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モンゴルはいかに世界を変えたのか

1 :世界@名無史さん:2012/02/03(金) 11:49:51.01 0.net
語れ。

299 :世界@名無史さん:2012/06/19(火) 22:12:31.35 P.net
>>298
土に凝固剤を混ぜて固めるセメント版築は雨に弱いから
江南の大都市や開封は明代長城と同じく煉瓦造り

300 :世界@名無史さん:2012/06/19(火) 22:14:11.79 0.net
アッティラ率いるフン軍がヨーロッパの諸都市を陥落させたのを見ると
モンゴル軍の脅威はヨーロッパの城壁ではなく風土病かもしれない


301 :世界@名無史さん:2012/06/19(火) 22:35:24.56 P.net
>>297
その話に続きは無いよ
回想録にはその2つの話やその他のフランク人の野蛮な習俗は書かれてるが
フランク人の医者が治療する話は出て来ない
捏造か他の記録をムンキズの名に改竄して作ったか、何にしても虚偽情報。

302 :世界@名無史さん:2012/06/19(火) 22:48:59.99 0.net
>296
西欧の城壁は硬かったということですか。
今までのようには簡単にいかないという・・・
時のローマ教皇に、脅しの手紙を送ったという話が
あるらしいけど、本当でしょうか。
しかし、当時の欧州に、バトゥの本隊を退ける力は、正直なかったでしょうね。。。

303 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 00:06:57.95 0.net
>>301
回想録の英訳がここで読めるが、ちゃんと両方載っている。
Usmah Ibn Munqidh (1095-1188): Autobiography, excerpts on the Franks
ttp://www.fordham.edu/halsall/source/usamah2.html

304 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 00:13:56.44 0.net
The lord of al-Munaytirah wrote to my uncle asking him to dispatch a physician to treat certain sick persons among his people. My uncle sent him a Christian physician named Thabit.
Thabit was absent but ten days when be returned. So we said to him, "How quickly has thou healed thy patients!" He said:

They brought before me a knight in whose leg an abscess had grown; and a woman afflicted with imbecility. To the knight I applied a small poultice until the abscess opened and became well;
and the woman I put on diet and made her humor wet. Then a Frankish physician came to them and said, "This man knows nothing about treating them." He then said to the knight, "Which wouldst thou prefer,
living with one leg or dying with two?" The latter replied, "Living with one leg." The physician said, "Bring me a strong knight and a sharp ax." A knight came with the ax. And I was standing by.
Then the physician laid the leg of the patient on a block of wood and bade the knight strike his leg with the ax and chop it off at one blow. Accordingly he struck it-while I was looking on-one blow,
but the leg was not severed. He dealt another blow, upon which the marrow of the leg flowed out and the patient died on the spot. He then examined the woman and said, "This is a woman in whose head
there is a devil which has possessed her. Shave off her hair." Accordingly they shaved it off and the woman began once more to cat their ordinary diet-garlic and mustard. Her imbecility took a turn for the worse.
The physician then said, "The devil has penetrated through her head." He therefore took a razor, made a deep cruciform incision on it, peeled off the skin at the middle of the incision until the bone of the skull
was exposed and rubbed it with salt. The woman also expired instantly. Thereupon I asked them whether my services were needed any longer, and when they replied in the negative I returned home,
having learned of their medicine what I knew not before.

305 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 00:15:55.62 0.net
I have, however, witnessed a case of their medicine which was quite different from that.

The king of the Franks bad for treasurer a knight named Bernard, who (may Allah's curse be upon him!) was one of the most accursed and wicked among the Franks.
A horse kicked him in the leg, which was subsequently infected and which opened in fourteen different places. Every time one of these cuts would close in one place, another would open in ancther place.
All this happened while I was praying for his perdition. Then came to him a Frankish physician and removed from the leg all the ointments which were on it and began to wasb it with very strong vinegar.
By this treatment all the cuts were healed and the man became well again. He was up again like a devil.
Another case illustrating their curious medicine is the following: In Shayzar we had an artisan named abu-al-Fath, who had a boy whose neck was afflicted with scrofula.
Every time a part of it would close, another part would open. This man happened to go to Antioch on business of his, accompanied by his son. A Frank noticed the boy and asked his father about him.
Abu-al-Fath replied, "This is my son." The Frank said to him, 'Wilt thou swear by thy religion that if I prescribe to you a medicine which will cure thy boy, thou wilt charge nobody fees for prescribing it thyself?
In that case, I shall prescribe to you a medicine which will cure the boy." The man took the oath and the Frank said:

306 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 00:17:28.15 0.net
Take uncrushed leaves of glasswort, burn them, then soak the ashes in olive oil and sharp vinegar. Treat the scrofula with them until the spot on which it is growing is eaten up.
Then take burnt lead, soak it in ghee butter and treat him with it. That will cure him.

The father treated the boy accordingly, and the boy was cured. The sores closed and the boy returned to his normal condition of health.

I have myself treated with this medicine many who were afflicted with such disease, and the treatment was successful in removing the cause of the complaint.

307 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 02:49:57.89 0.net
>>286
中国の城塞はレンガじゃなくて版築だよ
安くて簡単、強度も煉瓦作りより上
メンテに手が掛かるものの土を使ってるから破城兵器にも強い

308 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 07:08:00.99 P.net
城の防御力なんて個別に検証しないと素材だけで単純に測れるものじゃないだろ
モンゴル軍は現地調達に頼っていたから、戦略的重要度の低い城が激しく抵抗するとわりとあっさり諦める
モンゴル側から見れば放置しただけでも、攻め込まれた側は「モンゴル軍を撃退した」ってなるわけで

309 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 14:41:39.66 0.net
日本やベトナム、インドネシアなんかは損害出たら諦めたけど
南宋に関してはあらゆる損害を度外視して落としたからな

310 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 14:42:49.36 0.net
その辺は距離の遠近もあるでしょ

311 :世界@名無史さん:2012/06/20(水) 15:51:16.21 0.net
>>310
西ヨーロッパもまさに遠いだけで旨味がないと判断されるんじゃね
バクダットはどんな損害出しても落としたけど、ダマスカスは一回撃退された
だけで諦めてたりするし

312 :世界@名無史さん:2012/06/21(木) 00:41:09.39 0.net
開封府は北宋朝の頃から三重の煉瓦覆いで堅牢な高い城壁に
包まれていたというけど、60年ばかり金の首都だった中都燕京は
どうだったんだろ? 以前から遼の副首都・燕雲十六州の要衝
だったんだから、そっちも相当に強固な防衛施設が整えられてた
と思うけど。モンゴルの脅威が顕在化してからは特に。

313 :世界@名無史さん:2012/06/21(木) 02:01:37.04 P.net
北京は開封と違って降水量少ないからなあ
宋代絵図見た限り宮城は煉瓦だけど外城は多分版築。
開封の城壁は低いよ、同じ煉瓦造りの平江府より低いし

314 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 04:31:51.59 0.net
いわゆる俗説モンゴルと

モンゴル史じゃまったく違うからな。

モンゴル前までの各種遊牧部族の歴史
モンゴル崩壊と、ロシアの台頭

にわかれるんだろうけど、モンゴル以降の歴史もだいぶ違うよな。

315 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 04:36:05.35 0.net
いわゆる俗説モンゴルと

モンゴル史じゃまったく違うからな。

モンゴル前までの各種遊牧部族の歴史
モンゴル崩壊と、ロシアの台頭

にわかれるんだろうけど、モンゴル以降の歴史もだいぶ違うよな。

316 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 04:36:43.04 0.net
そして一般的なモンゴルってのはむしろ衰退期のほうが領土大きいから有名。

同時にモンゴルの歴史は金融しでもある。

317 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 09:38:52.90 0.net
>同時にモンゴルの歴史は金融しでもある。

?

318 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 10:13:35.68 0.net
モンゴロイドが史上最強の帝国を築いたという事実

319 :世界@名無史さん:2012/06/24(日) 23:12:26.50 0.net
世界史はモンゴル帝国からはじまる

モンゴルと手を組んだイスラム商人が世界金融を扱うテクニークの基礎をつくった

それを模倣したのがイタリア商人たちであり、それをさらに発展させたのが
ユダヤ人だな。←いまここ



320 :世界@名無史さん:2012/06/27(水) 01:09:49.32 0.net
とりあえずコンギラッド族とやらの写真かなんか見てみたいな〜
まだその部族が残ってればの話だが
聞くところによるとかなりの美女揃いとのこと

321 :世界@名無史さん:2012/06/30(土) 23:36:02.14 0.net
>>319 ペルシャ、マケドニア、漢とローマ、唐とイスラムの時代じゃないの?
最初の世界帝国はペルシャ 世界史はイランからはじまる

322 :世界@名無史さん:2012/07/06(金) 01:13:38.00 0.net
最初の世界帝国はアッシリア。

323 :世界@名無史さん:2012/07/06(金) 01:34:39.31 0.net
世界最初の帝国はサルゴンのアッカド帝国。

324 :世界@名無史さん:2012/07/13(金) 23:52:55.73 0.net
蒙古軍はドイツ兵を恐れていた
ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城
Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ
崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は
オーストリア に侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。
この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の
ように叙述している。

一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを
なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は
五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの
一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10)

このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに
恐れをなしていたと記している。
たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット
の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と
二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、
ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを
以て退却したり。(「蒙古史」)
 今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61



325 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 06:10:45.91 0.net
フン>ゲルマン>モンゴル土人

326 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 07:36:49.13 0.net
モンゴルに従属するネフスキー公にフルボッコされたドイツ騎士団について


327 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 11:46:53.57 0.net
だいたい、モンゴルの脅威ってバトゥの征西軍だけじゃない。
キプチャク汗国そのものが脅威だったはずだ。
ロシアなどはモンゴルの属国を200年も続けていたんだから
でもドイツ騎士団などにはモンゴルの脅威は全く感じられないし、
ポーランドやハンガリーでは国土防衛を目的としてドイツ人を殖民
させている。
また、バトゥは折角占領したハンガリーやポーランドに兵力の一部を駐留も
させず、全軍で撤退している。
これなんかも「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を裏付ける。

328 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 15:17:12.10 0.net
ポーランドやリトアニアが度々タタールに援軍を依頼して
ドイツ騎士団を撃破したことについて



329 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 17:16:24.57 0.net
それって、結局ポーランドやリトアニアがタタールと組んでようやく
ドイツ騎士団に買ったってことだろ。
ポーランドやリトアニアはもちろんタタールでさえも単独でドイツ騎士団
に勝てたかわかんねえじゃん。

330 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 17:37:42.00 0.net
ワールシュタットで連合組んだ上でモンゴルにボロ負けしてるのに何を

331 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 17:54:17.95 O.net
しかし300年後には立場が逆転してモンゴルはあらかたロシアに滅ぼされた

332 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:03:10.52 0.net
>>330
1241年4月に世に言うワールシュタットの戦いが行われたリーグニッツって
当時のポーランドのドイツ国境付近なんだよ。
この戦いの敗北によりポーランドの組織的抵抗は事実上おわったんだ。
オゴタイハーンの崩御をきっつかけとしてモンゴル軍が全軍撤退した
のは1242年3月ごろである、これはワールシュタットの戦いがドイツと国境
付近で行われてから10ヶ月以上たっている。
ポーランドもハンガリーも蹂躙したモンゴルがなぜドイツを蹂躙できなかったか
を考えれば、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。


333 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:11:24.97 0.net
平原地帯ではポーランド王国軍もドイツ騎士団もフルボッコ出来ても森林地帯になると
モンゴルの騎兵は無力化される。オーストリア方面でも限界が出ている。
ドイツ人の武勇が脅威だったというよりハンガリー・ポーランド以西の
地勢がモンゴル騎兵にとって不利だったのだろう



334 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:12:41.47 0.net
シュッツェンフェスト (Schützenfest 射撃祭)
 もともと狩猟民族であったドイツ。夏の間週末は必ずどこかで
シュッツェンフェストが開かれている。 
それぞれの地区の射撃協会メンバーが集まって射撃の技を競い合う
お祭りはすでに13世紀ころには始まっていたようである。
http://www.jap.pianokoshino.de/sub4.html

これなんかも、意外とモンゴルの襲撃から都市を防衛した過去の
教訓に基づいてるのかもしれない。




335 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:20:53.31 0.net
モンゴル史に詳しければ知っていると思うがオゴダイ崩御後は後継者問題が再燃焼
一時は内戦発展が危ぶまれたほどで遠征軍の貴弟、貴子からすれば
ジョチ家の領土拡大戦争なんてもんに参加するよりかはよっぽど重大な問題が本拠地で待ち構えてたわけで
いたずらに戦役を拡大したところで利点がないんだよね
10ヶ月てのはそういう連中に対してバトゥが粘りに粘った結果だろう、バトゥ本人はクリルタイの参加する気はないみたいだし
実際崩御がなけりゃドイツ突入しててもおかしくはない

336 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:25:58.36 0.net
ドイツ人によるトランシルヴァニア植民は、ハンガリー王ゲーザ2世
(1141年-1162年)によって始められた。
10年間の、ドイツ人移住者の主な義務はハンガリー王国の南東部国境
地帯の防衛をすることだった。植民は13世紀終盤まで続けられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E4%BA%BA

337 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:40:59.14 0.net
派遣軍の総大将バトゥはモンゴルに帰らず
ジョチ・ウルス(キプチャックハン国)を建国し
ルーシ各国を支配(タタールのくびき)してたんだが。
ポーランドに対しても1259年、1286年、1287年と3回も
侵攻しながらもポーランドを征服できなかった。
とくに1287年の侵攻はジョチ・ウルス(キプチャックハン国)
第8代宗主トゥラ・ブカによる親征だったが撃退され、
それ以後2度とポーランドへの侵攻を行わなかった。






338 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 18:42:27.06 0.net
13世紀前半に起こったモンゴルのポーランド侵攻もドイツ人の東方植民
を後押しした。
ピャスト朝の流れを汲むポーランド諸侯の分裂と戦乱、幾度ものモンゴル
侵攻や住民の拉致もあり、ポーランド西部の公国群は13世紀には急速に
衰退した。
荒廃したシレジア地方の復興に際しては、ポーランド人だけでは人手が
足りず、西方からの農民たちを招いたが、フランス人やオランダ人より
もドイツ人が大きな割合を占めた。
その結果、シレジアは急速にドイツ化してゆく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91



339 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 19:04:06.93 0.net
そもそも当時のドイツにネフスキーに勝る勇将がいたのか


340 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 19:16:11.44 0.net
戦争の勝敗は指揮官の優劣だけでは決まらない。
軍を構成する兵の訓練の熟練度や士気の高さも
重要な要因だ。その点に関しては今も昔もドイツの方が
ロシアより上だろう。

341 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 19:26:50.62 0.net
ノヴォゴロドとドルパットやドイツ騎士修道会などリヴォニアに勢力を
持つドイツ人勢力との間に起きた戦い。
兵力は不明だがノヴォゴロド軍の方が多数であったことは間違いない。
当時、ドイツ騎士修道会がリヴォニアに展開できた兵力を考えると修道会軍
の兵力は多くても数百名程度だったと考えられる。
兵力差が60対1と伝える史料などから推測するとノヴォゴロド軍の
兵力は数千名程度だと考えられる。
ドイツ側は楔形の陣形でノヴォゴロド軍中央へ突撃を行った。
ノヴォゴロド軍は両翼をのばして独逸軍を包囲撃滅した。
ドイツ側は400人の戦死者と50名の捕虜を出して敗退した。
ドイツ騎士修道会は20名の戦死者と6名の捕虜をだした。
ドイツ騎士修道会軍の戦い方は中東十字軍と同じに敵の中央突破
を狙ったもので、負け方も同様のパターンで突破に失敗して包囲
されて壊滅したといったところだ。
見ようによっては単純に兵力差から負けたとも言える。
 http://crazyhis.web.fc2.com/war/battle/1242chud.htm

342 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 19:30:21.91 0.net
当時のドイツは皇帝勅令で選定侯や諸侯の権利が認められて分裂かが進む時期だからなんとも
皇帝自体は名君なんだけどね、出身地がアレなもんでイタリアに深入りしすぎた感
とてもモンゴル相手に戦線増やせる状況じゃない

343 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 19:45:26.18 0.net
チンギスハンvsヒトラー

344 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 22:16:06.67 0.net
中東を征服したフレグは兄のキト・ブカに2万程の兵を与えて
占領地に駐留させたけど、バトゥは占領地を放棄した。
それこそ、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。



345 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 23:01:19.22 0.net
どんだけエドワード・ギボンが好きなんだよw

346 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 23:11:52.72 0.net
お前がろくに根拠もなくモンゴルを過大評価し、ドイツを過小評価
するからだよ。

347 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 23:17:37.43 0.net
見境無いやっちゃな

348 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 23:23:00.77 0.net
恐れている割にはポーランドが「ドイツ騎士団と戦うから援軍送ってくれ」との要請に
「よっしゃぁ」と応じてドイツ騎士団はフルボッコされているが。
この当時のドイツはポーランドやクリミアに太刀打ちできる力は無かったのだろう。

349 :世界@名無史さん:2012/07/14(土) 23:28:42.91 O.net
普通にヨーロッパみたいなゴミタメより、
モンゴル内部の覇権争いが大事だったんだろ。

別にむきになるところじゃないし。
ヨーロッパよりモンゴルの軍事力が上だったのは当たり前で、
征服されなかったのは偶然だが、征服されたとしても、
やがては放棄してたろ。ロシアみたいに。中華みたいに。
政治力は大したことないから。
軍事力じゃドイツなど大したものでないが、モンゴルの政治力も、
大したものじゃないから世界史に爪痕を残せないで終わる。
それが妥当なところだろ。
ヨーロッパ信仰もモンゴル信仰も馬鹿くさい。

遠路はるばる来て勝利を積み重ねたモンゴルが強いのは、
当たり前で、同時に世界史を変える力がないのも、
歴史が証明してる。

ドイツにはモンゴルみたいに世界に押し出せる力なんかない、
辺境の弱小国。
かといってモンゴルがヨーロッパ支配してもその後の、
西洋の覇権は変わらない。

350 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 00:11:46.85 0.net
キプチャックハン国は最大20万の兵員を要していたのに
なんでヨーロッパ各国を征服できなかったの。
>恐れている割にはポーランドが「ドイツ騎士団と戦うから援軍送ってくれ」との要請に
>「よっしゃぁ」と応じてドイツ騎士団はフルボッコされているが。
これだってその後、ルーシ諸国のように属国にしちゃえばよかったのに
どうしてできなかったんだ。
キプチャックハン国の20万の兵力ではポーランドやドイツ騎士団国を属国にする
力がなかったんだろ。

351 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 00:15:34.20 0.net
ドイツ騎士団国さえ属国にできなかったキプチャックハン国の20万
の兵力ではドイツ本国を征服なんて全然無理だな(笑)

352 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 00:22:21.69 0.net
Wikipedia英語版によるとポーランドのカジミエシ大王はウズベク汗に帰服して貢納を送っていたようですね。

353 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 00:25:51.17 0.net
>>350
モンゴルの歴史に詳しければすぐに分かると思うがオゴダイ死後のハン位争奪戦終了後
再びハン位争奪戦が繰り広げられた上
フレグ・ウルスとチャガタイ・ウルスと敵対関係になって
王統断絶とか内紛とかで欧州の端にまで気が回らなかっただけで
ドイツが征服を免れたのは全く運としか言いようがない
そもそも国力だけで比較しても当時のドイツなんかホラズム、金、宋と比べて格段に劣るわけで
しかもそれが諸侯の手で分裂してるときた

354 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 00:49:52.40 0.net
タタールの目的はドイツの征服ではなく略奪による戦利品とポーランドからの謝礼


355 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 13:18:56.14 0.net
>>353
ドイツの東欧における植民地ともいえるドイツ騎士団国は
キプチャックハン国の属国であるルーシ諸国にとって現実
的な脅威だったんだから、宗主国の対面からもドイツ騎士団
を滅ぼしか屈服させる必要はあるだろ。
動員兵力20万の1〜2割程を動員しただけでも兵数ではドイツ騎士
を圧倒できるはずなんだから。

356 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 14:02:10.17 0.net
ドイツ騎士団はポーランドにフルボッコされっぱなしで歯が立たず、
タタールの領分である黒海やドニエプル川など伺うような状況には無かった。


357 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 15:01:30.74 0.net
ドイツ騎士団国から一方的な圧力を受けてたリトアニア大公国にさえ
1362年の青水の川(シニュハ川)の戦いで一敗地に塗れる。
この戦いでウクライナの大部分とキエフを失い、それ以後、リトアニア
との関係が逆転する。
それでもドイツ騎士団国に対しては一方的な圧力を受け続けていた。

358 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 22:28:24.43 O.net
ドイツも欧州も雑魚でモンゴルに殴り込みに行く力なんかないし。
ポーランドとかが遠路はるばるきたモンゴルにたこ殴りされた事実があるだけ。
武力じゃあの時代はモンゴル>>>>>欧州は当たり前だろ?
何、基地外が喚いてんだ?
意味不明なんだが?

359 :世界@名無史さん:2012/07/15(日) 23:44:26.61 0.net
>>355
汗国の西の果てでルーマニア人がタタールを追い出して勝手にモルダヴィア公国を建てたり
ポーランドやリトアニアがウクライナに侵入しても何もしなかったんだから
プロイセン行くどころじゃないだろw
>>356
それ1410年以降の話

360 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 11:51:15.03 0.net
ジョチウルス(キプチャク・ハン国)とドイツ騎士団国は直接戦ってないのでどちらが
強いかわからないが、両方と戦っているリトアニア大公国との戦闘で両国の強さを比較できる。
1362年ジョチウルス(キプチャク・ハン国)内での後継者争いの隙を
突いてリトアニア大公国が攻め込んだ。
ウクライナ一帯を治めていた領主の間で戦われた戦闘(青水の戦い)で
リトアニアが圧勝し、ウクライナのほとんどを征服し国力を増強させた。
しかしそれでもドイツ騎士団の侵略を跳ね返すことはできず、同じく
ドイツ騎士団に苦しめられていたポーランドと合同し1410年の戦い
(タンネンベルクの戦い)でようやくドイツ騎士団の脅威を跳ね除ける
ことに成功した。
リトアニア大公国にとってはジョチウルス(キプチャク・ハン国)より
ドイツ騎士団国の方がよっぽど強敵だったんだろう。


361 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 12:01:32.78 O.net
そんなことよりロシアに滅ぼされまくったモンゴル諸国

362 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 12:16:07.91 0.net
リトアニアに奪われたキエフ方面はほっといて
アゼルバイジャンやアルメニアをイル汗国と
血で血を洗う抗争を繰り広げたキプチャク汗国。
最後は仲良くティムールに踏み潰された。



363 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 12:58:18.91 0.net
1399年のヴォルスクラ河の戦いではリトアニア軍もドイツ騎士団も
仲良くタタールに敗れている。

364 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 13:21:08.10 O.net
1380年にはすでにロシアに敗れていたモンゴル

365 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 13:36:20.08 0.net
>>349
モンゴルの統治体制は同時代で並ぶもののほとんどない最先端だよ

366 :オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/07/16(月) 13:47:12.41 0.net
>>355
でも、ジョチウルスのルーシ支配って間接統治が基本だったし、
初期はそれなりにうまくいってたからそこまで深入りする必要性もなかったんじゃないかな。
それよりも中央でのカアン位を巡る争いやイル・ハン国との対立のほうが重要だったんだと思う。
そもそも、モンゴルが出てくるまでもなく、アレクサンドル・ネフスキーがドイツ騎士団を破ってるし。

>>360
14世紀半ば以降のジョチ・ウルスはあなたも言ってるように内部での後継者争いで混乱してたからね。
まぁ、後にトクタミシュが現れて一時的に盛り返すとは言え、分裂し衰退しかかってる時期だったのには違いない。
その頃のジョチウルスとドイツ騎士団を比べて、タタールはドイツ騎士団を恐れてたと言っても説得力に欠ける気がする。
ジョチウルスがドイツ騎士団のほうまで攻め入らなかったのは、中央でのゴタゴタやイル・ハン国との対立のせいで、
大して必要のない遠征をする暇がなかったからでしょ。まぁ、ドイツ騎士団も当時としては強い勢力だったと思うけどね。

367 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 15:27:57.93 0.net
>>363
>1399年のヴォルスクラ河の戦いではリトアニア軍もドイツ騎士団も
>仲良くタタールに敗れている。
ヴォルスクラ河の戦ってリトアニアとジョチ・ウルスの戦いだろ。
ジョチ・ウルスにとっては1380年にモスクワ大公国とリトアニアが組んで
ジョチ・ウルスの軍勢に大勝したクリコヴォの戦いの報復戦だろ。

368 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 16:01:04.65 O.net
1380年にはモンゴルに大勝していたロシア

369 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 16:15:47.11 0.net
1382年にトクタミシュがモスクワに焼きを入れた件について
(その後トクタミシュはティムールにフルボッコされるが)

370 :学部生:2012/07/16(月) 17:53:21.26 0.net
バグダードが陥落した時のモンゴル軍の行状を知ってモンゴルが大嫌いになりました

371 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 18:18:26.18 0.net
↑コルテス・ピサロ乙

372 :学部生:2012/07/16(月) 18:42:06.79 0.net
↑なんなん、それ
ググんのんさえメンドイから教えてーな

373 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 18:47:38.62 0.net
ティムールもソ連もモンゴルの血が入った国家
じゃなきゃヨーロッパの辺境国家があそこまで強くなれなかった

374 :学部生:2012/07/16(月) 18:55:10.95 0.net
何万人という無抵抗の市民を虐殺するとか文化財的なものも一切合財破壊しつくすとか、酷くないですか?
モンゴルなんかなければよかったのに

375 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 21:38:59.35 0.net
何万人という無抵抗の市民を虐殺するとか文化財的なものも一切合財破壊しつくすとか、酷くないですか?
スペインなんかなければよかったのに

376 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 22:08:45.32 0.net
モンゴル諸国と東欧の力関係が逆転したのは14世紀〜15世紀と見ていいことは分かった

377 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 23:12:45.51 0.net
モンゴル系クリミア汗国を傘下に収めたのは
コンスタンティノーブルを陥落させたオスマントルコだが


378 :世界@名無史さん:2012/07/16(月) 23:48:16.99 0.net
また、南西ルーシの強国ガリチ=ヴォルイニ公国のダニイル・ロマノ
ヴィチはベルケ汗の治世に、この当時国家的統一を達成していた
リトアニアのミンドフクと同盟を結んで(婚姻関係と従臣関係を結んだ)、
汗国の支配に抵抗しようとした。
これに対して、ベルケ汗はブルンダイの率いる強力な汗国軍を南西ルーシ
に派遣し、南西ルーシ諸公を軍事的に威嚇することによって彼らをリト
アニアから離反させようとした。
ヴェルナツキイによれば、「おそらくモンゴル人はリトアニアの勢力の
増大を懸念しており、リトアニアの拡大は、それが初期の段階のもので
あっても、西ロシアにおける自分たちの支配に対する潜在的な脅威であ
ることを認識していたのであろう」
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/mongol_01.htm

379 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 00:02:35.33 0.net
>>372
まったくスレ違いだけど
知らないやつは世界史板に来ちゃいけないレベルだろw

380 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 00:14:08.49 O.net
クリミアハン国はロシアの平原で美少女を狩ってイスタンブールで性奴隷として売りまくり。
そのクリミアハン国がロシア女帝に支配され滅ぼされたのは皮肉な限り

381 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 04:36:04.08 0.net
モンゴル人とスペイン人がかつてやった事は震撼する
つくづく大陸人とは凶暴であると思う

382 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 16:49:17.86 0.net
スペイン人「機関銃も原爆もねーのに百万も殺せるかよ、バカかテメー」

383 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 17:35:26.16 0.net
>>382
スペイン人が中南米を何年支配したと思ってるんだ?

384 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 19:13:29.47 0.net
モンゴル軍団の凶暴性は朝鮮人や中国人やロシア人に血として受け継がれた

385 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 20:07:22.62 0.net
スペイン人の悪質性は中南米のバナナ共和国に受け継がれた


386 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 21:49:51.21 0.net
EURO全体に思いっきり迷惑かけてるところを見ると悪性質が変異しただけかもな

387 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 22:54:19.63 0.net
>>376
>モンゴル諸国と東欧の力関係が逆転したのは14世紀〜15世紀と見ていいことは分かった
ベルケ汗の治世(在位1257年 - 1266年)にはすでにリトアニア大公国がキプチャック
ハン国の潜在的な脅威になっていた。
ドイツ騎士団んからの圧力がなかったら、13世紀中には力関係は逆転していた。

388 :世界@名無史さん:2012/07/17(火) 23:01:40.89 0.net
>>370
その頃のバグダッドは塩害や異端やマムルークの横暴やヤクザの抗争でだめだめだが

389 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 00:56:35.70 0.net
ティムール>バヤジット>トクタミシュ>モスクワ>リトアニア・ポーランド>ドイツ騎士団
ティムールにドイツ騎士団なんかが歯が立つなんて本気で思ってるのかよw


390 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 01:45:29.67 0.net
余裕だろ
攻めん込んだ側がやられるだけの話

391 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 01:50:40.57 0.net
ドイツ騎士団は余裕でバヤジットを撃退したんだじょ〜ってかw


392 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 08:12:40.67 O.net
ロシアはモンゴルの宗主オスマンなんかフルボッコにしたがな。

393 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 13:27:59.83 0.net
おそロシア美女
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-1.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-2.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-5.jpg
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http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-77.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-259.jpg
http://24.media.tumblr.com/tumblr_m6k05oGh661qa8o34o1_500.jpg
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http://livedoor.blogimg.jp/moro1977-004/imgs/4/f/4fb55678.jpg
上ロシア 下・・・
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-241.jpg

394 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 18:47:32.74 0.net
バトゥはこんなスラブ女強姦してたの

395 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 19:25:19.89 0.net
>>392
ロシアは300年間モンゴル領だったけどな

396 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 19:32:55.68 0.net
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397 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 23:20:31.11 0.net
バトゥの弟、ベルケ汗の治世(在位1257年 - 1266年)にはすでにリトアニア
大公国がキプチャックハン国の潜在的な脅威になっていた。


398 :世界@名無史さん:2012/07/18(水) 23:46:12.75 0.net
現実の脅威はイル・汗国だし対抗するためにマムルーク朝と同盟した

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