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崇神天皇と畿内「ヤマト」成立説

1 :日本@名無史さん:2023/02/13(月) 23:39:39.14 .net
3世紀から4世紀にかけて
纒向遺跡で見られる伊勢神宮、出雲大社の建築的源流の成立
そしてこの頃隆盛する物部系統の一族
銅鐸衰退、銅鏡隆盛と三輪山祭祀、箸墓古墳、伊勢神宮遷移
そして畿内「ヤマト」名称
この時期同時に発生しているこれらの謎

これは崇神天皇の時代に「邪馬台国」からヤマトの名ごと譲り受けた、又は奪った可能性があると考える
そしてそこに活躍した物部(大物主?)の存在

これらを強引に解釈しストーリーを作ってみる試み

試みなので異論は認める

291 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:04:03.13 ID:OBvPx942P
>>286
Fc2の「大王家巨大墳墓の埴輪製作をめぐる大抗争ー武埴安の変」には、「摂津三島岸部陶邑」と書かれている。
この陶邑は今の吹田市片山・岸部地域にあった窯のことであり、Fc2では「三島」と書いているものの、高槻の淀川沿いの三島を指していない。
「三島」とするのは、「三島郡」の意だろう。
この吹田市の岸部窯邑は、確かに高槻の新池窯ではないな。

292 :日本@名無史さん:2023/06/01(木) 17:22:39.05 ID:OBvPx942P
>>291
Fc2の「摂津三島岸部陶邑」は、おそらく吹田市岸部地域などにある「千里古窯後址群」のことだろう。
この古窯群は、5世紀末〜8世紀前半まで稼働したとされている。
饒速日が開いたとする陶邑は、これを指しているのではないか。
饒速日が現われたのは、5世紀末ということになるね。
物部氏が天理、交野に鍛冶工房を開いたのは5世紀後半とされるから、時期も合う。

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