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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

2 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:48:45.67 .net
まず崇神天皇

物部一族を外戚とした畿内「ヤマト」の実質初代王
その物部とは九州の邪馬台国を裏切った狗邪韓国を治めた一族が祖ではないかと考えてみる

倭への交易拠点として重要であり後の百済や新羅とも関係が深く軍事的にも先進していたはず
その一族は元々「邪馬台国」の1部であり王族なのかもしれない

一方当時の畿内
神武天皇から開化天皇までは実在したとしてもせいぜい出雲王権の地方長官レベルではなかったのではないだろうか?

3世紀に突如起こった纒向遺跡に見られる畿内の文化的変革
これは物部が畿内に持ち込んだ「元邪馬台国」文明である可能性がある

卑弥呼亡き後、混乱する北九州地域を放棄し、畿内に移住
新たに「ヤマト」の名を持ち込み邪馬台国の祭祀を受け継ぐ

この一族と天皇家が結びついた結果誕生したのが崇神天皇ではなかろうか

3 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:59:48.72 .net
そして何故畿内に「ヤマト」の名が付いているのか?

憶測でしかないのだが、この時期に特筆されるのは「倭彦命」「倭姫命」の存在
わざわざ「ヤマト」の名をこの2人だけ記念のように付いているのか
それぞれ崇神の御子と孫である
その名は「倭」と書いてヤマトであり、ヤマトと呼ばれる初期段階

そして特筆すべきは倭姫命は初代斎王だということ
天照の御魂を崇神の御所から移動し伊勢まで遷宮したその人
この行動も不可解なのだが記紀では崇神天皇の時代に疫病が流行ったためと考え大物主と別けた、とある
なぜそのようなことをする必要があるのか?

4 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:07:51.73 .net
これは、天照祭祀が「他の場所から移入した祭祀」だったと考えざるを得ない

ではわざわざ祭祀を移入した意味
これはどこにあるのだろう?
それはズバリ「王権の委譲のために一時的に必要だった」と考えるのがもっとも自然だと思う

伊勢神宮は皇祖神であるにもかかわらず明治まで天皇が訪れなかった
なのに存続している謎
これは天照祭祀が「邪馬台国」由来であり、北九州を初めとした中華に認められた権威と交易権を得るために必要な措置であったと考えられないだろうか

ヤマトトモモソノヒメはそのような権威と由来を受け継ぎながらも大物主と結婚することで、無事に王権祭祀が畿内「ヤマト」に移ったことを示しているのかも知れない
そのため「ヤマト」では祭祀的始祖の地位に立ったことで箸墓古墳が造られたと考えると、時代考証的にも辻褄が合うように思う

5 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:27:58.74 .net
崇神天皇は四道将軍を派遣して本州各地を制圧する
その際の名目、権威、祭祀の理由付けとして必要だったのは「ヤマト」の名だったのではないだろうか

これまでも各地では海人族による交易が盛んに行われた事である程度の情報はもたらされていたし王権の存在も認識されていた

出雲では10月は「神在月」と呼ばれるが他の地方では「神無月」と呼ばれる
これは収穫後の産物を大国主に捧げるために各地の首長が出雲に集まった名残と思われるが、そのような権威の情報は既にもたらされていた
畿内「ヤマト」はこの出雲王権を凌ぐために各地を制圧する必要があったのだろう

6 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 00:50:39.57 .net
邪馬台国論争が畿内ヤマトに飛び火した理由として挙げられる理由としてはやはり「邪馬台国」が「ヤマト」であることが大きいだろう
これは文献のない考古学的資料では解明不可能だ
記紀の中でもヤマトが機内であることを前提条件としているためこれも解明不可能
だが謎は残る
ここで出てくるのが畿内説、東遷説なのだがこれらも的を得ない
九州の文化が初期の畿内に皆無だから

纒向遺跡の頃の畿内ヤマトの文明は出雲北陸、関東東海、吉備と密接に関わっていて、そこにさらに大陸からもたらされた技術が入り交じる

これは元々畿内にいた海人族由来の関東東海圏の人々が大量に移住した後に出雲勢力内に入り、その後天孫族の流入を経た後に吉備経由の大陸文明を取り入れた結果だと考える
そのため九州の文明は渡らなかった
とても自然な流れだ

畿内「ヤマト」はそうやって各地の文明を取り入れ発展した人々の新天地だったように感じる
卑弥呼の「邪馬台国」ではない
でも「ヤマト」なのだ
この隙間に残る謎のキーパーソンが物部一族ではないだろうか

7 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:31:07.78 .net
「ヤマト」の名を継承する、または奪うためにはなにが必要だろうか
「ヤマト」とはすなわち権威だ

「ミヤケ」を設置して土地の貢物を管理し、その代わりに威信財を配布する
威信財とは神器であるから剣、宝玉、銅鏡の類だ

この威信財の効果を担保するのが祭祀と軍事的制圧
この両輪を備える存在であり出雲王権を凌ぐ権威を有していたのが「ヤマト」の権威であっただろう

出雲からの影響力を脱したい機内の天孫族にとっては自らの出身由来でもある「ヤマト」を持ち込める可能性があったのが、半島南部にあった狗邪韓国の物部一族だったのでは無いだろうか

これは完全に憶測、仮説であることをお断りしておく
だが方法論と結果観測としては適切だ
少なくとも畿内説よりも

物部(と思われる一族)は崇神の時代から5世紀にかけて畿内纒向遺跡から石上神宮にかけての山辺道近辺を本拠としており、これは纒向遺跡や三輪山と密接に関連する

だから三輪山に祀られる大物主も大国主由来ではなく物部の祖神と考えられる
ただしそれを公にせず大国主の御魂と表現しているところにゴマカシを感じる

だがその大物主単体では権威の象徴たり得なかった
ここで出雲を凌ぐ邪馬台国の権威を利用するために必要なのが「ヤマト」の名と祭祀である
これは当時、言霊を重視する世界観においてワンセットであった

8 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 01:56:27.93 .net
崇神天皇と当時の物部一族との関連とはなんだろうか?
記紀の系譜をみてもそれは判然としない

だが崇神天皇が派遣した大彦命や吉備津彦命の四道将軍
これらを輩出する前世代の孝元天皇あたりは事績が無いにも関わらず、その将軍たちは実在性を確信できるほどの実績と逸話が残されている

そして各地に散らばった氏名は殆どがこの四道将軍由来である
この四道将軍の存在と、崇神の頃に始まった大物主祭祀
物部エリアでの古墳の増加
これらを鑑みると外戚としての物部氏の存在が炙り出されてくる

軍事とは武器の強さ(鉄製武具)
そして機動力の革新(騎馬)
経済力(兵糧確保)である
これらを得るには大陸からの技術移入が不可欠
だが邪馬台国健在の頃はこれらは全て北九州にもたらされていたと考えるべきだ

ではなぜ崇神天皇の頃に出雲大国主の支配力を凌ぐ軍事を畿内ヤマトが手に入れられたか?
それは大陸由来の一族が九州王権を裏切り、権威を簒奪し畿内に持ち込んだ結果ブレークスルーが起こった、と推測するのだ

9 :日本@名無史さん:2023/02/14(火) 11:37:35.74 .net
物部とは何者か

五十瓊敷入彦命は崇神の孫であり垂仁天皇の子(倭姫命の兄妹)
そして石上神宮を創建した始祖であり武具を管理した

その石上神宮は物部氏の総氏神であり物部はこれ以降隆盛する
これらの物事の拡がりに潜むのはやはり崇神天皇を始祖とした畿内物部王朝とも言うべき王権の拡張
である

ここでひとつ興味深い伝承がある
九州みやま市のこうやの宮に伝わる神剣の話
みやま市と言えば邪馬台国の都があった最有力地

こうやの宮に伝わる伝承に、「ここにあった神剣は崇神天皇の頃に吉備美作を経て大和に遷された」との伝承があり、その傍らになんと七支刀を持った人形が祀られているのだ

これはこの地(邪馬台国)に贈られた権威の象徴(神器)である七支刀が物部一族とともに畿内へと渡った伝承そのものではないだろうか?

それも応神期ではなくわざわざ崇神の頃と指していことが興味深い

応神期では無いということは百済からの七支刀ではないことにもなりこの表現には矛盾が生まれるのだが、邪馬台国に所属していた物部氏が畿内ヤマトに移住した痕跡というのはこれで確認できる

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