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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

896 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 20:46:47.30 .net
>>894
てめーは、あほか。

897 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 20:49:01.57 .net
>>891
秦氏の氏としての役割と一致してるだろ
蘇我氏など有名氏族以外の渡来人の管理をしてたのが秦氏なんだから

そのまま「ハタ=外国」の氏だろ

898 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 20:51:52.61 .net
ヤハタの神=いろんな外国神

いろんな外国神を渡来人の代表者だった秦氏がまとめて祭ったのが八幡神社

外国人の中には遊牧民も多かった
秦氏の源流のひとつである弓月氏が中央アジア系というのもある程度事実だろう
ただ唯一の源流ではないというだけ

899 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 20:55:30.02 .net
秦酒公の大酒神社が大避でダビデにまつわる名前だっていう説があるけど


俺はどちらかといえば海が裂けて道ができるモーセの説話から取ったと思うぞ

一般論として人の名前は伝わりにくいが、物語は伝わりやすいんだよ

アレキサンダー大王もインドではイスカンダルだし
名前は伝播するにつれてちょっとずつ変わっていく

900 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 20:57:33.59 .net
そして当然だけど仏教も倭王権に先駆けて秦氏が受容してただろうね

秦氏が持っていたはずの仏像や秦氏の領地にあったはずの古寺はどこに消えたんだろうな

901 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 21:21:38.46 .net
こいつは何を言ってるんだ?w
偏差値40ぐらいだろおまえ

902 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 21:27:07.42 .net
ホータンマンって呼び方良いな
変な外人の名前っぽいのが皮肉効いてる

903 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 22:08:02.02 .net
>>895
こんな所でそんなどうでも良い事語ってもスレ汚しなだけ

904 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 22:11:58.86 .net
>>889-891が841のレスだったら建設的なレスは835-837のみ
そしてこれは至極興味深い、というただそれだけの話

お前らの欠陥知識云々とかそういうのどうでも良いんだよ、嫌味ではなくまっとうな純正学問知識を存分に披露して欲しいと願う

905 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 03:02:00.73 .net
>>897
弓月氏が中央アジア系というのもある程度事実というのは卓見だ。
しかし、いろんな外国神を渡来人の代表だった秦氏がまとめて祭ったのが八幡神社、というのは浅瀬の石ころ。
深みに欠ける。
なぜわざわざ宇佐八幡に祭ったのか理由が書けてない。

906 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 03:11:05.97 .net
>>902
アイヒマンだけはやめてくれ。

907 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 08:14:31.76 .net
宇佐八幡に祭った理由は「空いてたから」だと思うよ単に

渡来人の神なんだから朝鮮半島~大阪湾の渡来ルートのどこかに祭るところを作りたいわけだ
みんなが立ち寄りやすいところに

その「みんなが立ち寄りやすいところ」の中で空いてたのが宇佐だったってことだろ

というか宇佐以外にもあるじゃん大阪湾にも福岡にも

でも大阪湾や福岡は他にも神社が多くあってそこまで参詣を集めなかった

宇佐は大きな神社がそこしかないから宇佐が渡来人以外からも参詣を集めて大きくなったってことじゃないか

908 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 09:18:16.86 .net
資料に基づいた根拠も示さない妄想はオカルト版でやってくれよ

909 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 10:24:40.00 .net
秦氏がどこから来たかという妄想を語り合うスレだろバカか

古代史に根拠なんか現存してるわけねーだろ

910 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 14:45:27.69 .net
>>907
秦氏がごっそり渡来系の人民を囲い込んだのが宇佐地方だった関連から、ついでに「たくさんの外来神」も宇佐に押し込んだのだ、くらいの解説が出て来るかと思ったが、なんだ単に「空いていた」からか。

911 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 17:40:33.10 .net
>>909
実存した氏族について語るのに単なる妄想のやり取りして何の意味があるんだよ 脳内お花畑かお前は
小卒かお前は 最低限でも文献その他の資料に基づく根拠を示せゴミが
それができないなら単なるオカルトだよ 消えろ

912 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 18:14:47.04 .net
根拠資料が現存してたら謎の秦氏とか言われてねーわ

根拠資料がない中で、根拠資料がないなりに少ない事実と解釈を積み上げて説得力のある仮説を立てていくゲームだろ?っての

これは邪馬台国論争も同じ

「根拠がないことを言うな」なんて言ったらこのゲームは成り立たないんだよ

わからないか?

913 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 18:32:23.80 .net
大避がダビデで太秦がローマ、稲荷はINRIでキリスト教だ!って言いたいんだろお前ら
でも頭領の秦河勝が建てたのは仏教寺院なんだよ

914 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 00:13:34.24 .net
その秦河勝が建てた仏教寺院の境内の配置が、エルサレムの神殿の配置とまったく同じなんだよな。

915 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 00:27:04.11 .net
大避(ダイヒ)はダビデというのは、現代のこじつけ。
大避(オオサケ)が正しい。
誰かが、紅海の海が裂けたことを表しているのが大避(オオサケ)だと言っていたが、ダビデも紅海亀裂もダメダメ。
大避(オオサケ)は、神がエジプトの子どもを無き者とするとき、イスラエルの民たちは自分たちの子どもへの難を避けるために、門に血を塗って結界にした。
この神の災難を避けた故事を表すのが大避(オオサケ)だ。
ここからイスラエルの民の荒野の苦行がスタートするわけだから、大避(オオサケ)はイスラエルの民の苦難の旅を象徴する言葉なんよ。

916 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 10:19:03.39 .net
そこだけ何でユダヤかホータンの言葉じゃないの 都合よくつまみ食いするよなお前は 笑かしてくれる 漢人がから逃げてきただけだなやっぱり

917 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 10:20:54.67 .net
>>914
具体的にはどこが一緒なんだ?

918 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 10:30:49.52 .net
>>916
漢人っていっても新羅人なんだよな

渡来してきた新羅人はなぜか漢人を自称した

919 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 14:33:05.18 .net
>>916
神社ができるのは仏教寺院が建てられるようになってから。
まあ、飛鳥時代頃だろうね。
だいたい7世紀。
だから、大避神社は7世紀以降のものになる。
秦氏が渡来した4世紀末頃からは、200年ほども経っている。
さしもの秦氏も、トルコ語よりも日本語生活に馴染んでいたということだろうね。

920 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 15:07:05.13 .net
>>917
エルサレムの神殿 (東西軸線上に並ぶ) 入口→銅の祭壇→聖所入り口両脇に柱→聖所→至聖書
広隆寺 (南北の軸線上に並ぶ) 入口→講堂→上宮王院太子殿入り口の両脇に灯篭→上宮王院太子殿→新旧霊宝殿

双方異なるのは並ぶ軸線方向だけで、エルサレムの神殿は東西軸線上に並び、広隆寺は南北軸線上に並んでいる。
このほかに、神殿域の南にはギホンの泉があり、広隆寺では西側にイサラ井がある。
広隆寺の方位を90度回転させれば、神殿と広隆寺の配置、ギボンの泉とイサラ井はそれぞれぴったり重なる。
このほかにも類似物はあるが省略。



双方の方位の違いは、広隆寺が立地した場所の地形などによるのではないか。

921 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 16:36:39.44 .net
エルサレムの神殿ってのは具体的に何神殿なんだ

922 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 21:05:06.25 .net
>>921
エルサレムの神殿=ユダヤ教の神を祀る聖所

923 :日本@名無史さん:2023/09/07(木) 21:23:51.17 .net
>>922
いやだから、すべての神殿が同じ作りではないやろ?と

924 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 01:29:27.52 .net
>>923
ソロモンの時代の神殿やがな。
イスラエルの民の栄光の時代やぞ。

925 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 01:46:46.59 .net
いやだからそんなことは聞いてない
エルサレムの神殿とはどの神殿かと聞いている
エルサレムに神殿は複数あるだろと

926 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 02:08:17.04 .net
旧市街の神殿の丘やがな。

https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102003126

927 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 02:13:14.13 .net
ついでやが、赤穂市の大避神社の面とホータン出土の面が、よう似てるわ。
弓月君がホータンから来たのは、間違いないで。

https://www.ako-minpo.jp/smp/news_834.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD

928 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 14:13:46.19 .net
全く似てないし どこが似てるんだよ いい加減にしろ

929 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 15:55:37.50 .net
わかるわかる
実は日英同祖論もあるぞ
意味はミーン
道路はロード
名前はねーむ(ローマ字でna me なめ 訛れば ナメェ)
台風はタイフーン(笑)

930 :日本@名無史さん:2023/09/08(金) 16:00:51.30 .net
実は日英は同祖だっていう証拠を詳しく(もちろんネタ)
日本語&英語訳 ←→ 英語
設定 ←→ setting(セッティング)
掬う ←→ scoop(スクープ)
イライラさせる ←→ irritate(イラテイト)
負う ←→ owe(オウ)
簿記 ←→ book keeping(ブックキーピング)
信号 ←→ signal(シグナル)
茶 ←→ tea(ティー)
浮浪者 ←→ hobo(ホーボー)
買 ←→ buy(バイ)
坊や ←→ boy(ボーイ)
籠 ←→ cage(ケージ)
妨害 ←→ jammer(ジャマー)
なし ←→ nothing(ナッシング)
冗談 ←→ joke(ジョーク)
だるい ←→ dull(ダル)
缶 ←→ can(キャン)
吠える ←→ howl(ハウル)
骨 ←→ bone(ボーン)
塔 ←→ tower(タワー)
煤(すす) ←→ soot(スート)

もちろんいくつか借用語もあるぞ!問題無いな!?

931 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 00:27:38.36 .net
>>926
顔ひらべったく丸いし、目玉も丸い、額にバンド巻いて髪を上に反り上がらせているのも同じ。
大避神社の面の鼻は、取って付けたようで、天狗を真似したものだろう。
ホータンの面の鼻は、そんなに長くない。
双方は、瓜二つと言っていい。

おぬしは、目が節穴とちゃうか。

932 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 00:30:01.61 .net
>>930
和語はそれでいいが、漢語は関係ないやろ。

933 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 03:54:48.56 .net
>>930
秦氏のトルコ語は、そんなダジャレみたいなものやない。

例えば、日本語で果物などの種は、タネと発音する。
しかし、この種の漢音はシュで、タネとは異なる。
また、この漢語のシュの発音が訛ったのが韓国語の種で、発音はssias(シア)だ。
そして、日本語の語彙と大いに関係するベトナム語では、種はhat(ハ)だ。

このように、日本語の種(タネ)と似たものは、まったくみられない。
そこで、いろいろ探してみると、トルコ語に行き当たるのだ。
驚くなかれ、トルコ語で種は、tane(タネ)なのだ。
このことからすると、日本語のタネ(種)は、トルコ語のtane(タネ=種)が語源の可能性が極めて大きい。
そして、秦氏はトルコ語話者だったというワイの説からすると、タネ(種)の言葉は秦氏のトルコ語がもたらしたものだとほぼ断定できるだよ。

ダジャレでは、こうはいかんやろ。

934 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 10:18:43.85 .net
こいつは何を力説してんの?
秦氏がトルコ語話してたなんtね証拠が一切ない上に
ホータン人がトルコ語話してたわけでもない

お面が似てたとしてもだから何なんだと言う話
同じ系統のお面には全く見えないので目が丸いとか言われたところで、当たり前過ぎて意味はない

935 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 12:35:08.18 .net
>>931
論理の飛躍が酷い

B(古)とC(新)が似てるとして CがBから来たとは限らない
BがAからコピーしただけかもしれないからだ
言ってることが小学生とレベルが変わらんと自覚してくれ

936 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 12:49:12.77 .net
>>932,933
875,876書いた者だがそれに関しては何の反論も無いよ、その通りだと思う
俺のはこのスレの日ユ同祖論などへの当て付けレベルではあったな、すまん

一見誰もが本気にしない共通祖先の感じられない言語でも対応している言葉は割と多いので、
これは音対応的な心理学も絡む別な研究課題提起にはならないだろうか(というか既に有る筈)と感じた次第

まぁ、日本人が横文字をサラッと混ぜるのもこうした親近感と使い勝手の良さが理由の1つかも知れないね

937 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 13:41:06.98 .net
>>936
そこらのアホどもと違って、率直なところが頭の良さを感じさせる。
だが、心理学へ持って行く論理転換は、コロ付きゴールポストの移動と同じ。
つまり、ワイ説を心理学的ダマシ現象に同定して、実際の語彙移動はないとする否定論。
言語を異にする異民族が身近にいないという日本の特殊環境から生まれたトルコ語話者の日本移住を信じないガラパゴス脳は、やはり時代遅れ。
異民族と歴史的に闘争を繰り返してきている漢族国家やその他の大陸国家では、さすがにそのようなガラパゴス脳の論者はいないだろう。
トルコ語を話すユダヤ教徒なんてざらにいすぎて、むしろ特殊性はゼロの存在だ。
反省したまえ。

938 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 13:57:29.99 .net
>>934
お面が似ていて、その一方の面は秦河勝が作ったとする伝承があるとなれば、その秦氏は西域ホータンとなんらかの関連があることが推測されるよね。
そして、この面を所蔵している神社は大避神社の社名を持つのだから、秦氏は西域ホータンから来たユダヤ教徒だったとする推測が生まれてもなんの不思議もなく、むしろ当然のこと。
第一、この大避神社の神主は、ウイグル人系の顔してるしな。

939 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 15:26:36.81 .net
秦河勝って名前にも一応、トルコ語で紐解ける意味があったりするんだろうか
あと縄文人あたりになんかハザールとの繋がりを感じているブロガー考察組とかも居るよね

940 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 15:30:16.64 .net
>>937
俺は比較言語学的な専門知識が皆無だから、そこまで突っ込んで考察が出来ない
俺のスタンスとしては帰属意識が日本人だからか海外の唱える日ユ同祖論は不信に感じるけど、
同族であるはずの日本人が唱える各種同祖論には興味があるんだよね
ただそれだけであって、結局ダブスタな見解になってしまい申し訳無い
まぁ否定的な表現になるから最後に持ってきて濁す感じにしたいが、どれもまだ半信半疑なんだよね

941 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 17:37:15.60 .net
半島にユダヤ系、ホータン人の集団がいた記録はないし痕跡もないと来たらもう
中国ですらユダヤ人が万里の長城を越えて入ってきたのが確認されたのはずっと後
まあ秦氏の墓場にユダヤ系なら絶対にあるはずの特徴がないなら諦めたまえ

942 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 18:37:25.30 .net
正直、日ユ同祖論は目的と手段が乖離した陰謀論的なものを感じる
海外との親和性を語る内容は明治政府が樹立される以前から既に普遍的に存在はしていたけど、
俺は単純にそこに論理的正統性を探る足掛かりとして戦国時代から宗教的な植民地化を模索する勢力の何かがあったからだと勘繰ってしまう
時の将軍のほぼ全てが仏教・キリスト教に寛容でありながら、常に政権を反故にする能力を見せ付けると徹底的に弾圧していたのは
政変の憂いというよりも海外のように国内の倫理的基準を掌握される事での不幸の増加を未然に防ぎたかった狙いがあったからじゃないかと思う
例えば仏教やキリスト教の教え以上に都合良く解釈を歪める事でのこれらの変質は未然に防がれていた筈だ
これらの大前提として殺害を是とはしていない
これらは僧兵や教化による民族浄化の動向を数百年潰しまくった事でこれらに纏わるカルト化の怪異は江戸まで起こっていない事から判る

943 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 21:15:28.89 .net
>>939
河勝の名は、三輪山の神の子とする縁起に由来するようだ。
泊瀬川の氾濫で大神神社の前まで流されて来た子を見た欽明天皇が、以前見た夢のことを思い出して、奇瑞としてその子を殿上に召した。
この子が秦河勝で、洪水に勝ったという意味で河勝(河に勝つ)と自称したというもの。
パターンとしては、川を流れてくる丹塗り矢伝承と同じ。
神の子を表している。
欽明天皇の愛顧と三輪山の神の子に縁起づけていて、大族秦氏に大きな箔付けをしているものだ。
今のところ、トルコ語との関連は調査中。

944 :日本@名無史さん:2023/09/09(土) 21:45:23.29 .net
>>939
秦河勝をかなり無理してトルコ語で解釈してみると、次のようになる。

トルコ語 kahkaha(カフカハ)=笑い声、笑い

これを短縮して、kahka(カフカ、カハカ)でも同じ。
意味は、笑い声、笑い。

このkahka(カフカ、カハカ=笑い声、笑い→楽しい)をカハカッに手直しして、泊瀬川の洪水に勝った子の奇瑞伝承化すれば、カハカッ→河勝は可能だ。
まあ、元々はトルコ語のkahka(カハカ=笑い声→楽しい)だろうな。

945 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 02:49:17.84 .net
>>944
トルコ語のkahka(カハカ=笑い声、笑い→楽しい)、これが秦河勝の俗名だろうな。
にわかには信じがたいが、可能性はある。
ハタ・カハカ。

946 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 07:46:38.87 .net
お前の妄想力にはいつも感心するよ
ぜひ文学方面で頑張ってくれ給え

947 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 08:00:09.44 .net
謎の氏族だから好き勝手に妄想するしかないんだってさ
言うほど謎でもないんだけどな…

948 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 15:01:38.11 .net
やっぱり、無理すると調子が狂う。
秦氏のトルコ語がもたらした言葉が、tane(タネ=種)。
日本語の種(タネ)は、この秦氏のトルコ語のtane(タネ=種)が語源。
秦氏がトルコ語話者だったのは、これをみても明らか。

949 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 15:19:07.05 .net
トルコ語を話すユダヤ教徒は、大陸においては別段特別な存在ではない。
黒海沿岸に住むクリムチャク人はユダヤ教徒で、「鬢のあるユダヤ人」と呼ばれ、「鬢のないユダヤ人」とは区別されている。
そして、このクリムチャク人が話す言語クリムチャク語はチュルク語系なのだ。
つまり、トルコ語を話し、鬢を長く伸ばすユダヤ教徒は、大陸ではとくに珍しいと言うわけではないのが分かる。

つまり、トルコ語を話すユダヤ教徒なんて、なにそれ、信じられないと叫ぶのは、言語的に隔離された環境にいるガラパゴス日本人だけなんよ。

950 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 15:25:13.16 .net
ユダヤ人=ヘブライ語というステレオタイプの先入観は捨てるべき。
話語としてのヘブライ語は2世紀頃には完全に廃れていた。
ユダヤ教徒は、2世紀以降にはヘブライ語では話していなかったというのが歴史事実。
では何語を話していたのかというと、移住した先の言語をそれぞれ話していたということ。
ホータンに住んでいたユダヤ教徒弓月君は、ごく当たり前に現地のトルコ語を話していた。
で、日本に移住してきた弓月君がトルコ語話者だったのは、当たり前中の当たり前なのだね。

951 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 15:58:18.62 .net
証拠がないんだからオカルトだね
秦氏がユダヤでもホータンでもいいが、商売人なら持ち込んだはずの当時中央アジアで流通してた通貨や金貨が一つでも国内で見つかってるなら出してみな

半両銭は国内の複数の場所で見つかってるよ

952 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 20:38:34.52 .net
>>951
いや、当時、日本では金貨という概念はなかった。
持って来た金貨があったとしても、日本ではそれらは金貨という価値物ではないわけだから、金貨は鋳つぶして金として用いたはず。
だから、考古でも出土しないのよ。
このあたりの実態について、>>951はまったく見当はずれとしかいいようがないので、シモ。

953 :日本@名無史さん:2023/09/10(日) 20:46:15.11 .net
>>951
半両銭は、銅貨。
しかし、弓月君がどっさり半両銭を持ち込んでいたとしても、この時期、日本では銭貨はまだ制度化されていなかったことから、珍物として少し手元に置き、その他は鋳つぶして青銅器の材料にされただろう。

954 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 11:04:46.15 .net
どうでもい仮面を証拠にしてるような奴はこの程度です
ユダヤ人の財産といえば絶体的にゴールド、金だが秦氏にそんな伝説はないもんな。秦氏の金貨が見つからないのもユダヤ人じゃないからだわ。

955 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 11:15:54.13 .net
>日本ではそれらは金貨という価値物ではないわけだから、金貨は鋳つぶして金として用いたはず。
だから、考古でも出土しないのよ。

銅でも建築の飾りその他に使うから一緒なんだよボケ
秦氏は全くユダヤ人らしくないな こいつの勝手なオナニー自説に都合のいい解釈には呆れるわ

956 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 11:23:57.02 .net
>金貨は鋳つぶして金として用いたはず。

例えば? ユダヤ人の金細工みたいなのは国内産で見つかってないでちゅよ

957 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 13:49:35.96 .net
ホータンマンはユダヤのこともテュルクのことも碌に知らないから仕方ないよ

958 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 15:30:57.31 ID:V1Yn8rGep
貨幣制度もなく、金細工の需要もなかった4世紀末頃の日本に、金貨や金細工がみつからないのでユダヤ人はこの時期にはいなかったと歴史背景無視のご高説を垂れる筋違い論者は、秦氏を語るに欠陥があると言わざるを得ないよね。

959 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 15:57:00.52 .net
>>956
金細工そのものが、その時期の日本で需要がなかった。
需要がなく、価値がないものをわざわざ造らないよね。
ユダヤ人が価値ある物とみなした物品は、この時期の日本では価値がなかった。
だから、考古発掘では出土しない。

ちゃんと、時代背景を考えようね。

960 :日本@名無史さん:2023/09/11(月) 15:59:00.24 .net
>>957
ガラパゴス男が胸張ってるのが、可笑しい。

961 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 00:27:35.63 .net
末裔です

962 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 01:02:39.03 .net
>>956
金細工物は半島や中華で造られたものはブランドとして価値があったが、ユダヤ人が作る金細工物は4世紀や5世紀の日本で価値があったかどうか。
価値を持たない物をつくるより刀の象嵌に用いるほうが、まだ価値があったろうから、そっちの方で用いたのとちゃうか。

963 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 01:28:37.00 .net
済州島(耽羅国)の赤く塗られた門は稲荷系の鳥居そっくり

秦氏の交易範囲だと思われる

964 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 04:21:23.18 .net
中国では古来、門柱や扉に朱を塗るのが伝統だからな。
耽羅の門に朱を塗ってあるのは、中国の影響だろう。
日本の鳥居の朱塗りも中国の影響か。
しかし、日本では縄文時代から朱が墓に用いられているから、鳥居の朱塗りもいろいろありそうだよ。

965 :日本@名無史さん:2023/09/12(火) 04:48:07.15 .net
秦氏は太秦から埼玉の行田まで交易路を構築していたようだ。
その交易路は、太秦→四日市→尾張→諏訪→行田のルートと見られる。
この中で、語義がよく分からないのが諏訪(スワ)だが、これを秦氏のトルコ語で見ると次のようになる。

スワ(諏訪)
トルコ語 su var(スバ)=水がある

水があるとは、どういうことか。
諏訪で有名なのは諏訪湖なので、これが「水がある」という言葉が指し示しているものであるのは明らか。
そして、su var(スバ=水がある)の発音と諏訪(スワ)の発音がほぼ同じあることからすると、諏訪(スワ)はトルコ語のsu var(スバ=水がある)が語源の言葉であるとすることができるのだ。

このように、秦氏のトルコ語の存在は、交易路の関連からあちこちで確認できるのだね。
これは、日本語のタネ(種)がトルコ語のtane(タネ=種)とまったく同じであることと軌を一にすることなのだ。
もはや、秦氏がトルコ語話者だったことは、疑えない事実なのだよ。

966 :日本@名無史さん:2023/09/13(水) 18:14:17.64 .net
半島にあった秦韓は秦帝国の中国系移民から成った国でした

『後漢書」、「三国志(魏書)」「晋書」の辰韓伝では

・労役や厳罰など秦の圧政から逃亡してきた秦人が半島に来た事。

・三韓の内の「馬韓」が東の地に彼らを住まわせ「辰韓人」と呼んだ事

・王族は馬韓の人が務めた事

・秦の言葉が混じった言語を使っていた事

などが書かれています。

時代が下った「北史」の新羅伝でも新羅の前身が辰韓・秦韓であった事と併記してほぼ同じ記述があります。



最初の記述を後続の史書が踏襲した可能性も大きいのですが、現時点では中国史書にしか記述が無いのですから信じざるを得ないという事かと思います。

967 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 04:06:26.71 .net
秦韓の秦(シン)の字は、辰韓の辰(シン)に置き換えたものだと思う。
秦の長城労役から逃亡してやってきたという伝承があって、その秦(シン)の字を同音の辰(シン)の字に当てたということ。
辰韓の辰(シン)は十二支の5番目だが、これを方角に当てるときは東南東の方位を指し、馬韓から見て辰韓は東南東の方角に当たることから、この地を辰韓(馬韓の東南東にある地方)と呼んだものだと思う。
なので、辰韓が正式な呼び名であって、秦韓は正式名呼び名ではなかったと思うね。

968 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 07:24:13.64 .net
馬韓から見ての方角で辰と呼ばれた訳がない 

969 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 07:29:19.02 .net
秦韓も正式名称
倭王が大陸政府にもらった称号に入ってる国名だからな

970 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 07:32:12.79 .net
ホータン野郎はこの程度の知識しかないってことやね

971 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 14:46:44.81 .net
>>969
理解の程度が低すぎ。
秦韓は、中国王朝の認識や。
半島における認識とは別。
魏志韓伝では辰韓としており、秦韓なんてどこにもない。
半島での正式名称が辰韓だったことは、明らか。
魏志韓伝の辰韓の150年ほども後になって、宋書に秦韓が登場する。
しかも、宋王朝による認定であって、半島での正式名でなかった。
よくよく考えてみたまえ。

972 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 14:58:45.87 .net
>>971
訂正
魏志辰韓伝に秦韓はないとしたが、秦韓の呼称はある。
ただし、秦韓と呼ぶ者もいるとしているのであり、正式名称は辰韓だよ。
この辰韓(シンカン)の辰(シン)と発音が同じなので、秦韓(シンカン)と呼ぶ者もあったということ。

973 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 18:03:26.37 .net
じゃあ秦韓はあるじゃないかw

974 :日本@名無史さん:2023/09/14(木) 23:18:00.24 .net
どれだけ反証されても秦氏はユダヤでテュルクでホータンなんだという奇説を頑なに唱え続けるのって普通に何かしらの病気だと思うよ
専門板にはよくいるタイプだが

975 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 01:07:37.99 .net
>>973
正式な名呼び名は、辰韓。
その辰韓をもじって、秦韓と呼ぶ呼び方もあった。
秦の苦役から逃亡した者が居付いたところなので、秦韓と呼ぶ呼び方もあったということ。
なので、この時期には、辰韓が正しい呼び方だった。
そして、その辰韓の名の由来は、馬韓から見て辰(東南東)の方角にその土地があったことによる。

第一、魏志韓伝自体が、辰韓の呼び名を用いている。

976 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 01:17:08.37 .net
>>974
それらしい反論は、なかったけどな。
あったのは、根拠を伴わない単なる主張だけ。

977 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 01:30:27.00 .net
秦氏系図では、弓月君の子は4人いて、真徳、雲師、武良、裏東の4君。
このうち浦東(ホトゥ)がホータンの略だとすれば、他の3人もタリム盆地あたりのオアシス都市の名に違いないと目星を付けて、地図上を探してみると、まぎれもなくこの3君と同じ発音の都市が見られるのよ。
ということは、タリム盆地のオアシス都市のこの者たちが一団になってタリム盆地を脱出して、日本にやってきたということになるわけだ。
そして、そのうちの浦東君(ホータン脱出者)が、秦氏の祖ということになっているのよ。

こうしたデータに根拠ある反論もせずに、ただただ、ソレハネーヨの一言だけだからなあ、おぬしらは。

978 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 09:38:33.62 .net
倭王武が宋朝から正式文書で与えられた称号とは・・・

478年 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に任じられる。

哀れなりホータン爺

979 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 09:42:55.60 .net
ホータンから来た連中が何の関連もないのに勝手に秦氏を名乗れるとでも思ってんのかねこいつは

秦姓を名乗る氏族が大陸にいるということが分かっていないし、比較検討すらしていないわな
ただただホータンから来たの一点張り 証拠は一切示さないので論外

980 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 09:48:42.42 .net
>>977 そういうのはこじつけであって証拠にはならない

だったら証明してみろと言われても何もできないのがお前

981 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 14:25:57.88 .net
>>978
ちゃんと考える脳味噌持ってるなら、この南朝宋の文書がおかしいのは、すぐ分かること。
新羅=秦韓とすれば、新羅と秦韓が別々の国だと書かれているいる。
また、慕韓は馬韓であり、馬韓は百済のことなので、百済が書かれていずに慕韓となっていることもおかしい。
宋は百済を倭国王の軍事領域に入れていないので百済は書かれていないが、百済と同じである慕韓はちゃっかり書き入れている。
こんな文章が正式な認定証であるわけがない。
なので、秦韓が正式な呼び名であったとは、到底考えられない。
辰韓が正式なんだよ。

982 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 14:39:22.24 .net
辰韓、馬韓と書かずに秦韓、慕韓とずらした書き方をしているところがミソだ。
辰韓、馬韓じゃありませんよ、別の秦韓、慕韓ですよ、とだましの書き方をしているわけだ。

983 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 19:36:42.02 .net
>>975
そりゃ漢の楽浪郡があるのに、秦韓なんて名前を残してたら、秦復興を目指していると疑われて滅ぼされるだろ。
身を護るために辰韓に変えたのだろう。

984 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 19:36:44.24 .net
>>975
そりゃ漢の楽浪郡があるのに、秦韓なんて名前を残してたら、秦復興を目指していると疑われて滅ぼされるだろ。
身を護るために辰韓に変えたのだろう。

985 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 19:42:46.45 .net
>>979
弓月君が渡来した4世紀末頃は、日本ではまだ漢字がうまく使いこなせてない。
そんな状態で、ハタに秦の字を被せることができたわけがない。
秦の字は、ウズマサに太秦の字を被せた頃にその太秦の秦を取ってハタに被せたものだ。
ずっと後のことなんよ。

ほんじゃ、ハタは、いつからこの一族の族名になっていたのかというと、出身地のホータンを短縮したホタが訛ってハタとなったと考えれば、弓月君の渡来後すぐにハタの名は成立していたとするのがよいということになる。
論が一貫しとるだろが。
おめーらみたいに、具体的例証なしのシンジラレン一点張りとはわけが違うよ。

986 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 19:54:28.31 .net
>>983
そもそもが、馬韓から見て辰(東南東)の方角にある地方だから辰韓と呼ばれたのよ。
その辰韓の辰(シン)に、秦からの逃亡者が居ついたところという意味で秦(シン)の字を被せたのが、秦韓。
辰韓がドンと押す太鼓判、秦韓は軽く押す認め印みたいなもの。
その違いは大きいのだなあ。

987 :日本@名無史さん:2023/09/15(金) 23:38:20.18 .net
>>978
讃が朝貢して大将軍の肩書を求めたのは、宋太祖の元嘉年(425年)。
この時の奏上文に新羅と秦韓がみえる。
新羅と秦韓が別の国のように記してあるのが分かる。

これは、どういうことかと考えれば、次のように解釈できる。
元々、辰韓と呼ばれた部族連合体の中で、斯盧国が力をつけて新羅と名乗るようになる。
この時点では、新羅は他の部族をまだ吸収併合できていず、それらの部族連合は辰韓諸国ではなく便宜的に秦韓諸国とよばれるようなずらした書き方となったと思われる。
これは百済も同じで、百済は大きくなったものの、馬韓諸国をまだ吸収併合できていない状況だったため、それらの部族連合は馬韓諸国ではなく慕韓諸国とずらした書き方がなされたと思われる。
このように見ることが可能であれば、秦韓は便宜的な呼称だったということになる。
たぶん、これが宋書倭国伝の讃の奏上文の実態だろう。

つまり、この時点では、辰韓はすでになくなっていて、新羅と秦韓諸国に分れていたということが言えるだろう。
ということは、辰韓と秦韓は同じではなかったということだな。

988 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 00:09:13.03 .net
>>987
この考え方が正しければ、弓月君が渡来した4世紀末頃には、半島には辰韓の呼称はあったが、秦韓の呼び名はまだなかったということになる。
その後、半島では斯盧国が力をつけて大きくなり新羅と称するようになった結果、辰韓諸国はまとまりをなくして、新羅以外のこれらの旧辰韓諸国は秦韓と便宜的に呼ばれる部族連合になっていたということだ。
そして、倭王の讃が宋王朝に朝貢した425年頃には、かつての辰韓は大きくなった新羅と残余の秦韓諸国に分裂していたと理解すれば、讃の奏上文をそのままに受け入れることができることになる。

なので、秦氏が秦韓の秦の字をハタの名に被せたのだとすれば、それは弓月君が渡来した4世紀末頃のことではなく、それから30数年くらいも後になってからのことになるわけだ。
しかし、その仁徳のころに、氏族の名に漢字を被せることが慣習的に行われていたかどうか、その検証が必要だろうな。

989 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 09:17:14.79 .net
「秦」の漢字が重い・・・
ホータンから来た中央アジア顔の氏族が存在しヤマトに渡来してきたとしても、軽々しく「秦」姓を勝手に盗用し名乗るなどできるものではないことは分かる
ホータン爺はしばらく閉門し外出せず反省した方がいい

990 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 09:25:04.32 .net
ホータン爺はこういう無知なやつなので、一切信用がない

>>967
> なので、辰韓が正式な呼び名であって、秦韓は正式名呼び名ではなかったと思うね。

991 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 14:30:00.72 .net
>>988
5世紀後半とされる埼玉行田の稲荷山古墳出土鉄剣の銘では、人名が多数刻まれているが、すべて万葉仮名風の漢字音でその名が表されている。
そして、この鉄剣銘には、一族の苗字に当たる表記はみられない。
このことからして、5世紀後半においても、倭人は苗字のようなものを持っていなかったことが推測される。
つまり、弓月君の子孫たちも、5世紀後半には氏族を表す苗字のような名は持っていなかったと考えることが可能だ。
つまり、弓月君の子孫たちも、この時期にはまだ漢字による秦(ハタ)の氏族名を持っていなかったとするのがよいことになる。
秦氏がウズマサ(太秦)に拠点を築くのは5世紀後半とされるが、このウズマサに太秦の漢字が当てられるのはまだ後のこととするのがよいだろう。
つまり、この時期には、弓月君の子孫たちは、まだハタ氏であって、秦氏ではなかったということになるよ。

992 :日本@名無史さん:2023/09/16(土) 14:35:42.67 .net
>>989
>>991でそのことを言っているのよ。
5世紀後半ですら、まだ氏族名に漢字を当てる習俗が成立していない。
ハタ氏はハタ氏であって、秦の漢字を被せるのはまだずっと後のことなんだよ。

993 :日本@名無史さん:2023/09/18(月) 16:01:59.19 .net
迫害から逃れ、生き延びたシュメール系ユダヤ人は、日本にたどり着いた。

994 :日本@名無史さん:2023/09/19(火) 14:33:04.12 .net
シュメールと関連するのは、の雲の八岐大蛇(やまたのおろち)だけ。
シュメール神話では、嵐の神が持つ武器がムシュマッへで、このムシュマッへは七頭の蛇の意味。
出雲神話では、嵐の神であるスサノオによって、八頭の蛇が退治されている。
シュメールの七頭蛇が、出雲神話では八頭蛇に変わっているのは、日本では吉数が偶数だったからだろう。

このシュメールの神話はペルシャ商品の交易に付随して日本にもたらされたか、中国を経由して日本に伝播したか、いずれかだろう。
ユダヤがこの神話に紛れ込むのは、まあ、不可能とちゃう。

995 :日本@名無史さん:2023/09/19(火) 15:12:56.33 .net
太陽は神の目から生まれたとするエジプト神話がインドに伝わって、これが神が目を洗ったときに太陽が生まれたとする神話に変容し、このインド神話が中国に伝わったあと日本にも伝わったとされるのが、イザナギが禊をして顔を洗ったときに左目から生まれたのが日の神だとする神話だ。
このことからすると、シュメールの嵐の神の武器である七頭蛇の神話は、中国を経て伝わった可能性が高い。
ユダヤがこの嵐の神と七頭蛇の神話の日本への伝播に関与したとは、考えにくい。

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