いうことだろう。現代で言えば総理大臣と財務大臣を兼ねたような
ものと言えるだろう。

>また、古事記では、天照大神が岩戸隠れしたときに鏡を造る神の
>一人として「鍛人天津麻羅を捜し(求め)」と書いている。
>この「捜し(求め)」の記述からすると、鍛冶職人はあちこちを移動して
>仕事を受ける者であったことが分かる。
>物部氏の先祖もこうした移動する鍛冶職人の一集団だったと考える
>ことができそうだ。
>
>まあ、先代旧事本紀からすると、天津麻羅は饒速日でないことは
>確かだね。

当時の「求め」という言葉は「捜し」と同義であったのではない
だろうか。

277 :太国という人間の過ち:2023/05/30(火) 20:51:42.94 ID:TZYhtER+t
古事記も日本書紀もインチキだよ。

278 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 21:44:14.95 ID:lfPtNCgAn
>>274
この前田氏の論文は、神武東征に関連して記される「県主一族が物部氏系の氏族である」ことは、それは「物部大連家が忍坂・登美・磐余などの地域に拠点を設けて以後」のことであり神武東征の時期のことではないとし、
このことからして、いろいろな資料にみられる県主の物部氏との「関係性が成立するのは継体・欽明頃のこと」としているもの。
前田氏は、県主一族が物部氏系であるのは物部大連が登美や磐余に進出したことに関連があると根拠を上げて、
県主が物部系となった時期は継体・欽明の頃だと結論をちゃんと示している。
根拠については、問題ない。
ただ、個別的な資料による説明をはぶいているので、根拠がないと錯覚するのではないか。

279 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 22:44:14.78 ID:lfPtNCgAn
>>275
書紀欽明23年に「摂津国三島郡埴廬」がみえ、この窯は大規模な埴輪工房だったとされている。
この三島郡埴廬は、新池窯のことのようだ。
三島陶邑とは、この三島郡埴廬と思われるが。

饒速日が三島で埴輪窯を稼働していたとするその出典は何か。

280 :日本@名無史さん:2023/05/30(火) 23:45:05.00 ID:lfPtNCgAn
>276
先代旧事本紀に物部氏の祖として書かれているのは、「五部の一つとして『物部造たちの祖・天津麻良』、船子として『倭鍛冶たちの祖・天津真浦』」。
これを要約すると「物部氏の祖であるとともに、倭の鍛治たちの祖であるアマツマラ(マウラ)」となる。
五部も船子も、饒速日を護り、饒速日が乗った船を漕ぐ者であるので、饒速日=アマツマラ(マウラ)にはならない。

281 :太国という人間の過ち:2023/05/31(水) 10:10:18.78 ID:oRh/QtBJ7
古事記も日本書紀もインチキだよ。

282 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 01:55:08.82 ID:OBvPx942P
>>279
欽明23年冬十一月に見える「摂津国三島郡の埴廬」は、新羅人が運営していたようだ。
欽明紀には、そのように書いている。
そうすると、饒速日が新羅から来た神でない限り、饒速日が運営した三島の埴輪窯とはこの欽明紀の「三島郡埴廬」ではないことになる。

283 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 03:09:03.79 ID:OBvPx942P
しかし、このもつれる糸のような饒速日と物部氏の関係をどう考えるのが一番合理的なのだろうか。

鍛冶神の天津麻良を祖神とする倭鍛冶系の物部氏は王権のもと天理と交野で鉄器生産を始めるが、
その後ヤマト王権における実力者にのしあがり、蘇我氏と朝廷の両翼を担うこととなる。
このとき、軍事氏族として大族となっていた物部氏は、自らの氏族の祖神が鍛冶神の天津麻良であることに物足りなくなり、
尾張氏や海部氏などが祖神とする天火明神を取り込み、またさらに自族の守り神として取り込んでいた馬飼族の神のニギハヤヒの神も自族の祖神に格上げしたのではないか。
その結果、天照国照天火明櫛玉饒速日という加上を重ねた祖神が誕生したと考えると分かりやすい。

これが、最もスッキリする理解の仕方だろう。
そうすると、鍛冶神の天津麻良は外来の神か、それとも倭系の神かということに絞って考究すればよいことになり、話が早くなる。

284 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 05:48:47.93 ID:OBvPx942P
天津麻良の麻良(マラ)とは何を表す言葉なのかが極めて重要だ。
このマラ(麻良)は鍛冶神の呼び名であるので、鍛冶の何かを表している可能性が高い。
そこで、鍛冶に関連して、マラの発音を持つ言葉を探ってみるのがよいだろう。
そうすると、外国語にぴったりする言葉がみつかる。

マラ(鍛冶関係)
ヒンディー語 maara(マアラ)=打つ、叩く
パンジャブ語 maro(マロ)=叩く、殺す
パンジャブ語 marana(マラナ)=叩く、殺す
ネパール語 marnu(マルウ)=叩く、殺す

これをみれば、ヒンディー語のmaara(マアラ=打つ、叩く)が、鍛冶神のマラ(麻良)に発音、語義ともに最も近いのが分かる。
また、パンジャブ語のmaro(マロ)、marana(マラナ)などもほぼ同じ発音であり、同系の語彙であることは明白だ。
ただ、ヒンディー語は13世紀頃に成立してくる言語だとされるので、日本の古墳時代などよりもずっと新しいので、
ヒンディー語のmaara(マアラ=打つ、叩く)をマラ(麻良)に当てることはできない。
しかし、ヒンディー語の祖語はカリー・ボリー語で、さらにそのベースとなっているのはプラークリット語だとされることから、
このプラークリット語にmaara(マアラ=打つ、叩く)の語源があるとみられる。
そして、その語源の言葉は、パンジャブ語のmaro(マロ)、marana(マラナ)などとつながっているとみることができそうだ。
おそらく、日本の鍛冶神のマラ(麻良)の言葉は、インドのmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉と同系の語彙であり、
インドのmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉を取り込んだもとみて間違いないだろう。
では、このインドの言葉のmaara(マアラ=打つ、叩く)などの言葉は、どのようにして日本にもたらされたのだろうか。…続きます

285 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 14:46:24.14 ID:08Pj68hzw
>>278
「物部氏が天皇家と緊密な関係を築いたのは継体・欽明以降」
の根拠として
「忍坂・登美・磐余に拠点を構えた物部大連家に対抗して推古天皇が
忍坂郷に鉄製武器類を制作する大規模な工房群を設置するなどした以降の
継体・欽明頃のこと」
という。

ほとんど理由になってないし意味がわからない。

286 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 15:22:11.78 ID:08Pj68hzw
>>279
>饒速日が三島で埴輪窯を稼働していたとするその出典は何か。

hikosugiyama66.blog.fc2.com

5世紀前半に始まり8世紀に終了した吹田窯跡群や桜井谷窯跡群
5世紀後半に始まった豊中窯跡群など当時三島に近接していた陶邑は
たくさんあった。三島陶邑もそれらの一つとして稼働していたと
考える。
新池窯が5世紀中頃から6世紀中頃まで操業しそれが三島郡埴廬とされ
三島郡埴廬が三島陶邑だとしたら三島陶邑もそのころのもので物部も
そのころ以降に活躍したのだと言いたいのだろうけど新池窯が
三島郡埴廬と断定できないし三島郡埴廬が三島陶邑とも断定できない。
三つが同じものとしても災害などで近くに移転して後には住宅が
建ってしまって発掘できていないことだって考えられる。

287 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 15:51:21.09 ID:OBvPx942P
>>284
…続き 鍛冶に関連するマラ(麻良)の言葉と同系の語彙とみられる言葉はインドの言語に見られるとして、

マラ(鍛冶関係)
ヒンディー語 maara(マアラ)=打つ、叩く
パンジャブ語 maro(マロ)=叩く、殺す
パンジャブ語 marana(マラナ)=叩く、殺す
ネパール語 marnu(マルウ)=叩く、殺す

を挙げたが、このほかにはサンスクリットのmara(マラ=破壊、殺者)もあるようだ。
サンスクリットのmara(マラ=破壊、殺者)は、パンジャブ語のmarana(マラナ=叩く、殺す)やネパール語のmarnu(マルウ=叩く、殺す)と明らかに同系の語彙だ。

これらのインドの言語にみられるmaara(マラ=打つ、叩く)などの言葉は日本の鍛冶神であるマラ(麻良)と同系の言葉である可能性が極めて高いが、
そうすると、このインドのmaara(打つ、叩く)などの言葉はどのような経路で日本にもたらされたのかが焦点となってくる。
サンスクリットにもmara(マラ=破壊、殺者)の語があることを見ると、maara(打つ、叩く)の言葉は仏教に関連した交易品に随伴して日本に入って来た可能性を考えることができる。
したがって、物部氏が自族の鍛冶の神としたマラ(麻良)は、5世紀以降に物部氏がインド由来の言葉から取り込んだ神であるとすることが可能になる。

このことに立脚すると、物部氏の祖神の天津麻良は元からあった物部氏の鍛冶神の名の上に被せて加上された神であることになり、
元々の物部氏の鍛冶神の名はかき消されてしまったとすることができる。
そうなると、鍛冶集団としての物部氏が渡来系であったのか、それとも外来の鍛治技術を取り入れた倭系の鍛冶集団であったのかについての判別の手立てがなくなったことになる。
非情に残念な結果となった。

288 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:02:18.20 ID:OBvPx942P
>>285
ほんま、意味分からんわ。
わははははは。

289 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:10:14.82 ID:08Pj68hzw
>>280

>>265の「天津麻羅は饒速日でないことは確かだね」
を否定するためには「天津麻羅=饒速日」を証明しなくてもいい。
「天津麻羅は饒速日でないとはいえない」を証明すればよい。

先代旧事本紀のなかでこのリストには表題がない。
表題がないのに勝手に饒速日の天降り随行リストと付けたから
リストに乗っている天津麻羅は饒速日の随行者で饒速日ではないと
考えてしまう。
このリストは天降りの組織図のように思われる。
饒速日の名前はこのリストには載っていない。
饒速日(天津麻羅)が総責任者であることは衆知の史実なので
組織のなかでどの位置の責任者でもあるのかだけが書かれているの
だろう。

>船子として倭鍛冶たちの祖天津真浦

舵取として天津麻羅、船子として天津真浦、船子として天津麻占(まうら)
と似たような名前がはいっている。

290 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 16:16:40.15 ID:08Pj68hzw
>>283
根拠のない思い込みですね。
なんでそんなに饒速日が嫌いなのですかw

291 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:04:03.13 ID:OBvPx942P
>>286
Fc2の「大王家巨大墳墓の埴輪製作をめぐる大抗争ー武埴安の変」には、「摂津三島岸部陶邑」と書かれている。
この陶邑は今の吹田市片山・岸部地域にあった窯のことであり、Fc2では「三島」と書いているものの、高槻の淀川沿いの三島を指していない。
「三島」とするのは、「三島郡」の意だろう。
この吹田市の岸部窯邑は、確かに高槻の新池窯ではないな。

292 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:22:39.05 ID:OBvPx942P
>>291
Fc2の「摂津三島岸部陶邑」は、おそらく吹田市岸部地域などにある「千里古窯後址群」のことだろう。
この古窯群は、5世紀末〜8世紀前半まで稼働したとされている。
饒速日が開いたとする陶邑は、これを指しているのではないか。
饒速日が現われたのは、5世紀末ということになるね。
物部氏が天理、交野に鍛冶工房を開いたのは5世紀後半とされるから、時期も合う。

293 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:24:32.68 ID:OBvPx942P
>>292
訂正
1行目の「千里古窯後址群」は、「千里古窯址群」が正しい。

294 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 18:00:18.82 ID:OBvPx942P
>>289
旧事本紀では、親神は天降る饒速日に地上の敵対者を防ぐために32人の者を付けたと書いているので、
そのリストは饒速日を防護するための役目の者のリストであるのは間違いない。
饒速日自身とは別の者たちのリストだね。
そのリストの中に物部の天津麻良がいるのだから、饒速日と天津麻良は別ということになる。

295 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 18:23:25.47 ID:OBvPx942P
>>290
饒速日は物部氏が自族の祖神として加上した神なので、本来の鍛冶物部氏の祖神とするにふさわしくないと思うからだね。
そして、天津麻良についても見てみたところ、このマラ(麻良)もインドの言葉が語源だと分かったから、やはり鍛冶物部氏の元々の祖神ではないとみなすことができる。
最後に残るのは鍛冶神とされる天目一箇神だけど、果たしてどうなのか。

296 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 14:36:10.99 ID:UDGf++zY6
>>295
鍛冶神とされる天目一箇神はフイゴの神でもあるが、
テンモクイッコノカミの漢音読みではなく、アメノマヒトツノカミの読みがよいだろう。
この神の別名には天目一神もあり、これはアメノマヒトツノカミと読むので、
「マヒトツ(目一)」が実名ということになる。

この「マヒトツ(目一)」は、明らかに和語だ。
語義としては「目が一つ」の意とされている。
鍛冶師が炭火をフイゴの風で起こす際に、その火を片目で見ることに由来するとするものや、
高熱で赤くになった鉄を槌で打つ時に飛び散る火花で目が痛められて片目になることに由来するなどの説が見られる。
これらの説は、マヒトツの音に当てた「目一」の漢字から解釈したものであり、「マ」の解釈は必ずしも「目」だけとは限らない。

では、その「マ」には「目」とは別の解釈ができるかどうか、ということになる。
そこで、注目したいのが、「マヒトツノカミ」は鍛冶の神のほかにフイゴの神でもあることだ。
フイゴは、渡来当時は革製のものが主流だったのではないか。
木製の箱式のものは、日本独自のものとされている。

この箱式フイゴの図を見ると、長方形の箱の前と後に吸気と排気のための口が設けられている。
こうしたケースでの口の形を表す「マ」の語は、「間(マ)」の意だ。
板壁などに設ける口形の「間(マ)」は、「間戸(マド)=窓」などと用いられる語である。
したがって、フイゴに設けられた吸気、排気のために設けられた口をマ(間)と呼んだとみなすことは妥当だろう。
「ヒトツ(一)」は、その箱の前後の板に開けられた口=マ(間)がそれぞれ一つであることを表すものと考えれば、
「マヒトツ」とはフイゴの吸気、排気のための口が前後にそれぞれ一つ付いていること「間一つ」を表す言葉であり、
「マヒトツ」はフイゴ自体を呼ぶ呼称であり、それを神格化したのが「マヒトツノカミ(間一つの神)」の名だと考えることが可能だ。
そして、その「間=口」を「箱の目」とみなしたのが「目一(マヒトツ)」の漢字表記だろう。

このように見ると、「アメノマヒトツノカミ(天目一神(天目一箇神)」とは、元々はフイゴの神であったことが推測できる。…続きます

297 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 16:19:14.15 ID:UDGf++zY6
>>296
…続きます このように、アメノマヒトツノカミ(天目一神、天目一箇神)が、元々はフイゴの神であった可能性は非常に高い。
そして、フイゴは鍛冶には不可欠の道具であり、このフイゴは鍛冶師をふくめた鍛冶全般に関わることから、
フイゴを神格化したフイゴの神の天目一神・天目一箇神は鍛冶全体に関わる神とされたことは、理解しやすいことである。

このことから、鍛冶を生業とする倭鍛冶物部氏が自族の神としてこの天目一神(天目一箇神)を戴いたことは、想定可能であろう。
そして、後に外来語の「打つ、叩く」を意味するインド由来のマラ(麻良)の言葉がもたらされたとき、
この鍛冶師に直結するマラの語から鍛冶師の神を創出して「天津麻良」として、鍛冶師集団である自族の祖神として戴くことになったのは考えやすいことである。
フイゴの神を表す「天目一神」は、大きな鍛冶師集団となった5世紀後半の物部氏にとっては、戴く神としてはやや不足を覚えるものであったということだろう。
この神の加上は物部氏が蘇我氏と並ぶ大族となったときにも行われ、取り込んでいた護り神の饒速日を大族物部氏の祖神に加上し、自族の祖神として戴くようになったと考えることができる。
さらにこのあと、平安時代になって自族の系譜を朝廷に提出するときに、尾張氏や海部氏が祖神とする天火明神を取り込んで、この神を加上することで自らの出自を天神まで引き上げたということだろう。

物部氏は、自族の祖神について、相当な努力をしたということになるな。

298 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:14:56.70 ID:GL5hhbuP9
>>288
じゃあ>>258は撤回するのですね。

299 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:33:48.82 ID:GL5hhbuP9
>>291-292
千里古窯址群の一つ桜井谷窯跡は当初6世紀前半のものと思われていた。
ところがそこから400m離れたところから5世紀中から5世紀後半のものと
される窯跡が発見された。
もっと古くからあったものとされたのだ。
今後の発掘によってさらに年代がさかのぼることも考えられる。

摂津三島岸部陶邑が千里古窯址群だとしても5世紀以降の
ものとは限らない。

300 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:52:00.52 ID:GL5hhbuP9
>>294
>旧事本紀では、親神は天降る饒速日に地上の敵対者を防ぐために
>32人の者を付けたと書いている

そんなことはどこにも書かれていない。
リストの直前に次のように書かれている。

原文
高皇產靈尊敕曰:「若有葦原中國之敵拒神人而待戰者,
能為方便誘欺防拒。」而令治平。
令三十二人並為防衛,天降供奉矣。

現代語訳
高皇産霊尊が仰せになった。
「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものが
いるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」
そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。

301 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 17:55:44.64 ID:GL5hhbuP9
>>295
饒速日と天目一箇神はどちらも道主日女と結婚しているから同一人物

302 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 18:09:25.55 ID:UDGf++zY6
>>300
32人に防御の人として「(饒速日に)お仕えさせた」と、ちゃんと書いてるけど。
まなこにしっかり見えてる?

303 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 18:25:05.18 ID:GL5hhbuP9
「(高天原に)お仕えさせた」
な。

304 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 20:09:25.77 ID:UDGf++zY6
>>299
堺市の大庭寺遺跡の窯の場合、4世紀末〜5世紀前半まで遡って須恵器が造られたとされ、このあたりが現在最も古い須恵器窯のようだ。
この大庭寺遺跡の窯が物部氏と関係があったかどうかは分からない。
物部氏の交野と近いのは、千里岸部の古窯の方だね。

305 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 20:11:19.54 ID:UDGf++zY6
>>303
高天原から天降りさせないのかよ。

306 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:16:34.99 ID:GL5hhbuP9
正確には「(高天原政権が命じた大和への天降り事業に参加することで
高天原政権に)お仕えさせた」

307 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:20:00.40 ID:UDGf++zY6
>>301
饒速日の妻は、道日女。
天目一箇神の妻は、道主日女。
微妙に異なる。

天目一箇神と御上神社の祭神天之御影神は、同一神とされる。
どちらも鍛冶神だから。
これに対して、饒速日には鍛冶神の神性はない。
饒速日と天目一箇神は、別の神。

308 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 21:38:44.14 ID:GL5hhbuP9
>>307
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-2130.html

『先代旧辞本紀』や丹後の籠神社の社家である海部氏に伝わる
『海部氏勘注系図』では、道主日女は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト
=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻としている伝承も
あります。

309 :日本@名無史さん:2023/06/02(金) 23:43:22.80 ID:UDGf++zY6
>>308
確か、海部氏系図では火明の妻は市寸島比女で、先代旧事本紀では饒速日の妻は天道日女となっているけどね。

310 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 13:04:30.24 ID:DYsSOgQEY
どうみても、物部氏は天津麻良、饒速日、天火明の神を自族の神に加上して行った。
社会的地位の上昇とともにそれを行ったのだろう。
鍛冶氏族の物部氏の元々の神は、鍛冶神・ふいご神の天目一箇神だろうな。
倭鍛冶の系統だ。

311 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 21:49:51.78 ID:DYsSOgQEY
この5世紀後半の天理や交野の物部氏がどこから来たのかであるが、同じ奈良では古墳時代前期の纏向遺跡の巻野内で鍛冶の羽口や鉄滓が出土している。
鍛冶工房跡が見つかっていないのが問題となっているが、この時期の鍛冶集団は移動する職人であったとすれば、本格的な鍛冶工房がみつからないことと符号する。
こうした大和の移動する鍛冶集団が、5世紀後半の天理や交野の物部氏につながるのかどうか。

312 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 00:41:30.16 ID:5S7lVuFHF
移動する職人集団については、東阿波式土器の近畿一円での出土にもみられるとする考えがある。
徳島県の吉野川流域で発祥したこの東阿波式土器は、纏向遺跡やホケノ山古墳でも出土しており、
こうした東阿波式土器を造ったのは阿波から移動した工人集団の手によるものだとみられているのだ。
また、纏向遺跡の大溝には多数の板杭が護岸に打ち込まれ、その板杭が土手を護っていたが、この板杭にはヒノキ材が使われていた。
この板杭の原材となったヒノキの木は鉄斧を用いて木こりが伐採したと考えることができるが、
この時期の大和の出土物には鉄斧は一つも見つかっていないことから、移動する専業木こりがいたのではないかとする意見もある。
こうしたことから、3世紀中頃には移動する各種の工人集団が多数いて、纏向で出土した羽口や鉄滓もこうした移動する鍛冶工人集団によるものではないかとすることもできそうなのだ。

そうすると、5世紀後半に天理や交野で鍛冶工房を置いて鉄器生産を始めた物部氏も、
元は大和周辺で移動しながら鉄器生産を行っていた倭鍛冶集団だった可能性を考えることができることになる。
そして、3世紀中頃以前には、大和や近江、尾張では鉄器がほとんどなかったことからすると、古墳時代前期に纏向で見られる鍛冶集団は大阪や丹波以西からやってきたということになる。

このように考えると、3世紀中頃以前の大阪・丹波以西の移動する倭鍛冶集団の中に、古墳時代前期の纏向の鍛冶集団の前身がいたと見ることができるのではないか。

313 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 22:55:07.45 ID:5S7lVuFHF
淡路島の五斗長垣内遺跡の鍛冶炉は、3世紀には稼働されなくなった。
ここで鍛冶を行っていた鍛冶工人たちは、どこへ行ったのか。
移動する鍛冶工人集団にとって、新たに鉄器が出回り始めた大和地方は魅力のある地域ではなかったか。

314 :太国という人間の過ち:2023/06/05(月) 12:15:50.14 ID:7xj7Vw3Gq
宇宙戦艦ヤマト

315 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 15:14:40.58 ID:hmXOCVTxU
ヤマトかあ〜!

316 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 16:25:13.84 ID:hmXOCVTxU
>>296
訂正
フイゴの種類で、長方形の箱を用いるものは、日本では13世紀頃から現れてくるようだ。
なので、この箱式フイゴは古代のフイゴには当てはまらない。
古代のフイゴには革袋を用いたものがあり、日本書紀に「天羽鞴」が書かれている。
これは鹿の皮などを用いて作った皮フイゴだとみられている。
この皮フイゴでも吸気用の弁を取り付けた穴が一つ設けられたはずで、この穴が間(マ)であり、マヒトツ(間一)の神の名元の元となったと考えることができる。
そして、この間一(マヒトツ)の穴を「目」に見立てた漢字表記が「目一」で、これをフイゴの神として神格化したものが「天目一神・天目一箇神」ということになる。
この皮フイゴは、奈良時代に足踏み式フイゴが作られるまで長い間フイゴの主流だったと思われる。

317 :太国という人間の過ち:2023/06/06(火) 12:53:28.18 ID:qZbBvmnl4
フイゴがゴダイゴへと

318 :日本@名無史さん:2023/06/06(火) 13:53:50.54 ID:ZQo2Hmrqp
孫悟空は、実はひょっとこだったのかぁぁぁぁぁ。

319 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 13:36:57.29 ID:bxALIMGpI
このように、物部氏の祖神は天目一箇神であり、饒速日は飛鳥時代頃に加上された神だよ。
だから、饒速日に関する系譜は、信用しないほうがよい。
このような鍛冶物部氏はどこから来たか。
たぶん、3世紀後半に淡路島から大和の纏向に来た移動する鍛冶師集団が物部氏の先祖だろう。
そして、彼らが、王権のもとで5世紀後半頃に天理と交野に鍛冶工房を開いたのではないか。

320 :日本@名無史さん:2023/06/17(土) 18:41:57.63 ID:5YiQbB4z/
明治時代に創作された神武墓、万世一系、皇紀2600某説をきれいサッパリ捏造と認め訂正して行こうか。

その後の調査から文献や遺跡調査より、考古学上の解明が進んだ段階で、これだけのグレーな、これだけ曖昧な歴史教育をする日本も病理的な黙秘と言わざるを得ない。
隣国の反日教育を全く笑えない。
皇紀どうのすら訂正もせず、杜撰な歴史を子供達に教えているのは世界的に見ても非常識極まりない。

321 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/18(日) 10:39:58.34 ID:THytyVmFY
明治時代に創作された神武墓、万世一系、皇紀2600某説をきれいサッパリ捏造でないと認め訂正なしで行こうか。

皇統は萬世一系である。これは認めない。大きい神武陵を創作のため人民があくせく建造するとでも思ってるのか?w
笑わせるな。

 神州ハ不滅ナリ

崇神の代、三輪の神だが、三輪とは半径3の円のことを示唆する。天津神算木の計算において

崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=113.0973 3552923255658465516179806 1/13紀元前97年 崇神天皇 即位 また 1/3皇紀973年 仁徳天皇 即位

こういう天意の示唆があり算木に出ている。皇紀は連綿として現代まで来ているのだ。明治天皇崩御において崩御日は1912年7/30だが
この日は大正天皇践祚日ともなり、
三輪(r=3.0:ミワ)でないことから30を無視し削除すれば1912年7月までとなる。
だから半径3=3.0でなくr=1.912007と30を消せばこの半径の円の面積s’は

 s’=11.48494 25881110 54424361684809286 皇紀2588年11/10 昭和天皇 即位

が算木から出る。これは皇統連綿といて1日の誤差もなく今日まで年が刻まれれている神意の算木の計算結果の理証だ。

当時の古代天皇の寿命は一見してべらぼうな超長寿でイカサマだと思ってたんだろうが、当時は1年が半年とか4カ月とかで
2倍暦3倍暦をやってたから、なんのことはない、現代人と大差ない寿命だったのさ。だからおかしくなく熱象ではない。

322 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/18(日) 19:41:39.32 ID:Dmk7n3Xy/
https://www.youtube.com/watch?v=zYgKAzOoNsQ

323 :太国という人間の過ち:2023/06/20(火) 17:46:57.57 ID:d0czOWBjq
古事記も日本書紀もインチキだよ。

324 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/21(水) 21:18:51.95 ID:95DgBEkpK
>323という人間の過ち
インチキではな〜い。

325 :太国という人間の過ち:2023/06/22(木) 18:56:14.61 ID:iOs/3F5ba
古事記も日本書紀もインチキだよ。

326 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/23(金) 16:46:29.65 ID:1+ggtEgPI
おめーの主張には何の根拠もねえ。インチキの証拠を出してみい。
オメーは朝鮮人だろ?

327 :太国という人間の過ち:2023/06/23(金) 18:22:02.55 ID:XEe6Kmd0e
古事記も日本書紀もインチキだよ。

第52代嵯峨天皇を祖先に持つ嵯峨源氏です。

328 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/24(土) 22:26:35.66 ID:dI7UM9nU5
本ものだから日本書紀に「本」の字がつくのだ。当時2倍暦3倍暦を行使してきたのだ。半径r=3の円を三輪という。3倍暦の示唆だ。
日十大王の隅田八幡鏡の銘文の如く、1カ月が十日だったから3倍暦になる。
r=3から2倍暦に因んで 3×2=r’として半径とすれば、その円周の長さlは、天津神算木は

l=3.769 9111843 077518861551720599354 9/11西暦1843年 平田篤胤没

篤胤は11日に亡くなった。10日までだが、11日は3倍暦で余り日があるからである。

いかれた朝鮮人工作員よ
つまりインチキではな〜い。
嵯峨天皇の末裔なら、記紀をインチキだというわけがねえ、嘘はもうけっこう月光。

329 :太国という人間の過ち:2023/06/25(日) 08:40:27.70 ID:iXte2NNgE
古事記も日本書紀もインチキだよ。

330 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/25(日) 17:33:18.23 ID:BGEuOveoj
インチキだというなら、証拠を見せるんだな。ねえんdろ。うふふふふ・・・・
記紀がインチキなら、記紀の皇統からの「嵯峨源氏の末裔だ」という主張もインチキだ。うっははは自語相違だ。pppp・・・・・
つまりおめーは朝鮮人だ。ww

331 :太国という人間の過ち:2023/06/25(日) 18:11:04.53 ID:iXte2NNgE
古事記も日本書紀もインチキだよ。

332 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/26(月) 07:43:59.27 ID:MPGu7UEqD
証拠がねえんじゃあ、どこの国文学の大学からもおめーは嘲笑。pppppp

なにも出せねえんだろ。
つまりおめーの脳内の古代史学力がねえことでの持ち駒0から、インチキの掛け声だけだ。w
頑張ったってただの単純な一文。うははははは・・・・

あほ踊りでも踊っていろ。

333 :太国という人間の過ち:2023/06/26(月) 18:18:56.92 ID:pBkHQIweP
古事記も日本書紀もインチキだよ。

太国は真正包茎の童貞。

334 :日本@名無史さん:2023/06/27(火) 15:11:51.54 ID:X5KhWc+sG
記紀が何なのかを先に研究しないとな。

335 :太国という人間の過ち:2023/06/27(火) 17:51:24.06 ID:W0erZVq3f
古事記も日本書紀もインチキだよ、研究するに値しない。

336 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/27(火) 18:09:21.77 ID:P6qUu32yB
>>235
セクハラがおめーの持ち駒だ。うはははは・・・・・
おめーのいう嵯峨源氏もインチキだよ。嵯峨源氏は記紀の皇統の分派。だからインチキだと決め込めば嵯峨源氏も
インチキだと断定。こいつは何の学もねえ。あるのはおめーが朝鮮人だということとセックスの知恵キングppppp

337 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/27(火) 18:10:31.65 ID:P6qUu32yB
×>>235
>>335

338 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/27(火) 18:29:54.76 ID:wNkN4pS+T
インチキだという証拠がねえようだな。だからセクハラ話でごまかすわけだ。ww

証拠もねえおめーの話は何の権威もねえ。

くやしかったら証拠を出すんだな。うははははは・・・・・

ついでに松沢病院へ急行してお陀仏しろい。bbbb

339 :日本@名無史さん:2023/06/28(水) 08:01:06.20 ID:0Zbeyp6No
中国の史書と矛盾してるのがインチキの証拠だな
旧唐書や新唐書によると7〜8世紀に倭国から日本へと変わってる

340 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/28(水) 08:07:35.45 ID:IEKzHjtdF
日本書紀というのは、日本の記述に関して本ものだということから、「本」の字がつくのだ。
大陸なんか当時極めて遠方で、そんな記述が信用置けるわけがねえ。
その所のどこが矛盾してるのか? 何も書いてねえ。ただ抽象的題名だけで本文がなく具体性がねえ。
ごまかしたって駄目だぜ、無学の朝鮮人よ。、

341 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/28(水) 08:11:16.77 ID:IEKzHjtdF
その大陸文献には「本」の字がついてない。
ねえということは、そっちのほうにイカ様があるということだ。
ノーなし朝鮮人よ、思い知れ。うひひひひひ・・・・

342 :太国という人間の過ち:2023/06/28(水) 10:24:01.09 ID:TK1U+fA97
古事記も日本書紀もインチキだよ。

太国は真正包茎の童貞。

343 :日本@名無史さん:2023/06/30(金) 07:46:47.42 ID:Raj/eJIYO
3世紀中期、北九州の邪馬台国の瓊瓊杵尊が南九州を征服、全九州を統一(天孫降臨)
瓊瓊杵尊の孫の神武天皇の東征が始まる
途中神武天皇の将軍、経津主と建御雷が出雲を征服(国譲り)
出雲の事代主を伴って大和制服に行くがナガスネヒコの抵抗で失敗
熊野に回って再度大和攻略を図る
今回はナガスネヒコの妹婿の饒速日の裏切りに成功しナガスネヒコを討つ
大和を征服し橿原の地で大和朝廷初代天応として即位する、、、と勝手に解釈してみた

344 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/07/09(日) 10:57:34.33 ID:vOT0kAWXF
>>342  セックス攻撃野郎よ、史学攻撃はできねえようだな。
おめー、ソープに行ったことがねえだろ。
こちらの下半身も見ねえで包茎だと分かるわけがねえ。おめーは史学の持ち駒がねえから、
パワハラで対抗するしかねえのさ。うははははは・・・・・
紀に日食の記述がある。この書かれた年代と天文学の計算結果と一致する。
ということは、紀の記述が本当だったということになる。記紀がインチキなわけがねえ。w

345 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/07/09(日) 10:58:57.48 ID:vOT0kAWXF
×パワハラ
〇セクハラ

346 :太国という人間の過ち:2023/07/12(水) 18:20:59.26 ID:/z8lmqiwA
古事記も日本書紀もインチキだよ。

太国は真正包茎の童貞。

347 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/07/12(水) 22:21:29.31 ID:HDmpH45N7
こちらの下半身を見てないのにそんなことがわかるはずがねえ。名誉棄損罪だぞ。
おめーの持ち駒は駒台にねえのさ。w
あるのは「歩兵」ならぬうぬという好色一台男懐中の「助兵」駒だ。うひひひひひひ・・・・・
インチキはおめーの主張さ。
ノーなしのおめーはソープに行ったことがねえんだろ。阿呆鳥の鳴き声で叫んでろ。

348 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 19:31:44.87 ID:OAxgnGo29
税金泥棒しか存在しない日本のクソ大企業連合か゛エ儿ピータ゛の二匹目のドジョウ狙いで半導体会社設立とか白々しくてクソウケルよな
しかも2ナノメ―トルだのと大風呂敷を広げちゃって失敗することまで予定してるって白状しろや力ス
何しろ2ナノメートルとかできもしないこと言わないと700億もの税金を泥棒する口実として成立しないからな
結局,数十ナノメー├儿レベ儿の効率が精々で、経済安全保障ガ−だの言い訳して税金は返還しないという画が描かれてるっつうわけよ
黒田東彦が國民を不幸に陥れながら実質的に巻き上げた金を大企業に配りまくってしこたま貯め込んだ内部留保だけでやっとけや税金泥棒
小学生が夏休みに作ったような危険なグーグル依存のポンコツシステムを何億もの税金で受注してるΝтTか゛関わってて色々透けて見えるな
そしてΞ菱重工、人殺しの道具スペースジェット(笑]から足を洗ったのは評価するが癒着政府経由で国民から強盗した500億はよ返せや
村経済人殺し日本の公務員と大企業を皆殺しにしないとこいつらの贅沢三昧な生活を支えるために生かされてるお前らは末代まで家畜だそ゛
(羽田)тtPs://www.call4.jΡ/info.рhp?type=itеms&id=I0000062 , ttps://haneda-projecт.jimdofree.сom/
(成田)тtps://n-souonhigaisosyoudan.amebaownd.com/
(テロ組織)ttРs://i.imgur.Сom/hnli1ga.jpeg

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