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オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 05:52:06 ID:D5Gtogpx.net
1960年代と1970年代のクラシック録音の違いについて
60年代が音像のマッシブな実在感が強いのに対し
70年代は音場の広がりが優位になっている。
じゃあ、現在はどうかというと、段々と60年代に近づいていると思う。

おそらく、ヘッドホンでの試聴が多くなっているからだと推察するが
それと同時にポップスでシーケンサー打ち込みがデフォルトになるなか
楽器を演奏する人物がバーチャル化しないように苦慮しているようにも思える。
つまりコンピューターに負けない正確さと溢れる個性の発露が
現在の演奏家に求められる条件のように感じる。

一方で、1990年代から若手演奏家の消耗も激しい気がする。
つまり正確さへの極度の集中力を要求するあまり
肉体的な衰えのほうが先行し、円熟というものが無くなったのだ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 06:28:30.08 ID:D5Gtogpx.net
演奏家の円熟ということに目を向けると
今更ながら、カザルス&ゼルキンのベートーヴェン チェロ・ソナタとか
シェリング&ルービンシュタインのブラームス ヴァイオリン・ソナタのような
老大家が共演した室内楽曲が面白く感じる。
枯れた表現というべきだが、骨まで浸みた懐の深さがあり
個人の存在感など越えて、1音で空間ごと取り囲んでしまう。

とはいえ、ロストロポーヴィチ&リヒテルとかデュメイ&ピリスに比べ
繊細さや全体に盛り上がりに欠けるなど、様々な意見があるだろう。
しかし優越を競うという考えを超えたところに室内楽の楽しみがある。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 19:16:28 ID:D5Gtogpx.net
クレーメルが時折フューチャーする作曲家があって
最近ではヴァインベルクだが、ピアソラだったりペルトだったり
そこはクレーメルのこと、演奏でさらに磨きをかけて紹介してくれるのだが
斬新なアヴァンギャルドよりは、クラシックのコンサートに載せやすい
それなりに演奏しやすく聴きやすい楽曲を選んでいる。
例えば、同じミニマリストでもフェルドマンの長大曲に挑むようなことは全くないものの
クレーメルが演奏する「現代曲」は、普通に広告されて
ベートーヴェンやモーツァルトと並んで批評されるのは、何とも不思議な光景である。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 21:12:45 ID:D5Gtogpx.net
いわゆるニューロマンティシズムと呼ばれる作曲家のなかで好きな曲は
吉松隆 ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(シャンドス:1998)
ジョン・アダムス「ハルモニウム」(ECM:1984)
アルヴォ・ペルト「ヨハネ受難曲」(ECM:1988)
演奏・録音ともに的を得たもので、おそらく代表盤。
似た者探しでフィリップ・グラスなどが出てくるとブライアン・イーノなど
もはやクラシカルな楽器の存在すら怪しくなる。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 06:31:59 ID:U3BBb5D9.net
こうしたエレクトリックではないコンサート向けの作品がもたらすものは
オーケストラやコーラスという演奏団体が、欧米の市民社会の縮図のように
考えられてきたからだ。なのでポピュラーな装いが本質的に必要なのだ。

では、オーディオという電子機器で観衆との一体感を疑似体験する意味とは?
この音楽鑑賞という行為は、もともと貴族の宮廷楽団や音楽サロンに根差している。
このとき演奏家を兼ねた作曲家が最新の作品を献上するのが基本で
古い音楽はよほどお気に入りでないと長期間繰り返し演奏はされない。
サンドイッチ伯爵の開いた古典音楽演奏会(Concerts of Antient Music)は
18世紀末のバロック〜古典派への音楽スタイルの移行のなかで
急速に忘れられていくヘンデルやコレッリの作品を聴くための活動から始まった。
1826年にモーツアルト、1835年にベートーヴェンの作品が加えられ
現在のクラシック音楽のジャンル形成が行われていった。
イギリスがレコードを大事にするのは、こうした慣習が大衆化したからで
現在のオーディオの価値観もそれに準じているといえよう。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 07:35:33 ID:U3BBb5D9.net
もうひとつの伝統は家庭音楽で、特に鍵盤楽器の楽曲は16世紀に遡る。
グリークの抒情小曲集はもとより、シベリウスのピアノ曲はアマチュア用の佳曲も多く
アイノラ邸はボンヤリしたスタンウェイの音と共に聖地と化している。
おそらくフォーレ、ドビュッシー、モンポウと続くフランス印象派のピアノ曲もまた
広いコンサートホールよりはパーソナルな空間のほうが似合う楽曲である。

晩年のシベリウス自身は最高級ラジオで自作の演奏を聴くことが楽しみだったようだ。
ttps://www.youtube.com/watch?v=nuHwwhGw7qo
ttps://www.radiomuseum.org/r/telefunken_spitzensuper_7001wk.html
ちょうどマグネトフォンの開発と並行して製造されたもので
2wayスピーカーのHi-Fi仕様である。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 06:37:06 ID:Qg3V/lz2.net
日本では電蓄というと、粗雑な音の代表例に挙げられ
SP盤の再生はアコースティックな蓄音機が主流だ。
ところが、欧米の蓄音機はラジオと一体化した高級仕様があり
ライブ中継を放送することで、Hi-Fiの代名詞になっていた。

米Zenith社が1935年から製造した Stratosphere 1000zは
Jensen製の12インチウーハー×2本、業務用のQ型ツイーターを実装し
50Wのパワーアンプで周波数30Hz〜15kHzとトーキー並の実力をもつ。
Scott社の"the Philharmonic"は
SP盤の針音対策に10kHzのノッチフィルターを実装していた。

英HMVが1946年に開発したElectrogram 3000 De Luxeは
デコラにも搭載された楕円型フルレンジに2機に
デッカ製のリボンツイーターを搭載したものだった。
このツイーターは後に独ローレンツ製のものに入れ替わるが
いずれにしても、通常のSP盤再生に必要なレンジの2倍は確保していた。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 07:51:31.04 ID:Qg3V/lz2.net
オーディオ技術がもたらした家庭音楽の変革は
自宅でコンサートと同じような音響効果を求めることで終始している。
つまり、部屋では足らないエコーを足し、収まりきらない楽器の数を縮小配置する。
昔はS席で聴くオーケストラの音という言い方がされていたが
天井桟敷または指揮者の位置など、実際にはステレオ効果の理解は様々である。

シベリウスのピアノ曲集を色々と物色すると
BISやEMI、Naxosなどはコンサート会場を意識して収録されているものの
アイノラ邸での録音はともかく、地元のフィンランディア・レコードの録音は
部屋でそのまま聞くようなソリッドな音で収録されている。
日本ではエコーとロマンティックを同目線で見ている傾向があり
少し人気が出にくい録音かもしれない。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 07:59:25 ID:icdXas5W.net
シベリウスが最晩年の1951年から使用した電蓄はフィリップス製 FS173Aだろう。
スカジナビア支社がストックホルムにあり、新しいLPに対応する機種が贈呈された。
ttp://www.sibelius.fi/english/ainola/ainola_kirjasto.html
ttp://davidnice.blogspot.com/2010/04/sibelius-at-home-iii-tributes.html
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_radiogrammofon_fs_713a.html
出力管はEL41というEL84の前身となる小型管プッシュ
スピーカーは12インチのフルレンジでAD4200Mと同様のものだ。
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_ad4200_m.html
やや高域が強いようにみえるが、斜めから聴くとフラットになる
モノラル期に多いトーンである。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 11:28:34.21 ID:icdXas5W.net
北欧のオーディオメーカーは
昔からBang & Olufsenのようなデザイン重視のメーカーが有名だったが
高価な割にはサウンドがまじめで普通ということで
コスパ&スペック重視のオーディオマニアから白い目で見られていた。

デジタル時代に入って、Dynaudio、DALI、Genelecとスピーカーの分野で躍進したのは
その癖のない音と大入力でも歪まないタフさだろう。
一時はツイーターがスキャンピーク製で埋め尽くされるという事態まで生まれ
どのメーカー製でも金太郎飴のように同じ様相になった。

私自身が良いと思ったのは、こうしたオーディオ機器の平準化によって
レコード会社のサウンドポリシーが少しずつ見直されていることだと思う。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 18:45:03 ID:icdXas5W.net
北欧のメーカーにみられる均質な音調は客観的とも言えて
破綻のない表現はクラシックにおいてまず必要な要素ではあるが
あえて言えば10メートル先から見据えた楽器の音という感じもする。

実は楽器の距離感は親密感にも例えることができて
あえてマイクをクローズアップして楽器の質感を出すようなやり方も可能だし
少し残響を増やしてでも雰囲気を良くしたいということも可能だ。
こうした作品に応じた距離感の持ち方の違いが、最近は顕著に出てきたように思う。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/08(日) 08:13:41 ID:GYQI6tGe.net
Dynaudioで画期的だったのはBBCでのモニター採用で
BM5A〜6Aといったアクティヴ型小型スピーカーが選ばれた。
つまりLS3/5aの後継機種である。

ところが、これには英国のメーカーが黙ってはいない。
ハーベスやスペンドールが下りたのなら自分がと言わんばかりに
Stirling BroadcastがわざわざBBCのライセンスを取り付けて復刻版を出し
開発元のKEFはLS50と名乗うて同軸型の次世代版を出した。

しかし、Dynaudioの目指すニュートラルなサウンドポリシーと
KEFやロジャースの中高域の少し華やいだ音調とは大きな開きがある。
実際にBBCは、放送局としての中立的で安定した品質を求めていたのだと思う。
ネットオーディオへの柔軟な対応を考えると、余計な音は差っ引いてでも
トータルにサウンドを達観した判断が必要なのだ。

個人的には、Dynaudioのプロ用機種は録音品質の品定めはできても
演奏の魅力を引き出せるような類のものではないように感じている。
喩えれば、ファッションモデルの健康診断書をみて優良かどうか判断する感覚である。
ところが最後に行き着くのは、衣装のプロデュースに対する選り好みである。
好みの判らない人に、音楽のセンスを問うのは間違っている。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/09(月) 05:50:43.94 ID:7krmw5OS.net
Dynaudioのプロ用機種が無色透明かというとそうではなく
むしろ白いキャンバスのようにマットな感じである。
それは入念に歪み成分を取り去り、特にウーハーの受け持つ中域での
艶の落とし方に特徴のある感じがする。

逆に旧来のBBCのスタイルは、男性のアナウンスの声を明瞭にすべく
中高域に過度特性の多いユニットを選び
ネットワークでピークを抑えてフラットにするということをしている。
瞬発的には過度なビリつきが残るが、持続音では抑えるという感じだ。

中高域の過度特性はボイスコイルから出る共振なのだが
Dynaudioはそれをメカニカルに抑えることから設計している。
こうした場合、マッシブな音に対しては余裕をもって対応できるものの
繊細な音の反応については、多くの録音で沈んでしまう。
歪を抑え込んだとしても、ユニットの反応は依然としてダイナミック型のもので
リボン型やコンデンサー型のように早くもないのだ。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/10(火) 07:08:50.60 ID:qisATixd.net
こうした「正確な音」と「聴き取りやすさ」の線引きの曖昧さは
元をただせばオーディオ技術そのものの未熟さに起因している。
つまりスピーカーがボーカル域での自然な発音を保つための方策を
それこそスピーカーの発明された時期から模索していたことが挙げられる。

それはHi-Fi移行期の1948年にBBCが行ったモニタースピーカーの選別にも現れ
そのときの意見はデジタルに移行する1980年代まで有効だったのだ。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1948_04
このなかでISRKユニットの特性の特異性がその後も影響を与えていた。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
よくポリプロピレン独特の艶といわれるが、素材の問題ではなく設計の方針である。
放送局の性質上、様々な録音品質を扱うため得たノウハウかもしれない。
それが男声アナウンサーの声が明瞭に聞けることと関連していた。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/11(水) 22:59:04 ID:YzDDgpnl.net
聴きやすさを求めたとき、なんとなく思い出すのが
ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集のことだ。
演奏機会がけして少ないわけではないのに
ことスタジオ録音となると意外にまとまりのない対応を取る。
女神の気まぐれというべきだろうか?

モノラル期は戦前のワインガルトナーの全集から
戦後は散発的に録音され何となく全集が組める状態だ。
1番シューリヒト(1952)、2番シューリヒト(1952)
3番フルトヴェングラー(1952)クライバー(1955)
4番フルトヴェングラー(1952)、5番フルトヴェングラー(1954)
6番フルトヴェングラー(1952)、7番フルトヴェングラー(1950)
8番ベーム(1951)、9番クライバー(1952)

ステレオ期は1965〜69年シュミット=イッセルシュテットが
全集を入れるまでは以下のように散発的だった。
第九などはシュミット=イッセルシュテットがステレオ初録音だった。
1番モントゥー(1960)、3番モントゥー(1957)ショルティ(1959)
5番ショルティ(1958)、6番モントゥー(1958)
7番ショルティ(1958)カラヤン(1959)、8番モントゥー(1959)
この後のベーム、バースタインなどの全集が続いて
今のウィーン・フィルの風格が整ったといえる。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:04:22 ID:u9kwmeON.net
戦前のウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲は以下のとおり。
1番ワインガルトナー(1937)、2番クラウス(1929)
3番ワインガルトナー(1936)クライバー(1955)、5番シャルク(1929)
6番シャルク(1928)ワルター(1936)、7番ワインガルトナー(1936)
8番シャルク(1928)ワインガルトナー(1936)、9番ワインガルトナー(1935)
こうしてみると、なかなか敷居の高いのが判るが
楽友協会という文化財団の許可が難しかったのだろうか?
色々と考えてしまう。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:34:13 ID:u9kwmeON.net
ウィーンにゆかりのあった指揮者でベト全の録音は
シューリヒト/パリ管、クリップス/ロンドン響、ワルター/コロンビア響などがあり
シュミット=イッセルシュテットの全集は、誰もが意外に思ったようだ。
むしろ北ドイツに基盤をもつ指揮者が、たまたまバックハウスのオケ伴に選ばれた
それ以外に脈がほとんどないのだ。デッカ〜テルデックの繋がりはあったものの
例えばミュンヒンガーでも同じような結果が出せたのではないだろうか?
フルベン、モントゥーは頓挫した企画のひとつだったかもしれない。

思うに、ウィーン・フィルの残したい自画像はベートーヴェン演奏の規範であり
それがフルトヴェングラーの演奏にも表れているように思う。
大学教授も兼ねた演奏家を擁するウィーンの街がらとでもいえようか。
1970年代に入りベームの全集、クライバーの怪演、バーンスタインの全集へと化ける。
ちょうどマーラー時代を基軸に自己理解を進めた結果だと思う。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 07:34:32 ID:u9kwmeON.net
しかしウィーン古典派と呼ばれる人々は
ハイドンがエステルハージ、モーツァルトがザルツブルク、ベートーヴェンがボンと
本来の活躍地は別にあった。
その後のブラームスのハンブルク、R.シュトラウスのドレスデンなども顕著な例である。
しかしウィーンをゆかりの地と考える人は多い。いわゆる中央交差点なのである。

一方で、ウェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ワーグナー
ドボルザーク、シベリウスなど、この流派に属さないで独自の作風を開拓した人も多い。
広いハプスブルク帝国の領土内で帝都に赴かないのが自然でもあったのだ。

他の有数の音楽都市、例えばパリ、ロンドン、ベルリン、ペテルブルグなどは
外国人の作曲家を自分の都市の出身だとはけして言わない。
パリのショパン、ワーグナー、ロンドンのハイドン、メンデルスゾーン
ベルリンのバッハ、ペテルブルグのヴェルディなど、初演の名残もない。
ベートーヴェン演奏だって、ヨアヒム、ニキシュのブラームス派の影響のほうが
現在は遥かに大きいのである。
それなのにウィーンだけが特別に思われるのは、何か仕掛けがあるのだろう。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/13(金) 05:47:03 ID:68VSv2Vw.net
ウィーンが商業都市ではなく、帝都であったため
作曲行為を商業的成功よりも、あくまでも名誉の問題と考えていたこともある。
一方で、あくまでも僕の身分として従事しなければならないため
ハイドンは宮廷作曲家という職分よりも
ロンドンで音楽博士の称号を得たことのほうを大切にしていた。

バッハの場合だって、これほど世界中で演奏されるようになったのは
イギリスにおけるバッハ演奏の歴史があり、
メンデルスゾーンのマタイ受難曲の再演より以前の19世紀初頭から
市民会館でのオルガン建造と共にバッハ作品の演奏が頻繁に行われた。
それまでのイギリス国内のオルガンには足鍵盤が無かったのに
バッハ作品の演奏のために足鍵盤を付けたドイツ式オルガンが建造され
メンデルスゾーンはむしろオルガンの名手としても招かれたのだ。

しかしハイドン、バッハも長らくイギリス人演奏家のレコーディングが
どちらかというと亜流のように思われていた。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 06:51:21.35 ID:3cdWg6k7.net
最近になってオーケストラの自主レーベルがにわかに増え始め
設立当初からラジオ放送を手掛けたメトロポリタン歌劇場はさておき
ロンドン響、ベルリン・フィルなどメジャーどころも痒いところに手が届くように出している。
昔で言えば、バルビローリ/ベルリン・フィルのマーラーNo.9などが
オーケストラ団員の働きかけでレコーディングが行われたとか
極めて珍しいケースとして取り上げられていたが
ロンドン・フィルなどは、ガーディナーのメンデスゾーン、デイヴィスのシベリスなど
結構面白いタイトルを掲げて盛んにリリースしている。

個人的に面白いと思ったのは、室内楽の専門ホールによる自主レーベルで
Champs Hill Records、Wigmore Hall Liveなど、新人発掘に助力している。
特にChamps Hill Recordsの録音を聴くと、落ち着いて演奏に挑んでいるのが判り
ティモシー・リダウト(ヴィオラ)のヴュータン、ジェームズ・ベイリューのアーンなど
室内楽にとって大切な、気心の知れた雰囲気が容易に伝わる。
Wigmore Hall Liveでの録音は、一発勝負の緊張感がある一方で
檜舞台に立っただけで生硬い感じが残っていて、演奏に集中しきれていない感じだ。
演奏家のダイレクトな鼓動が伝わるだけあって、こうした点は意外に大事だと思う。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:38:00.67 ID:3cdWg6k7.net
ベルリン・フィルがパナソニックと組んだデジタル・コンサートホールは
まだ始まったばかりでそれほど浸透はしていないものの
ネットでの配信という点では全く斬新なやり方だと思う。
ただ従来のレコード市場を柱としたやり方に背を向けた点と
映像とセットというのが、オーディオ・マニアには対応が難しいなど
様々な課題はあるように思える。

できれば、音楽祭などのように多彩な顔触れが揃う機会に
こうしたオンデマンド配信のシステムが整うと
全ての演奏者に平等に聴く機会が与えられるように思う。

こうしたやり方は、実は戦中のフルトヴェングラーのように
無人ホールでの放送ライブというのもあったりして
意外にメディアのなかでは普通に行われていたことだが
有料コンテンツとして加入するのが新しい試みだと思う。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:52:19.34 ID:3cdWg6k7.net
とはいえ、YouTubeなどで大量に配信される情報量にくらべ
漂流しがちなライブ映像に対し、ある種の対抗策というのが実際だろう。

ただ、YouTubeにあった収録方法というのがあって
美貌をもった情熱的な演奏で知られるピアニストも
CDでリリースしてみると、ダイナミックに欠けるすごく表面的なことも多い。
いわゆるポピュラー系の音作りのほうがネットでは映えるのだ。

そうしてみると、パソコン、スマホなど様々なメディアでの試聴が可能というのは
ちゃんと最適化したダイナミックレンジで提供しないと、聴き映えがしないことになる。

その意味ではDSD相当の高音質配信で聴くためのネットワークサーバーと
その再生環境を自宅で確保するというのが、意外に難しいことに気付く。
そっちの投資のほうが、本来は費用も手間もかかるはずなのだが
むしろテレビ、ブルーレイという家電製品でチップ化されているのが現状である。
デジタルだから音は一緒というのは、もう言い訳として成り立たないだろう。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:01:18.59 ID:3cdWg6k7.net
ネット配信による試聴の利点は、媒体が流動的で小回りの利くことだが
従来のレコード〜CD路線のほうは、出版というスタイルに似ている。
古い録音の盤起こしなどみて判るが、ハードウェアとして拡散して保管されることで
大元のテープがダメになったとしても、何らかの形でサバイバルする可能性がある。
流動的なソフトウェアは、20年前のスクリプトが起動しないなど、意外に問題があるが
レコードにはそういう不手際はあまりないのだ。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:07:25.13 ID:3cdWg6k7.net
少し変な話で恐縮だが、デジタル録音でも最初にリリースされたCDと
後で再販されたものとで、どういうわけか音が違う感じがある。
ちょっとしたマスタリングの差なのかもしれないが
再販盤はなんというか濃密さが足らない感じがする。
あるいは数値では現れにくいマスターのビット落ちがあるのか。
デジタルなだけによく分からないのである。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:17:15.19 ID:3cdWg6k7.net
あとネットの聴き放題サービスで24bit/94kHzのHD対応という触れ込みであっても
掲載された音源が明らかにMP3相当で、高域にチリチリとノイズの乗ったものも散見される。
レンジが広いという程度ではどうしようもない音なので
基本的には元のCDなりを購入したほうが、本来の音で聴けるように思う。
ただ廃盤になった録音も少なくないので、そういう便利さはあると思う。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:29:19.62 ID:EEYtOd5T.net
ベルリン・フィルがネット配信に動き出した背景には
パッケージメディアを柱とした従来のレーベルでクラシック録音の売り上げが低迷し
交響曲の全集を録音するような企画が無くなったからだという。
ある意味、フルベン、カラヤン、アバドと一時代を築いた録音群に対して
常に歴史的な意義を見出すような高尚な競争が待ち構えており
そういう課題をこなしつつレコーディングし続けるプロデュース力が枯渇していると言える。

私なりに思うのは、ヨーロッパの抱える問題、例えば人種問題などについて
クーベリックが抱えていたような暗い影のようなパッションが足らないと思うのだ。
むしろそういうローカリティのなかで輝くヒューマニズムの意味を
楽観主義的なハーモニーで覆い尽くすのに飽きてきたというべきかもしれない。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:44:38.23 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックが抱えた闇というのは、最も洗練された語法をもった指揮者が
その極みにあって評価をバイエルンという土地だけに埋もれさせたことである。

例えばシカゴ響の監督にとフルトヴェングラーに推薦されたときに
フルベンが若いクーベリックに何を感じ取ったかというのは不明だが
戦前のフルベンの流れるようなテンポのゆらぎを聴くとき
そもそもオーケストラの歌わせ方に共通点があるように思える。

実際に次世代の扉を開いたのはカラヤンだったのだが
クーベリックのもつ歌はもっと伝統的なフォルムを感じる。
それが音楽にあらがわない自然なものであるだけに
誰もが普通のものとして聞き流してしまうかもしれないが。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:18:14.01 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックのブラームス全集には2種類あって
1950年代のウィーン・フィル、1980年代のバイエルン響とのものだ。
基本的な芸風は変わらないのだが
ウィーン・フィルのほうがインテンポのなかでメロディーを色濃く歌わせる方針に
まだ十分に慣れないまま進行していくのに対し
バイエルン響のほうは完全に掌握した感じに練り上げられているのが判る。
一方で、ウィーン・フィルの音色には言いようのない魅力があり
バイエルン響の少しソリッドな弦の質感は録音のせいでもあるが
陰りのある木管の響きから浮いてしまう感覚もときおりある。

このバイエルン響のブラームスは実に歌にあふれている。
森のなかに彷徨うような感覚は、木を見て森を見ずの諺とは逆の
枝葉が生きようと伸び続けることを繊細に描き出すことで
自然な木漏れ日を生み出すような、大らかな気持ちに覆われる。
一方で、そこには生も死も同居しながら季節をめぐるのである。
その無言の暗がりの存在が深く重いのだ。
インテンポでバッサリ切られるからだろうか。余韻のない静かな死である。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:46:56.32 ID:EEYtOd5T.net
クーベリック/バイエルン響のブラームスSym全集は
売り出された当時は、演奏内容よりもオーデイオ的な魅力のほうが話題になった。
残響で覆い尽くさずにディテールを明瞭にした演奏そのものが
これまでのブラームス、しいては交響曲の録音の常識をやぶるものだったし
1980年代のオーディオファイルの志向とも合致していたのだ。

一方で、この演奏のもつ、楽器に優越をつけず均質に歌わせるポリフォニックな手法は
例えばカルロス・クライバーが全集にたどり着けなかった内容のものだが
そういう評価は、クーベリックの醒めた目線からは伺い知れなかった。
時代の志向は、カラヤンの透徹した構成、バーンスタインの情熱のほうに向いて
クーベリックのもつ洗練されたアンサンブルには興味を抱かなかったため
マイナーレーベルのオルフェオからライブ録音のみが残されたのだ。
カリスマのいない現在の楽壇で、マニエリスムの意味を問うとすれば
技法の完成度という点でクーベリックの演奏は興味深いのである。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:25:47.45 ID:EEYtOd5T.net
こうしたメロディーをコンパクトにまとめながら色濃く歌わせる手法は
同じチェコのスメタナ四重奏団やフィルクスニー、ブレンデルにもある特徴である。
室内楽やピアノの分野では、マニエリスムというのは悪い評価にはならない。
しかしオーケストラとなると、なにか派手なものを求めがちで
タレント性の強いスター指揮者の話題でもちきりになる。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:40:24.81 ID:EEYtOd5T.net
バーンスタインには面白い癖があって、過去の録音との比較をしたがる点だ。
マーラー全集で、大地の歌:ウィーン・フィルvsワルター
千人の交響曲:ロンドン響vsホーレンシュタイン
第四番:アムステルダム・コンセルトヘボウ管vsメンゲルベルクなど
歴史的な分岐点に立った演奏についてコンプレックスをもっていて
同じオケを振ってそれを克服せずにはいられないらしい。

しかし、こうした過去の音盤をひっくり返し試聴すると
むしろその作品の特徴が浮き彫りになるのでさらに面白い。
それだけ各録音の演奏スタイルが個性的だし
単に楽譜通りという筋書きに留まらないパッションがある。
むしろそれこそがバースタインの表現したかったことなのかもしれない。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 06:07:21.70 ID:0ugeR+aB.net
もともとオーディオはHi-Fi録音を正確に再生する装置なので
大体どれも一緒というのが当たり前のように思いがちで
特にCD、SACDと進むにしたがい、上流の水源の質は格差が縮まった。
少なくとも、誰のどの時期の演奏かぐらいは検討がつくのだが
これはクラシックの鑑賞にとってとても重要なことだと思う。

その一方で、どうしてもその演奏の良さが思い至らないものもあって
何か再生機器の不都合というか、相性のようなものがないか、と考え込んでしまう。
この演奏に対し、この録音品質が魅力的だと思うツボがあるはずなのだが
どうにも思わぬところを掴まれて、身動きのとれなくなっている感覚である。

特にモノラル録音の名盤というものは、なかなか厄介で
例えば、ワルター/ウィーンフィルのマーラー大地の歌などは
楽器の遠近感が定まらないまま、全ての楽器が近視的に密集して
どうしても後年のステレオ録音の自然な音響と比較してしまう。
フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのシューベルトNo.9なども
ティタニアパレストの低音がドーンと残る独特の響きを利用したライブに比べて
ドライブするポイントにどこかブレーキが掛かっているように感じる。
どちらも首の座りが悪くて、チャシャ猫のようにクルクル浮遊しているのだ。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 07:45:14.66 ID:0ugeR+aB.net
もう少し時代が下ると
EMIとデッカの録音のどちらに焦点を合わせてステレオを調整するかが鬼門で
デッカに合わせるとEMIは霧のかなたで鳴っているようになるし
EMIに合わせるとデッカはメッキがはげて装置全体のグレードが判ってしまう。
そこにコロムビアやRCAの録音が加わると、何が正しいのか全く分からなくなる。

ステレオの定義も曖昧で、初期ステレオでのシンプルなマイクアレンジから
マルチマイク収録に差し掛かるあたりの楽器の切り貼りが目立ったりする。
場合によっては、ピアノが左、バイオリンが右という録音もあって
これだとモノラルでも聴き映えのする装置でないとバランスを失うことが多い。

1960年代をを制したかと思って、1970年代の録音を聴くと、音が薄くて遠い。
こうした堂々巡りを繰り返しているのが、クラシック愛好家の運命なのだ。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 06:45:41.97 ID:X0EZK2wT.net
クラシックをオーディオで鑑賞するというのは
実際にには音質の良し悪しではなく、演奏の良し悪しである。
演奏の良し悪しが判る装置というのが最低限のラインとなると
それほど敷居が高いわけではない。
しかし演奏の良さを効果的に引き出すとなると話は別である。

実にオーディオのダイナミックレンジは、人間の話声ですら十分に対応できない
ある種の限定された規格の上に成り立っている。
なので上澄みを掬い出して、デフォルメしてやらないと、ちゃんと聞こえない。
演奏の良さを引き出すとは、少しデフォルメした状況を良しとする。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 07:36:24 ID:X0EZK2wT.net
例えばタッシェン・フィルハーモニーのベートーヴェン交響曲全集などどうだろうか?
弦をソロにした最小人数のオーケストラだが、シンフォニックな響きの追求よりも
楽譜の構造が透けてみえるような演奏で、なかなか面白い。

この編成の演奏は、アンサンブル・クリストフォリがピアノ協奏曲で提示したもので
ツェルニーがピアノ協奏曲の理想的な聞き方として記述したものだが
音楽サロンを催す邸宅での試演などは、この手の構成が主だったと考えられる。
後期作品でコントラバスが一言物申すのが良く判る。

モーツァルトの弦楽四重奏の演奏では、作曲家のみの私的な交流のため
自ら演奏し互いに楽器を持ち換えて楽曲を鑑賞したというのも
室内楽で作曲技法の精粋を究めるということがあった。

オーディオの私的な聞き方は、意外にこうした行為と連動しているのかもしれない。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 17:21:50.04 ID:X0EZK2wT.net
タッシェン・フィルハーモニーの録音について
バイオリンのキーキーする音が目立つというのがあるが
悪い意味で高域にリンギングが残っているからで
なおかつ中域のレスポンスが遅れて引っ込んでいるためでもある。
おそらく1980年代の古楽器オーケストラに当てられた
弦に潤いがないという意見も、実は同じ種類のものである。

もうひとつは、コンチェルトグロッソから発展した交響曲の成り立ちの理解である。
管楽器がソロなら、弦楽器にもソロの役割をもたせることで
例えば、英雄と運命のシンフォニーの定義の違いも明らかになる。
普通は英雄は大構成、運命はそれより機能性のあるアンサンブルが求められる。
しかし、田園との対で考えると、英雄は古い様式に沿って作られていて
各楽器の奏法がより固有のものに回帰している。その意味でバロック的なのだ。

そこのところを押さえずに、オケ全体のマッシブな響きにこだわることで
弦楽器のコンチェルト的な役割を理解不能なものにしてしまっている。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/24(火) 07:36:34 ID:6DEV3qbX.net
クラシックの面白いのは、楽譜というキッチリした形式によりながら
それを演奏する際に多様な解釈を認めるという点にある。
最も顕著なのは編曲で、ピアノ曲の管弦楽版、交響曲のピアノ編曲など
様々な方法があるが、それぞれ楽曲の本質に迫るものとして評価される。

とはいえ、タッシェンフィルの演奏を、ベルリンフィルの演奏と比べると
同じベートーヴェンの交響曲であっても、交響曲の意味そのものを問うような
面白い視点を与えてくれる。実は両者共に自主レーベルでのパッケージだ。

最近になってシェーンベルク主催の室内楽構成の編曲が増えてきたのは
オーケストラ運営が難しくなってきているからではないだろうか。
そういう模索が聴き手のほうにも求められている。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/25(水) 07:14:13 ID:/C7NQJQi.net
シェーンベルク主催の私的演奏会の演目は
資金面のほうで限度があったものの、20世紀初頭の現代音楽の叡智を集めたもので
よく「グレの歌」と「室内交響曲」との比較で語られることが多い。
もちろんその後の12音主義、新古典主義の流れを作ったのも確かだが
マーラーやブルックナーの交響曲の室内楽編曲版を聴くと
フルスコアの状態では聞き逃していた骨格が見えてきて
同時代のキュビズムはもとより、ムンクの版画のような
モチーフを再構築することの意義も見えてくる。
実際には、こうしたことは音楽サロンの試演ではよく行われており
リストなどのヴィルトゥオーゾは、様々な変奏曲、幻想曲で再解釈を披露していた。

よくピアノ編曲版というと、カラー写真を白黒コピーしたように思われがちだが
タール&グロートホイゼンの演奏するドビュッシーの海、R.シュトラウスのテイルなどは
アルバム名が「Color」というように、その色彩感が管弦楽というパレットに寄りかからず
改めて作曲技法そのものが色彩感のあるものだと実感させてくれる。
オーディオ的には、2台のピアノというのは結構ハードルの高いものでもあり
テイルでのモチーフの切り分けで、瞬時に場面が展開するときの表情が
単調に聞こえないかなど、ピアノらしい音色に囚われない再現が必要である。

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