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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 318 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:50:09.53 ID:hyPx5R89C
- 青谷上寺地遺跡に銅戈系の人々が入って、
持ち込んだ近畿型(樋分離型)銅戈を、
占領の証に地鎮祭埋納してあったか、あるいは祀ってあったのを、
後の銅矛銅戈戦争時か、倭国乱時に、青銅原料として再利用して、
銅鏃などを作ったわけですね。
>>209
青谷上寺地遺跡には四隅突出型墳丘墓がありませんから、
後漢書の拘奴國=日本海沿岸倭種の四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
とは敵対もしくはそれまでに衰退していた。
70年まで三次市に押し込められていた、奴国王の兄達の末裔である拘奴國は、
どちらかというと、ワニ系奴国王と敵対だったわけですから、
奴国王を打倒したカモ系銅戈勢力とは敵の敵で味方のはずですね。
そう考えると、
青谷上寺地遺跡は本来は神a派で、勒島遺跡の人々も受け入れたりした。
奴国王の側についていた。
70年奴国王失脚時に一度滅ぼされ、跡地に甲羅派(焼灼V+ケズリD)が入った。
その甲羅派も、銅矛銅剣戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
と、いうことになりますかね。
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