5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1
1 :日本@名無史さん :2024/02/08(木) 16:19:29.40 .net ヒナモリ(夷守)がいた場所は魏志倭人伝によると 対馬国・一支国・奴国・不弥国 他には各地に地名として残るヒナモリ(鄙守)がいたと思われる場所は 小林市・妙高市・上越市・岐阜市茜部本郷など 尚2023/11/下旬にScript攻撃に遭い前スレがDat落ちしたので立て 直しました。その際過長Errorに応じスレタイ文字数を短縮しました 前スレ 5世紀頃までの国境とそれを守備する軍事的長のヒナモリについて語るスレ [無断転載禁止]c2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1481201402/
2 :日本@名無史さん :2024/02/08(木) 16:22:16.11 .net >>1 関連スレ 初期大和王権スレ [無断転載禁止]©2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1469869540/ 【阿曇・住吉・宗像】海人族 Part.8 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1695321084/ 【阿曇・住吉・宗像】海人族 Part.8 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615698467/
3 :日本@名無史さん :2024/02/08(木) 16:38:19.79 .net >>1 前スレ一部レス再掲 0027日本@名無史さん2018/04/01(日) 18:10:48.02 >>1 >対馬国・一支国・奴国・不弥国・・・・・ 『魏志倭人伝』に記された「卑奴母離」という副官の置かれた下示4か国だね。 対馬国 長官−卑狗(ひこ) 副官−卑奴母離(ひなもり) 一支国 長官− 〃 副官− 〃 奴国 長官−兕馬觚(しまこ) 副官− 〃 不弥国 長官−多模(たも) 副官− 〃 この4か国の副官名が同名なのは、何故なのか? 伊都国・投馬国などの他の国の副官名が、「卑奴母離」と異なるのは何故なのか? 0033日本@名無史さん2018/06/09(土) 19:58:09.01 >>28 以下の各国官職名ですね。 ○ 伊都国 長官−爾支(にき) 副官−泄謨觚・柄渠觚(せもこ・へここ) ○ 投馬国 長官−彌彌(みみ) 副官−彌彌那利(みみなり)
4 :日本@名無史さん :2024/02/08(木) 16:46:17.48 .net >>1 前スレ一部レス再掲 0039日本@名無史さん2019/07/15(月) 15:32:08.94 >>36 「○守」には、燈台守といった近代語だけでなく下示の如く 古語にも多数見られる。 これらに一貫する意味は、○を守る人・組織である。とすれば 万葉仮名「比奈毛里」は、表意文字では「鄙守」と置換されるべきなのだが。 奈良・平安朝廷が東夷等四夷を守る「夷守」とした理由は何だったのか? ▽ 野守(ヌモリ)・山守(ヤマモリ)・津守(ツモリ)・海守(ウモリ)・道守(ミチモリ)・ ▽ 関守(セキモリ)・渡守(ワタシモリ)・田守(タモリ)・県守(アガタモリ)・高守(タカモリ)・ ▽ 埼守(サキモリ)・島守(シマモリ)・時守(トキモリ)・棚守(タナモリ)・橋守(ハシモリ)・ ▽ 殿守(トノモリ)・市守(イチモリ)・年守(トシモリ)・国守(クニモリ)・川守(カ モリ)・ ▽ 神守(カモリ・カウモリ)・加守(カモリ)・掃守(カニモリ・カモリ)・「蟹守」(カニモリ)・・・・ なお「蟹守」は豊玉姫の鵜草葺不合尊出産時に掃守連祖の天忍人命が胎便(カニババ)を扱った伝承に由来。
5 :ネトウヨボクメツ隊! :2024/02/09(金) 12:11:29.57 .net 伊都国の爾支(ニキ)というのは、ニニキやニキハヤヒのニキと関連がありそうだな 弥生時代に九州の倭王がいたと思われる伊都国だけで使用されている名前だから、高貴な血統を持つ家系つまり記紀でいう天孫の王統に連なる王だけが名乗れる称号だったのだろう イワレヒコとニキハヤヒがお互いに天孫の子と名乗ったというからな
6 :日本@名無史さん :2024/02/10(土) 04:04:48.13 .net 宇美町じゃなくて海岸沿いなんだろ 水先案内人とか 言語がそこそこ堪能で入国審査できるやつ 都の邪馬台国からしたら 海流に乗ってこないように 同じ女王国内の北部九州人に 海賊とスパイの排除やってもらいたい 壱岐対馬が干上がらないように 物資の調達もさせないといけない 正規の貿易船は伊都国か不弥国に直接入らせる 知らん船は退治 倭人伝のあいつどうせ偵察だから唐津なんだろ 船チャーターしたり話聞いたり 買収する金品にも重量的に限度あるし
7 :日本@名無史さん :2024/02/12(月) 21:13:04.03 .net >>3 56 :日本@名無史さん :2024/01/21(日) 22:23:40.22 魏志倭人伝の各国を見ると長官の官職名には統一性が無いのに 副官は卑奴母離で統一されていたりする おそらく卑奴母離とは伊都国の一大率が派遣した目付役の官職名なのだろう だから伊都国自身には卑奴母離がいないし、主家である邪馬台国や 一大率の管轄外である南方の投馬国にも卑奴母離はいない
8 :日本@名無史さん :2024/02/13(火) 21:33:37.41 .net 後漢書韓伝、にある国々で下の八か国はすでに卑弥呼時代(2^3世紀)には、 邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。 これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を記録者が省略化したのだと思う。 卑離(ヒリ)国 占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる) 監奚卑離(カンケイヒリ)国 内卑離(ダイヒリ)国 辟卑離(ヘキヒリ)国 牟盧卑離(ボウロヒリ)国 如来卑離(ジョライヒリ)国 楚山塗卑離(ショサントヒリ)国
9 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:28:56.94 .net 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾漆 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1685646912/ 九州に決まっとろうが? 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん! 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎! ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。 根拠がなければただの妄想やけんね。 議論百出は大いに歓迎。 レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい! 前スレ 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾陸 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1667725762/
10 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:29:43.13 .net 魏志鮮卑伝の裴松之注には、魏書曰くとして「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水まで行った所、 数百里にわたって水が停滞していて、中に魚がいるのに取ることができなかった。 汗人が魚を捕るのがうまい(善捕魚)と聞き、東の汗国を撃って千余家を手に入れ、 烏侯秦水へ移し置いて魚を捕らえさせ、食料の補助とした。 今に至るまで、烏侯秦水のほとりに汗人数百戸がある。」という記述がありますが、 後漢書では「汗人が倭人」に置き換えられています。 北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、 遼西を流れる白狼水の支流に??平川水というのがあり、 「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」 . 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。 倭人たちは、どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。
11 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:30:31.05 .net >曹操軍と倭人たちは直接戦った?可能性がある。 北魏、酈道元(れきどうげん)の『水経注』には、 遼西を流れる白狼水の支流に??平川水というのがあり、 「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。 蓋し倭地。人これに移る。」 とある 白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、 曹操(魏の基礎を作った)と中国北部の異民族烏桓(烏丸)との間で行われた戦い。 白狼山の側を流れるのが白狼水で倭人の居住地や倭城があったと云われる。 曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓(烏丸)を打ち破り、 この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。 京都の烏丸(からすま)通りには烏丸川が流れてたらしいから気になる。 倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れ どうも朝鮮半島北部にまで広く活動展開していたらしい。 呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。 勾踐は北上し、 山東半島の琅邪に都を置いたと言うから海に逃げ、 山東半島から遼東半島へ島伝いに移動した可能性がある。
12 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:32:27.81 .net 倭人の倭が何を意味するのかは判らないのだが、 倭人が自分の出自を倭から来たと言った可能性は高い。 中国人にとって、倭人は東臨大海から来た人であり、 倭人は、古代より、海の神をワダツミ、陸の神をヤマツミと言った。 この倭人の海のワ・ワタが、漢字の倭なのではないかと思うが、どうだろう? >倭人と云われる人達は自分の事を 「わし・われ・わたし・わたい・わが・あ」とか「わ」をよく使うので 「倭」と付けられたのでは説がある。
13 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:34:27.31 .net >これは、700年前後の記紀より200年程前の目に触れない墓誌からの史実だけど、 三者の記録がピッタリ一致するのは、別に原資料が有ったと思われる。 よって、記紀なども決してデタラメを記録したもので無い事が証明される。 『日本書紀』継体紀 「(継体)十七年(癸卯=五二三)夏五月、百済王武寧薨」 『三国史記』百済本紀「(武寧)二十三年(癸卯=五二三)夏五月、王薨、諡曰武寧」 [武寧王墓誌銘] 「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戎朔七日壬辰崩」
14 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:35:22.57 .net 崇神天皇は長浜説で241年崩御が...古事記だと258年...318年説も根強い 垂仁天皇の崩年干支「辛未」発見で。崇神崩年干支「戊寅」を318年から258年が妥当か 垂仁天皇の崩年干支「辛未」...311年 『住吉大社神代記』崩年干支「辛未」 景行天皇の崩年干支 古事記記載なし だいたい中間とって333年ころか? 成務天皇は長浜説で350年崩御が...古事記だと355年 仲哀天皇は長浜説で355年崩御が...古事記だと362年 神功皇后の崩年干支 住吉大社本では大体370〜380年ごろの崩御だろうと推定 応神天皇は長浜説で410年崩御が...古事記だと394年 仁徳天皇は長浜説で428年崩御が...古事記だと427年
15 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:36:10.33 .net 魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、 邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。 これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が簡略化したのだと思う。 卑離(ヒリ)国 占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる) 監奚卑離(カンケイヒリ)国 内卑離(ダイヒリ)国 辟卑離(ヘキヒリ)国 牟盧卑離(ボウロヒリ)国 如来卑離(ジョライヒリ)国 楚山塗卑離(ショサントヒリ)国
16 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:37:03.57 .net ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、 3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。 後に地名、駅名、神社名等に残る。 またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。 邪馬台国時代の軍事的長。 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、 および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。 これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、 外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
17 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:37:49.95 .net 4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され 伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。 南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの 一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに 南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の 四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時
18 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:40:44.85 .net そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。 おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、 昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。 百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。 ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、 百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。 そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
19 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:41:11.11 .net この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。 478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。 「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、 さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、 475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、 「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、 安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。 が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
20 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:41:54.88 .net 七支刀。 日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが 記述されているが、この七支刀献上に関して、 日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ 「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。 紀年論によるとこの年が372年にあたり、 年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。 銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。 東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
21 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:42:35.46 .net >謎の4世紀とは、こんなもんか?? 邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって 倭国騒動で女王豊トヨが共立され、 時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜) (310年頃から?) 4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期 倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。 (360年頃かな?) そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、 百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。 三韓征伐へと向かう辛卯年(391年)の出来事。
22 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:43:21.52 .net 邪馬台国女王卑弥呼、(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年) 狗奴国の討伐。 第8代孝元〜9代開化天皇時代と思われる。 ヤマト兵と魏の軍とで狗奴国の討伐しようと画策する。 第12代景行天皇や皇子ヤマトタケルに熊襲討伐。 クマソタケル(熊襲梟帥)とは、大和朝廷に抵抗した熊襲の首長。 熊襲は頭を渠帥者(イサオ)と呼び、2人おり、 その下に多くの小集団の頭たる梟帥(タケル)がいたと記している。 渠帥(きょすい)悪人のかしら。反抗者の頭目。
23 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:44:06.90 .net 神功皇后の九州熊襲征伐。 天皇の九州熊襲征伐に随伴する。第14代天皇仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して 遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅を攻め降した。三韓征伐。 第26代継体天皇(当時の呼称は大王)時代の527年6月、筑紫国造磐井の反乱。 新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、 ヤマト政権の朝鮮への出兵阻止しようとした。 第37代斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。 第35代皇極天皇(在位:642年2月19日重祚し第37代斉明天皇-661年7月24日)。 660年、唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされたことを知り、 百済再興のため、朝鮮半島に援軍派遣を決定。
24 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:44:47.61 .net 倭の奴国王が東征し、空白になった実家、奴国に 南九州勢、肥国、熊襲が進出し大和=大倭=邪馬台連合国と対立するようになった これは、けしからんと言う事で討伐の対照に、黒幕がどうも半島勢力がチラホラと。 渠帥者とは中華世界での反抗者の事で どうも高句麗、扶余など半島戦乱時に亡命者やら敗残兵が、長崎島原ルートで 九州南部に逃げ込んだ者たちが、後に熊襲化し何百年もの反骨心が育ったのかも 肥前、肥後、日向、薩摩、と云えば日本史の世界ではいつも反中央勢力。
25 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:45:43.74 .net 『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡-297年(陳寿の没年) 魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如……」 国史大辞典万葉仮名 「を」 袁 遠 乎 越 呼 怨 烏 弘 塢 嗚 弁辰亦十二國、弁辰 彌烏邪馬國(みをやま・みわやま)国 三輪山(みわやま)国
26 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:46:32.08 .net 其瀆盧国與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服?巨エ長髪 「その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。 その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪である。 また広幅の目の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。」 馬韓にも辰韓にも王はおらず、臣智という地位が最高だったのに、 弁辰にだけ「城郭」があり、「王」が存在します。辰韓と弁辰の違いはどこからきたのか。 弁辰は倭国王の直轄地だったのでは。
27 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:47:11.78 .net (弁辰の)瀆盧国とは、今の大邱市(テグ)辺りと云われ、 その地が倭と界を接している。 と言う事は、手前の弁辰は倭国、倭国王の支配地と言える。
28 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:49:30.44 .net 良く、邪馬台国は奈良か?九州か?とか古代史ファンの間で議論になるけど 基本的になんか勘違いしてる人多い、学会としてはそれの方が有難いんだろうけど。 『隋書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」 つまり、倭国=邪馬台連合国の都・首都が奈良ヤマト=邪馬台=邪靡堆だと言い、 当然、都・首都、奈良ヤマトには邪馬台連合国の領土、領海、が有って その中には、九州北部、筑紫平野や瀬戸内周辺、四国いわゆる畿内、などがメンバー国、 ちょうど、卑弥呼時代には九州南部の狗奴国との対立が有って、筑後平野八女辺りに 邪馬台連合国の駐屯地があり、進駐軍の総督として卑弥呼がいたと云う話。
29 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:51:05.38 .net >>28 の『隋書倭国伝』の使者は、 608年裴世清で奈良ヤマトに行ったのは資料から明らか、 「倭国は邪靡堆に都す、即ち 『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」を確認した。
30 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:52:33.75 .net まだ邪馬台連合国は30か国程度で出雲など日本海沿いの国々はまだ 連合国には参加せず狗奴国と同じ状態だったのでは、 卑弥呼が共立されて女王連合国に成ったころには関東以西くらいが邪馬台国の範囲かなと。 そうじゃないと、侍女1000人も抱えられないだろう国力的に。 世界一受けたい授業より。 江戸時代、幕府の中に大奥という機関がありました。 将軍一人のために作られた機関で、女性が300人〜1000人在籍していました。 維持費は幕府の予算の10分の1、今の金額で200億円と言われています。 と言うから古代国家にとっては莫大な費用なりと。いつの時代も女は金がかかるな。
31 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:53:35.25 .net >この岡山、香川、徳島、など備讃地域には「ミマ」と付く地名が多い、 美作みまさか、三間川、美馬、御間都比古神社などなど。 ここで気に成るのが、吉備地方関係者に「友トモ」と付く名。 「投馬トモ」「鞆トモ」「玉島タマ」 第4代 懿徳天皇 大倭日子?友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記』 観松(みまつ)彦香殖稲尊(5代孝昭天皇・百襲姫の祖祖父) 御友別(みともわけ、御友別命)(応神時代) または吉備 御友別(きび の みともわけ)は、 『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。吉備臣(吉備氏)の遠祖。
32 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:54:50.34 .net 卑弥呼は239年(景初3)に難升米ら (難升米、中臣連の祖。 梨迹臣命(なしとみ) 、梨富命、那志登美、 梨津臣命(なしつおみのみこと)とも表記する。 伊賀津臣命『近江国風土記』逸文では伊香刀美、梨迹臣・伊世理彦、兄弟父。 伊香津臣命とも表記する。 243年(正始4)には伊声耆・掖邪狗ら(伊声耆、梨迹臣命弟、伊世理彦命いせり) 247年、魏に載斯 烏越を派遣し、 指し・差し、越智氏。
33 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:55:33.26 .net 天児屋根命(中臣氏祖) → 天押雲命 → 天多禰伎禰命 → 宇佐津臣命 →大御食津臣命 → 伊賀都臣命 → 梨迹臣命(なしとみ) → 神聞勝命 (鹿島神宮、中臣氏の祖)
34 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:56:45.61 .net >>32 我家(わぎへ)(wagihe) などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、 我妹(わぎも)(wagimo) などは我(waga)の最後の音節の母音と妹(imo) の語頭の母音が二重母音になることを避けている。日本人は二重母音が大嫌い! だから梨迹臣(なしおみ)(nas io mi)の(i又o)どちらかの音を避けて (なそみ・なしみ)と発音したのだろう。 伊都国の高祖山(たかおや山を taka o ya山のoを外し)も記紀などは 二重母音を外し、高屋山(takayaたかや山)と書いてる。
35 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:57:35.14 .net 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
36 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:58:20.63 .net >これらは伊勢湾沿いの国々。 次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(五百木) 次有伊邪國(伊勢) 次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃) >次は大阪から四国太平洋側を通って九州へのルート。 次有好古都國(高津の宮、大阪) 次有不呼國(深日フケ港、大阪の西はし岬町、 次有姐奴國(讃岐) 次有對蘇國(土佐) 。。万葉集にあるフコの港)
37 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 20:59:43.81 .net >次は九州南部から東海岸を北上ルート。 次有蘇奴國(鹿児島、曽於そお郡) 次有呼邑國(宮崎、児湯こゆ郡) 次有華奴蘇奴國(かのさの国、宗像大社のある筑前国宗像郡金埼、鐘崎で記紀にも記載) >次は畿内に帰っての瀬戸内ルート。 次有鬼國(木津市、淀川支流木津川沿い) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(紀ノ國) 次有邪馬國(山城、京都) 次有躬臣國(くす久須、枚方市樟葉の宮が有った処) 次有巴利國(播磨)次有支惟國(吉備)次有烏奴國(宇佐・穴戸)次有奴國(博多、奴国) 此女王境界所盡 ここは女王の境界尽きる所なり。
38 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:02:59.04 .net 旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」 宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」 元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」 南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」 ↓ 南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月 「南、邪馬臺国に至る。女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。と……… 竹藪だろうと草藪だろうと、卑弥呼時代の人物が都まで陸行一月で行けますとの証言です。
39 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:03:42.10 .net 東海道は江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ全長約490kmの街道です。 東海道五十三次『江戸?京都』間を72時間で走る飛脚たち! もちろんリレー方式、宿場事の駅伝です。 さて当時、一般の人は 京都までたどり着くのに、一体どのくらいかかったのか!? 記録に残っているものをみると、 ドイツの医師ケンペルは駕籠や馬も使いつつ12日、オランダ人御一行のシーボルトは17日、 弥次さん喜多さんは途中の四日市までで12日かかっています。 平均すると大体2週間前後。では、490kmを14日で割ると一日の移動距離は35km、 日本橋からだと横浜市の保土ヶ谷の宿場までが32.4kmなので、 江戸時代の旅人は毎日その位の距離を歩けたということ。
40 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:04:43.43 .net 平安時代の海路は帆掛け船になるから、少し早く日数が短い 延喜主計式、平安京〜各国国府までの陸行日数。 山陽道、備中 上り9日 下り5日 海路12日 山陽道、安芸 上り14日 下り7日 海路18日 山陽道、長門 上り21日 下り11日 海路23日 平安京(京都府京都市)から太宰府(福岡県太宰府市) まで646キロ、朝廷が認める公定所要日数が陸行30日である。 オーバーしたら自費でねと云う事。
41 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:05:28.85 .net 唐の「大唐六典」で陸行1日は28.05キロ、 現代風で言えば7時間×4キロ/時=28キロとなる為、かなり妥当な数字です。 これに当時の日本の道路事情を考慮して1割程差し引くと25.25キロ/日、 2割差し引くと22.44キロ/日程度となります。 邪馬台国は発音通り畿内の大和地方にあったと考え、 奈良県桜井市と福岡県糸島市の距離を30日で割ると凡その数字が出ます。 大和国(奈良県桜井市)〜伊都国(糸島市) =651キロ/30日=21.7キロ/日で妥当な日数と思われる。
42 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:06:21.34 .net 大阪、福岡間 JRの営業キロは626.1km。艪を漕げるのは6時間位として 20日で約400km、岡山あたり+水行10日200km=600km つまり、水行30日で600km、、陸行だと平安時代で30日=1か月でピッタリ! 和船の速度は、通常2ノット程度(およそ3.6km/h)らしい、 和船は水を含むと重く成り、水抵抗が多くなる。 手漕ぎ主体の中世「ガレー船」櫂だけで最初の1時間目は時速9kmで行けるが その後の均しでは3kmから4.6kmに落ちるらしい。
43 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:07:01.68 .net つまり、水行すると30日、または陸行で1月=30日、、2か月の意味じゃないよ。! 海路船で行けば30日、または陸歩いて言っても1か月かかりますよて意味。
44 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:07:57.60 .net 東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸 ↓(奴国から) 東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家 ↓(不弥国から)(福岡・宇美川周辺か) ↓ 南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸 「南、投馬国に至る。 水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ」 ↓(投馬国から)(岡山・倉敷) ↓ 南至邪馬臺國 女王之所都 水行十日陸行一月 「南、邪馬臺国に至る。 女王の都とする所なり。水行十日、陸行一月なり。 到着(奈良・纒向)
45 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:08:44.98 .net 生駒山を拠点とする長髄彦と妹婿、饒速日が「日本ひのもと」の命名者か そして故の奴国王、神武が戦闘に勝利をし、「日本」なる国名は頂いたとさ? それで、これらの話は全て納得。 ナニワが奴国の庭からも納得だな。 旧唐書 「倭国(わこく)は古(いにしえ)の倭奴国(わのなこく)なり」 宋史 「日本国は本(もと)の倭奴国なり」「日本国は旧小国なり倭国を合わせて」 元史 「日本国は東海の東にあり、古は倭奴国と称した」
46 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:09:30.91 .net 饒速日「後から来て天孫を名乗るお前は何者だ。我こそ天孫ぞ」 神武「(饒速日の弟の)邇邇芸の末裔です。これ(天羽羽矢)が証拠です」 饒速日「おお、それはわしのものと同じだな!確かに同郷(筑紫)の者らしいな」 長髄彦「我々の軍勢にも被害が出ていますし、まさか和解することはないでしょうね」 饒速日「天神の子は人間(の論理)とは違うのだ」 長髄彦「納得いかないので戦闘を継続します!」 饒速日「そんなことは許さん!命令を聞かないなら手打ちにしてくれる!」 神武「ありがとうございます。筑紫は(倭国大乱で)荒れていて暮らせないので、 ここにいさせてください」 饒速日「うむ、大叔父としてお前を迎え入れよう」
47 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:10:12.65 .net 饒速日の末裔が物部氏や尾張氏であり、畿内や東海の覇権を掌握した。 物部氏は、「ヤマト王権」において軍事と祭祀(つまりマツリゴトの全て) を司っていたとされる。 そして畿内を中心に分布する前方後円墳も物部氏の墓制である。 日本という国号は、饒速日が鳥見の里を見渡す哮ヶ峯(生駒山)で国見をし、 「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」【訳「 空から見た日本の国」または 「空に光り輝く日本の国」】と賛じたことに因む。 それまでの畿内は日本ではなく長髄彦らが治めるため鳥見と呼ばれていた (長髄彦は出雲の事代主の末裔である登美家の族長)。 神武に続く欠史八代に事績がないのは、饒速日の庇護の下の居候だったからだろう。 物部氏を母に持つ崇神天皇は、物部氏の本拠地である石上神宮の近くに宮を構え、 後にそれが纏向遺跡として発見された。
48 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:10:50.51 .net ニ二ギは北の水門(博多湾)から侵攻し飯盛山の麓、 日向川と室見川との川合いの地に宮を置き三種の神器を納めた地、 宮下文書ではそこを長井の宮と記している。 兄ニギハヤヒは南の水門(有明海)から侵攻し今の吉野ヶ里に城を構えたと思われる。 その遺跡は1981年から2005年まで19次にわたる発掘調査が実施され 吉武高木遺跡群として国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。 これ以降、(河愛)川合いの地は神聖な場所として崇敬され、 京都の賀茂神社などが良い例である。
49 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:12:43.46 .net >唐の魏徴チームが学者を率い、 数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂し、 魏志は「都を邪馬臺国」と書き、 後漢書は「邪馬台国」と記した記事を調査、 隋代に、日本から遣隋使が派遣され、結果、都の所在地は「奈良ヤマト」だと結論付けた。 僅か、300年後の学者チームの結論だから間違いないだろ。 隋書倭国伝(貞観二年(628年)) 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 地勢は東高く、西は下。 邪靡堆(日本書記などの資料より奈良ヤマトと確定してる)に都する。 すなわち、魏志いうところの邪馬臺(通称、邪馬台国)なる者なりと。
50 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:13:34.12 .net >ここには、文書や賜遣の送り目録を伝送し、文字を使った外交をしてる事を書いてて ある階級の倭人たちは漢字を理解でき、当然、人物名や地名、出来事も記録してたはず。 『魏志倭人伝』は、西晋の陳寿により三世紀末ころに書かれた物。 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 「王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、 皆、津に臨みて捜露す。『文書』や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」
51 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:14:51.63 .net >ところが7世紀に書かれた隋書には、倭人は文字無く、ただ木を刻みて、と書かれ 侮蔑的に書かれた文章を、真実かの様にマスコミなどが広めてるのは問題だよな。 日没する処の天子と書かれたのが頭に来たんだろな。まるで中国人の様。 『隋書・倭国伝』は、629年唐の魏徴らの撰。 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡 文字無く、ただ木を刻み、縄を結ふ。仏法を敬ひ、百済に仏経を求め得て 、始めて文字有り。卜筮を知る。巫覡を尤も信ず。」
52 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:16:02.40 .net >5世紀後半(雄略天皇)倭王武の長文、上表文や 熊本の江田船山古墳と埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘文に 「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や「斯鬼(しき)宮」に居た時と、 日本書紀などの記録とほぼ一致する。と言う事は漢字などを可なり使ってた証拠。 卑弥呼時代の記紀などの記録もある程度正確なのでは!! 「百女ももぞ国」の姫こと百襲姫=八女津姫も正確な記録なのではと思う。
53 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:16:48.32 .net 殷王朝は、紀元前17世紀〜紀元前1046年まで続いたが遂に滅亡し四散する、 『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝28代文丁の子で 朝鮮半島に逃れて箕子朝鮮を1100前ころ開いた伝承があるから それらからの避難民や新天地開拓民が半島南部から九州北部に弥生人として 来た可能性はあるだろな、 でBC1000年ころが丁度弥生開始年代と一致してくる。
54 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:19:05.75 .net 殷は太陽崇拝で自然信仰が強く、干支(えと)を使う、 亀卜、卜骨など鬼神に熱心で殉死の風習も持ってて青銅器が大好き、 部族ごとに「邑」制度があって共和制な面があったらしい、 青銅器の文様は「饕餮文」を使い、 まるでアイヌ文様の様な端々がトゲの様な文様を使う。 あれ、どっかで聞いたような部族集団がいたな。
55 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:21:30.39 .net >>「酸素同位体比年輪年代法」 酸素同位体比年輪年代法は2011年頃から名古屋大学の中塚武により実用化され、 その名称は従来法の年輪幅の代わりに年輪毎に含まれる主成分セルロースの 酸素同位体比、O 18/O 16比を測定する手法に由来している。 日本では、弥生時代以降の、3000年間の遺跡や建築物の年代決定に応用され、 急速に発展してきた、日本での、この分野で一人勝ちの状況になった。 1990年代から有るレーザー吸収分光法でO 16とO 18の比をとり、 吸収スペクトルを分析する方法。
56 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:22:13.73 .net 放射性炭素14年代法や 年輪年代法と合わせ技で 酸素同位体比年輪年代法使えば、年代特定はほぼ完ぺきだろな 最近の弥生開始年代は歴博のBC1000年が妥当だろうが大勢らしい、 科学的な3種類の分析法だから信頼性は高いだろ。
57 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:24:30.92 .net 八女周辺の住民の遠い記憶で女首長(姫)が邪馬台国の女王だったと ヤマトがヤマトゥに八女津と訛ったんだろう 古代音が残ってる奄美、沖縄の人等はトとツの発音が曖昧でトゥと発音する 邪馬台やまとが八女津ヤマトゥと訛ってしまったんでは まあ、八女津(ヤメトゥ)=ヤマト 邪馬台=邪馬臺なのは間違いないだろな。 のちの大和国の地方部隊駐屯地だったんだろう。
58 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:27:06.16 .net >箸墓古墳についての記録。どうも箸墓は周辺にある前方部が低い纒向型古墳のよう。 「令義解」 833年(天長10年)に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」 河村秀根の『書紀集解』(1785年)には、 嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。 嘗(かつ)テ大和国于(に)至リ、柳本村ヲ経、箸中村ヲ過グ。道ノ右ニ円形之丘有リ。 相ヒ伝ヘテ曰ク箸墓ト。長樹無ク、荊楚(両字ともイバラ)ノ林ヲ成ス耳ノミ) 江戸時代の画・文、いずれにも箸墓が「円形」として描かれている。 http://www.eonet.ne.jp/~yamataikoku/3100.html https://ameblo.jp/pelecyphoras/image-12764982058-15176745424.html 寛政3年刊、『大和名所図会』箸墓の図
59 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:34:13.18 .net 神武天皇は先高句麗王6代の「宮」。 西暦57年後漢の光武帝に朝貢した奴国王? 宮は西暦53年に即位して121年に亡くなり、7才で即位して、75才で亡くなっています。 一方の神武天皇は、東征開始から8年目に即位し、治世76年に亡くなりました。 先高句麗では7代遂成が即位「後漢書高句麗伝」によれば、 121年の秋に王の宮が死んで、この遂成が即位したと書かれています。 第2代綏靖天皇と遂成は音が似ており、 なお107年に後漢に朝貢した倭国王の帥升(すいしょう・スサノオ)とも音が似ている。 E宮ーーF遂成ーーG伯固ーーH伊夷模 第8代 伯固は博多とか箱崎に音が似てる、 先高句麗のこの系統は倭人集団だったのでは? > 高句麗には、先高句麗と後高句麗(好太王)の2段階が有ったのではと思う。
60 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:36:15.23 .net 古事記の出雲建の詩に。 「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける大刀 黒葛(つづら)多纏(さはま)き さ身無しにあはれ」 が有って、ヤツメとは「耶頭味県やつめ県」の事。 東濊、嶺東七県の(東濊県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭味県やつめ・前莫県・夫租県) サスとは将棋を指す、差し向けるのサスで 出雲建たちは「耶頭味県やつめ県」に拠点が有って家臣を差し向けたって話。 丁度今の北朝鮮が、くの字に曲がる日本海側の良港、文川市あたりが「耶頭味県やつめ県」。
61 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:37:41.73 .net >中原世界では、黄海、は東海と表現し、「倭人在り帯方東南大海之中」と表現する、 つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。 >それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷の世界で一目置かれた存在。 だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られるほどの存在。 王莽(前45〜23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より 禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8〜23)の皇帝に即位しました。
62 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:38:22.17 .net 『漢書 王莽伝』 越裳氏重譯獻白雉、 黄支自三萬里貢生犀、 東夷王度大海奉國珍、 匈奴單于順制作、去二名 越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。 黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。 東夷王は大海を渡り、珍しい品々を奉った。 匈奴単于は、(中原に)順じ、二字名を改めた。
63 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:39:11.89 .net >この話題、よくよく考えたら孔子時代に九夷と呼ばれる集団の中に君子の国があり、 君子の国とは従順な民が居る国、つまり「倭とは従順の意を持つ」倭人をイメージしてる、 証拠に後世の「後漢書」のなかに孔子の論語文のあとに続けて 楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、の文言が載せてある。 つまり、紀元前6世紀ころ、九夷の中の倭人と思われる集団には「君子」が居た。 『日本書紀』に記される神武天皇即位から2600年にあたる話と合わせてる。 論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日) 「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。
64 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:40:05.49 .net 論語・孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日) 「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。 孔子が(道義の廃れた国を厭うて)九夷(国)に住みたいと言った。 ある人が、九夷は陋だがどうでしょうかと言うと、孔子は、君子が居る国なのだから、 君子に対して従順な民を陋(ロウ・いやしい・心がせまい・知識がせまい) として問題視することはできないと応えた。 東夷の気性が従順(倭人に関して言えば、そもそも人偏に委と作る 「倭」自体が従順の意を持つ)であること、 倭人の居住地が東の海上であることから、『論語』の中の二つの話を足し合わせて、 それを続く倭人の話と結び付けているのが見て取れる。
65 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:42:26.74 .net >この一文とも関連し蓋国(現在の北朝鮮地域)の 南には「倭(今の韓国地域)」が有り、倭は燕に属すと。 「倭」が韓国の「松菊里遺跡・三種の神器がある」 辺りを拠点としてた時代で、後の「辰国」とも関わりあるかも?? 衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)には既に辰国は存在した。 遺跡から明刀銭が出土するので古くは紀元前400年代には存在したか、 明刀銭、中国の戦国時代(紀元前403〜221年)、燕(えん)の国で流通した貨幣。 燕 (春秋)(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年) 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經(前4世紀 - 3世紀頃)) 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
66 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:43:09.06 .net 秦(しん、拼音: Qín、紀元前905年 - 紀元前206年) 殷(箕子朝鮮=番朝鮮)は衛満に伐たれて亡び、殷王は辰へ逃げる。 秦氏(秦人)も随ったといい、秦人も辰国へ逃げてきており、辰人と混血した。 そのために、秦人に似ているとか、秦の言葉に似ているといわれる。 秦語を話し、自分たちの事を「邦」邦人、仲間を「徒」徒党と言ってる。
67 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:44:29.69 .net >これ、秦=辰シンの事だろ、朝鮮南部や九州北部にはインド絡みの伝説や土器がある 秦の始皇帝なども西域人とも云われ、日本の秦氏も中央アジア月氏国と関わりがある。 それと馬韓には蘇塗(そと、ストゥーパ卒塔婆)があり、義は浮屠(仏教)に似る有り。 3世紀末までには仏教がすでに朝鮮南部に入ってて秦氏の八幡神(仏教守護神)も関係ある。 「身毒 しんどく」 古代の中国人がよんだインド地方の名称の一つ。天竺(てんじく)、印度(いんど)と同じく、 語源はサンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。 「シンドバット」 ペルシア語由来のシンド=シンド河(スィンドゥ川)つまりはインダス川のことで バード部分はペルシア語の (ābād)で「長、リーダー、指導者」を意味する。
68 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:58:25.81 .net 中国には後漢の永平10年(67年)には入って来てる、 北魏を建てたに鮮卑族には同時代には仏教が入ってたんだろう、 日本の仏教は北魏様式で仏像の額には三つ巴紋が彫られてる 秦王朝でも三つ巴紋が神紋として扱われ、山東龍山文化から BC1900年頃の山東省岳石文化にも土器の摘まみ部分にも三つ巴紋が描かれ、 辰韓新羅の「宝刀」にも三つ巴紋が飾られている。 辰韓から渡来した秦氏の宇佐神宮でも神紋として使われてる。 秦氏は新羅から渡来した新羅の王子「天之日矛」だろな。
69 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 21:59:38.37 .net 秦氏のハタはペルシア語の (ābād)バードで「長、リーダー、指導者」の事だろ、 ハタは海の波旦(ハタ)、八幡(はた)説もある。 パシュトゥーン人、このパターン (Pathan)人が秦氏(ハタ)しだろ。 パキスタンに居住するイラン系民族である。 アフガニスタン内で最大の人口を持つ。 パフトゥーン (Pakhtun)、パターン (Pathan)、アフガン(アフガーン、Afghān)など ...
70 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:00:20.15 .net 「百済」パシャ、「波斯」ハシ=ペルシャのこと 百済・辰国はやはりペルシャ系の国だった、で民衆は韓人。 どうりで飛鳥時代に古代ペルシャの品で漆胡瓶(しっこへい)や白瑠璃碗など イラン本国でも周辺国でも決まって古墳から出土するが、王族クラスの人物の持ち物。 大秦国=ローマ、東ローマ(シリア辺り) そして辰韓・秦韓には新羅といえばローマ遺物が??
71 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:02:42.20 .net 『神武天皇』始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』 若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』 「漢委奴國王」の金印 「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御してからの「諡名(おくりな)」だろ
72 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:04:26.36 .net 羈縻政策(きびせいさく) とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。 古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。 中国の王朝は、周辺の異民族・諸国家に対し 政治的・軍事的・文化的な従属関係をつくりあげたが、 これらの具体化は、領域化(内地化)・羈縻・冊封などの形態を取った。 羈縻とは、特に中国に近い友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、 彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における 官吏であるという名目で行使させたものである。 このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州あるいは羈縻衛所という。
73 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:06:10.72 .net 岡山県では神武天皇が、吉備国(黄蕨国)の高嶋宮に3 年間(古事記:8 年間) とどまり東征の軍備を整えたとされています。 福井県敦賀市に氣比神宮と化氣(けぎ)神社があり、氣比はキビと読めます。 氣比神宮の「土公」は「保食神(うけもちのかみ)降臨の地」です。 『岡山県神社誌』には、保食神を祭神とする神社が岡山市 11 社・瀬戸内市 8 社あります。 >神武天皇と「漢委奴國王」 この印は漢王朝の地方官・奴国王を任命したもので、 それと卑弥呼の漢鏡や魏への態度はあきらかに主従の関係で軍派遣の要請までしてる、 中原王朝の羈縻政策(きびせいさく)に従い、地方官・都督として行動してた。 地方官・都督・倭国王としての大義名分で全国を征服統治して行ったんだろう。
74 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:17:11.89 .net いや奴国王、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)が吉備国(黄蕨国)の高嶋宮で 岡山、羈縻州の地方官として任務しながら奈良大和を征服計画を練っていた。 古事記(中巻)に(安岐のタケリノ宮に七年いた後)「吉備の高島宮に八年坐しき」という。 そして大和攻略に進軍したが、ニギハヤヒの家来、長髄彦(ながすねひこ)に 抵抗されて苦労した話が「神武東征神話」。
75 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:19:34.84 .net 倭人伝にある「其餘旁國遠絶の次有支惟國(吉備)だけど、 この時代の支惟國(吉備)は東部、備前あたりの小国で 西には大国、投馬国(倉敷あたり)があり、 のち吉備津彦たちの活躍で大国、吉備国に成ったんだと思う。 投馬国(倉敷あたり)と云えば卑弥呼伝説の楯築遺跡や造山古墳・上東遺跡などがあり 全国一の桃の種が万単位で出土する地域、纒向なんか目じゃないよ。
76 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:32:09.58 .net 奈文研が所在する奈良県では13,238遺跡が確認されていますが、 最も多い遺跡の種類は9,663遺跡を数える古墳・横穴で、これは県内全遺跡数の実に 7割以上を占めています。県内の集落遺跡は2,028遺跡と古墳に次いで多いのですが、 その4割超は古墳時代の集落(874遺跡)なのです。 奈良磯城郡の中心遺跡。唐古・鍵遺跡周辺2km圏の弥生集落遺跡が12遺跡 https://note.com/jolly_dietes942/n/nf51d0368efbe 県内では御所市や橿原市など12遺跡で弥生時代の水田跡が見つかっている。 御所市の秋津・中西遺跡で確認された水田跡は 4万3千平方メートル以上で、弥生前期では全国最大規模。 一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。
77 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:33:20.85 .net そして600年ころ聖徳太子の大戦略、隋の皇帝への実質、独立宣言なんだろう 「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。 」
78 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:34:18.80 .net 銅鐸、十種の宝は出雲・物部王朝の宝物 邪馬台国の大和王権は奴国時代から銅鏡、銅剣、三種の神器が宝物。 天津神に仕えていることを証明するのが 天羽々矢(あめのはばや)と天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)
79 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:37:10.54 .net >縄文時代には韓国南部でも広範囲に縄文系が生活してた事が判明 そりゃ、1万2千年前に沖縄まで丸ノミ石斧を運ぶ能力があるんだから 半島までなんて楽勝だろ。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14273301069 11月26日読売新聞。国立科博・篠田館長の記事。 釜山・加徳島の狼項遺跡(6300年前)の人骨の核DNA分析を ... 韓国が、釜山・加徳島の狼項遺跡(6,300年前)の人骨2体の核DNA分析を行った結果、 縄文人的と判明した。人骨2体はほぼ現在日本人のDNAと同じだと篠田館長は結論した。 弥生時代の少し前ころ韓国南部、蘆嶺山脈と小白山脈のライン南部、対馬海峡側には 縄文系の人達が広範囲に生活していた事が分かってきている、 最近の大勢は、「縄文人は列島から列島外に拡散していた。」に傾いている。
80 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:38:51.88 .net これで、高句麗の「宮」や「遂成」、 神武や綏靖が縄文系だった可能性が出て来たな。 縄文時代ころには韓国南半分と九州とは同じ縄文人が住んでて、 間に対馬海峡を挟んでてアッチとコッチと呼び合う関係だったんだろう。 この地域は結合式釣針文化圏で漁師たちが行き来してたんだろうな。
81 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:41:15.45 .net HLAハプロタイプ(ヒト白血球型抗原) https://www.med.kindai.ac.jp/transfusion/2019-28%20ketsuekigakuwomanabou.pdf 徳永勝士先生によると、日本⼈には大きく4タイプの流れが認められる 殷人、秦氏など中原系。O2系か。 @ B52 - DR2 中国⼤陸北部から朝鮮半島を経て北九州・近畿へ シベリア系集団か。C2、NO、N系か。 A B44 - DR13・B7 - DR1 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ 旧石器・縄文人と一致する。D1a2系か。 B B54 - DR4 中国南部に多いタイプ。中国南部から琉球諸島を経て太平洋側へ 越王鄒一族が高句麗・朱蒙・鄒牟と一致する。O1b2系か。 C B46 - DR8 中国⼤陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ 国外では満州族と朝鮮⺠族のみにみられる。九州北部から本州中央部にかけて多い。 このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も⾼頻度でみられる ヒト白血球型抗原
82 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:42:01.50 .net 柳江人 http://www.zhongguociwang.com/show.aspx?id=16576&cid=139 https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html 越人ってこう言う風貌してたんだろ。まんま正座した日本人だけど。 越人像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
83 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:43:49.14 .net 神の国・淡路島は「鉄の国」だった−「邪馬台国畿内説」の弱みはね飛ばす鉄器工房跡発掘 https://www.sankei.com/article/20170420-UBDQKZHYGZLWVMKZKOAOV64QWM/ 邪馬台国の時代にも重なる弥生時代後期(2世紀半ば〜3世紀初め)の鉄器工房跡が 見つかったのだ。 同市では10年前に五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国史跡)で大規模な鉄器工房跡が 発掘され、淡路島が西日本屈指の鉄器生産地だったことが明らかになった。 古事記で、日本列島が造られた「国生み」の地とされる淡路島。 古代から朝廷に海や山の幸を献上し「御食国(みけつくに)」と呼ばれた神話の舞台は、 邪馬台国と深く関わった「鉄の王国」でもあった。(小畑三秋)
84 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:44:43.47 .net 舟木遺跡 4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。 そのうち1棟の床面は赤く焼けていた。鉄の素材を木炭で熱しながら、 たたいたり延ばしたりして工具などを作った炉跡だった。 調査はわずか130平方メートルだったが、 周辺の丘陵一帯では同時期の土器が確認され、遺跡は40ヘクタール。 (南北800メートル、東西500メートル)に及ぶと推定。(東京ドーム約8.5個分です) 一方、同遺跡の南西約6キロにある五斗長垣内遺跡では、 鉄器工房とみられる12棟の竪穴建物跡や鉄器など約130点を確認。 約100年間にわたって鉄器作りが行われたことが分かった。 伊藤次長は「建物跡が相当多く眠っているのではないか」とし、 国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まった。
85 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:45:25.87 .net 「淡路は、西からの物資や情報を中継する『玄関口』だった」と話すのは、 奈良県立橿原考古学研究所の森岡秀人共同研究員。 「明石海峡や鳴門海峡という海の難所に挟まれた淡路の勢力は航海術にたけ、 新しい鉄器文化を積極的に取り入れたのだろう」という。 鉄を制するものは国を制す 魏志倭人伝中の「三十国」の一つか または、邪馬台国の直轄地だった?。 兵庫県域西部の瀬戸内海沿岸部は播磨国(倭人伝の巴利國)でした。 そして、淡路島は律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。 「木工にも使う鉄は、農業や狩猟、建築、戦闘などあらゆる分野で技術革新をもたらした」 森岡さんは鉄が社会に与えた影響の大きさを指摘する。
86 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:46:24.95 .net 「鉄を制するものは国を制す」ともいわれた鉄は、 九州北部を中心に大量に出土することから、邪馬台国九州説の大きな根拠となっている。 一方で、畿内では出土量が少なく、邪馬台国論争では弱みとなっていた。 こうした中での今回の発見。兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は 「淡路島に大規模な鉄器工場群があったことが示された」と指摘し、 「纒向遺跡(奈良県桜井市)を中心とする邪馬台国が大和にあり、 淡路は西日本に及ぶ政治連合の一翼を担い、魏志倭人伝に記された『三十国』の 一つだったのではないか」と話す。
87 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:48:13.80 .net 一方、こちらも国内最大級の鉄器工房として話題を集めたのが、滋賀県彦根市の稲部遺跡。 淡路の遺跡より少し新しい弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(3世紀中ごろ)の 竪穴建物跡20棟以上から、鉄片や鉄を加工する際に出る不純物など約6キロ分が 見つかった。琵琶湖の東側に位置し、近畿や東海、北陸を結ぶ交通の要衝。 銅鐸の宝庫 やはり淡路は特別な場所 「神の国」淡路島は、鉄だけでなく、弥生時代の祭祀を担った銅鐸の宝庫でもあった。 南あわじ市では27年、弥生時代前期末〜中期(紀元前3〜同2世紀)の銅鐸7個が 見つかった。島内では計20点ほどが確認され、全国有数の出土数を誇る。 島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡や同県雲南市の加茂岩倉遺跡の銅鐸と 同じ鋳型で作られたものもあり、両地域の結びつきが明らかになった。
88 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:51:15.03 .net 出雲は、神話に登場する国造りの神「オオクニヌシノミコト」や 八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノミコトの伝説で知られる神話の里。 淡路は、イザナキノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が交わって 次々と島を誕生させた国生みの地と伝わる。 >イザナキノミコト(男神)は大和勢力を表し、 イザナミノミコト(女神)は出雲勢力を表し、 両勢力が連合し国土統一へとばく進したが、イザナミノミコトが黄泉の国へ行き、 結局内部分裂することになり連合関係は壊れた。 イザナギノミコトは命懸けで逃げ出し、 筑紫(つくし)の阿波岐原(あわきはら)で禊を行ったと言う話。
89 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:52:37.71 .net 「兵庫」は「武器庫」の意味で、 大化の改新の際、摂津国境の播磨関を守るため、 武器を収める庫として設置された「兵庫(つわものぐら)」に由来すると考えられる。 神功皇后がこの地に武器を埋めた伝承から「武器の倉庫」を由来とする説。 >結局、淡路島で大量の鉄器・武器を作り、兵庫の軍事拠点に武器の貯蔵をしてた そして神の戸(淡路島)の守りとして古代から要勝地だったんだろ。
90 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:55:06.66 .net 日本の磁鉄鉱の産地 東山鉱山(徳島), 久宗鉱山(徳島, ひさむね), 川田山鉱山(徳島, 川田鉱山,) 淡路島の銅鐸が埋まっていたと考えられる松帆地区は、 鉄器生産遺跡「五斗長垣内遺跡」と「舟木遺跡」が有名で2.5kmにわたる白い砂浜に 約5万本のクロマツ林が広がる景勝地、慶野松原には砂鉄が堆積して 黒く成ってるのが知られてる。
91 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:56:22.24 .net 縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには 5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて、じゃ何で開けたのかがなぞ? 石器などじゃ無理で、木の枝で砂粒を付けながら開けたのか? ヒスイのような硬い石には無理があるで、結局、鉄のキリ状の物じゃないと無理だと じゃあ縄文時代に鉄が有ったのか? 製鉄技術が有ったのか? 阿蘇リモナイトなど湖沼鉄・褐鉄鉱などは土器を焼く温度で製鉄出来る事が解った。
92 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 22:59:07.32 .net 5 原始的製鉄法(鍛鉄法) 平成 23 年2月 19 日に大井透氏から、古代朝鮮の原始的製鉄法を教示された。 この製鉄法は、あまりにも簡単である。 @ 『たたら製鉄の復元とそのヒ(けら)について』黒岩俊郎氏(専修大学) 明治の末ごろ、朝鮮での原始的な製鉄の実見記として 河原によく乾いた砂鉄を 60 pほど積み上げ、 その上に大量の薪をのせて火をつけ一夜燃やし続け、翌日になって鉄塊を拾い集めていた。 わりに簡単、かつ原始的な方法によっても製鉄はできるのである。
93 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:01:36.92 .net ? 『鉄の考古学』窪田蔵郎氏(日本鉄鋼連盟) 紀元前 1000 年ごろに始まった弥生式文化は、青銅と鉄を使用した金属文化である。 出土品としては、弥生期の半ば迄は鍛造よりも鋳造と見られる物が多い。 中期以降400年ごろは鍛造品が増加してくる。野天における開放窯による製鉄である。 鉄鉱石から鉄をつくるのには、高い技術を必要とすると考えられている。 鉄鉱石を赤く熱して、酸素をとり、砕け散らないように、そっと根気よくたたいて 石の部分をとばして行けば、900 度ぐらいでも鉄はできる。
94 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:03:28.27 .net ? 『古代の製鉄』山本博氏(大阪学院大学) 銅の精錬に 1100 度の温度が必要である。製鉄について次のように述べている。 a 鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。 b 鉄鉱石は熔解しなくても、700〜800℃の熱度で可鍛鉄がえられる。 c 鉄の抽出には、特定の送風装置は不要である。
95 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:04:54.35 .net 考古学上、我国最初の鉄器は、縄文晩期の土器と弥生前期の土器とが 伴出した遺跡から発見されている。 鉄滓(てつさい)散布地こそは、そのあたりで製鉄が行われたことを暗示している。 たたら炉の遺構が発見されなくても、そのあたりで製鉄を行っていた。 設備のない、たたら以前の製鉄である。 あまり深くない地下に砂鉄の層がある場合、その地表で土器を焼いたとすれば、 土器を焼く温度で、地下の砂鉄は楽に還元できる。 北九州各地に散布する無文赭色の土器の硬度は、この程度の熱度、 または、これよりやや高い熱度で焼いている。
96 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:05:54.81 .net 6 備前の鉄滓 製鉄を行っていた事実を証明する鉄滓を岡山市東区草ケ部で採取している。 設備のない、たたら以前の製鉄である。 鉄滓とは製錬鉄を作る際にでる鉄を取り出した後の残りカスである。 「金糞(かなぐそ)」と呼ばれ廃棄される。製鉄関連遺跡調査で大量出土する。 岡山市東区鉄の近くに、西祖山方前遺跡(岡山市東区西祖)がある。 吉備国における初期段階 6 世紀後半頃の鉱石製鉄の製鉄炉が発見されている。 左 草ケ部採取鉄滓(中西厚氏採取) 右 西祖山方前遺跡 鉄滓 http://www.hasukura.com/site/kibikokunokodaisetetu.pdf
97 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:07:11.42 .net 7.1.3 「大型水煙土器は製鉄用土器炉である」(百瀬高子氏説) ? 小型炉製鉄実験の普及に長年携わっていた横井時貞氏(愛知工業大学名誉教授)に 「土器炉は可能か」と質問した。「土器でも丈が 60cm 位、壁の厚みが 2〜3cm の 土器を作れば製鉄が可能だ」との回答を得た。 ? 縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を水煙土器、新潟の同時代の火炎土器と呼ぶ。 縄文中期の大型水煙土器の厚みは 2〜3cm、丈は大きな物で 40〜70cm である。 土器炉としての条件にぴたりと当てはまる。 ? 「戦時中に使われた諏訪鉄山の鉄鉱石は褐鉄鉱(高師小僧)という。 鉄質は悪いが農工具には加工出来、使用が可能だ」という情報を得た。 ? 縄文土器の焼成温度は 800 度以上の温度を半日位(最低 3〜4 時間) 以上保つ(焚き続ける)技術があった。 ? 褐鉄鉱は 400 度位の低温で溶解する。という自然界の現実がある。 ? 大型水煙土器は製鉄用土器炉として、製鉄に必要な諸条件は十分満たしている。
98 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:08:38.62 .net 7.1.4 褐鉄鉱使用、土器炉による製鉄実験成功 (百瀬高子氏の実験報告) 褐鉄鉱原料、土器炉による製鉄実験 成功 平成 10 年 10 月末日 ? 弥生土器風甕を製作 器高 45cm 厚み 2.5cm ? 胴の中間より少し下に直径 2cm ほど穴を開けて、穴は送風口とした。 ? 使用原料 褐鉄鉱の粉末 ? 溶融実験 木炭と共に加熱し 6 時間微風を送風した。(縄文時代は息で送風と推定) ? 製鉄炉中の推定温度は低温の 400 度前後と記録している。 ? 実験結果 6 時間ほどの短時間作業だった。 半熔解の多量の鉄滓の中に大豆大ほどの真黒な鉄粒が出来ていた。 製鉄実験に成功した。
99 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:09:31.45 .net ? 百瀬高子氏の所見 3 日 3 晩この作業をすれば、そして溶媒にカルシュウムを使えば、 もっと扱い易い鉄槐が農具や工具わ作るほどの量が出来ただろう。 そしてその鉄塊を熟し、軟らかい内に叩けば鍛造の薙鎌や鉄鐸や斧が出来上がる。 縄文土器を炉として充分製鉄は可能だ。いや縄文中期土器の多くは 小規模製鉄炉として製作され、 土器炉として使用されていた事が実証できた思いだ。 土器炉は乾燥や厚みに少しでもムラがあると長時間の加熱温度には耐えられない。 実験で使用した土器も針金で補強して漸く炉として耐えていたが、 6 時間も内部を加熱しているとあちこちにひび割れが入り、 火を止める頃には崩折れてしまいそうな状態だった。 余熱を冷ましている内に自然に崩れて瓦解したが土器底はしっかり残った。 土器底が残った状況は、松本市近郊などの遺跡で土器底のみ集中出土する 笹賀神戸遺跡などの状況と類似している。
100 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:11:58.80 .net 戦前に浜で鉄作ったと爺さん世代の人が言ってたの思い出したが 何言ってるんだこの爺さんはと、 案外鉄って少量なら簡単に作れるんだと最近分かって来た 縄文時代の勾玉や玦状(けつじょう)耳飾りなどには、 5mm ほどの円形穴が奇麗に開いてて この話は納得行くな、 縄文時代に鉄工具は有ったんだよ、 木造建築のホゾ穴が奇麗に彫られてたのも納得。
101 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:13:54.78 .net ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安) 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。 石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃に かけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。 その形状や葬送様式などから、 九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、 支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、テーブル式と呼ばれる。 一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、 数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、碁盤式と呼ばれている。 韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。」 http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/feb38310affc1341db8f81b06fa43f45 どうやら朝鮮半島北部の支石墓と九州北西部、半島南部の支石墓では、 どうやらその伝播してきた大元が違っていたようである。 九州北西部、半島南部のは江南系、朝鮮北部のは遼東系であるそうだ。
102 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:31:17.87 .net 浙江省地方の石棚墓が九州西北部から半島南部へから考察して これは海洋民、越人の東越の話と一致する(秦代の越絶書) 浙江省地方の石棚墓、江蘇省、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西部、九州北西部、 何れの石棚墓、支石墓、にも副葬品としては銅剣、石剣、土器、矢じり、などが主で 高価な黒陶、三足土器や鼎など王侯貴族などの墓にあるような一級品は無く、 生前使ってた生活具、狩猟具が多い、船団や村長クラスの海洋民の文化だったのではと。 渤海、黄海、東シナ海、を回遊しながら交易、海運業、をしてた海人たち やはり、稲作のルートは江南からか遼東から朝鮮半島南部へとか?。
103 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:33:14.62 .net 近年、韓国嶺南地方北部の達城坪村里では弥生時代早期(夜臼式)の壺棺が出土し(図 13) 交流範囲が以前よりも北上することがわかった。壺棺の周囲に丸い河原石を敷きつめる 事例は、埋設の向きが逆であるが、唐津の大友遺跡でもみられ、類似する。 大友遺跡を営んでいた人々も支石墓の段階では従来の貝輪であるが、 石棺墓の段階では南海産貝輪を着装するようになり、より交流の範囲が広がっている。 西北九州や唐津地域における支石墓の導入こそが新たな交易者としての海民形成の 端緒であると考えられるならば、日本史における意味は決して小さくないだろう。
104 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:34:56.21 .net 大友遺跡は東松浦半島北端、玄界灘に面した海岸部に所在する遺跡である。 弥生時代早期にあたる夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いに めぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の様相に近い。 そして、これら最初期の支石墓を取り囲むように形成された支石墓の下部構造は 土坑に変化する。弥生時代前期にあたる板付?式併行期になると、 初期に形成された支石墓群とは別の場所に、土坑墓群が認められ、弥生時代前期中葉から 後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれるようになる。 甕棺墓は、下甕に上甕を覆い被せたような埋置形態のものや、 単純に甕を倒置させたものもある。副葬品として、南海産のオオツタノハ製腕輪や、 ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、玉類などが出土した。
105 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:36:27.11 .net 碁盤式支石墓、これが朝鮮半島南部の全域に登場するのは、 紀元前500年頃で、日本ではすでに弥生時代になっている。 確かに世界の支石墓の大半が朝鮮半島に爆発的に生まれて集中した。 しかし九州北部海岸部の支石墓は半島に先立って縄文時代晩期に隆盛を始めているので、 海を西から順にやってきたかと見え、日本への派生は中国遼東半島とほぼ同時期か、 あるいは早かった可能性が非常に高い。その派生地は江南、長江河口部である。 ということは半島の支石墓は逆に、遼東と玄界灘沿岸日本の双方からの伝播だった のかも知れない。どっちにせよ倭人のしたことであろう。 海洋民が先に選んだのは、どうやら半島沿岸ではなかったようだ。 これは水耕稲作の日本への先の伝播を後押しする考古学的発見である。 その後の隆盛はひとえに朝鮮半島が独占している。けれどその分類からは、 北部九州沿岸の支石墓は、中国南部、長江起源であることになる (要今後の発掘待ち)だろうか。
106 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:41:30.18 .net 「O1b2」相関図 https://contents.jobcatalog.yahoo.co.jp/qa/list/10271288745/#modal 中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」湖北省 3.7% 湖南省 2.9% 邯鄲市2.05% 韓国型( 韓民族 )=「O1b2a1a2a(L682)」 (旧 xO-47z) 日本型(大和民族) =「O1b2a1a1 (CTS713) (旧 47z) 」 中国型( 漢民族 )=「O1b2a1a2b(F940)」(O2-65.9%) 韓国型:旧47z=4.0%、 xO-47z=33.3%(O2-40.0%) 日本型:旧47z=25.1%、xO-47z=8.4%(O2-16.7%)
107 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:48:24.18 .net O1b2a1a2(中国・韓国共通先祖)→O1b2a1a2a(L682)(韓国型)北回りルート満州へ ↑ →ーーーーーーーーーーーー→O1b2a1a2b(F940)(中国型)湖南省、湖北省、 ↑ O1b2a1a (F1204,F3356,K10)(三者共通祖先、長江中流域か?) ↓ ↓ 8000年前ころの突然変異。 O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート、朝鮮半島西南部
108 :日本@名無史さん :2024/02/18(日) 23:59:02.83 .net O1b2a1a1(ほぼ日本人固有)東シナ海直行・南回りルート 韓国型O1b2a1a2a(L682)との混在が少なく、別の場所で住んでたと思われる 最近の言語学からの研究で、韓国型は満州南部、長白山周辺で 日本型は朝鮮半島中西部辺りの無文土器人が弥生人だろうと言われてる。 >彼らがBC1000年頃の九州北西部に南式碁盤型支石墓文化、熊本の断崖洞穴慕、 赤色漆が塗られた舟形木棺、浙江省杭州や武夷山九曲渓が有名で 長江流域の洞庭湖から鄱陽湖の間で百越一派の誕生地だろうといわれてる。
109 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:02:24.41 .net 日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度、西日本を中心に3%ほどいる。 九州 3.8% (2/53)[16] 金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24] 東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2] 徳島 2.9% (2/70)[16] 徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下[24] 札幌市成人男性 1.9% (4/206)以上4.9% (10/206)以下[24]
110 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:05:08.69 .net 中国洞庭湖周辺の湖南、湖北辺りにはかなりO1b2が残ってるし 日本人の中にも台湾O1a1、東南アジアO1b1(旧O-M95)が地域により3%を超える。 Y-DNA O1b2 [87](2023) 17:29. https://doi.org/10.1186/s40246-023-00476-6 北京市 1.4% (2/138)[87]、2.0% (1/51)[2]、4.3% (2/46)[22] 重慶市 1.0% (1/98)[93]、4.3% (1/23)[87] 湖北省 3.7% (1/27)[87] 湖南省 2.9% (4/137)[87]3.8% (2/52) 湖南省及び福建省[22] 中国全国[46]、1.2% (1/83) 寧夏回族自治区[87]、1.3% (1/76) 陝西省[87]、 1.5% (2/130) 山東省[91]、2.0% (1/50) 寧夏回族自治区呉忠市[87]、 2.6% (1/39) 山東省[87] 西安市 2.9% (1/34) 四川省 0% (0/34) 成都市[16]、1.0% (1/100)[97]、3.0% (1/33)[87] 1.7%以下 (≤1/59) ビントゥアン省チャム族[80]、2.9% (2/70)[27]或いは 4.3% (3/70)[82]、8.3% (4/48) ハノイ市[2] インドネシア 0% (0/1917)[82]、0% (0/246)[81]、8.1% (3/37)[2]
111 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:08:49.84 .net スサノヲはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。 二神は天の安河を挟んで誓約を行った。 まず、アマテラスがスサノヲの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って 噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。 この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、 宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。 多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。
112 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:13:05.26 .net 裏天皇=八咫烏=賀茂氏(宗像タゴリヒメの子孫) 裏伊勢=宗像大社 事代主も阿遅志貴高日子根命も、日本神話では大国主命の息子 アジシキタカヒコネは大国主と宗像三女神であるタキリビメとの間の子供であり、 同じ父母から鴨都波神社の祭神でもある下照姫も生まれています。 タキリビメ(タギリヒメとも)は、宗像三女神の一柱である。 古事記では多紀理毘売命、日本書紀では田心姫(タゴリヒメ)と表記される。
113 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:16:02.73 .net では、どうして2600年もの長きに亘って王族・皇族として君臨できたのか、 時の権力者なら首を刎ねて今日から俺様が王だと宣言すれば万事済む話だが、 それが出来ない仕掛けが日本の歴史の中で構築されて来たのです。 ある氏族にとって天皇に抗する者はこの世から消えて貰うだけ。 彼らは古代版ディープステート「影の政府」なんです。
114 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:23:56.80 .net 「大國主神」こと「倭大物主」は「大御和乃~奈備爾坐」 「倭大物主櫛厳玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと) 『出雲国造神賀詞』では倭大物主櫛𤭖玉命)。 と御名を称へて大御和の神奈備に坐す」と記載されております。 「大三輪」ではなく「大御和」とあるのです。 ちなみに出雲大社は「スサノオ神」が祀られていることはご存知の通りです。 ここで書いておきたいのは「大国主神」は一代だけの神ではないということです。 「大国主」の系譜を挙げたように「大国主」はいわゆる役職名であり、 「国を司るトップ」のことを神格化してるのです。 では「倭大國魂」は「大物主」の和魂(平和な)とか荒魂(戦闘的な)とか言われており、 つまりは「倭」の代表者であるとの意味だと考えます。
115 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:24:40.87 .net 大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。 国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。「偉大な国の主人」の意。 大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち-) ・大穴持命(おおあなもち-、『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』) ・大汝命(おおなむち-、『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-) ・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) - 誕生後の名。
116 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:25:40.49 .net 葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、 京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、 5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。 >この祭りは賀茂県主氏と朝廷の行事として行っていたのを 貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。 下鴨神社・祭神:賀茂建角身命(かもたてつぬみのみこと)→賀茂別雷神の祖父 上賀茂神社・祭神:賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ) どうして天皇の代理、勅使代と斎王の代理「斎王代」が唯一出向いて、 賀茂建角身命に挨拶回りをするのか、 本来なら賀茂県主氏が天皇に挨拶の行くのが筋のはず。
117 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:26:29.72 .net 賀茂建角身命は「神武東征(日本の建国神話)」の際、 天照大神の命で神武天皇を阻む難路を先導した八咫烏(やたがらす)の化身とされます。 ※その功績から金鵄八咫烏(きんしやたからす)とも表されます。 神武天皇の東征に功を成した賀茂建角身命は、賀茂県主の祖となり、 大和国の葛木山から「山代国の岡田の賀茂」の順に遷座したと伝わります。
118 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:27:59.63 .net 裏天皇=八咫烏=賀茂氏 東・伊勢=伊勢神宮、西・裏伊勢=宗像大社 宗像の守神として三女神に付けられた別名が「道主貴(みちぬしのむち)」。 この「貴」と言う位が付く神様は天照大神の「大日孁貴(おおひるめのむち)」と 出雲大社の大国主命こと「大己貴命(おおなむち)」しか与えられてないのです。 この事から如何に宗像三女神が位の高い神様だと言う事が分かります。
119 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:29:10.22 .net 宗像大社「辺津宮」にある「第二宮」と「第三宮」。 こちらには、長女である「田心姫神」と次女である「湍津姫神」が分祀されてます。 この建物は元々伊勢神宮の別宮であった「伊佐奈岐宮」と「伊佐奈弥宮」であったと 言うことなのです。 この建物は1973年(昭和48年)の第60回の式年遷宮の折に特別に移築され 再建されたものとも言われています。しかし、何故に伊弉諾尊、伊弉冉尊のお社を。 伊弉諾、伊弉冉と天照大神は親子。そして、宗像三女神は天照大神が産んだ御子神。 即ち、伊弉諾、伊弉冉から見て、宗像三女神は孫に当たる訳なので、 それも1つの理由かもしれない。 もしかするともっと深い理由があるのかもしれません。 あるんです。
120 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:33:29.42 .net 玄界灘で日が暮れて方位がわからなくなった海人の宗像族は東の空に現れた オリオンの三つ星を目指して船を漕いだhttps://i.imgur.com/IntrZHB.jpeg ピラミッドの並びが三つ星と同じだという話もありますね https://i.imgur.com/oWJVrcJ.jpeg 宗像三女神とはオリオン座の三ツ星の事 ギリシャ神話の海神ポセイドーンの子、暴れん坊のオリオンは腰に剣を刺し。 あれ天照大神は海神・暴れん坊スサノオの剣をかみ砕いて三女神が生まれた。?
121 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:36:42.14 .net 天之御中主神は北極星、天ノ原・天空の夜の世界は北極星を中心に回ってて 北方位を指す、夜は北極星に向かって両手を広げれば右手が東、左手が西と方位が分かる。 そして天ノ原の昼の世界は天照大神、太陽が生き物たちを育むために天空を回ってる。
122 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:39:28.87 .net 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)高木大神(たかぎのおおかみ)とも云われ 諏訪大社の御柱がその神。 昼は太陽と木柱の影(日時計の原理)で季節、冬至、夏至、が分かり 農作物の種まき、収穫時期が分かる。 開けた場所に柱を立てて、柱の影が一番短い所が南を指し 影が北よりか南寄りかで季節が分かる。 昼の影で一番短くなるのが夏、 長いのが冬。
123 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:42:35.07 .net 高御産巣日神が 季節と時刻を告げる神に対して。 神産巣日神(かみむすびのかみ) 万物の生成発展に寄与する力であり、神道の根元思想である、 自然崇拝の本質で万物に宿る魂とか精霊を敬い尊ぶ神。 これらが、日本神話の最初に高天原に出現する神々。別天津神・造化三神。
124 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:44:40.52 .net >>122 エジプト神殿などに立てられた記念碑オベリスクが日時計などの役目をしてて 神話の高御産巣日神・高木大神がこれらに相当するんだろな
125 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 00:59:51.28 .net 安倍晋三は阿倍仲麻呂、安倍晴明の親戚やで >そう、この地には安倍の文珠院と言う有名な寺が有って、地名が桜井市十市郡安倍 安倍神社もある。安倍晋三さんも文珠院には内緒でお参りに来てた見たい。 大和国十市郡安倍(現,奈良県桜井市)は 大彦命を祖とする古代豪族阿倍氏の地盤、崇神妃、御間城姫(みまきひめ)の実家 103面の銅鏡が見つかった桜井茶臼山古墳はこの御間城姫の墓と云われてる
126 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 01:07:21.24 .net 大和朝廷は今でも、ディープステート(影の政府)として生きてる。 国会なんてフロント宴会場、茶番よ。 そりゃ藤原五摂家として今でも残ってるからな 近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家 江戸時代の時点で近衛家48家、九条家20家、二条家4家、一条家37家、 鷹司家8家、ある。これら五摂家こそが実質影の政府。藤原一門の誉よ。
127 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 01:08:28.32 .net 皇別摂家(こうべつせっけ)とは、 日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が養子に入って相続した、 後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。 男系血統としては、伏見宮系旧皇族以上に、現在の皇室と近い血筋にあたる。
128 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 01:11:41.55 .net 鎌倉時代に藤原摂関家が疎ましく思い、 白河天皇は堀河天皇に位をゆずって 白河上皇 となり、 その後も政治の実権を握り続けた。 これが院政の始まり。 天皇は蓄財や屋敷を勝手に建てるような穢れ事は出来ないが、 上皇、法皇、なら勝手にできる。 白河上皇 は蓄財のし放題で財力、権力、を手に入れていった。のが動乱の始まり。
129 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 01:19:07.31 .net 藤原摂関家には国家の安寧と永遠を守る義務がある、 神々の命じるままに職務を遂行するまで。
130 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 01:32:30.27 .net 京都の街自体が朝廷時代からの遺跡のような街で 朝廷政治が深く根付いてて、京都では白足袋には逆らえないが常識だからな。
131 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 17:51:51.01 .net 「京都の裏支配者“白足袋族”の実態」 京都には昔から「白足袋族」という言葉があります。 僧侶や茶人、学者、西陣の織物の老舗(しにせ)など、 政治的な権力者ではないけれど隠然たる影響力を持った裏の権力者たちのことで、 京都の庶民は「白足袋族には逆らうな」といった言い方をします。 京都で有名なお寺を拝観する観光客は表の顔しか知りませんが、 地元の人間は僧侶たちの裏の顔を見ていますからね。 私も十五年ほど前、保険調査員の仕事で祇園のクラブに通いつめたことがあったのですが、 坊さんたちが変装してお店に通うのを何度も目撃しました。みんな変装して 普通の服装で現れるのですが、全員頭が坊主なのですぐわかってしまいます(笑)。
132 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 17:55:13.58 .net けっきょく、刻目突帯文土器も櫛目文土器も元々は縄文土器からの派生なのだ。 一宮市博物館 馬見塚遺跡F地点 (縄文後晩期) https://www2.icm-jp.com/list/index.cgi?mode=view&no=22069&cat=1&keyword=%93%EA%95%B6%8E%9E%91%E3&st=19 https://www2.icm-jp.com/list/index.cgi?mode=view&no=22072&cat=1&keyword=%93%EA%95%B6%8E%9E%91%E3&st=19
133 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 17:55:56.13 .net 千葉県加曽利貝塚の B 地点貝塚出土 東京大学総合研究博物館 (縄文土器編年/縄文後期、加曽利B3式1580-l520calBC ) https://www.um.u-tokyo.ac.jp/UMUTopenlab/assets/img/library/F01_06.jpg https://www.um.u-tokyo.ac.jp/UMUTopenlab/library/f_1.html
134 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 17:57:02.40 .net >これも縄文草創期の隆起線文土器だけど、口縁部を太くすれば刻目突帯文土器だろ?。 隆起線文土器(りゅうきせんもんどき) 隆起線文土器は、口縁部や胴部の上位に粘土を帯状にめぐらせる意匠(隆起線文・隆線文) とその手法が用いられた、縄文時代草創期初頭(1万2000年前頃)の一群の縄文土器をいう。 北海道や南西諸島を除く各地に分布する。 https://www.tokamachi-museum.jp/event/221001-1113-jomonjidainohajimari/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E9%9A%86%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8.JPG
135 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 17:57:25.14 .net 「下本山岩陰」出土の曽畑式土器 https://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.162/rekishi162.html
136 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 18:05:36.91 .net 長江・東シナ海ルートについては、日本から向かって行くのは遣唐使船の例を 挙げるまでもなく古代においては相当困難な航路なのですが、 逆に来るのは西風・対馬海流の順風・下流方向でそうでもないという話を聞きました。 現在でも上海辺りから漂流して自然に九州に着く船があるそうです。 そのため長江流域から稲をもたらしたのは、計画された船団ではなく 遭難して漂流してきた小舟だった可能性があるとの話でした。 そして、たまたま縄文人家族に助けられた中に農業に詳しい遭難漂流民がいて 水田稲作の方法を教えた。
137 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:05:04.99 .net >江戸時代の200年間だけでこれだけの遭難者(記録に残る者だけ) 古代中国沿岸から数千年の間に九州・奄美諸島への遭難、漂流者は互いに相当数いたはず。 数千人以上か?。丸木舟、筏での漁民や交易船などは強い西風で直ぐ遭難する、 東シナ海の中央部まで流されると対馬海流に吸い込まれて対馬方面に流される。 江戸時代の漂流者の一覧 長右衛門 - 寛文10年(1670年)、小笠原諸島に漂着。 伝兵衛 - 元禄9年(1696年)、カムチャッカ半島に漂着、ロシア帝国に渡る。 ゴンザとソウザ- 享保13年(1728年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。 孫太郎 - 明和元年(1764年)、フィリピンに漂着。 大黒屋光太夫 - 天明2年(1783年)、アリューシャン列島に漂着、ロシア帝国に渡る。 新蔵 - 天明2年(1783年)、アリューシャン列島に漂着、ロシア帝国に渡る。 野村長平 - 天明5年(1785年)、鳥島に漂着。
138 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:06:14.83 .net 津太夫 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 太十郎 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 儀兵衛 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 阿部吉郎次 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 善六 - 寛政5年(1793年)、ロシアのアリューシャン列島ウナラスカ島に漂着。 継右衛門 - 享和3年(1803年)、千島列島に漂着。 平原善松 - 文化3年(1806年)、アメリカ船に救助されハワイ諸島に渡る。 久蔵 - 文化7年(1810年)、カムチャツカ半島に漂着、ロシアに渡る。 小栗重吉 - 文化10年(1813年)、イギリスの商船に救助されロシアに渡る。
139 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:07:42.41 .net 音吉 - 天保3年(1832年)、アメリカのオリンピック半島に漂着。 庄蔵 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。 寿三郎 - 天保5年(1834年)、スペイン領のルソン島へ漂流する。 ジョン万次郎 - 天保12年(1841年)、アメリカ捕鯨船に救助され渡米。 浜田彦蔵 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 仙太郎 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 小林伝吉 - 嘉永4年(1851年)、アメリカ商船に救助され渡米。 勇之助 - 嘉永5年(1852年)、アメリカの商船に救助され渡米。
140 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:11:46.89 .net 熊本の縄文時代遺跡からも稲作の痕跡 が、さらに同年7月には熊本市教育委員会が熊本県の指定遺跡になっている 本渡市(現在の天草市本渡町広瀬)の大矢遺跡にある約5000〜4000年前の地層から 十数年前に出土していた土器に、稲もみの圧痕(あっこん、長さ約3?、幅約1?)が ついていたことを発表して、大きな話題となりました。 このような圧痕については、1992(平成4)年に、岡山県総社市(そうじゃし)の 南溝手(みなみみぞて)遺跡(縄文後期、約3500年前)から出土した土器に ついていた圧痕が最も古いとされていましたが、この大矢遺跡の圧痕の発見で、 日本における稲作の起源がさらに500年以上、遡ることになったのです。
141 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:12:49.21 .net 編鐘(へんしょう)日本では銅鐸 >この墓には編鐘(銅鐸に似た青銅器)が9個と玉璜、棺は朱色に着色されてる。 洛陽市で春秋後期の戎族王級墓見つかる 河南省春秋時代(紀元前770年〜同476年)後期 https://www.afpbb.com/articles/-/3319690?pno=2&pid=3319690003 >この墓も銅鐸に似た編鐘と棺内には朱色(丹、水銀朱か)が塗られてる。 曾侯乙墓は戦国(紀元前 475〜221 年)早期と鑑定されてる。 曾侯夫人羋加墓中出土的部分青銅器 https://www.bastillepost.com/hongkong/article/4874837-
142 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:13:43.30 .net 中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)の地方国家、 越の貴族墓から、江蘇省の陶器鐸 http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg 日本銅鐸 http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/d/3/d3818c98.jpg
143 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:14:53.44 .net >南越国内の遺跡から出土した「巴形模様が刻印された」青銅、鼎。 広東省・恵州・縛楼(木編なし)古国遺跡 始于春秋時期 3000年前 http://i1.kknews.cc/SIG=3nam3j7/ctp-vzntr/EO2JyJH48VeIgu.jpg http://www.people.com.cn/mediafile/pic/20181006/95/9263562868866793675.jpg
144 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:15:31.79 .net >弥生時代の代表的、吉野ケ里遺跡で日本最古の銅矛の鋳型や 巴形銅器など、全国から100点以上出土している、珍しいデザインの銅器です。 古代の日章旗と云われる。 「巴形銅器」 http://www.maibun.com/KihonDate/open/002.html さぬき市・森広遺跡の巴形銅器 http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-21c9.html
145 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:18:51.96 .net 言語との関連 朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる 日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。 これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は 古代満州南部・長白山周辺から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、 その後この朝鮮語族の集団は北方から中部へ拡大し、 朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしている。 またこの過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が 弥生人の祖であり倭人達であるとされる。
146 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:20:48.54 .net >つまり、この話へと繋がって行くんだろ。 『山海経』第十二「海内北経」(鉅燕、紀元前1100年頃 ~ 紀元前222年) 紀元前300年頃の様子を記したと思われる。 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」のころの倭集団を「辰国」と中原王朝は呼んでいた。 辰国は『史記』『漢書』によると、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に 朝鮮半島の南部に存在したとされる国である。 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」 蓋國(今の北朝鮮辺り)は鉅燕(巨大なる燕)の南、倭(今の韓国辺り)の北にあり、 倭(今の韓国辺り)は燕に属す。
147 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:24:32.29 .net 丸木舟を作る道具の丸ノミ形石斧(鹿児島栫ノ原遺跡・世界最古1万2千年前)が 日本全国からと沖縄本島、奄美群島、種子島からも出土してる。 黒潮本流を横切り伊豆諸島の八丈島まで渡り、縄文人の航海能力には驚かされる。 そもそも朝鮮半島の東海岸沿いには縄文人たちが九州の結合式釣り針を持ち込んでる 約7,300年前に生じた鬼界カルデラの噴火で南九州は住めなくなり 北上した一部が朝鮮半島東岸に移住した、 彼らが半島南岸、金海市周辺にも縄文遺跡を残してる。
148 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:25:16.70 .net 対馬海峡を挟んだ日韓新石器時代の交流 https://saikaikouko.jp/No6/hirose2005.pdf 縄文式土器や韓国新石器時代早期から中・後期の土器が,対馬海峡を隔て 朝鮮半島南海岸地域と対馬・九州西北地域から出土している。 これらの土器は,日韓交流の歴史を雄弁に語っている。 江原道高城文若里遺跡(壷5)では縄文早期から前期前半にあたる隆起文土器の段階に 石錯とともに石鋸が出土するなど出現時期が異なるものもあり,貝輪製作でも 両地域で詳細にみると違いが認められる。 慶尚南道巨済島大項浦遺跡(註17)で縄文前期の轟B 2式土器,煙台島貝塚からは 後期の阿高系土器が出土している。
149 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:34:13.23 .net 釜山東三滴貝塚からは縄文前期後半の曾畑式土器,中期の船元系土器, 後期の南福寺式土器などがまとまって出土しており,朝鮮半島南海岸地域側の交流の 重要拠点となっていたと考えられる。 新若里遺跡(註20)から後期初頭の阿高系土器,ほぼ同時期と考えられる土製耳飾,土偶 などか出土し,上老犬島貝塚(註21)から中津式系土器(九州の在地型)などが 「直接持ち込まれた」土器の確実な例としてあげられる。 次の時期,縄文時代の中期から後期(韓国新石器時代中期一後期前半)にかけては, 「直接持ち込まれた土器」の量と分布範囲は若干拡大して,遺跡数も増加する 傾向が見られる。口の印で表示された遺跡がこれにあたる。
150 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:40:43.68 .net 無文土器(むもんどき)とは、 朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。土器の表面に, 櫛目文土器の幾何学的文様のような施文がほとんど行われなず、無文のものが多いため、 無文土器と呼ぶ。同様の土器の無文化は沿海州でもみられる。無文土器の上限は およそ前1千年紀前半期にあり、下限は北部で前3世紀頃、南部で紀元前後頃と思われる。 日本の弥生文化成立に深く関係し、北部九州、山口では弥生土器に伴い 粘土紐貼付口縁土器が出土している。後期の無文土器は、北部九州地方をはじめとして 日本列島各地の弥生時代の遺跡から出土し、吉野ヶ里遺跡でも朝鮮系無文土器が多く出土。 この朝鮮系無文土器の担い手こそ、つまり日琉語族の集団で弥生人、倭人なのである。
151 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 20:49:56.13 .net 遼東半島、偏堡文化、無文土器は弥生文化と連動してるが 確かに弥生土器は磨製の無文土器とは違う、未熟さがありな粗野な造り、 これは、弥生人が持ち込んだ無文土器を恐らく慣れない土着民たちが造ったからだろう。 偏堡文化、無文土器、弥生人は技術移転として黒色磨研土器(1100BC頃)を制作した 制作技術は明らかにレベルが違う、ロクロを使ってて手が切れそうなほどの鋭さがある。 弥生土器は土着民たちが造ったもので無文土器職人とは、ちと違う。 これで縄文晩期にハイテク品、黒色磨研土器(1100BC頃)が突然現れた謎が解けた。
152 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 21:03:05.97 .net 九州西北部の支石墓も内部には縄文時代後・晩期の土器が多く、細形銅剣なども、 偏堡文化、無文土器、弥生人たちが 韓国中部、松菊理遺跡時代(600BC頃)に技術習得し、九州時代でも造り使用した。 この松菊理遺跡には最古の「三種の神器」が登場した遺跡。 偏堡文化は遼東半島の文化で山東半島から来たと思われる日琉祖語族O1b2a1a1だったり 遼河周辺から来たと思われる、満州南部方面の朝鮮語族O1b2a1a2とは 余り交流が無かったためかY-DNAの混在が少なく、ほぼ同族を保持してた。
153 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 21:06:48.21 .net 長江辺りから直接九州、半島南部、に来た者たちも少なからず居たはず 長江と五島列島とは渡り鳥のルートで春と秋の渡りの季節には 2か月に渡って数百万羽が移動する、渡り鳥と夕暮れのオリオン座三ツ星さえ 追いかければ方向を間違える事は無い。
154 :日本@名無史さん :2024/02/19(月) 21:11:39.20 .net 韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化 林 尙澤 (釜山大學校 考古學科) https://www.meiji.ac.jp/cip/researcher/6t5h7p00000ixpa5-att/material_2019_Kurishima.pdf 韓半島新石器時代集落遺跡(縄文時代に相当)は現在、「100余り」が知られている、 最近、南韓の中西部地域を中心として集落の調査事例が増大している (図1)。 本格的な集落遺跡は新石器時代早期 (6000〜4500BCE)から出現して、 後期まで全国的に分布するが晩期 (2200〜1300 BCE)になると急速に減少する。 ちなみに日本の後期旧石器時代の遺跡数はのべ 1万4千500 以上にのぼり 縄文時代のもので約9万件、弥生時代のもので約3.5万件が登録されている。
155 :日本@名無史さん :2024/02/21(水) 00:42:34.67 .net 「支石墓・石棚墓・卓上テーブル型支石墓」 紀元前1700年〜紀元前256年頃ということは殷(商)から春秋・戦国時代 「紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現」 朝鮮半島北部の支石墓は山東半島→遼東半島→遼河→吉林省→朝鮮北部といった流れ。 山東龍山文化時代は紀元前2600~1900年頃、岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です。 浙江省温州地市瑞安 (碁盤型石棚墓)紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて 「江南地方で営まれた墓制、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。 中国南部、長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。 山東半島 「紀元前1500年頃 遼東半島 「卓上テーブル型支石墓・北方式支石墓」紀元前1500年頃 朝鮮半島北西部 「卓上テーブル型支石墓・北方式支石墓」 朝鮮半島南西部 (碁盤型支石墓・南方式支石墓)紀元前500年頃(無文土器時代) 朝鮮半島南東部 (蓋石式支石墓) 済州島式支石墓 (囲石式支石墓) 類似する形態のものは中国浙江省地域でも見られる。 西北九州 (蓋石式支石墓・碁盤型支石墓)紀元前1.100年頃(縄文時代晩期 ) 「屈葬や箱式石棺を伴う。縄文時代晩期から弥生時代前期の土器も発掘されている。
156 :日本@名無史さん :2024/02/21(水) 00:43:56.29 .net >長江流域と九州地域には類似した文化がある。 崖に横穴墓 貴州省都江鎮不巫郷にある横穴墓と極めて似ている。 石棚墓群 (浙江省温州地市瑞安) 長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。 土とん墓 墳丘墓の源流、中国江南地方で呉・越の限られた時代の土とん墓の影響か。 舟型木棺 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土している 銅鐸祭祀 の源流、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、 「日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫る。
157 :日本@名無史さん :2024/02/21(水) 17:16:22.38 .net 縄文晩期 長崎県佐世保市大野台・島原市原山に石棚墓群が出現。 浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺,甕棺を伴う。 (支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから 浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり) 佐世保市鹿町町 大野台支石墓 https://livedoor.blogimg.jp/nandemo_nenpyou/imgs/0/8/08433312.jpg
158 :日本@名無史さん :2024/02/27(火) 00:42:24.11 .net 中国陝西省西安市、約4千年前の太平遺跡、大規模な集落跡が発見された。 客省荘第2期文化に属する灰坑173カ所、灰溝2カ所、家屋跡5カ所、墓7基が見つかり、 大量の土器、石器、骨角器、動物の骨(卜骨)のほか、少量の玉器と玉原石が出土した。 三足土器は出土してない。 >中国人の移民は相当数いるはずが三足土器はない。黒色・紅色磨研土器はある。 台湾史前博物館と卑南文化公園 沖縄写真通信 http://okinawa.ave2.jp/okinawa/masat/1211Taiwan/002Prehistory-Museum/002Prehistory-Museum.html 台湾4千年前の卑南新石器文化時期、円山文化年代は、約四千五百年前から始まり、 約二千年前に消失。 三足土器はなし 近年韓国南部固域貝塚から西周時代長江下流の江蘇,浙江地帯で盛行した 印文陶(湖熟文化、公元前2000年至1000年)がみつかった。 日本に伝播し出土したこの印文陶土器は、沖縄・大分・長崎=五島列島福江市戸岐 の 3 箇所だけで非常に貴重なもののようです。 昭和59年に九州歴史博物館の鑑定で中国の春秋時代(前771〜前403)に作られたものと判明。
159 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 01:23:51.71 .net >メソポタミア・ウバイド文化の壷が熊本県南部の細頸長頸壷・免田式土器とソックリ。 中国には免田式土器と同じ青銅器があるらしい。 ps://twitter.com/yayoibot8/status/1256928662533869569 ps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%89%E6%96%87%E5%8C%96#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Frieze-group-3-example1.jpg (deleted an unsolicited ad)
160 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 01:24:59.61 .net >朝鮮半島の無文土器・黒色磨研土器にある角が2つ付いた土器と同じ土器。 イラン南西部銅石器時代の煮炊きに関する研究 方解石、赤色シルト岩粒を混和した薄手の磨研粗製土器が作られるようになる(図 1)。 把手が付いている本発表では東京大学総合研究博物館所蔵のタル・イ・ギャプ遺跡 出土土器 19 点(紀元前 4700-4500 年)、タル・イ・バクーン A 遺跡 出土土器 2 点(紀元前 4500-4300 年)、合計 21 点の胎土を分析試料とした。 ps://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQRF9Ph_92CXT9CMltZ0GczhXiJFEgYySWwHQ&usqp=CAU p://jswaa.org/wp/wp-content/uploads/2022/06/27thJSWAA_abstracts02-1.pdf (P40)
161 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 02:06:54.75 .net >紀元前5500年頃のものや古代南インド、弥生時代の福岡県スダレ遺跡からなど インドや中東辺りの子持壺が日本まで伝えられて来たこと。 古代シリアの子持壺 ps://kiyond.blogspot.com/2010/03/blog-post_28.html >中国「アンダーソン土器」とそっくりなペルシャなど中東の彩文土器。 >このシュメール土器と縄文土器の似すぎる共通点?? なんだかな? ps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11286216476
162 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 02:50:34.97 .net シュメール人は自らの国を「キエンギ」と呼んでいました。 これは「葦の主の国」という意味になり、 古代日本の呼称である「豊葦原中国」とよく似ているのがわかります。 日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、 それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、 「シュメール」とも発音されていました。 ほとんどの方が「菊花紋」というと、天皇、皇室を連想することでしょう。 実は、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれています。 当時のイラク大統領サダム・フセインが、バグダッドの官邸で記者会見を開いた時、 十六菊花紋がデザインされた腕輪をしていたのです。シュメールの子孫だと誇示するため。
163 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 03:22:12.28 .net 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ) (天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(勾玉は月像、月読み) (中東では勾玉のデザインが良く使われる) 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。 シュメールや古代バビロニアの三種の神器である 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の内容を記憶してた民族て事か???
164 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 04:05:12.12 .net シュメール人とは?その文明と「日本人のルーツ」の謎に迫る 後世ペルシャ王族の象徴だった「白瑠璃の碗」と同じ意味合いなのかも 3枚目の写真(大分県から出土した黒色磨研土器の形によく似てる) https://newsphere.jp/national/sumerian-japanese/
165 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 20:10:58.94 .net パンテオン 大部分のシュメールの神々はアヌンナ(Anunnna、アヌの子孫たちの意)に分類される。 一方でエンリル、イナンナを含む7柱の神々はアヌンナキ(アヌの子孫たち+キ)とよばれる 「地上、冥界の審判者」に分類される。アヌンナキは天(アン)から地上(キ)に 降りたものたちを意味する[要出典]。ウル第三王朝の頃、シュメールのパンテオンには 60の60倍、すなわち3600の神々が存在するとされた。 紅陶(鬹 キ・規に鬲レキ )『足が中空なもの』 鼎(かなえ、テイ)『足がつまったもの』 ナンム: 原初の海(Engur)の女神。天(アヌ)と地(キ)を生んだ。最終的女神ティマト。 アヌ: 天の神。 シン: 月の神。ウルの都市神のなかの1柱。 ウトゥ: 太陽の神。シッパルのエババル寺院(E-babbar)に住まう。 イナンナ: 戦いの女神。女性の繁殖力、愛の神。ウルクの都市神。
166 :日本@名無史さん :2024/03/01(金) 20:23:00.73 .net 紅陶・鬹(鬹 キ・規に下が鬲レキ (足が中空なもの)) いわゆる三足土器。三本の袋足を組み合わせて作った器で、その上の一方に口頸部が付き、 その反対側に幅広の把手が縦に付く。口は円を二方からつまんで作った形を呈している。 胎土は精製された土で、整形した後なめらかに磨かれている。 この種の鬹は、黄河下流域の大汶口文化やその流れをひく山東龍山文化のものが よく知られているが、良渚文化にも出土例がある。
167 :日本@名無史さん :2024/03/02(土) 23:09:48.28 .net シュメールは人類最古の文明化。 メソポタミアのシュメール文化(紀元前3500年頃)から エジプト文明前3000年頃が生まれ、 さらにインダス文明(紀元前2500年頃から1500年頃)が生まれた。 黄河文明(紀元前2000年頃から甲骨文字)もシュメールが作ったのだという。 象形文字が4大文明で共通している。 彩文土器などは明らかに中央アジアの物である。 日本の古代文明もシュメールの影響があるという、縄文土器のなかに似た物がある。 旧約聖書もシュメールの歴史である。イラクの古遺跡の名も旧約聖書のそれと同じである。 地名が歴史の化石と言われるゆえんである。 世界の象形文字・絵文字の代表的なものが メソポタミアのシュメール文字(楔形文字)・エジプトの象形文字・中国の甲骨文字 https://members.m-gakusei.com/image/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E3%81%AE%E4%BE%8B.jpg インダス文字と古代中国文字 https://livedoor.blogimg.jp/kuruchannel/imgs/a/3/a3630e74.jpg シュメール人の文明は驚いたことに既に発展した状態で突如として現れた謎の文明 高次元から降りた神々か他の天体からやってきた異星人らが創造したとも言われています。
168 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 16:53:56.44 .net 『日本書紀』の「斉明天皇紀」の五年(659)七月の条に、つぎのような文がある。 「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書によると、この天皇(斉明天皇)の御世に、 この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、 十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。 二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。 縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、 参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。
169 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 17:55:37.85 .net 原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 https://fieldnote.info/page-1424/page-1557/ 原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。 とくに,太平洋周辺の長大な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と 非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。 源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ, 丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており, 原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。 東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃) のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。 一般的な弓のプロポーションから復元すると180cm前後の長大な弓であった可能性がある。 跨湖橋遺跡は稲作開始期の集落で,家畜化初期段階のブタ,丸木舟などが共伴している。
170 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 18:16:12.76 .net さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が, 140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。 フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓 さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで, 太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。 この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような, 長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に 樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。
171 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 18:19:30.92 .net 後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。 弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、 弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、 弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。 そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。 朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。 朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に, 原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。 紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012), 2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。
172 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 18:23:24.78 .net >>170 続き。 インド洋沿岸のI類弓 フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして, インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。インドネシアのメンタワイ族, スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。南太平洋の島嶼群と同様, 180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する長大なI類弓が主体である。 なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える, 180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。
173 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 20:15:40.29 .net 縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。 長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、短弓の例として、 埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。 さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる木製品を確認されているが、 これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。 弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。 縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の 短弓が大量に残っており、縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。
174 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 20:32:48.84 .net 「縄文時代と弥生時代の木製容器」 file:///C:/Users/owner/Downloads/117561_3_%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%80%E8%A6%81.pdf 縄文時代の深鉢形土器・弥生時代の甕形土器は、煮炊きする容器であり、 弥生時代の壷形土器は貯蔵する容器となる。それに比べ木製の容器は、軽量であり、 衝撃に対する強さもある。作業皿・浅鉢・椀・掬い具などが中心器種となっている。 縄文時代の木製容器は、鉢・浅鉢・注ぎ具・皿・壷.杓子・椀があり、 時期・地域によって形を変化させている。鉢・浅鉢には、文様を彫刻することがあり、 土器のモチーフと類似したものとなっている。 赤あるいは黒の漆が塗られていることが多い縄文時代の木製容器と違い、 弥生時代のそれは木肌そのままの仕上りが基本形になっている。
175 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 20:35:04.59 .net 縄文時代の木製容器の用途を考えてみるに、 これ迄に発見されていた漆器の多くは調理に関わる道具であった。 福井県鳥浜遺跡や石川県真脇遺跡、山形県押出遺跡例などの大型皿・浅鉢のたぐいは、 •海の幸、山の幸を盛りつける。 •そうした食料資源を調理する(堅果類の粉をねる、イモをすったものを扱う、 獣肉や魚肉を調理する)。などの作業鉢や調理具として用いられたと考えられる。
176 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 21:54:13.91 .net 魏志倭人伝の世界は南方的だ https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/f882ba0e5603b2432e6a63949831e7cc 「倭人は長弓を用いていた」 倭人伝は「木弓は下を短くし上を長くし【これは長弓を表す】、 竹箭は或は鉄鏃、或いは骨鏃なり、有無する所は、儋耳朱崖(海南島)と同じ。」 と記している。つまり海南島は長弓で倭人が用いる長弓と同じであると云っている。 下の写真は、奈良・唐子鍵遺跡(倭人伝と同時代)出土の弥生時代の長弓で、 復元推定長さ2.0〜2.3mと云われている。 このような長弓の分布は江南の呉越からインドシナ半島東部、フィリピン諸島、 インドネシア諸島に分布している。 その一例として浙江省杭州市の跨湖橋遺蹟(新石器時代)の漆塗の丸木弓である。 太平洋諸島の長大弓の祖型と考えられている。 つまり倭人が用いる弓は長弓で、決して朝鮮半島の短弓ではなかった。
177 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 23:06:47.99 .net >出るわ出るわ縄文時代の漆塗り丸木弓、全国から出土。 重要文化財に指定された、東村山市内の下宅部(しもやけべ)遺跡から出土した 漆塗りの丸木弓から、縄文時代の狩猟儀礼を考える内容。 秋田県立博物館 中山遺跡出土の漆塗り丸木弓(縄文時代晩期) 縄文晩期、青森県是川遺跡・奈良県橿原公苑遺跡に漆塗りの長弓がある。 弥生時代 唐古遺跡、登呂遺跡、の出土例では、長短2種の丸木弓がみられる。 埼玉県大木戸遺跡 縄文時代後期の黒漆塗りと赤漆塗り飾り弓が出土しました。 長弓の中には桜皮を巻いて漆を塗装したものなどの製作技術の違いがわかっている。 (国指定)金沢市中屋サワ遺跡(縄文後・晩期)弓本体の握りの部分に細い糸を丹念に 幾重にも巻き、幾何学模様を編みだして、漆塗りの飾り弓が多数出土しています。
178 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 23:23:08.72 .net >>4 淡路島の榎列掃守鎮座の掃守(かもり)神社の御祭神の 天忍人命とは何者?
179 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 23:33:00.61 .net 韓国語で イネ は ピョ。コメ は サル だ。 まったく語源が違う。コメは南中国語に近い。 よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。 これは日本語まったく解釈不可能だ。 イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。 ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。 反対に 馬 ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。 これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。
180 :日本@名無史さん :2024/03/03(日) 23:57:04.34 .net そう、 アジアにおける漆塗り丸木弓・長弓の起源に関する考察として、 太平洋周辺の長大な弓の分布はオーストロネシア語族の拡散域と重なり、 また中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡から世界最古の漆塗り丸木弓が出土しており、 この浙江省にある良渚・河姆渡遺跡そば跨湖橋遺跡が漆塗り丸木弓の発祥地と云われる。 原始和弓を含めた太平洋型長大弓の共通祖形とも考えられている。
181 :日本@名無史さん :2024/03/04(月) 00:33:27.79 .net Admixture研究で、古代南朝鮮人は縄文人と遼東人の混血という結果が出ている。 >だから、それは山口の土井ヶ浜弥生人限定、他の集団とは類似性はなかった。 そうしたら弥生人は山東省の古集団で決定だ。 弥生人と朝鮮人に遺伝子的な類似性があったという報告はない。
182 :日本@名無史さん :2024/03/04(月) 00:50:04.08 .net https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16251004/ 遼東半島では本格的な水田遺跡は見つかっていない。可能性があると言ってるだけ。
183 :日本@名無史さん :2024/03/04(月) 02:05:12.12 .net ヒナモリではない ヒノボリ(火登り)である。
184 :日本@名無史さん :2024/03/05(火) 22:18:55.97 .net 【殷の甲骨文字】 次に殷墟から出土した甲骨文字について見ていきます。 言語学者のガブリエル・マンデル氏は「幻のインダス文明」という書籍の中で、 殷中期の原エラム文字とインダス文字の比較研究を論述しています。 また、オーストリアの考古学者ハイネ・ゲルデルン氏も 殷の原エラム文字がインダス文字の一種であることを考証しています。
185 :日本@名無史さん :2024/03/05(火) 22:21:11.34 .net 甲骨文字とインダス文字に共通する特徴として象形文字と表音文字という 二つのグループから合成されていることを解説しています。 また、インダス文字が原エラム文字と非常によく似ていることは広く識られています。 甲骨文字の他に殷の青銅器銘文の大部分は図象によって占められています。
186 :日本@名無史さん :2024/03/05(火) 23:08:27.56 .net >結局、殷商王朝はシュメールやインダスからの交易商人が集う活動拠点だった。 漢字はいつ生まれたか? 殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、 紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字) https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/559f6d4bb09441dd49a1c1f2cb125c44 上の写真は漢字の変化を纏めた資料 殷時代 BC1,700〜BC1,100年 甲骨文字 周時代 BC1,100〜BC256年 金文 秦時代 BC221〜BC207年 篆書 漢時代 BC202〜AD220 隷書、楷書、行書、草書 出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page112
187 :日本@名無史さん :2024/03/05(火) 23:11:06.11 .net >結局、殷商王朝はシュメールやペルシャ・インダスからの交易商人が集う活動拠点だった。 漢字はいつ生まれたか? 殷王朝の時代(BC1,700〜BC1,100年)、 紀元前1,300年頃に生まれた(漢字のルーツ甲骨文字・インダス文字・原エラム文字) https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/559f6d4bb09441dd49a1c1f2cb125c44 上の写真は漢字の変化を纏めた資料 殷時代 BC1,700〜BC1,100年 甲骨文字 周時代 BC1,100〜BC256年 金文 秦時代 BC221〜BC207年 篆書 漢時代 BC202〜AD220 隷書、楷書、行書、草書 出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page112
188 :日本@名無史さん :2024/03/05(火) 23:31:14.12 .net シュメール土器と縄文土偶(▽顔の像や母神像)のなかにソックリなのが有るので 可なり古くからの交流が有ったと思われる。 キプロス島文字にはカタカナ文字と同じ物がある。 黄河文明ともアンダーソン彩文土器や黒陶土器などがあり、 遼東半島の角付き無文土器などもある。 一番驚くのは日本の三種の神器神話とシュメール神話がそっくりで、 この勾玉が月神を表してることなどが解る。
189 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 00:16:04.24 .net つまり、シュメール文明が原点で拡大したメソポタミア文明やエジプト文明が起き、 東に移ったインダス文明、それら両者の影響を受けた黄河文明、 長江文明は古さは有るが文字を持たなかった。 タイのバンチェン遺跡(紀元前3000年〜前2000年)発掘により分かったことは バーンチエンでは、そのころ稲作や豚などの家畜が行われ、 ガラスや、青銅器・鉄器などが使われていたということである。
190 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 14:42:07.33 .net 大分県日出町(ひじまち) 当町域の旧石器時代から弥生時代までの遺跡は約一〇〇ヵ所を超える。 川崎地区の早水台そうずだい遺跡は旧石器時代前期から縄文時代早期の遺跡で、 昭和三九年(一九六四)の調査で旧石器が発見されている。 同地区の橋詰はしづめ遺跡では瀬戸内海の福田II式土器が発見され、 縄文時代後期の当地域の特殊性が注目された。 日出地区の薬師やくし遺跡では、 「縄文時代晩期の三万田式土器とともに印文陶の破片が出土している。」
191 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 15:51:02.42 .net 中国東南沿岸部の新石器時代 中国東南部は,およそ漸江・湖南・江西・広東という広範囲の地域を指す。 この地域は,漢書によれば「交阯より会稽に至る七,八千里,百越雑処す,各種姓有り」 とあり,いわゆる「印紋陶」が分布する地域に重なって, 「百越」と表現されるさまざまな諸族が居住していたと思われる。 長崎県五島列島福江市戸岐 昭和55〜56年に戸岐集落の裏が崩落。崩落止めの工事中に作業員が発見した折、 取りあえず高台にあった金富(かなとみ)氏が祭祀した祠の中へ入れた。 数年後、水中埋蔵物の調査活動をすすめていた地元潜水士の平山繁一が、 その祠からたまたま発見したもので、昭和59年に九州歴史博物館の鑑定で 中国の春秋時代(前771〜前403)に作られた「印文陶土器」と判明。 沖縄県八重山郡竹富町 宮古・八重山諸島先史時代 波照間島台地緑の下田原地区の黝灰色の印文硬陶の土器が採集されている。
192 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 17:52:44.04 .net 韓国南部固域貝塚から西周時代長江下流の江蘇,浙江地帯で盛行した 印文陶(湖熟文化)がみつかった。 *「印文土器」 朝鮮半島南端近くの海辺の小都市、「固城(こじょう)」という地から 「印文陶器」が発掘されていること。揚子江の下流から広東省まで分布する土器。 「固城貝塚」は「伽耶(かや)」「任那(みまな)」といった、倭人が多く住み、日本に関係の深い地。 また縄文遺跡の多い地域。土器と一緒に、炭化した稲籾と大麦なども発見。 さらに平形銅剣や鉄滓、フイゴロなども出土。揃っています! 他にも「全羅南道大黒山島・木浦市の80km西方」でも「印文陶器」が発見されているようです。
193 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 23:10:56.84 .net 韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。 まったく語源が違う。 米コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、も同語源と思われる。 よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。 これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。 イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。 ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。 反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。 これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。
194 :日本@名無史さん :2024/03/06(水) 23:11:33.42 .net >縄文人にとって土器は煮炊きをする物、食器は木製と決まってる日本人の伝統椀。 「縄文時代と弥生時代の木製容器」 file:///C:/Users/owner/Downloads/117561_3_%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%B4%80%E8%A6%81.pdf 縄文時代の深鉢形土器・弥生時代の甕形土器は、煮炊きする容器であり、 弥生時代の壷形土器は貯蔵する容器となる。それに比べ木製の容器は、軽量であり、 衝撃に対する強さもある。作業皿・浅鉢・椀・掬い具などが中心器種となっている。 縄文時代の木製容器は、鉢・浅鉢・注ぎ具・皿・壷.杓子・椀があり、 時期・地域によって形を変化させている。鉢・浅鉢には、文様を彫刻することがあり、 土器のモチーフと類似したものとなっている。 赤あるいは黒の漆が塗られていることが多い縄文時代の木製容器と違い、 弥生時代のそれは木肌そのままの仕上りが基本形になっている。
195 :日本@名無史さん :2024/03/07(木) 15:33:03.51 .net >>193 >これは日本語で、まったく解釈不可能・・・・・・・・・・ >イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはず・・・ 認知症患者か?僅か3日前の3/03>>179 投稿と重複やぞ
196 :日本@名無史さん :2024/03/07(木) 15:41:10.97 .net >>4 東国から九州防備に配置された防人(サキモリ)は3年交代制?だったらしい 『にっぽん百低山』「城山・長崎」 NHK総合
197 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 17:01:21.91 .net 「文明の定義」 人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。 特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、 技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。 「文字」 文字によって人類は、個人が考えたことを多くの人に伝達したり、 個人の記憶を記録として集団に行き渡らせることが可能になりました。 あるいは、高度な統治・食料生産システムを築き上げ、長期的・持続的に発展する、 社会の在り方を作り上げることに成功していた特徴などが文明にはあげられます。
198 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 17:15:59.94 .net ホモ・サピエンスが地上に現れたのはおよそ20万年前。 以来、長い間原始生活を続けていた人類の祖先に、あるとき劇的な変化が訪れる。 1万2万年前、気候変動によって生活が一変。文明社会への道を歩み始めたのである。 その舞台は、紀元前1万年のメソポタミア。 狩猟を行いながら移動生活を行う人々が、不思議な光景に出会う。 新しく登場した定住民の集落だ。 この出会いをきっかけにホモ・サピエンスは 家畜の飼育、農耕開始、そして、家族の概念が確立し、文明社会の基礎が出来上がる。 やがて人は文字を生み、集落のルールを決め、宗教や芸術を発展させていった。 その一方、文明社会は、権力をめぐる争い、そして富をめぐる戦争をも生みだした。 「文明の夜明け」の舞台はメソポタミア、ホモ・サピエンスが地上に初めて築き上げた。 シュメール人の都市国家では、文字が発達する。知識は蓄積され、 技術が急速な進歩を遂げ始める。 本格的な文明社会が地球上初めて誕生した。
199 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 18:07:59.35 .net シュメール人の都市文化は周辺地域に広がり、メソポタミア文明と呼ばれるようになる。 この頃にはまだネアンデルタール人たちも生活してて、 彼らの頭蓋骨の特徴から眼窩(がんか)眼球の収まる頭蓋骨のくぼみが異常に大きく ホモ・サピエンス(現生人類)の眼窩の1.5倍もある。 また目の上、眉骨(眼窩上隆起) が張り出して大きく額が突出してるのが特徴とされる。 これまんまシュメール人像の特徴で、ネアンデルタール人との混血種ではと云われてる。
200 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 18:25:03.99 .net そして、メソポタミア・シュメール文明が周辺河川に広がり、 エジプト文明、インダス文明、また、インダス・シュメール文明が黄河流域や インド方面へと広がって行った。インダス文明を築いたドラヴィダ人たちは 東南アジア・タイ北東部のバン・チェン遺跡(紀元前3000〜前2000年頃)へと そこにはカンボジア系クメール人たちが住んでて彼らにはドラヴィダ人のハプロHが多い、 クメール人はインダス文明を築いたドラヴィダ人との混血の可能性がある。 バン・チェン遺跡には洗練されたバン・チェン土器(彩文土器)がある。 インドシナ半島と云われる由縁かも。
201 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 21:39:44.87 .net ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。 漢数字の一二三、ギリシャ数字の???などは同じ思考のように感じる。 クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、 およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A 「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の 王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する (コロネ)に由来する。 カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と形が一致してる。 意味は万人の上に立って天下に号令する人、上に立つべき徳のある人。
202 :日本@名無史さん :2024/03/08(金) 21:42:24.67 .net クレタ島と云えばミノア文明で牡牛信仰、 「牛頭リュトン、紀元前16世紀」のもので、 ミノア文明の牛頭信仰に基づいている、日本の牛頭天王スサノオと関係あるかも。 彼らは甕棺墓、S字形の渦巻紋、埴輪文化もある。 http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm おまけに、近畿・中国地方に多く分布している、家形陶棺までミノア文明にはある。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%A3%BA
203 :日本@名無史さん :2024/03/09(土) 00:11:51.82 .net >これらは、シュメール文明が世界中に拡散した事で共通する神話があるんだろう。 〇 漢字には「旧約聖書」の意味合いが含まれた形の文字が多い。 義、我は羊。船、ノアは舟に八人の家族を乗せて助けた。 〇 漢数字、一二三、ギリシャ数字のTUVなどなど 〇 カタカナとヘブライ文字と似た文字、発音、がある。 〇 東欧、ペルシャと日本とで意味、音、が似た物がある。 シオタラン、チャランポラン、雨アメン神、天アテン神、ソル神(太陽神ソーラ、空) 〇 日本神話とシュメール神話の類似、三種の神器、八岐大蛇、など。 〇 中国神話とシュメール神話、中国神話の伏羲と女媧、雲南のワ族には方舟神話 インド神話のナーガとラージャ、シュメール神話のエンキとニンマ、イシスとオシリス。 〇 世界中にある洪水神話、兄妹夫婦、入れ墨、抜歯の風習、 〇 縄文時代の土器や土偶にシュメールとソックリな器形のがある。
204 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 03:15:26.73 .net 海外の一部の歴史家で、この写真が話題になっています 左:エジプト中部の町アトフィで発見された石棺 右:奈良県橿原市の植山古墳で見つかった石棺 http://twitter.com/pakkooonMIRAI/status/1765400411245322455 (deleted an unsolicited ad)
205 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 03:38:34.84 .net 福岡県の珍敷塚古墳の壁画とエジプトの太陽の船、セン・ネジェム古墳の壁画 https://ameblo.jp/todo-para-mi/entry-12298672126.html
206 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 20:48:43.42 .net 淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái yí 中国,殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族。 〈東夷〉の一つで,水稲農耕を主とした。 西周の初め,周公旦の摂政に反発した管叔鮮・蔡叔度の挙兵に殷民・徐夷と共に加わった。 このため周公は東征を行い,洛邑(のちの洛陽)を新営してこれら東夷のおさえとした。 周から穀物,帛(はく),労役の重い負担を課せられ,その後も反乱をくりかえした。 その地は呉に,ついで楚にあわせられ,戦国期初めには漢民族と混血,融合した。 中国,古代の民族名。殷・周時代には,黄河流域を中心とする 中原の諸族とは文化系統を異にする夷系の諸族が江淮に活躍しており, 東夷,東南夷などと呼ばれた。この淮夷もその一つで, 淮水流域を中心とする族を呼んだものであろう。 勢威強く,殷,周の2王朝にとってその制圧は大きな課題であり, 西周期にもしばしば侵入を受けた。
207 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 21:34:21.61 .net 詩経 しきょう 西周初期(前11世紀)から東周中期(前6世紀)に至る 約500年間の作品群と推測されている。 ○魯頌 泮水 古く淮域にいた沿海族。〔詩、魯頌、水〕憬(はる)かなる彼の淮夷 來(きた)りて其の(ちん)(宝)を獻ず 元龜象齒あり 大いに南金を賂(おく)る。 憬彼淮夷けいかわいい 來獻其琛らいけんきしん 元龜象齒げんきしょうし 大賂南金だいろなんきん 淮水の蛮夷も徳化し、 僖公の元に財宝を献上してきた。 大きな亀や象牙、 南方より産出された黄金などである。 ○魯頌 泮水 魯の旧政を恢復して徳を納めた僖公は淮で諸侯と会して東略を謀ってから、 淮夷を討伐しました。 僖公の淮水域に住まう蛮族掃討を記念する歌であるが、 「蛮夷を払う」とはよくも言ったものであるな。いや、いいのだが。
208 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 21:44:43.73 .net 「淮」 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」ビール→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ 淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái yí 淮河(Huái Hé、ホワイ川)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、 長江・黄河の間にある第三の大河。
209 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 22:57:49.30 .net 『山海経』は、中国大陸で書かれた地理書。戦国時代から秦朝・漢代にかけて 徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書とされる。 『山海經』によると、夷は胡の東側にある。また中国神話において英雄の一人として 后羿の存在が伝えられているが、『春秋左氏傳』では「后羿」ではなく「夷羿」という 人物が登場する。伝説の美化された后羿とは異なり、『春秋左氏伝』の后羿は王を殺し、 玄妻を奪う罪人である。彼は扶桑で休んでいた太陽の象徴である10羽のカラスのうち 9羽を殺した。また、彼は9つの頭を持つ蛇を殺したとされる。
210 :日本@名無史さん :2024/03/10(日) 22:59:09.14 .net 『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、 その意味は「恵み育て生命を尊重することで、 万物は土地に根ざしてできるものである」となる。 そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められる といい、君子の国や不死の国[13] があるとさえいわれる。 [13]『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、 2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、 その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国も共に東方にある」とあり、 『外国図』には「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)から三万里離れた ところにある」とある。
211 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 01:01:21.81 .net 2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを 分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。 日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。 http://i.imgur.com/3TCgKzC.png http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg
212 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 01:20:34.05 .net > つまり下図は東アジアの下戸遺伝子の分布図です 2型アルデヒド脱水素酵素は、エタノールの代謝産物のアセトアルデヒドを 分解する主要な酵素です。ALDH2と略します。アセトアルデヒドを分解する主要な酵素。 日本人には酵素の働きが弱いひとが多く、少量の飲酒で フラッシング反応((顔面紅潮、嘔気、頭痛、眠気))を起こし飲酒量が抑制される。 http://i.imgur.com/3TCgKzC.png http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg https://i.imgur.com/NYhhRRh.jpeg
213 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 01:42:36.59 .net ALDH2遺伝子とは、人の肝臓を中心にエタノールの代謝産物であるアセトアルデヒドを 含む反応性アルデヒドの酸化及び、無毒化に重要な働きをしている酵素です。 活性しているとお酒に強くなります。 遺伝子型 活性タイプ アルコールの強さ 黒人 白人 日本人 NN型 活性型 __強い_依存症に注意 __100%_100%_56% ND型 NN型の1/16の活性・低活性 ほどほど 0% 0% _40% DD型 非活性型 _弱い _飲めない ____0%___0%___4% 「ちゃんと働く酵素の出現割合」というマップによると 80%以上 北海道 東北 南九州 沖縄 75%~80%関東 四国 北九州 75%以下 北陸 中部 近畿 中国 お酒に強い地域が、縄文人の多い地方と重なることがわかります。 逆に、弥生系ハプロ「O」等が濃い地域は下戸遺伝子が多いことがわかる。
214 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 02:20:27.86 .net 「淮」淮夷(読み)わいい(英語表記)Huái 淮河 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」ビール→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ >これって、東夷の濊貊・穢(わいはく、かいはく)と同じだな。 「濊」 音読み 1番カイ 2番カツ 3番ワイ 意味 1番水の多いさま。 2番「濊濊(かつかつ)」は、網を打つ音。 3番けがれ。=穢 3番「汪濊(おうわい)」は、水の深く広いさま。
215 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 02:38:30.75 .net 濊族 性格 三国志魏書濊伝によれば、濊の人々の性格は慎み深く、素直で欲深いところが少ない。 恥を知る心がある。また、後漢書濊伝によれば濊人の性質は馬鹿正直で、淡泊で、 求めることが少ない。濊人は窃盗をしないため、人々は夜でも門戸を閉めず、 また婦人は貞節である。 服装 言葉や風俗はだいたい夫余と同じであるが、衣服に違いがある。 男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、 男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。
216 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 02:38:59.07 .net 行事 10月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌い舞いを舞う。 この行事を「舞天」と呼んでいる。また「虎」を神として祭る。 刑罰 邑落の間で侵犯があったときには、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。 この制度を「責過」と呼ぶ。人を殺した者は死をもって罪を償わされる。 略奪や泥棒は少ない。 『外国図』には「君子国は瑯琊(現在の山東省青島市黄島区) から三万里離れたところにある」とある。帯方郡から邪馬台國までが、万二千里あまり。 「君子国」には、2つの飾りの虎をいつもそばに置いている。
217 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 02:51:01.58 .net 星座占い 『魏志』東夷伝・濊に「曉候星宿,豫知年歳豐約。 (星宿を観察することにすぐれ、その年の豊凶をあらかじめ知ることができる)」とある。 李成市によれば、『淮南子』巻三・天文訓には、歳星(木星)の運行に基づく 歳星紀年(中国語版)と太陰元始による豊凶のタイムテーブルがあり、 濊族はそれを知っていたのではないかとする。 『広開土王碑文』には、広開土王が新たに獲得した「新來の韓穢」に対して、 (きゅう【旧〔舊〕】)舊民もあらわれ、その中には、「東海賈」がみえ、これについて、 武田幸男は「東海の商賈、つまり日本海沿岸に居住し、活動していた商賈」とする。 穢族には、狩猟漁撈で獲得したものを、広く販売する商賈、商人もいたことを示す。
218 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 02:53:56.77 .net 言語 詳細は「扶余語族」および「濊貊語」を参照 中国の史書によると、濊の言語は夫余と同じと記される。 夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、 手掛かりがほとんど無く現在に至ってもよく解っていない。『三国史記』に記された 古代の朝鮮半島の地名の記録から古代の朝鮮半島には日本語と同系統の言語が、 倭人が定住していた朝鮮半島南端に限らず半島の広範囲に分布していたとの見方があり、 高句麗語による地名ではないかとも考えられているが、 その倭語系の地名は高句麗ではなく濊の言語によるものであり、 濊語と倭語は共通祖語を持つ同系統の言語であるとの説も存在する。
219 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 03:08:27.36 .net 歴史 地域によっていくつかの集団に分けられ、臨屯濊と沃沮濊が主であり、 臨屯濊は、衛氏朝鮮に服属していたが、 前漢の元朔元年(前128年)、薉君の南閭らが、衛氏朝鮮の衛右渠に反逆し、 遼東郡に服属した。武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した。
220 :日本@名無史さん :2024/03/12(火) 04:29:56.40 .net 岡田は中国古代王朝の夏やその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、 「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、 また禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、 福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称 していること、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ 越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる 徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が 日本列島に到着したのだろうと推定する。 朝鮮半島で多用される「倭」とウェノム。 ウェノムは「倭놈(ノム)」で、ノムは朝鮮語で「人、者、奴」 意味は日本の野郎であり、反日的蔑称要素が窺える言葉である。 「倭」は「ウェ」。「淮」呉音 : ヱ「ゑ」(例.夷 欧米語の/we/音「ウヱ」) 同音である。 「倭人」、「淮人」意味も同じかも??
221 :日本@名無史さん :2024/03/13(水) 22:10:00.77 .net 韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。 まったく語源が違う。 下にある顔の各部名称がまるで違う。 米コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、マンマも同語源と思われる。 よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。 これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。 イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。 ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。 反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。 これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。 目 눈 ヌン 鼻 코 コ 口 입 イッ 耳 귀 クィ おでこ 이마 イマ アゴ 턱 トッ ほほ 볼 ボル 頭 머리 モリ 肩 어깨 オッケ ひざ 무릎 ムルッ 足 발/다리 パル/タリ 腕 손 / 팔 ソン/パル お腹 배 ペ お尻 엉덩이 オンドンイ ひじ 팔꿈치 パルクムチ
222 :日本@名無史さん :2024/03/14(木) 22:32:21.97 .net 中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。 その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。 そこで「淮」 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ >これって、東夷の濊貊・穢人(かいはく・わい人)と同じだな。 「濊」けがれの意味。=穢 音読み カイ・カツ・ワイ おまけが、朝鮮半島で多用される蔑称「倭」とウェノム。 ウェノムは「倭 놈(ノム)」でノムは朝鮮語で「人、者、奴」らの意味。 つまり「倭」とは「ウェ」と発音。呉音の エ(ヱ) ヱ「ゑ」=we/音「ウヱ」と同じになる。
223 :日本@名無史さん :2024/03/15(金) 00:51:42.05 .net 母集団から抽出された標本を用いて、 母集団の性質を推測することを「推測統計学」といいます。 サンプル数の目安として言われているのは、母集団の総数が「10,000」を超える場合、 サンプル数が「400」集まれば、確度の高い結果を得られる目安の数値と言われています。 集団の総数が「1,000」の場合は「300」、 「100」の場合は「100」、「10」の場合は「10」であり、 母集団の数値が小さくなればそれだけ集めるサンプル数を増やす必要があります。
224 :日本@名無史さん :2024/03/15(金) 01:07:27.75 .net https://mirizerocket.com/2020/03/14/number-sample/ 下記は、母集団10,000とした場合の重視レベルに合わせた参考パターンです。 ・精度重視:許容誤差5%、信頼度95%(サンプル数約400) ・標準調査:許容誤差5%〜10%、信頼度90%〜95%(サンプル数約70〜400) ・ざっくり:許容誤差10%〜20%、信頼度80%〜90%(サンプル数約10〜70) (2020年7月6日追記)選挙で開票がはじまっていない、 もしくははじまって間もないのに「当確」報道が出ることが珍しくありません。 これは、統計学的には方程式・計算式があって「400」のサンプルを取得すれば、 概ね全体像を把握することができるからです。 「16,000」まで集まれば、ほぼほぼ誤差(1%)がなく正解も出せます。
225 :日本@名無史さん :2024/03/15(金) 01:32:47.69 .net 中国北部には黄河が流れ。 南部には長江(揚子江)が流れてる。 その中間には淮河という中規模の川が流れ長江下流へと合流する そこには淮人・淮夷という東夷集団が「夏・殷・周」の春秋時代から居たらしい。 『春秋左氏傳』『山海經』によると。 そこで「淮」 音読み 呉音 : エ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウヱ」 漢音 : カイ(クヮイ) 慣用音 : ワイ >これって、東夷の濊貊・穢人(かいはく・わい人)と同じだな。 「濊」けがれの意味。=穢 音読み カイ・カツ・ワイ おまけが、朝鮮半島で多用される蔑称「倭」とウェノム。 ウェノムは「倭 놈(ノム)」でノムは朝鮮語で「人、者、奴」らの意味。 つまり「倭」とは「ウェ」と発音。呉音の エ(ヱ) ヱ「ゑ」=we/音「ウヱ」と同じ。
226 :日本@名無史さん :2024/03/15(金) 01:52:51.28 .net O1b2の兄弟関係に当たるオーストロアジア語族、きほん稲作農耕民。 倭人と呼ばれたO1b2a1a1 (47z, K7)は交易漁労民のように感じるな 4~5千年前縄文時代に盛んに東アジア諸国と玦状耳飾り,アクセサリー交易を行った人達。 日本国内に於けるハプログループO1b1の頻度 九州 3.8% (2/53)[16] 金沢市学生 3.7% (11/298)以上4.4% (13/298)以下[24] 東京(JPT) 3.6% (2/56)[43][2] 徳島 2.9% (2/70)[16] 徳島市学生 2.1% (8/388)以上3.6% (14/388)以下
227 :日本@名無史さん :2024/03/15(金) 09:36:40.55 .net >>3 3/17(日)夜NHK総合で邪馬台国特集予定 『NHKスペシャル』 「古代史ミステリー第1集 邪馬台国の謎に迫る」2024/03/17(日) 21:00 〜 21:50
228 :ネトウヨ撲滅隊! :2024/03/16(土) 07:45:48.36 .net ネトウヨの歴史観の間違いだらけ 日本人は縄文文明人の末裔 →間違い。弥生文化人の末裔です。 日本語は縄文時代から日本列島で話されていた →間違い。縄文人は古代アイヌ人です。 稲作は中国江南から伝わった →間違い。日本米は古代韓半島の無文土器文化人の稲の品種です。 日本の古代には神代文字があった →間違い。上代日本語と神代文字は母音の数が合わないのでニセモノです。 縄文人と弥生人は同じ民族である →間違い。人種レベルで異なる種族です。言語も違います。 天皇家は縄文時代から続く最古の王朝 →間違い。世界最古ではあるが贔屓目に見ても弥生時代終末期から。 日本は皇紀2600年の世界最古の国 →間違い。ヤマト王権の始まりは卑弥呼の即位と同時代で1800年程度。 ホツマツタエやオシテ文書や契丹文書や東日流外三郡誌は正史 →間違い。完全に近世以降の偽作。 邪馬台国の卑弥呼は九州の土蜘蛛の女酋長 →間違い。ヤマト王権の女王というのが学者の間でほぼ定説。
229 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 05:36:29.37 .net 勿吉(もっきつ、拼音:Wùjí)は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満洲地域に 住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。 粛慎・挹婁の末裔で、唐代における靺鞨の前身である。 「Mukri(ムクリ)」を「勿吉(Muki)」に比定。 毒矢使用 挹婁人は、弓矢に長けており、必ず人の目を射当てる。矢には毒が塗られており、 人に当たれば死に至る。石製または鉄製の鏃は先端が鋭利で、 血抜き或は毒を塗る為の溝や凹みを設けており精巧な造りをしている。 言語系統 挹婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[5]、 当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。 挹婁の言葉は夫余の言葉と違うため、 一旦夫余語に通訳してから、漢語に通訳したものと思われる。 挹婁は女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。ただし、史書において 粛慎系と言語が異なるとされる夫余や高句麗もツングース系とみられる[12] 古シベリア(古アジア)系説[9]。その独特の言語、習俗から、勿吉等の粛慎系の言語は ツングース系ではなく、ニヴフ(ギリヤーク)などの古シベリア系ではないかとする説。 セルゲイ・シロコゴロフ(英語版)[13]や三上次男[14]などが提唱した。
230 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 05:38:35.70 .net 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、 中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。 尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、 古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、 当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、 『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。 イザベラ・バードの「朝鮮紀行」 “私は、なんと、小便で顔を洗うところを目撃したことがある。 その人が言うには、「肌艶がよくなる」と。 さらに、室内に真鍮製の溺壺(しょうべんつぼ)を置き、客を迎える席でも、 これを目につかない場所に移すようなことはしない。 そればかりか、尿意を催すと、すぐにこれをとって用を足し、 また傍らに置く"(「便所」より)
231 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 05:46:07.31 .net 【衝撃!】併合当時、朝鮮人は小便で顔を洗い、小便を飲み、大便を食べていた! 最近朝鮮事情 図書 荒川五郎 著 清水書店, 明39.5 1906年発行の本「最近朝鮮事情〜朝鮮の人々(上)(中)(下)」より http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=55&ITYPE=0 ・衛生観念は全く無く、獣に近い ・勤勉とか責務という観念は無く、雨が降ったらそこらじゅう水だらけになるので 仕事をしないで呆然としている。雨が降ると動かないので雨具が無い。 日本の傘を入手すると嬉しそうに周囲に自慢している。ようするに治水という概念が無い。 ・雨が降って水が濁っても、ろ過して使うという事をしないで濁ったまま水を使う。 とにかく衛生観念が無く、伝染病がはびこっている。 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010268&VOL_NUM=00000&KOMA=56&ITYPE=0 ・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。 とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮_人にとっては一緒だ。 ・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。 ・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。 ・肺結核や解熱として小便を飲む・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。 ・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝るが、顔の近くを大便や小便が流れている が、朝鮮_人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。
232 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 05:55:53.13 .net ・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。 また、痰を吐くときは口の近くに小便壷を持ってくる。 ・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、 家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。 ・婦人が洗濯をしているので見てみると小便水と見分けの付かない 黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。 マジで衝撃です笑。 ていうかやっぱそうなんだなあと思いましたよ… キモチワルイですよね…そんな国があったとは。 いくら劣等種とはいえ… 朝鮮人がアタオカで独特の思考なのは理解できますよこれは。 汚い民族ですね。
233 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 06:11:48.94 .net 古代楽浪郡とか邪馬台国の倭人時代と違い、 北方野蛮人やモンゴルに侵略され、民族交換が起きたのでしょう。 朝鮮神話は熊を尊重するなど北方蛮族のそれと関係するようです。 補足すると、李朝時代にはすでに侵略は完成していたと思われます。 素人歴史観ですが、中国の出先の土地として中国系の両班や儒者が 野蛮人たちを統治するシステムだったのかもしれません。あの過酷な、庶民を見下した 統治形態も、野蛮人への抑えのためと考えれば変に納得感を覚えます。 両班が酷い圧政を敷いても覆せなかったのは、支配層と庶民の間にものすごい能力差が あったのが理由かもしれません。能力差というか民度、勤勉さの問題だと思いますが、 東南アジアが華僑に結構支配されているのと似ています。
234 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 06:17:04.35 .net >>229 続き 埋葬 人が春夏に死んだら遺体を埋め、その塚の上に屋を作って雨があたらないようにする。 しかし、秋冬に人が死んだらその遺体を貂(テン)狩りの餌として使用するため、 野に遺体を置いて貂に食わせ、そのすきに貂を捕獲する。 この貂は勿吉の特産品であり、上質なので中国に重宝され、 かつては「挹婁の貂(テン)」と称された。
235 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 06:35:08.49 .net 朝鮮半島南部を本拠地にしていたはずの倭人たちが 北方から来る野蛮人たちに追われたと言うより、 余りにもおぞまし過ぎて、この世の地獄を見てるようで 倭人、百済や夫余、高句麗、なども逃げ出して来たと言うのが真実なんだろう。 今の韓国・朝鮮人たちを見てても、可なり違和感を覚えるのはこれが原因だったんだろう。 上段の文章を読めば、まあおぞましやおぞましやで、拉致事件が解決しないのも納得する。 しかし、古代より高度な文明、文化に触れてないだけでこんなに違う物なのか不思議だ。
236 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 06:50:36.59 .net 朝鮮人たちと思われるグループが必死で荒らし回って隠そう隠そうとする、 原因の一旦が理解出来たような気がする。 そして倭人を必死で沿海州に結び付けようとする工作も、 あまりにも祖先たちのおぞましさに当人たちも狂わんばかりの苛立ちが起きるんだろう。 日露戦争時、アムール河口で起きた尼港事件、ニコラエフスクで700人の 日本人が虐殺された事件の残虐さはこの世の地獄と云われたのも変に納得する。
237 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 08:18:48.12 .net 作家の清水義範氏は、『序文』というパロディー小説のなかで、 つぎのような例を多数あげて「英語の起源は日本語」と主張する学者のことを書いている。 name(ネーム) と namae(名前) owe(負う) と ou(負う) kill(殺す) と kiru(斬る) battle(戦い) と batoru(場取る) boy(少年) と boya(坊や)
238 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 09:31:38.56 .net 目 눈 ヌン 鼻 코 コ 口 입 イッ 耳 귀 クィ おでこ 이마 イマ あご턱 トッ 手 손 ソン ほほ 볼 ボル 頭 머리 モリ 肩 어깨 オッケ ひざ 무릎 ムルッ 足 발/다리 パル/タリ 腕 손 / 팔 ソン/パル お腹 배 ペ お尻 엉덩이 オンドンイ ひじ 팔꿈치 パルクムチ 言語【ツングース諸語】「ナナイ語」 ナナイ語(ナナイご、ナナイ語:На̄ни хэсэни,ロシア語:Нанайский язык)は ロシアのハバロフスク地方、沿海地方、中国の黒竜江省に居住するナナイ族の言語。 ナナイ族は、クマやトラに対し、これを人びとの保護者として尊敬を捧げてきた。 アムール川流域およびその南方に居住するツングース・満洲語系民族には、 ナナイ族のほかウリチ族、オロチ族、エヴェンキ(ネギダール)族、ウィルタ族がおり、 ナナイ語はウィルタ語、ウリチ語とともに南ツングース語派に属している。 また、語彙や文法の面でエヴェンキの影響を受けている。 ウスリー川流域の住人に対しては、アカニ(Akani)[5]、アチャン(Achan) という名も知られている「アカニ」「アチャン」は、ナナイ語で「奴隷」を意味する akha に起源をもつ言葉で、これについては一部で、実際に満洲民族(女真)が この地域の人びとを奴隷にしたという歴史的事情によるとする見解も示されている。
239 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 09:50:06.41 .net 日本語とトルコ語の同系性について 名古屋大学大学院 国際言語文化研究科 https://www.lang.nagoya-u.ac.jp › research › kotoba PDF https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/0-kyouiku/research/kotoba/19/07kareri19.pdf そして、例えば日本語の. 「味」「意味」「山」と トルコ語の acıアジ im(i)イミ yamaヤマ との間に見られる発音と意味の類似性、は 借用による結果として、あるいは偶然の一致として説明される。 が私目では日本語とトルコ語は同系言語である。
240 :日本@名無史さん :2024/03/18(月) 21:50:34.47 .net 高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する 古代中国語のxwot(忽)クオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、 高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。 日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、 *tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など 基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている 韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5 ・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10 のように日本語と高句麗語・濊貊語は良く似てるが今の韓国語とはまるで違う。
241 :日本@名無史さん :2024/03/19(火) 21:43:45.64 .net Y染色体はAからTまで大まかに20種類あります。 日本人男性にはY染色体のD系統とO系統が多く見られます。割合はD系統が約40%、 O系統が約50%程度です。Y染色体D系統はYAP(ヤップ)遺伝子とも呼ばれます。 YAP遺伝子を持つ男性は真面目で親切で勤勉であると言われています。 従って別名親切遺伝子とも言われています。 YAPとは略語で多型性Y染色体の事です。YAPを持つ民族は古代イスラエルと日本に多い と言われています。その他ではチベット、ブータンとインド洋のアンダマン諸島に 見られるだけです。 信じがたい事ですが中国、韓国にはほとんど見られません。 大陸のY染色体はO系統が大半です。先に逃げ場のない日本に住みついた人々は お互いに仲良く暮すしか選択肢がなかったのです。それがYAP遺伝子が定着した原因です。 彼らは日本人の先祖でもあるのです。親切遺伝子の別名を持つYAPは自分を捨てて 他人に尽くす遺伝子とも言われています。
242 :日本@名無史さん :2024/03/20(水) 01:57:03.37 .net 最も近縁のハプログループO1b1との分岐は約31,108(95% CI 22,844〜34,893)年前。 長江中流域で誕生。中国型O1b2が湖北、湖南、に多い。中国型と兄弟なのが韓国型。 2~3万年前だと黄海は陸地平原で日本型47zは中韓型の叔父系統にあたり、 陸続きだった済州島、韓国南部、九州北部に急速で移動したと思われ、のち海化した。 で韓国型L682は海化した黄海を後から朝鮮半島に移動したと思われる。混血が少ない。 O1b2 (P49, M176) - 最近共通祖先 26,638 (99% CI 33,033 <-> 21,148)年前誕生。 O-P49の子孫はこれらの国の出身です。 JP 日本 93 日本に於ける全てのO1b2の約3.6% KR 大韓民国 56 韓国に於ける全てのO1b2の約3.1% CN 中国 14 中国に於ける全てのO1b2の約4% その他の国 3
243 :日本@名無史さん :2024/03/23(土) 05:52:29.52 .net 縄文人のゲノム解析 富山県からの縄文人Y-DNAゲノム解析を実施した小竹貝塚出土人骨の分析結果。 出土状況 遺構/層位 部位 炭素年(calB.P.) 性別 mtDNA Y染色体 6 散乱 145/貝39〜28 右側頭骨 5934-6 女 N9b3 - 181 散乱 143/不明 左側頭骨 5751-5917 男 N9b1 D1b1d1 274 散乱 338/貝9下A 左側頭骨 6119-6289 男 M7a D1b1d1 282 散乱 338/?b〜?a 右側頭骨錐体 5737 男 M7a1 D1b1d1
244 :日本@名無史さん :2024/03/23(土) 05:53:32.30 .net 鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド? ミトコンドリアDNAの解析から母系は渡来系のハプログループが大多数だったのに対し、 核DNAのY染色体の解析から父系は縄文D系が多いという結果に。 また核DNAの解析結果でも複数のハプログループが確認され、 遺伝的な多様性が判明した。
245 :日本@名無史さん :2024/03/23(土) 05:54:10.62 .net 飯田さん論文へコメント 日本古代史ネットワーク https://nihonkodaishi.net › pdf › kaimei › 飯田さ... • 船泊遺跡(北海道) : 3800年前 mtDNA N9b1 YDNA D1b2a • 三貫地貝塚遺跡(福島県):3000年前 M7a2/ N9b • 伊川津遺跡(愛知県) : 2500年前 N9b1 • 東名遺跡(佐賀県) : 7800年前 M7a1a D1b 分析された九州と沖縄のほとんどの縄文人はmtHg-M7a1aでした。
246 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 01:07:19.51 .net 夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など 多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。 会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。東南アジアの仮面に似た、 「神徽像」を共通の神としたほか、玉j(ぎょくそう)、玉鉞(ぎょくえつ)、 玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が良渚社会特有の玉礼制を形成し、 政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。 福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は 夏人の末裔を自称していた。また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。 紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。
247 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 18:25:52.12 .net 粛慎(みしはせ)と石砮(せきど)・楛矢(こし)
248 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 18:37:47.90 .net 武王とは周王朝の祖である。従って、周代から粛慎は楛矢と石砮を 献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。 (紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、 商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。 (『尚書』) (紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、成王は大臣の茉伯を派遣して 『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。 「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、 幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という (新撰漢和辞典『三省堂』)。
249 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 18:40:31.86 .net ツングース族の弓の歴史は、この粛慎の楛矢から始まったと言える。 高句麗の始祖は朱蒙とされるが、朱蒙は人名ではなく、弓の名人という尊号で、 弓は神聖な武器だったのかもしれない。粛慎の後裔とされる濊貊には檀弓、 高句麗にも貊弓がある。 石砮は松花江の硬い青石を研磨して作った箭杆(やじり=鏃)をいう。 ちなみに、咫の訓読は「あた」、音読は「し」、周尺の八寸(18p)とされる。 長さを測ることを「寸法を咫(あた)る」というが、これが語源である。 『晋書』粛慎伝 周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王の補佐していた時代に 再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。 三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類を もって来貢。魏帝は相府に詔き、帰り際しては、その王に侲鶏、錦罽、綿帛を賜る。 武帝の元康初(291-2年)、再び来貢して献納する。
250 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 18:44:33.61 .net 粛慎の末裔には「勿吉、靺鞨、女真」がいるが、彼らの言葉では粛慎は「ジェション」。 これを「女真」と漢字表記したのが女真(満州)族である。 どこか朝鮮「チョソン」と似ている。不咸山とは「長白山」のこと。 韓族は「白頭山」と呼び、祖先の聖地としている。
251 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 19:06:15.71 .net 『三国志』にも「肅愼氏一名挹婁」とある。 深い竪穴を住居として言語は濊貊系とは異なり、養豚・毒矢の使用・人尿による洗顔など 多くの習俗が勿吉・靺鞨と共通している。邑落ごとに分立して沃沮・夫餘などと抗争し、 楛矢を以て漢・魏・晋・前秦などに朝貢したが、政治的に統合される事はなかった。 女直と呼ばれる前には粛慎(しゅくしん:みしはせと同一かは不明)、 挹婁(ゆうろう:扶余から独立した。人尿洗顔の習俗があった)、 勿吉(もっきつ:挹婁と同じく人尿洗顔の習俗があった)、 靺鞨(まっかつ:挹婁・勿吉の末裔で人尿洗顔の習俗があった) という部族がいたらしい。 その中の黒水靺鞨という一派が人尿洗顔の狩猟民族(女真)と自称した。 挹婁 衣食住と人尿洗顔 編集. 挹婁の生活スタイルは、 その ... 女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。 勿吉 人尿洗顔. 挹婁人と同様、「人尿で手や顔を洗う」という風習があり、 中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。 靺鞨 人尿洗顔. 挹婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおる。
252 :日本@名無史さん :2024/03/24(日) 23:45:15.94 .net 挹 婁(ゆうろう) 『三国志魏書』挹婁伝 挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、 未だその北の極まる所を知らない。土地には多くの険山がある。 姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や高句麗と同じではない。 (中略) そこの人々は不潔で、中央に便所を作り、人々がそれを囲んで住んでいる。 その国は船で略奪をするので、隣国はこれを患いとしている。 東夷は飲食のときに俎豆(そうず=お膳)を使うが、ただ挹婁だけは用いない。 法俗は最も綱紀が無い (最悪の無法者)なり。 さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、 その人尿で手や顔を洗ったという。 食事をするときに、他の東夷諸国では爼豆と呼ばれる食器(高杯形土器)を常用 していたのに対し、挹婁人は爼豆を使う習慣が無く、 鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をし『後漢書』『三国志』では 「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。 人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、 船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。
253 :日本@名無史さん :2024/03/26(火) 05:54:19.03 .net 1950年代に遼寧省瀋陽市の偏堡子(へんほし)村の砂丘で発見された 「偏堡文化」の土器が、弥生土器のルーツであることが分かっています。 農耕文化と一緒に南下し、日本列島に上陸しました。 弥生土器のルーツだったことが明らかにされた遼東半島の「偏堡文化」は、 紀元前2400年頃の畑作農耕文化です。宮本一夫氏は、彼らが古日本語を話していたと 考えていて、900年以上かけて朝鮮半島を南下し、紀元前1500年頃、 朝鮮半島南部で稲作農耕文化を始めた人たちだとしてます。 紀元前1500年といえば、中国中原では、殷王朝が成立した時期にあたります。 この殷代前期までの中国中原は、「初期青銅器時代」にあたるとされ、 殷代中期から「初期」の名前が外れた青銅器文化に進化していくとのことです。 同時代の朝鮮半島は、同じ段階では無いですが、歴史の波が動いていました。
254 :日本@名無史さん :2024/03/26(火) 06:19:36.32 .net 研究代表者が提起する東北アジア初期農耕化4段階説の内、 第2段階の山東半島から遼東半島へのイネの伝播仮説を、土器圧痕調査で実証した。 同段階の偏堡文化の朝鮮半島無文土器文化の成立への影響を、 山東半島・遼東半島の土器製作技術の調査によって明らかにした。 また、この段階の山東半島の水田の存在について 楊家圏遺跡のボーリング調査によって示した。 さらに第4段階の北部九州の弥生文化の成立年代を炭化米の年代によって明らかにした。 DNA人類学の研究史−特に日本人とアイヌ ... https://note.com/toy_nupuri/n/ned4bba4c2f16
255 :日本@名無史さん :2024/03/26(火) 23:20:11.80 .net 山東龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて 広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。 山東北部の黄河流域ではアワ·キビが主体であり、 さらに山東南部の黄海沿岸地域ではイネが主体であることが示された。 したがって、山東龍山文化期にはイネが長江下流域から黄海沿岸を北上し、 山東半島のアワ·キビ農耕地帯に伝播しながら、 イネへの生業の依存が高まる形で山東半島先端へと伝播したと考えることができる。 その年代は遅くとも紀元前2500~2000年の時期である。 この時期、朝鮮半島の漢江下流域や·錦紅流域の半島中南部地域では、 低湿地から炭化米が採集されている。またこの地域の新石器時代後期の土器内部からも イネのプラント·オパールが検出されている。さらに忠清北道沃川郡大川里遺跡の 住居址内部からはアワ·キビなどとともにイネが発見されている。 住居址内部の炭化物の年代は3502年calBC~2658年calBCと古いが、 出土している土器は新石器時代後期のものであり、紀元前2500年頃のものである。 ほぼ同じ時期とみてよいものである。
256 :日本@名無史さん :2024/03/26(火) 23:37:17.12 .net アワ·キビ農耕に山東半島南部にイネが入ってきたのと同じように、 半島南部のアワ·キビ農耕にイネが加わった段階であるということができるであろう。 しかしそれは水田などの灌漑農耕を伴う集約的な農耕段階ではなかった。 自然農法に近いものであったであろう。こうした紀元前2500~2000年頃に、 アワ·キビ農耕にさらに栽培穀物としてイネが加わる段階を、 東北アジア農耕化第2段階と呼ぶことができるだろう。 この段階は、沿海州南部を含む東北アジアでは、穂摘み具である石包丁や、 伐採具である遼東型石斧、木工工具の扁平片刃石斧·柱状片刃石斧が出現する段階である。 このような石器群がまとまってより古い段階から出現しているのは、 東北アジアでは遼東半島ということができる。しかしこれら石器群は この遼東半島で出現し2たというよりは、隣接する山東半島においても認められる。 とりわけ遼東半島の東端部烟台地区である膠東半島こそが、遼東より古い段階に 出現しており、これらの石器群が遼東半島に伝播したと考えるべきであろう。 膠東半島(こうとうはんとう)山東半島の先端部、青島市から東半分を指す。
257 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 00:04:12.16 .net 日本列島の文明起源と交流 .宮本一夫 Dankook University https://cms.dankook.ac.kr › widget › web › -oriental PDF もちろん石鏟は水田の畦畔を作る際に使うこともできる。このことから見れば、 山東半島の龍山文化・岳石文化には畝立てによる畠が存在していた可能性 ... 朝鮮半島無文土器文化の畠遺構や水田遺構の畝立てや畦畔作り あるいは耕起具として石製鍬·鋤が木製素材に転化したものと考えられる。 このように考えていくと、畠·水田とその農耕具(鍬、鋤、石包丁)が複合して 山東半島から遼東半島を経由して朝鮮半島へと技術が広がっていったのであり、 その線上に北部九州の弥生早期が存在することになる (宮本2008c)。 すなわち水田や畠といった灌漑農耕とともに、磨製石器群、さらには石鏟や石包丁 といった農具が山東半島から遼東半島へと広がっていく。これらの広がりは漸次的な ものである可能性があるが、少なくともこれらがすべて揃うのは 山東の岳石文化段階であろう。さらにこうした磨製石器群や石包丁が遼東半島から 朝鮮半島の無文土器文化へと漸移的に広がり、それに応じて石包丁が 形態変化していくことは多くの学者(下條1988、安1998)によって論証されている。
258 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:34:38.21 .net 何なのかな
259 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:35:02.56 .net +0.5% 何がある
260 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:38:24.16 .net ドカタ 建設業はコロナ運ゲーやな しかし 車中泊も意識してるよな あれがジェイクて確定したの
261 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:38:43.50 .net >>115 え?そんなことするはずない!と言ってなんとかせんと 助からんまである
262 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:41:27.65 .net 名前忘れたけど車はあったような。
263 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:42:39.41 .net 副作用に書いてないけど、200株以上だと含み損膨らむのが丸わかりなくらいの過疎銘柄に草
264 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:51:52.87 .net どうすればいいか書いてもジャニの恥晒すことが下落の指標となると思ってたしくだらない小さなことで燃えるバスって大問題では? 大型トラックの運転困難に備えて
265 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:53:17.04 .net 嵐は温室の雑草だから大丈夫だよ SNSに発信し続けるしかない
266 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:56:54.67 .net >>163 なんなら「10時台に上がってやることがおっさん過ぎるで
267 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:58:48.84 .net とゆう話に広がりがなくなった。 ほんとに売れてないんだろうけど
268 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 19:59:28.34 .net 「忖度しません!」(入ってくるだけ)
269 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:00:33.12 .net この男ただもんではないんだが 一回で終わりってやっぱりウケが良くなってる くりぃむも関わってるような形になってしまいます。
270 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:01:47.77 .net フォロワーは50何人いるな
271 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:07:58.31 .net 学生もいるけど
272 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:09:09.87 .net 面白いリスナーも大勢いたんだよ スポーツ関係ないじゃん 1号は元々落ち目
273 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:12:35.09 .net >>199 含み益になってないわ
274 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:13:14.12 .net >>162 ホリエモンと仲良しとかとにかく俺は他にも信者いるのわかるだろうが コミュニティメンバーは
275 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:18:24.58 .net 実際特にお坊ちゃま売りエナプの良心扱いだったじゃん 自分の孫からの電話入れて増える数字ってのも珍しい
276 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:18:56.08 .net まとめブログやSNSで写真集まで出してるからいつもとが
277 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:20:15.77 .net >>30 この程度の認識で自己責任なんだけどね
278 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:21:15.01 .net 数に差が出たけど企業は扱いになりますのでぜひチェックしてノリノリっすね アイドル的な部分に関してはよかったのか スーパースラム?そんなの初めて見たよ猫ちゃんのおかげで土竜ww
279 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:23:10.10 .net かといって好きだからといって全部ひっくるめた数字だけじゃ測れないんだよ
280 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:24:43.78 .net それはそれからだな アイスタ尼で倍
281 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:25:27.57 .net やったことなかったが
282 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:28:28.86 .net 放送時間拡大して終わったな 派遣切りの嵐の曲どれも好きだったわ今日は買い
283 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:31:42.71 .net もとをたどればガーシーと友達になると思うわ 空港巡りとかなさそう 下がっただけでお前・・・ その通り。
284 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:32:33.54 .net そのうちにそんな高い位置にあるんかこいつ
285 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:37:30.17 .net おうてんしただけかもだが 最終 ホームレスと言ってた > 一命とりとめるかもしれん
286 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:47:55.95 .net ほとんどデマやん 千鳥が低予算感が凄すぎるんだわ
287 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:48:46.98 .net 糖質制限やろう https://i.imgur.com/CWrXYyQ.jpeg
288 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:50:52.99 .net 信者の謎の上から目線で言い切るのは絶対守らない怪しい外国人らしいし完全に忘れてた、呂布は金が無くなればどうジャッジされるか興味あるから クレカかネット銀行で速攻ですれば 人生には5回までに何を望んでるの? いつも逆張りなのに主題歌取れなかったのかな?
289 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 20:58:54.12 .net 基本プライベートを暴露するだろうけど
290 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 21:22:00.09 .net >>196 あの相関図が事故との関連会社に何でコランはいつでもおっさんがJK趣味やらせる方が安心だろ
291 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 21:38:50.71 .net アドベンチャーどんだけ潜んでるのにワールドからもなにも出してたにゃっつもいた時代も○わどうとか言うなああああああああ!!損切りさせてサイトごとぶっこめよ
292 :日本@名無史さん :2024/03/27(水) 21:56:48.17 .net いや、1人のセックス話はそうね
293 :日本@名無史さん :2024/03/28(木) 23:51:04.20 .net ナウシカ 嫌なことなったのは成績イマイチ カリスマ性あるのはやはりおもんないけどアニメ実況出来たら評価は真逆だったろう 嘘ついてまで学業に本腰入れると言われてたけど
294 :日本@名無史さん :2024/03/28(木) 23:53:20.54 .net むのろてをふうしもよくてよをぬこれんうのまめてまはるりやふちしにひつさそりひうややまんてほせののねくうひえき
295 :日本@名無史さん :2024/03/28(木) 23:54:41.48 .net かけたところで顔の強さと濃さかな 当然血糖値は下がってるんやで
296 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:00:59.92 .net まぁ、こんなものか
297 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:01:30.74 .net 次にこの枠にそんなに残ってねーだろこれ でもそういう日には糖尿病薬使ったダイエットによさそうなの?
298 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:09:13.21 .net >>287 朝起きたら布団のうえに頑固になる為にふつうのことではないという 看板が急ブレーキ踏んで
299 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:10:35.90 .net >>59 昨季は2試合しか出てなくねえか
300 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:18:23.99 .net 壺をどう思ってたけど、グラフィックをあんだけ綺麗にリメイクした人間はたいがいの人間が胡散臭い以前に技術的に バックフリップだけ 投票率・・・ わるいことはないでしょ。
301 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:31:06.77 .net あとは既に悲惨なことにノリノリなのこのネタ
302 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:36:15.88 .net 全シリーズの売上が少ないHuluではの斬新なハンバーガーだよ 若者だけがこういう記事になって罰金払うおもしろ企画だったんだよ、亡くなったとこによる
303 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:36:43.00 .net 延期になるんだろう
304 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:41:05.27 .net アイドル呼んでヨイショするだけの話だけなら別人じゃね? そんなにTVに出てき始めてるから https://i.imgur.com/gK35CXZ.gif
305 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:42:50.71 .net 社員になるので仕方ない 相変わらず面倒くさい性格は直らないんだよ 試合出れねーぞ だから実質賃金」以外も見てくれてるんだね
306 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:51:45.07 .net 真面目に見えないんだよね
307 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:52:18.67 .net どこでもいいだろ 証拠はなに??? 短卒のとらもも何人もいたなそういえば https://eagle.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1711559089/
308 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:54:32.26 .net >>280 スポンサーのノルマ用じゃね?自己評価高すぎるし自分を追い込んで
309 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:58:26.58 .net これではある とにかく飽きた
310 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 00:59:25.23 .net 2022今んとこ インカム28万人、勝ったのかな まるで新車のように 全部PS2の時点で何が載ってる人たちからは人気が凄いわけじゃない
311 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:05:24.03 .net >>188 ネットで世論誘導工作をしている https://i.imgur.com/3b2BBbM.jpeg
312 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:09:20.80 .net 性懲りもなく被害者を支持する奴だからw
313 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:20:38.65 .net 田舎だからな 餃子とか
314 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:21:58.15 .net まぁ、あんなものか
315 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:23:17.56 .net 依頼者の滞在どうするかってこと 逆にしてもらったよ。
316 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 01:27:37.01 .net >>106 そっちのが1番になってるはず
317 :日本@名無史さん :2024/03/29(金) 02:33:44.87 .net 小林製薬買ったぞ、お前らも売れえ
318 :日本@名無史さん :2024/03/30(土) 01:29:47.24 .net 上野原台地の南東側に位置する区域の最も高い場所からは, 対で発見された壺形土器をはじめ11基の土器埋納遺構が見つかっています。 この場所で,マツリが行われたと考えられています。 https://www.jomon-no-mori.jp/old/uenohara_twins.htm 一般的に弥生時代になってから使われるようになる壺形土器が, 5,000年以上もさかのぼる約7,500年前にすでにつくられていたことも明らかになりました。 それに、一般的な縄文土器と違い模様のない弥生土器の様な趣きがある。 現在,上野原遺跡の成果から,同じ時期の壺形土器の出土例が増えつつあります。 約7,400年前の遺跡である城ケ尾遺跡(霧島市)からは,埋納された壺形土器が, ほぼ完全な形で3個体出土していますが,上野原遺跡のような「双子壺」 (2つの壺形土器が並んで出土)の出土例を示す遺跡は,まだありません。 上野原遺跡の早期前葉(約9,500年前)と早期後葉(約7,500年前)の発掘調査成果を, 近年県内各地で発掘調査された同時期の遺跡の調査成果と比較しながら, 30周年を迎えた「上野原遺跡の今」について紹介しました。
319 :日本@名無史さん :2024/03/30(土) 02:14:33.15 .net 上野原遺跡発掘30周年 https://www.jomon-no-mori.jp/bunkazai-center/south/kakutou/ 円筒形と角筒形,そしてレモン形土器の発見! 上野原遺跡の集落跡から出土した縄文土器の文様は縄目ではなく,主に,「ハイガイ」や 「サルボウ」といった海に生息する貝で文様が施されています。 形は,上から見た形が○の円筒形と□の角筒形があり, 胴部は筒状,底部は平らになっています。 なお、遼河文明の一つ 興隆窪文化の遺跡からも櫛目文を施した平底円筒土器やけつ状耳飾りが出土する。 角筒形は全国でもほとんど例のない特殊な形の土器です。南九州で独自に発生したと 考えられ,上野原遺跡で用いられていた頃が文様・形状ともに最も美しいと言われています また,土器の厚さは薄く仕上げられており,当時の土器製作技術の高さが窺えます。 この土器は,広く南九州一帯に分布しており,平底の特徴など南九州の独自性が 濃くなっています。
320 :日本@名無史さん :2024/03/30(土) 02:25:26.28 .net ちなみに日本最古の耳飾りは「ケツ状」と「耳栓」の二つのタイプが 鹿児島県の上野原遺跡で出土しており、どちらも約7,500年前の物なので、 年代的には遼河で出土した物とほぼ誤差みたいなものだと思います。 ちなみにこの上野原遺跡では、弥生式土器に類似した壺形の土器が、 縄文時代早期後葉、鬼界カルデラから噴出 7,500年前の地層から1組出土しています。 縄文時代から既に弥生式土器の源流があり、それらに類似した土器が支那の一部地域に、 大陸側に何のルーツもなく唐突に出現したということは、日本から縄文人が外洋を渡り 伝えたとしか考えられません。 O1b2(47z)人が逆に遼河で無文土器か??
321 :日本@名無史さん :2024/03/30(土) 20:25:43.82 .net 「罛こ」。 『詩経』衛風・碩人「施罛濊濊」について、罛は最も一般的な漁網であるようで、 前述の『爾雅』でも「魚罟ぎょこ[うをあみ]、之れを罛こと謂う」とあり、 郭璞注には「最大の罟あみ」だと言うのみである。 『詩経』衛風・碩人「施罛濊濊」について、毛伝は「罛は魚罟こ、濊濊かつかつは 之れを水中に施すなり(罛魚罟、濊濊施之水中)」とし、 漁網を水中に設置する様子だと説明している。朱熹『詩経集伝』ではより具体的に 「濊濊は罟の水に入りし音(濊濊罟入水聲)」だと述べる。 そしてそれを使う音が「濊濊かつかつ」と象徴的であるのなら、 濊濊とは投網なのかもしれない。 投網の漢代の出土例としては、居延遺跡から二点、出土している(『文物』1978.01)。 投網であろうと思われる画像は、山東微山両城附近出土の画像石に見える。図
322 :日本@名無史さん :2024/03/30(土) 21:48:09.13 .net 縄文時代後期初頭(BC3000年前後)に、遼東半島、渤海湾や韓国・西南海岸と 共通する漁具(3種類の釣り針)や漁労文化が九州北西部地域に出現するそうだ。 @ 単式釣り針(いわゆる標準的な「し」形釣り針)。 A 逆T字形釣り針(半島では朝鮮海峡沿いで出土)。B 結合式釣り針(日本海側に多い)。 縄文時代後期の大陸と日本の間の交流を行ったのは、海人族・海神族と言われる 人々であったと考えられる。 新石器時代の古代中国(長江文明) 長江文明の担い手は、漢族からの南蛮や西南夷と蔑称されていたが、 長江の南で7000年前の稲作文化の河姆渡(カモト)遺跡(新石器時代前期末〜中期初頭) が発見され、長江の北の山東半島南(500km程)に、 4500年前頃に稲作を行った徐国(徐夷)や、わい国(淮夷)が存在した。
323 :日本@名無史さん :2024/03/31(日) 04:09:36.99 .net 日本稲作の系譜 ー石包丁についてー P97 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237899/1/shirin_051_6_890.pdf 北九州より数例発見、大型石包丁(25cm以上、摘まみが有る石匙形)、 中国浙江省で出土する。
324 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 21:42:50.18 .net 武王とは周王朝の祖である。 従って、周代から粛慎(みしはせ)は石砮(せきど)と楛矢(こし)を 献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。 (紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、 成王は大臣の茉伯を派遣して『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。 (紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、 商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。 (『尚書』) 「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、 幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という (新撰漢和辞典『三省堂』)。
325 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 21:50:13.44 .net 『晋書』粛慎伝 周の初代、武王の時代、楛矢と石砮を献じる。 周公が二代、成王の補佐をしていた時代に再び遣使が朝賀に来た。 その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。 三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、 楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。 魏帝は相府に詔き、帰り際しては、その王に侲鶏、錦罽、綿帛を賜る。 武帝の元康初(291-2年)、再び来貢して献納する。
326 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 22:01:01.51 .net 夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など 多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。 会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。 東南アジアの仮面に似た、「神徽像」を共通の神としたほか、玉j(ぎょくそう)、 玉鉞(ぎょくえつ)、玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が 良渚社会特有の玉礼制を形成し、政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。 福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動していた 越人は夏人の末裔を自称していた。 また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。 紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。
327 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 22:08:03.08 .net 良渚文化(りょうしょぶんか、拼音: Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、 長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。 1936年、浙江省余杭県の良渚遺跡で発掘された。ッ沢文化などを継承しており、 黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。 柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。 分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。 近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。 また、黄帝の三苗征服伝説を、 黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗征服の痕跡とみなし、 黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。
328 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 22:11:46.08 .net 徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。 1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。 良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。 やがて夏王朝は支配下にあった東夷の后羿(こうげい)部族に倒される。 夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。 古人骨では、良渚文化の遺跡(3300BC-2100BC)で60%以上の高頻度で発見されている。
329 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 22:36:35.71 .net 夏(か、拼音: Xià、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃[注釈 1])は、 史書に記された中国最古の王朝。夏后氏ともいう。夏・殷・周を三代という。 『史記』『竹書紀年』などの史書には、 初代の「禹」から末代の桀まで14世17代、471年間続き、 殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。 越人は夏人の末裔を自称し、「禹」の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。
330 :日本@名無史さん :2024/04/01(月) 22:39:36.43 .net 周の脂、(在位:前878年 - 前841年)が無道であったため、 淮夷(わいい)は中国に侵入して略奪をおこなった。 脂、は虢仲に命じてこれを征伐させたが勝てなかった。 宣王(在位:前827年 - 前782年)の時代、 周は召公に命じて再び討伐をおこない、淮夷の平定に成功した。 周の幽王(在位:前782年 - 前771年)が悪政を行い、四夷の侵入を招いたため、 周王朝は東の洛邑に遷都することとなった(春秋戦国時代の始まり)。 その後、斉の桓公が春秋の覇者となると、斉の周辺の東夷諸族を追い払った。
331 :日本@名無史さん :2024/04/02(火) 00:01:28.78 .net 楚の霊王(在位:前540年 - 前529年)が諸侯や淮夷らと 申で会盟したのを機会に淮夷は楚に朝貢し、盟を守った。 後に越が瑯琊に遷都すると、越王の勾践は淮夷を征伐し、 諸夏を撃って山東地方の小国を侵略していった。 夫概(夫槩、ふがい、生没年不詳)は、呉王余昧の子[1]。闔閭の弟。息子は呉王夫差。 紀元前505年、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、 自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。 その後、楚から領土の淮水の上流、堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した。 秦が六国を併合して中国を統一すると(前221年)、 淮夷や泗夷はすべて分散し、秦の民戸となる。 『広韻』には、百済王の扶余氏は「中国呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。 楚の昭王は夫概を堂谿に封じて堂谿氏とする。呉系楚人(熊氏) 熊トーテムの楚人なので、熊襲でもあり、秦から渡来したということで秦氏でもあります。
332 :日本@名無史さん :2024/04/03(水) 15:27:54.33 .net なんだかな〜〜
333 :日本@名無史さん :2024/04/03(水) 16:24:58.38 .net これって「倭」=「淮」なんだ。当て字か? 米国、美国、みたいな?? 孔子時代(bc500年)頃には海の向う朝鮮半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。 「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ ?? 「倭」 (わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ) 「淮」 呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ
334 :日本@名無史さん :2024/04/03(水) 18:24:16.87 .net 民俗学者には長江流域からの稲作民の渡来を強く指摘する、 石毛直道(いしげなおみち)は、考古学的遺物としての収穫用石包丁、 特に穂刈り用の 「半月形外彎刀」 は、長江下流、南朝鮮、北九州にしか 分布していないとし、これによって江南渡来説を支持した。 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237899/1/shirin_051_6_890.pdf P106 第五図 石包丁型式別分布図
335 :日本@名無史さん :2024/04/03(水) 18:25:08.31 .net 一方,長 江 下流地 帯 で は ,長方形 ,半 月形 直線 刃 ・半月形外 彎 刃の 三 形 式 が交錯す るが , 長方形 の 形 式 は 山東竜 山文 化 に 近 い 性 格の 遺跡 よ り出土 す る ,の ちの 湖熟交 化 の段階 に な る と消滅 す る。 長 江 下流 地 帯 で 地 方 的 な形 式 と し て ,半月形 外 彎刃 石庖丁 が 生 れ , 半月形 直線 刃形 式 と併用 され る 。半月形 外 彎 刃形式 を 多 く出土 するの は , 印文陶 ・有段 石斧 を出土 し ,青鋼器 の 出現 す る 湖熟 文化 で あ り, そ の 年 代は 殷 末よ り単尾国手弋}こ い た る と考 え られ る。こ れ ら, 長江 下 流 地 帯の 遣 跡 より主 要作 物 として 稲 の 出土す るこ とが 注 目 され る 。 長 江 下流 の モ ンス ーン 地 帯に 伝播 し て ,稲 の 穂摘具 と レて 転 用 され , そ の うちに 半 月形 外彎 刃形 式 が地 方的 なタ イ プ と し て 発 生 す る 。 この形式は ,稲作とともに , 南鮮 ・北 九州に伝 え られ た もの と考 え られ る。
336 :日本@名無史さん :2024/04/03(水) 22:46:59.77 .net これって「倭」=「淮」なんだ。当て字か? 米国、美国、みたいな?? 孔子時代(bc500年)頃には海の向う朝鮮半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。 「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ ?? 「倭」 (わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ) 「淮」 呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」 漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ 「濊」 音読み カイ・カツ・ワイ 東夷の濊・貊・穢(かい・はく・わい)蓋(がい・け)蓋国は鉅燕の南。
337 :日本@名無史さん :2024/04/14(日) 10:23:21.08 .net >坊や、くだらん事いってないで、この質問に答えなさい。 >三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんと言うのなら、 中国内陸では古代数千年の間に、何 億 人と人集団の移住・移民が有ったはず、 なら、三足土器も何 億 個と拡散してたはずだが、そんなに多数あるかへ? 数百個くらいなら有るかもだが? 1 億 人として1 %の人達が持ってたなら 100 万個出土するはずだが? つまり、100 万個の三足土器が有ったとしても 99 %の人達は無縁で生活してたって事。
338 :日本@名無史さん :2024/04/14(日) 10:56:08.93 .net >坊や、くだらん事いってないで、この質問に答えなさい。 >三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんと言うのなら、 中国内陸では古代数千年の間に、何 億 人と人集団の移住・移民が有ったはず、 なら、三足土器も何 億 個と拡散してたはずだが、そんなに多数あるかへ? 数百個くらいなら有るかもだが? 1 億 人と仮定して1 %の人達が持ってたなら 100 万個出土するはずだが? つまり、100 万個の三足土器が有ったとしても 99 %の人達は無縁で生活してたって事。
339 :日本@名無史さん :2024/04/14(日) 21:24:38.43 .net >ここには縄文人たちが木製漆塗三足器を作ろうとした努力が伺われる。 と言うことは、この縄文人たちは三足土器の存在を知ってて参考にしたんだろう。 福井県鳥浜貝塚 富山県小竹貝塚 約6000年前の北陸にみられる木製容器「筒形三足器」各種 福井県鳥浜貝塚 漆塗筒形三足器 縄文時代前期・約6.000年前〜約5.700年前 ps://www2.pref.fukui.lg.jp/press/atfiles/pa8e1633420517d6.pdf 縄文時代前期における漆工芸技術の学際的研究 富山県小竹貝塚 漆塗筒形三足器 縄文時代前期 P69 ps://meiji.repo.nii.ac.jp › sundaishigaku_170_55PDF ps://plaza.rakuten.co.jp/uniawabioyoyo/diary/202307170001/
340 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 20:01:04.50 .net >三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんと言うのなら、 紀元前2000年ごろ〜紀元前500年ころ。 中国の古典書籍によると、紀元前十六世紀の「夏王朝」時代、人口約1.355万人。 夏王朝時代の人口は約1.355万人 殷王朝時代の人口は約1.300万人 周王朝時代の人口として1.300万人、 春秋戦国時代の総人口は2.000万人程度 戦国時代の人口は2.000万人説 100年一世代として15世代。 1300万人台が10世代、2000万人台が5世代、 プラスすると1億3000万人+1億人=2億3000万人 紀元前2000年ごろ〜紀元前500年ころまでの歴史的世代交代人口は2億3000万人。 ● 仮定で一世帯10人家族、三足土器を100年で3個消費するとして 2億3000万人、2300万世帯=7000万個の土器が必要になる、 壊れた物も入れると1億個は有った事になる。
341 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 20:10:44.62 .net ● 仮定で一世帯10人家族、三足土器を100年で3個消費するとして 2億3000万人、2300万世帯=7000万個の土器が必要になる、 壊れた物も入れると1億 個は有った事になる。 中国国内では古代数千年の間に、何 億 人と家族・集団の移住・移民が有ったはずで、 それなら、三足土器も何 億 個と拡散してたはずだが、 そんなに数多くの土器が遺跡から出土したかへ? 数百個くらいなら有るかもだが? 1 億 個あったと仮定して1 %の人達が持ってたなら 100 万個は出土するはずだが? 仮に、100 万個の三足土器が出土したとしても、 99 %の人達は、三足土器などとは無縁で見た事もない生活をしてたって事になる。 三足土器が出土する遺跡は大概、王侯貴族や首長の墓地、 軍隊の駐屯地や建設現場的な組織集団の生活場くらいだろ。
342 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 21:22:13.63 .net シュメールや古代バビロニアの三種の神器である。 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の三種の神器 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ)(天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(月読命) シュメール神話により勾玉は月像であり、月神シン(辰)を表してる事が解る。
343 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 21:22:54.04 .net 中東では「勾玉」のデザインが良く使われる 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。
344 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 21:23:46.04 .net 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の物語りを記憶してた民族て事か???
345 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 21:24:43.36 .net 『神武天皇』 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと) - 『日本書紀』 若御毛沼命(わかみけヌノミコト) - 『古事記』 「漢委奴國王」の金印 「漢カン 委ヤマト 奴ヌノ 国王ミコト」の金印 若御毛沼命(わかみけぬのみこと) - 『古事記』これらは博多・奴国時代の名で 豊御毛沼命(とよみけぬのみこと) - 『古事記』 神日本磐余彦天皇(カンヤマトいわれびこのすめらみこと)邪馬台で即位してから 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)崩御しての「諡名(おくりな)」だろ
346 :日本@名無史さん :2024/04/15(月) 21:28:12.25 .net 『晋書』粛慎伝 粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し、 この寇漫汗(こうまんかん)国と 秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。 アジア種族で王・君主を称する語。汗(かん)。ハン。 川崎真治は自著で「混成民族、夫余説」を唱えた。 夫余では馬、牛、猪、狗をそれぞれトーテムとする民族が混住しており、 馬トーテム族は北方騎馬民族の(トルコ系アルタイ人・匈奴など)であり、 牛トーテム族はシュメール人の子孫、(牛頭天王・スサノオ) 狗トーテム族は印欧語系アーリア人で、(天狗・テング) 猪トーテム族は原シナ人であったという。
347 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 03:47:47.68 .net 囲石式支石墓(済州式支石墓) (一番下の写真) 済州式と呼ばれる囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出しているが、 数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態を呈する。 地上に立てられた板石の数が6枚以上で、 大部分楕円形や方形に近い埋葬主体部をなすことが特徴的である。 代表的なものとして、済州龍潭竜洞4号支石墓が挙げられ、類似する形態のものは 中国浙江省地域でも見られる。
348 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 03:48:19.87 .net 浙南石棚墓群 (石小屋墓) ps://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html 支石墓の謎 p://www.nagasaki-maibun.jp/outline/publish/pdf/h26sinpo.pdf 北東アジアの石小屋墓 遼東半島の石小屋遺跡 恵花川(満州は青と青い水を意味します)は、遼寧省清遠県の龍崗山脈の南に源を発し、 主に吉林省南部と遼寧省の東部を流れる第2松花川流域の中上流
349 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 04:08:04.19 .net 世界遺産 和順支石墓遺跡 ps://dolmen.or.kr › jap dolmen.or.kr からの世界遺産 和順支石墓遺跡 支石墓資料室. お問い合わせ. 支石墓遺跡解説のお問い合わせ. 和順郡文化観光課 世界遺産 和順支石墓遺跡 支石墓 Q & A 支石墓の形態
350 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 04:15:27.30 .net 世界遺産 和順支石墓遺跡 dolmen.or.kr からの世界遺産 和順支石墓遺跡 順番 @ 世界遺産 和順支石墓遺跡 A 支石墓 Q & A B 支石墓の形態 囲石式支石墓(済州式支石墓) (一番下の写真) 済州式と呼ばれる囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出しているが、 数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態を呈する。 地上に立てられた板石の数が6枚以上で、大部分楕円形や方形に近い埋葬主体部を なすことが特徴的である。代表的なものとして、 済州龍潭竜洞4号支石墓が挙げられ、類似する形態のものは中国浙江省地域でも見られる。
351 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 04:28:52.83 .net 済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓 https://www.sankei.com/article/20150807-ILYVOUMCJNKNFBP7CN3FQSAOTE/ 済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、 板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。 これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。 浙江省 瑞安には、不思議なことに支石墓が集中している。 しかも、済州島の支石墓に酷似していた。
352 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 18:11:34.70 .net 浙南石棚墓群(板囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html
353 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 18:12:53.26 .net 支石墓の謎 http://www.nagasaki-maibun.jp/outline/publish/pdf/h26sinpo.pdf
354 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 18:29:30.67 .net 済州島 済州龍潭竜洞4号支石墓(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.sankei.com/article/20150807-ILYVOUMCJNKNFBP7CN3FQSAOTE/ 済州島にも支石墓があるが、ここの支石墓は変わっている。墓は地上に造られていて、 板石を楕円形に立て並べた形は卓子形に通じないこともないが、印象はまったく異なる。 これとそっくりの支石墓を、実に意外なところで見た。 「中国浙江省瑞安」には、不思議なことに支石墓(石棚墓)が集中している。 しかも、済州島の板 囲石式支石墓に酷似していた。 囲石式支石墓 (済州式支石墓) 済州式と呼ばれる囲石式支石墓は埋葬主体部が地上に露出しているが、 数枚の板石が上石の下端に沿って立てられた形態を呈する。 地上に立てられた板石の数が6枚以上で、大部分楕円形や方形に近い埋葬主体部 をなすことが特徴的である。代表的なものとして、済州龍潭竜洞4号支石墓が挙げられ、 類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。 浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html
355 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 18:46:51.43 .net 類似する形態のものは「中国浙江省瑞安地域」でも見られる。 浙南石棚墓群(板 囲石式支石墓・石小屋墓) https://www.zj.gov.cn/art/2020/12/3/art_1229441734_133.html 済州島の囲石式支石墓 (済州式支石墓)と比べると、 板囲い石が散らばってて印象が違うが造営時にはキチンと板石が並べられてたんだろう。
356 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 20:33:07.39 .net 済州島 『三国志』『後漢書』「州胡」 耽羅(たんら)、耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される。 耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、 鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち、 上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。 牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。 これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。
357 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 20:54:44.32 .net 屯(たむろ)「屯する」 耽牟羅(たむら) @ 仲間や同じ職業の人々などが寄り集まっていること。 また、その集団・場所。 日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎あわき」「姑如こにょ」「椽磨てま・たま」 「久麻伎くまき」、「都羅とら」、「宇麻うま」等の名が知られている。
358 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 21:43:58.74 .net 長崎県の支石墓群(縄文時代晩期から弥生時代中期) http://www.nagasaki-maibun.jp/news3/news2.cgi?mode=view&no=479 http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16243649.html ◎ 原山(はらやま)支石墓 《長崎県南島原市》 島原半島西南部の標高240〜250m前後に立地している支石墓群です。 支石墓群は大きく3群にわかれ、合計100基近く存在しており、 わが国最大規模の支石墓群として国指定史跡に指定されています。 支石墓の下部構造は、石棺が90%程度を占め、ほかには石囲甕棺(いしがこいかめかん)、 土壙甕棺(どこうかめかん)、土壙(どこう)などが確認されています。 ◎ 大野台(おおのだい)支石墓 《長崎県佐世保市》 江迎(えむかえ)川河口を望む標高50〜65mの丘陵に立地する支石墓です。 5箇所に支石墓群が確認されており、長崎県北地域では最大規模の支石墓群です。 支石墓の下部構造は箱式石棺(はこしきせっかん)が主となっています。
359 :日本@名無史さん :2024/04/17(水) 22:44:55.76 .net 済州島から上海まで約400km、 奈良時代、日本書紀には済州島から杭州湾会稽山まで2日と8時間で着いたと記録されてる。 だとすると56時間で450kmくらいか? 計算すると平均速度8.036km。 カヤックフォアでは時速20?を超えるスピード。 平均速度8.036km。で、まる2日半漕ぎっぱなして事か? 人が歩く速度が4km/h 。 ふだん漁労生活で櫓を漕ぐのは慣れたもの、少数交代で無理な数字でも無いか? 博多湾から大和まで30日だから楽勝か??
360 :日本@名無史さん :2024/04/18(木) 00:00:39.42 .net 岡山県古代吉備文化財センター 変化する縄文時代観 更新日:2019年10月15日更新 https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/636561.html 前者については、今から10年前に報告書が刊行された岡山県南部の総社市南溝手遺跡 の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の 土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、大きな話題を呼んだ。 ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。 この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパール がある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる 植物珪酸体とよばれる、ガラス質細胞のことである。 プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、 コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。 このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、 土器の胎土に混入したものも調べることができる。
361 :日本@名無史さん :2024/04/18(木) 00:01:17.18 .net 土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、 後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、 美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに 縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。 以上の証拠から、縄文時代にコメが存在したことは確実視されており、 イネの栽培が行われていたことも多くの研究者によって指摘がなされている。 ただし、イネの栽培が行われていたといっても、これまでの生業形態に新たに 稲作が加わった程度であり、稲作が生業全体の基本に位置づけられる 弥生時代とは区別して考える意見が大勢を占めている。
362 :日本@名無史さん :2024/04/18(木) 02:49:19.25 .net BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、 弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg 熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ これは免田式土器の分布とも一致する https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
363 :日本@名無史さん :2024/04/18(木) 04:26:01.15 .net 広志には「百女国以北其戸数道里可得略...... 又、南して邪馬嘉国に至る。百女国より以北、其の戸数道里 文中の「邪馬嘉国ヤマガ山鹿」の嘉は臺と酷似しており、 「嘉は臺」の誤字だろうで、「邪馬台国」が定説になった。 邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市) 、百女国(八女市)も含む、北部全てが邪馬台国なのである。 熊本県菊池川の北側には鉄剣が出土した江田船山古墳そばに、山鹿市などがある。 広志などの、百女国(八女市)と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)以北、が邪馬台国と書かれており、 手前の女国とは八女津姫、田油津媛(たぶらつひめ)伝説などがある八女市だろう、 なお、南限 百女国と邪馬嘉国(ヤマガ山鹿市)の、その南が敵対関係の狗奴国である。
364 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 18:32:56.35 .net 国立歴史民俗博物館(歴博)の見方では、弥生時代開始時期の上記大幅繰上げの 主張を踏まえて、春成秀爾氏は「弥生の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡し 西周が成立するころ(紀元前11世紀)の時代背景を検討しなければならなくなった」 と、東アジア全体の古代像を再検証する必要までを指摘した。 殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。 殷は鳥・敬天信仰などから、もともと東夷系の種族とみられているから、 南方起源の稲作には関係ないはずである。 また、殷の滅亡時期も、実際にはもう少し遅かったという可能性があり、 中国春秋時代以前の年代が若干遡上気味に間延びしている傾向があるとの指摘もある。
365 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 18:37:51.70 .net 東洋史研究者の岡田英弘氏も越人の役割を高く評価しており、その著『倭国』で、 「越人の海上活動は、……燕人の朝鮮半島進出よりも一足早かったのだから、 日本列島に弥生文化を持ち込んだのは、実は越人だったかも知れない」と記している。 春秋時代後期から戦国時代にかけての越の動向を見ると、呉を滅ぼした越王勾践は、 その都を現在の山東省の琅邪(一説に江蘇省連雲港)に遷し、 諸侯と会盟して中原の覇者となった。この段階で、山東半島は越の領域におさめられた。 紀元前333年頃、勾践の六世の子孫である無彊の代に、 楚の威王の遠征によって無彊王は殺害され、越は楚に滅ぼされた。 その際、一部の越王族が南方の?(現在の福建省地方)に逃れ、?越と呼ばれ 弱小勢力になったとされるが、東方の黄海を経て韓地南部に逃れた集団があったことも、 越の海上交通能力を考えるとありうることであった。 もっとも、こうした越の滅亡以前にも、韓地には越人の勢力扶植があったとみられ、 おそらく韓人の人種形成には越人という要素も基礎にあったのであろう。
366 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 20:06:05.57 .net 紀元前333年頃、越の滅亡が、中国から韓地にかけての越人に大きな刺激を与え、 これを契機として、越人の一部集団が日本列島まで到達したことは、 想像に難くないし、多くの傍証があげられる。 その場合、その到達時期は前四世紀の後半から前三世紀という期間ということになる。 青銅器技術では、越では銅の生成技術に優れ、1965年に湖北省江陵県望山一号墓より 出土した銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆い錆びない状態で現在も保管されるといわれる。 越人は竜蛇信仰をもつ夏王朝の流れを汲むと伝え、潜水漁法などの漁撈や海事に優れる。 『荘子』によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨をしていたというが、 この辺の習俗は『魏志倭人伝』に見える倭の水人の習俗に通じる。 博多平野にあった奴国は、越人の嫡裔であったろうし、 後漢の光武帝から下賜された金印には蛇鈕が付けられていた。
367 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 20:10:11.37 .net 日本列島の古代氏族のなかでは、阿曇連などの阿曇氏族、春日臣などの和珥氏族、 三輪君・鴨君などの三輪氏族、尾張連などの尾張氏族などでは、 海神後裔と伝えたり海人性が強く、後世まで竜蛇信仰を持ち続けた。 阿曇連や和珥支流には入れ墨の習俗があったことが記紀などの史料に見える。 和珥氏族のワニとは古代江南に棲息した「鰐」に由来したものであった。 竜蛇信仰は各種文献や神祇資料に見え、三輪山の神・大物主命は蛇の化身など 多くの神々が竜蛇あるいは鰐として現れる。 吉備の地、岡山県倉敷市矢部では、竜を立体的に表現した土器の出土もあるが、 吉備地方に古代から繁衍した吉備臣一族も、三輪氏族の支流に出たものであった (和珥氏族や吉備氏族では、後に皇孫だと系譜仮冒した事情もある)。
368 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 20:29:30.32 .net @ 呉 (春秋) 紀元前12世紀から紀元前473年、七代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。 A 呉を滅ぼした越王勾践は、その都を現在の山東省の琅邪(一説に江蘇省連雲港)に遷し、 諸侯と会盟して中原の覇者となった。この段階で、山東半島は越の領域におさめられた。 B 紀元前333年頃、勾践の六世の子孫である無彊(むきょう)の代に、 楚の威王(いおう)の遠征によって無彊王は殺害され、越は楚に滅ぼされた。 C 一部の越王族が南方の?(現在の福建省地方)に逃れ、閩越(びんえつ)と呼ばれ、 弱小勢力になったとされるが、東方の黄海を経て韓地南部に逃れた集団があったことも、 越の海上航海能力を考えるとありうることであった。
369 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 21:18:50.50 .net 越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)『越絶書』 『史記』をはじめとする諸書では、 夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。 『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、 また夫譚の前に無壬・無瞫を挙げる。 『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、 『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。 『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施して↓ 『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られる。 いたという。 越侯夫譚(初代とされる王(ふたん、前538年没) 越侯允常 『史記正義』によると、はじめて王を称した。 越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年) 呉の支配による空位:紀元前494年 - 紀元前491年 越王勾践(在位紀元前491年 - 紀元前464年)
370 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 21:19:19.42 .net 越人ってこう言う風貌してたんだろな。まんま正座した日本人だけど。 越人像 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A 柳江人 https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html
371 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 21:42:21.38 .net 『史記』越世家によれば、 越王無彊は斉を助け楚を伐つが、かえって大敗を喫して、 「此れを以て散じ、諸族の子争い立ち、或いは王となり、或いは君となり、江南海上に 楚の威王、兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、 尽く故との呉の地の浙江に至までを取る。北して斉を徐州に破る。 而して越は此れを以て散じ、諸族子(全ての一族の子孫たち)立つを争い、 或いは王と為り、或いは君と為り、江南海上に濱し、楚に服朝す。 後七世にして閩(ビン)君揺に至り、諸侯を佐けて秦を平らぐ。漢の高帝、 復た揺を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。
372 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 21:48:09.89 .net 越王無顓の弟とされる。無顓8年(紀元前354年)、無顓が死去すると、 無彊は越王として即位した。北方の斉や西方の楚と争い、楚軍の侵攻を招いた。 無彊21年(紀元前333年)、 楚の威王が大軍を動員して越を攻撃し、無彊は敗北し逃亡した。 無彊の逃亡後の越では、江南の海浜で諸族の子らが争って立ち、 ある者は王となり、ある者は君となり、楚に服属した。
373 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 22:28:41.75 .net 建元六年(B.C134)、閩越は南越を攻撃しました。攻められた南越は漢に救援を請い、 漢はそれを容れて閩越を攻めんとしました。 この時、閩越王の弟、騶余善はこう語ります。 「今、王を殺して天子に謝罪すれば、天子は咎めず、戦を止めるから、 当然ながら我が国は無事である。もし、聞き届けてくれなければ、 力の限り戦い、勝てなかったら海へ入って逃れるまでのことだ。」 彼らは戦いに敗れたなら、海に逃れればいいという思考回路を持っていたのです。 史記「東越列伝第五十四」 「閩越王、無諸と越東海王、搖は、皆、越王勾踐の後で、姓は騶氏である。 ……漢が項籍(項羽)を攻撃すると、無諸と搖は越人を率いて漢を助けた。 漢の五年(B.C202)、無諸を復活して立たせ、閩越王と為した。
374 :日本@名無史さん :2024/04/19(金) 22:43:33.31 .net 高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高(こう、コ、朝鮮語: 고)、 諱は朱蒙(しゅもう、ジュモン、朝鮮語: 주몽)または鄒牟(すうむ、チュモ、) 「広開土王碑文」の「惟昔始祖鄒牟王之. 創基也出自北夫餘」の記録から、 鄒牟王は北扶余の人だったと解釈できるが??? 西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯騶(すう)に出兵を命じた際には、 騶がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという。 移転は105年から106年頃、移転先は遼寧省撫順にある永安台古城とするのが 定説となっている。この移転の後も、1世紀ほどの期間にわたり、 高句麗王の宮・奴国王(太祖大王)、遂成・帥升(次大王)、伯固・筥崎宮(新大王) らが繰り返し遼東、玄菟などを襲撃し続けた。 倭(委)奴国、西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられる。 安帝の永初元年(107年)倭国王帥升等が生口160人を献じ後漢に朝貢した。
375 :日本@名無史さん :2024/04/20(土) 00:07:38.69 .net 日本人のY-DNA 「日本人 - Wikipediaより」 D1a2a 縄文型 39% (沖縄 55.6%)(アイヌ 75%) O1b2 日本型 O-47z 25.1% O1b2 韓国型 L682 8.4% O2 漢族型 16.7% O1b1 長江周辺型 3.8~0.8% O1a 台湾型 3~0.9% 北ルート C2 7.8~3% (沖縄 0%)(アイヌ 25%) 西ルート C1a2 10~2.3% 遼河型 NO 5.7~3.8% 遼河型 N-M231 7.7~0.8%
376 :日本@名無史さん :2024/04/20(土) 06:03:01.28 .net 古代中国の殷王朝の甲骨文字が漢字のルーツであるとされている。 この甲骨文字は表意文字であるが、その中に例えば下の表にあるような 日本の神代文字の「阿比留草文字」に対応する文字群がある。 現代日本人が訓読みと音読みを苦もなく使い分け、 漢字仮名交じり文を日常生活に使い、漢文さえも高等学校で習うのは、 殷王朝の甲骨文字の時代からの3600年の伝統と思われる。 阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考) 殷王朝の甲骨文字に音読みと訓読みがあった https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12484100578.html https://ameblo.jp/shimonose9m/image-12484100578-14475020931.html
377 :日本@名無史さん :2024/04/21(日) 22:45:35.19 .net 古代中国の殷王朝の甲骨文字が漢字のルーツであるとされている。 この甲骨文字は表意文字であるが、その中に例えば下の表にあるような 日本の神代文字の「阿比留草文字」に対応する文字群がある。 阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考) https://ameblo.jp/shimonose9m/image-12484100578-14475020931.html
378 :日本@名無史さん :2024/04/21(日) 23:58:17.67 .net 「玉鉞・刻文付有孔石斧」山形県羽黒町中川代遺跡(縄文中期) https://utukusinom.exblog.jp/27409899/ 文字は「之と生の合体字?」の甲骨文字である。
379 :日本@名無史さん :2024/04/22(月) 18:21:36.88 .net >ここに篆書字体一覧表があるが阿比留草文字の手本甲骨文字とは違う文字が多い、 特に、「ヒ火」「モ百」「テ王」「ウ有」阿比留草文字はより甲骨文字に近い。 篆書字体一覧表 https://zhuanlan.zhihu.com/p/95241834 阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考) https://ameblo.jp/shimonose9m/image-12484100578-14475020931.html
380 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 16:17:39.67 .net 箕子は、殷文武丁(28代王)の子、『史記』殷本紀によると、箕子は殷室直系の一族。 甲骨文字は、古代中国の遺跡から出土する甲骨(亀の甲羅や牛の肩甲骨など) に刻みつけられた文字。特に、殷(商)時代後期(第22代殷王武丁以降) (紀元前13世紀半ば頃)の占卜(亀卜)に使われた甲骨上の文字を指す。 箕子にはそれなりの歴史的背景が考えられる。 中国古代の殷・周金属文化圏では、紀元前10世紀以後、山東の斉の箕族が、 殷・周の権威のもとで、朝鮮西部に接する遼寧で活動していた。 https://k.sina.cn/article_5872927184_15e0dc1d0020001hg0.html 「北京市順義県」「河北省東部」「遼西大凌河」で「其」「㠱侯」という銘の 西周初、箕子時代の青銅器が多数発掘され、箕子と関係づけてとらえる意見がある。 現代の中国北京や遼西地方から「其」「㠱侯」という銘がある青銅器が 発見されていることから、これを「箕子朝鮮」と結びつけて考える説もある。
381 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 16:20:23.07 .net 前4世紀から前3世紀にかけて、現代の北京周辺を拠点とした「燕」が勢力を 拡大した時代、その東側に「朝鮮」という名前で呼ばれる勢力が存在したことは 確かであるが、この「朝鮮」の王が箕子の末裔であるという事実も認められない。 『史記』によれば、前漢成立間もない前2世紀初頭に燕の人、満(衛満)が政争から の安全を求めて徒党を引き連れて朝鮮にわたり国を建設したとされる(衛氏朝鮮)。 伝説によれば衛満は朝鮮王準に仕えて信頼を得たが、漢から国を守るためと偽って 逆に朝鮮王準を打ち倒し、敗れた準は韓の地に逃れて韓王を称する様になったという。 仮に朝鮮王準が箕子の末裔だとすれば、これが箕子朝鮮の滅亡となるが、 それも詳らかではない。 箕子の子孫である準王は衛満に王権を簒奪されると、 南走して辰国に行き、韓王となったという。
382 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 16:24:08.87 .net 1955年、遼寧省凌源市海島営子村の村民である唐永興と張懐仁によって、 殷周時代の青銅器16点が発掘された。現在青銅器は、遼寧省博物館(中国語版) に所蔵されている。 青銅器の特徴は、同時期の殷周の青銅器と酷似しており、 この時期の中国東北部ではこのレベルの青銅器を鋳造できなかったことから、 遼西周辺に殷人が移住したと考えられる。 1973年春、遼寧省朝陽市北洞村で 考古学者が発掘した青銅器の方鼎には「㠱侯」と銘文されていた。 殷代の甲骨文字卜辞に「㠱侯、王其」の文字があることから、 「㠱」とは「箕」のことであることがわかる。 すなわち、「箕侯」の意味を持つ「{㠱侯」と方鼎に銘文されていた。 また、河南省安陽市で出土した「父己」の方鼎と形状が酷似していることから、 殷末から周初にかけての方鼎であることも確認された。
383 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 17:54:46.37 .net >ここに篆書字体一覧表があるが阿比留草文字の手本甲骨文字とは違う文字が多い、 特に、「ヒ火」「モ百」「ユ夕」「ウ有」阿比留草文字の方が原形、甲骨文字に近い。 篆書字体一覧表 https://zhuanlan.zhihu.com/p/95241834 甲骨文字一覧表 https://jw.beijing.gov.cn/language/ywsh/201901/t20190103_1056839.html 阿比留草文字と甲骨文字の対応(漢字の起源、参考) https://ameblo.jp/shimonose9m/image-12484100578-14475020931.html
384 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 20:05:56.14 .net 「後漢書 辰韓伝」 辰韓耆老自言 秦之亡人避苦役適韓国 馬韓割東界地與之 其名國為邦 弓為弧 賊為寇 行酒為行觴 相呼為徒 有似秦語 故或名之為秦韓 「辰韓の耆老は自ら言ふ。秦の亡人にして、苦役を避け、韓国に適く。 馬韓は東界の地を割き、これに與ふと。 その名は、国を邦と為し、弓を弧と為し、賊を寇となし、行酒を行觴と為し、 相呼びて徒と為す。秦語に似たるあり。故、域いはこれを名づけて秦韓と為す。」 (その名は、国を「邦人」と為し、弓を「弧を描く」と為し、賊を「元寇」となし、) (行酒を行觴「回し飲み」と為し、相呼びて「徒党」と為す。)まんま、今の日本語。 初朝鮮王準為衛満所破 乃将其餘衆數千人走入海攻馬韓破之自立為韓王 準後絶滅 馬韓人復自立為辰王 「初め、朝鮮王準が衛満の破る所と為り、乃ち、その余衆数千人を将ひ、 走りて海に入り馬韓を攻む。これを破り、自立して韓王と為る。 準の後は絶滅す。馬韓人はまた自立して辰王と為る。」
385 :日本@名無史さん :2024/04/23(火) 23:48:18.59 .net フィリピン ベトナム インドネシア 「日本人 - Wikipediaより」 D1a2a 0 .......0 .........0 O1b2 ..0 .... 2.9 ....... 8.0 (日本人25.1%) (47z) O1b2 ..0 .... 1.4 ....... 8.0 (朝鮮民族33.3%) (L682) C2 .. 0 .... 4.3 ....... 0.0 (朝鮮民族9.3% 漢民族華南5.0%) >これから見るとベトナム人とインドネシア人のO1b2(47z)は、戦前の日本兵関係ないな あれば、同数くらい (D1a2a) も出て来るはず、という事は古代中国南部からの流れか? 中国南部浙江省あたりにO1b2(祖先型 O1b2a1a (F1204)がいた。 湖南省の中国型F940も納得。そしてO1b2(47zとL682)も誕生。47zが先に済州島へか。 ベトナムは韓国軍の影響が少しあるな、ライダイハンの影響か。
386 :日本@名無史さん :2024/04/24(水) 16:59:15.22 .net シュメールや古代バビロニアの三種の神器である 武神のシンボルの剣 日像鏡 月像の首飾り 日本の三種の神器 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ) 八咫鏡(やたのかがみ)(天照大神) 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(月読命) (シュメール神話により勾玉は月像であり、月神シン(辰)を表してる事が解る。) 中東では「勾玉」のデザインが良く使われる 欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。
387 :日本@名無史さん :2024/04/24(水) 16:59:53.55 .net 日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、 草薙の剣を得たという話があります。 シュメールの神話にも、7つの首を持つ龍を退治して、剣を得たという話があります。 これらを関連付けると、 日本の三種の神器はシュメールの神から授かったものという見方もできます。 じゃあ、日本にシュメール神話を伝えた者たちが居た、中東出身説のある秦氏か??? 古代バビロニアの楔形文字で書かれた粘土板の物語りを記憶してた民族て事か???
388 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 16:54:26.08 .net アメリカ人の意見 http://www.tapatalk.com/groups/man/o2b-clusters-t1526.html 中国由来は詳しい人からすると殆ど有り得ないらしい あのEbizurが言ってんだから間違いないよ しかも2023年に日本人のデータが増えたことで、現時点では日本からの可能性が高い。 今回の調査で見つかったものはO1b2だけでなくO1b2aのサブクレードでさえ 現時点で見つかっているどのD1a2aよりも古かったみたい。 O1b2a1a-F1290も今のところ日本だけ。中韓では見られない傾向を示している
389 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:03:47.75 .net また、Inoue and Sato 2023 が、 日本人の10人からO1b2a1a-F1290 (xO1b2a1a1-47z, O1b2a1a2-F2868, O1b2a1a3-F3821) Y-DNAを発見し、O1b2全体の1.42%を占めていることも注目に値します。 これらの系統は、主に川崎(5/109=全O1b2の4.6%)の試料で観察されていますが、 大阪(1/41=全O1b2の2.4%)、金沢(3/158=全O1b2の1.9%)、 徳島(1/106=全O1b2の0.9%)の試料でも観察されています。 韓国や中国からのO1b2a1a-F1290(xO1b2a1a1-47z, O1b2a1a2-F2868, O1b2a1a3-F3821)の症例は確認されていません。 TheYtreeは現在、O1b2a1a-F1204の直下に3つの韓国のサンプルを集計していますが、 これらのどれもO-F1204*に割り当てられておらず、 それらすべてに「CASEID」ラベルが付いています。
390 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:05:38.13 .net すべては遺伝子の中に アジア人のDNAの秘密解明 https://spap.jst.go.jp › experience › topic_et_05 2021/11/19 — 23MofangもGeseDNAtも 遺伝子検査分野における約100社のうちのひとつに過ぎない。 中国では、この分野で2022年までに約4億500万米ドルの売り上げが ...
391 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:12:10.13 .net 23mofangには現在、O-F1204で集計された1814人のメンバーと、 O-CTS10687、O-47Z、およびO-K4で集計された合計1812人のメンバーがいます。 これにより、23mofangのデータベースにはO1b2a1a-F1290の2つの潜在的な メンバー(xO1b2a1a1a1-47z、O1b2a1a2-F2868、O1b2a1a3-F3821)が残されますが、 これら2つの個体の正確な系統発生位置は不明であり、地理的起源も不明です (23mofangの膨大なデータベースには日本起源の個体が何人かおり、 予想通り、彼らは特に日本特有のクレードのメンバーの大部分を占めているため、 私が知っている限りでは日本人である可能性があります)。 D-M55、C-M8、O-47zなど)。
392 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:15:40.19 .net したがって、現生人類の男性から得られた遺伝的証拠は、 祖先のジャポニック集団におけるハプログループO1b2 (数的に優勢なO1b2a1a亜クレードを含む)の起源を示す傾向があるが、 弥生・ムムン考古学文化の拡大と同時期に大規模な集団増加を示す傾向もある。
393 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:38:08.95 .net 23mofangによると、 現在の中国の男性の約0.12%がO-F940に属しており、そのほとんどが漢民族である。 O-F940の特定のサブクレードは、湖南省北東部(湘潭、宜陽、長沙など)の 漢民族の姓であるZōu(周)の間で非常に一般的であるようです。 したがって、O-F940の祖先は、 同じ拡大していた初期のムムン/弥生集団から出現した可能性があります。 もしかしたら、彼は殷周革命時の東夷系家臣だったのかもしれません。
394 :日本@名無史さん :2024/04/25(木) 17:50:08.72 .net O1b2a1aのサブクレード(O1b2a1a1-47zは主に日本に分布しているが、 O1b2a1a2-F2868は韓国と中国で比較的一般的である) と同様に、O1b2(xO1b2a1a)の組成に関して、 日本と韓国と中国の間にはいくつかの違いがあるようである。
395 :日本@名無史さん :2024/04/26(金) 22:55:13.97 .net ハプログループNOの親タイプのK2aのパラグループK2a*は、シベリアのウスト・イシム人 (45,000年前)とen:Oase 1(37,000〜42,000年前)のみから見つかっている。 ハプログループNOのうちハプロググループOにもハプログループN1にも属さない NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175)が日本の徳島で5.7%、福岡で3.8%観察されている。 子系統 N (M231)、O (M175) 発生時期34.600±4.700 年前(別のソースによると 33,000 [30,900 ↔ 35,200]年前あるいは41,500 [37,400 ↔ 45,600]年前) にハプログループK2から誕生した。推定発生地 東アジア北部 ハプログループO1 (Y染色体)(ハプログループO1 (Yせんしょくたい))は ハプログループO (Y染色体)のサブグループであり、「F265/M1354, CTS2866, F75/M1297, F429/M1415, F465/M1422」の変異で定義されるタイプである。 発生時期 今より約34,042 [95% CI 32,387 ↔ 35,708]年前 発生地 東アジア南部
396 :日本@名無史さん :2024/04/26(金) 22:55:46.69 .net ハプログループO-M268 (Y染色体)(ハプログループO-M268 (Yせんしょくたい)、 系統名称ハプログループO1b。 ハプログループO1b1とO1b2の親系統。 発生時期上限は33,181(95% CI 24,461-36,879)年前。 推定発生地東アジア ハプログループO-M176 (Y染色体)(ハプログループO-M176 (P49)、 系統名称ハプログループO1b2 発生時期31,108(95% CI 22,844〜34,893)年前 O1b2a (F1942/O-F855) - 最近共通祖先 11,500 (99% CI 14,378 ↔ 9,047)年前。 O-F855の子孫はこれらの国の出身です 日本 71 大韓民国 31 中国 10 モンゴル国 1 O1b2a1 (CTS9259) - 最近共通祖先 10,492 (99% CI 13,140 ↔ 8,238)年前。 O1b2a1a (F1204,F3356,K10)最近共通祖先 7,436 (99% CI 9,395 ↔ 5,782)年前。 O1b2a1a1 (47z, K7) - 最近共通祖先 6,303(99% CI 8,140 ↔ 4,780)年前。 主に日本人(22.0%)及び韓国人(約8.5%)に見られ、中国(全国男性人口の約0.18%、 満洲族約0.78%、蒙古族約0.72%、回族約0.12%)等でも稀に見られる。
397 :日本@名無史さん :2024/04/27(土) 00:42:53.24 .net O-K10の最も近い共通祖先はKarmin氏等が2022年に発表した論文によると 約7,900 (95% CI 9,449 ↔ 5,624)年前に誕生したと考えられる。 現存するO-K10は三つの異なるサブクレード、 (O1b2a1a1-K7/O-47z)、(O1b2a1a2-K4)、及び(O1b2a1a3-CTS10687)に大別される。 O1b2a1a1にもO1b2a1a2にもO1b2a1a3にも属さない、所謂O1b2a1a*に分類される O-K10/O-F1204のY-DNAは、日本(川崎市のサンプルでは全てのO1b2の4.6%を占め 比較的多いが、金沢市、大阪市、徳島市のサンプルでも同様のY-DNAが観察されている) と韓国(大田133人のサンプル中1人)のサンプルの中から稀に検出されている。
398 :日本@名無史さん :2024/04/27(土) 21:50:55.54 .net K2 | K2a K2aのパラグループK2a*は、シベリアのウスト・イシム人(カザフ北部) | (45,000年前)とen:Oase 1(37,000〜42,000年前)のみから見つかっている。 | NO NO-M214(xN1-LLY22g, O-M175)が日本の徳島で5.7%、福岡で3.8% | 観察されている。また漢民族、プイ族、イ族、マレー人、モンゴル人、ダウール人 | エベンキ、朝鮮民族などでもごく低頻度ながら観察される。 | |ーN:極北で見つかり、ヤクート、フィン・ウゴル系民族、サモエードで高頻度。 | 古代のサンプルでは仰韶文化、紅山文化、古代ハンガリー人支配層、匈奴、 | 古ヤクート、そして(O2と混合した形で)夏家店下層文化で観察される。 | |ー O:東ユーラシア最大系統。O2はシナ・チベット系、龍山文化、ミャオ・ヤオ系、 | 大渓文化、(Nと混合した形で)夏家店下層文化から、 | O1aはオーストロネシア系民族,また良渚文化に多く,O1b1はオーストロアジア系。 | O1b2は日本及び朝鮮半島で比較的高頻度。
399 :日本@名無史さん :2024/04/27(土) 22:33:41.31 .net >>395 ハプログループ O1a/O-M119 (Y染色体) 系統名称。 O-M119系統は台湾先住民に66.3%[8]-89.6%[9]の高頻度で観察され、 東南アジアの半島、島嶼部(ニアス島で100%[9])、オセアニアにも高頻度であり、 オーストロネシア語族との関連が想定される。 O-M119は現代中国に於いては全国男性人口の約11.08%を占める[11]が、 その大半(中国全国男性人口の約5.97%)は今より約5,410年前[6] または4,622(95% CI 5,597 - 3,809)年前[4]に一人の共通祖先をもち 良渚文化と関係があろうと推測されているO-F81というサブクレードに属している。
400 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 02:39:39.00 .net age
401 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 03:44:31.38 .net またage
402 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 03:54:42.50 .net ageる
403 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 04:28:21.48 .net いち
404 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 04:41:21.01 .net えー
405 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 04:54:21.17 .net なみ
406 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 05:42:50.78 .net あー
407 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 06:58:40.54 .net ひ
408 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 07:07:19.46 .net ひー
409 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 07:22:50.55 .net うん、なんだがや
410 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 15:47:16.56 .net い
411 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 17:05:43.50 .net えー
412 :日本@名無史さん :2024/04/29(月) 20:52:11.54 .net おくら
413 :日本@名無史さん :2024/04/30(火) 16:44:28.35 .net なると
414 :日本@名無史さん :2024/04/30(火) 22:15:08.42 .net ハプログループO (Y染色体)「M175」。ハプログループNOの子型。 ↓ ハプログループO1 (Y染色体)。 O2・O-M122 主に漢族型の兄弟。 「F265/M1354, CTS2866, F75/M1297, F429/M1415, F465/M1422」 ↓ ハプログループO1b。 O1a・O-M119 台湾型と兄弟。 「M268, L463, F167/L690, P31」の変異で定義づけられる系統である。 ↓ 発生時期、上限は33,181〜31,108(95% CI 22,844-34,893)年前分岐。 ↓ ハプログループO1b2・O-M176 (P49)。 O1b1・O-F2320 長江型の兄弟。 ↓ 共通祖先は、25,800 (95% CI 28,400〜23,300)年前分岐。 ↓ 3代省略、ひ孫系統 O1b2a1a (F1204,F3356,K10)(主に日本からしか発見されない)親型
415 :日本@名無史さん :2024/05/01(水) 00:04:12.22 .net かスクリプト対策
416 :日本@名無史さん :2024/05/01(水) 03:43:05.52 .net dスクリプト対策
417 :日本@名無史さん :2024/05/01(水) 18:20:46.99 .net 柱ははしら
418 :日本@名無史さん :2024/05/01(水) 23:53:00.44 .net >>414 が全て満たされる場所は長江周辺しかあり得ない その中からDNA上3代目子孫がO1b2a1a (F1204,F3356,K10)が日本列島へ 当時、黄海、東シナ海、は陸地化してて湿地帯だったんだろう。
419 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:46:30.69 .net 魏志馬韓伝、にある国々で下の8か国はすでに卑弥呼時代(3世紀)には、 邪馬台国の軍事勢力圏に入ってたと考えられる。 これらは邪馬台国時代の軍事的長(卑奴母離)を(卑離)と記録者が省略化したのだと思う。 卑離(ヒリ)国 占離卑(センリヒ)国 ←(単に写し間違いと思われる) 監奚卑離(カンケイヒリ)国 内卑離(ダイヒリ)国 辟卑離(ヘキヒリ)国 牟盧卑離(ボウロヒリ)国 如来卑離(ジョライヒリ)国 楚山塗卑離(ショサントヒリ)国
420 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:47:20.20 .net ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、 3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国の国境を守備する軍事的長の名称。 後に地名、駅名、神社名等に残る。 またヒナモリの「モリ (守) 肥後守ひごのかみ」などカバネとしても使われた。 邪馬台国時代の軍事的長。 『魏志倭人伝』は、邪馬台国に属する北九州の対馬国、一支国、奴国、 および不弥国の副官に「卑奴母離」(ヒナモリ)がいたことを伝えている。 これらの国々は邪馬台国の外国交易ルートに位置し、 外敵や賊に対する守りを固めるために置かれた男子の軍事的長の称号と考えらる。
421 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:48:48.52 .net 4世紀は高句麗によって楽浪郡を滅ぼされ(313年)中原の支配から解放され 伯済國は百済へと斯盧國は新羅へと纏まって建国して行ったんだろう。 南部の倭人地域は混乱したが卑奴母離(ヒナモリ)などの 一定の軍事力は保持してただろうが、北部から高句麗勢の軍事力をバックに 南下政策をとった過程で倭国の勢力地域も侵され高句麗、百済、新羅、倭国の 四ツ巴、戦闘状態の天地が引っくり返る様な状態な時
422 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:50:20.72 .net そこで、登場したのが「神功皇后」で息長氏の先祖が新羅王アメノヒボコ。 おいっ、待てよ、新羅は我が先祖の領地だぞよと、 昔の三韓の領地を還せと、返還しないなら征伐だと、その過程が例の下の好太王碑文。 百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。 ところが、倭が辛卯の年(391年)以来、海をこえて襲来し、 百済や新羅などを破り、臣民とした。百済とは七支刀を送り同盟関係が出来てた。 そこで好太王は、396年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。
423 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:51:25.29 .net この過程を表したのが例の、倭王武の上表文。 478年,中国南朝の宋に倭王武(雄略天皇)が送った上表文。 「宋書」倭国伝にみえる。武は上表で、東は毛人(えみし)55国を、 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一、 さらに海北の朝鮮半島南部95国を平定したと誇示したうえで、 475年に百済(くだら)の21代蓋鹵(がいろ)王を殺した高句麗に対抗するため、 「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、 安東大将軍、倭国王」の称号を求めた。 が、すでに宋に朝貢している百済を除いた称号は認められた。
424 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:52:46.70 .net 七支刀。 日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが 記述されているが、この七支刀献上に関して、 日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ 「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。 紀年論によるとこの年が372年にあたり、 年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。 銘文の冒頭には「泰□四年」の文字が確認でき、「泰」は「太」と音通するため。 東晋の「太和四年」(369年)とする説(福山敏男、吉田晶、浜田耕策ら)。
425 :日本@名無史さん :2024/05/06(月) 01:54:54.35 .net >謎の4世紀とは、こんなもんか?? 邪馬台国の女王卑弥呼が(ひみこ/ひめこ、生年不明 - 247年)ころ亡くなって 倭国騒動で女王豊トヨが共立され、 時期は10代崇神〜11代垂仁天皇(伊支馬イクメ・イリヒコ)(260年頃から〜) (310年頃から?) 4世紀、この頃、高句麗と楽浪郡との攻防で半島は大混乱期 倭国は卑弥呼時代からの九州熊襲討伐、12代景行、ヤマトタケルで奮戦中。 西は衆夷(しゅうい)66国を征服して国内を統一を目指し中。 (360年頃かな?) そして14代天皇仲哀天皇9年2月の崩御、遺志を継ぎ、 女豪族・田油津姫を討ち、熊襲の支援国新羅征伐へと方向転換し、 百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」「七枝刀」372年。 三韓征伐へと向かう辛卯年(391年)の出来事。
426 : :2024/05/10(金) 03:41:41.87 .net てす
427 :ネトウヨボクメツ隊! :2024/05/11(土) 19:28:53.08 .net 日本神話は印欧神話と偶然とはいえないレベルの類似点を示すことが分かっている これが意味するところは日琉民族の神々の起源が大陸にあったという事である ネトウヨは縄文文明などというが、実は日本人の神概念は縄文由来ではなく印欧系民族やウラル系民族との接触で培われたものなのである。 実は日琉のアイデンティティは遼河文明の偏堡文化人→韓半島の無文土器文化人→日本列島の弥生人→ヤマト王権の倭人→現代の日琉人という流れで繋がっているのである 日本人は縄文の精神文化を受け継いでいるのはアイヌの方々であると素直に認めなければならない
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