2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

モンゴルはいかに世界を変えたのか

1 :世界@名無史さん:2012/02/03(金) 11:49:51.01 0.net
語れ。

406 :世界@名無史さん:2012/07/19(木) 15:49:20.87 0.net
>>403
ギボンを持ち出すのは、司馬遼や塩野やブローデルの歴史小説を根拠にするのと一緒、説得力皆無

407 :世界@名無史さん:2012/07/19(木) 20:09:57.79 0.net
>>406
そいつを根拠にするのと杉山を根拠にするのはどっちがマシだろうな
杉山もドンドンメッキが剥げて来たけどさ

408 :世界@名無史さん:2012/07/19(木) 20:52:48.43 0.net
1382年:トクタミシュ、モスクワに焼きを入れて再貢納をドミトリーに誓わせる。


409 :世界@名無史さん:2012/07/19(木) 23:59:35.79 0.net
>>406
バトゥの弟ベルケ汗の治世(在位1257年 - 1266年)にはすでにリトアニア大公国が
キプチャックハン国の潜在的な脅威になっていた。
キプチャック軍は20万、リトアニア軍は3万ほど動員できたことから兵数が同じなら
間違いなくリトアニアの方が強いだろう。
そのリトアニアに対し一方的に侵略を繰り返していたドイツ騎士団は当然もっと強いだろう。
んからの圧力がなかったら、13世紀中には力関係は逆転していた。
それこそ、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。





410 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 00:04:36.67 0.net
モスクワに焼きを入れ、みか締め料の貢納を誓わせたトクタミシュは
強力なリトアニア大公国に恐れをなしてティムールに喧嘩を売った
ってかw


411 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 00:26:20.83 0.net
ウソを100回書き込むと真実になるのは大寒憫国や英仏だけ

412 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 08:38:53.07 0.net
マンパワーが無くてポーランドリトアニアに決戦申し込んだチュートンが強いねえ

413 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 17:19:50.57 0.net
プレートアーマーが発展したのは十字軍後で特に14世紀〜15世紀に発展したのだとか
東欧がモンゴル相手に優勢になったのと同時期だな

414 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 18:57:50.43 0.net
14〜15世紀は東欧がオスマンに飲み込まれていった時期だけどw

415 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 19:56:05.13 0.net
モンゴルが衰退してオスマンが出てきたってことだな
オスマンもティムールにはやられまくってたがなw

モンゴルが短命だったのは相続する時に荒れて武力闘争に発展しやすかったのが原因
中国を征服した遊牧民や狩猟民が中国化したのはそうしたほうが政権運営がしやすかったのも理由の一つ

416 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 21:40:21.69 0.net
モンゴルが短命?
2世紀から3世紀も間、ユーラシアの覇権握ってて落ち目になった15世紀、16世紀辺りでも
中国北部やインド北部で猛威振るってるじゃないか

417 :世界@名無史さん:2012/07/20(金) 21:43:34.16 0.net
エセンなど辺境の一雄としては活発だったが、
かつては世界帝国だった頃に比べると・・・
あくまでも比較の問題である。

418 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 00:12:13.28 0.net
短命だったのはモンゴルじゃなくてモンゴル帝国

419 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 00:39:41.28 0.net
やっぱティムールとその子孫のとこだけ異常値な感じだよな・・・
よその趨勢ではモンゴル退潮気味なのに

420 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 12:20:06.94 0.net
なんでリトアニアやドイツ騎士団とキプチャックモンゴルとの強弱について
主張しているのに、やれティムールやオスマントルコが出てくるんだよ。
大体、ティムールの軍団もオスマントルコの軍団もティムールやバヤジット
など勇将あっての強卒(弱卒の反対)だっただけだ。
本当に強い軍隊とは指導者がだれでも精強であらねばならない。
その点、ドイツ騎士団やリトアニアの方が指導者の優劣に関係なく精強さを
維持していたのだから強い軍隊といえる。

421 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 13:55:43.29 0.net
ドイツ騎士団も参加した十字軍はバヤジットにフルボッコされ
"精強な"ドイツ騎士団・リトアニア大公国はコンスタンティノーブル陥落を阻止できなかった。
大体モンゴルスレでティムールの話するななんて何言ってんだ?


422 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 22:34:15.58 0.net
精強っていったんて動員兵数が少なければできることは少なくなるのは
あたりまえだ。


423 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 22:45:50.98 0.net
肉弾戦メインの時代じゃ小規模な軍が精強なのは割と普通の話なんじゃないの

424 :世界@名無史さん:2012/07/21(土) 23:04:56.50 0.net
"歴史に与えた影響"が
"精強なドイツ騎士団"とか"強力なリトアニア大公国"が
バヤジットやティムールを上回るなどという新説が極めて新鮮で香ばしい


425 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 01:20:10.60 0.net
>>424
>"歴史に与えた影響"が
>"精強なドイツ騎士団"とか"強力なリトアニア大公国"が
>バヤジットやティムールを上回るなどという新説が極めて新鮮で香ばしい
そんなことは一言もいってないが、おれがいいたいことは、
「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
主張しているだけだ。



426 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 02:02:19.25 0.net
ギボンの推測とか、俺の推測より無価値だから

427 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 02:05:21.67 0.net
>>423
大規模な軍を精強にしにくいからって小規模な軍が精強であるかっていうとそれも違う
精強な軍そのものが希少価値

428 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 02:43:09.25 0.net
まぁその通りなんだけど、歴史に名を残してて弱小ってのはほら、基本的に無いからさ

429 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 02:54:12.68 0.net
無いってのはさすがに言いすぎか

430 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 03:02:06.74 0.net
動員兵力何十万いうてもホントのモンゴル兵はジョチ・ウルスじゃたった4千騎だからな
恐ろしいでほんま


431 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 07:48:29.58 0.net
西に行ったジョチの軍団って今のロシア近辺まで行った頃は
構成の9割以上がテュルク系だったって話だとか

432 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 09:52:17.93 0.net
この遠征はチンギス汗の長子ジュチの采領(ウルス)の拡大事業の継続として
計画されたものであり、ジュチの次男[10]バトゥが遠征軍の総司令官となった
のもこの意味においてであった。
総兵力12万から14万と推定されるモンゴル遠征軍は、1236年にヴォルガ・
ブルガール人の土地に侵入し当地を制圧すると、1237年秋から1238年春に
かけて、リャザーン、ヴラヂーミル、トヴェーリなど北東ルーシの有力都市を
すべて軍事的に征服した。
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/mongol_01.htm



433 :世界@名無史さん:2012/07/22(日) 20:02:51.49 0.net
西方遠征軍の総大将となったジョチ家の当主バトゥには5万の戦闘経験の
豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに中国人とペルシア人の専門兵が
与えられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

434 :世界@名無史さん:2012/07/28(土) 21:11:07.79 0.net
世界不思議発見で契丹特集やってるね

435 :世界@名無史さん:2012/08/26(日) 08:23:04.58 O.net
西遊記とかが編集されたのは元の時代
それまでは、まともな文章力ある奴は皆様役人になろうと努力して、小説や芝居の脚本書かなかったが
元の時代は学力あっても役人になれず、仕方ないから小説書いたらしい

436 :世界@名無史さん:2012/09/03(月) 15:51:57.40 0.net
モンゴル関連スレでいつも思うけどバトゥ遠征軍の兵力を過大評価し過ぎ
13世紀当時、10万近い大軍がユーラシア大陸を東西に横断するとか不可能だろ

437 :世界@名無史さん:2012/09/03(月) 19:24:41.67 0.net
余裕だからwww
しょっぱいしょっぱい西欧土人と一緒にすんなよww

438 :世界@名無史さん:2012/09/03(月) 20:00:08.20 0.net
ヘンリク軍4万VSバトゥ軍15万とかいうのはさすがに誇張じゃないか。
「あんな大軍で押し寄せて来られたらとても敵わん」とか負けた言い訳だと思う。

439 :世界@名無史さん:2012/09/03(月) 21:55:10.48 0.net
10万人が横断するだけで、戦う前に部族が消耗している 席巻するどころか
欧州に着くころにはとても戦える状態ではないだろう。マラソンの42.195キロとはわけが違う
へとへとになりながら戦う。相手は体力を温存して構えている。

440 :世界@名無史さん:2012/09/03(月) 22:51:15.83 0.net
無論、現地勢力を巻き込むとか、現地の草原を占拠して体力回復を図るとか
色々手を尽くしてはいるようではある

441 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 08:39:49.84 0.net
その10万人の兵站はどうするの?
遊牧を甘く考えすぎなんだよ。
遊牧って生産性がメチャ低いから広範囲に超低密度で分散しても極貧生活支えるのが精一杯なのに・・・
10万もの大兵力とそれを支える数百万頭の家畜が集結なんかしたら、あっというまに周辺一帯の草原を
食い尽くして全軍餓死だろ。

442 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 09:59:20.72 0.net
>>441
ウクライナあたりまでほとんど草原なんだから食い尽くしたら移動すればいいだけじゃんw
むしろヨーロッパに入ってからのほうが問題。

443 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 10:10:12.58 0.net
>>442
無理だよ。
だって低密度に分散した普通の遊牧生活ですら常時移動し続けないとやっていけないんだから。
家畜数百万頭ともなれば食い尽くす草原の面積が移動可能な距離を上回る。

444 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 10:59:38.41 0.net
>>443
普通の遊牧は何キロか移動すると数日とどまって家畜に草を食わせ、また移動。
軍事遠征では一日に50〜100キロの移動を続ける。
また夏営地や冬営地ではある程度長期滞在になり、特に冬営地には普段分散して
暮らしていた牧民たちが家畜ごと集結して暮らす。

あと聞き忘れてたけど10万人に家畜数百頭っていったいどういう計算?

445 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 11:38:39.47 0.net
>>444
モンゴル軍の機動力は家畜を後方に残して騎馬部隊だけで行動した場合1日50キロ。
ただこれは兵糧の限界から長期間続けることはできない。
羊の行動半径は1日6キロ程度だから家畜と一緒なら機動力は大幅に低下する。

1918年のモンゴルの人口は65万人で、その生活をラクダ22万9000頭、 馬115万1000頭、
牛107万8000頭、羊570万頭、山羊148万 8000頭で支えていたんだよね。
モンゴル軍10万なら単純に6分の1としても家畜約160万頭が必要な計算になる。
補助戦闘員をその10万に含めるか否かによっては必要な家畜の数ももっと多くなるし。

446 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 12:49:12.24 0.net
>>445
もし羊ごとモンゴルから出発して、行動半径1日6キロに合わせて進軍してたら
ロシアに着くまでに2年半ぐらいはかかるよw 実際はヴォルガ・ブルガールや
クマン族を征服しながらもっと速い。
それを考えると食糧については携行食のほかに帝国内では備蓄や供出、敵地では
略奪が現実的だろう。キプチャク草原征服によって大量の家畜が手に入っただろうし。

447 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 13:15:47.54 0.net
>>446
1235年に遠征決定、1236年春にブルガル地方との国境に集結、1237年末にロシア侵攻だから
実際に2年半ぐらいかかってるじゃん

448 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 18:44:48.95 0.net
スラブ女やゲルマン女が犯されるのみてええーーー

白人が犯される側の貴重な歴史的瞬間

古代ローマ人とモンゴル人のみの名誉

残虐でアグリーなモンゴルに侵されるほうが興奮するね。

449 :世界@名無史さん:2012/09/04(火) 18:59:36.64 0.net
>>447
時間が掛かったのは徴発官の兵員や獣畜や物資の割当調整と
その伝達であって、羊の移動じゃないよw

450 :世界@名無史さん:2012/09/05(水) 04:08:56.17 0.net
>>449
でも遠征に家畜を伴っていれば行軍速度も当然物理的な制約受けるでしょ。
それに兵站を家畜に依らないのだとすれば、当時のモンゴル帝国の支配地域なんてその他農耕民族の
領域よりも人口密度や食糧生産性が圧倒的に低いんだから、長距離遠征に投入可能な兵力だって
かなりの少数になるはず。
なおさらバトゥ軍10万人なんて不可能。

451 :世界@名無史さん:2012/09/05(水) 08:56:21.26 0.net
>>447
1236年春に出発して、夏中移動して秋にイリ盆地に着いてるから
出発地点はモンゴルだろう。
>>450
羊や牛を生きたままモンゴルから連れて行かなくても
携行食糧化(干し肉、乾燥乳等)、行軍路上にて食糧備蓄・徴発が可能。
馬や駱駝だけ連れて行けば済む。

452 :世界@名無史さん:2012/09/05(水) 09:33:42.32 0.net
>>451
帝国内での食糧調達を行軍路上にて食糧備蓄・徴発に頼るとすれば、モンゴル軍の運用可能な兵力は
同時代の他の国よりも大幅に少なくなるよね。
だって領内の人口密度や食糧生産性が農耕地域よりも低いんだから。
10万人の兵力が数千キロもの長距離遠征を行うことは当然不可能ってことでOK?


453 :世界@名無史さん:2012/09/05(水) 10:18:33.90 0.net
>>452
意味が分からないんだが。
10万人が生存可能な食糧がそもそもないとすれば
兵力どころか人口が10万以下だったことになり、領土の維持すら困難だろう。

454 :世界@名無史さん:2012/09/05(水) 18:46:57.17 0.net
だね、人員や家畜の権限を持った高位の徴発官が存在した現実と矛盾する

455 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 11:29:13.53 0.net
>>453
行軍路上にて食糧徴発するんだから、その地域の住人は普段より徴発分の食糧を余分に負担しなくちゃ
いけないだろ。
例えば、モンゴル軍10万人が行軍路上にある人口5万人の交易都市で食糧徴発するならその都市には
住人5万人分の食糧+モンゴル軍10万人の食糧で計15万人分の食糧が必要じゃん。


456 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 13:09:22.36 0.net
>>455
モンゴル軍が1日で通り過ぎてくなら5万人の2日分の食糧だぞ。
モンゴル帝国の住民は食糧または食糧調達のための資源をきっかり1年365日分しか持ってないのか?w
そこまで余剰生産がない国なら誰も税なんて払えないし戦争どころか国家維持も不可能。

457 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 13:48:12.12 0.net
>>456
実際には次の都市まで移動する間の食糧も徴発する必要があるから量はもっと多くなるけどね。
いずれにしろ、どれだけの規模の軍を運用可能かは、その国の余剰生産量に左右される。
となると食糧生産性の低いモンゴル帝国は、それよりも圧倒的に豊かな農耕民族の中国や日本よりも
小規模な軍を運用するのが精一杯ってことになる。
モンゴル帝国が10万人なんて大兵力を東欧遠征に投入可能だったとは考えられないな。

458 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 18:47:43.19 0.net
モンゴル人の1世帯数人につき平均100頭強の家畜がいた

モンゴル高原から中央アジアまでの広大な領土を持ち
支配機構の整備されていたモンゴル帝国にとって10万人の動員は造作も無いこと
西欧の土人国家と一緒に考えてはダメ

459 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 20:57:52.33 0.net
>>458
で、その10万人の兵站はどうするのさ?

460 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 21:20:06.09 0.net
モンゴル帝国の食糧生産性が低いってのはどっから出てきた話なんだ

461 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 21:34:42.48 0.net
キプチャク平原が兵站の拠点となった。欧州遠征の主力はトルコ系で
モンゴル本国からわざわざ遠征してきたのは2〜3万程度


462 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 22:27:58.18 0.net
>>460
遊牧社会の食糧生産性が農耕社会より低いなんてのは常識レベルの話だと思うが

463 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 23:03:11.49 0.net
>>457
>実際には次の都市まで移動する間の食糧も徴発する必要があるから量はもっと多くなるけどね。

だから行軍路上に倉庫建てて食糧備蓄しとけばいいじゃん。

>となると食糧生産性の低いモンゴル帝国は、それよりも圧倒的に豊かな農耕民族の中国や日本よりも
>小規模な軍を運用するのが精一杯ってことになる。

実際明が元を駆逐して中国統一した頃の、衛所軍に登録された兵士の数なんて120万ぐらいまでいってるよw
ちなみに遊牧民は成人男子のほとんどが騎馬弓兵として戦えるので定住民よりも人口における戦闘員の比率が高い。
逆に中原に進出して元朝を建てた後でも、漢人の軍戸は数軒に1戸ぐらいしか兵士を出していない。

464 :世界@名無史さん:2012/09/06(木) 23:37:02.53 0.net
>>462
モンゴル高原界隈の生産性が低いっつーんなら分かるけど、モンゴル帝国規模になると無論農耕地帯だって囲ってるから
食糧生産性が低いってのが意味わかんね
ホラズム朝支配地域なんてオアシス農業の最たる例みたいなとこじゃないの

465 :世界@名無史さん:2012/09/07(金) 00:10:23.21 0.net
>>462
それは面積当たりの話であって人口当たりの話じゃないよね
しかも人口当たりの戦闘員の数は、募兵制の場合の農耕社会と比べ10倍以上

466 :世界@名無史さん:2012/09/07(金) 18:42:35.71 0.net
日本一国に限っても例えば秀吉の小田原攻めの時は10万近い軍勢を動員してる
初期モンゴル帝国の面積で遠征軍10万って充分少ないと思うが

467 :世界@名無史さん:2012/09/08(土) 07:56:55.10 P.net
>>466
いや、初期モンゴル帝国って面積がデカいだけで動員力は秀吉軍よりショボいから。
チンギス汗死亡時の帝国の総兵力は僅か12万9000人。
東欧遠征に投入されたのは、その12万9000人の中の一部でしかない訳で。

468 :世界@名無史さん:2012/09/08(土) 14:22:22.51 0.net
初期モンゴル帝国とキプチャク遠征した頃のモンゴルは規模が段違いだから

469 :世界@名無史さん:2012/09/08(土) 17:56:02.58 0.net
モンゴル統一時のミンガン(千人隊)の数が95なのにテムジンが死んだときには激減してたのか?

470 :世界@名無史さん:2012/09/08(土) 17:58:38.95 0.net
いや、12万9000人なら増えてるか

471 :世界@名無史さん:2012/09/08(土) 21:46:42.53 0.net
オトラル事件の時のモンゴルの総兵力は25万で
西方遠征に投入された兵力は15万、
ホラズムの総兵力は40万だったが、まとまった指揮系統が無く、
チンギスハンの下で統制のとれたモンゴル軍に各個撃破されていった。


472 :世界@名無史さん:2012/09/09(日) 17:25:04.54 0.net
>>471
チンギス汗死亡時の総兵力か12万9000人なのにホラズム遠征に15万も投入できるわけないじゃん。

473 :世界@名無史さん:2012/09/09(日) 20:40:11.55 0.net
12万9千は総兵力じゃなく千戸隊に編成済みの部隊でしょ

474 :世界@名無史さん:2012/09/10(月) 13:12:11.76 P.net
>>473
総兵力だろ。
チンギス汗の死後、その12万9千を弟たちや息子たち一族で分け合ったんだから。
領土の観念が希薄で財産とは人と家畜というモンゴル帝国にとっては
総財産と言ってもいい。

475 :世界@名無史さん:2012/09/10(月) 13:30:25.51 0.net
ナイマン、西夏、カラキタイ、ホラズム、森林部族などの兵力をどれだけ吸収したかだな。
天山ウイグル王国なんかはすぐに帰順してるし。

476 :世界@名無史さん:2012/09/10(月) 21:57:50.63 0.net
>>475
総兵力12万9000人の内10万1000人は末子トルイが相続。
更にその内の6万2000人が左翼軍で、その中には契丹人1万人、バアリン氏族1万人、女真人1万人、
オイラート族4000人、オングト族4000人が含まれた。

あと、ホラズムは攻め滅ぼされただけで吸収されてはいない。
オゴデイが即位後真っ先にやったことは旧ホラズム領を平定するため3万の兵力を割いて派遣したこと。

477 :世界@名無史さん:2012/09/10(月) 23:12:16.31 0.net
60リットル/雌一頭・一年
馬乳酒4リットル=米三合(江戸時代人の一日摂取1600カロリー)

馬乳酒ベースの必要頭数:雌24頭/年

羊肉30kg/一頭
140kcal/羊肉100g

羊肉ベースの必要頭数:15頭/年

馬肉も食えるので一人あたり馬10頭羊10頭あれば生計が立ちそう。

牧草面積:
羊3頭/草原1ha
馬1頭/草原1ha

つまり一人あたり13ha(350m四方)の草原を確保できれば保持可能。
ステップ植生を草原率25%、20万の軍勢で
300km×300kmの年間移動範囲で維持可能。

478 :世界@名無史さん:2012/09/10(月) 23:34:05.60 0.net
一方定住民

一反=米一石=一人/年 (江戸時代基準)
一反=30m×30mで生活可能

移動?
1俵60kg=400合=4ヵ月移動分
60kgを運ぶのには馬が必要。馬食料7kg/日。800kg/4ヵ月
800kgを運ぶのには馬6頭が必要・・・?

結論:定住民には戦争は出来ない。

479 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 02:20:43.19 0.net
>あと、ホラズムは攻め滅ぼされただけで吸収されてはいない。
>オゴデイが即位後真っ先にやったことは旧ホラズム領を平定するため3万の兵力を割いて派遣したこと。

40万以上いたホラズム軍が3万で鎮圧できるくらいに激減してるんだから
大半は殺されたか降伏したんだろう

480 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 06:13:22.66 0.net
>>477
現実にはあの広大な初期モンゴル帝国で12万9000の兵力が精一杯だったんだぜ
モンゴル帝国の兵力が急増したのは中国など肥沃な定住民地域を征服して、そこの定住民の軍勢が
大量に加わってから
それまでのモンゴル軍なんて精々遠征軍5万程度だろ

481 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 12:58:08.40 0.net
仮に5万だとしても、ほぼ全てが熟練騎兵なら会戦においては相当な脅威だと思うがな。
あとは、それを一体のものとして運用できる組織力+有効な戦術があれば無双できても奇異じゃない。

482 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 17:36:13.46 0.net
ちなみに12万9000人の内、東欧遠征の中核となったジョチ家が相続したのは4000人

483 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 17:47:55.97 P.net
>>476
ホラズム平定の時は千戸に属する本隊の3万とは別に各地で徴募してるんだけどね

484 :世界@名無史さん:2012/09/11(火) 22:42:29.17 0.net
モンゴル帝国の総兵力は、書類上はずっと129,000人
そっからはみ出た兵力がものすごいいる

485 :世界@名無史さん:2012/09/12(水) 07:29:59.15 0.net
モンゴル兵だけではなく契丹兵や女真兵、漢族兵などを入れれば
兵数だけなら軽く20万は超えるだろう

486 :世界@名無史さん:2012/09/12(水) 14:04:40.14 0.net
>>482
バトゥの遠征には各千戸長・百戸長から人質としてハーン家に預けられてた子弟
単なる人質ではなく現代で言えば士官学校生を兼ねてた連中が参加したと言うけど
そいつらはその4000人に入ってないのかな

487 :世界@名無史さん:2012/09/12(水) 21:29:29.90 0.net
ジョチ家の4000人ってお前んとこは最低4000人以上は兵隊出せよって意味も込められてるから、
入ってるっちゃ入ってるし、逆もまた然り。
だからモンゴル帝国軍の兵数ってチンギス死んでからは書類以上に絶対増えてるはずなのに、
いつまで経っても12万9千人。
んで、その増えた中で「10人の内2人を提供しろ」なんて言って供出して、その2人にはさらに従者が数人必ず
ついて回るんだから実態はさらに大勢になっていく。
しかも現地徴発部隊はこれに含まないから、バトゥ軍15万もフレグ軍30万もありえたっちゃーありえたかもしれない。

488 :世界@名無史さん:2012/09/12(水) 22:30:57.47 0.net
モンゴルというのはイスラム過激派でいえばアルカイダのようなものだろう。
アルカイダ以前は色々な過激派がいたが、今はほぼアルカイダ一本になっている。
同様にモンゴルというのはそれまで色々いたスキート・シベリア文化圏にいた遊牧民を一本化した。

489 :世界@名無史さん:2012/09/12(水) 23:48:16.95 0.net
>>487
チンギス汗死亡時の総兵力が12万9000人ってだけで、いつまでも12万9000人じゃないよ。
中国を征服してからは急増してる。
ただ遊牧民の兵数はそれが限界。
もともと少ない遊牧民の人口の4人〜5人に1人を兵数に数えてその数だからそれ以上徴兵しようがない。
バトゥ軍15万もフレグ軍30万も絶対ありえない。


490 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 01:08:13.80 0.net
>>489
戸籍上は12万9千人で、12万9千戸の家が常備軍を形成してるっていう格好。
戸籍は13世紀後半まで軍の兵員名簿として各部族間で共有していたから、チンギス死去までは正確でも、
それ以降増えた分は計算しないのでやたらいい加減だねっていう話。
実数が12万9千人のまま推移したという話ではない。

人口で言えば、オゴタイが1235年に行った人口調査では約100万戸が戸籍登録され、それを仲間内で分配している。
その20年後にモンケがイランのマー・ワラー・アンナフル周辺の人口調査をして約20万戸増加したのでそれも改めて再分配している。
この約120万戸の中には農業従事者も多く含まれるので、何割か引いたとしても男子皆兵の遊牧社会で言ったら、
2、30万人ぐらいの動員なら、あくまで人口だけで言えばありえる話じゃないのっていうだけ。
まぁもちろん、動員可能な数と実際に動かす数っていうのはイコールじゃないってのは念頭に置くべきだけどね。

491 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 01:10:29.59 0.net
当時のモンゴル高原と満州と南シベリアを合わせた推定人口は300万超える

492 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 12:04:37.86 0.net
>>490
オゴタイが1235年に行った人口調査は対象地域が旧金朝なんだから、約100万戸はほぼ全て
定住生活の中国人じゃん。
もちろんその結果モンゴル帝国の総兵力自体は大幅に増加してるけど、増えた兵力が投入されたのは
もっぱら南宋を中心とした東アジアだろ。
キプチャク平原や中東地域に中国人が大量に移住した痕跡なんてないわけで、バトゥ軍やフレグ軍の
増強には繋がってない。

>>461
いや、成人男子皆兵のモンゴル帝国で総兵力12万9000なんだから、4〜5人に1人がが兵になったと
仮定して当時のモンゴル高原と満州と南シベリアを合わせた推定人口は50〜65万人な。

493 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 13:17:05.45 0.net
>>492
あ、ごめん。
1235年のやつは確かに旧金領の人口調査だ、何を書いてるんだ俺は。

書き直すと、チンギスの時代に行った戸籍調査の結果12万9千戸の家が一人ずつ兵を出して、
それが総兵力12万9千人の元ネタになってるけど、その内訳には現地徴発で編成した部隊(タンマは別として)と、
兵一人につく従者が含まれてない。
なのでその後の人口増加分は加味していないから、実際の兵力はチンギス死後いきなり増えてても
別におかしくはないんじゃないのって事だな。
単位は戸なんだから最低兵力が12万9千人以上って話なんじゃないかと思うんだけど。

昔のモンゴルの平均的家族構成知らんから聞くけど、4〜5人に1人の兵士って何を元にして言ってるの?

494 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 13:19:42.09 0.net
>>492
「長春真人西遊記」によると、ホラズムシャー朝が倒された後の中央アジアには
すでに大勢の漢人が来てたようだ。

495 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 18:06:49.88 P.net
>>493
「12万9千戸の家が一人ずつ兵を出して」じゃないでしょ。
「家に男子15以上70歳以下の者があれば、多少に関係なく全てを集めて兵とした」
結果が総兵力12万9千人。

496 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 18:51:58.59 0.net
>>495
モンゴルについて酷く無知なのに、何故このスレに来てるのかね?

497 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 19:16:14.20 0.net
>>495
いや、あのね、そうじゃなくてさ。
戸≠人なのであって、129ミンガンがそのまんま人になるのはさすがに変でしょうにと言っとるんですよ。
「一族10人につき○人」みたいな感じで召集かけてんだから、その10人の内何人かは予備役って事でしょ。
全部を動員したら生産性が一気に落ちて税負担に耐えられなくなりますがな。

498 :世界@名無史さん:2012/09/13(木) 21:21:27.83 0.net
女真の金相手に戦っていたモンゴル軍の主力は契丹兵でさらに漢人豪族だったという。
これでモンゴルが全軍あわせて15万未満とは考えにくい


499 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 00:55:34.82 0.net
>>497
「家に男子15以上70歳以下の者があれば、多少に関係なく全てを集めて兵とした」のソースは
『元史』兵一ね。

徴兵や納税を家単位で行うのは中国式。
それに対して人口調査を行い成人男子全てを1000人でミンガンとするのがモンゴル式。
チンギス汗時代の129ミンガンが家単位なわけないでしょ。
例えば1253年からグルジアで行われた人口調査でも、
「彼(アミール・アルグン)は到着すると、報告し、グルジアに進んだ。そこで彼は人口調査を実施し、
住人を千人毎に分けた」(『集史』フラグ・ハン紀)。
この人口調査の対象は、「10歳に始まって、それ以上の人々は、女性を除いて、台帳に記入された」
(キラコス・ガンザケッツィ『歴史』)なわけよ。

あと、モンゴル社会においては、戸=人だよ。
これについては大葉昇一が『モンゴル帝国=元朝の軍隊組織』の中で指摘してる。
モンゴル社会では一族に兵役の対象となる成人男子が2人いれば2戸と数えたということ。

500 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 02:17:29.96 0.net
いいや違うよ、カラコルムから見つかった文書中に
十人長の領有している戸に関する記載があり
1戸を領有しているケースが多く見られるけど
戸=人じゃ意味不明だよね。

自分なりに解釈を編み出すのは悪い事じゃないけど、裏付けは取らないとね
モンゴル帝国の把握単位の基本は軍事面では人だが、戸籍は家

>家に男子15以上70歳以下の者があれば、多少に関係なく全てを集めて兵とした
のは軍戸に属する兵士、民戸と軍戸をモンゴルは区別している

501 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 02:46:19.36 0.net
戸=人が成立するならそもそも旧金領の人口がたった100万人って事になっちまうで・・・
元史には4,754,975人って書いてんのにさ・・・

502 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 05:40:11.01 0.net
>>500
モンゴルにおけるミンガンが家単位じゃないってのは元史兵一で裏付けられてることじゃん。
15歳〜70歳の成人男子は一家から何人でも兵役の対象になったんだから。
モンゴルでは税制だって家単位じゃなく成人男子一人ごとの人頭税だし。
そもそも、129ミンガンが家単位だって解釈の根拠を何も提示してないよね。
裏付けのない自分なりの解釈を編み出してるのはどっちなのさ?

503 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 06:52:58.48 0.net
>>501
モンゴル及び西域諸国と旧金領とでは戸の意味が違う。
モンゴル及び西域諸国では丁(成人男子)一人を以て一戸と為す。
だからチンギス汗の死後行われた129ミンガンの分封も戸=人。
でも、1236年に旧金領の人口調査を行った際に、モンゴル式の「以丁為戸」を漢人には適用せずに
従来からの制度を尊重することになったんよ。

504 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 09:58:32.70 0.net
誰も気にしてないようなので聞くが
「チンギス汗死亡時の総兵力12万9000」についての出典って何?

505 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 13:45:21.73 0.net
>>502-503
兵役を務めたのは軍戸、千戸・百戸・十戸長は軍戸に割り振られた役職分の人数を管轄した。
それらの部民が所有する大多数を占めた大量の奴隷は兵役を負わず
軍系統とは別の徴発官によって家を単位として管理もしくは放置された。

506 :世界@名無史さん:2012/09/14(金) 14:19:18.56 0.net
>>504
ラシード・ウッ・ディーンの『集史』。

>>505
モンゴルでは徴発官による管理も家単位じゃなく人単位だよ。
ソースは、『元文類』 巻五七 中書令耶律公神道碑

「朝臣共欲以丁為戸、公独以為不可。皆曰、我朝及西域諸国莫不以丁為戸。」

モンゴルでは軍制も税制も人単位だったのに、チンギス汗死後の分封が家単位だったわけないじゃん。

総レス数 982
254 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200