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オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/07/27(土) 06:05:19.52 ID:6w1XUkZx.net
「〜の王道」という言葉は
オーディオにとっては金次第。
ならば、徹底的に狡猾であれ。
  音質なんて空気のようなものに頼るな。
  他社製品を貶めてまで称賛せよ。
  貧乏マニアの多いことを誇大広告せよ。
  中古品と「もったいない」を葬り去れ。
全ては「オーディオの君主」たるものに
ふさわしい礼儀と言葉を弁えよ。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 17:47:25.66 ID:cMsBWE7F.net
BBCモニターの系譜のうち、日本で人気のあるメーカーにハーベスがある。
LS5/8を少し小振りにしたようなHLCompact 7は
日本の家屋に収まりやすいうえに、高域の弦に明るい艶があって
美音系に数えられる一品だ。

同じように、イタリアのソナスファベール、スイスのピエガなども
デジタル録音のマッシブさを少し柔らかく受け止めて、美しくまとめてくれる。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 18:16:46.41 ID:cMsBWE7F.net
ハーベスのHLCompact 7は、初代のHLCompactが1987年で
既に4代目、30年のロングセラーだ。
他のBBC系のロジャース、スペンドールが、やや辛口の音調なのに対し
ハーベスの音は、中域からの艶をあえて載せて、小音量でも聴きやすくしている。
その分、アルミドームのリンギングを巧く操るのが使いこなしの要で
そのためのスピーカーの足回りの調整が欠かせない。
現在の高剛性のニアフィールド試聴が、音の立体感を出すのに
かなり精緻に足回りの調整をするのとは、大分わけが違う。

この中域から湧き出る艶は、例えばEL84のような真空管に特有のもので
1970年代初頭の懐かしい音調にも似たものだ。
HLCompact自体もっと古い機種だと思っていたが
ちょうどLPの生産がストップする寸前の時代であり
回顧的な気分も大いにあったのかもしれない。
同じ時代のLUXMAN L-570などを思い浮かべれば
その頃のノスタルジーというものが理解しやすいかもしれない。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 19:43:05.58 ID:cMsBWE7F.net
これとは全く逆のメインストリームが
例えばティールなどの完全にタイムコヒレントを調整したスピーカーで
デジタルでの位相の正確さを元手に、フロア型で奥行きの定位感を出した。
ワディアのCD再生技術、電流供給の瞬発力の高いクレルのアンプなど
デジタル対応の本当の意味を形にしたオーディオ機器は多かった。

しかし、いざこうした最高品質のオーディオを前にして
万難を排して再生に挑める録音ソースの貧しさのほうが目立ってくる。
特にデジタルのミキサーそのものの機能が貧弱で
出張録音ではヤマハでようやく10chのものが実用化された程度。
まだまだアナログ機器が信頼性の上でも使用され続けていた。

ハイサプンリング、ハイビットが模索されるなか
EMIの録音クルーがハイサンプリング録音に真空管マイクプリが合うことを発見。
今では、真空管マイクは老舗のノイマンも含め普通に製造販売されている。
こうしたデジタル化に伴うトリビア的なトピックスは
技術革新という側面よりも、オーディオにとっての心地よい音というものが
けして進化するようなものではないことを示している。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 20:06:09.76 ID:cMsBWE7F.net
今ではあまり注目されないが
アメリカのテラーク社の録音は、デジタルの広帯域、ダイナミックの代名詞だった。
ちょうどPCM録音のパイオニア、デンオンの録音が痩せた音だったのに対し
テラーク社の芳醇な音は、次世代の録音への期待を抱かせるものだった。

最大の驚きが、チャイコフスキー1812年でリアルな大砲の音を
LPにカッティングした際に、針飛びも辞さない低音の蛇行で
よりハイコンプライアンスのカートリッジの開発に拍車を掛けたが
これがLP盤の再生能力の限界を示したという逆の意味ともとれる。

一方で、やや演出過剰な録音は、むしろジャズのほうに向いており
旧来のクラシック録音の潮流を変えるまでにいたらなかったように思う。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/06(日) 21:16:20.76 ID:cMsBWE7F.net
現状で、最新の録音にも追従できるポテンシャルをもっていて
使いこなしのしやすいスピーカーは
例えばKEF RシリーズやREFERENCEシリーズが挙げられる。

一見して、LS50にウーハーが付いただけだと思うのだが
ミッドレンジを逆相にスムーズに繋げることで
ステップレスポンスが非常に鋭敏にシェイプする。(Fig.7)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-r700-loudspeaker-measurements
ツイーターのパルス波が定位感を浮きだたせるのに対し
他のユニットとのネットワークの位相歪みが目立ち、違和感をもつことが少なくなかったが
KEFはUni-Qドライバーの開発段階で巧く回避したと思う。

LS50は旧来のLS3/5aと同様にツイーターが逆相で
奥行き感を演出する方向で調整している。(Fig.8)
ttps://www.stereophile.com/content/kef-ls50-anniversary-model-loudspeaker-measurements

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 06:04:25.67 ID:ggBxY6AZ.net
一般に、定位感の正体は、パルス波の立ち上がりで決まるのだが
超高域にピンと立つパルス波が先行して耳に届くことで
他の楽音の波を押しのけて(マスキングして)音の位置を知らせる。

例えば、デンオンのワンポイントマイクが
無指向性のB&Kマイクを30cm程離すだけでステレオ効果を得られるのは
従来の位相差によるステレオ効果ではなく
パルス波の届く距離の差を正確に記録できるようになったからである。
ttps://columbia.jp/classics/onepoint/

パルス性の直流波で位相変化をみるステップレスポンスでは
スピーカーは高域から順に低域へと音響エネルギーを放出するのだが
ネットワークのないフルレンジでは当たり前に右肩下がりに推移する。
ttps://www.stereophile.com/content/measuring-loudspeakers-part-two-page-3
これが自然な定位感をもたらすのだが
実際には、パッシブ回路で位相をいじると、電気的なフィルターの負荷が大きく
全体に定位感はよいのだが、ダイナミックさに欠けるという欠点がある。

また1970年代のマルチウェイ化において、位相の乱れは普通だったので
クロスオーバー歪みはオーディオ文化として受容されている。
例えば、B&Wは正相で全てのレンジをキレイに繋げる設計となっていて
むしろレンジに隔たりの無いダイナミックレンジのほうが重視されている。
ttps://www.stereophile.com/content/bw-nautilus-801-loudspeaker-measurements-part-3
1980年代から40年近く経つ現在において、保守的に留まっているのは
ワイドレンジ化に伴うクロスオーバー歪みということができる。

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 06:13:58.64 ID:ggBxY6AZ.net
こうしてみると、デジタル録音での広帯域、S/N比、音場感、長尺録音など
最も恩恵を受けたと思えるクラシック音楽において
オーディオ的な対応というのが、1970年代のステレオ文化を引きずっている
というのが本音のように思う。

言い換えれば、1970年代の夢の続きを、未だに見ていることになる。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 07:10:24.48 ID:ggBxY6AZ.net
1970年代のオーディオ・ファイルの夢とは何だったのか?
おそらく技術革新の絶えざる連続のようなことだったかもしれないし
現在のハイレゾ音源にみるようなフォーマットによるパラダイムシフトかもしれない。
一方で、演奏スタイルも収録マイクも、大きく進化したわけではない。

かつて日本製のスピーカーは、測定したスペックは優秀だが
音楽を聴く喜びを表現する何かが足らないと言われてきた。
いわく測定に使われたB&K製マイクをもじって
「B&K社製スピーカー」と揶揄された。
新素材を使ったユニットの開発は世界でも随一だったが
それの良否を判断する材料に欠けていたとも言える。

同じことはMOS-FETを用いたアンプにも言え
デバイスの製造が世界一で国内で行えたため
自家製のオーダーメイド品も取り揃えていたのだが
その違いについて明確なことは言えないと思う。

レコード針、テープヘッド、様々な部品の加工技術で
日本はシェア共に世界一だったのだが
どうも夢の見方がどうかなっていたのかもしれない。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/07(月) 07:36:50.99 ID:ggBxY6AZ.net
ただ日本製の無味乾燥ろ思えるオーディオ製品が
世界では重宝されたケースも少なくない。

例えば、ヤマハのNS-10Mは、ポップスの業界ではデフォルトスタンダードだった。
同じことはテクニクスのターンテーブルにも言えて、これがなければ現在のDJ文化はない。
あるいは、ソニーのPCM録音機 PCM-F1の柔らかい素直な音調は
BISの録音などで使われ、シンプルなマイクでのダイレクト収録の良さが出た録音だ。
こうした使いようによっては、創造的なことも十分にできたのだが
総合力という点での提案力に欠けていたともいえる。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 06:28:39.24 ID:THz0Pkgd.net
オーディオ製品にはエージングという経時変化がある。
初期に起こるのは、信号、振動など動的なものに馴染んでいくものだが
いざ安定期に入ったと思うときが、調整の本格的な開始になる。
こればっかりは、店頭試聴で確認するということでは十分ではなく
自分の好みという課題と向き合うことになる。

ただ自分の好みというのは、基本的に聴く音楽と関連性が深いので
漠然と「良い音」というのが、いかに不十分なものかは明らかだ。
一方で、クラシック向け、ジャズ向け、はたまたポップス向けというのも
いわゆるステレオタイプを押し付けることになり、演奏の本質から外れやすい。
聴く音楽へより深い理解に達することが、オーディオ機器では重要な気がする。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 06:58:42.97 ID:THz0Pkgd.net
オーディオ批評の場合、音楽を物質的な現象として捉えることが多い。
ピアノのタッチ、バイオリンの倍音、コントラバスの低音の深さ、オーケストラの音場感
クラシックと言えども、これだけ多様な楽器の特性、空間性を再現するのだから
音楽ホールでの鑑賞というような、一括りで済ますことはできない。

ところが、多くのクラシック愛好家は、まず交響曲の再生からスタートする。
こうした傾向は、1952年のレコード芸術の創刊号にも書かれていて
外国がオペラ、室内楽が主流なのに、日本では今一つだと言われる。

逆にジャズは近接マイクで、目の前で演奏している状況を好むので
シンフォニーホールとクラブジャズという、両極端な音響のメインストリームが
そのままクラシック向け、ジャズ向けというステレオタイプを生み出している。

問題は、ピアノやバイオリンなど、サロン文化と関わりの強い音楽の聴き方が
20世紀の大型コンサート会場での演奏を基準にしていることで
自宅を開放してもてなす音楽サロンの雰囲気とは全く違う。
家で聴くクラシックの基本は、むしろ室内楽・器楽にあるのだというべきだろう。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/08(火) 07:45:15.21 ID:THz0Pkgd.net
室内楽・器楽の曲目を、音楽サロンの場を想定して聴くというのが
実際どういうものなのかを想像するのは意外に難しい。
ttp://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/03/01_7540.html
ttp://www.piano.or.jp/report/02soc/19memoirs/2016/09/30_21769.html

1950年代のコーナーホーン大型スピーカーが、家具調デザインというか
そのままタンス(キャビネット)と呼んで良いくらいの大きさだったのは
意外にも実物大のピアノ、チェロの胴音をどう司るかのニーズが大きかったかもしれない。
というのも、それ以前のSP盤で名盤と言えば、クライスラーやラフマニノフ、カザルスといった
名演奏家のものが多数を占めていて、リソースとしては生きていた。
こうした基礎に加えて、LPでのオーケストラ鑑賞が新たに追加された。
この時期の新しい可能性のほうが、ステレオ再生のスタンダードになったのではないか?

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/09(水) 06:31:24.04 ID:HfMqSR7L.net
音楽にとってロマン主義とは、楽器や音楽語法の革新という感じだが
内実のほうはゴシック・リバイバルにみるような、中世ヨーロッパへの郷愁に満ちている。
狂王ルートヴィッヒ2世をはじめ、むしろメルヘンに似た絵物語の現実化にみえるのだが
ディズニーランドと同じように考えると、事の発端は比較的理解しやすい。

欧米の都市においてオーケストラを編成することがどれだけの意味をもっていたか
その熱情の源泉を知るのはなかなか難しい。
狂王が国家財政を危機に落としいてれて疎んじられたのと
富裕層のパトロンを中心とする音楽協会の健全な経営とは紙一重で
その源泉となるパッションに大きな隔たりはないのだ。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/09(水) 07:40:15.61 ID:HfMqSR7L.net
メルヘンというと少女趣味の感覚があるが
イギリスの挿絵付き小説などをみると、ロマン主義の奥行きの広さを実感できる。
例えばスペンサー「妖精の女王」に画いたウォルター・クレインの挿絵は
ワーグナー「ローエングリン」「パルジファル」とそのまま重なっている。
同じチューダー朝のシェイクスピア劇を好んだヴェルディ「マクベス」「オテロ」が
現代的なシリアスな人物像を好むのとはやや正反対の感じがする。
グリーナウェイ「窓の下で」のような子供の子供らしい仕草を優雅さに含める手法は
シューマン「子供の情景」のような作品に出くわすことになる。
もちろんこの前座にはソナチネ集のような、アマチュア愛好家向け作品集があったが
オリエンタリズムとおとぎ話というコンセプトがロマンチシズムの源泉である。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 06:47:48.75 ID:1bNnXRMk.net
ロマン主義が昔の王侯貴族の誉れを夢見て、絵物語を現実のものとする状況は
クラシック音楽をオーディオで聴くことと、あるいは似ているかもしれない。
そこには音による優美な表現を尊ぶいうことも含まれている。
ヴィルトゥオーゾは、楽器の機能的制約を越えて
自由闊達に情念を語れる達人のことを言うのであろう。

しかし、オーディオの多くは写実主義に基づいて評価される。
ヴィルトゥオーゾが譜面を楽器で実現化する達人とするなら
同じ語源のバーチャルは、実質的に等価のもの、さらには仮想現実となる。
オーディオがヴィルトゥオーゾのバーチャルという2重の意味をもつ
一種のヒエラルキーの下に服すことになるのはこの所為である。
そこで、オーディオが写実的ということには、儀礼的な課題が残るのだ。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:11:29.84 ID:1bNnXRMk.net
オーディオがクラシック音楽を写実主義を通じて表現するとき
その結果として優美さを伴わないのであれば、それは失敗である。
つまり優美さという得体の知れないものを、数値化する作業が本来必要なのだ。

美音系と呼ばれるオーディオ機器の多くは高次歪み(倍音)を伴うものが多い。
真空管のリンギング、トランスやテープの磁気飽和、スピーカーの分割振動
こうしたアナログ特有の歪み成分は、Hi-Fi初期には必要悪のような存在で
むしろこの悪影響を巧く利用した機器が名機として名を残している。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:27:50.55 ID:1bNnXRMk.net
真空管のリンギングやオーバーシュートについては
オーディオ機器から消えたのはDCアンプの登場した1970年代半ば以降で
その頃になるとトランスレスということもあり磁気歪みも減っていた。
しかし、録音媒体は磁気テープが残っており
再生側ではテープヘッドあるいはレコードのカートリッジにも
信号経路に磁性体は1980年代半ばまで生き残る。

一方で、完全にデジタル化された後に判ったのは
アナログ→デジタルが単純にノイズレスになったという以上の損失があったことだ。
個人的には、その得体の知れないエッセンスが、高次歪みのように思っている。

前に述べたように、最後まで残った磁性体はスピーカーで
これが残ったおかげで、デジタル技術の仕上げが難しくなっていると思う。
一方で、アナログ的な美点への足掛かりも残されたのだ。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/10(木) 07:51:09.41 ID:1bNnXRMk.net
美音系スピーカーへの憧憬は、例えばabsolute sounnd誌における
Harbeth HL Compact 7ES-3への好意的な評価にも現れて興味深い。
ttp://www.theabsolutesound.com/articles/harbeth-hl-compact-7es3-loudspeaker/
前作に比べ表情が晴れやかになった3代目だが
シトコヴェツキー編曲のゴールドベルク変奏曲、バーンスタイン/ウィーンフィルの田園など
こうした美音と優美さを究めた録音を、品よくまとめる術を心得ている。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/11(金) 07:40:22.73 ID:ZARuT10j.net
absolute sounnd誌といえば
1970年代からハイエンド・オーディオでの究極のリアリズムを牽引したことで知られ
優秀録音ばかり聴くオーディオマニアを生んだメインストリームのひとつだ。

一方で、今回のようなハーベスへの対応は
一種の郷愁にも似たアナログ思考を示している点で興味深いのだ。
オーディオ文化そのものの黄昏というべきだろうか。
HL Compact も、CD時代でのアナログ的な美質の保存を意識しており
そういう思いが30年を巡って一段落しているように思える。

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 10:52:39.63 ID:eLwqROCR.net
シューマンのピアノ曲というと、ほとんどが若書きの情熱に掻き立てられ
女性ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト クララ・ヴィークの姿が思い浮かぶ。
それがクララへの実質的な恋文だったとしたらなおのことで
難曲に等しい楽曲は、激しやすく涙もろい、シューマンらしさが垣間見える。

一方で、作品50「楽園とペリ」まで成功作に恵まれなかったシューマンにとって
ピアノ曲のそれは難解なテクニックが覆いかぶさってさらに渋さを増している。
市場での曲の人気はいまいちなのに、ピアニストにとっては魅力的な題材らしく
リヒテル、アシュケナージ、デムス、ブレンデルなど名立たる巨匠がひしめく。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 10:54:56.59 ID:eLwqROCR.net
個人的に惹かれるのは、ポリーニのコレクションで
70歳を記念してショパン録音集に続いての2番手がシューマンだったのは意外だった。
とはいえ、純然たるシューマン・アルバムは3枚
他はシューベルト、シェーンベルクとのカプリングから抜粋である。

シューベルト:さすらい人幻想曲、シューマン:幻想曲(1973年)
シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番、シューマン:ピアノ・ソナタ第1番(1973年)
◆シューマン:交響曲的練習曲、アラベスク(1981年、1983年)
シューマン、シェーンベルク:ピアノ協奏曲(1989年)
◆シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集・ピアノ・ソナタ第3番(2000年)
◆シューマン:クライスレリアーナ、暁の歌、アレグロ(2001年)

ピアニズムの極致とはよく言ったもので、シューマンのパッションの方向性が
図らずもピアノという楽器に向けられていた、という超幻想的な内容を含んでいる。
ピアノの響きに呑み込まれた青年というべきか。消え入る響きの変化までコントロールされる。
ペルシャ絨毯を拡大鏡で覗いて、織り目のグラディエーションまで鑑賞して
なるほど1万円と100万円の価格の差に納得する感じである。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/12(土) 15:01:03.77 ID:eLwqROCR.net
ポリーニのような演奏家は、大器晩成などという言葉が似つかわしくないと思っていたが
ショパン、ベートーヴェンと聞き続けていると、本人なりに枯れて円熟する機会を
何かしら思い描いていたのだと思う。

ベートーヴェンの場合は、録音期間が作曲家の実際のタイムスパンに近いのだが
後期作品から初期に若返る方向に逆行している。
まるでオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」のような変な仕掛けがある。
ショパンなど最後の50番台の作品集のアルバム題はそのまま「ショパン」である。
その前の晩年の作品集が自身として最後のアルバムと思ったのかもしれないが
オール・ショパン・プログラムでワールド・ツアーという企画を伴って
多少の衰えも問題にせず音楽を慈しむ姿に感銘をうける。

対照的なのはブレンデルで、3回もベートーヴェン全集を吹き込んで
それぞれの時代のなかで解釈を深めていく姿勢が顕著である。
マイクの位置も段々と遠のいていくのは、客観性を増しているように思うが
米VOX、DECCA、Philipsのレーベルの違いかもしれない。
実際には、若い時から平衡感覚の強い作品解釈のあったことが判り
地味な徒弟から老舗の職人まで、周囲の見る目が変わっただけかもしれない。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/13(日) 16:13:40.67 ID:4D8xbS0F.net
1970年代の前半に、ピアノ演奏の方法論が変化して
例えばミケランジェリ、ポリーニ、ルプーなど繊細なコントロールを得意とする
ピアニストが台頭するようになる。

ところがこの1970年代前半に評価が高かったこれらの録音を
当時の人たちがどういうステレオ装置で聴いていたかというと
はなはだ疑問の出る点が多い。

スピーカーでも、AR-3aは広帯域で再生できる機種ではあったが
重い反応で、ピアノのレスポンスにどれだけ追いつけたかは疑問だ。
JBLのマルチ化はまだで、クォードのESL-63も開発中
タンノイのゴールドモニター、スペンドールのBC-II、ヤマハ NS-1000Mあたりだろう。

あるいはSTAXのコンデンサースピーカーということも考えられる。
マーク・レビンソン氏は自宅でQUAD ESLをスタックして
ハートレイ製61cmウーファー、デッカ製リボントゥイーターを追加した
「H.Q.D」システムを使用していたが、アンプのほうはスタックス製を置いていた。

B&Wが世界中のスタジオで使用される前の時代に
オーディオファイルに向けた高音質録音の提案は
意外に難しい局面をもっていたという感じがする。

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/13(日) 21:24:17.72 ID:4D8xbS0F.net
1975年頃を水準に置くと、瀬川冬樹氏の思い描く最高機種は
BBC LS5/1A、EMT 930st、マークレビンソン LNP2+スチューダー A68で
その後にJBL 4351との格闘に入る。
BBC 5/1Aは非売品なので、一般にはKEF 104、スペンドール BC-II を推奨していた。

JBLへの憧憬の第一歩は、4320における打音へのアキュレートな反応で
EMTのトレース能力を正しく伝えきれるスピーカーがあまり無かったことが挙げられる。
ようやく4320を買おうとしたが4330シリーズに移行していて
一度自宅に入れたもののあまり納得がいかず、最新の4340シリーズに突入した。
一般には1970年代後半から1980年代前半のオーディオバブル期を代表する
方向性をもっていたように思う。

93 ::2019/10/14(Mon) 07:59:55 ID:FH9BreZw.net
JBLというと、日本ではジャズかロック向けという感じだが
DELOSやTELARCという優秀録音を売りにしているアメリカのレーベルでは
そのマッシブな音圧を出し切れるスピーカーとして有力候補となる。
高音質なレーベルでは、昔のマーキュリー、エベレストなどを思い出す人もいるだろう。
そもそもDELOSは、JBLの顧問 ジョン・M・アーグル氏が起こしたレーベルで
まさにアブソリュート・サウンドの尖峰を務めた。

とはいえ、日本ではそういう部屋に恵まれるオーディオファンは少ない。
低音が縮退をするのに、高音だけがドカンと押し寄せる。
だから日本ではジャズ向けと言われてきた。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/14(月) 21:13:36.93 ID:FH9BreZw.net
日本でラックマンのアンプは、ある種の艶やかなラックストーンで知られるが
最近のものはアンプとしての駆動力を優先させているような感じで
色んな意味で安定志向、少し歳をとったかな? と思わないではないが
理由は低能率で広帯域のスピーカーが増えたためだ。
昔の艶やかさは、真空管のほうにまかせているようにも見え
その辺の采配の広さが、アンプメーカーとしての歴史を感じさせる。
もしかすると、日本マランツのほうが艶やかなように思うのだが
高域が伸びきっているからという評価に傾く人も多い。
個人的には、艶やかさは2〜4kHz付近の共振にあるのだが
今のスピーカーのほとんどは、その帯域を無色透明にしているものが多い。
アンプの艶は、そういう意味で有効な手立てだと思う。

ラックスマンには昔からの流れで、一種の暖かみのある表現を期待するのだが
もともと艶の多いハーベスやタンノイとの組合せで昔ながらのスタイルに収まるが
エラック、KEF、ピエガとの組合せでも、ヨーロピアン・サウンドを満喫できる。
Dynaudioでは真面目過ぎ、B&Wでは超高域のキラキラが削がれるなど
スピーカーに求めるキャラとの相違が現れる。
海外でのB&Wは、むしろ中域と低域のマッシブさやエモーションナルが売りなのか
ROTELのような、もっと音のグローな業務ライクの音が好まれるので
ラックマンのアンプの底力のようなものに期待してもいいのだと思う。
意外にもJBLとラックスマンの組合せは、そのタップリしたボディのスケールで
古き良き時代のCBS、RCAといった録音群に強い相性をもたらす。

95 ::2019/10/14(Mon) 21:31:21 ID:FH9BreZw.net
クラシックで中域の艶やかさというものに注目するのは
例えば木管楽器のプリプリした感じとかで、バイオリンの艶ではない。
ところが、500〜2000Hzの帯域は、楽器の基音に近い帯域で
むしろブローイング、ボーイングといった
演奏のエモーショナルな部分での表現力に関わる。

クラシックで、音の美しさに耳を奪われがちだが
演奏そのもののパッションに、身体ごと委ねるようなことも必要だと思う。
その中域での再現力は、高音の到達が早いとマスキングされてかき消される。
オーディオショップで聴くB&Wなどに顕著なのだが
音の立ち上がりが非常に早いのに、音量が後から部屋を満たす感じがあり
ホールの返しが強いオーケストラはともかく、ピアノ演奏の低音のアタックは
どう理解しているのだろう? と色々勘繰ったりしてしまう。
ユニットの素性は良いので、マルチアンプできっちり鳴らしてあげるべきだと思うが
そういう指南はあまり聞いたことがない。商売が成り立たないからだろうか。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/14(月) 21:45:00.92 ID:FH9BreZw.net
中域の扱いでは、ATCやPMCといったメーカーでは
むしろスコーカーの開発そのものからスタートした会社もあって
低域と高域は、むしろ素っ気ないほどの鳴り方だ。
逆にいえば、クラシック向けというよりは
80年代以降のジャズやソウルをしっかりエモーショナルに鳴らす
という目的で開発されている部分も多いのだが
ピアノをガッチリと再生するとなると、こうしたチョイスも悪くない。
しかし、素っ気ない顔立ちに、価格が高級車なみというと、大分躊躇するだろう。

97 ::2019/10/15(Tue) 06:19:37 ID:yZWUVGxk.net
1980年代のスピーカーの潮流で驚かされたのが
セレッションのSL-600シリーズで低能率、広帯域という路線を打ち出し
当時これを鳴らし切れるのがクレル社のセパレートアンプだけ、という化け物だった。
しかし、そのスマートで定位感の良い低域は、小型ブックシェルフの可能性を
大きく広げたとも言え、通常のアンプの駆動力もこの後は劇的に改善された。
あとは脚周りをきっちり支えないと、音場の立体感が出ない
ラインケーブル、スピーカーケーブルでゴロゴロ音が変わるなど
結構面倒くさい問題もクローズアップされた。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/15(火) 06:38:03.92 ID:yZWUVGxk.net
音場の立体感はデジタル録音になって大きく変化したもので
高域の位相特性とチャンネルセパレーションが安定したおかげで
パルス性の音の立ち上がりがストレスなく描写されるようになった。

このおかげで、過去のマルチ録音のミキシングの粗さが目立ち
音の塊、平面的な配置に聞こえるようになった。
こうしたニアフィールド・リスニングを基本にしたサウンドステージの形成は
すでにBBCの研究で萌芽していたものの
素直なワンポイントマイクでの収録という、初期ステレオ録音の再評価につながった。
デンオンはともかく、BISなどの小規模レーベルが、ペアマイクと若干の補助マイクで
すっきりした音場で収録しはじめたのも、この時代でもある。

99 ::2019/10/16(Wed) 06:25:47 ID:JrBAnleB.net
セレッションのSL-600〜700がもたらした試聴スタイルの変化は
たとえ小型スピーカーでも大音量で聴くことで
スケール感を伴いながら精緻な定位感をも獲得できるということだった。

これは従来の大型スピーカーでは難しいもので
課題だった150〜500Hzのミッドローのレスポンスと関連性があり
以来20cm以下でロングストローク、大入力でも歪みの少ないウーハーが増えた。

一方で、小音量では動きが悪く音痩せするウーハーが増えてきたため
たとえ十数万のスピーカーでも、アンプのほうが倍の価格が必要という逆転現象が起き
オーディオビギナーが最初に求めるステレオの敷居が一気に上がった。
こうした課題も2000年を越えて落ち着きを取り戻しつつあるように思う。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/16(水) 07:45:58.54 ID:JrBAnleB.net
CD時代も末期的になってきて、全集セットが当たり前の時代になった。
ベートーヴェンの交響曲全集など、LP盤ではまとめて買う機会が少なかったが
今では新譜1〜2枚分の価格でよりどりみどりの状況だ。

その一方で、集中して聴ける演奏というのも少なくなったように感じていて
いかに1枚のアルバムを充実したものにするか、という課題も感じている。
良い演奏に出会うと、テレビをみてる1時間より、ずっと長い充実した時間を感じる。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 06:09:07.85 ID:4P500CDs.net
LP盤でのアルバム構成は、ちょうどコンサートの半分程度で
A面とB面の気分の入れ替えも含め、何かしらの構成が考えられている。
レコードは繰り返し再生されることもあって、スタティックな世界観を提示することが多い。
ちょうど作曲家の肖像画、楽派の風景画のような感で
1品1品じっくり眺める時間の余裕ができるたように思う。

作品のベスト盤を推す企画もあるが、最近つとに思うのが
作品の完璧な演奏というのは、新即物主義の思考であり
演奏行為がパフォーマンス・アートという側面をもっと強調すべきだと思う。
その時に成し得た演奏家のパッションを感じられない試聴は
その時間が無意味なものになってしまうように感じるのだ。
こうした傾聴に値する演奏に出会う手助けにオーディオ装置の意義がある。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 06:45:56.65 ID:4P500CDs.net
ミュージシャン至上主義のポップスのほうでは、オーディオ・マニアは嫌われる。
どんな装置で聴こうと、その演奏の価値は変わらないということになる。
その反対に、クラシックは原音主義というか、写実的な描写が好まれるので
オーディオの再生能力によって、印象が全く違うことが、古くから言われ続けた。

一方で、録音品質は悪いのに、演奏のほうは凄く魅力のあるものも多い。
特に1950年代のライブ録音に多く、フルトヴェングラーなど最たるものだ。
現在も続くその発掘が1970年代に根を下ろすのは
ステレオ装置の水準が上がるのと反比例しているように思う。

しかし、よく精神性のようなことが言われるのとは異なり
個人的には、戦前のフルトヴェングラー/ベルリン・フィルと新世代のポリーニは
自然に流れる練達な音のなかに、同じパッションに彩られているように思う。

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 07:31:57.73 ID:4P500CDs.net
傾聴に値するアルバムというと、何だか偉そうに振る舞うのだが
どういうわけか、レコード批評に慣らされているクラシック音楽ファンは
一種の上から目線で王侯貴族の仲間入りをしたように話す。
たかだか3千円で買えるアルバムに対して消費者保護を求めるのは
一種のハラスメントにも似た状況のように思う。

ただ、演奏に敬意を払うなら、その人が残してくれたレコードを
最善の状況で試聴することであり、その準備を怠らないことだと思う。
オーディオ装置は、なにそれの機材を使ったから大丈夫というものではなく
楽器と同じように、様々な調整を経て、調和のとれた音が鳴り響く。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/18(金) 07:51:10.33 ID:4P500CDs.net
ステレオ装置が十分に行き渡らない時代に、レコード・コンサートというのがあった。
地方の公民館や学校の体育館を借りて、最新の機器を取り揃え
レコード各社、オーディオメーカーのデモの様相もあったものの
実際のコンサートでは聞けない名演奏家の音楽を鑑賞しようというもの。

名曲喫茶というのも、コーヒー代でレコードを聴ける場所で
椅子が全てスピーカーに向いている、不思議な店内レイアウトもあった。
こちらは膨大なレコードを収納するレコード棚と共に
オーナーの拘りの装置が立ち並ぶことが多く
かつ自宅では不可能な大音量で聴けるという側面もあった。

こうした先に自宅でのレコード鑑賞があったのだが
今はレコード鑑賞の公の情報は閉ざされた状態だと感じる。
大ホールでの生演奏とオーディオ装置との聞き比べは
なんというか遠目の距離から眺めるような感じになりやすく
オーディオ装置のダイナミックレンジが追いついていかない。
一般住宅の暗騒音は意外に大きく、精々30dBくらいの間を
行ったり来たりしている程度で、生演奏のそれとは程遠いと感じる。

105 ::2019/10/18(Fri) 21:39:50 ID:4P500CDs.net
聴いていて時間を忘れるほどの名盤というのは
時間を刻むはずの音楽とは全く相反してるように思うのだが
いつまでも一緒に居たいような、そういう気分にさせられるものだ。

何もワーグナーの楽劇や、マーラーやブルックナーの交響曲に
ひたすら没頭するということではない。それも良いのだが
シューマンのピアノ曲の絶え間ない草花文様と戯れてみるとか
フォーレの室内楽の音の奔流に包まれてみるとか
入ったら二度と出られないようなラビリンスのような世界もある。
実はこういう楽曲は、冴えないオーディオ装置で聴くと延々と単調だが
ちゃんと聴くと色彩感にあふれる変化に富んだ楽曲になる。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 07:49:55.76 ID:CGa+E26E.net
名曲の決定盤という思考が、演奏家の個性を阻む場合があって
例えばポリーニのシューマン/クライスレリアーナ、ドビュッシー/前奏曲I&IIなどは
同じグラモフォン・アーチストだったアルゲリッチとミケランジェリの録音があったために
かなり遅れて録音された感じがする。
隣の島を荒らすようなことを避けて、互いの名誉を守るという意味もあったかもしれないが
これだけ潤沢にマエストロがひしめき合うと問題も大きいように思う。

あるいはアラウへの演奏評価も、1970年代に70歳を迎えていた巨匠について
同時代の流麗なピアニズムと比較されがちである。
確かにフィリップスの録音は、ややくすんでいて、それが滋味ある演奏と勘違いされやすい。
当時モニターに使ってたクォード ESLのような繊細な反応のスピーカーで聴くと
頑強なタッチに支えられたうえでの繊細さが浮かび上がる。
ボレットと同じリスト直系のピアニズムなのだが、当時はあまり理解されなかった。

リヒテルとギレリスの比較も面白い。個人的にはギレリスが好きなのだが
それは1970年代以降のスタイルが、ゴドフスキー〜ネイガウスと続く
第一次大戦前のウィーン風のスタイルを伝えているからだ。
同じ比較は、ラフマニノフとホフマンについても言えるだろう。
リヒテルはどちらかというとラフマニノフに似ている。

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/19(土) 09:48:31.31 ID:CGa+E26E.net
1970年代のクラシック・アルバム=演奏家のポートレートという風になるとすれば
戦後まもなく流通した新即物主義による作品理解の普遍化から脱して
1970年代から演奏解釈の多様性に一歩踏み出した感じがある。
それは演奏家の技量というよりも人間性にクローズした内容になったように感じる。
作曲家よりも演奏家のほうが前面に出るケースが多くなったと思う。

こうした肉声に近いようなものをオーディオ装置から引き出すのは
相手が客観的な生音でもあるなかで、ただ楽器の音色がどうとか言うだけでなく
背景にあるものを手繰り寄せるような感性が必要な感じがする。
共感というか、共鳴というべきか、そこにある一種の充実感を引き出すことである。
実際には、充実感を求めすぎて、響きの奥が見通せないオーディオは多い。
意外に、引くときはしっかり引いてくれないと、漫然と鳴ってしまって飽きてしまう。

108 ::2019/10/19(Sat) 10:21:04 ID:CGa+E26E.net
豊潤な響きのなかで躍動感をもたせるというのは
一見矛盾するようにみえて、アンプの力量も含めて、オーディオの基本である。
漫然と鳴っているかいないかは、セミクラシック的な楽曲で確認すると判りやすく
 ピアソラ/タンゴ・ゼロ・アワー
 木住野佳子/プラハ
 キングズシンガーズ/ビートルズ・コレクション
などは、上質な音楽でもあり、お気に入りのアルバムだ。

109 ::2019/10/19(Sat) 12:22:37 ID:CGa+E26E.net
デジタル初期のセミクラシックは、やや冷たい感触の音質が多く
>>108の録音は、真空管アンプなど使うと雰囲気よく鳴ってくれる。
単に柔かいという意味ではなく、EL84やKT88など欧州系のビーム管は
艶を出しながら少し輪郭を強めてくれる。やはりまとめ方が巧い。

ただもうひとつ深く掘り進むと、熱気や興奮というものも伴うようになる。

木住野佳子はジャズピアノとはいえ、コンポザー志向の楽曲構成力があり
そして微妙に揺れ動きながら折り重なるリズム感が心地いい。
そしてプラハで生まれ育った滋味深い弦の響きとが共感しあって
暗鬱な重たさと空に抜けるような軽さが交錯する。
この上下に舞う運動が、天空のに大きな円を描いているように
ひとつの線になって集合していく様は、雲のように儚いのに力強い。
実際の雲は、近づくと凄い乱気流に寄せられているのだが
そうした熱気が奏者ひとりひとりの意志として全体を支えている。

110 ::2019/10/19(Sat) 21:39:07 ID:CGa+E26E.net
タンノイを鳴らすアンプとして
日本のラックスマンと上杉研究所の真空管アンプは
本当に日本人の心の隙間をよく知り尽くした感じで
クラシック音楽に必要な、品の良い艶、端正な趣と
いずれ菖蒲か杜若という具合である。

一方で、エアータイトの超大型真空管アンプでタンノイを
ガッツリ鳴らすというのがあるらしく、海外から引き合いが多いらしい。
エアータイトといえば、ラックスマンが真空管を撤退すると決めたとき
スピンオフして設立した会社だが、方向性は引き締まった低音と共に
正攻法でしっかりとした感じだ。

あるいはマンレイ・オーディオというスタジオ機器を設計する会社は
マンタというエイの形をした6BQ5真空管アンプを製造しているが
ここの製作していたモニタースピーカーが
タンノイのSRM/SGMの10インチをOEMしたものだった。
SRM/SGM10はポップス畑では結構な人気のある機種で
同社の真空管アンプはドライブ力としなやかさの同居したものだ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 13:44:28.09 ID:VA2nINtU.net
1970年代のBBCモニターの周辺は、FMステレオ放送に合わせ
定位感とフラットネスを両立した名作揃いといえる。
BCII、LS3/5A、LS5/8、LS5/9と
大きさのバリエーションもあり、試聴環境に合わせやすい。

一方で、ウーハーの設計で重視された中高域の明瞭さについて
あまり背景を知らずにいることが多い。
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1979_22
ttps://www.bbc.co.uk/rd/publications/rdreport_1983_10
いずれもユニット単体でと1〜2kHzにピークをもっており
それをネットワークで抑え込んでフラットネスを保持している。
よくポリブレビン特有の艶という言い方もされるが
男声アナウンサーの声が明瞭に聞こえることを第一条件とした
放送局特有の理由がある。
この中域の艶と乱高下するインピーダンスへの対処が
アンプの選択に頭を悩ましてきた。

1970年代イギリスは既にミキサーもアンプもトランジスター化を完了した時期で
重たいネットワークを難なく鳴らせるQUAD303の業務仕様50Eが使われた。
とはいえ現在のアンプ事情からすると、十分に鳴らしやすい部類になっており
電源のしっかりした国産プリメインでもそれほど違和感ない感じに収まる。
真空管でも6550、KT120、KT150のように電力供給の大きいアンプで鳴らすと
さらに色艶があって開放的という全く別の魅力が現れる。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/20(日) 14:06:23.74 ID:VA2nINtU.net
最近のスピーカーをみると、ヘッドホンやホームシアターに圧されて
本当にクラシック音楽のことを考えてくれているのか?という疑問もなくはない。

ロック世代も半世紀を過ぎて老境に入りつつあり
そちらのニーズのほうがずっと大きいというべきかもしれない。
そのなかで、やれ奥行き感だとか、弦の美しさだとか、オカシイのかもしれない。

ただ、クラシック音楽は20世紀までステレオ再生の王道だったのは確かで
それは取りも直さず、生楽器での実演との比較がしやすい点に尽きる。
オーディオの忠実度の尺度として、それなりに有意義であったのだ。

個人的には、ホームシアターの洗礼を通じて、パルス音と重低音の再生だけでなく
セリフの定位がビッグマウスになったりせず、全体にノーマルになったと感じる。
それと、スピーカーでエコーを独自にもつようなエンクロージャー構造も減った。
逆に退化した点は、低音のレスポンスが遅いこと、中域の艶が減退し冷めた感じになり
ツイーターの質感ばかり上がって、他が無視されているのでは?と思える点だ。

113 ::2019/10/20(日) 20:12:34 ID:VA2nINtU.net
20世紀末のポスト・モダニズム、脱構築という思想の移り変わりは
クラシックという概念を楽壇のなかから消し去ろうとした。

同じことは、シューマンらの時代のサロンへの検閲にも現れ
薬にも毒にもならないビーダーマイヤー調の世界に覆い尽くされる。
一種の平和や安泰への希求は、ロマン主義の対極にあるのだろうか?
ユーモアとメランコリーを激しい対話に持ち込んだダヴィッド同盟を聴くと
その性格表現をどう再現するかに、一筋縄ではいかない複雑な感じがする。

私たちが知るシューベルト〜メンデルスゾーンの初期ロマン派の理解は
「子供の情景」にみる家庭的な雰囲気への憧憬でもある。
しかしシューマンはそう願うこととの深い葛藤があったようだ。
その後の「クライスレリアーナ」で、再び破滅的な自画像をぶつける。

こうした内容は、ピアノ的なきれいな響きに包まれるなんてオーディオ・テクニックで
どにかしようなど所詮無理な話。その裏まで再生しないと判らない。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:00:18.87 ID:gEMk3P6y.net
そもそもこの躁鬱を繰り返す指向は
ドイツにおける疾風怒濤時代に起因するのだが
本来は18世紀末の小説や演劇の分野でのことだった。
同時代のベートーヴェンが第九で取り上げたシラー
またはシューベルトのゲーテの詩による歌曲などがそうである。

一方で、シューマンの根差す対立概念の対話をもつ器楽曲は
バッハの息子カール・フィリップ・エマヌエルがベルリン宮での不遇の時代に
フランスの標題的器楽曲をクラヴィーア・ソナタのなかに込めた多感様式による。
実際にはゲーテやシラーが演劇で活躍する1770年よりも前の時代だ。
フランスのピアノ奏者にシューマン演奏の伝統が深く残るのは
音のニュアンスや色彩感が、18世紀ロココ音楽で重視された
エスプリの精神に沿っているからだと思う。

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:28:17 ID:gEMk3P6y.net
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの功績のもうひとつは
自身の多感形式の発展史のなかに、大バッハの器楽曲を挙げたことだ。
それはウィーンやロンドンといった外国の地での芸術サークルで盛んになり
大バッハを起源とする近代的なドイツ・クラシック音楽の系譜が形成される。

21世紀のバッハ演奏の主流は、古楽器によるオーセンティックな解釈だが
実際にはロマン主義で確立された器楽曲鑑賞のルールが堅く守られている。
そして演奏会批評も、19世紀の大衆紙の発展が深く根を下ろしている。
今一度、ロマンチックなバッハ解釈を再検証してみてもいいだろう。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/23(水) 07:55:33 ID:gEMk3P6y.net
シゲティのバッハ無伴奏ヴァイオリンは
シゲティの代表盤であると同時に最も議論を呼んできた録音だ。
20世紀初頭の神童時代だった頃にコンサートで最も評価されたもので
無伴奏チェロよりもずっと先んじて評価されていた楽曲へと昇華させた張本人だ。
イザイの無伴奏の献呈者の筆頭に置かれていることもその衝撃を物語っている。
重音のバランスを維持した複雑な運指など、克服すべき内容を解決した演奏は
20世紀を通じてヴァイオリン曲のスタンダードにまで押し上げた。

一方で、戦後になってようやく果たした全曲録音は、これがストラディバリウスの音かと
誰も信じないだろうと思えるギスギスした音の連続に霹靂とする。
砂漠に隠遁するヒエロニムスよろしく老人の荒れた肌をそのままさらけ出したような音に
孤高の精神を垣間見るようで、クラシック音楽に抱く美意識を崩壊させるインパクトをもつ。
これが米バッハ協会の委嘱で、レオンハルトの初期録音と並行して行われたと知ると
さらに驚愕を覚えることだろう。実にマジメに企画されたセッションだったのだ。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:15:03.88 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハ無伴奏が行ったのは、クラシックの美意識を逆なでする
新即物主義の整った均衡を失った、アンチ・ロマンティシズムだった。
ずっと先の時代のポスト・モダン時代にでたピアニスト、アファナシエフと同質の闇だ。

このカオス状態を別な側面でみると
ケンプの2種類のベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集が挙げられる。
モノラル期の2回目のセッションは、古典的な美質を追求した端正なものだったが
その10年後にステレオでのセッションは、コルトーもあわやと思わせるファンタジーだ。
いつのまにかそれがケンプの芸風と思われている。

こうした名演の類は、オーディオの音質でどうとかいうレベルのものではなく
ラジカセで聴いても、それほど間違った印象をもたないと思えるほど
実に完成された個性というべき説得力をもっていることが判る。
一方で、アンチ・ロマン、ファンタジーというと、曖昧無垢な表現のようにみえて
実際には細部にこだわった造形力がなければ、ヘタな抽象画に見えてしまう。
その辺の技巧を聴き取る道具として、オーディオはちゃんと存在するのだ。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 06:54:20.43 ID:7AqP5O/m.net
シゲティのバッハがクラシックファンの美意識を逆なでするダークフォースだとすると
そもそも崩壊したと考えられる、元の原型となるフォルムは何なのか。

例えば、ルネサンス時代のミケランジェロによる2種類のピエタ(悲しみの聖母)
サン・ピエトロとロンダニーニを比べると、その造形の違いがはっきり判る。
優美の極みをもって完成されたサン・ピエトロのピエタのこの題材の代表作だが
晩年の遺作となったロンダニーニのピエタは、ノミの傷跡も荒々しく残る悲痛さが際立つ。
ちょうどイーゼンハイム祭壇画の磔刑図のむごたらしさの延長上にある痛みだ。

実は、シゲティのバッハには、ホールトーンで包まれる優美さを捨てて
ジャズ的な近接マイクで細部を録ったところに、一種の録音芸術的な仕掛けがある。
試しにデジタル・リバーブを深く掛けて聴くと、普通のコンサート風の音に戻る。
それでいて、凛と立つ孤高のバイオリンの存在が消えないのだから恐れ入る。
この仕掛けは、石造りの部屋でスピーカーを鳴らすのと同じで
普通の録音だとデフォルメしてエコーを織り交ぜていることが判る。
それを原音主義と称して評価しているところに、問題の根っ子があるのだ。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:19:21 ID:7AqP5O/m.net
同じ近接マイクで録ったバッハ無伴奏に、1981年のクイケンの録音がある。
こちらは、古楽器&バロック奏法の解体新書さながらに細部にこだわった録音で
まさかフッガー城 糸杉の間でのセッションだとは誰も信じないだろう。

結局20年の歳月を経て、ノーマルな状態での再録音と相成ったが
バロック奏法のオーセンティックな解釈を突き詰めた点で、1回目は衝撃的だった。
その後の録音が、ガット弦&バロック弓の組合せで、三味線でいうサワリのような音を
様々なシチュエーションで織り交ぜることで、バロック的な光陰の造形を確立したのだ。
それは絵画でいうラファエロからカラヴァッジョへの変化にも似て劇的なのだ。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/24(木) 07:54:05 ID:7AqP5O/m.net
クイケンの録音は、フッガー城 糸杉の間ではなくて、アルティミーノのメディチ家邸宅だった。
ttps://www.italianways.com/the-villa-medicea-in-poggio-a-caiano-an-excursion-into-renaissance/
こんなところを占拠して録音するなんて、どういう贅沢なのかと思う一方で
録音のストイックな選択が、複雑な思考の迷路を生み出している。
ボッティチェリの弟子フィリッピーノ・リッピの作品のもつ美の愉悦と
バッハのもつ数学的な造形美とが触れ合うことがなかったとも思われる。
あるいは大ロレンツォの霊のお気に召さなかったのか。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:27:20.82 ID:65Uwos+m.net
昔からバイオリンの音をいかに綺麗に再生するかは
オーディオの音質を推し量るバロメーターのひとつだった。
例えばオルソン博士のRCAのLC-1Aモニターは
ハイフェッツの録音を最高の音質で再生できるように考えられたと言われ
リビングステレオの指標ともなっている。

今では高調波歪みを十分に抑え込んだツイーターが巷に溢れ
バイオリンの音がうるさいなどというスピーカーはほとんど無くなった。
なので、クラシック向けということをバイオリンの音で判断することはできない。
とはいえ、大人しくなってツンと澄ましているやつも少なくない。
ブラームスのVnソナタだって、デュメイやクレーメルのように
センセーショナルな表現が好まれる。演奏が渋いと判りにくいからだ。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 06:58:53.83 ID:65Uwos+m.net
1980年代にセンセーショナルな演奏で名を馳せた
ポゴレリチやルイサダなど、グラモフォン・アーチストが
RCA&ソニー陣営に再雇用されて、プログラムを展開している。
とはいえ、アーチストの本質は自由な演奏活動にあるので
サラリーマンのように言ってはおかしな話だ。
あるいは、シフやベロフといった純情派のピアニストも
アルファやデノンで再録音を試みている。
いずれも21世紀に入って何となく音沙汰のない感じだが
ポスト・モダン時代のロスト・ジェネレーションと考えれば
何となく合点がいく。時代の申し子と呼ばれながら
時代の悪しき方針に翻弄された部分もあるのだ。
プロデューサーが大きな顔を効かせた録音セッションが
アーチストの何かを殺してしまった臭いを感じるのだ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:14:35.63 ID:65Uwos+m.net
しかし、ロマンティシズムもポスト・モダニズムも、しっかりした定義があるわけでもない。
とくに過去の作品を尊ぶクラシック音楽というカテゴリーにおいて
むしろその鑑賞対象が、音楽を通じた人格的な交流という
一種の社交的なマナーに基づいているとすれば
そこでの人格表現には、かなりの制限があるのだが
言葉にならない感情を投影できる作品に出合えたアーチストの幸福度が
本当に高いように感じるのは、感動を一緒に共感しているからだろう。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:30:07.68 ID:65Uwos+m.net
しかし、オーディオ装置によって、音楽鑑賞の視点に違いが出ること自体
あまり問題にされない。それは電子技術が、演奏技術と相容れないという
基本的な思い込みがあるからだと思う。

ジャズ愛好家には、レコードに記録された一期一会のテイクが
二度と同じものとはならない鉄則があるため
レコード再生におけるオーディオ機器の重要性を説くことが多い。

クラシック録音において難しいのは、生演奏の再現性の高さも売りなので
音質への追求が常に青天井の状態で、古い録音への評価が押し並べて辛い。
モノラルだから残念、平面的なマルチマイク収録、デジタル臭い音
どこかしら不平を言ってみるのだが、裏を返せば、録音のせいにすれば
自分のオーディオ装置の不備は解消できると信じているからだ。

個人的には、録音技術は1970年代をピークに
もはや人間の測れる数値の限界を越えているように感じていて
むしろそういう測定機器もなく、自分の耳だけが頼りだった時代の
オーディオ装置に込められた感性のようなものが
再びクローズアップされているように感じる。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/25(金) 07:46:23 ID:65Uwos+m.net
例えばマルチマイク収録が、奥行き方向の定位を無視して
ピックアップマイクで継ぎはぎしたように聞こえるのは
スピーカーの分解能が高まったからだと思う。

一方で、そのような現象は、低域のレスポンスが重く
ツイーターのパルス波が浮き立っているからだ。
むしろ高周波のパルス波を和らげる真空管、ライントランスなどを
噛ませることで、全体に統一されたトーンを保つことができる。
躍動感が失われたと思うなら、アンプのドライブ力が不足している。
そういう風に自分の足元を疑うのが、本当は必要なのだと思う。

こうしたノウハウは、商品を購入する際のレビューには出てこない。
相当に入念にセッティングされた状態で聴いているためだが
実際のユーザーは試聴室の違いも含め、そこまで追いつかない。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 07:02:31.98 ID:dz3/vSov.net
1990年代前半のことだっただろうか。
個人的には1980年前後のアナログ録音からAD変換されたCDの音が好きで
オーディオ機器を選ぶときに試聴盤として持っていくことが多かったのだが
店員の多くは「このCDそれほど音が良くないですね」ということを言っていた。

タリス・スコラーズのパレストリーナのミサ曲「ニグラ・スム」
ナッセン/ロンドン・シンフォニエッタの武満徹「リヴァ−ラン」など
空間に溶け合った繊細な音の移り変わりが美しい録音だと思う。

おそらく、テープヒスがサーと掛かっていることや、低音の伸びが制限されていること
相対的に中高域がデフォルメして聞こえるなど、思い当たる点はいくつかあったが
出鼻をくじかれたようで、何とも拍子抜けな感じだった。

個人的には、こうしたppが連続するような録音でも、音がエモーショナルに鳴る
そういうオーディオ機器を求めていたのだが、作品の話題まで引っ張ることなど
到底できないことに、オーディオのもつ価値そのものを考えさせられた。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:04:15.49 ID:dz3/vSov.net
1979年録音のシェリング&ヘブラーのベートーヴェン Vnソナタ全集
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
単に古楽器vsモダンというステレオ・タイプで聴き比べると損する内容だと思う。

例えば、シェリングとヘブラーの組合せは、ベートーヴェンのソナタの背景にある
フォルテピアノの音響的バランスが伝統的に知られていたことを示している。
モーツァルト弾きによるデュオは、グリュミオー&ハスキルでも好印象だったが
シェリングの全集では、後半でのシンフォニックなピアノの扱いなど
フランス・ロココ風のスタイルから、ドイツ・ロマン派に移行していく様子が判る。
おそらく、ベートーヴェンのソナタ全集などお呼びも掛からないヘブラー女史が
その不満を爆発させたかのような演奏で、そのはじけぶりが面白い。

シェリングの演奏は、いつも形式美を堅固に構えた中堅を得たものにみえるが
めずらしく話の合うお相手をみつけて、ユーモアを交え演奏を楽しんでいるようだ。
これを遠巻きにサウンドステージを意識すると、エモーショナルな流れを失う。
あくまでも1970年代初頭のアナログ収録の方法を踏襲したバランスなのだが
こうしたアナクロな仕掛けのために、演奏がただ渋いという変な評価に陥りやすい。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 08:42:25.23 ID:dz3/vSov.net
1981年録音のクイケンのバッハ無伴奏バイオリンは
いくらADDマスターの好きな私でも、オーディオ店の試聴に使うのがはばかれる一品だ。
オーディオ鑑賞用というよりは、アラ探しするのに持ってこいのCDで
パルス性のノコギリ波が目立ち、どの楽音にも耳障りな付帯音として残り
おそらくデジタル変換の癖が最も出てしまった例と言っても過言ではない。

ただ、バロック奏法を前面に出した演奏としては、満を持したものとなっており
実際には、バッハよりもクイケンというバイオリン弾きの肖像が前面に出ている。
その後の寺神戸、ルーシー・ファン・ダールなど、名立たるバロックオケのコンマスが
豊富な演奏経験を経てスコアを読み込んだ結果を披露する機会が増えた。
その録音の多くは、1981年のクイケン盤の二の轍を踏まないこともルール化され
良くも悪くもクイケン旧盤は、古楽器演奏のスタンダードになっているのである。

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 09:05:54.38 ID:dz3/vSov.net
ただ、古楽器の録音で一番難しいのは、楽器の特徴がバラバラになっているため
バイオリンやピアノ、あるいは管楽器など、20世紀にほぼ規格化された音とは違い
それまでの生音の経験則が全く成り立たなくなっていることである。

またこの手の古楽器録音は、録音ブースを持たない古式ゆかりの会場が多いため
録音時の音のチェックはヘッドホンが中心であることに加え
今も昔もスピーカーの固有音の違いがメーカー間で散見されるため
マスタリングに使用するスピーカーでは中立性が保てないこともあり
スタックスやAKGのイヤースピーカーでチェックすることが行われた。
改めてこの手のヘッドホンの過敏な応答特性を
スピーカーで再現するのは大ごとである。

一方で、スタックスのイヤースピーカーを元手に
システム調整するという荒業も不可能ではないが、どうしたものだろうか?

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 10:17:13 ID:dz3/vSov.net
古楽器の録音で関心したのは、以下のようなもの。

佐藤豊彦/フランス・バロック・リュート曲集(CHANNEL Classics、1996)
 17世紀に南ドイツで作られたオリジナル楽器を丁寧に修復したもの。
 独特の暗がりをもつ音色が、墓標を意味する音楽作品に彩りを添えている。

サヴァール/サンコロンブ2世 無伴奏ヴィオール組曲(ALIAVox、2003)
 イギリスに渡って活躍した息子のほうの作品で、華やかなパリ宮廷文化を離れ
 非常に思索的な傾向を示す。1697年ロンドンのノーマン作のガンバは
 力強く太い低音が特徴のある楽器で、この作品の重厚さを引き立てている。

エガール/ヘンデル オルガン協奏曲Op.7(米harmodia mundi、2007)
 当時のロンドンで流行った18世紀中頃の室内オルガンを用いた録音で
 シフト・ペダル(弱音のストップだけ残してシャットダウンする機能)を効果的に使い
 冒頭に即興を入れるなど、軽快な指使いでギャラントな雰囲気を増長している。
 ttps://www.goetzegwynn.co.uk/organ/chamber-organ-for-handel-house-museum/

ショーンスハイム/ハイドン ピアノ・ソナタ全集(CAPRICCIO、2003-04)
 初期のチェンバロから後期のフォルテピアノまで6台に渡って楽器を使い分け
 それぞれの作品の特徴をあぶりだした好企画盤。楽器の音に聞き比べも面白い。

スホーンデルヴルト/ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(Alpha、2004-09)
 18世紀末のサロンでの演奏形態を想定した室内楽規模の小人数オケによる演奏で
 各楽器が平等に響く協奏的なアンサンブルの仕組みが判りやすく提示される。
 ベートーヴェン自身が望んだ大オーケストラとの共演ではなく
 愛弟子のツェルニーが理想的とした演奏形態を模擬したのが勝因だと思う。
 

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 16:33:33.35 ID:dz3/vSov.net
ウィーンの三羽烏:グルダ、バトゥラ=スコダ、デムスが
まるで三人で申し合わせたように1970年を前後して
ベートーヴェン、シューベルト、シューマンの全集物を録音した。
しかもグルダとデムスはマイナーレーベルからの発信だったので
ゲリラ的な録音セッションに、やや驚きを隠せない感じで迎えられた。

ウイーン気質といえばそれまでだが、血は争えないという言葉どおりの演奏で
ビーダーマイヤー調の予定調和的というか、カフェでの歓談を楽しむような感じ。
3人の個性も合わせて見据えると、なかなか面白い選択だったと思う。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/26(土) 19:53:35 ID:dz3/vSov.net
このウィーン風の丸い音色は、中域のボーカル域に的を絞った
地元のベーゼンドルファーにも特徴的な音色でもある。
スタンウェイでの演奏に比べ、低音も高音も抑えられたメリハリのない音調で
オーディオ的なピアニズムを際立たせる魅力に欠けると勘違いされることが多い。

特に高域のパルス性の音で解像度を誤魔化しているオーディオ機器は
一瞬にして魅力を失うことになり、モゴモゴと団子になった打鍵が支配する。
ただ、オーディオ・チェックとしては試金石となること間違いなしで
これをクリアすると色々な意味で得をすると思う。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:41:30.26 ID:u2towfVy.net
しかし、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンはそれぞれウィーンと距離感が違う。
古典派音楽の都に詣でた者、生粋のウィーンっ子、ウィーンに失望して立ち去った者。
実際には多くのパトロンが賑わしいだけで、国外の音楽家を消費することで時間を潰す
創造性のある地域ではなかった。
実際に有力な哲学者、詩人の多くは、シューマンはが見限る前にこの地を去った。

そしてバッハという堅物との距離感で、作風の複雑さの違いも出てくる。
本当はハンブルクのバッハ、カール・フィリップ・エマニュエルこそが
父バッハとフランスのロココ様式を融合させ、観念的な器楽曲の道を開いたのだが
大バッハの音楽言語的な構造を示唆した点が、後のドイツ的な音楽の理解となる。

こうしたなかで、ウィーン的なピアノという括りは
音楽愛好家が手習いで演奏する、家庭料理のような味わいともいえ
かつて邸宅で行われたサロン的な雰囲気を継承することを意味する。
それが退屈だという意見は、貴族文化の気まぐれな会話についていけない
そう思われても仕方ないような気がする。しかし、実際にウィーンの音楽文化は
そうした退屈な時間の辛抱強い積み重ねでできていたのだと思う。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/28(月) 06:51:02.27 ID:u2towfVy.net
ウィーン風のピアノ演奏にあくびをしながら聴いてしまう人には
例えば、シューベルトのピアノ付き室内楽が、少し色彩感が加わり聞き易いだろう。
そこに音楽的な団らん、気の利いた会話をどのように過ごすかの極意があるように思える。
ピアノ曲が思想の遍歴、弦楽四重奏曲がシンフォニックな形式の探求だとすると
ピアノ付き室内楽は、もっと演奏者が楽しむための仕掛けが仕組まれているからだ。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:05:37 ID:Y/dHmgyE.net
ウィーンのピアノの伝統には、ゴドフスキーに繋がるヴィルトゥオーゾの系譜もあり
直接的にウィーンに根付かなかったものの、ロシアのネイガウス門下に引き継がれた。
リヒテル、ギレリスの2人が超有名だが、ルプーもその最後の弟子のひとりでもある。
ネイガウス本人もそうだが、青空のように澄んだffの響き、安定したppの表情が美しく
シューベルトの演奏に最も適しているように言われる。

個人的には、シューマン作品集が好きで、テンポルバートとペダリングが絶妙に決まり
低弦のうねりと高音のきらめきが絶え間ないポリフォニーのように交差する。
ただ残念なのは、技巧的なフモレスケ、クライスレリアーナの間に挟まれた
いかにもルプーが得意そうな「子供の情景」の平凡な出来に引きずられて
全体の評価が低くなっているのが惜しいアルバムのように思ってる。

もともとシューマンのピアノ曲は大半が難物で、うまく紹介するのが難しいのだが
クライスレリアーナは技量と詩情が高度にバランスした名演だと思う。
大概のピアニストは最初の楽章でアッチェルランドを駆けるとピアノが鳴り切らないのだが
ルプーは響きの豊かさをより太くしながら、しっかり弾ききっている。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/10/29(火) 07:31:25.09 ID:Y/dHmgyE.net
よく言われるルプーのシューマンが慎ましく大人しいと感じるのは
おそらく低弦の表情が埋もれて団子状になってしまうスピーカーが多いせいだと思う。
もうひとつは時代的な問題で、1993年リリースのCDと矮小化したステレオから
どれだけの人が、ルプーのヴィルトゥオーゾを堪能できただろうか?
これが1970年代だったら、もっと聴き手に恵まれていたかもしれない。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:09:41.23 ID:DFig2z9z.net
逆に言うと、優秀録音の定義は、一般家庭で聞き易いステレオの規模で評価される。
ある水準に立たないと、演奏の真価が判らないようでは、それは難解な音質なのだ。
逆に、スコアが透けてみえるようなとか、サウンドステージが立体的に広がるとか
そういう演奏が良いというのも間違っている。

例えば、マーラーの演奏でも、クーベリックやノイマン(旧盤)の録音は
アンサンブルの一体性を重視したもので、分解寸前の危機感はそれほど感じない。
代りに、作曲家のもつ思いの強さが、自然に浮かび上がる。

両者には、やや共通点があって、バイエルン放送響の設立時のメンバーは
バンベルク響で主席を務めた人々が含まれており
プラハに在住していた古い東欧移民に先祖をもつドイツ系音楽家達である。
いわゆるボヘミアのアンサンブルに特徴的な、家族的な心の通った一体感があり
そこにある抱擁感こそが、マーラーが求めてやまなかったものだったように錯覚さえする。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/01(金) 07:33:43.46 ID:DFig2z9z.net
しかし、スプラフォンとグラモフォンとでは録音スタイルに違いがあり
ノイマン旧盤は木質の響きを美しくとらえた上品さが優位にたち
クーベリック盤はより都会的に洗練された透明感の高いものである。
この違いは、いわゆるジャーナリスティックな演奏会評への顔向けの差であり
クーベリックがベルリンやウィーンのような華やかな社交界と対抗する必然性があるのに
ノイマン旧盤は急がずじっくり全集に挑んだ丁寧な雰囲気を伝える。
どちらもまだ冷戦末期のことでもあり、そうした表向きの顔は違いがあるものの
ノイマンにしろクーベリックにしろ、今は政治体制など気にせずワインを酌み交わしていることだろう。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 07:51:30.49 ID:LehP4+dx.net
最近のレコード屋(CDショップ)でのクラシック音楽コーナーは瀕死状態だ。
国内盤のベスト100が居並ぶだけの様子をみると
いまどき、どれだけの初心者が買いに来るのか? と疑わざるをえない。

特にレーベルの合併・吸収の激しい昨今において
ベスト100の枠もますます狭くなって、デッカ、グラモフォン、フィリップスで
どれが最高か選べという、凄く残酷なことが行われている。
もはや定番という言葉はなく、全て限定盤に近い扱いで
それを買い逃すと10年間は出番が失われるものも少なくない。
何かビルボード・チャートでも眺めているようで
おおよそクラシック(古典的な芸術観)という価値観にそぐわないのだ。

その一方で、本国のほうはどうかというと
オリジナルのアルバム構成をいじらず出版し続けるという
アーカイヴとしての保存という意識を強く感じる。
ミケランジェリの映像&子供の領分などオリジナル・カップリングで存在するし
ポリーニの夜想曲も抜粋なしの2枚組で単売している。

もっとも、どちらも録音全集というかたちで、効率的に購入できるので
単品のアルバムをじっくり味わう意義は薄れていくのかもしれない。
フィルクスニー晩年のヤナーチェク・アルバムを買おうと思ったら
合併と全集化の煽りを喰って廃盤になっていた。何とも惜しい感じだ。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:19:22 ID:LehP4+dx.net
再販モノのベスト100の価格は、1500〜1800円とミドルプライスだが
輸入盤での全集物など、まとめて買うと500円/枚以下になるので
単売であることの意味がしっかりしていないと難しい。

もうひとつはCDで高音質というのがもう魅力がなくなっており
ポータブルプレイヤーで聞けず、ちゃんとしたステレオを持つ人の買い物でもない
どうにも初心者の状況を、あまり呑み込めていないように思うのだ。

さりとて、MP3相当のストリーム音源は、音質の劣化があまりにひどい。
あくまでも買う前に楽曲や演奏を確かめるためのものと割り切ってる。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 20:33:49 ID:LehP4+dx.net
新しくベルリンフィルの監督に選ばれたキリル・ペトレンコの
ヨゼフ・スークの管弦楽曲集などは、CPOらしいマニアックな選曲ながら
お祝い価格という感じで、思わず嬉しさがこみあげてくる。

アスラエル交響曲や人生の実りなどは、初演者のターリッヒの録音が
モノラルながら決定盤のようになっていて、ようやく20世紀末になって
チェコの指揮者が少しずつリリースするようになった感じだが
同時代のヤナーチェクなどと比べると、どうしてもマイナーな扱いになりやすい。

ペトレンコはそうした文脈もなく、ひたすら楽曲へのオマージュを抱きつつ
マイナーオケを率いて強い信念をもって演奏している様子が判って
しかも3枚組で1枚と同じ価格で売られるというオマケまでついてくる。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/06(水) 21:26:48 ID:LehP4+dx.net
フィルクスニー3度目のヤナーチェクが入手しづらくなったので
1905年ソナタの入ってるアルバムを捜してみると
あるはあるは、こんなに愛されてた曲だったのかと驚いた。

そのなかで気になったのが、ヤン・バルトシュというチェコ出身の人で
海外レーベルに人材流出の激しいスプラフォンでの期待の若手による
久々の新録音というのも手伝って、思わずポチってしまった。

ジャケ絵がまた渋く、ボヘミアの森をさすらう感じがあって
これだけで何を希求してヤナーチェクを取り上げたのか感じ取ることができそうだ。
木こりのおじさんがピアノで愛奏曲を披露しますという風情で
それがたまたまヤナーチェクだった、そういう自然体の雰囲気で包まれる。

これがECMレーベルだったら、あんまり興味をもたなかったかもしれず
自分のへそ曲がり具合も堂に入ったものだとつくづく感心した次第。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 06:36:24.60 ID:ai/RigxQ.net
CDが高音質というと、疑問に思う人も多いだろう。
ランダムなデジタルノイズが20kHz周辺に溜まり込んで
硬質でザラザラした感じになりやすい。

この帯域の再生能力が曖昧な真空管アンプが好まれたり
パルス波を通しにくくしたCDライントランスが流行ったりと
様々なことが行われているが、一向に解決する兆しがない。

一方で、スピーカーがCD対応ということで10kHz以上の反応を鋭敏にしたり
アンプも鮮度を落とさないようイコライザーを装備しないなど片意地を張って
場合によってはプリアンプを抜きにしてボリュームのみという構成もある。
足並みが揃っていない以上、それなりに対策をとる必要があるのだ。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/07(木) 20:38:27 ID:ai/RigxQ.net
CDの開発時にどういう試聴環境にあったかを考えたとき
基本的にはアナログ機器に取り囲まれた状態だったと思っていいだろう。
それはRIAA、FM波、Dolbyなど、全ての音源がエンファシスをかけており
入力できる信号のダイナミックレンジが周波数によって異なっていた。

そのため、パッケージされた後の音源に関しては
高域はそのほど大入力を気にせずに済んだし
むしろ繊細さのほうが求められていたともいえる。

CD発売時に重低音から超高域まで
同じダイナミックレンジで再生できるようなスピーカーは
当時は想定していなかったと考えていいだろう。
ところが、CDに関する下馬評のほうが先行して
「デジタル対応」とうたったオーディオ機器が氾濫し
むしろ両翼の伸びを強調した音調が目立つようになった。

今更ながら思うのだが、スペックとしては1970年代のほうが
音質として聴きやすかったのではないだろうか?

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 08:30:38 ID:ZQL4jhaW.net
1970年代の録音品質のほうがリーズナブルだと思えるのは
オーディオ機器のスペックが、それ以上のものをなかなか造れないでいるからだ。

むしろそれに見合ったリスニングルームを構築できない人が多いのではないだろうか。
いまどき16cmウーハーでも50Hzまで伸ばすのは容易だが
38cmのレスポンスの速さと比べると、ただボーっと突っ立っているだけの低音だ。
しかし38cmのエネルギーを受け止める部屋がない以上、縮小サイズに収めるしかない。

こうしたことにアナログ盤はどう対処しているかというと
80〜200Hz付近を少し持ち上げて、低音の量感を上げる手立てをしている。
あるいはイコライザーアンプのRIAA補正で中高域を2〜3dBだけ気持ち膨らませる。
これでふくよかさ、艶やかさのコントロールをしているのだが
CD再生の場合はこれを禁じ手として扱っている。なぜだろうか?
デジタル録音が正確無比だと思ってるからだ。ただ実際にはそうではない。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/09(土) 09:01:02.51 ID:ZQL4jhaW.net
1990年代にBOSEのスピーカーが流行った時期が合って
ピュアオーディオの立場からは、音が正確ではないと叩かれまくったが
デジタル録音になってから失われたふくよかな低音を家庭用に巧く取り入れていたし
コーン紙で統一した神経過敏にならない音色も、デジタル臭さを救っていた。

同じような感覚は蘭フィリップスの録音にも感じていて
おそらく低音のスレンダーなESLでモニターしていたた時期が長かったためと思える。
タンノイでのモニターが長かった英デッカと比べると違いは明らかだが
日本のキングレコードからリリースされたロンドンレーベルの音は
同じテープから起こしたとは思えないほど暖色系の音だった。

おそらく真空管アンプが好まれる背景には、両翼帯域のボカシがある。
こうした家庭用に聞きやすい音調にまとめあげるには
ピュアではない音色のコントロールが必要な気がするのだ。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/11(月) 05:39:00 ID:ujrK9J7N.net
BBC LS3/5aの低音量が最適だとする例ととして
ルームエコーによる低音の被りが存在する。
通常のスペックで表されるのは以下の通りだが
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG4.jpg
部屋での測定例は60Hzくらいまでフラットに持ち上がっている。
ttps://www.stereophile.com/images/archivesart/R35FIG2.jpg

実際に1970年代のブックシェルフ・スピーカーの置き方は
本棚に入れて低音のバッフル面の反射を模擬することも
ビギナー向けのオーディオ誌で推奨されていた。
また、壁に近づけて置くというのは、ステレオの普通の置き方だった。
これだと音が濁ってしまうというのは、デジタル以降の見解である。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 06:34:52.24 ID:RWhfN/ao.net
1970年代のクラシック録音は、1970年代のオーディオ技術を遥かに凌駕していた。
そう思えるのは、むしろデジタル技術で分析されたオーディオ機器が
ようやく一巡して落ち着いていくに従い、むしろ作品を聴きやすい適度なレンジ感
ダイナミックレンジの設定が板に付いてきたためだと思う。

思うにこうした聴きやすさをもたらす考え方は、ATRACやMPEGのような
音声圧縮アルゴリズムに沿っているような気もする。
適度な間引きの考え方が、音楽のエッセンスをはじき出す仕組みだが
実際はオーディオ機器もHi-Fiらしさの強調されたものが氾濫しており
デザインの仕上げに関わる感性は、人間の聴覚と深く結びついている。

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:09:10 ID:RWhfN/ao.net
オーディオの基本が、人間の聴覚や感性に結びついているというのは
ヴァーチャル音響をヘッドホンで聴く際に起こる個人差を調べるうちに浮上したもので
昔は音響心理学などと呼ばれた諸現象の応用でもある。

ラウドネス曲線はその最も古典的なものだが、ポップスの録音はこれに準じている。
JBLの顧問でデロスレコードを主催しているアーグル氏は録音技術の教科書で
トーンキャラクターの効果について興味深い指摘をしており
マルチ録音での効果的なイコライジングの応用を促している。
一方で、イコライザーの弊害として生じる位相の乱れについては
まだ認識していなかったようにも思える。
それはそのままJBL4300シリーズにおける定位感の曖昧さに結びついている。

カクテルパーティー効果、マスキング効果は、定位感の向上に役立っているが
1970〜80年代はインパルス応答のスレンダーなものが希求されたため
音質として辛口のものが増える結果となった。
これが結果的にデジタル録音と同義の音質として知られるようになったのだが
マイクロ秒の僅かのパルス波にひそむ位相の乱れに言及したステップ応答は
なかなかその違いが認知されない特性となっている。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:28:58.24 ID:RWhfN/ao.net
録音における音響デザインに最も影響のあるのがマイクの特性で
例えばノイマン製の大型ダイヤフラム・コンデンサーマイクは
1930年代からそれほど変わらない特性を維持しており
Hi-Fiらしい音の王道を保ち続けている。
ファットな低域と艶やかな高域、高い音圧へのタフな追従性など
その特質をそのままスピーカーまでもっていけば立派な音響に仕上がる。

一方で、ノイマン製のマイクのもつ王道的なものは
例えばスタインウェイのピアノがそうであるように
音楽表現の制限につながることになる。
AKGやSchoepsのマイクが、高域のクリアネスの点で選ばれたり
もっと特徴の薄いDPA(B&K)がサウンドステージ形成のために選ばれたりと
その辺はかなり自由度が増えたが、やはり王道は崩れないように感じる。
おそらく最初にデザインされたノイマン氏の音響特性が
製品の品質の高さ以上の、決定的な感性の良さをもっていたからと思う。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:44:37 ID:RWhfN/ao.net
アナログ録音にあってデジタルにないものの代表例として
高次歪みとチャンネルセパレーションがある。

アナログはパルス波を通すと、その非直線性によりオーバーシュートを起こすが
固有のザラザラ、キラキラ感を音質に残すことになる。
これは楽器における倍音と同様のもので、JBLやAltecが金管楽器を得意とし
タンノイやハーベスが弦楽器を得意とするような感じに出てくる。
ところがデジタル録音は、すでに各帯域との関係性を寸断してしまっているので
互いの音域が干渉するようなことは起きないし、音に滲みや濁りがない。
まったく不純物のない炭酸水のように味気ないのだ。
かわりにデジタルフィルターの上限値(CDだと20kHz近傍)に大量の量子化歪みが累積する。
これが非常に耳ざわりで、トゲトゲしさ、ザラつきにつながる。

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 07:50:43 ID:RWhfN/ao.net
最近になって真空管アンプが造り続けられているのは
真空管やトランスが出す高次歪みが、デジタルの味気無さをカバーするからだ。
量子化ノイズをうまくフィルタリングしながら、自身の高次倍音で埋めてしまう。
高次倍音は、楽音と連動しているので、より音楽的なエッセンスが抽出できる。
そのバーダー取引として、定位感の曖昧さ、楽音のキャラクターが付き纏う。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/12(火) 19:52:39 ID:RWhfN/ao.net
デジタルになって厳密になったのはチャンネルセパレーションで
ほぼ完全に左右の信号が分離している。
45-45方式のLPはおろか、テープでさえもこれほどの性能はない。
このためステレオでの定位感を精緻に出せるようになったが
オケの一体性というか、左右の音の溶け合いというものが後退して
かつてほどリラックスした感じで得られなくなった。
どちらかというと、生真面目な人にじっと見つめられているような
何かの緊張感がずっとただよっていることになる。

またスピーカーのインパルス特性の向上で定位感がかなり良くなった反面
マルチ収録された、かつての名演が継ぎはぎだらけに聞こえたり
何とも困った感じのことも時折おきる。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:34:26 ID:yiNmlmzm.net
1970年代にクラシック録音におけるサウンドステージの理論が確立されたが
定位感をもたらす要となる高域特性は、録音側での曖昧さとのバランスで成り立っていた。
BBCの検証したFM放送は、三角ノイズが足かせとなって、やや霞掛かっていて
そのためにインパルス応答を鋭くすることで対処しようとした。
LP、カセットテープもチャンネルセパレーションは30〜40dB程度にとどまり
それ以下の信号はアナログミキサーのフロアノイズに埋もれると理解されていた。
これが当時のマルチ録音の限界だったと考えていい。

こうした曖昧無垢な録音品質は1970年代後半から80年代前半まで続くが
ちょうどCDの発売を挟むかたちの過度的なものとして扱われているものの
意外にもこの時期の録音は、音に潤いや暖かみがあって聴きやすい。
この辺りが録音品質を家庭用にいい加減に収める範囲だったように思う。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 05:58:05 ID:yiNmlmzm.net
スピーカーのインパルス応答を鋭くするという手法は
定位感を良くする意味で、ツイーターの設計において重要なものとなるが
その一方でパルス波の位相の乱れまで考慮したステップ応答は
コンピューターでの解析が可能になったのが1988年頃からである。
今でもステップ応答を綺麗なライトシェイプで画けるスピーカーは希少で
古くからQUAD ESLがあったものの、他にTHIEL、Vandelsteenなどしかない。

むしろ帯域別に役割分担をさせてサウンドステージを構築するのが効率的だが
ツイーターのパルス波の指令にぶら下がるように点在する楽器の音色は
なにか魂が抜けた操り人形のように感じるときがある。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/18(月) 06:16:21.25 ID:yiNmlmzm.net
この帯域に一番敏感なのはバイオリンで
オーケストラの弦としては明瞭さが際立つ反面
ソロの音色は端正に演奏するだけでは物足りなくなって
クレーメルやデュメイ、ムターのようなアグレッシブな演奏が好まれる。

チェリストは受難の時期と言って良く、マイスキー、ヨーヨー・マなどは
晩年のカザルスのように隠遁者のようなアルバムを問い続けている。
人間の肉声に近いこの楽器で、語り合いたいものとは何だろうか?

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 06:36:40 ID:kjjvXzWl.net
チャイコフスキー「ある偉大な芸術家の思い出のために」で
クレーメル、アルゲリッチ、マイスキーがトリオを組んだ。
1998年に東京でのライブ収録という話題性もあったが
この楽曲の協奏曲的性格を炙りだした熱演でもある。

その後に2009〜2010年にマイスキーとクレーメルはそれぞれ
同曲を若手と組んで吹き込んでいるが
そこでのコンセプトの違い、やり残したことの意味を考えると
色々と興味深い。けして柳の下のどじょうではない。

カプリング曲の妙とも言えるが、ショスタコ、ラフマニノフ、キッシンと
前座に置いた作品がアルバムの性格に色を添えている。

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:19:28.69 ID:kjjvXzWl.net
器楽曲に墓標、追悼の意味をもたせる楽曲は
古くはフランスのリュート組曲において性格付けられたが
ベートーヴェンの英雄、ブルックナーの第七など
交響曲での緩徐楽章で用いられたものもある。

ただ後期ロマン派における追悼曲の多さはやや異常で
マーラーの交響曲のライトモチーフのようなものとなるほか
チャイコ「偉大な芸術家」、ヤナーチェク「1915ソナタ」など
ある時代の終焉を意識したような題材が多い。
ベックリン「死の島」、J.E.ミレー「オフィーリアの死」など
時代に流れていたペシミズムの空気を感じ取ることもできよう。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:37:34 ID:kjjvXzWl.net
この手の曲の演奏は、ただ巧い、名演だと誉めるのに抵抗がある。
死を通じて人生の意味を問い掛けるという機会はそう滅多にない。
本当の意味での表現力がないと、間が持たないというのはあるが
それをコンサートで繰り返し行うのだから、やはり尋常ではない。

ただレクイエム=安息ということで終始するのではなく
生きるということに真剣に向き合うという意味では
後期ロマン派の追悼ムードは、バイタリティがないと務まらない感じもする。
実際、有り余るバイタリティを背景にもった演奏家のほうが
緩徐楽章の抑えた表情の重みがより一層深みを増すのだ。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/19(火) 07:47:50.76 ID:kjjvXzWl.net
オーディオの場合は、緩徐楽章の表情をデフォルメしてやらないと
どうにも上手く再生できないきらいがある。
顔の彫りの深いほうが、陰影を映しやすいというのと似ていて
録音にハイライト、ぼかしをきっちり掛けてあげないと、繊細さが生きてこない。

アナログ盤のほうが、ピアニッシモの表情が豊かだと感じるのは
おそらくカッティングレベルの設定も含め、この手の演出が巧かったと思う。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 06:47:06 ID:XhX7S3da.net
オペラにおける主人公の非業の死は、19世紀の大衆が好むテーマで
トリスタン、ヴィオレッタ、カルメンと、その劇的な死は見せ場となり
そうならないのがオペレッタと言ってもいいくらいかもしれない。

反して器楽曲の死のテーマが、沈黙とのせめぎ合いになるのは
言葉のない音楽だから、その性格を際立たせる必要からだろうか?

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/20(水) 07:53:15 ID:XhX7S3da.net
サティが「家具の音楽」という楽曲を発表したが
実はその楽曲そのものはあまり聞かれない。
ジムノペティのような室内向けの静謐な曲想ではなく
小管弦楽団で曲想のない繰り返しで埋め尽くす
ナンセンスな作曲作業と演奏形態を目論んでいる。
とはいえ、サティの作風は初期からそれほど変化せず
自分の作曲の特徴に気付いていたとも受け取れる。

1980年代のアンビエントやミニマリズムで再度注目され
音のデザインを楽しもうという感じになった。
イーノの環境音楽は、空港でのBGMを標題にしているが
A面B面を意識した造りはLPアルバムそのものであり
レコードを裏返す行為を、何かのタイミングと思っていたのか。
それ以前にはMUZAKのエレベーター音楽があり
15分テープをエンドレス再生する装置と一緒に契約していた。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 05:48:58.08 ID:dThEUuS3.net
オーディオがもともと室内での音楽鑑賞だとすると
本来流れているのは室内楽、器楽曲である。
しかし、ピアノやバイオリンを実物大で鳴らし切るのは相当にハードルが高い。
サウンドステージのような臨場感で遠目にフォーカスして
何とかお茶を濁しているのがほとんどだ。

そういう耳で聴くと、1960年代以前の録音が
楽曲の特徴をデフォルメして収録していることが判る。
イギリスだって1960年代前半まで不景気が続いて
SP盤を大切に聴き続けていたのだ。
今のような味の薄いステレオ録音を聴くと
ムードミュージックと思われても仕方ない。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 06:35:00 ID:dThEUuS3.net
例えば、1960前後のステレオ録音では、小編成のオケ録音も多く
ワルター/コロンビア響、クレンペラー&カラヤン/フィルハーモニア菅など機能的な一方で
フルオケで収録したビーチャム、コンヴィチュニーなどは、やや大味な印象を受ける。
ウィーン、ベルリンは指揮者に恵まれていないというのが正直なところだ。

あるいはこの時期のオーマンディ/フィラデルフィア管、ミュンシュ/ボストン響
ライナー/シカゴ響、セル/クリーブランド管などの録音を選ぼうとしても
どうしても後の世代のショルティ、バースタインなどと比較してしまう。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/21(木) 07:13:28.24 ID:dThEUuS3.net
1960年前後に焦点を当てたオーディオシステムは
その頃のリファレンスの情報が乏しく選定に苦慮する。
オートグラフ、オイロダイン、ジョージアン、インペリアルと
青天井のスピーカーを見上げるだけで溜息が出るだけ。
アンプは安定度の良いクォード、マランツのビンテージ物
カートリッジだけオルトフォンが生き残っているだけ。

加えて盤質の問題があって
1970年代のペラペラ再発盤では分が悪い。
さらにCDになると、カセットから起こしたのか?
そう思える安物が横行したのが命取りとなった。

初期ステレオのオーディオ環境はすでに廃墟となっている。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 06:30:08.33 ID:TkO3cs+G.net
RCAのリビングステレオには3chのオリジナルテープがあって
これは映画館で使われたセンターチャンネル付のフォーマットだ。
アルテックのスタジオ機材カタログにも3chでのモニターが多く載っている。
ttp://www.lansingheritage.org/html/altec/catalogs/1963-pro.htm
おそらくオルソン博士がホールでのレコードコンサートを目論んで
このフォーマットを選んだと思われる。

フランク・シナトラの自宅には3chのオーディオセットが見られるが
スタジオのリール・トゥ・リールのテープを楽しめるようにしたのだろう。
ttps://pbs.twimg.com/media/Bzhd6jECYAAjDZ4.jpg
部屋の壁一面に展開する臨場感はここから来ている。

ちなみにRCAのモニターシステムLC-1Aは
オルソン博士の晩年の名作で、家庭用にも使いやすいものだ。
ttp://www.itishifi.com/2011/02/rca-lc-1a.html
ただし、その凝った造りと交換部品なしの小ロット品で
この辺が流通量の多いアルテックのユニットとは異なる。

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:10:08.99 ID:TkO3cs+G.net
日本ではアルテックのシステムは、バイタリティに溢れたジャズの権化のように言われるが
アメリカの録音スタジオでは、プレバック・システムとして演奏の良し悪しを判断する
生音を実寸大で再生するものとして使われた。
例えばグールドは演奏の出来不出来を細かくチェックするタイプで
アルテックのシステムの前で熊のようにウロウロする姿がみられる。
ttps://www.youtube.com/watch?v=g0MZrnuSGGg
またオーケストラ録音も可能な教会堂を改築した30番街スタジオでも使用された。
ttps://payload.cargocollective.com/1/7/236959/5409068/30th-St-Studio-C.jpg
ttps://www.morrisonhotelgallery.com/images/medium/10086-LBE-ICON-flat.jpg
ttp://www.reevesaudio.com/reevesimagesnds/110-StudoCConsole.jpg

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:39:46 ID:TkO3cs+G.net
一般家庭向きの大型システムは
エレクトロボイス、ジェンセンの両翼が当時の最高級品だった。
JBL 4340シリーズを彷彿させるタンス型スピーカーの元祖である。
ttp://www.hifilit.com/Electro-Voice/patricianIV-1.jpg
ttp://www.hifilit.com/Jensen/1955-3.jpg
いずれもモノラル時代の設計のため、コーナーホーン型のキャビネットだが
ステレオ期には部屋での置き方が問題になったこともあり
なかなかお目に掛かれないものである。(以下のP.49)
ttps://www.pearl-hifi.com/06_Lit_Archive/02_PEARL_Arch/Vol_16/Sec_53/Hi-Fi_Stereo_Review/1962-12-hifi-stereo-review-no-cover.pdf
15〜18インチのウーハーと言っても、当時はコーン紙をダイレクトに震わすタイプで
大きな部屋とコンディションさえ良ければ、風のような軽い低音が聞ける。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2019/11/22(金) 07:53:04 ID:TkO3cs+G.net
現在も製造中で手に入るオールド・アメリカンなスピーカーは
ジェンセン G-610の復刻版とクリプッシュホーンである。
ttp://www.utopianet.co.jp/product/import.html
ttps://www.klipsch.com/products/klipschorn
これにタンノイのWestminster、ヴァイタヴォックスを加えれば
1960年代の初期ステレオの凄さを満喫できるだろう。
ttps://www.esoteric.jp/jp/product/westminster_royal_gr/top
ttp://www.imaico.co.jp/vitavox/

しかし、先立つお金も、これを置く部屋もない。これが現実である。

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