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オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:05:19.52 ID:6w1XUkZx.net
「〜の王道」という言葉は
オーディオにとっては金次第。
ならば、徹底的に狡猾であれ。
  音質なんて空気のようなものに頼るな。
  他社製品を貶めてまで称賛せよ。
  貧乏マニアの多いことを誇大広告せよ。
  中古品と「もったいない」を葬り去れ。
全ては「オーディオの君主」たるものに
ふさわしい礼儀と言葉を弁えよ。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:21:08.67 ID:6w1XUkZx.net
ルソーの「君主論」の評価に
  国王たちは人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる
というくだりがある。
これをそのまま読み替えると
  オーディオマニアは家電オーデイオが安かろう悪かろうの妥協の産物であり
  それより2ケタ多い投資をした自分の機器の足元に及ばないことを望んている
という論法が成り立つ。

ここで中身を検証すると
  オーディオメーカーの屋台骨は生産台数の多い家電オーディオにある
  価格が安くても音が良いオーディオ製品はほどほどに存在する
  多大な研究費を投じて造られたフラッグシップ機器はただの看板商品である

この結果から得られる教訓は
  オーディオマニアの多くは家電オーディオの消費に支えられつつ
  メーカーの看板を買ったことで満足している
ということになる。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:34:55.39 ID:6w1XUkZx.net
メーカーの看板商品=フラッグシップ機は
いわばメーカーの存在意義を掛けた名誉そのものでもある。

それゆえ、オーディオマニアは、メーカーの名誉を買った者として
自分の勲章のように自慢したい。あたかも自分の名誉のように。

その意味では、フラッグシップ機には一種の人格が備わる。
機器ごとの個性とも言われるが、単なる違いだけではない。
トータルな品格ともいうべき、存在感があるともいえる。

それゆえ、オーディオ機器の品格が音楽を引き立て
あたかもそれ自体が芸術的行為のように称賛する。
鳴っている音楽ソフトが芸術性の源なのにも関わらず。

ここで得られる教訓は以下のようになる。
  フラッグシップ機には品格ともいうべきオーラが存在するが
  オーディオマニアはそれを所有する名誉のほうを重んじる
  たとえ鳴ってる音楽が誰でも同じ価格で購入できるとしても

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:56:02.56 ID:6w1XUkZx.net
ヴァルター・ベンジャミンは「複製芸術論」のなかで
レコードは生音とは異なる複製品であるにも関わらず
人間はそこに記録されている一種のオーラを感じとっている
そのような内容を記していた。まだ蓄音機しかなかった時代である。

日本の音楽批評家 野村あらえびすは「名曲決定盤」は
レコードに備わるオーラの存在を文章にした初期のものである。
まだその頃はオーディオ批評なるものは存在しなかったが
コロンビアの卓上電蓄よりも米ビクトローラのクレデンザのほうが
音の良いことくらいは誰でも知っていた。

野村あらえびす氏の決定的な違いは
どのような機材で聴こうと、音盤に蓄えられた音楽の内容は変わらない
という人間の感性の不変性を訴えたことにある。
作曲家と演奏家の歴史的背景、お国柄、演奏姿勢など
その文面はその時代の演奏家のポートレイトとも読み取れる。
レコードジャケットもなく、そこに解説など付かない時代に
同じ金銭で買うレコードに優越をつけて価値観を形成した。

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 07:12:05.79 ID:6w1XUkZx.net
野村あらえびすの時代は、SP盤の蒐集だけで巨大な投資を必要とした。
それほどレコードの価値が高かった時代でもある。
その一方で、現在の状況は新譜でも3,000円は高いほう。
かなりのオマケが付いて(例えば握手とか)売れ行きを伺う次第。
音楽ソフトのそのもののオーラは、それほど価値が高くない。

そこで、音楽ソフトの価値を高める再生機器の存在が浮上する。
レコードのもつオーラが相対的に下がっている現在
その価値を他人にも認めさせるための道具がオーディオである。

それゆえに、オーディオの価値とは
音楽のすばらしさを、その愛情に応じて投資しているという
所有者の自尊心そのものを示している。

ここで得られる教訓は
  オーディオは音楽のオーラを聴き取る手段であるが
  オーディオマニアは機器の性能がオーラの価値を高めると信じる
  そしてその価値観の高揚を、自分の手柄のように自慢する。
  オーディオとは音楽への愛情を示す自尊心のための道具である。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 08:10:27.23 ID:6w1XUkZx.net
オーディオ批評の初期において、五味康祐の存在は際立っている。
野村あらえびすが「銭形平次」、五味康祐が「柳生十兵衛」と
共に時代小説で名を馳せたのは、なんとも奇妙ではあるが
音楽の評価に文筆力が発揮された好例ともいえる。

実はあれほどタンノイに御執心だったにもかかわらず
タンノイのどこが優れているかは少ししか文章にしていない。
あえて言えば、ユニット単体で買ったタンノイと
オートグラフに入れたタンノイとでは全くの別物であり
その違いについて自分なりに考察しているだけである。
むしろ自分がどれほど感動し興奮しているかを描写し
機材による音楽の伝わり方の違いを強調する
  洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焔
  そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
  優秀ならざる再生装置では、出演者一人一人がマイクの前にあらわれて歌う。
  つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。

実はこれが五味康祐がオーディオ批評のなかで展開したオーラの正体であり
オーディオがレコードの価値を高める装置として覚醒した瞬間でもある。
  同じピアノでもベヒシュタインとベーゼンドルファーでは違う。
  ピアノという楽器の音でも、この違いはそれを選択する者の
  生き方の違いにつながる場合だってある。単に音とは言え、こわい話だ。
  そういう生き方につながる意味でも、わたくしはタンノイをえらんだ。

ここでオーディオマニアの君主論は以下のように展開される
  音楽が人生観に多大な影響を与えるとすればオーディオ装置にも同じことが言える
  オーディオ機器の選択の良し悪しは人間の生き方にも影響する
  自我の存在感を芸術鑑賞に委ねることは無限の価値を有すると信じ切っている
  そのための価値観としてオーディオ機器もまた自我を有する作品のひとつである
  オーディオマニアは自分の人生観よりもオーディオ機器のサクセスストーリーを好む

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 08:26:24.00 ID:6w1XUkZx.net
オーディオ機器のサクセスストーリーとはブランドイメージを意味する。
たとえ長く日本に置いてあって、湿気で木材がドンヨリ重たくなっていたとしても
国内産の箱よりもスコットランド産のオリジナルのほうが価値がある。
なぜならそこにブランド神話となりえるオーラが存在するからだ。

オーディオ機器の購入者をユーザーとは言わずオーナーと呼ぶ
このことさえも王侯貴族が召し抱えるという自尊心を示している。
家電のオーナーといえば大株主か創業者一族という感じだが
オーディオ機器のオーナーはかなり敷居が低い。

オーディオマニアの君主論は、それを所有する人が喜んでもらえるなら
用語の品位を上げることも必要となろう。それで価格が2倍で売れるなら。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:48:01.11 ID:b0CCYjf8.net
バルカン星へようこそ!  .
://i.imgur.com/cv5TNaX.jpg ://i.imgur.com/rtk1XiX.jpg

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:48:25.84 ID:b0CCYjf8.net
Tomorrowland 登録者数 812万人 Tomorrowland 2012 | official aftermovie
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/UWb5Qc-fBvk!PUsN8M73DMWa8SPp5o_0IAQQ#MIX
://youtube.com/embed/UWb5Qc-fBvk

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:51:53.39 ID:b0CCYjf8.net
BABYMETAL検索いろいろ ://refind2ch.org/search?q=BABYMETAL
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&num=100&ie=utf-8
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&source=lnms&tbm=isch&sa=X
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=vid
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=nws
://www.google.co.jp/search?q=BABYMETAL&biw=1368&bih=966&tbm=shop

BABYMETAL - ギミチョコ!!- Gimme chocolate!! (OFFICIAL)  
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/WIKqgE4BwAY!RD7NL1u9G5CbA
://youtube.com/embed/WIKqgE4BwAY
BABYMETAL - いいね!- Iine! - Live in TOKYO 2012 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/f7OLcw9OKHU!RDf7OLcw9OKHU
://youtube.com/embed/f7OLcw9OKHU
BABYMETAL - LIVE 〜LEGEND 1999& 1997 APOCALYPSE〜 Trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/E89u4rOG0CY!RDE89u4rOG0CY
://youtube.com/embed/E89u4rOG0CY
BABYMETAL - LIVE IN LONDON -BABYMETAL WORLD TOUR 2014- trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/7NL1u9G5CbA!RD7NL1u9G5CbA
://youtube.com/embed/7NL1u9G5CbA
BABYMETAL - LIVE AT BUDOKAN 〜RED NIGHT& BLACK NIGHT APOCALYPSE〜 Trailer 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/RZ4Fzp33mGk!RDRZ4Fzp33mGk
://youtube.com/embed/RZ4Fzp33mGk

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:55:35.59 ID:b0CCYjf8.net
Star Trek Beyond: Starbase Yorktown Introduction Sequence
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://youtube.com/embed/eZTnSxW4pOI

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:56:43.55 ID:b0CCYjf8.net
【4K】Roppongi - from Roppongi hills to MidTown - Phil Sheeran - More Questions 
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13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 11:57:31.70 ID:b0CCYjf8.net
あなたの耳にスマートな響きを!
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14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:07:54.87 ID:b0CCYjf8.net
Exclusivel 2301 Oldplayer.ru 
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15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:11:39.83 ID:b0CCYjf8.net
Ramsey Lewis - Love Notes
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://youtube.com/embed/LVmpNBa4hcM

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:22:42.97 ID:b0CCYjf8.net
Joe Sample - Rainbow Seeker II
http://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/UXM-w19gz7g!OLAK5uy_mOhvFqPqMzH7Oo1eBcHZWgto2y_VpxiIA#MIX
http://youtube.com/embed/UXM-w19gz7g

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:26:33.75 ID:b0CCYjf8.net
Gregg Karukas - Believe in Me
http://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/ex9naPfO53Q!OLAK5uy_kzeBk57mYGh6qJqsDKksLp-KZdaxSy2aY#MIX
http://youtube.com/embed/ex9naPfO53Q

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:28:41.35 ID:b0CCYjf8.net
Dubai Mall - World's largest Shopping Mall
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://youtube.com/embed/HksDvkX6Bjk

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 12:30:16.43 ID:b0CCYjf8.net
【4K】Roppongi - from Roppongi hills to MidTown - Phil Sheeran - More Questions 
://youtubetv.atspace.cc/?sop:v/1BH_BD5J_iw!RDHEt6c_hdjLsq7uWkF_B5IL0AOVexJV-plMPudYuEiCVZM6!8nc93n-06GM!PLZVnoUeSWKGXozAzao7WK70jPczw4HM5L#MIX
://youtube.com/embed/1BH_BD5J_iw

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 17:18:06.99 ID:52bihHPf.net
とはいえ良い意味で念入りにチューンアップされたオーディオ機器も存在する。
これは数百万もするハイエンドに限ったことではない。
カタログに美辞麗句で埋め尽くされた製品よりも
手慣れた手法で造り込まれた中級品のほうが良い場合も多い。

ただ音楽を聴くために機能に絞ったといえば、聞こえは良いが
中堅機の購買層には意外に音楽そのものへの知識が十分でない場合もあり
昔から言う音楽ファンのためのリーズナブルなチョイスというのが
あまり喜ばれない傾向がある。
そもそもオーディオ道楽そのものが不要の用のようなところがあり
購買意欲、所有することの満足感を促す広告、批評は不可欠かもしれない。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/28(日) 17:46:05.41 ID:52bihHPf.net
一方で、宣伝効果を求めるあまり
音楽とはあまり関係のないコメントも多々ある。

クラシックの試聴で、ミケランジェリ、クライバーのような
通常のレベルを超えたマエストロの録音を試聴に使っては
演奏への理解の限界のほうが際立ってしまう。
このような演奏へは、オーディオ的な機能性の咀嚼は
ほとんどの場合、底の浅い言葉の連続に、無意味になる。

例えば、ミケランジェリのドビュッシー 映像などどうだろうか。
全ての音が必然的な響きとして収まり、不自然なところがない。
この音楽の自然な流れというのは、オーディオ批評の美辞麗句では
とても埋め尽くせない。1971年のアナログ録音なのに
まるでカメラでクローズアップしたり、パンフォーカスで引いたりしたように
全ての音が明瞭でありながら、どこまでも融け合っている。
これは、ただワイドレンジである以上に、高域と低域のレスポンスが揃い
タッチの硬さ柔らかさを瞬時に描き分ける能力が必要である。
しかし、こうした基本的な機能性は、地味なだけに気付きにくい。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 06:49:00.26 ID:ygOSEFxP.net
ミケランジェリ、クライバーが共に共通するのは
コンサートでのサボリ魔としての浮名である。
その日の気分で、何かしら理由をつけてコンサートをキャンセルする。
そうしたことから、ライブで聴くことの希少性も手伝って
ほんの数枚のレコードが伝説的になっている。

クライバー/ウィーンフィルのベートーヴェン 運命&7番の場合
両者の相性の良さと相まって、はち切れんばかりの生命力に満ちている。
何よりもウィーンフィルがこれだけ仕事している感じを醸し出すのは
ほとんど稀有の事態でもある。ともかく聴かせどころを次々に連発し
ウィーンフィルのヴィルテゥオーゾ性を古典作品で存分に発揮している。

しかし、デュナーミクの対比、全体のバランスが
通常の演奏に比べると、裏をかくように変化をつけている。
それが自然な人格的な一致で語られているところが
やはり破天荒だったベートーヴェンの性格とも重なってくる。

こうした演奏をオーディオ的に吟味する場合
オケの細部がどれだけ聞けるか? 楽器の定位感のパースペクティブは?
こうしたオーケストラ作品の再生のポイントとなる面を挙げるだろう。
しかし考えて欲しい。この録音は1974、76年のものであり
ステレオに奥行き感を盛り込んだ初期のものであったことを。
マルチマイクによって楽器のクローズアップはされているが
その混ざり具合は、アナログ的な溶け合いのなかで描かれている。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 07:16:41.99 ID:ygOSEFxP.net
クライバーの運命&7番で重要なのは
それがウィーンフィルの音であるという点だ。

昔のファンなら判るが、当時はレーベル毎のサウンドカラーが強く
デッカ、EMI、グラモフォンとそれぞれが全く異なっていた。
そのなかでグラモフォンの録ったウィーンフィルは
デッカの煌びやかさに比べ、蝋燭の光で照らし出した少しマットな光沢である。

おそらく比較する音として、ベームの全集をもっておくと便利かもしれない。
大学教授が集まった伝統的なカペルマイスターの仕事ぶりがある一方で
時代の一歩先に進もうとクライバーを好んだ面も伺える。

この少し後の時代には、ウィーンフィルはもっと国際的な機能性をもった
芸風に変わっていくのをみると、クライバーの演奏はひとつのピリオドを示す。
バーンスタインやアバドなど、情熱や精緻さを注ぎ込んだ演奏も出てくるが
作品論ではなく、文化そのものを体現できるマエストロはそれほどいない。
鑑賞というより、体験する時間をもつことが大切なのだと思う。
クライバーの演奏は、在り来たりな言い方をすれば
ベートーヴェンの時代と現代とを結ぶ文化的な体験そのものなのだ。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/29(月) 07:54:59.02 ID:ygOSEFxP.net
さて、オーディオ談義のほうに戻ると
1970年代のクライバー&ウィーンフィルの再生に必要なものとは何だろう?

ひとつはウィーンフィルの光沢感をいかに綺麗に出すか。
ほとんどの人はツイーターの音色を挙げるだろう。
例えば、ハーベスのような艶やかさ、あるいはクォードのような繊細さ。
逆にタンノイのようなゆったりとした低音に支えられた腰の強い高域。
こうした表面的なものは、木管群の大胆なコントロールを見逃す。
つまり、中域の表現が沈み込んだシステムでは
オケをコントロールしている機構を把握しきれない。
しかしウィーンフィルはウィーンフィルである。

低音の引き締まった刻み具合はどうだろうか。
1974年はアブソリュートという言葉がようやく出てきた頃で
ただホールらしさが出てればオーケストラらしいという
手ぬるい表現が難しくなった時代である。
その再生能力を試すソフトとして、クライバーのベト7番は最有力だ。

現代のシステムで考えると
低音の引き締まりというのは、むしろタイト過ぎるくらい良くできている。
むしろアナログ録音に特有の艶やかさが出しにくいと思う。
1970年代の録音は少し倍音を補足して滲ませないと美しくないし
ダイレクトに鳴らすとギスギスした感じを出すことがある。
倍音の良く出る真空管プリアンプ、ドライブ力の強いパワーアンプという
少し相反した組合せを当て込むという指針だ。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/30(火) 06:50:30.82 ID:GwPYN1Gv.net
1970年代で気を付けたいのは
録音側でのソリッドステート化が急激に進んだことだ。

それまでの真空管&トランスで培われた音質
つまりパルス波のオーバーシュートによる光沢感と
磁気ヒステリシスによる音の粘りが失われる途上にあった。
アンプはトランジスターによるDCアンプが主流となり
スピーカーでは高調波歪みを抑えた引き締まった音質が好まれた。

とはいえ、1990年代以降のように歪みが完全に制御されておらず
そのことがスピーカー特有の癖に結びついていた。
ロジャース BBCモニターとB&W 801を比べれば
その傾向の違いはよりはっきりするだろう。
むしろB&Wなどでクライバーのベト7をモニターすると
楽器の遠近感の詰めが甘いことが判るかもしれない。
その意味では、もう少し漫然と鳴ってもらったほうが良いのだ。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/03(土) 06:20:10.91 ID:94IjjY6r.net
クライバーのベト5&7番が漫然と鳴ってほしい理由は
ウィーンフィルが一丸となって威力を放っているのを
あえて分析的に聴く必要が感じられないからである。

あえて言えば、アスリートとボディビルダーの違いであって
しなやかな運動体としてのオーケストラの姿を
僧帽筋や上腕三頭筋に分類して肉付きを吟味するようなまねは
あまりしたくないのだ。

しかし、ただ漫然と鳴ってほしいわけでもない。
次々にウルトラCの技を繰り出すヴィルティオーゾ性を
ウィーンフィルにやらせているのが、この演奏の魅力でもある。
これがベルリンフィルやシカゴ響なら別に驚かない。
しかしウィーンフィルのあの音色で鳴りひびくことが
ミューズの宴とも言うべき、何とも抗しがたい魅力をもつ。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/08/25(日) 06:58:15.16 ID:CCZFjXNW.net
肝心なのがステレオセットの1世帯当たりの所有率で
1970年で3割、1974年に5割を行った後はほぼ横ばい。
ttps://www.env.go.jp/policy/hakusyo/img/159/fb1.2.2.1.gif
1970〜74年に起こったのはFMステレオ放送の全国ネット化だった。
他の半数の人は、ラジカセで聴いていたということになる。
そのラジカセも、1977年まではステレオ仕様は希少で売れない状況で
ステレオセットを持たない家庭は、テレビも含め歌謡曲をモノラルで試聴してた。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/16(月) 12:11:04.37 ID:bLHcB1b+.net
興味深い
もっと書いて

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/20(金) 06:56:48.01 ID:jusFRpfw.net
ウィーンフィルの音色(ねいろ)について、デッカ、EMI、グラモフォンと
レーベル毎に違うように聞こえることは、よく指摘されていた。
特にデッカによる録音の数々は、その輝かしいサウンドで
ウィーンフィルの音色がいかに特別なものかを象徴している。

決定的だったのはステレオ初期のショルティ「指輪」の録音で
モチーフの描写を細部まで克明に記録した結果
音響による絵巻をみるような壮観な出来栄えとなった。
もともとバイロイト音楽祭専用ともいうべきレパートリーに対し
隣国のウィーンはその伝統から外れていたのだが
バイロイト特有のくぐもった神秘的な音響の森から解放されて
白日の下に照らされたオケの収録は、団員の意気込みもあって
指輪を巡る冒険を読み解くのに、新しい発見に沸き立つ雰囲気に満ちている。

同じようなことは、カラヤン&デル・モナコ「オテロ」にも言えて
シンフォニックな色合いを強調したスペクタルな興奮に包まれる。
こちらはザルツブルク音楽祭での実績を積んでのことだが
歌手を奥まったサウンドステージの上に載せるなど
その後のオペラ録音の潮流を見出しているように思える。
同時期にEMIがリリースした セラフィン&ローマ歌劇場のオテロを比較すると
オケも広くステージを構えるサウンドステージをもっており
当時は霧の向こうで鳴っているようなモヤモヤした印象がぬぐえなかったが
デジタル以降の録音に慣れた人には、むしろ自然に感じるかもしれない。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/20(金) 07:42:03.58 ID:jusFRpfw.net
ウィーンのオペラの面白いのは、歌手のアンサンブルの親密さで
ソロ同士で覇気を競うというよりは、ひとつの家族のような和合がある。
最も効果があったのがモーツァルトの歌劇で
まるで日常会話のように自然な掛け合いが溶け合った間合いが得難い魅力となる。

1950年代にはひとつの歌劇場で専属のままキャリアを維持した歌手も多く
その後のジェット飛行機で国際的に活動を広げる時代とは事情が異なる。
おそらく1960年初頭のカルショウの録音にみる引き締まった表現は
歌手のバラエティに対するウィーンという街のオペラ気質が確固として存在している。

意外なのは、クレメンス・クラウスが1953年にバイロイトを指揮した「指輪」で
アンサンブル重視で進行する引き締まった表現は実にウィーン流儀である。
それでいてR.シュトラウス仕込みの優美な表現主義が入れ混じって
15世紀の装飾写本をみるような細密画の雅なフォルムを感じる。
それが19世紀末のウィーンやパリのアール・ヌーボー作品と重なるのだ。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/21(土) 17:20:00.86 ID:qD/iPBV9.net
一方で、室内楽におけるウィーンの伝統をみると
モノラル期のウェストミンスターの録音からスタートし
デッカではボスコフスキー主催のウィーン八重奏団など
ウィーン古典派を中心としたレパートリーが残されている。
舞曲やディベルメントといった気軽なレパートリーも万遍なく手掛け
どちらかというと大らかな田舎風の雰囲気が漂っており
その後の室内楽演奏の精度を競う潮流からは外れているが
ふと思い出して聞いてみると、懐かしい感じに包まれる。

こうした録音を聴いてみると、ウィーンは個々人においても気質を受け継いでおり
ウィーン楽友協会という音楽大学まで連なる自主運営が
本当に意味のあるものとなっているように思える。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/21(土) 17:56:09.35 ID:qD/iPBV9.net
ウィーンとデッカという組合せは、クラシックというジャンルの統合体という感じがある。
それは室内楽から交響曲、はたまたオペラにいたるまでを優雅に包み込む。

その一方で、デッカの録音というと他のレーベルに対し
唯我独尊の艶やかさがあり、それがオーディオ装置の調整を狂わせる。
デッカに合わせ調整すると、EMIの録音はくぐもった霧の向こうに響き
グラモフォンは古武士のように骨っぽく響く。
当初は、デッカ特有のffrrカーブのせいだと言われていたが
三つ子の魂百まで、と言わんばかりに引き継がれるのである。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/21(土) 18:54:27.61 ID:qD/iPBV9.net
デッカ特有の色艶は、よくRIAAとの比較で8kHz以上の高域と勘違いされがちだが
実際には2〜6kHzの中高音のピークであり、人間の耳につきやすい音域である。

クラシックの録音では、シンフォニーホールの音場を意識しているので
この帯域の直接音はジャズ的で雰囲気を削ぐと考えやすいが
デッカはそこを突いてくる。

デッカのマイク位置で特徴的なのが、Decca treeと呼ばれる3マイクのセットで
ちょうど指揮者の頭上から鳥瞰するように集音する。
ttp://polymathperspective.com/?p=3219
オーケストラともなると、左右に補助マイクや、ピックアップも配置するが
中央のマイク配置は、ホールに音が放り込まれる境界線を狙っている。

とはいえ、EMIの本陣アビーロードでも同じマイク配置での録音はされており
レーベル毎のサウンドポリシーのほうが明らかに勝っている。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/21(土) 19:08:12.59 ID:qD/iPBV9.net
では、デッカのオーディオ装置の考え方はどうだったかというと
Hi-Fi初期からオーディオの開発にも余念がなかったが
縦横振動型のVLカートリッジ、リボンツイーターなど
どちらかというとこちらも唯我独尊の機構で
ffrrカーブだけの問題とは考えていなかった。

こうした考え方はパイオニア精神あふれるというよりは
電蓄時代に培った総合音響メーカーとしての立場を踏襲したもので
HMV、RCAなどの時代からレコードと蓄音機を一緒に販売する体制にあった。

個人的な感想では、デッカ社ののオーディオ機器は
それ自体はとても真面目な音のするもので
逆にいえば無個性で面白味がないともいえる。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/21(土) 19:47:40.94 ID:qD/iPBV9.net
もうひとつ見方を変えると
海外での合弁会社、米デッカと独テルデックの録音の違いである。
あるいは日本のキング・レコードが手掛けたロンドン・レーベルを挙げても良い。

米デッカはどちらかというとポピュラー音楽において優勢だが
周囲のジャズ録音がもっと派手な演出をしていたなかで
比較的マジメな音の造りで、落ち着いたホームミュージックを意識していたと思う。
そうしたなかに、マントヴァーニ楽団のセミクラシックがあり、ひとつの調和をもっていた。

独テルデックは、旧テレフンケンの硬質な音質を引き継いで
艶やかというより、鋼鉄のようなソリッドな切れ味が目立つ。
カイルベルトの旧録音、アルバンベルク四重奏団、アーノンクールなど聴くと
英デッカの資本が入っているだけ、と思う人も多いだろう。

日本のロンドン・レーベルは、同じデッカ録音でも飴色の柔らかい音色で
英デッカのレコードと比べても、全く違う音色なのに驚いたものだった。
クリップス、イッセルシュテットのような中堅指揮者の魅力を巧く捉えていて
どちらかというと、キング・レコードのほうが良識的に思えたのだが
これが英デッカの本領かというと、少し違うようにも思われる。

こうした違いの多くは、アナログ時代に、マスターテープが同じでも
現地のカッティング工程でリマスター作業を行うことが慣例としてあり
海外での展開において英デッカへの見方が
酸味を中和するか、極端に辛みを増すか、両極端に触れた結果と思う。
プロの現場でさえそうなのだから、家庭オーディオの行く末はもっと多様なのだ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 07:31:31.43 ID:0v1aekbh.net
デッカやEMIのスタジオでタンノイのモニターが使われていたのは誰しも知っている。
ステレオ期は同じ38cmのレッドまたはゴールドモニターだったが
デッカが普通のGRFを使っていたのに対し
EMIがLockWood社の角型箱に入れた物だった。
Decca)
ttp://westhampsteadlife.com/wp-content/uploads/2017/12/Mike-Smith-at-Decca.jpg
ttps://i.pinimg.com/originals/97/95/3a/97953ae0e4a32b96d0e4321652a2c035.jpg
EMI)
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/1950/BBC/abbey_road_studio-1a.jpg

タンノイの同軸型は、単体では非常にキレの強い高域をもっていて
オートグラフのような箱に入れても負けないくらいのバランスである。
デッカが家庭での試聴を意識していたのに対し
EMIが音の記録そのものに傾聴していた感じがある。
なんといってもEMIはステレオ録音のパイオニア、ブルムライン博士が居たのだ。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 07:56:33.04 ID:0v1aekbh.net
ブルムライン博士のステレオマイクは、8字指向性のマイクをX型に配置するもので
残響を逆相で一緒に収録するタイプのもの。
ttp://www.chrishancock.network/wp-content/uploads/2017/11/Blumlein.jpg
1950年代までの初期のEMIではこの収録方法が使われたが
段々とマルチマイクのセッテイングへと移行していった。

ブルムライン方式を最後まで守り通したのはBBCのライブ収録で
最初の成果が1959年のホーレンシュタイン指揮の「千人の交響曲」。
その後にステレオ放送が浸透するには時間がかかり
1970年代に入って家庭でのステレオ試聴が花開いた。
キングズウェイ・ホールからの中継が最もお手本になり
KEFやロジャースなどのBBCモニターの系譜も一般に知られるようになる。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 08:21:07.24 ID:0v1aekbh.net
BBCモニターが世界中で知られるようになったのは
1970年代のLS3/5aやLS5/8が一般発売されてからで
それまではBBC以外は門外不出の扱いだった。

このときの研究成果として、
スピーカーのインパルス応答の鋭さ
左右のチャンネルセパレーション
8kHz以上での正確な再生などが挙げられ
現在のステレオ再生の基本が確立された。

BBCモニターの音調は、KEF、ロジャース、ハーベス、スペンドールと
それぞれに特徴があるものの、強いて言えば高域に独特の艶や辛味があり
それが立体的なサウンドステージとの兼ね合いと一体化している。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 08:44:24.80 ID:0v1aekbh.net
ちなみにステレオ録音での奥行きのあるサウンドステージは1970年代以降のもので
それまでは平面的なスクリーン型の配置だった。

オートグラフのもつタンノイ・ステージと呼ばれるホールトーンは
一度コーナー型の箱に低音を溜め込んで、ゆっくり吐き出すタイミングが巧みで
ユニットそのものの推進力が、音楽の躍動感を保持している。

BBCモニターは、こうしたハードウェアでの疑似ホールの再現を必要としない
ソフト側でサウンドステージを再現できる要件を整えた点ですごかった。
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1970-13.pdf
ttp://downloads.bbc.co.uk/rd/pubs/reports/1976-29.pdf
LS3/5aのような小型スピーカーで、目の前にミニチュアのホールが出現するのは
こうした研究の終着点に、家庭用のステレオ試聴の在り方を見据えた結果だった。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 18:29:49.18 ID:0v1aekbh.net
BBCの提示したステレオイメージの刷新はFMステレオ放送によって
ニアフィールド・リスニングの手法として広がった。
ttp://www.keith-snook.info/wireless-world-magazine/Wireless-World-1968/Stereophonic%20Image%20Sharpness.pdf
とはいえ、ブルムライン方式での中継はイギリス国内でのことだったので
このイノベーションの意味は比較的曖昧なまま据え置かれたと思う。
ただ、バッフル面が細く奥行きの深いスピーカーが
ヨーロピアン的な奥に広がるサウンドステージを作り易いという認識だけは広まった。

その一方で、タンノイの持っていたハードウェアとしての恰幅の良さは
日本では根強い人気があり、その伝統の多様さこそが
ヨーロピアン・サウンドの面白さを引き立てているように思う。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/22(日) 19:16:10.31 ID:0v1aekbh.net
さて、ヨーロピアン・サウンドを語るのに、スピーカーがブリティッシュばかりとは物足りないが
実際に1970年代にドイツや北欧はおろか、フランスやイタリアのメーカーに
オーディオファイルに希求した製品が少なかったとも言える。

一方で、レコード再生では、オルトフォン、トーレンス、EMTなどがあり
繊細さが求められるクラシックの録音では、まさに高値の華だった。
ただしドイツ・シャルプラッテンやテルデックのような純正にドイツ的な録音は
少し骨太なエラックやシュアーのほうが相性が良かった。
フィリップス、エラート、スプラフォンなど、地域に寄り添ったサウンドがあり
そのまま演奏の個性に直結していたように思う。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/23(月) 18:16:41.34 ID:zc5EZfiz.net
フィリップスの録音は、ナチュラルと言えばナチュラルだが
再生装置によってはボヤけた印象のものも少なくない。

ステレオ以降のモニターがQUADという条件もあっただろうが
静電型で音の立ち上がりが繊細であるという以外に
ステップレスポンスがキッチリ逆三角形になるため
もともと音場の表現が鮮明な点が挙げられる。
ttps://www.stereophile.com/content/quad-esl-63-loudspeaker-measurements
これで豊満なコンセルトヘボウの響きを縫って各楽器の表情が保てる。
一方で、ESL63ともなると大型の割には
ステレオのスウィートスポットの狭いことでも知られ
なかなかマニアックなスピーカーでもあった。

実際のヨーロッパの録音セッションとなると
モニタールームのない古い会場では
ヘッドホンでの試聴ということもよくあり
ベイヤーやAKGなどが古くから使われていた。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/23(月) 18:50:26.66 ID:zc5EZfiz.net
フィリップスの録音では、オケ物がハイティング、コリン・デイビス、小澤征爾など
どんな難曲でも温和にまとめ上げる指揮者が選ばれる傾向があり
いずれもアムステルダム、ロンドン、ボストンと地域密着で長くポストに就いた人たちだ。
ショスタコーヴィチ、ベルリオーズなど、異国での全集など誰が夢みただろうか?
それだけに録音の奥底までが聞こえずに、何となく聞き流しているようににも思える。

一方でソリストのほうは、ブレンデル、アラウ、グリュミオーなど
個性的な演奏者と長く付き合って全集物を揃えるほかに
ソビエトやイタリアの室内楽奏者を迎え、貴重なレパートリーを埋めている。
イ・ムジチの四季、ロストロ&リヒテルのベートーヴェン、ボロディン・トリオのハイドンなど
その録音を通じて広まったレパートリーも多くある。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/23(月) 21:01:08.45 ID:zc5EZfiz.net
ん?ハイティングのショスタコはデッカのオリジナルだったか。
次のシャイーからはコンセルトヘボウ管はデッカに移ったので
現代曲も含めたレパートリーの拡充に走った時期という感じだろうか。
特に本国でも演奏される機会の少ない声楽付きで難解な13、14番では
この録音で初めて真価を知った人も多かっただろう。

アラウの録音は、日本ではポリーニやブレンデルほどの人気はないものの
ベートーヴェンの演奏は正統派という意味では
一番安心して聴けるもののひとつだろう。
底光りするピアノの音は、リスト直系というには
例えばボレットのような艶やかさはないものの
兄弟子のエドウィン・フィッシャーのようなヒューマニズムを感じる。
ショパンの夜想曲の深い表情は、ドイツ系というよりもラテン圏のカトリックのもので
フォーレやモンポウの夜想曲へと続く祈りの世界だ。

同じラテン系のポリーニはどうかというと、こちらも悟りの世界である。
心の葛藤というよりは、もっと明るい光のようなものがあるという希望につながっている。
凡人の夜想曲がベアトリーチェへの恋煩いなら、こちらは天国篇に差し掛かってる。
やはり悟りの境地なのだ。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/23(月) 21:55:05.41 ID:zc5EZfiz.net
ポリーニの夜想曲は、サロンというより修道院の雰囲気があり
ノクターンの元の意味である晩祷を思い起こさせる。
ミレーの農民画にも晩祷があるが、身分に関わらず神聖なときなのだ。
晩祷が一日の感謝の祈りを主体とした賛歌で彩られるとすれば
ショパンのそれは、もっと夜中の祈り、終祷のような気もするが
そこでは罪の悔い改めと復活への願いが込められている。
ポリーニのそれは、罪が引き起こす死の影を思いつつも
フラアンジェリコの壁画のような明るい希望を感じる。
それがポリーニのもつ正確な遠近法に基づいた
建築物に似た構図の均整によって
心の奥まで光に満たされる。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/26(木) 07:25:17.46 ID:tjUDz9Gj.net
1970年代以降のグラモフォンがやや奇をてらった演奏で注目を集めたとすれば
フィリップスはハイティンク、グリュミオー、ブレンデルと
まさにスコア通りの模範演奏で高度な芸術性を提示するアーチストが目立つ。
レコード会社が有名曲のカタログを揃えるのは、音楽出版と同じ傾向にあるが
こと全集モノとなると、演奏家もレコード会社も大きな負担を強いることになる。
フィリップスの全集物は、ことさら文化事業的な趣が強く
その時代の作品理解の代表例を導き出しているようにも感じる。

とはいえ、例えばベートーヴェンの交響曲全集ともなると
買い手のほうも慎重にならざるをえず
グラモフォンがカラヤン、ベーム、バーンスタインとスター級をそろえるのに対し
フィィップスがヨッフム、ハイティンク(2回)、デイビスと質実剛健。
かといって、メンゲルベルク、ブリュッヘン、小澤征爾など意欲的な演奏もあり
今となっては解釈の幅を楽しめるようになっている。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/26(木) 08:11:00.08 ID:tjUDz9Gj.net
レコード批評という観点からいうと、何か優越を競う感じがあって
そこに指揮者の個性、オーケストラの機能性など様々な要因が挙げられる。
機能性という点では、セル&クリーブランド管、ショルティ&シカゴ響などがあるが
ベートーヴェンという強烈な個性が綺麗に割り切れない印象を受ける。

おそらくハンガリー系の指揮者の合理的思考がそうするのかもしれないが
同じハンガリー系でも弦楽四重奏ともなると評価は逆転してくる。
独墺系の四重奏団が、オーケストラ活動と並行して活動していたのに対し
ハンガリー系は専従の四重奏団で、練習量も段違いのように感じる。
個々人の癖の出やすい室内楽においては、散漫さは退屈と隣り合わせになりやすい。
このときにはハンガリー系の勤勉さがプラスに働くのだ。

個人的には、ウィーン系の緩やかな休日を楽しむような演奏も好きで
モーツァルトやハイドンにおいては、喜遊曲という性格は欠かせないと思う。
作曲当時は、演奏に心得のある人たちだけで、交代しながら鑑賞する作品で
作品の純器楽的な構成もさることながら、コンサートにはない親密な距離感も重要だ。
そうした心置きなく言葉を交わせる関係が、ちょっとした間合いから漂ってくる。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/28(土) 08:28:11.42 ID:CtS7qXSR.net
セル&クリーブランド管については、いくつか思いがあって
ひとつは頭角を現した1950年代末頃のアメリカは
トスカニーニが開拓した新即物主義が一番力をもっていた時期で
R.シュトラウス仕込みの淡いロマン主義の系譜をもったセルの芸風は
聴き様によっては、アセチレンガスの炎のような青白い燃焼度を感じる。

実はこうしたサウンドは、真空管アンプを前提とした音造りでもあって
1970年代以降のFETアンプでは、スマートさと痩せぎすの紙一重になる。
セルのコロムビア録音の評価が真っ二つに分かれるのは
安定した三角形の底辺をもつ装置を持たない人のやっかみのようなところもあり
何を聴いてもメンデルスゾーンのような感触を受けるように思える。

ベートーヴェン、シューマン、ブラームスの全集に関しては
1960年代では一番安定度の高い全集でもあり
シェリングやアラウのような演奏家の好きな人にとっては
得難い魅力があるものと思う。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/28(土) 10:40:09.36 ID:CtS7qXSR.net
シェリングの欧米での評価は、日本でのそれに比べやや地味な感じで
ドイツ正統派というのが、アウアー派やフランコ=ベルギー派に押されて
なかなか評価されにくい状況があるように思う。
例えば、英ペンギン レコードガイドでのブラームスのVnソナタ集は
スークが一番でシェリングは番外という扱い。
随分と地味なチョイスをしたもんだと思う。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/28(土) 20:31:04.47 ID:CtS7qXSR.net
ロマン派というと、気宇壮大なものを思い浮かべやすい。
その対象の多くは交響曲というジャンルに求められる。
ベートーヴェンの第九の再演がバイロイトで行われたと言えば
そこにロマン派の求める入り口があったと言わなければならない。

一方で、精神的なロマンチシズムについては、意外に語られない。
個人的には、家庭的な淡いロマンチシズムというのが好きで
カール・ラーソン、ヴィルヘルム・ハンマースホイなどの北欧ロマン主義は
そうした嗜好を満たしてくれる。

シューベルト、ショパン、シューマン、ブラームスのような大家の作品は
作品解釈もかなり多種多様で、それこそサロン文化の名残だろう。

少し外したところで、ロマンチックな肖像画を選んでみると
以下のようなものが見つかった。

ギレリス:グリーク抒情小曲集
クレーメルら:ウィンナ・ワルツ集(室内楽版)
福田進一:ショパン(ギター編曲版)

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/29(日) 17:24:53.44 ID:mCfLr8IC.net
ピアノの再生について、日本での演奏評価が思索的になるのは
おそらくほとんどの装置がピアノのパースペクティブを再現できていないからだと思われる。
単に音量的なスケールではなく、打鍵のインパクトが推し潰されていることが多い。

例えば、アラウのリスト超絶技巧練習曲(1974〜76、コンセルトヘボウ)などは
パッと聴きでは暖かい響きのために、人情に厚い演奏のように思われるが
あの大きな体格から押し出されるスタインウェイの低音弦のパッセージの凄さは
それだけで聴く人の全ての感覚を奪ってしまうほどの力をもっている。
大海の波に揺られて船酔い状態になるような深い咆哮がある。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/29(日) 20:30:48.28 ID:mCfLr8IC.net
時代の波とは恐ろしいもので、村上春樹の小説の影響だと言われるが
ベルマンのリスト巡礼の年(全曲)のような静謐な演奏が受け容れられている。

録音は1970年代末で、19世紀的なヴィルトゥオーゾで腕を鳴らしたベルマンが
晩年の聖職者となったリストの心境をひたすら語り通す。
表面的には19世紀風のゴシック・リバイバルの余波にも見え
リストが巡礼という行為にどれだけ本気だったかは知る由もないが
晩年をイタリアのフィレンツェで過ごしたベルマンの心境とも重なったのだろう。
あるいはヨーロッパ的なものが崩壊していく、ポストモダンの時代を予見しており
その感傷的な喪失感が、音の端々に現れている。

こうした倒錯した心境は、マーラーのほうが正直に描いていて
むしろピアノ曲で表現したことが目新しいことだったと思う。
あるいはシューベルトのピアノ・ソナタが同様の位置についていて
ロマン主義をさらに陰鬱な感情で取り巻いているような気がする。
とはいえ、時代の喪失感を失恋になぞらえていたのは
まさに19世紀初頭の主要テーマでもあったのだから
若きウェルテルは今も民衆の心を捉えて離さないのだ。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/29(日) 20:45:00.68 ID:mCfLr8IC.net
ヴィルトゥオーゾがそもそも英雄的な力の理論だとすると
それを敗者の理論で彩る演出は、ベートーヴェンの英雄2楽章から
ロマン主義の鉄板でもあるように思う。センチメンタルな時代感である。

ギレリスのグリーク、福田進一のショパンから感じるのは
もうすでに喪失感を味わい尽くした人のもつ優しさでもある。
こうした優しさを音で表現するというのは、なかなか難しい。
柔らかいと同時に、切実な思いが瞬時に湧き出る
本当のアキュレートが必要とされるからだ。

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/30(月) 05:47:21.91 ID:Ts87MPmH.net
ポストモダンを脱構築となぞらえるなら
古楽器でのオーセンティックな演奏理論は、バロックから19世紀末まで広く浸透している。
それまでの19世紀的な楽壇の有様を、曾祖父にまでさかのぼって見直すというのだ。
画期的だったのは、1978〜85年のホグウッド/AÅMのモーツァルト交響曲全集で
それまでほとんどレパートリーに入らなかった初期〜中期の交響曲を
溌剌とした表情でブラッシュアップして、各都市での交響曲の成立史まで画いた。

そもそもコンサート・オブ・エイシェント・ミュージックというのは
18世紀末に急激に変化するイギリス音楽界の動向を憂いて
ヘンデルやコレッリといった過去の作品を鑑賞する定期演奏会のことで
現在のクラシックという音楽ジャンルの言葉の定義を与えたものである。
この団体から派生して、バッハの作品の再出版がはじまり
現在のロマンティック・オルガンの様式は、バッハ演奏のために考案された。
それまでイギリスのオルガンにはペダルが無かったのだ。

現在の世界有数のモダン・オーケストラがマーラー・チクルスをこなすのも
自分たちの存在理由を、本来のクラシックの意味から見直すことが必要だからだ。
その意味で、オーケストラ指揮者としてその機能を最大限に駆使し
人間のエゴの可能性を切り拓いたマーラーの作品は
モダン・オーケストラの自画像として鑑賞することができる。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/30(月) 05:55:43.09 ID:Ts87MPmH.net
マーラー作品がモダン・オーケストラの自画像とするなら
ステレオ機器の発展がコンサート・ホールでのオーケストラの疑似再生と重なる。
RCAがリビング・ステレオと銘打ったのは、自宅でのコンサート気分の再現であり
録音史とマーラー演奏の可能性は、それが大掛かりな一期一会の催しなだけに
ステレオ録音のアーカイブのなかに、録音史と演奏史がほぼ相似形となって残っている。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/30(月) 06:30:57.07 ID:Ts87MPmH.net
従来のモダン・オーケストラの自画像はベートーヴェンだった。
市民社会に支持され独立して活動できた最初の器楽作曲家であり
オーケストラの機能性を拡張しながら、ロマン派への道を切り拓いた。
一方で、ベートーヴェン作品がクラシックの殿堂入りを果たしたのは
19世紀も半ばに達してワーグナーによる第九の再演からであった。
その頃の改訂が、後のベートーヴェン解釈と深く結びついている。

同じ方向性はモダン・ピアノにも言えて
ベートーヴェン→ツェルニー→リストへと続く系譜のなかで
1850年頃に立て続けに起こったピアノの改造によって
ロマン派時代のピアノの様式が確立した。
いわく、リストの打鍵の強さに耐えられる構造が必須であり
それとピアノ演奏の可能性とはセットで考えられるようになった。
リストの影響は、ブラームス派やワーグナー派を問わず共通のもので
大ホールでのコンサート・ピアノの在り方を決定付けた。

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/30(月) 06:58:31.97 ID:Ts87MPmH.net
マーラーをモダン・オーケストラの自画像と言ったが
録音史の流れからすると、ベートーヴェンのほうが説明はしやすい。
ニキシュの運命は、室内楽版と言っていいくらいのものだったが
ワインガルトナーの全集ともなると、電気録音が安定期に入っている。
トスカニーニ、メンゲルベルクのベートーヴェン・チクルスのライブ収録は
ベートーヴェン解釈の彼岸を示していて興味深い。
フルトヴェングラーかカラヤンか?そういうものは吹っ飛んでしまう。

その後の録音での全集制覇は、オーケストラと指揮者のステータスを知る
リトマス試験紙のようなもので、録音の良し悪しも同様であった。
カラヤンのようにモノラル、ステレオ、デジタルと10年置きに残したことで
録音方式の進展も演奏解釈と一緒に考えられた。
晩年の自然体の演奏も、余計な演出抜きのデジタル的な演奏とも思える。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/09/30(月) 07:42:01.93 ID:Ts87MPmH.net
1950〜1980年代のオーディオ機器の主流を言うと
1950年代がモノラル期のそれ自体が楽器のような鳴り方をして
タンノイのオートグラフ、エレクトロボイスのパトリシアン、JBLのハーツフィールドなど
多くはコーナー型ホーンというスタイルだった。
理由は、ウーハーがローコンプライアンス型で重低音の伸びがそれほど無かったからだが
それと引き換えに軽い風のように流れる低音は、PA技術と並行していたからでもある。
アンプもそれほど高出力でなくとも十分に駆動できる。

ステレオ期になって現れたのが、AR-3のようなエアサスペンション型で
コンパクトな割に低音の伸びも十分確保され、ブックシェルフ型スピーカーの走りとなった。
それまでのフリーエッジ型は、密閉で200Lという大型が標準だった。
このタイプは能率が低く、なおかつ低域にパワーが必要なので
アンプもそれなりに高出力のものが求められた。
マッキントッシュやマランツの製品が好まれるのは、その安定度の高さからである。
同じ理由でステレオカートリッジも、業務用あがりのオルトフォンが随一の存在。
他にフェアチャイルド、GE、はたまたデッカなどもあったが、オルトフォンほど息が長くない。

一方で、モノラル期に開発された楽器型のコーナーホーンも好まれ
クラシック再生の基本形のような体裁をもっていた。
単純には迫力が違う。それがクラシックにも言えるのだ。

ただあまり知られていないのは、アルテックのA7の存在で
RCA以外のアメリカのスタジオでは、テープ録音のプレイバックはこれで聴いていた。
そもそもプレイバック・システムの商標がアルテックのものなのだ。
この前身の800システムで、グールドがスピーカーの周りを熊のようにウロウロして
プレイバックして吟味している様子が映像で残されている。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/01(火) 06:57:45.89 ID:2v3oHNhW.net
AR-3aは1970年頃のカラヤンの自宅で使われていると宣伝されていた。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92356bg.jpg
写真右端にあるレコードプレーヤーとアンプもAR社のものだろう。
米エンジェル・レコード(EMI)の役員室でも使っていたらしい。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92353bg.jpg
ttps://www.stereophile.com/content/acoustic-research-integrated-amplifier
同様にソニー TAH-10+ゼンハイザー MDH-414ヘッドホンも使用とも。
ttp://pds20.egloos.com/pds/201108/17/37/f0018137_4e4b978719176.jpg
総合するとAR-3aが優れているという以上に、マーケティングを意識して
一般家庭でどう聞かれているかのほうに傾聴していた感じがする。
それも新しい情報にアップデートする傾向がある。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/01(火) 07:52:49.07 ID:2v3oHNhW.net
1980年代に入ってB&W 801がほとんどのクラシック・レーベルで採用されたのは
おそらくデジタル録音のもつ広帯域で均質なエネルギーバランスを意識してのことだろう。
それまでRIAA偏差で丸まっていた特性が、まっすぐになったのだ。
同時にテープコンプレッションのようなリミッター機能が働かない平板な音を意味していた。

デジタルとアナログの違いで大きいのはノイズの処理で
アナログがヒスノイズ、スクラッチノイズ、三角ノイズなど様々あるが
デジタルがリミットオフして無かったことにすると同時に
21kHz近傍に大量のスイッチング歪みを累積する。
このスイッチング歪みは、パルス成分を主体とするため
音の粒立ちが良くなったようにも聞こえる一方で
品のないギラギラした輝きを伴う。

例えば、BBCモニターはFM放送用なので
三角ノイズに埋もれがちな高域のパルス波をキッチリ出す傾向にある。
ところが、あまり高域の処理が巧くないCDプレーヤーを使うと
パルス成分が際立ってしまい、何でもキラキラしたイミテーションに聞こえる。
CDの音が正確だという思い込みと、アナログ装置との相性の悪さも手伝って
CDよりLPのほうが良かったと嘆くのだ。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/03(木) 06:41:11.46 ID:rK7yVLyt.net
CDが出てしばらくしてから、CDライントランスなる商品が出たが
これは超高域でのパルスノイズを和らげる効果がある。
一方で、定位感や臨場感を劣化させる要因ともなり
デジタル録音で奥行き感が減少すると、全体に平板な印象になりやすい。
やはりアナログ録音をAD変換したCDに有用だと思う。

真空管アンプとの相性については
実際の真空管のストレートな音はアキュレートなのだが
アウトプットトランスそのものがパルス成分をフィルタリングする。
もうひとつは、楽音に含まれるパルス成分に対しては
真空管がオーバーシュートして楽音に沿った高次歪み(倍音)を出すため
持続的なデジタルノイズが目立たなくなる感じがする。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/03(木) 07:16:29.93 ID:rK7yVLyt.net
1970年代の大きな技術革新は、FMステレオ放送とカセットテープの普及だが
50〜15,000Hz、S/N比60〜80dBは、ステレオ再生の基準となるボーダーラインとして
それ以上の再生能力を備えることがオーディオ道楽の基本だった。

逆に言えば、それ以前のAM規格100〜8,000Hzとの比較で
LP再生が大きなアドバンテージをもっていたのに対し
FM放送で音質が底上げされた家電機器との差異をはっきりさせるには
20〜20,000Hz再生への憧れはとてつもなく大きかったとも言える。

しかし、いざ20〜20,000Hz、SN比90dBという再生条件を前にして
それまでのアナログが蓄音機の頃から拡張してきた名残で
200〜6,000Hzを中核として徐々にフォーカスを甘くしていくのに対し
全帯域で均質にストレートに出てくるデジタル技術の出現は
50〜200Hz、6〜15kHzでのデフォルメでアドバンテージを付けた機器を
全く無駄にしてしまった。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/04(金) 06:04:27.42 ID:8cI4qUJT.net
200〜6,000Hzを中核として徐々にフォーカスを甘くしていくのはアナログ録音のほうで
アナログ期の再生機器はその外縁のほうを鮮明に再生できるようにデフォルメする。
ただ、こうした傾向は初期のCDの特徴なのでは?と思うかもしれない。
それが再生機器側の折衷的なHi-Fi感を出す強調点でもあった。
それを、より鮮明になったと喜ぶ人も居れば、やりすぎ感に否めない人も多かった。

こうした新規格に伸るか反るかの反応は
SP盤からLP盤、モノラルからステレオへの移行期にもあり
マーケティング主体のパラダイムシフトだと言われても仕方ない。
問題は、音楽の中身がちゃんと保護されることである。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/04(金) 06:37:49.90 ID:8cI4qUJT.net
CDがクラシック音楽の保管と再生に適しているかを考えると
周波数レンジと均質なダイナミックレンジという以外に
チャンネルセパレーションと位相の正確さという点が挙げられる。

実際にサウンドステージという用語は、1980年代のポップスの録音で顕著だが
スピーカーの間に立体的な音場が形成されることを指す。
この音場の再現は、例えば1960年代にはスクリーン状の平面配置であり
左右に高低の楽器を並べ替え2chであることを強調し
エコーの長さなどで遠近の違いが判る程度のものだった。
こうしたスタイルは、先行した映画館の3chステレオ規格に準拠しており
ブルムラインの2chバイノーラルとは異なっていた。

B&Kマイクなど周波数特性とインパルス応答の正確なマイクによって
デジタル録音の音場再生の可能性は広がったとも言える。
ガーディナーがヴェネツィアの聖マルコ大聖堂で録音したモンテヴェルディの晩祷などは
その複雑な音響効果を、楽曲の性格に沿って読み直した録音として
ドキュメンタリーとしての価値が高いものである。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/04(金) 06:50:23.94 ID:8cI4qUJT.net
ガーディナーの晩祷の録音にはデジタルならではの逸話が色々とあって
例えば自動車の暗騒音を無くすため、聖堂周辺の交通規制を政府に協力させたが
演奏の合間に犬の声が聞こえるので、録音スタッフが慌てて原因を探ると
近隣の住民が散歩に広場を歩いているのを発見。
警察官も近隣住民が出歩くことの規制までは考えていなかったことが判明して
録音が仕切り直しになったとのこと。

聖堂でのルネサンス・バロック音楽の録音は
それまでが深いエコーでそれを感じさせる程度のものだったが
デジタル時代に入ると、8〜12kHzでの楽音とエコーの分離が明瞭になり
さらには聖堂内に共鳴する低音の暗騒音を空気感として残すものもある。
こうした低音の暗騒音は、LPのカッティングでは邪魔な存在でカットされてたが
聖堂というシチュエーションをそのまま収録しようとすると残すことになる。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/04(金) 07:07:52.45 ID:8cI4qUJT.net
クラシック録音のモニターにヘッドホンが使われるのは
初期のブルムラインをはじめ、かなり古い段階から行われいる。
特に伝統的な音楽ホールでは録音用のモニター室のないことが多く
マイクのセッテイング、サブマイクのバランスなどもヘッドホンで確認する。

そういう意味では、ヘッドホンでの試聴は原音主義に後れをとらないのだが
問題は外耳の形状で、中高域での耳内の共振に個人差があり
それも10dBの違いは当たり前という感じでもある。
ttp://en.goldenears.net/388
ソニーのヘッドホン開発では、耳たぶの形による音の違いも吟味され
開発時の耳たぶの型取りに選ばれることは大変名誉なことらしい。

ヘッドホンでの試聴は、単純に頭内定位でサウンドステージが再現しにくい
という以上に、周波数バランスにもバラツキの多いことに注意しなければならない。
人間の脳の感覚まで測定する技術は、まだ始まったばかりだからである。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/04(金) 18:33:37.46 ID:8cI4qUJT.net
クラシック再生の場合、私個人の嗜好でいえば
正確であるという以上にロマンティックであるべきだと考えるようになった。
正確な音色、正確な周波数バランス、正確な定位感…その総合点を競うよりは
耽美な音色、均整のある周波数バランス、各楽器の存在感というほうが好ましい。
ロマンティックとは、朧げな精神性とか、気宇壮大な思想の表明というものではなく
人間の奏でる肉体的な優美さであり、気品のある生活感を伴うものだと思う。
艶やかでダイナミック、凛としてしなやかな立ち振る舞い、そうしたものに憧れる。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 17:33:21.75 ID:cMsBWE7F.net
スタックスのイヤースピーカーで、音の正確さではFETなのだが
真空管ドライブにしたときの艶めかしさには驚いた。
これを聞いたら、他のオーディオ機器など聴けなくなるし
ちゃんとした装置をスピーカーで組もうとしたときの難題がのしかかる。

あるいは、ラックストーンというのが昔からあって
飴色のニス塗りした木彫家具のような、暖色系の艶のある音色だ。
当初はNEC特注の真空管50CA10とか、OY型トランスとか
その音色の出る理由を考えたのだが、FETアンプでも継承するとなると
やはりメーカーのもつトーンなのだと思う。
例えば、A級アンプと言っても、アキュフェーズとは全く逆の方向だ。

とはいえ、ラックスマンのアンプでマルチを組もうという人はいないだろうし
アキュフェーズの安定度は、また別次元のものである。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 17:47:25.66 ID:cMsBWE7F.net
BBCモニターの系譜のうち、日本で人気のあるメーカーにハーベスがある。
LS5/8を少し小振りにしたようなHLCompact 7は
日本の家屋に収まりやすいうえに、高域の弦に明るい艶があって
美音系に数えられる一品だ。

同じように、イタリアのソナスファベール、スイスのピエガなども
デジタル録音のマッシブさを少し柔らかく受け止めて、美しくまとめてくれる。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 18:16:46.41 ID:cMsBWE7F.net
ハーベスのHLCompact 7は、初代のHLCompactが1987年で
既に4代目、30年のロングセラーだ。
他のBBC系のロジャース、スペンドールが、やや辛口の音調なのに対し
ハーベスの音は、中域からの艶をあえて載せて、小音量でも聴きやすくしている。
その分、アルミドームのリンギングを巧く操るのが使いこなしの要で
そのためのスピーカーの足回りの調整が欠かせない。
現在の高剛性のニアフィールド試聴が、音の立体感を出すのに
かなり精緻に足回りの調整をするのとは、大分わけが違う。

この中域から湧き出る艶は、例えばEL84のような真空管に特有のもので
1970年代初頭の懐かしい音調にも似たものだ。
HLCompact自体もっと古い機種だと思っていたが
ちょうどLPの生産がストップする寸前の時代であり
回顧的な気分も大いにあったのかもしれない。
同じ時代のLUXMAN L-570などを思い浮かべれば
その頃のノスタルジーというものが理解しやすいかもしれない。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 19:43:05.58 ID:cMsBWE7F.net
これとは全く逆のメインストリームが
例えばティールなどの完全にタイムコヒレントを調整したスピーカーで
デジタルでの位相の正確さを元手に、フロア型で奥行きの定位感を出した。
ワディアのCD再生技術、電流供給の瞬発力の高いクレルのアンプなど
デジタル対応の本当の意味を形にしたオーディオ機器は多かった。

しかし、いざこうした最高品質のオーディオを前にして
万難を排して再生に挑める録音ソースの貧しさのほうが目立ってくる。
特にデジタルのミキサーそのものの機能が貧弱で
出張録音ではヤマハでようやく10chのものが実用化された程度。
まだまだアナログ機器が信頼性の上でも使用され続けていた。

ハイサプンリング、ハイビットが模索されるなか
EMIの録音クルーがハイサンプリング録音に真空管マイクプリが合うことを発見。
今では、真空管マイクは老舗のノイマンも含め普通に製造販売されている。
こうしたデジタル化に伴うトリビア的なトピックスは
技術革新という側面よりも、オーディオにとっての心地よい音というものが
けして進化するようなものではないことを示している。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 20:06:09.76 ID:cMsBWE7F.net
今ではあまり注目されないが
アメリカのテラーク社の録音は、デジタルの広帯域、ダイナミックの代名詞だった。
ちょうどPCM録音のパイオニア、デンオンの録音が痩せた音だったのに対し
テラーク社の芳醇な音は、次世代の録音への期待を抱かせるものだった。

最大の驚きが、チャイコフスキー1812年でリアルな大砲の音を
LPにカッティングした際に、針飛びも辞さない低音の蛇行で
よりハイコンプライアンスのカートリッジの開発に拍車を掛けたが
これがLP盤の再生能力の限界を示したという逆の意味ともとれる。

一方で、やや演出過剰な録音は、むしろジャズのほうに向いており
旧来のクラシック録音の潮流を変えるまでにいたらなかったように思う。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 21:16:20.76 ID:cMsBWE7F.net
現状で、最新の録音にも追従できるポテンシャルをもっていて
使いこなしのしやすいスピーカーは
例えばKEF RシリーズやREFERENCEシリーズが挙げられる。

一見して、LS50にウーハーが付いただけだと思うのだが
ミッドレンジを逆相にスムーズに繋げることで
ステップレスポンスが非常に鋭敏にシェイプする。(Fig.7)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-r700-loudspeaker-measurements
ツイーターのパルス波が定位感を浮きだたせるのに対し
他のユニットとのネットワークの位相歪みが目立ち、違和感をもつことが少なくなかったが
KEFはUni-Qドライバーの開発段階で巧く回避したと思う。

LS50は旧来のLS3/5aと同様にツイーターが逆相で
奥行き感を演出する方向で調整している。(Fig.8)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-ls50-anniversary-model-loudspeaker-measurements

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 06:04:25.67 ID:ggBxY6AZ.net
一般に、定位感の正体は、パルス波の立ち上がりで決まるのだが
超高域にピンと立つパルス波が先行して耳に届くことで
他の楽音の波を押しのけて(マスキングして)音の位置を知らせる。

例えば、デンオンのワンポイントマイクが
無指向性のB&Kマイクを30cm程離すだけでステレオ効果を得られるのは
従来の位相差によるステレオ効果ではなく
パルス波の届く距離の差を正確に記録できるようになったからである。
ttps://columbia.jp/classics/onepoint/

パルス性の直流波で位相変化をみるステップレスポンスでは
スピーカーは高域から順に低域へと音響エネルギーを放出するのだが
ネットワークのないフルレンジでは当たり前に右肩下がりに推移する。
ttps://www.stereophile.com/content/measuring-loudspeakers-part-two-page-3
これが自然な定位感をもたらすのだが
実際には、パッシブ回路で位相をいじると、電気的なフィルターの負荷が大きく
全体に定位感はよいのだが、ダイナミックさに欠けるという欠点がある。

また1970年代のマルチウェイ化において、位相の乱れは普通だったので
クロスオーバー歪みはオーディオ文化として受容されている。
例えば、B&Wは正相で全てのレンジをキレイに繋げる設計となっていて
むしろレンジに隔たりの無いダイナミックレンジのほうが重視されている。
ttps://www.stereophile.com/content/bw-nautilus-801-loudspeaker-measurements-part-3
1980年代から40年近く経つ現在において、保守的に留まっているのは
ワイドレンジ化に伴うクロスオーバー歪みということができる。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 06:13:58.64 ID:ggBxY6AZ.net
こうしてみると、デジタル録音での広帯域、S/N比、音場感、長尺録音など
最も恩恵を受けたと思えるクラシック音楽において
オーディオ的な対応というのが、1970年代のステレオ文化を引きずっている
というのが本音のように思う。

言い換えれば、1970年代の夢の続きを、未だに見ていることになる。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 07:10:24.48 ID:ggBxY6AZ.net
1970年代のオーディオ・ファイルの夢とは何だったのか?
おそらく技術革新の絶えざる連続のようなことだったかもしれないし
現在のハイレゾ音源にみるようなフォーマットによるパラダイムシフトかもしれない。
一方で、演奏スタイルも収録マイクも、大きく進化したわけではない。

かつて日本製のスピーカーは、測定したスペックは優秀だが
音楽を聴く喜びを表現する何かが足らないと言われてきた。
いわく測定に使われたB&K製マイクをもじって
「B&K社製スピーカー」と揶揄された。
新素材を使ったユニットの開発は世界でも随一だったが
それの良否を判断する材料に欠けていたとも言える。

同じことはMOS-FETを用いたアンプにも言え
デバイスの製造が世界一で国内で行えたため
自家製のオーダーメイド品も取り揃えていたのだが
その違いについて明確なことは言えないと思う。

レコード針、テープヘッド、様々な部品の加工技術で
日本はシェア共に世界一だったのだが
どうも夢の見方がどうかなっていたのかもしれない。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 07:36:50.99 ID:ggBxY6AZ.net
ただ日本製の無味乾燥ろ思えるオーディオ製品が
世界では重宝されたケースも少なくない。

例えば、ヤマハのNS-10Mは、ポップスの業界ではデフォルトスタンダードだった。
同じことはテクニクスのターンテーブルにも言えて、これがなければ現在のDJ文化はない。
あるいは、ソニーのPCM録音機 PCM-F1の柔らかい素直な音調は
BISの録音などで使われ、シンプルなマイクでのダイレクト収録の良さが出た録音だ。
こうした使いようによっては、創造的なことも十分にできたのだが
総合力という点での提案力に欠けていたともいえる。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 06:28:39.24 ID:THz0Pkgd.net
オーディオ製品にはエージングという経時変化がある。
初期に起こるのは、信号、振動など動的なものに馴染んでいくものだが
いざ安定期に入ったと思うときが、調整の本格的な開始になる。
こればっかりは、店頭試聴で確認するということでは十分ではなく
自分の好みという課題と向き合うことになる。

ただ自分の好みというのは、基本的に聴く音楽と関連性が深いので
漠然と「良い音」というのが、いかに不十分なものかは明らかだ。
一方で、クラシック向け、ジャズ向け、はたまたポップス向けというのも
いわゆるステレオタイプを押し付けることになり、演奏の本質から外れやすい。
聴く音楽へより深い理解に達することが、オーディオ機器では重要な気がする。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 06:58:42.97 ID:THz0Pkgd.net
オーディオ批評の場合、音楽を物質的な現象として捉えることが多い。
ピアノのタッチ、バイオリンの倍音、コントラバスの低音の深さ、オーケストラの音場感
クラシックと言えども、これだけ多様な楽器の特性、空間性を再現するのだから
音楽ホールでの鑑賞というような、一括りで済ますことはできない。

ところが、多くのクラシック愛好家は、まず交響曲の再生からスタートする。
こうした傾向は、1952年のレコード芸術の創刊号にも書かれていて
外国がオペラ、室内楽が主流なのに、日本では今一つだと言われる。

逆にジャズは近接マイクで、目の前で演奏している状況を好むので
シンフォニーホールとクラブジャズという、両極端な音響のメインストリームが
そのままクラシック向け、ジャズ向けというステレオタイプを生み出している。

問題は、ピアノやバイオリンなど、サロン文化と関わりの強い音楽の聴き方が
20世紀の大型コンサート会場での演奏を基準にしていることで
自宅を開放してもてなす音楽サロンの雰囲気とは全く違う。
家で聴くクラシックの基本は、むしろ室内楽・器楽にあるのだというべきだろう。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 07:45:15.21 ID:THz0Pkgd.net
室内楽・器楽の曲目を、音楽サロンの場を想定して聴くというのが
実際どういうものなのかを想像するのは意外に難しい。
ttp://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/03/01_7540.html
ttp://www.piano.or.jp/report/02soc/19memoirs/2016/09/30_21769.html

1950年代のコーナーホーン大型スピーカーが、家具調デザインというか
そのままタンス(キャビネット)と呼んで良いくらいの大きさだったのは
意外にも実物大のピアノ、チェロの胴音をどう司るかのニーズが大きかったかもしれない。
というのも、それ以前のSP盤で名盤と言えば、クライスラーやラフマニノフ、カザルスといった
名演奏家のものが多数を占めていて、リソースとしては生きていた。
こうした基礎に加えて、LPでのオーケストラ鑑賞が新たに追加された。
この時期の新しい可能性のほうが、ステレオ再生のスタンダードになったのではないか?

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/09(水) 06:31:24.04 ID:HfMqSR7L.net
音楽にとってロマン主義とは、楽器や音楽語法の革新という感じだが
内実のほうはゴシック・リバイバルにみるような、中世ヨーロッパへの郷愁に満ちている。
狂王ルートヴィッヒ2世をはじめ、むしろメルヘンに似た絵物語の現実化にみえるのだが
ディズニーランドと同じように考えると、事の発端は比較的理解しやすい。

欧米の都市においてオーケストラを編成することがどれだけの意味をもっていたか
その熱情の源泉を知るのはなかなか難しい。
狂王が国家財政を危機に落としいてれて疎んじられたのと
富裕層のパトロンを中心とする音楽協会の健全な経営とは紙一重で
その源泉となるパッションに大きな隔たりはないのだ。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/09(水) 07:40:15.61 ID:HfMqSR7L.net
メルヘンというと少女趣味の感覚があるが
イギリスの挿絵付き小説などをみると、ロマン主義の奥行きの広さを実感できる。
例えばスペンサー「妖精の女王」に画いたウォルター・クレインの挿絵は
ワーグナー「ローエングリン」「パルジファル」とそのまま重なっている。
同じチューダー朝のシェイクスピア劇を好んだヴェルディ「マクベス」「オテロ」が
現代的なシリアスな人物像を好むのとはやや正反対の感じがする。
グリーナウェイ「窓の下で」のような子供の子供らしい仕草を優雅さに含める手法は
シューマン「子供の情景」のような作品に出くわすことになる。
もちろんこの前座にはソナチネ集のような、アマチュア愛好家向け作品集があったが
オリエンタリズムとおとぎ話というコンセプトがロマンチシズムの源泉である。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 06:47:48.75 ID:1bNnXRMk.net
ロマン主義が昔の王侯貴族の誉れを夢見て、絵物語を現実のものとする状況は
クラシック音楽をオーディオで聴くことと、あるいは似ているかもしれない。
そこには音による優美な表現を尊ぶいうことも含まれている。
ヴィルトゥオーゾは、楽器の機能的制約を越えて
自由闊達に情念を語れる達人のことを言うのであろう。

しかし、オーディオの多くは写実主義に基づいて評価される。
ヴィルトゥオーゾが譜面を楽器で実現化する達人とするなら
同じ語源のバーチャルは、実質的に等価のもの、さらには仮想現実となる。
オーディオがヴィルトゥオーゾのバーチャルという2重の意味をもつ
一種のヒエラルキーの下に服すことになるのはこの所為である。
そこで、オーディオが写実的ということには、儀礼的な課題が残るのだ。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:11:29.84 ID:1bNnXRMk.net
オーディオがクラシック音楽を写実主義を通じて表現するとき
その結果として優美さを伴わないのであれば、それは失敗である。
つまり優美さという得体の知れないものを、数値化する作業が本来必要なのだ。

美音系と呼ばれるオーディオ機器の多くは高次歪み(倍音)を伴うものが多い。
真空管のリンギング、トランスやテープの磁気飽和、スピーカーの分割振動
こうしたアナログ特有の歪み成分は、Hi-Fi初期には必要悪のような存在で
むしろこの悪影響を巧く利用した機器が名機として名を残している。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:27:50.55 ID:1bNnXRMk.net
真空管のリンギングやオーバーシュートについては
オーディオ機器から消えたのはDCアンプの登場した1970年代半ば以降で
その頃になるとトランスレスということもあり磁気歪みも減っていた。
しかし、録音媒体は磁気テープが残っており
再生側ではテープヘッドあるいはレコードのカートリッジにも
信号経路に磁性体は1980年代半ばまで生き残る。

一方で、完全にデジタル化された後に判ったのは
アナログ→デジタルが単純にノイズレスになったという以上の損失があったことだ。
個人的には、その得体の知れないエッセンスが、高次歪みのように思っている。

前に述べたように、最後まで残った磁性体はスピーカーで
これが残ったおかげで、デジタル技術の仕上げが難しくなっていると思う。
一方で、アナログ的な美点への足掛かりも残されたのだ。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:51:09.41 ID:1bNnXRMk.net
美音系スピーカーへの憧憬は、例えばabsolute sounnd誌における
Harbeth HL Compact 7ES-3への好意的な評価にも現れて興味深い。
ttp://www.theabsolutesound.com/articles/harbeth-hl-compact-7es3-loudspeaker/
前作に比べ表情が晴れやかになった3代目だが
シトコヴェツキー編曲のゴールドベルク変奏曲、バーンスタイン/ウィーンフィルの田園など
こうした美音と優美さを究めた録音を、品よくまとめる術を心得ている。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/11(金) 07:40:22.73 ID:ZARuT10j.net
absolute sounnd誌といえば
1970年代からハイエンド・オーディオでの究極のリアリズムを牽引したことで知られ
優秀録音ばかり聴くオーディオマニアを生んだメインストリームのひとつだ。

一方で、今回のようなハーベスへの対応は
一種の郷愁にも似たアナログ思考を示している点で興味深いのだ。
オーディオ文化そのものの黄昏というべきだろうか。
HL Compact も、CD時代でのアナログ的な美質の保存を意識しており
そういう思いが30年を巡って一段落しているように思える。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 10:52:39.63 ID:eLwqROCR.net
シューマンのピアノ曲というと、ほとんどが若書きの情熱に掻き立てられ
女性ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト クララ・ヴィークの姿が思い浮かぶ。
それがクララへの実質的な恋文だったとしたらなおのことで
難曲に等しい楽曲は、激しやすく涙もろい、シューマンらしさが垣間見える。

一方で、作品50「楽園とペリ」まで成功作に恵まれなかったシューマンにとって
ピアノ曲のそれは難解なテクニックが覆いかぶさってさらに渋さを増している。
市場での曲の人気はいまいちなのに、ピアニストにとっては魅力的な題材らしく
リヒテル、アシュケナージ、デムス、ブレンデルなど名立たる巨匠がひしめく。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 10:54:56.59 ID:eLwqROCR.net
個人的に惹かれるのは、ポリーニのコレクションで
70歳を記念してショパン録音集に続いての2番手がシューマンだったのは意外だった。
とはいえ、純然たるシューマン・アルバムは3枚
他はシューベルト、シェーンベルクとのカプリングから抜粋である。

シューベルト:さすらい人幻想曲、シューマン:幻想曲(1973年)
シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番、シューマン:ピアノ・ソナタ第1番(1973年)
◆シューマン:交響曲的練習曲、アラベスク(1981年、1983年)
シューマン、シェーンベルク:ピアノ協奏曲(1989年)
◆シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集・ピアノ・ソナタ第3番(2000年)
◆シューマン:クライスレリアーナ、暁の歌、アレグロ(2001年)

ピアニズムの極致とはよく言ったもので、シューマンのパッションの方向性が
図らずもピアノという楽器に向けられていた、という超幻想的な内容を含んでいる。
ピアノの響きに呑み込まれた青年というべきか。消え入る響きの変化までコントロールされる。
ペルシャ絨毯を拡大鏡で覗いて、織り目のグラディエーションまで鑑賞して
なるほど1万円と100万円の価格の差に納得する感じである。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 15:01:03.77 ID:eLwqROCR.net
ポリーニのような演奏家は、大器晩成などという言葉が似つかわしくないと思っていたが
ショパン、ベートーヴェンと聞き続けていると、本人なりに枯れて円熟する機会を
何かしら思い描いていたのだと思う。

ベートーヴェンの場合は、録音期間が作曲家の実際のタイムスパンに近いのだが
後期作品から初期に若返る方向に逆行している。
まるでオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」のような変な仕掛けがある。
ショパンなど最後の50番台の作品集のアルバム題はそのまま「ショパン」である。
その前の晩年の作品集が自身として最後のアルバムと思ったのかもしれないが
オール・ショパン・プログラムでワールド・ツアーという企画を伴って
多少の衰えも問題にせず音楽を慈しむ姿に感銘をうける。

対照的なのはブレンデルで、3回もベートーヴェン全集を吹き込んで
それぞれの時代のなかで解釈を深めていく姿勢が顕著である。
マイクの位置も段々と遠のいていくのは、客観性を増しているように思うが
米VOX、DECCA、Philipsのレーベルの違いかもしれない。
実際には、若い時から平衡感覚の強い作品解釈のあったことが判り
地味な徒弟から老舗の職人まで、周囲の見る目が変わっただけかもしれない。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/13(日) 16:13:40.67 ID:4D8xbS0F.net
1970年代の前半に、ピアノ演奏の方法論が変化して
例えばミケランジェリ、ポリーニ、ルプーなど繊細なコントロールを得意とする
ピアニストが台頭するようになる。

ところがこの1970年代前半に評価が高かったこれらの録音を
当時の人たちがどういうステレオ装置で聴いていたかというと
はなはだ疑問の出る点が多い。

スピーカーでも、AR-3aは広帯域で再生できる機種ではあったが
重い反応で、ピアノのレスポンスにどれだけ追いつけたかは疑問だ。
JBLのマルチ化はまだで、クォードのESL-63も開発中
タンノイのゴールドモニター、スペンドールのBC-II、ヤマハ NS-1000Mあたりだろう。

あるいはSTAXのコンデンサースピーカーということも考えられる。
マーク・レビンソン氏は自宅でQUAD ESLをスタックして
ハートレイ製61cmウーファー、デッカ製リボントゥイーターを追加した
「H.Q.D」システムを使用していたが、アンプのほうはスタックス製を置いていた。

B&Wが世界中のスタジオで使用される前の時代に
オーディオファイルに向けた高音質録音の提案は
意外に難しい局面をもっていたという感じがする。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/13(日) 21:24:17.72 ID:4D8xbS0F.net
1975年頃を水準に置くと、瀬川冬樹氏の思い描く最高機種は
BBC LS5/1A、EMT 930st、マークレビンソン LNP2+スチューダー A68で
その後にJBL 4351との格闘に入る。
BBC 5/1Aは非売品なので、一般にはKEF 104、スペンドール BC-II を推奨していた。

JBLへの憧憬の第一歩は、4320における打音へのアキュレートな反応で
EMTのトレース能力を正しく伝えきれるスピーカーがあまり無かったことが挙げられる。
ようやく4320を買おうとしたが4330シリーズに移行していて
一度自宅に入れたもののあまり納得がいかず、最新の4340シリーズに突入した。
一般には1970年代後半から1980年代前半のオーディオバブル期を代表する
方向性をもっていたように思う。

93 ::2019/10/14(Mon) 07:59:55 ID:FH9BreZw.net
JBLというと、日本ではジャズかロック向けという感じだが
DELOSやTELARCという優秀録音を売りにしているアメリカのレーベルでは
そのマッシブな音圧を出し切れるスピーカーとして有力候補となる。
高音質なレーベルでは、昔のマーキュリー、エベレストなどを思い出す人もいるだろう。
そもそもDELOSは、JBLの顧問 ジョン・M・アーグル氏が起こしたレーベルで
まさにアブソリュート・サウンドの尖峰を務めた。

とはいえ、日本ではそういう部屋に恵まれるオーディオファンは少ない。
低音が縮退をするのに、高音だけがドカンと押し寄せる。
だから日本ではジャズ向けと言われてきた。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/14(月) 21:13:36.93 ID:FH9BreZw.net
日本でラックマンのアンプは、ある種の艶やかなラックストーンで知られるが
最近のものはアンプとしての駆動力を優先させているような感じで
色んな意味で安定志向、少し歳をとったかな? と思わないではないが
理由は低能率で広帯域のスピーカーが増えたためだ。
昔の艶やかさは、真空管のほうにまかせているようにも見え
その辺の采配の広さが、アンプメーカーとしての歴史を感じさせる。
もしかすると、日本マランツのほうが艶やかなように思うのだが
高域が伸びきっているからという評価に傾く人も多い。
個人的には、艶やかさは2〜4kHz付近の共振にあるのだが
今のスピーカーのほとんどは、その帯域を無色透明にしているものが多い。
アンプの艶は、そういう意味で有効な手立てだと思う。

ラックスマンには昔からの流れで、一種の暖かみのある表現を期待するのだが
もともと艶の多いハーベスやタンノイとの組合せで昔ながらのスタイルに収まるが
エラック、KEF、ピエガとの組合せでも、ヨーロピアン・サウンドを満喫できる。
Dynaudioでは真面目過ぎ、B&Wでは超高域のキラキラが削がれるなど
スピーカーに求めるキャラとの相違が現れる。
海外でのB&Wは、むしろ中域と低域のマッシブさやエモーションナルが売りなのか
ROTELのような、もっと音のグローな業務ライクの音が好まれるので
ラックマンのアンプの底力のようなものに期待してもいいのだと思う。
意外にもJBLとラックスマンの組合せは、そのタップリしたボディのスケールで
古き良き時代のCBS、RCAといった録音群に強い相性をもたらす。

95 ::2019/10/14(Mon) 21:31:21 ID:FH9BreZw.net
クラシックで中域の艶やかさというものに注目するのは
例えば木管楽器のプリプリした感じとかで、バイオリンの艶ではない。
ところが、500〜2000Hzの帯域は、楽器の基音に近い帯域で
むしろブローイング、ボーイングといった
演奏のエモーショナルな部分での表現力に関わる。

クラシックで、音の美しさに耳を奪われがちだが
演奏そのもののパッションに、身体ごと委ねるようなことも必要だと思う。
その中域での再現力は、高音の到達が早いとマスキングされてかき消される。
オーディオショップで聴くB&Wなどに顕著なのだが
音の立ち上がりが非常に早いのに、音量が後から部屋を満たす感じがあり
ホールの返しが強いオーケストラはともかく、ピアノ演奏の低音のアタックは
どう理解しているのだろう? と色々勘繰ったりしてしまう。
ユニットの素性は良いので、マルチアンプできっちり鳴らしてあげるべきだと思うが
そういう指南はあまり聞いたことがない。商売が成り立たないからだろうか。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/14(月) 21:45:00.92 ID:FH9BreZw.net
中域の扱いでは、ATCやPMCといったメーカーでは
むしろスコーカーの開発そのものからスタートした会社もあって
低域と高域は、むしろ素っ気ないほどの鳴り方だ。
逆にいえば、クラシック向けというよりは
80年代以降のジャズやソウルをしっかりエモーショナルに鳴らす
という目的で開発されている部分も多いのだが
ピアノをガッチリと再生するとなると、こうしたチョイスも悪くない。
しかし、素っ気ない顔立ちに、価格が高級車なみというと、大分躊躇するだろう。

97 ::2019/10/15(Tue) 06:19:37 ID:yZWUVGxk.net
1980年代のスピーカーの潮流で驚かされたのが
セレッションのSL-600シリーズで低能率、広帯域という路線を打ち出し
当時これを鳴らし切れるのがクレル社のセパレートアンプだけ、という化け物だった。
しかし、そのスマートで定位感の良い低域は、小型ブックシェルフの可能性を
大きく広げたとも言え、通常のアンプの駆動力もこの後は劇的に改善された。
あとは脚周りをきっちり支えないと、音場の立体感が出ない
ラインケーブル、スピーカーケーブルでゴロゴロ音が変わるなど
結構面倒くさい問題もクローズアップされた。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/15(火) 06:38:03.92 ID:yZWUVGxk.net
音場の立体感はデジタル録音になって大きく変化したもので
高域の位相特性とチャンネルセパレーションが安定したおかげで
パルス性の音の立ち上がりがストレスなく描写されるようになった。

このおかげで、過去のマルチ録音のミキシングの粗さが目立ち
音の塊、平面的な配置に聞こえるようになった。
こうしたニアフィールド・リスニングを基本にしたサウンドステージの形成は
すでにBBCの研究で萌芽していたものの
素直なワンポイントマイクでの収録という、初期ステレオ録音の再評価につながった。
デンオンはともかく、BISなどの小規模レーベルが、ペアマイクと若干の補助マイクで
すっきりした音場で収録しはじめたのも、この時代でもある。

99 ::2019/10/16(Wed) 06:25:47 ID:JrBAnleB.net
セレッションのSL-600〜700がもたらした試聴スタイルの変化は
たとえ小型スピーカーでも大音量で聴くことで
スケール感を伴いながら精緻な定位感をも獲得できるということだった。

これは従来の大型スピーカーでは難しいもので
課題だった150〜500Hzのミッドローのレスポンスと関連性があり
以来20cm以下でロングストローク、大入力でも歪みの少ないウーハーが増えた。

一方で、小音量では動きが悪く音痩せするウーハーが増えてきたため
たとえ十数万のスピーカーでも、アンプのほうが倍の価格が必要という逆転現象が起き
オーディオビギナーが最初に求めるステレオの敷居が一気に上がった。
こうした課題も2000年を越えて落ち着きを取り戻しつつあるように思う。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/16(水) 07:45:58.54 ID:JrBAnleB.net
CD時代も末期的になってきて、全集セットが当たり前の時代になった。
ベートーヴェンの交響曲全集など、LP盤ではまとめて買う機会が少なかったが
今では新譜1〜2枚分の価格でよりどりみどりの状況だ。

その一方で、集中して聴ける演奏というのも少なくなったように感じていて
いかに1枚のアルバムを充実したものにするか、という課題も感じている。
良い演奏に出会うと、テレビをみてる1時間より、ずっと長い充実した時間を感じる。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 06:09:07.85 ID:4P500CDs.net
LP盤でのアルバム構成は、ちょうどコンサートの半分程度で
A面とB面の気分の入れ替えも含め、何かしらの構成が考えられている。
レコードは繰り返し再生されることもあって、スタティックな世界観を提示することが多い。
ちょうど作曲家の肖像画、楽派の風景画のような感で
1品1品じっくり眺める時間の余裕ができるたように思う。

作品のベスト盤を推す企画もあるが、最近つとに思うのが
作品の完璧な演奏というのは、新即物主義の思考であり
演奏行為がパフォーマンス・アートという側面をもっと強調すべきだと思う。
その時に成し得た演奏家のパッションを感じられない試聴は
その時間が無意味なものになってしまうように感じるのだ。
こうした傾聴に値する演奏に出会う手助けにオーディオ装置の意義がある。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 06:45:56.65 ID:4P500CDs.net
ミュージシャン至上主義のポップスのほうでは、オーディオ・マニアは嫌われる。
どんな装置で聴こうと、その演奏の価値は変わらないということになる。
その反対に、クラシックは原音主義というか、写実的な描写が好まれるので
オーディオの再生能力によって、印象が全く違うことが、古くから言われ続けた。

一方で、録音品質は悪いのに、演奏のほうは凄く魅力のあるものも多い。
特に1950年代のライブ録音に多く、フルトヴェングラーなど最たるものだ。
現在も続くその発掘が1970年代に根を下ろすのは
ステレオ装置の水準が上がるのと反比例しているように思う。

しかし、よく精神性のようなことが言われるのとは異なり
個人的には、戦前のフルトヴェングラー/ベルリン・フィルと新世代のポリーニは
自然に流れる練達な音のなかに、同じパッションに彩られているように思う。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 07:31:57.73 ID:4P500CDs.net
傾聴に値するアルバムというと、何だか偉そうに振る舞うのだが
どういうわけか、レコード批評に慣らされているクラシック音楽ファンは
一種の上から目線で王侯貴族の仲間入りをしたように話す。
たかだか3千円で買えるアルバムに対して消費者保護を求めるのは
一種のハラスメントにも似た状況のように思う。

ただ、演奏に敬意を払うなら、その人が残してくれたレコードを
最善の状況で試聴することであり、その準備を怠らないことだと思う。
オーディオ装置は、なにそれの機材を使ったから大丈夫というものではなく
楽器と同じように、様々な調整を経て、調和のとれた音が鳴り響く。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 07:51:10.33 ID:4P500CDs.net
ステレオ装置が十分に行き渡らない時代に、レコード・コンサートというのがあった。
地方の公民館や学校の体育館を借りて、最新の機器を取り揃え
レコード各社、オーディオメーカーのデモの様相もあったものの
実際のコンサートでは聞けない名演奏家の音楽を鑑賞しようというもの。

名曲喫茶というのも、コーヒー代でレコードを聴ける場所で
椅子が全てスピーカーに向いている、不思議な店内レイアウトもあった。
こちらは膨大なレコードを収納するレコード棚と共に
オーナーの拘りの装置が立ち並ぶことが多く
かつ自宅では不可能な大音量で聴けるという側面もあった。

こうした先に自宅でのレコード鑑賞があったのだが
今はレコード鑑賞の公の情報は閉ざされた状態だと感じる。
大ホールでの生演奏とオーディオ装置との聞き比べは
なんというか遠目の距離から眺めるような感じになりやすく
オーディオ装置のダイナミックレンジが追いついていかない。
一般住宅の暗騒音は意外に大きく、精々30dBくらいの間を
行ったり来たりしている程度で、生演奏のそれとは程遠いと感じる。

105 ::2019/10/18(Fri) 21:39:50 ID:4P500CDs.net
聴いていて時間を忘れるほどの名盤というのは
時間を刻むはずの音楽とは全く相反してるように思うのだが
いつまでも一緒に居たいような、そういう気分にさせられるものだ。

何もワーグナーの楽劇や、マーラーやブルックナーの交響曲に
ひたすら没頭するということではない。それも良いのだが
シューマンのピアノ曲の絶え間ない草花文様と戯れてみるとか
フォーレの室内楽の音の奔流に包まれてみるとか
入ったら二度と出られないようなラビリンスのような世界もある。
実はこういう楽曲は、冴えないオーディオ装置で聴くと延々と単調だが
ちゃんと聴くと色彩感にあふれる変化に富んだ楽曲になる。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 07:49:55.76 ID:CGa+E26E.net
名曲の決定盤という思考が、演奏家の個性を阻む場合があって
例えばポリーニのシューマン/クライスレリアーナ、ドビュッシー/前奏曲I&IIなどは
同じグラモフォン・アーチストだったアルゲリッチとミケランジェリの録音があったために
かなり遅れて録音された感じがする。
隣の島を荒らすようなことを避けて、互いの名誉を守るという意味もあったかもしれないが
これだけ潤沢にマエストロがひしめき合うと問題も大きいように思う。

あるいはアラウへの演奏評価も、1970年代に70歳を迎えていた巨匠について
同時代の流麗なピアニズムと比較されがちである。
確かにフィリップスの録音は、ややくすんでいて、それが滋味ある演奏と勘違いされやすい。
当時モニターに使ってたクォード ESLのような繊細な反応のスピーカーで聴くと
頑強なタッチに支えられたうえでの繊細さが浮かび上がる。
ボレットと同じリスト直系のピアニズムなのだが、当時はあまり理解されなかった。

リヒテルとギレリスの比較も面白い。個人的にはギレリスが好きなのだが
それは1970年代以降のスタイルが、ゴドフスキー〜ネイガウスと続く
第一次大戦前のウィーン風のスタイルを伝えているからだ。
同じ比較は、ラフマニノフとホフマンについても言えるだろう。
リヒテルはどちらかというとラフマニノフに似ている。

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 09:48:31.31 ID:CGa+E26E.net
1970年代のクラシック・アルバム=演奏家のポートレートという風になるとすれば
戦後まもなく流通した新即物主義による作品理解の普遍化から脱して
1970年代から演奏解釈の多様性に一歩踏み出した感じがある。
それは演奏家の技量というよりも人間性にクローズした内容になったように感じる。
作曲家よりも演奏家のほうが前面に出るケースが多くなったと思う。

こうした肉声に近いようなものをオーディオ装置から引き出すのは
相手が客観的な生音でもあるなかで、ただ楽器の音色がどうとか言うだけでなく
背景にあるものを手繰り寄せるような感性が必要な感じがする。
共感というか、共鳴というべきか、そこにある一種の充実感を引き出すことである。
実際には、充実感を求めすぎて、響きの奥が見通せないオーディオは多い。
意外に、引くときはしっかり引いてくれないと、漫然と鳴ってしまって飽きてしまう。

108 ::2019/10/19(Sat) 10:21:04 ID:CGa+E26E.net
豊潤な響きのなかで躍動感をもたせるというのは
一見矛盾するようにみえて、アンプの力量も含めて、オーディオの基本である。
漫然と鳴っているかいないかは、セミクラシック的な楽曲で確認すると判りやすく
 ピアソラ/タンゴ・ゼロ・アワー
 木住野佳子/プラハ
 キングズシンガーズ/ビートルズ・コレクション
などは、上質な音楽でもあり、お気に入りのアルバムだ。

109 ::2019/10/19(Sat) 12:22:37 ID:CGa+E26E.net
デジタル初期のセミクラシックは、やや冷たい感触の音質が多く
>>108の録音は、真空管アンプなど使うと雰囲気よく鳴ってくれる。
単に柔かいという意味ではなく、EL84やKT88など欧州系のビーム管は
艶を出しながら少し輪郭を強めてくれる。やはりまとめ方が巧い。

ただもうひとつ深く掘り進むと、熱気や興奮というものも伴うようになる。

木住野佳子はジャズピアノとはいえ、コンポザー志向の楽曲構成力があり
そして微妙に揺れ動きながら折り重なるリズム感が心地いい。
そしてプラハで生まれ育った滋味深い弦の響きとが共感しあって
暗鬱な重たさと空に抜けるような軽さが交錯する。
この上下に舞う運動が、天空のに大きな円を描いているように
ひとつの線になって集合していく様は、雲のように儚いのに力強い。
実際の雲は、近づくと凄い乱気流に寄せられているのだが
そうした熱気が奏者ひとりひとりの意志として全体を支えている。

110 ::2019/10/19(Sat) 21:39:07 ID:CGa+E26E.net
タンノイを鳴らすアンプとして
日本のラックスマンと上杉研究所の真空管アンプは
本当に日本人の心の隙間をよく知り尽くした感じで
クラシック音楽に必要な、品の良い艶、端正な趣と
いずれ菖蒲か杜若という具合である。

一方で、エアータイトの超大型真空管アンプでタンノイを
ガッツリ鳴らすというのがあるらしく、海外から引き合いが多いらしい。
エアータイトといえば、ラックスマンが真空管を撤退すると決めたとき
スピンオフして設立した会社だが、方向性は引き締まった低音と共に
正攻法でしっかりとした感じだ。

あるいはマンレイ・オーディオというスタジオ機器を設計する会社は
マンタというエイの形をした6BQ5真空管アンプを製造しているが
ここの製作していたモニタースピーカーが
タンノイのSRM/SGMの10インチをOEMしたものだった。
SRM/SGM10はポップス畑では結構な人気のある機種で
同社の真空管アンプはドライブ力としなやかさの同居したものだ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 13:44:28.09 ID:VA2nINtU.net
1970年代のBBCモニターの周辺は、FMステレオ放送に合わせ
定位感とフラットネスを両立した名作揃いといえる。
BCII、LS3/5A、LS5/8、LS5/9と
大きさのバリエーションもあり、試聴環境に合わせやすい。

一方で、ウーハーの設計で重視された中高域の明瞭さについて
あまり背景を知らずにいることが多い。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1979_22
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
いずれもユニット単体でと1〜2kHzにピークをもっており
それをネットワークで抑え込んでフラットネスを保持している。
よくポリブレビン特有の艶という言い方もされるが
男声アナウンサーの声が明瞭に聞こえることを第一条件とした
放送局特有の理由がある。
この中域の艶と乱高下するインピーダンスへの対処が
アンプの選択に頭を悩ましてきた。

1970年代イギリスは既にミキサーもアンプもトランジスター化を完了した時期で
重たいネットワークを難なく鳴らせるQUAD303の業務仕様50Eが使われた。
とはいえ現在のアンプ事情からすると、十分に鳴らしやすい部類になっており
電源のしっかりした国産プリメインでもそれほど違和感ない感じに収まる。
真空管でも6550、KT120、KT150のように電力供給の大きいアンプで鳴らすと
さらに色艶があって開放的という全く別の魅力が現れる。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 14:06:23.74 ID:VA2nINtU.net
最近のスピーカーをみると、ヘッドホンやホームシアターに圧されて
本当にクラシック音楽のことを考えてくれているのか?という疑問もなくはない。

ロック世代も半世紀を過ぎて老境に入りつつあり
そちらのニーズのほうがずっと大きいというべきかもしれない。
そのなかで、やれ奥行き感だとか、弦の美しさだとか、オカシイのかもしれない。

ただ、クラシック音楽は20世紀までステレオ再生の王道だったのは確かで
それは取りも直さず、生楽器での実演との比較がしやすい点に尽きる。
オーディオの忠実度の尺度として、それなりに有意義であったのだ。

個人的には、ホームシアターの洗礼を通じて、パルス音と重低音の再生だけでなく
セリフの定位がビッグマウスになったりせず、全体にノーマルになったと感じる。
それと、スピーカーでエコーを独自にもつようなエンクロージャー構造も減った。
逆に退化した点は、低音のレスポンスが遅いこと、中域の艶が減退し冷めた感じになり
ツイーターの質感ばかり上がって、他が無視されているのでは?と思える点だ。

113 ::2019/10/20(日) 20:12:34 ID:VA2nINtU.net
20世紀末のポスト・モダニズム、脱構築という思想の移り変わりは
クラシックという概念を楽壇のなかから消し去ろうとした。

同じことは、シューマンらの時代のサロンへの検閲にも現れ
薬にも毒にもならないビーダーマイヤー調の世界に覆い尽くされる。
一種の平和や安泰への希求は、ロマン主義の対極にあるのだろうか?
ユーモアとメランコリーを激しい対話に持ち込んだダヴィッド同盟を聴くと
その性格表現をどう再現するかに、一筋縄ではいかない複雑な感じがする。

私たちが知るシューベルト〜メンデルスゾーンの初期ロマン派の理解は
「子供の情景」にみる家庭的な雰囲気への憧憬でもある。
しかしシューマンはそう願うこととの深い葛藤があったようだ。
その後の「クライスレリアーナ」で、再び破滅的な自画像をぶつける。

こうした内容は、ピアノ的なきれいな響きに包まれるなんてオーディオ・テクニックで
どにかしようなど所詮無理な話。その裏まで再生しないと判らない。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:00:18.87 ID:gEMk3P6y.net
そもそもこの躁鬱を繰り返す指向は
ドイツにおける疾風怒濤時代に起因するのだが
本来は18世紀末の小説や演劇の分野でのことだった。
同時代のベートーヴェンが第九で取り上げたシラー
またはシューベルトのゲーテの詩による歌曲などがそうである。

一方で、シューマンの根差す対立概念の対話をもつ器楽曲は
バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルがベルリン宮での不遇の時代に
フランスの標題的器楽曲をクラヴィーア・ソナタのなかに込めた多感様式による。
実際にはゲーテやシラーが演劇で活躍する1770年よりも前の時代だ。
フランスのピアノ奏者にシューマン演奏の伝統が深く残るのは
音のニュアンスや色彩感が、18世紀ロココ音楽で重視された
エスプリの精神に沿っているからだと思う。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:28:17 ID:gEMk3P6y.net
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの功績のもうひとつは
自身の多感形式の発展史のなかに、大バッハの器楽曲を挙げたことだ。
それはウィーンやロンドンといった外国の地での芸術サークルで盛んになり
大バッハを起源とする近代的なドイツ・クラシック音楽の系譜が形成される。

21世紀のバッハ演奏の主流は、古楽器によるオーセンティックな解釈だが
実際にはロマン主義で確立された器楽曲鑑賞のルールが堅く守られている。
そして演奏会批評も、19世紀の大衆紙の発展が深く根を下ろしている。
今一度、ロマンチックなバッハ解釈を再検証してみてもいいだろう。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:55:33 ID:gEMk3P6y.net
シゲティのバッハ無伴奏ヴァイオリンは
シゲティの代表盤であると同時に最も議論を呼んできた録音だ。
20世紀初頭の神童時代だった頃にコンサートで最も評価されたもので
無伴奏チェロよりもずっと先んじて評価されていた楽曲へと昇華させた張本人だ。
イザイの無伴奏の献呈者の筆頭に置かれていることもその衝撃を物語っている。
重音のバランスを維持した複雑な運指など、克服すべき内容を解決した演奏は
20世紀を通じてヴァイオリン曲のスタンダードにまで押し上げた。

一方で、戦後になってようやく果たした全曲録音は、これがストラディバリウスの音かと
誰も信じないだろうと思えるギスギスした音の連続に霹靂とする。
砂漠に隠遁するヒエロニムスよろしく老人の荒れた肌をそのままさらけ出したような音に
孤高の精神を垣間見るようで、クラシック音楽に抱く美意識を崩壊させるインパクトをもつ。
これが米バッハ協会の委嘱で、レオンハルトの初期録音と並行して行われたと知ると
さらに驚愕を覚えることだろう。実にマジメに企画されたセッションだったのだ。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:15:03.88 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハ無伴奏が行ったのは、クラシックの美意識を逆なでする
新即物主義の整った均衡を失った、アンチ・ロマンティシズムだった。
ずっと先の時代のポスト・モダン時代にでたピアニスト、アファナシエフと同質の闇だ。

このカオス状態を別な側面でみると
ケンプの2種類のベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集が挙げられる。
モノラル期の2回目のセッションは、古典的な美質を追求した端正なものだったが
その10年後にステレオでのセッションは、コルトーもあわやと思わせるファンタジーだ。
いつのまにかそれがケンプの芸風と思われている。

こうした名演の類は、オーディオの音質でどうとかいうレベルのものではなく
ラジカセで聴いても、それほど間違った印象をもたないと思えるほど
実に完成された個性というべき説得力をもっていることが判る。
一方で、アンチ・ロマン、ファンタジーというと、曖昧無垢な表現のようにみえて
実際には細部にこだわった造形力がなければ、ヘタな抽象画に見えてしまう。
その辺の技巧を聴き取る道具として、オーディオはちゃんと存在するのだ。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:54:20.43 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハがクラシックファンの美意識を逆なでするダークフォースだとすると
そもそも崩壊したと考えられる、元の原型となるフォルムは何なのか。

例えば、ルネサンス時代のミケランジェロによる2種類のピエタ(悲しみの聖母)
サン・ピエトロとロンダニーニを比べると、その造形の違いがはっきり判る。
優美の極みをもって完成されたサン・ピエトロのピエタのこの題材の代表作だが
晩年の遺作となったロンダニーニのピエタは、ノミの傷跡も荒々しく残る悲痛さが際立つ。
ちょうどイーゼンハイム祭壇画の磔刑図のむごたらしさの延長上にある痛みだ。

実は、シゲティのバッハには、ホールトーンで包まれる優美さを捨てて
ジャズ的な近接マイクで細部を録ったところに、一種の録音芸術的な仕掛けがある。
試しにデジタル・リバーブを深く掛けて聴くと、普通のコンサート風の音に戻る。
それでいて、凛と立つ孤高のバイオリンの存在が消えないのだから恐れ入る。
この仕掛けは、石造りの部屋でスピーカーを鳴らすのと同じで
普通の録音だとデフォルメしてエコーを織り交ぜていることが判る。
それを原音主義と称して評価しているところに、問題の根っ子があるのだ。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:19:21 ID:7AqP5O/m.net
同じ近接マイクで録ったバッハ無伴奏に、1981年のクイケンの録音がある。
こちらは、古楽器&バロック奏法の解体新書さながらに細部にこだわった録音で
まさかフッガー城 糸杉の間でのセッションだとは誰も信じないだろう。

結局20年の歳月を経て、ノーマルな状態での再録音と相成ったが
バロック奏法のオーセンティックな解釈を突き詰めた点で、1回目は衝撃的だった。
その後の録音が、ガット弦&バロック弓の組合せで、三味線でいうサワリのような音を
様々なシチュエーションで織り交ぜることで、バロック的な光陰の造形を確立したのだ。
それは絵画でいうラファエロからカラヴァッジョへの変化にも似て劇的なのだ。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:54:05 ID:7AqP5O/m.net
クイケンの録音は、フッガー城 糸杉の間ではなくて、アルティミーノのメディチ家邸宅だった。
ttps://www.italianways.com/the-villa-medicea-in-poggio-a-caiano-an-excursion-into-renaissance/
こんなところを占拠して録音するなんて、どういう贅沢なのかと思う一方で
録音のストイックな選択が、複雑な思考の迷路を生み出している。
ボッティチェリの弟子フィリッピーノ・リッピの作品のもつ美の愉悦と
バッハのもつ数学的な造形美とが触れ合うことがなかったとも思われる。
あるいは大ロレンツォの霊のお気に召さなかったのか。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:27:20.82 ID:65Uwos+m.net
昔からバイオリンの音をいかに綺麗に再生するかは
オーディオの音質を推し量るバロメーターのひとつだった。
例えばオルソン博士のRCAのLC-1Aモニターは
ハイフェッツの録音を最高の音質で再生できるように考えられたと言われ
リビングステレオの指標ともなっている。

今では高調波歪みを十分に抑え込んだツイーターが巷に溢れ
バイオリンの音がうるさいなどというスピーカーはほとんど無くなった。
なので、クラシック向けということをバイオリンの音で判断することはできない。
とはいえ、大人しくなってツンと澄ましているやつも少なくない。
ブラームスのVnソナタだって、デュメイやクレーメルのように
センセーショナルな表現が好まれる。演奏が渋いと判りにくいからだ。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:58:53.83 ID:65Uwos+m.net
1980年代にセンセーショナルな演奏で名を馳せた
ポゴレリチやルイサダなど、グラモフォン・アーチストが
RCA&ソニー陣営に再雇用されて、プログラムを展開している。
とはいえ、アーチストの本質は自由な演奏活動にあるので
サラリーマンのように言ってはおかしな話だ。
あるいは、シフやベロフといった純情派のピアニストも
アルファやデノンで再録音を試みている。
いずれも21世紀に入って何となく音沙汰のない感じだが
ポスト・モダン時代のロスト・ジェネレーションと考えれば
何となく合点がいく。時代の申し子と呼ばれながら
時代の悪しき方針に翻弄された部分もあるのだ。
プロデューサーが大きな顔を効かせた録音セッションが
アーチストの何かを殺してしまった臭いを感じるのだ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:14:35.63 ID:65Uwos+m.net
しかし、ロマンティシズムもポスト・モダニズムも、しっかりした定義があるわけでもない。
とくに過去の作品を尊ぶクラシック音楽というカテゴリーにおいて
むしろその鑑賞対象が、音楽を通じた人格的な交流という
一種の社交的なマナーに基づいているとすれば
そこでの人格表現には、かなりの制限があるのだが
言葉にならない感情を投影できる作品に出合えたアーチストの幸福度が
本当に高いように感じるのは、感動を一緒に共感しているからだろう。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:30:07.68 ID:65Uwos+m.net
しかし、オーディオ装置によって、音楽鑑賞の視点に違いが出ること自体
あまり問題にされない。それは電子技術が、演奏技術と相容れないという
基本的な思い込みがあるからだと思う。

ジャズ愛好家には、レコードに記録された一期一会のテイクが
二度と同じものとはならない鉄則があるため
レコード再生におけるオーディオ機器の重要性を説くことが多い。

クラシック録音において難しいのは、生演奏の再現性の高さも売りなので
音質への追求が常に青天井の状態で、古い録音への評価が押し並べて辛い。
モノラルだから残念、平面的なマルチマイク収録、デジタル臭い音
どこかしら不平を言ってみるのだが、裏を返せば、録音のせいにすれば
自分のオーディオ装置の不備は解消できると信じているからだ。

個人的には、録音技術は1970年代をピークに
もはや人間の測れる数値の限界を越えているように感じていて
むしろそういう測定機器もなく、自分の耳だけが頼りだった時代の
オーディオ装置に込められた感性のようなものが
再びクローズアップされているように感じる。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:46:23 ID:65Uwos+m.net
例えばマルチマイク収録が、奥行き方向の定位を無視して
ピックアップマイクで継ぎはぎしたように聞こえるのは
スピーカーの分解能が高まったからだと思う。

一方で、そのような現象は、低域のレスポンスが重く
ツイーターのパルス波が浮き立っているからだ。
むしろ高周波のパルス波を和らげる真空管、ライントランスなどを
噛ませることで、全体に統一されたトーンを保つことができる。
躍動感が失われたと思うなら、アンプのドライブ力が不足している。
そういう風に自分の足元を疑うのが、本当は必要なのだと思う。

こうしたノウハウは、商品を購入する際のレビューには出てこない。
相当に入念にセッティングされた状態で聴いているためだが
実際のユーザーは試聴室の違いも含め、そこまで追いつかない。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 07:02:31.98 ID:dz3/vSov.net
1990年代前半のことだっただろうか。
個人的には1980年前後のアナログ録音からAD変換されたCDの音が好きで
オーディオ機器を選ぶときに試聴盤として持っていくことが多かったのだが
店員の多くは「このCDそれほど音が良くないですね」ということを言っていた。

タリス・スコラーズのパレストリーナのミサ曲「ニグラ・スム」
ナッセン/ロンドン・シンフォニエッタの武満徹「リヴァ−ラン」など
空間に溶け合った繊細な音の移り変わりが美しい録音だと思う。

おそらく、テープヒスがサーと掛かっていることや、低音の伸びが制限されていること
相対的に中高域がデフォルメして聞こえるなど、思い当たる点はいくつかあったが
出鼻をくじかれたようで、何とも拍子抜けな感じだった。

個人的には、こうしたppが連続するような録音でも、音がエモーショナルに鳴る
そういうオーディオ機器を求めていたのだが、作品の話題まで引っ張ることなど
到底できないことに、オーディオのもつ価値そのものを考えさせられた。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:04:15.49 ID:dz3/vSov.net
1979年録音のシェリング&ヘブラーのベートーヴェン Vnソナタ全集
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
単に古楽器vsモダンというステレオ・タイプで聴き比べると損する内容だと思う。

例えば、シェリングとヘブラーの組合せは、ベートーヴェンのソナタの背景にある
フォルテピアノの音響的バランスが伝統的に知られていたことを示している。
モーツァルト弾きによるデュオは、グリュミオー&ハスキルでも好印象だったが
シェリングの全集では、後半でのシンフォニックなピアノの扱いなど
フランス・ロココ風のスタイルから、ドイツ・ロマン派に移行していく様子が判る。
おそらく、ベートーヴェンのソナタ全集などお呼びも掛からないヘブラー女史が
その不満を爆発させたかのような演奏で、そのはじけぶりが面白い。

シェリングの演奏は、いつも形式美を堅固に構えた中堅を得たものにみえるが
めずらしく話の合うお相手をみつけて、ユーモアを交え演奏を楽しんでいるようだ。
これを遠巻きにサウンドステージを意識すると、エモーショナルな流れを失う。
あくまでも1970年代初頭のアナログ収録の方法を踏襲したバランスなのだが
こうしたアナクロな仕掛けのために、演奏がただ渋いという変な評価に陥りやすい。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:42:25.23 ID:dz3/vSov.net
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
いくらADDマスターの好きな私でも、オーディオ店の試聴に使うのがはばかれる一品だ。
オーディオ鑑賞用というよりは、アラ探しするのに持ってこいのCDで
パルス性のノコギリ波が目立ち、どの楽音にも耳障りな付帯音として残り
おそらくデジタル変換の癖が最も出てしまった例と言っても過言ではない。

ただ、バロック奏法を前面に出した演奏としては、満を持したものとなっており
実際には、バッハよりもクイケンというバイオリン弾きの肖像が前面に出ている。
その後の寺神戸、ルーシー・ファン・ダールなど、名立たるバロックオケのコンマスが
豊富な演奏経験を経てスコアを読み込んだ結果を披露する機会が増えた。
その録音の多くは、1981年のクイケン盤の二の轍を踏まないこともルール化され
良くも悪くもクイケン旧盤は、古楽器演奏のスタンダードになっているのである。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 09:05:54.38 ID:dz3/vSov.net
ただ、古楽器の録音で一番難しいのは、楽器の特徴がバラバラになっているため
バイオリンやピアノ、あるいは管楽器など、20世紀にほぼ規格化された音とは違い
それまでの生音の経験則が全く成り立たなくなっていることである。

またこの手の古楽器録音は、録音ブースを持たない古式ゆかりの会場が多いため
録音時の音のチェックはヘッドホンが中心であることに加え
今も昔もスピーカーの固有音の違いがメーカー間で散見されるため
マスタリングに使用するスピーカーでは中立性が保てないこともあり
スタックスやAKGのイヤースピーカーでチェックすることが行われた。
改めてこの手のヘッドホンの過敏な応答特性を
スピーカーで再現するのは大ごとである。

一方で、スタックスのイヤースピーカーを元手に
システム調整するという荒業も不可能ではないが、どうしたものだろうか?

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 10:17:13 ID:dz3/vSov.net
古楽器の録音で関心したのは、以下のようなもの。

佐藤豊彦/フランス・バロック・リュート曲集(CHANNEL Classics、1996)
 17世紀に南ドイツで作られたオリジナル楽器を丁寧に修復したもの。
 独特の暗がりをもつ音色が、墓標を意味する音楽作品に彩りを添えている。

サヴァール/サンコロンブ2世 無伴奏ヴィオール組曲(ALIAVox、2003)
 イギリスに渡って活躍した息子のほうの作品で、華やかなパリ宮廷文化を離れ
 非常に思索的な傾向を示す。1697年ロンドンのノーマン作のガンバは
 力強く太い低音が特徴のある楽器で、この作品の重厚さを引き立てている。

エガール/ヘンデル オルガン協奏曲Op.7(米harmodia mundi、2007)
 当時のロンドンで流行った18世紀中頃の室内オルガンを用いた録音で
 シフト・ペダル(弱音のストップだけ残してシャットダウンする機能)を効果的に使い
 冒頭に即興を入れるなど、軽快な指使いでギャラントな雰囲気を増長している。
 ttps://www.goetzegwynn.co.uk/organ/chamber-organ-for-handel-house-museum/

ショーンスハイム/ハイドン ピアノ・ソナタ全集(CAPRICCIO、2003-04)
 初期のチェンバロから後期のフォルテピアノまで6台に渡って楽器を使い分け
 それぞれの作品の特徴をあぶりだした好企画盤。楽器の音に聞き比べも面白い。

スホーンデルヴルト/ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(Alpha、2004-09)
 18世紀末のサロンでの演奏形態を想定した室内楽規模の小人数オケによる演奏で
 各楽器が平等に響く協奏的なアンサンブルの仕組みが判りやすく提示される。
 ベートーヴェン自身が望んだ大オーケストラとの共演ではなく
 愛弟子のツェルニーが理想的とした演奏形態を模擬したのが勝因だと思う。
 

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 16:33:33.35 ID:dz3/vSov.net
ウィーンの三羽烏:グルダ、バトゥラ=スコダ、デムスが
まるで三人で申し合わせたように1970年を前後して
ベートーヴェン、シューベルト、シューマンの全集物を録音した。
しかもグルダとデムスはマイナーレーベルからの発信だったので
ゲリラ的な録音セッションに、やや驚きを隠せない感じで迎えられた。

ウイーン気質といえばそれまでだが、血は争えないという言葉どおりの演奏で
ビーダーマイヤー調の予定調和的というか、カフェでの歓談を楽しむような感じ。
3人の個性も合わせて見据えると、なかなか面白い選択だったと思う。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 19:53:35 ID:dz3/vSov.net
このウィーン風の丸い音色は、中域のボーカル域に的を絞った
地元のベーゼンドルファーにも特徴的な音色でもある。
スタンウェイでの演奏に比べ、低音も高音も抑えられたメリハリのない音調で
オーディオ的なピアニズムを際立たせる魅力に欠けると勘違いされることが多い。

特に高域のパルス性の音で解像度を誤魔化しているオーディオ機器は
一瞬にして魅力を失うことになり、モゴモゴと団子になった打鍵が支配する。
ただ、オーディオ・チェックとしては試金石となること間違いなしで
これをクリアすると色々な意味で得をすると思う。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:41:30.26 ID:u2towfVy.net
しかし、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンはそれぞれウィーンと距離感が違う。
古典派音楽の都に詣でた者、生粋のウィーンっ子、ウィーンに失望して立ち去った者。
実際には多くのパトロンが賑わしいだけで、国外の音楽家を消費することで時間を潰す
創造性のある地域ではなかった。
実際に有力な哲学者、詩人の多くは、シューマンはが見限る前にこの地を去った。

そしてバッハという堅物との距離感で、作風の複雑さの違いも出てくる。
本当はハンブルクのバッハ、カール・フィリップ・エマニュエルこそが
父バッハとフランスのロココ様式を融合させ、観念的な器楽曲の道を開いたのだが
大バッハの音楽言語的な構造を示唆した点が、後のドイツ的な音楽の理解となる。

こうしたなかで、ウィーン的なピアノという括りは
音楽愛好家が手習いで演奏する、家庭料理のような味わいともいえ
かつて邸宅で行われたサロン的な雰囲気を継承することを意味する。
それが退屈だという意見は、貴族文化の気まぐれな会話についていけない
そう思われても仕方ないような気がする。しかし、実際にウィーンの音楽文化は
そうした退屈な時間の辛抱強い積み重ねでできていたのだと思う。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:51:02.27 ID:u2towfVy.net
ウィーン風のピアノ演奏にあくびをしながら聴いてしまう人には
例えば、シューベルトのピアノ付き室内楽が、少し色彩感が加わり聞き易いだろう。
そこに音楽的な団らん、気の利いた会話をどのように過ごすかの極意があるように思える。
ピアノ曲が思想の遍歴、弦楽四重奏曲がシンフォニックな形式の探求だとすると
ピアノ付き室内楽は、もっと演奏者が楽しむための仕掛けが仕組まれているからだ。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:05:37 ID:Y/dHmgyE.net
ウィーンのピアノの伝統には、ゴドフスキーに繋がるヴィルトゥオーゾの系譜もあり
直接的にウィーンに根付かなかったものの、ロシアのネイガウス門下に引き継がれた。
リヒテル、ギレリスの2人が超有名だが、ルプーもその最後の弟子のひとりでもある。
ネイガウス本人もそうだが、青空のように澄んだffの響き、安定したppの表情が美しく
シューベルトの演奏に最も適しているように言われる。

個人的には、シューマン作品集が好きで、テンポルバートとペダリングが絶妙に決まり
低弦のうねりと高音のきらめきが絶え間ないポリフォニーのように交差する。
ただ残念なのは、技巧的なフモレスケ、クライスレリアーナの間に挟まれた
いかにもルプーが得意そうな「子供の情景」の平凡な出来に引きずられて
全体の評価が低くなっているのが惜しいアルバムのように思ってる。

もともとシューマンのピアノ曲は大半が難物で、うまく紹介するのが難しいのだが
クライスレリアーナは技量と詩情が高度にバランスした名演だと思う。
大概のピアニストは最初の楽章でアッチェルランドを駆けるとピアノが鳴り切らないのだが
ルプーは響きの豊かさをより太くしながら、しっかり弾ききっている。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:31:25.09 ID:Y/dHmgyE.net
よく言われるルプーのシューマンが慎ましく大人しいと感じるのは
おそらく低弦の表情が埋もれて団子状になってしまうスピーカーが多いせいだと思う。
もうひとつは時代的な問題で、1993年リリースのCDと矮小化したステレオから
どれだけの人が、ルプーのヴィルトゥオーゾを堪能できただろうか?
これが1970年代だったら、もっと聴き手に恵まれていたかもしれない。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:09:41.23 ID:DFig2z9z.net
逆に言うと、優秀録音の定義は、一般家庭で聞き易いステレオの規模で評価される。
ある水準に立たないと、演奏の真価が判らないようでは、それは難解な音質なのだ。
逆に、スコアが透けてみえるようなとか、サウンドステージが立体的に広がるとか
そういう演奏が良いというのも間違っている。

例えば、マーラーの演奏でも、クーベリックやノイマン(旧盤)の録音は
アンサンブルの一体性を重視したもので、分解寸前の危機感はそれほど感じない。
代りに、作曲家のもつ思いの強さが、自然に浮かび上がる。

両者には、やや共通点があって、バイエルン放送響の設立時のメンバーは
バンベルク響で主席を務めた人々が含まれており
プラハに在住していた古い東欧移民に先祖をもつドイツ系音楽家達である。
いわゆるボヘミアのアンサンブルに特徴的な、家族的な心の通った一体感があり
そこにある抱擁感こそが、マーラーが求めてやまなかったものだったように錯覚さえする。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:33:43.46 ID:DFig2z9z.net
しかし、スプラフォンとグラモフォンとでは録音スタイルに違いがあり
ノイマン旧盤は木質の響きを美しくとらえた上品さが優位にたち
クーベリック盤はより都会的に洗練された透明感の高いものである。
この違いは、いわゆるジャーナリスティックな演奏会評への顔向けの差であり
クーベリックがベルリンやウィーンのような華やかな社交界と対抗する必然性があるのに
ノイマン旧盤は急がずじっくり全集に挑んだ丁寧な雰囲気を伝える。
どちらもまだ冷戦末期のことでもあり、そうした表向きの顔は違いがあるものの
ノイマンにしろクーベリックにしろ、今は政治体制など気にせずワインを酌み交わしていることだろう。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 07:51:30.49 ID:LehP4+dx.net
最近のレコード屋(CDショップ)でのクラシック音楽コーナーは瀕死状態だ。
国内盤のベスト100が居並ぶだけの様子をみると
いまどき、どれだけの初心者が買いに来るのか? と疑わざるをえない。

特にレーベルの合併・吸収の激しい昨今において
ベスト100の枠もますます狭くなって、デッカ、グラモフォン、フィリップスで
どれが最高か選べという、凄く残酷なことが行われている。
もはや定番という言葉はなく、全て限定盤に近い扱いで
それを買い逃すと10年間は出番が失われるものも少なくない。
何かビルボード・チャートでも眺めているようで
おおよそクラシック(古典的な芸術観)という価値観にそぐわないのだ。

その一方で、本国のほうはどうかというと
オリジナルのアルバム構成をいじらず出版し続けるという
アーカイヴとしての保存という意識を強く感じる。
ミケランジェリの映像&子供の領分などオリジナル・カップリングで存在するし
ポリーニの夜想曲も抜粋なしの2枚組で単売している。

もっとも、どちらも録音全集というかたちで、効率的に購入できるので
単品のアルバムをじっくり味わう意義は薄れていくのかもしれない。
フィルクスニー晩年のヤナーチェク・アルバムを買おうと思ったら
合併と全集化の煽りを喰って廃盤になっていた。何とも惜しい感じだ。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:19:22 ID:LehP4+dx.net
再販モノのベスト100の価格は、1500〜1800円とミドルプライスだが
輸入盤での全集物など、まとめて買うと500円/枚以下になるので
単売であることの意味がしっかりしていないと難しい。

もうひとつはCDで高音質というのがもう魅力がなくなっており
ポータブルプレイヤーで聞けず、ちゃんとしたステレオを持つ人の買い物でもない
どうにも初心者の状況を、あまり呑み込めていないように思うのだ。

さりとて、MP3相当のストリーム音源は、音質の劣化があまりにひどい。
あくまでも買う前に楽曲や演奏を確かめるためのものと割り切ってる。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:33:49 ID:LehP4+dx.net
新しくベルリンフィルの監督に選ばれたキリル・ペトレンコの
ヨゼフ・スークの管弦楽曲集などは、CPOらしいマニアックな選曲ながら
お祝い価格という感じで、思わず嬉しさがこみあげてくる。

アスラエル交響曲や人生の実りなどは、初演者のターリッヒの録音が
モノラルながら決定盤のようになっていて、ようやく20世紀末になって
チェコの指揮者が少しずつリリースするようになった感じだが
同時代のヤナーチェクなどと比べると、どうしてもマイナーな扱いになりやすい。

ペトレンコはそうした文脈もなく、ひたすら楽曲へのオマージュを抱きつつ
マイナーオケを率いて強い信念をもって演奏している様子が判って
しかも3枚組で1枚と同じ価格で売られるというオマケまでついてくる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 21:26:48 ID:LehP4+dx.net
フィルクスニー3度目のヤナーチェクが入手しづらくなったので
1905年ソナタの入ってるアルバムを捜してみると
あるはあるは、こんなに愛されてた曲だったのかと驚いた。

そのなかで気になったのが、ヤン・バルトシュというチェコ出身の人で
海外レーベルに人材流出の激しいスプラフォンでの期待の若手による
久々の新録音というのも手伝って、思わずポチってしまった。

ジャケ絵がまた渋く、ボヘミアの森をさすらう感じがあって
これだけで何を希求してヤナーチェクを取り上げたのか感じ取ることができそうだ。
木こりのおじさんがピアノで愛奏曲を披露しますという風情で
それがたまたまヤナーチェクだった、そういう自然体の雰囲気で包まれる。

これがECMレーベルだったら、あんまり興味をもたなかったかもしれず
自分のへそ曲がり具合も堂に入ったものだとつくづく感心した次第。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 06:36:24.60 ID:ai/RigxQ.net
CDが高音質というと、疑問に思う人も多いだろう。
ランダムなデジタルノイズが20kHz周辺に溜まり込んで
硬質でザラザラした感じになりやすい。

この帯域の再生能力が曖昧な真空管アンプが好まれたり
パルス波を通しにくくしたCDライントランスが流行ったりと
様々なことが行われているが、一向に解決する兆しがない。

一方で、スピーカーがCD対応ということで10kHz以上の反応を鋭敏にしたり
アンプも鮮度を落とさないようイコライザーを装備しないなど片意地を張って
場合によってはプリアンプを抜きにしてボリュームのみという構成もある。
足並みが揃っていない以上、それなりに対策をとる必要があるのだ。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 20:38:27 ID:ai/RigxQ.net
CDの開発時にどういう試聴環境にあったかを考えたとき
基本的にはアナログ機器に取り囲まれた状態だったと思っていいだろう。
それはRIAA、FM波、Dolbyなど、全ての音源がエンファシスをかけており
入力できる信号のダイナミックレンジが周波数によって異なっていた。

そのため、パッケージされた後の音源に関しては
高域はそのほど大入力を気にせずに済んだし
むしろ繊細さのほうが求められていたともいえる。

CD発売時に重低音から超高域まで
同じダイナミックレンジで再生できるようなスピーカーは
当時は想定していなかったと考えていいだろう。
ところが、CDに関する下馬評のほうが先行して
「デジタル対応」とうたったオーディオ機器が氾濫し
むしろ両翼の伸びを強調した音調が目立つようになった。

今更ながら思うのだが、スペックとしては1970年代のほうが
音質として聴きやすかったのではないだろうか?

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 08:30:38 ID:ZQL4jhaW.net
1970年代の録音品質のほうがリーズナブルだと思えるのは
オーディオ機器のスペックが、それ以上のものをなかなか造れないでいるからだ。

むしろそれに見合ったリスニングルームを構築できない人が多いのではないだろうか。
いまどき16cmウーハーでも50Hzまで伸ばすのは容易だが
38cmのレスポンスの速さと比べると、ただボーっと突っ立っているだけの低音だ。
しかし38cmのエネルギーを受け止める部屋がない以上、縮小サイズに収めるしかない。

こうしたことにアナログ盤はどう対処しているかというと
80〜200Hz付近を少し持ち上げて、低音の量感を上げる手立てをしている。
あるいはイコライザーアンプのRIAA補正で中高域を2〜3dBだけ気持ち膨らませる。
これでふくよかさ、艶やかさのコントロールをしているのだが
CD再生の場合はこれを禁じ手として扱っている。なぜだろうか?
デジタル録音が正確無比だと思ってるからだ。ただ実際にはそうではない。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 09:01:02.51 ID:ZQL4jhaW.net
1990年代にBOSEのスピーカーが流行った時期が合って
ピュアオーディオの立場からは、音が正確ではないと叩かれまくったが
デジタル録音になってから失われたふくよかな低音を家庭用に巧く取り入れていたし
コーン紙で統一した神経過敏にならない音色も、デジタル臭さを救っていた。

同じような感覚は蘭フィリップスの録音にも感じていて
おそらく低音のスレンダーなESLでモニターしていたた時期が長かったためと思える。
タンノイでのモニターが長かった英デッカと比べると違いは明らかだが
日本のキングレコードからリリースされたロンドンレーベルの音は
同じテープから起こしたとは思えないほど暖色系の音だった。

おそらく真空管アンプが好まれる背景には、両翼帯域のボカシがある。
こうした家庭用に聞きやすい音調にまとめあげるには
ピュアではない音色のコントロールが必要な気がするのだ。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/11(月) 05:39:00 ID:ujrK9J7N.net
BBC LS3/5aの低音量が最適だとする例ととして
ルームエコーによる低音の被りが存在する。
通常のスペックで表されるのは以下の通りだが
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG4.jpg
部屋での測定例は60Hzくらいまでフラットに持ち上がっている。
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG2.jpg

実際に1970年代のブックシェルフ・スピーカーの置き方は
本棚に入れて低音のバッフル面の反射を模擬することも
ビギナー向けのオーディオ誌で推奨されていた。
また、壁に近づけて置くというのは、ステレオの普通の置き方だった。
これだと音が濁ってしまうというのは、デジタル以降の見解である。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 06:34:52.24 ID:RWhfN/ao.net
1970年代のクラシック録音は、1970年代のオーディオ技術を遥かに凌駕していた。
そう思えるのは、むしろデジタル技術で分析されたオーディオ機器が
ようやく一巡して落ち着いていくに従い、むしろ作品を聴きやすい適度なレンジ感
ダイナミックレンジの設定が板に付いてきたためだと思う。

思うにこうした聴きやすさをもたらす考え方は、ATRACやMPEGのような
音声圧縮アルゴリズムに沿っているような気もする。
適度な間引きの考え方が、音楽のエッセンスをはじき出す仕組みだが
実際はオーディオ機器もHi-Fiらしさの強調されたものが氾濫しており
デザインの仕上げに関わる感性は、人間の聴覚と深く結びついている。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:09:10 ID:RWhfN/ao.net
オーディオの基本が、人間の聴覚や感性に結びついているというのは
ヴァーチャル音響をヘッドホンで聴く際に起こる個人差を調べるうちに浮上したもので
昔は音響心理学などと呼ばれた諸現象の応用でもある。

ラウドネス曲線はその最も古典的なものだが、ポップスの録音はこれに準じている。
JBLの顧問でデロスレコードを主催しているアーグル氏は録音技術の教科書で
トーンキャラクターの効果について興味深い指摘をしており
マルチ録音での効果的なイコライジングの応用を促している。
一方で、イコライザーの弊害として生じる位相の乱れについては
まだ認識していなかったようにも思える。
それはそのままJBL4300シリーズにおける定位感の曖昧さに結びついている。

カクテルパーティー効果、マスキング効果は、定位感の向上に役立っているが
1970〜80年代はインパルス応答のスレンダーなものが希求されたため
音質として辛口のものが増える結果となった。
これが結果的にデジタル録音と同義の音質として知られるようになったのだが
マイクロ秒の僅かのパルス波にひそむ位相の乱れに言及したステップ応答は
なかなかその違いが認知されない特性となっている。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:28:58.24 ID:RWhfN/ao.net
録音における音響デザインに最も影響のあるのがマイクの特性で
例えばノイマン製の大型ダイヤフラム・コンデンサーマイクは
1930年代からそれほど変わらない特性を維持しており
Hi-Fiらしい音の王道を保ち続けている。
ファットな低域と艶やかな高域、高い音圧へのタフな追従性など
その特質をそのままスピーカーまでもっていけば立派な音響に仕上がる。

一方で、ノイマン製のマイクのもつ王道的なものは
例えばスタインウェイのピアノがそうであるように
音楽表現の制限につながることになる。
AKGやSchoepsのマイクが、高域のクリアネスの点で選ばれたり
もっと特徴の薄いDPA(B&K)がサウンドステージ形成のために選ばれたりと
その辺はかなり自由度が増えたが、やはり王道は崩れないように感じる。
おそらく最初にデザインされたノイマン氏の音響特性が
製品の品質の高さ以上の、決定的な感性の良さをもっていたからと思う。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:44:37 ID:RWhfN/ao.net
アナログ録音にあってデジタルにないものの代表例として
高次歪みとチャンネルセパレーションがある。

アナログはパルス波を通すと、その非直線性によりオーバーシュートを起こすが
固有のザラザラ、キラキラ感を音質に残すことになる。
これは楽器における倍音と同様のもので、JBLやAltecが金管楽器を得意とし
タンノイやハーベスが弦楽器を得意とするような感じに出てくる。
ところがデジタル録音は、すでに各帯域との関係性を寸断してしまっているので
互いの音域が干渉するようなことは起きないし、音に滲みや濁りがない。
まったく不純物のない炭酸水のように味気ないのだ。
かわりにデジタルフィルターの上限値(CDだと20kHz近傍)に大量の量子化歪みが累積する。
これが非常に耳ざわりで、トゲトゲしさ、ザラつきにつながる。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:50:43 ID:RWhfN/ao.net
最近になって真空管アンプが造り続けられているのは
真空管やトランスが出す高次歪みが、デジタルの味気無さをカバーするからだ。
量子化ノイズをうまくフィルタリングしながら、自身の高次倍音で埋めてしまう。
高次倍音は、楽音と連動しているので、より音楽的なエッセンスが抽出できる。
そのバーダー取引として、定位感の曖昧さ、楽音のキャラクターが付き纏う。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 19:52:39 ID:RWhfN/ao.net
デジタルになって厳密になったのはチャンネルセパレーションで
ほぼ完全に左右の信号が分離している。
45-45方式のLPはおろか、テープでさえもこれほどの性能はない。
このためステレオでの定位感を精緻に出せるようになったが
オケの一体性というか、左右の音の溶け合いというものが後退して
かつてほどリラックスした感じで得られなくなった。
どちらかというと、生真面目な人にじっと見つめられているような
何かの緊張感がずっとただよっていることになる。

またスピーカーのインパルス特性の向上で定位感がかなり良くなった反面
マルチ収録された、かつての名演が継ぎはぎだらけに聞こえたり
何とも困った感じのことも時折おきる。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:34:26 ID:yiNmlmzm.net
1970年代にクラシック録音におけるサウンドステージの理論が確立されたが
定位感をもたらす要となる高域特性は、録音側での曖昧さとのバランスで成り立っていた。
BBCの検証したFM放送は、三角ノイズが足かせとなって、やや霞掛かっていて
そのためにインパルス応答を鋭くすることで対処しようとした。
LP、カセットテープもチャンネルセパレーションは30〜40dB程度にとどまり
それ以下の信号はアナログミキサーのフロアノイズに埋もれると理解されていた。
これが当時のマルチ録音の限界だったと考えていい。

こうした曖昧無垢な録音品質は1970年代後半から80年代前半まで続くが
ちょうどCDの発売を挟むかたちの過度的なものとして扱われているものの
意外にもこの時期の録音は、音に潤いや暖かみがあって聴きやすい。
この辺りが録音品質を家庭用にいい加減に収める範囲だったように思う。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:58:05 ID:yiNmlmzm.net
スピーカーのインパルス応答を鋭くするという手法は
定位感を良くする意味で、ツイーターの設計において重要なものとなるが
その一方でパルス波の位相の乱れまで考慮したステップ応答は
コンピューターでの解析が可能になったのが1988年頃からである。
今でもステップ応答を綺麗なライトシェイプで画けるスピーカーは希少で
古くからQUAD ESLがあったものの、他にTHIEL、Vandelsteenなどしかない。

むしろ帯域別に役割分担をさせてサウンドステージを構築するのが効率的だが
ツイーターのパルス波の指令にぶら下がるように点在する楽器の音色は
なにか魂が抜けた操り人形のように感じるときがある。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 06:16:21.25 ID:yiNmlmzm.net
この帯域に一番敏感なのはバイオリンで
オーケストラの弦としては明瞭さが際立つ反面
ソロの音色は端正に演奏するだけでは物足りなくなって
クレーメルやデュメイ、ムターのようなアグレッシブな演奏が好まれる。

チェリストは受難の時期と言って良く、マイスキー、ヨーヨー・マなどは
晩年のカザルスのように隠遁者のようなアルバムを問い続けている。
人間の肉声に近いこの楽器で、語り合いたいものとは何だろうか?

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 06:36:40 ID:kjjvXzWl.net
チャイコフスキー「ある偉大な芸術家の思い出のために」で
クレーメル、アルゲリッチ、マイスキーがトリオを組んだ。
1998年に東京でのライブ収録という話題性もあったが
この楽曲の協奏曲的性格を炙りだした熱演でもある。

その後に2009〜2010年にマイスキーとクレーメルはそれぞれ
同曲を若手と組んで吹き込んでいるが
そこでのコンセプトの違い、やり残したことの意味を考えると
色々と興味深い。けして柳の下のどじょうではない。

カプリング曲の妙とも言えるが、ショスタコ、ラフマニノフ、キッシンと
前座に置いた作品がアルバムの性格に色を添えている。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:19:28.69 ID:kjjvXzWl.net
器楽曲に墓標、追悼の意味をもたせる楽曲は
古くはフランスのリュート組曲において性格付けられたが
ベートーヴェンの英雄、ブルックナーの第七など
交響曲での緩徐楽章で用いられたものもある。

ただ後期ロマン派における追悼曲の多さはやや異常で
マーラーの交響曲のライトモチーフのようなものとなるほか
チャイコ「偉大な芸術家」、ヤナーチェク「1915ソナタ」など
ある時代の終焉を意識したような題材が多い。
ベックリン「死の島」、J.E.ミレー「オフィーリアの死」など
時代に流れていたペシミズムの空気を感じ取ることもできよう。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:37:34 ID:kjjvXzWl.net
この手の曲の演奏は、ただ巧い、名演だと誉めるのに抵抗がある。
死を通じて人生の意味を問い掛けるという機会はそう滅多にない。
本当の意味での表現力がないと、間が持たないというのはあるが
それをコンサートで繰り返し行うのだから、やはり尋常ではない。

ただレクイエム=安息ということで終始するのではなく
生きるということに真剣に向き合うという意味では
後期ロマン派の追悼ムードは、バイタリティがないと務まらない感じもする。
実際、有り余るバイタリティを背景にもった演奏家のほうが
緩徐楽章の抑えた表情の重みがより一層深みを増すのだ。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:47:50.76 ID:kjjvXzWl.net
オーディオの場合は、緩徐楽章の表情をデフォルメしてやらないと
どうにも上手く再生できないきらいがある。
顔の彫りの深いほうが、陰影を映しやすいというのと似ていて
録音にハイライト、ぼかしをきっちり掛けてあげないと、繊細さが生きてこない。

アナログ盤のほうが、ピアニッシモの表情が豊かだと感じるのは
おそらくカッティングレベルの設定も含め、この手の演出が巧かったと思う。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 06:47:06 ID:XhX7S3da.net
オペラにおける主人公の非業の死は、19世紀の大衆が好むテーマで
トリスタン、ヴィオレッタ、カルメンと、その劇的な死は見せ場となり
そうならないのがオペレッタと言ってもいいくらいかもしれない。

反して器楽曲の死のテーマが、沈黙とのせめぎ合いになるのは
言葉のない音楽だから、その性格を際立たせる必要からだろうか?

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 07:53:15 ID:XhX7S3da.net
サティが「家具の音楽」という楽曲を発表したが
実はその楽曲そのものはあまり聞かれない。
ジムノペティのような室内向けの静謐な曲想ではなく
小管弦楽団で曲想のない繰り返しで埋め尽くす
ナンセンスな作曲作業と演奏形態を目論んでいる。
とはいえ、サティの作風は初期からそれほど変化せず
自分の作曲の特徴に気付いていたとも受け取れる。

1980年代のアンビエントやミニマリズムで再度注目され
音のデザインを楽しもうという感じになった。
イーノの環境音楽は、空港でのBGMを標題にしているが
A面B面を意識した造りはLPアルバムそのものであり
レコードを裏返す行為を、何かのタイミングと思っていたのか。
それ以前にはMUZAKのエレベーター音楽があり
15分テープをエンドレス再生する装置と一緒に契約していた。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 05:48:58.08 ID:dThEUuS3.net
オーディオがもともと室内での音楽鑑賞だとすると
本来流れているのは室内楽、器楽曲である。
しかし、ピアノやバイオリンを実物大で鳴らし切るのは相当にハードルが高い。
サウンドステージのような臨場感で遠目にフォーカスして
何とかお茶を濁しているのがほとんどだ。

そういう耳で聴くと、1960年代以前の録音が
楽曲の特徴をデフォルメして収録していることが判る。
イギリスだって1960年代前半まで不景気が続いて
SP盤を大切に聴き続けていたのだ。
今のような味の薄いステレオ録音を聴くと
ムードミュージックと思われても仕方ない。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 06:35:00 ID:dThEUuS3.net
例えば、1960前後のステレオ録音では、小編成のオケ録音も多く
ワルター/コロンビア響、クレンペラー&カラヤン/フィルハーモニア菅など機能的な一方で
フルオケで収録したビーチャム、コンヴィチュニーなどは、やや大味な印象を受ける。
ウィーン、ベルリンは指揮者に恵まれていないというのが正直なところだ。

あるいはこの時期のオーマンディ/フィラデルフィア管、ミュンシュ/ボストン響
ライナー/シカゴ響、セル/クリーブランド管などの録音を選ぼうとしても
どうしても後の世代のショルティ、バースタインなどと比較してしまう。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 07:13:28.24 ID:dThEUuS3.net
1960年前後に焦点を当てたオーディオシステムは
その頃のリファレンスの情報が乏しく選定に苦慮する。
オートグラフ、オイロダイン、ジョージアン、インペリアルと
青天井のスピーカーを見上げるだけで溜息が出るだけ。
アンプは安定度の良いクォード、マランツのビンテージ物
カートリッジだけオルトフォンが生き残っているだけ。

加えて盤質の問題があって
1970年代のペラペラ再発盤では分が悪い。
さらにCDになると、カセットから起こしたのか?
そう思える安物が横行したのが命取りとなった。

初期ステレオのオーディオ環境はすでに廃墟となっている。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 06:30:08.33 ID:TkO3cs+G.net
RCAのリビングステレオには3chのオリジナルテープがあって
これは映画館で使われたセンターチャンネル付のフォーマットだ。
アルテックのスタジオ機材カタログにも3chでのモニターが多く載っている。
ttp://www.lansingheritage.org/html/altec/catalogs/1963-pro.htm
おそらくオルソン博士がホールでのレコードコンサートを目論んで
このフォーマットを選んだと思われる。

フランク・シナトラの自宅には3chのオーディオセットが見られるが
スタジオのリール・トゥ・リールのテープを楽しめるようにしたのだろう。
ttps://pbs.twimg.com/media/Bzhd6jECYAAjDZ4.jpg
部屋の壁一面に展開する臨場感はここから来ている。

ちなみにRCAのモニターシステムLC-1Aは
オルソン博士の晩年の名作で、家庭用にも使いやすいものだ。
ttp://www.itishifi.com/2011/02/rca-lc-1a.html
ただし、その凝った造りと交換部品なしの小ロット品で
この辺が流通量の多いアルテックのユニットとは異なる。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:10:08.99 ID:TkO3cs+G.net
日本ではアルテックのシステムは、バイタリティに溢れたジャズの権化のように言われるが
アメリカの録音スタジオでは、プレバック・システムとして演奏の良し悪しを判断する
生音を実寸大で再生するものとして使われた。
例えばグールドは演奏の出来不出来を細かくチェックするタイプで
アルテックのシステムの前で熊のようにウロウロする姿がみられる。
ttps://www.youtube.com/watch?v=g0MZrnuSGGg
またオーケストラ録音も可能な教会堂を改築した30番街スタジオでも使用された。
ttps://payload.cargocollective.com/1/7/236959/5409068/30th-St-Studio-C.jpg
ttps://www.morrisonhotelgallery.com/images/medium/10086-LBE-ICON-flat.jpg
ttp://www.reevesaudio.com/reevesimagesnds/110-StudoCConsole.jpg

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:39:46 ID:TkO3cs+G.net
一般家庭向きの大型システムは
エレクトロボイス、ジェンセンの両翼が当時の最高級品だった。
JBL 4340シリーズを彷彿させるタンス型スピーカーの元祖である。
ttp://www.hifilit.com/Electro-Voice/patricianIV-1.jpg
ttp://www.hifilit.com/Jensen/1955-3.jpg
いずれもモノラル時代の設計のため、コーナーホーン型のキャビネットだが
ステレオ期には部屋での置き方が問題になったこともあり
なかなかお目に掛かれないものである。(以下のP.49)
ttps://www.pearl-hifi.com/06_Lit_Archive/02_PEARL_Arch/Vol_16/Sec_53/Hi-Fi_Stereo_Review/1962-12-hifi-stereo-review-no-cover.pdf
15〜18インチのウーハーと言っても、当時はコーン紙をダイレクトに震わすタイプで
大きな部屋とコンディションさえ良ければ、風のような軽い低音が聞ける。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:53:04 ID:TkO3cs+G.net
現在も製造中で手に入るオールド・アメリカンなスピーカーは
ジェンセン G-610の復刻版とクリプッシュホーンである。
ttp://www.utopianet.co.jp/product/import.html
ttps://www.klipsch.com/products/klipschorn
これにタンノイのWestminster、ヴァイタヴォックスを加えれば
1960年代の初期ステレオの凄さを満喫できるだろう。
ttps://www.esoteric.jp/jp/product/westminster_royal_gr/top
ttp://www.imaico.co.jp/vitavox/

しかし、先立つお金も、これを置く部屋もない。これが現実である。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 20:58:14 ID:TkO3cs+G.net
少し大きさのことを考えてオールドスクールのスピーカーを選べば
BBC LS5/8、JBL 4312SE、TANNOY CHEVIOTなどが思い浮かぶ。
やや低域が緩い感じだが、大らかで鳴らしやすいスピーカーで
特に1960年代のクラシック録音を眉間に皺寄せずにゆったり聴くことができる。
ラックスマンや上杉研究所のアンプなど充てると豊潤に鳴るだろう。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:38:38.45 ID:hZydWvDr.net
>>170のスピーカーは、実際には1970年代に設計されて
現在でもリアファインを続けながら製造されているもので
それぞれメーカーのサウンドポリシーが強く反映されながら
ニュートラルに収束しているような感じだ。

JBL 4312Gは今では珍しいパルプ製のコーンスコーカーを使うことで
JBLらしい恰幅の良さを保ちつつ、ローコストに抑えた点が好感をもてる。
コーン紙のスコーカーは、適度な分割振動で艶やかさがある一方で
能率をあまり稼げない(大音量で歪む)ので、現在では本当に貴重だ。
実はこのスピーカーに色気を出させるアンプの選定が難しく
特に鳴りにくいスピーカーでもないのに、同じ価格帯のミドルクラスのアンプが狙う
細身で精緻なトーンでまとめようとしても、まとめきれないきらいがある。

例えばラックスマンのA級アンプで鳴らす4312Gの音は豊潤で安心できるが
L-550でもスピーカーのペア価格の2倍するので何とか抑えたいと思いがちだ。
真空管ではユニゾンリサーチのTriode 25が良かったが価格は大幅に超過
トライオードのTRX-P88Sなどが室内楽もこなせてバランスが良いと思う。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 08:46:59.55 ID:hZydWvDr.net
1970年代に設計されたスピーカーが結ぶ1960年代のクラシック録音との縁とは
まだクラシック録音がオーディオのリファレンスでありえたバランスを残しているからだ。
低音から積み上げるピラミッドバランスとも言えるが、中域の艶やかさも忘れてはいけない。
実際には歪んでいるのだが、少し滲んでいる線のほうが暖かみがある。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 18:31:26.81 ID:hZydWvDr.net
今ではそうでもないが、かつてのアメリカの交響楽団に対する亜流扱いは
何がどうしてそうなっていたのか理解できない感じがある。
ともかくアメリカ=ジャズというのが刷り込まれていて、演奏の評価はもちろん
オーディオ機器の評価にも大きく影響している。

実際にはヨーロッパで教育を受けた指揮者が音楽監督に選ばれることが多く
アメリカ国内にもちょっとした劣等感があるのも確かだが
バースタイン、レヴァイン、ティルソン・トーマスなど楽壇を彩る名演を残している。
なぜかマゼールが欧州での録音が多く、それがダイナミックでスタイリッシュな
アメリカンスタイルで貫かれているため、ちょっと誤解しそうな感じだ。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 19:30:03 ID:hZydWvDr.net
1960年代のアメリカのオーケストラ録音は
セル/クリーブランド管、オーマンディ/フィラデルフィア管、ライナー/シカゴ響
ミュンシュ/ボストン響、ワルター&ミトロプーロス/ニューヨーク・フィルなど
今でも代表盤に選ばれる録音が多いものの、その再生環境はあまり芳しくない。

カートリッジは、GE、エンパイア、ピッカリングが主流で、シュアーは新参者となると
ほとんど聴いたことがないというのが本音である。
当時の最高の音はオープンリールで、LPはその次の地位にあった。
アンプはマッキン、マランツのほか、ダイナコ、フェアチャイルド、フィッシャー、スコットなど
スピーカーはJBL、アルテック、ジェンセン、エレクトロボイスなどよりどりみどりだった。

現在では本国で化石扱いされているJBL、クリプッシュなどが存続するし
ウィルソン・オーディオなどはマッシブなサウンド傾向からして適している。
アンプはマッキン、オーディオリサーチ、ダイナコ(キット)が生き残っている。
カートリッジはシュアーが旗を降ろしたが、GRADO、SUMIKOがサウンドを継承している。
BOSEはコンシュマーから撤退したが、東海岸サウンドを継承する最後のメーカーだった。

今の米国のオーディオを牽引しているのは、1970年代のアブソリュートサウンド誌の系統で
レコードで言えばテラーク、デロスなどの脂の乗ったガッツリしたサウンドが思い浮かぶ。
これに対抗するのに、マッキントッシュ、インフィニティ、マグネパン、ティールなどの
様々な個性あふれるスピーカーが開発され、青天井の高級志向に拍車が掛かった。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:06:05 ID:hZydWvDr.net
この世代交代を告げる出来事といえば
録音機器がアンペックスからステューダーに
カッティングマシーンがWestrex 3Dからノイマン SX-68に移行し
細身で洗練された風情がもてはやされた。
その後の1960年代の録音群の扱いは推して知るべしである。
ミッドプライスの再発盤のペラペラビニール盤、高域をイコライズしたCDと
アメリカンな消費社会の悪しき習慣を地で行くような仕打ちであった。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 20:26:12.18 ID:hZydWvDr.net
同じステレオ、同じ45-45方式のレコード。なのに音が違う。
こうしたことに気付いたのは、五味康祐などが居たものの
ほとんどが新しいオーディオの可能性のほうに賭けた。
実際に1970年代も新しい録音でクラシックレコードは潤ったし
半数以上の名盤の定義が入れ替わったのも事実だ。

しかし、輸入盤など聴くとカッティングする国柄が出ることはよく知られており
英デッカと日本のロンドン盤とは、あまりに音色が違うというのもあったが
ライセンス供与される年代が区切られていたので、さして大問題にはならなかった。

CD化されて音の変わる要素が無くなったと思われた時点で
改めてLP盤との音質の違いに気が付いた次第である。
答えはカッティング屋さんのさじ加減、つまりマスタリング工程の欠如である。
そしてデジタル録音に付きまとう一種の生硬さもこれが原因である。
デジタル対応で追われた10年間の時間と費用の浪費はユーザーにぶつけられ
そのままクラシック音楽市場の衰退を意味していた。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/23(土) 21:17:17 ID:hZydWvDr.net
いつまでも古い録音のことばかりでは新しいアーチストが育たない。
これはこれで真実でもあるが、レコードのアーカイブという役割は
全く別の意味があると思う。つまり演奏史の検証のために必要なのだ。

例えば、1950年代にプライベートで録られたコルトーのレッスン風景は
ペライアの強い勧めにより、ソニーからCDでリリースされるようになった。
この詩情あふれるベートーヴェンは、今はケンプのステレオ盤で聴くこととなる。
あるいはミュンシュ/パリ管以降のベルリオーズ解釈が熱血漢に圧されるものの
モントゥー/サンフランシスコ響のより陰影の深い演奏を聴くと
この作品のもつ倒錯した姿が、若々しいロマン派芸術家と重なってくる。

ベートーヴェンの第九とヘンデルのメサイアが市民合唱団によって
ロマン主義的なコンサート会場で演奏されることで広まっていったのは
作品の認知度とバーダー取引のようなものだったように思う。
サンサースのオルガン付、R.シュトラウスのツァラトゥストラ、マーラーの千人の交響曲は
無宗教的なコンサートオルガンの建造がなければ成り立たなかったが
ロマン派時代の巨大オルガンでのバッハ演奏会をどう評価すればいいのだろうか?
メデルスゾーン、リスト、ブラームス、フランクのオルガン曲のオリジナル楽器は?
そうした楽譜からは見えない作品理解の迷宮を録音で残すことは重要なのだ。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 06:58:47 ID:ugOBZ04x.net
1960年代の演奏の主流はノイエ・ザハリヒカイトつまり新即物主義であり
楽譜通りに演奏することで、作曲家の意図をストレートに伝えることである。
一方で、演奏者の技量も機械的に一寸の狂いもなく訓練されることが重要で
楽器の不安定さをあまり感じさせないモダン楽器の演奏形態もほぼ固まった。

1960年代のアメリカでのクラシックの録音に共通するのは職人的な気質であり
ハイフェッツ、セル、ジュリアーニ四重奏団など、その正確無比な技量は
人間技を越えていると感じたものだった。そういう定規で演奏家は測られた。
では、演奏に人間味がないかと問われれば、むしろ努力の塊のような
一種の熱情と爽快感が伴うと言っていい。スポーツのそれと似ているのだ。
クラシック音楽に、ギリシア彫刻のような人間の肉体美を感じさせるのは
この時代にクライマックスに達したアメリカ的なヒューマニズムのように思える。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 07:17:09.60 ID:ugOBZ04x.net
こうしたマッチョな演奏家を相手にするためのオーディオ機器が
スペック重視の機能性を最重要と考えるのは当然である。
アルテックやJBLは、ランシング氏のシアター機器でのリアリティの追求から生まれ
音楽の躍動感を劇場サイズで再生するポテンシャルをもっていた。
エレクトロボイスも屋外競技場などのPA機器、テレビでの生放送など
実況的なコンテンツをタフにこなす力を有していた。

同じ新即物主義の理解でも
1970年代の日本のスレンダーなオーディオ機器の一群は
むしろテクノ音楽に向かっていくような未来主義に彩られている。
もちろん、ヤマハのピアノがリヒテルやグールドに好まれたのと同様に
コンテンツのもつ人間味を色付けなく出すということはあったかもしれない。
ただ正確なことが感動には結びつかないというのは十分ありえる話だ。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:12:32 ID:ugOBZ04x.net
正確な音響というニュアンスは、日本の場合はNHK技研の影響が大きい。
ステレオのノウハウは、ここでの実験的な訓練から生まれていて
三菱 2S-305スピーカー、デンオン DL-103カートリッジなど
その標準的な性能の保持は、開発年度が古いわりには正確さが秀でている。
今では漫才マイクとして知られるソニー C-38の前身であるC-37Aは
ワルター/コロンビア響の録音にも使われたもので、とても自然な音響で収まっている。

1970年代はアンチ国営の時代でもあり、犬HKなどと揶揄していたが
オーディオ技術もFM放送よりも高音質でなければなければと必死だった。
アキュフェーズ、ナカミチ、スタックス、キノシタなどは、そのなかではピカイチの存在で
アナログ技術の限界にまで挑戦して製品化した銘品である。

こうして達観すると、同じスペック競争を求めて勝敗を決した結末として
1960年代の新即物主義と1970年代にそれを追い抜いた日本のオーディオ業界は
どこか別の惑星の住人のように感じるのだ。
それは1960年代が実物を体感しながら追認する装置としてオーディオを考えたのに対し
1970年代は録音の成果物を元にオーディオでできる事柄を究めたこととも言える。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:28:14.83 ID:ugOBZ04x.net
録音の成果物の限界というのは
例えばデッカとグラモフォンのウィーンフィルの音の違いに現れる。
デッカが爽やかさがあるとすれば、グラモフォンは淫靡である。
そのどちらもウィーンフィルのもつ特徴なのだが
同じことは、シカゴ響のRCAvsデッカ、クリーブランド管のCBSvsデッカにも言え
録音年代や指揮者の違いだけではないように思う。
つまりレーベル毎のトーンの違いが明らかに存在していて
そこが障壁となって、原音の意味が曖昧になっているのである。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 08:40:16.63 ID:ugOBZ04x.net
この原音主義の意味が複雑怪奇になっているため
マルチマイクでの演出を伴った1960年代の録音の評価を難しくしている。
作品への忠実な態度なのか、ある種の演出を伴った録音のシステムなのか
それがステレオという新しい媒体の周辺を巡って彷徨っているのだ。
なんたって将来的に2chなのか3chかで迷っていたし
1970年代初頭の4chも含め、立体音響の定義はいたって曖昧だった。
1960年代のオーディオ技術も同様に、足らないダイナミックレンジや臨場感を
録音との演出のさじ加減で調整すべく、会社ごとのサウンドポリシーを提示したのだ。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 18:15:16 ID:ugOBZ04x.net
もうひとつは、クラシックの演奏が基本的に同じ楽譜からの再現になるので
ジャズやロックと違い、その時代にしか成し得ないオリジナリティが希薄になりやすい。
たとえば1970年代には、ビバップそのものが新録では出なくなった一方で
JBLのモニタースピーカーで、1950年代のモノラル録音のリアリティが再び注目された。
そうしたトリビュートは、1970年代のクラシックではほとんど起こらなかった。

現在ではリマスターされたSACDのほうが新譜よりも高いことが起こっているが
国際化して独特のサウンドを失った、かつてのオーケストラの姿にようやく気付いたところだ。
それが作品を代表する名演なのか、オーケストラの機能性を再考するアーカイブなのか
評価の行方は難しいところだが、できればその再生方法までアーカイブしてくれると有り難い。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 19:48:37 ID:ugOBZ04x.net
大切にアーカイブされたリマスター音源は本当にすごいと思うことがある。
やや作品としては地味だが、ブリテンとピアーズが共演した管弦楽伴奏付の歌曲は
一番古い「夜想曲」で1959年だが、全く違和感のない自然な仕上がりだ。
手持ちの音源は1989年のCDで、かなり念入りにリマスターされている感じがする。
演奏そのものの強い説得力と、録音技術がうまく一体化していること
もうひとつは声楽曲であることによる、適切なイコライジングがなされているからだろう。

イギリス物の録音では、ビーチャムのディーリアス管弦楽曲集が有名だが
1956〜57年に録音された初期ステレオの名盤は
CD化にあたってリマスターでグラモフォン賞をとったような覚えがある。
こちらは暖色系の穏やかな録音と相まって、その後の演奏ではなかなか再現できない。
(さすがに「日没の歌」はラジオドラマ風のすし詰め状態だが…)

この時期のイギリス国民楽派について、「牛糞派」とも呼んだらしいが
ナショナル・トラスト運動をはじめとする自然風景をそのまま保存する社会機構に
こうした歴史的録音もターゲットになっているように感じる。

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 20:44:21.65 ID:ugOBZ04x.net
ビーチャムの日没の歌が臨場感の乏しいのは、当時のコーラスの収録では当たり前で
残響に埋もれて発音が聞き取りにくいという欠点を補うために行ったことだ。
同じことはオペラの収録にも言えると思う。

この時期の録音で恐るべきかたちで残っていたのが
1959年にホーレンシュタインがロンドン響を振ったマーラー「千人の交響曲」のライブで
この演奏会をもってイギリスでのマーラーブームが始まったという記念碑的名演である。
BBCがステレオのテスト放送用に残していたアーカイブのひとつで
1998年にようやく正式リリースされた蔵出し音源でもある。

この当時のBBCはEMIとの共同研究でステレオ収録と放送実験を行っており
収録方法がブルムライン方式という両指向性マイク2本でのワンポイント方式。
見事にオケ、合唱、ソリストのパースフェクティブが自然に定位している。
この後に「イギリス病」といわれる長期の不景気に見舞われたので
FMステレオ放送網の企画そのものはボツになったものの
これだけの大構成の音響をホールごと収録したクルーの心意気が伝わる名録音だ。

これには余談があって、マーラーブームの余波のなかで
未完の交響曲10番の補筆版をクック博士に依頼したが
アルマ夫人の了解を得ないまま進行したため逆鱗に触れ
ようやく4年後に第2稿の了承を得たという逸話がある。

その第1稿、第2稿の放送録音が残されているがいずれもモノラル録音。
しかしイギリスにおけるマーラー演奏の伝統を窺い知るのに
ラジオ放送というメディアの役割を考えるうえで感慨深い。
同じ時期にビートルズもBBCの番組を通じてイギリス全土に行き渡ったのだ。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/24(日) 21:28:38 ID:ugOBZ04x.net
BBCでの1970年代のFMステレオ放送が仮想のサウンドステージを理論付けたが
それ以前の放送はモノラルであったということと
レコード協会との紳士協定でレコードは放送で流さないという法律があった。
この辺は日本やアメリカと異なる文化があった。

そのため英国のラジオ放送は、必然的にレコードとは切り離されていたが
上記のマーラー演奏は、国営放送を巻き込んだ文化事業という側面と
ラジオならではのドキュメンタリー的なスクープ作りという側面とが入れ混じった
20世紀的な進行の仕方が伺える例ともいえる。

情報の海のなかをコラージュしながら進む楽曲にベリオ「シンフォニア」があり
マーラー復活の第三楽章を基調にしたのは、委嘱元のニューヨークフィルに対し
同じ時期に完成したバーンスタインのマーラー交響曲全集とも引っ掛けたのだろう。
これも1968年の4楽章版と、翌年に改稿した5楽章版があり
4楽章版でのニューヨークフィルの録音は面目末潰れで長らくお蔵入りだった。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:14:20.28 ID:JQZuNj3t.net
アメリカにおけるオーケストラの録音は、トスカニーニの他はほとんど復刻されないため
最近になって戦中のラジオ放送音源が増えたが、ほとんどが戦後のものが中心になる。

実はニューヨークフィルはウィーンフィルと設立年が一緒だが
ウィーン楽友協会の活動がそれに先んじていたため、ずっと古く感じられる。
その意味では、ボストンのヘンデル・ハイドン協会が、ウィーン楽友協会とほぼ同じだが
オラトリオ演奏に特化された活動のため、作品の委嘱、定期演奏会というシステムは
まだ存在していなかった。

そういう意味では、都市オーケストラが活動するのは19世紀末からで
ドボルザーク、チャイコフスキー、マーラーなど、その作品紹介も活発になり
オーケストラの編成も必然的に後期ロマン派のスタイルで出発している。

ロシア〜ポーランド系のヴィルトゥオーゾの多いのも特徴で
ホロヴィッツ、ラフマニノフ、ホフマン、ハイフェッツ、エルマン、ミルシテインと
20世紀を代表する演奏スタイルを保持していた。

こうしてみると、意外なことに日本のクラシック音楽のマーケットは
アメリカの影響を大きく受けていると考えて良いのだと思う。
しかし思惑のほうは、ヨーロッパの貴族文化の延長として捉えがちなのだ。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/25(月) 07:46:08 ID:JQZuNj3t.net
戦後のLPについても、音質で選べば音符(コロムビア)と天使(EMI)と言われ
デッカはレパートリー不足、グラモフォンは盤質が悪くて話題に上らなかった。
犬(米ビクター)のほうは、ハイフェッツ、ホロヴィッツ、トスカンーニ以外は
話題にならなかったのではと思えるほど、モントゥー、ミュンシュ、ライナーの知名度が低い。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/26(火) 07:52:43.05 ID:H13XKpEw.net
RCA録音全集では、モントゥー:40枚、ミュンシュ:86枚、ライナー:63枚となるが
トスカニーニ:84枚の次に購入するように考える人も多いだろう。
あるいはコロムビアのセル:106枚、ワルター:77枚、バーンスタイン:100枚というのもあり
まだまとまっていないオーマンディを合わせると、ビックファイブの録音群は洪水状態だ。
このような豊潤なアーカイブを活かせなかった背景というのはどこにあるのだろうか?
対峙するDGのカラヤン、ベーム、ヨッフム、クーベリックなどとの違いはどこか?
あるいは、デッカのショルティ、アンセルメとの比較でもいいかもしれない。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:25:30.97 ID:I0uyn/YB.net
こうした大量のレコードが売られた背景には、雑誌と提携したレコードクラブがあり
1961年からリーダースダイジェスト社が、RCAビクター・レコードクラブというのを始めた。
一種の会員制のレコード通販で、LIFE誌などで広告している。
ttps://books.google.co.jp/books?id=nVQEAAAAMBAJ&pg (8-9ページ)
ステレオLPをまとめ売りするもので、通常価格の1/10程度で
最初は$4.98で4〜7枚、半年後には$1.87で5枚に値下げした。
セット内容は、ミュンシュ&モントゥー/ボストン響の新録7枚組
クライバーンやハイフェッツの協奏曲が含まれるチャイコフスキー曲集6枚組
カラヤン/ウィーンフィルの名曲集4枚組、ビーチャムのメサイア4枚組などである。

アメリカではコロムビアがLPの販促のために始めたセールス方法で
メトロポリタン歌劇場のファンクラブなどオーケストラに直属のものもあった。
こうした会員制でのLP売り上げは1956年当時700万ドルだったものが
1962年では5000万ドルにまで膨れあがっていた。
ttps://books.google.co.jp/books?id=VWQhAQAAIAAJ&pg (63ページ以降)
こうしたレコードの確実に売れる体制が整ったところで、大量の録音がなされていた。

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 07:56:49.21 ID:I0uyn/YB.net
こうしたバゲットセールで売られたLPを再生する装置は
例えば家電通販のAliedラジオ商会のカタログを参照すると判りやすい。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/
一番安い$124.95セットでも、ガラードのオートチェンジャーに
エンパイアOEMのステレオカートリッジ、エレボイOEMの12インチフルレンジが付いて
20Wアンプはキット、スピーカー箱は自作などで費用を抑えられた。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h011.html
見栄えのいい収納箱のセットも$55.95で販売されている。
ttp://www.alliedcatalogs.com/html/1961-200/h098.html
もっと良い音で聴きたいのであれば、高級パーツに変更すれば良かった。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:02:19.70 ID:I0uyn/YB.net
ではLPレコードを最良の状況で再生したいと考えることはできたのか?
最後は出せる費用とのせめぎ合いなのだが、そこで知恵を絞るのがオーデイオの面白さでもある。
ただしレコード会社の建前としては、どんな装置で聴いても良い音と宣伝するし
オーディオ装置の違いで、演奏の良し悪しが変わるなんて、口が割けても言えない。
一方のオーディオメーカーは、スペックでは推し量れない本当の実力の程を
どの価格帯でも、価格に見合った最高のクオリティを保証しますという言い方しかしない。
オーディオの客観的な評価なんて、意外に判らないものなのである。

面白いのは、日本でFMステレオ放送が全国規模で行われた際に
同じレコードのはずが、放送で流れる音のほうが遥かに音が良い。
こうしてデンオン DL-103の存在が広まったのであるが
逆にいえばほとんどの家のステレオは、セラミックカートリッジで
周波数レンジの狭さ、ステレオの分離のなさなど、比べてみなければ判らない。
それでも、LPレコードの音の差はそれなりに判るので、共通認識として持っていた。
いわゆる集団幻想のなかにステレオ装置の品質が彷徨っていたのである。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/27(水) 21:43:44.56 ID:I0uyn/YB.net
こうした集団幻想のなかのステレオ品質が徘徊するなかで
クラシック音楽の鑑賞ということが、どこまで真剣に考えることができたのか?
当然のように飽きられるというのが結論であり、1960年代の録音群の評価の難しさである。

例えば、ライナー/シカゴ響のR.シュトラウス管弦楽曲集の録音ペースは
この大曲を2日に1曲ずつ、ほとんど一発録りという過密スケジュールで進んでいる。
ライナーだから、事前の練習に漏れもなくスムーズに行えたようにも思えるが
1954年というステレオ初期のセッションであるから不自由というものでもないだろう。
同じ傾向はミュンシュ、セルにもみられ、1つの交響曲のセッションは長くて2日。
ミュンシュ/パリ管の幻想交響曲が4日間あったのとでは大分違う。

即興的なライブ感を出せる演奏者と、そうでない人との差が出やすかったし
そもそも完璧な演奏スタイルを心掛けた職人的な音楽家が好まれたと言える。
前者にはグールドやミュンシュ、バースタインが居て
後者にはセル、ライナー、ハイフェッツなどが居た。

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 06:59:34.89 ID:Zhaqwt0m.net
このような過密スケジュールで録音する方法は、SP盤の頃と同じプロモートだったと言える。
反対に、グールドのように何回もプレイバックしながらテイクを重ねて
理想的な演奏像を練り上げる人は少数派だったと言えよう。

そこで生じるのは、レコードのもつ繰り返し鑑賞する行為の時間の持ち方と
一期一会のコンサートとの違いでもある。
レコードの聴き方は、暇さえあれば自分の好きな時間に好きなだけ聴くという
「暇」という時間の尺度で音楽を共有することになる。

これには反対意見もあって、SP盤のダイレクトカット&一発録りの緊張感のほうが
名盤を生み出す確率が多いという人もいる。ライブ録音もそのひとつだろう。

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:23:54 ID:Zhaqwt0m.net
1960年代のアメリカの録音群は既に勝機の見えた凱旋行進曲のように録音され
アメ車のもつ安定した乗り心地がひとつの価値観として保有されていたと思われる。
この時代のシカゴ響とボストン響のサウンドの違いはあっても
例えばベートーヴェンの演奏スタイルの違いを言葉にするのは難しい。
これが1970年代のカラヤン、ショルティ、ベームであれば誰でも区別がつく。

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/28(木) 07:45:41.00 ID:Zhaqwt0m.net
もうひとつの傾向は、RCAの膨大なレパートリーのほとんどを管弦楽曲と協奏曲が占め
ドイツ系の交響曲の全集に取り組むようなことが行われなったことである。
これはコンサートの持ち方の違いといっていいかもしれないが
コンサート半ばのショウピースの紹介に時間が割かれて
なかなかメインディッシュに行き着かないというジレンマに陥る。

いわゆるサロンで行われるガラコンサートの習慣が色濃く残っていて
食事でいえばバイキング方式の品ぞろえに似ている。
おそらく子供だったら甘い菓子からお皿に載せるだろう
そういうマナーのないディナーの進行を感じるのである。

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/29(金) 07:54:53 ID:AA/2vmiT.net
とはいえ、東欧、ロシア系のレパートリーの定着に果たした役割も大きく
ショパン、チャイコフスキー、ドボルザークはロマン派の最重要な楽曲になったし
当時はまだ現代曲だったバルトーク、プロコフィエフなどでも名盤を残した。
近代フランスの楽曲が国際的なレパートリーに発展したのもこの時期だ。

この視点からみえてくるのは、移民・亡命者の音楽観というべきもので
様々な文化背景をもつ人々に、何が文化的に有益なのかを説得する方法である。
それには良質な録音品質、再生する装置の忠実性(Hi-Fi)が必要であり
そこに細心の注意が払われたように思える。

一方で、1960年代への現在の評価は録音品質のアドバンテージにあるのではなく
むしろ演奏内容に向けられている。クラシック音楽の本質に迫る内容でなければ
好んでこの時代の録音を選ぶことはしないのだ。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:23:38 ID:TagW84Rw.net
この移民社会の創り上げたクラシックの意味は
雑味の無い、より純度の高いヨーロッパ的なものを含んでいる。
世間が言うようなアメリカンな特徴といえば、金管や低弦の力強さだが
それはシンフォニックな鳴りっぷりの良さを考えてのことだ。
逆に言えば、陰影がない、深みがないということもできる。

個人的には、現在の奥まった表現の多いオーディオ機器では
むしろアメリカンな開けっ広げな表現のほうが目新しいとも思える。
当時でも、ボザークなど東海岸のメーカーは、霧の向こうにあるようなサウンドだったし
エレクトロボイスも中高域を少し抑えた渋めの音である。
あるいは家電でのGE、マグナヴォックスなども同傾向にあるといえる。

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:49:41 ID:TagW84Rw.net
同じ東海岸系のアンプといえば、マッキントッシュにとどめを出すだろう。
中域の濃密さ、低音のファットな座り心地の良さは
高域の繊細さを犠牲にしても得難いものである。
さらにはオーディオリサーチ、ボルダーなども、その一群に加えられる。

日本ではむしろマランツのほうが、高域がブリリアントで弦の響きが美しく
クラシック向けとして選ばれる傾向にあるが、英EMIやデッカの録音で
効力を発揮するように思える。逆にマッキンは英EMIで濃霧で視界が悪すぎ
デッカでは高域の魅力が削がれるだろう。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 10:56:20.23 ID:TagW84Rw.net
こうした、えり好みの激しい対立は
当時のレコード、オーディオ機器のサウンドポリシーが強く
個性的であったことと関連している。
原音の意味さえ曖昧だといっていいだろう。
逆に言えば、現在はデジタルの洗礼を受けて
中立性は高いが、無個性なサウンドが大勢を占めている。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:24:34 ID:TagW84Rw.net
国産オーディオが押し並べてニュートラル指向で過度な演出を避ける傾向にあり
むしろ海外製品には艶やかさのあるものを求めることが多い。
ただでさえ輸入関税からはじまり、代理店の保証金など様々な経費がかさみ
同じスペックでの製品価格は2倍以上に膨れ上がる。
タワマンのコマーシャルのように、ブランドイメージと個性的サウンドがなければ
その高級感を察することは難しいのだろうと思う。

むしろマークレヴィンソンがスタックス社のA級パワーアンプを愛用していたとか
NASAがTDKのカセットテープを月面まで持って行ったとか
英米でB&Wがパートナーシップを結んでたアンプがローテルだったり
ニュートラルの意味はけして悪いイメージではない。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 17:48:30 ID:TagW84Rw.net
悪い意味でのニュートラルとは、平凡ということの裏返しでもある。
かつて日本のスピーカーは、スペックは良いが音楽が生き生きと鳴らない
測定器から作ったようだという意味で「B&K製スピーカー」と揶揄された。
ホールの響きを無視したような高域の張った特性、締まりのないブーミーな低音など
無響室での測定を標準とした結果、原音再生とは掛け離れたものが生まれた。
この状況は、むしろデジタル録音への対応によって加速化されたのである。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 18:14:38 ID:TagW84Rw.net
こうしたスピーカーの一群は「モニター」という名前を呈したが
おそらくヤマハ NS-1000Mから発展したものと考えていい。
名前の由来は、録音スタジオで使用されるようなフラットで正確なサウンド
という意味合いであるが、実際にスタジオで使えるようなものではなかった。
というのもレンジは広いが両翼のキャラクターが分離していて
中域のレスポンスが非力で、音楽のデュナーミクに欠けるからだ。
例えば、レンジの狭いクラングフィルムのオイロダインのようなスピーカーを聴くと
本質的に表現力が足らないことがよりはっきりする。
東独のスタジオで使用されたのは、シュルツ博士のEckmillerシリーズで
もっと平凡な音のするということらしい。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/30(土) 19:30:31 ID:TagW84Rw.net
RCAのモニタースピーカーLC-1Aは、低音の分割振動を分散させるイボチンと
高域を拡散させる蝶々の羽が特徴的だが、モノラル期の1号機はこれらがなく
コーン型ツイーターの同軸型という極めて平凡な造りだった。
音の方は真っ当なもので、リビングステレオは基本的にこれで製作された。

このスピーカーの当時の評価で興味深いのがBBCの1952年のレポートで
パルメコに選定するにあたって競合製品を計測している。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1952_05
蝶々の拡散は正面では3kHzと4.5kHzを塞いでいるが
15〜30°オフセットしたときに滑らかになるように調整されている。
一方で10kHz以上は30°より指向性がずっと狭くなっている。
また中域のレスポンスの高さに比べ、高域がおとなしく設定されており
この機種がAR-3a同様の東海岸系のサウンドを継承していたことが伺える。

当時のBBCの判断では、HMVの高級電蓄でもそうだったが
中高域がおとなしくスピーチの聞き取りにくいものはそもそもNGで
この辺もレコードとラジオを完全に分離していた英国ならではの事情がある。
とはいえ放送品質も向上すれば、この特性のほうがスタンダードになると予想していた。
この辺が、現在から見下ろす時代感の違いを理解する手掛かりである。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/01(日) 19:20:30 ID:BAOHUbSl.net
東海岸系といってるサウンドの特徴を述べたものに、瀬川氏の以下のものがある。
ttp://www.audiosharing.com/people/segawa/keifu/keifu_60_1.htm
これとAR-3aのカタログ値を比較してみると、7kHz以上が5dB低いことが判る。
ttp://www.aes-media.org/historical/html/recording.technology.history/images3/92356bg.jpg
ttp://www.classicspeakerpages.net/library/acoustic_research/special_sections/additional_ar_documents/the_sound_field_in_home_lis/allison_on_soundfields_in_l.pdf
これと>>204でのBBCのLC-1A測定結果をみると、両者の傾向が符合する。
つまり、本当にフラットに再生すると、高域が耳障りだと感じていたのである。

これにはモノラル期のスピーカーが高域で±60°という広い指向性をもっていたのに対し
現在のスピーカーの多くは、高域の指向性が±15°程度に抑えられ
その分チャンネルセパレーションを高めている。
もちろん30°も逸れると、東海岸と同じようなバランスになる。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 06:43:47.94 ID:dQv+PwSl.net
東海岸サウンドの示す傾向は、ホールの響きの周波数特性であって
古くは映画館でのXカーブというのがあり、家庭用とは大きく異なる。
ttps://www.sis.se/api/document/preview/602468/
ボーズ博士ではないが、総合的な周波数特性は残響音の影響が大きい。
ARの特性も、ホールでの生音のすり替え実験によって実証していた。

一方で、家庭用オーディオでの超高域成分はパルス波が多く
楽音の立ち上がり、定位感などを示すが、音響エネルギーとしては微小だ。
このアンバランスがHi-Fiの人工的な音響の課題でもあり
RCAでは録音側でフラット、再生側ではハイ落ちというバランスが正解だと考えられ
マスターテープをそのままA/D変換したサウンドは、このことを留意する必要がある。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/02(月) 07:29:12 ID:dQv+PwSl.net
AR社の"Live vs Recorded"のキャンペーンが新聞各社で取り上げられるや否や
ARのスピーカーは、1966年には全米の32%のシェアを占めるに至った。

ところが日本でそれほど売れ行きの芳しくなかったのは
アンプにかなりの出力が必要で、響きの良い洋室での再生に適していたことが挙げられる。
日本でも密閉型の3wayスピーカーは大量に造られたが
中高域の張った明瞭さをもち、低音を少しブーミーに調整したものが売れた。
いわゆるラウドネスを少しかけたような特性が喜ばれたのだ。

この特性は、EMIやコロムビアには良かったが、RCAやデッカには不向きだった。
日本でのデッカ録音は、キングレコードからロンドン・レーベルとして販売され
レコードの音は日本向けにコッテリしたイコライジングがされていた。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 05:52:06 ID:D5Gtogpx.net
1960年代と1970年代のクラシック録音の違いについて
60年代が音像のマッシブな実在感が強いのに対し
70年代は音場の広がりが優位になっている。
じゃあ、現在はどうかというと、段々と60年代に近づいていると思う。

おそらく、ヘッドホンでの試聴が多くなっているからだと推察するが
それと同時にポップスでシーケンサー打ち込みがデフォルトになるなか
楽器を演奏する人物がバーチャル化しないように苦慮しているようにも思える。
つまりコンピューターに負けない正確さと溢れる個性の発露が
現在の演奏家に求められる条件のように感じる。

一方で、1990年代から若手演奏家の消耗も激しい気がする。
つまり正確さへの極度の集中力を要求するあまり
肉体的な衰えのほうが先行し、円熟というものが無くなったのだ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 06:28:30.08 ID:D5Gtogpx.net
演奏家の円熟ということに目を向けると
今更ながら、カザルス&ゼルキンのベートーヴェン チェロ・ソナタとか
シェリング&ルービンシュタインのブラームス ヴァイオリン・ソナタのような
老大家が共演した室内楽曲が面白く感じる。
枯れた表現というべきだが、骨まで浸みた懐の深さがあり
個人の存在感など越えて、1音で空間ごと取り囲んでしまう。

とはいえ、ロストロポーヴィチ&リヒテルとかデュメイ&ピリスに比べ
繊細さや全体に盛り上がりに欠けるなど、様々な意見があるだろう。
しかし優越を競うという考えを超えたところに室内楽の楽しみがある。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 19:16:28 ID:D5Gtogpx.net
クレーメルが時折フューチャーする作曲家があって
最近ではヴァインベルクだが、ピアソラだったりペルトだったり
そこはクレーメルのこと、演奏でさらに磨きをかけて紹介してくれるのだが
斬新なアヴァンギャルドよりは、クラシックのコンサートに載せやすい
それなりに演奏しやすく聴きやすい楽曲を選んでいる。
例えば、同じミニマリストでもフェルドマンの長大曲に挑むようなことは全くないものの
クレーメルが演奏する「現代曲」は、普通に広告されて
ベートーヴェンやモーツァルトと並んで批評されるのは、何とも不思議な光景である。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/04(水) 21:12:45 ID:D5Gtogpx.net
いわゆるニューロマンティシズムと呼ばれる作曲家のなかで好きな曲は
吉松隆 ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(シャンドス:1998)
ジョン・アダムス「ハルモニウム」(ECM:1984)
アルヴォ・ペルト「ヨハネ受難曲」(ECM:1988)
演奏・録音ともに的を得たもので、おそらく代表盤。
似た者探しでフィリップ・グラスなどが出てくるとブライアン・イーノなど
もはやクラシカルな楽器の存在すら怪しくなる。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 06:31:59 ID:U3BBb5D9.net
こうしたエレクトリックではないコンサート向けの作品がもたらすものは
オーケストラやコーラスという演奏団体が、欧米の市民社会の縮図のように
考えられてきたからだ。なのでポピュラーな装いが本質的に必要なのだ。

では、オーディオという電子機器で観衆との一体感を疑似体験する意味とは?
この音楽鑑賞という行為は、もともと貴族の宮廷楽団や音楽サロンに根差している。
このとき演奏家を兼ねた作曲家が最新の作品を献上するのが基本で
古い音楽はよほどお気に入りでないと長期間繰り返し演奏はされない。
サンドイッチ伯爵の開いた古典音楽演奏会(Concerts of Antient Music)は
18世紀末のバロック〜古典派への音楽スタイルの移行のなかで
急速に忘れられていくヘンデルやコレッリの作品を聴くための活動から始まった。
1826年にモーツアルト、1835年にベートーヴェンの作品が加えられ
現在のクラシック音楽のジャンル形成が行われていった。
イギリスがレコードを大事にするのは、こうした慣習が大衆化したからで
現在のオーディオの価値観もそれに準じているといえよう。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/05(木) 07:35:33 ID:U3BBb5D9.net
もうひとつの伝統は家庭音楽で、特に鍵盤楽器の楽曲は16世紀に遡る。
グリークの抒情小曲集はもとより、シベリウスのピアノ曲はアマチュア用の佳曲も多く
アイノラ邸はボンヤリしたスタンウェイの音と共に聖地と化している。
おそらくフォーレ、ドビュッシー、モンポウと続くフランス印象派のピアノ曲もまた
広いコンサートホールよりはパーソナルな空間のほうが似合う楽曲である。

晩年のシベリウス自身は最高級ラジオで自作の演奏を聴くことが楽しみだったようだ。
ttps://www.youtube.com/watch?v=nuHwwhGw7qo
ttps://www.radiomuseum.org/r/telefunken_spitzensuper_7001wk.html
ちょうどマグネトフォンの開発と並行して製造されたもので
2wayスピーカーのHi-Fi仕様である。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 06:37:06 ID:Qg3V/lz2.net
日本では電蓄というと、粗雑な音の代表例に挙げられ
SP盤の再生はアコースティックな蓄音機が主流だ。
ところが、欧米の蓄音機はラジオと一体化した高級仕様があり
ライブ中継を放送することで、Hi-Fiの代名詞になっていた。

米Zenith社が1935年から製造した Stratosphere 1000zは
Jensen製の12インチウーハー×2本、業務用のQ型ツイーターを実装し
50Wのパワーアンプで周波数30Hz〜15kHzとトーキー並の実力をもつ。
Scott社の"the Philharmonic"は
SP盤の針音対策に10kHzのノッチフィルターを実装していた。

英HMVが1946年に開発したElectrogram 3000 De Luxeは
デコラにも搭載された楕円型フルレンジに2機に
デッカ製のリボンツイーターを搭載したものだった。
このツイーターは後に独ローレンツ製のものに入れ替わるが
いずれにしても、通常のSP盤再生に必要なレンジの2倍は確保していた。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/06(金) 07:51:31.04 ID:Qg3V/lz2.net
オーディオ技術がもたらした家庭音楽の変革は
自宅でコンサートと同じような音響効果を求めることで終始している。
つまり、部屋では足らないエコーを足し、収まりきらない楽器の数を縮小配置する。
昔はS席で聴くオーケストラの音という言い方がされていたが
天井桟敷または指揮者の位置など、実際にはステレオ効果の理解は様々である。

シベリウスのピアノ曲集を色々と物色すると
BISやEMI、Naxosなどはコンサート会場を意識して収録されているものの
アイノラ邸での録音はともかく、地元のフィンランディア・レコードの録音は
部屋でそのまま聞くようなソリッドな音で収録されている。
日本ではエコーとロマンティックを同目線で見ている傾向があり
少し人気が出にくい録音かもしれない。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 07:59:25 ID:icdXas5W.net
シベリウスが最晩年の1951年から使用した電蓄はフィリップス製 FS173Aだろう。
スカジナビア支社がストックホルムにあり、新しいLPに対応する機種が贈呈された。
ttp://www.sibelius.fi/english/ainola/ainola_kirjasto.html
ttp://davidnice.blogspot.com/2010/04/sibelius-at-home-iii-tributes.html
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_radiogrammofon_fs_713a.html
出力管はEL41というEL84の前身となる小型管プッシュ
スピーカーは12インチのフルレンジでAD4200Mと同様のものだ。
ttps://www.radiomuseum.org/r/philips_ad4200_m.html
やや高域が強いようにみえるが、斜めから聴くとフラットになる
モノラル期に多いトーンである。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 11:28:34.21 ID:icdXas5W.net
北欧のオーディオメーカーは
昔からBang & Olufsenのようなデザイン重視のメーカーが有名だったが
高価な割にはサウンドがまじめで普通ということで
コスパ&スペック重視のオーディオマニアから白い目で見られていた。

デジタル時代に入って、Dynaudio、DALI、Genelecとスピーカーの分野で躍進したのは
その癖のない音と大入力でも歪まないタフさだろう。
一時はツイーターがスキャンピーク製で埋め尽くされるという事態まで生まれ
どのメーカー製でも金太郎飴のように同じ様相になった。

私自身が良いと思ったのは、こうしたオーディオ機器の平準化によって
レコード会社のサウンドポリシーが少しずつ見直されていることだと思う。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/07(土) 18:45:03 ID:icdXas5W.net
北欧のメーカーにみられる均質な音調は客観的とも言えて
破綻のない表現はクラシックにおいてまず必要な要素ではあるが
あえて言えば10メートル先から見据えた楽器の音という感じもする。

実は楽器の距離感は親密感にも例えることができて
あえてマイクをクローズアップして楽器の質感を出すようなやり方も可能だし
少し残響を増やしてでも雰囲気を良くしたいということも可能だ。
こうした作品に応じた距離感の持ち方の違いが、最近は顕著に出てきたように思う。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/08(日) 08:13:41 ID:GYQI6tGe.net
Dynaudioで画期的だったのはBBCでのモニター採用で
BM5A〜6Aといったアクティヴ型小型スピーカーが選ばれた。
つまりLS3/5aの後継機種である。

ところが、これには英国のメーカーが黙ってはいない。
ハーベスやスペンドールが下りたのなら自分がと言わんばかりに
Stirling BroadcastがわざわざBBCのライセンスを取り付けて復刻版を出し
開発元のKEFはLS50と名乗うて同軸型の次世代版を出した。

しかし、Dynaudioの目指すニュートラルなサウンドポリシーと
KEFやロジャースの中高域の少し華やいだ音調とは大きな開きがある。
実際にBBCは、放送局としての中立的で安定した品質を求めていたのだと思う。
ネットオーディオへの柔軟な対応を考えると、余計な音は差っ引いてでも
トータルにサウンドを達観した判断が必要なのだ。

個人的には、Dynaudioのプロ用機種は録音品質の品定めはできても
演奏の魅力を引き出せるような類のものではないように感じている。
喩えれば、ファッションモデルの健康診断書をみて優良かどうか判断する感覚である。
ところが最後に行き着くのは、衣装のプロデュースに対する選り好みである。
好みの判らない人に、音楽のセンスを問うのは間違っている。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/09(月) 05:50:43.94 ID:7krmw5OS.net
Dynaudioのプロ用機種が無色透明かというとそうではなく
むしろ白いキャンバスのようにマットな感じである。
それは入念に歪み成分を取り去り、特にウーハーの受け持つ中域での
艶の落とし方に特徴のある感じがする。

逆に旧来のBBCのスタイルは、男性のアナウンスの声を明瞭にすべく
中高域に過度特性の多いユニットを選び
ネットワークでピークを抑えてフラットにするということをしている。
瞬発的には過度なビリつきが残るが、持続音では抑えるという感じだ。

中高域の過度特性はボイスコイルから出る共振なのだが
Dynaudioはそれをメカニカルに抑えることから設計している。
こうした場合、マッシブな音に対しては余裕をもって対応できるものの
繊細な音の反応については、多くの録音で沈んでしまう。
歪を抑え込んだとしても、ユニットの反応は依然としてダイナミック型のもので
リボン型やコンデンサー型のように早くもないのだ。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/10(火) 07:08:50.60 ID:qisATixd.net
こうした「正確な音」と「聴き取りやすさ」の線引きの曖昧さは
元をただせばオーディオ技術そのものの未熟さに起因している。
つまりスピーカーがボーカル域での自然な発音を保つための方策を
それこそスピーカーの発明された時期から模索していたことが挙げられる。

それはHi-Fi移行期の1948年にBBCが行ったモニタースピーカーの選別にも現れ
そのときの意見はデジタルに移行する1980年代まで有効だったのだ。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1948_04
このなかでISRKユニットの特性の特異性がその後も影響を与えていた。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
よくポリプロピレン独特の艶といわれるが、素材の問題ではなく設計の方針である。
放送局の性質上、様々な録音品質を扱うため得たノウハウかもしれない。
それが男声アナウンサーの声が明瞭に聞けることと関連していた。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/11(水) 22:59:04 ID:YzDDgpnl.net
聴きやすさを求めたとき、なんとなく思い出すのが
ウィーンフィルによるベートーヴェン交響曲全集のことだ。
演奏機会がけして少ないわけではないのに
ことスタジオ録音となると意外にまとまりのない対応を取る。
女神の気まぐれというべきだろうか?

モノラル期は戦前のワインガルトナーの全集から
戦後は散発的に録音され何となく全集が組める状態だ。
1番シューリヒト(1952)、2番シューリヒト(1952)
3番フルトヴェングラー(1952)クライバー(1955)
4番フルトヴェングラー(1952)、5番フルトヴェングラー(1954)
6番フルトヴェングラー(1952)、7番フルトヴェングラー(1950)
8番ベーム(1951)、9番クライバー(1952)

ステレオ期は1965〜69年シュミット=イッセルシュテットが
全集を入れるまでは以下のように散発的だった。
第九などはシュミット=イッセルシュテットがステレオ初録音だった。
1番モントゥー(1960)、3番モントゥー(1957)ショルティ(1959)
5番ショルティ(1958)、6番モントゥー(1958)
7番ショルティ(1958)カラヤン(1959)、8番モントゥー(1959)
この後のベーム、バースタインなどの全集が続いて
今のウィーン・フィルの風格が整ったといえる。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:04:22 ID:u9kwmeON.net
戦前のウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲は以下のとおり。
1番ワインガルトナー(1937)、2番クラウス(1929)
3番ワインガルトナー(1936)クライバー(1955)、5番シャルク(1929)
6番シャルク(1928)ワルター(1936)、7番ワインガルトナー(1936)
8番シャルク(1928)ワインガルトナー(1936)、9番ワインガルトナー(1935)
こうしてみると、なかなか敷居の高いのが判るが
楽友協会という文化財団の許可が難しかったのだろうか?
色々と考えてしまう。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 06:34:13 ID:u9kwmeON.net
ウィーンにゆかりのあった指揮者でベト全の録音は
シューリヒト/パリ管、クリップス/ロンドン響、ワルター/コロンビア響などがあり
シュミット=イッセルシュテットの全集は、誰もが意外に思ったようだ。
むしろ北ドイツに基盤をもつ指揮者が、たまたまバックハウスのオケ伴に選ばれた
それ以外に脈がほとんどないのだ。デッカ〜テルデックの繋がりはあったものの
例えばミュンヒンガーでも同じような結果が出せたのではないだろうか?
フルベン、モントゥーは頓挫した企画のひとつだったかもしれない。

思うに、ウィーン・フィルの残したい自画像はベートーヴェン演奏の規範であり
それがフルトヴェングラーの演奏にも表れているように思う。
大学教授も兼ねた演奏家を擁するウィーンの街がらとでもいえようか。
1970年代に入りベームの全集、クライバーの怪演、バーンスタインの全集へと化ける。
ちょうどマーラー時代を基軸に自己理解を進めた結果だと思う。

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/12(木) 07:34:32 ID:u9kwmeON.net
しかしウィーン古典派と呼ばれる人々は
ハイドンがエステルハージ、モーツァルトがザルツブルク、ベートーヴェンがボンと
本来の活躍地は別にあった。
その後のブラームスのハンブルク、R.シュトラウスのドレスデンなども顕著な例である。
しかしウィーンをゆかりの地と考える人は多い。いわゆる中央交差点なのである。

一方で、ウェーバー、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、ワーグナー
ドボルザーク、シベリウスなど、この流派に属さないで独自の作風を開拓した人も多い。
広いハプスブルク帝国の領土内で帝都に赴かないのが自然でもあったのだ。

他の有数の音楽都市、例えばパリ、ロンドン、ベルリン、ペテルブルグなどは
外国人の作曲家を自分の都市の出身だとはけして言わない。
パリのショパン、ワーグナー、ロンドンのハイドン、メンデルスゾーン
ベルリンのバッハ、ペテルブルグのヴェルディなど、初演の名残もない。
ベートーヴェン演奏だって、ヨアヒム、ニキシュのブラームス派の影響のほうが
現在は遥かに大きいのである。
それなのにウィーンだけが特別に思われるのは、何か仕掛けがあるのだろう。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/13(金) 05:47:03 ID:68VSv2Vw.net
ウィーンが商業都市ではなく、帝都であったため
作曲行為を商業的成功よりも、あくまでも名誉の問題と考えていたこともある。
一方で、あくまでも僕の身分として従事しなければならないため
ハイドンは宮廷作曲家という職分よりも
ロンドンで音楽博士の称号を得たことのほうを大切にしていた。

バッハの場合だって、これほど世界中で演奏されるようになったのは
イギリスにおけるバッハ演奏の歴史があり、
メンデルスゾーンのマタイ受難曲の再演より以前の19世紀初頭から
市民会館でのオルガン建造と共にバッハ作品の演奏が頻繁に行われた。
それまでのイギリス国内のオルガンには足鍵盤が無かったのに
バッハ作品の演奏のために足鍵盤を付けたドイツ式オルガンが建造され
メンデルスゾーンはむしろオルガンの名手としても招かれたのだ。

しかしハイドン、バッハも長らくイギリス人演奏家のレコーディングが
どちらかというと亜流のように思われていた。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 06:51:21.35 ID:3cdWg6k7.net
最近になってオーケストラの自主レーベルがにわかに増え始め
設立当初からラジオ放送を手掛けたメトロポリタン歌劇場はさておき
ロンドン響、ベルリン・フィルなどメジャーどころも痒いところに手が届くように出している。
昔で言えば、バルビローリ/ベルリン・フィルのマーラーNo.9などが
オーケストラ団員の働きかけでレコーディングが行われたとか
極めて珍しいケースとして取り上げられていたが
ロンドン・フィルなどは、ガーディナーのメンデスゾーン、デイヴィスのシベリスなど
結構面白いタイトルを掲げて盛んにリリースしている。

個人的に面白いと思ったのは、室内楽の専門ホールによる自主レーベルで
Champs Hill Records、Wigmore Hall Liveなど、新人発掘に助力している。
特にChamps Hill Recordsの録音を聴くと、落ち着いて演奏に挑んでいるのが判り
ティモシー・リダウト(ヴィオラ)のヴュータン、ジェームズ・ベイリューのアーンなど
室内楽にとって大切な、気心の知れた雰囲気が容易に伝わる。
Wigmore Hall Liveでの録音は、一発勝負の緊張感がある一方で
檜舞台に立っただけで生硬い感じが残っていて、演奏に集中しきれていない感じだ。
演奏家のダイレクトな鼓動が伝わるだけあって、こうした点は意外に大事だと思う。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:38:00.67 ID:3cdWg6k7.net
ベルリン・フィルがパナソニックと組んだデジタル・コンサートホールは
まだ始まったばかりでそれほど浸透はしていないものの
ネットでの配信という点では全く斬新なやり方だと思う。
ただ従来のレコード市場を柱としたやり方に背を向けた点と
映像とセットというのが、オーディオ・マニアには対応が難しいなど
様々な課題はあるように思える。

できれば、音楽祭などのように多彩な顔触れが揃う機会に
こうしたオンデマンド配信のシステムが整うと
全ての演奏者に平等に聴く機会が与えられるように思う。

こうしたやり方は、実は戦中のフルトヴェングラーのように
無人ホールでの放送ライブというのもあったりして
意外にメディアのなかでは普通に行われていたことだが
有料コンテンツとして加入するのが新しい試みだと思う。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 07:52:19.34 ID:3cdWg6k7.net
とはいえ、YouTubeなどで大量に配信される情報量にくらべ
漂流しがちなライブ映像に対し、ある種の対抗策というのが実際だろう。

ただ、YouTubeにあった収録方法というのがあって
美貌をもった情熱的な演奏で知られるピアニストも
CDでリリースしてみると、ダイナミックに欠けるすごく表面的なことも多い。
いわゆるポピュラー系の音作りのほうがネットでは映えるのだ。

そうしてみると、パソコン、スマホなど様々なメディアでの試聴が可能というのは
ちゃんと最適化したダイナミックレンジで提供しないと、聴き映えがしないことになる。

その意味ではDSD相当の高音質配信で聴くためのネットワークサーバーと
その再生環境を自宅で確保するというのが、意外に難しいことに気付く。
そっちの投資のほうが、本来は費用も手間もかかるはずなのだが
むしろテレビ、ブルーレイという家電製品でチップ化されているのが現状である。
デジタルだから音は一緒というのは、もう言い訳として成り立たないだろう。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:01:18.59 ID:3cdWg6k7.net
ネット配信による試聴の利点は、媒体が流動的で小回りの利くことだが
従来のレコード〜CD路線のほうは、出版というスタイルに似ている。
古い録音の盤起こしなどみて判るが、ハードウェアとして拡散して保管されることで
大元のテープがダメになったとしても、何らかの形でサバイバルする可能性がある。
流動的なソフトウェアは、20年前のスクリプトが起動しないなど、意外に問題があるが
レコードにはそういう不手際はあまりないのだ。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:07:25.13 ID:3cdWg6k7.net
少し変な話で恐縮だが、デジタル録音でも最初にリリースされたCDと
後で再販されたものとで、どういうわけか音が違う感じがある。
ちょっとしたマスタリングの差なのかもしれないが
再販盤はなんというか濃密さが足らない感じがする。
あるいは数値では現れにくいマスターのビット落ちがあるのか。
デジタルなだけによく分からないのである。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/17(火) 19:17:15.19 ID:3cdWg6k7.net
あとネットの聴き放題サービスで24bit/94kHzのHD対応という触れ込みであっても
掲載された音源が明らかにMP3相当で、高域にチリチリとノイズの乗ったものも散見される。
レンジが広いという程度ではどうしようもない音なので
基本的には元のCDなりを購入したほうが、本来の音で聴けるように思う。
ただ廃盤になった録音も少なくないので、そういう便利さはあると思う。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:29:19.62 ID:EEYtOd5T.net
ベルリン・フィルがネット配信に動き出した背景には
パッケージメディアを柱とした従来のレーベルでクラシック録音の売り上げが低迷し
交響曲の全集を録音するような企画が無くなったからだという。
ある意味、フルベン、カラヤン、アバドと一時代を築いた録音群に対して
常に歴史的な意義を見出すような高尚な競争が待ち構えており
そういう課題をこなしつつレコーディングし続けるプロデュース力が枯渇していると言える。

私なりに思うのは、ヨーロッパの抱える問題、例えば人種問題などについて
クーベリックが抱えていたような暗い影のようなパッションが足らないと思うのだ。
むしろそういうローカリティのなかで輝くヒューマニズムの意味を
楽観主義的なハーモニーで覆い尽くすのに飽きてきたというべきかもしれない。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 05:44:38.23 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックが抱えた闇というのは、最も洗練された語法をもった指揮者が
その極みにあって評価をバイエルンという土地だけに埋もれさせたことである。

例えばシカゴ響の監督にとフルトヴェングラーに推薦されたときに
フルベンが若いクーベリックに何を感じ取ったかというのは不明だが
戦前のフルベンの流れるようなテンポのゆらぎを聴くとき
そもそもオーケストラの歌わせ方に共通点があるように思える。

実際に次世代の扉を開いたのはカラヤンだったのだが
クーベリックのもつ歌はもっと伝統的なフォルムを感じる。
それが音楽にあらがわない自然なものであるだけに
誰もが普通のものとして聞き流してしまうかもしれないが。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:18:14.01 ID:EEYtOd5T.net
クーベリックのブラームス全集には2種類あって
1950年代のウィーン・フィル、1980年代のバイエルン響とのものだ。
基本的な芸風は変わらないのだが
ウィーン・フィルのほうがインテンポのなかでメロディーを色濃く歌わせる方針に
まだ十分に慣れないまま進行していくのに対し
バイエルン響のほうは完全に掌握した感じに練り上げられているのが判る。
一方で、ウィーン・フィルの音色には言いようのない魅力があり
バイエルン響の少しソリッドな弦の質感は録音のせいでもあるが
陰りのある木管の響きから浮いてしまう感覚もときおりある。

このバイエルン響のブラームスは実に歌にあふれている。
森のなかに彷徨うような感覚は、木を見て森を見ずの諺とは逆の
枝葉が生きようと伸び続けることを繊細に描き出すことで
自然な木漏れ日を生み出すような、大らかな気持ちに覆われる。
一方で、そこには生も死も同居しながら季節をめぐるのである。
その無言の暗がりの存在が深く重いのだ。
インテンポでバッサリ切られるからだろうか。余韻のない静かな死である。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 06:46:56.32 ID:EEYtOd5T.net
クーベリック/バイエルン響のブラームスSym全集は
売り出された当時は、演奏内容よりもオーデイオ的な魅力のほうが話題になった。
残響で覆い尽くさずにディテールを明瞭にした演奏そのものが
これまでのブラームス、しいては交響曲の録音の常識をやぶるものだったし
1980年代のオーディオファイルの志向とも合致していたのだ。

一方で、この演奏のもつ、楽器に優越をつけず均質に歌わせるポリフォニックな手法は
例えばカルロス・クライバーが全集にたどり着けなかった内容のものだが
そういう評価は、クーベリックの醒めた目線からは伺い知れなかった。
時代の志向は、カラヤンの透徹した構成、バーンスタインの情熱のほうに向いて
クーベリックのもつ洗練されたアンサンブルには興味を抱かなかったため
マイナーレーベルのオルフェオからライブ録音のみが残されたのだ。
カリスマのいない現在の楽壇で、マニエリスムの意味を問うとすれば
技法の完成度という点でクーベリックの演奏は興味深いのである。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:25:47.45 ID:EEYtOd5T.net
こうしたメロディーをコンパクトにまとめながら色濃く歌わせる手法は
同じチェコのスメタナ四重奏団やフィルクスニー、ブレンデルにもある特徴である。
室内楽やピアノの分野では、マニエリスムというのは悪い評価にはならない。
しかしオーケストラとなると、なにか派手なものを求めがちで
タレント性の強いスター指揮者の話題でもちきりになる。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/18(水) 07:40:24.81 ID:EEYtOd5T.net
バーンスタインには面白い癖があって、過去の録音との比較をしたがる点だ。
マーラー全集で、大地の歌:ウィーン・フィルvsワルター
千人の交響曲:ロンドン響vsホーレンシュタイン
第四番:アムステルダム・コンセルトヘボウ管vsメンゲルベルクなど
歴史的な分岐点に立った演奏についてコンプレックスをもっていて
同じオケを振ってそれを克服せずにはいられないらしい。

しかし、こうした過去の音盤をひっくり返し試聴すると
むしろその作品の特徴が浮き彫りになるのでさらに面白い。
それだけ各録音の演奏スタイルが個性的だし
単に楽譜通りという筋書きに留まらないパッションがある。
むしろそれこそがバースタインの表現したかったことなのかもしれない。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 06:07:21.70 ID:0ugeR+aB.net
もともとオーディオはHi-Fi録音を正確に再生する装置なので
大体どれも一緒というのが当たり前のように思いがちで
特にCD、SACDと進むにしたがい、上流の水源の質は格差が縮まった。
少なくとも、誰のどの時期の演奏かぐらいは検討がつくのだが
これはクラシックの鑑賞にとってとても重要なことだと思う。

その一方で、どうしてもその演奏の良さが思い至らないものもあって
何か再生機器の不都合というか、相性のようなものがないか、と考え込んでしまう。
この演奏に対し、この録音品質が魅力的だと思うツボがあるはずなのだが
どうにも思わぬところを掴まれて、身動きのとれなくなっている感覚である。

特にモノラル録音の名盤というものは、なかなか厄介で
例えば、ワルター/ウィーンフィルのマーラー大地の歌などは
楽器の遠近感が定まらないまま、全ての楽器が近視的に密集して
どうしても後年のステレオ録音の自然な音響と比較してしまう。
フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのシューベルトNo.9なども
ティタニアパレストの低音がドーンと残る独特の響きを利用したライブに比べて
ドライブするポイントにどこかブレーキが掛かっているように感じる。
どちらも首の座りが悪くて、チャシャ猫のようにクルクル浮遊しているのだ。

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/20(金) 07:45:14.66 ID:0ugeR+aB.net
もう少し時代が下ると
EMIとデッカの録音のどちらに焦点を合わせてステレオを調整するかが鬼門で
デッカに合わせるとEMIは霧のかなたで鳴っているようになるし
EMIに合わせるとデッカはメッキがはげて装置全体のグレードが判ってしまう。
そこにコロムビアやRCAの録音が加わると、何が正しいのか全く分からなくなる。

ステレオの定義も曖昧で、初期ステレオでのシンプルなマイクアレンジから
マルチマイク収録に差し掛かるあたりの楽器の切り貼りが目立ったりする。
場合によっては、ピアノが左、バイオリンが右という録音もあって
これだとモノラルでも聴き映えのする装置でないとバランスを失うことが多い。

1960年代をを制したかと思って、1970年代の録音を聴くと、音が薄くて遠い。
こうした堂々巡りを繰り返しているのが、クラシック愛好家の運命なのだ。

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 06:45:41.97 ID:X0EZK2wT.net
クラシックをオーディオで鑑賞するというのは
実際にには音質の良し悪しではなく、演奏の良し悪しである。
演奏の良し悪しが判る装置というのが最低限のラインとなると
それほど敷居が高いわけではない。
しかし演奏の良さを効果的に引き出すとなると話は別である。

実にオーディオのダイナミックレンジは、人間の話声ですら十分に対応できない
ある種の限定された規格の上に成り立っている。
なので上澄みを掬い出して、デフォルメしてやらないと、ちゃんと聞こえない。
演奏の良さを引き出すとは、少しデフォルメした状況を良しとする。

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 07:36:24 ID:X0EZK2wT.net
例えばタッシェン・フィルハーモニーのベートーヴェン交響曲全集などどうだろうか?
弦をソロにした最小人数のオーケストラだが、シンフォニックな響きの追求よりも
楽譜の構造が透けてみえるような演奏で、なかなか面白い。

この編成の演奏は、アンサンブル・クリストフォリがピアノ協奏曲で提示したもので
ツェルニーがピアノ協奏曲の理想的な聞き方として記述したものだが
音楽サロンを催す邸宅での試演などは、この手の構成が主だったと考えられる。
後期作品でコントラバスが一言物申すのが良く判る。

モーツァルトの弦楽四重奏の演奏では、作曲家のみの私的な交流のため
自ら演奏し互いに楽器を持ち換えて楽曲を鑑賞したというのも
室内楽で作曲技法の精粋を究めるということがあった。

オーディオの私的な聞き方は、意外にこうした行為と連動しているのかもしれない。

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/21(土) 17:21:50.04 ID:X0EZK2wT.net
タッシェン・フィルハーモニーの録音について
バイオリンのキーキーする音が目立つというのがあるが
悪い意味で高域にリンギングが残っているからで
なおかつ中域のレスポンスが遅れて引っ込んでいるためでもある。
おそらく1980年代の古楽器オーケストラに当てられた
弦に潤いがないという意見も、実は同じ種類のものである。

もうひとつは、コンチェルトグロッソから発展した交響曲の成り立ちの理解である。
管楽器がソロなら、弦楽器にもソロの役割をもたせることで
例えば、英雄と運命のシンフォニーの定義の違いも明らかになる。
普通は英雄は大構成、運命はそれより機能性のあるアンサンブルが求められる。
しかし、田園との対で考えると、英雄は古い様式に沿って作られていて
各楽器の奏法がより固有のものに回帰している。その意味でバロック的なのだ。

そこのところを押さえずに、オケ全体のマッシブな響きにこだわることで
弦楽器のコンチェルト的な役割を理解不能なものにしてしまっている。

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/24(火) 07:36:34 ID:6DEV3qbX.net
クラシックの面白いのは、楽譜というキッチリした形式によりながら
それを演奏する際に多様な解釈を認めるという点にある。
最も顕著なのは編曲で、ピアノ曲の管弦楽版、交響曲のピアノ編曲など
様々な方法があるが、それぞれ楽曲の本質に迫るものとして評価される。

とはいえ、タッシェンフィルの演奏を、ベルリンフィルの演奏と比べると
同じベートーヴェンの交響曲であっても、交響曲の意味そのものを問うような
面白い視点を与えてくれる。実は両者共に自主レーベルでのパッケージだ。

最近になってシェーンベルク主催の室内楽構成の編曲が増えてきたのは
オーケストラ運営が難しくなってきているからではないだろうか。
そういう模索が聴き手のほうにも求められている。

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/12/25(水) 07:14:13 ID:/C7NQJQi.net
シェーンベルク主催の私的演奏会の演目は
資金面のほうで限度があったものの、20世紀初頭の現代音楽の叡智を集めたもので
よく「グレの歌」と「室内交響曲」との比較で語られることが多い。
もちろんその後の12音主義、新古典主義の流れを作ったのも確かだが
マーラーやブルックナーの交響曲の室内楽編曲版を聴くと
フルスコアの状態では聞き逃していた骨格が見えてきて
同時代のキュビズムはもとより、ムンクの版画のような
モチーフを再構築することの意義も見えてくる。
実際には、こうしたことは音楽サロンの試演ではよく行われており
リストなどのヴィルトゥオーゾは、様々な変奏曲、幻想曲で再解釈を披露していた。

よくピアノ編曲版というと、カラー写真を白黒コピーしたように思われがちだが
タール&グロートホイゼンの演奏するドビュッシーの海、R.シュトラウスのテイルなどは
アルバム名が「Color」というように、その色彩感が管弦楽というパレットに寄りかからず
改めて作曲技法そのものが色彩感のあるものだと実感させてくれる。
オーディオ的には、2台のピアノというのは結構ハードルの高いものでもあり
テイルでのモチーフの切り分けで、瞬時に場面が展開するときの表情が
単調に聞こえないかなど、ピアノらしい音色に囚われない再現が必要である。

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