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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

157 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:02:45.71 .net
例えるとビュッフェのテーブルに盛られた沢山の料理
それは大王家を構成する外孫である各氏族の畿内までの道のり
これらを統合しひと皿に盛ることで天皇家の絆と各氏族の誇りを表現している

ヤマト入りに関しては神武天皇
各地征伐に関してはヤマトタケル
そういう使い分けがなされたというのは有るかもね

158 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 06:23:03.94 .net
>>156
例えば大田田根子は大物主の5世から7世孫との記述があるが、これを式年遷宮の世代年数の20年で考えるとおおよそ100年から140年

崇神天皇の纒向遺跡が3世紀後半とすると約2世紀の出来事とピタリ符号しますね

そしてこの時代の大物主とは誰か
これこそ物部と天孫の始祖である饒速日とすれば同時代の神武東征神話と符号することになるね
それと同時に長髄彦の存在背景も朧気に感じる

この考えで崇神と神武の関係性と大まかな畿内ヤマト成立の様相が見えてくる
そしていよいよ邪馬台国と卑弥呼との関係性も

159 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 19:05:31.04 .net
>>156

神武東征イコール倭国大乱

というのはありえるが…

160 :太国という人間の過ち:2023/05/15(月) 18:50:18.74 ID:iUF/ulKeR
明治維新に大義はない、徳川の天下に戻すべき。

161 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 12:49:52.76 ID:bDJ8dXtXy
>>157
2世紀代は、ヤマトは鉄器もない田舎。
先進地の北部九州から都落ちして、田舎ヤマトへ大挙移住する理由がない。
よほど大敗して、都落ちすることしか理由は考えられない。
北部九州の倭国大乱で、敗残の者らが辺境のヤマトへ都落ちしたとする根拠があるか。

162 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/16(火) 14:18:09.23 ID:F/zfR/Pqu
徳川再政権にはまだ千年以上の間がある。のんびり構えてればいい。
明治維新は天帝の勅からであって大義名分は後神武天皇の五か条のご誓文からもある。

163 :126:2023/05/11(木) 21:24:24.93 .net
>>159
イコールで結んでしまうのは磐余彦一統の存在の過大評価ではなかろうか。
記紀の記述に於いてさえ一統は東航した集団群の one of them でしかない。
また磐余彦伝説自体、高句麗の建国伝説と共有する枠組に諸要素を収納したものという構造が明らかになっている。
あくまでも弥生戦乱と云う時代の運動の一要素、
それも主流ではなくて後景に埋もれかねない出来事群の微分/再積分だったと見ておきたい。
 

164 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:29:24.90 .net
崇神朝は一瞬だった。
その後垂仁に乗っ取られたから。

165 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:40:27.04 .net
考昭考安考霊考元崇神が吉備から播磨阿波等を通じて物部氏と縁戚を結んで大和纏向に進出した。
大物主はモモソヒメと婚姻させて取り込んだ事が記紀に書かれている。

166 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 21:47:49.99 .net
それ以前には大国主と大物主の出雲大和同盟があって、
実際に銅鐸が出土する範囲で國造が行われていたのと、
饒速日命の進出による国譲りのようなことも実際にあった。

167 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:01:35.34 .net
高天原が博多湾周辺の出来事で、
天照大御神が伊都国辺り、
須佐之男命が吉野ケ里辺り、
饒速日命が糟屋辺り、
月読命が山門八女辺りに居たと考えられる。
で、この内の須佐之男命の勢力が、
出雲に進出したのが前2世紀の話し。

168 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:06:39.56 .net
で、この時、須佐之男命から手ほどきを受けて、
大国主が國造を始めた。
スクナビコナとの國造は、
北陸や紀の国などかなりの広範囲に渡っていた。
その後、大和大物主との國造が始まったのが後1世紀中期頃の話し。

169 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:12:09.41 .net
その頃、博多湾周辺では、
奴国が漢に朝貢して金印を授かった頃。
で、しばらくして饒速日命の河内進出が始まったと考えられる。
前後して吉備津彦の勢力も安芸や吉備に進出していたものと考えられる。

170 :126:2023/05/11(木) 22:13:44.66 .net
>>165
× 考
〇 孝
 
天皇諡号表記に限らずこの誤記に取り憑かれた残念な人々が跡を絶たない。
何故なのだろうか。
 

171 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:16:14.37 .net
この頃、神武は実際には高千穂に進出して、
日向生目氏の勢力の元になった。

172 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:19:58.66 .net
後1世紀後期に山門八女で彦坐王が台頭して、
奴国を制圧し、漢に朝貢したのが107年の話し。
この時、ヤマトの帥升と名乗ったのが
倭面土国王帥升。
コレがヤマトの原点。

173 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:25:02.96 .net
この後、ヤマトは狭穂彦王子が
2世紀中期後期に投馬国=妻、都間に進出しており、
ここで日向生目と争ったのが倭国大乱になる。
この時、狭穂彦王子が生目氏に破れてしまい、
彦坐王の娘たちが生目氏に人質に取られ、
その間に出来た姫が倭姫命=邪馬台国の卑弥呼になる。
コレが女王共立。

174 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:30.66 .net
>>167

> 高天原が博多湾周辺の出来事で、

高天原が日本国内にあったのか、それとも任那にあったのか?

175 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:28:34.45 .net
この時、生目氏=伊支馬は邪馬台国の長官になって、
宇佐あたりに陣を構えて、
吉備津彦の播磨姫と縁戚を結んで、
瀬戸内海から大和纏向へ進出していった。

176 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:31:44.08 .net
奴国が朝貢した57年頃、
朝鮮半島には狗邪韓国という倭国の領土があった。

177 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:24.64 .net
反問されても答えず、また論拠も示さずに連投でひたすら夢想を書き連ねるだけ。
これじゃ議論にもなりようがない。
所謂「アスペルガー症候群」というのはこういう病状のことなのだろうか。

178 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:39:28.49 .net
生目氏景行天皇と播磨姫の息子がヤマトタケルノミコトで、
景行が美濃に進出した際に、
ヤマトタケルノミコトは倭姫命に養子に出されてしまったと考えられる。
それで狗奴国=熊襲征伐やらして、
吉備津彦とも結んで、
出雲や丹後丹波に進出して、
更に伊勢尾張熱海関東遠征したのが
ヤマトタケルノミコトの東征になる。

179 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:44:56.52 .net
崇神朝はヤマトタケルノミコトの東征以前に、
四道将軍を派遣して、
大和を中心にした大和政権を設立していたが、
日向生目氏に乗っ取られ、
邪馬台国が丹後から東日本に進出してーので、
吉備の豪族に転落していたものと考えられる。

180 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:51:03.19 .net
四道将軍で日本を支配した直後、
ヤマトタケルノミコトが再び大規模東征した理由は、
やはり崇神垂仁景行で政権交代があったからと考えるのが合理的だ。

181 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 22:57:41.25 .net
ということで、今の天皇家は、
日向生目氏を出自とし、
邪馬台国の彦坐王の子孫を外戚とする王朝の末裔と言えるだろう。

182 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:04:48.66 .net
日本書紀
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
 半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている

崇神の時代に任那や筑紫が存在していたということは???

183 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:06:52.79 .net
後漢書東夷伝には、
狗邪韓国が倭国の領土と明記されており
また三国史記には新羅の王は倭国のタバ国出身と明記されているので、
朝鮮半島から日本ではなく、
日本から朝鮮半島への流れがあったのが、
前2世紀頃の話しで、
高天原から天孫降臨した部族達は、
実際に銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族なので、
高天原というのは朝鮮半島ではなく、
博多湾周辺ということになるだろう。

184 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:16:00.92 .net
崇神天皇の四道将軍は、
実際には吉備津彦は元々崇神天皇が出自した地域の部族、
丹波の彦坐王は邪馬台国から丹波に進出していた部族の1つを、後にヤマトタケルノミコトの縁を通じて同一勢力としたモノで、
大彦が大和の三輪一族や大物主の部族を関東に派遣したモノだろう。

185 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:25:53.23 .net
また、ヤマトタケルノミコトは、
実際には大若子命と乙若子命の実績を
合わせて作った創作上の人物で、
大若子が御間皇子の異名を持つ彌馬升、
乙若子が彌馬獲支で、卑弥呼の歳の離れた弟で、
卑弥呼の身の回りの世話をした人物と考えられる。

186 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:30:43.46 .net
ということで、大若子が大幡主命=大畑氏、
乙若子が天皇家の祖先であり、
福岡の大畑さんと天皇家はDNAはかなり近いのではないだろうか?

187 :日本@名無史さん:2023/05/11(木) 23:53:48.63 .net
一連の書き込み
壮大なストーリを一旦吐き出したくなる気持ちは解るが
決めつけ多くて偽書読まされてるかのような気持ち悪さ

もしも見識があるのなら考証すっ飛ばさず事績を絞り検証解説しないと面白くないし伝わらんよ
だが議論する気は無さそうだな

188 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 05:18:10.10 .net
>>186
中津市には大幡という地区がありそこには宇佐神宮の元宮の薦神社がありますが、大幡主と関わりがあるかもしれません

189 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 06:32:41.85 .net
宇佐=邪馬台国 説は昔からありますな

190 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:45:14.33 .net
>>158

そこで卑弥呼が絡むと嘘くさくなる。
記紀にはまったく姿が見えないのだから。
むしろ、神武が2世紀末に筑紫を去った後に筑紫で共立されたのが卑弥呼なら、記紀には登場しない理由が明確になる。

191 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:48:22.27 .net
邪馬台国=卑弥呼の女王国=古の倭奴国(旧唐書による)=福岡県=弥生文化の中心地=倭国の都=豊葦原中国=筑紫の日向(記紀による)=天皇家の祖である天孫邇邇芸や山幸彦(彦火火出見=伊都高祖宮の祭神、邇邇芸の子、神武の祖父)の国
投馬国=宮崎県都万=隼人の祖である海幸彦の国
狗奴国(官の名が菊池彦)=熊本県=熊襲の国
日本国=畿内=倭の別種=ヤマト王権=物部氏の祖である天孫饒速日の国(日本は日下において饒速日が命名した)

福岡県糸島市(伊都)の細石神社と、宮崎県西都市(妻)の都万神社は、どちらも天孫邇邇芸の妻であり山幸彦と海幸彦の母親である木花咲耶姫を祭っている。
宮崎県は日向国と呼ばれるが、糸島市を含む福岡県北西部も筑紫の日向と呼ばれ、奇妙な対比を呈している。
魏志倭人伝では、邪馬台国七万戸と投馬国五万戸はそれぞれ帯方郡から水行十日陸行一月(1日の誤りか?)と水行二十日と対比されて記載されている。

192 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:49:06.78 .net
>>174

高 高貴な、祖先の
天 海(アマ)の
原 国邑、城

玄界灘に浮かぶ聖地、沖ノ島が高天原だよ。
海に暮らす倭人の王の名がアマテラス、海を支配する王。
畿内勢力も参加して数百年にわたり行われた国家的祭祀は、畿内天皇家の皇祖でもあるアマテラスを祭るものだったと考えれば納得がいく。
沖ノ島の最も古い岩上祭祀は、アマテラスの磐座において行われていたのである。
沖ノ島の祭祀を司る宗像大社の神器は、風土記によるとアマテラスの形代である八咫の鏡とされている。

193 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 08:50:20.99 .net
>>180

討伐というか、荒らして回っただけで、統治はしなかったのかも。
だから何年かごとに征伐という名の収奪を繰り返したのだろう。

194 :日本@名無史さん:2023/05/12(金) 17:57:25.37 .net
>>189
宇佐、日田は候補と言われるがどちらかというと亡命先のイメージ
吉野ヶ里遺跡が忽然と放棄された時の東方ラインにあたるからね

195 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 03:40:07.24 .net
>>194
宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

196 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 12:59:43.72 .net
>>195
そこに匿われた比売神(臺與)が拠点化したは有り得ますね
地理的、祭神的にも宗像氏と物部氏に匿われたのでしょう
それだと200年後から八幡神が尊ばれた理由にもなります

日田の鉄鏡はこのストーリーとして考えると逃避行の代償として匿ってくれる代償として地域豪族に与えたという見方も出来そう
あの鉄鏡はそれくらいに有り得ない品ですよね

197 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 14:36:32.59 .net
>>195

> 宇佐神宮を卑弥呼の居城とした場合は、吉野ヶ里を上回る防衛能力があったと考えられる

宇佐とか日田は地形的に守りやすいよね

198 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 18:16:04.50 .net
宇佐神宮は桂川と寄藻川という天然の内堀と駅館川の外堀もあるから外敵は寄せ付けないね

199 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:00:55.99 .net
宇佐はもっと調査すべきだね

200 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 20:34:29.44 ID:jBL/w6ubd
何も出てこんよ。

201 :太国という人間の過ち:2023/05/17(水) 23:09:11.05 ID:W8Eg3S+xt
United
States
of
America

202 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 02:52:35.25 ID:Sy5+xQ853
おめーらは、考え違いしている。
宇佐神宮の比盗_と八幡の神は、元は別所の神だった。
八幡の神は、薦神社の内宮とされる三角池の水神の別称なのだ。
これが後に習合して宇佐神宮で祀られるようになっただけ。

薦神社内宮の三角池で祀られた神は灌漑池の水神であり、水分神(みくまりのかみ)と呼ばれる。
この神は、水を司り配分する神だとされる。
だから、特別な神ではなく、ごく普通の水神だったのだ。
そして、そうした水神のイメージには、中国の水神である龍神が当てられた。

龍神は強く雨を降らす神であるので、雨の元になる渦巻く雨雲と多数の稲光りと雷の轟音に包まれて大きな目を見開いて蛇龍の身体を波打たせる姿で描かれる。
この龍神が超絶的なエネルギーをみなぎらせた神であることが分かる。
それゆえに、この神を祭ることで、池に豊かな水を与えてくれるわけだ。

ここで、反乱を起こした南九州の隼人討伐のために派遣された朝廷軍が、なぜこの三角池に生える真菰を刈って枕状にして神輿に載せて隼人討伐軍の先頭に立つことになったのかと考えると、
池などに生える植物はその池の神が宿るものだと考えられたため、真菰の枕には三角池の水神が宿っているとみなされたからなのだ。
そして、こうした池の水神は膨大な激しいエネルギーを持つ龍神がイメージされたことから、
この激しいエネルギーを持つ龍神の力によって南九州で反乱した隼人を圧倒してくれるだろうと期待したわけだ。
これが、田舎の中津の灌漑池の水神が、朝廷軍の先陣として立った理由なのである。 続く

203 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 03:37:12.96 ID:Sy5+xQ853
では、なぜ、この三角池の水神が八幡の神と呼ばれるようになったのか、ということだ。
天皇が即位する時に、朝廷には朝廷軍が集まり、またその朝廷の周りには多数の役所があってそこに役人が集まっている。
そして、軍は部隊ごとに軍旗をはためかせ、多数の役所もそれぞれ役所の旗をはためかせる。
このさまが、八幡(やはた=たくさんの旗)なのである。
したがって、八幡(やはた)とは、天皇の威勢を象徴する言葉ということだ。
なので、中津にやってきた隼人討伐の朝廷軍は多数の旗をはためかせ、随行する役人もそれぞれ役所の旗をはためかせた。
つまり、この朝廷軍が、八幡(やはた)だったということになる。
そして、この八幡(やはた)の先頭に立ったのが、三角池の水神の宿った薦枕だったのだ。

このあと1年以上に渡る戦争の結果、朝廷軍はやっと勝利したのだが、当然、その戦勝は三角池の水神のおかげだと顕彰されたのは間違いない。
そこで、三角池の水神は、八幡の朝廷軍に勢いを与えてくれた神だとして「八幡の神(軍神)」の名が与えられたとするのが、最も合理的だ。
このように考えると、後になって、なぜ応神天皇が習合される流れとなるのかが分かってくる。
応神天皇は神功皇后とともに仲哀天皇の子と戦って勝利した天皇であり、河内王朝の始祖でもあり、
軍事に長けた天皇と位置付けられていたことは、ホムタの名があることからもそれが分かる。
そこで、宇佐神宮側が、三角池の水神の八幡の神(軍神)と応神天皇(軍事につよい天皇)の習合を図ったのが「八幡神=応神天皇(軍神)」であり、
このことが後代に武家から絶大な信仰を得た理由となったのだろう。

要するに、三角池の水神(龍神)が隼人討伐の軍功で「八幡の神」と呼ばれ、この神が比盗_を祭る宇佐神宮の祭神として取り込まれて、やがてそこに応神天皇も習合したということなのだ。
ということは、宇佐神宮の比盗_だけでは、ただの田舎神社にすぎないということ。
軍功があった「八幡の神」こそが、宇佐神宮のグローバルパワーの源泉なのである。
夢夢疑うことなかれ。

204 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 10:20:13.70 ID:g371BsAyy
八幡というのは八咫鏡からの数字だ。

205 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 15:01:48.71 ID:Sy5+xQ853
何かの妄想か。

206 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 18:57:00.75 ID:g371BsAyy
盲象ではない。天津金木において

半径3の円(三輪)考察すしたときに、八は数字の8だが、三輪(3.0)を反転03として半径3の代わりに
半径8の円を考えて、反転から小数点03を付加し、半径8.03の円を想起するならば r=8.03 で
それを球化すると、球の体積は天津金木として

V=2,168.87860739596 0711 473048626287 1/1 神功70年 応神天皇即位

が出る。だから応神を八咫の鏡に因んでか八幡様と呼称するのだ。

207 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/18(木) 19:01:48.96 ID:g371BsAyy
03の付加は当時3倍暦をやってたからだ。

208 :日本@名無史さん:2023/05/18(木) 23:07:13.00 ID:Sy5+xQ853
>>206
神功70年は、ない。
0711は、応神元年一月一日ではあ〜りません。
応神元年なら、0111にならなければなりません。
ざんねーん。

209 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 10:00:40.45 ID:25OPdGUBm
天津神算木の数字は逆読みができるのだ。

上のとおり半径8.03の円の面積をsとすれば

s=202.572 721736 85809882998586173291 7/2 西暦1736年 荷田春満 没

国学の祖の没日があるのは2倍暦があったという示唆。

残念でした。神功70年は応神天皇即位元年だよ。紀から計算してみい。

この年は西暦270年で皇紀930年、神功摂政皇太后70年で応神即位元年だ、OK。間違いはない。

210 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 10:07:37.91 ID:25OPdGUBm
うんと残念でした。0111じゃあ神武即位元年の年月日と同数字だから天皇の特定ができない。
つまりこれだと年代の特定にならない。w
1/1神功70年に応神天皇が即位したのであり、これだと神武と見分けがつく。w

211 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:15:16.57 .net
箸墓古墳にて見られる吉備由来の円筒埴輪は鉄生産、銅器生産に用いられた土器由来の可能性あり

畿内は近江文化で銅生産加工が盛んだった地域でもあるから威信財が枯渇した北部九州に代わる新天地として選ばれ、文化や職掌のクロス集約地として隆盛した可能性が高まる
これは後の仿製鏡生産にも裏付けされるし、前方後円墳の発生根拠ともなりうるね

212 :日本@名無史さん:2023/05/14(日) 22:29:11.80 .net
何が言いたいかと言うと
畿内ヤマトと北九州とで決定的に違うのはここだということ
古墳の規模や美しさに加え埴輪によって技術や文化の顕彰を墳墓の在り方で表現しようとしたところ

大げさに言えば祭祀と並んで技術への意識の高さがありそのような人々が優遇されたり覇権を握った証とも言える
その代表格が言うまでもなく物部一族

213 :日本@名無史さん:2023/05/19(金) 14:09:45.89 ID:vShcRbglW
神功70年を勝手に作ってはダメダメの三助。
応神元年は、神功70年ではな〜い。
神功は、この応神元年にはもうこの世にいないのだ。
おめーが死んだあとに、あと1年生きていたということになるか?
都合よく話をでっち上げてはダメダメの五助。

214 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:02:03.60 ID:sJBzFW9u5
紀の計算から応神元年は神功70年だ。
この前天皇が退位したときも平成に上乗せして運面なんかは平成の記述があっても令和出有効だ。
70年目の元旦応神は即位した。
頑張っても天津神算木の答えは合っている。
頑張っても動かないぜ。ww

215 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:03:48.39 ID:sJBzFW9u5
八咫の鏡という円鏡は、円の半径が8.03だったのだよ。
よ。

216 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:05:11.89 ID:sJBzFW9u5
×運面
〇運免

217 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/19(金) 18:09:34.03 ID:sJBzFW9u5
皇紀861年が神功元年であり、皇紀930年が応神即位元年だ。だから神功摂政皇太后から70年目が応神元年だ。
合ってるぜ。計算間違いをするなよ。ハイ、おわり。

218 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 00:29:18.11 ID:az0AsYIb5
神功が亡くなったのは神功69年4月17日(旧暦)だ。
その翌年の応神元年1月1日(旧暦)に応神が即位した。
その間はおよそ7か月もある。

応神元年を神功70年とするのは、無理無理の無理。
神功年は70年まで続かない、69年で終わり。
勝手な切り離しで0711を神功70年1月1日のことだとして、その年は応神元年1月1日と同じだとするのは、無茶苦茶三助だ。

算木に磁石が埋められていて、あっちにひっついたり、こっちにひっついたりと、切り替え次第でどっちにでもひっつくという仕組みなんだろ。
信じられん算木屋だ。

219 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 01:30:15.96 ID:az0AsYIb5
>>212
物部についての族性の説明は拝聴するが、3世紀後半とみられる崇神の時代に物部が大和にいたとする根拠が不明。
物部が大和に現れるのは、天理に鉄鍛冶工房が出現する5世紀後半。
天理の物部は交野にも工房を設けていたようなので、すでに規模の大きい鍛冶屋だったことが分かる。
天理と交野の物部は、倭鍛冶だったとされている。
しかし、それ以前には、鍛冶屋物部が大和にいたとする遺跡はみつかっていない。
5世紀後半の大和の物部がどこから来たのかについては、不明のようだ。

220 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 14:10:41.87 .net
物部氏は福岡の糟屋出身なんですが。。。

221 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 17:25:16.88 .net
>>220
ニギハヤヒの由来地だよ、という意味ですかね?
だからこそ畿内に技術をもたらした一族
いや一族というより支族と言った方が良いでしょうかね

考察はまだ途上ですが吉備ほか各地に点在し特に鏡、鉄生産、交易に関わってると見ています
3世紀頃には畿内において確固とした地位を確立していたでしょう
また、九州邪馬台国の候補地や三韓、任那にも拠点があったようですよ

222 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 21:57:20.03 .net
>>220

物部氏は九州北部に来る前にどこか他のところにいたのかも。

たとえば任那のどこか。

223 :日本@名無史さん:2023/05/15(月) 22:05:40.69 .net
九州物部氏の存在はこのスレの本題と直結すると見ている

彼らは東を目指し移住したはずなのだが応神期や継体期に故地へ戻っている形跡がある
その1つの証がこうやの宮の神像
七支刀を持ってるから

あと九州物部の拠点は筑紫、遠賀川流域に多くて奴国中枢部には少ないという特徴がある
ここに九州に存在したであろう邪馬台国との関係性を感じる
地理的に考えても軍事、技術や祭祀の大きな権限を有しながら本流では無い雰囲気

彼らにより鏡祭祀が畿内に持ち込まれたとすると、1つの推測として邪馬台国の高官であり鏡祭祀を知る物部の一族(饒速日?)が2世紀に邪馬台国を離れ新たな国を作ろうとした、と想定できる

この存在とその後の崇神の事績を絡めて考えてみると崇神はどうもその逆を行っているかのようだ
大国主の力と物部の持つ力を分割し新たに権力を創始したかった風に感じるのだが果たしてどうだろう
こう思うが故に畿内=邪馬台国ではないし、崇神=物部ではない気がするのだが

224 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 08:45:11.93 .net
>>221

つまり西日本は九州を含めて天照国照天孫饒速日の国。
畿内ヤマト王権の主は物部氏。

225 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 08:47:43.96 .net
>>223

物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇は、物部氏を代表する天皇だろう。
あなたの印象論には根拠が不足している。

226 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 20:02:46.94 .net
>>225
確かに根拠が不足してるから印象論になるのですが
まぁ論と言うほどでもないです
単なる感想ですよ
この辺はさらに検討を深めないといけないですね

227 :日本@名無史さん:2023/05/16(火) 21:55:52.54 .net
>>225

> 物部の拠点である纏向に宮を構えた崇神天皇


秀吉が血縁者ではない黒田如水の本拠地である姫路を本拠地にしたケースもあるからなあ。なんともいえない。

228 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 10:42:34.28 .net
纒向遺跡が物部の拠点なのか?

これは崇神が物部氏そのものなのかという課題に直結する
論点としては面白いな

229 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 08:00:04.72 ID:Cxg943uMp
>>218
無理ではねえ。
いいか。神功元年は西暦201年だ。
神功摂政から70年後は神功70年で西暦270年だ。つまり皇紀930年である。

この年応神天皇元年して

 西暦270年=神功70年 応神天皇即位

いかれたオメーの融通の利かない計算違いだ。

残念でした。いいか、昭和天皇崩御したとき、運免は昭和65年まで有効となってるが、崩御にて平成と年号が変わっても運転免許証のは平成64年で
終わるのではなく、この運免の昭和65年まで有効とは平成2年まで有効とみなすのだ。
だから応神元年は神功70年とみなすで、この数字は運免同様有効となる。うんと泣け!

230 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:05:05.36 ID:EqgFPrJgx
おめーも書いているように、神功元年から70年目が応神即位年だ。
しかし、その70年目を神功70年とするは、おめーの脳内スイッチ切り替えポイントがいかれた病状そのものを表しておる。
神功年は69年までしかねーの。
しかし、まあ、ちょっと間違えましたと謝れば、許してつかわす。

231 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 16:38:45.92 ID:EqgFPrJgx
>>223
「こうやの宮」の神像は、相当新しいね。
中央の神像には五七の桐紋が描かれている。
天皇が菊の紋を使い出すのは平安中期以降とされているので、この神像は平安中期以降に作られたものということになる。
これらの神像がセットで作られたのであれば、七支刀を持つ神像も「応神・継体期に物部が九州に戻った」ことを示す証拠になりにくいと思うけど。

232 :太国という人間の過ち:2023/05/20(土) 17:38:14.15 ID:Twa++/07i
明治維新と言う過ち

233 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/20(土) 20:47:13.28 ID:Yp3L7Vrh6
いかれ武論頭アマ工作員よ
神功摂政皇太后元年の70年目の1/1を 1/1神功70年 というのだ。
69年までしかねえなどと文句をつけても、70年目が応神即位元年だ。
そこで70(07)の手前に近接して69数字があるだろ。これは69年で終わりだとか
ぐずつくオメーの主張ダメだとをうっちゃってるんだよ。うんと嘆け!

234 :日本@名無史さん:2023/05/20(土) 23:17:55.55 ID:mbMhE2TLf
古代史はロマンという過ち。

235 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 01:43:36.46 ID:xcehyiXE6
物部は、崇神紀で今の神主のような役割を担う職掌として描かれている。
しかし、一般に物部は軍事を扱う氏族とされていて、祭事に関わる氏族としての理解は少ない。
しかし、天皇の大嘗祭においては、その前日に、天皇は衣装を着る際に物部氏由来の呪文を受けることになっているという。
これを見ると、崇神紀で物部氏が神主のような役目をしていることと同列であり、物部氏が神事にも関わる氏族であることは間違いない。

では、物部氏の神事における役割は、どこから来たものなのか。
おそらく、古代においては、職人はそれぞれの職掌において独自の神事、祭事を行っており、
その神事において職人のその職掌独自の祭式があったことが考えられる。
物部氏は和鍛冶が本職であったことから、鍛冶に関する神事の祭式を持っていたと考えるのがよいだろう。
また、物部の鍛冶屋は、刀のほか鎧なども製作したはずで、その鎧を身に着けるときの祭式、つまり呪文もあったと考えられる。
この鎧を身に着けるときの物部の呪文が、天皇が大嘗祭の前日に衣服を着るときに受ける物部の呪文の起源だとみなすことが可能だ。

なぜ、軍事氏族の物部氏が独自の神事の祭式を持っていたのかというと、それは鍛冶職人の儀式、祭式が元になって発展したものがそのまま保持されていたからだろう。
また、軍事にも物部氏のその鍛冶由来の神事、祭式が用いられたと見るのがよいだろう。

236 :太国という人間の過ち:2023/05/22(月) 05:13:02.97 ID:i/V8fkccQ
古事記とか日本書紀とか皇紀は全部インチキ。

237 :日本@名無史さん:2023/05/17(水) 19:05:15.43 .net
>>228
いくら論点として面白くても長文ポエム垂れ流し君は「議論」をする気が無いからなあ。
論拠も論理展開も提示せずに譫言を書き連ねてるだけだから話にならない。

238 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:02:58.73 ID:pK7v7x2FW
>>236
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として

r=11.48494 2588111054424361684809286

239 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 07:14:31.68 ID:pK7v7x2FW
追加訂正
神宮をなめてるらしいオマエの主張は全部インチキ

天津神算木から、崇神紀の三輪からの半径r=3の円を考察するとき、円の面積sは

s=1 13.0973 3552923255658465516179806 1/3皇紀973年 仁徳天皇即位

皇紀は連綿として現代まで来ている。

三輪は3すなわち3.0ミワを示唆し。、三輪でない時代、後神武天皇崩御は1912年7/30のところミワ30を外して
1912年7月から半径 r=1.912007 としたとき、天津金木として円の面積sは

s=11.48494 25881110 54424361684809286 皇紀2588年11/10 皇紀2588年11/10 昭和天皇即位

これは神武から連綿として皇紀年代が継続している理証文証である。

240 :日本@名無史さん:2023/05/22(月) 14:43:16.00 ID:xcehyiXE6
>>237
まあ、ワイ説をたたき台にして、ああれでもない、こうでもないと議論に入るのがよい。
そもそも、崇神紀に「物部の連の祖伊香色雄をして、神班物者とせむと占うに、吉し」と書かれているが、
なぜ物部が「神班物者」にふさわしかったのか考えねばならない。
きみらは物部に詳しいのだから、その答えを出せるはずだ。
議論は、そこからはじまるのだよ。
わははははは。

241 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/22(月) 19:23:00.36 ID:cIsNFyX/K
ワは神国日本の0の時代、イは1の時代をいう。神武以前は1の時代であって、特別以外神州
に大陸人半島人は天帝の鎖国により入国できない。日神誕生からが1
の時代であって、イ人とやらも天帝の完全鎖国により渡海入国はできない。
このころ
金銅たる日韓の混血は水と油のごとく合金できない。混血は当時無い。純金であって純日本人だけだ。
混血許容はもっともっと後代のことである。大陸の真鍮と日本の黄金とはもともと「別」の近族である。

242 :日本@名無史さん:2023/05/23(火) 03:09:30.72 ID:Tc9+4X4j7
おめーのオジサンダジャレは、笑えねーよ。
今や、縄文+弥生人+古墳人の三重構造論の時代だからな。
どんだけの渡来者が来ているのか、計り知れんぞ。
実際、おめーの遺伝子は、大陸由来だったりしてな。
大笑いだ。
わははははは。

243 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/23(火) 09:32:13.98 ID:yQfkTHKSV
貴近族商に真鍮を黄金ですといって買ってくれと行っても、貴近族商は
このイカサマを完璧に見破る。銅アマ、これは黄金ではないですから買いませんと
これを拒否される。

朝鮮人女工作員よ
おめーは青銅の魔人の国(金兜山)の青牛怪の妖アマだ。

超太古の神国日本には天帝の天則にて大陸半島人は入国できない鎖国の
神策があって、百七十九年余前、宇宙船が九州クジフル嶽に天降り(着陸)
しての天孫降臨から悠久の時代の間天帝が純金を保持して来た。オマエの縁戚
の真鍮たる女真と、黄金の国ジパングたる 日本の黄金民族との合金(混血)
は天帝の外国人渡来鎖国天則のため、超太古の0(ワ人)の時代入国させない。
すなわち超太古のとき、純金たる天孫民族の日本人は銅という近族の
入国はできず、全く混血ができない。
だからこそ神国日本は萬邦無比の國體を誇るのである。

真鍮(女真)と黄金(日本)とは根源からして別の近族であって、
半島から物理的に流入しやすい九州四面に、古事記は悉く『別』の字をつけて
入国は水と油の如く混入しない「別」の近族だと分かる字の記述があって、混血は当時不可能事
である。
朝鮮人女工作員よ
いくらほざいても貴近族商はおめーの主張を認めない。
入国可能はもっともっと後代のことであり、金銅佛のような合金はできない。

オマエの国はあのブスの銅像を世界各地にぶっ立てるからして、銅級民族だと
判別できるのである。

 神州ハ不滅ナリ

244 :太国という人間の過ち:2023/05/24(水) 18:36:27.70 ID:y2LnSbJPM
明治維新と言う過ち

245 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 02:38:47.41 ID:h9GhC9wb/
饒速日は物部の祖という過ち。

246 :日本@名無史さん:2023/05/25(木) 21:34:24.36 ID:FK1JsyoWv
饒速日が物部の祖、天火明が天皇家の祖

247 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 02:06:39.30 ID:Px6hwC235
丹後の海部氏、熱田の尾張氏の祖神が、天火明だよ。
天皇家の祖神は、火の二二ギ。
その火の二二ギの兄が天火明。

物部の系図が信用できんのは、天火明を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、別々の神を寄せ集めていること。
火明も饒速日も、物部の祖神ではあ〜りません。

248 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 10:33:23.90 ID:KpMV074S2
海部氏も尾張氏も神武天皇の子孫

249 :太国という人間の過ち:2023/05/26(金) 12:16:51.82 ID:WXfK3Lri5
明治維新と言う過ち

250 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 13:21:54.54 ID:xB4SrGdop
神武が実在したと言う過ち。

251 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 14:10:26.45 ID:KpMV074S2
神武=天村雲

252 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 17:11:10.97 ID:xB4SrGdop
神武は天村雲とフツノ御魂剣を担いで、熊野の山越えにさぞかし重かっただろうな。
まあ、大河小説だから、そのあたりは歴史考証しなくていいか。

253 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/05/26(金) 21:22:52.99 ID:Bn/cIonQ1
御陵があるんだから小説ではない。

254 :日本@名無史さん:2023/05/26(金) 23:24:06.25 ID:KpMV074S2
神武と天村雲の妃の名前は同一である(阿平津媛)

天叢雲剣を所持していたのは瓊瓊杵尊と崇神天皇であることが、
はっきりしているが、三種の神器として天皇即位式に使っている
ことからして神武天皇も所持していたはずだ。
天叢雲剣の名の由来は種々あるが天村雲が所持していたからという
ことも多いに考えられる。
これも神武と天村雲が同一とする根拠だ。

255 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 08:58:19.29 ID:odY0Pf1ot
明治維新と言う過ち

256 :日本@名無史さん:2023/05/27(土) 15:52:29.72 ID:Voe9q1ggC
物部は天火明命と饒速日命の二柱の神を取り込んで、自族の祖先神としたようだ。

天村雲命は海部氏の祖神の天火明命の孫神というのが、海部氏の系図が示すところ。
これを見ても、物部は海部氏の祖神を自族の祖神として取り込んだことが分かる。
だから、天村雲命は物部の系統の神ではないよ。
饒速日にしても、物部が四条畷の馬飼いの神を取り込んだものだ。

しかし、天村雲命の名から書紀編纂室がムラグモの名を引っ張って来て、スサノオが天照大神にそのムラグモ剣を手渡したという話を作った可能性はあるかもな。

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