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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

91 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 12:58:10 .net
>>20
柳沢遺跡を起点にして、四方から石戈が出土していますね。

柳沢遺跡から出土した銅戈は8本ですから、8尋の大軍ですね。
上越市から川沿いに攻め込んだ銅戈軍は初戦を勝利して、中野市で勝利式典を行った。
銅鐸は、軍神側が、物見として山腹に配備していたのを接収したものですね。

軍神本隊は、軽井沢方面へ撤退しますが、急いで逃げ去るのではなく、
背を見せつつ銅戈軍を挑発し続けます。

柳沢遺跡占領直後の銅戈軍の軍議では、
・柳沢遺跡周辺の鎮圧に専念して、北部九州からの援軍を待つか、
・柳沢遺跡から更に出陣して、自軍だけで軍神軍を討って金印を奪取するか
で、銅戈軍将軍は後者を選んだわけですね。

まだ陣中にあって、青銅原料や工房工人などありませんから、旗印は石戈で代用して、
軍を分けて、
四方に散る軍神ゲリラ部隊を掃討にかかるのと、
軽井沢方面の軍神本隊の追撃と、にかかったわけです。

四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

関東へ深入りした先の、前中西遺跡にて、方形周溝墓から石戈が出土しています。
同じ遺跡の住居からは、樋分離型銅戈型の石戈も出土しています。
が、武具などは出土していませんね。

この集落の辺りで、銅戈軍の総大将が討たれた。ということでしょう。
同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

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