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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

101 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 18:37:41.59 .net
>>99
徐福伝説と神武の工程神話知らんのか
それなら議論しても無駄だし推測を楽しむ余地もないか

102 :日本@名無史さん:2023/04/21(金) 23:13:27.34 .net
>>94
皇紀が正しいって言うの?当のヤマト王権の史書が始祖が九州から来たと言っているのに邪馬台国九州(東遷)説と天皇制廃止勢力を結びつけるとか完全に基地外です。どちらかと言えば畿内説が記紀を嘘っぱちにする反日勢力。歴博は代表的な反日勢力だよね?

103 :日本@名無史さん:2023/04/22(土) 21:40:58.05 .net
スレ主としては神武天皇の話で盛り上がるより3世紀のヤマトの成り立ちについて議論したいのだが

ただ神武天皇の事績が3世紀の状況に深く影響している可能性はある
その鍵はヤマトの国力がどの時代に、どのように増大したかの考古学的検証だと思う

現時点では3世紀以前は大国主影響圏といえる状態でこれは国譲り神話ともリンクしてきますよね
やはり鏡祭祀と纒向遺跡、箸墓古墳が大トピックすぎる

104 :日本@名無史さん:2023/04/23(日) 22:37:42.21 .net
>>103

神武の実年代が200年頃だという説があるので、直球の話題なんだよ。

105 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 06:07:44.22 .net
邪馬台国ではなく狗奴国が東遷して大和朝廷になったという説もあるな。

その場合、神武は狗奴国のトップだったのだろうな。

106 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:07:32.32 .net
>>105
その方が辻褄が合うよな

107 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 14:27:18.76 .net
漢の文化を取り込む前が邪馬台国、取り込んだ後が大和朝廷。

108 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 16:13:04.30 .net
>>107
つまりヤマト政権は7世紀以降発足したもの
渡来人に育てられたようなものだ

109 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 17:40:11.76 .net
異民族に漢文化を植え付けたのも、東アジア諸民族を自立させて中華思想をめちゃくちゃにしたのも、西晋が1番功績者だなw

110 :日本@名無史さん:2023/04/24(月) 19:15:00.59 .net
日本語(倭国語)の謎というものがある
朝鮮とも中国とも違う固有の文法
日本各地で少し違いかあるがそれは方言のレベルだ
三韓も任那の時代まで倭国語を話したと言われているし、地名や大まかな意味は現代でも理解出来る完成された言語体系

中華系の言葉を話したであろう渡来人が倭国を支配したとしたらこの日本語に染まった理由はなんだろうね
1つは物語などの口伝が関係してそうだが
この構造を説明出来ればどのように人々が渡ったのかを説明できるかもね

111 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 13:26:15.74 .net
3世紀時点のヤマトは倭種の国でした

邪馬台国時代の倭人は呉越の末裔と記されている
そして女王国の東の倭種の国の人は半島系と判明している

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

半島系固有DNAの分布図
https://i.imgur.com/lD1J7Fg.png

112 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 18:56:54.05 .net
天孫族、物部一族が倭人であるかどうかで別れそう
大陸の倭人(海人族の中のエリート)が天孫族かなと思ってるが
結局それが物部なんじゃないか?

113 :日本@名無史さん:2023/04/25(火) 23:41:56.18 .net
>>112
当時は半島人も倭人だよ
倭種と表現されたのは言葉が違っていたという意味かもしれないが基本的に同じ倭人だよ

114 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 11:30:48.11 .net
みやま市こうやの宮の神像は4世紀当時の倭人の実情を伝える貴重なサンプルだろう

渡来人の様相の七支刀を持つ物部
着飾った天孫としての応神や神功皇后
朱塗り刺青に貝輪を嵌めた技術集団の海人族
これらが当時の倭人の構成だろう

記紀はこの人々を一族的に統括する為に神話を複合した
よって当時は統一された倭人ではなく利益共同体としての異民族集団という見方が出来る
4世紀から5世紀はこの人々が混じり合うことで統一的な倭人となった過程なのかもしれない

115 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 17:47:31.55 .net
物部は天神だし、天孫も天神の一部
天津国の元の意味は海の神なので、海人もも同系
貴人と工人などの身分の区別はあっただろうけど、基本的に同種

116 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 20:25:43.52 .net
>>115
文化は違えど言葉は同じだとしたらそれが倭種の構成と言えますね

文化や技術継承が口伝で伝わり家や一族単位で継続してゆく時代だからステージで大きく差が生まれるのでしょうね
気になるのは違うステージの婚姻による結びつき
天孫や豪族、大王家はこの効果を見抜いていたと感じますね

117 :日本@名無史さん:2023/04/26(水) 21:21:17.80 .net
>>116

> 気になるのは違うステージの婚姻による結びつき


古事記では神武一族と隼人が姻戚だったと記憶。

日本では織田信長と武田信玄が姻戚だったように、
潜在敵対勢力どうしが婚姻でくっついていることが珍しくない。

118 :日本@名無史さん:2023/04/27(木) 21:31:24.20 .net
>>117

隼人はもともとは敵対勢力ではない。
その祖である海幸彦は天孫邇邇芸の子であり、天照大神の三世孫、伊奘諾大神の4世孫だ。
魏志倭人伝の投馬国五万戸は日向国旧国府であった宮崎県妻の都万神社を中心とし、邪馬台国七万戸は筑紫の日向つまり伊都を中心とする。
この2カ国は兄弟国。
海幸彦は、山幸彦と釣り針を巡って争い、結果として筑紫を追われたとある。
山幸彦こと彦火火出見は、糸島の鎮守である高祖宮の祭神だ。
そして彦火火出見はその孫の神武天皇の本名でもある。
つまり神武がいたのも伊都。

119 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 05:37:10.74 .net
神武東征軍団の主力は隼人だったという説もあるな。

120 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 10:37:49.75 .net
>>119
隼人といえば盾
盾と言えば富雄丸山古墳の盾型銅鏡!
蛇行剣も南九州に多い
ヤマトの祖型にまつわるものの可能性がしてワクワクするね

121 :日本@名無史さん:2023/04/30(日) 10:52:28.60 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

122 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 10:27:26.19 .net
>>121
随分と古くさーい畿内説の霊感商法詐欺ですね
通報しておきます

123 :日本@名無史さん:2023/05/01(月) 12:25:20.88 .net
>>121
こんな恥ずかしい内容をあっちこっちにコピペするとかw

124 :日本@名無史さん:2023/05/04(木) 23:46:29.42 ID:2ECiAR+8n
ほんまやな。
いまどき、里程の話を本気で持ち出してくるなんて、いかにもカビ生えたような感じがするし。
邪馬台国大和説なんて、もうお蔵入りして何十年というよな古臭い説やな。

125 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 04:02:23.64 ID:ArkXjxUv8
今、面土国の帥升は吉野ケ里の南の米多(めた)の王だった説がとりざたされているな。
面土(めと)と米多(めた)は同じというわけや。

しかし、この説は、音がよく似ているというだけで、そのほかの傍証に乏しい。
面土はメンドだが、この面(メン)は和語の綿(わた)を漢音でメン(綿=面)と読んでいるものと考えることができ、面土(メンド)は和語の(ワタツチ=綿土)だったものを漢音で読んでメンドとしているもの。
なので、帥升の国は、元々は綿土(ワタツチ=綿津道)であり、綿(ワタ)=海なので、綿土国=面土国は「海の道国」の意味だとするのがよい。
そして、「海の道国」といえば、これは壱岐・対馬か宗像かということになる。
壱岐・対馬は楽浪郡にはよく知られていただろうから、「海の道国」の自称は無理だろう。
そうなると、「海の道国」は、宗像あたりの海人国だった可能性が高くなる。

しかしながら、面土(めと)=吉野ケ里の南の米多(めた)と同一とする説は、確かに捨てがたい。
面白いね。

126 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 14:47:36.87 ID:w2taATocE
面土国(めど)は吉野ケ里のすぐ南の米多(めた)と関連のある国名だとする説は、確かに面白い。
吉野ケ里には、目達原(めたばる)の地名もあり、この付近が「めた」と呼ばれる土地だったとするのは、合理的だ。
ただ、この「めた」の語義の説明がみられないのは、惜しい。
語義によっては、その「めた」は後代にできた地名だとする説も出てくるだろう。
この「めた」の語義を、はやく突き止めてほしいものだな。

127 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 03:25:07.69 ID:2FPwFjH/B
吉野ケ里の米多(めた)と目達原(めたばる)はごく近い距離にあるので、米多(めた)と目達原の目達(めた)は同じ語義の(めた)と考えることができる。
そこで、米多の漢字の意味は「米が多い」の意なので、これは収穫量が多い田を表しているとすると、これを漢字で書くと女田(めた)と置き換えることができる。
この女田の字を姓にした場合、女田(おなだ)と読むようで、石川県にこの姓がみられるそうだ。
実際に女田という単語があることが分かる。

そうなると、男田(おだ、おとこだ)もあることになるが、福岡県宮若市宮田には男田(おとこだ)神社があり、
このことから、男田も女田も単語として実際に存在することになる。

こうして、米多(めた)=女田(めた)とすれば、目達原(めたばる)とは「女田(収穫量が多い田、良田)がたくさん集まっている所」の意が推測されることになる。
では、面土国の面土(めと)は、女田(めた)に通じるのかということになるのだろうか。
帥升らが楽浪郡に詣でたとき、自分たちの国を(めた=女田)と言ったのを役人がその音を筆記して面土(めと)と書いたとした場合、果たして整合性がみられるだろうかということである。
当然、楽浪郡の役人たちは帥升らを倭の蛮族だとみなしているので、彼らが日焼けして顔の色が黒いことをあげつらって、
(めた=女田)の発音に合わせ「土のような顔色をしている者たちの国」という意味の「面土(めと)国」と字を付けたとすれば、これはかなり整合性が取れるのではないか。

さて、この推測は的を射ているかどうか。
まあ、よく考えてみるのがよいだろう。

128 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 00:44:59.76 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、何一つ実証的な証拠を提示していない。
今や、その論の失敗のガレキが無惨に散乱するさましか見られない。
亡霊の論と化しているのが、邪馬台国大和説なのだ。

このことに、はやく目覚めなければならない。
ヤマト王権にルーツはなく、各地の勢力によって突然大和に立ち上げられた連合王権だった。
そして、そのとき、卑弥呼を王に戴く倭国は北部九州に成立していて、半島との交易で活況を呈していたということなのだ。

129 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 09:38:46.64 ID:nD3iYHF/G
邪馬1国だ。九州にあったのだ。

130 :太国という人間の過ち:2023/05/10(水) 11:35:01.72 ID:clq3ei4ue
耶摩1国だ。信州にあったのだ。

131 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/10(水) 12:52:02.36 ID:nD3iYHF/G
信州にはねえ。オマエの大過ち。
こんなことを書きこんでると、いずれ禍がオマエにやってくるだろう。
神社で拍手二礼するのは、いかれたなりふりを極めて天津神が嫌うからだ。
だから拝礼が重要だ。それをせず、いかれた書きこみに終始すると、
わすれたころにオマエにゴタゴタの暗雲が訪れてオマエ自身が困るだろう。それは天からの戒めだ。
オマエの書き込みはオマエの脳内思考の鏡。それを眺めてオマエ自身の醜い妖性を思い知れ。

132 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 14:54:15.83 ID:+K1aO0hjP
邪馬台国大和説は、そもそも最初から詰んでいるのだ。
魏略には「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依りて国を為す。海を渡ること千里にして復国有り。皆倭種なり」と書いており、魏志倭人伝では「女王国の東、海を渡ること千余里にして復国有り。皆倭種なり」と書いてある。
倭は半島の東南の方向の海の中に在るとし、これは九州を指している。
大和を卑弥呼のいる邪馬台国とすれば、その大和は半島からほとんど東の方向になり、魏略の記述に合わない。
このことは、倭人伝の記述でも同じだ。

そして、この倭国から海(瀬戸内海)を東に千里ほど行くと倭国とは別の国があるとし、倭国もその国も皆同じ倭人が住んでいると知見を述べている。
こうした記述などから、中国の歴史学者はことごとく倭国は九州にあったと指摘している。
魏略や倭人伝の記述を読めば、当然そうした結論になるのだ。

仮に、卑弥呼の都を大和とした場合、5世紀段階でも河内王権は中央アルプス以東には毛人が住んでいると認識していて、その地方の住人を倭人とは区別していることからしても、大和と東国の住人が「皆倭種なり」とはならないのだ。
つまり、邪馬台国大和説は、その邪馬台国が書かれている史書の記述に合致しない論であることは言を待たない。
このことは、南を東に読み替えると言った程度の解釈の問題ではない。
邪馬台国大和説は、根本的に誤った論だということなのだ。

もう、最近では、邪馬台国大和説はカビの生えたお蔵入りの説とみなされているのが実態ということになる。

133 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 20:41:06.45 .net
「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代」という矢田浩さんによって著されたレポートを見て感動した
ググったらPDFですぐに読める

沖ノ島祭祀の意味、物部や出雲、宗像3女神の関係、畿内ヤマトの成立の要因などが矛盾なくことごとく持論と重なり味方を得た気分だ

特に鉄や威信財の対価としてヤマトが辰砂を利用し権益を奪取した部分など直接語り合いたいほどだ

物部の発祥と天孫の経緯はこれで大きく掴める
ただし神武とニギハヤヒの関係性や崇神によるヤマト成立の経緯などは多く言及していないからここに推論の余地は残る

134 :日本@名無史さん:2023/05/08(月) 21:03:01.02 .net
高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

135 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 11:01:22.45 .net
ヤマトにとっての最重要課題が交易権確保とすると合ってくるよね
鏡祭祀の隆盛やアマテラス祭祀の重要性
あと天孫の存在価値も
これを持ち込んだブレークスルーの画期が物部一族だというのも確証が深まった

136 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:51:59.63 .net
保守主義の哲学‐‐‐中川八洋 筑波大学名誉教授著『神武天皇実在論』を読んで、日本国の正しい歴史を取り戻すために立ち上がろう!
http://blog.livedoor.jp/edmund_burke/archives/19327465.html

筑紫ひむか三代---福岡県糸島市の「伊都国」こそ、“聖なる皇室の起源” ”(13頁)
支那語「邪馬台国」は、「やまとのくに」と訓む。これ以外の訓み方は不可能。
極左「反日」革命勢力は、共産党の“言葉殺しlogocide訓み”「ヤマタイコク」を、今なお、宣伝し続ける。学校教育もそうなっている。 ”(72頁)

内藤湖南の「邪馬台国は大和朝廷」、笠井新也の「卑弥呼は百襲姫」 ”(75頁)

邪や馬ま台との国くにとは、伊都国人の神武天皇が、紀元ゼロ年前後、
伊都国から大和に移動して建国した“大和朝廷の日本国”のこと。それ以外ではない。 ”(98頁)

実在の史実が明瞭な神功皇后を抹殺し神功皇后不在説を捏造宣伝する目的から、
津田左右吉は手練手管の嘘と詭弁を展開した。神功皇后を日本の歴史から抹殺すれば、
同時に仲哀天皇を抹殺できるばかりか、さらに応神天皇を由緒正しい天皇ではなく、
九州のどこかのいかがわしい豪族の出自に貶めることができる。

神武天皇から続く日本の輝く由緒正しき天皇の尊貴・尊厳を、
“日本の天皇の祖は、応神天皇という九州の素性定かではない豪族の出にすぎない”という真っ赤な嘘の皇統譜に摺り替えて貶めるべく
“赤い悪魔”津田左右吉は、“記紀は創作であって史料ではない”との、荒唐無稽な「記紀=小説」説を捏造したのである。 ”(207頁)

137 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 14:52:42.93 .net
大嘘「応神天皇が初代天皇だ!」をプロパガンダすれば、
神武天皇/邇邇にに芸ぎの命みこと/天照大神/「万世一系」をダイナマイトでぶっ飛ばす威力で抹殺できる。
この大嘘を吐くに、応神天皇をご出産された“母”を、事前に処刑しておく必要がある。
“狂信的な天皇制廃止”カルト宗教団体の日本共産党が神功皇后不在論を捏造・大宣伝する理由はこれ。 ”(210頁)

どの豪族かも比定せず、両親も不明な「九州の豪族が初代天皇」など、狂人の戯言 ”(212頁)

『隋書倭国伝』は、「邪馬台国」を「やまと(のくに)」と訓(よ)め、と明記している。
「倭国は、邪摩堆(やまと、大和)に都す。『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり」。つまり、
倭国王とは、第五代・孝昭天皇のこと。 ”(299頁)

日本の古代史家は一丸となって、“狂った大義”天皇制廃止を目がけて、ライフル銃を無差別乱射する。
〔中略〕その行動様式は次の三分野で展開され、無法の刑法犯罪が日常の暴走族や暴力団と同じ。

第一。「神武~開化天皇の九天皇は不在」(津田左右吉)に始まる古代天皇“軒並み抹殺”。

第二。天皇の御陵ごりょう(みささぎ)を「遺跡の古墳」とし、御陵暴き/御陵潰しによる皇室ご祖先“抹殺”。

第三。「弥生時代は無かった→天照大神/日向ひむか三代/神武天皇は不在」で皇室ご祖先“抹殺”

”(342頁)

例えば、仁徳天皇陵=百舌鳥耳原中陵(もものみみはらのなかのみささぎ)という陵を、
共産党支配の古代史学界は平然と「堺市大仙町にある古墳にすぎない」を意味する、
地名を冠した「大仙陵古墳」と改竄した。
しかし宮内庁は、刑法第188条「礼拝所不敬罪」違反が明らかなこの“違法”呼称に対し、刑事告発の義務を果たそうとしない。 ”(344頁)

正語「天皇」「大和朝廷」復権! 共産党語「大王」「ヤマト王権」撲滅! ”(365頁)

138 :日本@名無史さん:2023/05/09(火) 18:14:11.17 .net
畿内が銅鐸銅矛祭祀から鏡祭祀に転換したのは3世紀以前から遡ることは出来ない
ここが大きな問題でありポイント
この環境で天照祭祀が育つわけが無い

まず神武天皇が1世紀に橿原で宮城を築いた痕跡がない
その代わりこの時代の畿内は近江系、大国主の文化圏が色濃く残る
当然国の都ではなかった、となる
ではなぜ3世紀に畿内が発展するのか?
それは新たに流入した、倭国(邪馬台国)を知る民族(物部)と海人族が九州倭国や中国に供給出来る資源確保をここで図ることが出来たから

それは銅鐸由来の銅器生産能力による品質の高い仿製鏡生産と辰砂
辰砂は飛鳥時代以前は金より価値が高かったと言われている

三輪山の裏の宇陀から伊勢までの間に拡がる辰砂の大産地
これを確保し瀬戸内を経て安全に九州に供給出来る航路を確保し、対価として鉄資源を手に入れ湿地の新田開発を進める
これが3世紀半ば、畿内ヤマトの勃興期と言える

この時代に神武天皇の事績を感じられるのは宇陀や熊野での伝説くらい
これは辰砂確保までの道のりと重なる
だから神武の東征は天孫と呼ばれる前の海人族勢力による畿内開発の起源譚と捉えた方が自然だ

139 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:19:38.48 .net
神武の実年代が倭国大乱の2世紀末なら問題ない。
実質的な畿内の銅鏡祭祀はその直前の饒速日物部の畿内入りに始まるのだろうけど。

140 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 08:22:12.36 .net
神武や饒速日の前に畿内にいた長髄彦ら登美の一族が出雲の事代主の末裔なら、出雲の大国主系の痕跡が強いのも説明がつく。
もはや呼称の問題に過ぎない。

141 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 15:44:07.90 .net
前にも書いた弥生末期の破鏡分布について

https://i.imgur.com/ZfsQJBA.jpg

これが示すことについての解釈として
①ノーマークだった大分近辺に集落出土が多数
②墓域埋葬に北部九州、とくに物部支配権である地域に集中

これらが特徴的だ
そして破鏡が持つ意味合いの謎

まず学識としては弥生末期の舶載鏡の不足による破鏡分配、というものがあるが、説明としては不十分に思える

図をよく見ると、集落出土地域は中央構造線沿いに展開されている

ということは、これは輸入が途絶え祭祀のための資源が枯渇した時期に資源確保のために物部一族や技術系渡来氏族がこの地域を採掘した痕跡ではないだろうか

この頃中央構造線沿いに四国を渡り、熊野、宇陀、伊勢と銅鉱床、辰砂採掘を進めて言ったとするとかなり合点がゆく

破鏡は勘合符の役割を担っていたり採掘者の身分保証のための一時的措置の可能性がある
さらに言えば農産資源が少ない九州南部の熊襲、隼人を従えたかった理由もこの採掘探査を行いたかったのではないだろうか

142 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 16:58:11.02 .net
>>139

神武は卑弥呼よりあとの世代だと思うなあ。

143 :日本@名無史さん:2023/05/10(水) 19:09:14.18 .net
>>142

年代が詰まりすぎる。
実在が確実な天皇から一代あたりの年代で逆算するんだ。
いろいろな試算はあるが、どうやっても卑弥呼より後にはならない。

144 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/11(木) 22:51:07.98 ID:OsjGOJAEN
卑弥呼は神武より後代。

145 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 00:38:42.53 ID:wdA1ujQCX
>>133
しかしなあ、沖ノ島と大島と宗像下高宮で同じ祭祀が行われるようになったのは、7世紀後半だとされている。
つまり、日本書紀で言うところの三女神を祀る祭祀は、この7世紀後半頃に成立したとみられているのよ。
沖ノ島の元々の祭神が女神であったことは認められるものの、その他の2女神が元からあったのかどうか極めて怪しい。
ということは、天照と素戔嗚の誓約は4世紀後半にあった伝承ではなく、7世紀後半に作られたごく新しい神話である可能性が高いのよ。
物部がこの神話に関わりがあるとは、なかなか信じにくいな。

146 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 08:48:09.81 ID:W/gcUhKSr
きわめて怪しいのはオマエの主張だ。7世紀になんかねえ。イカサマはオマエに造られたごく新しいフェイクだ。
女真が神武以前畿内にいたという話はオマエの脳内が成立させたものであり、これは完全なデタラメ小説だ。
三女伸は神武以前であって、神武以後の創作ではない。

147 :太国という人間の過ち:2023/05/12(金) 09:08:18.51 ID:dppeuAgLp
神武は卑弥呼より後代。

148 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/12(金) 13:53:46.89 ID:CjZxrZLWV
神武即位元年=西暦元年

卑弥呼は239年ころだから、神武より卑弥呼んほうが後代。
>>147
オマエという人間の過ちこれが真だ。。

149 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 15:13:21.34 ID:wdA1ujQCX
>>146
5世紀中頃に四条畷にやってきた女真の長脛彦が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武は、日本書紀編纂室が書いた大河小説の主人公だ。
神武は、応神がモデルなんよ。
だから、神武は応神の時代である4世紀末〜5世紀初頭以前には存在し得ない主人公ということになる。

ワイの女真長脛彦説を信じたまえ。

150 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:49:30.67 ID:47OerqmJQ
小説ではねえ。この前も放送で古代史の陵墓の位置と数と、その場所の件で合ってるかどうか
日本書紀の記述を探したが、具体的に悉く一致していることが分かった。これは小説ではなく事実を
記載していた文証とその現鉦といえる。こういう陵墓があるのはイカサマではなく、おまけに小説ならば古史古伝もほぼ同じ記述内容であって記紀と独立
することから小説とはいえず、オマエの小説論は棄却される。記紀の編者と古史古伝の編者の供述は共犯の被疑者の各人を
別別として供述を聞くことが口裏合わせができないように捜査機関が行う方法であって、記紀と古史古伝の編者らに口裏合わせが
出来ないことは当時スマホもなく航空機新幹線ITもないことで編纂時代が異なり記紀にない情報が古史古伝のほうに
あることからで口裏合わせはできず、紀の小説化論は折伏される。ははは・・・・・
もともとこういう論が出たのは津田左右吉あたりであって、この男が紀がインチキだという旨の論を
言い出したからこれが増幅して、こういうアホ論を支持するイカレ者が各所に現れることになって、今日に小説だと
点検もしないで言い出した盲象なのだ。うっははは・・・・・・

151 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 08:58:11.34 ID:47OerqmJQ
神武が応神のモデルだという論は、口裏合わせのできない古史古伝と内容がほぼ同じであって、これは小説ではなく
モデルではない。双方の陵墓もあるし、モデルだと無信仰なクソ論述はもう結構月光。ww
本ものだから日本書紀に「本」の字があるのだ。但し日本から半島の記述は合ってるかどうかわからないあるいは
事実誤認があろう。朝鮮人銅族女よ、創作などとまだ頑張ってるところを考えると、やはりおめーは朝鮮人女工作員だな。
神社神道信仰のかけらもなく、おめーがうるさい銅の朝鮮人だと解る。wwwww
ぎゃあぎゃあ騒音の化学反応するんじゃねえ。

152 :太国という人間の過ち:2023/05/13(土) 12:42:14.06 ID:qhpXVdFSN
5世紀中頃に八丁畷にやってきた川崎の彦摩呂が、前660年(タイコク説では紀元元年)即位の神武と戦うわけがねーだろ。
あほちゃう。
神武寺は、京急の停車駅だ。
神武寺は、池子弾薬庫がモデルなんよ。

153 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/13(土) 19:29:30.36 ID:twJeGc/YS
戦うわけがねえというより、真鍮女真のわけがねえからだぜ。
そっちがモデルだという資料根拠が薄弱であって、おめーの脳内の架空創作であるwww。

154 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/14(日) 13:58:52.12 ID:xiKL8QUEd
モデルという奴は、無神論者だということだな。神社神道の信仰のかけらもないいかれた奴が
朝鮮人という格下・銅工作員のズの高い脳内の武細工脳だ。
だからモデルとか言い出す無礼をやらかすわけだ。武論頭は雄弁の銀よりうるさく、化ける化学反応をやらかす
輩だ。沈黙の黄金は神ながら言上げせずだが、対馬金銅仏のごとく純金に、いかれた銅を混ぜようというのが
おめーという朝鮮アマ工作員の脳内だ。笑わせるな。ppppp

155 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 17:22:07.23 ID:qgfnwkGIS
弥生時代の部族社会で、なにが一系の統治者だよ。
血族による氏族社会が生まれてくるのは、5世紀になってからじゃ。
だから、皇統一系などという血族観による政治思想は、5世紀以降にできたもの。
つまり、皇統が始まったのは、応神王朝時代からということだ。
これが、実証主義による皇統の考え方だ。
おめーらの神武即位紀元元年説なんか、トンデモ説の見本みたいなもんじゃな。
わははははは。

156 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 03:10:42.14 .net
>>139
磐余彦伝説のコアは、考古学に謂う「弥生戦乱」(※その末期が「倭国大乱」として隣国の史書に記載された可能性がある)の生んだ武装難民だと考えている。
無論、伝説がそのまま史実であるわけもない。
時間的にも幅を持った複数系統の集団群の記憶を微分/再積分したものだろう。
管々しくは書かないが、記紀の磐余彦伝説と考古学成果(高地性遺跡所在、河内内湾、等々)の奇妙な符合は既に指摘されている。

従って、その概略時期が二世紀末であったとして妥当性を失わない。
 

157 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:02:45.71 .net
例えるとビュッフェのテーブルに盛られた沢山の料理
それは大王家を構成する外孫である各氏族の畿内までの道のり
これらを統合しひと皿に盛ることで天皇家の絆と各氏族の誇りを表現している

ヤマト入りに関しては神武天皇
各地征伐に関してはヤマトタケル
そういう使い分けがなされたというのは有るかもね

158 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:23:03.94 .net
>>156
例えば大田田根子は大物主の5世から7世孫との記述があるが、これを式年遷宮の世代年数の20年で考えるとおおよそ100年から140年

崇神天皇の纒向遺跡が3世紀後半とすると約2世紀の出来事とピタリ符号しますね

そしてこの時代の大物主とは誰か
これこそ物部と天孫の始祖である饒速日とすれば同時代の神武東征神話と符号することになるね
それと同時に長髄彦の存在背景も朧気に感じる

この考えで崇神と神武の関係性と大まかな畿内ヤマト成立の様相が見えてくる
そしていよいよ邪馬台国と卑弥呼との関係性も

159 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 19:05:31.04 .net
>>156

神武東征イコール倭国大乱

というのはありえるが…

160 :太国という人間の過ち:2023/05/15(月) 18:50:18.74 ID:iUF/ulKeR
明治維新に大義はない、徳川の天下に戻すべき。

161 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 12:49:52.76 ID:bDJ8dXtXy
>>157
2世紀代は、ヤマトは鉄器もない田舎。
先進地の北部九州から都落ちして、田舎ヤマトへ大挙移住する理由がない。
よほど大敗して、都落ちすることしか理由は考えられない。
北部九州の倭国大乱で、敗残の者らが辺境のヤマトへ都落ちしたとする根拠があるか。

162 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/16(火) 14:18:09.23 ID:F/zfR/Pqu
徳川再政権にはまだ千年以上の間がある。のんびり構えてればいい。
明治維新は天帝の勅からであって大義名分は後神武天皇の五か条のご誓文からもある。

163 :126:2023/05/11(木) 21:24:24.93 .net
>>159
イコールで結んでしまうのは磐余彦一統の存在の過大評価ではなかろうか。
記紀の記述に於いてさえ一統は東航した集団群の one of them でしかない。
また磐余彦伝説自体、高句麗の建国伝説と共有する枠組に諸要素を収納したものという構造が明らかになっている。
あくまでも弥生戦乱と云う時代の運動の一要素、
それも主流ではなくて後景に埋もれかねない出来事群の微分/再積分だったと見ておきたい。
 

164 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:29:24.90 .net
崇神朝は一瞬だった。
その後垂仁に乗っ取られたから。

165 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:40:27.04 .net
考昭考安考霊考元崇神が吉備から播磨阿波等を通じて物部氏と縁戚を結んで大和纏向に進出した。
大物主はモモソヒメと婚姻させて取り込んだ事が記紀に書かれている。

166 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:47:49.99 .net
それ以前には大国主と大物主の出雲大和同盟があって、
実際に銅鐸が出土する範囲で國造が行われていたのと、
饒速日命の進出による国譲りのようなことも実際にあった。

167 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:01:35.34 .net
高天原が博多湾周辺の出来事で、
天照大御神が伊都国辺り、
須佐之男命が吉野ケ里辺り、
饒速日命が糟屋辺り、
月読命が山門八女辺りに居たと考えられる。
で、この内の須佐之男命の勢力が、
出雲に進出したのが前2世紀の話し。

168 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:06:39.56 .net
で、この時、須佐之男命から手ほどきを受けて、
大国主が國造を始めた。
スクナビコナとの國造は、
北陸や紀の国などかなりの広範囲に渡っていた。
その後、大和大物主との國造が始まったのが後1世紀中期頃の話し。

169 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:12:09.41 .net
その頃、博多湾周辺では、
奴国が漢に朝貢して金印を授かった頃。
で、しばらくして饒速日命の河内進出が始まったと考えられる。
前後して吉備津彦の勢力も安芸や吉備に進出していたものと考えられる。

170 :126:2023/05/11(木) 22:13:44.66 .net
>>165
× 考
〇 孝
 
天皇諡号表記に限らずこの誤記に取り憑かれた残念な人々が跡を絶たない。
何故なのだろうか。
 

171 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:16:14.37 .net
この頃、神武は実際には高千穂に進出して、
日向生目氏の勢力の元になった。

172 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:19:58.66 .net
後1世紀後期に山門八女で彦坐王が台頭して、
奴国を制圧し、漢に朝貢したのが107年の話し。
この時、ヤマトの帥升と名乗ったのが
倭面土国王帥升。
コレがヤマトの原点。

173 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:25:02.96 .net
この後、ヤマトは狭穂彦王子が
2世紀中期後期に投馬国=妻、都間に進出しており、
ここで日向生目と争ったのが倭国大乱になる。
この時、狭穂彦王子が生目氏に破れてしまい、
彦坐王の娘たちが生目氏に人質に取られ、
その間に出来た姫が倭姫命=邪馬台国の卑弥呼になる。
コレが女王共立。

174 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:30.66 .net
>>167

> 高天原が博多湾周辺の出来事で、

高天原が日本国内にあったのか、それとも任那にあったのか?

175 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:34.45 .net
この時、生目氏=伊支馬は邪馬台国の長官になって、
宇佐あたりに陣を構えて、
吉備津彦の播磨姫と縁戚を結んで、
瀬戸内海から大和纏向へ進出していった。

176 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:31:44.08 .net
奴国が朝貢した57年頃、
朝鮮半島には狗邪韓国という倭国の領土があった。

177 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:24.64 .net
反問されても答えず、また論拠も示さずに連投でひたすら夢想を書き連ねるだけ。
これじゃ議論にもなりようがない。
所謂「アスペルガー症候群」というのはこういう病状のことなのだろうか。

178 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:28.49 .net
生目氏景行天皇と播磨姫の息子がヤマトタケルノミコトで、
景行が美濃に進出した際に、
ヤマトタケルノミコトは倭姫命に養子に出されてしまったと考えられる。
それで狗奴国=熊襲征伐やらして、
吉備津彦とも結んで、
出雲や丹後丹波に進出して、
更に伊勢尾張熱海関東遠征したのが
ヤマトタケルノミコトの東征になる。

179 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:44:56.52 .net
崇神朝はヤマトタケルノミコトの東征以前に、
四道将軍を派遣して、
大和を中心にした大和政権を設立していたが、
日向生目氏に乗っ取られ、
邪馬台国が丹後から東日本に進出してーので、
吉備の豪族に転落していたものと考えられる。

180 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:51:03.19 .net
四道将軍で日本を支配した直後、
ヤマトタケルノミコトが再び大規模東征した理由は、
やはり崇神垂仁景行で政権交代があったからと考えるのが合理的だ。

181 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:57:41.25 .net
ということで、今の天皇家は、
日向生目氏を出自とし、
邪馬台国の彦坐王の子孫を外戚とする王朝の末裔と言えるだろう。

182 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:04:48.66 .net
日本書紀
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている

崇神の時代に任那や筑紫が存在していたということは???

183 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:06:52.79 .net
後漢書東夷伝には、
狗邪韓国が倭国の領土と明記されており
また三国史記には新羅の王は倭国のタバ国出身と明記されているので、
朝鮮半島から日本ではなく、
日本から朝鮮半島への流れがあったのが、
前2世紀頃の話しで、
高天原から天孫降臨した部族達は、
実際に銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族なので、
高天原というのは朝鮮半島ではなく、
博多湾周辺ということになるだろう。

184 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:16:00.92 .net
崇神天皇の四道将軍は、
実際には吉備津彦は元々崇神天皇が出自した地域の部族、
丹波の彦坐王は邪馬台国から丹波に進出していた部族の1つを、後にヤマトタケルノミコトの縁を通じて同一勢力としたモノで、
大彦が大和の三輪一族や大物主の部族を関東に派遣したモノだろう。

185 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:25:53.23 .net
また、ヤマトタケルノミコトは、
実際には大若子命と乙若子命の実績を
合わせて作った創作上の人物で、
大若子が御間皇子の異名を持つ彌馬升、
乙若子が彌馬獲支で、卑弥呼の歳の離れた弟で、
卑弥呼の身の回りの世話をした人物と考えられる。

186 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:30:43.46 .net
ということで、大若子が大幡主命=大畑氏、
乙若子が天皇家の祖先であり、
福岡の大畑さんと天皇家はDNAはかなり近いのではないだろうか?

187 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:53:48.63 .net
一連の書き込み
壮大なストーリを一旦吐き出したくなる気持ちは解るが
決めつけ多くて偽書読まされてるかのような気持ち悪さ

もしも見識があるのなら考証すっ飛ばさず事績を絞り検証解説しないと面白くないし伝わらんよ
だが議論する気は無さそうだな

188 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 05:18:10.10 .net
>>186
中津市には大幡という地区がありそこには宇佐神宮の元宮の薦神社がありますが、大幡主と関わりがあるかもしれません

189 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 06:32:41.85 .net
宇佐=邪馬台国 説は昔からありますな

190 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:45:14.33 .net
>>158

そこで卑弥呼が絡むと嘘くさくなる。
記紀にはまったく姿が見えないのだから。
むしろ、神武が2世紀末に筑紫を去った後に筑紫で共立されたのが卑弥呼なら、記紀には登場しない理由が明確になる。

191 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:48:22.27 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。

192 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:49:06.78 .net
>>174

高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

193 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:50:20.99 .net
>>180

討伐というか、荒らして回っただけで、統治はしなかったのかも。
だから何年かごとに征伐という名の収奪を繰り返したのだろう。

194 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 17:57:25.37 .net
>>189
宇佐、日田は候補と言われるがどちらかというと亡命先のイメージ
吉野ヶ里遺跡が忽然と放棄された時の東方ラインにあたるからね

195 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 03:40:07.24 .net
>>194
宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

196 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 12:59:43.72 .net
>>195
そこに匿われた比売神(臺與)が拠点化したは有り得ますね
地理的、祭神的にも宗像氏と物部氏に匿われたのでしょう
それだと200年後から八幡神が尊ばれた理由にもなります

日田の鉄鏡はこのストーリーとして考えると逃避行の代償として匿ってくれる代償として地域豪族に与えたという見方も出来そう
あの鉄鏡はそれくらいに有り得ない品ですよね

197 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 14:36:32.59 .net
>>195

> 宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

宇佐とか日田は地形的に守りやすいよね

198 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 18:16:04.50 .net
宇佐神宮は桂川と寄藻川という天然の内堀と駅館川の外堀もあるから外敵は寄せ付けないね

199 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:00:55.99 .net
宇佐はもっと調査すべきだね

200 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 20:34:29.44 ID:jBL/w6ubd
何も出てこんよ。

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